日坂鐘乳穴神社 ひさかかなちあな じんじゃ 式内社 備中国英賀郡呰部郷 日坂鍾乳穴神社 2571
神紋:丸に三の字
祭紳:大己貴命 配 譽田別命,素盞嗚命,吉備津彦命,太玉命,倉稻魂命,保食神,大日靈命,櫛明玉命,豐玉彦命,瓊瓊杵命 
住所:新見市豊永赤馬6352 地図:by_マピオン              ホーム:web魁神社巡拝記
神紋 丸に三の文字

 

 

土砂降りのの中(2005/05/01)

御神体 HP 秘坂鐘乳穴



濃霧の中神社にはたどり着けたのですが、次の井戸鍾乳穴神社

に行くのに、30分掛からない距離のはずなのに、迷いに迷い

1.5時間ほど 要しまいた。 

人に訪ねたくても濃霧及び山中につきそれもままならず。

三尾寺、大洞穴はいずれまた。
紳門と神楽殿

大きさがわかりにくいですが、後ろの神楽殿は五間

周りの杉も大きく見えませんが、巨木と言うより

巨樹のレベル
割拝殿

前回訪れたときは濃霧の中で会ったため拝殿の記憶が薄いが

かえって整理していて気になってしかた無かった拝殿。


右側は改装されているが此を除き屋根も麦藁葺きに戻した

雄姿を見てみたい物だ。
割拝殿内部よりコンクリート製拝殿を望む
土砂降りの拝殿


本殿 左後ろより

本社は上古我地方民が鎮座地にある大洞穴を霊地として崇拝し奈良朝行基菩薩三尾寺(みをうじ)を草創せらるるや山門鎮守の神として天平勝宝二年大洞穴の頂上本宮と云ふ所に伊弉諾伊弉冉命を勧請し給ひしものなり


雨が激しいので日本有数の大きさと言われる大洞穴探索はパス。

鬼神宮より本殿背面

鬼神宮 本殿左後ろ

 

初めてこの社にきた濃霧の日 宮司がこの鬼神社の祠で

早朝から祝詞をあげられ太鼓の音が霧の中こだましていたのを

このたびの参拝で思い出しました。

鬼神宮右の祠
左端 神楽殿

中央 神門

右端 御神木の杉

しめ縄の掛かっていない大きな杉も

ごろごろ

岡山県巨樹リストに記載無い杉があるはあるは

大人3人で囲っても足りまい位(=1.7*3=5.1m以上)

有りそうです。
神楽殿 左右に分かれていました (割拝殿では?)

中央は参拝道みたいです

それともこれが神門の原型?

空間が余りに広いので 大きさが認知しにくいですが

相当大きな神楽殿です。(拝殿なら普通?)

神楽殿、絵馬殿と違いこれは
割拝殿なのだろうか

残念ながら保存状態が余り良くないです。
日桃竢燗穴ひめさかかなちあな

県下でも屈指の巨大な洞口と1600mの長さを誇る裂か型の吸い込み穴。
深さ100m近いドリーネの急坂を下りていくと、高さ15m・幅7mの巨大洞口がひんやりとした冷気を漂わせている。
従来奥行きは700mの神の沼までとされていたが、調査の結果1600mにも達する巨大なものであることが判明した。 最終地点は水深32mの地下の巨大な湖であった。
この湖の水は佐伏の住民の生活の源泉である「湧きあがり」に露出している。
鍾乳洞の歴史は古く、神の住むところとして崇がめられてきた。
この鍾乳を ご神体とした日桃竢燗穴神社は、「延喜式」にも記された古い神社で、記録によると洞内から石鍾乳(いしのちち)という薬石を産出したという。
新見市教育委員会
本殿左にある鳥居
日搭{とある

近くにレース場が有るのですか?

この雨のなか、ずーと轟音がしています。

この鳥居の左手下方が御神体の鍾乳洞
本殿左後方の鳥居を出てすぐ谷底にむかう

つづら折りの道を転げるように谷底に降りる。
谷底は鍾乳洞から始まっていると思い降りてみると

谷は鍾乳洞をめがけ下っていました。


手前が鍾乳洞側
草間台羅生門で見かけた空中に伸びる地衣類がここにも。
谷底の終点
日桃竢゚乳穴正面

この奥には地底湖がそんざいするそうだ。
梅雨時には谷に降る雨がこの鍾乳洞を目指して

流れ込むのだろうか


この鍾乳洞は歴史が古く奈良時代以前洞内から石の乳の

薬種を産出されたと言う。


左は石灰岩の絶壁 右側が日桃竢燗穴神社
社伝では行基が三尾寺を建立し、その鎮守の神として

天平勝宝2年(750)伊邪那岐、伊邪那美の二神を鍾乳洞の

頂上に勧進したのが始まりと云われている。

その後、鍾乳洞の頂上から現在地に遷された。

その時に大己貴命を合祀した。


此処の真下が日桃竢゚乳穴 従ってこの上が旧社地

旧社地と思われる近くに注連縄があったので近づいてみると

下の写真
鳥居: 明神鳥居
神門: 随神門
割り拝殿
梵鐘:
拝殿
透かし垣
本殿:入母屋造り(平入り)
神紋 丸に三の字
略記
本社は上古我地方民が鎮座地にある大洞穴を霊地として崇拝し奈良朝行基菩薩三尾寺(みをうじ)を草創せらるるや山門鎮守の神として天平勝宝
二年大洞穴の頂上本宮と云ふ所に伊弉諾伊弉冉命を勧請し給ひしものなり大同二年弘法大使三尾寺を中興し給ふや本社も隆昌を来し淳和天皇
天長の年社殿を築き奉る当時洞内に石鐘乳(いしのちち)と称する薬石を産し名高く清和天皇貞観元年曲薬頭(くすりのかみ)出雲朝臣峯嗣を備中
に遣し此の洞穴より石鐘乳(いしのちち)を採らしめ給へり醍醐天皇延喜五年に端し給ひし延喜式神名帳備中十八社の中に英賀郡(あがぐん)
呰部郷(あざべごう)比売坂鐘乳穴(ひめさかかねちのあな)神社として記載されたる由緒正しき神社にして所謂式内と称する崇厳なる神なり其後本宮
の東方平地に社殿を築き日・宮(ひめみや)明神として遷座し奉り大巳貴命を祀爾来三尾寺が別当職として本社の祭典社人の管理をなし寛永四年前
殿を築き文化十二年四月本殿を再建立せらる之れ現存せる社殿なり。
明治照代の世となり神仏分離され明治五年村社に列し社掌を任命して神社を管理せしむるに至れり明治四十年五月神饌幣帛料供進社に指定せられ
同四十二年拝殿の改築社務所を新築して無格社を十社を合祀し社運益々隆盛に向へり爾来氏子一同由緒正しき式内社なれば県社に昇格し奉らん
と協同一致して資財を奉献して基本金の造成を図り昭和五年十月県社となる。