思い立って40才代半ばで山に登りはじめた。世の中にこんな面白いことがあったのかと夢中になり、今、50才代半ばになってようやく山が見えてきたような気がします。 |
and more........ 手元の国語辞典で「篤志」という言葉を引いてみました。「志のあついこと。公共事業・社会事業などを熱心に援助すること」とあります。公共事業も社会事業もあまり縁がありませんから「志があつい」ということについて考えてみます。 だいたい、山に登ろうという人は「志があつい」。思い荷を背負い、困難と闘い、ひたすら高みを求めるのだから志がないわけがありません。このへんのところは異議を唱える人はいないと思います。 ところが、これに「一部の」という一言がつくと意味合いが随分と変わってきます。例えばこうです。「一部の篤志家によってしか歩かれていない藪山・・・」といった調子になります。どう割り引いても変わり者・偏屈者といったニュアンスに満ちています。藪山、マイナー登山の定冠詞といってよいほどです。 それにもかかわらず、不思議なことに私にはこの言葉がいつの頃からか心地よく響くようになってきたのです。地図とコンパスをたよりにわずかばかりの直感をあてにして、道なき道をたどることの魅力にはまり込んでしまったようです。一歩間違えば丸一日ワンデリングしてもとの場所に戻ってくるといった危うい世界なのですが、屈強な自然の力の中に身をゆだねることに喜びを覚えるようになってきました。 展望もなく、はね返されるような蜜藪をかきわけることに何の楽しみがあるのかと聞かれると返事に困ってしまいますが、手付かずの自然に出会い、時代の流れに見捨てられた杣道が自然に戻っていく姿に遇うとき、言いようのない感動にひたることことができる自分を発見します。 のぞむべくもないことですけれど、できればマタギのように、サンカのように、自由に山をかけめぐりたいのです。奇妙な言い方かもしれませんが私は今「一部の篤志家」になりたいと願っています。 |