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第3錠『シーサイド・コンフェッション』


 五十嵐にも僕にも、試練は平等に訪れる。
異性のこと以外では悩みなんてなさそうな小林や繁原にすら、平等だ。
もっとも、小林は途中で試練を放棄したらしく、机の上で腕枕を組んで寝息を立てているが。
 しかし僕は真剣だ。
飲み込みがいいわけでもなければ、頭の回転も早くない。そんな僕がそれなりの大学に進学し
ようと思ったら、河原の石を積み上げるように努力を重ね、小さな結果を残していく他ない。
 僕たちは今、三年次一学期の中間試験の真っ最中。
シャーペンが答案用紙の上を走る音だけが、教室の中を飛び回っている。たまに思い出したよ
うに監督官の教師が「分かる問題から先に」とか「じっくり問題を読み直せ」とか言った。
そんなことは言われなくても分かっている。気が散るので黙っていてほしかった。
「はいそこまでー」
 タイムアップを告げるチャイムが鳴ると、教室中から大きな息がどっと漏れた。一番後ろの
席の生徒が、各列の答案用紙を回収していく。僕も答案用紙を預ける。
手ごたえは上々といったところか。これなら楽観視して結果を待てるだろう。
 教師が教室を出て行くと、小林たちが自然と僕の席に寄ってきた。
「ああもうオワタ。俺の人生完全にオワタ\(^o^)/」
 小林はたかだか一学期の中間試験を、人生単位の問題と感じているみたいだ。今からでも遅
くないので、野球を頑張ることをオススメする。お前にはそれしか取り柄がないんだから。
うまくいけば、どこかの大学が拾ってくれるだろう。
「ま、最終日の明日は国語と保健体育だし。消化試合じゃん」
 水野はお気楽そうな顔をしていた。すでにあさってからの休日のことに考えが向いているよ
うである。繁原も「それには同意」と頷いていた。
 だが、どうやら早くも試験の後のことを考えているのは彼らだけではないようで、クラスの
あちこちで、週末の計画を相談する声が聞こえていた。
「気晴らしに、俺らも試験明けはどっか遊びに行こうぜ?」
小林もその風潮に乗っかった。この切り替えの早さは評価できる。
 こういう時のみんなの団結力には舌を巻くばかりだ。小林主導で、あっという間に休日に服
を買いに行く話がまとまった。
「当然、要も来るんだろ?」
僕は少し考えるふりをして、五十嵐のほうへと視線を送る。彼女は自分の席で一人で問題用紙
を見返していた。
「ま、考えとくよ」
 本当のところ、僕は五十嵐と休日を過ごしたかった。

 放課後、僕と五十嵐は第一理科室で明日のテストの予習をしていた。
今日はいつものような秘め事はお預けだ。これなら別に場所は第一理科室じゃなくても構わな
い。図書室や自宅でも同じことだ。テスト期間中は、ずっとこんな調子だった。
「エリス可哀想ね」
 国語の試験範囲には森鴎外のかの名作文学が含まれている。五十嵐は情緒不安定に陥る踊り
子に同情しているらしかった。
 僕はというと、彼女と向かい合って黙々と勉強しているように見せかけて、頭ではまったく
別のことばかり考えていた。
 今週に入ってから、まだ一度も五十嵐の柔肌に触れていない。そろそろ彼女の針金細工のよ
うな細い身体が恋しくなってきていた。明日までの辛抱が、じれったい。
 国語の試験なんて、観察力でも読解力でもなく、ようはカンとセンスだ。勉強したって仕方
がない。試験は午前中だけなので、外はまだ暖かい。黄土色のカーテンからは、少し早めの夏
を感じさせる陽光が射していた。こんな時間に勉強なんて、僕にしてみれば退屈極まりない。
 五十嵐は勉強に関してはとことん真面目だった。
彼女は人間関係を嫌い、ついでに自分も嫌っている。それなのに高校のシステムにはなぜか従
順で、進学に強い希望があるわけでもないらしいのに、予習復習は欠かさない。
 分かったふりをするのは簡単だが、その実、僕は彼女のことを“よく分からない女”だと感
じていた。…まぁ、こうしていっしょにいられさえすれば、そんな些細なことはどうでもいい
んだけど。
 勉強に飽きたので、ちょっと勇気を出して話題を変えてみた。
「ねぇ五十嵐」
「なに?」
五十嵐は教科書に視線を落としたまま応えた。
「休日、どっか行こうか」
五十嵐の表情が、一時停止。ぱたんと教科書を閉じて、僕に怪訝な表情を向ける。
「なんで?」
なんでそんな普通のカップルみたいなことをしなくちゃいけないの?とでも問いたげな表情だ
った。これは地雷を踏んでしまったかもしれない。
 僕と五十嵐の逢瀬が始まって、もう三ヶ月近くになる。
だけど僕たちは、未だに学校の外で会ったことはない。順序もめちゃくちゃで、僕は彼女の唇
に触れるよりも先に彼女の胸に触れた。第一、僕たちは付き合っているわけではない。つまり
僕たちは、同世代の人間が想像するような恋人というのとは、似て非なる関係なのだ。
 しかしその奇妙な関係性こそが彼女の望むものなのかもしれず、迂闊にああしようこうしよ
うとは言えないでいた。
 五十嵐に合わせるのは難しいことではない。同世代の平均的な意見から少し外れたことを言
えばそれでいい。逆に普通のことを言えば、往々にして地雷を踏むことになる。
重要なのは、彼女が自分のことを“周囲の人間たちとは違う”と思っていることで、僕を“そ
んな自分を理解してくれる唯一の人間”だと思わせることだ。
 学校外でのデートの誘いは、少々そのセオリーから外れた行為だったかもしれない。
しかし咄嗟に軌道修正をする言葉も思い浮かばず、僕はそのまま続けるしかなかった。
「いや、気晴らしにどうかと思っただけ」
 五十嵐は口元に手をあてて、考えるような素振りを見せた。
「…まぁ、いいけど」
一瞬、時が止まったような錯覚を覚えた。
「…え!?いいの!?」
「…?うん」
 予想だにしてなかった展開に、思わず素で聞き返してしまった。僕は嬉しさのあまりリバーダ
ンスでも踊ってやりたい気持ちをこらえて、平静を保つことに意識を集中した。
苦節三ヶ月、ついにこの時が。
「どこに行こうか?」
「できるだけ静かな場所がいいわ」
「分かった。明日までの宿題にしておくよ」
 カウントツースリーからの大逆転だ。その後の僕は、いよいよもって勉強に身が入らなくな
ってしまった。
 小林たちにはその日のうちに、週末の予定が埋まってしまったとメールを入れた。


 週末、僕たちは駅で待ち合わせをした。
約束の時刻より少し早く到着した僕は、改札を出たところに立って、電車がプラットホームに
吐き出す人の群れを注視していた。改札を通る人の中から五十嵐を見つけるのは、ウォーリー
を探すよりははるかに簡単だ。一方、五十嵐は僕を探してきょろきょろと視線を泳がせてい
た。その様子がまた、なんとも言えず愛らしい。
 私服の五十嵐を見るのは新鮮だった。
モノトーン調のワンピースに、アクセントの効いた白のミュール。腕はむき出しだったが、右
手首の傷はアクリルバングルで上手いこと目立たないように工夫されていた。
 五十嵐は僕を見つけるなり、むくれ面で拗ねたように呟いた。
「人気のない所に行くためにわざわざ人の多いところで待ち合わせなんて、中原くんも人が悪
いわね」
そう言った時の彼女の表情がこれまた思わず写真にして残しておきたくなるほどの絶品だった
のだが、僕はそんな感情を表に出すまいということばかり考えていた。
「私服を着ていたんじゃ、ますますあなたが本物かどうか怪しいわね」
「そんなことないさ」
僕は腕時計を外し、左手首の傷を彼女に晒して見せた。
彼女も僕に倣ってバングルを外して見せる。
「この通り。本物だろ?」
「安心したわ」
 とにかく僕たちは、こうして学校外でのデートをするに至った。
目的地はバブル期に建設されて今はギリギリのところでどうにか廃館にならず持ちこたえてい
るような、場末の水族館だった。その場末感がデートスポットとしては減点で、家族連れにも
あまり人気はないようだった。それが逆に、静かな場所を好む彼女にはうってつけだ。
 デート中、五十嵐は特に上機嫌というわけでもなかったが、不機嫌でもなかった。
円筒形の水槽の中のクラゲには見とれていたし、イルカのショーでは拍手をしていた。
僕はというと、水棲動物のことなんかお構いなしで、いつもと変わらない調子の、それでいて
どこかいつもとは違う雰囲気の彼女に見とれていた。
 水族館の後は、海に行った。
海といっても、浜辺までだ。この時期、まだ遊泳は禁止されていて、ところどころに釣り人や
カップルがいる以外は、潮の音以外なにもないような場所だった。
 ビーチには白い大理石の玉石が敷き詰められていて、その上を歩くと靴の裏に凹凸の感触が
じかに伝わってくる。ひとつひとつの石が大粒なため、会話に気を取られていると足を挫きそ
うでもあった。
 僕たちは適当なところで足を止め、ビーチに沿ったコンクリートの上に並んで腰を下ろし、
そこで少し会話をした。
いつも第一理科室の中でしている会話と内容にたいした差はみられなかったが、こうして開け
た空間で会話をするのは、密室でのそれとはまた違った趣があった。
「明日からまた学校が始まるけど、試験の返却は楽しみ?」
いい機会だと思い、訊ねてみた。
 五十嵐は常日頃から予習復習を欠かさない模範的な学生で、試験にも僕との秘め事を断って
とことん熱を注いでいた。僕は彼女がどうしてそこまで頑張るのか知りたかった。
 返ってきた答えは意外と淡白だった。
「別に。今回も100点満点は取れそうにないから。平均90点ってところかしらね」
返却を楽しみに待つには十分すぎる自己採点だと思うのだが。僕なんかは、とりあえず平均点
さえ割らなければそれで胸を撫で下ろしてしまう。
「90点じゃ意味がないの」
「そんなことないだろう。その点数なら少なくとも、教師の頭にはきみは優秀な生徒として記
憶されると思うけどな」
「それじゃ不足よ。90点を取る生徒はどのクラスにも何人かはいるわ。そうなると私は、数い
る優秀な生徒のうちの一人にしかなれない。そんなことに意味はない」
 自分に厳しいというか、上昇志向が強いというか。
いや、そんなことよりも、五十嵐がそこまで教師の目を意識していたことが意外だった。そも
そも、彼女がたかが中間試験にこうも拘泥するなんて、思いも寄らなかった。
「どうしてそんなに100点に拘るんだい?」
彼女は珍しく返答を躊躇うような素振りをみせて、
「…見てほしいから」
と答えた。
「もっとしっかり私を見てほしい。他の人と同じに見られたくない」
ゆるやかに浜辺を染める波を見つめながら、五十嵐は言った。
「私は特別なんだって、知ってほしいの。こういう気持ち、あなたなら分かるでしょう?」
「僕はあまり自己顕示欲が強いほうじゃないけど、それを抜きにしたって、教師の注目を集め
たいと思ったことはないよ」
「別に誰だっていいの。私のことを見てくれれば。誰かに心の底から認めてもらいたい。きみ
は世界でただ一人の尊い存在なんだよ、って声をかけてもらいたい」
 五十嵐の言葉は、僕に語りかけているというよりは、見えない誰かに懺悔をしているようだ
った。
「そのためには、教師が相手としてちょうど良かった。同世代の人間に対して個性を主張した
ところで、煙たがられるだけなのは目に見えてるから。だから私は、教師の気を引くために勉
強をする。心の中では見下している人たちと、机を囲んで勉強する。重たい気持ちを引き摺っ
て、毎日学校に通う」
 そこに、五十嵐の本心があるように思えた。
奇抜な化粧や言動で自己主張をしたがる人間は、山ほどいる。だが、そんなことをしても待っ
ているのは孤立…無残な結果だけだ。誰も本当の意味では、見てくれない。
だから五十嵐は、自分の他人との“違い”を隠して、集団に溶け込もうとする。女子生徒たち
の馴れ合いの輪に、加わったフリをする。しかし、それで思いが消えるわけではない。
誰かに見てもらいたいという、思いが。
「…ほんと、最低」
そう言って五十嵐は、自嘲的に笑った。
 だけど、彼女は大切なことを忘れている。
僕が自分にとって、どういう存在なのか。なんのために僕たちは、放課後、毎日のように互い
を確かめ合うのか。
「少なくとも僕が見てる」
そう言うと、五十嵐は一瞬、呆けたような顔になった。
「僕の前では自分を偽る必要はない。したくもない努力をする必要もない」
 五十嵐は少し面食らったようだったが、次の瞬間にはさっきとは違う笑みを見せてくれた。
「そうね。あなただけは特別。あなたは私のことを、理解してくれている。私もあなたのこと
を理解してるつもりよ」
「そうじゃないと、こんな話をしているはずがない」
「それもそうね」
クラスの中で見せる作り笑いでもなく憂いを含んだ自嘲でもない彼女の本物の笑みは、筆舌に
尽くしがたい魅力をもって、僕の心を満たしてくる。
 僕は彼女に嘘をついている。僕は彼女の考え方に共感できるような人間じゃない。平凡な、
ただの高校生だ。本当は彼女のことだって、全然わかっちゃいないんだ。
 だけど、嘘をついていてよかった。
三ヶ月前のあの日、あの時に始まった嘘がなければ、僕が彼女の本物の笑みを見ることはなか
っただろう。
「私ね、人混みは苦手だけど、本当は人がたくさんいて楽しそうなところにも行きたかった」
静かに引いては寄せる波を見て、彼女はそう言った。
「ディズニーランドとか?」
「そうね。行ってみたい。行けるようになったら…」
「いつか、いっしょに行こう」
「うん…」
 初夏の訪れを告げる柔らかい風が、僕たちの髪を撫でる。
波は、僕たちのことなんて関係ないみたいに、寄せては引いてを繰り返していた。

 僕たちは、しばらくずっとそこで海を見ていた。どちらともなく手首に傷のある腕を差し出
して、僕らは手を繋いだ。こんな時間が永遠に続けばいいのにと思った。
僕はただただ、時間がゆっくりと流れてくれることを祈って、波の音に耳を傾けていた。
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