死の恋人の花

   

 

 彼女はちらりと彼を見た。

カウンター席で酔い潰れている若い男。彼の斜め後ろのテーブル席で、彼女は紅い血の様な<ブラディ・メアリィ>の満たされたカクテルグラスを弄んでいる。

グラスを持ち上げ、クリスタルの輝き越しに彼を見る。グラスに唇をつける気配はない。

黒く豊かな髪は緩やかにカーブを描いて、黒いブラウスの上で蒼い光沢を放っている。

 彼はうとうと夢心地で揺れていた。細い首が前に倒れて、白いうなじを露にする。かくん、と大きく揺れて、驚いたように彼は目を覚ました。

眠そうに睫を瞬かせ、細いフレームの眼鏡を押し上げて、片手に持っていた、スコッチのグラスを飲み干す。

 彼女は紅い液体のグラスをそのテーブルに置きっぱなしにして立ち上がり、彼の方へ歩み寄った。

「隣、よろしい?」

 彼女は綺麗にルージュを塗った赤い唇で蠱惑的な微笑を形づくる。

彼は曖昧に頷いて、どうぞと呟いた。彼女がスツールに足を組んで腰かけると、柔らかな黒いベルベットの長いスカートが揺れて、花の香りが漂った。

 彼女は<ブラディ・メアリィ>を頼み、彼の横顔を見た。何かを考えているのか、ただ眠気と戦っているのか、虚ろな表情で空のグラスを見つめている。

彼女はバーテンに彼の分のスコッチを頼んだ。

 グラスが彼の前に置かれると、彼は顔を上げて初めて彼女を見た。

「いいのよ。気にしないで?」

 彼女はにっこりと微笑んだ。彼は小さくありがとうと呟いて、グラスを手に取った。

「お悩みの様子ね?」

 彼女は彼が琥珀色の酒を飲むのを見つめながら、静かに尋ねた。

「まぁ、私にはどうでも良い事だけれど」

 くすくす笑って、彼女は呟いた。

「私はただ、一緒にお酒を飲んでくれる人が欲しいだけ。寂しいのよ」

 顔を僅かに伏せ、グラスを手に取る。彼は彼女を見た。角度のせいか、彼女の美しさは翳を含んで見えた。

「僕なんかで良ければ」

 彼が言った。

「ありがと」

 彼女は微笑んでグラスを置き、彼がグラスの中身を飲み干すのを見届けて言った。

「このお店、もう閉まってしまうの。うちへ来ない? 独り暮らしだけど、お酒ならいくらでもあるわ」

 彼女はじっと彼の瞳を見つめて言った。彼女の瞳は濃い蒼から美しい紫へきらめき、彼はただ頷いた。

 

 店を出て、彼は彼女について歩いて行った。弱い夜風がふわりと彼女の黒髪を揺らし、ベルベットの裾は重たげにたなびいた。

彼女はやすやすと人混みを抜け、大きな屋敷の立ち並ぶ、静かな大通りへ出た。

 昼間は車がひっきりなしに通る、月の光に静まりかえった埃っぽい大通りの真ん中で、彼女は振り返った。

月の下で微笑んだ彼女は妙に無邪気に、少女の様にすら見えた。しかし、彼は彼女の微笑んだ唇の端に、何か不吉な輝きを見た様にも思った。

「もうすぐよ。だからその辺で倒れて眠り込んだりしないでね?」

 くすくすと笑う彼女の声は、月の光と同じくらい澄んでいた。

 彼は酔ってはいたけれど、妙に冴えた気分だった。

酒にではなく、冴えざえとした月の光と彼女の美しさに酔ってしまったように感じられた。ふと頭をかすめた不吉な予感は、すっかり消え去っていた。

 彼女は大きな屋敷の、錆びた門をくぐった。入るのを躊躇う様な、荒れ放題の庭。樫の大木がそびえ、荒れた庭全体を陰鬱な雰囲気にしている。

割れて苔むした噴水は、雑草に埋もれていた。赤煉瓦の壁に延びる蔓薔薇は今が盛で、月光の下誇らしげに、紅い花を沢山つけている。

「ごめんなさいね、こんな幽霊屋敷みたいな所で。業者に頼めば良いのだけれど、それすら面倒なの」

 二人は一緒に笑った。彼は大きく重いドアからホールへ招き入れられた。重厚な赤い絨毯や古びた調度品を、シャンデリアから溢れる暖かな光が照らしている。

「ここに、一人で住んでいるのかい?」

 彼は珍しげに室内を眺めて尋ねた。彼は彼女について、飴色の光沢を放つ手すりのついた階段を、二階へと上る。

「そうよ。…ここに、長い間。たった一人でね」

 そう言って笑った彼女の声に、彼は悲しみを聞いた気がした。

 重いドアを開け、彼女は電気のスイッチを入れた。

金の縁取りを施された真っ赤なベルベットのカーテンが大きな窓を覆い、床には精緻な模様の絨毯が敷かれている。

一方の壁際には天蓋のかかった美しい寝台があり、もう一方の壁面は全体が書棚になっていて、その隅には羽根ペンとインク瓶の置かれた書きもの机がある。

部屋の中心には小さな丸いテーブルがあり、飲み物の瓶やグラスの置かれたトレイが載っている。ソファは濃紺の緞子張りで、金糸で薔薇が刺繍されていた。

 彼は急に、自分の場違いな服装に気付いたようだった。はき古したジーンズと、安物のシャツ。

 彼女は彼の心境を察したのか、くすくすと笑った。

「気にしないで。この家が時代遅れなんだもの。…座って。何がいいかしら? ウィスキー? ウォッカ?」

 彼女は書棚の端にベルベットで隠されていた、場違いに現代的な冷蔵庫から氷入れを出した。

「…じゃあ、ウィスキーを」

 彼は少し居心地悪そうにソファに腰かけた。

 彼女は手早く水割りを作ると、グラスを彼に手渡した。彼の手に一瞬触れた彼女の手は、陶磁器のように白く、冷たかった。

紅いリキュールをもう一つのグラスに注ぎ、彼女は彼の隣に腰かけた。

「死ぬのって、怖い?」

 突然、彼女はそう問うた。彼は彼女を見た。アメジストの瞳が彼を見返した。彼女は酔っていない。

「僕は、怖い」

 彼はずれた眼鏡を上げてから、ゆっくりとそう答えた。

「…死ぬ時は、きっと苦しいだろう。それも怖いけれど…その後が怖い。何もない、無の世界が怖い。自分が消えるのが怖い」

 彼は喋りながら、ろれつの回らない舌が、そう答えるのを聞いていた。あぁ、僕は一体何を言っているんだろう?

「無の世界に吸収される事を、魂の休息だとは思わないの?」

 彼女は興味深げに彼を見つめて聞いた。

彼は自分が、何を答えているのか分からなかった。舌は勝手に回り続けたが、彼はただ彼女を見ているだけだった。

アンティークのビスク・ドールの様な白い肌。紅い、蠱的惑な唇。アメジストからサファイア、アクアマリンへ変化する表情豊かな大きな瞳。

豊かに波打つ漆黒の柔らかそうな髪。華奢な肩、細いウェスト、豊かなひだを形づくる黒いベルベットのスカート。

微笑みの端に見た邪悪な煌めきは、気のせいだったに違いない。

 彼女が見つめている間に、彼の瞳はとろりと焦点を失って、舌も喋るのをやめた。彼女は微笑んだ。

「しようの無い人ね」

 彼女は彼が立ち上がるのを助けて、美しい寝台へ連れて行った。

 彼を寝台へ横たえて、その顔をのぞきこむ。彼の瞳は閉じていなかった。眼鏡のレンズの向こうから、彼女をうっとりと見つめている様だった。

「可愛い人」

 彼女は呟いた。長く白く冷たい指先で、いとおしげに彼の黒い髪を撫で、頬に触れ、輪郭をなぞる。そっとシャツのボタンを二つほど外して、

露になった細い首へ紅い唇をつけた。そして口を開き、愛らしい唇で隠されていた小さな二本の牙で、彼の首の動脈を切り裂いた。

彼女はしっかりと彼の体を抱き締めていた。熱く甘美な紅い液体。

どんな酒も男も、与えてはくれないほどの恍惚。命そのものであり、命の持つ光である。昼間の光を忘れた彼女の知るただ一つの、そして暗闇を満たす永遠の、光。

彼の心臓は必死に抗い、激しく鼓動を打った。彼女の耳に聞こえるのは、自分と彼の呼応する拍動と彼の浅い呼吸だけだった。

 彼女は彼を愛していた。今までに血を奪った全ての人間と同じ様に? いや、それは違う。彼を愛するのは、彼が甘い恍惚をくれるからではなかった。

彼の孤独な魂を、死の向こう側を恐れる幼い魂を愛していた。

彼の容姿を、独りで酒を飲んでいた時のまるめられた背中を、細いフレームの眼鏡のレンズの向こうのシャイな眼差しを、細い首筋を、愛していた。

彼の全てを、愛していた。

 血の恍惚に浸っていた彼女の思考に、ふと暗い影がさした。

 ──────私は、彼を愛している。

 彼は死んでしまう。私がこうして今にも殺しているのだ。

 また私は孤独になる。そして私に残されるのは、彼の血によってもたらされる暖かさと彼の匂い。

それから、たった一人の惨め────いつも血を飲んだ後はそうである様に────さ。

 彼女は顔を上げた。彼が命を失うほど飲んではいなかった。彼は穏やかに眠っていた。彼女が指先で撫でると、首筋の小さな二つの傷は、血を流すのをやめた。

 彼女は彼の寝顔を見つめていた。静かな紫の瞳に、みるみるうちに紅い血の涙がわき上がった。

 あぁ、と呻いて彼女は寝台の傍らに崩れ落ちた。とめどなく落ちる涙は、彼女の白い頬を赤く汚した。

 彼の血が欲しい。彼を失いたくない。

 私は悪魔だ。私は……。

 彼女は暫く泣いてから、顔を上げた。黒いブラウスの袖で血の涙を拭い、立ち上がった。

 安らかな寝息をたてて眠る彼を見下ろし、そっと眼鏡を外してやり、眼鏡をサイドテーブルの上へ置いておく。

 彼女はふと時計を見た。朝が近い。

 幼子の様に眠る彼を残して、彼女は部屋を静かに立ち去ろうとした。ドアを閉める。

 ────このままだったら、きっと彼は帰ってしまう。

 そうしたら、二度と会えない気がした。

 ────鍵をかける?

 彼は監禁されたと思うだろう。

 ────二度と会えないより、憎まれた方がよほどましだ。

 彼女はスカートのひだの中に隠していた鍵束を出し、部屋に鍵をかけた。

 がち、と重い音がして、錠は下ろされた。

 彼女は鍵束をスカートのひだにしまい、階段を降りていった。

一階のホールに掛けられていた大きな絵をずらすと、その向こうにあったドアを開け、地下室への階段を降りて行った。

 

 頭が痛い。飲み過ぎたに違いない。彼はふと目を覚ました。薄暗い室内。羽根のたっぷり入った、軽い絹の上掛けに包まれている感触。

重々しいカーテンの端から溢れる日光が一筋、寝台の天蓋の紺色のシルクサテンを照らしていた。

 彼は混乱していたが、ようやく思い出しつつあった。バーで出会った美しい女。彼女の古い屋敷。自分は酔い潰れて、それで………。

 彼は辺りを見回し、サイドテーブルに自分の眼鏡を見つけた。立ち上がって眼鏡を掛け、スイッチを探して電気をつける。

 彼はひどく空腹で、喉も渇いていた。サイドテーブルの上に水差しを見つけると、グラスに水を注いで飲み干した。

 部屋の真ん中のテーブルにはパンや菓子や果物の盛られた皿と新聞が置かれていた。彼はその新聞を手にとって、目を疑った。

 彼がここに来てから、三日が経っていた。

 彼女はどこだろう?

 彼は重いドアを開けようとした。がつ、と鈍い音がして、ドアは開かなかった。鍵がかかっているのだ。

 彼は急に怖くなってきた。一体何が起きているというんだ。

彼はドアから後退り、他に出口はないかと探した。もう一つ、ドアはあった。そこは開いたが、出口ではなくバスルームだった。

カーテンを開け、窓から逃げることも考えた。しかしその窓は川に面しており、下までは目のくらむような高さがあった。

 彼は閉じ込められた事を悟った。だが、何のために?彼はぐるぐると室内を歩き回り、ようやく寝台に腰を下ろした。

顔を上げた彼は、壁際に何かが立掛けられているのを見た。平たく大きな、板状のもの。立ち上がって裏返してみると、それは肖像画だった。

青いベルベットのドレスを着て微笑む女性は、彼女だった。しかし何かが、昨日見た彼女とは違うように感じられた。

 蠱惑的な紅い唇。白い肌。紫の瞳。

 彼はそれを壁に立掛けて座り込み、暫く眺めていた。ようやく心が静まって、彼は立ち上がった。

 何にせよ、出られないのは事実だ。

 彼はバスルームに向かった。全身は汗じみているし、顔も剃りたい。

 バスルームには白いシャツとワインレッドのベルベットのズボン、揃いの上着が用意されていた。

彼は少し釈然としない気分だったが、とにかくシャワーを浴びる事にした。

 

  purte deux

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