東邦大学医学部付属大橋病院で発生した山口與志廣の医療過誤死亡事件

(甲第32号証 山口雷太陳述書)

 

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始めに

@ 本資料は原告山口雷太が陳述書として東京地裁に提出した文書を、重要な証拠を同時に参照できるよう改訂したものです。東京地裁判決は本資料を事件の事実関係を明らかにし、原告が受けた被害の大きさを示す有力な証拠と判断しました。文中の原告側人物と被告側人物のやりとりの全てに、被告作成カルテ・原告作成カルテ開示前確定日付付経過記録・原告作成面談時作成メモ、などの根拠があります。

A    第12章以降では、東京地裁判決の認定を( )内に注記で示しました。

B    手紙・カルテなどの引用箇所は文字サイズを小さくして表示してあります。

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目次

第 1章  胃癌切除

第 2章  転移性肝癌発症

第 3章  術前説明

第 4章  終わらない手術と執刀医K.H.の説明

第 5章  術後合併症とN.J.の術後説明

第 6章  疑問

第 7章  多臓器不全

第 8章  K.H.の釈明

第 9章  心停止

第10章  解剖

第11章  真相解明開始と解剖報告書

第12章  肝切除術前検査の実態調査

第13章  肝切除術の実態調査

第14章  術後経過の実態調査

第15章  新たな疑問

第16章  カーデックス・胃切除術・病理解剖の調査

第17章  日米の肝臓外科専門医の見解

第18章  戦う決意

 

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第1章  胃癌切除

 

 「胃に影がありますから、専門のお医者さんに診てもらって下さい。」と人間ドックの担当医は與志廣に告げ、レントゲン写真とカルテを入れた封筒を封印して手渡した。平成5年11月9日のことである。

 

 山口與志廣(よしひろ)、66才。妻幸代(さちよ)と長男雄仁(かつひと)とともに東京中目黒に在住。アパート経営。昭和57年まで鮮魚店経営を本業としていた。幼少のころから強い近視があり、分厚い眼鏡をかけていた。頭髪は退化し、両脇と後頭部に残っている髪は真っ白であったが、やや肥満気味の体は健康そのものだった。66才であるが、見た目76才と体力年齢56才のアンバランスがあり、ゴルフで機敏に動く姿はパートナーを驚かせた。温厚な性格であり、嫌なことがあってもめったに表情に出さなかった。昭和一桁生まれらしく我慢強かった。

 昭和2年3月16日北海道古平(ふるびら)の生まれ。父親が早く亡くなり、暮らし向きは良くなかった。長兄の援助を受け、東京中目黒の商家に住み込みで働きながら大学工学部まで進み、土木を学んだ。この商家で認められ、昭和26年に主人と養子縁組みの上、長女の幸代と結婚し、主人の跡取りとなった。この家は「魚源」という屋号の鮮魚店であった。

 現役時代はがむしゃらに働いた。毎朝4時に起きて商品の仕込みをし、7時前に河岸へ出かけた。店は朝9時に従業員に開けさせ、11時ごろ仕入の品物と一緒に帰ってきた。店は夜7時まで開けた。売上の勘定は養母に任せて、自身は風呂と二合の晩酌を済ますと9時に床に就いた。休みは日曜一日だが仕出しの注文があれば店を開けた。こうした生活を昭和57年に店の経営を大番頭に譲るまで30年余り続けた。若いころに盲腸の手術で1週間ほど入院した以外に店を休んだことはなかった。

 鮮魚店の経営を後身に譲った後は、昭和45年に建てたアパートの経営に専念した。このころから余裕を持った生活を過ごせるようになり、ご近所とゴルフを楽しんだり、縁あって選任された検察審査会のOB会の世話役を務めたりしていた。

 幸代との間に、雄仁、信恭(のぶゆき)、雷太、雪子の三男一女をもうけた。当時4人はすでに成人していた。雄仁は専任講師として千葉の短期大学部に、信恭は裁判官として東京地方裁判所に、雷太は大手総合商社の名古屋支社にそれぞれ勤めており、雪子は岡山の大学の博士課程に在籍していた。自身が経済的な事情で進路に制約があったことから、4人の子供に教育を受ける機会を与え、各々自分が希望した進路に進ませてやれたことに與志廣は満足していた。與志廣は話題作りが下手だったが、子供のことはよく周囲に話していた。

 高度成長期に育った子供達の目から見ると、與志廣は寝ている時と晩酌をしている時以外はいつも仕事をしているように見えた。一緒に遊んでもらった思い出が少なかったことと、子供の立場で耐えにくい倹約家であったことで、祖父母や母と比べて遠い存在であった。こうした父のありがたさが分かるのは相当の年齢に達してからであった。店頭に立つ山口與志廣の写真

 

與志廣は人間ドックの検査結果を幸代に伝えた。40年余り連れ添って盲腸炎しか病気をしたことのない與志廣に異変が起きていることに幸代は驚き、すぐに信恭に電話を入れた。雄仁と信恭は東邦大学付属中学・高校を卒業しており、この大学に医学部があることから高校OBに同大学出身の医師が数多くいた。特に信恭は高校OB会の幹事をしていた関係で知己が多かった。東邦大学医学部付属大橋病院は中目黒の家から徒歩で30分程のところにあり、地の利が良かった。幸代の糖尿病、信恭の肩の習慣性脱臼、雄仁の喘息の発作は全てこの病院にかかっていた。この病院の入院患者の食事用に魚源が鮮魚を納品していたこともあり、家族は皆「大橋病院」と呼んで親しみを感じていた。信恭は迷うことなく大橋病院に勤務し、個人的に親しいP医師に連絡を取り、紹介を依頼した。P医師は第3内科を紹介した。

 平成5年11月25日に與志廣は大橋病院第3内科の診察を受けた。内科医は「胃体中部陰影欠損の所見」との人間ドック医師の手紙とレントゲン写真を見て、胃の内視鏡検査を行った。人間ドックの医師の申し送り通り胃体中部小彎後壁(胃の中央部・内縁・背側)に病変を見つけ、病変部を少し切り取り標本を病理科に廻した。CT検査後内科医は與志廣に、「胃に潰瘍があります。出血の恐れがあるので精密検査を受けて下さい。次は12月9日にCT検査をします。場合によっては入院してもらうかもしれません。」と伝えた。

 病理検査の結果は「中分化型管状腺癌 GROUPX(明らかな癌細胞あり)」であった。検査のスピードが速まった。12月9日のCT検査の後、10日に入院することになった。13日に胃の超音波内視鏡検査、17日には腹部の超音波検査が行われた。精密検査の結果、胃以外に病変は見つからず、肝臓など他の臓器へ転移している可能性は少ないことが分かった。リンパ節の病変も見つからなかった。ただ超音波内視鏡検査の結果、胃癌は潰瘍をともないながら胃壁を隆起・陥凹の両方向生育し、直径は4cmあることと、胃壁の中を少なくとも粘膜下組織まで進展していることが判明した。胃壁は内側より、粘膜、粘膜下組織、筋層、漿膜下組織、漿膜からなる。粘膜下組織より奥の細胞は血流やリンパ流と触れているので、與志廣の場合CT検査や超音波検査では胃以外に病変が見つからなくとも、癌細胞が血流やリンパ流を介して転移している可能性があった。

 内科医は與志廣の胃癌の進行度であれば胃切除により癌の根治が期待できると考え、同じ病院の第3外科で、胃外科が専門のN.J.に相談を持ちかけた。N.J.は内科医の治療方針に同意し、1月7日の午前9時に手術の予定を入れた。内科医は幸代と與志廣を呼び、診断結果と治療方針を説明した。

與志廣と幸代はP医師の執務室を訪れた。P医師は二人の報告を聞くと「胃を切るのであればN.J.君が良いでしょう。でもどうして正月開けまで手術を延ばすのだろう。ご主人は正月に家で餅を食べたい訳でもないでしょう。癌の手術は早ければ早いほどよいので、N.J.君に話しておきますよ。私は集中治療室の責任者も兼務しているので、手術さえN.J.君がしてくれれば後は年末年始もフォローできる態勢を作っておきます。」と申し出た。翌日大橋病院から「12月24日の午後1時から手術をするので、21日に第3外科へ転科します。」との電話が入った。

 手術は12月24日の午後1時から4時半にかけて行われた。幸代と信恭が手術室の外で待機した。手術後説明に現れたのはN.J.の部下の若い外科医であった。N.J.は所用ありすでに病院を後にしているとのことであった。後日談だが、信恭はP医師から、N.J.は当日家族と旅行に行く予定であったと聞いた。若い外科医は切除した胃の内部に蚊にさされたように赤く腫れた箇所を示して「これが胃癌です。ごく初期なのでこれで再発転移の恐れはないでしょう。年明けに病理検査の結果が出たら確定した診断結果をお伝えします。」と説明した。

 年が明けて平成6年1月14日に與志廣と幸代、信恭はN.J.から説明を受けた。N.J.は「病理検査の結果胃癌が胃壁の中を思ったより深く進行していることが分かりました。癌の再発・転移の恐れは皆無であるとは言えなくなりましたので念のため化学療法を行います。多分大丈夫でしょう。退院は1月21日になります。」と三人に説明した。

 退院後與志廣は、一回に茶碗に一杯ほどしか食事が取れず、回数を増やして一日の栄養分を補った。小太りだった体型はやせ気味に変わっていった。最初の数カ月は安静にしていたが、初夏のころにはゴルフの練習に行くまでに体調が回復し、秋にはコースに出ていた。定期検査は最初毎月であったが、時が経つにつれ頻度は減っていった。與志廣の生活は元に戻り、幸代や子供達は與志廣が胃癌であったことを半ば忘れかけていた。 

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第2章 転移性肝臓癌発症

 

 手術から2年半余り経過した平成8年の夏ごろから與志廣は自身の体調の悪さを自覚しだした。体の疲れが取れないし、時々腰痛が起こり足の先までしびれることがあった。ひどい時には歩くのも苦痛になった。足を上にして仰向けに寝ると一時間位で腰痛は治った。雄仁は與志廣に今まで嗅いだことのない口臭があることに気づいていた。平成9年2月には與志廣の体調はますます悪化し、体重が落ちていった。それでも與志廣は普段の生活を続け、週に一度はコースに出てゴルフを楽しむ生活を続けていた。周囲は與志廣が定期的に大橋病院に通っているので病魔に襲われているとは思いもよらなかった。

 徐々に悪化する足腰のしびれや倦怠感、食欲不振は自分が健康であるとの與志廣の確信を打ち砕いていった。術後の定期検査は内科の担当だが、N.J.が自ら名乗り出て第3外科で與志廣の主治医であり続けていた。定期検査の時期ではないものの、2月13日に與志廣は自ら大橋病院の外来を訪れ、N.J.に不調を訴えた。N.J.は翌14日に與志廣を来院させ、胃の内視鏡検査を行ったが異常は見つからなかった。N.J.は「念のため24日にもう一回来院して下さい。腹部超音波検査をします。その結果を3月1日に知らせます。」と與志廣に指示した。腹部超音波検査は與志廣にとって異様なものであった。普段は愛想よく話好きの検査技師がこの日に限って顔をこわばらせ何一つしゃべらなかった。與志廣は不吉なものを感じた。恐る恐る3月1日に来院すると、N.J.は「超音波検査の結果、肝臓に影があることが分かりました。腹部CT検査をします。14日に来院して下さい。」と指示した。

 3月14日にCT検査が行われた。與志廣はCT検査の技師とは面識がなく、この技師に検査結果を聞く勇気はなかった。この日N.J.は不在で、検査結果を聞くための面談日さえ分からず終いであった。

 N.J.の外来の診察日は毎週木曜日と土曜日の午前中と決まっていた。土曜日の3月15日に與志廣は大橋病院を訪ねたが、N.J.は休みとのことであった。受け付けの看護婦は次の木曜日の20日は春分の日で休診であり、土曜日の22日に来院するよう與志廣に勧めた。しかしN.J.は22日も外来を休んだ。

 與志廣にとって眠れない日が続いた。與志廣と幸代は3月29日の三島で行われる甥の結婚式で仲人を頼まれており、また翌30日に姪の結婚式に出席する予定があった。與志廣は幸代に「もし入院ということになれば、2つの式に出られなくなる。29日の方は欠席という訳にいかないので大分にいる信恭に代理をしてもらおうか。」と相談した。落ち着かない様子を見かねて幸代は「もし検査の結果が大変なことになっていればすぐに病院から連絡が来るわよ。P先生の紹介で診察を受けているのだから間違いがある訳ないじゃない。」と励ました。與志廣は「それもそうだな。」とつぶやき、少し落ち着いた気分になれた。雄仁は大分に転勤した信恭に電話を入れ、一部始終を連絡した。名古屋にいる雷太と倉敷にいる雪子には信恭から連絡が入った。遠方にいる子供達は胃癌以外で與志廣が寝込んだところを見たことがなかったので楽観的に話を聞き流していた。

 3月27日に與志廣はN.J.の診療室を訪ねた。N.J.は腹部を輪切りにした一枚のCT写真を與志廣に示しながら「肝臓にあるこの影は良性の腫瘍である海面状血管腫です。とりあえず手術が必要かもしれません。3月31日に入院できる準備をしておいて下さい。」と告げた。自身は健康だと信じようとしていた與志廣にとって青天の霹靂の言葉であった。異常があるにもかかわらず、3月14日以来約2週間も知らせてくれなかった対応から、N.J.は自分に本当のことを告げていないと感じた。

 與志廣から話を聞いた幸代は、即信恭に電話を入れた。もともと信恭は従妹の結婚式に出席するため29日に上京する予定にしていたが、この日がN.J.の外来の診察日と聞き、面談の約束を取ろうと何度も大橋病院に電話を入れた。しかしN.J.の都合は分からず終いであった。信恭は28日の最終便でともかく上京することにした。連絡を受けた雷太は29日の朝一番の新幹線で上京し、9時過ぎに中目黒に着いた。與志廣は三島に行く支度をしていた。雷太は1カ月半ぶりに帰京したが、與志廣が急に老けたように見えた。與志廣は雷太の声を聞くと玄関口まで出て来て「信恭が大分にいるので、これからは雷太に世話になることが多くなるだろう。もう医者は自分に本当のことを教えてくれなくなっているようだ。医者の話はよく聞いてくれ。そして信恭とよく相談してくれ。」と伏し目がちに弱々しい声で言った。雷太は、弱った姿を隠せない父に接して当惑した。同時に自分が三男であり実家の中では常に二人の兄の後を歩んでいたにもかかわらず、この大事において初めて父から頼りにされたと感じた。

 信恭は29日の朝も大橋病院に電話を入れた。しかし病院の交換手は診察中とのことでN.J.につないでくれなかった。面談の約束が取れないのではN.J.と会えないかと信恭は諦めかけたが、雷太が病院の診察室の前で居座りを決め込んで面談を申し込むと言うので一緒に行くことにした。大橋病院1階の第3外科の外来受付に行くと、本日の担当医師の掲示板に「N.J.」の名札があった。受付で来意を告げると外来患者の順番で面談してくれるとのことであり、廊下のソファで待つことにした。

 30分程待つと二人は診察室の中で本棚などで仕切られた四畳半ほどの部屋に通された。机が一つ置いてあり入り口の反対側にN.J.が座っていた。年は50位、細身で中背、眼鏡をかけており、あご髭を蓄えていた。ライトブルーの長いTシャツの形をした手術服を着ていた。N.J.は居合わせた看護婦に「山口與志廣さんのCT写真を持ってきて。」と命じた。信恭は「お忙しいところ押し掛けてきて申し訳ございません。3年前にお会いしておりますが、改めて山口與志廣の息子の信恭です。これは弟の雷太です。今大分に住んでおり、雷太は名古屋に住んでいるのですが、父の肝臓に影があると聞いて心配になり、上京する機会があったのでお話を伺えればと思い、参りました。」と来意を告げた。N.J.は「それはどうもご苦労様です。ご心配はもっともなことです。3年余り前の胃癌の手術以来半年毎にお父さんに癌の再発・転移がないかどうか検査していたのですが、異常はありませんでした。ところが今年2月の検査で肝臓に影を発見し、精密検査を行ったところ腫瘍があることが分かりました。おそらく胃癌からの転移だと思います。」と低い声で丁寧に告げた。

信恭と雷太は最悪の回答を受け、腰が抜けそうになった。看護婦が部屋に入ってきて大きな封筒をN.J.に手渡した。N.J.は看護婦が持ってきた封筒の中を探りながら一枚を選び出し、中に蛍光灯が入った掲示板に貼り付けた。雷太にとって初めて見る腹部CT写真であった。(参照資料1 3月29日にN.J.が示したCT写真)「CT写真というのは左右が反対に写っています。肝臓はお腹の右側にありますが、写真ではこの通り左側にあります。」と言ってN.J.は写真と自身の腹を交互に指して二人に肝臓の位置を説明した。当時の信恭と雷太は医学について一般の人程度の知識しかなく、雷太は「素人なので分かりやすく説明して下さい。」と依頼した。CT写真にある肝臓の背中側の背骨に面している部分の影を指差し、「肝臓は大きく右と左の二つに分かれ、各々右葉と左葉と言います。右葉のこの影が腫瘍です。大きさはニワトリの卵位です。左葉に点在している小さい影にも注目しています。これも転移だと思います。6カ月前の検査で発見できなかったものが、ここまで大きくなるとはかなり悪質の進行癌です。お父さんには癌の転移とは言えないので良性の血管腫と言ってあります。これから二三週間入院してもらい、病状の診断と治療方法の検討をしていきます。治療法として、血管造影という方法で癌に行く血管を詰める療法と全身への化学療法が考えられます。手術をして腫瘍の内大きいところを切り、小さいものを焼ければ一番良いのですが、今は何とも言えません。検査で肝臓以外に転移が見つかれば切っても意味はありませんし、肝臓や患者さんの体力が手術に耐えられなければ弊害の方が大きくなってしまいますから。診断と治療法の選択肢が決まりましたらご連絡します。今日は不在でご挨拶できませんが、肝臓はK.H.が専門なので、彼も主治医になります。」と伝えた。信恭は最悪の事態を迎えながらも検査結果を待たないと動きようがないことを知り、「現況はよく分かりました。前は私が必要に応じて父の代わりに先生のお話を伺っていましたが、今は大分におりますので、代わりを弟の雷太が致します。治療方針が決まりましたら、連絡を宜しくお願いします。」と伝えた。雷太は自身の名刺に自宅の連絡先を書き込みN.J.に渡した。N.J.は「私は水曜の午後、金曜の午前、第3週の土曜、日曜以外は病院におりますので、ご用があればどうぞ連絡を取って下さい。」と伝えた。信恭と雷太はN.J.に謝辞を述べ、席を立った。

 面談後信恭と雷太はP医師の研究室を訪れたがあいにく不在だった。信恭は雷太の名刺に自身の名前も書き、P医師の机に置いてもらうよう同室の医師に依頼した。

 信恭と雷太はP医師の部屋を後にすると、大橋病院の前にあるタイシンホテルの喫茶店に入った。席について暫くの間二人は無言でN.J.から言われたことを何度も頭の中で繰り返し、これが與志廣と家族にとってどういう意味を持つのか整理をしようとした。コーヒーが冷めかかった頃に信恭が「どうする。今日の話をお父さんにどう説明しようか。」と尋ねた。雷太は動転している気持ちを押さえながら「胃癌の時も事実を包み隠さず言っているんだし、親父の人生は親父が決めるべきだと思うんだ。僕が親父の立場になったとしても僕は本当のことを言ってほしいと願うだろう。僕達が親父の余生の過ごし方を決める訳にはいかないだろう。」と自身の意見を言った。「そうか。そうだな。お母さんと雄仁、雪子にはどうする。」と信恭は言った。明日は従妹の晴れの挙式であった。「明日はおめでたい日だし、お母さんたちには式が終わってから伝えよう。そうしないとせっかくの式が湿っぽくなってしまう。親戚の人にも黙っていましょう。」と雷太は言った。「そうしよう。」と信恭は同意した。家まで歩いても30分程度だが、二人は歩く元気がなく、タクシーで実家に戻った。雷太はショックの余り與志廣から預かった診察券の入った鞄をタクシーの中に置き忘れてしまった。幸いこの鞄は翌日與志廣の手元に戻った。

 

 夜7時過ぎに與志廣と幸代は甥の結婚式の仲人の役を終え三島から帰宅した。すぐに信恭と雷太を呼び、N.J.の話をするよう促した。信恭は「明日の結婚式の後で良いんじゃない。」とためらったが、與志廣は「気になるだけで落ち着かないじゃないか。」と聞かなかった。與志廣と幸代、信恭と雷太は六畳の和室に入った。信恭はN.J.の話をありのままに伝えた。話を聞いている最中與志廣は落ちつき払っており、表情を一度も変えなかった。信恭が話を終えると、與志廣は「やはりそうか。分かった。三週間程入院することにする。自分は七十歳まで生きて、四人の子供に恵まれ、皆成長した。同世代の人々の多くが戦争で死んだことを思えば幸せだった。自身の人生に悔いはない。今後どんなに厳しいことになっても、自分には全てを語ってほしい。それによって自分で自分の身の振り方を考える。将来末期になった時、栄養補給の点滴は受けるが、それ以上は結構だ。薬の瓶や管に囲まれたくない。無駄な延命措置はご免だ。」と語った。雷太が「明日はおめでたい日だから、雄仁と雪子には明日の夜に伝えるよ。」と言ったところ、與志廣は「その方が良いだろう。」と答えた。「式の際に親族に今日の話はしないことにしましょう。」と雷太はつけ加えた。「そうそうお前に頼みたいことがある。明日の披露宴でスピーチをすることになっているが、新郎がアメリカ人だからお前に通訳を頼みたいんだ。これが原稿なんだが、明日までに英訳しておいてくれ。」と言って與志廣は雷太にスピーチ原稿を渡した。與志廣は戦争を乗り越えた世代らしく落ち着いていた。與志廣は友人と約束していたゴルフを断る電話を入れた後、床についた。

 従妹の結婚式の日は晴天であった。式場の桜が満開で、華やいだ雰囲気であった。新郎側の式はアメリカで別途執り行うことになっており、新婦側の身内だけの宴だったので、大いに盛り上がった。與志廣はビールを口にし、少しほろ酔い加減でテーブルスピーチをした。この時ばかりは不幸な出来事を忘れることができた。

 翌31日、與志廣はいつも通り4時に目を覚まし、入院の準備を始めた。10時には部屋の掃除まで済ませやることがなくなった。幸代は「病院は1時に来て下さいと言っているのにそんなに早く準備してどうするの。」とあきれ顔で言った。「やることがないので病院へ行く。まだベッドが空いていないのなら外来のソファで待っている。」と與志廣は言い出した。幸代と雷太が付き添った。幸いベッドが空いているとのことで11時過ぎに自分のベッドにたどり着いた。病室は中央病棟の556号室。廊下から病室にはいると対面に窓が二つあり、左右にベッドが3つずつ並んでいる6人部屋であった。窓を見て左側の、窓側と廊下側に挟まれたベッドに既に與志廣の名札が付けられてあり、「主治医K.H.N.M.T.H.」と書いてあった。雷太は與志廣の身の回りのものを買い求めると病院を後にし、名古屋に戻った。

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第3章 術前説明

 

 4月7日午後6時ごろに雷太の名古屋の自宅にN.M.医師から電話が入った。家に誰もおらず、後で雷太の妻が留守電に入っていた「4月12日土曜日の昼前後に来てほしい。8日昼過ぎに折り返しの電話を欲しい。」との伝言を聞いた。雷太は連絡を取り合い、幸代、雄仁、信恭とともに12日に大橋病院を訪問することにした。翌8日に雷太は大橋病院へ電話を入れ、N.M.から「上司のN.J.からご家族に治療方針が決まったので12日午前11時に来院して下さいと伝えるよう指示を受けています。」との話を受け、その通りに面談の約束をした。

 信恭と雷太はN.J.との面談以来、肝臓癌の専門書を購読し、にわか勉強を始めた。肝臓癌には肝臓の細胞自体が癌化した肝細胞癌と肝臓外に発生した癌の細胞が肝臓に転移した転移性肝癌に大別できること、肝細胞癌の9割以上は肝炎や肝硬変などの肝臓病の病歴がある人に発生すること、転移性肝癌では原発性肝癌と比べて予後不良であるものの、「肝臓外に転移がない」と「肝臓内の腫瘍を全て取りきれる」の2条件を満たした場合に手術適応があること、転移性肝癌の手術適応は大腸癌原発の少数例に限られるが、胃癌原発の場合もごくわずかであるがありえること、この2条件を満たさない症例に対する治療法として化学療法や肝動脈塞栓術があること、を習得した。信恭と雷太は、N.J.との面談に臨むに当たりお互いの知見を擦り合わせた上、12日の面談では各治療法のメリットとデメリットを確認すること、他の医療施設でより良い治療法を受けられないか聞くこと、本人にどう説明するか相談すること、肝臓外の転移の有無を聞くこと、を申し合わせた。二人は、N.J.が卵大の腫瘍以外に小さな腫瘍が肝全体に点在していると言っていたので、手術で肝臓内の腫瘍を全て取り切るのは無理だろうと考えた。12日は厳しい話をされると思い、気を引き締めた。

 

 4月12日の面談は3月29日と同じ大橋病院の第3外科の外来の仕切られた部屋で行われた。4人で押し掛けるには小さな部屋であった。N.J.が机をはさんで反対側の窓側に座っていた。挨拶を済ますと雷太はポケットに入る位の小さなノートとペンを取り出した。信恭はこの瞬間にN.J.が戸惑う表情をしたことに気づいたが、気に止めなかった。N.J.CT写真を一枚取り出し、中に蛍光灯がある掲示板に貼り付けた。(参照資料2 4月12日にN.J.が示したCT写真

「與志廣さんに入院して頂いて精密検査をした結果、肝臓の影は胃癌が原発の転移性肝癌であることが確定しました。内一つは卵大にまで大きくなっており、また小さな癌が肝臓全体に点在しています。卵大の癌の中では血液が流れていないようなのですでに壊死を起こしているかもしれません。このまま放っておけば卵大の腫瘍が破裂して大出血が起きる可能性があります。また癌細胞がくずれてこれが下大静脈の血流に乗り心臓を経由して肺の動脈を詰まらせ肺閉塞を引き起こす危険もあります。卵大の腫瘍の破裂が起きれば、これは大出血なので緊急手術でも間に合わず、もう手の施しようがありません。まあこれは今すぐ起こるわけではありませんが、山口さんの癌の進行のスピードからして、近い将来起きる心配があります。通常胃から肝臓への癌の転移は血液を介して進むので、血液中には癌細胞が拡散していることになり、これはもう現在の医学では取れません。画像検査で発見されなくとも他に転移している可能性は否定できなくなります。」とN.J.はゆっくりと説明した。重苦しい雰囲気になった。

「これから各種の治療法を紹介しますが、この順番で治療効果が大きいものの患者さんの負担とリスクも大きいと理解して下さい。まず第一の選択肢として手術があります。術式は肝臓の右半分、右葉と言いますが、の切除です。残った左半分にチューブを入れて抗癌剤を注入することもあります。またMCTという治療法で残った肝臓の腫瘍を熱凝固すればさらに手術の効果を上げます。MCTは電子レンジと同じ原理で電磁波を用いて腫瘍を焼く治療法です。開腹してMCTを行えば直接病変部に措置できるので正確性が増しますし、正常な肝細胞へのダメージは少なくて済みます。手術と併用するなら抗癌剤療法よりMCTの方がよいでしょう。第2は手術で開腹の上でMCTを徹底的に行う方法です。第3は体の外側から針を刺しMCTを行う方法です。第4はTAE別名では肝動脈塞栓術といい、癌細胞に栄養と酸素を補給している動脈をふさぐ方法です。肝臓の正常な細胞は肝動脈と門脈の二つから血流を受けていますが、癌細胞は肝動脈のみから血流を受けているという解剖学上の違いを利用した治療法です。ただこの治療法には肝機能障害の副作用の心配があります。第5は全身に抗癌剤を投与する治療法です。第6は何も治療しないことです。肝臓癌の自覚症状が出てくるのは暫く先のことと思います。残った人生を満喫したいとご本人が希望するのであれば、医師としてはこの希望を尊重したいと思います。もし民間療法を受けたいということであれば、それも良いと思います。ただ確定的なことは言えませんが、この病状で余命は13カ月プラスマイナス9カ月、つまり最悪で4ヶ月うまく行って22ヶ月です。」とN.J.は説明した。(参照資料3 4月12日にN.J.が家族に示した治療の選択肢)雷太は余命の話を聞いた瞬間に、元気な與志広が肝臓からの大出血で突然死する姿を想像し、手が震えた。あと数カ月で與志広の死が訪れるかもしれないとの思いで家族は皆押し黙った。「各治療で本人の負担がどのくらいか教えて下さい。」と信恭は気を取り直して質問した。「手術では3ヶ月入院してもらいます。退院は夏になります。負担が大きいので体力が落ちます。開腹した上でのMCTの場合、入院期間は1ヶ月です。体力は落ちません。外からのMCTでは入院は3週間です。血管造影では1週間。全身化学療法なら明日にでも退院できます。」とN.J.は答えた。雷太は「精密検査で肝臓以外に転移は見つからなかったのでしょうか。」と尋ねた。N.J.は「発見されていません。さもなければ最良の選択肢として手術を勧めません。」と答えた。「それぞれの治療法の効果を具体的に教えて下さい。」と信恭は尋ねた。「まずMCTから話しましょう。この治療法は熱を発するのですが、お父さんの肝臓の大きな腫瘍は場所的に静脈の大血管に近く、この血管付近で熱を加えるわけにはいかないので、腫瘍は焼き切れません。なので破裂の問題は解決できません。体の外からのMCTではなおさらコントロールが難しくなります。肝動脈をつめる治療法では腫瘍が小さくなるあるいは変わらない確率は40%です。癌は放っておけば成長しますから、大きさが変わらないというのは治療効果があると見なしています。この治療法は肝機能障害を引き起こす危険が20%の確率であります。20%というのは私たちから見て少ない数値ですが。全身化学療法では薬が強い場合、副作用が起きる可能性があります。」とN.J.は説明した。「次に手術ですが、肝臓外科が専門のK.H.と相談しましたが、これは切れる癌だと言っておりました。肝細胞癌では肝硬変から派生する場合が多く、残肝機能が落ちていますので切除法が限られますが、山口さんの場合、転移性肝癌であり、癌以外の部分の肝臓の機能は正常なので切除法の選択肢が広い。麻酔などの手術自体のリスクはありますが、高齢者とはいえご本人に体力があり、胃癌の手術実績があるから問題ないだろうと判断しています。左葉を切る場合胆管再建をせねばならず術式が難しくなる上に出血のリスクがありますが、今回の手術は右葉なのでこの心配はありません。手術自体は6時間位で終わります。2ー3日間予後を見るために集中治療室に入ってもらいますが、その後一般病棟に移れます。術後2週間ほどで自分で寝起きできるほどに体力が回復し、食事もできるようになります。現在の医療の技術水準では直径5ミリ以上の腫瘍を識別することができるので、これらは全て根治できます。ただ逆に言うと直径5ミリ未満の腫瘍は見逃すことがあり、手術後これが大きくなって肝癌が再発するリスクはあります。また術前検査で発見できなかった肝外の転移が開腹して発見されれば、ご本人には痛い思いをさせましたが、手術の意味がありませんので、肝臓に手をつけずにそのままお腹を閉じることもあり得ます。画像検査はどうしても不正確さがつきまとうのです。この場合はご了承下さい。」とN.J.は説明を続けた。信恭は「手術のデメリットを念のためもっと詳しく教えて下さい。」と依頼した。N.J.は「患者さんの負担が選択肢の中で一番重いことです。具体的には6時間の手術、3日間の集中治療室、14日間の寝たきりによる体力の消耗です。でも逆に言えばこれを乗り越えれば術後約2週間で食事ができ、自分で歩けるようになり、3カ月で退院でき普通の生活に戻れるのでそれまでの辛抱と言えます。手術をしても不幸にして13カ月で亡くなるケースはありますが、手術をしない場合の方がした場合より長生きするということはけっしてありません。手術直後は厳しいですが、これを乗り越えて最長22ヶ月と言った余命をさらに延ばしていける期待が持てる手術に患者さんとご家族が私たちとともに前向きに取り組んで下さればありがたいと思います。」と言い、両手を広げて今までより大きめの声で手術を強く勧めた。家族はN.J.のこの説明を聞いて、手術以外の治療法では4ヶ月先に起きるかもしれない卵大の腫瘍の破裂による死亡を防げないこと、手術だけが完全とはいえないが識別しえる肝臓内の腫瘍を全て根治できる治療法であること、手術自体のリスクは少ないが、再発のリスクはあること、各治療法の患者の負担の差は体力回復と入院に要する期間の違いであることを理解した。家族は皆、リスクと負担が少ない治療法で最短4ヶ月後の死を待つより、與志廣に3ヶ月間辛い思いをさせても一番長生きできて普通の生活に戻れる期待が持てる手術を選ぶべきであるとの判断に傾いた。雄仁は「失礼な質問ですが、他の医療機関に行けば別のより効果のある治療を受けられるということはありませんか。実は親戚にがんセンターで十数年前に肝臓癌で肝切除を受け、今でも元気でいるという人がいます。」と尋ねた。N.J.は「ご希望であればカルテを全てお貸ししますので、他の医療機関で相談して下さい。国立がんセンターの肝臓外科チームであれば手術をすると思いますが、消化器外科チームではしないと思います。」と答えた。雄仁以外の3人はこの発言は大橋病院の転移性肝臓癌の治療法が国立がんセンターの消化器外科チームより勝り、肝臓外科チーム並であるとの自信の表れと思った。雄仁だけは與志廣の症例で医師によって治療法に違いがあるかもしれないと思った。「マスコミの言う一般的なことなので父に該当しないかもしれませんが、新聞で肝癌に対するエタノール療法の紹介記事を読みました。これは治療の選択肢に入らないのでしょうか。」と雷太は尋ねた。N.J.は「チッ」と舌を思わず鳴らし不愉快な顔をしたがすぐに表情を戻し、「エタノール療法は小さな癌で3個以内の場合が適応です。お父さんの場合は適応外です。」と答えた。「ご家族としては心配で聞きたいことは山ほどあるでしょうが、與志廣さんの病状を診断するために膨大なカルテと写真があり、また一つ一つの治療法にしても奥が深く、全部ご説明したら6時間以上かかります。今までの説明でご家族でご相談頂き、治療の方向性が出たらその治療法についてさらに詳しくご説明したいと思います。」とこれで説明を打ち切りたいとの意向をN.J.は示した。信恭は「先生のお話を伺って手術を受けるのが最良の選択肢と理解しました。もしお願いするとして最短でいつ受けることができるでしょうか。」と尋ねた。N.J.は手帳を開き、「4月28日の月曜日になると思います。もし早く手術の承諾をもらえれば一週間前の21日に入れられるかもしれません。これは手術室とスタッフの空き次第で、早い者勝ちですのでご理解下さい。進行の早い癌なので積極的な治療法を希望なさるのであれば早い方が良いと思います。手術となれば執刀はK.H.が行いますが、私は與志廣さんの主治医として手術と術後の治療を責任をもって監督・指導します。K.H.とはいつも話し合っていますが、今後ともご家族への説明は私が窓口になります」と答えた。雷太は「父はどんなに厳しいことがあっても自分には本当のことを全て言って欲しいと希望しております。肝臓癌のことも言ってあります。お忙しいところ恐縮なのですが、父と私たちで受けたい治療法を決めたら、もう一度父に病状と治療法について説明して頂けませんでしょうか。」と依頼した。N.J.は「分かりました。16日朝9時にお話しましょう。」と答えた。

 

 面談は一時間弱で終わった。場所を変え昼食を取りながら、四人は3ヶ月の入院は大変だが手術による肝臓の右葉切除とMCTが最良の選択肢であることで意見が一致した。幸代は「そういえばお父さんはN.J.先生から『腫瘍マーカーでまだ反応していないので初期だと思います。もう一ヶ月も発見が遅れればそれは大変なことになっていました。』と言われたそうよ。」と言った。進行が早い癌であったものの、肝外転移がなく、手術ができる段階で発見できた幸福感を四人は共有した。ただ余命13ヶ月の宣告は四人にとってショッキングであり、このことだけは與志廣に伏せておくことにした。皆が「余命が13ヶ月プラスマイナス9ヶ月」という絶望的な宣告と「手術をすれば腫瘍は根治に近いところまで治療可能。手術をした方が長生きできる。」との楽観的な見通しのバランスをどう取れば良いか戸惑った。放っておけば最悪4ヶ月で終わる命であれば、延命効果が期待でき、N.J.が安全と言っている手術を受ける方がよい、それも早ければ早いほどよい、との判断を4人は固めつつあった。雄仁は注意深く「それでも他の病院でも意見を聞いたほうがよいんじゃないかな」と話した。信恭は「大病院ではチームで医療をやっているので、一人の医師の独断専行は起こりにくいはずだ。大橋病院のことだから、他の病院でより良い治療を受けられるのであれば、そこを紹介してくれるはずだよ。お父さんも入院前にU先生(ホームドクター)から、最近は大病院であれば病院の違いで受けられる治療が変わることはないと聞いていたはずだよ。」と反論した。幸代は「P先生の紹介を受けているし、間違いがあるはずないじゃない。」と信恭に同調した。雷太は「ぐずぐずしている内に卵大の癌が破裂したらどうするの。」と言った。4人は肝切除とMCTの手術を與志廣に勧めることを申し合わせた。

 雄仁を目的地まで送った後、三人は大橋病院に戻った。もう2時を回っていた。「お父さんには昼前に面談すると言っておいたままなので、どうしたものかと思っているでしょうね。」と幸代は軽い気持ちで言った。三人とも手術さえ受ければ死の恐怖を先延ばしできるものと信じ込んでいた。

 與志廣は同じ556号室にいたが、部屋に入って右側の窓側のベッドに移っていた。この日は土曜日で検査がなく、丹前姿で上半身を起こして本を読んでいた。雷太は入院の時以来13日ぶりに会ったが、この日の與志廣は普段の落ちつきを取り戻しているように見えた。信恭が「お父さん、先生の話を聞いてきました。どこか話をする場所はないですか。」と尋ねると、與志廣は看護婦の詰め所に行き、その隣にある小さい面談室の利用許可を求めた。面談室は3畳程の小さな部屋で小さなテーブル一つと折り畳み式の椅子が4つ置いてあった。與志廣が右側の奥の席を取り、隣に幸代が座った。信恭が與志廣の正面に、雷太が斜向かいの席についた。「話はどうだった。」と與志廣は腕組みをして尋ねた。袖からでている腕の細さに雷太は驚いた。信恭が口を開いた。「午前中にN.J.先生と面談して来ました。雄仁が飯田橋で用事があるというので送っていき、昼を食べてきたので遅くなりました。先生が勧めているし僕たちも一番いいと思うんですが、手術ができるんだそうです。肝臓は右左に分けて、右葉・左葉というそうですが、この内卵大の癌ができている右葉の方の肝臓を切除して、残っている左葉にある小さな癌をMCTで焼けば癌を根治に近いところまで治療できるんだそうです。MCTとは電子レンジと同じ原理で電磁波で病変部を焼く治療なんだそうです。」と説明した。「精密検査の結果、お父さんの体の中では肝臓以外に腫瘍は見つからなかったんだって。」と雷太が口を挟んだ。「そうなんですよ。だから肝臓内の腫瘍をやっつければ腫瘍を取りきれるそうなんです。ただ今の医療技術では5ミリ以上の腫瘍は識別できるんですが、逆にいうと5ミリより小さい腫瘍は見逃して残してしまうリスクがあるそうなんです。胃癌から肝臓への癌の転移は血液を介しているので、血の中に癌細胞があることになるんですが、これはもう取れないそう。だから今度手術を受けたとしても将来また再発・転移が起きるリスクはあるんだそうです。手術をすると3日間集中治療室に入り、その後は一般病棟に移れるそうで、2週間位で寝起きができて食事も取れるまで体力が回復するそうなので、お父さんにはそれまでは辛抱してもらわなければなりません。手術後3ヶ月で退院できるそうです。先生に改めてお父さんへ直接同じ説明をしてほしいと頼んであり、16日朝9時にしてくれるはずです。」と信恭が続けた。與志廣は信恭の話を聞いている最中、腕組みを崩さず目を閉じて厳しい顔をしていた。信恭の話が途切れると目を開け信恭と雷太の顔を交互に見つめた。二人も與志廣の目を見つめていた。三人は與志廣の言葉を待った。「分かった。手術を受けることにしよう。」と與志廣は答えた。與志廣には信恭の説明が自分の予想より楽観的なものに思えたようで、顔がいつもの穏やかな表情に戻っていた。「そう思うんです。他に手術でお腹を開けて腫瘍をMCTで焼く方法、手術をしないでお腹に小さな穴を開けてMCTをする方法、TAEといって肝臓の癌に栄養を与えている血管を詰める方法、全身化学療法などがあると聞いたんだけど、どれも手術ほどの効果はないそうです。手術できるということは識別できる腫瘍を根治できるということなんだから。」と信恭は言った。「今のところ手術室の空きがあるのは4月28日の月曜日だけど早く頼めば1週間前の4月21日にできるかもしれないと言っていたからすぐに頼んでおきましょう。」と雷太が言い、一同頷いた。話は10分も経たずにまとまった。皆が良い方向に行くと信じていた。

 幸代は用事があるからと大橋病院を後にした。信恭と雷太はなかなか会えないからと病室に戻り與志廣と雑談をすることにした。「入院が3ヶ月となると長くなるから何かしておくことはないの。」と雷太は自分が小学生の頃2週間入院しただけで退屈したことを思い出して尋ねた。「そうだなあ。目黒ゴルフにゴルフバッグを預けてあるが、手術となると当分練習に行けないので家に戻しておいてくれ。これが鍵だから。黒と黄色の目立つバッグで名札がついているからすぐに分かると思う。あと司馬遼太郎が『街道を行く』というシリーズの本を出しているんだが、この中の『オホーツク街道』と『ニューヨーク散歩』を買ってきてくれ。これお金。」と言って二つの用事を二人の息子に頼んだ。ゴルフバッグは信恭が、本は雷太が受け持つことにした。「入院が3ヶ月となると長くなるし、どうせ検査は済んでいるから一回家に帰ったら。お父さんが育てていたベランダの藤の花がもうすぐ咲くみたいだし。この間富山に出張へ行ったんだけど、桜が満開で本当に見事だった。お父さんが病院を出るのは梅雨が明けるころでしょう。一番良い季節を病院でずっと過ごすのはもったいないよ。」と雷太は一時帰宅を誘った。「3ヶ月位どうってことないよ。」と言って與志廣は取り合わなかった。「手術が4月21日でも28日でも月曜日でこの日は法廷があり休めないけど、家族で話して雷太が手術に付きそうから。」と信恭が話した。「会社があるけど月曜・火曜と休みます。」と雷太が続けた。與志廣は何も言わず雷太に笑みを浮かべて宜しく頼むという表情をした。雷太はまだ自分を頼りにする父親を素直に受け入れられなかった。「小さい頃、お父さんとよく河岸に行ったよね。あれは朝早かったから多分幼稚園に行く前だったんでしょう。僕はお父さんの布団で一緒に寝てましたね。だから朝早く河岸についていけたのでしょう。お父さんのあごひげが痛かったことを覚えてる。まあお父さんも僕の寝相が悪くよく蹴飛ばされると言っていたけれど。」と思いつく限り與志廣と一番一緒にいた幼少の頃の思い出話をした。與志廣は「よくそんな小さい時のことを覚えているな。」と驚きながら、今は独立心旺盛な雷太が幼い頃はお父さん子だったことを思い出したようだった。

 信恭と雷太は30分程雑談を楽しみ、大橋病院を後にした。その足で信恭は目黒ゴルフへ、雷太は渋谷の本屋へ向かい、それぞれ用事を済ませた。雷太が與志廣に文庫本を届けて中目黒の実家に戻った頃には、幸代と雄仁、信恭はすでに帰宅していた。黒字に黄色のデザインが鮮やかなゴルフバッグが玄関横に置いてあった。雷太は一日でも早くN.J.に手術を受けたいという意志表示をすべく、幸代の名前で手紙を作った。

 

                              1997年4月13日

東邦大学付属大橋病院

第三外科

N.J.先生

                                 山口幸代

拝啓 新緑の美しい季節になりました。

 昨日はお忙しいところ、貴重なお時間を頂きありがとうございました。

 早速本人に息子とともに病状と可能な治療法の選択肢について相談し、本人も先生のお薦めに納得して手術を受ける考えになりましたことをご報告申し上げます。

 貴病院におかれましては多忙な事とは存じますが、なるべく早い手術を何卒宜しくお願い申し上げます。

 16日の面談では二度手間になり恐縮でございますが、本人に検査の結果をそのまま伝えて頂くとともに手術を中心に今後の治療方針と本人、家族が持つべき心構えを説明して頂きますと幸甚でございます。本人にはガンが再発しているが、肝臓以外に転移は発見せず、肝臓の大きな腫瘍を取り除く事と、点在する小さな腫瘍を焼けば完全とは言えないが、かなりの治療効果を期待できると前向きの説明をしております。手術にともなうリスクについてもわたしどもなりに説明しております。ただ余命についてはあまりに本人にとって刺激が大きいことと、前向きの闘病方針に背くことから本人には伏せておりますことを報告申し上げます。

 以上宜しくお願い申し上げます。

かしこ

 

 幸代は翌13日に大橋病院の與志廣の病院の担当の看護婦にこの手紙の入った封書を託した。信恭と雷太は大分と名古屋に戻った。

 同じ13日に與志廣は手紙でホームドクターのU医師に近況を伝えている。

 

前略 いつもお世話になり、厚くお礼申し上げます。私のその後の経過について、ご連絡を採らせて頂きます。

T 病名は胃よりの転移性肝腫瘍と90%決定のようです。

U 位置は手術の出来る処である。

V 手術予定日は4月21日(月)又は28日(月)

W 入院予定期間は3ヶ月程

X 肝臓以外に調べた結果転移は無いそうです。

手術後きびしい日々がまっていると思いますが、がんばります。以上です。先生も元気でいて下さい。クリニックの皆々様によろしく。

                                                                       U先生

  4月13日

                                                                       山口與志廣

 

 16日の面談は、午前11時に556号病室近くの面談室で行うとのN.J.の伝言を巡回に来たN.M.医師から與志廣は聞いた。幸代と雄仁が面談に付きそうことにした。病室で30分程待つとN.J.が現れ、4人は面談に入った。N.J.は「早く承諾を頂きましたので手術予約を4月21日に押し込めました。」と手術が早くできることを與志廣と家族に伝えた。三人は思わず「ありがとうございます。宜しくお願い致します。」と頭を下げた。「ご家族からお聞きになったと思いますが、手術をして右葉を切除し、左葉にある小さな腫瘍をマイクロウエーブで焼きます。これで体の中の腫瘍は識別できる範囲で根治できます。肝臓には余力があり、20パーセント位働けばよいとされています。右と左で5対2ですから、心配はありません。肝臓は再生能力が強く、切っても残った肝臓が元の2倍にまで大きくなります。お腹の中の余ったスペースには周囲の臓器が押し上がってきますから自然と埋まります。肝臓を実際に切っている時間は1時間半位ですが、お腹を開閉する措置と手術直前の肝臓の検査を入れると5時間位かかります。あとマイクロウエーブに1時間位かかりますので、合計6時間位の手術になります。手術は9時から始め。3時に終わります。8時半には病室を出ますから、ご家族の方は8時にはいらして下さい。手術室は2階にありますが、ご家族には5階の待合室でお待ち頂きます。肝臓の手術ではどうしても出血がありますから、手術後数日間いくつか管をお腹の中に残します。手術後二三日が山ですが、それを越えれば大丈夫です。消化器系の手術は概ね一緒ですが、肝臓は患者によって手術後の状態が違うことがあり、二三日は24時間態勢で臨機応変に対処します。あと12日の説明で肝臓を切る際、抗癌剤を投与する管を残す話をしましたが、これはしません。手術は肝臓外科が専門のK.H.がしますが、私が責任をもって指導します。ご安心下さい。」と説明した。與志廣はN.J.の説明が12日の信恭の説明と同じであることを確認し、「宜しくお願いします。」とN.J.に正式に手術を受け入れる意志表示をした。面談は10分程で終わった。

 與志廣と二人が病室に戻ると、看護婦が手術の承諾書を持ってきた。「これに與志廣と家族の代表者の署名捺印を取るように。」とN.J.が看護婦に指示したそうである。あいにく幸代は印鑑を持ち合わせておらず、タクシーで中目黒の家を往復した。ぐずぐずしていると21日の手術が延期されるかもしれないとの切迫感が幸代にあった。手術の承諾書に何も病院側の記載がなかった。幸代は何度か大橋病院の手術の承諾書に記入捺印しているが、いつも白紙であったので、特にこのことに気を止めなかった。

 

 幸代は執刀医であるK.H.に謝礼を渡そうと何度か面談を申し入れたが果たせずにいた。18日の夕方に面談をあきらめ與志廣の担当の看護婦に謝礼の入った袋を託そうとしたところ、たまたま居合わせた別の看護婦が「ああK.H.先生ならいまそこにいますから呼んできます。」と言って、幸代に待つように伝えた。幸代は別の看護婦からK.H.がこの日学会で不在と聞いていたが、医師の居場所についての看護婦の思い違いは日常茶飯事であったので、話の違いに違和感を持たなかった。まもなく看護婦は40歳前後の中肉中背の金縁の眼鏡をかけた男の医師を連れてきた。幸代はまだ若いと思ったが、顔に出しては失礼と思い、表情を殺した。「お世話になっております山口與志廣の家の者でございます。K.H.先生でしょうか」と幸代は挨拶した。K.H.は自己紹介し、自分が21日の手術の執刀医であることを認めた。「N.J.先生から病状と手術の内容についてはお聞きしましが、先生から見ていかがなものでしょう。」と幸代は尋ねた。「山口さんの癌は悪性で進行が早いと思います。入院してからも日増しに大きくなっています。特に卵大の大きい腫瘍が崩れると大量出血や肺塞栓を起こしてすぐに死につながってしまいます。それを防ぐために手術は有効です。」とK.H.は説明した。幸代はN.J.の説明と同じことで納得したものの、「癌は悪性」という言葉にショックを受けた。幸代は5万円を包んだ袋を「お世話になります。心ばかりですが。」と言ってK.H.に渡した。

 幸代が帰宅すると雷太が来ていた。幸代はK.H.から聞いた話を早速雷太にした。雷太も「癌は悪性で日増しに大きくなっている。」という言葉が気になったが、N.J.の「手術で根治に近いところまで治療できる。」の言葉を信じようと自分に言い聞かせた。

 

 雷太は翌19日に與志廣を見舞った。與志廣は右肩の鎖骨の辺から点滴を受けながら本を読んでいた。体調は入院前と変わらぬ様子であった。不安感を払拭できたようで、雷太の顔を見るといつもの父親らしい表情を見せた。雷太はこれを見て安心した。「この点滴は何。」と雷太は尋ねた。「栄養剤だよ。明後日に備えてもう食事は取れないんだ。トイレに行くときもこの点滴道具一式と一緒なんだ。」と與志廣はいつもの調子で答えた。「16日のN.J.先生の説明はどうだった。」と雷太は尋ねた。「この間の信恭の話通りだよ。ただ肝臓の60パーセントも取るというのはちょっとショックだった。」と與志廣は少し顔をしかめて答えた。「先生がお父さんの全身状態と肝機能からして60%切れると判断しているのだから大丈夫でしょう。癌とは手術後も付き合っていかないといけないけれど、退院したら普通の生活に戻れるのだから。」と雷太は言った。「退院したらベッドを借りて家で読書を楽しもうと思っている。」と與志廣は弱気なことを言った。「僕はお父さんがまたゴルフや旅行ができると思っていますよ。癌は今のところ肝臓にしか発見されてないし、これを全部つぶせるんだから。10日間位は痛いし動けなくて辛いだろうけどこれを我慢して乗り切れば健康体に戻るでしょう。」と雷太は與志廣を励まそうとした。與志廣は半信半疑の顔をしながらも思い黙り込んでいた。後日談だが、雷太は幸代から與志廣は12日に信恭と雷太から勧められるまで手術を受けるかどうか迷っていたと聞いた。「ところで16日に聞き忘れたんだけど、なぜ入院期間が3ヶ月もあるのだろう。本を読むと肝臓癌の手術はだいたい1ヶ月で退院できると書いてあるんだ。」と與志廣は尋ねた。「確かに平均の入院期間は3週間で、1ヶ月程で職場復帰できると僕も本で読んだ。もう手術後になるけど先生に3ヶ月かけて何をするのか聞いておくよ。お父さんの容態が安定したら伝えます。」と雷太は言った。「宜しく頼むよ。」と與志廣は言った。「とうとう手術前に外泊しなかったけど良かったの。3ヶ月は長丁場だと思っていた方がいいよ。梅雨が明けるころだから。」と雷太は言った。「へいっちゃらだよ。お前に本をまた買ってきてくれと頼むかもしれないけど。」と與志廣は答えた。雷太は30分ほど雑談し、明日も来ると約束して與志廣と別れた。

 翌20日に雷太が訪ねると、與志廣は点滴の管を右肩につけながら集中治療室に持っていく荷物と一般病棟のロッカーに残していく荷物の仕分作業の最中だった。「精が出ますね。」と雷太が冷やかすと「この位どうってことないよ。」と與志廣はいつもの調子だった。ベッドの横のテーブルに透明なプラスチック製の容器と紙コップが置いてあった。容器の中には透明な液体が半分ほど入っていた。「これ何。」と雷太は尋ねた。「下剤だよ。明日の手術に備えて腹の中を空っぽにしておくんだ。2リットルの薬を2時間で飲めと言われているんだ。20分に一度トイレに行ってるんだ。ちょっと行って来るから待っててくれ。」と言うと與志廣は足にローラーのついた点滴のスタンドを押しながらトイレに行った。帰ってくると二つの段ボール箱に荷物を仕分する作業を再開した。「手伝おうか。」と雷太がいうと、「やることがなくなるから自分でやるよ。」と與志廣は答えた。雷太はいつもの與志廣が戻っていることを嬉しく思い、作業を傍観することにした。30分位の作業の間に2回トイレに行った。作業が一段落すると雷太は「東邦大学大橋病院は雄仁がこの大学の付属中学に入ってからの縁で今ではP先生を通じて上層部ともつながっているから安心だよ。最善の治療が受けられるでしょう。」とできる限り明るく振る舞った。與志廣は「U先生にも聞いたが、今では大学や病院によって治療法が異なるということはそんなにないそうなんだ。それに聞いたところによると、東邦大学の医師の国家試験の合格率は90パーセントを越えているそうで優秀なんだ。」と與志廣も出来る限り明るく振る舞おうとしていた。雷太は父親のたくましさと優しさを感じた。「手術直前にお前に現金と預金通帳を預けるから明日は朝7時半に来てくれ。」と與志廣は言った。「分かりました。」と雷太は答えた。與志廣は心身ともに万全の備えで手術に臨もうとしていると雷太は感じた。雑談している内に下剤を飲み干し與志廣は「次に何をするのか看護婦に聞いてくる。」と言った。雷太は自分が長居していることに気づき、「じゃあ明日必ず7時半までにくるから。」と言って與志廣と別れた。

 雷太が中目黒に帰ると、幸代の妹の美代子と恵美子が来ていた。美代子は幸代・雷太とともに手術の立ち会いを、恵美子は中目黒で留守番をすることになっていた。

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第4章 終わらない手術と執刀医K.H.の説明

 

 雷太は6時前に浅い眠りから覚めた。身支度を整えると、居間で時間を過ぎるのを待った。ベランダに目をやると春うららかな日和で與志廣が大切に育てていた藤が咲き始めていた。せっかく育てた藤の花を見られない與志廣が少し哀れだった。春の花が咲き競い、新緑が香り、梅雨が過ぎて、盛夏が来る頃に親父は元気になってこの家に帰ってくると雷太は自分に言い聞かせた。

 7時過ぎに美代子と雷太はタクシーに乗り込み大橋病院に向かった。幸代は後で追いかけるとのことであった。丁度7時半に二人は556号室の前に立った。與志廣はもう手術服に着替えており、準備万端であった。與志廣は美代子に立ち会いの礼を述べ、暫く世間話に興じた。後日美代子が「あの時の與志廣さんは立派だった。」と述懐した、いつもの與志廣だった。「ここに私名義の現金・預金通帳・印鑑が入っている。手術が終わり意識が回復するまで幸代に保管するよう頼んでおいてくれ。」と與志廣は雷太にA4版の封筒を渡した。

 7時50分に看護婦に呼ばれた。「それでは。明日まで会社から休みをもらっているので、今日はもちろん明日も必要に応じて顔を出します。明日、麻酔から覚めた時に会えるかどうか。ともかく落ち着いたらまた上京しますから。」と雷太は自分の予定を與志廣に伝えた。「あまり無理しなくて良いから。」と與志廣は答えた。與志廣は自分の足でしっかりと歩いて病室に斜向かいにある処置室に向かった。右斜め後ろを歩いていた雷太は、與志廣が廊下に出たところでうつむき加減に「少しの辛抱だ。へいっちゃらだ。」と独り言を言ったのが聞こえた。

 8時20分に幸代が到着した。三人は処置室の前で與志廣が出てくるのを待った。8時25分に與志廣は移動ベッドに寝かされて出てきた。軽い麻酔が効いているようで、幸代が声をかけても與志廣は振り向くだけで目線が合わなかった。與志廣と看護婦、付き添いの三人は大型のエレベーターで2階に降りた。手術室前には丁度8時30分に着いた。ここで三人は與志廣と別れ、病院の案内に従い5階の西病棟と中央病棟の間にある待合室で待機することにした。

 

 幸代と美代子は黙って待合室のソファで座っていた。雷太は肝癌の医学書を読んで時間が過ぎるのを待った。11時40分ごろに幸代が「今朝は早かったからお腹がすいた。お昼を食べに行こう。」と言い出し、交代で食べに行くことにした。最初に幸代と美代子が大橋病院の正面にあるタイシンホテルのレストランに行った。二人が帰ってくると雷太が一人で食べにいった。二人が待機していた12時30分ころにN.J.が待合室にやって来た。「あれ息子さんは。」とN.J.が尋ねた。「向かいのタイシンホテルへ昼を食べに行っています。何でしたら呼んできましょうか。」と幸代は応対した。「いやこれから教授会なので、それには及びません。ご挨拶に伺ったまでです。これから肝臓切除に取り掛かります。また2時半ころに来ます。」と言ってN.J.は立ち去った。雷太は待合室に帰ってきて二人から話を聞いたが、如何ともしようがなかった。N.J.がまた来てくれるだろうと思い、待った。しかし結局N.J.はこの日深夜まで家族の前に姿を現さなかった。雷太は肝切除を開始するとの伝言を聞き、開腹して肝外転移がないことが確認され、4月12日に説明を受けた通りに右葉切除の手術が進んでいるものと思っていた。

 手術の終了予定時刻である午後3時になったが、手術室から何の連絡もなかった。まあある程度の遅れはあるだろうと三人はなるべく明るい見通しを立てようとした。

 午後4時30分になっても手術室から何の案内もなかった。しびれを切らせ雷太は與志廣が世話になっていた5階病棟の看護婦の詰め所に問い合わせをした。與志廣はもう手術室の管理下にあるそうで、一般病棟の看護婦には現況が分からないとの回答であった。そう言えば556号室の與志廣がいたベッドには別の患者が寝ていた。雷太は2階の手術室に向かった。手術室には外部からの訪問客が中の人を呼び出せる手だてがなく、雷太は隣にある集中治療室(ICU)の看護婦詰め所のインターホンの受話器を取った。雷太は心配する気持ちを押さえながら言葉を選んで與志廣の状態を問い合わせると、電話口の看護婦からは「山口さんはまだ手術中です。終了予定など詳しいことは分かりません。」と素気ない返事であった。手術中の医師の邪魔をする訳にもいかず、雷太は5階の詰め所に戻った。同じころに、美代子が待合室の出入口から廊下を見回すと、白衣を着たN.J.と思う人物が看護婦詰め所を出て待合室前を横切って階段を降りていったのを見かけた。雷太が待合室に戻り二人に事情を説明した。三人は待合室で待つことにした。

 午後6時になったが、手術室から何の連絡もなかった。雷太が2階に降りてICUの看護婦詰め所のインターホン越しに問い合わせをしたが、前回と同じ素気ない返事だった。三人は與志廣の手術が続いていることは確かなので5階の待合室で待つことにした。雷太は肝癌の本を読み終え、腕組をする以外やることがなくなっていた。

 午後7時30分になっても何の連絡もなかった。幸代は自分が手術室に問い合わせると言い出した。雷太は母の焦る気持ちを押さえて、また2階に向かった。電話口で応対したICUの看護婦は別人のようだったが、素気ない返事は同じだった。今度ばかりは引き下がれないと雷太は午後3時に終わると聞いていた手術が説明もなくまだ終わっていない事情を看護婦に説明し、手術室への取り次ぎを依頼した。5分程待つと手術室の入り口から看護婦が現れ、「今まで出血に手間取っていたが、これから縫合作業に入るので、あと1時間余りで手術が終了する。」とのK.H.の伝言を伝えた。この看護婦に許可をもらい、3人は手術室前のソファで與志廣を待つことにした。夜の病院の手術室の前は人気がなく暗くて陰気であった。與志廣以外の手術はもう終わっている様子であった。

 

 午後9時ごろ雷太が中目黒の家への電話連絡のため外している間に、幸代はN.M.が手術室から出てくるところを見かけた。雷太が手術室前に帰ってくると、執刀医のK.H.医師が手術の説明を家族にしたいとの伝言を受け、幸代と雷太が看護婦の案内でICUの中にある看護婦の詰め所に入った。美代子はICU入り口のソファで待つことにした。看護婦の詰め所に入ると、年は40歳位、中肉中背で白衣姿、細い金縁の眼鏡をかけた男が詰め所の執務机に座っていた。雷太がK.H.と会うのはこれが初めてであった。

 K.H.は「K.H.です。」と胸の名札を見せて自己紹介をした。雷太も応じて挨拶をした。幸代は一礼をして黙っていた。雷太は「長時間の手術ご苦労様でした。」と謝意を伝えた。K.H.は「手術は成功です。ただ開腹して初めて分かったことがあったので、手術内容が変わりました。分かったことを説明します。」と言って、腹部と胸部の臓器の略図を書いた。「まず卵大の腫瘍が下大静脈と、右の腎臓、右の副腎、横行結腸に癒着していました。横行結腸とは、大腸の上横に走っている部分のことです。お父さんは3年半前に胃癌の手術を受けており、相当の癒着は予想していましたし、下大静脈と右腎臓、右副腎への癌の浸潤は術前からありえることと思っていましたが、横行結腸の浸潤までは予想できませんでした。胃の一部が切除されたため、横行結腸が通常の場合より頭の方へ移動していたのです。」と言って横行結腸が頭側に異動した図と肝臓の卵大の癌と横行結腸が癒着していた図を書いた。(参照資料4 4月21日にK.H.が描いた図1)「下大静脈はこんなに太い血管なのですが、腫瘍でこのようにふやけていました。」と言ってK.H.は直径3cmほどのふやけた血管を描いた。「尾状葉のところのリンパ節もふやけていました。肝臓の中で癌が占める割合が予想以上に多かったので、肝臓の60%を占める右葉を全部切除してしまうと、残った肝臓だけでは肝機能の回復が危ぶまれるほどでした。」と言って、K.H.は紙を裏返して直角が左上にある直角三角形に似た肝臓の略図を描き、この三角形が左右に分かれるように縦に線を入れ、この線と三角形の下の辺が交わるところに丸を書き、右側に60%、左側に30%、真ん中・下の丸に10%と書き、60%の右葉の部分を線で区切って右葉の位置を示した。多数の小さな腫瘍が点在していたことを示すために小さな丸を肝臓の図の中に幾つか描いた。(参照資料5 4月21日にK.H.が描いた図2)「このため手術の内容を変更しました。切除範囲は、肝臓の右葉の内、背中側にある6番と7番、それから尾状葉と呼ばれる1番の右半分です。切除割合は35%です。」と言いながら新たに肝臓を8つのブロックに分けた図を描き、各ブロックに1から8までの番号を付し、切除した6番ブロックと7番ブロック、1番ブロックの右半分を囲い、6番7番のところに30%、1番の右半分に5%と書いた。「あと右副腎と横行結腸を切除しました。」とK.H.はつけ加えた。「それで残った肝臓の腫瘍は処置できたのでしょうか。」と雷太は尋ねた。「いや、何もしていません。」とK.H.は答えた。「残した肝臓に点在する腫瘍とふやけたリンパ節はそのままです。また下大静脈の裏側にある肝臓の腫瘍も取り切れませんでした。下大静脈を傷つけると大出血になり、手が付けられなくなりますのでこの付近の肝臓の切除はほどほどにしなければなりません。切除した断片に腫瘍がありましたがこれは止むを得ません。」と言ってK.H.は切除した肝臓の図を描き、2カ所の断面に斜線を描き、この部分で腫瘍が露出していたことを示した。「今回の手術で予定の倍の時間がかかったのはなぜでしょうか。出血が多く、措置に手間取ったと聞きましたが。」と雷太は尋ねた。K.H.は「ええ。肝臓の手術の30%では出血が起こるので、珍しいことではなく、今回5,000cc位の出血は覚悟していたのですが、結果としてはその倍以上になってしまいました。10時に手術を始めたのですが、周辺組織の癒着を剥がすのに1.5時間、横行結腸の切除に1時間、吻合に1時間、止血に4.5時間と肝切除以外に8時間もかかりました。切除した箇所が肝臓の背中側なので見通しが悪く、作業に手間がかかりました。肝臓と他の臓器の癒着をはがすのも出血の原因になりました。」と答え、手術中に出血が多かったことを示した。当時の幸代と雷太は、出血が多くとも輸血すれば足りるものと簡単に考えていた。

 「N.J.先生からは、『肝臓の60%を占める右葉を切除の上、残った肝臓に点在する小さな腫瘍をマイクロ波で焼き、腫瘍と識別できるところは全て根治する』と聞いておりました。術式がこれだけ大きく変わった理由を教えて下さい。」と雷太は尋ねた。「一般の方には意外なことかもしれませんが、肝臓は小さく切るより大きく切る方が、簡単で出血量が少ないのです。ただ小さく切れば正常な肝臓がより多く残りますので肝機能障害になりにくいのです。大きく切るのと小さく切るのではどちらが良いか定説がなく、これは賭と言えます。お父さんの場合は小さく切る方を選びました。マイクロウエーブについてはあまり気になさらないで下さい。お父さんの場合肝機能が正常で、手術後も正常な肝細胞が多く残るので、残った小さな腫瘍はエタノール療法や体の外から針を入れてマイクロウエーブで焼く方法や抗癌剤療法で対処できます。今回の手術で破裂の恐れのあった卵大の腫瘍は取れましたので、取りあえずの急場は凌げました。止血に手間取り時間がかかりましたが、当初の目的は達成したので、手術は成功したものと考えています。」とK.H.は少し声を大きくして答えた。

 「父の場合本当に胃癌からの転移なのでしょうか。本で癌細胞の増殖のスピードは一定だと読みました。胃癌の手術から3年余り異常がなくて、3月以降肝臓で急に癌が進行するのは不思議だと思いまして。」と雷太は尋ねた。K.H.は「日本人の場合、原発性肝癌の95%以上は肝炎・肝硬変のキャリアです。お父さんの肝臓には異常はなかったので、転移性肝癌だと思います。2週間もすれば病理検査の結果が出ますので、はっきりしたことが言えるようになります。」と答えた。

 「手術後のリカバリーはいかがでしょうか。」と雷太は尋ねた。「今回の手術では、胸にもメスを入れており、この部分と肝臓、横行結腸に血を抜くドレーンを3本入れてあります。止血が確認できれば抜くのですが、それぞれ3日、7日、7日はかかります。肺のドレーンが抜ければ、自分で呼吸してもらえるようになり、麻酔も取れ、ICUから出られるようになります。肝臓と大腸のドレーンが抜けて数日、つまりだいたい手術後10日で食事をしてもらえるようになります。肝臓は再生力が強く、通常約3週間で元の大きさに戻るのです。ただ肝臓の手術では、術後3日以内は何が起きるか分からないので、今の話は目安と考えて下さい。肝臓からの再出血はよくあり、たとえば患者さんがせき込んでも出血が発生します。この為最初の3日間は麻酔で寝てもらい、人工呼吸で呼吸を管理します。」とK.H.は答えた。

 「切除した標本をお見せしましょう。ICUの外でお待ち下さい。」と言ってK.H.は説明を打ち切った。幸代と雷太は手術直後で疲れているところで説明をしてくれた礼を述べ、K.H.とともにICUの外に出た。ICUの入り口にあるソファでは美代子が待っており、そばに首に金のネックレスをつけたやや小柄な男が立っていた。インターン終了間もない若い医師に見えた。K.H.は「T.H.君、切除した標本は見れますか。」とその男に尋ねた。T.H.医師であった。「病理の係がもう退勤していますが、部屋の中を探してみましょう。」とT.H.は言って、病理科の部屋に入った。5分程待つとT.H.が片手で持てる程のビーカーを手にして出てきた。中にホルマリンらしき透明な防腐液が入っており、小学生の握り拳ほどの赤黒い肉塊がつけられていた。K.H.は「これが切除した肝臓です。病理が帰ってしまっており、全部はお見せできないのですが、これは一部です。この中の白い斑点が癌です。」と説明した。三人がビーカーの中をのぞき込むと直径1センチ程の白い斑点が2ー3個肉塊の表面に見えた。幸代が「卵大の癌はどこにあるのですか。」と尋ねた。K.H.はビーカーの中に人差し指を入れホルマリン液をクルクルとかき混ぜながら、「見当たりませんね。溶けちゃったかな。」と笑みを浮かべて答えた。

 K.H.は、與志廣は手術室でレントゲンを取った後にICUに移動し、その際会えるので待っているよう三人に伝え、その場を去った。暫くすると数人の技師が移動式の屋台ほどの大きさのレントゲン機を押しながら手術室に入っていった。30分ほどするとレントゲン機が手術室から出てきた。3人は與志廣を待った。

 午後10時30分過ぎにようやく與志廣を乗せた移動式ベッドが出てきた。ICUに入るまでの15メートル、30秒ほど3人は與志廣の顔を見ることができた。出血が多かったためか顔は青ざめており、付き添いの看護婦が手動の呼吸器を握ったり開いたりして與志廣の肺に空気を送っていた。幸代が声をかけたが、與志廣の顔は微動だにしなかった。

 與志廣をICUに見送り、3人は家路についた。タクシーが拾える大通りまで歩くことにした。「肝臓の背中側を切るんだったらなぜ腹から切らずに、背中から切らないのだろう。肋骨があるから難しいのかなあ。」と雷太は幸代に話しかけた。幸代は「それは先生がやることだから、きちんとやっているのでしょう。」と答えた。当時の二人の医学知識ではこれが精一杯の会話であった。

 

 帰宅して10分もしない内に家の電話が鳴った。幸代が電話に出たところ、相手はK.H.であった。措置を必要とするほどの出血が起きているので至急印鑑をもって来てほしいとの指示であった。幸代と美代子は食事を始めたばかりで動けず、雷太が印鑑をもってタクシーで病院に向かった。午後11時20分に雷太はICUの入り口で来意を告げた。病院を後にしてからまだ1時間も経っていなかった。「ご家族の方が来ました」との看護婦の声が電話口から聞こえた。入り口で待つと、不意に自動ドアの入り口が開き、與志廣を乗せた移動ベッドが出てきた。6人ほどの医師と看護婦がベッドを囲んで一緒に出てきた。與志廣は青ざめた顔をしており、天然パーマで黒縁眼鏡の若い男が手動の人工呼吸器を両手で動かしていた。ベッドの上には幾つもの薬の瓶や袋がぶら下がっており、そこから何本もの管が與志廣に降り注いでいた。雷太は茫然とベッドを見送った。ベッドは6人のスタッフとともにエレベーターに乗り、1階に降りていった。

 暫くするとICUから白衣姿の男が出てきた。やや大柄で、見た目には30歳半ばであろうと雷太は思った。「山口與志廣さんを担当しているN.M.です。」とこの男は名乗った。「お世話になっております與志廣の三男の雷太です。母がすぐに来られないので、とりあえず私が来ました。何が起きたのですか。」と雷太は尋ねた。「措置を必要とするほど大きな出血が起きています。止血の選択肢として、血管造影による肝動脈塞栓と再手術しかありません。今日12時間の手術を受けた患者さんに再手術はできれば避けたいので、血管造影による肝動脈塞栓を実施したいのです。解剖学上肝臓は動脈と門脈から血流を得ていますが、正常な肝細胞は門脈だけでも血流を十分受けられることが知られています。ただお父さんの場合、手術を受けたばかりで、肝臓が弱っており、急性肝不全を起こすリスクはあります。この措置を行うためにはご家族の了解が必要なので、病院所定の用紙に署名捺印を下さい。」とN.M.は感情を押し殺し、言葉を選びながら申し出た。雷太はN.M.が勧めている措置は医学書で読んだTAEという治療法であろうと理解した。正常な肝細胞が門脈から約75%、肝動脈から約25%の血流を得ており門脈の血流のみでも生存できるところ、癌化した肝細胞は肝動脈のみから血流を得ているという違いを利用して、肝動脈を塞ぎ、癌細胞を殺そうというものである。N.J.が4月12日に治療の選択肢の一つとして紹介していた。「動脈を詰まらせるのは肝臓全体ですか。」と雷太は尋ねた。「いいえ、右葉の残っている肝臓のみです。」とN.M.は答えた。「詰まらせる物質は永久に残るのですか、あるいはある程度日が経つと血流は再開するのですか。」と雷太は尋ねた。「3週間程で血流は再開します。今回の入院中にこういう事態もあろうかと思い、予行練習をしてありますのでうまくいくと思います。」とN.M.は答えた。「この措置で効果がないとすれば、再手術とのことですが、今日12時間以上の手術を受けた人が再手術に耐えられるのですか。」と雷太は尋ねた。「止血をしなければ死んでしまいます。体が持つ持たないにかかわらず、これでダメなら開腹手術をしなければなりません。」とN.M.は表情を変えずに答えた。雷太は與志廣がそこまで追い込まれていることに驚き、白紙の同意書に書名捺印した。N.M.は「時間がないので内容は書けませんが、あとで書いておきます。」と言っていたが、同意書の控は結局家族に渡されなかった。

 雷太は血管造影室がある1階の放射線科の前の廊下のソファで待つことにした。深夜の病院の廊下は薄暗く、気味が悪かった。11時45分ころに幸代と恵美子が到着し、一緒に待った。日付が変わって22日午前0時20分ころにN.J.が背広姿で現れた。「先生」と言って、幸代は立ち上がった。N.J.は「今まで教授に同行していたのですが、帰りがけに病院に電話を入れたところ、ご主人の容体を知って戻ってきました。今様子を見てきますので、ここでお待ち下さい。」と幸代に言って、放射線科の診療室に入って行った。

 午前1時過ぎにK.H.が出てきた。「出血は止まりましたのでご安心下さい。通常の肝臓の手術では止血はさほど難しくないのですが、ご主人の場合癌化している血管があり、これは正常な血管と違って生理作用がおかしくなっており、止血が難しいことがあるのです。肝臓の癌は血流を得るために自分で血管を作ってしまうのですよ。」と心配する三人に説明した。N.J.が部屋から出てきた。N.J.K.H.と家族三人が横並びにソファに座って話している姿を見て、少し気まずい表情をしたが、すぐにすました顔になり、K.H.の後に座って家族から見て半身になって四人の会話に耳を傾けた。「肝臓の癌は100%動脈から血流を得ていますから、この措置は癌対策にもなります。ドタバタになりましたが、肝臓の手術はこんなものです。」とK.H.は話を続けた。雷太は今起きている事態がK.H.の想定範囲内のことであることを知り、安心した気持ちになった。「ただ起こり得ると想定したケースの悪い方が現実に起きていますので、今後も注意深く見守って行きます。それでは私は明日朝から勤務ですので、これで失礼します。」と言い、K.H.は一礼して席を離れた。この説明で雷太はまた不安になった。N.J.が口を開いた。「どうもご心配をかけました。もうすぐご主人が部屋から出てきます。今夜はK.H.が病院に泊まって様子を見ますので、お会い頂いたらどうぞお引きとり下さい。」「先生、こんな深夜に戻って来て下さり、ありがとうございます。宜しくお願いいたします。」と言って頭を下げるのが三人にとって精一杯であった。與志廣の移動ベッドが出てきた。「あなた、大丈夫。」と幸代が声をかけたが、與志廣は深い眠りに落ちていた。顔は青ざめたままだった。「ご本人の意識がないのでご家族の方には分かりにくいのですが、ご主人はおしっこが出ていますから心配入りません。これが出なくなると危ないのです。」とN.J.は心配そうな顔をしている幸代に告げた。これを聞いて幸代を始め家族はその後毎日しびんをのぞき込みおしっこの出具合を確認した。

 家に帰ると雷太は今日の出来事を雄仁と信恭に伝えた。雄仁は家族に無断で手術の内容を変えたことに憤りと不信感を感じた。電話で報告を受けた信恭は手術内容の変更と出血の発生を心配したが、K.H.医師が「手術は成功」と言っていたことを信じ、後は落ち着いたところで上京して話を聞くことにした。

 長い長い一日が終わった。

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第5章 術後合併症とN.J.の術後説明

 

 翌22日の夕方に雄仁と雷太は與志廣の様子を見に大橋病院を訪れた。與志廣はICUの入り口近くのベッドに寝かされており、麻酔のため意識がない状態であった。5秒に1回程の頻度で人工呼吸のポンプが動く音がして、それに併せて與志廣の胸が動いた。昨日同様幾つもの点滴の管が降り注いでいた。雷太が先生の話を聞きたいと看護婦に申し入れると、T.H.がいるので呼んでくるとのこと。二人はICUの外のソファで待つことにした。暫くすると首に金のネックレスをしたT.H.が現れた。表情が少し険しかった。「お忙しいところ、申し訳ありません。與志廣の息子の雄仁と雷太です。昨日は長い時間ご苦労様でした。実は私は明朝名古屋に帰るものですから、父の様子を伺いたいと思っている次第です。」と雷太は尋ねた。T.H.医師はすました顔になり、「切除箇所の出血は収まっています。山口さんの状態はさまざまな方法で診断していますが、問題はありませんからご安心下さい。あいにく今日は私一人しかいないのですが、日を改めて上の者が説明します。」と言った。「それでは父は先生方のコントロール可能な状態にある訳ですね。」と雷太は尋ねた。「ええ、その通りです。」とT.H.は答えた。「そうですか。安心しました。これで名古屋に帰れます。どうもお世話になりました。」と雄仁と雷太は深々と頭を下げて、病院を後にした。雷太は翌日早朝の新幹線で名古屋に戻り、そのまま出勤した。美代子も自宅のある福島県郡山に戻った。皆與志廣があと数日でICUを出られ、10日後には食事ができるようになると信じていた。

 23日から25日は平日で息子達は與志廣の側に行けなかった。幸代が朝晩寝巻き代わりの浴衣を取り替えにICUに通った。恵美子は中目黒に留まり、幸代の手伝いをした。幸代は24日に與志廣の気管内挿管が取れ、点滴の種類も減ってきたことを見て、着実に回復していることを喜んだ。ところが25日に再び人工呼吸に戻っており、点滴の種類が増えていた。居合わせた看護婦から肝切離面の出血が止まっていないと聞き、あわてて信恭に電話を入れた。信恭は26日に上京しN.J.医師と面談する予定にしていたが、雷太も名古屋から呼び出すことにした。

 

 26日の土曜日は病院に行くには不似合いな快晴であった。幸代、雄仁、信恭と雷太は中目黒の実家に集まった後、大橋病院に向かった。約束の午後3時半に外来の受付で来意を告げるとN.J.は今手が離せないとのことで、先に與志廣を見舞うことにした。ICUの入り口で見舞いの許可の電話を入れると、中の看護婦より今処置中なので少し待って欲しいと言われた。入り口で待っていると、人の出入りの度に自動ドアが開き、二重ドアながらも時々ICUの中をのぞき込めた。與志廣のベッドは一番入り口寄りにあり上半身側を上げられていたので、様子を垣間みることができた。その與志廣は、顔をしかめ、看護婦がくわえさせようとしているマウスピースを吐き出し、顔を左右に振って看護婦の処置を拒否している様子であった。雷太は生まれて初めて苦痛の表情を露にしている父の姿を見て驚いた。15分位待たされて入室が許された。

 先ほど何人かいたはずの看護婦は詰め所にいるようで、ICUの中には病院関係者が誰もいなかった。與志廣のベッドは平らに戻されていた。口の周りから頬にかけて黄色い結晶のようなものがこびりついていた。意識がはっきりしておらず、声をかけると目を開けるが、またすぐに閉じてしまった。ベッドをまたぐ形で置いてあるテーブルにバインダーに挟んだ看護記録があり、雷太がのぞき込んでいると、30歳位の丸顔で黒縁眼鏡をかけた看護婦が詰め所からあわてて出てきた。「あいにくこれは院内限りの書類なのでご家族にお見せできないのです。」と言ってその看護婦はバインダーを裏返した。「状態はいかがですか。」と信恭が尋ねた。「看護婦はご家族に説明する立場にありません。先生を呼びますか。」と陰気な声で答えた。「いいえ。これからN.J.先生とお会いしますから結構です。」と信恭は看護婦の申し出を断った。

 

 見舞いを終えると四人は1階の第3外科外来のソファで待った。暫くするとN.J.が現れ、12日と同じ外来診察の狭い部屋に通された。N.J.は立ちながら挨拶をすると頭を軽くうなだれて右手の人差し指と中指を眉間に当て数秒考える仕草をした。信恭が話を始めた。「本日はお忙しいところ私どものために時間を下さり、ありがとうございます。先ほどまで今日は手術時の診断を受けての今後の治療方針についてお話を伺おうと考えておりましたが、母の話を聞き、また先ほど父の様子を見て、まずは今の父の状態をお聞きしなければならないと思いました。術後の経過は大丈夫なのでしょうか。」「聞いておられると思いますが、手術中と手術直後に大きな出血がありました。肝臓の手術の30%で出血があり、けっして珍しいことではないのですが、お父さんの場合多い方でした。手術後肝臓の右葉の動脈に止血剤を詰め、出血を押さえています。今右葉は門脈のみから血流を得ていますが、手術の際の出血もあり、虚血状態で肝不全の前状態になっています。肝機能をはかる尺度にGOTGPTという検査があります。これは肝細胞が破壊されると数値が上がるもので、正常値は60以下です。お父さんの場合は23、24日に3,000台になっていました。これは急性肝炎の値です。でも今日は400台に戻っています。肝機能が低下すると後で数値が悪くなるものに血中アンモニアとビリルビンがありますが、この数値が上がっています。昨日はアンモニアが110、ビリルビンが8です。これは肝臓の解毒作用の低下を示しています。正常値はアンモニアで80以下、ビリルビンで1.2位です。アンモニアは150を越えると意識混濁を起こしますので、肝不全用の血中アンモニアを下げる点滴でコントロールしています。ビリルビンが高いと黄疸を起こし、10を越える日が3日続くと高ビリルビン血症で血液透析が必要になります。アンモニアの影響で意識が混濁していることがあります。手術によるストレスがあると、体全体の細胞が防御反応で水をため込むのですが、ストレスが無くなると細胞が余分な水を出そうとします。これはおしっことして体外に排出されるのですが、おしっこのスピードが間に合わない場合、肺に水がたまります。」(参照資料6 4月26日にN.J.が描いた図1N.J.は肺のレントゲン写真2枚を封筒から取り出し、蛍光灯が裏側にある掲示板に張りつけた。「これが25日、これが26日ですが、26日の方で左肺が白くなっています。様子を見ますが、これ以上肺に水がたまる場合、輸液を絞るか、水分を取るために血液透析をするかもしれません。今後の問題は肝不全を起こさないことです。手術の時の出血で血小板が消耗されていますが、この為血液凝固能が落ちています。血液凝固能とは血を固める力です。血液凝固能には肝臓の役割が重要で、これが全身で下がった状態をDIC(播種性血管内凝固症候群)と言います。DICは重要な臓器の損傷や重大な感染を引き起こします。こうなると多臓器不全となり、これはMOFともいいますが、死亡の原因になります。今一番重要なのは多臓器不全を起こさないことです。メルクマールは腎機能が維持されているかどうかです。昔から『かんじんかなめ』と言いますでしょ。この『かん』は『肝』、『じん』は『腎』の意味なのです。多臓器不全が起きる前兆は腎機能で分かります。だから先日おしっこの出具合が大事ですとお母さんに申し上げたのです。」とN.J.は自分のペースで一気に説明した。(参照資料7 4月26日にN.J.が描いた図2)4人は話についていくのがやっとで、DICや多臓器不全の話題になると表情が険しくなった。「いやあこれは想定される最悪のケースです。お父さんの場合出血が止まっており、今はお腹の中に残った血液がドレーンから出ていると判断しています。ICUを出られる条件は、人工呼吸器の管が取れること、意識がはっきりすること、多臓器不全は起きないと確信が持てることの3つです。肝不全はクリアしつつあると見ていますが、ビリルビンとアンモニアの数値で確認しなければなりません。明日は日曜で検査ができませんが、月曜日にビリルビンとアンモニアの数値が上がっていなければ良いでしょう。今日月曜日なら痰管を抜くのですが、明日が日曜でスタッフが手薄になるので、これも月曜以降になります。血小板は手術直後に10,000まで下がりましたが、今は40,000まで持ち直しています。この調子なら月曜日に一般病棟に移れるでしょう。」とN.J.は一転して明るい見通しを伝えた。4人の表情が緩んだ。

 「手術の侵襲から立ち直りつつあるものの、最終確認は月曜日であるとの状態は分かりました。雷太経由K.H.先生から手術の内容はお聞きしたのですが、間接的であったこともあり、もう一度教えて頂けませんか。出血が多かったと聞いていますし、術式が変わっています。またMCTをやらなかったとも聞いています。」と信恭は尋ねた。「お父さんは胃癌の手術を受けていますが、この影響を取り除く措置が12時半までかかりました。体内の組織と組織がくっつきあうことを癒着と言います。分かりにくいと思いますが、たとえば皮膚の傷がくっつき合うのも癒着です。普通の人の場合手術中に臓器や腹膜の癒着をはがすのはたやすい作業なのですが、お父さんの場合胃を切除した後に残った組織が強く癒着していました。手術前に患部が右腎臓、右副腎、下大静脈と癒着しているかもしれないと予想していましたが、開腹して初めて横行結腸とも癒着していることが分かりました。前の手術で胃があったスペースに十二指腸が上がり、十二指腸があったところに横行結腸が上がって患部と癒着していたのです。術中病理診断で癌細胞が認められたので横行結腸の一部も切除しました。また開腹して予想以上に左葉にも腫瘍が広がっていることが分かりました。肝門部のリンパ節は腫れていました。これで右葉を切除すると肝機能を維持するだけの正常な肝細胞を維持できなくなると判断し、術式を右葉後区域切除に変更しました。また肝臓の背中側にある尾状葉にも卵大の癌がかかっていることが分かり、尾状葉の右半分も切除しました。右葉切除なら正面から肝臓を切ればよいのですが、お父さんの場合腹からのぞいて肝臓の背中側を操作することになり、右葉の前の部分が邪魔になって見通しが悪い手術になりました。肝臓に横穴を掘った先に縦穴を堀り、その先を手探りで処置したというイメージです。」とN.J.は肝臓の下から穴を堀った絵を描いた。「尾状葉の下大静脈の背中側の部分まで腫瘍があることが分かりましたが、この部分は取り切れませんでした。この血管を損傷すると手に負えないからです。卵大の腫瘍はこのように下大静脈を巻き込んでいました。」と言ってN.J.は肝臓に足側から肝臓に入る手前で二股に分かれる血管を下大静脈と称して描いた。(参照資料8 4月26日にN.J.が描いた図3)「こうした切除を4時頃までやっていました。この頃ご自身の手術を終えられたP先生が様子を見に来られました。後区域切除という手術法はありますが、通常はしません。右葉切除の方が簡単だからです。それから前の説明で残す肝臓にある小さな腫瘍を焼くと言いましたが、これはできませんでした。焼いた痕は感染しやすいのですが、横行結腸を切除したので準汚染手術になってしまったためです。」とN.J.は一気にしゃべった。「開腹して初めて分かったことと切除した箇所をもう一度教えて下さい。」と雷太は依頼した。「手術して分かったことは、予想以上に癌が進行していたこと、リンパ節の転移があり腫れていたこと、大腸と肝臓の患部が癒着していたことです。この為、右腎臓と右副腎の腫瘍部分、肝臓の下大静脈の周囲、横行結腸の一部を切除しました。」とN.J.は答えた。「手術で腫瘍を取りきれなかったとのことですが、手術から立ち直った後の父の予後を教えて下さい。」と雷太は尋ねた。「数週間で肝臓は切る前の大きさに戻りますが、徐々に癌細胞が増殖し、正常な細胞が減ってきます。正常な細胞が2割を割ると肝不全を起こします。それまでは明確な自覚症状はありませんが、段々と体力が落ちてきます。肝門部のリンパ節の腫れは大きくなり、胆管を圧迫し、胆汁の通過障害を引き起こします。癌が神経を巻き込みお腹の働きが落ちていきます。癌性腹膜炎を起こし、腹水がたまってきます。手術の侵襲から立ち直ったら次の治療法を検討していきます。免疫力を高めるためにクレスチンの投与を考えています。この薬は副作用が少ないと言われています。肝臓に残した腫瘍が悪さをするようでしたら、外から針を入れて焼く治療も検討します。」とN.J.は淡々としゃべった。「手術前には、3日間でICUを出て一般病棟に移れるとの説明でしが、月曜日に出るとして一週間もいることになります。入院期間は3ヶ月から伸びることになりますか。」と雄仁は尋ねた。「いやそういうことはありません。今でも入院予定は3ヶ月です。」とN.J.は答えた。幸代は「なぜ手遅れになるまで癌を発見できなかったのですか。先生の言う通りに定期検査を受けていたのに。」と訴えた。「ご主人には6ヶ月毎に検査を受けて頂いていました。3ヶ月毎に検査をすべきであるという意見もありますが、これは費用と効率の問題です。決められた時期にきちんと検査に来られており、模範的な患者さんでした。前の記録を調べましたが、今までの検査で再発の兆候は出ていませんでした。これは運がなかったとしか言いようがありません。」とN.J.は落ち着き払って答えた。「事情は分かりました。本人の体力が回復したところで、次の治療法の相談のためにまたお時間を頂けないですか。」と信恭が依頼した。「連休中は出入りが多いのですが、ええと空いている日は」と言いながらN.J.は手帳を取り出し、連休中の都合の良い日を挙げた。「本人が今の状態から立ち直ってからですから、連休明けになりませんか。」と雷太は言った。「ああ、そうですね。連休明けなら5月8日、9日午前中、22日午後以外は今のところ空いています。ただ状況によってはその前、連休前後にこちらからお会いしたいと言うかもしれません。」とN.J.は答えた。面談は30分余りで終わった。

 四人は手術の内容を断り無く変えたことと癌を取りきれなかったことに不満を抱きつつも医者が言うことなら仕方ないかと思うようになっていた。與志廣は週明けには一般病棟に移れる見通しであり、その後のことを考えなくてはと気持ちを切り替えようとしていた。

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第6章 疑問

 

 4月27日の午後3時半ころに恵美子と信恭、雷太が與志廣を見舞った。與志廣は眠っているようであり、信恭が声をかけると一度目を開けたがすぐに閉じてしまった。息苦しそうに肩で呼吸をしていた。看護婦に聞くとT.H.医師がいるそうなので、面談を申し込んだ。ICUの外で待っていると白衣姿のT.H.医師が現れた。「ビリルビンは8、アンモニアは日曜で計れません。朝は意識がはっきりしておられたのですが、今は混濁しています。アンモニアの影響だと思います。」と話していた。

 雷太はその足で名古屋に帰った。入れ代りで雪子が倉敷から上京してきた。

 28日は信恭と雪子が見舞った。この日は月曜日であり、期待を膨らませていたが、與志廣はICUに入れられたままであった。口に管はないものの、鼻に新たに入れられていた。

 そこへ40歳位で金縁の眼鏡をかけ、手術服姿の男が現れた。「K.H.です。ご家族の方にお話したいと思っておりました。」とその男は名乗った。「お世話になっております。次男の信恭です。これは娘の雪子です。先日の手術では朝から翌日の早朝までつきっきりで処置をして頂いたと聞いております。一昨日N.J.先生とお会いし、今日の肝機能の回復の状態を見てICUから出られるかどうかを判断したいと聞いておりましたが、如何でしたか。」と信恭は尋ねた。すると今まで寝ていた與志廣が突然自力で上半身を起こし、信恭に憤怒の表情をして顔を向けた。信恭は驚き與志廣の上半身を受けとめた。「お父さん寝ていましょう。」と信恭が声をかけたところ、與志廣はうなづき、横になった。

 後日のカルテ調査で分かったことだが、この頃與志廣はベッドの上で何度か暴れている。医師や看護婦のベッドサイドの会話を聞いて與志廣は自分が置かれている状態に気づいていたものと思われる。これを信恭に渾身の力を振り絞って訴えようとしていたのであろう。

 「GOTGPTは正常より多いですが、160と50で、肝機能は回復していると見ています。ビリルビンは11、アンモニアは111でして、肝機能の回復によりこれから下がっていくと思います。アンモニアの影響で子供っぽい行動をして周囲を驚かすことがあります。口をすぼめたり看護婦の言うことを聞かずにベッドの上で暴れたりします。」とK.H.は説明した。「ビリルビンが脳に悪さをしませんか。ビリルビンの数値が高ければ血液透析を考えるとN.J.先生から聞きましたが。」と信恭は尋ねた。「乳幼児の場合ビリルビンが10を越えると脳に障害を与える恐れがあり血液透析を行いますが、大人では20の値が1週間続いても差し支えありません。透析は腎臓などに機能障害を引き起こすリスクがありますし、血液凝固能を落とす副作用があります。せっかく止血しているのに、再出血が起きてしまいます。凝固能を増すために血小板輸血をしていますが、これをやりすぎると身体が自身で血小板を作ろうとしなくなり、限度があります。」とK.H.は答えた。「状態が良ければ今日にも痰管を取ってICUを出られると聞いていましたが、まだ無理ですか。」と信恭は尋ねた。「肝機能の低下で解毒作用が落ちています。また血液凝固能も落ちています。これらがまだ問題です。解毒作用の低下で左肺に肺炎が起きています。肺炎は先週の金曜日に症状が出始めていますが、昨日の夕方に治療が必要なレベルになりました。」とK.H.は答えた。

 信恭は金曜日に肺炎が発生したにもかかわらずN.J.が土曜日にそのことに触れず「肺に水がたまっている。」と説明したことに違和感を持った。K.H.は「昨日まで口から痰を取るチューブを入れていたのですが、鼻を一つつぶして鼻から入れることにしました。口からのチューブでは痰が戻って感染が起きる危険がありますから。鼻からの方が本人も楽なはずです。今は自発呼吸ですが、肺炎が悪化して呼吸が苦しくなったら人工呼吸に切り替えます。これは軽症の内に切り替えた方がよいと考えています。血液凝固能の低下で血液が毛細血管から染み出し、肘などで内出血を起こしています。また縫合した大腸の癒合が悪くなり、今朝9時から腸の内容物、便のことですが、が外に出ています。これはお腹の中に入れてあるドレーンで取れていますから、今のところ心配ありません。漏れがひどくなると腹膜炎の恐れがありますから、体外循環の透析で毒素を取る処置をします。肺炎の方は金曜日に発病したばかりなので様子を見ます。」と続けた。「肝機能の他に血液凝固能も注目しなければならないと理解しましたが、この治療はどうするのですか。血小板輸血には限度があるとお聞きしましたし。」と信恭は尋ねた。「血小板は少ないですが、血液凝固因子は上がってきています。このまま上向きにいけば凝固能の問題は改善されるかもしれません。本当のことは神様しかわかりませんが、輸血後のヘモグロビンの量が3000で下がらないので肝切除部での出血は止まっていると見ています。」とK.H.は答えた。信恭と雪子は一昨日のN.J.の説明と今日のK.H.の説明が違うと感じながらも、他の重症患者がいるICU内で長居をする訳にはいかず、面談を打ち切った。

 後日信恭と雷太が医学書を読んで分かったことだが、與志廣は手術中に大量出血したことで、多臓器不全・死の方向へ進むことがほぼ確定的になっていた。手術で損傷された右肝動脈分枝を含む肝切離部からの出血は続いており、減少した血小板は補いようがなかった。血液凝固に係わるほとんどの因子は肝臓で生成されているものの、その肝臓は手術による正常肝の減少と、術中術後出血、肝動脈塞栓術、転移性肝癌の四重苦に見舞われていた。さらに横行結腸の縫合不全による便の腹腔内への漏れは、便中の細菌による感染症を引き起こし、汎発性腹膜炎を発症しつつあった。こうしたダメージが限度を越えると、肝臓・横行結腸に限定していた出血・炎症・感染が全身に広がる。細菌は免疫に勝ち、全身に蔓延する。これを敗血症という。細菌がまき散らす毒素に反応して全身の血液内で凝固成分が固まってしまい、血液凝固能はますます低下する。これをDIC(播種性血管内血液凝固症)と言う。血液凝固能が低下すると、全身の毛細血管から血液が染み出し、炎症状態になる。そこに細菌が感染し、その組織を機能不全に陥れる。特に毛細血管が多い肺、心臓、腎臓、肝臓、消化管などの重要臓器が障害を受けやすい。こうして複数の臓器が機能不全に陥った状態を多臓器不全(MOF)と言う。こうした悪循環をたどって大本の原因になるダメージを受けてから2週間程で死に至るのである。

 

 翌29日午前11時ごろに雄仁と信恭、雪子が與志廣を見舞った。與志廣の意識ははっきりしており、目を開き天井を見ていた。肝不全による黄疸のため、白目は黄色い。鼻から新たに管が入り、人工呼吸機が作動していた。三人が声をかけるとうなづき、意志疎通ができた。帰り際雄仁と雪子が声をかけると穏やかにうなづいたが、信恭が声をかけると顔を歪めて怒った表情をした。信恭はなぜ父が自分にだけ表情を変えたのか理解ができなかった。

 3人は医師の話を聞きたいと看護婦に依頼したところ、N.M.がいるとのことで、ICUの外で待つことにした。暫くするとN.M.がやってきた。N.M.は挨拶を済ますと、3人を5階の面談室に通した。「お忙しいところお呼び立てしました。父のことが心配でして、また私が今日大分に帰るものですから、最新の状態を伺いたいと存じます。」と信恭は切り出した。「今問題なのは第一に肝機能不全、第二に呼吸器合併症、第三に血液凝固異常、第四に横行結腸の縫合不全です。肝臓の出血は止まっていますが、ビリルビンが13に上がっています。これは肝機能の回復を待つ以外に為す術がありません。でもアンモニアが111で金曜日が161でしたから改善しています。呼吸器合併症は肺にたまった水が取れていないためです。これに対しては昨日から人工呼吸器をつけ、鼻から1分間に5回の援助をしています。残りは自発呼吸です。」とN.M.が説明しているところで、「昨日これは肺炎ですとK.H.先生から聞きましたが。」と信恭が話をさえぎった。N.M.の表情が一瞬強ばり、言葉が詰まったが、説明を続けた。「確かにこれは肺炎の一症状で水がたまっています。肺炎は両方の肺に起きています。痰を取り、抗生剤を投与して対処しています。血液凝固異常は血の凝固する性質と溶解する性質のバランスが崩れて起こります。お父さんの血小板数は1万から2万で、これは正常値の十分の一です。血小板輸血をしていますが、血小板の寿命は短く、半日で半分が死んでしまうのでなかなか効果があがりません。他の血液凝固因子は計っていませんが、おそらく正常値ではないと思います。横行結腸はうまくつながっていません。便汁がお腹の中で漏れており、これが感染源になって腹膜炎を起きる可能性があります。」「このままICUから出られずに死ぬことがありえますか。」と信恭は聞きたくないことを敢えて尋ねた。「ありえます。悪くなる展開としては、肝機能障害から血液凝固能が悪化し、肺炎がひどくなり、呼吸不全を起こす場合や、感染からサイトカインという悪性物資が体内に増え、腎臓を始め多くの臓器にダメージを与え、多臓器不全が起きる場合が考えられます。こちらの方に展開するともう元に戻すのは困難です。」とN.M.は答えた。「縫合不全に対しては静脈点滴の栄養を増やす措置を取りました。栄養状態が良くなり、縫合不全が改善されるよう期待しています。すぐには効果が上がりませんが、2週間から1ヶ月後に期待しています」とN.M.は説明した。「肝機能障害ではGOTGPTは下がってきていますが、これだけでは安心できません。壊れる肝臓の細胞がなくなったかもしれないからです。注意深く経過を見ていきますが、安心できると言い切るには、ビリルビンが下がって、肺炎が治り、自発呼吸ができ、自分で痰が出せなければなりません。縫合不全はもっと時間を置いて経過を見ます。腎臓は正常でおしっこは出ています。片足のむくみは取れました。今起きていることは消化器の手術をすればよく起こることですが、お父さんの場合もどりが普通の人より悪いといえます。ではこういうところで。」と言って面談を切り上げようとした。「医学ではどの病気でも進行の程度を数字で表すと聞いています。父の場合肺炎は数字で表すとどの程度なのでしょうか。」と信恭は尋ねた。N.M.は少し険しい顔をして「肺炎の場合グレードを1から5に分けていますが、お父さんの場合真ん中の3です。これはレントゲンで陰影が見える状態です。今の状態なら人工呼吸器の補助でやっていけます。血中の酸素濃度は正常ですし。肺炎は一週間様子を見て良くならなかったら気管支切開をします。その場合は承諾頂けますか。」と迫るように言った。「今すぐにはお答えできません。そういう事態になったら改めておっしゃって下さい。」と信恭は答えた。「緊急事態はありますか。」と雄仁は尋ねた。「ええ、ありえます。全身状態の悪化から心臓停止を起こすことがあります。これはいつ起こるか分かりません。腎不全、肝不全から心臓停止を起こすこともあります。」とN.M.は答えた。

 「今後侵襲を伴う治療としては気管支切開だけですか。」と信恭は尋ねた。「ええ気管支切開だけです。透析はアンモニアの数値が下がっているので見合わせています。透析は腎不全には効きますが、肝不全にはあまり効きません。ちょっと失礼。」と言いN.M.は部屋にある院内電話の受話器を取り、どこかの患者の容体を聞いた。簡単な会話の後電話を切り、「そろそろ失礼しなければなりません。」と家族に告げた。

 信恭は中目黒の実家で大分に帰る支度をしながら、昨日今日となぜ與志廣が自分に険しい表情をしたのか考えた。またなぜN.J.は26日の土曜日に肺炎のことを「肺に水がたまっている。」と自分達に説明をしたのか、なぜ今日N.M.は家族が肺炎のことを知っていることに気づき血相を変えたのか考えた。25日金曜日のアンモニアの数値についてN.J.K.H.は110と言い、N.M.は161と言っていたのか気になった。穏やかで分け隔てのない父が自分にだけ険しい表情をするのは感情とか気分ではなく、何かきちんとした理由があるはずだと思い至った時、はっと父は自身に医療過誤が起きたことに気づき、それを子供の中で一人法律家になった自分に訴え託そうとしたのではないか、それがK.H.医師のいうアンモニアの影響で医師に対する怒りがそのまま顔に出たのではないか、との考えが頭に浮かんだ。信恭は間違いないと感じた。信恭は羽田に向かう前に一人でもう一度與志廣を見舞った。與志廣は意識がはっきりしており、目を開けて険しい表情で天井を見ていた。信恭は與志廣の耳元に口を近づけ「医者がお父さんに何をしたのか、お父さんに何が起こったのか、僕が調べますから。医者に必ず責任を取らせますから安心して下さいね。」と声をかけた。與志廣の表情が緩み目から涙がこぼれた。

 

 信恭は大分に帰ると医学専門書を読み漁った。「激症肝炎」の解説が信恭の目に飛び込んだ。「肝細胞は再生力が旺盛であり、肝臓を一部切除しても数週間で元の大きさに戻るが、薬物や大量出血による貧血で肝細胞が限度を越えたダメージを受けると肝細胞が化学変化を起こし、正常な状態に戻しても再生ではなく壊死の方向へ向かってしまう。大量かつ広範な肝細胞の壊死は肝機能障害を起こし、肝性脳症・血液凝固異常を発症する。さらに合併症として肺炎・腹膜炎・腎機能障害・心機能障害などの複数の臓器の障害が起きる。有効な治療法はなく、発病から約10日でほぼ100%死亡する。」と書いてあった。末期の症状として、肝性脳症に関する詳しい記述があった。そこに記載してあることは28日にK.H.がアンモニアの影響と言って説明した症状と同一だった。自分が昨日まで見、医者から聞いた與志廣の症状は激症肝炎の解説そのものだった。

 信恭は父と自分がどういう状態にあるのか理解するために相当の時間を費やした。盲腸炎と胃癌の入院以外で仕事を休んだり寝込んだことがない父は間もなく死のうとしていた。これだけでも気が遠くなる事態だった。父はついこの間まで元気だった。転移性肝癌に侵されているとはいえ、一ヶ月前の姪の結婚式には自分の足で行き、ビールを飲み、スピーチをしていた。二週間前に手術を勧めた際もいつもと変わりない與志廣であった。大橋病院の医師が自分たちに真実を語ってくれないことは信恭をさらに惑わせた。自分の父親の死を招いたのはまぎれもなく自分が卒業した高校の母体である大学の付属病院であり、主治医は自分が信頼するP医師の紹介であった。信恭は早く上京して実家にこのことを伝えるとともに、医者の話をきかなくてはと思うのが精一杯であった。

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第7章 多臓器不全

 

 信恭が大分に帰った後に中目黒には幸代、雄仁、雪子と恵美子が詰めていた。大橋病院ではICU患者の室内服である浴衣を家族が洗濯する決まりになっており、幸代が毎日ICUに通い恵美子が洗濯をしていた。浴衣に血糊や汚物がべったりとついており、汚れは日増しにひどくなっていった。恵美子も與志廣の異変を感じていた。

 30日の昼過ぎに幸代と雪子が與志廣を見舞った。與志廣は身体をすこし右向きにして目をつむっていた。顔は土気色であり、声をかけても目を開けず、幸代が額に手をやると半目を開けた。苦しそうに肩で息をしていた。足はパンパンに腫れていた。雪子は昨日と様子が違うと感じた。

 與志廣の異変に驚いた雪子はK.H.医師との面談を看護婦に申し入れた。二人はICUの入り口のソファで待つことにした。暫くするとK.H.でなくN.J.がやって来て軽く会釈をしてICUへ入っていった。30分程するとN.J.が出てきて、二人を手術室の入り口にある狭い受付の部屋に通した。

 「ご主人の腸からの漏れがひどくなっていますので、緊急手術をしたいと思います。」とN.J.はいきなり再手術を持ち出した。二人は唖然とした。「現在の緊急課題は下腹部の洗浄です。再度開腹して直接状態を見た上で洗浄します。もし炎症を起こしていたらその処置もします。縫合不全を起こしている部分については人工肛門をつけるかもしれません。手術の後に血液浄化の処置をします。これはマイルドな透析で、通常の腎臓透析では一分間に200ccの血を抜くところこれは30ー70ccと遅いので、体への負担が軽くて済みます。血の中のエンドトキシンとビリルビンを抜きます。これから何度か同じ処置をすることになります。これは緊急です。手術を承諾して下さい。」とN.J.は二人に迫った。「腹部の処置は分かりましたが、肺炎の状態はどうなんですか。父は今苦しそうでした。」と雪子は尋ねた。「右肺の水は取れ、ほとんどきれいになっています。左はよくなっておらず、腹膜炎が悪い影響を及ぼしていると見ています。今お父さんは軽い呼吸不全を起こしていますが、これは空気中の酸素濃度が20%のところ、人工呼吸で50%と高いことが原因で、今は40%に下げています。」とN.J.は酸素濃度を落としたことに触れた。

 「K.H.は今別の手術をやっていますが、これが終わり次第、おそらく4時半位から手術を始めます。3時ごろから準備にかかります。」とN.J.は続けた。雪子は緊急の手術があるならなぜ印鑑を持って至急来院するよう電話がないんだと不信に思ったが、言葉にできなかった。「手術の承諾書を持ってきて。」とN.J.ICUの詰め所にいた看護婦に指示を出した。幸代は出された白紙の手術の承諾書に署名し、拇印を押すのが精一杯だった。「とにかく夫の命を助けて下さい」と幸代は懇願した。N.J.は気まずい目つきで複雑な表情をしていた。「手術の結果はK.H.から説明させます。私は今日葬式の葬儀委員長を頼まれているので出かけなければなりません。K.H.が後はやりますからご安心下さい。」とN.J.は言って席を立った。雪子はまた説明する人と手術をする人が違うと思ったが、何も言えなかった。

 手術は午後4時半から始まった。執刀医はK.H.が、助手はN.M.が務め、T.H.も立ち会った。午後8時に終了した。

 手術室の外では幸代と恵美子、雄仁、雪子が待機していた。恵美子は看護婦から手術終了と聞いて中目黒の家に帰ることにした。幸代と雄仁、雪子はICUの看護婦の詰め所に通された。部屋にはK.H.N.M.と第3内科に所属し血液透析が専門のF.H.医師がいた。挨拶を済ますとK.H.が話を始めた。「おとといから大腸の縫合不全が起きていましたが、当初はドレーンで腸の内容物を洗浄できていると見ていました。ところが今朝になって血圧が低下し下腹部に張りが認められ、腸のドレーンから膿が出てきました。これは腹膜炎が局所的なものから汎発性のものへ広がりつつある兆しと考え、緊急手術をしたものです。血圧の低下はエンドトキシンショックによるものでしょう。エンドトキシンとは細菌が出す毒素です。手術ではまず、21日の術傷にそって皮切りして開腹し、腹腔内にたまっていた血液を1000cc程取り、生理食塩水で洗い、切断縫合した横行結腸が三分の一ほど破れていたので腸管を20センチ程人工のものに取り替えて人工肛門をつけ、ドレーンを2本追加で入れておきました。お腹の中には計3本のドレーンが入っています。腸の縫合不全は血液凝固能が正常の20%、血小板が30%しかないため起きています。腹膜炎が局所性から汎発性になると腸の中の細菌が血液に入り込むようになり敗血症になります。今回人工肛門をつけ、強力なドレーンをつけましたので、もうこの心配はないでしょう。肝臓は血行が十分なようでいい色をしていました。これから透析を行い血中のエンドトキシンを取ります。これはF.H.先生から説明します。」F.H.医師が口を開いた。「第3内科のF.H.です。山口與志廣さんにエンドトキシンを取るための血液濾過をやります。これは血液をカラムに通してエンドトキシンのみを吸着し、後の血液を体に戻すものです。流速が腎臓透析の半分ほどで体への負担はマイルドです。」「お昼にN.J.先生からアンモニアとビリルビンを取るためにこれから何度か血液透析も行うと聞きましたが。」と雪子は尋ねた。F.H.医師は「ビリルビンの数値は高いですが、大人ではさほど問題にはなりません。効果があまり期待できない措置をして体力を消耗させることは控えています。」と答えた。K.H.は「アンモニアが高くなったのは、栄養剤を投与した3日前からで、肝機能と直接関与していないのでろ過のターゲットにしません。」とつけ加えた。

 「エンドトキシンの吸着はこれから行います。効果があるようでしたら明日もう一度やります。さほど心配は入らない措置ですから、ご家族の方はお引きとり頂いて大丈夫です。もし万が一何か変わりがありましたらご自宅に電話を入れます。」と言ってF.H.医師は説明を締めくくった。

 

 翌5月1日午前10時に恵美子と雪子が與志廣を見舞った。與志廣は目をカッと開き、顔は赤く、口を開けて息苦しそう表情をしていた。それでも意識はしっかりしており、恵美子が「調子はどう。」と声をかけると、声は出ないものの頷いて見せた。K.H.医師がベッドサイドにやって来た。

 「先生、父の状態はどうでしょうか。」と雪子は尋ねた。K.H.は「昨日より大変良い状態になっています。意識がしっかりしています。山口さん分かりますね。」と言って、頷く與志廣を見せた。「私たちにとっても意外なほどよくなりました。おそらく腹腔内の洗浄でお腹の中がきれいになったこととエンドトキシン吸着で血液がきれいになったことの相乗効果だと思います。GOTGPTは27と58で片方は正常値に戻りました。ビリルビンは16で安定しています。血小板は31,000で昨日の13,000からかなり改善しています。アンモニアと血液凝固因子は今朝計っていませんが、肺炎はよくなっています。左肺の影が薄くなってきました。白血球数は7,900で、9,000以下が正常値ですので、心配ありません。昨日から不整脈が出ていますが、治療を必要とする程ではありません。クレアチニンは正常値でおしっこが出ているので腎機能に問題はありません。」とK.H.は状態がよくなっていることを強調した。「昨日聞き忘れたのですが、出血は止まっているのでしょうか。ドレーン受けに膿と血が溜まっており、まだ出血しているようにみえますが。」と雪子は尋ねた。「止まったという確証はありませんが、ヘモグロビンの量はあまり減少していないので出血は治まったといってよいと思います。ドレーンから出ている血は以前の出血でたまったものが出ているのでしょう。」とK.H.は答えた。雪子は昨日の手術で腹腔内洗浄をしており昔の出血がたまっているはずはないと即座に気づいたが、父親を人質に取られていると感じ、相手の矛盾を突く質問をする勇気はなかった。雪子は次の検査の結果は午後4時に出ると聞き、K.H.医師と午後5時にもう一度会う約束をして中目黒に帰ることにした。

 

 午後5時ごろ幸代と雪子が来院した。幸代は昨日の再手術ですっかり疲れてしまい、一日寝込んでいたが、與志廣の状態が良くなっていると聞き、見舞うことにした。ICUの入り口の電話で来意を告げると処置中とのことで30分余り待たされた。ソファに座っているとK.H.が出てきた。「午後3時の検査でご主人からMRSAが検出され、準隔離されることになりました。」と挨拶もそこそこにK.H.は二人に伝えた。いつICUから出られるか聞くつもりでいた幸代は唖然とした。K.H.の案内で準隔離室に入った。ICUの奥にあり、ICU入り口で白衣とキャップ、スリッパを着用し手を消毒した後に、準隔離室入り口で二重に二枚目の白衣とキャップをつけ、スリッパを履きかえ、手を再消毒しなければならなかった。部屋には與志廣のベッド一つだけがあった。K.H.が話を続けた。「MRSAに効く抗生物質はバンコマイシン一つなので、午後4時からこれに切り替えています。バンコマイシンの副作用に腎機能障害があり心配ですが、止むを得ません。腎機能の数値が一部悪くなっていますが、尿は出ており、クレアチニンは正常値です。左肺の影が小さくなってきており、肺炎は改善されています。右は、管で水を取っていることもあり、きれいです。」「腹膜炎はどうですか。ドレーンからの排液がまだ続いており、赤黒く濁っていますが。これは膿がまざっているからでないですか。」と雪子は尋ねた。「たしかに膿が出ていますが、エンドトキシン吸着後血圧が155と138で安定しており腹膜炎の心配は遠のいたと見ています。下の数値が高いですが、これは測定に細い血管を使用しているためで、不正確な値と思って下さい。今後注意しなければならないのは心臓と腎臓です。心臓は血液が脱水症状を起こしていることもあり、それでも体に酸素と栄養を送ろうとして一分間に120回以上鼓動しています。この状態は1ー2週間が限度です。不整脈も出ています。腎臓はバンコマイシンの副作用が心配です。腎機能が低下したらF.H.先生と相談して血液透析をするかもしれません。山口さんは心臓と腎臓が強いからここまでもっていると思います。普通の人ならとっくにダメになっています。この強い心臓と腎臓が保っている内に血液凝固能や腹膜炎、MRSAが治ってくれれば良いのですが。」とK.H.は言った。「この手足のむくみはなんとかならないのですか。パンパンに張れています。」と幸代は尋ねた。「腹膜炎を防止するためにドレーンからお腹の中の水を抜いており、これを輸液で補っているのでどうしても血液が薄くなり、水分が血管から抜け出して体の細胞にたまってしまいます。ドレーンをやめる訳にはいかず、これは痛々しいですが、我慢してもらうしかありません。」とK.H.は答えた。

 二人はK.H.に「宜しくお願いします。」と頭を下げる以外何もなす術がなかった。雪子は父のことが心配でならなかったが休暇は翌2日までであり、東京を離れざるをえなかった。代わりに雷太が名古屋から上京してきた。

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第8章 K.H.の釈明

 

 幸代と雷太は2日昼前に病院に赴いたが、あいにく医師はだれもおらず、與志廣の様子を見るだけになった。與志廣ははれぼったい顔をしており、看護婦が声をかけても薄目を開けるだけで意識ははっきりしていなかった。塞がらない傷が痛むのか時々顔をしかめた。雷太はあまりに変わってしまった父親の姿を見て思わず「お父さん」と声をかけた。與志廣は目を開け雷太の顔を確かめると涙を流した。白目が黄色かった。思わず取り乱した自分に気付いたのか、すぐにいつもの威厳ある顔に戻った。

 看護婦から夕方5時ごろにT.H.がいる予定と聞き、二人は一旦帰宅することにした。中目黒に信恭が来ていた。連休は翌3日からであったが、雷太と同じく仕事を休んでの上京であった。夕方5時ごろに信恭と雷太が大橋病院を訪れた。T.H.は不在であったが、K.H.がおり、面談に応じた。二人はICUの隣にある看護婦の詰め所に通された。

 「父のことが心配でまた上京してきました。妹から30日に緊急で再手術を受けたと聞きました。大まかなことは聞いているのですが、もう一度説明して頂けませんか。」と信恭は尋ねた。「大腸を切除した箇所で縫合不全、つまり縫い合わせが解けてしまい腸の中の内容物が漏れたので、人工肛門を右下腹部に取りつけました。これで便がお腹の中に漏れる心配はなくなりました。アンモニアを便から出す薬を経口で投与しています。手術でお腹の中の血の塊を洗い流したのですが、今でもドレーンから1日に300から400ccの出血が認められています。おそらく下大静脈辺りからだと思います。肝臓にはいろいろな働きがありますが、血液凝固因子を作る機能もその一つです。肝機能が戻れば出血は止まるはずなのですが。30日の手術で肝臓の見た目の色はよく、切除直後より大きくなっていることはこの目で確認したのですが、まだ機能を回復していません。MRSA肺炎を併発しています。今のお父さんの状態を健康な人と比べると、肺は3分の2、心臓も3分の2、肝臓は3割、腎臓は3分の1から3分の2しか働いていません。肺と腎臓は今の医学では代わりに機械でサポートできます。心臓も数日ならできます。でも肝臓は代わりが効かないのです。」とK.H.は表情を少し強ばらせて答えた。「今の父の状態は手術中とその後の大量出血から劇症肝炎を起こした状態ですか。」と信恭は尋ねた。「経過と症状はよく似ていますが、病名は急性肝不全といった方が正しいでしょう。21日の手術では大腸を切除した時に2,000cc、下大静脈付近の肝臓を切除した時に6,000cc、肝臓のその他の部分を切除した時に2,000cc、その他で2,000ccで、合計12,000cc位の出血をしました。さらに手術後も出血があり、TAEをやりました。これらの経過で肝不全になったと見ています。」とK.H.は答えた。「今後は不整脈にも注意していきます。輸血が多くなると血の中の電解質のバランスが崩れ、これが不整脈の一因になります。」とK.H.は説明した。「卵大の癌がどこにあったかをもう一度教えて下さい。」と信恭は尋ねた。K.H.は與志廣の血液検査迅速仮報告書の裏に肝臓の略図を書き、中に1から8までの番号をつけ、「これは肝臓を腹側から透かした図ですが、肝臓はこの通り8つのブロックに分かれます。背中側で下大静脈が肝臓に接して走っています。お父さんの癌はこの下大静脈と下大静脈に入る2本の血管の合計3本に挟まれた尾状葉というところにできていました。通常の手術ではグリソン血管の枝を締めて色の変わる区域で切除箇所を決めるのですが、お父さんの場合背中の病変をお腹側からのぞき込む姿勢になり視野が悪く、出血などの合併症のリスクがあると思っていました。」とK.H.は答えた。(参照資料9 5月2日にK.H.が描いた図)「次の検査データは明日11時ごろ出ますので、その頃またいらして下さい。治療方針を相談するかもしれません。」とK.H.は言って面談を打ち切った。

 信恭と雷太は気候が良いので歩いて帰ることにした。大人の足で30分ほどの道のりである。6時を過ぎていたが5月上旬の東京はまだ明るかった。雷太は山手通りの歩道を歩きながら「劇症肝炎て何。」と信恭に尋ねた。「大分に帰って医学書を読み漁って、劇症肝炎の解説を見付けたんだ。肝臓手術で大量の出血があったりして、肝臓の貧血状態が長く続くと、劇症肝炎を起こす。貧血の度を越すと肝細胞は再生でなく壊死の方向に向かってしまい、肝臓全体で大量かつ広範な壊死が起きる。こうして肝機能障害から肝性脳症、血液凝固不全を起こし、合併症として肺炎、腹膜炎、心機能障害を起こし、発病後約2週間で死に至ると書いてあったんだ。お父さんの状態とそっくりだと思ってK.H.先生に聞いたら、劇症肝炎でなく急性肝不全だが、経過はほぼ同じだと言っていただろ。」と信恭は自分を落ち着かせようとゆっくりと話した。雷太は生まれてこの方築いてきた自分の理性がもろくも崩れていくことを止められなかった。それは大きなビルが爆破され、一瞬の内に瓦礫に変わる様子に似ていた。37歳の分別盛りであり何とか自分を取り戻そうとしたが成す術がなく、しゃがみ込んでしまった。白昼人通りのある歩道にいたにもかかわらず、自分は真っ暗で何も見えず、何も聞こえず、廻りに何もない、冷たいコンクリートの床にしゃがみ込んで泣いていると雷太は錯覚した。

 中目黒で幸代と雄仁、信恭、雷太が家族会議を開き、信恭が自分の調査した結果を報告した。幸代は大橋病院は信頼できる知人の紹介なので、間違いはないはずだとの思いを信じようと努めた。雄仁と信恭は自分の父親が医療過誤に会い生死が危うい状態にあると理性的に理解し、押し黙っていた。雷太は、「医者の話を良く聞いてくれ。宜しく頼む。」と生まれて初めて頼ってきた父親を守れなかった自分を責め続け、理性を失っていた。

 信恭は自身が裁判官として医療過誤訴訟に携わった経験から、医者から聞いた話を記録するよう家族に提案した。信恭と雷太は仕事柄面談でメモを取る習慣があり、3月27日のN.J.との面談以来医者から聞いた話をノートに取っていた。しかも背表紙があるノートであり、発言の時間の前後をページで示すことが容易であった。家族で手分けして書いた記録は信恭がとりまとめ、公証人役場で確定日付を取ることにした。信恭は医療過誤訴訟において、自分の立場を守るために平気で嘘をつく医者がいることを知っていた。裁判で言った言わないの争いになると裁判官が重視するのが記録であり、特にカルテの開示前に確定日付を取得してある経過記録は信頼性が高いと考えていた。家族は、第一に與志廣が回復する望みを捨てずに家族が交代で付き添い、医者の話を聞くこと、第二にこれまでの医者の話を全て記録に残すことを決めた。家族の中で一番医師と與志廣に接触する機会が多かった雷太は我に帰り机に向かった。

 

 5月3日午前11時過ぎに信恭と雷太が與志廣を見舞った。與志廣は眠っている様子であった。間もなくするとK.H.が現れ、二人はICUの隣の看護婦の詰め所に通された。「今朝の検査結果を受けての最新の父の状態を教えて下さい。」と信恭は尋ねた。「手術と肝動脈閉鎖術による肝臓へのダメージは収まっていますが、肝機能が回復しません。血液凝固能が低いので、出血は続いています。肺炎の状態は変わりませんが、痰から相変わらず強いMRSAが検出されています。腹膜炎も治っておらず、熱があります。血管の中の血液の絶対量が少ないので心臓が忙しく、軽い不整脈が続いています。普通の人ならとっくにダメになっているはずですが、お父さんは基礎体力が強いのだと思います。通常の肝臓の手術では2ー3日で肝機能が回復するものですが、悪い方に転回した場合肝機能が保てるのは2週間位です。お父さんの場合手術から12日が経過しており、肝機能の回復と生命を維持するための基礎体力の消耗とどちらが早いかが問題になっています。肝機能が止まってしまったら35時間位しか生命は維持できません。この2ー3日が山でしょう。肝機能はビリルビンの数値で分かります。」とK.H.は答えた。「先生のおっしゃる通りまだ回復する望みがあるのなら、治療に万全をお願いしますが、父は入院する前に回復する当てがないのに延命だけを目的にした治療はご免だと言っておりました。父の意志を家族として尊重したいと思いますので、そういう場面になったら教えて下さい。」と信恭はK.H.に伝えた。「4月21日の手術の詳細についてK.H.先生から直接お聞きしたことがなかったので、教えて頂けませんか。」と信恭は尋ねた。K.H.は肝臓と周辺臓器の絵を書きながら、「摘出した臓器は肝臓の一部と胆嚢、大腸の一部です。普通の人では、大腸と肝臓の間には胃と十二指腸があり、くっつくことがあり得ないのですが、お父さんの場合、3年前に胃の3分の2を切除していて胃があったスペースに十二指腸が入り込み、十二指腸のあったスペースに横行結腸が上がってきて、卵大の腫瘍と癒着していました。横行結腸と主病巣の大腸側に癌の浸潤を認めたため、またこの腸を取らないと肝臓の手術ができないため、合併切除したのです。この際出血がありました。」と説明し(参照資料10 5月3日にK.H.が描いた図1)、続けて8つのブロックごとの番号をつけた肝臓に左右に分かれた二股の血管が下から入る図を書き、「肝臓はこの通り8つのブロックに分かれます。この臓器は下大静脈から血流を得ていますが、この血管はグリソン鞘と呼ばれる管の中を走っています。このグリソンが肝臓に入る直前、ここを肝門部と言いますが、で右左に枝分かれし、このどちらから血流を得ているかで右葉・左葉と呼んでいます。右のグリソンはさらに前後に分かれ、どちらから血流を得ているかで右葉前区域と右葉後区域と呼んでいます。これがさらに各々2本に分かれ、右葉では合計4つのブロックがあります。左葉は2本に分かれ、内1本はさらに2本分かれ、都合3つのブロックに分かれます。また右葉・左葉とは別に尾状葉といって、右グリソン分枝、左グリソン分枝の両方から血流を得ているブロックがあります。この尾状葉は下大静脈の本管に近く、血管が複雑に入り組んでいます。これら8つのブロックの境界は外見から分かりませんが、グリソン鞘の血流が枝分かれしているところで止めると色が変わるので分かります。」と説明した。(参照資料11 5月3日にK.H.が描いた図)続けてグリソン鞘のより詳細な分岐図を書き、右葉枝に@、右葉前区域枝にA、右葉後区域枝にBの番号をつけ、「手術では@のところで血流を止め、Bの血管を切断しました。」と説明した。さらにK.H.は大血管から血管が2本分岐する図と3本分岐する図を書き、いずれの図でも分岐部にはさまれたところを囲って斜線を入れ、「卵大の腫瘍は下大静脈の股のところ、尾状葉といいますが、にできていました。この尾状葉を取った時に大出血がありました。下大静脈は傷つけていません。癌細胞は自分で血管を作るのですが、この癌血管から出血している模様です。」とK.H.は説明した。後日の調査で、グリソン鞘に通る血管は下大静脈でなく、門脈と肝動脈であることが判明している。K.H.は下大静脈からグリソン鞘が分岐した解剖学上でたらめな図を描いていた。

信恭は「転移性肝癌では腫瘍が肝臓に限局しており、その腫瘍を全部取りきれる場合にしか手術をしないと本に書いてありましたが、取りきれないと分かっていてなぜ肝切除をしたのですか。」と問い詰めた。「一般的に腫瘍を取りきれない場合手術をしない意見に私も同じです。今回、開腹して背骨の横を走っている腹大動脈のそばにあるリンパ節と肝門部のリンパ節が転移で張れているのを見て、手術をやめようかとためらいましたが。」と言いながらK.H.は一瞬話を止めた。何やら考えている様子であった。「N.J.先生がご家族にどう説明したかは知らないのですが、肝臓外科医の立場からして、今回の手術の目的は卵大の腫瘍を切除することにあったのです。2月に4cmだった腫瘍が1.5ヶ月で約2倍の7cmに成長しており、自然破裂の恐れがありました。手術で癌制圧の意義は少ないですが、卵大の腫瘍の破裂の予防効果は期待できると判断しました。破裂の予防には血管造影の上抗癌剤で血管を詰める治療法もありますが、この治療法の条件は大きさ3cm以下で、お父さんは適応外でした。他に2cm位の腫瘍が7つあり、これらの血管全部をつめる訳にはいかないことも理由の一つです。手術で予後が悪いと命を縮める可能性はありました。腫瘍の大腸への浸潤はお腹を開けてみないと分かりませんでした。肝臓での腫瘍の進展度合いで右葉切除と後区域切除の両方の可能性を考えていましたが、残肝の状態が悪く後区域切除を選びました。右葉切除だけだったら出血はなかったでしょうが、尾状葉切除で出血が起きました。右葉後区域と尾状葉右半分切除で癌を半分は取れました。」とK.H.は自身が執刀した手術の正当性を強調した。信恭は「私たちはN.J.先生から違う説明を受けて手術を承諾しました。これはN.J.先生に問い合わせるとして、K.H.先生であれば父の症例で手術を勧めるのですか。」と問うた。「お父さんの癌は巨大ではありませんが、場所的に難しい位置にありました。ケースバイケースで患者とご家族の意向を聞いて決めます。胃癌手術から時間がかなり経ってからの再発でしたが、それにしては肝臓内での進行が早かった。私ならばやはりリスクもあるが期待利益もある手術を勧めます。私は、N.J.先生が事前にこうした説明をしてあり、お父さんとご家族は勇気ある決断をしたと思っていました。」とK.H.は答えた。2人は、N.J.が意味が少なく危険な手術を、効果を過大にリスクを過小に歪めて、勧めたことに気づいた。

 第3内科のF.H.医師が部屋に入ってきた。信恭と雷太は初対面であった。「F.H.です。お父さんへの血液透析療法について説明しようと参りました。4月30日と5月1日にエンドトキシンを吸着するために血液透析を行いましたが、これは効果がありました。今は血圧が安定しており、腹膜炎は悪化していないと診ていますので、今のところ再度エンドトキシン吸着を行うつもりはありません。あとビリルビン吸着ですが、大人では脳に膜があるのでビリルビンがかなり高くても実害はありません。逆にビリルビン吸着の透析をするためにどうしても一定量の血液を抜かなければならず、これが血圧変動を招いて心臓に負担をかけます。また血液を流動化するために薬を入れますが、これが血液凝固不全を悪化させてしまいます。お父さんのビリルビンの数値は今30位ですが、これより悪化して神経細胞に悪影響を与えて意識障害を起こすようでしたら、ビリルビン吸着を検討します。」とF.H.は説明した。「ということは新たに血液透析をする予定はないということですね。」と信恭は尋ねた。「その通りです。」とF.H.は答えた。信恭は血中のビリルビンを吸着するために血液透析が必要かもしれないと代わる代わる家族に説明をする第3外科の医師達との話の違いが気になった。K.H.F.H.医師と信恭、雷太は翌4日以降毎朝9時に面談し、その日に血液透析を実施するか検討することにして、面談を終了した。

 帰り際に雷太は看護婦に與志廣に起きている間は眼鏡をかけさせるよう依頼した。雷太も父親ゆずりの強い近視であった。たとえ寝たきりで意識が朦朧としていても眼鏡がない生活はつらかろうと心配していた。

 二人は一度帰宅したが、信恭は幸代とともに夕方5時頃にもう一度與志廣を見舞った。たまたま與志廣の意識ははっきりしており、声は出せないものの、二人の話に一つ一つ頷いてみせた。信恭の子供が描いた與志廣の絵を見せると顔を上げた。この話を聞いた家族は、眼鏡のお陰で意識がはっきりしたのではないかと考えた。一度は絶望した與志廣が快方に向かいだしたのではと淡い期待をした。

 

 翌4日の午前9時に信恭と雷太はICUの看護婦の詰め所でK.H.と面談した。「腹膜炎がまだ残っているらしく、腹部からの出血がまだ止まっていません。だいたい1日300cc位の出血です。おしっこと便が黄色いから、ビリルビンは体外に排出されていると診ています。ビリルビンの数値は昨夕28、本朝31.9で平衡状態になっていますので今日はビリルビン吸着は行いません。おしっこは量的に出ており、腎機能は保たれています。肺の状態は昨日と変わりません。心臓も落ち着いています。徐々にダメージから立ち直っているのではないかと期待しています。」とK.H.は説明した。

 「N.J.先生から手術の前に、肝臓の部分切除を行うとともに、残った肝臓に点在する小さな腫瘍をマイクロ波で焼くと聞きました。開腹して肝臓に直に超音波を当てれば直径5ミリ以上の腫瘍は全て識別できるので、これらを漏れなく焼ける。これで転移性肝癌の根治とまではいえなくても、それに近い状態にするとの約束だったのですが、なぜマイクロ波で焼く治療はキャンセルになったのでしょうか。」と雷太は昨日の面談で聞き忘れたことを尋ねた。「N.J.先生から小さな腫瘍を焼く話は……」とK.H.は言いかけて一瞬考え込んだ。「……あったと思います。ただ幾つか事情があり、これはできなくなりました。まず手術時間が長くなり、これ以上侵襲を加えるのはよくないと判断したためです。小さな腫瘍は手術をしなくとも処置ができますから。次に手術前の予想以上に肝臓内の癌が多かったことです。卵大のものとは別に、手術前に3個は確認していましたが、手術中に肝臓表面にさらに4個発見しました。肝臓表面にある腫瘍は外部からの超音波検査では発見しにくいのです。これだけ癌が多い上に、残った肝臓にマイクロウエーブ治療をすると、ダメージが大きすぎて正常な肝臓に戻らない恐れがありました。肝臓の切り離した面から出血が多かったことも肝臓にダメージを与えています。それから横行結腸の切除で準汚染手術になったことも理由の一つです。肝臓の火傷の痕は感染しやすいのです。マイクロウエーブの治療は開腹しなくとも、お腹に小さな穴を開けてできます。肝臓の切除と違ってマイクロウエーブは開腹手術でどうしてもしなければならない治療ではないのです。」とK.H.は答えた。「もう一つお聞きしたいのですが、リンパ節の転移はいつ分かったのですか。」と信恭は尋ねた。K.H.は上半身をかがめ腰から20cmほど上の背骨の辺りに手の甲をやり、「大動脈リンパ節がこの辺りにあるのですが、手術前のCT検査でここに転移があることが分かっていました。胃から肝臓への転移は門脈の血流を経由しますが、リンパ節を経由しても転移します。このことはカルテを見れば分かることです。」とK.H.は答えた。雷太は今までの肝外転移発見の時期の説明と違うと気付いたが、真実を聞き出そうと思い黙って聞いていた。

 K.H.との面談後に信恭と雷太は與志廣を見舞った。與志廣の様子は昨夕と変わり、起きているとも眠っているとも分からぬ朦朧とした状態であった。眼鏡をかけさせても意識がはっきりせず、雷太が声をかけるとやっと目を開けて表情を緩めた。しかしすぐに目をつむってしまう。姪の結婚式の写真を見せようとしたが、目は閉じたままで、時々半開きするだけであった。

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第9章 心停止

 

 4日の午後3時20分ごろに中目黒の家の電話が鳴った。雷太が受話器を取った。「東邦大学大橋病院のN.M.です。與志廣さんの容態が急変しました。至急病院に来て下さい。」とN.M.は落ち着き払って用件を雷太に伝えた。幸代と雷太がタクシーで大橋病院に急行した。幸代はタクシーから降りようとしてめまいを起こし危うく倒れそうになった。幸代は雷太に支えられながら與志廣の許に向かった。

 3時40分にICUの入り口のインターホンで雷太が中の看護婦に来意を告げると、少し待ってほしいとのことで15分程待たされた。しびれを切らせて再度インターホンで「N.M.先生から至急来て欲しいと言われてきたのだから、早く父に会わせてほしい。」と告げたが、「お待ち下さい。」の返事が繰り返されるだけだった。

 病室に通されると、與志廣はベッドの上で、上半身に木製の板を敷かされて寝かされていた。ベッドサイドにN.M.が腕を後ろに組んで立っていた。N.M.は、二人が血相を変えて「あなた」「お父さん」と叫んで與志廣に駆け寄る姿を見て一瞬動じた表情を見せたが、すぐに威厳を持たせた顔に戻った。「午後3時ごろにアラームが鳴り、お父さんのモニター画面を見たところ、呼吸と心臓が何の前触れもなく停止していました。普通であれば段々呼吸が荒くなり、脈拍が減り、血圧が下がり、呼吸停止、心臓停止と進むんですが、お父さんの場合あまりに急で原因が分かりません。脳幹部に異常があるとこうした呼吸停止と心停止があるのですが、お父さんは動かせない状態なので頭のCT検査をする訳にもいきません。今日の昼前からおしっこが出なくなっていました。利尿剤で対処しようとしたのですが、血圧が低いとあまり効果が期待できません。尿が出ないと体の中に老廃物がたまり、尿毒症といって数日と命がもちません。これを防ぐためには人工腎臓の透析を行いたいところですが、血圧が低すぎてせっかく蘇生させた心臓をまた止めるリスクがあり、これもできません。」とN.M.は二人に告げて詰め所に入った。與志廣の顔は苦痛でゆがんでおり、黄色目が開いたままであった。雷太が閉じさせても、顔の筋肉が膠着しているためか、すぐに開いてしまった。暫くすると医学書の購入のために出かけていた信恭が駆けつけた。ICU内であるものの、隔離病室なので、信恭と雷太はそのまま與志廣のベッドサイドに居座ることにした。

 午前0時少し前にN.J.が現れた。N.J.は與志廣のベッドサイドに近づくと看護記録を一瞥し、強心剤を増量するよう看護婦の指示を出して、看護婦の詰め所に戻った。與志廣の顔色を覗くわけでもなく、触りもしなかった。暫くするとN.J.は2人に面談を申し込んだ。「今更何を」と思ったが話を聞くことにした。「普段は部下が診ていますが、連休中でも報告は受けています。残念ですがお父さんは難しい状態になっています。夕方の脈の急激な変化は私たちの予想外でした。今日の午前中まで心機能と腎機能は安定していましたが、急に悪くなってしまいました。今は心拍数120、呼吸は人工呼吸で10回です。血液凝固のバランスが狂っており、血栓が脳幹の毛細血管でつまったか、逆に固まりにくい血液が脳幹で出血したかで、脳に障害が起きるとこうした急激な呼吸と脈の変化がありえます。瞳孔が開いていることからも脳の障害が疑われます。脳のCT検査をすれば確定した診断をできるのですが、今の状態ではお父さんを動かせません。」とN.J.は話した。二人はどうせ嘘八百だろうと思っていたが、何を言ったかを記録した。4日の夜から5日の早朝にかけて巡回に来た看護婦がペンライトで瞳孔を観察し、信恭と雷太に「瞳孔の反射がありますよ。」と教えてくれた。人工呼吸器を一時止めても手動の人工呼吸器が自然に膨れたりしぼんだりするのを指して「自発呼吸をしてますよ。」と教えてくれた。N.J.の話はやはり嘘だった。

 

 信恭と雷太は徹夜で與志廣を見守った。雷太は脳死の過程で聴神経が最期まで残ることを本で読んだことがあり、思い出話を始めた。「小さいころ雄仁と信恭、それと雪子もお祖母さんの横で寝ていたけど、僕だけお父さんの布団で寝ていましたね。古い家の二階で僕が先に寝ていてお父さんが後から入ってきました。僕が眠っていないと、絵本を読んでくれました。毎朝お父さんと一緒に起きて魚河岸に行って、仕入れの荷物を積んでミゼット(3輪の小型トラック)で帰りました。仕事が終わった後にお父さんが中目黒の店で段ボール箱のおがくずにはいった玉子をビニール袋に小分けしていたことも覚えています。お父さんは忙しくてあまり遊びに連れていってもらった思い出はないけど、魚商組合や商店街の旅行で鋸山や行川アイランド、軽井沢、富士急ハイランドに行ったことは覚えています。小学校3年の時に学校で左腕の関節を脱臼したけど、駆けつけてくれたのはお父さんでしたね。僕は脂汗をかいて寝ていたけどお父さんが保健婦さんとどの病院が良いか熱心に相談していたのを聞いていました。大きくなってからお父さんと遊ぶ機会が少なくなったけど、ゴルフには何回か行きました。名古屋で一緒にゴルフをやると約束したでしょう。・・・お父さんが僕をこんなに守ってくれたのに、僕はお父さんを守りきれませんでした。医者の言葉を真に受けて手術を勧めて申し訳ありません。お父さんの親戚や友達にも会わす顔がありません。悔しい。」と雷太は泣き崩れた。與志廣はかすかに首を横に振った。信恭が内出血であざだらけになった右腕をさすると手を上げようとしているのか腕の筋肉が硬直した。「お父さんは肝臓の手術で12,000ccも出血してしまったので、こんな状態になってしまったのです。でもお父さんは今まで強かったのだからきっと治りますよね。」と信恭が右手を握ると弱々しく握り返してきた。二人は與志廣に意識があると確信した。「1週間前にお父さんが最初に医者に騙されていたことに気付いたのですよね。もう僕達も分かっていますから安心して下さい。あいつらには必ず責任を取らせます。」と信恭は告げた。「そうだよ。僕達はお父さんから教育を授かりました。専門が違うからいままで騙されたけど、素養ではあいつらに絶対負けないから。」と雷太は告げた。二人は絶やさず語りかけた。朝を迎えるころには心臓蘇生の電気ショックで苦痛に歪み硬直していた與志廣の表情は和らぎ、開きっぱなしだった目は閉じていた。いつもの穏やかな父親の寝顔であった。

 5日の始発の新幹線で雪子が倉敷から上京してきた。昼前に病院に着き、與志廣と会えた。與志廣の一人娘であり、家族にとって一番会わせたかった人であった。

 

 昼にN.M.が現れ、信恭に昨日の心停止の原因は自呼吸ができないので中枢神経の障害によるものと説明した。信恭はまた嘘かと思ったが、黙って聞いていた。

 午後9時ごろにK.H.T.H.ICUに現れた。信恭と雷太が面談に応じた。「体内の電解質のアンバランスが進んでおり、特にカリウムの数値が上がっています。カリウムの数値が高いと、心臓を刺激し、心拍のリズムを狂わせ、最悪の場合心停止を引き起こします。もう一度心停止を起こすと処置は難しいので、ご家族の方は常時付き添っていて下さい。」とK.H.は家族にカリウムの数値に注意するよう伝えた。「手術前にN.J.先生から受けた説明と実際に処置された内容があまりにも食い違っていたことと、2週間前まで普通の人と同じくらい元気だった父が手術を境に生死をさまようほどのダメージを受けたことから、私たちは今回の病院の治療に納得していません。父に万が一のことがあったらカルテや手術記録、各種検査データ、検査写真、切除した肝臓など一式を提供してもらえますか。」と信恭は尋ねた。「この病院ではそうした対応はしていません。これは山口さんのほうがお詳しいでしょうが、しかるべきルートから要請があれば、データは提供します。」とK.H.は答えた。「家族が病理解剖を希望したら病院側で不都合なことがありますか。」と信恭は尋ねた。「問題はありません。この病院でもできます。」とK.H.は答えた。「この病院にお願いする気持ちはありません。別を探します。」と信恭は答えた。「東邦大学のO.M.病院でもできます。」とK.H.は食い下がった。信恭は返事を保留した。

 信恭は、大橋病院がある地域を管轄する目黒警察署を訪問し、警察官と面談した。事情を丁寧に説明し、行政解剖を依頼したが、警察の対応は冷たかった。病院に入院して死亡した事件は警察の担当外と言われた。さらに知人を通じて他の大学病院での病理解剖の可能性を探ったが、難しかった。「他の病院で死亡した遺体の解剖はやらない。」という情報だった。前後して信恭はP医師と何度か話し合い、結局東邦大学O.M.病院での解剖を受け入れることにした。

 6日の昼前にN.M.医師がICUに現れ、カリウム吸着の血液透析を勧めてきた。その場に居合わせた信恭は第3外科の医師達を信じられずF.H.医師を呼ぶよう要請した。午後1時半過ぎにF.H.医師が現れ、雄仁、信恭と雷太が応対した。「N.M.先生からカリウム吸着のための血液透析を勧められているのですが、効果とリスクを教えて下さい。」と信恭は尋ねた。「カリウム除去の透析は心運動の安定には効果があり、体にあまり負担はかからないのですが、それでも最初に数百ccの血を抜きますので、お父さんには血圧低下と心停止を招く恐れがあります。」とF.H.医師は顔を強ばらせて答えた。「カリウム吸着をすれば父の全身状態はよくなるのですか。」と信恭は結論を急かせた。「自分は透析の専門医ですが、主治医でないので、お父さんの診断の全般的なコメントはできません。」とF.H.医師は言葉を濁した。「それでは一般論として、劇症肝炎で肝性脳症昏睡度5度、血圧の上が40から60、腎機能障害でおしっこが出ず、カリウムの数値が上がってきた患者に、カリウム吸着をするかどうか教えていただきたい。」と信恭は詰め寄った。「一般論ですが、肝臓と腎臓の機能が戻るまで必要な血液透析をするとしても死亡率は95%です。」とF.H.医師は答えた。三人はカリウム吸着を断ることにした。後日の調査で判明したことだが、5月6日の與志廣の血中カリウム値は3.2であり、正常値3.3〜4.8より下であった。

 

 急を聞きつけて遠方から與志廣の親戚が病院に駆けつけた。すでに意識はなく、黄疸で全身の皮膚が黄色に染まり、両肘は血液凝固不全による内出血で紫色に腫れ、足はパンパンに張り、腹部に3本入っているドレーンの貯留タンクには血液と腹水の濁った液がたまっている様子を見て、来訪者は言葉を失い、退室していった。雷太は、「私たちがいたのにこんなことになり、申し訳ありません。」と頭を下げるのが精一杯だった。まだ詳しい事情を知らせていない與志廣の長兄は「生きとし生けるもの最期はこうなるんだ。息子が謝ることはない。ご苦労さん。」と言いながらも肩を落としていた。

 処置をするのでという理由で雄仁と雪子がICUの外に出されていた午後3時6分に二度目の心停止が起きた。N.M.の蘇生術で心拍が再開したが、家族は相談の上今度心停止が起きたらもう蘇生術をしないよう伝えた。幸代、恵美子、雄仁、信恭、雷太と雪子は代わる代わる枕元で與志廣に語りかけた。幸代は気分が悪くなり、病院の前にあるタイシンホテルで休むことにした。もう自分はお父さんに別れを告げたので臨終は子供達が看取ればよいと言い残した。恵美子は中目黒の自宅を長く空ける訳にいかず、戻った。

 午後7時過ぎに処置をするのでという理由で家族はICUから出されたものの、暫くして看護婦が急ぎICUの中に来てくれと呼びに来た。與志廣の心電図は平坦であり、心拍とともに鳴っていた電子音が消えていた。ベッドの向うでN.M.T.H.が無表情で腕を後ろに組んで立っていた。「人工呼吸器を止めて良いですか。」とN.M.は尋ねた。四人の子供は頷いた。T.H.がスイッチを切り、與志廣の胸の動きが止まった。「午後8時3分です。」とT.H.は言った。駆けつけた幸代と恵美子はまだ暖かい與志廣に接することができた。

 

 遺体を霊安室に移す際、信恭はN.M.に「病理解剖をO.M.病院にお願いすることになっているので、明日詳細を打ち合わせさせて下さい。」と伝えた。N.M.は表情を変え、「こんなに一所懸命に治療をしたのに、家族が信頼せず、外の病院に病理解剖を依頼するとは不本意です。疑問があるなら何が疑問なのか言ってください。」と強い口調で言った。信恭は「N.J.先生から他の臓器に転移がないと聞いたから手術を承諾したのです。父の死に納得していません。」と言った。言い合いになりそうであったが、雷太が間に入り、「若い先生と看護婦さんが父のために二週間昼夜を問わず治療と看護をして下さったことには感謝していますが、経過が事前の説明とあまりにも食い違っているので私たちなりに納得できる調査をするつもりです。これからはしかるべきルートを通じて話し合いましょう。」と告げた。N.M.はこれを聞いてICUの中へ戻っていった。その横顔に笑みが浮かんでいることを信恭と雷太は認めた。

 午後11時前に家族が霊安室で焼香をしていると、皺のない真新しいライトブルーの手術服に首からマスクをぶら下げたN.J.医師が現れた。「いやあ緊急の手術が入りご挨拶が遅れました。お悔やみ申し上げます。」と言って一礼すると焼香してそそくさと立ち去った。家族がN.J.医師を見るのは4日の深夜以来であった。

 

 遺体は翌日に東邦大学の手配で大橋病院からO.M.病院へ搬送されるとのことで、家族は與志廣が4月20日に荷造りして5階病棟に残していった段ボール箱を持って帰宅した。雷太は段ボール箱の中に司馬遼太郎の街道を行くシリーズ・オホーツク街道の文庫本を見つけた。途中に折り目があり、しおりがはさんであった。

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第10章 解剖

 

 翌7日の午後1時半ごろに遺体はO.M.病院の解剖室に搬送された。詰め所で信恭と雷太、雪子が待機した。信恭は解剖で調査してもらいたい事項として以下のメモを用意していた。

 

解剖により見て頂きたい点

. 死因 (多臓器不全?)

. 急性肝不全の有無・程度

. 肺炎、腹膜炎、心臓障害、腎臓障害、肝性脳症、血液凝固不全の有無、程度

4.     4月21日実施 肝切除術での合計12,000ccの出血及びその後死亡まで継続した出血と急性肝不全の因果関係

. 急性肝不全と死因との因果関係の有無

. 本人に行われた計3回の手術結果(痕跡)

@       4月21日 午前9時 - 午後9時 の 肝切除術 特に肝の切除部位。(後区域

    切除及び尾状葉部分切除か)

    執刀医の説明 : (1)前の胃癌手術による肝・右副腎・右腎臓・下大静脈・横

                                  行結腸癒着剥離、

             (2)肝の後区域及び尾状葉部分切除、

                          (3)横行結腸の切除、

  A 4月21日 午後11時以降に行われた肝動脈閉塞術

    執刀医の説明 :  癌からの出血を阻止するため動脈閉塞する。

  B 4月30日 午後5時以降に行われた腹腔内洗浄術、人工肛門作成

    執刀医の説明 :  横行結腸の縫合が3分の1破れていたから、一部切除にて人

                            工腸管にし、人工肛門を装着し、腹部内を洗浄した。

7.      4月21日実施の肝切除において、尾状葉部分切除で6,000cc出血したというが、

     その出血部位と出血理由。

8.      4月21日の肝切除から5月6日の死亡まで継続的に手術部位から出血があったが、そ

     の出血部位及び出血理由

. 残肝内悪性腫瘍の有無・程度

10. 腹腔内リンパ節転移の有無

11.      前回(3年前)の胃癌手術による肝・下大静脈・右副腎・右腎臓・横行結腸の癒着を

      4月21日肝切除術で剥離したが、下大静脈の癒着は表側のみ取り、裏側は残したと

      いうが、下大静脈の癒着は右の通りか。

12.      4月30日の手術(6ーB)の際、横行結腸の縫合が三分の一破れていたというが、4月21日の横行結腸縫合は十分であったか。

                                                 以上

                                             山口信恭

 

 暫く待っていると白髪に薄い金縁の眼鏡をかけた男が現れた。年は60半ばに見えた。白衣にスリッパを履いていた。「病理科のM.M.です。この度はお悔やみ申し上げます。P先生から、大橋病院で亡くなったものの、こちらでの解剖をご遺族が希望なさったと聞きました。」と丁重な口調でこの男は言った。三人は各々自己紹介し、信恭が代表して話を始めた。「こちらの依頼を受けて下さり、ありがとうございます。父は大橋病院で昨日亡くなりましたが、治療方法と死亡までの経過について家族は納得していません。解剖の費用はこちらで負担しますので、私どもが調査して頂きたいと希望している事項、ここにメモがありますが、について報告書を作成して下さい。」M.M.はメモを読むと「分かりました。人の解剖特にご親族の解剖は見学者にとって負担が大きいものです。お恥ずかしい話ですが、私が若いころ初めて解剖に立ち会った時には気を失ってしまいました。宜しければこちらでお待ち頂ければ解剖結果を後で説明します。」と申し出た。「いえ、私は職業が裁判官で、解剖見学の経験があるから大丈夫です。この二人も立ち会いを希望しています。」と信恭は答えた。「分かりました。それではサンダルにはきかえて、解剖室に入って下さい。気分が悪くなったら遠慮なく言って下さい。」とM.M.は奧の解剖室に三人を案内した。

 解剖室は小学校の教室を一回り小さくしたくらいの大きさであった。床はタイル張りであり、木製のサンダルで歩くとカランコロンと大きな音がした。教室の教壇がある付近が少し高くなっており、石でできたベッドに與志廣が裸で横たわっていた。解剖学教室の医師数名が遺体を遠巻きに囲んでいた。水道設備と一式になっている理科の実験室にある机が教室の真ん中と後にあり、M.M.は後の机の後側で待機するよう三人に伝えた。三人から見て父の遺体は10メートルくらいの先であった。大橋病院からK.H.T.H.が来ていた。

 「それでは始めて下さい。」とM.M.教授が言うと、遺体の側にいた助手が手に出刃包丁を持ち、遺体の胸部と腹部を中央から切開した。喉元から下腹部まで一気に包丁が進んだ。次に鎖骨の当たりを左右に切った。雷太は生前の父が大きな魚をおろす包丁捌きを思い出した。助手は切り口を両手で持ち、皮膚を両肩側に開いた。皮膚と皮下組織は合わせて1cm位の厚さに見えた。内側は赤黒かった。胸部に肋骨、腹部に渋い黄色をした腹膜が見えた。助手はペンチで肋骨を一つ一つ切断した。パリバリと大きな音がした。音が終わると肋骨が取り払われた。なまこのような色をした肺が見えた。内臓が露になると、M.M.教授が與志廣の傍らに立ち、出刃包丁で切り込み始めた。横にK.H.医師がおり、ときどき2人は話をしていたが、3人には聞こえなかった。その横で助手2人がお玉で腹腔部にたまっていた血液と腹水の混合液をすくい、2リットルほどのビーカーに入れていた。色が赤黒かった。M.M.教授が胸から握り拳のようなものを取り出し、洗面器に入れて3人の側に持ってきた。「これが心臓です。」と説明した。3人は手を合わせた。心臓はその場では切開されず、写真撮影の後に、別室に移された。M.M.教授は遺体の側に戻ると5分程出刃包丁とはさみで捌き、胸から腹にかけての大きな一塊を両手で取り出し、大きな洗面器に乗せた。助手が三人の目の前の机においた。「これが肺から腸までの臓器一式です。背中側が表になっています。これで胸部・腹部の臓器は取り出しましたが、頭部を取り出す必要はありますか。」とM.M.教授は尋ねた。信恭は、N.J.医師とN.M.医師が5月4日に中枢神経異常で心停止が起きたと言っていたが、嘘だと確信していたことから頭部の解剖は必要ないと思った。父の顔が傷つくことを嫌い、断ることにした。「それでは胸部と腹部の臓器の切り分けを始めます。」と言ってM.M.教授は包丁を持った。暫くすると赤黒い臓器がまな板の上に乗った。周囲に直径5ミリから1センチの白カビのような斑点が10数個あった。雷太が4月21日に見た肝臓の片割れであった。「この白っぽい部分が癌です。肝臓には弾力性があり、肝細胞が大量に死んでいるわけではないと思います。」と言ってM.M.は三人に薄いゴム製の手袋をつけさせ、肝臓に弾力性があることを示した。「下大静脈や肝内の静脈に損傷はないので、この場で出血個所を特定することはできません。この部分は鮮血ですね。これは別途調査します。」と言ってM.M.教授は肝臓に付着した赤黒い血液に際だつ鮮血の部分を指した。三人は肝臓内や近辺に下大静脈の他に門脈と肝動脈があることをこの時知らず、この指摘が何を意味するか理解できなかった。解剖の進行に付いていくのがやっとであった。M.M.教授は、肝臓に続いて、腎臓、肺、膵臓と次々に臓器がまな板に乗せて切り刻み、「DICのため腎臓が肥大しています。」「胃癌手術のため、小腸の癒着が多いですが、腸間膜の転移はありません。」「内臓出血が多いです。」「リンパ節の転移も進んでおり、組織として機能していません。」と三人に告げた。さらにM.M.教授は、左副腎を切り開いた際、「左副腎に転移があります。」と述べ、これをT.H.医師と雷太がメモした。「各臓器とも機能不全があったと診断します。あと膵臓に炎症があれば、多臓器不全があったと診断できるのですが、」と言ってM.M.教授は包丁で膵臓を縦に刻んだ。「ああここにも炎症がありますから、死因は多臓器不全で良いと思います。」と皆に告げた。切り開きが終わった臓器は写真撮影の上、別室に運ばれていった。助手が解剖を終えた與志廣の遺体に新聞紙を詰めた上、傷口を畳針のような太い針で縫っていた。

 洗面器の中の臓器が無くなると、M.M.教授はK.H.医師と三人に対し、「死因は多臓器不全にしたいと思います。第3外科が作成した死亡診断書では直接の死因が「肝不全」になっていますが、解剖所見の死因は「多臓器不全」として下さい。これから顕微鏡で各臓器の細胞検査を行い、正式な解剖診断を行います。報告書作成には1ヶ月位かかります。」と述べた。K.H.医師と三人は死因を「多臓器不全」とすることを了解し、K.H.医師はその場で死亡診断書に記入した。

 

 三人は、死因が解剖を経て肝不全から多臓器不全に変更になったこととM.M.教授が左副腎とリンパ節の転移を認めたことで、大橋病院の第3外科とO.M.病院の病理科は独立した別組織であり、今後は大橋病院のN.J.医師以下が行った悪行の数々がM.M.教授の解剖報告書で明らかになると期待した。この期待まで裏切られたと分かるのは随分と後のことである。

 

 遺体は午後5時頃に中目黒に戻った。3月31日に自宅を出て以来、37日ぶりの帰宅だった。知らせを聞いて親族や知人が集まっていた。皆與志廣に何が起きたのか理解できない様子であった。見頃になったベランダの藤の花を愛でる人はいなかった。

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第11章  真相究明開始と解剖報告書

 

 雷太は、遺体の横に與志廣が愛用していた和机を置き、通夜の線香を捧げながら、経過記録を書き続けた。心の中で父を失った悲しさよりも騙された無念さが勝っていた。信恭は葬儀の合間に司法修習で同期であった北澤純一弁護士(200310月に裁判官に任官)を訪ねた。北澤弁護士は、医療過誤が専門でないものの、知り合いの弁護士の中で稀に見る創造力があり、力強さを持っていると信恭は評価していた。北澤弁護士の提案で医療過誤が専門のH弁護士に参加してもらい、胃癌退院後の経過観察以降解剖までのカルテ一式を証拠保全で入手することにした。

 信恭と雷太は、転移性肝癌の病態、転移性肝癌の手術の適応、肝切除の手技、肝不全、術後合併症、ショック、DIC、敗血症、多臓器不全と片っ端から専門書を買い求め、読み込んだ。雷太は医事法学の書籍も買い求めた。医学書は一冊数千円から数万円するが、毎週医学書売場がある書店に通っては惜しみなく買い込んだ。8月に証拠保全のカルテが到着するまでに信恭と雷太はかなりの専門知識を身につけていた。肝臓は、体内の化学工場と呼ばれるほどさまざまな代謝機能を有しており、体内で発生したビリルビン、アンモニアといった化学物質の解毒作用や、血液凝固因子の生成もすること、解剖について、@肝臓には門脈が8割、動脈が2割の血流を供給し、門脈と動脈は肝内をグリソン鞘と呼ばれる管の中を並行して走っていること、A門脈・動脈は下から肝臓に入り、その直前で左右に分かれること、B左から血流を得ている箇所を左葉といい、右から血流を得ている箇所を右葉ということ、C左へ分かれた門脈・動脈はさらに3つに分岐し、各々の血管から血流を得ている肝臓の箇所は独立しており、2番3番4番という番号を付けられていること、D右に分かれた門脈・動脈は前後に分かれた後に上下に分かれおり、ここでも肝臓は血流毎に区分でき、5〜8番の番号が付けられていること、E静脈は肝臓の右、中、左に走っており、各々右肝静脈、中肝静脈、左肝静脈と呼ばれていること。これら3本の静脈は肝臓の上から出て下大静脈につながること、F下大静脈と3本の肝静脈にはさまれた箇所を尾状葉といい、左右両方の門脈・動脈から複雑に血流を得ている箇所で、1番の番号がつけられていること、G以上の通り肝臓は血流支配ごとに8つのブロックに分けられ、肝切除術はこのブロック毎に行われること、を知った。転移性肝癌の手術適応は、@原発巣がコントロールされている、A手術が安全に施行できる、B他臓器に転移がない、C肝臓内の腫瘍が全部取りきれる、を全て満たすことであることを再確認した。與志廣の場合、@肝門部と大動脈のリンパ節に転移があり、原発巣のコントロールできていない、A尾状葉を見通しの悪い手探り状態で切除したと聞いており、安全性に疑問がある、B左副腎に転移があったと聞いており、他臓器転移の条件を満たしていない疑いがある、C肝臓内の腫瘍は取り切れていない、のであり、肝切除の適応は皆無と思われた。また尾状葉切除という術式はあるものの、この部位は大血管が複雑に入り組んでいて他の部位と比べ大出血などの危険性が高いことから、外科手術は滅多にしないことと、やむを得ず外科手術せざるをえないとしても背中からアプローチし十分な視野を確保すること、も知った。肝臓が手術の大量出血などで一定レベル以上の侵襲を受けると、肝不全に陥り、血液凝固不全、肝性脳症(意識障害)が起きることや、大量出血でショック状態が長引くと血液中に大量の活性酸素が発生し、身体全体に炎症反応が起きるとともに血液中の凝固因子が血液中で固まってしまい汎発性血液凝固不全(DIC)が発症すること、身体全体に出血傾向を伴う炎症反応が起きると臓器が機能不全に陥るとともに感染症にかかりやすくなること、こうした悪循環は手術の一週間後に現れ、その1ー2週間で肝不全、腎不全、肺水腫、心不全などの多臓器不全、出血傾向、感染症などの合併症を併発しながら死亡する、との知見も得た。與志廣がたどった経過そのものであった。

 

 7月7日にO.M.病院のM.M.教授から信恭へ解剖報告書が届けられた。解剖費用の請求書がないので問い合わせたところ、病院側で負担するとの回答であった。信恭は誰が費用を負担しようと、解剖報告書には真実が記載されているだろうと思い、病院の申し出に従った。

 

山口信恭様

                                    東邦大学医学部

                                 O.M.病院病理学研究室

                                       M.M.

 

拝啓

大変遅くなりましたが、御尊父山口與志廣様の病理解剖をさせて戴きまして、その病理解剖学的診断、臨床病理学的診断についての質問事項について、別紙の様にご報告させて戴きます。取り急ぎ用件のみにて失礼させて戴きます。 敬具

 

病理解剖学的診断

A. 胃癌術後再発 (高分化型管状腺癌)

  転移 : 残肝、両肺、左腎、 リンパ節 : 傍気管、傍大動脈、後腹膜、

 1. 胃亜全摘術後、Bil-T法、3年3ヶ月後の状態

 . 肝臓右葉後区域、尾状葉1 / 2切除 + 横行結腸切除端々吻合術 + 右副腎切除術後

 . 横行結腸切除端々吻合術後、汎発性腹膜炎、人工肛門造設術 + 血腫除去 + 腹腔内

洗浄後の状態

 . 右副腎摘除

 5. 肝動脈塞栓術(TAE)

B. 肝臓切除部血腫形成、限局性壊死、肝うっ血(肝臓切除部に癌細胞残存、同部より出血、1,910g

横隔膜を含む。)胆汁うっ滞

C. 右腎被膜血腫付着、ショック腎 + 黄疸腎、 230 : 175g

D. 肺うっ血水腫 + 出血、 間質肺炎(ショック肺)、 620 : 520g

E. 汎発性腹膜炎 (化膿性、 相互癒着高度)

F. 心外膜出血、 広範性、 左心肥大、 軽度、 310g

G. 感染脾、 135g

H. 出血傾向 : 皮膚右下腿広範性(ビランを伴う)、心外膜、膀胱、消化管(粘膜及び漿膜に点在)

I. 左副腎 : 自己融解

J. 胸水 : 350 : 400ml 琥珀色

 

臨床学的事項の要約 :

 胃癌術後再発で、転移性肝癌に対して、平成9年4月21日に肝臓右葉後区域と尾状葉1 / 2切除術を施行され、同部分は下大静脈と右肝静脈が存在する部位で、癌組織が残存していることが明らかであったが、大血管の損傷を避けて肝臓に対しての手術は終了している。同時に横行結腸への癌の浸潤が疑われ、横行結腸端々吻合術と右副腎の癌転移のために右副腎切除術が行われた。

 この際に約12,000mlの出血が認められ、大量輸血が施行されたが、ドレーンより持続する出血を認め、急激な血圧低下を来たし、急速輸血施行後、止血目的にて右肝動脈塞栓術を施行し、劇的に出血は停止した。その後総ビリルビン値、血中アンモニア値が徐々に上昇、凝固系にも改善が見られなかった。

 同4月28日に汎発性腹膜炎が併発し、4月30日には呼吸状態悪化、血圧低下を認め、状態不良なるもエンドトキシンショックを考え、人工肛門造設術+血腫除去+腹腔内洗浄が施行され、エンドトキシンショック吸着療法が行われている。その後、喀痰よりMRSAが検出、心停止、無尿、BUN、クレアチニン上昇し腎不全を併発し、再度心停止、心拍再開するも心拍停止し、死亡が確認された。

 

臨床病理学的考察 :

 病理学的には、肝臓切除部からの大量出血が第一の問題点である。病理解剖学的に肝臓の切離面には凝血が付着し、高分化型管状腺癌の組織像を呈する癌組織の残存と抹消血管からの出血が認められるが、下大静脈、右肝静脈の損傷は見られなかった。また、右肝動脈塞栓術を施行した領域の肝臓組織の限局性壊死巣は認められるものの、その他の肝臓組織には壊死巣はなく、肝うっ血と胆汁うっ滞を伴い、肝臓組織は保たれた状態である。しかし、検査データでは、総ビリルビン値、アンモニア値の上昇と血液凝固不全機能の改善が認められず、肝不全が疑われている。

 病理学的には大量出血に伴う、大量輸血(急速輸血を含む)による凝固系の活性の機能低下の可能性とビリルビン値の上昇を来した可能性が示唆される。

 またその後汎発性腹膜炎を来し、臓器所見として急性脾炎(感染脾)、間質性肺炎が見られ、臨床的にも喀痰よりMRSAを検出し、臨床的にも呼吸状態の悪化、血圧低下などから、エンドトキシンショックを考えており、病理所見でも、エンドトキシンショックによる微小循環系の透過性亢進、抹消循環血量の減少、血液量の減少などが上記出血所見と凝固系活性低下などに加えて、腎不全(慢性的ショック腎)、肺うっ血水腫+出血(ショック肺)などの像を呈したものと思われる。

 その他に凝固系活性低下に伴い、出血傾向(肺出血、皮膚下腿広範性出血(ビランを伴う)、心外膜出血、膀胱粘膜出血、消化管の粘膜面の漿膜面からの出血班散見)が認められた。

 以上の所見から、死因は大量輸血による凝固系活性低下によると思われる出血傾向とエンドトキシンショックが原因と思われるショック腎、ショック肺などの多臓器不全が考えられる。

 

病理解剖所見についての質問事項への回答

1.    死因は、別紙の様な経過で、最終的には凝固系活性低下による出血傾向と多臓器不全が考えられます。

. 急性肝不全の有無については、出血巣の原因にはなりますが、残存肝の形態学的な壊死像はなく、肝不全とは断定できません。

. 肺炎(間質性肺炎は炎症細胞浸潤は軽度ですが、肺胞壁の繊維性肥厚が強く、加えて、うっ血性水腫と肺胞内出血が見られております。)

  腹膜炎は、汎発性腹膜炎(縫合不全に伴う)で前回の胃手術の際の影響も加わって相互癒着は高度です。

  心筋の組織像には梗塞などの障害はなく、心外膜出血と軽度左心室肥大が見られます。

  腎臓はショック腎の状態です。

  肝臓は、右肝動脈塞栓術を施行した領域の限局性壊死巣は見られますが、その他の肝組織は、うっ血と胆汁うっ滞を認め、肝臓組織の壊死は見られません。総ビリルビン値、アンモニア値の上昇があり、凝固系活性低下によるものと思われ、肝性脳症の臨床症状があっても矛盾しないと思われます。

. 4月21日の肝切除での合計12,000mlの出血とその後の継続出血と急性肝不全との因果関係の有無については、出血に対しては、相当量の輸血が行われており、肝機能の高度の低下は4月23日の検査データで認められてますが、その前後は改善し、5月6日のデータで軽度機能が低下しています。上記にも記しましたが、急性肝不全はないと思われます。

. 急性肝不全と死因との因果関係について

  死因は、凝固系活性低下による出血傾向、ショック腎、ショック肺所見からの多臓器不全と考えられます。

. 本人に計3回行われた手術結果(痕跡)

  ♯1〜3については、臨床医の報告の通りで、病理解剖診断の記載項目に記載してある通りです。

. 4月21日の肝切除、尾状葉部分切除で、6000mlの出血したというが、出血部位、出血理由について

  尾状葉の部位には転移癌組織があり、下大静脈、右肝静脈があり、転移癌組織は全部切除出来ず、癌組織が残存しており、同部癌組織と抹消血管からの出血が形態学的に見られました。

. 4月21日の肝切除術から5月6日死亡まで継続的に手術部位から出血があったが、その出血部位及び出血理由。

  出血部位は肝臓切離面、出血理由は、凝固系活性低下による出血傾向と考えます。

. 残肝内の悪性腫瘍の有無、程度

  転移性癌は、指頭大から硬貨大までのものが、十数個散見されており、卵大のものの明らかなものはありませんでした。

10. 腹腔内リンパ節転移

  大動脈周囲(傍大動脈)、左副腎周囲を含む後腹膜リンパ節に多発性転移を認めます。

11. 前回胃癌手術時の下大静脈の状態は、記載の通りで、後面は、大血管系であるために、剥離はしていないと思われます。

12. 4月30日の横行結腸の再縫合は、縫合不全などはなく、完全縫合されていました。

                                            以上

 

 後日家族はこの病理解剖報告書にまで多数の事実と異なる記載があることを知ることになる。

 証拠保全の手続きは、5月末に東京地裁に証拠保全の申請をし、7月15日の実施が決まった。当日は、実施の1時間前に執行官が証拠保全決定を病院側に届けた上で、裁判官と北澤・H両弁護士が病院を訪問の上、保全すべきカルテ・写真などを取り押さえ、専門業者にコピーを2部取らせた上で、正本は病院に戻し、コピー1部をH弁護士へ、もう一部を裁判所が保管する段取りにすることまで決められた。

 7月15日の昼過ぎに裁判官と北澤・H両弁護士が大橋病院を訪れると、事務担当者が応対し、カルテは厚木の倉庫に保管してあるので提出には応じられないと断ってきた。証拠保全の手続きは指定した場所に証拠がないと、そこで失効してしまう。H弁護士は書庫の保管台帳で病院側の説明を確認した。裁判官が両弁護士と病院の間の調停に入り、病院側に任意で7月18日にカルテを提出することになった。全てのカルテの開示を受けられるか不明であったが、なす術がなかった。大橋病院は医療過誤事件の対応に慣れている様子であった。

 開示されたカルテは裁判所の指定業者の複製作業を経て、H弁護士経由8月2日に信恭の許に届けられた。信恭を中心にしたカルテの分析が始まった。カルテ分析の詳細はカルテ等検討報告参照

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第12章  肝臓切除前検査の実態調査

 

 証拠保全で差し押さえたカルテの調査と当時付き添った家族の記憶で明らかになった事実と問題点である。

 

(1) 胃癌治療の退院後の経過観察

 與志廣は胃がん手術を経て平成6年1月21日に退院後、定期的にN.J.の診察と腫瘍マーカー検査を受けていた。腫瘍マーカー検査は、癌細胞の存在により生成される物質を検出することにより、癌の再発・転移を予知する検査であり、この検査で異常値が出た2〜6ヶ月後に画像検査で異常が発見される場合が多い。與志廣が受けた腫瘍マーカー検査の内、STN抗原は胃癌特有のもので、正常値は45以下であるものの、與志廣の数値は平成6年3月31日に29、平成6年10月11日に44と徐々に上がり、平成7年7月20日には59、平成8年5月16日には65と正常値を越えていた。しかしN.J.はカルテに「異常なし」と書き、本人にも異常を教えなかった。平成8年6月4日の超音波検査とX線検査では異常は発見されなかった。半年後に当たる同年12月18日に超音波とX線の再検査を予定していたが、與志廣が11月12日実施の定期健康診断で「胆嚢超音波検査 異常なし」と記載のある報告書を持参したことを理由に、N.J.は再検査を取り止めていた。平成9年2月13日に與志廣がN.J.に体の異常を訴え、翌14日に胃内視鏡検査では異常がなかったが、2月24日の腹部超音波検査で胃癌転移が疑われる影が肝臓に発見された。N.J.が與志廣に超音波検査の結果を伝えたのは3月1日、次の検査である腹部CT検査は3月14日、結果を與志廣に伝え検査入院を指示したのは3月27日であった。腫瘍マーカー検査で異常値が出た場合、1〜3ヶ月毎に画像検査を行うと専門書に書いてあり、平成8年6月4日から平成9年2月24日まで8ヶ月余りも画像診断をしなかったことは不自然であった。また2月24日の超音波検査で胃癌の肝転移の診断がなされていたにもかかわらず、3月27日にN.J.医師が検査入院を唐突に指示するまでに行ったことはCT検査1回だけであり、1ヶ月以上放置しているかの状態だった。與志廣は2月24日の超音波検査直後に「いつもは話好きな検査技師が今回に限って下を向いて黙っていたので心配だ。」と幸代に話しており、3月14日のCT検査後に與志廣の方から検査の結果を聞こうと何度もN.J.の診察日に大橋病院を訪れていたにもかかわらずである。

 

(2) 転移性肝癌の発見から入院までの検査

 2月24日の腹部超音波検査診断記録の抜粋である。(参照資料12 2月24日の腹部超音波検査の診断記録

 

肝   ガスで一部不明瞭

    辺縁鈍く、表面ほぼなめらか

    実質エコーはやや粗で不均一

    左図の如く、S7(右葉後上区域)にややぶら下がった形で直径40ミリの塊認める。

    ハロー(辺縁低エコー帯)有り、 内部エコーは周囲よりエコーレベルが高い。

    モザイクパターン(肝細胞癌の特徴)とはいいがたい。

    ややCLUSTER様(ぶどうの房のように粒が集まって一塊になっている様子)

    中心部壊死無し

胆   腫れ無し 壁の肥厚無し 描出内石、ポリープ無し 総胆管はよく写らない

膵   実質やや周囲よりエコーレベルが高い。描出内明らかな塊無し

脾   描出不能

腎   左右とも問題なし

超音波診断

・ 肝転移

・ 肝の障害が拡散している疑い

 

 N.J.K.H.が肝内の卵大の癌と説明していた病変部は、実は直径4cmを最大とする小さな癌のぶどうの房状(cluster = 房)の集合体であった。卵大の癌は存在しなかったのである。(参照資料13 この点は4月7日に実施された超音波検査でより明確になっている。N.J.の説明と異なり、この転移巣の中心部に壊死がなかったことも分かった。さらに雷太の調査で、胃の高分化型管状腺癌の肝転移巣は血流に乏しく、破裂することはないことが判明した。

 N.J.は4月12日に、K.H.は4月18日に、肝切除が必要である主な理由として肝臓にある卵大の癌が破裂の回避がある、と説明していた。4月21日の手術直後に幸代が切除標本を前に卵大の癌を示すよう依頼した際、K.H.はホルマリンにつけられた切除標本を指でくるくる回して「見当たりませんね。溶けちゃったかな。」と言っていた。K.H.は5月3日に肝切除前に肝外転移の事実を知っていたと家族に告白した後も、卵大の癌の破裂の予防が肝切除実施の理由だったと釈明していた。これらは真っ赤な嘘だったのである。

 

 3月14日の腹部CT検査記録の抜粋である。(参照資料1 3月14日の腹部CT検査の診断記録)(参照資料15a15b   3月14日の腹部CT検査の画像

 

肝   S6(右葉後下区域)を中心とした直径40ミリの転移性肝腫瘍を認めます。肝両葉に5ミリないし10ミリ程度の多数の転移性腫瘍の散在あり

胆   問題なし 総胆管 正常範囲内

膵   膵後部に直径20ミリのリンパ節腫大あり

脾   脾内にも転移性腫瘍あり

腎   問題なし

副腎  両側とも腫大

腹部大動脈周囲リンパ節腫大あり

胃   胃亜全切除術

診断

・ 胃 胃亜全切除術

・ 転移性肝腫瘍

・ 腸間膜根部リンパ節、腹部大動脈周囲リンパ節腫張

 

 3月14日のCT検査で両副腎に転移があることが診断されていた。さらに脾臓にも転移があった。N.J.は4月12日家族に「肝臓の他に転移は発見されていません。さもなければ最良の選択肢として手術を勧めません。」と明言していたが、これも真っ赤な嘘であった。

 転移が診断されている左右副腎と脾臓に疑問があった。左副腎は、5月7日の病理解剖の現場でもM.M.教授は「転移がある」と言っていたが、病理解剖報告書には「自己融解」と書いてあった。右副腎は解剖報告書に「切除術後、摘除術後」とあった。両副腎が存在しないで生体を維持できるはずがなかった。脾臓は「感染脾」と書いてあった。解剖報告書に真実が書かれていないと信恭は疑った。

 3月27日のN.J.記載の第3外科のカルテに、「S6、7の転移、下大静脈浸潤あり。S3、2、4の小腫瘍 肝円索の低吸収域 腸間膜根部リンパ節、腹部大動脈周囲リンパ節腫張! 患者には『良性肝腫瘍でとりあえず手術が必要かも』と説明」とあった。(参照資料16 3月27日のN.J.記載のカルテ)3月29日にN.J.は信恭と雷太に「31日から與志廣に2ー3週間入院してもらい、転移性肝癌の転移の度合いを診断するとともに、適切な治療法を検討する。手術ができればよいが、肝臓の外に転移が発見されれば切っても意味はない。」旨説明していた。N.J.は肝臓以外に転移があることを知りながら、與志廣や家族にこれを伏せて肝切除実施を示唆したことになる。N.J.は與志廣が入院する前の3月27日の時点ですでに何らかの動機で肝切除をやる意思を持っていたと推定できた。

 3月27日に行われたX線検査と心電図検査の依頼医師に「K.H.」とあり、遅くともこの時点でK.H.が関与していたことも分かった。

 

(3)入院から肝切除術までの検査

 

 與志廣は入院後に手術を受けるための一般的な検査しか受けておらず、N.J.K.H.が転移性肝癌患者の肝切除術適応の是非を検討した形跡がなかった。どの専門書にも、転移性肝癌で肝切除の適応を判断するに当り肝臓以外への転移を診断するために全身CT検査と骨シンチグラフィー検査が必須である、と解説があるが、カルテと診療報酬明細書からこれをやっていないことが分かった。5月7日の病理解剖で両肺への転移が指摘されているが、術前に肺転移を診断するために適した検査である胸部のCT検査をやっていないので、診断されなかったのである。さらにどの医学書にも、術後肝不全の予防のため肝切除後の正常な残肝の量と機能が生体を維持するために十分かを評価するとの解説があるが、N.J.K.H.はこれも怠っていた。

 N.J.らは4月7日に肝内の血管造影(アンギオ)とTAE(肝動脈塞栓術)を行っていた。TAEは、肝臓の正常な細胞が80%の血流を門脈から20%を肝動脈から得ているところ、癌細胞がほぼ100%肝動脈から血流を得ているという特徴の違いを利用して、肝動脈を塞ぎ、癌細胞を死滅させる治療法である。足の付け根にある動脈からカテーテルを入れて、病巣に血流を送っている肝動脈をゼラチン状の物質を流し込んで塞ぐ。副作用として肝臓の正常細胞にもダメージを与え最悪の場合肝不全を引き起こす危険があるので、身体へ侵襲を与える手術に準じる治療とされ、患者側の同意取得が義務付けられている。しかし與志廣の場合、患者や家族に4月7日にTAEを実施する旨の事前説明をしておらず、血管造影(アンギオ)の同意書しか取っていなかった。4月12日にN.J.が家族に治療法の一つとしてTAEを紹介していたが、すでに実施済であったのである。医学書にTAEの治療効果を判定するには2週間から1ヶ月の時間をおいて腫瘍の大きさを測定すると解説があるが、與志廣には4日後の4月11日に腹部CT検査をやっているのみで、効果判定を実施していなかった。

 血管造影の写真には、転移性肝癌特有の二重リングが多数写っており、特に残肝側の左葉に直径30ミリの最大の腫瘍を始め、10ミリ程度の小腫瘍が多数あった。(参照資料17a17b 4月7日の血管造影検査の画像N.J.K.H.が肝切除後に右葉切除では残肝の機能不足から肝不全を引き起こしかねないので術式を変えたと説明していたが、これは術前から承知のはずだった。家族は4月7日のTAEや4月21日の肝切除は與志廣の治療目的ではないと確信した。

 これは4月11日の腹部CT検査の診断記録の抜粋である。腹部CTの行にある「単純」とは単純なCT検査、「造影」とは腫瘍の箇所を際立たせる造影剤を血管内に投与して撮影するCT検査である。(参照資料18 4月11日のCT検査の診断記録)(参照資料19a19b19c 4月11日のCT検査の画像

 

指示   胃癌手術後、多発的転移に対し動脈塞栓術施行

腹部CT 単純及び造影

肝    表面はやや不規則、辺縁はやや鈍い

     肝内には多数のリピオドールの集積を認める

     造影剤投与後、明らかな異常な強調像を示す部位は指摘できない

胆    正常な大きさと形、石灰化・ポリープは指摘できない、壁の肥厚化なし

膵    明らかな塊障害無し、石灰化なし、膵管問題なし

脾    単純にて直径5ミリ大ほどの低吸収領域を2カ所に認める。

腎    両側とも問題なし

副腎腺  両側とも軽度腫大している

大動脈  壁に石灰化像あり

リンパ節 腹部大動脈周囲リンパ節及び脾動脈後方リンパ節腫張あり

胃亜全摘出後、腸内著名な高吸収域あり 腹水なし

印象   1 胃亜全摘出術後

     2 肝転移巣に対し動脈塞栓術後

     3 脾の低吸収域、 リンパ節腫張

 

 CT写真には造影剤の集積が表す腫瘍が肝臓全体に広がっていた。後区域の主病巣の影は右尾状葉を経て下大動脈に達していた。脾動脈周囲と腹部大動脈から肝門部にかけての広い範囲でリンパ節が腫張していることを示す影もあった。両副腎は正常の倍以上の大きさに腫脹しており、脾臓にも転移を示す影があった。N.J.K.H.はこの検査結果で與志廣に肝切除の適応が皆無であることを再確認したはずであった。

 しかし4月14日のカルテに、「N.J.医師より、右葉切除指示」とあった。この直前に「教授回診 70歳、男、93年12月胃癌にて亜全摘術。今回多発的肝転移にて、4月7日動脈塞栓術施行。今後の治療方針検討中です。」と記載あり、N.J.のこの指示で第3外科内で肝切除の意思決定がなされていたことが読み取れた。(参照資料20 4月14日の第3外科の診断記録N.J.の鶴の一声で肝切除の実施が決まったかのようである。

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第13章  肝切除手術の実態調査

 

 4月21日の手術記録は、第3外科作成、麻酔医作成、看護婦作成の3種類があった。第3外科のカルテは筆跡からK.H.が作成したものと推測できた。これはそのカルテである。

 

 逆T字切開にて開腹、第9肋間で開胸した。主病巣は下大静脈、右腎被膜に浸潤し発育しており、肝下面にて横行結腸を巻き込み一塊となっていた。腫瘍の発育様式より右前区域の血流支配及び右肝静脈は残せるものと考え、術式を尾状葉下大静脈部を含む後区域切除として胆嚢摘出より肝切除を開始した。浸潤のみられた横行結腸切除と前回術創の癒着剥離の為に1,500ml程度の出血を見た。これを剥離することなく手術は不可能であると考え、腸切除を先行させたが、準汚染手術となった。腹大動脈周囲リンパ節に転移認めるも残肝にも転移あり、根治性がないため郭清せず。

 肝門部にて左右のグリソンを明らかにし、右グリソンより前・後区域枝に分けた後、後区域枝のみ結紮(脈管を糸で閉め、切離)、Demarkation line(切離線)を設定した。下大静脈部を明らかにするために肝脱転をこころみるも、腫瘍浸潤のため不可であり、右腎Gerota筋膜を合併切除することで下大静脈に至る。

 肝切離を開始し、グリソン鞘、肝静脈を順次結紮しつつ切離をすすめる。切離中央にて右肝動脈を確認、これをmarkerとして肝静脈の基部に向かい切離を延長する。

 右後区域切除のみでは主腫瘍は切離線を越えてしまう為に尾状葉下大静脈部と突起部の一部を合併切除することに決定。左右の流入グリソンを順次結紮するも視野確保困難で大量の止血困難な出血をみた。これを圧迫止血及び結紮止血することで対処した。最終的に右肝静脈周囲よりの実質性出血と主腫瘍摘除部よりの実質性出血を約2時間半にわたり止血した。切除予定肝の右肝静脈基部の結紮を行い、検体を提出、止血を確認後に型通りに3層に閉腹した。尚横行結腸は層々にて吻合、肝切離部、吻合部にドレーンを挿入した。

 

 次は看護記録と麻酔医のカルテを要約した手術記録である。この二つの記録は、K.H.作成のものと異なり、時系列に記載してあることと、第3外科の医師が関与していないことから、一定の信頼ができると思われた。

 

手術日 9年4月21日  執刀時間 9:00 予定時間 5時間

外科病棟 5C 指名 山口與志廣 70才 男 血型 AB (+)

感染症 Wa(梅毒) ―  Hb(B型肝炎ウィルス) ―  Hb(C型同) ―

身長 156cm 体重 50KG

術前診断 転移性肝癌  確定診断 転移性肝癌

予定手術 肝右葉切除術 

施行手術 肝右葉後区域+尾状葉1/2合併切除、胆摘術、横行結腸切除

麻酔 全身麻酔+Epi (硬膜外麻酔(局所麻酔の一種、脊柱管内の腔に麻酔薬を注入する))

体位 背臥位 (背中を下にし、水平に仰向けに寝た状態)

担当医 K.H. N.M.  術者 (空欄) 助手 (空欄)

既往歴 昭和30年 虫垂炎手術 昭和40年 高血圧症 平成5年 白内障手術、 緑内障、 胃癌手術

現病歴 平成5年胃癌手術後、外来follow中、2月に倦怠感あり、エコー施行にて上記診断あり。手術にて入院

入室時血圧 157 / 92 脈拍 75

 

 予定手術は肝右葉切除術だけであり、残肝の腫瘍に対するMCT(マイクロ波凝固療法)の計画はなかった。信恭は手術のために手配された器具・設備のリストを見たが、MCTの機具はなかった。4月12日にN.J.医師は家族に右葉を切除し残肝に点在する小さな腫瘍をMCTで焼けば、現在医療で識別できる直径5ミリ以上の腫瘍は全て根治できると手術の効果を強調していたが、これも真っ赤な嘘であった。

 

09:07  第9助間硬膜下麻酔施行

09:15  左前腕より静脈18G(Gauge 針の規格) 右前腕より静脈18G確保

       全身麻酔導入 マスキュラス ラボナール (麻酔薬名)にて

       亜酸化窒素、イソフルレン(麻酔薬名)にて維持

09:35  挿管施行(人工呼吸用) 血圧 100/65 脈拍 69

       左前腕より動脈22G確保

       超音波エコー施行

10:10  手術開始

       第9助間逆T字切開による開腹 (腹部中央を縦に切り、臍上数センチのところで

右に大きく、左に小さく切る皮切り。横隔膜・胸部は切らない。)

11:00  超音波エコー施行

11:40  胆嚢摘出

11:55  血管剥離中のため出血量増大 血圧125/80 脈拍 68  体温 36.5

12:10  左右肝動脈剥離終了、 切離へ、 輸血開始す 血圧 125/90 脈拍 67

 

 K.H.が手術直後に幸代と雷太にした説明と術前検査を併せ推察すれば、N.J.らは11時のエコー検査で肝臓に直にエコーを当て、肝全区域に多発的に腫瘍が転移していること、右葉後区域にある直径4cmの腫瘍を中心に複数の小腫瘍がぶどうの房状に寄り集まっている主病巣は尾状葉から下大静脈にまで浸潤していること、リンパ節転移が胃周囲から腹大動脈周囲、肝門部まで広がっていること、を自身の目で再確認したはずである。どんなに遅くともこの時点で肝切除を取止めるべきだったはずである。

 N.J.は12時10分に右葉後区域に血流を送るグリソンの切離が完了したところで手術室を後にし、12時半ごろに5階の待合室で待機する幸代と美代子に会ったことになる。グリソンを切り離したら、そこから血流を得ていた右葉後区域の肝細胞は死滅するので、もう切除せざるをえない。N.J.は肝切除を中止できない段階まで進んだことを自身の目で確認して現場を離れたことになる。

 手術開始から肝切除開始までに10時10分から12時10分までの2時間もかかっていた。N.J.K.H.は術後に、胃切除の影響で癒着が強い周囲の組織を剥離するのに時間がかかったと説明しているが、不自然だった。この時間に何だか不明だが、N.J.の手術の真の目的が実施された疑いがあった。

 

12:18  プリングル法開始 血圧 137/90 脈拍 74

12:35  肝切除中断 血圧 88/57 脈拍 65

 

 プリングル法とは、切除中の出血抑止のため、門脈と肝動脈を肝臓に入る直前で一時遮断し、その間に肝臓切除を行う技法である。長時間肝臓への血流を遮断すると肝機能障害を引き起こす恐れがあるので、一般に約15分ごとに血流遮断・肝切除と血流再開・肝切除中止を繰り返す。12時18分直後に肝臓にメスが入ったことになる。

 

12:41 肝切除開始 血圧 74/50 脈拍 70

12:46 肝切除中断 血圧 100/65 脈拍 70

13:15 横行結腸切除・摘出 血圧 120/80 脈拍 70

 

 12時46分にプリングル法が中断され、約30分後に唐突に横行結腸の一部が切除・摘出されていた。肝臓は午前11時にエコー検査を受けており、肝臓全体にエコーを当てるため、この時点で横行結腸を含め周囲組織との癒着は全て剥がされているはずである。肝切除開始後の横行結腸切除は不自然であった。雷太は名古屋の掛り付けの内科医から、横行結腸は右端と左端を後腹膜と癒着しながら中央を腹部全面にだらりと下げた配置であり、胃を切除した人でも肝臓の背中側とつくことはありえない、との解剖学の知見を得ていた。信恭は3月14日と4月11日のCT検査の写真を見直し、横行結腸が肝背面ではなく腹部前面に写っていることに気づいていた。横行結腸切除にも問題が隠されていた。

 

13:20 肝切除再開  血圧 125/80 脈拍 70

13:35 肝切除中断

13:40 肝切除再開  血圧 95/65 脈拍 70

13:48 肝切除中断  血圧 115/85 脈拍 74

14:06 肝切除再開  血圧 106/75 脈拍 70

14:21 肝切除中断 生理食塩水にて洗浄 超音波エコー施行 血圧 100/50 脈拍

75

14:25 血圧 79/49 脈拍 49

14:30 肝切除再開 血圧 80/55 脈拍 75  体温  35.8

14:54 肝切除中断 血圧 75/51 脈拍 66

15:04 血圧低下 90/50 脈拍 75 FOY(蛋白分解酵素阻害薬 汎発性血液凝固不全

DIC)治療薬)プラズマネットカッター(加熱人血漿蛋白、出血性ショック治療薬)

投与

15:12 開胸、 気胸 

 

 K.H.のカルテにある「右後区域切除のみでは主腫瘍は切離線を越えてしまう為に尾状葉下大静脈部と突起部を合併切除」したのは14時21分の超音波エコー検査直後のことであろうと推測できた。この直後から血圧と体温が下降し、脈拍が不安定になる。かなりの出血があったものと見られる。次のプリングル法は14時30分から14時54分までと不自然に長く、かつプリングル法解除直後に大量出血に対する処置を開始している。尾状葉右半分切除の準備中あるいは開始直後に大量出血の原因となる出来事が起きたと推測できた。

 K.H.医師のカルテには「逆T字切開にて開腹、第9肋間で開胸した」とあり、最初から開胸して肝切除に臨んだように書かれているが、実際に開胸したのは大出血発生後の15時12分であることも判明した。術後の家族への説明でN.J.K.H.は、腹部正面で開腹したが、尾状葉切除の際右葉前区域が邪魔になり、見通しが悪い手術になってしまったことを認めていた。肝臓外科の専門書には、尾状葉は下大静脈に近接する上、中で大血管が複雑に入り組んでいるので、その外科切除は大変危険であり、やむを得ず切除する場合は、胸部背中側を開き、術野を十分に確保すべしとの解説があった。K.H.らは当然これを承知しているはずであった。K.H.の開胸時期の虚偽記載はこれを隠す意図があるものと思われた。

 看護記録はこの後16時10分まで飛ぶ。麻酔医の記録は血圧、脈拍などの数値だけである。大量出血への対応で記録どころではなかったのだろう。15時から16時までの1時間に3,000ccもの輸血がなされていた。

 

16:00   血圧  95 / 48  脈拍 65   体温 35.4

16:10 肝臓摘出

      断端+(残肝切離面に腫瘍が露出)のため、アルゴンレーザーで熱傷する

            血圧 106 / 48  脈拍 66

 

 14時54分以降プリングル法を実施していないにもかかわらず、16時10分に肝臓が摘出されていた。尾状葉の切除を急ぎ、止血措置を十分に行わなかった疑いがあった。

 切離面に腫瘍を露出させたままにしたことは、出血、癌転移の面から問題がある処置であった。そもそも切離面に腫瘍を露出させない手術は不可能であったことは手術前の検査で分かっていたことであるが。

 

17:00 止血操作を行う  血圧 104 / 56  脈拍 68  体温 34.8

18:00 腸吻合施行  血圧 98 / 55  脈拍 55

18:40〜19:00 圧迫止血する

20:00 腹膜閉鎖 カウントOK  (手術器具の確認)

      手術終了 レントゲン撮る

            血圧・脈拍記載なし  体温 34

21:25 ICU  血圧 107 / 65  脈拍 60

 

血液バランス   +12,900ml  水分バランス ー15,100ml

 

 大量出血に伴い、12,900mlもの大量輸血をしていた。これは体重50kgの與志廣の体内の血液の約3倍に当たる量である。輸血は肝切除開始前の12時10分以降継続的に行われていたが、尾状葉切除を開始した直後の15時以降に大量かつ急速な輸血を行っており、尾状葉切除で大量出血が発生したことを物語っていた。

 

 手術直後にK.H.が作成したカルテである。

 

@ 横行結腸合併切除、吻合

A 右後区域切除+尾状葉1/2切除

〜右葉切除ではなく、上記に変更した。残肝の転移に対しては未治療。出血も多く肝機能も不良でこれ以上の侵襲はよくないため。術後早期に残存癌の治療をする。

 手術時間が長かったのは止血にとまどった為。16:30検体提出後、結腸吻合した1時間を除いて3時間位は止血をしている。止血しにくい場所から出血しており、治療に難渋した。

 今後の合併症の危険

 出血 ! ! 非常に心配 再手術の可能性もある

 肺炎、心不全、脳の合併症、肝不全そしてDIC ! !

2週間後に病理及びその他の結果より追加治療を考える。ご本人の生命力が頼りです。

今後も治療方針説明の窓口はN.J.先生にしたらどうでしょうか。 BY K.H.

 

- OK (誰の署名か不明。おそらくN.J.医師のもの)

 

 K.H.医師は大量出血で與志廣が多臓器不全やDICを併発しながら死亡することを予見していたことが伺える。家族への対応はN.J.医師、実行はK.H.医師という役割分担があったことが再確認できた。

 

術後出血を止めるため肝動脈塞栓術を施行した直後にK.H.が作成したカルテである。

 

Classical TAE施行 右S8, 5, S1pc(右葉前上区域、前下区域、尾状葉下大静脈部)を塞栓する。

明らかな出血源確認困難 !!

施行後劇的出血停止をみた。

4月22日 0時15分 動脈塞栓術の結果及び目的と今後につき家族に説明

@ 家族帰宅直後に大量出血をきたした。

  残肝部分よりの出血と考えられる。その為、

  a. 手術   b 動脈塞栓術

  を考え、以下の為にbを選んだ。

  1. 術直後の再手術は肝、呼吸器、心ともに影響強い。

  2. 動脈塞栓術が期待できる。

A 今後は出血の様子をみていく。

    100ml/時以上3時間持続

    200ml/時以上2時間持続

    600ml/

    以上なら再開腹を考える。しかし、できれば避けたい。

 

 出血は右葉前区域と尾状葉下大静脈部の肝動脈の血流で発生していることが分かった。

 

 次に手術後に病理科が作成した報告書である。

 

. 胆嚢 

(病理検査依頼票)

患者名 山口與志廣 男 70才 外科 病棟5C 医師名 T.H.

臨床診断 胃癌手術後肝転移

材料 胆嚢 材料採取日 9年4月21日 固定液 10%フォルマリン

臨床経過及び被検物の所見:

上記診断にて後区域+尾状葉切除術施行。その際、胆嚢摘出しております。

検査希望事項:

病理学的検索お願い致します。

(病理検査報告書)

検査番号 97-1313 患者番号 151-260-9 97/4/25

患者氏名 ヤマグチヨシヒロ 外科5C 男 70才 担当医 T.H.先生

臨床診断 胃癌手術後、肝転移

検査者  T

病理診断

胆嚢、 胆嚢摘出術 : 転移性の腺癌、胃に起源をもつとして適合

組織学的所見 : 63 x 59 x 4.5mm大の灰白色、網様の粘膜面を示す胆嚢が提出された。

組織学的に胆嚢の漿膜下のリンパ管および静脈内には大小の高色素性の核と明調な細胞質を有する異型細胞の集ぞくを認める。これら異型細胞は同時に提出された肝臓(OP97-1331)、および胃(OP93-4729)に認められた癌と酷似した組織像である。粘膜から筋層については、胆嚢の基本構築は保たれており、著しい変化をみない。

 

. 肝臓

(病理検査依頼票)

材料 : 肝臓

臨床経過及び被検物の所見:

93年12月、胃癌にて胃亜全摘術施行 タイプU (表面型) WP(後壁) ステージ Tb

(進行7段階中2段階目)

経過観察中、97年2月のCT検査にてS6メインとする肝多発性転移+にて今回後区域+尾状葉切除施行

(病理検査報告書)

検査番号 97-1331

病理診断 肝臓、区域切除術: 転移性腺癌、胃に起源を持つとして適合

組織学的所見:

115 x 70 x 65mm大の肝臓が提出された。割面にて45mm x 20mmまでの灰白色、境界明瞭な結節を計12個認める。これらの結節は中心部に著しい壊死を伴い、大小の高色素性の核と明調な細胞質とからなる異型細胞が不規則管状あるいは索状配列を示しながら増殖する。これら癌は肝被膜および肝切離面で露呈しているものと考える。さらには、周囲に付着する脂肪組織内の静脈にも腫瘍細胞の集ぞくが散見される。以上の組織は前回の胃癌(OP93-4729)と類似するものであり、胃癌の肝転移として矛盾しません。

 

. 結腸

(検査依頼票)

材料 結腸

臨床経過及び被検物の所見:

上記診断にて後区域+尾状葉切除施行

前回手術の影響と思われる癒着剥離の際、止血困難な血腫認めたため、横行結腸部分切除

(病理検査報告)

検査番号 97-1315

病理診断 結腸、部分切除術 : 漿膜下の出血及び繊維症

組織学的所見 :

160mm長の結腸が提出された。粘膜(結腸の内側)には 6 x 4 x 4mm迄の隆起を計3ヶ所に認める。漿膜側では80mmの長さにわたり血腫の形成を認める。

組織学的に

漿膜下を中心とし粘膜直下の結合組織層に達する極めて新鮮な出血巣を認める。また、漿膜下の一部には密集した結合組織の増生もみられる。しかし炎症性細胞の浸潤はほとんど伴わない。以上は新鮮な血腫に相当しますが、破綻血管は明確にし得ません。

粘膜の3ヶ所の隆起のうち、2個は限定的な異型細胞を有する良性管状腺腫であった。残る1ヶ所はリンパ球の小胞の形成を認めるものの明確なポリープ状の病変を見出すことは出来なかった。またいずれもこの部位には胃癌(OP93-4729)の転移を始めとする異型細胞は見いだせない。漿膜下に数個のリンパ節をみたが、この中にも異型細胞は認めなかった。

 

 横行結腸に癌の転移・浸潤はなかった。雷太が名古屋の内科医から得た知見や信恭のCT写真の調査、横行結腸の切除が肝切除開始後に行われているとの記録から、横行結腸が肝臓の背側にある主病巣と癒着しているはずがなかった。横行結腸の切除は、外側に80mmの血腫があるとの記述から、単純なミスにおる損傷が原因であろうと推測できた。横行結腸の縫合不全が主因で與志廣は感染症を発症しており、4月30日に再手術を受けている。これも見逃せない医療過誤であった。

 K.H.N.J.は術後の家族との面談で、横行結腸が肝後面で主病巣が癒着し、転移が疑われたので切除したと説明し、K.H.は同じことをカルテにも記載していた。N.J.に至っては4月26日に家族に、術中病理診断で横行結腸に癌細胞が認められたとまで言っていた。ところが、病理科には嘘をつけず、「止血困難な血腫を認めたため部分切除した。」と全く異なる説明をしていた。

 

(注記 : 東京地裁は第12章・第13章にある肝切除関係の事項を、N.J.らの術前術後の虚偽説明を含め全て事実と認定し、損害賠償にたる違法行為と判断した。)

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第14章  術後経過の実態調査

 

 手術翌日である4月22日朝の與志廣の血液検査値である。

 

アルブミン 2.6 (正常値 3.8ー5.1 重症肝疾患で低値)

乳酸脱水素酵素 732 (正常値 275ー512 肝疾患・心疾患で高値)

アミラーゼ 1773 (正常値 65ー160 急性腹症、急性膵炎で高値)

クレアチンキナーゼ 546 (正常値 32ー180 組織細胞障害で高値)

C反応性蛋白 3.2 (正常値 0.0ー0.3 炎症性疾患、体内組織壊死で高値)

プロトロンビン時間 15.8秒、45% (正常値 9.5ー12.5秒、70ー100% 血液凝固能低下で秒数増加、%減少)

ヘパプラスチンテスト 45 (正常値 70ー130 肝障害により低下する凝固因子検査)

GOT     72  (正常値 12ー33、肝細胞障害で高値)

GPT     130(正常値 5ー35、肝細胞障害で高値)

 

 4月23日に測定されたGOTは3,354、GPTは3,255であった。肝不全の遅効性指標であるビリルビン(正常値 0.2ー1.2、肝機能障害の長期化で高値、10を越えると予後が悪いとされる。)は、22日に3.0、24日に4.8、26日に8.8と徐々に上昇し、28日には11.3、5月4日には31.94と死亡するまで上がり続けた。

 こうした検査数値から與志廣が重篤な肝不全が発症していることが明らかであった。さらに肝不全の合併症として、22日に血液凝固異常、23日に肺水腫(術後肺炎)、24日に肝性脳症、25日に心タンポナーゼ、28日に汎発性腹膜炎が発症していた。

 多くの医学書に「術後肝不全を発症すると予後は悪くほぼ確実に死に至る。」と解説があった。與志廣は肝切術の術中術後の出血から肝不全となり、さまざまな合併症を併発しながら死亡した、との4月21日の手術と5月6日の死亡の因果関係は明白になった。

 M.M.教授は、第3外科が死亡診断書に死因を肝不全と書いていたにもかかわらず、5月7日の解剖の実地の際と解剖報告書で「肝不全は断定できない」「死因は肝不全ではない」と説明していた。これは4月21日の手術と死亡の因果関係を誤魔化すための工作と思われた。

 

 ICU記録は看護婦が1時間ごとに患者の血中酸素濃度、体温、血圧、呼吸数、心拍数、意識状態などの基礎データを記載したものである。単調で読みづらいカルテであるが、信恭は忍耐強く読み進めていき、4月30日の午前9時以降の所見・看護記録欄に以下の記載があることに気づいた。(参照資料21 4月30日のICU記録

9時〜10時

 吸入酸素濃度50%で血液ガス検査上動脈血酸素分圧90台。K.H.医師指示で吸入酸素濃度減量する。9時30分吸入酸素濃度40%へ減量する。減量後酸素飽和度95%なる。水分バランス+242、中心静脈圧上昇ないもIN(輸液)しぼる。メイン40ml→30ml、アミノレバン20ml/時→10ml/時。包帯交換にて、腹腔ドレーンからの流出少量なのでT.H.医師抜去する。吻合部は留置。腹腔ドレーンから黒っぽい異臭あるもの流出。腹腔ドレーン抜去後、吻合部ドレーン挿入部から出血あり。正中創異常なし。

 

10時〜11時

(一部省略) 

11時 体温37.4度、血圧 115/90、呼吸数14、心拍数95、酸素飽和度90% 

 

11時〜12時

 血液ガス検査不良のためT.H.医師指示により11時15分吸入酸素濃度40%→50%とする。呼吸器も再度変更する。(換気量 500→400、補助回数 7→12)尿流出少量なのでラシックス1/A施行する。酸素吸入濃度50%でも酸素飽和度93〜94%にて再度吸入酸素濃度増量する。11時40分、吸入酸素濃度60%へアップ。血圧72/40、体温36.8度

 

 

12時〜13時

 血圧72/40↓、 下肢アップする。(一部省略)N.J.医師診察、本日ドレナージ施行し、人工肛門造設、その後第3内科にてクイントンカテーテル挿入、透析考えると。

 

 肝不全、血液凝固異常、肺水腫(術後肺炎)、肝性脳症、心タンポナーゼ、汎発性腹膜炎を発症し、人工呼吸と輸液で生命を維持している與志廣に対して、K.H.医師とT.H.医師は輸液を絞り、人工呼吸の酸素濃度を下げ、3本あるドレーンの内1本を取り去り、そのまま2時間あまり放置した。與志廣の動脈血酸素分圧は、11時20分 55.2、11時35分 58.5 12時 61.6と推移していた。60未満は呼吸不全の状態とされる。吸入酸素濃度を落としたことと呼吸不全の因果関係は明白であった。血圧の上は72まで下がっており、與志廣はショック状態に陥ったのである。しかし第3外科のカルテにある30日午前中の欄には

 

4月30日

呼吸、血圧変化あり。

一回換気量400 12/分 吸入酸素濃度60% へ 変更 血圧低下 PGE1カット (血管拡張、血圧降下剤)、DOA(強心剤)、腹部膨満気味のため、腹腔ドレーンより200ml暗赤色、便臭+の廃液+

 

としか記載がなく、治療レベルを落としたことを記載していなかった。

 同じ4月30日にT.H.から血液透析の相談を受けた第3内科のF.H.医師が與志廣を診察し、カルテを作成している。

 

4月30日

第3外科Dr.T.H.より相談。肝臓癌手術後横行結腸よりリーク(漏れ)あり。本朝より血圧低下、血液濾過など必要か。

肝不全は回復中、GOT/GPT 4ケタ→3ケタ、しかしビリルビンは上昇中、アンモニアもこの数日上昇

現時点で必要なことはFOCUS(病原)の除去。その後エンドトキシン血症の改善を行う。血圧は手術可能な位はあるため、手術後エンドトキシン吸着を行う。→ 手術後の立ち上がりをよくするため。

 

 真実第3外科の四人が與志廣の治療を目指しているなら、28日午前9時に横行結腸の縫合不全と汎発性腹膜炎の発症を診断した時点で再手術による腹腔内洗浄と人工肛門造設術を実施したはずであり、遅くとも30日午前9時に引き抜いたドレーンの先から異臭を認めた時点で直ちに実施しなければならないはずである。しかしT.H.は4月30日の酸素濃度や輸液の削減を隠しつつ血圧低下が起きたとしてF.H.医師に血液濾過の可能性を尋ねている。当時第3外科の医師は代わる代わる家族にビリルビン吸着の血液透析の実施を示唆しており、これを別の科に所属するF.H.医師の手でやらせたかったものと見られる。これに対してF.H.医師は、ビリルビン吸着透析は治療としての意味がないばかりか、身体への負荷が大きすぎるとしてこの要請を断っている。もしF.H.医師が第3外科の要請に乗ってビリルビン吸着を実施していたら、與志廣は血圧変動から心不全を引き起こし、最悪の場合心停止に至る危険があったと考えられる。第3外科の医師達はF.H.医師の治療が直接の原因で與志廣が死亡したとのシナリオを実行しようとしていたものと考えざるをえない。しかし結果的にF.H.医師から医学的に真っ当な指示を受けてしまい、不本意ながら再手術による腹腔内洗浄と人工肛門造設術をせざるをえなくなったのである。

 

 T.H.が作成した4月30日夕方の腹腔内洗浄・人工肛門施行術の手術記録である。

 

 前回術創を下腹正中に延長し、皮切、開腹する。臍下部にて癒着あり、これを剥離し、回盲部よりおよそ100cm位の部の小腸を一部損傷し、修復する。

 肝は切除部にコアグラ(血液のゾル状の塊)付着し、これを慎重に洗浄するも新しい出血は確認困難であった。但し、肝萎縮は見られず血行も十分であろうと思われた。切離部とダグラス(腹腔内の一番底の部分)に吸引不良で貯留したコアグラ大量に認める。吻合された結腸は腸間膜付着対側で2cm大の縫合不全を認めたが、周囲に膿瘍の形成はなく、腸管内容はLOCALIZED(局所限定)されている印象だった。

 旧吻合部をPLC(永久・ループ式結腸瘻造設術)にて切離後、肛側を埋没し閉鎖。口側を右下腹部に人工肛門として出し、固定した。

 腹腔内を温生食(温かい生理食塩水)にて十分洗浄し、ダグラス、肝切離部、旧吻合部にドレーン挿入、また胸壁皮下にもドレーンを挿入し、止血後型通りに閉腹した。

 

 第3外科のカルテにある手術後の家族への説明内容を記録した箇所である。

 

 腹腔内を十分に洗浄。

 手術記事の内容を伝える。

 凝血塊を洗浄しても、更に出血がたまる。 → 止血困難な印象。

 ダグラス、切離部他にドレーン → 出血をチェックする。

 

 出血の有無について2つのカルテで矛盾していた。家族は與志廣の腹腔内の出血は死亡まで継続したことをドレーンの廃液受けで確認しており、実際には出血は継続していた。

 

 第3外科の四人は事実を隠してF.H.医師の手で與志廣に危険な血液透析を実施させようとしたものの、逆にF.H.医師が指示した腹腔内洗浄・人工肛門施行術とエンドトキシン吸着透析が効を奏し、5月1日に状態は一時的に回復した。しかし以前採取した痰の細菌を培養したところ、MRSAが検出され、この日から與志廣は準隔離室に入れられてしまう。大橋病院ではICUにいる重症患者の浴衣を家族に持ち帰らせて洗濯させていた。洗濯を担当していた恵美子の許にはべったりと血糊や汚物がついた寝間着が持ち込まれていた。医師は院内の格好そのままで手洗い消毒をせずICUに入ってくるし、ICUの看護婦の中にはキャップから前髪がはみ出している者がいた。N.J.医師の上司に当たる第3外科のS教授は周術期感染症の解説書を著し、この分野の権威を自称しているようだが、お膝下の実態はお粗末極まりないものであった。

 

 看護記録に5月3日の夜から4日朝にかけてT.H.の指示でラシックス(利尿剤)の投与を中止していたと記載があった。3日の午後11時まで與志廣の尿量は100〜230ml(2時間単位、以下同じ)あったものの、ラシックス投与の中止後、3日午後11時〜4日午前1時 70ml、午前1〜3時 40ml、午前3〜5時 5ml、午前5〜7時 15mlと激減した。午前7時にラシックスの投与を再開したが、尿量は戻らなかった。医学上、1日の尿量は400ml以下(2時間で33ml以下)を無尿状態と見なしている。腎臓は一定の尿量を確保できないと腎不全に陥る。一度腎不全になれば腎機能の回復は困難であり、血液透析で腎機能を代行し、血液中の老廃物を除去する必要がある。しかし與志廣は、血液透析は即心不全を引き起こす危険があり、適応外であった。透析ができない無尿は尿毒症を経て数日内に確実に死亡することを意味していた。N.J.が4月21日と26日に言った「おっしこが出ているから安心です。」の逆をT.H.は実現させたのである。しかも4日午前9時にK.H.は信恭と雷太に「おしっこは量的に出ている。」と説明し、無尿と腎不全発症の事実を隠蔽している上、4日の心停止直後にN.M.は、「信恭と雷太がICUを離れた直後の4日昼前に尿が止まった」と無尿になった時刻について虚偽の説明をしていた。これも4人の医師の計画的・組織的行動と見られた。

 與志廣は4月30日午後に心房性期外収縮(心筋虚血性の心機能障害)を発症し、5月1日には心房細動(心房が無秩序な興奮を繰り返す状態)、3日には二段脈、4日午前4時に心室性期外収縮(致死的な不整脈に移行しやすい状態)を発症し、心不全が進行していた。4日午後0時30分には血圧の拡張期(下)が計測不能になるまで下がり、それ以降與志廣には体温と呼吸数の低下が現れた。しかし居合わせたN.M.は強心剤の投与などの心不全に対する治療を一切行わず、午後3時にこの日2回目の膀胱洗浄を始めた。この膀胱洗浄開始直後に與志廣の心拍数が急速に低下し、心拍数が毎分30台の致死的な徐脈に移行した。この事態に至ってもN.M.は心不全の治療を行わず、看護婦に12個の電極を付けて心電図の計測を始めさせた。おそらくN.M.が中目黒の家に家族の来院を要請する電話をしたのはこの時間帯である。午後3時24分に心停止を確認すると、N.M.はようやく心臓マッサージを行い心臓を蘇生させる処置を行った上で強心剤の投与を開始した。(参照資料22 5月4日のICU記録)前述の通りN.M.N.J.は「午後3時ごろにアラームが鳴り、モニター画面を見たところ、心拍と呼吸が何の前触れもなく停止していた。瞳孔が開いていることから脳神経系の損傷があったものの思われる。」旨家族に説明していたが、これも嘘であった。

 

(注記: 東京地裁判決は、第14章にある四人の医師の行為について外形的な事実はそのまま認定したが、故意による不法行為とは認定しなかった。)

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第15章  新たな疑問

 

 信恭がカルテ調査を進めている間に、雷太は関連する図書を読み漁っていた。一般読者向けの癌の解説書で「癌の進行は早いものと遅いものの差が顕著であり、それは細胞分裂の速度で決まる。細胞分裂が極端に早ければ、ねずみ算式に癌細胞数が増え、発生してから数カ月で手遅れになるし、極端に遅ければ、別の死因で死亡するまで初期段階のままでありえる。細胞の分裂の速度は起源が同じ癌細胞であれば一定である。」とあった。N.J.K.H.は進行が早い癌と言っていたにもかかわらず、胃切除を受けた平成5年12月24日から画像で肝内の腫瘍を発見した平成9年2月24日の腹部超音波検査までには3年2ヶ月余りの年月をかかっていた。胃癌細胞が、最初の3年2ヶ月はゆっくり増殖して、平成9年2月24日から急にスピードが増すのは不自然だった。腫瘍マーカーの内胃癌の再発転移を示すSTN抗原が平成7年7月20日と翌8年5月16日の検査で陽性であったにもかかわらず、N.J.医師がカルテに「異常なし」と書き、與志廣にもその旨説明していたことも不可解であった。胃癌に対する胃切除術については今まで成功したと思い込んでいたが、ここでも何かあったかもしれないと雷太は疑った。

 胃癌の平易な医学書に、初期の胃癌では胃切除によって95%の5年間生存率が得られるとの解説があった。與志廣の場合、手術・病理検査の直後にN.J.医師より「思ったより癌が胃壁の中を深く進行していたことが分かりました。術前は手術で胃癌を根治できると言いましたが、現時点では絶対に大丈夫とは言い切れませんので念のため化学療法を行います。多分大丈夫でしょう。」旨説明を受けたと信恭から聞いており、與志廣の胃癌の根治度が本当はどうだったか調べる必要があると考えた。しかしあいにく胃癌治療のカルテは前回の証拠保全で取得していなかった。第3外科作成の胃癌手術後の退院時要約と第3内科が作成した胃切除術前検査のカルテは証拠保全で入手できていたので、これを調べることにした。

 これは第3外科が平成6年1月(胃癌手術後退院時)に作成した退院時要約のカルテである。

 

氏名      山口與志廣

初診      Dr. N.J.、 担当 Dr. O、 Dr. S

病棟      5C

入院      93年12月21日(第3内科からの転科日) 〜 93年1月21日

術者      N.J.   助手  0、 S

術式      幽門側胃亜全摘術 B -T法(ビルロースT法、残存する胃上部と十二指腸を吻合する再建法)

入院時診断   胃癌 体中部後壁 Ua + Uc (表面隆起陥凹複合型)

手術時診断   同じ T1 (癌の浸潤が粘膜あるいは粘膜下組織に留まる)

           N0 (第1〜4群リンパ節に転移なし)

           P0 (胃漿膜面、大網、小網、腸間膜、腹腔内臓器漿膜面、腹壁膜面、後腹

膜のどこにも転移はない)

           H0 (肝転移なし)

           M0 (腹腔外に遠隔転移なし)

           Stage Ta (進行度は7段階中一番初期の段階)

手術所見       上腹部正中切開にて開腹

           腹水癌なし、 肝臓異常なし

           T1, N0, P0, H0, M0, Stage Ta

           Koecherの授動術(十二指腸に近接する腹膜を切開し、胃下部を捻転でき

るようにする手技)後、大網切除施行。右胃動脈、左胃動脈、右胃大網動

脈、左胃大網動脈を切離後、胃2 / 3切除。B-Tにて再建するも肛門側に

異型の強い細胞が粘膜上に認められたため、肛門側を約5cm切り足し、B-1

法にて再縫合。腹腔内を生理食塩水1,000mlで洗浄後、手術終了す。

病理学的診断     高分化型管状腺癌 (癌細胞の分類の一種)

           Ua + Uc (表面隆起 + 陥凹 複合型)

           mp(筋層まで深達)

           INF-β (癌と周辺組織の境界が明瞭と不明瞭の中間)

           ly - 3 (リンパ管への侵襲高度)

           v - 3 (静脈血管への侵襲高度)

           ow -   (切除胃標本の肛門側断片に癌細胞なし)

           aw - (切除胃標本の口側断片に癌細胞なし)

 

 術前と術中検査では、初期の胃癌と診断し、幽門(肛門)側胃亜全摘術を施行したものの、術後の病理検査で癌は筋層まで深達し、リンパ管・静脈血管への侵襲も高度なので、進行胃癌と診断されたというものであった。

 不思議なことに、このカルテにリンパ節に関する記録が全くなかった。どの医学書を読んでも、手術で術者が肉眼で、病理検査で病理科医が顕微鏡でリンパ節への転移の診断をすること、リンパ転移の危険性が少しでも疑われる場合はリンパ節郭清(外科的に取り去ること)を徹底すること、転移の範囲が第1群以内(リンパ節は胃から近い順に1から4まで4段階に分類されている。)で郭清の範囲が第2群以上であればリンパ節転移の危険はないこと、と解説があった。多くの専門書は、胃と併せ第2群までのリンパ節郭清する術式を標準手術と呼んでいた。

 與志廣の胃癌は、直径3cmで、深達度は少なくとも粘膜下組織、Ua+Uc型(表面隆起・陥凹型)であり、この症例ではリンパ節転移が発生している危険があるので、第2群までのリンパ節郭清が必須との解説があった。雷太は胃癌治療のカルテを再度証拠保全を申請して入手するよう信恭に求めた。

 

 信恭はICUの看護記録の中に「本件はカーデックス参照」との記載があり、看護婦が「カーデックス」と呼ぶ別の記録を作成していることに気づいた。しかし証拠保全で収集したカルテにカーデックスはなかった。カーデックスと呼ばれる書類を証拠保全で入手する必要があると信恭は思った。

 

 家族は協議の上、O.M.病院病理科が作成した病理解剖関連のカルテ、第3外科が作成した胃癌手術関連のカルテ、ICUの看護婦が作成したカーデックスの3つの証拠を押さえることにし、H弁護士に依頼をした。証拠保全の手続きは、同じ案件でも証拠が保管されている場所が異なると別々の申請を上げなければならないとのことで、O.M.病院にある病理解剖関連のカルテと、大橋病院にある胃癌関連のカルテとICUのカーデックス、の2通の申請を平成10年5月15日に東京地裁に提出した。與志廣が亡くなってから1年余りが経過していた。

 二つの申し立てに別々の裁判官が担当になった。大橋病院の方は裁判官とH弁護士の面談が5月26日に行われ、即証拠保全の執行日が7月3日に決まった。H弁護士によると裁判官は事前に書類を読み、問題点を把握しており、話が早かったそうである。7月3日に予定通り証拠保全が行われ、7月14日にはH弁護士の手元に第3外科作成の胃癌関連のカルテとカーデックスのコピーが届いていた。

 一方O.M.病院の方では、裁判官からH弁護士に、証拠保全の手続きを経ずに遺族側が病院に任意に書類の提出を求めることを試してほしいと要請があった。病院側が任意の提出を拒否したら裁判所で証拠保全の必要性を検討するとのことであった。H弁護士によるとこの裁判官はまだ若く原所属は刑事部であるものの勉強のため民事部いるそうで、申請内容を理解できていない様子だったそうである。それでも裁判官からの要請には従わざるをえず、H弁護士は東邦大側の顧問弁護士に連絡を取り、任意提出を要請したものの、案の定病院側から拒否された。H弁護士は、東邦大側がカルテの任意提出を拒否したことを伝える書面と、証拠保全の必要性について信恭がまとめた上申書を裁判所に提出の上、裁判官との面談を申し入れた。しかし裁判官から連絡はなく、H弁護士が電話を入れても常に不在で折り返しの電話さえなかった。H弁護士は業を煮やして7月2日の朝一番に裁判所に電話をした。裁判官は部屋におり、H弁護士に対し「追加資料を見ても病院に不誠実な態度があったとの心証は抱けません。病理解剖の記録を見ても改竄隠滅の恐れがあるとは判断できません。却下決定はできていますが、明日3日に大橋病院の証拠保全があると聞いていましたので、こちらの方はどう連絡をすればよいか考えていたところでした。」と訳の分からないことを言ったそうである。H弁護士はそれならなぜ病院にカルテの任意提出を求めたのかと問い正そうとしたが、やる気のない裁判官とこれ以上話をしても無駄と思い直した。裁判官にも臆面もなく職務放棄をする人がいることを知り、家族は驚いた。

 7月14日に東京高等裁判所にO.M.病院の証拠保全の抗告を行った。東京地裁の若い裁判官がこちらの申し立てを理解しきれずに奇妙な指示を出した後に却下の決定をした苦い経験の踏まえ、今回はA4用紙12枚に訴えの主旨を要約した資料を添付した。東京高裁であれば能力が高く誠実な裁判官が迅速な処理をしてくれるものと家族は期待した。しかしこの期待は裏切られた。H弁護士が面談の申し入れをしたが、担当の裁判官は書記官を通じ「合議した結果、面接はしないことになりました。」と連絡してきた。大橋病院に対する2回目の証拠保全で入手した決定的資料を追加で提出したが梨のつぶてであった。H弁護士は高裁の書記官を通して繰り返し督促したが全く動きがなかった。いたずらに8ヶ月の月日が経過した。H弁護士に応対していた書記官は挙げ句の果てに「この裁判官は記録を持ち帰っては難しいといって戻しています。申し立てを取り下げて改めて地裁に申し立てたほうが早いですよ。」と言ってきた。家族は再びやる気のない裁判官に出会った不幸を恨んだ。こうした裁判官が業務を放置しても給料を貰えるものの、被害者は事件の解決が遅れれば遅れるほど、過去の不幸を長く引きずるのである。法と正義の建前を食い扶持にしている出面稼ぎの役人に出会ってしまったが、彼等まで糾弾している余裕はなかった。

 平成11年4月7日に東京高裁に証拠保全申し立ての取り下げを行い、改めて東京地裁に証拠保全の申し立てを行った。幸い今度の東京地裁の裁判官は正義感と事務能力があり、4月23日に証拠保全の決定をし、5月26日に実行してくれた。裁判官の違いによる対応の違いに家族は驚いた。6月6日にH弁護士の許にO.M.病院のカルテの写しが届いた。大橋病院の証拠保全から遅れること11ヶ月であった。

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第16章  カーデックス・胃切除術・病理解剖の調査

 

 大橋病院から2回目の証拠保全で入手したカルテの内、カーデックスを信恭が調査した。看護記録とカーデックスはともにICUの看護婦が作成した資料であるものの、看護記録が脈拍や血圧、呼吸数、尿量、体温、血液ガス検査などの基礎数値と所見のデータを時系列的に記載・整理した資料であるのに対し、カーデックスは家族との面談内容や、病名・治療・症状、検査、などの目的別に整理した資料であった。これは與志廣の病名・治療・症状を要約したカーデックスである。(参照資料23 カーデックス抜粋

 

氏名     山口與志廣、 70才、 男

入室期間   4月21日 〜   月   日 (記載なし)

病名     転移性肝癌

手術及び術式 4月21日右葉域尾状葉切除(ママ)、 横行結腸切除、 胆摘

現在の問題点 出血、 肝不全、 呼吸器合併症の可能性、 DICの可能性

入室中経過

# 出血

 手術中より動脈損傷し、出血多量。手術後も出血止まらず、同日23時から右肝動脈へエンボリ(肝動脈塞栓術)施行。しかし、手術後1日目から現在に至るまでDIC予防の為(血液)抗凝固療法もあり、出血多めで経過中。正中創からのジワリ出血もあり、ガーゼ交換頻回の為1針縫ったが、その後もジワリ出血続いている。手術中から全血とFFP(新鮮凍結血漿)の輸血を続けている。

# 肝不全

 エンボリ施行後、ASTGOT)ALT(GPT)上昇したが、手術後4日目より徐々に低下している。しかし総ビリルビンは上昇傾向にあり、10.0以上になれば吸着療法も考えられる。手術後から傾眠がちで肝性coma2〜3程度。(肝性coma : 別名肝性脳症。肝機能障害による意識障害。2度は「指南力障害、物を取り違える。異常行動ときに傾眠状態。無礼な行動があるが、医師の指示には従う。」、3度は「しばしば興奮状態またはせん妄状態を伴い、反抗的態度を示す。嗜眠状態(ほとんど眠っている)で、外的刺激で開眼するが、医師の指示には従えない。(簡単な命令には応じる。)」)

# 呼吸器合併症の可能性

 Ope(手術)後O2(酸素)5L Tピースにてフォロー中。X線上、肺のうっ血見られないが、低TP(総蛋白)におる下肢、手背のE-DEMA(浮腫)著明で、サードスペース(非機能的細胞外液)より戻ってくる水分を考えると、今後利尿期に一気に肺うっ血がくる可能性あり。手術後はDOA(ドブタミン、向心循環薬)使用とラシックス(利尿剤)使用で尿流出を促している。

# DIC(播種性血管内血液凝固)の可能性を考え、(手術)直後よりFOYDIC治療薬)を使用している。左下腿と右側胸部に紫斑+も増強 −。しかしPT↑(プロントビン時間、DIC発症で延長)、FDP(フィブリン分解産物 DIC発症で増加)等が見られる。

 

 4月21日の手術での大出血の原因が肝動脈の損傷であるとはっきり書いてあった。ICUの看護婦は大出血の原因を手術室のスタッフから聞いたのであろう。彼女らは、與志廣が大出血と肝動脈塞栓術から肝不全を発症したと認識しており、近い将来呼吸器合併症とDICを発症するかもしれないと予測していた。K.H.医師も手術直後にカルテに「出血!! 非常に心配。再手術の可能性もある。肺炎、心不全、脳の合併症、肝不全そしてDIC!!」と同様のことを書いており、病院関係者が手術が失敗で與志廣がさまざまな術後合併症を発症しながら死亡するとの認識を共有していたのである。

 カーデックスには第3外科の医師が家族に説明した記録もあった。内容は家族が作成した記録と一致しており、言った言わないの争いを防ぐ有効な証拠になると思われた。

 

(注記 : 東京地裁判決は、出血点は肝切離面に露出した抹消動脈であった可能性が高いとしながら、K.H.が肝動脈分枝を損傷したとは推認できないと判断した。)

 

 平成5年12月から平成6年1月にかけて作成された胃癌治療関連のカルテは雷太が調査した。これは第3外科のO医師が作成したと思われる平成5年12月24日に行われた胃切除術の手術記録である。

 

@ 上腹部正中切開にて開腹す。

  T1 (癌の浸潤が粘膜あるいは粘膜下組織に留まる)

  N0 (第1ー4群リンパ節に転移なし)

  P0 (胃漿膜面、大網、小網、腸間膜、腹腔内臓器しょう膜面、腹壁膜面、後腹膜のどこにも転移はない)

  H0 (肝転移なし)

  M0 (腹腔外に遠隔転移なし)

  Stage Ta (進行度は7段階中一番良好な段階)

  KOECHERの授動術後OMENTECOMY(大網切除)す。

A       左図の如く、右、左、胃動脈、右胃大網動脈、左胃大網動脈を切離す。胃2/3切除後BIRLLOTH T( 残存した胃と十二指腸を縫い合わせる手技)にて再建行うもaw(肛門)側にAtypia(異型)の強い細胞が粘膜上にみとめられたため

B Anal(肛門)側を約5mm切り足し、(BIRLLOTH)Tにて再建す。腹腔内を生食(生理食塩水)1,000mlで洗浄後、ペンローズドレーンを、左:横隔膜下面、右:Winslow孔(吻合部)、横隔膜下面に挿入し、形の如く閉腹す。

 

 手術記録はリンパ節郭清に全く触れていなかった。またカルテにある胃の切除図は、胃本体の直近のところで主要動脈の切離を行っている術式で描かれており、特に左胃動脈の切離の位置が腹腔動脈から左胃動脈が分岐する根部よりむしろ胃本体に近いところと示されており、これは、胃本体とともに周囲のリンパ節や腹膜、脂肪組織を大きく切り取る胃癌に対する術式ではなく、主に胃本体のみを小さく切り取る術式が行われたことを示していた。手術直後にN.J.の助手の医師は以下の病理検査依頼表を作成している。

 

患者名 山口與志廣 男 年齢 66才 外科病棟 5C 医師名 S

材料: 胃 材料採取日: 93年12月24日

臨床経過および被検物の所見 :

本年11月人間ドックのMDL(胃X線透視造影検査)にて異常指摘され、3内(第3内科)にて精査したところ、(胃)体上部の後壁にUa+Uc typeの病変を認め、病理にて腺癌、GroupXと診断。本日胃亜全摘術施行。

No.3   (小彎リンパ節)        2

No.4d  (大彎リンパ節・右群) 1ケ

検査希望事項:

浸潤、リンパ節転移等検案お願いします。

 

 日本の胃癌治療のガイドラインを示した胃癌取扱規約では、胃体上部の位置の場合に郭清すべき第2群のリンパ節として、No. 1, 3, 4, 5, 6, 7,8a,9,11の9ヶ所を指定していた。さらに郭清した全てのリンパ節について病理検査を行うべしとの取り決めもあった。別の専門書には第2群以上の節郭清を行うと平均41個のリンパ節が取り出せるとの解説があった。しかし與志廣の手術で、術者はNo.34dのわずか2ヶ所にある3個のリンパ節のみを郭清したつもりであったことが判明した。

 病理検査報告書には以下の記載があった。

 

94年1月8日

患者氏名 山口與志廣 外科 5C病棟 性別 男 年齢 66才 担当医 S 

臨床診断 MK (胃癌) 検査者 T

病理診断 :

Stomach subtotal gasrectomy (胃亜全摘術) 

Tubula adenocarcinoma, well differential type, (高分化型管状腺癌)

Ua + Uc (表面隆起陥凹型)

mp  (胃壁の深達度は筋層まで)

INF-β (癌と周辺組織の区分が明瞭と不明瞭の中間)

ly - 3 (リンパ管への侵襲高度)

v-3 (静脈への侵襲高度)

ow(-) aw(-) (口・肛門側胃本体断片に癌細胞なし)

組織学的所見:

Subtotal gastectomy(胃亜全摘術)されたStomach(胃)が提出された。ow(口側)より1.cmaw(肛門側)より11cmの後壁に3cm x cm Ua+ Uc(表面隆起陥凹型)様のlesion(病巣)を認める。Histological(組織学的に)このLesion(病巣)は(解読不能)を有するAtypical cell (異型細胞)、不規則苔状のglad(腺)を形成しつつ増殖する。これらは高度にstructure atypia (異型の構造)を有し、間質にはLympho follicle(リンパ小節)を伴ったinflammatory(炎症性の)cells infiltration(細胞浸潤)をみる。さらに明調なcytoplasm(細胞質)を有するatypical cells(異型細胞)のproliferation(増殖)も一部持っており、一見clear cell carcinoma(明瞭な癌細胞)様の像にもみえる。このtumor(癌)はmusle layer (筋層)の上層へ達しており、深達度をmpとした。またly(リンパ管)、v(静脈)へのinvolve (侵襲)も高度である。ow,aw(口側、肛門側胃断片)はマイナス(癌細胞なし)。

 lymph nodes(リンパ節)はno.3(小彎リンパ節), 4d(大彎リンパ節・右群)ともにfat(脂肪)のみであり、lymph nodes(リンパ節)は見いだせないが、no.3fat(脂肪)中にcarcino cells (癌細胞)を認めている。上記診断にはn(リンパ節転移)について記載していません。この他2ヶ所にxanthoma(黄色腫 良性の腫瘍)を見る。

 

 術者がリンパ節のつもりで提出した3つの組織は実は脂肪であり、結論として胃切除の手術でリンパ節郭清は全く行われていなかったことが判明した。さらにno.3(小彎リンパ節)付近の脂肪から癌細胞が見つかっており、これはリンパ節転移があったことを示していた。胃癌は筋層まで深達し、リンパ管・静脈への侵襲が高度で、胃周辺の脂肪組織までリンパ節転移まで進んだ進行胃癌であったにもかかわらず、N.J.はリンパ節郭清を実施していなかったのである。

 さらに病理検査確定後に作成した第3外科のカルテに「術中診断 T2(深達度 筋層まで), N0 (リンパ節転移なし), StageTb (進行度 7段階中2段階目)」,「 病理診断 t2 (深達度 筋層まで ),n0  (リンパ節転移なし), stage Tb (進行度 7段階中2段階目)」と記載があった。第3内科のカルテにN.J.からの伝聞として、「病理検査の結果としてリンパ節転移はなかった。」との記述があった。実際の術中の診断は「T1(深達度 粘膜下組織まで), N0 (リンパ節転移なし), Stage Ta (進行度7段階中1段階目)」であり、病理診断は「t2 (深達度 筋層まで), n診断不能, stage診断不能」である。N.J.は、胃癌の進行度で誤診を犯し第2群リンパ節郭清を怠ったことを病院内で隠蔽しようと工作していたことが読みとれた。

 平成9年3月に胃癌の肝転移が判明した時点で、リンパ節に残存した胃癌細胞は、脾動脈後方リンパ節、腸間膜根部リンパ節、膵後部リンパ節、肝門部リンパ節、腹大動脈リンパ節といった広範なリンパ節に転移していた。さらに血流にも乗り、肝臓、肺、腎臓に転移していったのである。

 與志廣の胃癌は進行癌とはいえリンパ節以外に転移がなかったので、胃切除時では第1群までのリンパ節転移に留まっていた可能性が高かった。第2群までのリンパ節郭清を行いさえすれば癌細胞を取り切れた可能性が高かった。医学書にリンパ節内の癌を取り切れたと病理検査で判明した場合、根治度Aとされ、術後の5年間生存率が92%もあると解説があった。この統計には胃癌以外が死因で亡くなった患者を含んでおり、これを除けば5年間生存率は99%であった。逆に癌細胞が残存していることが確実なケースでは、根治度Cとされ、術後の5年間生存率はわずか6%であった。第2群までのリンパ節郭清を受けていれば胃癌が肝臓に転移する可能性は少なかった。與志廣が大橋病院から被った損害は、「余命1年前後の末期癌の生活」と「2週間亘る術後合併症の苦渋と死亡」の落差ではなく、「あと何年もあったであろう健康で快適な生活」と「癌再発の絶望感、2週間に亘る術後合併症の苦渋と死亡」との落差であった。

N.J.は與志廣の近い将来を重々承知し、3年半にわたる経過観察と腫瘍マーカー検査でリンパ節転移の進行を確認しながら、これを放置し、肝転移が発見されると與志廣と家族に意味がなく危険な肝切除を勧めたことになる。

 

(注記 : 東京地裁判決は鑑定を経て、進行胃癌であったにもかかわらずN.J.らが術前・術中に早期胃癌と診断し、標準手術(第2群リンパ節を全て郭清)を実施せず、縮小手術(第2群リンパ節のうち、脾動脈幹(11番)リンパ節郭清を省略)を実施した事実を認定した。しかし縮小手術と與志廣の胃癌進行との因果関係が不明確であるとして、11番リンパ節郭清不実施を違法行為と認定しなかった。)

 

 信恭はO.M.病院病理科のカルテの調査を進めた。これは解剖時にM.M.教授の助手が書いたと見られる剖検記録の抜粋である。

 

身長 158cm

横隔膜 左 第5肋間、 右 第4肋間

心臓  310g

肺 左620g、 右 520g

肝臓 (横隔膜、膵含む) 1910g

脾臓 135g

腎臓 左 230g、 右 175g

副腎 左 30g、 右 20g

胸水 左 350cc、 右 400cc

術創 正中 20 横 20 右 15cm、 stoma 4cm 、

所見 (途中省略) 左副腎 meta + (転移あり)

 

左右の副腎の腫大は術前3月14日と4月11日のCT検査で軽度腫大が診断されていたが、この記録は左副腎について転移があったことを裏付けていた。しかも解剖の現場で重量が計測されていた。しかし家族への解剖報告書には「左副腎自己融解」とあった。右副腎は、家族への解剖報告書には「右副腎摘除術後」とあった。左右の副腎は、肝臓外臓器への転移の事実を隠蔽するために、存在そのものが隠蔽されていた。

 

 これは病理解剖学的診断の臓器所見の抜粋である。

 

脾臓

大きさ : やや大、 色 : 常、 割面 : 膨隆、 硬度 : やや軟、 癒着 : +、

組織粥 + 〜 +−、 肉眼所見 : 感染脾

 

 術前3月14日のCT検査で脾臓への転移が診断されているが、これも「感染脾」と称して隠蔽していた。

 

気管

面 : 常、 傍気管リンパ節 : meta +

 

肺 (左)

形 : 常、 大きさ : 腫大、 硬度 : 弾性硬、 胸膜 : 滑、 癒着 : (−)、

含気量 : なし 〜 少ない、 割面 : 色 暗赤色、 圧出血量 : ++、

水腫 :++、 気管支 : 水腫液 +、 肺門リンパ節 : 腫大、

肉眼所見 : うっ血、水腫 + 出血

肺 (右)

左に同じ

 

家族への解剖報告書と矛盾はないが、両肺に転移があることが再確認された。術前に胸部CT検査による肺への転移の有無を確認しておらず、問題であった。

 

肝臓

      右葉後区域、尾状葉1/2切除術

      切除面血腫形成、限局性壊死

      うっ血

 

胆嚢

 

 胆嚢は4月21日の手術で切除されており、病理検査で転移が診断されている臓器であった。解剖時に「常」の状態で存在するはずがなかった。焦点の肝臓はたった3行で書かれており、これも不可解であった。

 

腎臓(左)

 黄疸腎、ショック腎

 

腎臓(右)

 左に同じ

 

 家族への病理解剖報告書では「転移:左腎臓」とあったが、解剖記録の記載は異なっていた。

 

 O.M.病院の証拠保全では裁判官が訪問した際、M.M.教授は院内にいたものの、事務局長が1時間ほど呈示を拒んだと信恭はH弁護士から聞いていた。解剖記録と病理解剖報告書で内容が矛盾していることから、病理科の臓器所見の記録はほぼすべて差し替えられていたと推察できた。病理科が作成する解剖報告書や記録まで偽造工作がなされている事実に接し、家族は改めて東邦大学医学部の闇の深さを感じざるをえなかった。MM教授が所属する東邦大学OM病院は臓器移植制度の提供側病院に指定されており、将来より悪質な医療犯罪が起きる風土があると家族は心配した。

 

(注記 : 東京地裁判決はM.M.の解剖報告書を不正確かつ杜撰と認定しながらも、損害賠償にたるほどの違法性はないとして原告の訴えを棄却した。)

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第17章  日米の肝臓外科専門医の見解

 

 雄仁と雷太は専門医の意見を聞きたかった。信恭の知り合いに医師はいたが、仲間内を非難する結果になりかねない依頼はしにくかった。なかなか適当な相談相手が見つからなかったが、H弁護士の紹介を得て、医療過誤の被害者に協力的な肝臓外科の専門医と面談できることになった。平成10年6月、2回目の証拠保全前なので、胃癌カルテとICUカーデックス、O.M.病院病理科カルテはまだ手元になかった時のことである。これはその専門医の、カルテと画像写真を見せた上での見解である。

 

胃癌手術について

 術前検査の結果からすれば、第2群までのリンパ節清をする標準手術の適応である。平成9年4月11日のCT検査報告書で転移が認められている脾動脈後方リンパ節は10番(脾門)リンパ節のことか11番(脾動脈幹)リンパ節のことか不明だが、與志廣の場合10番は第2群リンパ節でなく、11番は第2群リンパ節である。

 

胃癌手術後の腫瘍マーカー検査について

 平成7年7月、平成8年6月と腫瘍マーカーが上がっているのだから、検査をすべきだったと思う。カルテに異常なしと書いた理由を理解できない。平成8年6月から平成9年2月まで8ヶ月間も画像検査をしないのはまずい。

 

肝切除の適応について

 CT画像、DSA画像により、肝内の多発的転移、脾臓転移、副腎腫張、リンパ節転移が認められ、右葉後区域の腫瘍は下大静脈に浸潤しており、肝切除術の適応はない。肝切除を考える外科医はいないと思う。自分で肝切除を行おうというだけの技量がある外科医なら当然分かる。DSAでは、左葉内側区域に大きな腫瘍が写っている。左葉転移の状況から、右葉切除ないし右葉後区域切除はちょっと無茶である。

 

胃癌原発の転移性肝癌の破裂、肺塞栓について

 普通は、転移性の癌は乏血性だから破裂し大出血を起こすことはないと言われている。肝内の腫瘍が崩れて肺塞栓を起こすという話は、自分は経験ないし、文献でみたことがない。

 

右葉後区域+尾状葉1/2合併切除の安全性の確保について

 一般に右葉後区域切除は背臥位(仰向けに寝る体位)の逆T字切開で、下大静脈に触れる場合は胸腹連続切開で行うが、本件は肝切除の適応がない症例だから、肝切除を安全に行う条件は考えられない。肝内の腫瘍が下大静脈や門脈に浸潤している症例では手術はしない。

 

肝切除中の大量出血について

 手術直後のDSAを見ると、出血部位は特定できないが、右肝動脈の範囲で出血があることが分かる。血管が描出される時期に右葉側がボォッとしており、これが出血である。右葉後区域+尾状葉1/2合併切除は特別な手術法ではなく、出血量は一般に500ccである。本件では止血に2時間半も費やしており、出血量は10,000ccと非常に多い。これは大血管からの出血ではないか。

 

横行結腸合併切除の理由について

 初めは横行結腸と癒着していたのかと思ったが、肝切除を開始してその途中で横行結腸を切除しており、癒着ではない。癒着なら肝切除開始前に措置するからである。病理検査を見ても、癌の転移は認められず、急性の出血を認めているから、手術中に横行結腸を傷付けたことになる。

 

急性肝不全について

 4月22日、23日のICU記録、血液検査データは通常より2桁違う。重篤な肝不全を起こしている。凄惨な状況である。回復の可能性は極めて悲観的と言える。

 

縫合不全、汎発性腹膜炎について

 便漏れが起きても、極めてラッキーであれば、ドレーンで全部外に出ることもある。ドレーンが人口肛門の役割を果たすからである。再開腹は麻酔をかけて行うわけであり、その負担に身体が耐えられるかが問題で、様子を見ることもありえる。

 

4月30日の酸素吸入濃度と輸液の絞込みついて

 ICU記録を見ると確かにこうした措置をしている。この状態で治療レベルを上げることはあっても、下げることは考えられない。腹腔ドレーンを抜去しながら、そのままにしている措置は理解できない。各措置について合理的な説明ができない。当日朝の血液検査結果を見ると、非常に状態が悪い。遅かれ早かれエンドトキシンショックが起きただろうと思う。

 

5月4日の心停止直前の措置について

 心房性期外収縮が出た時点(4月30日午後)で心電図測定をし、不整脈の原因を診断すべきである。これだけ状態が悪いとそこまで調べるまでもないかもしれないが。

 

死因について

 やはり一番問題なのは肝切除術である。何故したのだろう。どこまで切れるかやってみたかったのだろうか。

 

 

 これは米国WA大学医学部助教授のM.S.博士の鑑定書の和訳である。日本の医師の中で鑑定医を見つけることが難しい現状から、雄仁がインターネットを通じて米国で鑑定を引き受けてくれる消化器外科医を見つけ出したものである。同博士のために英文で概要を説明する文書を作成し、CTDSA検査や病理解剖の写真類とともに送り、肝切除の事項に絞って鑑定を依頼した。

 

                          2000(平成12)年5月18日

題目 : 山口與志廣氏の医療記録

 

山口雄仁様 :

 

私はあなたから送付された本件記録を受け取り、鑑定を行いました。ご質問に対する私の回答は以下の通りとご了解下さい。

 

a.      本件外科手術に適応はあったか

 肝臓への胃癌の多発的な転移に切除術を試みたという先例は、極めて限られた範囲の術後経過観察しかない事例報告1件を除いて、米国及び日本の医学文献上存在しません。山口氏の生命を延ばす見込みが本当にあるというかなりの利益がもし仮にあれば、その時に限りこの処置に伴う危険性は正当化できるでしょう。本件ではそうした見込みはなく、私は本件外科手術に適応はなかったと結論します。出血したり癌が崩れるのを予防するため腫瘍を取り除かなければならないという主張に関しては、私の経験及び文献上の知識に照らし、非常にまれな状況を除けば、この種の転移性腫瘍が自然な経過で崩れたり出血を起こすことはありません。従ってこれは正しくない議論であり、送付された本件記録に記述されているような外科手術に根拠を与えるものではありません。本件手術に適応はなく、招来される危険性は容認し難いというのが私の結論です。

 

b.      本件手術中、術後になぜ出血が起きたか、その出血の要因は何か

 あらゆる肝臓手術には出血の危険が伴います。しかしながら、これらの病巣をすべて措置しようとする本件手術計画は非常に過激で、甚だしく危険なものです。本件では外科医が措置しようとした部位の数と共に出血の危険が増大し、さらにそれらの部位が記述の通りいくつかの血管に近接していたことから危険が増大したのです。

 

c.      術中に外科手術の計画を変更したことに関して誤りを犯しているか

 手術の目標を変更すると決定したため、おそらくは手術の危険性や難しさが増し、さらに出血の危険も増大したことでしょう。しかし私の意見では、術中所見に基づき、時には手術計画を変更しなければならないこともありえます。左葉に予想以上に病気の進行が及んでいるのが明らかになって、残存する正常肝は予想以上に少ないこと、術後肝不全を防ぐために出来る限りそれを残すよう試みる必要があることを執刀医達は理解したのです。私が考えるに、本件過失の主要な点はそもそも外科手術に着手したことで、と言うのも私にはそうした処置が何らの利益も見出しえないからです。

 

d.      本件外科手術後の出血部位は何処か

 本件手術に関するあなたの記述から判断して、この出血は恐らく右肝動脈枝からであろうと思いました。あなたから追加で送付された本件術後の血管造影写真の記録を鑑定し、この出血は右肝動脈の分枝であることが確認されました。

 

 私は山口與志廣氏の件に関するこれらの鑑定意見があなたのお役に立つことを切望しており、ご要請があれば他の本件記録の鑑定も喜んでお引き受けしたいと思っております。        敬具

 

M.S. 医学博士

 

参照資料24a24b MS博士が右肝動脈からの出血を認定した4月21日深夜の血管造影写真

 

 家族は手分けして、胃の腺癌原発で切除しきれない肝内外の多発的転移がある與志廣の症例に対し肝切除のみを試みて有効だった、との医学論文があるかを調べた。インターネット等で検索し、関連しそうな論文があると、和英構わず取り寄せて読んだ。医学論文の入手には大学院に在籍する雪子が力を発揮した。この中でM.S.博士が指摘した事例報告は日本のF医科大学のものであり、肝切除後10ヶ月で死亡しているものであることが判明した。こうした調査の積み重ねを経て、家族は自らが行ったカルテ調査と評価に間違いがないこと、特に與志廣に肝切除の適応はありえないこと、を確信するに至った。

 

(注記 : 東京地裁選任の国立T.S.大学のT.Y.鑑定人は、山口與志廣への肝切除実施について、M.S.博士の鑑定と同一見解であると述べ、肝切除術は治療法の選択肢に入らないと明言された。東京地裁はN.J.ら4人に肝切除を選択し実行すべきでない注意義務があったと断定した。)

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第18章  戦う決意

 

 家族は四人の医師の悪行の数々をまとめた。平成5年12月24日の胃切除術では、N.J.が早く旅行に行きたいので手術時間を短縮するためか、経験の少ない部下に手術を任せてその部下が間違えて、胃体上中部小彎後壁の病変部と胃壁を挟んで近接している11番リンパ節の郭清を省略した可能性があった。平成6年1月8日付けの病理検査報告書にある「癌は胃壁を筋層まで深達。リンパ管、静脈への侵襲高度。NO.3リンパ節周辺の脂肪組織に癌細胞あり。」を読んでN.J.は、與志廣が縮小手術で残存させたリンパ節にある胃癌細胞が増殖し、転移が広がるかもしれないと予見したはずであった。しかしこのことを與志廣や関係者に嘘をついて隠し通した。胃切除後の経過観察は通常内科の仕事であるが、N.J.は自ら名乗り出て與志廣の主治医であり続けた。平成7年7月と平成8年5月の腫瘍マーカー検査でSTN抗原が基準値を超えた際、N.J.は案の定胃癌のリンパ節転移が進行していると思ったはずだが、リンパ節転移を診断するのに適している腹部CT検査を平成9年3月まで実施しなかった。平成9年2月13日に與志廣がN.J.に異常を訴えると、N.J.は2月14日胃内視鏡検査、2月24日腹部超音波検査、3月14日腹部CT検査の順番に実施しており、N.J.は與志廣を拘束する名目ができるよう自身の専門である胃で病変を発見することを望んでいた節があった。N.J.は3月27日に與志廣が検査の結果を聞きに来るまで放置していた。N.J.は與志廣に肝内の病変を告知した3月27日に「良性の血管種でとりあえず手術が必要かも」と手術の可能性を示唆している。N.J.はこの時すでに與志廣に肝切除の適応が皆無であることを知っており、治療以外の目的で肝切除をしようとこの時点ですでに決めていたことになる。またこの日のカルテにK.H.の名前があり、この時すでに関与が認められている。3月31日に與志廣が入院した際、K.H.N.M.T.H.が主治医になっており、N.M.T.H.も関与してくる。入院後4人の医師は肝切除を実施するために必須と言われている残肝機能分析と全身シンチグラフィー、全身CT検査をせずに、4月7日に治療方針が決まったと雷太に連絡を入れ、N.J.が12日に手術を勧めている。雷太に連絡を入れた同日である4月7日には與志廣と家族に断りなくTAE(肝動脈塞栓術)を実施している。4月12日にN.J.は「肝臓以外に転移はないので、右葉切除と残肝のMCTで体内の識別できる腫瘍は全て根治できる。」「放置すると肝内の卵大の癌が破裂して大出血か肺塞栓を経て死亡する危険がある。肝切除しかこの危険を確実に回避できない。」「術式は右葉切除であり、一般の肝切除並みのリスクである。」「手術をしない場合の方がした場合より長生きできることはけっしてない。」と家族を意図的に騙して手術の承諾を取った。4月18日にK.H.が幸代に同趣旨の虚偽説明をしており、共謀関係が伺えた。肝内病変は肝臓全体に広がっており、右葉切除をすれば即肝不全を引き起こしかねなかったこと、手術でMCTの機具を用意していなかったことから、右葉切除+MCTは初めからやる気がなかったと思われた。

 N.J.の立場では肝切除さえK.H.がすれば、與志廣を癌死するまで第3外科で拘束でき、自身の胃切除時の医療過誤の隠蔽が図れるとの利益があったものと思えた。4月21日の肝切除の際、右葉後区域に血液を供給するグリソン鞘を切り離し、肝切除を中止できないことを確認した時点で手術室を退室しており、この時点でN.J.の目的は果たしたものと見られた。10時10分の皮切りから12時15分の肝切除開始まで2時間余りもかかっており、この時間を利用してN.J.が胃周辺のリンパ節を郭清したかもしれなかった。K.H.は上司のN.J.に対する貸し作りか自身の腕ためしのどちらかの動機でN.J.が持ちかけた誘いに乗ったものと思えた。4月21日の手術で肝動脈分枝から出血し、これが致命傷になったわけだが、4人の医師とM.M.は家族の注意を下大静脈に向かわせようと仕組み、肝動脈の話をしなかった。手術直後の時点で4人の医師は與志廣が肝不全と様々な術後合併症を経て2週間で死亡することを予見したはずだが、家族には回復を期待させる説明をし、騒ぎ出さないよう仕組んでいた。4月29日に信恭がN.M.に厳しい質問をすると、追及をかわすためにK.H.T.H.が30日朝に與志廣の治療レベルを落とし、別の科に所属するF.H.医師に急性心不全を引き起こしかねないビリルビン吸着の実施を依頼したものと考えられた。5月2日から4日に信恭がK.H.に厳しい質問をすると、やはり追及をかわすために、3日夜にT.H.が利尿剤の投与を止め腎不全を悪化させるとともに、N.M.が4日に膀胱洗浄を2回も実施し、迷走神経反射性徐脈を引き起こして心不全の進行を早めたようとしたと考えられた。4人の医師は代わる代わる家族にカリウム吸着を薦めたが、與志廣の血中カリウムは正常値以下であった。別の科のF.H.医師に透析療法を実施させて與志廣に心停止が起こさせようとしていたと思えた。

 もはや家族にとって民事訴訟で済ませる話でなかった。N.J.K.H.ら四人が社会から信頼されるべき医療現場に潜み、「先生」と呼ばれて大手を振っている現実を許せなかった。

 

 雷太は中学時代に「たとえ誰かから危害を加えられても、直接自分の手で仕返しをすることは法律で禁じられている。」と本で読んだことがあった。この時なぜ仕返しをしてはいけないか理解できなかった。お世話になった人にお礼をしたいと思うのが素直な心だとすれば、その逆も素直な心であろうと思えた。自分に危害を加えたものへの攻撃は自分の身を守るために当然のことであろうと思えた。

 大学時代に、江戸時代まで武士の間の私的な仕返し(あだ討ち)は合法的であったにもかかわらず、明治維新の際に国家が私人間の仕返しを全面的に禁止し、その代わりに国家が犯罪者に刑事罰を課すとともに、民事訴訟等を通じて被害者が加害者から賠償金を取り立てる制度になったと本で読んだ。私的な仕返しでは、真相究明がおろそかになるとともに冤罪が起こりえる、当事者の善悪より強弱関係で仕返しの実効性が決まってしまう、暴力団の抗争事件のように報復が報復を招く事態になりかねない、犯罪情報が限定的になり再発防止の措置が取りにくくなる、等の理由で、近代国家は旧社会が武士に公認していた仕返しの権利を強制的に召し上げたものであろうと雷太は思った。

 しかし国家機関として刑事行政を担う検察は富士見産婦人科事件を始め数々の悪質な医療犯罪を不起訴にした前歴があり、医療関係では張子の虎であった。家族五人の依頼を受け、平成10年11月に北澤弁護士は東京地検に與志廣の事件を傷害致死事件として刑事告訴するので、受理するよう要請した。相手となった特捜部検事は事件の重大性を認めて受理する意向を伝えた。その検事から厳しいが的確な指摘を受け、告訴状ができあがった。しかし告訴直前になって担当検事が交代した。平成11年10月25日に検察は告訴を受理したものの、人手が足りないとの理由でその後2年2ヶ月の長きに亘り本事件を放置した。その間に担当検事がE.H.M.Y.U.K.N.Y.K.H.、と4回、都合5人も変った。業務上過失致死の時効(5年)にあと半年足らずとなった平成14年11月に検察は、告訴人側は信恭1人のみ、被告訴人側はN.J.ら4人とOM病院病理科のM.M.を取り調べただけで事実確認の作業を終えてしまった。そして検察は、こともあろうに東邦大学が民事訴訟で鑑定人に推薦した国立A大学医学部のM教授を鑑定人に選び、医学的な事項の鑑定だけでなく、立件の是非の判断まで委ね、事件を丸投げした。M教授とN.J.らが所属する大橋病院第3外科のS教授は、当時、定員6名の日本消化器外科学会分科会メンバーの2人であった。M教授とS教授は共著が数冊あり、N.J.が筆者に加っている著作もあった。東邦大学は設立以来、国立A大学から指導者の派遣を受けており人的交流が盛んであった。彼等は親しい業界仲間なのである。民事訴訟では、原告がS教授とM教授の蜜月の関係を指摘し、東京地裁はM教授を鑑定人に選任しなかった。北澤弁護士は検察に民事訴訟での鑑定人選任の経緯をM教授の鑑定が出る前に説明し、鑑定人を変えるよう要請した。しかし検察はこの要請を却下した。案の定M教授は東邦大学寄りの鑑定意見を出してきた。ただそれでも肝切除強行だけは東邦大学をかばいきれないらしく「肝切除は非常にチャレンジングな手術であるが、十分な説明をして患者・家族の同意を得ていれば刑事責任を問うことは難しい。当事者間の同意の有無は、検察が判断すべきことである。」との鑑定意見を出してきた。北澤弁護士は、與志廣に一番長く付き添い医師の話を聞きメモを取っていた雷太の取り調べを要求したが、検察は黙殺した。検察は結局家族の内信恭から事情を聞いただけで他の取調べをしないまま嫌疑不十分として平成14年2月26日に不起訴処分を決定した。告訴当初検察は捜査に支障を来すから、マスコミや第三者への公表は控えて欲しいと要請していたが、後で思えば検察が医療犯罪を闇に葬るための便法であったようである。

家族は検察審査会に審査申立をおこなうとともに東京高等検察庁に不服申立をした。検察審査会は家族から事情聴取することなく申立から20日で不起訴処分妥当の議決を行った。

東京高等検察庁は雷太を呼んだものの、面談の目的は事情聴取でなく不満のガス抜きであった。雷太は取調室に調書を取る事務官がいないことで検察の本音を見透かした。担当のY.H.検事は「M教授は鑑定書の中で『たとえ99%治療効果がないと予見できても1%の可能性が期待できる治療行為に刑事罰を科せば、日本の医学の発展が阻害される。今回の肝切除は非常にチャレンジングであるが、事前に本人と家族に説明していれば刑事罰は問えないだろう。事前説明が適切なものかは検察が判断することである。』と意見している。検察として、たとえ日本中の大多数の医師がこのような治療法はないと主張しても、一人の医師が期待利益は皆無と断定できないと主張すれば医師の裁量権の問題あり、刑事罰を課せられないと考えている。この事件はM教授が十分な事前説明をし、患者が納得していれば刑事罰を問うべきでないと主張しており、少なくとも一人は全面否定しない医師がいることになる。事前説明の内容について当事者間で重大な争いがある。雷太らの主張はN.J.らの主張と比較して信頼性があるが、刑事では民事と異なり、一方の主張が100%立証され、もう一方の主張が100%否定されなければならば立件できない。刑事罰を課すには嫌疑不十分である。個人的には同情しているが、検察としては取り上げられない。」と東京地検が不起訴にした事情を雷太に説明した。雷太は医師の裁量権について「この肝切除では治療効果がないばかりか大出血の危険性が予見できており、検察がここまで医師の裁量権を認めることに納得できない。これでは万が一成功すれば実験材料(患者)の利益になるという名目で人体実験を強行し、重大な結果を招いても刑事罰を課せられないことになる。しかもこの事件では病理科医までもが隠蔽工作に加わっている。病理科医が所属する東邦大学(O.M.病院)は臓器移植制度の提供側病院に指定されるほどの社会的な地位があるが、実はこの大学なら臨床医と解剖医が結託して医療犯罪を繰り返しかねない。検察が今回の事件を放置すると近い将来さらに悪質な事件が起きるだろう。」と主張したが、Y.H.検事は取り合わなかった。また雷太はN.J.の術前説明の事実認定について「検察は告訴以来2年余りの間に担当官が4回変わり、その間取調べを行わなかった。もっと早く関係者から事情聴取をすれば事実認定できたであろう。家族が主張しているN.J.の説明が事実と認定されれば、業務上過失致死罪でなく傷害致死罪が成立するはずである。」と問いただしたところ、Y.H.検事は「N.J.の術前説明が雷太らの申告通りであれば傷害致死が成立する余地はあったが、東京地検特捜部は忙しくこの事件の取調べに時間をかけられなかった。これは申し訳ないとしか言いようがない。もう時間切れである。」と回答した。家族は医療過誤事件を立件しない理由を探すことしか興味のない検察の態度を再確認し、検察への訴えを断念した。雷太は検察官の態度を記録に残すため、議事録を内容証明郵便で送付しておいた。

 

 與志廣の無念さを晴らすにはどうすればよいか、犯罪を犯したN.J.K.H.N.M.T.H.、やこれら悪辣な犯罪者を医療現場で野放しにする東邦大学とどう戦えばよいか、同じ事件を二度と起こさないために社会に何を訴えればよいか、雷太は思案を巡らせた。民事訴訟は勝ったとしてもN.J.らは賠償金を損害保険で払うはずで、自身の懐は痛まないはずであった。

「お父さん、次に何をすればいい。」と雷太は與志廣の遺影に語りかけた。

 

(注記 : 東京地裁判決は、「NJが胃癌手術の失敗を隠蔽するためKHに肝切除をやらせた」、「KHは自らの技量を試すために肝切除を実施した」との原告の主張を確証がないとして認めず、本事件を故意による傷害致死とは認定しなかった。しかし同判決は、NJKHらが、治療効果がなく極めて危険と知りながら、虚偽の説明によって與志廣と家族が肝切除承諾の誤った判断をするよう誘導した、との事実を明確に認定した。)

 

 

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