死の恋人の花
2
シャワーを浴びて着替え、用意されていた食べ物を食べて、本棚にあった本を読みながら、彼は夕日が沈むのを見ていた。
窓の向こうが赤く染まり、ゆっくりと夜の帳が降りる。星が輝き始め、月が昇り始めた。
ドアの鍵が、がちりと回される音がした。彼は本をテーブルの上へ置き、立ち上がった。
ドアが開き、彼女が姿を現した。
「どうして僕を閉じ込めた?」
彼はいきなり、そう問うた。彼女は悲しげに彼を見つめた。淡い紫の瞳はゆっくりと悲しい薄青になる。彼は自分が怒っていた事を忘れかけた。
「ごめんなさい」
彼女はそう呟いた。彼はふと、あの肖像画と彼女の差に気付いた。
肖像画は生き生きと美しく描かれているが、目の前の彼女はどうだろう。まるで陶器細工の薔薇の様ではないか。
彼女は彼に歩み寄り、彼は思わず後退った。
「生きて、いない」
彼が呟いた。彼女は傷付いた様に溜め息をついた。
「気付いてしまったのね。………そうよ、私は一度死んだの。でも生きているわ。人間では無いけれど」
彼女は諦めた様な微笑みを浮かべて言った。
「全て話すわ。包み隠さず、全て。………長い話になるわ」
彼は静かにソファに腰を下ろした。彼女は微笑んだ。
「私は人間じゃない。人間だったの。………私はヴァンパイアなのよ」
彼は驚かなかった。むしろ、当然だとさえ感じた。
超自然的な、陶磁器の様に滑らかで白く冷たい肌も、紫や青に輝きを変える瞳もこの美しさも、人間のものでは無いのだ。
「私は二百年前に中流貴族の娘として生まれたの。幸せに育てられて、十三の時には優しい許嫁が決まっていた。彼は裕福な商人の長男だった。
ある年、彼は彼の父と共に、貿易の為に船に乗って旅へ出た。『すぐに帰ってくるから、待っていておくれ』って言って。
船尾でいつまでも白いスカーフを振っていた彼が、まだつい昨日の事の様に思い出せるわ。
………でも彼は、帰って来なかった。私は来る日も来る日も、港で彼の乗った船が見えるのを待っていた」
彼女は息をついて、目を伏せた。
「私が十九の年、疫病が町に広がった。まずは貧しい者達が死んでいった。そして裕福な人間達も、疫病の魔の手を遠ざける事はできなかった。
町は悪臭に包まれ、死体と病人が転がっていた。祖母が死に、幼い妹や弟が死に、母が死んだ。そして私も、この疫病に感染して死んだ」
彼女はうなされる様に言葉を綴った。吐き捨てる様に、忌まわしげに語り続けた。
「私は死にたくなかった。私はまだ彼を待っていたかった。死に際に父は私に、きっと向こうで彼が待っているから、安心して逝きなさいと言った。
でも私は彼が死んだなんて信じなかった!」
呟く様だった彼女の声はやがて、叫ぶ様に語っていた。
「でも私は死んだ。私の躯は棺に納められて、教会の地下墓地に葬られた。そして死んでから十三夜目に、私は目覚めたの。
私は天国も地獄も、無の世界さえ見なかった。冷たい躯は腐りもしていなかった。私は彼を待つ為に起き上がったのよ。
棺の蓋を持ち上げ、墓石を押し退けて、私は外へ出た」
彼は微動だにせず、彼女を見つめて聞いていた。彼女は目を上げて、彼を見つめた。
「それから静かな町へ出た。月の綺麗な夜だったわ。墓場の土に汚れた手を洗うために、私は街の中心の噴水のある広場へ行った。
広場にも死体は転がっていたけど、構いはしなかった。そして噴水の水を覗き込んだ私は、私が変わった事に気付いた。
生きていたいつよりも、美しく見えたわ。肌は滑らかで白くて、瞳は見た事も無い宝石みたいに輝いていた!
だけど私は同時に、忌まわしい犬歯の変化にも気付いた。それで私は、自分が何になってしまったのか悟ったの」
彼女は自嘲するように笑った。
「気が狂いそうだった! 私は化け物になってしまったのだもの。でも水を飲みにやって来た、病に冒された若い女を見た途端、そんな気分は吹き飛んでしまった。
甘い鼓動、血の匂い、それから渇きが私を支配した。私は女の肩を後ろから抱き締めて、その甘い血を飲んだ。素晴らしい恍惚を、私は知ってしまった。
それから百年は、私は私でなかったわ」
彼女はくすくすと笑った。
「完璧に伝説の怪物だったのよ。夜を跳躍し、人の血を求めた。彼を待っていた事も、すっかり忘れていた。でもある夜、私は私を取り戻した。
………私は若い男の血を奪った。そして彼の顔を見て、悲鳴を上げたわ。彼にそっくりだったの! 生まれ変わりだったのかもしれない。
………私は百年の間に自分がした事に気付いた。それから自分の姿にも気が付いた」
彼女は呆れたような溜め息をついた。
「纏っていたのは白い死装束の切端と、恐らくは犠牲者から奪ったぼろぼろの黒い男もののケープ。髪を振り乱して、裸足だった。
私はそれから暫く、麻薬の密輸業者や盗賊なんかみたいな、金持ちの悪人を襲う事を心がけた。そして金品や豪奢な衣装を集めた。私は元の町を旅立った。
遥か遠いこの町が気に入った。私はこの屋敷を買い取り、地下室には居心地の良い隠れ場所を造らせ、豪奢なドレスを纏い、貴族のような生活を始めた」
彼女は悲しげに目を伏せた。
「だけど、ふと私は気付いた。私は何の為に人の命を奪って生きているの? とうに彼を待つという目的は消え去っていたのに。だから私は眠る事にした。
………死ぬ事は出来なくても、血を飲まずに横たわっていればこの力はやがて弱まるだろうと思った。私は百年を眠って、この世界を夢見て過ごした。
屋敷は荒廃し、おとぎ話の眠り姫の城の様に、茨に閉ざされた」
彼は彼女から目を離さなかった。彼女は彼の真摯な瞳から目をそらした。
「私は長い眠りの中で、孤独だった。そして王子様は私の目を覚ましに来てはくれなかった。………私が目覚めたのは、ほんの数ヶ月前の事。
私はとうとう耐えきれなくなって、孤独から救い出してくれる王子様を探しに外へ出たの。………ほんの一時、血を飲む間だけで良いから、孤独から逃れたかった。
たとえ、その後に一層強い虚しさと悲しさと、寂しさが待っていようと」
彼女は彼を見た。その瞳は静かな紫色をたたえていた。
「荒れ果てた屋敷の中を手入れさせ、最新式の道具を手に入れた。そして私は彼を待つ為でなく、孤独から逃げる為に生きる事にした。
私は全ての人間達を愛したけれど、二度と彼に感じたような愛を感じる事は無いだろうと思っていた………だけど私は、あなたに会ってしまった」
「僕は」
彼は静かに言った。
「僕は、あなたに会えて良かった」
彼女は悲しげに、首を横に振った。
「私はあなたにとって、ただの災難よ。………そして私は、私はあなたを愛していると気付いてしまった! 私はあなたの血が欲しかった。
孤独を忘れさせてくれる、甘い血の恍惚が欲しかった。だけど私はあなたを失いたくなかった! また一人ぼっちになるのは嫌だった!
………私はあなたを殺せなかった。そして、あなたが去る事を恐れた。だから私はあなたを閉じ込めたのよ!」
彼女の瞳は狂ったように、様々な色彩に輝いていた。
「全て話したわ! さぁ、今すぐここを出て行って! 私があなたを殺してしまう前に! 私がまた一人きりになってしまう前に!
分かったでしょう、私は化け物なのよ!」
彼は静かに答えた。
「一人じゃない。僕とあなたとで、二人だ」
「違う、違うの!! 一人になりたく無い、だけど一人でなければならないの!!」
彼女は頭を抱え、彼に背を向けて、錯乱した様に叫んでいた。細い背中はやけに頼りなく、悲しげだった。
彼は彼女に歩み寄り、その細い肩を抱き締めた。
「やめて! 死にたいの? あなたの血が欲しい、甘い鼓動を聞かせないで! あなたを殺したくないの!」
彼女は彼から逃れようと、必死にもがいていた。彼は彼女を離さなかった。
「あなたになら殺されても構わない」
彼は言った。彼女はもがくのをやめ、赤く危険に煌めく瞳から、血の涙を流していた。
「忌まわしい………!!」
彼女はそう、吐き捨てた。
「私はこの化け物の能力であなたを誘惑しているのよ!! あなたは私に恋なんかしていないの。
獲物をおびき寄せる罠に引き込まれただけ、化け物に騙されただけなの!!」
彼は腕を緩めて彼女を放し、彼女は素早く彼から離れた。
「僕が、あなたに騙されて陥れられていると?」
彼女はくるりと彼に背を向けた。
「そうよ」
深いため息と一緒に、彼女はそう言った。
「そうよ、騙したの」
言い聞かせる様に、呟くように繰り返す。
「騙したのよ。だから………だから出ていって」
彼は悲しげな溜め息をついた。
「僕が騙されると………あなたは悲しいの?」
彼女は静かに、首を縦に振る。
「僕は………あなたを悲しませたくない」
「許してちょうだい。………あなたがたとえ本当に私を愛してくれていても、私は同じ事を要求するわ」
彼女は目を閉じた。つうっと流れた血の涙は、白い頬を彩って襟の黒いレースに染み込んで、消えていった。
「………私は本当にあなたを愛してる。
そしてあなたを逃がしてあげる事だけが、私に許された愛し方なの………だから私を愛しているなら、逃げてちょうだい………」
彼女は目を閉じたまま、彼に背を向けた。
彼女は彼の足音を聞いた。遠ざかっていく、足音。
────行って、しまう。
彼女は目を閉じたまま上を向いた。涙がこれ以上こぼれないように。自分の腕を体に強く巻き付けた。彼を追い掛けて行きたいと叫ぶ心を押さえ付ける様に。
彼女の腕の上から暖かな腕が巻き付いた。彼女を包み、強く強く抱きしめる。
「行ってしまえると思う? ………あなたをこんな寂しい所に一人置いて」
彼女は目を開けなかった。彼の声と腕と体を感じていた。暖かく優しく、強く儚い────何より愛しい、存在。
「僕はあなたの、恋の罠に落ちたんだ。………僕は喜んで騙されよう、あなたになら。殺されても構わないと言った言葉に嘘はない、あなたの為なら。だけど」
彼の声は、静かに落ち着いていた。
「だけどあなたが望まないなら、死にたくは無い。………殺さない様に血を飲む事もできるのだろう? 僕はずっとここにいて、あなたに血をあげる。
そうすればあなたは人を殺さずにすむし、一人ぼっちにもならない」
彼は彼女の黒い巻き毛に顔を埋めた。微かな花の香り、孤独な眠り姫の薔薇の香りだ。
「………駄目。逃げて………お願いよ」
彼女は呟いた。腕は言葉に矛盾して、しっかりと彼の腕に絡み付いていた。
「あなたを愛してる。………どうしようもなく、愛してる」
彼は腕の力を緩めて彼女と向き合い、小さな牙を隠した愛らしい唇へ口接けた。キスは僅かに薔薇と血の匂いがした。
自分の着ている白いシャツの袖で血の涙を拭ってやり、彼は彼女を抱き上げた。彼女は羽根の様に軽かった。
彼は彼女を寝台に座らせて、抱き締めた。彼女は腕を彼の腰に巻き付け額を彼の胸に押し付けて、甘い血の誘惑に苦しんでいた。
彼は彼女の頭をそっと引き寄せて、自分の首筋へあてがった。
「駄目よ………私はあなたを、殺してしまうに違いないわ………」
彼女はそう繰り返した。苦しげに、悲しげに、激しく、弱々しく。
彼女はとうとう腕を彼の肩へ巻き付けて、首筋へ唇をつけて牙を突き立てた。
溢れ出す甘美な、血の恍惚。豊かな生命の香り。力強く脈打つ、優しい鼓動。彼女は彼をも、その中へ引きずり込んでいた。
彼は心臓を直に掴まれるような苦しみと、奇妙な高揚感の中に漂っていた。柔らかな薔薇の香りと彼女の細い、冷たく柔らかい体を感じていた。
やがて彼女は小さく呻いて、彼を離した。
彼女は血の恍惚に浸り過ぎた事に気付いた。彼は靄のかかった瞳で、自分の血によって暖かさを得、頬を紅潮させた美しい女を見ていた。
「愛してる」
彼はかすれた声で言った。
「僕は、あなたを愛してる」
彼は何度もそう言った。だから、命を失ってもいっこうに構わないのだとでも言う様に。
「お願い、私を置いて逝かないで………あなたを愛してる、一人ぼっちは嫌! 孤独はもう十分に生きたの、だから私も一緒に逝かせて………!」
血の涙がはらはらと散る。美しいサテンの寝具に、赤い花びらのような雫が落ちた。
彼は微かに、────頷いたようだった。
彼女は再び彼の血を飲み始めた。二人の鼓動は響き合い、シンクロする。彼の鼓動が弱々しくなるにつれて、彼女の心臓も力を失っていった。
彼の瞳は徐々に光を失っていった。
彼女は彼の血と一緒に、彼の死を飲み込もうとしていた。
彼女は甘い血の中に、甘い甘い死の匂いを感じていた。
待ち受けていた死神の柔らかな腕は、二人を同時に受け止めた。
静寂が降りた。
鼓動は、もう聞こえない。
開け放たれていたカーテンから朝日が差しこみ、二人を照らした。
彼女の躯は真紅の炎に包まれた。炎は彼を包み、寝具へ移り、床へ、カーテンへ広がっていった。永遠の光に満ちていた暗闇は、死の輝きに消えていく。
燃え上がる室内で、人間だった彼女の肖像画だけが微笑んでいた。
薔薇の花が赤く燃え上がり、軽い灰になって吹き散らされて、────朝の風に、消えていった。
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