水に芸術はわからない
昨年11月に「水からの伝言」に言及しながら 「人文系の「ニセ科学」対策」について書いたところ、当ブログのアクセス数が一時100倍近くにまでふくれ上がる大反響? になってしまった。「水伝」への関心の高さのあらわれなのだろうが、果たして素直に喜んでいいのかどうか……と思っていたら、 今度は朝日新聞文化欄(昨年12月11日付夕刊)の稲葉振一郎「ブログ解読」に、「水伝」とのからみで少しだけ紹介されてしまった。「水伝」 はダシに使っただけなのに、このような扱いをされたことには正直困惑したが、幸い仕事に支障を来すほどの大騒ぎにはならずにすんだ。
それでも行きがかり上、「水伝」に科学としてではなく道徳的な「お話」 としての価値はあるのかという問題については一言しておかなければなるまい。この問題についても既にあちこちで言われているので、 今さらという感もあるが、先日書いた 「神話伝説やオカルトは事実でなくてもお話としての価値がある」ということについて「そうか、『水伝』もたとえ事実でなくても、 いい言葉を使うことを勧めているし、お話としての価値はあるのだ」などと早合点されては困るので、一応書いておくことにする。
■芸術の価値は科学的現象でわかるか
「水伝」の作者江本勝氏自身も「これはファンタジーであり、ポエムである」と言っている。 「科学ではないお話なのだから堅いこと言わなくてもいいじゃない」というわけだが、その「水伝」で主張しているのは、 「言語や音楽などの芸術の価値を科学的な現象に還元できる」ということである。それが果たして「お話」としての価値を持ちうるのだろうか。
たとえばルーブル美術館にある「モナリザ」も、三文画家の描いた油絵も、化学の立場に立てば、どちらも
油と顔料の混合物が布の上に塗られ、油が酸化して硬化し、顔料が布に固着した物体
である。その一方が傑作とされ、もう一方が駄作とされる理由を説明するのに、 絵の具やキャンバスの化学的組成の違いを云々してみても、全くナンセンスであることは言うまでもない。
布に固着した油絵の具に過ぎない油絵も、人間の目を通して見れば、そこに単なる物体以上のものを見出すことができる。 それは無限の微笑であったり、心の底からの叫びであったり、澄みきった湖であったりする。これは人間の精神の作用であって、 化学や物理の法則で説明できるものではない。
しかし人文科学の一分野である心理学は、動物や人間を使って実験したり、カウンセリング治療の経験を積み重ねたりして、 こうした精神の働きにもいろいろな法則を見出そうとする。また美学では古今の文献を渉猟することにより、 人々が美をどのようにとらえていたか、どんなものを美と呼んだのか、美が文化にどんな影響を与えたのかを追究しようとする。 人文科学はいわば「人の精神の働きを科学する学問」 なのであり、 それは自然科学とは別の範疇で論じられるべきものである。
ところが「モナリザ」が傑作である理由を、あくまで絵の具やキャンバスという物体に求めようとするとどうなるだろうか。 まず考えられるのが、絵の具の組み合わせや位置に法則性を見つけようとする試みである。しかしこれはうまくいかないであろう。たとえ 「モナリザ」と同じ絵の具を使い、同じような構図と色づかいで模写したとしても、贋作はダヴィンチを簡単には超えられないし、反対に 「モナリザ」を撮影した写真や、その写真を掲載した書物は、実物の「モナリザ」とは物体の組成が全く違うのに、 実物同様に人々を感動させられるのである。
(名画をパーツに分けて、その位置関係をコンピューターで分析し、 そこに一定の法則を見出そうとする計量分析的手法も試みられているが、それでわかるのはたとえば 「美人画は北斎と広重と歌麿ではそれぞれ異なった一定のパターンがある」といったことであって、 「どんなパターンで描けば名作ができるのか」といったことがわかるわけではない。)
ところが実はもっと簡単な説明のしかたがある。
「名画からは名画特有の良い波動が出ています。 それは画家の清らかな心から乗り移ったものです。人はその波動と共振することによって感動し、心が清められるのです。 それに対して駄作からは悪い波動が出ているので、人は嫌悪感を抱くのです。 駄作しか描けないのは心が曲がっていて悪い波動が出ているからです。 この波動は従来の科学では見えない、未知のエネルギーなのです。」
この「波動」は「オーラ」に変えてもよい。これならどんな芸術の良し悪しも説明できそうに見えるであろう。 「科学と精神活動を結合させた画期的な理論」だと飛びつく人もいるかもしれない。 しかしこれには重大な落とし穴が潜んでいるのである。
上の説明では名画から良い波動が出るということはわかるが、では結局良い波動と悪い波動をどう見分ければよいのかとなると、 これではさっぱりわからない。第一名画を残した画家がすべて「清らかな心」の持ち主とは限らないし (ヒトラーも絵は上手であったし、 妻子を捨ててタヒチに出奔したゴーギャンの心の良し悪しははどう評価すればよいのか)、 立派な心の持ち主でも絵が下手な人はいくらでもいる。 それに谷岡ヤスジの漫画は名画とは比較にならないひどい絵だが、それでも高く評価されているではないか。
そしてもう一つの落とし穴は、もし名画から良い波動が出て、それが見る人の心に共振するのならば、 「名画を見て感動しない人」は「悪い心の持ち主」ということになりはしないかという危惧である。 ピカソやダリの絵が嫌いだという人は「心が曲がっている」のだろうか。 岸田劉生の描いた麗子像を4コマ漫画のブスキャラクターに流用した漫画家はどうなるのか。江戸時代の春画に至っては、「正視に堪えない」 という人と「情欲に満ちた女の表情はまさに芸術だ」という人とどちらが「心が清い」といえるのか。
たとえ名画といえども、万人が皆それをすばらしいと思うわけではない。嫌いな人もいて当然であるし、 絵を理解しない人はそれにもまして多い。名画の名画たるゆえんを「波動」のような即物的な要素に還元しようとすれば、 誰もが同じようにそれに反応しなければおかしいという「価値観の押しつけ」 になってしまうのである。小室哲哉がその絶頂期に「僕の歌をまだ聴こうとしない不思議な人がいる」 などと豪語していたのを新聞で読んだ記憶があるが、その結果「不思議な人」がいなくなったかどうかは今さら言うまでもないだろう。 この一言でアンチ小室になった人も相当いると私は見ている。「小室の歌を聴かなければ変人である」などと、 当の小室に勝手に決めつけられては、「あんた何様?」と言いたくもなるであろう。芸術の好みという「内心の自由」 にまでずかずか踏み込んでくるという点では、「名画波動説」もこれと同じなのである。
かくて「名画波動説」はいとも簡単に破綻してしまったわけだが、結局のところ「良い」と「悪い」、「心が清らか」と 「心が曲っている」というように、 単純な二分法で芸術を説明できると思い込んでいることに問題があるといえる。 人間の精神や文化活動とは、白か黒かで割り切れるほど単純なものではない。 波動やオーラという概念を持ち込んでみたところで、芸術をまともに評価することはできないばかりか、 芸術を冒涜することにさえなってしまうのである。
■「水伝」の限界
私が何を言いたいかはもうそろそろおわかりのことであろう。「水伝」もこの「名画波動説」と五十歩百歩なのであって、 水を使えば波動の良し悪しがわかると言うのが少々目新しいだけのことである。しかし江本氏の主張によれば、絵画でも音楽でも文学でも、 水でわかるのは「良いか悪いか」 だけである。それがすばらしいことなのだとしたら、芸術とは何と貧困なものなのであろうか。 芸術家も研究者も評論家も全くなめられたものである。
芸術作品を評価するとは、単に良いか悪いかを決めることではない。 その作品を通じてどんなことが読み取れるのか、それが人々にどのような感動をもたらすのかを、持てる教養を総動員して言語化することである。 たとえ水の働きがどんなにすばらしくても、水にそこまでやってくれることを求めるのは誰が見てもナンセンスであろう。
同じように言葉も単語だけ取り出して「良いか悪いか」を決めて事足れりとするのでは、まともに評価したことにはならない。 言葉はそれが発せられた文脈の中で初めて意味や価値を持つのであり、 文脈を読み取らなければ何も始まらないのである。
たとえば「言語」という言葉はそれ自体はプラスでもマイナスでもなく、全く無価値である。 しかし口下手な人や吃音癖のある人に向かって、悪意に満ちた表情や態度でこの言葉を投げつければ、人を傷つけることができる「悪い言葉」 となる。「口下手な人や吃音癖のある人に向かって」「悪意に満ちた表情や態度」という「文脈」があって初めて「悪い」という価値が生じるのであって、 「言語という言葉は差別語ではないのだからいいじゃないか」と開き直っても、 それはクソガキの減らず口にすぎない。
これを踏まえた上で、江本氏の主張するように水が言語の良し悪しを見分けると仮定して、もし「言語」 と書いたラベルを貼った水を凍らせたとしたら、さてどんな結果が出るのだろうか。考えられる可能性は次の二つである。
(1)何の文脈もない単語のレベルでなら「言語」は無価値なのだから、水は何の反応もしない。
(2)どんな文脈で使われたのかも水が判断してくれるので、もし悪意ある使い方をしていたのなら汚い結晶ができるし、 人をほめる文の中で使えば美しい結晶ができる。
江本氏の主張に従うなら、(2)はあり得ないであろう。なぜなら「ありがとう」なら常に美しい結晶ができるというのが「水伝」 の売りなのであり、場合によって結晶が美しくなったり汚くなったりするのでは、「水伝」の売り自体が意味を成さなくなってしまうからである。
以上の思考実験から、水は文脈までは判断してくれないと考えざるを得ないのであって、 言語の価値判断装置としては極めてお粗末であるといえるであろう。だが 「文学作品は美しい言葉を使うからすぐれた作品になるのだ。水が一つ一つの言葉の美しさを判断できるなら、 作品という文脈全体の美しさも判断できるのではないか」という人もいるかもしれない。
そういう人には開高健『日本三文オペラ』を読んでいただきたい。戦後十年を経た大阪の、 砲兵工廠跡地に夜ごと出撃する鉄屑さらい達を描いたこの小説の、これでもかと次々に繰り出される、 汚穢にまみれた描写にはきっと胸が悪くなってくることであろう。しかしこの小説は「汚らしいから悪い小説」なのでは断じてない。 どん底の世界に生きる人々の、掃きだめのような汚濁の中でうごめく凄まじいまでの生命力、そして彼らの一糸乱れぬ団結と温かい心のつながり。 そこにはまぎれもない「美」がある。汚らしい言葉の数々に顔をしかめながらも、読み終わったら不思議な爽快感が残るのである。 これこそがコップ一杯の「水」なんかには逆立ちしてもわかるわけのない、芸術の奥深さである。
■価値判断を「水」任せにする危うさ
「水」のメッセージに感動して「ありがとう」を言うようにしよう、というのは、それだけを見れば悪い話ではないようにも見える。 日本の昔話には「正直者が善行をしていい目にあい、心のよこしまな者がそれをまねしてひどい目にあう」という勧善懲悪型の物語が多いし、 テレビドラマの「水戸黄門」が「偉大なるマンネリ」と言われながらも高い人気を誇っていることからもわかるように、 現代の日本人も勧善懲悪ものが好きであることには変わりがない。「水伝」が学校現場にまで広がったのも、 勧善懲悪の要素を多分に含んでいることがその原因の一つに数えられよう。
しかし他人に対してする行動が善行かどうかは、その「文脈」 全体を見なければ判断できないことである。たとえば「百万本のバラを贈る」という行為も、 それだけでは善し悪しは判断できない。
死ぬ前にバラを一目見たいと願っている病床の少女に、その肉親なり恋人なりがなけなしの金をはたいて贈った。
というのであれば立派な行為だが、
ある女性につきまとい続けている男性が、その女性を振り向かせるために贈った。
のであれば、女性にとってはほとんどの場合単なる迷惑であろう。 現代の日本なら確実にストーカー防止法違反でしょっ引かれることになる。だが女性がそのような一途さにほだされてしまうことも、 万に一つくらいはないわけでもないのだから(そうでなければドラマ「101回目のプロポーズ」も生まれてこない)、 人間関係における善悪の判断とはことほど左様に難しいのであり、それこそが恋愛や友情の機微なのである。 そしてこのような機微こそが芸術の源なのである。
浮気は悪いことというのが現代日本の社会通念である。それにもかかわらず、中河与一の『天の夕顔』が傑作とされ (個人的にも不倫を濡れ場なしでこれほど美しく描ききった小説はないと思う)、渡辺淳一の『失楽園』や『愛の流刑地』 があれほど好評を博したのはいったいどうしてか。「水」に小一時間問い詰めたところで答えはわかるまい。 「浮気は悪だから浮気を描いた文学も悪。お水さんに聞いたらきっと汚い結晶を見せてくれるよ」という人もいるだろうが、それなら恋愛文学が 「堕落したブルジョアの文学」「時局に合わない軟弱文学」として容赦なく弾圧された、文革期の中国や戦時中の日本こそが、 きっと彼らにとってのユートピアに違いない。
「水」が教えてくれる上っ面の「善悪」 だけで芸術の価値を判断しようとすれば、芸術そのものを破壊することになりかねない。
だとすると、言葉や芸術の良し悪しが「水」でわかってしまうと早とちりするのは、 やはり得なことではないだろう。どんな芸術作品に接しても、その「機微」に触れることなく、 うわべだけで良し悪しを決めつけてしまい、薄っぺらい感動しか味わえなくなってしまうからである。 まして人の言葉の片言隻句を取り出して、文脈を無視して「良し悪し」を決めつけようとするのでは、 人の言うことを曲解したり、 いじめの口実に使ったりすることにもなりかねない。もしどこぞの宰相が憲法前文の上に乗せた水を凍らせて、 「ちっとも美しくない」結晶を選び出して「ほら見ろ、憲法前文なんて悪い言葉でいっぱいだ。 水も憲法を変えろとメッセージを送っているんだぞ」などと言い立てたら、「水伝」を信じる人はホイホイと同調するのだろうか。
(護憲派の人が同様の実験をして、「美しい」結晶だけ選んで「憲法前文はこんなにすばらしいのだ」 と主張したとしても同じことである。憲法の是非の判断を水に任せてしまうのが良くないのであって、 憲法改正に賛成することの是非を問題にしているのではない。もっとも法規の条文に芸術的価値など始めから求められていないのに、 美醜で憲法の是非を論じようとすること自体が既にナンセンスであるが。)
もう一度言う。江本氏の言う「水」は、 芸術の価値を判断する装置としては、あまりにもお粗末である。人文科学の立場から見ても、 このようなものに頼ったとて有益な発見など到底あり得ないし、「お話」としても三文小説以下の薄っぺらい駄作である。本気で「いい言葉」や 「いい音楽」をわかるようになりたいのなら、もっとすぐれた作品を、 水任せではなく自分の心で味わってほしい。同じ「水からの伝言」というなら、『老子』の次の言葉の方が、 よほど深いメッセージを含んでいると思うのだが。
上善若水。水善利萬物而不爭、處衆人之所惡、故幾于道。
上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず、 衆人の悪(にく)む所に居る、故に道に幾(ちか)し。――最上の善とは水のようなものだ。水は万物に恵みをもたらしながら名利を争うこともなく、人々の嫌がる低湿地に集まっている。 だから水は「道(万物の根源)」に近い存在なのだ。
(これはあくまで「哲学」「処世訓」としてのたとえ話である。
自然科学上の水の諸現象に結びつけるべき話ではない。野暮は承知で念のため。)
| 固定リンク
トラックバック
この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/113185/13870051
この記事へのトラックバック一覧です: 水に芸術はわからない:
» あなたであること [Chromeplated Rat]
なんか申し訳ないな、と思いつつ朴斎先生の水に芸術はわからないと云うエントリにトラックバック。ご本人はあまり取り上げられるのをお喜びにならないだろうけど、この文章はマスターピースだ。
何度も云っているけれど、美しさも道徳も、ひとの心のうちにあるのだ。そしてそれは、ひとが社会を構築する動物である以上、宿命的に関係性に規定される正確を持っているのだ。
ひとの数だけ関係性はある。ひととものの関わりも、その関わりの数だけ異なった意味を持つ。そこになんらかの普遍性があるとしても、それは「ひとつひとつの関... [続きを読む]
受信: 2007年2月12日 (月) 05時56分
» 名文「水に芸術はわからない」 [鴉工房]
ここのところ文章ばかりのエントリーですが、応援よろしくお願いします。 ---... [続きを読む]
受信: 2007年2月14日 (水) 16時42分
» この世は物質の法則だけで動いていく [全裸の(知性の)女神ハテナ]
これら(「命」とか「心」とか「自分」とか「運命」とか)の伝統的な常識概念は、も [続きを読む]
受信: 2007年2月19日 (月) 20時01分
» 普通の科学者の気持ちを代弁すると… [室井健亮の憂言記]
原罪とは人間の認識や行為は全て間違いだという観念です。可謬性(誤ることもある)ではなく必謬性(必ず誤る)です。 まもなく『挑発する知』文庫版が筑摩書房から出ます! - MIYADAI.com Blog これはニセ科学論者達への叱責である。ニセ科学論者は、日常的に科学的思考を... [続きを読む]
受信: 2007年11月 4日 (日) 22時41分
コメントを書く
コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。
コメント
水伝
ニセ科学バージョン:『言葉は水に影響する』(況や人間…)
ファンタジーバージョン:『水は言葉の良し悪しが分かる』(況や人間…)
ファンタジー版はそもそも水を擬人化して扱っていることに注意。
ニセ科学版とファンタジー版を同列に捉えてしまうと粗雑すぎる。
投稿 でま | 2007年2月12日 (月) 08時06分
「言葉は水に影響する」(ニセ科学版)から、「水は言葉の良し悪しが分かる」(ファンタジー版)は相当に距離のある別のもですから
「言葉は水に影響する」を信じるか信じないか、ということと「言葉は水の良し悪しが分かる」というファンタジーをどう見るかということは別物で。そして、後者は文脈依存性が高いのですから、一概に否定することも…
状況を特定せずに否定(or肯定)すると自分自身に返ってきちゃいます
投稿 でま | 2007年2月12日 (月) 08時27分
でま さんの書き込みもだいぶ粗雑だと思います。
その『ニセ科学バージョン』『ファンタジーバージョン』とは
何をもって何をどのように仕分けしたものなんでしょうか?
書き込みの文章だけでは言わんとするところを摑みかねます。
もしかして江本氏自身がそのような使い分けをしているのでしょうか。
(だとするとそれはそれで相当に問題だとは思いますが。)
たぶん『ファンタジーバージョン』で語る分には問題ないじゃないか、
というのが でま さんの文意だと思うのですが、
先行して『ニセ科学バージョン』が存在する限り、この2つは全く切り離して扱うことはできないと思います。
確かにはじめからただの御伽話としてスタートしていれば、誰も目くじら立てないでしょうが、
あのお話がそれなりに説得力をもって迎え入れられたのがそもそも
『実験』の体裁を繕っていたことにあるわけですから、それは無理な話です。
そして足場をそこにおいて語る以上、『科学的』な是非はもとより、
結局は美醜・善悪を水に教えてもらう姿勢に対する倫理的矜持を問われることは避けがたいと思います。
投稿 ヒスタミン | 2007年2月12日 (月) 22時22分
江本氏自身のことというより…
例えば、道徳の授業で使われているから、これは
見過ごせない問題である、という言われ方をする
訳です。それならば、どういう使われ方であれば
問題なのか、状況を特定した上で否定した方が、
よかろうというだけのことですので…
特定せずに言ってしまうと「ファンタジーなのに
どうして?」という疑問が容易に発生するのです。
否定者が(暗黙に?)想定している『道徳の授業
での使われ方のイメージ』が一般の人にまで共有
されているとは限らないのではないでしょうか…
投稿 でま | 2007年2月13日 (火) 08時40分
そもそも学校教育で行われる実験は通常、物事の真偽を確かめる
ものではありません。それにもかかわらず「実験で確かめられた
ので(理科の教科書に書いてある)この話は正しいね」と理科の
授業で言っている学校の先生の姿というのも容易に思い浮かんで
しまいます。このような理科の授業が学校教育の現場で受け入れ
られている以上、水伝についても分離できない(あるいは、分離
せずに)受容されるケースが多かろうという予測にも確かに妥当
性はあるとは私も思いますが
投稿 でま | 2007年2月13日 (火) 09時00分
でま 様
> 後者は文脈依存性が高いのですから、一概に否定することも…
おっしゃるとおりですね。「言葉や芸術に対して貧しい感性しか持てなくなる」反面教師として「水伝」を取り上げるという「文脈」なら、「水伝」も立派に役に立ちますね。(それ以外に「水伝」が人の文化的活動を豊かにする「文脈」は思いつきません。)
> 特定せずに言ってしまうと「ファンタジーなのに
> どうして?」という疑問が容易に発生するのです。
私は「『水伝』がたとえ フ ァ ン タ ジ ー だ と し て も 値打ちのあるものとは思えない」という話をしています。そのことはおわかりですか?
蓼食う虫も好き好きですから、「それでも『水伝』が好き」というなら、別に止めはしません。どうぞご自由に。ただ人文学の研究者でこれを文学や芸術の評価に役立てようなどという人は、恐らく一人たりとも現われないでしょうし、「お水さんがいいというものだけを味わおう」という態度では、文化的な生活を送る上であまり得なこととはいえないとだけは言っておきたいと思います。
投稿 朴斎 | 2007年2月13日 (火) 12時56分
ヒスタミン 様
私も でま 氏の最初の書き込みは真意を測りかねましたが、フォローしていただいたおかげで何となくわかってきました。
> 確かにはじめからただの御伽話としてスタートしていれば、誰も目くじら立てないでしょうが、
「実験」抜きであのような物語を発表していれば、そもそも売れることはなかったのではないかと思います。せいぜい一部のスピリチュアルマニアの目を引く程度だったことでしょう。
「お話」として「水伝」は値打ちがあるのか、人文学に役立つのかという考察をここでやってみたわけですが、やはり伝わらない人には伝わらないようですね。私は別に「水伝」信者を折伏しようと思っているわけではなく、「それでも好きならどうぞご自由に。但し他人に押し付けるのはやめてね」という立場です。
投稿 朴斎 | 2007年2月13日 (火) 13時17分
別に私も水伝が好きな訳ではないのですが…
>「それでも好きならどうぞご自由に。但し他人に
>押し付けるのはやめてね」
私も同じですよ。諺なんてのも、似たりよったり訳ですね。
諺については「一般的には通用しないけれども、ある場面
には妥当性をもつことがある。そういう場面で使えば状況
をうまく捉えてみせたようなものにはなる」ということが
広く理解されている訳です。大概の諺は「一般的妥当性が
あるもの」として考えるとおかしなことになる。だからと
言って諺を使うな、ということにはならない訳ですけど。
だから、私が言えることは『どうやら最近、江本何某氏と
いう人が書いた本の影響か何かで「水は言葉の良し悪しが
分かる」というファンタジーを使った不適切な道徳授業が
行われているらしい』ということです。しかし、ここから
「水は言葉の良し悪しが分かる」というファンタジーを使
っていたら、それは不適切である、という結論までは私は
辿り着けない訳で…
諺と同じで別に使ってもいいけど不適切に使って貰っては
困る。でも、何だか不適切な使われ方が広まってるようで
それは困るね、という感じです。(でも「一般的には通用
しないが世間で流通してるスローガン」を不適切な場面で
使って子供に説教する教師なんて、昔から沢山いたように
思う)
ファンタジーの部分に関しては、こんな感じで受け取って
ます。
投稿 でま | 2007年2月13日 (火) 19時45分
>人文学の研究者でこれを文学や芸術の評価に役立てよう。
え~と、そういうのは不適切な使い方だと私も思いますよ。
そもそも「水が言葉の良し悪しが分かる」というのはただの
お話であるという認識をしているのに、そのような使い方を
マジで提案するということはあまりないことと思いますが…
マジで「自分の言葉の使い方がいいか、どうかを水を使って
判断してもらいましょう」なんてことが行われていたらば、
それは不適切でしょう。問題はマジなのか、お話なのか、と
いうことにある訳です。それで、「道徳の授業とかでどうも
マジでやってるのも結構あるらしくて、それは困ったね」と
いうのは私も思う訳です。だからと言ってお話としてやって
いるものについては特段、いいとも悪いとも思わない訳です。
投稿 でま | 2007年2月13日 (火) 20時02分
でま 様
> 別に私も水伝が好きな訳ではないのですが…
これは失礼いたしました。誤解してきつい返信をしてしまったことをお詫びいたします。(しかし最初のコメントのように簡潔すぎてしかもつっけんどんな書き方をされたら、ビリーバーの的外れないちゃもんかと思ってしまいますよ。)
さて本題ですが、「水伝」は単なることわざとはやはり同列には論じられないのではないかと私は考えます。
ことわざは命題を示すだけで、「なぜそう言えるのか」という論証は一切ありません。もし江本氏が単に「ありがとうを言えば気持ちよく暮らせますよ」と言っているだけなら、誰も文句は言わないでしょう。処世訓としては感謝の言葉を積極的に言った方がいいのは当然なのですから。それで仮に相手が喜ばなかったとしても、「そういう場合もあるのか」と知恵をつければいいだけのことです。
しかし「水伝」は「人体は水からできていて、その水は人の言葉の良し悪しに反応して性質を変える。故に『ありがとう』などのいい言葉を言って、『ばかやろう』などの悪い言葉を言わないようにしなければならない」という風に、命題とともにその「論証」も示しています。そしてその「論証」こそを、多くの人が問題にしているわけです。
ことわざは論証抜きですから、常に有効であるとは限りません。甚だしきに至っては、「立つ鳥跡を濁さず」と「後は野となれ山となれ」のように、反対のことを言っていることわざもありますが、それぞれ場合に応じて使い分ければいいわけです。
しかし「水伝」は論証、それも自然科学風の論証をしているのですから、その命題は「いかなる場合にも成り立つ普遍的なもの」だと受け取らせることに作者の意図があるのは明白でしょう。実際にはその「論証」は自然科学的にも、人文科学的にも不十分なものなのですが、不十分だと言われた途端に「これはお話だ、ファンタジーだ、ことわざだ」というのでは、御都合主義と言われても仕方がないでしょう。「実験」の部分は非を認めて撤回しない限り、作者が本気で「お話」だと認めているとは思えません。
仮に「水伝」を「お話」と認めるにしても、それが「言葉の良し悪しを水に聞く」という内容である限り、いただけない「お話」であるというのは、本論で書いた通りです。要は「ありがとうを言おう」というのは構わないけれども、「お水さんが喜ぶから」では困る、ということです。
投稿 朴斎 | 2007年2月14日 (水) 01時09分
江本氏自身については
>「水伝」は論証、それも自然科学風の論証をしているのですから、
>その命題は「いかなる場合にも成り立つ普遍的なもの」だと受け
>取らせることに作者の意図がある
そして、それは問題である。これについては、私も同感なんです。
ただ、道徳の授業で「水が言葉の良し悪しが分かる」というお話が
どう使われるか、というのは色々考えられるので、これに関しては
一概には否定できなくて『こうこうこういうような使い方は駄目で
ある。にもかかわらず、江本何某氏の本の影響でそういう不適切な
使用が広まっているらしい』というような言い方をした方が誤解が
少ないだろう、という考えでした。
投稿 でま | 2007年2月14日 (水) 13時47分
どこで、誰が「誤解」してるんでしょうか?
某所でもそうですが、勝手に想像した読者に「誤解」させるのがよほどお好きなようで。(やはり別の名前でやるんですね)
投稿 MZ | 2007年2月14日 (水) 23時18分
でま 様
> ただ、道徳の授業で「水が言葉の良し悪しが分かる」というお話が
> どう使われるか、というのは色々考えられるので、
私は人文学の研究者としてわかる範囲で、根本的な問題について考察したまでです。小中学校の教育現場の現実を知っているわけではありませんし、具体的な個別の事例に関することまでは手が回りかねます。
教育現場での啓蒙方法について一家言お持ちなのでしたら、きっちりと文章にまとめて、ご自分の場所で発表されてはいかがでしょうか。こんな狭苦しいところで議論しているよりも、ご自分の場所でなら誰にも邪魔されずに存分に活動できてよろしいかと存じますが。
ではあなたの場所でご高説を拝見できる日を楽しみにしております。
投稿 朴斎 | 2007年2月15日 (木) 00時29分
>小中学校の教育現場の現実を知っているわけではありませんし、
>具体的な個別の事例に関することまでは手が回りかねます。
それは、私も同じです。「具体的な個別の事例に関する」ことまで
否定(or肯定)はしていないんだよ、ということさえ確認できれば
それでいいのですが…
投稿 でま | 2007年2月15日 (木) 09時23分
朴斎様:
すこし私の考えをまとめてみました。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1171732768
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1171736235
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1164299987#CID1171737580
------
参考:
http://awarm.blog4.fc2.com/
http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-320.html
http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-323.html#comment243
投稿 でま | 2007年2月18日 (日) 11時29分
でま=うま 様
「自分の主義主張は自分の場所で」と言っているのに、どうして他人の場所ばかり占拠したがるのでしょうね……。 まあおかげ様で「でま」=「うま」=「菊池先生はじめいろいろな人のブログで非難されたり無視されたりしている人物」であることは白日の下に明らかになりましたが。
そのことを抜きにしても、「『言葉が水に影響する』という物語に価値はあるか」という問題には、「反面教師的な価値以外には思いつかない」と一番初めにちゃんと答えています(それに「価値のある『言葉が水に影響する』物語」の実例も挙げずに「個別の例ならあることを認めろ」などと言われても返事のしようがないでしょう)。これ以上話を続けても堂々巡りの平行線で、時間の無駄になるだけなのは目に見えています。
でま=うま様が我々とは全く違う考えの持ち主であることはもう十分にわかりました。これで最後です。ど う ぞ お 引 き 取 り 下 さ い。ではごきげんよう。
投稿 朴斎 | 2007年2月19日 (月) 00時30分
こんにちは、朴斎さん。
実は菊池先生のブログkikulogの方で「オーラ」だとか「スピチュアル」だとかの問題が取り上げられています。実のところ、これらはニセ科学の範疇かというと難しい訳ですが、「ニセの真実性」という意味では、やはり議論はしてしまうわけです。ただ、ニセ科学批判をしてきたものが、こういう科学ともいえないものの「ニセ真実性批判」をやると「君たちは物語を否定するのか、これだから理系は」という意見も出てきそうな気がする訳です。
どうしても「理系人間」が多いですから「ああいうヨタ話を真実みたいに広められるのは困るよね」的になってしまうので、私がなけなしの文系センスでひねり出したのが、「安易に真実性によりかかると、物語としての完成度が低くなる」なんて話です。
うまく言えないのですが、忠臣蔵なんかは、実際に有った事件を下敷きにしながら、きちんと物語として完成していますよね。でもって、上野介が内匠頭の奥方に横恋慕して付け文してはねつけられるなんて話は、完全に「物語の整合性」の部分で現実の話ではないわけです。でもこれがあることで、物語としては「面白く」なっている訳です。これを下手に「真実っぽくしてやろう」と「実録忠臣蔵」にしてしまうと「真実っぽく」はなるけど物語としては面白くなくなる気がするわけです。
なんて言いますか、物語が物語としてきちんと完成するためには、どこかで「これは物語ですよ」ときちんと宣言しないとならない様な気がする訳です。こういう考え方を朴斎さんはどのように考えられるのだろうと思い、書き込んでみました。
投稿 柘植 | 2007年2月20日 (火) 13時52分
柘植 さん、こんにちは。
> ニセ科学批判をしてきたものが、こういう科学ともいえないものの「ニセ真実性批判」をやると「君たちは物語を否定するのか、これだから理系は」という意見も出てきそうな気がする訳です。
以前に菊池先生のところで話題になっていたと思いますが、科学者というと「文化や芸術を解さないガチガチ人間」という根強い偏見が、こうした意見の根底にありそうですね。
「超能力」批判で知られる安斎育郎氏も、その辺のことは十分心得ていて、「自分は神主の家の出で、墓前で神式の儀式を営めば感きわまるものがあるし、文人画や俳句をたしなんだりもする。決して科学亡者ではない」ということを著書で盛んに強調しています。安斎氏はまた「人が死ねばその身体を構成していた炭素などの分子が空中や土中に散っていき、別の生物に取り込まれてその一部になる。これこそ科学的輪廻転生ではないか」とも主張して、科学と宗教の調和を図ろうとしています。これは誰もがまねできることではありませんが、いくらか参考にはなるかも知れません。
> 「安易に真実性によりかかると、物語としての完成度が低くなる」なんて話です。
忠臣蔵を例に挙げておられますが、およそ人々に衝撃を与えた事件は、それが語り伝えられはじめた瞬間から「物語」化が始まるわけで、やがて専門の作家によって脚色され、芸術作品に仕立てられていくわけです。『三国志』にしろ『勧進帳』にしろ皆しかりです。しかし読み手もそれは「物語」だとわかって鑑賞するのですから、真実かどうかはどうでもいいことで、話として面白ければそれでよいわけです。
忠臣蔵にしろ三国志にしろ、史実に完全に忠実に記録したものは、「物語」としての面白さはありません。しかし「歴史」としての面白さはあるのであって、「忠臣蔵の真実に迫る」といった歴史ドキュメンタリーに仕立てれば、知的な謎解きとして楽しめるものになります(NHKの「その時歴史が動いた」ではよくこの種のテーマが取り上げられます)。
ニセ科学もたとえて言えば、根拠に乏しい「物語」をあたかも「真実の歴史」であるかの如く宣伝するようなものだと言えるでしょう。科学書やノンフィクションのような体裁と触れ込みで発表しておきながら、「これは物語です」などと言っても、それは読者を欺く行為であると言わざるを得ません。その点「ダ・ヴィンチ・コード」はあくまで小説として発表されたため、研究者から非難を浴びることもほとんどなかったわけです(さすがにカトリックは不快感をあらわにしましたが)。
スピリチュアル本も科学書やノンフィクションのような体裁で、従来の科学を否定するようなことを主張しながら「これは物語だ」などと言っても通りません。「物語」として受け取ってほしいのなら、フィクションとわかるように書くか、それが無理なら科学には言及しないといった姿勢が求められるでしょう。既成宗教の書物も(過激な原理主義の宗派以外は)あからさまな科学否定は行いませんし、すぐれた宗教書なら科学の装いを借りなくても人の心をとらえてしまうものです。
受け手の側にとっても、「これは物語だ」と言って科学を否定しようとするのは、あたかも忠臣蔵は物語なのだからと言って歴史学的な研究を否定しようとするようなものです。忠臣蔵は史実でなくても面白いのと同様に、スピリチュアルも科学的に否定されても、宗教的に面白いと思えばすむことのはずです。「物語だ」と言うからには「科学による裏付け」などもともと必要ないのですから。
いずれにしても「過度に真実性を求めたがる」のが、ニセ科学やスピリチュアルの信奉者の通弊と言えそうですね。
投稿 朴斎 | 2007年2月22日 (木) 00時59分
結局、水伝と一緒で、このエントリー自体が無価値だった訳だがwww
参考:ニセ「ニセ科学批判」。
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_93a6.html
投稿 でま | 2007年2月24日 (土) 15時24分
朴斎先生、こんにちは。でまです
ニセ科学「擁護論者」がニセ科学「批判論者」を不誠実、極まりない
やり方で愚弄しているのを見つけました。僕達、ニセ科学批判者が
負けることはあってはなりません。これからも、一緒に戦いましょう。
真理を語る者は正義であり、最期に勝利を収めるべき者も、また、
正義なのですから!
http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-320.html#comment304
投稿 でま | 2007年2月24日 (土) 19時45分
朴斎先生、こんにちは。
何だか、相当、酷いことになっています。
>こんばんは。
>最近、理系白書は追いかけていなかったのですが、次のようなコメントがあり、ちょっと嫌な気分になりました。
>「元村有希子・田中泰義
きくちさま、元村です。
2件目のコメント、管理人の判断で削除させていただきました。あしからず。
3月18日 10:53」
>これって、きくちさんが書いたコメントのことではなくて、「うま」氏のコメントのことですよね。削除されたコメントを読んでいないのでなんとも言えないのですが、ハンドルネームで別人を語ることで起きた事ではないかと疑っています。
投稿 corvo | 2007/03/19 0:01:18
わざわざ書く事でも無いけど
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_3eea.html
理系白書ブログ
http://rikei.spaces.live.com/
名文「水に芸術はわからない」
http://www.studio-corvo.com/blog/karasu/archives/2007/02/post_267.html
投稿 デモ | 2007年3月19日 (月) 00時32分
でま=デモ=うま であることは明白ですね。決定的な証拠はこちらでちゃんとつかんでいます。
せっかく菊池先生が発言の場を作って下さったというのに、その好意を踏みにじるようなまねをして回っているのは、もうとっくにばれていますよ。
自分の意見をまともに取り合ってもらえないからといって暴れているようでは、総スカンを食うだけです。今活躍中の研究者が、論文を発表してもまるで反響がないのをどれだけ耐え忍んできたかを、でま=デモ=うま氏はきっと想像したこともないのでしょうね。
これまではこちらも相手にせずさらし者にしておくだけにして、武士の情けでアクセス禁止は思いとどまっていましたが、事ここに至ってはもう致し方ありません。当ブログへの出入りは禁止とします。
投稿 朴斎 | 2007年3月20日 (火) 00時25分
朴斎さん、こちらでは初めまして。以前、拙blogへの書き込みありがとうございました。
また、トラックバックを送ったままでコメントもせず、申し訳ありませんでした。
「でま=デモ=うま」のコピペに、僕のコメントが含まれていますが、もちろん許諾したものではありませんし、「でま=デモ=うま」が勝手にやったことです。
そんなことは、もはやどうでもよいことですね。
僕自身、このエントリーには非常に感銘を受けました。自分の中で整理出来なかったことを、すっきりと理解する事が出来ました。でも、絵描きである僕に書く事ができなかったことを悔しくも思いました。
また、これほど質の悪いヨタ話に人の心を奪われて、それを超える表現を確立出来ていない自分にも腹立たしいものがあります。
芸術家も常に作品を発表しても反響がないことを耐え忍んできて、今があります。
「でま=デモ=うま」氏は想像したこともなければ、努力をしたこともないのでしょう。
多くの人には「水伝」などの惑わされずに、より良い作品を味わってほしいことを願ってやみません。
投稿 corvo | 2007年3月20日 (火) 03時27分
corvo さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。こちらこそおほめをいただきながらコメントもせず失礼いたしました。
> でも、絵描きである僕に書く事ができなかったことを悔しくも思いました。
文字による作品よりは絵の方がわかりやすいかと思って例に挙げたまでですが、何か縄張りを侵してしまったようですね。私は絵に関しては一般教養以上の知識はなかったので、この文を書くに当たって少し勉強させてもらいました。
> また、これほど質の悪いヨタ話に人の心を奪われて、それを超える表現を確立出来ていない自分にも腹立たしいものがあります。
昔の社会では「知識人(および知識人の教養を尊敬する人)」と「教養とは無縁に生きる人」との区別がはっきりしていましたから、それぞれ互いを気にせず「好きにやってろ」でよかったわけです。ところが現代は少なくとも建前上は「誰もが一定の教養を身につける」ことになっている上に、ネットの普及で前者と後者の人々が同等に意見を発表できるようになり、互いの接触も増えてきましたから、「お互いに言葉が伝わらない」衝突が目立ってきたと言えるでしょう。
この問題は科学哲学の一大テーマとなりつつあるようですし、明快な解決策はすぐには見つからないでしょう。今はやれそうなことをいろいろ試みてみる段階であろうと思います。
> 芸術家も常に作品を発表しても反響がないことを耐え忍んできて、今があります。
その通りですね。私ももっと若い頃は「うま」氏のように、評価されないのを周りのせいにしていたものですが、大学院でもまれるうちに自らを省みる機会が多かったのは幸いでした。やはり何かを世に問うなら、いい意味での「批判慣れ」や「無視慣れ」が必要ですね。
> 多くの人には「水伝」などの惑わされずに、より良い作品を味わってほしいことを願ってやみません。
同感です。
投稿 朴斎 | 2007年3月22日 (木) 01時02分
はじめまして。「思索の海」というブログから導かれてきました。
もし、美醜さえ水が判断するとしたら、自然物の「美醜」はどうなるんでしょうね。
美しい蝶や甲虫を水に見せると美しい結晶、グロテスクで気味悪いムカデや大ゲジゲジを水に見せると汚い結晶、となるんでしょうか。それとも、同じく地球の大切な仲間だから、ということで両者とも美しい結晶となるんでしょうかね。
前者なら、生物の美醜も単に人間の感覚に過ぎず、その生物自身のせいではないのに、
水が価値判断を下すとしたら非常におかしなことであり「水伝」の道徳的主張と対立するし、後者なら美醜は単に人間の感覚に過ぎないんだよ、ということを水が「美しい」結晶によって教えているということになり、完全な矛盾です。
これを風景のようなものにまで適用しようとしたらどうなっちゃうんでしょう。
また、美しい結晶や汚い結晶それ自身を水に見せたらいかなることになるのか?
こういう思考実験だけでも「水伝」の主張は矛盾の塊でしかないことが分かりますね。
投稿 ファンクマスター | 2007年6月 9日 (土) 10時45分
上のコメントに追記すると、私が読んだ「水伝」の本では触れてなかったようですが、実際に風景写真を見ずに見せると、美しい風景ではきれいな結晶ができる「実験結果」もすでにあるようですね。「美しい風景」の定義っていったいなんでしょうね。
投稿 ファンクマスター | 2007年6月10日 (日) 01時20分
ファンクマスター 様
コメントありがとうございます。
生物の美醜にしろ、風景の美醜にしろ、結局は「美醜とは人間の主観に過ぎない」ということですね。
2000年以上も前の道家思想の書物『荘子』は、善悪や美醜などの二項対立する価値も、人間の世界を超えたもっと大きな立場に立てばみんな同じになってしまうという「万物斉同」の思想を説いています。
また16世紀イギリスのトマス・モア『ユートピア』でも、作者が理想とする架空の国ユートピアでは、生活の役に立つ鉄が最も美しい金属で、軟らかくて道具に使えない金は値打ちのないものとされていたため、よその国の使節が来た際に、金銀で盛大に身を飾っていた大臣を奴隷と間違えて冷遇し、最もみすぼらしい従者を丁重にもてなしたという話が出てきます。
それに日本人が美しいと思う虫の音も、欧米人には雑音にしか聞えないこともよく知られていることですね。1960年代アメリカでの黒人公民権運動の際に叫ばれた"Black is beautiful." というスローガンに思いを致せば、「白人は美しい、有色人種は醜い」という美意識にとらわれてしまうことがいかに危険かを思い知らされます。
つまるところ「水伝」からうかがえるのは、発案者や実験者の美意識の貧困さということになるでしょう。「ステレオタイプな、あまりにステレオタイプな」美醜を「お水さん」の助けで再確認したところで、芸術や文化の進歩には少しも寄与することはないでしょう。
投稿 朴斎 | 2007年6月11日 (月) 00時55分
単純に、水伝はオカルトだろ。あほ過ぎる…
投稿 つーかさ | 2007年12月23日 (日) 02時43分
つーかさ 様
お気持ちはわかりますが、一言「あほすぎる」と切り捨ててしまうだけでは、「水伝」信者からは
「印象だけで判断するな」
「そうやって目に見えないものを信じないのは、大切なものを見過ごしてしまう不幸な生き方だ」
などと言われておしまいです。
「水伝」はどうしてオカルトなのか、「単純にオカルト」だとしたら、それをどうして多くの人々が信じ込んでしまうのか、特に教育関係者が道徳の授業に使うような事態になってしまったのはどうしてなのか、それがどのような弊害をもたらすと予想されるのか、等々といったことをきっちり考えなければ、事態の改善に役立つ建設的な成果は出てこないでしょう。
ただ感想を吐くだけではなく、「それはなぜなのか」を考えることこそが、学問の第一歩ですし、大学での教育もそういう思考法を鍛えるためにあると言っても過言ではありません。
投稿 朴斎 | 2007年12月23日 (日) 12時19分