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【レポート】

『剣客商売』から『水の都』まで - 江戸の面影を探しに出かけよう

2008/01/05

寺田祐子

東京都内でこのほど開かれた「江戸文化フォーラム〜江戸の『粋』と『華』〜」では、作家・ドイツ文学者の池内紀氏が「東京のなかの江戸を散策する」と題して基調講演を実施。落語や小説の中に残る江戸文化を紹介する内容で、本誌編集者も興味深く拝聴した。そこで今回は、池内氏の基調講演を参考に、東京の中に今もなお息づく「江戸の面影」を探しに町へと繰り出してみようと思う。

「江戸文化フォーラム〜江戸の『粋』と『華』〜」は、近畿日本ツーリストの文化事業部門の一つである「旅の文化研究所」(神崎宣武所長)が主催。祭りや市場、寄せ芸といった現在でも残っている江戸の面影を探しながら、江戸文化、ひいては日本文化の再発見につなげようというものだ。フォーラム開催時には、基調講演やシンポジウムのほか、落語家桂南喬による落語「七段目」が披露された。なかでも池内紀氏による基調講演「東京のなかの江戸を散策する」は非常に興味深いものであった。

池内氏は1940年兵庫県姫路市生まれ。作家兼ドイツ文学者である同氏は主要著書として『風刺の文学』『ウィーンの世紀末』『カフカ小説全集』など多数を執筆されている。基調講演では様々な書籍や落語の中に息づく江戸文化を多数紹介された。

たとえば池波正太郎氏の『剣客商売』から江戸時代の"残滓"を読み解いていく。主人公で、恨みを晴らす請負人である秋山小兵衛の隠宅があるのは、東京都墨田区にある鐘ヶ淵だ。小説の中には、鐘ヶ淵から小兵衛が妻のおはるの漕ぐ舟にのり、息子の大二郎がいる道場へと向かうシーンがある。なぜ鐘ヶ淵なのか。もっと中心部に近く、利便性の高い場所に住んだ方がいいのではないか。しかし、時代考証については定評のある池波氏のことだ。何か謎が隠されているに違いない……。そんなちょっとした疑問から、池内氏の話は広がっていく。

幸田露伴著の『水の東京』には「鐘が淵は紡績会社の地先にして、墨田綾瀬の二水相会いするところのやや下の方をいふ。往時普門院といふ寺の鐘この淵に沈みたればこの名ありとは江戸名所図会にも載せたる伝説ながら、けだし恐らくは信ずるに足らざるの談ならん。およそ鐘が淵の名づくるの深潭諸国に甚だ多し、皆必ずしも梵鐘の沈むの故を以ってのみ名づけんや。予の考をもてすれば鐘が淵は曲尺が淵にて川の形曲尺の如く曲折するによりて呼びたる名なりと判ず。こは諸所の同じ名を負へるところの地形を考へて悟るべく、なほまた明かに曲り金と称ふる地名の川沿の地に多く存するをも併せ考ふるべし」とある。

簡単に口語訳すると、鐘ヶ淵という名称は普門院という寺の鐘が沈んだという伝説から生まれたとあるが、恐らくはそうではないと露伴は説明する。川の形が曲尺のように曲がっているから「曲尺(かね)が淵」なのだ、と。

成仏できない人の恨みが集まる場所、鐘ヶ淵の現在の様子。一帯は公園として整備されており、おどろおどろしい雰囲気は微塵も感じられない

ちなみに、曲尺は直角に曲がった物差しで、木材などを計るのに使う。鐘ヶ淵も川が90度に折れ曲がっているので、その形から曲尺を想像したのではないか、という説だ。そこで話は『剣客商売』に戻る。何故、小兵衛は鐘ヶ淵に住んでいるのだろうか。池内氏はそこで取り上げたのが落語「野ざらし」だ。「野ざらし」は大まかに言うと、男が鐘ヶ淵でしゃれこうべを見つけて供養したところ、その骨が美女となってお礼に現れたという話である。落語の中では、鐘ヶ淵というのはアシ(植物の一種)の茂みに覆われていた地であることが分かる。池内氏の話を聞きながら想像をしていく。90度に折れ曲がり、アシの茂みが鬱蒼とした鐘ヶ淵。そこには、洪水などの不慮の事故で亡くなり、成仏できない人の死体がたくさんあったに違いない。そして、成仏できない人の恨みが集まる場所、鐘ヶ淵というイメージが江戸の市民の頭の中にあったとしても自然ではないであろう。そして、人の無念を晴らす"剣客商売"を業とする小兵衛を住ませた池波正太郎は、憎い演出をするものだ。

大川・荒川・綾瀬の3川が合する鐘ヶ淵一帯の地図

近辺には汐入公園があり、テニスコートや子どもが遊べる公園など、住民の憩いの場となっている

隅田川沿いを歩くと、驚くほど多くの水鳥たちと出会う。しかも人に慣れており、なかなか逃げない

鐘ヶ淵と言えば「カネボウ」。カネボウグループ(現クラシエグループ)における薬品事業は、1934年の鐘ヶ淵紡績理化学研究所に始まるとされる

このように、江戸の文化の面影を知るには、落語や小説が役に立つという。池内氏が続いて紹介したのが落語「悋気の火の玉」。大まかに言うと、お互いのことを呪い、わら人形に五寸釘を打ちつけると、どちらも死んでしまった本妻と妾が、大音寺前で火の玉となってぶつかり合うという話だ。そこで「なぜ舞台が大音寺という寺なのか」と池内氏は問いかける。本妻の火の玉は花川戸、妾は根岸から大音寺へ向かうが、根岸と花川戸の中間地点に大音寺はない。なぜ、2つの火の玉は大音寺でぶつかり合うのか。そこで、私も実際に出かけてみた。大音寺は今でも存在する寺である。現在は地下鉄日比谷線三ノ輪駅から徒歩5分程のところにあり、往時は遊郭として知られる吉原のすぐそばであった。「安政の大火というものがありましたが、その火事で4,000〜6,000人が死にました。大火の中心部であった吉原にほど近い大音寺には死体が山積みとなっていたそうです」(池内氏)。つまり、大音寺内にある石碑は、安政の大地震で亡くなった人を弔うものであり、「多くの死体が慰められたところ」だったのだ。そんな江戸時代の人々のイメージが、落語の中に残されていることに驚かざるを得ない。

本妻と妾が火の玉になり、ぶつかり合う舞台となったのが大音寺

写真左は大音寺内にある石碑。写真上は大音寺の門前。

最後に池内氏は、フォーラムの中で江戸と水は切っても切り離せない関係であると語った。「江戸時代が終わって140年程度というのに、江戸の痕跡は大火や戦災などによってほどんど残っていない。世界の主要な首都と比べると江戸というのは非常に特異な都市であったと言えるでしょう。ただ1つ、残っているとすればそれは水です。大川と呼ばれた隅田川は今もなお悠々と流れています。幸田露伴は江戸の大政奉還年に生まれ、その後江戸、明治、大正、昭和と生きた人が選んだテーマが『水の都』でした。そう考えると、江戸を考える上で、水というものは切っても切れない関係であると言えるでしょう」(池内氏)。

江戸、そして時代をまたいで流れる隅田川。まだまだ隠された江戸の面影を探しに、また出かけてみたいものだ。

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