他者軽視に基つく仮想的有能感が生じる背景には「希薄化する人間関係」が存在する。簡単に言えば、人は親しい人間関係を喪失し、孤立すればするほど、外面的には傍若無人な他者軽視的行動をとるようになる。つまり、現代の希薄化した人間関係においては、周りが支えてくれる、という人間関係を欠くことになり、他者をむしろ脅威と看做すために、背伸びをして弱い自分を守ろうとするのである。
--- 「他人を見下す若者たち」 (速水敏彦著 より引用)
なるほど、ネットでのあの匿名での激しい罵詈雑言も、同じくネトウヨの「特定アジア」の攻撃も、なんだか同じ根っこのもの、というのがよくわかる。
必要以上に中国や韓国を悪し様に言う、というのは、その国の人と親しくつきあったことがないからだし、「2ちゃんねる」が、誰かから「ゴミため」というように言われるほどの罵詈雑言で埋まるのも、なんだか同じことが背景になるように思えてきた。
この本は、現代の若い人間の置かれた環境と、その環境の中で人間がどのように育っていくか?ということが書かれた本だ。結果として、その先鋭なところが見えやすい場である「ネット」に、それが顕著に「見える」というだけのことなんだな。。。
つまり、マスコミで多く言われる「ネットの特性」などというものではなく、ネットがあろうがなかろうが、現代という時代はそういう時代なのだ、ということだ。もちろん、その「現代」という環境に、ネットそのものも含まれるわけだが。
そして、この人間関係の希薄さの中で、自分を認めてくれる人が身近にいないから、みな自分に自信がもてない。だから、「自分が他人にどう思われているか?」ということだけがとても気になる。じぶんだけ他人と「変わっている」ことを極端に恐れる。だから、自分ができないことを他人が始めることも、なんだか置いてきぼりにされるようで、怖い。そういう「変わったやつ」には、「空気が読めない」といって、自分の視野の中からそいつが出て行かないように、強制したい。。。
人と変わっていることは、特徴がある、ということ。個性がある、ということ。
それで生きていくのは、ちょっとつらいかも知れないけど、でも、それは自分の可能性に賭けることかも知れない。
個性とか多様性が多く言われる時代なのに、今の日本人は個性も多様性も、それを本当に身につけることを極端に怖がる。
この国が衰退していくわけが、ちょっとだけ、わかったような気がする。
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