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第4錠『私、不良品』


 恋煩いというのは、なかなか厄介な病気だ。
歴史上、こいつにかかって破滅の道を辿った偉人は数知れず。男と女の問題というのは、いつ
の世もナイーブで、残酷だ。
 そんな恋の病を患い、典型的な症例に陥ってしまった人間が、僕のクラスにもいた。それが
仲のいい二人組で、しかも男子生徒となると、もう手に負えない。
 二人は体育館での授業中、先生が席を外してるのをいいことに、授業そっちのけで痴話喧嘩
をしていた。
「ひとの女に手を出しておいて、すいませんでしたじゃねぇだろ?他に言うことないのかよ」
「別に。お前が梨香に冷たくしてたのが悪いんじゃないの?大体お前、一年の女子に手ぇ出そ
うとしてたくせに、なに人に説教垂れてんの?何様だよ」
おお、バドミントンのネットを挟んで、二人の男子生徒の間に火花が散っている。
 僕と小林はそれを横目で見ながら、やる気のないラリーを続けていた。
「あいつらは両方とも被害者だな。悪いのは梨香っつー女だよ」
ゆったりとした動作でシャトルを打ち返しながら、小林が言った。
僕は返球するのに精一杯で、返す言葉までは思いつかなかった。
 まぁ、誰が悪いかはさておき、これまで仲の良かった二人が一人の異性を巡って対立してし
まう構図というのは、ドラマの世界だけでなく、現実の世界でもよくあることだ。こういうの
は滅多に丸く収まらない。若さゆえの過ちでは、済まされないのだ。
「コバは大丈夫なの?」
冷やかし半分で聞いてみた。ことあるごとに恋人との不仲を嘆く小林だ。いつ姦通罪の被害者
になっても不思議ではない。もっとも、その逆はあり得ないだろうけど。
「それは心配ねぇよ。エリカはそこらへんの分別はちゃんとできる女だからな」
さすが、付き合って三年にもなると、互いの信頼関係がしっかりしている。
小林の彼女にはまだお目にかかったことがないが、今後も二人が幸せであってほしいと思う。
「でも、浮気されんのが怖くてシゲにはエリカを紹介できないんだけどなwww」
シャトルを打ち返しながら、冗談交じりに小林はそう言った。
僕はラリーを続けながら、一触即発の二人組とは逆のコートを一瞥する。そこでは、僕らの共
通の友人、繁原と水野が僕らと同じようにバドミントンに汗を流している。
 繁原勇樹。
僕ら仲良し四人組の中で、彼は少し特異な存在だ。
まず、僕らの中の誰よりも女性経験が豊富だ。彼は六月現在で今期の経験人数を7に伸ばして
いる。この調子で行けば、彼が性交渉をもった人間の年間総数は、今期不調のマグノ・アウベ
スの得点数を越えるかもしれない。小林の懸念も頷けようというものだ。
 そのくせ校内で彼の悪評が立たないのは、彼の活躍のほとんどが学校外のフィールドでのも
のであることに由来しているのではないだろうか。彼は高校ではサッカー部に所属し、地元で
はコンビニのアルバイトをし、友人とバンドも組んでいるという。彼は女性関係について「身
体がいくつあっても足りない」と言っていたが、これが僕なら、女性関係を抜きにしても首が
回らなくなっているだろう。
 そんなプレイボーイの繁原だが、他のクラスメイトと比べて突出して顔がいい、というわけ
ではない。身なりには気を使っているほうだと思うが、彼の特異さを決定づけているのは、外
見ではなく、むしろその中身。
どこか達観しているような、それでいて気取ったふうではない立ち居振る舞いにあった。
 小林は背後に落ちたシャトルを拾いながら言った。
「俺らの間で女絡みの確執が起きるとしたら、まず間違いなくシゲが関わってくるな」
「聞えてるぞー小林」
いつから僕らの会話を聞いていたのか、横のコートから繁原が割って入ってきた。
「心配すんな。俺、ツレの彼女には手を出さないって決めてるから」
繁原はわざとらしく笑ってみせた。ファッション雑誌の宣材にでも使えそうな、オトコマエか
くあるべし、みたいな笑顔だ。繁原はクォーターなので顔の彫りが深く、笑うとなかなか様に
なった。
「その笑顔で女の子を落とすわけか。僕も見習わないとね」
ジョークのつもりでそう言ってみた。
「是非そうしてくれ。きっと要にも小林の彼女より魅力的なガールフレンドができる」
 小林が繁原に舌を出すのを横目に見ながら、僕は自分のガールフレンドのことを考えてい
た。僕にとってガールフレンドと呼べるような人間は、五十嵐だけだ。
今のところ、僕にも五十嵐にも、笑顔はとても似合いそうにない。

 その日の放課後、五十嵐は一時間目の道徳の授業の内容を痛烈に批判した。
「人間には十人十色の個性があって当然です、それを尊重しましょう、だって。馬鹿みたい」
 放課後の第一理科室。電気を落とした教室は薄暗く、カーテンから差し込む光の中を、埃が
舞っていた。
実験用の大きな机の上に、制服の前をはだけた五十嵐が腰を下ろしている。僕は彼女を背後か
ら抱きしめるような格好で、彼女の首筋に舌を這わせていた。
「人種差別を個性という一言で片付けるのには限界があるわ」
「そうかい?」
「第一、学力至上主義で生徒を平均化しようとしている進学校が個性を説くこと自体がお笑い
草だわ。そういえば去年、夏休み明けに赤い髪で登校してきた不良生徒が停学になったっけ?
個性を認めるなら、髪型くらい自由にさせてあげればいいのよ」
「きみも意外に反骨精神を持ってるんだね。パンクスが流行る時代じゃないよ」
僕は五十嵐の腹部に手を回しながら、彼女の耳元に囁いた。
「そうね。学生運動の頃にでも生まれれば良かったかしら」
当時の日本にパンクはなかっただろうが、きっと五十嵐なら立派なアジテーターになれただ
ろう。
「人間の中身なんて、どれも大して違わない。だからみんな、見た目に個性を求めるのよ。
それくらいの悪あがきは、許してあげるべきよ」
つまらなそうな声で、五十嵐は続けた。
「ちょっと人より勉強ができる、ちょっと人より運動神経に優れている…そんなのは、とても
個性とは呼べやしない。同じような人間が、探せば地球上に五万といるわ」
 僕にしてみれば彼女の持論を咀嚼することは二の次で、彼女の身体をまさぐることの方が重
要だったのだが、それでも頭の片隅でなんとなく「それもそうだな」とは思った。
「ほとんどの人間は、個性なんて持っていない…神様が創った大量生産品で、集団の中に埋没
したまま、大量消費されていくだけ。個性は救いよ。だけど、みんなそれを持つことなく、生
まれて死んでいくだけ…」
 五十嵐は時々、こんなニヒリズムを口にした。
だけど僕は彼女のような若き思想家にはなり得ない。それこそ、個性のない、なんの意見も持
たないただの平凡な高三男子だ。
それでも、彼女を僕のものにしたくて、彼女の意見には同調した。
 僕は、いつまでも五十嵐の身体を触っていたい。
他の誰かの身体じゃ嫌だ。それが五十嵐じゃないと。
僕にとって大切にしたい個性とはそういうものだ。だけど、彼女の機嫌を損ねるのが嫌で、そ
のことは口にはしなかった。
「でも、きみは他の連中とは少し毛色が違うね」
 五十嵐は他の同世代の人間とはかなり考え方がズレているし、本人もそのことを自覚し、普
段は自分を偽っている。
「きみは一体なんなの?」
「不良品…」
僕は彼女の首筋に這わしていた舌を引っ込めた。
「不良品、欠陥品、粗悪品…なんでもいい。いつ、どこで、違ってしまったんだろう」
彼女は自分の真っ白な右手首を見つめながら言った。
「みんなと同じでいられたら…こんなふうに、傷をつけなくても…傷つかなくても、済んだの
に…」
けだるそうに、彼女は言った。
 五十嵐の“自分は他人とは違う”という意識がいつ頃から芽生えたのか、僕は知らない。
少なくとも、この密室で自分の手首を切った時、彼女はすでにそうだった。
その意識によって、彼女は周囲と自分の間に深く横たわる溝に、ずいぶんと悩まされていたよ
うだった。
かつては睡眠薬やデパスなどの抗不安薬を常用していたと、以前、彼女の口から聞いたことが
ある。リストカットも、あのまま行けば常習していたかもしれない。
 だけど、そうならなかったのは僕が現われたからだと彼女は言った。
奇しくもリストカットを実行に移したあの日、彼女は自分と同じ人間に出会ったというわけ
だ。共感し、共鳴できる人間に。
 だから僕は、この嘘を止めない。止めるわけにはいかない。
僕がいれば、彼女はもう手首を切ることはないだろうし、抗不安薬に頼ることもないのだ。
「手を貸して」
 僕がそう言うと、五十嵐は何も言わずに、自分の右腕を僕のほうに向けた。
僕は手首に傷痕のある左手で、同じような彼女の手首に触れた。
「僕も不良品だ」
そう言って、彼女の手首を舐めた。こうして僕らは、文字通り互いの傷を舐めあう。
 ふと、今朝の体育の授業を思い出した。一人の女子を巡って争う二人の男子。
僕らは、ああはならない。僕らの心は行き違わない。
五十嵐の言う大量生産品の他の連中に、僕らの仲を裂くことはできない。
僕らは互いに、宇宙でただ一人の、心の理解者なのだから。

この嘘が、バレるまでは。


 学校を出る際、靴箱の前で鶴田茜(あかね)とばったり会ってしまった。
先月、放課後の教室で僕に告白してきた女子生徒だ。あの後も教室では毎日顔を合わせている
が、こうして二人きりになるのはあの日以来だった。
 僕と五十嵐は部活動等で放課後も校内に残っている生徒の目につくことを懸念して、理科室
を出る時は時間をずらしている。だから鶴田さんに僕たちの逢瀬を知られてしまう心配はない
のだが、この場でだらだらと立ち話をしてしまうと、理科室の鍵を閉めて後から出てきた五十
嵐と鉢合わせてしまう可能性があり、それは避けたかった。
「あの…いっしょに帰らない?」
都合よく、むこうからそう提案してきてくれた。
 告白を断ってしまった手前、二人でいるのは少し気まずくもあった。だが、友だちとしてし
か見られない、なんて言ってしまったからには、いっしょに下校するくらいの付き合いはしな
いわけにはいかない。それすらできなくなってしまえば、今後どんな顔をして日々の学生生活
を過ごせばいいのかわからない。
 夏の陽射しに斜幕をかけたような梅雨曇りの空の下を、駅まで歩いた。
改札口に定期を通して、駅のホームに出る。鶴田さんの家は僕と同じ方角にあるらしく、電車
にも二人で搭乗することになった。
 正直言って、なにを話せばいいのか分からなかった。
前に貸したCDの話とか、この前のテストの結果の話とか、なにを話しても、どこか言葉の
キャッチボールがうまく行かないような感じがする。並んで座っているはずなのに、間に人一
人分くらいの距離を感じた。
僕らの向かいの座席では、一年生の校章をつけた男女が、楽しそうに談笑していた。くそ、あ
の余裕が羨ましい。
 今は僕のことをどう思ってるの、と訊ねようとも思ったが、体感距離が二倍にも三倍にもな
りそうで、さすがに訊けなかった。
「ねぇ、中原くん…先週の週末とかって、何してた?」
彼女のほうも話題を探しあぐねていたのか、そんなことを訊ねてきた。
先週の週末といえば、僕と五十嵐の記念すべき外での初デートだ。しかしそのことは口外でき
ない。
「先週末か…テスト明けだったからなぁ。小林たちと市内のほうにショッピングに行ったよ。
嫌なことはすぐ忘れるに限るから」
「ふーん、そうなんだ…」
やけにそっけない返答だった。自分から訊いといてそれはないだろう、と思いもしたが、深く
追及されるよりはマシだ。
 また、会話に少し間が空いた。何気ない調子で、鶴田さんは僕に問いかける。
「そういえば中原くん、私の地元がどこだか知ってる?」
「いや、知らないけど。どこ?」
 聞いてみれば、彼女の地元はなかなか大きな街で、レジャースポットも数多くあった。
僕が五十嵐と訪れた水族館も、あの砂浜も、彼女の家からそう遠くない。
そう考えて、一拍、二拍。
はっとさせられる。
 思わず、鶴田さんの表情を窺った。
彼女はフォーカスの定まっていないカメラのようなぼんやりとした眼で、足元を見つめてい
た。
「あの日、中原くん…五十嵐さんといっしょにいたよね」
急に、背中から伝わる電車の振動を強く感じた。その音が僕の心臓の音と絡み合って、不整脈
みたいになる。
 鶴田さんは、僕の顔を覗き込むように見た。
「ねぇ、海で…五十嵐さんと、何してたの?」
僕は、言葉が出てこなかった。
また、電車の振動を強く感じる。

平穏にヒビが入る音を、聞いた気がした。
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