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第9錠『五十嵐すみれ(2)』




 部屋の壁にもたれかかると、頭の裏に冷えた感触が伝わってきた。
膝を抱えて、見るともなく天井を見る。
 頭を空っぽにしようとすればするほど、雑念は膨らんでいく。感情の切り替えがヘタなの
は、子供の頃から変わらない。
 中原くんに押し倒された時のことを思い出すと、今でも胸が高鳴る。
ドキドキした。全身の血の巡りが早くなったように感じられた。
頭では突然のことに戸惑っていても、身体は疼いていた。
 それでも、私は彼を拒んでしまった。
それが正解なのかどうか分からなくて、私は今もこうして、感情に押し潰されそうになってい
る。
 中原くんは私のことを好きだと言った。その言葉の意味は、どこに由来するのか。
一組の男女としての関係性を除いても、私たちはもう充分に密な関係だ。好き、という言葉に
語弊はないのかもしれない。だけど、あるのかもしれない。
そんなチープな言葉で私たちの関係を形容してほしくない、という思いがどこかにあった。
その言葉を受け入れてしまえば―――中原くんを受け入れてしまえば、私たちは、好きという
言葉の意味も分からず戯れる下卑た同級生たちと同じレベルに成り下がる。そんな気がした。
 結局、私たちの関係は、どんなものなのだろう。
それを言葉にしようとするのは、禅問答と同じように思えた。
私たちは、はっきりしていない。
互いに求めて合っていることは、はっきりしているのに。

 喉が渇いて一階に降りた。
もうすぐ午前二時になろうかというこの時間にあってなお、リビングからは蛍光灯の光と、甲
高い笑い声が漏れていた。確認するまでもなく、妹のものだと分かった。
 リビングと隣接したキッチンに入り、冷蔵庫からエヴィアンのペットボトルを取り出す。グ
ラスに注いで、一息に飲み干した。たちまち喉の奥が潤っていく。
ペットボトルを冷蔵庫に戻そうとすると、妹に声をかけられた。
「あ、ねぇ、私にも注いでよ」
 通話が終わったのか、妹はソファの上で携帯電話に充電プラグを挿しながらこっちを見てい
た。いつもと同じ、私の神経を逆撫でする笑顔で。
 私は無言でグラスに水を注ぎ、机の上に置いてやった。
「動くのだるいから持ってきてくれると嬉しいんだけど」
溜め息が出たが、この馬鹿な妹を相手にいちいち抵抗するのは疲れる。渋々ながらも妹が腰か
けたソファの前のテーブルまで、グラスを運んだ。
彼女は礼も言わずにグラスに手をつけた。
「じゃあおやすみ」
そう言い残してこの場を去ろうとすると、腕を掴まれた。
「待ってよ」
妹の顔を見下ろす。上向きにカールした睫に囲まれた、猫のような大きな瞳に、私の姿が映っ
ている。
「少し話しようよ」
私は妹の瞳に映った自分から逃げるように、目を逸らす。
「あなたと話すことなんてない」
「うわ酷っ。可愛い妹が無愛想な姉と懸命にコミュニケーション取ろうとしてんのにさ〜」
 私は彼女のこういうところが気に食わない。
なんの根拠もないくせに、自分のほうが優位に立っているとでも言いたげな、その言い方が。
 妹から逃げ出すような行動を取るのも癪で、仕方なく私は妹の隣に腰を下ろした。
私はこの妹が嫌いだ。
傍若無人で厚顔無恥。人を、人生をナメてかかっているかのような、その大胆さ。
彼女は私とは相容れないタイプの人間だ。同じ母親の胎内から生まれてきたとは、俄かには信
じ難い。
 黄色いショートボブの毛先を指でいじりながら、彼女は私に微笑みかける。
「お姉ちゃんさぁ、最近なんか私のこと避けてるよね」
私を試すような、挑発的な言い方だった。
「別に。興味がないだけよ」
「もう、ほんと酷いよね。実の妹に対して興味ないなんてさ。思いやりが欠如してるよ」
妹はわざとらしくふてくされた顔を作る。白々しい。
「いいじゃない。私なんかいなくても、あなたには心を許せる相手がいるんでしょ?」
「まぁね」
 妹はプラグを挿したままの携帯電話を手に取って、団扇みたいに左右に振ってみせた。
こんな時間まで誰と電話をしていたのかは知らないが、ロクでもない相手なのは確かだろう。
そしてそのロクでもない相手との関係に満足している辺りに彼女の底の浅さが窺える。
「ね、お姉ちゃんってさ」
再び、妹は私を試すような目で問いかけてくる。
「彼氏とかいんの?」
一瞬、身体が金縛りにあったみたいに硬直する。
 私には中原くんがいるが、彼との関係をどう表現していいのか。互いを理解し合っている、
という以外の言葉が浮かばない。
そして、今の私には。
彼を拒んだ今の私には、本当に互いを理解できているのかどうかすら――
「やっぱいないんだ?あはは、そうだよね」
妹の嘲笑の混じった声に、私の思考はかき消された。
「そりゃそうか。私だったら付き合いたくないもん。こんな厄介な人と」
心の中になにか不純なものが蓄積されていく気がしたが、言い返せなかった。
「お姉ちゃんってプライド高そうだもんね。自分と対等の人間にしか心を許せないタイプって
いうの?人間見下してるでしょ。付き合う相手はメチャクチャ選んでるよね、絶対」
そう言われても、私はやはり黙り込んでいた。
 …うるさい。ロクでもない相手とロクでもない関係を持って、それで満足している人間に、
私のなにが分かる。
そう言い返したかったが、言い返せば言い返すほど、彼女をつけ上がらせてしまうような気が
して、なにも言えなかった。
 最後に妹は、こんなことを言った。
「お姉ちゃんってさぁ、絶対処女だよね」
そう言った時の彼女の勝ち誇った表情は、私の心の隙間を広げる悪魔みたいに見えた。
 私は黙ってその場を去り、部屋に戻ると、机の一段目の引き出しを開けた。


 教室の隅に貼られたカレンダーの上、あっという間にチェックが増えていく。
気がつけば期末試験が目の前にまで迫っていた。
中原くんとの関係を修復できないまま、歯車が一つ欠けたままで時間は過ぎてゆく。
 今までは放課後の密室が私の心にゆとりを与えてくれたが、今ではあの場所ですら、どんな
顔をすればいいのか分からなくなってきている。
日中、教室の中でそうしているように、顔を作るようになってきていた。
 教室では近頃、私の周りに面倒な男がまとわりつき始めた。
男の名前は、繁原勇樹といった。
いつも中原くんたちと親しげにしている、背の高い優男だ。
 なんの目的があってか、彼は近頃、私たち女子のグループに接近している。
私たちの中に誰か目当ての女子でもいるのかもしれない。
あるいはなんの目的もないのかもしれない。彼は人の目に臆することなく、男女分け隔てなく
接することができる人間なのだろう。普段、男子と女子はそれぞれのグループで固まっている
が、稀に彼のような無国籍軍も存在する。
 私の周りの女子生徒たちも、彼を歓迎しているようだった。何人かの女子が、彼と携帯電話
のアドレスを交換していた。手が早いな、と思う。
 繁原勇樹の交際遍歴は、以前から女子生徒の間でも少しばかり噂になっていた。
彼のどこがそんなに異性を惹きつけるのか私には理解できないが、彼は女子に人気があった。
誰がどうなろうと私の知ったことではないが、私たちのグループからも、彼と関係を持つ生徒
が出てもおかしくなかった。
 もっとも、それは私には関係のないことだ。
彼は、妹と同じ匂いがする。
世界を知らない、自分を知らない。だからこそ万能感を感じることのできる、ちっぽけな人間
の匂いだ。
 私はそんな人間に興味はない。


「五十嵐は夏休みに入ったら、どうする?」
 期末試験を翌週に控えた金曜日、放課後の第一理科室で中原くんにそう訊ねられた。
私は「どうもしない」とだけ答えた。
すると、中原くんの表情に少しだけ、影が落ちたように思えた。
 本当はどうもしないわけじゃない。一つ一つは取るに足りないものだが、小さな予定がいく
つかあった。
考えるだけで胃が痛くなるが、一度くらいはクラスの女子生徒たちと遊びに出かけなければな
らない。残りわずかな学生生活においてごく普通の女子生徒を演じ切るために、そういった教
室外での付き合いが必要になってくる。
それ以外では、学業に身を削る覚悟でいた。夏季休暇以降、この高校からそう遠くない場所に
ある理系大学の教室の一部が、受験生用の自習室として解放される。あの家にいると、どうも
心がささくれだって、勉強に集中できない。なので、暇を見つけてその大学に足を運ぶつもり
だ。
 それでも中原くんに「どうもしない」と答えたのは、彼の質問に、私を誘い出そうという意
図が透けて見えるような気がしたからだ。
 別に中原くんと外に出かけることに抵抗があるわけではない。
ないのだが、気分は乗らない。
私たちの関係は、世間一般でいう恋人とか、そういうものではない。もっと特別で、言いよう
のないものだ。
もしもこの教室で私が中原くんに、最後まで抱かれたなら。
もしも二人で外に出かけるようなことが続けば。
私たちの関係は、低俗な男女のそれと同等にまで墜ちてしまう。
そんな不安があった。
 それになんだか、近頃の中原くんは、危うい感じがする。
彼と私が唯一の理解者同士であることは間違いない。私たちは互いにこの関係の必要性を感じ
ている。
だけど彼は私を押し倒した。あの時、なんだか私たちが今まで築いてきたものが瓦解し、私た
ちがただの一介の男女に成り下がってしまう…そんな危うさを感じた。
 彼がなにを考えてそうしたのかは分からない。
だけど、やはり彼は以前とはどこか違っていた。
「また二人で外出して、以前のようなことになったら、後々面倒じゃない」
「そうか、それもそうだね…」
 私は中間試験明けに二人で海に行った時のことを引き合いに出して、それを言い訳にした。
中原くんも鶴田さんの一件には負い目があるはずだ。言い訳としては上出来だろう。

 この日も私たちは、いつもの“遊び”をした。
肌で互いを確かめ合う。だけど、一線は越えない。身体の火照りを抑えて、すんでのところで
踏み止まる。
いつもそうしてきたから、ここにきて止めることなんてできない。中原くんが私を強引に押し
倒したあの日から、私たちはどこか食い違っている。それでも、止めることができない。
 こんなことを始めて、もうすぐ半年になる。
中原くんの生温かい吐息を首筋に感じながら、妹の言葉を思い出していた。
―――お姉ちゃんてさぁ、絶対処女だよね。
中原くんのことを拒んでしまった以上、次に一線を越えるのは私からだ。
だけど、それは今じゃない。
もっと、私たちの関係が透明になってから。不確定性が消えてからだ―――

 週明けにまた会う約束をし、中原くんは第一理科室を去っていった。
いつも、中原くんと私は間隔を空けて下校する。
放課後まで校内に居残っている生徒に、私たちの関係を気取られないようにするためだ。
第一理科室の鍵は私が持っている。だから、情事が済めばいつも、私だけが短い間、この密室
の中に取り残される。
 この祭りの後のような静かな時間は、いつも私を空虚な気分にさせた。
中原くんと確かめ合う一時が過ぎ、また孤独が私を襲う。次に中原くんと会う時までの、生き
ているのか死んでいるのかも曖昧な時間の始まり。
カーテンから差し込む光がなければ、この部屋も私も、暗く沈んでしまうだろう。
 私は日暮れの潮のように押し寄せる陰鬱な気分を落ち着かせるために、鞄へと手を伸ばす。
中原くんが下校して、次いで私が下校するまで、毎回三十分の間隔を設ける。その三十分を少
しでも早く終わらせるために、私はいつも教科書を開いて時間を潰していた。
 世界史の教科書を探して鞄の中をまさぐっていると、指先に硬くて冷たい感触があった。
なんとなく、それを手に取ってみる。

刃先を引っ込めた、安物のカッターナイフ。

 半年前にこの理科室で手首を切ったあの日から、このナイフは私の鞄の底にずっと潜んでい
た。捨てなかったことに特に理由はない。ただなんとなく、半年間も鞄の中に入れっぱなしに
していたのだ。
 ためしにカッターを持つ親指をスライドさせてみた。チチチチと小鳥が鳴くような音をたて
て、鋭い刃先があらわになる。手首にあてがって少し力を加えるだけで薄い肌に切り口を作る
ことのできる、鋭い刃先だ。
 今でも唐突に苛立ちや不安感に襲われることはある。気分が沈んで手首を切りたくなること
だってある。
だけど、半年前と今では決定的な違いがある。
今の私には、中原くんがいる。
彼が私の安定剤だ。たとえ苛立ちや不安に襲われても、彼の理解があれば、私の心は平和だ。
自暴自棄になって手首を切る必要性なんて、ない。
 だけど最近、彼と私の相互理解に、若干のズレが生じているように感じている。
互いに望んでいないはずなのに、心が遠ざかっていくような気がする。まるで見えざる悪魔の
手が、私たちを引き離そうとしているような、そんな気がする。
 もし今ここで手首を切れば、私たちの関係はどうなるだろう。
手首を切る…それ自体が、私たちが互いに唯一無二の理解者であるという認識を否定する行為
に思える。中原くんでは私の心の安寧に足りなかった、と言っているようなものだ。
 そんな行為に及ぶ気は毛頭ないが、興味本位で右手首にナイフをあてがってみた。
半年前に作った古傷の上に、刃先の冷たい感触が乗る。
 今ここで、ほんの少しの力を加えるだけで、私の手首はあっさり切れてしまう。

ほんの少しの力を、加えるだけで。

 そのまま微動だせずにいると、先月会った醜い女性のことを思い出した。
憂鬱を語る言葉とは裏腹に人生を謳歌する人。私と似て非なる存在であったネット上の知り合
い、夢飼玲那。
二人で入った喫茶店で、彼女は傷だらけの手首を見せて嬉しそうにこう言った。

―――情緒不安定になると、ついやっちゃうのよね。

 はっとして、ナイフを右手首から遠ざけた。刃先をしまって、机の上に置く。
ここで切ってしまえば、私は夢飼玲那と同じになってしまう。そんな気がした。
手首を切る自分に陶酔した、カメレオンみたいな女と同類になる。
考えただけで胸に不快感が込み上げてきた。
 深呼吸して、気持ちを落ち着けた。
壁にかかった時計に目をやると、知らぬ間に三十分が経っていた。

 外に人気がないのを確認し、第一理科室を出た。
エントランスへと通じる廊下を渡る途中、誰ともすれ違わなかった。この校舎には文科系の部
活が部室として使用する教室がいくつかあるが、部活の終了時刻とタイミングをずらせば、人
目を避けて校舎を出ることは容易だった。
この日もなんなく渡り廊下を抜け、靴箱へと辿り着いた。
 私にとって中原くんと過ごす放課後ほど貴重な時間はない。今ではそれが、私が学校に来る
唯一にして最大の目的になっている。
 だけどこの日は、後味が悪かった。分不相応にも、また手首を切りたいなどと一瞬でも考え
たことがその原因だ。
私には中原くんがいる。それで十分なはずなのに。
それで十分なはずなのにそんな考えに囚われたのは、やはりここ最近の中原くんとの関係の微
妙なズレのせいだ。どうして、こんなことになってしまったのか。
 上履きから革靴に履き替え、靴箱の扉を閉めた。
運動部の掛け声が聴こえるグラウンドのほうへと足を踏み出し、校門へと向かう。
 中原くんと二人で歩いているわけではないので、クラスメイトの目から逃れてこそこそ隠れ
るように下校する必要はない。だけど見つからないに越したことはない。
私はいつものように、少し足早に校門へと抜けようとした。
そして抜けようとした私の足元に、グラウンドの砂利で汚れた球体が転がってきた。
それは学校の名前が刻印されたサッカーボールだった。
 私がボールに目を奪われていると、遠くから声をかけられた。
「五十嵐!」
その男の声には、聞き覚えがあった。ここ最近、よく聞く声だ。
私は足元のボールから視線を上げて、声のするほうへと振り返る。
 そこに立っているのは、背の高い優男。彼は身の丈より少し大き目のトレーニングウェアに
身を包んで、私に向けて手を振っていた。
遠くから見てもはっきり分かる。私の妹と同じ、根拠のない自信に満ちた瞳で、私の顔をまっ
すぐ見据えていた。
「悪い、ボール拾ってくれよ」
 彼――繁原勇樹は、悪意のなさそうな能天気な表情で微笑んでいた。

 近頃、彼は私の周りにまとわりつく。だけど彼とまともに言葉を交わしたのは、この時が初
めてだった。


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