第1錠『彼女と僕の秘密の花園』
誰もが、心の理解者を探している。
家族でも恋人でも親友でもいい。テレビの中の犯罪者でもいい。
言葉を弄するまでもなく、目を見るまでもなく、いっさいの齟齬がなく意思が伝わる相手。
なにもかも、あらゆる面において共感し、共鳴してくれる人を。
誰もが探している。
――そして僕は、彼女にとっての心の理解者になりたかった。
「わかんねぇ。なんであの流れで最後までヤらせてくんないんだよ。マジでわかんねぇ」
昼休みの教室。クラスメイトの小林隆太が、剥いたゆで卵のような坊主頭をかきむしりつつ
顔をしかめている。彼は中三の時から続いているという恋人との関係について、高三男子とし
ては極めて重要な問題にぶち当たっているらしかった。
小林のお悩み相談の相手を引き受けるのは、僕を含む三組仲良し三人組。ただ、年相応に低
レベルな僕らの中に、小林にご神託を告げられるようなできた人間はいなかった。
「強引にいっちゃえばいいんじゃね?」
「前にそれやって、蹴飛ばされたことあんだよ。一週間口きいてくんなかった」
「泣き落としでさせてもらうってのは?女は普段とは違う一面ってやつに弱いらしいし」
「弱い男嫌いなんだよエリカは…」
ほかにもいくつかの案が出たが、一分と持たず万策尽きた。
小林は僕の机の上にどっかりと座り込んで、燃え尽きた矢吹ジョーみたいに肩を落とした。
「なかなか上手くいかないもんだな、人間ってのは」
そうなのだ。
人間というのは、なかなか上手くいかないようにできているのだ。
阿吽の呼吸なんて言葉があるが、そんなふうにうまくかみ合う人間とは、滅多に出会えるもの
ではない。十七年とそこそこ生きた程度の僕たちでは、なおさらだ。
相手が異性となると、特に。
「ま、女は難しいよ。なに考えて生きてるんだろうね?あの人たちは」
僕の机を囲っていたメンバーの一人、繁原が小林の肩を叩きつつ言う。
さすがは繁原。今期すでに四人斬りの男は、けっして知ったふうな口はきかない。
「そういえば要(かなめ)は好きな子とかいねぇの?」
突然、逆方向から僕に話題の矛先が向けられた。嫌みのない顔の水野が、興味津々といった
視線を僕へと注いでいる。
「要はほんと謎だよな。女といっしょにいるの見たことねーもん」
「なにお前。彼女作らない主義なの?ひょっとしてホモ?ねぇホモなの?」
う〜ん、ひとの机の上で過剰なリアクションをする小林が微妙にうざい。
僕は水野の質問には答えず、ちらりと教室の窓側を見た。
ノートの写しあいをしている、クラスの中でも地味派に分類される女子の集団。
和やかに談笑している女子たちの輪の中に、彼女がいる。
彼女は友人に笑顔を向けられて、同じだけの量の笑みを返していた。
「ひょっとして五十嵐さんのこと見てる?」
水野に言い当てられた。めざとい。
その言葉に反応して、小林と繁原も彼女へと視線を移した。
彼女は自分の後頭部に集る視線に気づくことなく、友人たちに笑みをふりまいていた。
「要はああいうのが好きなんだな。まぁいいんじゃね?お似合いだよ。あの子かわいいし」
「別に好きとかじゃないから。ただなんとなく見てただけだよ」
「またまたぁ。無意識に視線を送るのは、気になってる証拠だぜ。フヒヒヒ」
みんな品定めするような目で彼女のことを見る。さらさらの長い黒髪が高得点だとか、化粧
っ気のない素朴な美人顔が萌えるとか、本人に聞えてないのをいいことに、言いたい放題だ。
まぁ悪く言っているわけではないので、それはいいか。
「でもさ、あの子って一時、メンヘラーじゃないかって噂あったよな」
繁原が思い出したように言う。
「ああ、そういえばあったね。右手首の傷でしょ?」
「あったあった。リスカ痕じゃないかとか散々言われてたよな〜」
彼女の右手首の傷が話題になったのは、まだこのクラスになって間もない頃のことだ。
体育の時間に女子の誰かが気づいた。彼女の右手首の皮膚の下に、一直線に滲む朱色に。
噂の火の粉が飛び交い始めると、彼女はすぐに鎮火にかかった。
ある日、台所で慣れない料理をしていたら、ざっくりといってしまった。物凄い量の血が出て
自分でも驚いた。慌てて救急車を呼んだりして、もう大変だったんだよ。
彼女はそんな弁解をした。
誰もがなんだそういうことかと納得し、噂は噂のままで終わったのだった。
それもそのはずだ。真面目で温和な彼女がリスカをするなんて、誰も本気で思っちゃいなか
ったのだから。
「まぁでも、いい子だよな。俺も前に隣の席だった時、よく問題の答え教えてもらったし」
「けどよ、他のクラスの男に告白されたりしてんだろ?地味に競争率高いぜ五十嵐は」
どうすんだよ、と意地の悪そうな顔で僕の肩を押す繁原。
「だから、ただなんとなく見てただけだって…」
「そういえばさ、要の手首にも、傷あったよな確か」
水野がうまい具合に話題を逸らしてくれた。水野GJ。
「これのこと?」
僕はシャツの袖をまくり、腕時計を外して、みんなに左手首を晒してみせた。
腱の筋をまたいで一文字に走る、ムカデが這った跡のようないびつな傷跡。
さっきまで彼女の後頭部に注がれていた三つの視線が、今度は僕の左手首に集る。
「これ、リスカ痕って言われたら信じちゃうよな〜」
「ま、実態は小学生時代にやらかしたドジの名残りなんだけどね。あまり仲良くない人からは
変に勘繰られるからな〜。その度に参るよ、ほんと」
小六の時、図工の時間にカッターの扱いを間違えた。
おかげで僕は今でも、しばしばこの傷について説明を求められる。面倒な話だ。
「お、やべ。斉藤きたよ」
教室に先生が入ってくると、ほどなくして始業のチャイムがなった。
僕の机を囲っていた仲間たちも各々の席に散り、僕も教科書の用意をした。
放課後、同じ委員の鶴田茜(あかね)に話があると言われ、教室で二人きりになった。
人を待たせているので手短に頼むと言うと、彼女はどこか緊張した面持ちでうなずいた。
「これ、この前借りたCD。もうダビングしたから、返すね」
なんだそんなことか、と思った。僕は返却されたCDを肩から提げていたバッグに仕舞い、彼
女にCDの感想を尋ねた。
「うん、良かったよ。ねぇ、今度同じ人の別のアルバムも貸してよ」
なぜかはにかみがちに言う鶴田さん。
「別にいいよ?じゃあ明日、なんかオススメのやつを適当に持ってくるから」
僕がこの状況を早めに切り上げようとしてるのを見て取ったのか、彼女は少し慌てた感じで、
「あ、あのさ…!」
僕を呼び止めた。
放課後の教室で、話したいこと。CDの返却なんて口実に過ぎない。この状況でこんな分か
りやすい反応をされれば、誰だってこの後の展開は容易に想像がつくはずだ。
僕も少し、気まずい雰囲気を感じていた。
「中原くんは、彼女いる?いない…よね?」
「いないよね、って失礼だなー」
「ああ違うの、そういう意味じゃなくて…」
必死で取り繕おうとする鶴田さんは、ちょっとかわいかった。
「冗談だよ。いないけど、なに?」
「あのね、じゃあ、よかったらだよ?中原くんがもしよかったら、その…」
僕に超能力の素養はないけれど、ここまでくれば、さすがに次の言葉は読める。
「私と付き合ってほしいんだけど…」
瞬間、喉が詰まるような喜びと、どうしようもない戸惑いが僕を襲う。
鶴田さんの気持ちには薄々気づいていた。この展開も前々から考えていた。
だけど、その時の対処法までは考えていなかった。僕には、彼女の好意をふいにしなければな
らない理由がある。
僕は二、三秒の間、言葉に詰まっていた。で、どうにか捻り出した言葉が、
「あ、そっか。そうなんだ。……いや、嬉しいよ。ありがとう」
僕はアホか。
ヘタにありがとうなんて口走ったせいで、鶴田さんに余計な期待を抱かせてしまったではない
か。桜が咲いたみたいに笑顔になってるぞ、鶴田さん。直後に訂正の言葉を重ねなければいけ
ないことを思うと、胃腸のあたりが痛くなった。
「じゃあ、オッケーってこと!?」
「それは…ごめん…」
咲いた花が、みるみるうちにしおれていく。
僕は彼女に、嘘の説明をした。
鶴田さんのことは好きだけど、友だちとしてしか見られない…なんて、誰でも思いつきそうな
常套句に逃げた。
けど本当はそうじゃない。きみじゃダメなんだ。
彼女じゃないと、ダメなんだ。
第一理科室の扉を開ける。
照明の落ちた部屋に、黄土色のカーテンの隙間から差し込む光。
その中に彼女の姿があった。彼女は僕に気がつくと、ノートに走らせていたペンを止めて立ち
上がった。僕は後ろ手に扉の鍵を閉め、ゆっくりと彼女に近づく。
僕らは互いに歩み寄り、教室の真ん中で向かい合った。
「今日は遅かったのね」
「ごめん五十嵐、ちょっと野暮用が」
鶴田さんのことは伏せておいたが、五十嵐はそれ以上追及しようとはしなかった。
僕たちは、無言のままそこに立っていた。二、三秒ほどの短い間、そうしていた。
そして、どちらともなく片腕を差し出し、シャツの袖をめくった。
僕は歪な一文字が刻まれた左手首を彼女の前に晒し、
彼女は歪な一文字が刻まれた右手首を、僕の前に晒した。
そうすることで、僕たちは互いの存在を確認し、この世界にひと時の安堵を感じる。
この傷が、僕たちの証明だ。
「よかった、偽者じゃないみたい」
「どうやらそうみたいだね」
それ以上は何も言わず、五十嵐はリボンの紐を解いた。
そしておもむろに、シャツを脱ぎ始める。彼女の華奢な鎖骨、白磁のような血色の悪い肌があ
らわになる。
僕も彼女に要求されるまでもなく、シャツのボタンを外していた。
これから始まることに、僕の胸は躍る。
小林も繁原も水野も、鶴田さんも、誰も想像しえないだろう。
僕と五十嵐が、こうして会っているなんて。
僕は五十嵐を抱きしめた。
彼女の呼吸、まだ落ち着いている脈拍、心が、僕に触れる。
その全てが、僕の中に流れ込んでくる。
そう、僕たちは。
宇宙でたった二人きりの、心の理解者だ。