第2錠『密室ハニー』
最初それは、五十嵐にとっては火遊びのようなものだったのだろう。
両親や教師、あるいは友人といった第三者の目の届かないところで、真面目で温和な優等生と
しての殻を脱ぎ捨て興じる、ちょっとした火遊び。
公と私に落差を感じている人間ほど、夜の街に飛び込んで踊りたいと思っているはずだ。
そのパートナーに選ばれたことは、僕にしてみれば至極光栄なことだった。
「私の心臓の音、聴こえる?」
「どきどきしてるね」
僕は小さく膨らんだ五十嵐の胸に耳を当てながら、答えた。
五十嵐は赤子を抱くように僕の頭を抱きかかえ、僕は耳を澄まし、目を閉じている。
しばらくずっとそうしていた。
この第一理科室の鍵は二つあり、そのうちの一つは五十嵐が持っている。もう一つは化学教師
の曽我部が持っているはずだが、過去に曽我部が放課後ここを訪れたという例はない。
内側から施錠し、念のためドアとドアの間につい立を掛けておいた。こうしていれば、僕たち
の秘め事は、誰にも見咎められることはない。ここは完全な密室だ。
密室には、人を安心させる作用がある。きっと母胎を思い出すのだろう。
「胎児に戻ったような気分になるでしょう?」
僕の心を読んだのか、五十嵐が僕の頭上で囁いた。
僕は小さく頷く。
「すごく穏やかな気分だ。こうしていると、眠ってしまいそうになる」
彼女はくすくすと笑った。
「私ね、人間にとって一番平穏な時期は、子宮の中にいた頃だと思うの」
「俗世の汚れを知らないでいられるからね」
「その通り」
あてずっぽうで言ってみたら、正解だった。
五十嵐は、そんな妙なことをよく口にする。
といっても、誰の前でもそうしているわけじゃない。この密室の中、僕と二人でいる時だけだ。
合わせて僕も変なことを言う。そうすると、五十嵐が喜ぶからだ。
「今度は私の番」
五十嵐は、僕の首に回していた手をゆっくりと解く。そのまま彼女は椅子を下り、今度は僕が
椅子に座る。攻守交替だ。
放課後は毎日、僕たちはこんなことをしていた。
飽きもせずに毎日々々だ。
気が乗れば、もう少しいやらしいこともした。
それが僕と五十嵐にとって、互いを理解するための行為だったからだ。
僕たちにとって、“触れ合う”というコミュニケーションは、百万回の討論よりも雄弁だっ
た。
僕たちは、肉体的接触によって、宇宙でたった一人の心の理解者との距離を、ゼロに近づけよ
うとした。
僕たちがそれを始めたのは、四ヶ月以上前。
まだ僕たちが二年生だった頃、身も縮こまる二月の寒い日のこと。
―――それが僕の嘘の始まりだった。
「俺は椎木のり子に賭けるぜ」
「じゃあ僕は神山満月ちゃん!」
その日、二年時の僕のクラスの体育の授業は、男子に限ってのみ自習になっていた。体育教
師が風邪をひいたからだ。運動が好きな生徒ですら、ひさびさの自習に心を躍らせていた。
スケジュールに一時間穴が空いただけのことで、クラスはお祭り騒ぎだった。教室は休み時間
以上にやかましくなり、隣の教室から苦情が来たりしていた。
で、特にすることのない僕といつもの仲良し三人組は、なんとなく窓から女子の体育を見下
ろして、しょーもない賭けをしていたのである。そう、小林たちとはこの頃からいっしょだっ
た。
「要は誰に賭けんの?」
賭けのルールは簡単。寒空の中でなぜか短距離走を強いられている女子たちが出走馬だ。
チップは各々五百円。勝てば漫画を三冊買ってもお釣りがくる。
「じゃあ僕は五十嵐さんに」
横一列に並んだ五人の女子生徒の中から、僕は彼女を選んだ。
「なんであの子なんだ?」
窓枠に肘をついた繁原に訊ねられた。
「無駄な肉がついてないからかな。すばしっこそうだ」
適当にそう答えてみたものの、本当の理由は別のところにあった。
五十嵐すみれ―――僕は彼女に惹かれていた。
以前から、友人の輪の中に混ざって笑っている彼女のことを見ていた。だが、その笑顔にはど
こか陰があった。協調性がないわけではない。人から好かれるタイプの子だ。
だけど、いつも自ら他の女子とは一歩ひいたところに立っている。周りと一定の交友関係は保
ちつつも、同じ色に染まりたくはないという意志が見え隠れしていた。
僕は五十嵐のそんなミステリアスな雰囲気に惹かれていたのだ。
早い話が、憧れ程度の恋心を抱いていた。
「ん?」
はたと、五十嵐と目が合った。
出走直前、僕の視線に気づいたのか、五十嵐は校庭から僕らのほうを見上げていた。
なんだか少し気まずくなる。
その一瞬の気まずさをどさくさのうちにかき消してくれたのは、おバカな小林だった。
「おーい、神山ー!勝てよー!」
空気が読めない小林が大声でエールを送ったりしたせいで、全女子がいっせいに僕たちのほう
を振り仰いだ。体育教師は僕たちを睨みながらピーと笛を鳴らした。
その日の放課後、僕は小林たちを先に帰らせて、ひとり第一理科室を訪れていた。
忘れ物を取りに戻るためだ。五時間目の化学の授業の際に、ノートを置きっぱなしにしていた。
第一理科室の鍵を借りるために職員室に行くと、曽我部に釘を刺された。
「鍵は一個しかないんだからな。失くさないように」
ノートを取りに行って帰ってくるだけで鍵を紛失するなんて、天文学的確率でしかあり得ない
と思ったが、気をつけますとしか言わなかった。
しかし曽我部の懸念もわからなくはない。
つい最近、第一理科室の鍵が一つ、行方不明になったばかりだったのだ。その際鍵の紛失がた
いして問題にされなかったのは、授業で使うような備品のほとんどが、新校舎にある第二理科
室と準備室に集中していたためだろう。僕に渡されたのは予備の鍵だった。
「あったあった」
教室の隅、準備室への扉のすぐ近くで、僕は目当てのものを見つけた。たかだか二時間程度
放置していただけでノートが埃っぽく感じるのは、この教室のかび臭さの仕業だろう。
「さて、と…」
もちろん、これ以上用事があるわけじゃないので、そのまま退室してもよかったのだが、な
んだか少しもったいない気がした。せっかくだし、滅多に立ち入る機会のない準備室でも覗い
てみようと思った。
準備室の中は理科室以上にかび臭く、どこに虫の巣があっても不思議じゃなかった。いくら
理科室としての機能が第二理科室に移転しているとはいえ、手入れ不足の感は否めない。
揺らせばバケツが倒れたみたいに埃が降ってきそうな棚には、いくつもの標本が並んでいる。
僕はそれらを観賞しながら、頭ではまったく別のことを考えていた。
五十嵐すみれ―――彼女のことを。
クラスでは、特に親しい関係ではない。三分以上の会話をした例が思いつかない。
だけど、どうにかしてお近づきになりたいと考えていた。
そのためには、なにがしかの接点が欲しい。
互いのことをもっと知りたくなるような、接点が。
そんなことを考えながら、準備室を出た。
それとほぼ同時に、理科室のドアのほうから、鍵を回すガチャリという音が聴こえた。
はたと、足を止める。
僕はこの理科室に入った際、確かにドアに鍵をかけた。僕は自分の家で用を足す時ですら鍵
をかけないと気が済まない性格の人間だ。神経質で、自分一人の空間では密室状態でないと落
ち着かないのだ。
そして、第一理科室の鍵は行方不明になっていて、予備の鍵は今、僕の手の中にある。
ということは、つまり…
僕は反射的に、準備室の手前で壁に背を預けていた。こうしていれば、教室の中央からは
死角になる。
行方不明になったはずの鍵の持ち主が、ここで何をしようとしているのか。
それを確かめたいと思い、僕は壁際から少し首を出した。
そして次の瞬間、全身に電流が走った。
五十嵐すみれ。彼女がそこにいた。
ドアに施錠して教室の真ん中で立ち止まった五十嵐は、周囲の人影を確かめるように、教室の
中をきょろきょろと見回していた。
僕は慌てて首をひっこめる。
彼女がなぜこんなところに?なぜ第一理科室の鍵を?僕はいつまでここに隠れていればいい?
様々な疑問が頭の中で高速ループ再生されていた。
何秒か待って、おそるおそる彼女の様子を覗き見た。
五十嵐は鞄を机の上に置き、思案げにうつむきながら、腕時計でも確かめるように自分の左手
首を凝視していた。そしてそっとブレザーを脱ぎ、シャツの袖をめくった。
これからなにが始まるのか、想像なんてできやしなかった。
僕はただただ、いつもとは違う物憂げな雰囲気の五十嵐に、見とれていた。
五十嵐はポケットからカッターナイフを取り出した。工作で使うような何の変哲もない黄色
のカッターナイフ。チチチチチと音を立てて、刃先が上がっていく。
ナイフの先端に向けられた五十嵐の目には、何も映っていないように見えた。
やがて彼女は、そっとそれをむき出しの右手首にあてがった。
見ていて、息が詰まった。
僕の好きな人が今、僕の目の前で自分の手首を切っている。
ことを終えると五十嵐は、安心したように二、三度、小さく深呼吸をした。
その行為にどんな意味があるのかは分からなかった。ただ、リストカットという自傷行為によ
って精神的な安定、あるいは一次的な高揚を得ようとする人がいると、なにかの本で読んだこ
とがある。まさか五十嵐がそうだとは、思いも寄らなかった。
彼女の陰のある笑みの正体が、少しだけ垣間見えたような気がした。
五十嵐はしばらく自分の手首をぼんやりとした目で見つめていたが、やがて前もって用意し
ていたらしいガーゼを出血部に押し付け、その上から自分の腕を締め上げるように、左手で右
手首を圧迫し始めた。手際の良い止血っぷりだ。
僕は彼女の一連の行動にすっかり魅入られていて、自分の頭の周りを衛星のように飛び回っ
ていたハエの存在に気がつかなかった。
そいつが僕の耳を止まり木にした頃になってようやくそれに気づき、
「うお!」
と、驚きの声をあげてしまった。
「誰!?」
すかさずこちらを振り向く五十嵐。思いっきり目が合ってしまった。
僕はこの状況をどう弁解すればいいかも分からずに、こそこそと前に進み出た。
「……中原くん」
体育の授業で目が合った時以上の気まずさを感じながら、僕は言葉を探した。
「や、やぁ五十嵐さん」
咄嗟に出た一言がそれだった。自分の状況適応力のなさを呪いたくなる。
「いつからそこにいたの?」
「ずっと…かな?」
僕は五十嵐に歩み寄り、彼女の近くの椅子に腰を下ろした。彼女も椅子を引き、僕らは向か
い合って座った。
「体育の授業の時、見てたよね?私のこと」
「…まぁね」
うわ、最悪だ。
「で、どうしてここに?」
僕は言葉を吟味しつつ、ことの次第を手短に説明した。多少声が上ずっていたかもしれない。
覗き見をするに至った経緯なんて、話していて楽しいもんじゃない。
五十嵐は最初、批難を含んだ目で僕を見ていたが、そのうち諦めたような顔で言った。
「誰にも言わないでね、このこと。こんなこと…誰にも知られたくない」
首を縦に振るしかなかった。
見てはいけないものを見てしまった、という気持ちでいっぱいだった。
彼女は、繊細な人だったのだ。
クラスで振り向く明るい笑顔はニセモノだった。自分の手首から流れる血を見て心を落ち着か
せるような、情緒不安定で、人とは少し違う感性を持った人だったのだと、気がついた。
「変な女だって思ったでしょ?」
彼女は圧迫止血を続けたままの右手首を僕に向けて、自嘲的に笑った。
そりゃ、変なのは確かだ。彼女がどんなバックグラウンドがあって自傷行為に及んだのかは
知らないが、そんなことをする高校生は決して多くはないはずだ。
だけど、ここが分水嶺だ。
ここでどう答えるかで、彼女の僕に対する印象は大きく変わる。ちっとも変じゃないよ、と口
にするのは簡単だ。だが、上っ面だけ理解あるような顔をしていても、そんなものはすぐ見
抜かれてしまう。かといって正直に答えると、僕の彼女への好意は、一方通行のまま終わるだ
ろう。
少しだけ、考えた。そして僕は、一世一代の大勝負に出た。
「なにも変じゃないさ」
「嘘。こんなことする女の気持ちなんて、中原くんには分からないでしょう?」
「そんなことないよ」
何事も安全策がモットーの僕だったが、この時、人生ではじめて八・九の目から次の札を取っ
た。やっと見つけた。僕らの接点を。
「同じようなことを考える人間が、ここにいる」
僕は彼女の目の前で左腕の袖をまくり、腕時計を外してみせた。
そこにあるのは、小学校時代のドジの名残り。手首の上を一直線に走る、傷の痕。
彼女の目の色がはっきりと変わるのが分かった。
「自分という人間が、判らなくなった。誰と喋っていても、自分がそこにいる気がしなかった。
本当は僕はもうとっくに死んでいて、ここにいないのかもしれない。そんな妄想に取りつかれ
た。そして僕は、自分の手首を切ったんだ。もうずいぶん前のことだ」
口からでまかせだった。
そういうふうに言えば、彼女の気を引くことができる。そんな気がしていた。
そして、それを聞いた五十嵐の瞳には、先ほどにはなかった興味の色が浮かんでいた。
――勝った、と思った。
あの日から。
僕の五十嵐への“嘘”が始まった。彼女と同じ種類の人間であるという演技。
その嘘と引き換えに、僕と五十嵐は互いの心の理解者になり、第一理科室は僕たちのための密
室となった。
そこで五十嵐は、真面目で温和な優等生の殻を脱ぎ捨て。
僕は、五十嵐といっしょにいるために、殻を被る。
嘘をつき始めて、もう四ヶ月以上の時間が経過していた。