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肥薩線100年:その先の夢/2 「陸軍主導説」に異論も /熊本

 ■激しい誘致合戦

 1896(明治29)年に門司-八代間が完成した鹿児島線は、八代以南で人吉経由の山側ルートを取るのか、水俣経由の海側に建設するかで激しい誘致合戦があった。この時「海からの攻撃を恐れた陸軍の意向で山側が選ばれた」というのが定説だが、東京学芸大の青木栄一名誉教授(地理学)は異論を唱える。

 陸軍は1887年に発行した「鉄道論」という冊子で確かに山側を支持した。「だが鹿児島線誘致が活発になった明治30年代、陸軍の関心はルート選定よりも鉄道国有化に変わっていた」と青木名誉教授は指摘する。陸軍が山側ルートを推したというよりも「山側派の関係者が陸軍のかつての主張を利用したのではないか」と言うのだ。

 山側ルートになったものの、開通当時から強い批判を浴びた。

 1909年11月20日、鹿児島線全線開業当日の「大阪毎日新聞」は、1面トップで「海岸線(海岸ルート)の選定は軍人派の反対する所なりしと、かくの如きは諸他の線路に於いて往々存したりし弊にして(しばしばみられた悪弊で)……」と猛烈に批判した。錦町在住の郷土史家、渋谷敦さんの史料によると、水俣経由の建設費が695万円と見積もられたのに対し、人吉経由は867万円。こう配も山側ルートの方が急だった。

 急傾斜を上るために作られた大畑(おこば)駅のループ線についても、大阪毎日は「矢岳の険に対してループ式なるものを採り、余りに技工に過ぎたる跡を示すに至る」などと強く批判した。

 ■海側、当時は無理

 一方で、青木名誉教授は技術的な理由で、当時は山側ルートしか選べなかったとも言う。

 1927年に完成した海側ルート(現・肥薩おれんじ鉄道)は海岸沿いでトンネルが連続する。青木名誉教授は「明治期の日本はトンネル掘削技術が著しく未熟だった」とし「海岸ルートを選んだ場合、当時の技術では、完成できなかったのではないか」と話す。

 理由はともあれ、山側ルートを選んだことで、現肥薩線は輸送力の限界に直面した。九州の幹線という主役の座はその後、海側ルートに明け渡すことになってしまう。(つづく)

毎日新聞 2008年1月4日

 

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