さて、1995年にPDの発売までこぎつけた相変化プロジェクトは、DVD時代に向けて新たなステップを踏み出していた。そもそも書換え型光ディスクの開発は、動画の記録を最終目標に掲げていた。具体的な商品イメージは、VHSに置き換わる家庭用ビデオディスクレコーダーである。その最終目標があったにも関わらず、それまでコンピューター用記憶装置しか製品化されていなかったのは、大きな理由がある。記録容量が圧倒的に足りなかったのである。
その状況を決定的に変えたのが、デジタル圧縮技術であった。なかでも画質を大きく損なわずにデータ量を数十分の1に抑えるMPEG2が完成したことは、再生専用ディスクはもちろん、家庭用書換え型ディスクの実用化をも強力に後押しすることになった。
MPEG2という強力な技術をバックボーンに、いよいよ書換え型の大容量光ディスクを家庭用メディアとして導入する時期がやってきた。DVD−RAMの出番である。
再生専用DVDは、1996年11月に第一号機が登場したが、ちょうどその頃、書換え型のDVD−RAMは規格化をめぐって激しい論議が繰り返されていた。規格の標準化を行うのは、DVD関連各社が集まる「DVDフォーラム」の書換え型ディスク・ワーキンググループである。そこを舞台に、松下電器、東芝など8社が主張するAフォーマット(現在のDVD−RAM)と、ソニー、HPなど3社が提案した別のフォーマット(現在のDVD+RWの原型)の間で、標準化をめぐる激しい議論が行われた。
当時の事情を大原はこう振り返る。「Aフォーマット陣営は数の上では優勢でしたが、そのためにかえって完璧さを求められていたところがあります」。赤平はその当時の苦労を物語る裏話をこう紹介する。「金曜日の会議のために3〜4人のメンバーで新幹線の個室を予約し、東京に向かう車中で戦略を練りました。そのあと会議で技術論争を激しく戦わせ、浮かび上がった課題を帰りの新幹線で再検討します。その場からサンプル作りを電話で本社に指示することもありました。次の週の会議までに結果を出すためには、そうしないと間に合わなかったんですね。そんなハードな日々が半年以上も続いたんですよ!」。 |