2008年01月05日
トラックバックについて その3
1月5日(土)、先年12月28日付け『トラックバックについて その2』について、123さんから貴重なるコメントを頂いた。まずは、御礼申し上げたい。ありがとうございます。そして、今年もよろしくお願い申し上げます。
ところで、123さんは当該コメントにおいて、コプト正教会の教義において、我らの信じるカトリックから見れば『異端』と捉えられる考え方があることを指摘されている。
基本的には三位一体の神を信じていることは同じ。しかし、その第二の位格である『子』の捉え方、つまり、我々ローマ・カトリックでは、「キリストの神性と人性は、ともにその完全性を保ちながら、神のロゴスのペルソナにおいて一致している」と信じている。所謂『キリストにおける二つの本性の位格的一致』である。これは、451年のカルケドン公会議において宣言されたものである。
一方、コプト正教会は、このカルケドン公会議において宣言された教義を受け入れることができず離れていった所謂『単性説』を取り続けているはずである。
「カルケドン公会議以降も、キリストの二つの本性を認めることができないとするキリスト単性説は根強く残り、論争は長期にわたって続きました。ヤコブ派、アルメニア派、コプト派などの分派が生じ、今日にいたっているのは残念なことです。」(『カトリックの教え』(発行:カトリック中央協議会)p.114)と、その分派の発生について否定的に書かれている。
もちろん『異端』は、『悪』ということではない。おそらく、コプト『正』教会から見れば、我らのローマ・カトリック教会は『異端』なのであろう。自分はカトリック信徒であるが、幼児洗礼である。であるから、洗礼時に、あちらこちらの教会を廻り、単性説教会を排除して、ローマ・カトリックを選択したわけではない。
しかし、長年ローマ・カトリックに親しんだ者とすれば、『単性説』には違和感を感じざるを得ない。というか、失礼ながら、『単性説』自体を理解できない。つまり、「まことの神、まことの人であるキリスト。キリストがまことの人でなければ、わたしたち人間の救いとなることはできなかったことになります。また、まことの神でなければ、キリストが示された真理と救いは、神ご自身からのものではなくなることになります。」(前掲書p.113)との信仰を『単性説』では説明ができないのである。
自分自身は、『異端』=『悪』というような考えは、一切持たない。逆に、その時々の権力者の都合により、ある考えを『正統』とし、それに従わない者を『異端』としてきた歴史を知っている。例えば中世ヨーロッパにおけるカトリックの『異端』に対する行いを思い出してもらえればよくお分かりになるであろう。であるから、自分の発言においては、「−所謂『異端』(カトリックから見て)−」と書いているとおりである。
教区事務所にいらっしゃるコプト正教会の人々は、いたって普通の方々である。「この近くにみんなで食事をできるところはありませんか?」と訊かれれば、普通に国道沿いのファミリー・レストランを紹介するし、「もっと近くには?」と訊かれれば、目の前のスパゲティ屋さんを紹介する。
「その格好で行くの……」という服装ではあるが、それも慣れによるもの。カトリックだって人の事は言えない。
分別あるおとなとしての会話は十分に成り立つ。自分の考えと違う相手を馬鹿にしたり、気分を害させるような発言は敢えてしない。
そのような意味で、「まともな思考力のある信徒ならのこのこでかけて行くようなもんじゃありません。」との発言は、相手に喧嘩を売るようなものであり、自身の考えに反する者への発言としては極めて避けるべきものである。
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この記事へのコメント
しかし、コプト教会自身はどのように教義を語っているか、調べられたことがありますか?
彼らの言い分では、いわゆる単性論などというものはでっち上げです。キリストに神性と人性があるという理解はカトリック教会と共通のものです。
カルケドンで袂を分かったのは、政治的な理由に他ならず、その理由付けとして単性論を信じているということにされてしまったということです。
以前に説明しなかったでしょうか?前にも語ったことがあるようなボンヤリした記憶がありますが。
とカトリックとコプトが御子の神性を宣言しているわけです。
http://www.vatican.va/roman_curia/pontifical_councils/chrstuni/anc-orient-ch-docs/rc_pc_christuni_doc_19730510_copti_en.html
コプトの信徒の方に「御子の神性を認めますか?}と直接確かめてみられたらいかがですか?
「異端は悪くない」とおっしゃるのは方向違いです。
どういう正当な理由がありますか?
頬白さんは法学部のご出身じゃありませんでしたっけ?
違法とは何か、私以上にご存じのはずと思っておりましたが。
単性論は人性のほうの否定でした。
上記の共同宣言では、もちろんキリストの人性を謳っています。
who for us was incarnate, assuming for Himself a real body with a rational soul, and who shared with us our humanity but without sin.
【拙訳】(御ことばは)われわれのために受肉され、理性ある魂に真の肉体をとり、われわれと人間性を共有されたが罪は持たれなかった。
http://www.coptic.net/EncyclopediaCoptica/
These political motives became even more apparent in Chalcedon in 451, when the Coptic Church was unfairly accused of following the teachings of Eutyches, who believed in monophysitism.
これらの政治的思惑は451年のカルケドンでさらに顕著になり、コプト教会は不当にも単性論者であるEutychesの教えに従ったと非難されたのである。
あとはご自分でお読みください。