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08年新春「箱根駅伝を考える」(4)

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【PJ 2007年12月31日】− (3)からのつづき。箱根駅伝出場校の指導者は今年は全員長距離経験者である。だが以前は例外もあった。中央大学の監督だった木下澄雄(現中央大陸上部相談役)は現役時代は砲丸投げの選手だったという。しかも、96年に優勝を経験している。陸上競技の指導は競技経験がなくても指導者としてのスキルがあれば強いチームに育てることができた例は実に多い。

 箱根駅伝ではないが大学西日本一を決めるびわ湖大学駅伝で06年に優勝した第一工業大学の岩元監督は学生時代は水泳選手で、大学の監督になる前の中学教員時代に陸上の指導をした程度だったという。箱根駅伝の名物監督と言えば個人的には中村清(故人・元早稲田大監督)だろう。以前は各校一台ずつ主催者の用意したジープが伴走車としてつきのべつまくなしに選手にマイクで声がけができた。

 中村監督は選手がばててくるとよく早稲田の校歌”都の西北”を歌って選手を激励していた。名伯楽といえども在任期間中(76年〜84年)の間、一回しか優勝していない。一時は交通事情の悪化もあって監督は主催者の用意した監督者に分乗し声がけができなかったが、03年からは再び主催者の用意した伴走車が各校一台ずつ、ついて往路復路各10分だけマイクで声がけができるようになった。

なぜ箱根は盛り上がったのか
 箱根は関東の一地方駅伝に過ぎないが、日本一有名な駅伝でもある。箱根が盛り上がった背景には”政治力”もあるのだ。戦前には後に自民党の大物政治家として有名だった河野二郎(故人・河野洋平衆議院議長の父)が箱根を走った。

 それだけでなくテレビ中継が始まる87年以前は、東京大学までもが箱根に予選を通過して出場できたこともあった。箱根駅伝の出場経験のある大学は東大、早稲田、慶応、明治など日本の政界、官界、財界の中枢を担う者の出身校である。そういった者たちが箱根を盛り上げるべくいろいろな形でサポートを続けたのだ。海部元首相が在任中、芦ノ湖で箱根を観戦したのはその証明といっていい。そうでないと、沿線約100キロ閉鎖のため警察、行政を協力させることができた理由の説明がつかない。

 では、協力が得られないとどうなるかというと、関西学生駅伝を例に出すと戦前からコースが何回も移転した。一時は兵庫、大阪、京都を結ぶコースで行われた事もあるが、ある時警察幹部から「道路閉鎖にはもう協力できない。どうしてもと言うなら午前0時以降の深夜にして欲しい」と言われたという。以降は京都、奈良、琵琶湖、彦根城周回コースと会場を転々とし一時は淀川河川敷まで追いやられた事もあった。

 87年以降は観光振興になると地元を口説いて丹後半島に会場を移転し、また道路で競技ができたが観光協会が学生相手だとあまりもうけられない事を理由に協力を渋ったの事をきっかけに琵琶湖にコースを移転、京都大学出身の嘉田知事の協力もあって箱根駅伝と並ぶビッグイベントに育てたい意向だが、地方政界や官界のサポートが脆弱(ぜいじゃく)でまだどうなるかは分からない。箱根が日本一の駅伝になれたのは箱根校卒業生を中心とした政、官、財の強力なサポートがあったからだと言っていいだろう。

 ここまでサポートが得られたのも箱根ならではといえるのだ。【つづく】

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パブリック・ジャーナリスト 鈴木 義哉【 兵庫県 】
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