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第13錠『二月』


「どうしたの?なんだか浮かない顔」
 季節が入れ替わる直前の十一月のある日、僕の家に遊びに来た友里ちゃんに、そんなことを
言われた。僕は鏡で自分の顔を確認してみたが、特にこれまでと違うような点は見受けられな
かった。友里ちゃんにはどうやら、鏡には映らない心の表情を見通す力があるらしい。
「そんな顔してると、幸せが逃げていくよ」
一方、そう言って苦笑した友里ちゃんの表情は、いつになく輝いて見えた。
 友里ちゃんは、来年の六月に婚約者の大学院生といよいよ挙式する予定だそうだ。もう冬が
すぐそこまで来ているというのに、彼女は人生の春といった様相だ。
 友里ちゃんは幸せが逃げていくと言ったが、僕にはもうこれ以上逃がすような幸せはないよ
うに思えた。なんとしてでも捕まえておくべきだったものは、もう僕の手を振りほどいて、遠
くへ行ってしまった。
「なにがあったか知らないけど、元気出しなよ。あんまり冴えない顔をしていると、大学の面
接も落ちちゃうよ」
最後に笑えない冗談を言って、友里ちゃんは帰っていった。
 部屋で一人になると、机の上に参考書とノートを広げて、中断していた受験勉強を再開し
た。志望校の指定校推薦入試を受けて二週間あまり。家に不合格の通知が届いてからは数日が
経っている。気の抜けない日々が続いている。この調子だとおそらく、受験生の肩書きを持っ
たまま年を越すことになるだろう。
 勉強の合間に、ふと窓の外を見た。強い風が吹いて、舗道に並んだ木が揺れている。しばら
くそうしていると、何台かの車が道路を走った。
 人は流れて、時間は過ぎてゆく。僕はそれを傍観している。目の前の景色を見過ごしている
うちに、五十嵐と顔を合わせない日々が二ヶ月以上続いていた。僕は今でも、あの日に置き去
りにされたままだ。


 十一月に入ってからというもの、学校の教室に空席が増えた。
生徒全員が揃うことは滅多にない。モグラ叩きみたいに、誰かが顔を出せば、別の誰かがいな
くなっている。今まで教師から親から脅し文句として散々聞かされた受験戦争という言葉。漠
然としか捉えていなかったものが、今現実的な問題として、僕たち全員に降りかかっている。
 戦争に勝つ者もいれば、負ける者もいる。同じように、準備をしているものもいれば、して
いない者もいた。僕は負けていて、小林は負けていて尚且つ準備もしていなかった。
「俺は今、この学年でもっとも凄い男だわ!受験に落ちた回数が…」
いつものように水野と三人で寄り集まった昼休み、小林はそんな開き直りにも近いジョークを
言っていた。指定校推薦のシーズンはもうすぐ終わりだ。その中で小林が得たのは、もはや笑
うしかない連敗記録だけだ。
「あーもう、このままドロップアウトしてしまいたいぜ…どっかの誰かみたいによ!」
小林は遠い目をして、繁原の席を見ていた。繁原の席は、今では各大学の受験の日程とは無関
係に、もうずっと空席になっている。
 繁原が学校を辞めたのは、十月の暮れのことだ。
彼はある日突然、なんの前触れもなく教壇に立ち、クラスメイト全員の前で「学校辞めます」
とだけ言って、僕たちの前を去っていった。
質問攻めにあっていた本人曰く、卒業後の進路を、急遽進学から映像とデザインの専門学校に
変えたらしい。そのことで両親と派手に喧嘩をしたそうで、今後の学費と生活費を稼ぐため、
高校を辞める決意をしたとのことだった。
 そのことについてなんの相談もなかったことが気に喰わないのか、小林は近頃、繁原のこと
を邪険にしている。
「そのくせバイト先の女と付き合うことになっちったー、とか言ってメールしてくんだぜあい
つ。自重しろ自重!」
憤まんやるかたない、といった形相で小林は繁原の悪態をつく。だけどなんだかんだ言って、
まだ繁原と連絡は取っているようだ。僕は繁原が学校を辞めてからこっち、一度も連絡を取ろ
うとしていない。
「そういえば夏ごろにシゲが狙ってるっつってた女って、結局誰だったんだろうな?」
 水野が参考書を読む手を止めて、ふと思い出したように言った。
「ああ、なんか五十嵐さんだったらしいぜ。ま、五十嵐さんとシゲが付き合ったっていう話も
聞かないし、結局ダメだったんじゃねーの」
「マジで!?五十嵐さんってシゲとは正反対って感じじゃん。リアルに意外だわ」
「でもまぁ、別のいい相手が見つかったんだったら、結果的に良かったんじゃね?」
 それは僕にとっても悪い報せではなかった。あの密室での逢瀬が終わり、五十嵐と他人の関
係になってからも、僕はずっと彼女のことを案じていた。彼女が他の誰かのものになるなん
て、想像するだけで気が滅入る。
 だが、本当はそんな想像をするのもお門違いなのだろう。僕は二人だけの密室を得ること
で、五十嵐を自分のものだと錯覚していた。嘘を並べ立てて彼女の本音を聞くことで、心が通
じ合ったような気になっていた。あの密室で僕たちは気が遠くなるほどいろんなことを話した
はずなのに、その中に一体、僕の本音はどれだけあっただろう。
結局、全部僕の独りよがりだったのだ。
 その日、五時間目と六時間目の間に、階段で五十嵐とすれ違った。僕たちは互いに言葉もな
く、目を伏せてその場をやり過ごすことしかできなかった。
 なにか一言声をかけるべきだったのかと、彼女とすれ違う度に思った。五十嵐が難関と言わ
れている理系の大学に合格したことは、風の噂で僕の耳にも届いていた。以前そのことについ
て一言祝福を贈ったくらいで、今や僕たちの間には、まったくと言っていいほど会話がない。
 いや、本当は昔からずっとそうだった。顔を合わせる都度他人のフリをするのは、あの密室
があった頃も今も変わらない。だけど近頃は、僕たちはどんどん本当の他人になりつつあるよ
うに感じていた。


 五十嵐との蜜月を失って、代わりに得たものがある。
それは放課後のわずかな時間ではあるが、大きく開いた心の隙間にセメントを流し込むよう
に、自然と僕に馴染んでいった。
「中原くん、どう?受験勉強は。はかどってる?」
 揺れる電車の中、僕たちは隣り合った吊り革に並んで掴まっている。僕の顔を覗き込むよう
に見ている鶴田茜の表情は、どこか少し大人びて見えた。推薦入試枠で有名校に合格した余裕
が、彼女をそうさせているのかもしれない。だけど、彼女には一ミリも気取ったところがな
い。会話をする時は、常に対等な位置からものを言ってくれる。
「どうだろう。参考書は進んでても、なかなか手ごたえは掴めないけどね」
「それでいいと思うよ。目に見える成果はなくっても、きっと前に進んでるよ」
僕の不安を緩和しようとしてくれているのか、鶴田さんは唐突に笑顔になった。
 密室で五十嵐と逢瀬を重ねる日々が終わると、あとに残されたのは、放課後の長い余白だっ
た。以前のように遅くまで学校に居残ることもなくなり、僕は密室から外の世界に放り出され
た。すると、これまでとは違い、小林や水野たちと駅までの道のりをいっしょに下校したり、
こうして電車の中で鶴田さんと話をする時間ができた。
それはそれで楽しいことだ。僕には五十嵐と違って、人間関係を拒絶する理由がない。
 だけど、どこか物寂しかった。
電車の中には僕と同じ制服を着た学生がひしめき合っていて、誰もが僕と鶴田さんのように、
仲のいい者同士で笑顔を送り合っている。そこにあるのは、どこにでも転がっていそうな日常
の風景だけだ。
―――これは、僕があの密室で過ごしていたような、特別な時間ではない。
そんな諦めにも似た感情が、いつもどこかで、僕を冷めた気分にさせていた。
「あの、もし中原くんが嫌じゃなかったらなんだけど…」
 鶴田さんは、急に目を逸らして言いよどむ。
「勉強、私が教えようか…?」
「え?」
思わず、彼女の顔を振り返ってしまった。目が合うと、鶴田さんは所在なさげに視線を行った
り来たりさせた。
「あ、だってほら。私もう受験終わって暇だし。それにいつも、親は二人とも帰りが遅いの。
独りで家にいるなら、誰かといっしょにいたほうが楽しいじゃない?私、人に勉強教えるの嫌
いじゃないし…」
鶴田さんはまくしたてるように一息にそう言うと、湯気が出そうな顔を床に向けた。
 その様子がなんだかおかしくて、思わず苦笑してしまう。
一人きりの空間に異性を招待するなんて、大抵は男の方からの誘いだと相場が決まっている。
それをまさか、いかにも奥手な淑女といった趣のある鶴田さんの口から聞こうなどとは、予想
だにしていなかった。
 だけどなんとなく、いつかはこうなる予感がしていた。
かつて、放課後の教室で鶴田さんに僕と五十嵐の関係を打ち明けた時のことは、今でも鮮明に
覚えている。自分に好意を寄せてくれる人に自分の口からノーを突きつけるのは、あまり後味
のいいものではなかった。あの時、鶴田さんは僕のことを諦められない、といったような言葉
を口にしていた。
 あれから僕たちはただのクラスメイトに戻っていたが、鶴田さんが未だに僕のことを想って
くれているような節は、このように二人きりで下校する最中の会話の端々に見て取ることがで
きた。
 僕が放課後に他の生徒たちといっしょに下校しているということは、僕と五十嵐の関係にな
んらかの破綻があったということに他ならない。僕は鶴田さんに五十嵐との間に起きた出来事
について一切話していないが、鶴田さんも薄々はそれに気づいていて、その上でこうして僕と
二人でいるのだろう。
 意中の人がどうやら破局したらしいとなれば、鶴田さんにとっては絶好機のはずだ。彼女が
僕との距離を縮めたがっていることは、他人の感情の変化に疎い僕にも、手に取るように分か
った。
 しかし、僕にとってはこれは答えが分かった謎解きだ。なにも知らないような顔をして、鶴
田さんの誘いに乗るのはたやすい。だけど僕は、かつて五十嵐に対して抱いていたような執着
を、鶴田さんに対して持つことはできそうにない。
―――五十嵐と彼女の間には、大きな隔たりがあった。
「鶴田さんの誘いは嬉しいけど、受験勉強は一人で頑張るよ。一人でいるほうが、雑念がなく
ていいんだ」
 僕がそう言うと、鶴田さんは露骨に残念そうな表情になって、それでも気丈に振る舞ってみ
せた。
「ううん、いいの。なんとなく思いつきで言ってみただけだから。受験勉強、頑張って」
 そこでこの話題は打ち止めになった。駅に辿り着くまでの残された時間、僕たちの間に会話
は少なかった。

 それでも、結局僕はしばらくすると鶴田さんの誘いに乗っていた。
二学期も終わりに近づく頃には、週に一度か二度は鶴田さんの自宅に呼ばれて、彼女の部屋で
二人きりで参考書と向かい合うようになった。
 僕は五十嵐がいない、という事実に耐えることができなかったのだ。
鶴田さんの部屋に鍵をかけて二人になっては、そこに在りし日の僕と五十嵐の面影を重ねよう
としていた。
 それは、鶴田さんにとっては、僕と二人きりでいる蜜のように甘い時間。僕にとっては、も
う戻ることのできない風景を懐古するための、代替品としての時間だった。


 緩やかに、だけど確実に時間は流れた。
僕は気がつけば受験生の肩書きを持ったまま年を越していた。カレンダーの上には、大学入試
とセンター試験の日程が書き込まれている。特に代わり映えのしない受験生の日々が、去年の
秋ごろから地続きになっていた。
 取り留めのない会話と、なにかに追われて続ける受験勉強。それに日々の緩衝材として機能
する鶴田さんと過ごす時間。どこに向かっているのかも分からず、色も音もない殺風景な日々
が過ぎてゆく。
 そして一月の終わり、一分にも満たないほんのわずかな時間、言葉を交わすともなく五十嵐
の傍にいたことで、僕の心の中でなにかが折れた。

 その日の放課後、僕が男子トイレから出てくると、一階から四階まである校舎を貫く階段の
踊り場に、細い腕にバケツと雑巾を抱えた五十嵐の姿があった。彼女は男女共用の洗面台の縁
にそれらを下ろすと、蛇口を捻って雑巾を絞り始めた。僕とは目を合わせようともせずに。
 五十嵐の制服の袖からは、白磁のように白い彼女の右手首が覗いていた。
―――そこに刻まれた真新しい真一文字の傷痕を、僕は見逃さなかった。
 胸の中が虫でも這っているようにざわついたが、僕はなにも言えなかった。
五十嵐は僕を一瞥しただけで、雑巾を絞り終えると何事もなかったかのようにその場を去って
行った。
 その日の帰り道、僕の頭は熱に浮かされたみたいにぼんやりとしていた。


「中原くん、最近なにかあった…?」
 数日後、いつものように鶴田さんの自室で参考書の問題を解いていると、ふいにそんな言葉
をかけられた。思わずノートに走らせてたペンを止めて、鶴田さんの顔を見た。
「なにかって?」
「なんだか最近、元気なさそうに見えて…」
鶴田さんは恐る恐るといった感じでそう言うと、決まりが悪そうに僕から視線を外した。
 六畳といくらかの小さな部屋に沈黙が下りて、僕たちは言葉を失くした。
動物をあしらった女の子らしい掛け時計が打つ針の音と、雲の中にいるような、石油ストーブ
のくぐもった音だけが、時間が止まっていないことを僕たちに教えてくれる。
「…気のせいだよ」
 そう言って作り笑いをして、僕は勉強を再開した。鶴田さんはどこか腑に落ちなさそうに顔
をしかめていたが、程なくいつもの明るい笑みを取り戻した。
 しばらく、僕たちは無言で向かい合っていた。楕円形のテーブルを挟んで、僕は机の上の参
考書に目を落とし、鶴田さんは文庫本を読んでいる。
 鶴田さんの質問が胸に引っかかっているのか、僕の勉強は遅々として進まない。思考が鈍く
なっていて、文字が頭に入ってこなかった。
 途中、鶴田さんが姿勢を崩そうとして、その脚が僕の膝の先に触れた。
「あ、ごめんなさい…」
そんな些細なことで、鶴田さんは羞恥に頬を染める。彼女にはどこか年並ではないうぶなとこ
ろがあり、五十嵐とはまるで正反対のように思えた。
 五十嵐。ふとした弾みに、彼女のことを考える。
白磁のように白い彼女の右手首に刻まれた、赤みがさした新しい傷痕。蛋白質が吸収されて薄
くなった古い傷痕とは違う、見るも痛々しい自傷の残滓。
 なにが、彼女をそこまで追い込んでしまったのだろう。少なくとも、学校内で僕と顔を合わ
せても毅然と振る舞う彼女を見るにつけ、彼女の中で僕との一連の出来事には、もう折り合い
がついているように思えた。
 だけど、本当はそうではないことも、僕は知っている。
僕は未だに、五十嵐とのことについて、折り合いをつけられずにいる。放課後に彼女と重ねた
時間は、写真の中の遠い昔の出来事ではない。ついこの前まで、そこに当然のように存在して
いたものだ。五十嵐にとっても、それは同じことのはずだ。人間の感情は、数字と違って、割
り切れないものがほとんどだ。
 そして、五十嵐すみれという女性は、本音を隠そうとする。外側では凛とした佇まいを演じ
ながら、内側では自分は誰からも理解されないと嘆くのだ。彼女がそういう女性であること
は、僕が誰よりも理解しているはずだった。

 からころん、と音を立てて、僕の手からこぼれ落ちたペンが、机の上に転がった。

「…中原くん?」
鶴田さんが、本を読む手を止めて僕を見ている。
僕は片手で面を覆って、どこからともなくこみ上げてくる寒さに、身を震わせていた。自分の
意思とは無関係に、肩が震えた。
 本当は、考えを巡らせるまでもなく分かっていた。五十嵐が自傷行為に走る理由なんて、一
つしかない。だって彼女は、僕と心の理解者として過ごしたあの日々の中で、一度も手首を切
ろうとはしなかったのだから。

―――唯一の心の理解者だと思っていた人間にすら理解されず、彼女は今も強い不安に苛まれ
ている。

 僕は目の前に鶴田さんがいることも省みずに、声を殺して泣いた。
今更罪悪感に打ちひしがれたって、もう後戻りなんてできないことは分かっている。何度でも
やり直せるなんて、そんなのはフィクションの中だけだ。僕と五十嵐の関係は、もう取り返し
がつかない。
 そのことについて考えるのを避けていた。考えもせず、動きもせず、時間に流されていれば
どんな出来事も自然と風化して過去になる…そんなふうに考えていた。だけど、一度はっきり
と自覚してしまえば、感情はとめどなく溢れ出た。
「しばらく、ほっておいて…」
 身体の震えが止まらなかった。手で覆った顔を上げることができない。今の僕は、なんてみ
っともないんだろう。密室を…五十嵐を失って、開いた穴を埋めるようにして鶴田さんと時間
を共有し、目の前ではなく遠くにいる人を想って、声を殺している。
今の僕には、救いようがない。
 それでも、鶴田さんは机の上で震えている僕の手に、そっと触れてきた。
「ほっとけないよ…」
節くれ一つない彼女の細くて小さな手が、僕の手を包んだ。
 鶴田さんはなにも言わないが、きっと彼女は、僕と五十嵐の関係が壊れてしまったことも、
僕が誰のことを想って震えているのかも、知っているに違いない。すべてを知ってなお僕の手
に触れるのは、彼女にとってどれほど残酷なことだろう。僕には想像もつかない。
 僕がしばらくその場でこみ上げてくるものを抑えていると、鶴田さんはそっと腰を上げて、
寄り添うようにして僕の隣に座った。
僕はこのまま崩れ落ちて塵にでもなってしまいたいような気持ちで、鶴田さんの肩に頭を預け
た。鶴田さんの手が、今度は僕の背中を包んだ。彼女に抱きしめられていると、この場に二つ
あるはずの心臓が、一つしかないように感じられた。
 時計の針も、ストーブの石油も、変わることなく動いている。ストーブの火が強くなる音が
して、僕たちは折り重なって床に落ちた。

 五十嵐とはしなかったことを、鶴田さんとした。
二月の初めのことだ。
僕が嘘を頼りに五十嵐と知り合って、ちょうど一年が経過していた。


 三月になって、卒業式の日を迎えた。僕が大学受験に合格したのは、それからしばらくして
のことだ。
 卒業式当日、野球部の後輩たちが造った花道をくぐりながら、小林はらしくもなく号泣して
いた。まるで無感動なふうを装っている者もいれば、本当になんでもないことのような顔をし
ている者もいる。女子生徒たちは、肩を寄せ合って頬を濡らしていた。
「これでみんなともお別れだね」
「…うん」
 その日、僕の隣には鶴田さんがいた。彼女も涙で顔を腫らしていたが、その横顔はどこか清
々しさを感じさせた。この三年間は、彼女にとってもいろいろなことがあったはずだ。だけど
彼女は、最後にはこうして、笑顔で僕の隣に立っている。
 まるで正反対だった。
―――泣きも笑いもせず、静かにこの日を終えた五十嵐とは。

 この日以来、僕は五十嵐の顔を見ていない。
それもそのはずだ。密室もなく、連絡を取る手段もなく、毎日顔を合わせる教室も、もうない
のだから。これが本当の、長いお別れだ。
「私たちは、これからもいっしょだよね…?」
 隣にいた鶴田さんが、確認するようにそう訊ねてきた。
なにかに操られるように頷き返しながら、それでも僕は、相変わらず五十嵐のことを考えてい
た。

 そして僕の、自責と倦怠の日々が始まる。
手首に刻まれた消えない傷のように、五十嵐のことが僕の頭から消えることはなかった。
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