シルクの衣料分野への利用は非常に長い歴史があり、また、本シリーズでも紹介されているように、近年、衣料分野以外へのシルク利用も盛んに行われています。東レ株式会社は、これらシルク生産のために長い時間をかけて改良された蚕をシルク生産以外の目的で利用しています。それは、動物用医薬品の生産への利用です。
高齢化社会や福祉の充実から、ペットの重要性が増し、ペットセラピーの期待や介護犬の役割も日増しに高まって来ています。動物用医薬品の社会的ニーズと重要性の高まりの中、東レ(株)は、動物用医薬品を開発し医療現場に提供して来ました。
本稿では、この動物用医薬品、インターフェロン生産への蚕の利用について紹介します。
インターフェロンは、哺乳動物などがウイルス感染を受けたときなどに体中で作られるタンパク質の一種です。1954年に長野博士と小島博士によってウイルス増殖抑制因子として発見され、1957年にIsaacs博士らによって「インターフェロン」と命名されました。インターフェロンは、a型、b型、g型、w型など数種類のタイプに分類され、その主な作用として、抗ウイルス作用、免疫調節作用、抗腫瘍作用などが知られています。現在、インターフェロンは、種々な方法で生産され、ガン、白血病、B型肝炎、C型肝炎等々、様々な疾病の治療薬として使用されています。東レ(株)は、いち早く、ヒトインターフェロンを医薬品として開発し臨床現場に提供しました。
ネコにはカリシウィルス感染症、ネコ免疫不完全ウイルス感染症、ネコ白血病ウィルス感染症など、多くのウイルス感染症が知られています。また、ネコは家の内外を自由に出入りし、他のネコとの接触が多いため、ウイルス病に罹患しやすい動物です。しかし、ネコのウイルス病ではワクチンの開発されていないものもあり、治療薬の開発が求められていました。
そこで東レ(株)は、インターフェロンの持つ抗ウイルス作用に着目し、また、ヒトインターフェロンを開発する中で得た知見や技術を活かして、ネコインターフェロンをウイルス感染症の治療薬として開発しました。
ネコインターフェロンの生産法として、蚕幼虫と遺伝子組換えした核多角体病ウイルスを利用した方法を採用しました。
昆虫に感染する核多角体病ウイルスは、自らの安定性を確保するために、ポリヘドリンというタンパク質を多量に生産し多角体を形成します。このポリヘドリンタンパク質の生産量の高さに注目し、遺伝子組換え核多角体病ウイルスを利用したタンパク質の生産方法が、1980年代にSummers博士らや前田博士らによって開発されました。また、前田博士らは培養細胞だけでなく蚕幼虫を利用したタンパク質生産方法をも開発しました。これらの研究成果をネコインターフェロンに適用したところ、図1に示したように、大腸菌、酵母、サルの培養細胞(COS細胞)、ハムスターの培養細胞(CHO細胞)などの遺伝子操作の生産法に比較して、蚕幼虫は圧倒的に高い生産性を示しました。蚕幼虫を利用する生産法を選んだ理由は、他の一般的な遺伝子操作を用いた生産法よりも生産性が優れていたからです。ネコインターフェロンの生産原理を図2に示します。
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図1 生産法によるネコインターフェロンの生産性の比較 |
養蚕の歴史は2,000年とも4,000年とも言われ、この長期の間に、蚕幼虫は動物用医薬品の生産に適した以下の特性を持つようになりました。これらの特性を活用して、安全に、効率よく、動物用医薬品を工業生産することができます。
第1の特性は、蚕は一年中、安定して飼育できることです。長い養蚕の歴史の中で、蚕は飛翔できなくなり、また自然界で生育できなくなりました。この特性は、自然環境への影響がなく、数量管理が容易という工業化のための基本条件を満足します。さらに、蚕種保護技術が確立されたこと、品質が一定した人工飼料が供給されたことにより、周年飼育が可能となりました。
第2の特性は、蚕は生育が早いことです。1個約0.6mgの卵は、孵化後約3週間で、1頭約6gの幼虫、つまり、10,000倍に体重増加をします。この蚕の成育の早さ、並びに遺伝子組換えウイルスの増殖の早さによって、短期間で効率良くタンパク質を生産することができます。
第3の特性は、蚕の品質が一定していることです。動物用医薬品は獣医師や対象動物への安全性が保証されていること、また、生産物の恒常性が証明されていることが必須です。そのためには蚕の品質が一定していることが重要です。安全性の保証は蚕自体や蚕に感染する病原体に関する基礎研究によって、恒常性の保証は蚕種維持技術によって裏付けられています。
昆虫への遺伝子操作技術の応用は、産業利用の前例がありませんでしたので、研究の初期から農林水産省の指導を得ながら進めました。具体的には、技術事項については旧蚕糸・昆虫農業技術研究所、規制関連については本庁の指導です。
蚕幼虫と遺伝子組換え核多角体病ウイルスを利用した方法では、蚕体内で生産されたネコインターフェロンは体液中に蓄積します。そのため、この生産法では、体液中から目的タンパク質を取り出すために、実用化のための3つの主要課題がありました。(1)体液中に多量に存在する遺伝子組換えウイルスの不活化技術の確立、(2)血球細胞や種々の高濃度のタンパク質が存在する体液からのネコインターフェロンの精製技術の確立、(3)大量蚕の処理技術の確立です。
(1)と(2)については、ネコインターフェロンが酸性で安定であることに着目して、塩酸を使って蚕体液からネコインターフェロンを抽出しながら、遺伝子組換えウイルスを不活化する方法を開発することにより解決しました。
大量蚕の処理では、遺伝子組換えウイルス液の蚕への接種、遺伝子組換えウイルスに罹患した蚕の飼育、蚕の切開などの新規技術をGMP(優良医薬品製造規範)に合致した方法として確立しました。
図3にネコインターフェロン製剤の製造法フローを示しました。概要は以下のとおりです。5齢幼虫に遺伝子組換えウイルスを接種し4〜5日飼育後、蚕を切開して体液を塩酸中に抽出して遺伝子組換えウイルスを不活化し、中和・遠心分離・無菌濾過後、カラムクロマトグラフィーで精製して原薬を製造します。原薬に安定剤と賦形剤を添加し、分注・凍結乾燥して製剤化します。
ネコインターフェロン製剤は、1993年に農林水産省からネコカリシウィルス感染症(ウイルス性の風邪)の治療薬として承認を取得し、翌1994年に“インターキャット”の名で商品化しました。昆虫への遺伝子操作の産業利用、これは世界初です。
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図3 ネコインターフェロン製剤の製造法フロー |
ネコインターフェロンは10年以上臨床現場で使用されています。この使用実績は、ネコインターフェロンの有効性と安全性が実証されただけでなく、蚕幼虫を利用したタンパク質の生産法の安全性と恒常性が実証されたものと考えています。この安全性と恒常性の実証から、蚕幼虫を利用する有用タンパク質の生産法は、動物用に止まらず人用の医薬品の生産にも応用できる可能性があると期待しています。
日本の養蚕技術は世界一であり、その技術を利用した有用タンパク質の生産技術の開発は、日本が世界をリードできる有望分野であると考えています。