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比女性の遺品、帰れず 震災13年 遺族どこに

2008年01月07日00時30分

 95年1月の阪神大震災で亡くなったフィリピン人女性の遺品が、在大阪・神戸フィリピン総領事館(大阪市中央区)にいまも保管されている。がれきの下から見つかったかばんにあった定期券、ポケットベル、お守り、香水の小瓶……。総領事館が母国の遺族を捜したが、消息が分からないままだ。セネン・マンガリレ領事は「引き取り手が現れない限り、彼女の悲しい人生の最終章はない」と声を落とす。17日で震災から13年になる。

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シャネルの香水、「恋の神さま」のお守り、ポケットベル、フィリピンの旧紙幣などと一緒に、笑顔のラチカさんの写真がバッグに残されていた

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マリアユニース・ラチカさん

 ルイ・ヴィトンのバッグのひもを解くと所持品が出てきた。

 現金3万5140円、ポケットベル、私鉄の定期券、シャネルの5番の小瓶、縁結びで知られる地主(じしゅ)神社(京都市東山区)のお守り、未開封の森永エールチョコレート、指輪やイヤリング……。いっしょにあったフィリピンの5ペソ紙幣を指さし、マンガリレ領事はつぶやいた。「あれから新札ができた。もう流通していません」

 バッグに残っていた外国人登録証明書の名前は、マリアユニース・ラチカさん(当時33)。証明書によると、首都マニラの南900キロ、ミンダナオ島沖にある小島の街ラミタンの出身で、85年に来日。職業欄には、すでに廃校となった神戸市のビジネス専門学校の秘書と記されていた。

 兵庫県で暮らすフィリピン人の交流グループの元代表、ローランド・メンディオラさん(66)=神戸市中央区=は、生前の彼女を知る一人だ。ラチカさんは「ピンキー」と呼ばれていたという。

 あの日、ピンキーは須磨海浜公園(神戸市須磨区)近くに住む日本人の恋人宅にいた。木造アパートは全壊し、翌日、恋人とともにがれきの下から見つかり、その傍らにルイ・ヴィトンのバッグがあった。

 近くの区民センターで遺体に対面したメンディオラさんは、唇の右上のほくろで本人と確認した。「古い瓦に押しつぶされて無残だった。でも顔は生きているかのように美しいままだった」と振り返る。

 来日後、神戸・北野坂のクラブで働いていたピンキーは、日本人男性と結婚した。女の子をもうけたが、震災の2年ほど前に離婚。幼い娘を知人の日本人女性に預け、ホステスをしながら生活費を稼いでいた。

 そのころ出会ったのがともに死んだ恋人だった。大手コンピューター会社に勤めるその男性の紹介で企業や専門学校で英語を教え始めていた。

 阪急・春日野道駅(神戸市中央区)近くの彼女の自宅アパートは無事だった。メンディオラさんは嘆く。「あの晩、恋人に会いに行かなければ……。遺体に付けられた番号が彼と連番だったのがせめてもの救いだろうか」

 ピンキーの遺体は本国に移され、ミンダナオ島に埋葬されたと、友人たちは聞いている。しかし、03年ごろ、総領事館が本国の外務省を通じ、ミンダナオ島の彼女の遺族を捜したが、まったく連絡がつかなかった。友人たちは、震災当時6〜7歳だった一人娘の消息をつかもうと、世話をしていた日本人女性の行方を捜したが、こちらも分からないままだ。

 マンガリレ領事は訴える。「このバッグを何とか、彼女を愛する人に届けたい」

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