構想から四半世紀、ようやく「きぼう」の建設が始まる。打ち上げを控えた心境を、初期段階から計画にかかわっている宇宙航空研究開発機構(JAXA)理事の白木邦明さん(61)に聞いた。
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84年9月から国際宇宙ステーション計画にかかわってきた。当時、日本の宇宙開発では初の純国産ロケット「H2」の開発も始まろうとしていた。私は実はH2をやりたかったのだが、宇宙ステーションのチームに放り込まれた。
「これはとんでもない世界に来てしまった」と思った。それまで12年ほどロケットや人工衛星の開発を手がけたが、人間が乗る宇宙ステーションはまったく違う。熱の制御の厳しさは衛星の比ではないし、生命維持や生活のためのシステムを作った経験もない。結局、実験棟の構造やロボットアームなどの機械系は全部面倒をみることになった。
国際協力も初めてで苦労した。88~91年ごろは米国でも議会から予算面で注文が付き、NASA(米航空宇宙局)のステーション計画自体も書いては消しということが何度もあった。その都度、こちらも、きぼうの取り付け位置を確保したり、組み立て順序が遅くならないように交渉しなければならない。
ステーションはそもそも、米国の計画に日本や欧州、カナダなどが入ってきた。欧州は既に宇宙実験室をNASAと一緒にやっていたし、カナダもスペースシャトルのロボットアームを作った実績があるから、彼らは顔が売れていた。でも、日本は新参者。きぼうをちゃんと認知してもらうところから始めなければならなかった。
また、NASAの出してくる構造物の設計基準には、きぼうに関係ない部分もある。全部受けていたら、実際に造るときに大変なので取捨選択したが、相手が「なぜ適用しないのか」と机をたたいて怒ったこともあった。相手にしてみれば「やったこともないくせに」と思ったのだろう。
最初は質問ばかりしていたので「ミスター・クエスチョン」と呼ばれていた。やっと一人前に認めてもらったのは93年ごろ。米国の実験棟が縮小されたこともあり、きぼうへの期待は高まっている。
まずは、きぼうで実験をしたり、ステーションの補修をしたり、日本人の宇宙活動を増やすことが重要。ステーションは、月や火星に有人基地を作るという次のステップに向けた技術的な踏み台になる。そこに日本が主要国として携わってきた意義は大きい。
もともと、飛行機を造りたかったので、宇宙を仕事にすること自体が想定外。しかし、気が付いたら人生の3分の1以上、宇宙ステーションにかかわっていることになる。まだ気は抜けないが、やっと肩の荷が下ろせるな、というのが今の正直な感想です。【聞き手・西川拓】
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■人物略歴
◇しらき・くにあき
福岡県宗像市出身。69年、九州工業大を卒業し、国産旅客機YS-11を造っていた日本航空機製造に入社。72年、宇宙開発事業団(現JAXA)に移り、ロケットや衛星の開発に携わる。07年から現職。
毎日新聞 2008年1月6日 東京朝刊