沖縄戦の集団自決を巡る教科書検定問題で、日本軍の強制に関する記述を削除・修正させた検定意見の撤回などを求め、県議会議長を委員長とする沖縄県民大会実行委員会が15日上京した。大半の教科書会社が訂正を申請し記述は復活する見通しだが、「11万人大会」(主催者側発表)をきっかけに政府が復活を容認した背景には、福田政権が「戦後レジーム脱却」を掲げた安倍前政権路線の修正に動き出した点がある。今回の経過から、本土と異なる経緯をたどった沖縄戦体験の共有の難しさ、時の政権の性格に左右されやすく、決定過程が不透明な教科書検定の危うさも、同時に浮かび上がっている。【上野央絵、三森輝久、高山純二】
◆政府
◇「ハト派」柔軟対応
福田康夫首相や町村信孝官房長官は15日、要請団と会わず、大野松茂官房副長官が対応した。「政治介入との印象を与えるのは好ましくない」(政府筋)との判断からだ。だが首相は実際には、国会答弁などで記述復活に柔軟なシグナルを送り続けた。
黒衣役として動いたのが、さきの総裁選で福田政権樹立に動いた山崎拓・自民党前副総裁だ。1日、県民大会を報じた地元紙を抱え、社民党の辻元清美衆院議員が山崎氏の事務所を訪ねた。「東京と沖縄の温度差があり過ぎる。党派を超えてやらなあかん」と訴える辻元氏。山崎氏はその場で渡海紀三朗文部科学相に電話し、懸念を伝えた。渡海氏は山崎派の所属議員。国防族の山崎氏には、教科書問題が米軍基地問題に波及しかねないとの懸念があった。
これと前後して首相官邸も渡海氏にゴーサインを出した。町村長官は1日の記者会見で「文科相に検討を指示した」と明言。2日に政府は記述復活を容認する答弁書を閣議決定した。首相は5日、公明党の北側一雄幹事長に「基地問題もある。これは沖縄県民の政府に対する総体的な怒りだ」と語っている。
福田政権が動いた背景には、アジア外交重視、改憲論議への慎重姿勢にみられるハト派志向のスタンスがあるとみられる。保守色の強かった安倍前政権からの軌道修正を図りたい、との首相の意向がにじむ。安倍晋三首相(当時)は今春、いわゆる従軍慰安婦の募集について「狭義の強制性を裏付ける証言はない」と発言。安倍氏が首相就任前に主要メンバーだった「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が従軍慰安婦問題で日本軍の関与を認めた河野洋平官房長官談話(93年)を見直すよう求め、外交問題化したこともあった。
「軍の関与」は沖縄戦集団自決との共通項。検定意見には、従軍慰安婦や集団自決に軍の強制があったとする考え方を「自虐史観」と批判する研究グループが中心となり起こした、集団自決への軍命の有無を巡る民事裁判が影響したとみられている。自民党文教族議員は「検定意見は当時の官邸サイドの意向が働いたのでは」と推測する。
ただ、首相も公明党が提起した沖縄戦を巡る共同研究機関の設置には慎重だ。自民党内には歴史認識をめぐる対立が渦巻くだけに、これ以上の身動きは取りづらいのが実情だ。
◆沖縄
◇根源否定怒り
沖縄県民大会実行委は検定意見撤回に加え、検定基準として沖縄に配慮する「沖縄条項」新設など3項目を政府に要請した。実行委幹事の平良長政県議は「再発防止措置を具体的に要求しないと、再び沖縄戦がわい曲されかねない」と説明する。これは、政府の歴史認識に対する沖縄の警戒感の表れである。
沖縄戦をめぐっては、82年にも日本軍による住民虐殺の教科書記述が削除され問題化。当時は、地元紙に住民虐殺の目撃談や証言が次々と寄せられた。政府は中韓両国から抗議を受けた問題との同時決着を図り、中韓に対してはその後、「近現代史における近隣諸国への配慮」との検定基準が採用された。住民虐殺をめぐる記述も復活したが、沖縄戦に関する検定基準は確立されなかった。
今回も集団自決生存者の証言が相次ぎ、戦後世代が学び直す結果になった。しかし、安倍政権にこうした声は反映されず、県民の怒りは増幅した。
仲井真弘多知事も当初、大会参加に消極的だったが、県議会が参加を全会一致で決めると「東京に向かって言うことは私なりに表現したい」と一転、参加を表明。世論に押された格好となった。知事が動いたことは政府の重視度に影響した。
琉球大の比屋根照夫・名誉教授(日本近現代思想史)は今回のうねりを戦後沖縄史における3度目の島ぐるみ闘争と位置づける。1度目は50年代の米軍に対する土地闘争、2度目は95年の少女暴行事件に始まる反基地運動の高揚だ。
だが、米軍による物理的強制、暴力に対する抵抗だった過去2回に比べ、今回は「精神的基盤を崩す精神的暴力への抵抗」であり、その分、県民の怒りが一層強いとみる。
「沖縄戦を学び直したことで戦後沖縄の人々がどういう生き方を余儀なくされたかを改めて問われた」と比屋根氏は指摘する。沖縄戦は、米軍に占領され「銃剣とブルドーザー」によって基地の島と化した戦後沖縄史の原点。しかも集団自決は住民虐殺と並び、県民が犠牲を強いられた沖縄戦の中核と言える問題。検定意見が、党派を超えて沖縄県民を動かしたゆえんだ。
◆教科書検定審
◇問われる透明・中立性
今回の問題は教科書検定制度の透明性や中立性、合否を審査する文部科学相の諮問機関「教科用図書検定調査審議会」の委員選定のあり方などの問題点を改めて浮き彫りにした。
文科省は今後、議事録の作成や公開を軸に制度見直しを行い、審議会の小委員会に沖縄戦の専門家を入れることも検討する。しかし「沖縄条項」新設には慎重な姿勢を示している。
日本史小委員会の臨時委員を務める筑波大の波多野澄雄副学長(近現代史)は「文科相の諮問機関である以上、政治介入を受ける可能性はある」と話す。渡海文科相らが教科書会社に訂正申請を促すような発言をすること自体が「政治介入」との声もあり、ある審議会委員は「『県民感情に配慮』とは言ってほしくない。あくまで現在の学術状況に即して考えるべきだ」と批判する。
「軍の強制」が削除された今年3月の検定も「政治介入」が指摘されている。検定制度に詳しい立正大の浪本勝年教授(教育政策)は「教科書調査官や検定審議会の委員は国の意向に沿った人しか任命されず、政府の意向に反する記述は修正される。安倍首相の意向があったと思う」と話す。
政治介入を許す要因には、検定審議会の非公開性がある。しかも、下部にある教科ごとの部会や小委員会も同じ理由で議事録を作成していない。このため、検定意見の理由は同省の説明の範囲内でしか分からない。各学会から委員を推薦させるなど任命権の独立を求める声もある。
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■沖縄戦記述を巡る教科書検定の経緯
82年 6月 中国大陸への「侵略」を「進出」に書き換えたとの報道に中韓が抗議、外交問題に。旧日本軍による沖縄戦の住民虐殺の記述削除も問題化
8月 宮沢喜一官房長官が「教科書の記述に対する批判に十分に耳を傾け、政府の責任において是正する」との談話発表
9月 沖縄県議会が住民虐殺の記述復活求める意見書可決。那覇市での県民大会に8000人
07年 3月 安倍晋三首相が従軍慰安婦募集について「狭義の強制性を裏付ける証言はない」と発言。米国で問題化
3月 文部科学省が教科書検定結果を発表。集団自決に旧日本軍の強制があったとする記述に検定意見が付き、教科書会社側が修正、削除したことが明らかに
6月 県議会が検定意見撤回と削除、記述回復求める意見書可決
9月 宜野湾市での県民大会に11万人(主催者発表)
10月 仲井真弘多知事と県民大会実行委が検定意見撤回と記述回復を渡海紀三朗文科相に要求
毎日新聞 2007年10月16日 東京朝刊