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第11錠『サード・アイ』


 小湊友里…友里ちゃんが再び僕の家を訪ねてきたのは、夏休みも終わりに近づいた八月の暮
れのことだった。

「この小説、私の高校の教科書にも載ってたよ。懐かしいなぁ。エリスかわいそうだよね」
 夏休みの課題の詰めの作業に入っていた僕の部屋に来ると、友里ちゃんは古いアルバムでも
観賞するように、僕の国語の教科書をめくった。
 どこからともなく近所の中学校の終業を告げるチャイムが聴こえてきたが、窓の外はまだ明
るい。真昼よりは翳った陽射しが夜が近づいているのを教えてくれたが、それでも夏は秋や冬
よりも幾分か時間の流れが遅いように感じられた。
「友里ちゃん、今日は晩ご飯どうするの?」
「んー?食べてく。おばさんにも食べていけって言われたし」
 会話が途切れると、僕がノートにペンを走らせる音と、友里ちゃんが教科書をめくる音だけ
が残った。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
間を繋ぐために無理に会話をする必要のない心地良い沈黙が、しばらく続いた。
 ともすれば眠りの中へと誘われそうな、ゆったりと流れる時間の中。先に会話を切り出した
のは、やはり友里ちゃんのほうだった。
「あ、ねぇ要ちゃん。こんなの見つけちゃったんだけど」
そう言った友里ちゃんの右手には、いつの間にか、僕がブックスタンドに挟んでおいた遊園地
のチケットが二枚、握られていた。
なんだか自分の醜態を目撃されたような気分になって、僕は面を覆いたくなった。
 そのチケットは、夏休みに入る少し前に、僕が先走って購入したものだ。
その頃、僕は五十嵐を誘って、二人でディズニーランドに行きたいと考えていた。夏休みに入
れば、僕たちの逢瀬には短い空白ができてしまう。たった二十日ほどとはいえ、五十嵐と心が
行き違ったままの状態でその期間を過ごせるほど、僕は粗忽者でも楽天家でもない。
 かつて二人で海辺で会話をした際に、五十嵐はいつかディズニーランドに行ってみたいと言
っていた。人が多い場所は苦手だが、そんなところに行けるようになりたいのだと。
だから僕は、夏休みの間に五十嵐をディズニーランドへと誘い出して、それを足掛かりにこの
ところの煮え切らない関係を修復したいと考えていたのだ。
 しかし結局、五十嵐には多忙を理由に誘いを袖にされてしまった。というより、誘う隙もな
かった。以前からカップルのような行動を取ることにあまり積極的でなかった彼女のことだ。
あの時の僕の様子から、望まざる展開の雰囲気を嗅ぎとったのかもしれない。
「ひょっとして、例の好きな子とデート?」
 さすがに友里ちゃんは目ざとかった。やはりこのチケットは、もっと目につきにくい場所に
隠しておくべきだった。
「もう用なしになっちゃったけどね」
「ええ!?…フラれちゃったの?」
 フラれたというのは少し違うが、釈明しようとすると僕と五十嵐の関係について深くつっこ
まれそうな気配がしたので、そういうことにしておいた。
「このチケット、どうすんの?」
「いつまでも持ってたって仕方ないし…近々換金しにいくよ」
「うーん、もったいないなぁ…」
他人事だというのに、友里ちゃんは思案げにうつむいていた。
そして、なにかを閃いたような顔をしてぴりっと姿勢を正し、僕にチケットを差し出すのだっ
た。
「じゃあ、私といっしょに行く?」
「…は?」
机に向けていた顔を上げて友里ちゃんの顔を見上げると、裏も表もないようないつもの笑顔が
そこにあった。
 こうして、僕たちは夏休み最後の金曜日に、二人でディズニーランドに行くことになった。


 遊園地という場所は、いつ訪れても混雑している。いや、ひょっとするとディズニーランド
という場所が特別なのかもしれない。僕が最後にディズニーランドを訪れたのは中学二年生の
遠足だったが、あの時もこの日と同じように、平日にも関わらず園内はカップルや家族連れで
賑わっていた。ここに来ると、曜日の感覚すら曖昧に感じる。
 これだけの人数がいるんだ。注意深く周囲を観察すれば、クラスメイトの一人や二人、見つ
けられるかもしれない。
「どうしたの?要ちゃん。きょろきょろしちゃって。おのぼりさんみたいだよ」
 園内を歩いている途中で、友里ちゃんにそう尋ねられた。
「いや、いつの間にか新しいアトラクションがたくさんできてるなって思って」
「なんだ。てっきり年上のお姉さんとのデートに緊張してるのかと思った」
そう言って、友里ちゃんはイタズラ好きの子供みたいに笑った。
 確かに、僕は少し緊張していた。
子供の頃、友里ちゃんは僕の憧れだった。こんなふうに二人きりで肩を並べて歩く姿を何度頭
に思い描いたか分からない。
今になって思えば、恋愛というものをまだしっかりと理解できていない子供の、幼稚な妄想
だ。そんなことは現実にはあり得ないと知りながらも、想像をはたらかせるのは楽しかった。
 そして今、ひょんなきっかけで、僕は友里ちゃんと二人で遊園地の中を歩いている。
友里ちゃんには大学院生の彼氏がいて、僕には五十嵐がいる。
あの頃思い描いていた形とは少し違ってしまったけれど。友里ちゃんに対して抱く感情も、あ
の頃とは違うけれど。
それでも僕は、今こうして、友里ちゃんと二人でいる。
「でもさー、よかったの?好きな子いるのに、私と二人でこんなとこに来たりして」
 いくつかのアトラクションをハシゴした後、脚を休めるために寄ったベンチで、友里ちゃん
がそう尋ねてきた。
僕は思わず苦笑してしまった。
「そういう質問は、誘った段階でしておいてよ」
「ははは、本当だよね。ごめんね、気がつかなくて」
 僕たちは並んでベンチに腰掛け、法外な値段のソフトクリームを少しずつ口に運びながら、
見るともなく空を見ていた。地上の騒々しさが嘘のように、ゆっくりと雲が流れている。
 こうしていると、なんだか心が澄んでいくようだった。
五十嵐のこと、繁原のこと。心に隙ができると、狙いすましたかのように顔を出す不安。
今、この一時だけでも、それらを全て、遠いところに置き去りにできるような気がした。
あるいは、隣に友里ちゃんがいることが、僕の心の平穏を作っているのかもしれない。
「友里ちゃんは大丈夫なの?僕とこんなところに出かけたりして」
 会話の流れから、なんとなくそんな言葉が口を突いて出てきた。
「ん、こっちは全然大丈夫。仲良くやってるし、あの人は大人だから。私が友達の男の子と外
出したくらいで、いちいち拗ねるような人じゃないの」
 それはよかった。
確か、前に聞いた話では、友里ちゃんの交際相手は、彼女より二つ年上の院生だったはずだ。
僕からすれば六つ年上ということになる。それくらいになると、さすがに僕が背伸びをしたっ
て届かないくらいには大人だろう。
それに、友里ちゃん自身がそう言うのだ。きっと、地に足のついた、立派な人なのだろう。
「前に私言ったよね。結婚してくれって言われたら、うんって答えちゃうって」
そういえばそんなことを言っていた。
ただ、あの時はよくあるのろけ話くらいにしか受け止めていなかった。
 友里ちゃんは別段大事なことを告白するような素振りも見せず、なんでもないように笑いな
がら言った。

「本当に言われちゃったよ。結婚してくれってさ」

思わず、手にしていたソフトクリームを落としそうになった。
友里ちゃんを見ると、照れているような、困っているような笑顔を浮かべていた。
「卑怯だよね。就職が決まったっていうから二人でお祝いしたら、唐突にそんなこと言い出す
んだもん。思わず、うんって答えちゃったよ」
 身体が宙に浮くような、奇妙な感覚を感じた。
まさか二人で遊園地に来て、こんな話を聞かされるなんて。
「来年、私も卒業したら仕事をすることにしたの。若いうちは何かと大変だろうけど、二人な
らなんとかやっていけないこともないかな、って思ってる。いつになるか分からないけど、挙
式の時には絶対に要ちゃんも呼ぶから。応援してね」
 僕は思いつく最上の言葉で友里ちゃんを祝福したが、頭の中はなんだか寝起きのようにすっ
きりしなくなっていた。
遠い昔に思い描いたものが、一生手の届かないものになっていくような気がした。
「結婚したら、さすがに要ちゃんと二人で遊園地なんて来れないからね。たった一度でも、来
れてよかった」
いつの間にか、溶け始めたソフトクリームが、指の間をこぼれ落ちていた。
 自分がどうしたいのか考えあぐねているうちに、大切な人が手の届かないところにいってし
まうことがある。
僕にとって友里ちゃんは、今や心の中に思い描いた憧れの人じゃない。
互いに時間を経て、恋愛とも、家族とも、友人とも違う、特別な関係になっていた。
 そういう人が一人、僕とは別の世界に行ってしまう。
これでいよいよ、僕には五十嵐しかいなくなった。


 週末が終わると、何事もなく平穏無事に学校が始まった。
始業式の当日、教室には誰一人欠けることなく見慣れた顔が並んでいた。生徒たちは二十日ぶ
りの再会を喜ぶでもなく、まるで夏休みなんてなかったみたいに普段通りに振る舞っている。
「おーす要、元気してた?」
 登校するなり僕の肩に手を回してきた小林も、つい先日会ったばかりのような顔をしてい
た。部活を引退してからもほどよく外出していたのか、素振りで鍛えられた彼の腕は、相変わ
らず浅黒く染まっている。
「夏休みは遊べなくて残念だったな。俺も昨日でバイト終わったし、またどっか行こうぜ」
「そうだね。とりあえず、明日の実力テストが終わってから」
「ちょ、朝から嫌なこと思い出させんなよ!KYかお前」
 小林とのこんなやりとりも、ちっとも懐かしい気がしないのは、こうして再会することが学
校の行事予定によってあらかじめ決まっていたからだろうか。
 だけど、みんながみんな、こんなふうにして当たり前のように再会できるのもあと半年だ。
一度卒業してしまえば、僕らはみんなバラバラになる。その後も関係が続く相手というのは、
そう多くはないだろう。
 その時、五十嵐と僕はどうなっているだろうか。
僕は怖かった。今の僕たちの関係は曖昧で、もしなにかの弾みに亀裂が入れば、すぐに壊れて
しまう…そんな不安が今でも消えない。
今の僕には、卒業後はおろか、一寸先すら見えない。
 教室の一角には、当の五十嵐の姿がある。友人たちと輪になって、すっかり堂に入ったニセ
モノの笑顔を披露している。
 昨晩、珍しく彼女から電話があった。僕たちは始業式当日に一学期同様に放課後の第一理科
室で会う予定だったのだが、その密会をキャンセルしたいという旨だった。いつもより早く下
校して、行きつけの大学の自習室でその翌日に控えた実力テストの勉強がしたい、というのが
彼女の言い分だ。
 僕は口では彼女の要求をすんなり了承しつつも、内心腑に落ちないものを感じていた。
確かに、大学の公募推薦入試を来月に控えた今、二学期の初めに行われる実力テストは、その
合否を占う重要な模擬試験となる。勉強好きの五十嵐がそれに入れ込むのも分かる。
――だが、本当にそれが理由だろうか?
もしかすると、僕が知らない間に繁原が五十嵐に接近しているかもしれない。二人の間には、
僕の知らない密な関係ができているのかもしれない。
 そう考えると、五十嵐の言葉を鵜呑みにはできなかった。僕たちは、何度も何度も、互いを
唯一の理解者だと確かめ合ってきた仲だ。そんな彼女を疑いたくはない。
疑いたくはないが、不安が消えない。
 だから僕は、短い通話の終わりに、彼女に「会って話したいことがある」と告げた。
この際、彼女にはっきりと、繁原のことについて訊ねようと思った。その結果どう思われたっ
て構いやしない。それによってこの不安に始末がつくのなら。
 その時、五十嵐から返ってきた返事はただ一言、「私も話したいとこがある」だった。
その真意は、明日になるまで分からない。
「ちーす。早いなお前ら」
 僕の思考に割って入るように僕らの前に現れたのは、当の繁原勇樹本人だった。
僕の懸念なんて知りもしない繁原は、いつものように気だるそうな顔をして毛先をいじってい
る。昨晩も遅くまでバイトか、地元の友人と飲んでいたのだろう。
「おーシゲ、夏休みどうだった?新しい女できた?」
 さっきからずっと携帯電話をいじっていた水野が、繁原の背中を軽く叩く。
「いやーサッパリだわ。俺のモテ期も終わったな」
「なんだよ、狙ってる女いるっつってたじゃん」
「苦戦してるよ」
 繁原は水野の質問を笑って受け流していたが、実際のところはどうなのだろう。
僕には、女性を篭絡するのにぬかりのないあの繁原が、そんなにあっさり諦めるとは思えな
い。僕らのあやかり知らぬところで、ゆっくりと、ゆっくりと五十嵐に接近している―――
そんな気がしてならない。
 僕は繁原と二人で会話できるタイミングを見計らって、周囲に悟られないように小声で彼に
訊ねた。
「実際のところ、どうなの?五十嵐とは」
すると彼は意味ありげな笑みを浮かべて、僕の肩にぽんと手を乗せた。
「そのことについては、また後でな」
その言葉を聞いた時、僕の不安はよりいっそう大きくなった。
きっとなにかあったのだ。五十嵐と繁原の間に。

 二学期の初日は授業が二時間しかなく、正午過ぎには放課後を告げるチャイムが鳴った。
始業式の午後に授業をしないのは、翌日に実力テストを控えた生徒たちへの配慮だろう。この
日は各部活動もこぞって休部となり、早々と下校を開始した生徒たちが、巣へと食料を運ぶ蟻
の群れのように、校門に向かって列をなしていた。
 靴箱の前で上履きを脱いでいると、後ろから声をかけられた。
「かっなめー、いっしょに帰ろうぜ」
小林と水野だった。てっきり繁原もいっしょかと思ったが、いつもなら真っ先に目に飛び込ん
でくる彼の長身はそこには見当たらない。
「いいよ。シゲは?」
「あー、あいつなら用事があるとか言ってすっとんで帰ったよ。せっかく四人で飯食って帰ろ
うと思ってたのに、付き合い悪いよな」
 繁原には訊いておきたいことがある。もちろん五十嵐についてだ。教室では意味ありげに解
答を保留にしていたが、実際のところはどうなのだろうか。もし下校でいっしょになれれば、
彼とは電車の方向が同じだ。一対一で会話をする好機だったのだけれど。
「まぁいいや。リア充はほっといて、三人仲良くテストの相談でもしながら帰ろうぜ」
 テストに相談もなにもあったもんじゃないと思いながら、僕は小林たちとともに校舎を出
た。
 帰り道の坂の途中、僕のズボンのポケットで携帯電話が震えだした。手に取ってみると、サ
ブディスプレイにはEメールの受信を報せるマークと、繁原勇樹の名前が表示されていた。
 よっぽど急ぎの用だったのか、メールには短く「夜、電話する」とだけ書かれていた。


 繁原から僕の携帯電話に電話がかかってきたのは、深夜十一時半を過ぎた頃だった。
それまで僕は、自室のベッドの上に座り込んで、深夜のバラエティ番組を観るともなく観てい
た。隣の部屋で両親が寝ているので音量を小さくし、画面上にめまぐるしく表示されていく七
色のテロップだけを追っていた。明日は実力テストだというのに、机の上に広げたままのノー
トには、目もくれずに。
 繁原からの電話を待っていると、とても勉強なんて気分にはならなかった。
もし、彼が電話口で、五十嵐となんらかの関係を持ったと僕に告げたら…そんなことを考え始
めると、他の一切の懸案事項が僕の頭から抜けていく。
 だから僕は、ずっと膝元に置いていた携帯電話が震えると、それが三回も振動しないうちに
即座に通話のボタンを押した。
「悪い悪い。もうちょっと早く電話よこしたかったんだけど、バイト先でいろいろあって、つ
いさっき家に帰ってきたところだ」
 悪びれもせず釈明する繁原の声を聴いて、僕は少しほっとしていた。
ひょっとしたらこの電話は永遠に鳴らないんじゃないか。そんなふうにさえ思っていたから。
「いや、気にしなくていいよ。そっちは今、電話できる状況?」
僕はテレビの電源を切って、ベッドの上で姿勢を正した。
「ああ。帰ってソッコーでシャワーも浴びたし、携帯の電池が切れない限り一時間でも二時間
でも話せる」
用意は整った、というわけだ。僕のほうも、心を決めなくてはいけない。
繁原からのどんな告白も受け入れる、覚悟を。
「じゃあさっそく訊くけどさ、電話してきた用事って、やっぱり…」
「要はツレに隠し事をするやつってどう思う?」
「は?」
のっけから、意表を突かれた。てっきり単刀直入に、五十嵐とのことについて聞かされるもの
だとばかり思っていたからだ。教室での彼の言動から察しても、繁原と五十嵐の間になんらか
の関係が生じたのは間違いないと見ていたのだが。
「別に深く考えなくていいよ。どう思う?そういうやつ」
「どうって…別に、なんとも。程度に関係なく、一つの隠し事もなく円滑に進む人間関係なん
て、有り得ないと思うよ。相手が友人だからこそ隠すこともある」
 僕がそう答えると、電話口の向こうで、繁原の小さな笑い声が聴こえてきた。
「俺も同感だ。要が話の分かるやつでよかったよ」
どうも話が見えてこない。繁原の質問からは、不穏な空気だけが感じ取れた。
 繁原が咳払いをする音が聴こえてくる。
「まぁ…前置きはいいや。本題に入るけど、いいか?」
 来る、と思った。
反射的にベッドの上で姿勢を正す。唾を飲み込んで、呼吸を整えた。
「いいよ」
「じゃあ訊くけどさ」
一拍置いて、繁原はこう続けた。

「お前と五十嵐って、どういう関係?」

 その言葉を聴いた瞬間、息が詰まった。返すべき言葉が思いつかない。
頭の中から血の気がひいていくような感じがして、思考が鈍化した。
「どうって…?」
僕は解答を先延ばしにした。言葉を選ぶのに時間が欲しい。うっかり言葉を咀嚼せずに口に乗
せると、自らすすんで地雷を踏みそうで怖かった。
 僕の想いをよそに、繁原は淡々と続ける。
「ずっと気になってたんだよ、お前らの関係が。だから五十嵐を狙おうと決めた時、わざわざ
お前に質問したんだ。ナイショで付き合ってる女とかいないよな、って。知ってるだろ?俺が
親友の女に手を出さないことは」
いつの間にか、額に汗が滲んでいた。室内の温度が急に上昇したような気がする。
 繁原の言うことが事実なら、彼は鶴田さんとほぼ同じ時期に、僕たちがただならぬ関係であ
ることを看破していたことになる。
あの雨の日の彼の質問にそんな意図があったなんて、僕は考えもしなかった。
 僕の返事を待たずに、繁原は続ける。
「俺はあまり熱心に部活に参加しているほうじゃないが、それでも週に二度か三度は顔を出し
てる。サッカー部は第一グラウンドで練習してるからな。校門は目と鼻の先だ。だから放課後
に下校する生徒の姿がよく見えるよ。コソ泥みたいに急ぎ足で校門を出て行く要を目撃したの
も、一度や二度じゃないぜ。その後はたいてい、決まり事のように五十嵐が少し時間を空けて
校舎を出て行く。そんなのを何度も見てりゃ、誰だってなんかあると思うさ」
 僕だって、下校の際は放課後も部活で学校に残っている繁原に見つからないよう、細心の注
意を払っているつもりだった。いつも繁原の背中に第三の目でもついていない限りは目撃され
ない、というタイミングを見計らって下校している気でいた。
「気になって、一度放課後にこっそりとうちのクラスの靴箱を全部開けてみることにした。そ
したら案の定、靴箱の中に革靴が残ってるのは、部活に所属してるやつらを除けば、お前と五
十嵐だけだったよ。そうなってくると、おかしいと思わないほうがおかしいだろ」
 まさかそこまで念入りに僕たちのことを観察しているとは思わなかった。
やられた、と思った。
「要ってさ、子供の頃よく鬼ごっこで見つかったりしてただろw」
繁原は僕をからかうような口調で、そんなことを言う。
 しかし僕も、繁原に見つかる可能性がゼロだと思っていたわけではない。帰宅部の水野にも
いつも同じ言い訳をして、いっしょに下校しようという誘いを断っていた。
「あのさシゲ…なにを勘違いしてるのか知らないけど、僕はいつも美術部に顔を出してるん
だ。中学の時の先輩が美術部に所属しててさ。入部しなくてもいいから、って言われてるか
ら、たまに付き合い程度に顔を見せている。前にもそう言っただろ?五十嵐のことは知らない
よ」
「嘘だね」
「え…?」
頭の中が真っ白になる。背中を悪寒が走り抜けた。
「確かに、その言い訳は前にも聞いたな。だけど、それもすぐに嘘だと分かった。美術部に行
って聞いてみたら、そんな生徒は知らないってよ。どうしても隠したいことがあるなら、もっ
と慎重に嘘をつくべきだ」
 ぐうの音も出ないとは、まさにこのことだ。
まさか繁原がそこまでするとは思わなかった。いや、繁原だって、五十嵐に好意を持ってさえ
いなければ、靴箱を調べることも美術部を訪ねることもしなかっただろう。
「二年の冬に、女子の体育を見ながら賭けをしたことを覚えてるか?あの時、要は五十嵐に賭
けたっけ。一学期にも、五十嵐みたいな子が好きなのかって小林と水野にからかわれてたし
な。分かりやすすぎるんだよ、お前は。嘘や隠し事を通せるタイプじゃない」
胸が詰まる。その通りだ、と思った。
 僕は嘘でがんじがらめになっている。
いつも嘘と現実の間でもんどりうって、不安に頭を抱えている。僕は心が弱いのだ。
現に今だって、繁原のどんな言葉も受け止めようと思っていたにも関わらず、この会話が責め
苦のようにしか感じられなくなっている。
「俺は本当のことが知りたい。要だけじゃなく、五十嵐にも付き合っている相手はいないのか
って訊ねた。返事は返ってこなかったけどな」
今まで築き上げてきた僕と五十嵐の秘密の関係が、音を立てて崩れてゆく。
「もういっぺん訊くぞ。お前と五十嵐は、どういう関係なんだ?」
 覚悟はしていた。繁原が僕になにを告げても、それを受け入れる覚悟は。
だけど、胸を張って繁原に僕と五十嵐の関係を突きつける覚悟はできていなかったのだ。
 だって、僕たちは―――
五十嵐を抱こうとして、拒まれた時のことを思い出す。
―――だって僕たちは、恋人じゃない。
 結局、僕は繁原の質問に、はっきりとした答えを返せなかった。
僕と繁原の間に、冷や水が滴るような沈黙が流れた。ややあって、タイムアウトを告げる繁原
の声が聴こえた。
「…なにも答えてくれないんだな。まぁいいや、隠し事をしてるのはお前だけじゃない」
不穏な空気が、さっきよりも濃くなる。
携帯電話を握る僕の手は、震えていた。その震えを殺すように、腹の奥から声を絞り出す。
「…隠し事?どういう意味?」

「五十嵐とキスをした」

 しばらく声が出なかった。臓腑がずきりと痛むような気がした。
繁原の言葉が、頭の中を支配する。心のどこかで、嘘だと思いたかった。
焦る気持ちが募る。僕にはもう、逃げ場がない。
「要は俺に、五十嵐との関係を隠してきた。俺も要に、お前たちが無関係じゃないことを知り
つつ五十嵐とキスしたことを隠していた。これでおあいこだ」
繁原のその一言は、まるで僕を牽制しているかのようだった。
「お前は付き合っている女はいないって断言したよな。そのくせ、五十嵐との関係をはぐらか
す。俺にはお前たちの間にどんな秘密があるのかは分からない。だけどな、五十嵐が“ツレの
女”じゃないのなら…俺は、自分の気持ちに嘘はつかない」
 それは、僕への宣戦布告とも取れる言葉だった。
繁原は、五十嵐を自分のものにすると言っている。はたして繁原の思い通りにことが進むかど
うかは分からない。五十嵐はそこらへんの軽い女性とは違う。繁原の恋愛のセオリーが五十嵐
に通じるとは思えない。
 だけど、僕の中の不安は濃くなるばかりだ。
それはきっと、繁原の考えや行動には、嘘がないからだ。
五十嵐との関係を嘘から始めた僕とは…決定的に、差がある。
繁原には勝てない。そんな絶望的な予感があった。
「待ってくれ、繁原。僕と、五十嵐は―――」
 咄嗟の一言だった。なんとか言って、彼を止めようと思った。
「僕と五十嵐は……」
口にしようとしても、それ以上先の言葉が浮かばない。

僕と五十嵐は―――なんなんだ?
身体も重ねられず、今では心もすれ違い続け、不安だけが膨らんでいく。
心の理解者って―――なんだ?

 どうしても二の句を継げなかった。
そのまま黙り込んでいると、繁原が最後にこう告げた。
「…じゃあ、伝えるべきことは全部伝えたから。じゃあな」
通話が切れる音がして、後には静寂だけが残った。
 会話が終わってしばらく、なにも考えられなかった。僕の思考は1mmも動かないのに、繁原
の言葉だけが、呪詛のように頭にこびりついて離れない。
 繁原は五十嵐とキスをした、と言った。それ以外のことはなに一つ触れなかったけれど、僕
にはそれだけでじゅうぶんだった。
五十嵐が、僕のものではなくなっていく…
「くそっ!」
 気がつくと、部屋の壁に向かって携帯電話を放り投げていた。
携帯電話は鈍い音とともに壁に激突し、ベッドの上に落ちる。
「くそっ、くそっ…」
 僕が嘘で築き上げた関係の曖昧さに戸惑っている間にも、繁原は五十嵐に近づいてゆく。
僕は指をくわえて見ていることしかできない。

 僕はベッドの上にうずくまる。
もうこれ以上は耐えられない。今まで散々嘘でごまかしてきた。そのツケがきている。
僕はもう、不安に押し潰されてしまいそうだ。
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