ここから本文です。現在の位置は トップ > 地域ニュース > 熊本 > 記事です。

熊本

文字サイズ変更
ブックマーク
Yahoo!ブックマークに登録
はてなブックマークに登録
Buzzurlブックマークに登録
livedoor Clipに登録
この記事を印刷
印刷

肥薩線100年:その先の夢/1 夢運ぶ線路、難所で苦労 /熊本

 ■民俗学原点の旅

 1908(明治41)年6月1日の肥薩線八代-人吉間開通で真っ先に「夢をかなえた」といえるのは、民俗学者の柳田國男(1875~1962)ではないだろうか。

 民俗学研究者、江口司さん(熊本市)によると、当時の新聞各紙は、法制局参事官として土地問題などを担当していた柳田が5月下旬、福岡と熊本を経て6月13日に開業間もない肥薩線で人吉入りした、と報じている。

 表向きの目的は、五木村で起きた焼き畑に関する訴訟事件の調査だった。しかし江口さんは「(宮崎県)椎葉村を目指していたに違いない。柳田は鉄道開業を待ちに待っていた」と推測する。

 柳田は7月中旬に宮崎側から念願の椎葉入りを果たす。翌年、椎葉で見聞きした記録をつづった「後狩詞記(のちのかりことばのき)」を発表した。1910年発表の「遠野物語」とともに“日本民俗学の原点”とも言われる「後狩詞記」は肥薩線なくしては成し得なかったかもしれない。

 そんな歴史を持つ肥薩線だが、厳しい地形ゆえに開業後は多くの鉄道マンが苦しめられた。急な上りが多く、輸送力も限定された。

 ■あわや大惨事

 SLの元機関士で人吉市議の立山勝徳さん(72)は、1960年代の5月のある夜、SL「D51」に乗務し、吉松駅(鹿児島県湧水町)を出発した。山越え可能なギリギリの貨車を引いていた。

 真幸駅(宮崎県えびの市)を過ぎて、矢岳越え最大の難所、矢岳第一トンネルに進入した時だ。全長2キロのトンネル内は、1000メートル進んで25メートル上る急こう配で、SLは全力運転だった。

 ところが、矢岳側出口の約100メートル手前まで差し掛かった時、緩やかな右カーブで、車輪が空転する轟音がトンネル内に響き、停止した。運転室は50度の熱気に包まれ、ガス中毒の危険も迫ってきた。立山さんは、機関助士に告げた。

 「後退するぞ」「身なりを整えろ」

 万一の場合に見苦しい姿ではいけないと、帽子のあごひもを締め直し、服のボタンを締めた。ぬれタオルをかみながらゆっくりと後退し、真幸までどうにか無事に戻るまでの十数分間は「死を覚悟した」という。

 立山さんによると、急傾斜が続く人吉-吉松間でSLが引くことができた客車や貨車は、八代-人吉間の半分以下。過積載によるトラブルは時々あり、幹線とは呼べない輸送力だった。

  ◇  ◇

 肥薩線部分開通から100年。当初、鹿児島線の一部として建設され、1927年に八代-水俣-鹿児島ルートが完成して名称を譲るまで、九州の幹線として活躍した。難産の末に生まれた肥薩線は、人吉球磨地方に新たな歴史と産業を生み出した。その功績をたどり、次の100年に向けた可能性を探った。

毎日新聞 2008年1月3日

 

おすすめ情報