第7錠『嘘と本音』
僕が嘘をつくのは、五十嵐の本当の顔が見たいから。
いつからか自分を偽って暮らすようになった五十嵐は、クラスの中ではいつも本当の顔を隠し
ている。軽蔑や劣等感は腹の中に押し込めて、不似合いな偽りの微笑を浮かべてばかりいる。
だけど彼女は、僕の前では偽らざる本心を語り、心の底からの感情を表に出してくれる。
他の誰かの前では決して見せない、寂しげな憂い顔を。虚飾のない、安心しきった微笑みを。
だから僕は、次から次へと嘘を並べる。
だけど、嘘をつけない時だってある。
僕は五十嵐の理解者でもなんでもない、ただの平凡な高校生に戻ってしまう。五十嵐の顔から
は表情が消える。そんな時だ。
―――それがまさに今だった。
僕は放課後の理科室で、鶴田さんに僕らの関係がバレたと、五十嵐に伝えた。
「昨日、そのことをきみに相談するつもりだった。きみが学校を欠席していなければね」
五十嵐はしばらくの間、犬の死骸でも見たように顔を強張らせていた。
無理もない。この理科室での密室デートを、大切な写真のようにそっと仕舞っておきたい、と
言っていた五十嵐だ。鶴田さんの件に対する動揺は、僕と同じか、あるいはそれ以上だろう。
「いつかはそんなことにもなるかと思ってたけど…困ったわね」
「気休めじゃないけど、鶴田さんへの説明は保留にしてある。とりあえず落ち着こう」
そう言ってはみたものの、すぐに冷静になれるほど事が簡単ではないことは、僕にも分かっ
ていた。なにせ、鶴田さんに五十嵐との関係を問いただされてから二日が経過した今でも、僕
は落ち着けないでいるのだから。
その上さらに、繁原のこともある。
僕と五十嵐が心の理解者として互いを認め合っている限り、仮に繁原が五十嵐になんらかのア
プローチを行ったとしても、万が一にも五十嵐がなびくとは思えない。
思えないが、不安は消えない。
鶴田さんのこと、繁原のこと。その両方を考えると、息が詰まりそうだった。
自分の肝の小ささに辟易する。
「ヘタに嘘をつくのは危険だわ。鶴田さんの良心を信じて、正直に話しましょう」
五十嵐の出した結論には、僕も同意見だった。
第三者に僕たちの関係が露呈した場合の最大の懸念は、その人間の口から噂の火の粉が散るこ
とだ。だけど、クラスでの様子を見る限り、鶴田さんが他人の秘密をあっさり口外するような
浅慮な生徒だとは思えない。
鶴田さんに僕らの関係を告白する役は、僕が買って出た。
「きっと大丈夫よね、鶴田さんなら…」
五十嵐は心なしか不安そうだった。
しかし彼女以上に、僕のほうが不安を感じているはずだ。五十嵐と違って、僕と鶴田さんに
は浅からぬ因縁がある。僕と五十嵐との関係を説明する際には、おそらくその辺についても問
われることになるだろう。お忍びデートが発覚した芸能人の気分だ。
鶴田さんの一件についての打ち合わせが終わると、僕たちはいつものように制服の上だけを
はだけて、椅子に座りながら、あるいは机の上に寝転びながら戯れた。
だけど全然楽しくなかった。
この日の僕たちは、どこか作業的だった。鶴田さんの件でのショックが尾をひいていたのかも
しれない。
ズボンの革のベルトに手をかけようとしたところで、五十嵐に腕を掴まれた。
彼女は幼い子供がいやいやするように、首を横に振った。
「…やめて」
「どうして?」
「気分じゃないの」
そんな気分になったことなんてないくせに、と思ったが、言わなかった。
僕は黙って引き下がり、再びさっきまでの作業――とりわけ五十嵐の下着の中を指先でまさ
ぐることに没頭した。
僕の指が穴の縁をなぞると、五十嵐は痙攣したようにびくりと身体を微動させ、口の端から
小さく息を漏らした。この日の彼女は、女っぽかった。
…五十嵐らしくない、と思った。
だけど一心不乱になって愛撫を繰り返したり、柄にもなくズボンを脱ごうとする僕を見て、
彼女もこの日の僕のことを、僕らしくないと感じているかもしれない。
実際、この日の僕は少し変だった。
五十嵐の身体を確かめながら、頭の中では繁原が告げたセリフのことばかり考えている。
昨夕から、焦燥感のようなものが僕を捕らえて、離さない。
五十嵐のほうも、学校を欠席した昨日、なにかあったのではないだろうか。誤って携帯電話
を洗濯機にかけてしまったと言っていたが、そんな冗談みたいなことではなくて、もっと別
の、なにかが。
確かに僕たちは、どこか変だった。
制服を着る時も、二人揃って仲良くボタンを掛け違えた。
「またエリカに断られましたwww俺涙目www」
翌日の昼休み、いつものように僕の机を中心として群れ集った仲良し四人組は、相変わらず
進展のない小林の恋愛話に付き合っていた。
外はとても今が梅雨だとは思えないような雲ひとつない晴天。なのに、ほとんどの生徒が教
室で午後の授業までの時間を潰している。小林の話を適当に聞き流しながら、視界の端に鶴田
さんの姿を捉えることができた。
昨日五十嵐と打ち合わせた通り、鶴田さんに僕と五十嵐の関係をはっきり告げなくてはいけ
ない。放課後の教室に呼び出すつもりでいるが、その時のことを考えると、今から気が重い。
「来月から大会なんだし、変なこと考えずに野球に専念しろだってよ…ありえねーよ」
小林はきれいに日焼けした両腕で頭を抱えながら、その場にうずくまった。
聞くところによると、小林が所属するこの学校の野球部は、対戦高のビデオを部員の自宅で
研究すると言いつつ、結局みんなでアダルトビデオを観賞しているような低次元な部だそう
だ。深刻に悩む小林には同情するが、野球に専念しろという小林の彼女の言い分も、否定はで
きない。
小林とその恋人の淡白な関係についての話題は、一年の間に何十回、何百回も繰り返し聞い
ている気がする。そして何度聞いてみても、一向に進展する気配がない。
「トーナメント一回戦でエラーでもしようもんなら、即別れられる勢いだな」
「三年間付き合ってて未だセクロスなしってお前…もう無理だろ、常識的に考えて…」
冷やかす水野に、見ているこっちが辛くなるような精気のない笑みを浮かべる小林。
繁原は携帯電話をいじりながら、小林の身の上話を聞くともなしに聞いていた。
「どうしたらいいんスか繁原先輩。ねぇ俺どうしたらいいんスか繁原先輩」
小林は頼れるのはお前だけだ、と言わんばかりに繁原の肩を揺すった。
「どうするってお前、ぶっちゃけもう手詰まりじゃん。別れろよ」
「そんな冷たい!なんかないんスか、必殺の落とし文句みたいなのないんスか」
「必死すぎてキモい。ていうか俺三年も誰かと付き合ったこととかないから、悪いけどアドバ
イスのしようがねぇよ。三ヶ月経って無理だったら諦めるよ俺は。セックスって三ヶ月以内に
するもんだろ普通」
三ヶ月以内に性交渉を持てなければ望みは薄い、と繁原はつけ加えた。三年経ってもそこに
辿り着けずにいる小林、立場なし。
「はぁ…毎日財布ん中にコンちゃん待機させてんだけどな…」
小林が財布の中からそれを取り出そうとして、教室の中でそんなもん取りだすな、と繁原に頭
を小突かれていた。
そんなくだらない会話を傍聴しつつ、僕は小林の悩みを自分に重ねて考えていた。
僕と五十嵐の関係は、もうとっくに三ヶ月を越えている。
だけど僕たちは、未だに一線を超えないでいる。
毎日、くすぐったいくらいの軽い戯れを繰り返していても、その先には行かない。
行ってはいけないような、暗黙の了解があった。
子供が父親のライターに火を灯すような、軽い火遊び。僕たちはその域を超えてはいない。
何度も何度も、互いのことを心の理解者だと呼び合いながら。
僕たちは、「好きだ」とも「愛している」とも、一度も言ったことがない。
僕に関して言えば、それは五十嵐の気持ちを確かめるのが怖かったからだ。
五十嵐が僕のことを、自分と同じ人間、理解者であると思ってくれているのは間違いない。
だけど、それを恋愛関係だと認識しているかどうかは疑わしい。
恋人同士だとか、男と女とか。
彼女は僕たちの関係を、そんなふうには捉えていないんじゃないだろうか。もっと特別ななに
かだと思っているのではないか。
そう考えると、彼女の真意を確かめることも、一線を越えることもできなかった。
そうやって子供の火遊びのような関係が、ずるずると続いていた。
「そういえばお前は結局今誰を狙ってんだよ!」
逆ギレした小林が、不意に繁原にそんなことを訊ねた。
「まだナイショ」
そう言ってごまかす繁原に、んだよー、と言って小林はふてくされる。
会話を聞きながら、僕は心臓を掴まれたような気分になった。
僕は知っている。今、僕の隣で笑っている繁原は、五十嵐すみれを狙っている。
額に汗が滲む。
もしも。もしも繁原が五十嵐と恋愛関係になったら、二人は三ヶ月以内にことを済ませるだろ
うか―――
一瞬不安になって、すぐその考えを頭から振り払った。
繁原には、僕と五十嵐の関係を告げていない。僕たちの関係は誰にも秘密だ。
小林の馬鹿話に付き合いながら、繁原は心のどこかで五十嵐を手篭めにする手はずを考えてい
るのかもしれない。
ならばいっそ、五十嵐に繁原に注意するよう言っておくべきか?いや、それもできない。
それは間接的に、僕が五十嵐の恋人という立場にいるつもりだと彼女に告げるようなものだ。
そこでもし五十嵐に僕たちの関係が男女のそれではないとはっきり言われでもしたら、僕は立
つ瀬がない。
忘れようとしていた焦りが、また甦った。
放課後、教室に誰もいなくなるのを待って、鶴田さんを呼び出した。
本来は、密談をするならこんな場所は相応しくないのかもしれない。ただ、メールや電話で話
を済ませるような不躾な真似をするつもりはなかったし、五十嵐とのデートのためにこの後も
校内に残ることを考えると、他に人気がない場所が思い浮かばなかった。
「大事な話って、五十嵐さんのことだよね?」
問われて、僕は正直に頷いた。
放課後、二人きりの教室。肌にまとわりつく湿気と、校庭から聴こえる野球部のかけ声。
僕に告白した時とまったく同じシチュエーションで呼び出されて、鶴田さんはどう思っている
のだろう。
「正直に話して。黙って、聞くから…」
鶴田さんに促されて、僕はたどたどしく五十嵐との関係について話した。
二年生の三学期から、クラスメイトには内緒で密会を重ねていること。
鶴田さんの地元の海には、デートで行ったこと。
第一理科室についての説明は、割愛した。
僕がひととおりのことを話し終えると、鶴田さんはどこかやりきれないような表情を僕に向
けて、言った。
「…中原くんって、嘘つきだね」
「え?」
一瞬、息が詰まった。
釈明の内容とか五十嵐との関係とかそんなことではなく、もっと本質的な部分を指摘された気
がした。
「恋人はいないって、言ったくせに…」
そうだ。僕は五十嵐との関係については伏せたままで、鶴田さんの告白を断っていたのだ。
「あの時にちゃんと話してくれてたら、もっと簡単に諦められたのに…」
鶴田さんは女の子らしい仕草で、目元をそっと拭った。
僕には返す言葉がなかった。
鶴田さんと別れた後、いつものように第一理科室を訪ねた。
五十嵐は読書をしながら時間を潰していたようだった。僕を見ると、本に栞を挟んで立ち上が
る。僕もドアの内側の鍵を閉めて、彼女に歩み寄った。
「どうだった?」
「ちゃんと納得してくれた。このことは誰にも話さないって」
「そう。良かったわ…」
安心したように胸を撫で下ろす五十嵐。
そして僕たちは、それぞれの左腕と右腕を相手に向かって差し出し、手首に刻まれた傷を、
互いの絆を確認した。
この決まり事も、もうすぐ四ヶ月になる。
決まりきったことばかりを繰り返して、いつの間にか、それだけの時間が経っていた。
自分の恋愛感情に対する五十嵐の明確な解答を得ないまま、五十嵐といっしょにいられるとい
うことだけで僕は満足していた。
三ヶ月以内に性交渉を持てなければ望みは薄い、と繁原は言った。
彼の言葉を真に受けたわけじゃない。だけど、彼が五十嵐に目をつけたことへの焦りと、鶴田
さんへの名状し難い罪悪感は、もうごまかしようがないところまできていた。
僕たちは机の上に寝そべって、今日も互いの身体に触れ合った。
五十嵐は独白なのか講釈なのか、よく分からないとりとめのないことを喋りながら、僕の指先
を、舌を、受け入れる。
蒸し暑い密室の中、僕たちの身体には玉のような汗が薄っすらと滲んでいた。
五十嵐の言葉は途切れ途切れで、合間に乱れた呼吸が混じる。
僕は彼女に馬乗りになったまま、昨日そうしたように、ズボンのベルトに手を掛けた。
「なにするの?」
薄目になった五十嵐が、顎を引いて僕の顔を見つめた。
「今日も“気分じゃない”かい?」
「……」
「五十嵐」
五十嵐は複雑そうな表情をしていたが、僕はかまわず続けた。
「好きだよ」
ほんの数秒か、あるいは一瞬。待ってみたが、返事はなかった。
僕はベルトを解いて、ズボンを腰の下に下ろした。
頭の中には、僕と五十嵐の関係を告げられた時の鶴田さんのショックを隠しきれない表情
と、無邪気な笑顔で五十嵐を狙うと言った時の繁原の顔が浮かんでいた。
だけどすぐに頭の隅へと追いやった。
焦りや罪悪感、そんなものは置いていく。僕はその先が見たい。
「…どうしたの?」
この期に及んで、五十嵐はそんなことを言う。
とことんはっきりしてくれない人だ。
「きみのことが好きで好きで、どうしようもない」
それだけ言って、ズボンを踵の位置まで下げた。
嘘ではなく、そう言った。五十嵐の顔からは表情が消える。
そのまま覆いかぶさるように、五十嵐の上に落ちていく。
さっきよりも強い力で、彼女を抱いた。