第8錠『僕たちは遠くなってゆく』
水の中でもがくように、必死で五十嵐を抱いた。
ちょっと力を加えれば折れてしまいそうな彼女の身体に、全体重の半分を預けて覆い被さる。
パニクっている、と言われれば、その通りなのかもしれない。
鶴田さんや繁原のことを考えると胃が痛くなる。嘘の自分を演じて彼女の共感を得る、その繰
り返しにも疲れていた。
僕はただ単純に、五十嵐すみれという女性が欲しかっただけだ。
五十嵐の肩を強く握り、彼女の首筋を舌でなぞった。
五十嵐は僕の身体の下敷きになったまま、子供がぐずるように足掻いていた。
「ちょっと、中原くん」
耳元で聴こえる苦しそうな彼女の声にも、聞えないフリをした。
「イヤ、止して…」
僕が心の理解者として――宇宙でたった一人の理解者として以上に、異性として五十嵐を好
きであるように、彼女も僕を異性として好きであるならば。
しばらくした後、彼女は抵抗を止め、素直に僕に抱かれてくれるはずだ。
僕たちはもう、いいはずだ。
それだけのことをしてもいい関係に、なっているはずだ。
その、はずだったのに。
「やめてってば!」
彼女の両脚を掴もうとして身体を起こした途端、両手ではねのけられた。
途端に、催眠術が解けたみたいに、混濁していた意識がクリアになる。
息も絶え絶えに僕を見つめる五十嵐の鋭い目つきを見て、しまった、と思った。
「五十嵐……あの」
継ぐべき言葉が見当たらなかった。
気が付けば血の気が引いて、頭では良い訳を探していた。
「やめてよ、こんなの…」
五十嵐は僕から目を逸らして、ゆっくりと身体を起こした。
「今日のあなたは変…こんなの、違うわ…」
きっぱりとノーを突きつけられたようで、眩暈が僕を襲う。
五十嵐は彼女の下敷きになって皺くちゃになった衣服を手に取り、肌を隠した。
しばらく、無言の沈黙があった。
この部屋の中ではいつも、中身は陰鬱なものばかりだったけれど、それでもサーカスの一座が
踊るように、二人の言葉が弾んでいた。今では湿ったい夏の空気だけが残る。
踏み外してしまった。そんな気がした。
「ごめん、どうかしてた…」
そう言ってはみたものの、彼女は押し黙ったままだった。
これ以上彼女の機嫌を損ねると、もう今までのようには戻れない。今はなにを言っても、空
振りになる。そんな気がして、僕は制服のシャツに袖を通した。
「今日はもう帰って」
言われて、五十嵐のほうを振り返りつつ部屋を出た。
そのまま校舎を出て、校門を潜り、帰路につく。
電車に揺られながら車窓にもたれかかると、後悔の波が押し寄せてきた。
ひょっとすると、五十嵐は僕を嫌いになってしまったかもしれない。
帰り道もその後も、心はずっと真っ暗なままだった。
それからというもの、心が晴れない日が続いた。
放課後に五十嵐と会っても、僕たちの間には以前には存在しなかったはずの溝ができているよ
うに思えた。
五十嵐は以前のように僕を抱きしめてくれたが、僕が肌に触れる度に、彼女は警戒するよう
に、一瞬ぴくりと身体を強張らせる。
以前にも増して、訳もなく会話をしている時間が増えた。だけど、言葉は途切れ途切れだ。
互いにそのことについては一言も触れなかったが、あの日のことが尾を引いているのは間違い
なかった。
教室では、相変わらず僕たちは他人のままいる。
近頃は、繁原が五十嵐のいる女子のグループに接近して、休み時間などに軽く言葉を交わして
いた。繁原は単身でも、僕たちのほうを振り向くことなく堂々と女子の輪の中に入っていく。
何気ない会話の中に冗談を挟んで、よく女子たちを笑わせていた。
五十嵐のいるグループに近寄るのも、繁原なりの五十嵐へのアプローチの一手なのかもしれ
ない。傍観している限りでは、繁原の挙動に五十嵐を狙っていると感じさせるような節はな
く、誰にでも気さくに接する優男を演出しているようにしか見えない。
五十嵐に注意を呼びかけたかったが、どのタイミングで、どんな顔をして注意を促せばいい
のか、分からなかった。
僕がそんな悩みに取りつかれている間にも時は過ぎ、周囲も少しずつ変化し始めていた。
七月のある日のことだ。
早朝、いつものように遅刻ギリギリに登校してきた小林の顔が、憑きものでも落ちたように晴
れ晴れとしていた。
県大会の二回戦で敗退して落ち込んでいるものかと思いきや、そのことはすっかり忘れている
ようにすら思えた。
休み時間に、小林が自ら進んでその理由を教えてくれた。
「いやぁ、セクロスっていいもんですね」
それを聞いた僕たちは、みな揃いも揃って頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた。
「俺さ、こないだ県大会で負けたじゃん。その日の夜、エリカから電話かかってきたんだけど
よ、もうこっちは呆然としちゃって、まともに会話できねーの。したらエリカが、今からそっ
ち行くからちょっと待ってて、って言うんだよ。そんで慌てて部屋を片付けて、エリカを迎え
入れたのな。んでまぁその後は部屋で二人っきりになって、エリカに慰められたりして湿っぽ
い雰囲気になったりもしつつ(中略)いやぁもう、こっちは頭がフットーして言葉も出ない感
じでさ。もうね、腰を動かすのに必死。口には出さなかったけどよ、俺の三年間は野球だけじ
ゃなかったんだなって思ったね。エリカがいてくれなかったら俺は(後略)」
本当はいい話なのかもしれないが、小林の語り口が軽すぎるせいで、なんだいつもの能天気
な小林か、という感想しか出てこなかった。
とにかく、小林が無事に童貞を卒業できてよかった。僕たちは形だけの祝福の言葉を彼に送っ
た。ついこの前までは絶望的な状況だった二人の関係が好転したことも、素直に祝福したい。
そう、小林とその彼女は、ついこの前まで絶望的だったのだ。
僕は小林の言葉を通してしか二人の関係を想像できないが、それでも二人が、というよりも小
林が交際三年目にして大きな壁にぶち当たっていたことくらいは分かる。
いみじくも、小林は生々しい初体験告白のあとに、こう付け加えた。
「結局さ、いろいろ悩むことも多いけど、本当に好きな相手同士ってのは、最終的にうまいこ
といっちゃうもんなんだな」
なにノロけてんだよ、といって水野が小林の頭をはたいていたが、僕にとってそれは他人事で
はなかった。
気がつけば、僕はかつての小林と同じ状況に陥っていた。
見えない壁に行く手を遮られているみたいに、なかなか前に進めない。
今学期が始まってまだ間もない頃の会話を思い出す。確か小林は彼女を押し倒して一週間、口
を聞いてもらえなくなったのだったか。
五十嵐は僕と口を聞いてくれるが、前に進む手立ては未だに見つからない。
ずっと他人事だった小林の悩みと同じ悩みが、今になって我が身に降りかかる。
五十嵐と僕は、互いのことを本当に好きなのだろうか。
僕たちは、うまく行くのだろうか。
五十嵐との関係、繁原の存在に対する不安。
何一つはっきりとした態度が取れないまま、時間だけがゆっくりと確実に過ぎていく。
小さな傷口から入り込んだ毒が徐々に身体を蝕んでいくように、心に落ちた影だけが日増しに
濃くなっていくのを感じた。
期末試験が近づいたある日、いつものように五十嵐と会ってから家に帰ると、玄関の靴の数
が今朝より一人分多くなっていた。
ホワイトの光沢が綺麗なミュールだった。それを見ただけで、来客者の正体が分かった。若い
女性で僕の家族が家の中に上げるような人間は、そう多くない。
革靴を脱いで、笑い声が聞えるリビングに入った。
「ただいま」
「あら、おかえりなさい」
齧りかけのビスケットを片手に持ってダイニングチェアーに腰掛けている母親の向かいには、
久し振りに見る懐かしい顔があった。
「おかえり。お邪魔してます」
昔から変わることのない、混じりけのない純粋な笑顔とともに、彼女――小湊友里(こみなと
ゆり)はそう言った。
小湊友里…友里ちゃんとは、親がこの街に一軒家を購入し、僕がこの街に引っ越してきた頃
からの付き合いだ。
当時僕は小学五年生で、転校してきたこの街の小学校に馴染めずに、学校が終わるといつも家
に一人でいた。その頃は母親もパートの仕事をしていたので、僕には遊び相手と呼べる人間が
誰もいない状態だった。
そんな日々が一ヶ月ほど続いた。あるいは、二週間程度だったかもしれない。今となっては
正確には思い出せないが、あの頃の僕はとにかく時間を持て余していて、いつも寂しさを感じ
ていた。
近所の家にも僕の遊び相手になってくれるような同年代の子供は一人もおらず、隣の家に中学
三年生になる背の高い女の子がいるだけだった。それが小湊友里だった。
ある休日の日に、両親が二人とも用事で家を空けた。帰るのは翌日の午後になるというの
で、僕は一泊だけ小湊家に預けられることになった。
当時、年上の女の子がいる家に預けられる、ということが妙に恥ずかしかったような記憶があ
る。かといって僕にはまだ家に泊まりに行くような親しい友人はいなかったので、致し方なか
った。
小湊家の人たちは、僕を丁重にもてなしてくれた。
見るからに穏やかそうな若い夫婦と娘の三人家族で、僕のことを友里に弟ができたみたいだ、
と言って可愛がってくれたのを覚えている。
二人で遊んでなさい、と言われて僕は友里ちゃんの部屋に上げてもらった。
あの時、僕は緊張してあまり喋れなかった。元から口数が多いほうではなかったが、あの時の
僕はまるで喉に石でも押し込まれたみたいに言葉が出なかった。当時の僕にとっては、一つ年
上の女の子は“お姉さん”で、それが三つも離れるともはや“女性”という認識だった。
だけど、友里ちゃんは気さくに僕を構ってくれた。ほとんど面識のない僕を部屋に上げるこ
とにもなんの抵抗も示さず、僕が退屈しないようにといっしょにゲームをして遊んでくれた。
そんなことがあってから、友里ちゃんは時々僕の家に遊びに来てくれるようになった。
友里ちゃんの前では僕はいつも寡黙になってしまったけれど、彼女にそれを気にするような雰
囲気はなかった。友里ちゃんはこの街でできた、最初の友達だった。
その後、僕には徐々に友達ができ、それに比例して友里ちゃんが僕の家に遊びに来る回数も
減っていった。彼女が高校に進学する頃には彼女は家族とともに別の街に引っ越してしまい、
それ以降、僕たちの関係は微妙に変化していった。
それでも、別の街に引越してからも、友里ちゃんはたまに僕を訪ねてこの街に戻ってきてく
れる。
彼女が大学生になってからも、その関係は続いていた。
「要ちゃん、また背ぇ伸びた?」
僕の部屋に入るなり、友里ちゃんは爪先立ちをしながら、僕の頭部に手を伸ばした。
おかしな話だ。昔は、僕がチビで、友里ちゃんが背の高いお姉さんだったのに。
「前に会った時と、それほど変わらないよ」
「そう?少しだけ大人っぽくなったように見える」
友里ちゃんは慣れた動作で僕のベッドの上に腰を下ろした。
「男子三日会わざれば刮目して見よ、って言うもんね。大人っぽく見えて当たり前か」
そう言う友里ちゃんも、僕には前に会った時とは印象が全然違って見える。
落ち着いた物腰や穏和な雰囲気は変わらないが、目に見えない何かが以前より洗練されている
ように感じられた。僕たちがまったくの他人同士で、街中ですれ違ったとしても、僕は目を奪
われるだろう。
しばらく二人で話をした。
僕は座布団の上に腰を落ち着け、我が物のように僕のベッドの上に横たわる友里ちゃんと、互
いに楽な格好で最近身の回りに起こった出来事について語り合った。
会話はほとんど友里ちゃんが一方的に喋った。
今、同じ大学のゼミの先輩、二つ年上の院生と交際していると彼女は言っていた。
交際一年半で、二人の恋はなかなか順調らしい。
「結婚してくれって言われたら、うんって答えちゃうかな〜」
のろけ顔でそう語る友里ちゃんの横顔は、幸せそうに見えた。
「要ちゃんの話も聞かせてよ」
友里ちゃんはひとしきり自分のことについて語り終えると、今度は僕に語り手の役を振った。
友里ちゃんは、僕のなんでもないような学校生活の話題から、様々な方向に話題を膨らませ
ていく。彼女と話していると、うっかり喋らなくていいようなことまで口にしてしまう。将来
はニュースキャスターにでもなればいいと思った。
「彼女とかできた?」
不意にそんな質問をされた。
一瞬、どう答えようかと思ったが、結局僕はお茶を濁した。
「好きな子なら…」
そんなこと、クラスの連中には口が裂けても言えやしないが、友里ちゃんになら言ってもいい
と思った。
「へぇ、どんな子?」
友里ちゃんはベッドの上に肘をついて半分だけ身体を浮かせ、好きなテレビ番組を見る子供さ
ながら、瞳を輝かせて僕の顔を見ていた。
どんな子、と聞かれて僕は少し答えに詰まる。
五十嵐すみれはどんな子だろう。
クラスでは愛想のいい笑顔を振りまいているが、その実、心の中では自分と他人の間に明確な
線引きをして、人を遠ざけている。だが一方では、人に認められたいとも思っている。試験期
間になると、僕ですら彼女の思考に割り込む余地はない。
僕が五十嵐について考えて考えを巡らせている間に、友里ちゃんは矢継ぎ早に質問を重ねて
くる。
「その子のどんなところが好きになったの?」
友里ちゃんの言葉に、僕は少し胸が痛くなる。
僕はいつから、五十嵐を好きになったのか。
第一理科室で手首を切る彼女を見かける以前から、僕は彼女のことが気になっていた。
それまで僕にとって五十嵐は、控え目で落ち着いた雰囲気のただの女子生徒だった。
本当の顔なんて知らなかった。それでも僕は彼女に惹かれていたのだ。
彼女の肩にかかる長い黒髪が、友人に向ける素朴な笑顔が好きだった。
きっと五十嵐は、僕が嘘をつかなければ、僕に興味なんて示さなかっただろう。
あの日、あの時、僕が嘘をつかなければ、僕たちは他人のままだったはずだ。
だけどたとえそうであっても、僕が五十嵐を好きだったことに変わりはない。
僕が彼女に惹かれていたのは…
「僕は…」
言いかけて、言葉に詰まった。
友里ちゃんの顔を見る。
控え目で落ち着いた雰囲気の友里ちゃんが、長い黒髪を手で整えながら、僕を見ている。
ふと、小学生の頃の記憶が甦る。
友里ちゃんが引っ越してしまうと聞いた時、泣いた。
泣いて、その日の夜、折り紙に拙い字で手紙をしたためた。
友里ちゃんの引越しの日に車の中で読んでくれと言って手紙を渡した。
友里ちゃんがありがとうとだけ言ってくれると、僕は恥ずかしさと心細さでなんだか胸が苦し
くなり、慌てて家に引っ込んだ。
あの手紙は、あれからどうしているだろう。
今も友里ちゃんの家のどこかにあるのだろうか。あの後、友里ちゃんは手紙を読んで、なんて
思っただろう。あれから何度も友里ちゃんに会っているのに、その答えを聞いていなかった。
「…恥ずかしくて言えないなら、いいけど」
僕がいつまでも返事に詰まっていると、友里ちゃんはそう言ってあっさりと引いた。
その後、話題は再び友里ちゃんの大学の話へと移った。
日が暮れる頃に話題は尽きて、僕の母親に夕食を誘われるとそれを断り、友里ちゃんは「また
来るね」と言い残して帰っていった。
その日の夜遅く、五十嵐に電話をかけようと思った。
思ったが、なにを話せばいいのか分からず、散々悩んだ挙句にアドレス帳の画面を行ったり来
たりしただけで携帯のフラップを閉じた。
五十嵐を押し倒したあの日から、こんなことが増えた。なにかを話さなければいけない気が
する。なにを話せばいいのか分からない。僕たちははすれ違ったままだ。
片手に携帯電話を握ったままベッドの上に寝転がっていると、友里ちゃんの質問が頭の中で
ループした。
一つだけはっきりしたことがある。
僕は五十嵐の理解者だから彼女が好きなんじゃない。
好きだから、彼女を理解したかったのだ。
だが、それを伝えたところでどうなるというのだ。自分を理解してくれる――それ以外のこと
を五十嵐が望んでいるのか、僕にはもう、分からない。
「僕が彼女を好きになったのは…」
友里ちゃんの顔を思い出す。幼かったあの日の彼女の面影が、五十嵐と被る。
僕が彼女を好きになったのは、手紙の返事を聞きたかったからかもしれない。
そうやって悩んでいる間にも、僕たちはどんどんずれていく。