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第3章 書き換え型ディスク標準化をめぐる攻防

アモルファスと結晶のはざまで〜相変化記録技術〜
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第3章 書き換え型ディスク標準化をめぐる攻防
DVDタスクフォースが組織され、松下電器のリソースをすべて投入したDVD開発がスタート。書き換え型開発陣は、規格化をめぐるライバルとの激しい攻防の日々を送る。そのあとには4.7GBの壁が立ちはだかっていた。
       
1990年前後のMO、HDDの容量の進化図
1990年時点で片面500MBを実現した「LF−7010」は、容量ではMOやHDDをはるかに凌駕していた。

 
PD商品写真
写真はPD/CDーROMドライブ「LF−1002JB」。当時急速に普及しつつあったCD−ROMのドライブとしても使えたPDは、一部には高く評価されたのだが…
 

松下電器は、相変化技術のブレークスルーを経て、1990年、世界初の大容量書換え型ディスクドライブ「LF−7010」を発売した。13cmディスクで片面500MBの大容量を実現し、10万回以上の繰り返し回数を確保したこの装置は、コンピューターの記憶装置として画期的なものだった。しかし、時代は予想以上のスピードで動いていた。この装置は期待していたほど売れなかったのである。

なぜ売れなかったのか。当時、MOディスクがすでに登場していたほか、ハードディスクドライブの大容量化も急速に進んでいた。コンピューターユーザーの選択肢が増えるなか、「LF−7010」は、相変化ディスクならではのメリットがどこにあるのか、十分に訴求できなかったのである。

そんな状態を打開するため、1994年、DSD事業部の今中良一が新しい提案を行った。コンピューターのCD−ROMドライブに入る記録メディアを作れば、普及するに違いない。光磁気方式に比べて相変化方式はピックアップの構造がシンプルなので、一つの筐体に収めることができる。そんな内容の提案だった。

その提案を受けて開発されたのが、CDと同じ12cmで650MBの容量を実現した書換え型光ディスク「PD」であった。CDと同じ感覚で何度も記録ができる。素晴らしい商品に仕上がった。

ところが、PDも思わぬ苦戦を強いられた。技術を非公開にした点など、不振の理由はいくつかある。コンセプトは優れていたが、実際の販売には結び付かなかったのである。だが、PDが登場したことによって、相変化メディアに対する各社の認識は一気に高まることになった。いまも広く使われている相変化書換え型ディスク「CD−RW」は、PDが登場しなかったら日の目を見ることはなかっただろう。

 
 

 
 
 
 
佐藤勲
「21世紀を見通し、CDに代わる次世代メディアを作ろうという意気込みのある技術者を集めて、週に1回、会合を開きました。参加した技術者の多くは若手で、太田、赤平も加わっていました」
メディア制御システム開発センター
参事 佐藤勲

商品としての成功は一歩手前の段階でとどまっていたが、相変化技術の進化は着々と進んでいた。1990年、松下電器社内で「PC−NEXT」活動がスタートする。この活動を主催したのは、1980年から相変化プロジェクトに加わった佐藤勲である。

この活動を通じて、現在につながる重要な技術検証が行われた。0.6mm厚の基板を貼り合わせたディスクを初めて作り、技術的な検討を行ったのである。0.6mm基板は、CDが採用している1.2mm基板に比べると、ディスクの傾きによって生じる光スポットの歪みが半分で済むため、記録容量を大幅に増やすことができる。強度を確保するために0.6mm基板を2枚貼り合わせれば、CDと同じ厚みになり、互換性の点でもメリットがある。その貼り合わせ構造が技術的に実現可能であることを確認したことが、「PC−NEXT」の大きな成果であった。この技術はDVDの基本特許になっている。

 
       
「相変化シンポジウム」の風景
1998年に開催された「第10回相変化記録研究会シンポジウム」には、東レの大林元太郎氏、アリゾナ大学のMansuripur教授、大阪府大の奥田昌宏教授ら、産学の枠を越えた約120名が参加した。
 

「この時期を境に、相変化の時代は大きく変わりました。これ以降は打つ手すべてが成功しています。信じられないぐらいうまく行っていますね。もちろん松下電器だけではなくて、他社の力も大きいんですが、そうした協力が得られる体制になったことが大きいですね」と佐藤は語る。

相変化技術の進化をさらに進めるため、1991年には相変化をテーマにした世界初の学会「相変化シンポジウム」が太田を中心にスタートする。それまで各社ばらばらだった研究者を一堂に会して、方向を定めた研究開発を進めることが狙いであり、この学会は現在も継続して開催されている。

さらに、相変化光ディスクの標準化を目的に、1992年には「相変化光ディスクワークショップ」がスタートする。「相変化シンポジウム」と「相変化光ディスクワークショップ」の活動が両輪となって、相変化記録技術は広く国際的に認知されることになるのである。技術者同士の横のつながりを強化することになったこれらの活動において、太田、佐藤の果たした役割は大きい。

 
   

 
 
 
SDのロゴとMMCDのロゴ
VHS対ベータを思い起こさせるフォーマット競争が展開された。
 

さて、相変化技術が本当の意味で開花するためには、DVDと連携した技術開発を待たなければならなかった。松下電器がDVDに全社規模で取り組むことを決定した「DMタスクフォース」は、1992年7月にスタートする。その巨大プロジェクトの詳細は次回に譲ることにして、ここで、相変化技術の進化をたどるために必要な情報に絞って、DVD誕生のいきさつを思い出してみよう。

DVD開発の準備段階として、1991年に東芝との共同開発が始まった。当時東芝には、タイムワーナーから映像ディスク開発の話が持ち込まれていた。映画1本をまるごと記録できる大容量ディスクを作れないかという打診であった。記録時間は最低でも133分という条件だったが、当時東芝の評価では容量が30〜35%足りなかったのだという。

そこで、すでに形成試作を進めていた松下電器の0.6mm基板技術に白羽の矢が当たった。その可能性をいちはやく見抜いた東芝は、再生専用ディスクを開発する過程で、それまでの1.2mm基板から0.6mm基板の貼り合わせ構造に方針転換を行う。この基本構造を前提に、松下電器、東芝など数社が次世代光ディスクとしてSD規格を発表する。1994年末のことであった。

その一方、ソニー、フィリップスは次世代光ディスクとして「MMCD」を提案したが、こちらはCDとの連続性を図るために1.2mm厚の基板を採用していた。SDとMMCDという2つの規格が併存するのか、それとも一つの方式にまとまるのか。1995年は両陣営の激しい駆け引きが行われた一年間であった。

最終的には、SD規格の物理フォーマットとMMCD規格の変調方式を組み合わせることで両者が合意に達し、1995年末、DVDフォーマットが誕生することになった。こうして、0.6mm基板を貼り合わせるという基本的なディスク構造が、DVDの物理フォーマットに採用されたのである。この技術が相変化プロジェクトに端を発して実用化に至った事実は意外と知られていない。

 
   

 
 
 
       
ディスクと映画
圧縮しなければ、映画を1枚のディスクに収めることなど、とうてい不可能であった。
 

さて、1995年にPDの発売までこぎつけた相変化プロジェクトは、DVD時代に向けて新たなステップを踏み出していた。そもそも書換え型光ディスクの開発は、動画の記録を最終目標に掲げていた。具体的な商品イメージは、VHSに置き換わる家庭用ビデオディスクレコーダーである。その最終目標があったにも関わらず、それまでコンピューター用記憶装置しか製品化されていなかったのは、大きな理由がある。記録容量が圧倒的に足りなかったのである。

その状況を決定的に変えたのが、デジタル圧縮技術であった。なかでも画質を大きく損なわずにデータ量を数十分の1に抑えるMPEG2が完成したことは、再生専用ディスクはもちろん、家庭用書換え型ディスクの実用化をも強力に後押しすることになった。

MPEG2という強力な技術をバックボーンに、いよいよ書換え型の大容量光ディスクを家庭用メディアとして導入する時期がやってきた。DVD−RAMの出番である。

再生専用DVDは、1996年11月に第一号機が登場したが、ちょうどその頃、書換え型のDVD−RAMは規格化をめぐって激しい論議が繰り返されていた。規格の標準化を行うのは、DVD関連各社が集まる「DVDフォーラム」の書換え型ディスク・ワーキンググループである。そこを舞台に、松下電器、東芝など8社が主張するAフォーマット(現在のDVD−RAM)と、ソニー、HPなど3社が提案した別のフォーマット(現在のDVD+RWの原型)の間で、標準化をめぐる激しい議論が行われた。

当時の事情を大原はこう振り返る。「Aフォーマット陣営は数の上では優勢でしたが、そのためにかえって完璧さを求められていたところがあります」。赤平はその当時の苦労を物語る裏話をこう紹介する。「金曜日の会議のために3〜4人のメンバーで新幹線の個室を予約し、東京に向かう車中で戦略を練りました。そのあと会議で技術論争を激しく戦わせ、浮かび上がった課題を帰りの新幹線で再検討します。その場からサンプル作りを電話で本社に指示することもありました。次の週の会議までに結果を出すためには、そうしないと間に合わなかったんですね。そんなハードな日々が半年以上も続いたんですよ!」。

 
       
片面2.6GB DVD-RAM
1997年にリリースされた片面2.6GBのDVD-RAM。

 
片面4.7GB DVD-RAM
世界初の4.7GB・DVD-RAMドライブは、2000年7月に発売された
 

激しい議論が実を結び、Aフォーマットは「DVD−RAM」としてついに「DVDフォーラム」で認証され、正式な書換え型規格として1997年にデビューする。強力なライバルの存在が、フォーマットの完成度をさらに高めることにつながったといえるだろう。この時点で実現したDVD−RAMは、片面2.6GBの容量を実現していた。次の課題は、DVDビデオと同じ4.7GBに容量を増やすことだった。

規格の標準化と容量拡大を目指す過程で、ちょうど10年前に材料探索でブレークスルーを成し遂げた山田が再び大きな仕事をすることになった。そのひとつが、繰り返し回数の向上と高密度記録の両立である。

DVD−RAMに記録を繰り返していくと、1万回前後から記録信号の振幅が小さくなる現象が見つかった。山田は、記録を繰り返すうちに記録膜の両側にあるZnS-SiO2層からイオウが記録層に拡散していることを突き止める。それによって記録層の特性が変化していたのだ。そこで、拡散を止める材料を探す作業を始め、最終的に記録層と相性のいい素材を含む窒化ゲルマニウムを発見する。

こうした地道な改良を積み重ねた結果、ついに片面4.7GBの大容量DVD−RAMが完成する。1999年のことであった。

<つづく>

 
       
       
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