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第10錠『五十嵐すみれ(3)』




 昼下がりに外を歩いていると、動かなくなったセミが舗道の上を転がっていた。
羽化してわずか二週間ほどで散った小さな命が、夏の終わりを告げている。
 私たちの短い夏休みも、もうすぐ終わる。
選択科目の補習期間を除けばたった二十日しかなかった夏休みは、同じことの繰り返しをして
いる間に、あれよあれよと過ぎていった。
 結局、この二十日ほどの間に、私は一度も中原くんと会わなかった。来週、夏休みが明けれ
ば、私たちはまた放課後の逢瀬を再開するだろう。その時、私たちはどんな顔をしていればい
いのか。照りつける日差しに目を細めながら、そんなことばかり考えていた。
 キャンパス内の広大な敷地を渡り、目的の大学の校舎に辿り着いた。
外気がシャットダウンされた校舎の中は、ひんやりと肌寒い。
 自習用開放教室はこちら、と書かれた張り紙の矢印に沿って、目的の教室を目指す。
ずっしりと重たい両開きのドアを開くと、教室の中にはすでに私と同じような受験生があちこ
ちに陣取っていた。
私は教室後部の大窓に近い席につき、机の上に鞄を置く。
 夏休みに入ってからというもの、こうして大学の開放教室で自習に励むのが私の日課になっ
ていた。
ここなら高校や予備校と違って、煩わしい人間関係に悩まされる必要もない。そばにいるだけ
で嫌悪感が鬱積していく家族とも、距離を置くことができる。快適な空間だ。
 ただ、そんな私の平穏な時間に水をさす人間もいた。
近頃は、それが悩みの種になっている。
「よう。また会ったな、五十嵐」
 私が着席して一分も経たないうちに、そいつは私のそばに寄ってきた。
彼を避けるために私は日毎席を替えているというのに、まったくハイエナ並の嗅覚だ。
「また会ったなって…探してたんでしょ?私のこと」
「探されてる、っていう意識はあるんだ?嬉しいね」
暖簾に腕押し、とはこういうことを言うのだろう。
いちいち癇に障る物言いだ。思い切って、睨みつけてやった。
彼は私の隣の席に鞄を置いて、一人分スペースを空けて着席した。
「まぁそう邪険にすんなよ。クラスメイトなんだし、真面目な受験生同士仲良くしようぜ」
あんたのどこが真面目?と思ったが、面倒なので言い返さなかった。
 彼―――繁原勇樹が私にまとわりつくようになってから、もうすぐ一週間になる。
ある日、私がいつものようにこの大学の自習室を利用していたら、不意に声をかけられた。
「あれ、五十嵐もここ来るんだ?奇遇だな」
そんな感じで。
どうせ一日限りのことだろうと思って、その日は二人で肩を並べて勉強をした。
すると、翌日も、そのまた翌日も、彼は狙ったようなタイミングでこの自習室に現われて、ま
るで当たり前のことのように、私の隣に座るようになったのだ。
不審に思って問いただしてみたところ、彼は悪びれもせず、あっさり白状した。
 彼は私の友人から、私が夏休み期間中にこの自習室を利用していることを聞き出していたの
だ。最初は偶然を装っていたが、彼は最初から私に会う目的で、確信犯的にこの自習室を訪れ
ていたわけだ。
「なんでわざわざ私に会いにくるわけ?」
 勉強する気なんてないクセに、とは言わなかった。
彼の忍耐力のなさは尋常ではない。いつも参考書を開いて三十分もしないうちに、ノートを枕
にして眠っている。彼はここに寝に来ているのだろうか。空調も快適だし。
「会いに来ちゃマズイかな?」
質問に質問で返してくる人間は、男女問わずあまり好きではない。
「正直言って迷惑だわ。あなたが隣にいると集中できない」
「いいじゃん別に邪魔してないし。っていうか五十嵐って、喋ってみるとけっこうキツイとこ
あるよな」
私は彼の軽口を無視して、さっさと勉強を始めることにした。
彼は構わず続けた。
「クラスでは普段、全然そんな感じ見せないのにな」
 …それは私が、人前では本当の自分を隠しているから。
もちろん、繁原勇樹の前でもそうするつもりでいた。猫を被っていようと思っていた。
ただ近頃は、執拗に私に近づこうとしてくる彼が煩わしくて、わざと彼を突き放すような態度
を取っていた。
 繁原勇樹は、妹と似ている。
私とはまるで正反対の人間だ。自分を信じて疑わない、根拠のない万能感のかたまり。
そういう人間と相対すると、どうしても本来の感情が剥き出しになってしまう。
私はあなたのような人間が嫌いだと、声に乗せて突きつけてやりたくなる。
 その一言を口にする前に、突っぱねてやるのが私なりの慈悲だ。
ただ、この手の人間は、こちらがどれだけ突っぱねてやっても身を引こうとしないから厄介
だ。この手の人間を言葉で遠ざけようとするのは、強風の中でマッチに火を点けようとする行
為に等しい。
「寝るわ」
 この日の彼は三十分も持たずに根を上げてしまった。
「帰る頃になったら起こして」
眠りにつく直前、彼はそう言ったけれど、私はそれも無視した。
 その後は、参考書と教科書に交互に視線を動かせ、ひたすらペンをノートの上に走らせた。
うるさい男は隣ですやすやと寝息を立てているので、勉強の弊害にはならなかった。
 気がつくと、背にした窓から漏れる日差しが翳りつつあった。
机の上に置いた腕時計に目を遣ると、とっくに夕刻になっていた。
 私は帰り支度をして席を立った。
隣でだんご虫みたいに固まったまま男を起こしてやろうかと一瞬迷ったが、放っておいても問
題ないように思えた。
 私がそっとその場を退こうとすると、だんご虫が声をかけてきた。
「明日も来ていい?」
 いつから目が覚めていたのか、それとも最初から眠っていなかったのか。
ひょっとしたらこの男がだんご虫みたいに固まっていたのは、私の勉強を邪魔しないようにと
いう彼なりの気遣いだったのかもしれない。
いずれにせよ、彼が私にとって煩わしい存在であることに変わりはない。
変わりはないが…
「どうせ来るなって言っても来るんでしょ?勝手にすれば」
実害がないのなら、むやみに遠ざけようとする必要もない。
「そうさせてもらうよ」
私は机に突っ伏したままのだんご虫に対して別れの言葉も告げず、そのまま教室を出た。


 家に戻ると、玄関にボロ雑巾のように履き古されたスニーカーが並んでいた。
父が革靴以外の靴を履いている姿は記憶にないので、妹が連れ込んだ男のものだろうとあたり
をつけた。そういうことは、よくあることだ。
案の定、台所で家事をしていた母親も、私の質問に首を縦に振った。
「さくらが彼氏を連れてきてるのよ」
 この日の母親は、なんだかいつもより上機嫌に見えた。
この人は梅雨の空模様みたいにころころと機嫌を変える。どうせまたなにかの拍子に、人が変
わったように辛く当たるに決まっている。私にも、父にも。
だから私はこの人に対して心を許してはいけない。
心を許したら、この人のストレスが私に伝播する。
 リビングに目を遣ると、見慣れない紙袋がテーブルの上に、山脈のように連なっていた。
ピンクに黒に金、銀、紫。色とりどりの紙袋にはほとんど汚れがついておらず、艶やかな光沢
を放っていた。
 なるほど、母親の機嫌がいいのはそのせいか。
クレジットで引き落とされる無数のお金と引き換えに、日ごろのストレスを精算したわけだ。
 母親が軽快なリズムで包丁をまな板に叩きつける音を背に、私は台所を出た。
階段を上がって二階の渡り廊下に出ると、私の部屋の隣から、下品な笑い声のハミングが聴こ
えてきた。
妹とその彼氏だろう。
妹が夜中にリビングで長電話をしていた時と、会話の雰囲気が同じだ。
 雑音は壁をすり抜けて私の部屋にまで届いていたが、このくらいのことでカリカリしていて
は、あの妹とは付き合えない。
聴こえないフリをして、ベッドの上に身を投げた。
 鞄の中から携帯電話を取り出すと、不在着信を報せるランプが明滅していた。
フラップを開くと、ディスプレイには高校のクラスメイトの名前が表示されていた。
クラスの中では友人として接している女子生徒の名前だ。
 どうせ大した用件ではないのだろうから、もちろんこの着信を見なかったことにしても構わ
ないし、実際いつもならそうしている。
だけど今は隣の部屋から漏れてくる騒音にも似た品のない笑い声が耳障りで、どこかに意識を
逃がしたいと思っていたところだ。
 私は着信履歴から彼女の番号を呼び出した。
短い呼び出し音の後に、クラスメイトのくぐもった声が私の耳に届く。
「ごめんなさい、外に出かけていて電話に気づかなかったわ。用件はなに?」
「あー、うんうん全然いいの。大した用事じゃないから。あのね実はね」
彼女が私に伝えたのは、本当に大した用事ではなかった。
夏休みの宿題がまだ片付いていないから、始業式の日にでも宿題を写させてほしいとのこと
だ。
彼女は「バイトで忙しくてねー」などと弁解していたが、最初から私に頼る気でいたのだろ
う。特に断る理由もないので、私は彼女の頼みを聞き入れた。
自分に課せられたタスクを他人に丸投げしてしまう彼女の卑しい性格にはうんざりしたが、断
ることで生じる人間関係の軋轢を考えれば、取るに足りないことだった。
「他になにか用事はある?ないなら切るけど…」
「う〜ん、特にこれといって…あ、そうそう。この前友達とディズニーランド行ったんだけ
ど、そこで凄いの目撃しちゃった」
なんだか興味のない話題が展開される気配がしたので、思わず溜め息が出そうになった。
「芸能人でもいた?」
「ううん、違うの。中原くんいるでしょ?同じクラスの中原要くん」
出そうになった溜め息を、思わず飲み込んでしまう。
「…彼がどうかしたの?」

「年上っぽい女の人と、デートしてたよ」

キャンバスの上に絵の具を落としたみたいに、じわじわと意識が混濁していく。
「…どういうこと?」
「さぁ?詳しいことは分からないけど、私も見ててビックリした。大学生かOLって感じ?少
なくとも同い年には見えない人といっしょだったよ。凄く楽しそうだったから、声かけられな
かったんだけど。意外じゃない?中原くんってそういう噂全然聞かないのに」
楽しげに弾む彼女の声が、遠く聴こえた。
私はなにも言葉を返せずに、一方的にまくしたてる彼女の言葉を、ただ黙って聴いていた。
 …中原くんが、私の知らない女性と?
夏休みに入る前、最後に中原くんと会った時、彼は私をどこかへ誘い出そうとしている節があ
った。私は多忙を理由に彼を遠ざけてしまったが、だからといって、そんなことで早々と鞍替
えするような中原くんじゃない。
 ―――彼が私以外の人間を選ぶなんて、あり得ない。
私たちは代替のきかない唯一無二の心の理解者だ。
だから鶴田茜に私たちの関係を指摘された時だって、彼女を遠ざけて、二人の関係を守ったで
はないか。
 しかし、近頃の中原くんはどうだ?
私との関係を、至極一般的な男女の恋愛に近づけたがっていたように思える。
だから彼は私を無理に押し倒そうとしたのだし、私はそんなチープな関係に堕ちるのが嫌で、
それを拒否してしまった。
…だからこそ、なのだろうか。だからこそ中原くんは、別の女性を選んだのだろうか。
だけど、彼はそんな逃げ道を選択するような人ではないはずだ。
「…ねぇ、話聞いてる?五十嵐さん」
 拗ねたような声が、携帯電話から聴こえてきた。
私は慌てて思考のチャンネルを切り替える。
「え?う、うん、ごめんなさい」
「じゃあそういうことだから、宿題よろしくね」
そう言い残して、彼女は通話を切ってしまった。
私は携帯電話を閉じてからもしばらく、ベッドの上に臥して、中原くんのことを考えていた。
 今、中原くんに電話をかけて、ことの真偽を確かめることは簡単だ。
しかしそれをしてしまえば、私が中原くんに対して抱いている共感が、ただの恋愛と同じだと
認めるようなものだ。「あなたは私のことが好きなはずじゃなかったの?」と問いただすこと
は、嫉妬に狂った馬鹿な女がすることだ。私はそんなことはしない。
私たちの関係は、そんなものじゃない。
 中原くんが他の女性といっしょにいた。
たったそれだけのことで、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのか。
靄がかかったような言いようのないこの気持ちは、一体なんだというのだろう。
互いを理解することさえ出来ていれば、二人の間に通俗的な恋愛感情なんて、要らないと思っ
ていた。
 けれど、今は分からない。私たちは、一体どういう関係なのだろう。
―――私は、どうしたいのだろう。


 翌日は雨が降っていた。
大学への道のりに人通りはまばらで、昨日見かけたセミの死骸もどこかに消えていた。
 大学の自習室も、心なしかいつもより利用者が少ないように思える。
そのせいか、繁原勇樹にもあっさり発見されてしまった。
「夏休みの最終日だってのに、今日もお勉強か。五十嵐もけっこう暇人だな」
彼はそこが自分の居場所だとでも思っているのか、当然のように私の隣の席に座った。
「勉強する気もないくせにこんなところに来るやつのほうが、よっぽど暇人よ」
「ははは、言えてんな」
彼は相変わらずの軽い調子でおどけてみせた。
昨夜から気分が優れないままの私とは対照的だ。彼には悩みなんてないのだろう。
 寝ても覚めても、中原くんのことを考えていた。
いや、考えるというのには語弊がある。ただ、答えのない自問自答が、出口のない迷路をさま
ようみたいに、私の頭の中で回り続けているだけだ。
昨夜からずっと、何気なく耳にしていた歌謡曲のフレーズが耳に貼り付いて離れない時のよう
な気持ち悪さがあった。私は疲れきっていた。
 部屋の机から取り出したデパスを服用すると少しは気が楽になったが、それでも心にかかっ
た靄は払拭することができなかった。
「今日は俺も勉強するわ。始業式の翌日から実力テストだもんな。コバに負けたくねぇし」
 隣で繁原が息を巻いていた。
そういえば、彼は中原くんと親しかったのだ。
…思い切って、中原くんと二人で遊園地に行ったという女性について、なにか知らないか訊ね
てみようか?
 いや、それはできない。勘の良さそうな彼なら、私と中原くんの関係を暴くとまではいかな
いまでも、なにかに気づいてしまう可能性がある。
 そんなことばかり考えていたせいで、この日勉強した内容は、まったく頭に入ってこなかっ
た。参考書のページはどんどん進んでいくのに、ついさっき解いた問題の内容を思い出せな
い。自習をしているというより、ただ機械的にノートの上にペンを走らせている…そんな感じ
だった。
 途中、トイレに行こうとして席を立つと、足元に置いていた自分の鞄に足を引っ掛けてしま
った。私の鞄の中身が、床にぶちまけられる。
「おいおい、気をつけろよ」
繁原がノートを閉じて、床に散乱した私の所持品を拾おうとする。
 咄嗟に、まずい、と思った。
この鞄は私が普段学校に持っていっている物と同じだ。当然、中には惰性で鞄の中に入れっぱ
なしになっているカッターナイフも、第一理科室の鍵も入っている。
私は鞄の中身を繁原から隠すようにして、慌てて床の上の所持品を鞄に詰めた。
 不審に思われたかもしれない。繁原の表情を窺う。
「ああ、悪い。男に鞄の中身なんて見られたくないよな」
むしろ慌てたのは彼のほうだったようだ。彼の女性に対する過度な気遣いに救われた形だ。
なにも気づいていなさそうな彼の顔を見て、少しほっとした。

 この日の雨は、私たちが自習室を出る頃になっても一向に止む気配を見せなかった。
むしろここからが本降りとでも言わんばかりに、雨脚が強くなっている。
「あ、教室に傘忘れた」
 校舎を出る直前、この日は一睡もせずに勉強をやり遂げた繁原が、間の抜けた顔でそう言っ
た。
「取ってきなさいよ。待っててあげるから」
「悪ぃ。じゃちょっと待ってて」
 いつもならこんな男は待たずにせっせと帰路についているところだったが、なぜだかこの日
はそんな気にならなかった。
答えのない問いに悩まされている時は、馬鹿を見ていると落ち着くものなのかもしれない。
 傘を取りに駆け足で教室に戻ったはずの繁原は、一分もせずに手ぶらで帰ってきた。
「パクられてたwwwごめん、傘入れてくんない」
「親しくもない男子と相合傘をする趣味はないんだけど…」
「いや、駅まででいいからさ。頼むわ」
私はわざと渋面を作りつつ、傘を開いた。
彼は両手を合わせて苦笑いをしつつ、私に肩を寄せた。

 昼と夜を挟んだ幕間のような薄暗い空模様の下、大きな水溜りを避けながら、ゆっくりと歩
く。
行きでも人が少なかった通り道は、帰りになると更に人気が減っていた。
まだ夕方の六時を回った頃だというのに、町の人間がみんな神隠しにでも遭ったのかと思うほ
ど、駅までの道のりは閑散としている。
「なぁ…五十嵐って、なんでそんなに勉強頑張んの?」
長い下り坂の途中で、私より少し高い位置で傘の取っ手を握った繁原が、そう訊ねてきた。
 かつて、中原くんからも同じ質問を受けた。
中原くんには私の胸の内を理解して欲しくてその理由を包み隠さず話したが、繁原に同じ説明
をしてやる道理はない。
「別に。意味なんてない」
「意味がなくても頑張れるのか。すげぇな、五十嵐は」
褒められているのか馬鹿にされているのか分からない。
「あなたは?毎日遠い大学に通ってまで私の自習を邪魔することに、意味はあるの?」
「なんとなくそうしたかっただけだよ。俺も暇人なの」
 一度はそこで会話が途切れた。
言葉が消えると、やかましい雨音が聴こえる。二人分の靴の踵が水面を叩く音が、奇妙なリズ
ムを作り出していた。
 再び会話を始めようとしたのは、やはり繁原からだった。
「五十嵐ってさ、今好きな人とかいる?」
…またどこかで聞いたような質問だ。
溜め息をつきたくなる。ここ数日、どこかのタイミングでこの質問が来るんじゃないかとは思
っていた。だけどまさか、こんなタイミングで来るなんて。
私が気落ちしている時に限って、厄介なことが起こるものだ。
「あなた…もしかして私のことが好き、なんて言わないでしょうね」
「え?普通にそうだけど」
繁原は別段緊張したような様子もなく、あっさりと首肯した。
駅までの道のりはまだ遠い。私はこれみよがしに呆れ顔を作ってみせる。
「それで毎日私に付きまとってたわけ?」
「じゃなきゃいくら暇人でも、毎日こんな田舎まで足を伸ばさねーよ」
「呆れた。常に女性のことしか頭にないって噂、本当だったのね」
 繁原は急にぴたりと足を止めて、雨の中で立ち止まった。
同じ傘の取っ手を握っていた私も、つられて足を止める。
「誤解すんなよ。誰でもいいってわけじゃないし。五十嵐だから好きだつってんの」
「…よくもまぁ、そんな歯の浮くようなセリフを堂々と口にできたものね」
 私より少し高い位置にある、繁原の表情を見据えた。
彼はいつになく真剣な眼差しで、私の目を見据えていた。
「…私のどこが、そんなに良かったの」
「なんでだろうな?その物憂げな感じとか?」
わけも分からず動揺した。私のどこが、そんなふうに見えたのだろう?
「お前っていつもそんな感じだけどさ、今日もなんか悩んでるだろ」
「は?」
は?と言いつつ、内心では、見透かされたと感じていた。
「いつも、周りのことは全部どうでもいいって顔してるよ。自分のこと、この世界とは合わな
いとか思ってるんだろ?」
…言葉に詰まった。
 ずっと大切にしていた秘密を突然暴かれたみたいで、どきっとする。
鼓動が早くなってゆく。私は、はっきりと困惑していた。
昨晩からずっと引き摺っていた中原くんへの陰鬱な感情も、全部忘れて。
 繁原は、彫りの深い顔に、穏やかな微笑をたたえる。

「そういうとこが、好き」
「え?」

 気がつくと、片手で肩を抱かれ、ぐっと引き寄せられていた。
繁原の唇が私の唇に触れるその一瞬、全身から力が抜けて、私はなにも考えられなくなった。
あまりに突然のことに、私は自分がなにをされたのかすら分からず、繁原と唇を重ねたまま、
呆然と立ち尽くしていた。

数秒間、そうしていた。
 次第に意識が鮮明になり、私ははっとして繁原の手を振り解く。
そのまま傘からも手を離して後ずさり、繁原と距離を取る。
「なにをするの…」
「……」
彼はさっきまでと同じ、似つかわしくない真剣な表情のまま、無言で私の目を見据えていた。
急に雨の勢いが激しくなったように感じられる。
肩に、髪に、冷たい水滴が滲みてゆく。
「…悪かったかな、いきなりで」
「悪かったかな、じゃないわよ…!」
迂闊だった。いきなりこんなことをされるなんて、思いも寄らなかった。
 唇を指先で拭った。まだ彼の唇の感触が残っているような気がする。
喉元から胸のあたりにかけて、火を飲んだような熱さを感じた。
胸のあたりに拳を当ててみると、唐突な出来事に動揺しているのか、心臓はさっきよりも強
く、早く鼓動していた。
「なんなの、これ…」
繁原は、申し訳なさそうな表情を浮かべて微笑んでいる。
 気持ちとは裏腹に、胸の高鳴りは止まない。
「なんなのよ、本当に…」

胸に当てた拳には、高鳴る鼓動とともに、不思議な熱が伝わっていた。


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