暴徒化、混乱広がるパキスタン ブット元首相暗殺2007年12月29日17時45分 ブット元首相の暗殺事件があった首都イスラマバード郊外ラワルピンディに28日、入った。町のあちこちで古タイヤや廃材とともに大統領派与党のポスターを燃やし、元首相の暗殺に抗議する光景が見られた。元首相の暗殺現場では、道路に爆弾が破裂した黒い焦げ跡が残り、巻き添えで犠牲となった支持者たちの靴が並べられていた。 町中心部の広場近くの通りでは、テロの犠牲となった元首相の支持者の棺(ひつぎ)を人々が担ぎ、「神は偉大なり」「ベナジル(ブット)万歳」などと叫びながら行進していた。商店主のゼディさん(46)は「ブット氏は国民を一つにまとめられる偉大な指導者だった。この国を不安定にしようとする米国が暗殺を仕組んだのだ」と憤った。 元首相が総裁を務めていたパキスタン人民党の職員、リアカットさん(56)は「とても悲しい。私が代わりに撃たれて死ねば良かった。暗殺は政府の仕業だ」と、泣きながら訴えた。 町は服喪のために休日で、商店のほとんどはシャッターを下ろしている。平日は渋滞する目抜き通りも、走る車はほとんどない。商店主のイブラルさん(41)は「店を開けると暴動の巻き添えになるかもしれない。不安定な政治のために人々の暮らしが犠牲になっている。とにかく平和で政治が安定してほしい」とつぶやいた。
■リーダー失い、統制不能に 「私は危険を覚悟で帰国した。パキスタンは危機に立たされ、人々は恐怖におののいている」。ベナジル・ブット元首相(54)は27日、首都イスラマバード近郊のラワルピンディで遊説した。その直後、テロに倒れた。 ブット氏には、いかなる危険を冒しても街頭に立つ必要があった。 実父の故ズルフィカル・アリ・ブット元首相は67年にパキスタン人民党(PPP)を結成し、圧倒的な支持を得た。娘のブット氏もイスラム圏初の女性首相になったが、汚職を問われて自ら祖国を去った。今年10月、8年ぶりに帰国したのは、ムシャラフ大統領が汚職訴追を取り消す大統領令を出したためだ。 ブット氏は、総選挙後の政権運営で協力するため、ムシャラフ氏と水面下で交渉を続けてきた。背後には米国の後押しがあった。しかし、父の代から続く熱烈なPPP支持者は、軍事クーデターで政権を手中に入れたムシャラフ氏との政権協議には批判的だった。 1月8日予定の総選挙が迫るなか、「骨肉の争い」も始まった。96年に暗殺されたブット氏の弟、ムルタザ氏の妻で地域政党・人民党シャヒード派代表のギンワ氏が立候補を表明。「ブット氏は米国の言いなりだ。人民党の精神を忘れている」と痛烈に批判した。 ムシャラフ氏との協議の行方も、帰国後間もなく不透明になった。 帰国直後の自爆テロで、支持者ら約140人が死亡。情報筋によると、実行犯は国際テロ組織アルカイダとつながりのあるイスラム過激派だった。ブット氏は帰国前、アルカイダ幹部が潜伏しているとされるパキスタン部族地域で米軍の単独作戦を認める発言をするなど、過激派根絶に意欲的だった。 殺害を免れたブット氏は、暗殺をたくらむ人物を列挙した手紙をムシャラフ氏へ送っていたと明かした。PPP関係者によると、80年代に過激派を育成し、アフガニスタンでの対ソ聖戦(ジハード)に赴かせた元軍情報機関トップらの名前が書かれてあった。国軍出身のムシャラフ氏は、気分を害したという。 ムシャラフ氏は11月初めに非常事態を宣言。弁護士ら5千人近くを拘束した政権に抗議したブット氏は自宅軟禁になった。「大統領は辞任すべきだ」。両者が完全に決裂した瞬間だった。 「PPPの重要な意思決定はブット氏に委ねられ、まるで『個人党』だった」(政界筋)と指摘する声もある。リーダーを失ったPPP支持者は各地で暴徒化している。党指導部も統制が取れない。混乱に乗じて商店を略奪する者も出始めた。 いったんは総選挙への参加を決めた第3野党パキスタン・イスラム教徒連盟シャリフ派(PMLN)の指導者で、ムシャラフ氏の政敵シャリフ元首相は「ボイコットする」と発表。選挙の正当性が問われかねない事態に陥っている。 ブット氏の暗殺犯についてムシャラフ氏は27日夜、国営テレビで「我々が戦っているテロリストの仕業だ」とイスラム過激派の犯行を示唆した。しかし、民衆レベルでは過激派に同情的な軍の一部が関与したとの見方がくすぶる。 混沌(こんとん)とするパキスタンで、民政復帰プロセスの行く末はまったく見えなくなった。 PR情報この記事の関連情報国際
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