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第12錠『Paradise Lost』


 きっかけは、子供じみた妄想だった。
僕には五十嵐すみれという女性が、誰かから理解されたがっているように見えた。心許せる相
手を求めている。そんなふうに見えた。だから僕は、彼女が心許せる人間を演じようとしたの
だ。そうしていれば、いつかは本当に理解し合える―――
そんな子供じみた妄想に、取り憑かれていた。


 繁原の宣戦布告から、一夜が明けた。
この日は一日中、気が気ではなかった。朝から午後二時にかけて各科目の実力テストが行われ
たが、満足のいく結果は到底望めそうもない。終始、集中を欠いていた。
 午後三時。校舎から生徒の影が消えたこの時間に、僕は第一理科室を訪れた。ドアの取っ手
に手をかけると、鍵が外れている感触があった。
 ゆっくりとドアを横に引き、開けた視界の中に五十嵐の姿を確認する。その瞬間、きゅっと
首を絞められたような圧迫感を感じた。こうして彼女と会うのは二十日ぶりだというのに、ま
ったく心が弾まない。それどころか、できることなら今すぐこの場を離れたいとすら考えてい
た。彼女に対して後ろめたい感情があるわけでもないのに、求刑の木槌を待つ犯罪者の気分だ
った。
 僕が教室の中に入りドアに施錠している間に、五十嵐が僕の元へと歩き出していた。
「ごめんなさい、昨日は急に会う約束を取り下げたりして」
彼女の第一声はそんな謝罪の言葉だった。
 僕は首を横に振って問題ないことを彼女に示すと、腕時計を外した左手首を、彼女に差し出
した。すると彼女もそれに呼応するように、自らの右手首を僕に向ける。
 まるで鏡写しのような互いの傷を確かめ合う。
この儀式もずいぶん久し振りだ。たった二十日間のブランクがあっただけなのに、暗黙の了解
だったはずのこの儀式ですら、どこかぎこちなく感じた。
 二十日ぶりの密会の最初の話題は、この日の実力テストについてだった。
理科室の大きな実験用のテーブルの上に、並んで仰向けに寝転がった。傷のある腕を二人の間
に伸ばして、互いの指先を絡め合う。五十嵐のきれいでか細い指は、触れると水を挿した花瓶
のような冷たさがあった。
 そうして二人で他愛もない会話をする時間は、ひどく懐かしくて、時の流れをゆるやかに感
じさせた。僕が五十嵐との関係に求めていたのは、なんの意味も脈絡もない、この対話だ。
明日も、あさっても、永遠にこんな時間が続けばいいと思った。それが叶わないというのな
ら、このまま時が止まればいい。
 だけど、どちらともなくその質問を口にした。どこか遠くでチャイムの音が聴こえた。結局
僕たちは、この時間を守るために、その質問を口にせずにはいられなかったのだ。
「話したいことって?」
 それで僕たちは、互いが疑問に思っていることを、それぞれ訊ね合うことにした。
先手を取ったのは五十嵐だった。彼女は煤けた天井を見つめながら言う。
「遊園地には、誰と行ったの」
僕は彼女の問いには返事をせず、同じように天井を見つめながら言った。
「繁原とはどういう関係なの」
 互いの短い質問の後、二人の間に降りたのは、空気の流れを緩慢にさせるような沈黙だっ
た。しばらくその沈黙に身を委ねたまま、明かりのない蛍光灯をじっと見つめていた。
「なにか誤解しているようだけど…」
 急に五十嵐が身を起こした。
「彼があなたになんて言ったのか知らないけど、私と彼は、特別な関係でもなんでもないわ」
僕も身を起こした。
「それなら僕だって同じだ。子供の頃からの付き合いの幼馴染と二人で遊園地に行った。彼女
は年上で、婚約者もいる。本当はきみを誘おうと思っていた。だけどきみの夏休みの予定はギ
ッシリだったんだろう?だからチケットがただの紙切れになる前にと思って、二人で出かけ
た。それだけのことさ」
演劇の台本の掛け合いを読み上げるように、それぞれの言い訳が続く。
「そう…ならいいの。私も別に、繁原くんとの間にやましいことがあるわけじゃないわ。私が
夏休みの間に毎日大学の自習室に通っていたら、彼がつきまとうようになった。最終的には告
白されたわ。私がうまく言い逃れられずにいると、強引にキスをされた。まったくいい迷惑
ね。彼、少し自意識過剰なところがあるみたいね」
少し間を置いて、彼女は初めて僕の顔を見た。

「でも、どうしてそんなことが気になるの?」
「きみのほうこそ、どうしてそんなことが気になるんだ?」

僕も五十嵐の顔を見た。
 二人の距離は、少し身体の位置を寄せれば肩が触れ合うほどに近い。薄暗い部屋の中でも、
互いの表情がはっきりと分かる。
五十嵐の意志の強そうな瞳の中に、僕の姿が映っていた。彼女にも、僕の瞳の中に映る自分の
姿が見えているだろうか。
 五十嵐は、僕を批難するような声で言った。
「私と繁原くんが仲良くなったら、あなたになにか不都合なことでもあるの?どんな悪い虫が
付いたって、私たちは互いの心を理解できる唯一の人間なんじゃなかったの?そんな些細なこ
とに、一体どうして気を立てるの?私と遊園地に行けないと困る理由ってなに?そんな些細な
ことで、私たちの関係は変わってしまうの?」
「それを些細なことだというのなら、どうしてきみは僕に誰と遊園地に行ったかなんてことを
問いただすんだ?きみの中で僕たちの関係が確固たるものならば、邪推を働かせる理由なんて
どこにもないじゃないか」
 二人の間を流れる空気が、押せば割れるガラスのように張り詰めていた。
僕と五十嵐は、これまでも幾度となく、この部屋で互いの主義や主張を語り合った。だけど、
こうして際限なく疑問符が並ぶばかりの会話はしたためしがない。
 互いを悲観し共感して、傷を舐め合うのがいつもの僕たちの会話だった。それなのに、今僕
たちがしているのは、互いを傷つけ合う行為に他ならない。
天秤の両の皿に順番に重石を乗せていって、どちらの皿が最後に落ちるのかを競っている。そ
んな感覚だ。
 五十嵐の詰問に、今朝から不安定だった僕の心は大きく揺さぶられる。僕はその仕返しに、
彼女の心を揺さぶっている。そして彼女もまた、反発するようにさらに僕を追い詰めるのだ。

―――これのどこが、互いの心の理解者なのだろう。

 最後に天秤の皿が落ちたのは、五十嵐のほうだった。僕が自分の皿に最後の重石を乗せるよ
り先に、彼女のほうが根を上げた。
「どうして?どうしてそんなことを聞くのよ…なんであの日、あなたは私を本気で抱こうとし
たの?私が他の男といるのを嫌がるのはなぜ?私を求める理由はなんなの!?互いの心の表面
を撫でるような遊びで、ずっと満足していたのに…これじゃあ、まるで私たち…」
 彼女は今までに見たこともない、世界から見放されたような表情を僕に向けて言った。
「まるで私たち、ただの恋人みたいじゃない…」
そう言い捨てた彼女の声色は、悲壮感に満ちていた。彼女のそんな声なんて、僕は聞きたくな
かった。だって僕は、初めからずっとそのつもりだったのだから。
 深い穴に突き落とされた気分だった。
口では心の理解者だなんだとのたまっていても、本当は最初から分かっていた。だけど、ずっ
と気づかないふりをしていたのだ。

僕と彼女は、はじめから互いに求めるものが違っている。

半年以上もの間ずっと、僕はそれに気づかないふりをしていた。
「きみ自身、薄々気付いてるんだろう?自分が知らない誰かと僕が外に出かけたことを、いち
いち気に留める理由が、きみにだってあるはずだ。些細なことだなんて、言うなよ…」
 五十嵐に認めてほしかった。彼女がそれを認めた時にはじめて、僕たちは本当の心の理解者
になれる。定義なんていらない、本当の心の理解者に。そう思った。
 だけど彼女は、声を荒げてそれを否定した。
「違う!私が求めてたのはそんなものじゃない!恋愛感情をもった相手を自分以外の誰かに奪
われたくないと感じるのは、その人の身体を自分に繋ぎとめておきたいからでしょ!?身体を
繋ぎとめておかないと、心が繋がらない気がするからでしょ!?でも私たちは違うもの。心が
一ミリの誤差もなく繋がっていれば、身体なんていらない。今までだって、くすぐったいくら
いの愛撫で満足してたんじゃないの?それは私たちが、通俗的な男女関係じゃない、もっと特
別な関係だからでしょう?そうじゃないの!?」
 五十嵐の剣幕に押されて、僕は思わず彼女から目を背けた。僕は哀訴してでも五十嵐の気持
ちを確かめたい思いを必死で堪えて、搾り出すように言った。
「…答えになってないよ。本当にそう思っているなら、なんできみは、僕がきみの知らない人
間と二人でいたことを僕に問いただしたりするんだ」
「それは…」
さっきとは打って変わって、五十嵐の声が細く小さくなった。
 あと一歩だと思った。五十嵐が考える僕たちの関係の定義と彼女の感情は矛盾している。彼
女に自覚があるにせよないにせよ、彼女は自分が考る以上に、僕に対して人間の本質とも言え
る感情を抱いているはずだ。
 それは、僕たちが二人で半年以上かけて育ててきた、小さな感情だ。
彼女が自分の内面を正視してくれれば、きっとそれを認めてくれる。それを祈って僕は、彼女
の言葉を待っていた。
 だけど思いも寄らず、自分の内面を打ち明ける役目は、僕のほうに回ってきた。
「あなたは、いつからなの…?」
「え…?」
「あなたはいつから、私のことをそういう目で見ていたの…?」
 そう訊ねられた瞬間、胸になにかが刺さった気がした。
――この期に及んで、嘘はつけない。
せっかくここまで来たのに、これ以上嘘を重ねたら…彼女の心は、届かない遠くへ行ってしま
う。そんな気がした。
本音を曝け出すのは怖い。今でも僕は罪悪感に責め立てられる思いだ。
だけどこの際、洗いざらい話してしまおうと思った。
「最初から…最初からずっと、そうだった。本当は心の理解者なんて、どうでもよかった」
声を絞り出してそう告げるのは、決して難しいことではなかった。むしろ、ようやく言えた。
そんなふうにすら感じていた。

「あの寒かった二月の放課後、この第一理科室できみを見つけるよりも、ずっと前から…僕は
きみのことが、好きだった。ただ、きみのことが好きだっただけなんだ…」

 懺悔のようだった。
こんなに近くにいるのに、五十嵐の顔をまともに見れない。半年以上もの間ずっと心に溜まっ
ていたものが、水蒸気のように身体から放出されていく。
 だけどそれと同時に、もうどうにもならない。そんな諦めも感じていた。
五十嵐の返事を聞くと、その諦めはよりいっそう強くなった。
「なんだ、最初からそうだったんだ…中原くんは最初から、そのつもりだったんだ…」
 顔を上げることができなかった。声だけでじゅうぶんすぎるほど、彼女の頬を涙が伝ってい
るのが分かった。
「まるで子供のままごとじゃない…心の理解者なんて、その程度のものだった。そんな絵空事
を口にして喜んでいたのは、私だけだったんだ…」
なにも返せなかった。
 しばらく無言のままで、僕たちはその場に佇んでいた。聴こえるのは、うなだれた僕の頭の
すぐ近くで込み上げている、五十嵐のすすり泣くような声と息遣いだけだ。
見るともなく机の表面を見ていると、うっすらと浮かんだ木目が騙し絵のように歪んで重なっ
た。指を当てると、僕の目尻もうっすらと湿っていた。
 どれくらいそうしていただろう。
静かな嗚咽の後、五十嵐は僕に「今はまだ、自分がどうしたらいいのか分からない。また明日
ここに来て」と言った。
 この日の僕たちの密会は、それで終わりだった。
家に帰って自室のベッドに倒れ込むと、僕も少しだけ泣いた。


 翌日から通常授業が再開した。
教師陣はこぞって大学受験のシーズンが目と鼻の先に迫っていることを強調したが、危機感の
ない生徒たちは相変わらず授業中の私語や仮眠を慎む気配がない。前章のあらすじをそっくり
そのまま写し取ったかのような、一学期とまったく変わらない単調な学生生活だ。
「最近俺、セックスレスなんだ…」
 昼休み。水野の机を囲って繁原を除いた三人で会話をしていると、小林が出し抜けにそんな
ことを言った。
本人は深刻そうな顔でそう言っているのだが、彼が抱える悩みの重さは僕たちにまで伝わって
こない。いつもの小林だ、くらいの感想しか出てこなかった。
「なんでよ?エリカちゃんと上手く行ってたんじゃなかったの」
水野の問いにも、真剣に小林の話を聞いてやろうという意志が感じられない。彼は小林の恋愛
相談よりも、携帯電話をいじる指先に意識が向いているようだ。
「勉強が忙しいから、とか言って最近全然構ってくれねーんだよ。それに、ぶっちゃけ俺から
野球を取ったらハゲしか残らないじゃん?だから部活を引退してからこっち、いつかエリカに
愛想尽かされるんじゃねーかって考えると、不安で夜も眠れねぇんだよ…」
「まぁオナニーでもして嫌なことは忘れろよ」
「はぁ!?全然解決になってねんだけど!てかお前、真面目に話聞いてる?」
 平和で牧歌的な、いつもの会話だ。
だけど僕には、はたと小林が感じる不安が他人事ではないような気がした。
 五十嵐はああ言ったが、僕や小林のようなちっぽけな人間にとっては、肉体的な繋がりがと
ても重要なことのように感じられる。そして、一度疑心が働くと、あとはどうにかして確認し
ないと相手の気持ちが分からなくなる。会えない日々が続くほどに、不安は増してゆく。五十
嵐を強引に押し倒そうとしたあの日から、そのことについては骨身にしみている。
 気がつけば、僕は小林と同じ道程を歩んでいたのだ。
あるいは、その表現も正確ではないのかもしれない。実際には、事態はもっとシンプルなのだ
ろう。おそらく僕は、どこにでも存在するような男女間の問題に直面しているだけだ。自らの
身に降りかかるまで、その問題にまつわる感傷がこれほどのものとは、思いもしなかった。
 教室の一角に視線を移すと、僕らと同じように机を囲って談笑している数名の男子生徒のグ
ループが目に留まる。そこには、一学期の体育の授業中、バドミントンそっちのけで一人の女
子生徒をめぐって口論をしていた男子生徒の姿がある。小林に「どちらも被害者」と揶揄され
た男子の片割れだ。あの事件のもう一人の当事者は、同じ教室内の別の一角で、友人たちとじ
ゃれあっている。僕の記憶では、確か最終的に女子生徒を自分のものにしたのは彼のほうだ。
 かつては親友同士だった二人が、今ではまるで他人だ。
僕はその二人が痴話喧嘩をしていた時、それを横目に小林を「コバは大丈夫なの?」と冷やか
した。だけど今では、めぐりめぐってそれが自分自身の問題になっている。
 繁原に五十嵐を取られてしまうのではないかという不安は、日に日に大きくなってゆく。僕
はいざそうなった時に、繁原とこれまでと同様に接する自信がない。痴話喧嘩をしていたあの
二人と同じ運命が自分にも待っているような気がして、怖かった。
「あーあ、女のことはなんでも上手く行くシゲがうらやましいぜ」
ちょうど計ったかのようなタイミングで、小林が繁原の名前を口にした。
 当の繁原は、今は僕たちの輪から離れ、他の生徒と会話をしている。
僕のことなどまるで意に介していないかのようにいつも通り振る舞う彼の姿を見ていると、僕
はよりいっそう強い不安に苛まれた。


 放課後、第一理科室を目指す僕の足取りは重かった。
昨日のことを思い出すと、とても意気揚々なんて気分にはなれなかった。どんな顔をして五十
嵐に会えばいいのか分からない。彼女の涙を思い出す度に、悪い想像が頭をよぎった。
 いつからだろう。五十嵐と会うのが怖くなったのは。かつては放課後が訪れる度に浮き足立
っていたはずなのに、今はもう、暗くて長いトンネルから抜け出せない。
 第一理科室へと通じる廊下の角を曲がると、理科室の扉の前で立ちすくむ五十嵐の姿が僕の
視界に飛び込んできた。不意にぴたりと足が止まる。
「五十嵐、どうかした?」
僕は少し駆け足で五十嵐の元へと歩み寄った。普段なら、彼女は先に入室して僕を待ってくれ
ている。こんなことは前例がなかった。
 近づくと、五十嵐の肩がわずかに震えているのが分かった。僕を見上げるように顔を上げた
彼女の表情には、悪い夢でも見た後のように、不安の色がありありと浮かんでいた。
「鍵がないの…」
「え?」
「鍵が…どこを探しても見つからないの…」
 瞬間、心臓が止まったような気がした。思わず五十嵐の足元に目をやる。そこには大きくそ
の口を開いた彼女の通学鞄が転がっている。第一理科室の鍵は、五十嵐が管理していた。普段
は彼女の靴箱の鍵といっしょにキーホルダーに通して、鞄の中にしまわれているはずだ。
「靴箱の鍵は?」
訊ねると、彼女は答える代わりに手のひらを差し出してきた。彼女の小さな手の中に、キーホ
ルダーのリングを通した鍵が一つ乗っている。

「ここの鍵だけがなくなってるのよ!」

 彼女の切迫した表情に、僕もいよいよもって事態の深刻さに気づく。心臓が倍速で動悸して
いる。手に汗が滲んだ。
「どこかで落としたとか、心当たりは?」
訊ねると、五十嵐は唇をかみ締めて首を横に振った。
「今朝靴箱に鍵をかけた後は、確かに鞄の中にしまったはずなのよ…!」
これほどまでに取り乱した五十嵐は初めて見る。その動揺が、僕にも伝染しているかのようだ
った。自分の質問が思慮を欠いたものだったことに気づく。
 冷静に考えれば、キーホルダーが手元に残っている時点で、五十嵐の過失という線は消え
る。第一理科室の鍵だけが手品みたいにキーホルダーのリングから抜け落ちたなどということ
も考えにくい。そうなると、第三者が意図的に第一理科室の鍵だけを外して持ち去った可能性
が濃厚になる。そして僕は、即座に繁原勇樹の名前を連想していた。一昨日の夜に電話で話し
た時、彼は僕と五十嵐が放課後に二人で密会をしていることを看破していた。
「シゲにここの鍵のことは教えてないよな!?」
 そう言うと同時に、僕はほとんど反射的に五十嵐の両肩を掴んでいた。その剣幕に驚いたの
か、彼女は一瞬目を丸くしたが、すぐに自分の無罪を主張するようにかぶりを振った。
「言うわけないじゃない!」
どん、と胸を突かれて、僕は思わず両手を離す。自分でもひどく混乱しているのが分かった。
 五十嵐はばつの悪そうな表情を浮かべて、視線を床に落としていた。だが、少しするとはっ
としたように顔を上げて、言った。
「…鍵を見られたことならあるかもしれない」
「なんだって?」
「きっとそうだわ、確かあの時…」
五十嵐は口元に手を当てて、考え込むようにうつむいた。
「大学の自習室で彼と同席した時に、一度だけ足元に置いていた鞄の中身を床にばら撒いてし
まったことがあるわ。その時の鞄は、今と同じ通学鞄だった…」
 この学校の各教室の鍵はどれも、それが学校のものであることを示すように取っ手が緑色の
ゴムでできている。五十嵐が学校の鍵を外に持ち出していることが分かれば、それが二月に盗
難騒ぎがあった第一理科室の鍵であることなど、容易に想像がつくだろう。
「まさか、繁原くんが…?でも、そんな…」
 五十嵐は口元に手を当てたままで、視線を泳がせる。
彼女のその口調が、まるで繁原を庇っているかのように聞えて、僕はどうにかなりそうだっ
た。
「とにかく、二人で手分けして探そう!シゲならまだきっと校内にいるはずだ」
「え、ええ…」
なにを考えているのか、五十嵐はうわのそらだ。また少し胸の辺りが痛む。
 繁原は七限目の授業が終わった後、今日は引退したサッカー部の面々といっしょに、後輩の
様子を見るという名目で部活に茶々を入れに行くと言っていた。最後の授業が終わってから、
まだ一時間ほどしか経っていない。今ならおそらく、彼を捕まえることができるだろう。
 五十嵐には三年一組の教室に戻って鍵を探してもらうことにした。彼女を繁原と突き合せる
のは癪だったし、繁原には僕自身が会って確かめたいと思ったからだ。
二手に分かれると、僕は廊下を走ってグラウンドに向かった。

 階段も足早に駆け下り、エントランスに出る。革靴に履き替えることもせず、上履きのまま
で校庭に向かった。
 無心だった。僕と五十嵐の関係は、そのすべてがあのかび臭い第一理科室に集約されてい
る。僕たちは外の世界では常に他人で、あの限られた密室でのみ、心の理解者になることがで
きた。第一理科室の鍵をなくすということは、僕たちの関係の崩壊を意味していた。
 三年生が引退して人数がぐんと減った野球部が、ネット際でバッティング練習をしていた。
僕の記憶では、サッカー部は僕が今出てきた校舎の壁際に沿って、校門の反対側を突き当たり
まで進んだところで活動していたはずだ。僕はそこを目指して、一直線にグラウンドを駆け
た。
 そう広いグラウンドではない。すぐに十数名からなるサッカー部の面々を視界に捉えた。そ
の中に、制服のズボンの裾をふくらはぎのあたりまでたくし上げ、スニーカーでリフティング
をする繁原の姿があった。
「シゲ!」
走りながら声をかけると、繁原は胸の辺りまで蹴り上げたボールを手で抱えて、僕のほうを見
た。
「よう、要じゃん。なに?」
いつもとなんら変わらない軽い調子の繁原の言葉が、僕を嘲笑っているようにすら聞えた。
 繁原の手前で足を止めると、僕は一も二もなく彼の胸倉を掴んだ。
「鍵、どこにやった!?」
 その時の僕は、きっと自分が思っている以上に声を荒げていたのだろう。周りにいるサッカ
ー部の部員たちが僕に怪訝そうな表情を向けていた。僕に詰め寄られた繁原も面喰った様子だ
った。
「なんだよ鍵って」
「五十嵐の鍵、どこに隠した!?」
掴んだ繁原の胸倉を引き寄せても、彼は眉をひそめるばかりだった。
「…鍵って、第一理科室の鍵のことか?」
その言葉を訊いた瞬間、予感が確信に変わった。僕は繁原の胸倉から手を離し、次いでその手
を彼の肩にかける。
「持ってるんだろ!?出せよ!」
自分でも信じられないくらいの剣幕だった。自分がこんな大声を出せる人間だなんて考えたこ
ともなかった。繁原と電話で言葉を交わして以来ずっと溜まっていたものが、一気に出た。そ
んな感じだった。
 さすがに繁原も、力を込めた手で僕の手を払った。そして今度は逆に僕が胸倉を掴まれて、
その場を引き摺るようにして、校舎際に引っ張られた。振り返ると、サッカー部の部員たちが
僕たちのことを奇異の目で見ていた。
「なにがあったんだ。話せよ」
無関係の生徒たちと少し距離を置いて、繁原と一対一になる。
「五十嵐が持っていた第一理科室の鍵がなくなった。お前じゃないのか!?」
僕の頭より少し高い位置から、繁原がわざと周囲に聞えないよう声を小さくして言う。
「五十嵐が理科室の鍵を持ってることは知っている。夏休みに一度だけ見た。前に電話で言っ
たように、お前たちが放課後も校舎に残ってることにはアタリがついてるからな。それがお前
たちにとって重要なものだってことも知ってるよ。だけど、知っているだけだ」
「鍵は…鍵は、持ってないんだな?」
「お前、俺のことバカにしてんのか」
声を低くしてそう言った繁原の表情は、氷のように冷たかった。
僕はさっきまでの気勢を殺がれて、なぜか見放されたような気分になった。
「なんなら身体検査でもするか?鞄の中も勝手に見ろよ」
 繁原は両手を挙げて、僕をからかうように降参のポーズをし、おまけに顎をくい、と校舎の
壁際に向けて、地面に乱雑に重ねられた通学鞄の山を指し示した。
「…そうさせてもらうよ」
「バカバカしいな」
 繁原の制服のポケットをまさぐりながら、僕は自分が途方もなく惨めに思えた。
繁原が他人の宝物を盗むような姑息な人間ではないことは、僕もよく知っている。それでも、
五十嵐の所持品に手を出すような人間が、彼以外に考えられなかったのだ。あるいは、彼にす
べてをぶつけてしまいたかったのかもしれない。
 結局、繁原の制服からも鞄からも、第一理科室の鍵は見つからなかった。去り際に繁原に一
言「悪かった」と言うと、冷淡な調子で「別に」という返事が返ってきた。その場から一歩遠
ざかるごとに、自分がとてつもなく滑稽で、情けない人間のように感じれられた。


 重い気分と身体をおして第一理科室の前に戻ると、五十嵐が壁際にへたり込んでいた。その
様子から、教室にも鍵はなかったのだと察することができた。訊ねてみると、案の定だった。
「そっちは?」
僕も首を横に振った。繁原が犯人ではないことが分かり、状況は振り出しに戻ってしまった。
 事態は絶望的だ。鍵を盗むような人間の目星がつかないのであれば探すあてなどないし、校
門が閉まるまでのわずかな時間では、捜索できる範囲も限られてくる。
「そう…残念ね」
 ゆっくりと腰を上げた五十嵐は、さっきよりいくらか落ち着きを取り戻した様子だった。諦
める決心がついたのか、声のトーンもいつもの冷めた調子に戻っている。僕まだ諦めがつかず
にいるのに、彼女はどこか吹っ切れたような顔をしていた。
 そしてとうとう、五十嵐はその言葉を口にした。
「私たち、もう潮時なのかもしれないわね…」
それは、僕がこれまでに幾度となく脳裏に描きながら、その都度必死で振り払ってきた言葉だ
った。その言葉を口にしたが最後、すべてが終わってしまう。そんな気がしていたからだ。
「五十嵐…」
「それに鍵が見つかったところで、きっともう、どうにもならないわ…」
 僕の言葉をさえぎるように五十嵐が言った。彼女の表情は、自分を皮肉るような自嘲で歪ん
でいた。
「だってそうでしょう?私はずっと、自分のことを不良品だと思ってきた。私は誰からも理解
されない。私かこの世界のどちらかが消えて泡になればいいって、ずっと思ってた。心が落ち
着かなくて、終いには手首まで切ったわ。だけどその日から今日まで私が手首を切らずにいら
れたのは、この密室に来れば、世界でたった一人の、私の理解者がそこにいてくれたからよ」
五十嵐の左手が、第一理科室の壁を叩きつけた。その音が廊下に響き渡った。
「だけどもう、この理科室に戻ったところで、私の心を理解してくれるような人はそこにはい
ない。そこにいるのは、私に共感するふうを装ったニセモノだけ。違う?」
「それは…」
それは違う、と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 僕はずっと彼女を騙し続けてきたのだ。今更恋慕の情を理由に彼女の心を繋ぎとめようとす
る権利など、僕にはない。
 短い沈黙が訪れた。五十嵐は僕に批難の目を向けていたが、その表情には、些細なきっかけ
で崩れてしまいそうな脆さがあった。正視に耐えられず、僕は視線を床に落としていた。一歩
足を踏み出せば、彼女を抱きしめられそうな距離だ。だけど今の僕には、この距離が永遠より
も遠くに感じられる。
「あなたは…卑怯よ…」
 顔を伏せながら、五十嵐はそう言った。その肩は、弱々しく震えているように見えた。
僕は彼女の言葉を否定することも肯定することもできず、ただその場に立ち尽くしていた。
 僕は彼女の理解者として振る舞うことで、彼女に心の拠り所を与えたつもりでいた。だけど
嘘を自白することで、結局僕は、彼女から心の拠り所を奪ってしまったのだ。
 しばらく、ただ黙って五十嵐のすすり泣きを聞いていた。足元がぐらつく。ずっと前から間
違えに気づいていたはずなのに、どうして僕はそれを正そうとしなかったのだろう。悔恨と自
責の念に、胸が詰まりそうだった。
「…携帯電話を」
 やがて五十嵐は顔を上げて、ほとんど嗚咽に近い声で言った。
「携帯電話を貸して」
僕は言われるがまま、左ポケットから携帯電話を取り出して、それを五十嵐に差し出した。五
十嵐がそれを受け取ろうとした時、一瞬、僕の左手首に刻まれた傷と、彼女の右手首に刻まれ
た傷が、映し鏡のように見えた。あの儀式をすることも、これからはなくなるのだろう。い
や、儀式をしたところで、彼女はこう言うに決まっている。―――ニセモノだ、と。
 五十嵐は慣れた手つきで僕の携帯電話を操作していた。どんな仕掛けを施したのか知らない
が、やがてフラップを閉じると、「今は見ないで」と言って、それを僕の手に戻した。
 廊下の向こう側から、誰かが階段を降りる足音が聴こえた。ここは人目を気にすることな
く、気兼ねなしに心も身体も許せる密室ではない。僕たちの密室は、もう失われてしまったの
だ。
「明日からは私たち、他人ね」
「…そうだね」
 口では彼女の言葉に理解を示しながら、頭の中は深い海の底に沈んでいくようだった。これ
以上、彼女になんて声をかければいいのか、分からなかった。
「最後に、一つだけお願い」
「…なに」
「目を閉じて」
 僕は五十嵐の要求通り瞼を下ろした。外の光が薄紅色になって瞼の裏に焼きつく。頬に涙を
伝わせていた五十嵐の姿も見えなくなって、暗闇の中で独り立っているような感覚に陥る。
 数秒後、僕の唇に五十嵐の唇が触れる感触があった。感想を抱く間もなく、その感触は僕の
口元を離れる。今となっては、五十嵐は僕が彼女に嘘をついて、恋愛感情で彼女に接近したこ
とを知っている。きっと、繁原への嫉妬も見透かされていたのだろう。
「足音が聴こえなくなったら、目を開けて」
僕の胸のあたりで、感情を押し殺すようにそう呟く声が聴こえた。

「さようなら」

 五十嵐が最後に残した消え入るような涙声は、僕の胸の中心に、小さな波を立てた。
一歩、二歩。五十嵐の足音が遠ざかる。次第にその音は小さくなって、やがて校庭から響く運
動部のかけ声以外、なにも聴こえなくなった。
 そっと目を開ける。ぼんやりと滲む視界の中に五十嵐の姿はない。目尻に手を当てるまでも
なく、頬を涙が伝うのが分かった。
 長い渡り廊下に独り立ち尽くし、ズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、アドレス帳
から五十嵐すみれの名前が消えていた。
五十嵐が告げた別れの言葉の重さを感じた。心臓に穴が空いたような気分になって、その場で
じっとしていることができなかった。
 僕は壁に背を預けて、手で面を覆った。瞼の裏から溢れてくるものを止めることができな
い。自分の意思とは裏腹に、身体が震えて止まらなかった。
 しばらくの間、そうしていた。途中、知っているような知らないような生徒が僕の前を通り
かかったが、もはやそれも気にならなかった。
 密室で逢瀬を重ねた日々と五十嵐の最後の言葉を反芻すると、涙は止まることなく溢れた。


 こうして、僕と五十嵐すみれは離れていった。
僕にとって、もっとも幸福な季節の終わりだった。
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