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第6錠『五十嵐すみれ(1)』




 私が夢飼玲那(ゆめかい れな)と名乗る女性と知り合ったのは、半年ほど前のことだ。
その頃の私は手首が切りたくて、インターネットでその手の人間が意見を寄せるようなコミュ
ニティを徘徊していた。彼女とはそこで出会った。
 彼女はなにかの折に「カメレオンになりたい」と言った。
美しい人間、醜い人間…この世界は色とりどりの色彩を帯びた人間で溢れている。
だけど自分は他の誰とも似ていない。不気味に変色していて、自分でもどんな色をしているの
かが分からない。それが自分を孤独にさせる。せめてカメレオンのように、人に合わせて自由
に色を変えられれば、こんな辛い想いはしなくて済んだのに――
 誰にも理解されない不良品、という点で、私と玲那は共通していた。
私には玲那のように人間に対する飢餓感はなかったが、彼女の煩悶は理解できた。
彼女は私の心の理解者にはなり得ないだろうが、きっと他の誰よりも私と近いところにいる。
そう思ったのが、彼女とメールをやり取りするようになったきっかけだ。

 それから半年が過ぎて、私は初めて玲那と会うことになった。
今月に入ってから、彼女のほうから何度か「一度、実際に会って話をしてみたい」という要求
があったので、それを引き受けた。
 もっとも、私は内心、その話にあまり乗り気ではなかった。
今の私には、中原要という良き理解者がいて、今では手首を切ってみたいなんて、考えもしな
い。そんな毎日の中で、私にとって彼女はただのインターネット上の知り合い、という以上の
存在にはなり得なかった。
ただ、彼女がどうしても一度会いたいというのなら、それくらいいいかな、と思っただけだ。
 彼女はフリーターだが、休日は仕事で予定が埋まっているという。仕方なく私が学校を休ん
で、平日に会うことになった。
 待ち合わせ場所は、とある都会の喫茶店に近い公園。
どんな目的でそうしているのか、昼間からせわしなく目の前を通り過ぎる人の群れに少しだけ
うんざりしながら、彼女を待っていた。
「あの、スミレさんですか?」
 約束の時刻に少し遅れてやってきた夢飼玲那は、地面に叩きつけられたカラスみたいな黒い
ドレスを纏って、私の前に現れた。


「思っていた通り、スミレさんって綺麗」
 夢飼玲那と入った喫茶店の中は、床から天井まで白と黒を基調にインテリアデザインされ
た、ゴシック趣味の強い空間だった。
そんな日常と隔絶されたような店内の雰囲気に、黒ずくめの玲那はよく似合った。
「私もあなたのような外見に生まれたかったわぁ」
彼女は品のない仕草で、鼻水でもすするようにずずずとカフェを飲んだ。ストローにつけた唇
には、紫色の口紅が塗られていた。
 夢飼玲那のファーストインプレッションは、派手な女性だった。
黒いドレスを着てはいるものの、指に、首に、耳に鼻に唇に、全身に金銀のアクセサリーが散
りばめられているため、一見しただけで彼女が特殊な人間だと分かる。黄色と黒の髪の毛も特
徴的だった。化粧も派手で、まぶたに黒のアイシャドーが敷かれた双眸は、カラーコンタクト
のせいか、そこだけ見ればファンタジーの中の住人に見えた。
全体として少し肉が余り気味に見えるが、本人は気にならないのだろうか。メールで彼女は近
頃食べ物が喉を通らないと言っていたが、それくらいで丁度良いかもしれない。
 全身をコーディネイトするのに何時間かかるのだろうかと考えながら、私は彼女の話を適当
に聞き流していた。
「きっと男どもからも好かれるんでしょうね」
「そんなことないですよ」
彼女の物の言い方はどこか厭味っぽくて、あまり受け付けなかった。
 そうか、こんな人間もいるのか、と思った。
ネットでの彼女と今目の前にいる彼女との間にギャップを感じたわけではないが、なんだか少
しガッカリだ。
 会話を進めていく中で、私の反応とは別に、彼女は喜色満面といった感じで、自分の過去の
恋愛について語ったりした。
かつて新宿のホストと交際していた、と言った時の彼女の表情は、どこか自慢げに見えた。
「私を捨てたら死んでやる、って言って彼の前で手首を切ってみせたの。そしたら彼、私の前
で泣いて謝るのよ。ケッサクよね。優子がいないと生きていけない、って懇願するんだから。
あ、優子っていうのは私の本名ね。まぁ私も別に本気だったわけじゃないし、適当に頃合を見
て捨ててやったけどね」
 男のほうがあなたに捨ててもらえるよう仕向けていたんじゃないですか、と言おうと思った
が、失礼かと思って黙っておいた。
 恋愛のことのほかに、玲那は自分が好きなインディーズロックバンドの話なんかもした。
彼女は自分が教祖と崇めるバンドのボーカルと先日ツーショット写真を撮ってもらうことに成
功したそうで、画質の粗い写メールを得意げに私に見せた。
今日と同じような格好の彼女の横で、コスプレみたいな奇抜な格好をした化粧の濃いキザな男
が、こっちを向いて舌を出していた。
 学校は退屈で辞めてしまった、という話も聞かされた。周囲にいた同世代の人間のレベルが
低すぎた、と言って玲那は笑う。どうせ進学しても状況は変わらないだろうと思い、彼女はフ
リーターの道を選んだらしい。
 そんな興味が沸かない話ばかり聞かされていくうちに、私の中で夢飼玲那はどんどん遠い存
在になっていった。
彼女が私と近い?そんなはずはない。
この人と私は何一つとして似ていない。とんだ思い違いだった。
 目の前でべらべら喋る女の声が、どんどん遠ざかっていく。

死にたいのに死ねない、と言っていた彼女はどこだ。
裏切られるくらいなら人との関わりなんていらない、と言っていた彼女はどこだ。
カメレオンになりたい、と言っていた彼女はどこだ。
 憂鬱の仮面を被って、様々な形で人生を楽しんでいるではないか。
ならばもう。
あなたはとっくに、カメレオンだ――――

「でね、この前その友達にメール送ったんだけどぉ、いくら待っても返事が返ってこないか
ら、私もうイライラしちゃって。で、また切っちゃった」
 目の前で団子みたいな顔が不細工に笑う。
彼女は私の前にご自慢の手首を晒して見せた。彼女の太い手首には、私と同じようなリストカ
ットの痕が、幾重にも連なっていた。
「情緒不安定になると、ついやっちゃうのよね〜」
うっとりとした声でそう言って、彼女は子供の頭でも撫でるように、優しく自分の手首をさす
ってみせた。
どうも、腑に落ちない。
「リスカって、数を誇るもんなんですか?」
訊ねると、彼女は一瞬怪訝そうな表情を見せた。
「別にそういうわけじゃないけど、止めようと思って簡単に止めれるものじゃないじゃない?
煙草と同じよねぇ。あなただってそうでしょ?」
彼女は私の手首に視線を落とし、口の端を少しだけ釣り上げて言った。
「あら、意外と綺麗ね?あなたの手首」
彼女が勝ち誇ったような表情でそう言った途端、私の中で、なにかが弾けた。
そんなことはお構い無しに、彼女は続ける。
「でも、きっとあなたも、あと二年もすれば傷だらけになるわ。私とあなたは、同じ種類の人
間だと思うから…」
 玲那は指先を机の上で滑らせて、やがて私の手のひらに触れた。
まるで自分の愛玩物に触れるように、私の手のひらを撫でる。
 気持ち悪い彼女の指の感触を感じてから私がその行動に出るまで、二秒とかからなかった。
机の上にあったグラスを手に取り、彼女の顔におもいっきり水をぶち撒けてやった。
 ばしゃあんと水が弾ける音がして、他の客が私たちのほうを振り返った。
「な、なにすんのよっ!」
私は立ち上がって、水でメイクが滲んだ不細工な顔を見下ろしていた。
「あんたといっしょにしないでくれる?」
 それだけ言い残して、会計も払わずにその場を離れた。
背後でなにかを叫ぶ玲那の声が聞えたが、気に留めなかった。

 駅前で、公衆トイレに入る。
年代物の洗面台の蛇口を目一杯緩めて、ごしごしと手を洗った。
あんな女に同属扱いされただなんて、心外過ぎる。
一刻も早く、あの分厚い指先の感触を、私の手のひらから消してしまいたかった。
 いや、そもそも、あんな女と楽しくネットで文通なんかしていた私が愚かだったのだ。
彼女が抱える深刻な悩みに、不覚にも共感していた自分が嫌になる。
口先だけの薄っぺらい深刻さに、自分のことを重ねていたなんて。
もうあの女とメールをするのは止そう。
「あの女と私は違う…あんな女と、私は違う…」
気がつくと、自分に暗示をかけるように呟いていた。
 考えれば考えるほど嫌気がさして、私はそのまま五分近く手を洗い続けた。


「ただいま」
 夕方、家に帰ると、真っ先に洗面所に向かった。
うがいをして、そこでもハンドソープで手を洗った。
喉を潤したくて冷蔵庫のあるキッチンに向かうと、流し台の前に母親が立っていた。
母親は、自分にたかるハエでも見るような目つきで、私を見る。
「あんた、学校サボってどこ行ってたの?」
「別に」
 母親を無視して冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、一気に喉に
流し込んだ。
 空になったペットボトルをテーブルに置こうとして、調度品のない簡素なテーブルの真ん中
に、わざとらしく私の携帯電話が置かれているのが目に入った。
昨日の夕方から、行方不明になっていた私の携帯電話。
いずれ見つかるだろうと思って探さないでいたが、一日経ってこんな形で目の前に現れるなん
て。
「これ、どこで見つけたの?」
「洗濯機の中で。あんたの制服のポケットの中に入ってたわよ」
母親はなんでもないようにそう言った。
 携帯電話を手に取ってみると、液晶画面の上に気泡と目が痛くなるような歪な斑模様ができ
ていた。電源ボタンを押してみても、液晶のバックライトは落ちたまま、起動音は聞こえてこ
なかった。
 もし中原くんから連絡が来ていたらどうしよう、と思った。無断で学校を休んだりしたか
ら、ひょっとしたら通信センターにメールが溜まっているかもしれない。
まぁ、どのみち明日になれば、また放課後に顔を合わせる。むこうになにか用件があれば、そ
の時に聞けばいいかと思った。
 母親の顔を見ると、わざとらしく笑みを浮かべていた。
うんざりして、溜め息が出る。
「そうそう、電話といえば今朝、あんたのクラスの担任から電話がかかってきたわよ。娘さん
は今日欠席ですか、って。なんで私があんたの代わりに欠席の旨を伝えなきゃいけないの?自
分のことくらい自分でやりなさいよ。いちいち私の手を煩わせないで」
 …またか。
この人の厭味ったらしい言い方は、どうして四十を過ぎても治らないのだろう。
彼女は、私が学校を休んだこと自体は問題にしなかった。
彼女はただ、私のことで自分の手間が一つ増えたことが、気に食わないのだ。
「いちいちって何?どうせ朝の二、三分でしょ?それくらいのことで目くじら立てないでよ。
暇な専業主婦なんだから」
私がそう言うと、母親のヒステリー性に火がついた。耳に蓋をしたくなるような大声で、母親
がまくしたてる。
「その専業主婦のお陰でダラダラと好き勝手に生きてるのはどこの誰よ?あんたたちが自分じ
ゃなにもできないガキだから世話を焼いてやってるんじゃないの?私だって、あんたたちがい
なければ、外で好きに仕事してるわよ!」
 まったく、いつもこうだ。
この母親は、自分のことしか考られないのだ。つくづく、嫌になる。
「お嬢様で大学出てすぐにお父さんと結婚して、ろくな職歴もないくせに。お父さんだって、
あなたに仕事なんかできるわけないって分かってるから、専業主婦をやらせてるのよ」
 それだけ言って、部屋の隅にあるゴミ箱に向けて、動かなくなった携帯電話を思いっきり投
げつけた。携帯電話は大きな音とともに壁の上を跳ね、母親の足元に転がった。
母親はそれを拾うと、今度は逆の向き――私が立っているほうの壁に向かって、思いっきりそ
れを投げつけた。
やはり私の背後で、大きな音がした。それだけだった。

 二階の自室に上がろうとして廊下に出ると、壁際に制服姿の妹が立っていた。
妹は私より一つ年下で、つい先日十七になったばかりだ。
 どうやら彼女は私と母親の会話の一部始終を立ち聞きしていたようで、口元に手を当てて、
堪えきれないという感じでくすくすと笑っていた。
「面白いね、お姉ちゃん」
「…うるさい」
私と正反対の性格に産まれた妹は、明るい色に染められた髪の毛先を指でいじりながら、挑発
するような声で私に尋ねた。
「ねぇ、私とお姉ちゃん、どっちが大人で、どっちが子供かな?」
「知らないわよ、そんなこと」
 面倒だったのでそう返してやると、妹は鼻と鼻がぶつかりそうなところまで私に顔を近づけ
てきて、下から覗き込むように私の目を見た。
…嫌な目だ。
「私のほうが、いろいろ大人だったりしてね」
そう言って、彼女は薄いピンクが敷かれた自分の唇を、わざとらしく指で弾いてみせた。
 一瞬、妹がいつもリビングで誰かと止むことなく電話している姿を思い出した。そんな光景
を見る都度私は、彼女がどこで誰とどうなろうが、私には関係ないことだと思っていた。
「…どっちだっていいわ」
 そう言って私は妹を払いのけ、階段を上がった。
耳に入ってくる妹のくすくすという笑い声が、癇に障った。

 部屋に戻るなり、扉に施錠してベッドに飛び込んだ。
仰向けになると、全身から力が抜けて、掛け布団の羽毛に半日分の疲れが吸い込まれていくよ
うな気がした。
「ニセモノばっかりだ…」
 自然と、そんな言葉が口を突いて出てきた。
虚無感に沈む自分に自己陶酔しているだけのカメレオン、
中身が成長しないまま年輪だけを重ねた自己中心主義の大人になれない大人、
享楽的な生き方を格好良いことだと信じ、根拠のない自信に満ちた子供、
どいつもこいつも、とんだニセモノだ。
誰も彼も、私を苛立たせる。
 今日もまた、胸の中に気持ち悪いモヤモヤしたものが蓄積されていく。身体は楽になって
も、心はどこか重たいままだった。
 掻き毟るように、クッションに爪を立てた。
「気に入らない…」
気に入らない気に入らない気に入らない。
あの人たちの私を見下したような視線が気に入らない。
あの人たちのことでいちいち苛立つ自分が気に入らない。
 ホンモノは中原くんだけだ。
彼の前でなら、私は裸になれる。文字通り、身も心も許すことができる。
だけど、それ以外の連中は…――
 なにも考えたくないのに、目を瞑っても、私を苛立たせる人たちの顔ばかりが、瞼の裏にチ
ラつく。こんな落ち着かない気分は嫌だ。
…眠ってしまいたい。

 立ち上がって、私が小学校に入学した時からこの部屋にある勉強机の前に立った。
二段目の引き出しから鍵を取り出し、その鍵で一段目の引き出しを開く。
引き出しの奥にある、錆びたペンケース。その中から、目的のものを取り出した。
 デパス。
これを飲めば苛立ちも不安も緊張もたちどころに消えてなくなり、後には凪の海にも似た平穏
と、その海の底にゆっくり沈んでいくような睡眠効果だけが残るという、魔法の薬だ。
「ごめんね?中原くん」
 唯一私に共感し共鳴してくれる人間である彼は、自分の存在が私の心の平静を保っているの
だと信じている。だけど、理屈じゃない。
理解者の存在とは関係なく、心に影が差すことはある。
すべてが嫌になり、忘れてしまいたいと思うことはあるのだ。

だって誰も、私を救えやしない。

 これを飲めば。
私は、何事にも胸を痛めなる必要はない。ただ、安らかな眠りに抱かれるだけ。
 3ミリグラムの錠剤を一粒手に取って、引き出しを閉めて部屋を出た。
洗面所で手のひらに水をすくって、それといっしょに錠剤を一気に嚥下した。
たったそれだけのことで、すべてが楽になる。

 私は部屋に戻ると、再びベッドの上に飛び込んだ。こころなしか気分が軽い。
やがて緞帳が下りるようにゆっくりと、私の意識は眠りの中に落ちていくだろう。
どんなニセモノも、夢の中までは追ってこれやしない。

消えてなくなれ。
私を煩わせる者は、みんな。


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