第5錠『雨は止まない』
僕と五十嵐が理科室で逢うようになって、まだ間もない頃のこと。
彼女にこんな質問をされたことがある。
「あなたは大切な写真は額に入れて飾る?それとも、アルバムに大事にしまっておく?」
僕は窓辺の光の下、雪解けの朝のように輝く五十嵐の腹部を指でつつとなぞりながら、自分
の部屋の風景を思い出していた。
昨年の修学旅行の写真や中学時代の部活の集合写真など、それなりに思い出のある写真はすべ
て、額に入れて机の上に飾ってある。
「額かな」
奇を衒った返答を考えたりはせず、正直に答えた。そこで五十嵐と意見が分かれた。
「私は大切な写真は全部アルバムに入れているわ」
ちょっと考えてみたが、普通は逆なんじゃないだろうか。
大切なものほど、目に付く場所に置いておきたい。僕なら、何度も見返したくなるような写真
をアルバムに入れて部屋の隅に追いやることはしない。アルバムに入れるなら、記憶とともに
その写真が色褪せてしまってからだ。
五十嵐は机の上に仰向けになったまま、僕の首筋にその小さな両手を添えた。
「私はね、本当に大切なものは、他の誰の目にも触れない場所にそっとしまっておきたいの
よ。宝物は目立つ場所に無防備に置いたりはしないの」
自分にとって価値のあるものは自分だけのものにしたいの、と彼女は続けた。
そう説明されれば、分からない理屈ではない。
「もっとも、昔の写真なんて、全部焼いて捨ててしまったけど」
見ていると辛いもの、と言って彼女はシニックに笑ってみせた。
「今、私にとって本当に価値があるものは、あなたとこうしていられる時間だけ」
五十嵐はその両腕で僕の頭を包み込むと、そのまま自身の下腹部に抱き込んだ。
僕は彼女の子宮のあたりに耳を当てながら、片手で机の上をまさぐった。
ざらついた金属質な手ごたえを感じ取ると、そいつを指先にひっかけて回して見せた。
「こいつもそうだろ?」
今や五十嵐の所有物となっている、失われたはずの第一理科室の鍵。
僕たちだけの楽園に通じる鍵だ。
「そうね。大切にするわ」
もちろん、この鍵を僕たちが持っていることも、二人だけの秘密として、そっとしまっておか
なくてはならない。
その日から明確に、僕と五十嵐はクラスでは他人として過ごすことを決めた。
僕たちが放課後の密室で通じていることは、誰にも邪魔されない、二人だけの秘め事だ。
本当に大切なものは、他の誰の目にも触れない場所に、そっとしまっておく―――
《おかけになった電話番号は、現在電波の届かないところにあるか、電源が切れて――》
無機質な音声アナウンスを途中で切って、僕は携帯電話のフラップを閉じた。
これで五十嵐に電話をするのは本日六度目だ。昨晩から数えるとその倍の数字になる。
昼休み、学校の男子トイレ。僕は用も足さず、ただただ行き場のない苛立ちばかりを募らせ
ていた。
昨日、帰りの電車で鶴田さんに僕と五十嵐の関係について問い詰められた。
ヘタな嘘ではとうていごまかせそうになかったので「また今度ちゃんと話すから」と言ってあ
の場は逃げたが、その“今度”の機会がいつ訪れるとも限らない。五十嵐とちゃんと口裏を合
わせておく必要がある。
誰にも知られず、僕たちだけの秘密としてそっと大切に育ててきた関係を、壊してしまうわけ
にはいかない。
だが、昨晩から五十嵐に電話が通じない。何度かメールも送ってみたが、一向に返事が返っ
てくる気配がない。
誤って衣服といっしょに携帯電話を洗濯機にかけてしまい、故障してしまっている…そんな
ふうに好意的に解釈することもできなくはないが、その確率は学校外でのデートを偶然クラス
メイトに目撃される確率よりははるかに低いだろう。
もともと五十嵐は、携帯電話にあまり執着しない性格だ。コンタクトを取りたい時に彼女が
携帯電話の電源を切っていた例など、数えればキリがない。
くそ、こんな時に限って…。
こんな時に限って、彼女は学校を欠席している。
「要よー、今朝からしつこく、誰に電話してんだよ?」
いっしょにトイレに来ていた水野慶(けい)が、ちょろちょろと尿を便器に振りかけなが
らこっちを振り向いた。
「ひょっとして女?」
「バカ、そんな訳ないだろ…」
友人の手前でのこの嘘も、もう慣れたものだ。
だが、すでに一人の女子生徒に僕と五十嵐の関係が暴かれつつある今、この嘘もいつまで続く
のか…
「そういえばさ、女といえばシゲだけど、あいつ付き合ってた子と別れたらしいな」
用を終えて汚いものをズボンの中に引っ込めながら、水野が言う。
「またか。長続きしないね、彼も」
「おおかた、もう次の標的は決まってんだろうな」
繁原勇樹。渡り鳥のように次々と異性を鞍替えする彼のことを、水野はどこか自慢げに語っ
た。プレイボーイの友人がいることが彼のステータスの一部なのかもしれない。
「この学校から次の犠牲者が出なけりゃいいけどな」
じゃぶじゃぶと手を洗いながら、水野は楽しそうだ。
普段の僕なら面白そうな話題に食いついていたかもしれないが、今はそんな余裕はなかっ
た。水野の話は、ニュースで見るどこか遠い土地の降水確率と同じで、今の僕にはなんの価値
もない情報だ。
今はとにかく、鶴田さんのこと。そして音信不通の五十嵐のことが気になって仕方がなかっ
た。僕は動揺に弱い性質だ。
もちろん、午後の授業も耳から耳へと抜けていくばかりだった。
午後になってから、雨が降り続いていた。
放課後は運動部で賑わっているグラウンドもぬか床みたいになっていて、普段とは見違えるよ
うに閑散としていた。
僕はこの日、授業が終わると理科室の前は素通りして、一直線にエントランスに向かった。
五十嵐がいないのでは、そうするほかない。意味もなく学校に居残って、また鶴田さんと鉢合
わせるのも御免だ。さっさと帰宅してしまおうと思っていた。
が、校庭に出ようとしてビニール傘を開きかけた途端、ばしんと背中を強く叩かれた。
「かーなめー。いっしょに帰ろっぜい」
声を弾ませて小林が僕の首に腕を絡めてきた。振り返ると、繁原や水野もいっしょだった。
「俺もコバも普段は部活だから、四人で下校する機会って滅多にないだろ。せっかくだし、い
っしょに帰ろうぜ」
靴箱の前で革靴を履きながら、繁原がいつもの絵になる笑みでそう言った。
「はぁ?シゲほとんど部活行ってねーじゃん!今日は雨でたまたま休養日だけどな、基本的に
俺は副主将として、みんなを甲子園に連れて行くべく日々努力してんの。いっしょにすーんー
なー!」
小林は僕の首を絡め取ったままで、繁原に対して舌を出す仕草を見せた。
こうして僕たちは、四人で仲良く駅まで下校することになった。
クラスではいつもいっしょの僕たちだが、繁原が言ったように、下校時に四人が揃うことは滅
多にない。野球と恋人のことにしか脳を働かせていない小林は言わずもがな、繁原もうるさい
顧問がいない日にはきちんとサッカー部に顔を出している。帰宅部は僕と水野だが、水野はア
ルバイトに励んでいて放課後は飛んで帰るのが常だし、僕には五十嵐との情事がある。
今日みたいに放課後の予定が四人とも白紙、なんてのは非常に稀なケースだ。
もっとも、別々に帰ることが習慣化していることは、五十嵐との情事を知られたくない僕にと
っては、かえって好都合なのだが。
「なぁ、せっかくだしさ、どっか寄ってかねぇ?」
ほとんど車の通らない車道を四人で一列になりながら歩いている途中、水野がそんな提案を
した。真っ先に「お、いいね」と言って同調したのは繁原だった。
小林は梅雨の湿気にやられて気が触れたのか、近くの融資会社の無人契約機に向かって行き、
「じゃあ地球寄ってく?」
と、西洋人っぽい笑みを浮かべてこちらを振り返った。
小林の化石のような古いギャグは無視して、僕たちはカラオケに行くことに決めた。
カラオケでは、主に小林と水野がマイクを奪い合っていた。
繁原はバンドでならした歌唱力を披露することよりも目録をめくっているほうが面白いようだ
ったし、僕は五十嵐からの着信がないかと気になって、ずっと携帯電話を開けたり閉じたりし
ていた。
カラオケで手持ち無沙汰になると、どうしてもいろんなことを考えてしまう。
昨日の帰りの電車の中での鶴田さんとの会話が、何度も何度も繰り返し頭の中を行き来してい
た。五十嵐と相談し、なにか上手い言い訳を考えなければいけない。
また一つ、嘘が増える。
小林が『90年代ヒット曲メドレー』を選曲して、ソファの上で暴れまわっていた。
「ユーライアライア、もう信じられなーいや」
小林の歌が聞くに堪えなかったわけじゃないが、僕は携帯電話を持って席を立った。
廊下に出て、携帯電話のアドレス帳から五十嵐すみれの名前を呼び出す。
しばらく添え物のような小さなスピーカーから聴こえてくるくぐもった呼び出し音に神経を集
中させていたが、またお決まりの不在着信アナウンスに切り替わって、僕は再び携帯電話を閉
じた。煤けた天井を見上げて、大きく息をつく。
この日八度目の呼びかけも、不発に終わってしまった。
個室に戻ると、繁原と水野がなにやら楽しげに談笑していた。
「なぁ、教えろって。誰なんだよ?お前が次に狙ってる女は」
「だから、狙ってるっつっても、別に全然仲良いとかじゃないんだって。ちょっと気になって
るってだけだっつの」
またこの話題だ。
繁原は女性経験が豊富な割に、あまり自分の恋愛事情をひけらかすような真似はしない。
対して水野は、ひとの色恋沙汰に目がない。
「要も気になるよな?」
いきなり同意を求められた。
「まぁ、少しは」
繁原は大きく溜め息をついて、ソファから腰を上げた。
「付き合うことになったら教えてやるよ。おい小林、次俺の番。マイク貸せ」
そう言って、繁原はうまいこと逃げた。
結局、僕たちが散会したのは、外がすっかり暗くなってしまってからだった。
まだ雨は止まない。この調子だと、明日まで続きそうだ。
「じゃ、俺たちはこっちだからよ。また明日な」
帰りの電車の方向が違う小林と水野とは、駅の東口の手前で別れた。僕は繁原と二人で階段
を昇り降りし、西口のホームに出た。丁度タイミングよく電車が来ていたらしく、西口のホー
ムに小林たちの姿は見当たらなかった。
電光表示板を見ると、次の電車が来るまでにはまだ時間があった。僕と繁原は二人で横に並
び、一定のリズムを保ったままの雨音を聞きながら、通り過ぎる特急電車をぼーっと眺めてい
た。
「はぁ…どうアプローチすっかな」
なんの前触れもなく、繁原はため息混じりにそう言った。
「気になってるっていう女の子のこと?」
「そうそう。どうも接点がないっていうか、まだ相手のこともよく分かんねんだよな」
そう言いながら、繁原の横顔は楽しそうだった。
どこから積み木を組み立てようかと考えている子供のような、無邪気な表情。
「珍しいね、シゲが異性のことで悩んでるなんて」
「まぁな」
雨で濡れた長い髪を、さっと指で払う繁原。急に真面目な顔になって、僕の顔を覗き込む。
「要さぁ…お前、俺たちにナイショで付き合ってる女とか、いないよな?」
少し思案して、答えた。
「いるわけないじゃん」
五十嵐のことを考えたが、付き合っているかと言われれば微妙だ。僕たちはそんな約束をし
たわけではない。ただ、互いが互いを求める関係、というだけだ。
僕たちは宇宙で二人きりの心の理解者だと、互いに信じ合っている。世間一般の恋愛という枠
にはめて考える必要はないと、互いに認識している。
繁原は足元の黄色の点線を見ながら、はにかみがちに笑った。
「よかったよ。俺、前にも言ったけど、親友の女には手を出さないって決めてるからさ。狙っ
た女がツレの女だったりなんかしたら、気まずいだろ」
そういえば、昨日の体育の授業でもそんなことを言っていた。
「ま、お前じゃなくても、誰か別の男と付き合ってるかもしんねーけどさ…」
そこで一端会話が途切れた。
風情を楽しむというわけじゃないが、簾のように流れて線路の上に落ちる雨を、黙って眺めて
いた。そうしている間も、僕はやはり五十嵐のことが気がかりで仕方なかった。
きっと明日には彼女も学校に来て、ちゃんと話ができるだろう。鶴田さんに僕たちの関係がバ
レそうだと言ったら、彼女はなんて言うだろう。
間もなく三番線を電車が通過します、という機械的なアナウンスが僕の思考を遮った。
「あのさ、要」
ふと、何かを決意したかのような声で、繁原が言った。
「お前口固そうだからさ、お前にだけ特別に、俺が狙ってる女が誰だか教えてやるよ」
「そいつは光栄だ。誰なの?」
線路の先からやってくる特急電車が鳴らす、耳をつんざくようなけたたましい警笛が聴こえ
た。
繁原はイタズラっぽい笑みを浮かべて、僕の耳元で、そっとその名前を告げる。
「五十嵐すみれ」
一瞬、雨が止んだような気がした。
「え?」
繁原の顔を見ると、彼は悪意のなさそうな顔で、いつもの絵になる微笑を浮かべていた。
どくん、と心臓が鳴る。
手に持っていたはずのビニール傘が足元に落ちた。
なにもかもを掻き消すような轟音とともに、電車が僕たちの前を通過していった。