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第15錠『まだきみを見ている』


 近頃、夜をなにかの怪物のようだと思うようになった。
怪物の胃の中で肌を寄せ合う僕と茜は、さしずめ夜に怯える子供といったところだろう。
独りでは心許なくて、僕は茜を下敷きにする。明かりの落ちた部屋の中では、彼女の感触だけ
が、自分が独りではないことを確認するための手がかりだ。僕の頭は、手足は、舌は、自分の
意思とは無関係に、ほぼ自動的に動いた。
 かつて五十嵐に薦められて読んだ本の中に、こんな一文があった。
二十歳の男は、観念で発情する。四十歳の男は、皮膚の表面で発情する―――
まったくその通りだ。
僕は強迫観念とでも言うべき観念に捉われて、機械みたいに動く。なぜだか、僕が指先に力を
込めた時に聴こえる茜の呻き声さえも、機械みたいに聴こえた。
毎日こうしていないと、なにか大切なものをどこかに落としてしまう…僕は常に、そんな強迫
観念にとらわれていた。
 茜は息も絶え絶えになりながら、指を噛んで苦痛に顔を歪めている。僕がまだ彼女を鶴田さ
んと呼んでいた頃、僕は彼女がこんな表情を持っているなんて、思いもしなかった。普段、外
では決して誰にも見せない表情だ。彼女のそんな顔を見ていると、なぜだかとても心が落ち着
いた。
 ことが済んでしばらくすると、やがて茜はすやすやと寝息を立て始めた。さっきまでとは打
って変わって、赤ん坊のように不純を感じさせない表情で、くしゃくしゃになって取り替えた
シーツの上に横になっている。彼女は狭いベッドに、僕が寝転がるスペースを残してくれてい
た。
 だけど僕はなかなか寝つけずに、いつまでもベランダで携帯灰皿を片手に煙草をふかしてい
た。茜が住む学生用のアパートのベランダからは、同じような造りのアパートがいくつも見渡
せた。もう深夜二時だというのに、船に港の位置を知らせる灯台の灯りのような光が、あちこ
ちの窓から漏れている。眼下には、コンビニのビニール袋を持ってこのアパートに近づいてく
る人影もあった。夜を夜とも思わずに生活している人間が、この学生街には無数に存在する。
 物意地悪くフィルターの手前まで吸った煙草を灰皿の上ですり潰すと、続けざまに次の一本
に火をつけた。高校を出てすぐ水野に押し付けがましく薦められた喫煙も、慣れるとすぐに習
慣化した。パッケージの警告文など、まともに目を通したこともない。
 眠れない夜は、いつもこうしていた。
煙を吐き出すと、身体の健康といっしょに精神の健康までも吐き出しているような間隔に陥っ
た。だけど今の僕には、肩に力を入れずにこうして怠惰を謳歌しているほうが性に合うのだ。
 そろそろ寝ないと、明日の一限の授業に間に合わない。起きたら一度原付で自宅に戻り、鞄
の中身をバイトの用意から筆記用具に詰め替えなくては。それらの時間を考慮に入れると、そ
ろそろ部屋に戻ってベッドに横になるのが肝要だった。
 そうは思っても、なかなか決心がつかなかった。
僕は本当は、頭が冴えて眠れないんじゃない。ただ、茜と二人で寝ることが後ろめたいだけ
だ。彼女は僕の下敷きになっている時、普段外では見せないような表情を僕に見せる。
―――僕は、未だ彼女にそんな表情を見せたことがない。


「お前最近、遅刻が板についてきたんじゃねぇの?」
 翌日、少し遅れて教室に入ると、水野に挨拶代わりにそんなことを言われた。僕が入室する
頃にはすでに教室には空席がほとんどなく、チケット完売のコンサート会場のように、後方で
立ち見する者の姿も少なくなかった。水野に椅子を確保しておいてもらわなければ、僕も彼ら
と同じように九十分間立ちっ放しの憂き目にあっていたことだろう。
「まだ一回生の六月だぜ?気が緩むには早いだろ」
「少し遅めの五月病なんだよ」
肩に提げていたメッセンジャーバッグを机の上に降ろして、水野の隣に腰掛けた。外はまだ小
春日和と言ってもいいほどの心地良い陽気が続いてるのに、満員の教室は蒸した卵のように暑
かった。
 僕が大学に入学して、もうすぐ二ヶ月になる。一般入試でどうにか志望校に合格したのは、
自分の時間を犠牲にして僕の受験勉強に付き合ってくれた茜のお陰だろう。
 同じ大学の同じ経済学科に水野が入学したことは、流されやすく自主性のない僕にとっては
幸いだった。僕は彼の中学時代の先輩がこの大学で立ち上げたというテニスサークルに彼に連
れられて入部し、講義の履修も可能な限り彼と同じものを選んだ。
「別にあの先輩に義理があったわけじゃないんだけどさ、一応懇意にしとけば、単位取りやす
い授業とか教えてもらえると思ってよ」
 水野はサークルに入部した理由についてそう吹聴しているが、サークルでの彼ははつらつと
していて楽しそうだった。気がつけば彼はサークル内の一回生の中心的位置にいて、飲み会で
もしきりに笑いを取っていた。
 水野がこんな社交的な性格だったなんて、高校時代は知らなかった。あの頃は、僕たちの輪
の中心は小林と繁原だった。彼らがいなくなった途端、今までは気づかなかった水野のいろん
なところが見えるようになった気がする。髪が地毛の黒から明るい茶色のベリーショートにな
ったせいか、以前とはずいぶん変わった印象も受ける。小林あたりが見れば、大学デビューだ
なんだと笑いそうだが。
 その小林と繁原も、今ではどこでなにをしているものか分からない。高校の頃は毎日顔を合
わせていたはずなのに、そんな当たり前ももうなくなってしまった。しかし、僕たちは元から
頻繁に連絡を取るような関係ではなかったのだ。こうなるのは当然の成り行きなのかもしれな
い。僕らの関係は毎日連絡を取っていたから続いていたわけではない。ただ単に、なにもしな
くても毎日顔を合わせることができたから続いていただけなのだ。大学という同じ箱庭がなけ
れば、きっと水野とも疎遠になっていただろう。
 そんな僕の思いを知ってか知らずか、水野は授業そっちのけで携帯電話を操作する指先を注
視していた。こういうところは、高校時代と変わっていない。
「誰かとメールでもしてるの?」
「愛沢さん。むこうも授業がつまんなくて暇してるんだってさ」
愛沢さんといえば、僕や水野と同じサークルに所属する文学部の一回生だ。どんな場所にいて
も注目の的になりそうな彼女が、近頃積極的に水野との距離を縮めている。
 水野はサークルに入ったことで、着実に充実したキャンパス・ライフの下地を作っている。
同じサークルにいても、僕と彼とでは差は歴然だ。大学という場所では、能動的に動ける者と
そうでない者の違いが色濃く浮かび上がる。
―――僕は水野のようには、うまく周りに馴染めない。

 六月の半ばに、それを象徴するような出来事が起きた。
僕はその日、正午過ぎに大学に登校した。その日は眠れない夜が何日か続いた翌日で、すずめ
が鳴いてもゴミ収集車が近くを通っても、そのような世界が回り始める音など聞えずに、昼前
まで死んだように眠っていたのだ。目が覚めた頃には、とっくに一限と二限の授業は終わって
いた。一限と二限の授業はどちらも出席頻度が重視の授業だったが、もうどうでもよかった。
 学内の生協で朝昼兼用の弁当を調達すると、それを包んだビニール袋を片手に開放教室を目
指した。平時、学内の講堂は講義の有無に関係なく飲食禁止になっているが、数ある教室のう
ちのいくつかは、昼休みには生徒が自由に出入りできる開放教室になっている。僕や水野が所
属するサークルの一回生にとっては、その開放教室のうちの一つが、お決まりの溜まり場にな
っていた。開放教室は学食ほど混雑しておらず、授業と授業の合間に仲の良い者同士で寄り集
まるには持ってこいの場所だったのだ。
 校舎の吹き抜けから差し込む日差しを避けるようにして開放教室に近づくと、開け放したド
アから水野たちの笑い声が漏れ聞えた。毎日会話の内容はほとんど変わらないはずなのに、な
にがおかしくてこんなに笑っていられるのだろう。近頃の僕には、相槌を打って笑う余裕すら
ない。どうやら、生活が怠惰になると、それに呼応して感情も麻痺していくものらしい。
 それでも、まだ僕の感情は生きている。感情が死んでしまえば、人は植物と変わらない。た
だ、そうなっていたほうがまだマシだ、と思うことも稀にある。
 開放教室の前で足を止めて、外に漏れてくる会話に耳を澄ませている時も、そう思った。

「中原ってさ、なんか俺らと違うよな」
「こっちがギャグ言っても乗ってこないっていうか、乗ってるのか乗ってないのか反応が分か
りにくいんだよ」
「あるあるw飲み会の時とか、ひたすら淡々と飲んでるもんな。けど別に無愛想ってわけでも
ないし、なに考えてんのか分からないんだよね。ぶっちゃけ絡みにくいかも」
「俺も思ったwwwなんか一人だけノリが違うよね」

 僕がいない空間で、サークルの仲間たちが僕のことを知っているような知らないような口振
りで話している。その中には水野の声も混じっていた。
 憤りやいたたまれなさよりも、その輪の中に頭を突っ込んでいいものかどうかという躊躇が
先に来た。僕がなにも聞かなかったような顔をして教室に顔を出せば、彼らはたちどころに話
題を変えて、なにも言わなかったような顔をして僕に接するのだろう。
―――うんざりする。
上辺だけの人間関係。キャンパスには様々な人間関係が溢れているが、そのどれもが幸福では
なく利潤を追求するもののように思える。学生生活を円滑に進めるためにサークルに入り、先
輩におべっかを使う水野のように。それが悪いことだとは思わないが、僕はそんな人間関係の
価値を、計りあぐねていた。
「中原くん…?どうしたの、こんなところで足を止めて」
 背中から不意に聴こえた声に振り返ると、そこには僕より少し背の低い、地味な黒髪の女性
が立っていた。
 彼女は僕と同じサークルの一回生で、小日向葵(こひなた あおい)という。髪質も肌も荒
れていて、銀縁のメガネだけが特徴的な、さして目立たない女生徒だ。あまり社交的でないそ
の性格も相まって、一部の男子からは「霊」とか「リアル貞子」といった屈辱的なあだ名をつ
けられていた。
「いや、少し考え事をしていて。小日向さんは?」
「…今から三限の教室に行くところ」
「開放教室には寄ってかないの?」
「私がいないほうが、みんな楽しそうじゃない」
確かに彼女はあまりサークルに溶け込めていないようだったが、このような彼女の卑屈な性格
も一因としてあるのではないか、と思った。もっとも、彼女には自分を良く見せたい、みんな
に好かれたい、なんて意識は露ほどもなさそうだが。
「…それじゃ、私は行くから」
 別に急ぎの用事があるわけでもないだろうに、小日向さんは足早にこの場を去ろうとする。
彼女にとっては、上辺だけの人間関係は煩わしいだけなのだろう。僕の脇をすり抜けて行く黒
髪を目で追って、僕はなんとなく五十嵐を思い出した。容姿は似ても似つかないが、彼女の乾
いた態度には、どこか五十嵐を想起させるものがあった。
「小日向さん」
呼び止めると、彼女は銀縁の中でどんぐりみたいに目を丸くして僕の顔を見た。
「昼ご飯まだなんでしょ。いっしょに食べようよ」
 小日向さんは珍しい物を見る目で僕を見ていたが、それすら気にならなかった。昼食をとも
にするなら、霊や貞子のほうが、仮初の友人より遥かにマシだと思ったからだ。


 友里ちゃんが挙式したのは、六月の暮れのことだ。
僕はその日に合わせて顔の輪郭を縁取るように点々と並んだ無精髭を剃り、理髪店で伸びてい
た髪を揃えた。大学の入学式以来、およそ三ヶ月ぶりにスーツに袖を通した。
 式場には五十を越える参列者が列席していたが、そのほとんどは新郎新婦の大学の友人だ。
彼らはみんな、僕とは違った形で友里ちゃんと出会い、僕とは違った形で友里ちゃんと時間を
共有してきた人たちだ。僕は両親とともに式に参列していたが、友里ちゃんの大学の友人に囲
まれていると、なんだか自分が鳩の群れに紛れたカナリアのように感じられた。
 式はつつがなく進行し、僕を含む参列者は列を成して披露宴の会場へと移動した。結婚を唄
った流行歌とともに新郎新婦が入場し、温かい拍手で迎えられる。ケーキの入刀や、友里ちゃ
んの所属するゼミの生徒たちによるビデオレター、新郎の高校時代の友人による一発芸など、
まるで幼稚園の学芸会のように様々な演目が展開されていった。シャンパンを片手に新郎新婦
を茶化す二人の友人はみな、和気藹々としていて楽しそうだった。中には泣いている者もい
た。
「まだまだ若くて未熟な二人ですが、これからは手を取り合い、二人で困難を乗り越えて行こ
うと思います」
 新郎が今日一番の真剣な表情でそう言った時、隣にいたドレス姿の友里ちゃんも泣いてい
た。僕は小学生の頃から友里ちゃんを知っていたはずなのに、彼女の泣いている顔を見るのは
初めてだった。
 僕も周囲に合わせて新郎新婦に拍手を送ったが、手が鳴る音は、僕の胸のどこか遠くのほう
で、微かにしか聴こえなかった。口元に運ぶワインも、砂を舐めるような味だった。
―――僕は、どういう経緯で、今ここにいるのだろう。
 友里ちゃんが彼女の友人たちと共有した時間を、僕は知らない。友里ちゃんが新郎の前で見
せた涙を、僕は知らない。僕は小湊友里という人のことをなにも知らない。知っているのは、
僕の目に映っていた部分ばかりだ。
 今ここで涙を拭いている友里ちゃんも、僕が知っている友里ちゃんも、同様に美しい。だけ
ど僕はせいぜい、美しい花の花弁を一枚摘み取って、それを綺麗だ綺麗だと言ってはしゃいで
いただけに過ぎない。長年の記憶の蓄積で、僕の中で勝手に育った友里ちゃんの人物像。それ
は結局のところ氷山の一角で、僕は彼女の本当に美しい部分を、なにも知らなかった。
 そう思うと気分が沈んだ。司会者に手渡されたマイクに乗せる祝福の言葉も、どこか実感が
伴っていなかった。やはり、自分が今この場にいることが、不思議で仕方なかった。
「煙草は要ちゃんには似合わないね」
 披露宴が終わり、会場のエントランスから少し離れたところで煙草を吸いながらタクシーを
待っていると、友里ちゃんがひょっこりと僕の前に顔を出した。彼女は僕が根元まで吸おうと
していた煙草を横取りすると、それを灰皿の上ですり潰した。
「チューペット咥えてるほうが似合ってるよ」
「…よくいっしょに食べたっけ。懐かしいな。子供の頃を引き合いに出されると弱いよ」
「ところでどう?これ。似合ってる?」
 ドレスの裾を持ち上げてわざとらしくポーズを取る友里ちゃんは、紛れもなく僕が知ってい
る小湊友里だった。僕が小学生の頃の話題も、友里ちゃんが見せる茶目っ気も、どちらも僕た
ちが確かに時間を共有してきた証拠だ。ただ、その時間は、友里ちゃんという人間を構成す
る、ほんの一要素にしか過ぎない。今の僕には、なぜだかそれが辛かった。
「凄く似合ってるよ」
「本当?ありがとう。でも惚れちゃダメだよ。私もう人妻だから」
「残念だよ」
僕がそう言うと、友里ちゃんは照れ臭そうに微笑した。ドレスを着ている友里ちゃんは本当に
綺麗だった。…直視できないほどに。
「…ねぇ、要ちゃんに一つだけ質問していい?」
「どうしたの?」
友里ちゃんは周囲に人がいないのを確かめるように方々に視線を向けた後、少し言いにくそう
に、声を小さくして言った。
「…要ちゃんって昔、私のこと好きだったよね」
 心の裏側を覗かれたような感じがした。いや、友里ちゃんの口振りからすると、おそらくず
っと昔から、彼女には見えていたのだろう。友里ちゃんに憧れていた当時、僕はまだ恋愛とい
う言葉の意味など知らない子供だ。あの時の僕の心に、裏も表もなかった。見透かされていて
当然だったのだ。
「…バレてたんだ」
「バレバレだったよw私の家に来ると、要ちゃんいつも、身体ガチガチだったもんね」
子供の頃の失敗談を暴露されているようで少々気恥ずかしくもあったが、互いにもうあの頃の
自分ではないという意識が、僕の気を楽にしてくれた。あの頃は大切なことはなに一つ口にで
きなかったが、今なら笑って話せるような気がした。
「今でもたまに、ガチガチになるよ。初恋だった」
僕がそう言うと、友里ちゃんは「照れるよ」と言ってはにかんだ。
 程なくして、新郎が僕たちの元にやってきて、タクシーが到着した旨を僕に伝えてくれた。
肩を寄せて並ぶと、友里ちゃんと新郎はもう何年も連れ添ってきた熟年のカップルのように見
えた。
「今日は忙しい中わざわざ出席して下さって、ありがとうございました。中原くんは学生さん
ですよね。大学は楽そうに見えて色々と大変なことばかりだと思いますが、頑張って下さい」
新郎は年下の僕にも敬語で接した。嫌味のない、誠実そうな男性だ。
「しばらくは慌しくて会いに行けないけど、時間が空いたらまた要ちゃんの家にも遊びに行く
ね。この人といっしょに」
 そう言って新郎と腕を組んだ友里ちゃんの表情は、人生に辛いことや苦しいことなんてなに
一つないかのように、幸せに満ちていた。
少しだけ、二人を羨ましく思った。
「それじゃ、僕はこの辺で」
二人に軽く頭を下げて、僕はその場を後にした。
 帰りのタクシーの中で、僕はこれまで感じたこともないような寂寥感に抱かれていた。後部
座席では、両親が「いい式だった」とかなんとか、楽しそうに会話をしている。僕は会話に混
じることもなく、窓の外の景色をぼうっと眺めていた。
 家に着くと、式場でもらった紙袋を居間に置いて、僕は自室に篭った。そこでしばらく泣い
た。
 泣きながら五十嵐のことを考えていた。彼女は誰も自分を理解してくれないと言った。彼女
のそんな苦悩につけ込んで、僕は彼女の葛藤を知ったように振る舞っていた。
 今になってようやく分かる。
生きるということは、全身を無数の人間関係で満たすということだ。だけど、極めて近しい人
間を例に挙げたところで、一から百まですべてを共有し、理解し合えるような人間関係を、僕
は持っていない。五十嵐が欲していたのは、なんの負い目もなく自分のすべてを委ねられるよ
うな人間関係だ。心の理解者とは、そういうことだ。
 僕にも、それがない。
友人と思っていた人たちも、長い年月をかけて交際してきた幼馴染も、僕と通じ合うのはせい
ぜいその一部分だけだ。
 無人島に一人取り残されたような気分になる。
この世界には僕しか残されていない―――そんな錯覚を覚えて、僕は泣いた。


 寂しくなると、僕は茜に電話をする。
彼女はいつでも僕を招き入れてくれる。彼女が暮らすアパートには、いつだって二人で夜を越
すだけの備えがあって、僕にとって第二の我が家のようなものになっていた。
かといって家賃を納める必要などなく、茜が僕に要求するのは身体一つあれば事足りる無償の
関係だけだ。寂しくなると甘えが顔を出し、僕はそんなぬるま湯に溺れた。
 今日も僕は自動的に動く。観念に駆り立てられて肌に汗を滲ませる。
そうやっていると、いつも途中から頭がぼうっとしてくるのだ。なにも考えられない。なにも
考えたくない。なにも知れないのなら、なにも知りたくない。
 今、こうして僕の下敷きになっている茜の、歪んだ表情―――それすらたった一部分に過ぎ
ないこと。僕だけしか知らないが、それがすべてではないこと。
そんなこと、考えたくもない。
「ねぇ、ちょっと待って。ちょっと待ってよ」
 行為の最中、珍しく茜が僕の胸部を押して、それを中断するような態度を見せた。
思い出したように茜の顔を見ると、その表情は歪んでなどいなかった。むしろ冷静さを取り戻
したかのように、細めた眼に一抹の疑念を滲ませていた。
「どうしたの?なにか焦ってる?」
僕の隠し事を指摘するかのようなその問いに、僕はすぐには言葉が出てこなかった。
「…そんなことないよ」
でもすぐにそうやって自分をごまかして、再び行為に没頭した。すると茜もまた元の歪んだ表
情に戻って、ただひたすらに僕を受け入れるのだ。
そのまま行為を続けると、みるみるうちに喉が渇いていった。
余計なことは考えるな。雑念なんて、全部干からびてしまえばいい。

 そして僕は、また眠れなくなってベランダに出る。
疲れ果ててすやすやと寝息を立てる茜を起こしてしまわないように、そっと足音を忍ばせてド
アを閉める。
 眠れない日が続いている。脚の筋は張り、肩には誰かの手が乗っているかのような重みを感
じる。身体はずっと休息を要求しているのに、頭の中が常にシェイカーのように回転してい
て、意識が途絶えるのを拒み続けているのだ。
 煙草の煙とともに息を吐き出した時だけ、頭の回転は緩慢になって、落ち着くことができ
た。落ち着いた頭で、僕はずっと同じことを考えている。
 今夜も学生街には、灯台の灯りのような光が無数に点っている。ベランダの縁から身を乗り
出せば、やはりコンビニの手提げ袋を片手にアパートのエントランスへと入っていく学生の姿
が窺えた。僕の知らない人たちが、僕とは違う理由で夜を越していく。
 生暖かい風が頬を撫でた。髪が眼に入りそうになる。煙草の煙は、霧散して暗闇の中へと消
えていく。今日もまた、こうして無為に時間が過ぎていく。
 いつからだろう、こんなにやりきれない想いが常につきまとうようになったのは。
昔はなにも考えることなく、なにも悩むことなく、何事もなく能天気に生きていられたのに。
いつから僕は、わけもなく胸が痛むようになったのだろう。
 そんなことを考える度、いつも彼女のことを思い出していた。
もう彼女とのことは随分前に終わったはずなのに、それでもふとした弾みに、彼女のことを思
い出す。
 彼女は今、どこでなにをしているのだろう。寸分の狂いもなく自分を理解してくれるような
人は、見つかっただろうか。もしくは僕と同じように、誰かに抱かれながらもどこか寂しい思
いをしているのだろうか。
答えは見つかったかい、と彼女に訊きたい。僕には答えなんて、到底分からないよ。
 ベランダの縁にもたれかかったまま、喉の奥からとても小さな叫びが漏れた。

「五十嵐……」

会いたいよ。
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