恩田善雄氏論文 甲斐駒ヶ岳研究
甲斐駒ケ岳―わたしの覚書
甲斐駒ヶ岳研究(1)
恩 田 善 雄 (東京白稜会)
※編集部注
「甲斐駒の白稜か、白稜の甲斐駒か」と謳わ れるほど、東京白稜会の甲斐駒ヶ岳研究に対 する執念は瞠目すべきものでありました。
全会員が一丸となって、一つの山域研究に集 中する姿勢は山岳会の新しいあり方を示す嚆 矢であったように思われます。
創立会員である故鎌田久氏、及び恩田善雄氏 が計画推進の中心として、この壮大なプロジ ェクトを進めたものでありますが、鎌田氏亡 きあと、現在では恩田氏がライフワークとし て膨大な資料の整備に没頭しておられます。
本来ならば、これだけの資料は単行本とし て出版されてしかるべきものでありますが、 グループ山想相談役である恩田善雄氏の特別 のご配慮により、本誌への連載が実現したも のであります。恩田氏のご好意に対し深く感 謝の意を表します。
甲斐駒ヶ岳わたしの覚書き
恩 田 善 雄
(東京白稜会)
ま え が き
甲斐駒についての覚え書きを少しずつノートに書きとめておいたものが、たまりにたまって、このようなものになった。
わかいころは『甲斐駒ヶ岳研究』をまとめたいとと思い、記録を収集したり、未知の部分を登ることに懸命になったが、一つの山を究めるということは、とても個人の力の及ぶところではなく、大それた望みを抱いたということが、やっとわかるようになった。あの大きな山に対してあまりに小さい存在だということが、実感として味わえる年齢に達したのかもしれない。研究などとはとてもおこがましく、やはり私の任ではなかったような気がする。総まとめは新進気鋭の人に任せるとして、せめてそのための資料作りを試みたい。
研究といえば普通は、登攀史と記録といったものが主となるが、それでは主要な地域やルートにかたよってしまう恐れがある。実用書ならばそれでもよいが、たとえ小さなピークでも、滝のない平凡な流れでも、私にとって忘れることのできない場所がたくさんある。登山面からはあまり重要でない場所や事柄でも、いろいろ調べていると思わぬ発見があったりする。これらを捨てることは忍びがたい。そこで、ごく単純な発想として、項目を並べて解説することを思い立った。これならば小さな部分ももれることはないし、何よりもあとからいくらでも追加できるという便利さがある。なまけものには一番いい方法かもしれない。
これはあくまでも、わたしの主観によってまとめたもので、いままで疑問もなしに伝えられてきたことに、私なりの解釈をすると同時に、未知のものを掘り起こすことに主眼をおいている。決してガイドブックではないし、さりとて研究書でもない。あくまでも覚え書きに過ぎないのである。したがって、いわゆる登攀ルートは紹介するだけにとどめた。詳細は参考資料をあげてあるのでそによられたい。
文中、わたしの思い過ごしがあるかもしれないが、それは適当に修正していきたいと考えている。幸いデータはすべてコンピュータにはいっているので、追加や訂正は簡単である。長く終わりのない仕事になりそうだが、甲斐駒に憑かれた一人の男の歴史として、この書を残すつもりでいる。
最近の若い人たちは昔のことや、ものごとの起源といったものにはあまり興味を示さない。それに調べようにも取付きがないのが実状である。また、むかし登った人たちは最近の情報をまったく知らない。この書がそれらの間を埋めるものとしての役目を果たすことができれば幸いである。(一九八七年一月)
項目目次
<あ> (39)
アイスクライミング
アイスクライミング
アイスクライミングゲレンデ
アイスクライミング事始め
赤石渓谷
赤石沢
赤石沢奥壁
赤石沢奥壁中央壁
赤石沢奥壁中央稜
赤石沢奥壁左ルンゼ
赤石沢奥壁右ルンゼ
赤石沢奥壁右ルンゼ右壁
赤石沢前衛壁
赤石沢ダイヤモンドフランケ
赤石沢ダイレクト登攀
赤石沢直接稜
赤石沢八丈沢
赤石沢八丈沢奥壁
赤石沢右俣
赤石沢宮の沢
赤石沢無名フランケ
赤石沢無名ルンゼ
赤石山脈
赤石楔状地
赤河原
赤蜘蛛同人
赤薙沢
アサヨ峰
旭滝
悪沢
新しい岩場の出現
あて山
雨乞岳
雨乞岳を繞りて
天津速駒伝説
編笠山
編笠ルンゼ
荒沢
アレ沢
<い> (6)
池尻沢
イセ谷沢
一条の滝
一の沢
岩登事始め
イワンヤ沢
<う> (4)
ウシロットビ沢
鵜の首の滝
馬八節
裏見寒話
<え> (12)
衛星峰
Aフランケ
S状ルンゼ
烏帽子岩
烏帽子沢
烏帽子岳
烏帽子中尾根
烏帽子中尾根北側スランケ
烏帽子中尾根側壁
烏帽子ナメタ
縁故節
延命行者
<お> (32)
大岩沢
大岩山
大沢
大平
大平山荘
大薙
大武川
大武川
大武川遡行記録集
大鵡川の読み方について
大藪温泉
黄蓮谷
黄蓮谷中間尾根
黄蓮谷の滝の名称について
黄蓮谷左俣
黄蓮谷左俣中央稜
黄蓮谷左俣右ルンゼ
黄蓮谷右俣中央リッジ
オーレンと黄蓮谷
奥栗沢
奥駒津沢
奥千丈の滝
奥の滑滝沢
小黒川
尾白川
尾白川渓谷道
尾白川本谷
尾白川林道
お中道
鬼の窓
鬼の窓沢
オボコ沢
<か> (41)
甲斐駒ケ岳の略図
甲斐国志
外国人による駒ケ岳初横断
外国人による初期の登山
甲斐駒尾白川黄蓮谷綜合報
甲斐駒ケ岳
甲斐駒岳ケ岳赤石沢遭難報告
甲斐駒ケ岳山脈
甲斐駒ケ岳事典
甲斐駒ケ岳の歌
甲斐駒ケ岳の句
甲斐駒ケ岳の現代詩
甲斐駒ケ岳の三角点
甲斐駒ケ岳の標高
甲斐駒ケ岳の描写
甲斐駒ケ岳北方の特徴的地形について
甲斐駒をめぐる岩と渓
開山
甲斐叢記
甲斐名勝志
粥餅石
角兵衛沢
角兵衛沢中尾根
角兵衛沢の頭
角兵衛沢の岩小屋
角兵衛の大岩
風穴
金山沢
釜無川
釜無川源流域研究
釜無山脈
釜無山
GAMS創立25年記念号
かもしか山行
カラ沢
カラ沢尾根
唐音沢
空堀沢
鹿嶺高原
ガンガの沢
雁ケ原
<き> (18)
木師御林山絵図
擬人化
北沢
北沢長衛小屋
北沢峠
北岳
北岳・甲斐駒・赤石
北岳・甲斐駒と黒部の岩場
北坊主岩
北坊主岩北壁
北坊主岩中央稜
北坊主岩東北壁
北坊主岩東北稜
北坊主の沢
峡中紀行
教来石
恐竜カンテ
清春白樺美術館
<く> (22)
熊穴沢
熊穴沢小ギャップルンゼ
熊穴沢大ギャップルンゼ
熊穴沢中央稜
熊穴沢中間ルンゼ
熊穴沢の頭
鞍掛沢
鞍掛前沢
鞍掛山
栗沢群
栗沢山
黒川
黒川
クロスラインスーパークラック
黒津沢
黒戸尾根
黒戸尾根案内
黒戸北沢
黒戸山
桑木尾根
桑木沢
桑木沢中央壁
<け> (4)
渓谷登攀事始め
継続登攀
結氷期登攀
厳冬期初登攀
<こ> (20)
国界橋
木暮理太郎の登山
五合目小屋
小島烏水と甲斐駒ケ岳
五丈の沢
五丈の滝
小滝の沢
固定ザイル事件
駒岩
駒ケ岳
駒ケ岳開山記
駒ケ岳という書き方
小俣沢
駒津沢
駒津峰
駒薙の頭
駒の松
小屋石
<さ> (9)
笹の沢
笹の平
サデの大岩
三角岩の沢
山岳誌上の甲斐駒ケ岳文献
三角点ピーク
三大岩壁
三宝の頭
山名の起源
<し> (41)
塩沢温泉
塩沢川
鹿の窓
獅子岩
四丈の滝
七合目小屋
七丈の滝
七丈の滝
七丈ルンゼ
七里ケ岩
七丈の滝沢
篠沢
錫杖ケ岳
写山要訣
集中登山
城ケ沢
小ギャップ
精進ケ滝
城の沢
昭和初期の甲斐駒ケ岳絵図
昭和初期の登山
初登攀論争
白岩
白岩岳
白須
白髭神社
汁垂沢
白崩岳
登白崩岳記
白崩岳論争
神宮川
人工登攀
神蛇の滝
信州往還
神代桜
新版色摺甲斐国絵図
森林限界
<す> (5)
水晶沢
水晶薙
スーパー林道
菅原山岳会
スキー登山
<せ> (9)
積雪期初登頂
石尊神社
仙丈岳
千丈の滝
千丈の滝岩小屋
仙水小屋
仙水谷
仙水峠
千段刈り
<そ> (2)
僧・海量の詩
蒼氷の滝
<た> (30)
第一尾根
第一高点
第一高点正面壁
第一高点ダイレクト尾根
第一バンド
台ケ原
大ギャップ
第三尾根
第四尾根
大正時代の登山
第二尾根
第二高点
第二高点南壁
第二最高点という名称をめぐって
大坊
ダイヤモンドフランケ
鷹岩
高岩
高岩ルンゼ
高遠町
タカミヤ沢
高嶺
滝沢
滝道川
竹沢長衛
武田節
武智鉱泉
田沢川
丹渓山荘
単独行
<ち> (8)
竹宇
竹宇前宮
地獄谷
地獄谷の頭
長衛荘
長衛バンド
町村誌
チンバ沢
<つ> (4)
つづみ
燕岩
つばめがえしの壁
燕の巣
<て> (3)
天狗岩
天狗の壁
伝説
<と> (9)
刀利天祠
戸台
戸台川
戸台川源流トラバース道
戸台川本谷
戸台川本谷無名沢
戸屋平
トラバースバンド
鳥原
<な> (19)
中尾沢
中尾根
中栗沢
中岳
中ノ川
中ノ川・小ギャップルンゼ
中ノ川乗越
中山
中山のスイッチング作用
中山峠
流川
流れコンバ
流れ山
ナギ沢
七つ釜
滑滝沢
南嶺会
<に> (12)
濁川
濁川・鞍掛沢
濁川本谷
濁の大岩
西坊主岩
西坊主の沢
二・七バンド
二の沢
日本登山記録大成
日本南アルプス
日本南アルプスと自然界
韮崎市
<ね> (1)
寝木小屋沢
<の> (5)
鋸岳
鋸岳各ピークの名称と信州側登路に就て
鋸岳山頂の名刺入れ
乗越沢
野呂川
<は> (16)
白州町
白鳳峠
白稜
白稜・風雪の25年
白稜創立50周年記念号
長谷村
八丈台地
八丈の岩小屋
八丁坂
早川尾根
早川尾根小屋
早川尾根という名称をめぐって
早川尾根の頭
バリエーションルート時代の開幕
刃渡り
刃渡り沢
<ひ> (14)
Bフランケ
東大平
東駒ケ岳
日向沢
日向八丁
日向八丁尾根
日向山
檜尾根
標高の変更
瓢箪淵
屏風岩
ひょんぐりの滝
平賀文男
広河原峠
<ふ> (14)
フォッサマグナ
双児沢
双児山
双児山西壁
双児山北西尾根
双児山無名ガリー
不動岩
不動岩
不動岩の頭
不動の滝
フランス人のチムニー
フリークライミング
文化年間の大武川遡行
噴水の滝
<ほ> (12)
鳳凰山
鳳凰山
坊主岩
坊主岩鉢巻ルート
坊主尾根
坊主中尾根
坊主の沢
坊主の滝
ホクギの平
本峰西尾根
本峰西岩稜
本峰北西尾根
<ま> (20)
舞鶴松
前栗沢
前屏風の頭
前松尾沢
前宮
前山と前岳
牧原
幕岩
幕岩尾根
摩利支天
摩利支天沢
摩利支天正面壁登攀
摩利支天西山稜
摩利支天中央壁
摩利支天東山稜
摩利支天東壁
摩利支天南山稜
摩利支天南西稜
摩利支天前沢
摩利支天ルンゼ
<み> (17)
水場の沢
三つ頭
三つのつむじ
南アルプス
南アルプス
南アルプス国立公園
南アルプスと奥秩父
南アルプス林道
南坊主岩
南坊主岩東壁
南坊主岩東稜
南坊主岩正面壁
三峰川
宮の大岩
宮の頭
宮の沢
妙見岳
<む> (2)
武川村
胸突八丁
<め> (1)
明治時代の登山
<も> (2)
樅沢
森 義正
<や> (10)
矢当石
ヤチキ沢
柳沢
ヤニクボの頭
ヤニクボルンゼ
藪沢
藪の湯
山梨県北巨摩郡山岳登山案内
山の団十郎
山は生きる
<よ> (4)
横岳
横岳峠
横手
横手前宮
<ろ> (5)
六合目石室
六丈の沢
六町ダテ
ロックガーデン
六方石
│
│
│壁
│
│奥
│
│岳
│
│石
│
│赤
│
│の
│
│冬
│
図
絵
岳
ヶ
駒
斐
甲
の
作
制
年
2
1
治
明
【項目の説明】
∧地∨ 地名あるいはルート名
∧書∨ 書名
∧文∨ 文章名
∧人∨ 人名
∧建∨ 建造物あるいは山小屋名
∧歌∨ 詩歌
∧団∨ 団体または山岳会名
∧事∨ その他のもの、抽象的な名称等
アイスクライミング(あいすくらいみんぐ) ∧事∨
氷壁を求めての登攀は、岩登りと同様に現在の登山界に定着している。標高の低い我が国の山で堅氷を求めるには、冬期の滝や側壁を対象とするしかなく、寒気が厳しく積雪の少ない山が最適とされている。甲斐駒ケ岳は、この条件を備える数少ない3000メートル級の山の一つで、すでに1950年代にアイスクライミングが始まっている。もっとも、初期のものは冬期の谷を登ることが主目標であり、そこで遭遇した氷壁を登ったにすぎなかった。しかし、1956年暮れから年頭にかけて黄蓮谷左俣の冬期登攀に成功した古川純一ら(ベルニナ山岳会)は、単に谷を登っただけでではなく、氷結した滝の直登を目的としており、新しい登山のあり方を示すものとして注目された(「『岳人』117号」)。冬期の谷の開拓が一段落したのち、登攀は次第に氷壁のみを目指すものへと移行した。1963年1月の小森康行ら(日本クライマースクラブ)による篠沢・七丈の滝登攀は、その嚆矢といえよう(『山と渓谷』1963-4)。無雪期には見向きもされなかった小沢に予想外の氷壁が発達する場合も多く、新ルート発見への興味もある。1982年暮れから年頭にかけての北川勇人ら(東京白稜会)による鞍掛沢周辺における活動はそれを示しているといえよう(『岳人』429号)。また岩質等の関係から無雪期には直登不可能とも見えた滝にルートを拓くこともできる。1983年暮に行なわれた広川健太郎ら(春日井山岳会)による戸台川・七丈の滝登攀は、その代表的なものであろう(『岳人』441号)。用具も、かつての冬山用のピッケルから氷壁登攀専用のものが考案され、アイスバイル、出歯アイゼンと併用した、いわゆる「ピオレトラクッション」が定着した。登攀形式も、初期の手掛かり足場を切って登ったものから、人口登攀を経て、フリークライミングといわれるものへと変化している。ルートの豊富なことに加えて、難易さまざまなルートが選べるこの山は、新しい登攀対象として見直され、いまアイスクライミングの黄金時代を迎えている。筆者は1940年代から「甲斐駒ケ岳の真価は谷にある」と主張し続けたが、それが証明されたような昨今である。なお、アイスクライミングの歴史と動向を知るには、『岳人』450号(冬山特集・氷瀑王国・甲斐駒ケ岳)がよく、ルート解説は下記のものが詳しい。
●参考資料
[T]べるくらんと「甲斐駒ケ岳のアイス・バリエーションルート」(『山と渓谷』1980-1〜3)
[U]べるくらんと「甲斐駒の氷瀑ルート」(『日本登山大系』第9巻・白水社1982)
[V]広川健太郎編『アイスクライミング』(白山書房・1997)
アイスクライミング(あいすくらいみんぐ) ∧書∨
広川健太郎編によるアイスクライミングのルート図集で、北アルプス、南アルプス、谷川岳、八ヶ岳等のルート約80が収録されている。この種の図書としてはじめての企画で、巻末には技術講座もあり、写真も豊富に挿入されている。この書を通読すれば、アイスクライミングの現状と歴史が一応理解できよう。甲斐駒ケ岳周辺では主要な16ルートが紹介されているが、いずれも中級以上のもので、当時の最新の情報が盛られている。B6版、271ページ。1984年12月。白山書房発行。1997年全国版として新しいエリヤが加えられ再版された。戸台川周辺のルートがいくつか紹介されている。
アイスクライミングゲレンデ
(あいすくらいみんぐげれんで)∧事∨
一つのルートを完登して稜線に立つことが本来のクライミングといえるが、そういった形式にこだわらず、手近な場所に氷を求めてクライミング自身を楽しむという傾向が、1980〜90年代に目立つようになった。主に谷の下流の側壁にあるルンゼがその対象であり、内容的には優れた登攀が行なわれている。入山も容易なことから将来はゲレンデとして発展する可能性がある。戸台川流域、尾白川流域にいくつかのルートが開かれているが、当然、ほかのエリヤも開拓されよう。
●参考資料
[T]広川健太郎編『アイスクライミング』(白山書房・1997)
[U]広川健太郎「尾白川下流のルンゼ登攀」(『岩と雪』116号)
アイスクライミング事始め
(あいすくらいみんぐことはじめ)∧事∨
甲斐駒ケ岳の谷は、氷壁登攀の舞台として、近年、多くのクライマーを迎えているが、この山ではじめての試みは、1955年1月、鹿島達郎、原田敏明によって黄蓮谷で行なわれた。二人は屏風小屋より千丈の滝上に下り、坊主の滝を越え、二俣から右俣に入ったが、悪天候と装備不十分のため、奥千丈の滝中段より引き返している。単に結氷期の谷を登った記録では、1949年晩秋の碓井徳蔵ら(鵬翔山岳会)による黄蓮谷左俣、1950年春の原田敏明、恩田による同じく左俣の記録があるが、真正面から氷に挑んだのは、前記のものがはじめてである。厳冬の完登記録としては1956年12月末の古川純一ら(ベルニナ山岳会)による黄蓮谷左俣登攀が最初である。しかも、このパーテイは、氷結した滝の直登を目的としており、氷壁に対する」はじめての意欲的な試みとして我が国の登攀史上、高い評価が与えられている。黄蓮谷右俣完登までには下記のような記録がある。
○黄蓮谷右俣奥千丈の滝まで=1955年1月2日 鹿島達郎、原田敏明(『白稜』90号)
○水晶沢右俣=1955年12月初旬 長嶋照平ら(アルムクラブー私信による)
○黄蓮谷右俣結氷期初登=1956年11月23日 恩田善雄、漆畑 穣、青木秀夫(『白稜』113号)
○黄蓮谷左俣厳冬期初登=1956年12月31日〜1月2日 古川純一、石川治郎、小森康行(ベルニナ山岳会―『ベルニナ』10号、『岳人』117号、『わが岩壁』山と渓谷社・1965)
○黄蓮谷右俣―インゼルまで=1957年12月31日〜1月1日鹿島達郎 飯山邦二、伊藤幸之輔(『白稜』128号)
○黄蓮谷(コース不明)=1958年1月22〜23日 立田 實(東京緑山岳会―『立田實追悼誌―駆ける山々5000日』1984)
○黄蓮谷右俣厳冬期初登=1958年12月31日〜1月1日 中尾正司、小林秀康、伊藤幸之輔(『白稜』140号、『現代登山全集』5・東京創元社・1961)
○黄蓮谷左俣厳冬期第二登=1960年1月2日 新井豊明、伊藤幸之輔(『白稜』152号)
○黄蓮谷右俣厳冬期完登=1960年1月2日 伊藤亮三、小林秀康(『白稜』152号)
●アルムクラブの記録は、摩利支天西山稜寄りの岩場を登っている。
赤石渓谷(あかいしけいこく) ∧書∨
南アルプス研究家として知られた平賀文男の南アルプス関係、三冊目の著作。1933年、隆章閣発行。B6版、310ページ。内容は南アルプスの渓谷より登頂の紀行文を集めたもので、全十八章より成る。動植物の生態から、地誌的研究、歴史、民俗等にも触れており、甲斐駒ケ岳では、尾白川、大武川の遡行が詳しく書かれている。南アルプスを紹介した古典的名著として知られている。「甲州台ケ原の宿は、板ぶきに石を並べた屋根の村家が、信州の往環をさしはさんで続き、やや高台をなして、北には八ヶ岳、東には金峰山、茅ケ岳を望み、そして西にはま近く南アルプスの峻剛甲斐駒ケ岳を控え、峡北山郷の奥座敷として、四囲を飾る自然の配置は、真に巧妙をきわめ、秀麗をつくしたものである。この村家に入った者は、山に接近して、夏といえども既にうっすら冷たい嵐気を覚える。そして西方に近く聳える駒ケ岳は、そのピラミッド形のいかめしい山体に二、三条の残雪をちりばめ、その銀条を夏の陽に、いたくキラキラと光らせているのさえ、いかにも南アルプスの登山口へ来たのだ、という感じが深い・・・・」という詩情のある文章で始まっている。(→平賀文男)
∧事∨
●参考資料 石渡 清「山の文章・平賀文男の“赤石渓谷”」(『山と渓谷』1962-6)
赤石沢(あかいしさわ)∧地∨
山頂より東南に一直線になって落ち込む甲斐駒ケ岳最悪の谷で、落差は大武川の峡底まで1500メートルに達する。平均傾斜は40度に近く、上部一帯は古くから地獄谷と呼ばれる壮絶な岩場を形成している。黒戸尾根八合目より、本峰と摩利支天峰との鞍部に至る登山道が、この谷の源流を横切っており、ここを辿れば谷の概念を知ることができる。なお、この道より上部は赤石沢奥壁と呼ばれる岩壁帯となっており、この山の代表的な岩場として知られている。出合い付近に赤色の岩塊が多いことから、古くからこの名で呼ばれている。出合いからしばらくは、単なる谷歩きで滝場とゴーロが続くが、断層状の岩壁にかかる高さ50メートルの大滝を過ぎると、急に傾斜が加わって完全にクライミングの領域となる。大滝下に右岸より摩利支天ルンゼ、滝上に左岸より八丈沢が合流する。源流近くにはこの外に、摩利支天峰北の鞍部に達するS状ルンゼが分かれている。中流から源流にかけての左岸には、ダイヤモンドフランケと呼ばれる岩壁群があり、奥壁とともに多くの登攀者を迎えている。赤石沢をめぐる登攀史は甲斐駒ケ岳のバリエーションルート開拓の歴史といっても過言ではなく、悲喜こもごも、幾多のエピソードを秘めながら、我が国の代表的岩場の一つとしての地位を占めるに至った。1949年偵察、1950年試登の後、1952年9月、恩田、佐藤宏一は、出合い付近のビバーク地より11時間の苦闘の後、八合目の台地に抜け出ることに成功した。東京白稜会が、その総力をあげて開拓に力を注いだ地域で、入谷は100回を越えている。甲斐駒ケ岳の真正面に深く刻まれた谷であり、東山麓からも上部を望見できる。この山の険しさを見事に表現した谷といえよう。
また、赤石沢の特徴の一つとして、近代登山のあらゆるタクテックスが、ここに凝結していることがあげられる。沢登り、渓谷登攀、ルンゼ登攀、フェイスクライミング、ボルト連打による人工登攀、アイスクライミング、フリークライミング、継続登攀等の舞台であり、その登攀史を見れば、我が国の近代登攀史の一端をうかがうことができる。
●記録 *1952年9月21日〜22日 恩田善雄、佐藤宏一(『白稜』60号)
*1959年12月29〜1月1日 恩田善雄、市川 正(『白稜』152号)
*1961年7月15〜16日 森 義正、坪井森次、加藤啓司(『白稜』176号)
*1961年12月29〜30日 森 義正、坪井森次、須藤和雄(『赤石沢遭難報告号』、『白稜』175号)
●参考資料 「甲斐駒ケ岳赤石沢の岩壁群」(『クライミングジャーナル』No.18)
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳、鳳凰山、長坂上条
赤石沢奥壁(あかいしさわおくかべ) ∧地∨
赤石沢の源頭にある高さ350メートル、幅500メートルの岩壁で、甲斐駒ケ岳山頂の東南面を形成している。黒戸尾根八合目より、本峰と摩利支天峰との鞍部に達している登山道のあるバンド(通称トラバースバンド)より上部を指し、ここから容易に取り付くことができる。岩壁には赤石沢の本流を成す二本のルンゼとその中央稜、左側に中央壁がある。本谷が急激に落ち込んでいるため、高度感のある登攀が味わえる。また、三本の顕著なバンドが壁を横切っており、下から第1〜第3バンドと呼ばれている。この第1バンドとは前記のトラバースバンドのことである。第2、第3バンド間はほぼ垂直となっており、この部分の登攀が困難である。第3バンドから上は風化した部分が多く、ところによっては砂を固めたような岩もある。一般にこの山の南面では、垂直部分の岩は固く、傾斜が落ちると、もろくなるという傾向があり、この岩壁ではとくに顕著である。これは風化作用が日照の影響を強く受けていることを物語っているもので、北面の岩にはこのような現象は見られない。また、壁全体にわたって草付きやブッシュが点在し、ルートによってはすっきりしないものもある。現在まで10本近い直上ルートが拓かれている。初登は無雪期、積雪期とも中央稜より成された。壁の細部の名称は、下記の資料[T]および[U]によって確定した。1949年12月の大賀裕文ら(神戸登攀倶楽部)による中央稜フランケ登攀によって開拓の歴史を終えた。奥壁はこの山の顔といってもよく、俳人・前田普羅は「鬼面して甲府盆地を覗く駒ケ岳が人間を驚かすために・・・・・」と形容している。
●参考資料 [T]恩田善雄「赤石沢奥壁・他のルートへの考察」(『白稜』85号・1954)
[U]恩田善雄「赤石沢奥壁」(『白稜』123号・1957)
[V]恩田善雄「甲斐駒の岩場・赤石沢奥壁」(『現代アルピニズム講座』2・あかね書房・1968)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢奥壁中央壁
(あかいしさわおくかべちゅうおうかべ)∧地∨
奥壁のほぼ中央部にある高さ250メートル、幅150メートルの三角型の壁で、第3バンドによって、上、下二つの部分に分かれている。下部の壁は第2、第3バンド間にあり、下半はすっきりした垂壁だが、上半はほとんどがブッシュ帯である。甲斐駒ケ岳ではじめて埋込ボルトを積極的に使用して登られた岩壁で、初登攀者である遠藤二郎氏からの私信によれば、ロックハーケン、アイスハーケン類20本、埋込ボルト15本を使用したという。第3バンドから上部は風化が激しく、本田、新藤による左寄りのルート以外は登られていないようである。
●記録 *同志会ルート=1964年8月5〜6日 藤井義弘、遠藤二郎(山学同志会−『山と渓谷』1984-11)1965年12月6日 野沢
絞、井出 賢(富士宮山岳会―『山と渓谷』1966-3)
*ダイレクトルート=1969年10月12日 井出 賢、雨森由貴夫、庄司博雄 1970年2月13〜14日
*OCCルート=1976年1月3〜4日 近藤国彦、吉野正寿、真鍋周三(岡山クライマースクラブ『岩と雪』49号)
*上部壁ルート=1966年8月6日 本田守旦、新藤 研(『白稜』202号)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢奥壁中央稜
(あかいしさわおくかべちゅうおうりょう)∧地∨ 赤石沢本谷の源流は奥壁に入ると二本のルンゼに分かれており、この間の急峻なリッジを中央稜と呼んでいる。リッジといっても下半は壁状で全面がブッシュに覆われている。ノマルルートは、一,二のピッチを除いてはブッシュ登りですっきりしない。しかし、左側面はブッシュのない垂壁となっており、中央壁フランケと呼ばれている。この部分にもルートが拓かれ、かなりの人気を呼んだが、崩壊が激しくなり最近はあまり登られていない。ノーマルルートはほとんどが木登りで登攀価値はないが、赤石沢ではじめて登られたルートとしての意義は大きい。初登の年、1949年は、この山がようやく岳界の注目をあびた記念すべき年であった。北面の黄蓮谷周辺には、鵬翔山岳会、静岡山の仲間山岳会、雲表倶楽部、筆者らのパーテイが入り、東京辿路山岳会はバリエーションルートによる集中登山を実行するなど、かつてないほどの盛況を示した。当時、横浜蝸牛山岳会員であり、学校山岳部にも在籍していた松田
孝は、摩利支天南山稜の計画をたてたが、パートナーの都合が悪くなり、やむなく単独でこのルートを登った。それは奇しくも赤石沢に黎明を告げる記念すべき登攀となった。
●記録 *ノーマルルート=1949年11月3日 松田 孝(横浜かたつむり山岳会―会報『かたつむり』77号) 1958年2月5日 森
義正、甲斐雄一郎(『白稜』192号、『岩と雪』創刊号)
*フランケルート=1972年9月5〜7日 井上 進、木下五郎(赤蜘蛛同人―『山と渓谷』1972-11) 1972年12月4〜5日 大賀裕文、金子洋太郎(神戸登攀倶楽部―『岩と雪』32号)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢奥壁左ルンゼ
(あかいしさわおくかべひだりるんぜ)∧地∨
赤石沢の本流を成すルンゼで、奥壁のほぼ中央にあり、落差350メートル。甲斐駒ケ岳を代表する岩登りルートである。第1、第2バンド間に第一の滝(落差80メトル)、第2、第3バンド間に第二の滝(70メートル)があり、それぞれ垂直のフェース上を落下している。第3の滝からルンゼ状となり、上部で左に浅いルンゼを分岐している。本流の最上部は急峻なガリーで、砂を固めてような風化の激しい岩場となっている。トラバースバンド(第1バンド)から仰ぐルンゼはまさに圧倒的で、第二の滝は永久に登山者の挑戦をはばむかのようにオーバーハングした落口から流水を飛ばしていたが、三回の試登の後、森
義正らによってついに初登攀された。クラシックスタイルで登られた本邦最後のビッグルートといっても過言ではない。このルートの存在によって、奥壁の岩場としての評価は高まったといってよい。現在では甲斐駒ケ岳のみならず、我が国の代表的岩登りルートとして知られ、多くの登攀者を迎えている。
●記録 *F2より=1959年8月5日 森 義正、加藤昭男、市川 正(『白稜』147号、『現代登山全集』5・東京創元社・1961) 1965年12月5〜6日 望月
正、込山靖彦、加藤三郎(富士宮山岳会―『山と渓谷』1966-3)
*F1より=1966年8月4日 吉田 博、新藤 研(『白稜』205号、『山と渓谷』1967-3記録欄) 1966年12月27〜30日 新藤
研、最首利孝(『白稜』205号、『山と渓谷』1967-3記録欄)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢奥壁右ルンゼ
(あかいしさわおくかべみぎるんぜ)∧地∨
中央稜の右側にあるこのルンゼは、左ルンゼとは異なって、奥壁に深く食い込んでおり、その内部は、ここを登る以外にはどこからも見ることはできない。出合いは赤石沢本谷最後の滝場にあるが、普通は、トラバースバンド(第1バンド)から上部が登られている。傾斜は比較的ゆるく、高度感はほとんどない。第1〜第2バンド間に二つの滝と、それより上部に四つの滝がある。冬期の奥壁でもっとも雪崩の多い場所で、雪崩による遭難者を出している。トラバースバンドの下にも三つほどの滝があり、1960年代に登られているのだが、記録は発表されていない。本谷最後の滝場から直登するこのルートは困難を究めたものになるだろう。
●記録 *1954年8月29日 恩田善雄、渡辺司夫(『白稜』85号)
*1966年11月20日 新藤 研、仲 孝ニ(『白稜』205号)
*1974年12月8日 水野春夫、小林、池田(岩峰登高会―会報『岩峰』28号)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢奥壁右ルンゼ右壁
(あかいしさわおくかべみぎるんぜみぎかべ)
∧地∨
奥壁中、一番右側にある奥まった小規模の岩壁で、黒戸尾根九合目の直下にある。第2バンドより上の右ルンゼの右側にある3本並んだクラックが取り付きで、主として第3バンドまでが登攀の対象となっている。どこからも見えない深いルンゼの中なので高度感はまったくないが、取り付きのクラックは風化しており案外手ごわい。右ルンゼ登攀の際に偶然発見された。初登は中央のクラックから成された。第3バンドから上部は傾斜が落ちるが、右ルンゼ寄りには垂直のクラックが並んでおり、ここにルートをとれば登攀距離は伸び、興味も倍加するものと思われる。
●記録 *1957年7月21日 恩田善雄、青木秀夫(『白稜』123号)
*1979年1月1日 小林九二彦、工藤誠志(富士宮山岳会―『山と渓谷』1979-4記録欄)
*1979年1月3日 関 卓則、加藤一幸(登歩渓流会―『山と渓谷』1979-6記録)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢前衛壁(あかいしさわぜんえいかべ) ∧地∨
赤石沢本谷・中流左岸にある圧倒的な垂壁で、ダイヤモンドフランケAとも呼ばれている。本谷と八丈沢との間の尾根側壁とも見られ、高さ400メートルといわれているが、下部は傾斜のゆるいスラブで、250メートルが実質的な高さである。壁のほぼ中央に顕著な岩稜があり、恐竜カンテと呼ばれている。初登はこのカンテより成された。甲斐駒ケ岳ではめずらしく、一部を除いては風化も進んでおらず、ブッシュも少ないすっきりした壁である。この上部にもブッシュと草付のある似たような側壁があり、フランケBと呼ばれている。現在、甲斐駒ケ岳で最も人気のある岩場で、幅200メートルの壁に10数本のルートが拓かれている。取り付くには黒戸尾根八合目から八丈沢左俣を下るコースがわかりよい。1950年9月、はじめて赤石沢に入った原田敏明、良方正邦、恩田は、ガスの中で本流を見失い、突然現れた巨大な垂壁に驚嘆し、下部のスラブを登ってから右端の急峻なリッジをしゃにむに直登して八合目台地に出た。一月の後、鳳凰山からあらためて南面の偵察を行い、そこに今まで知られていなかった岩壁があることを確認した。その後、「八丈下の壁」、「八丈バットレス」などと呼んだが、岩壁はあまりにも険しく、当時の貧しい技術では、登ろうという意欲さえも湧いてこなかった。新しい岩場として、この周辺が脚光を浴びたのは、それから30年の後で、小林
隆、山森 悟らの若い力や、この岩壁を開拓するために結成された赤蜘蛛同人の力が必要であった。
●記録 *白稜ルート=1971年5月1〜2日 小林 隆、山森 悟(『白稜』224号、『岩と雪』32号)
*赤蜘蛛ルート=1971年10月19〜21日 井上 進、木下五郎(『山と渓谷』1972-11) 1972年12月6〜8日 井上
進、伊藤忠重、木下五郎(『岳人』309号)
*岩と雪の会ルート=1974年8月15〜17日 関水忠男、塚田秀一、三浦康悦(『岩と雪』51号クロニクル) 1974年12月6〜8日 関水忠男、塚田秀一(『創立二十周年記念会報』)
*岡山C・Cルート=1970年12月29〜31日 近藤国彦、吉野正寿、真鍋周三(『岩と雪』49号)
*コルデ・エスカラット・ルート=1975年12月29日〜1月2日 戸田直樹、小林
明、会田雅英、大野晴美、小林陽ニ、浅野幸男、狩野輝好(『岩と雪』55号クロニクル)
*静岡登攀倶楽部ルート=1975年12月28日〜1月4日 古田徹司、勝見幸雄、山田
修、井出忠雄、青木志郎、浦山正光、丹羽嘉文(『岩と雪』55号クロニクル)
*泉州山岳会ルート=1977年8月12〜18日 西村 晶、谷口利男、山口修司、下谷、山倉(『岩と雪』61号クロニクル) 1977年12月30日〜1月4日 谷口利男、永井文雄、西村
晶(『岩と雪』67号クロニクル)
*同志会左フェースルート=1977年10月7〜9日 鈴木昇己(『岩と雪』61号クロニクル)
1978年1月14〜16日 岡野孝司、岡部邦明、岡田 昇(『岩と雪』67号クロニクル)
*同志会右フェースルート=1977年11月3〜7日 大宮 求、都築 誓、大橋信一(『岩と雪』61号クロニクル)
*毒蜘蛛ルート=1983年7月31日〜8月1日 清水 薫、藤原雅一、砂子
勉、近藤尚久、大滝竜二(雲表倶楽部―『岩と雪』98号クロニクル) 1988年12月10日〜11日 斉藤
敦、半田勝己、萩野祥茂(東京岳人倶楽部―『クライミング・ジャーナル』No.40. 『岩と雪』133号クロニクル)
*泉州山岳会左ルート=1983年12月31日〜1月3日 山倉康次、永井文雄、木村最(『岩と雪』101号クロニクル)
*白い蜘蛛ルート=1985年8月13日 藤原雅一、山川洋二、井上貴則(雲表倶楽部―『岩と雪』113号クロニクル) 198712月30〜31日 斉藤
敦a、斉藤人氏a、斉藤 修b(a湘南ックライミングスクール、b同人巨しぶー『クライミングジャーナル』No.34)
*ホットライン=1986年8月1日 室井由美子、吉川 弘(C.C.ウイング゙ー『岩と雪』119号クロニクル)
*鬼蜘蛛ルート(同志会左派生ルート)=1988年8月5〜7日 中垣大作、星
学(山学同志会―『岩と雪』131号クロニクル) 1988年8月5〜7日、10月9日 石際 淳、小林
亘(春日井山岳会―『岩と雪』132号クロニクル)
*岩鼠ルート=1988年9月7〜11日 秋山 亮(星稜登高会―『岩と雪』137号)
*スーパー赤蜘蛛=1991年8月27〜28日 鈴木昇己、篠原達郎(『岩と雪』149号クロニクル) 以下 略
○記録中、一部の派生ルート、冬期の記録などで記載していないものもある。
● 参考資料 藤原雅一「赤石沢・Aフランケ」(『岩と雪』128号)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢ダイヤモンドフランケ
(あかいしさわだいやもんどふらんけ)∧地∨
1971年10月、赤石沢中流左岸にある岩壁の登攀に成功した赤蜘蛛同人パーテイは、この壁を「ダイヤモンドフランケA」と名付け、さらに翌年、トラバースバンド直下の岩壁を開拓して「フランケB」と名付けた。このフランケAは、同年5月に初登した小林、山森パーテイが「前衛壁」と呼んだものと同一であり、一時期、呼び名が混乱した。小林、山森パーテイは、中央の恐竜カンテから、上半は左方に抜け、赤蜘蛛パーテイはカンテ左方のジェードルから右にカンテ上部を直上した。したがって、下部「白稜」、上部「赤蜘蛛」と呼ばれるルートは、壁の中央部をカンテ沿いに直上するもので、一時期、このルートに人気が集中した。のち、短時間に新ルートが続々と開拓され、四季を通じて先鋭クライマーでにぎわっている。(→赤石沢前衛壁)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢ダイレクト登攀
(あかいしさわだいれくととうはん)∧事∨
赤石沢を出合いから本谷、奥壁左ルンゼを経て山頂に至るルートは、単一ルートとしては甲斐駒ケ岳のみならず、本邦屈指のビッグルートの一つである。標高差は1500メトル。下部本谷は登るにつれて困難となり、しかも、最上部は、奥壁随一の困難さを持つ左ルンゼを直登することになる。体力、技術、気力、それに冬期ともなれば、気象条件の良さが揃わなければ完登は難しい。1961年12月、このルートに挑んだ、森
義正、坪井森次、須藤和雄は1月2日、二つ玉低気圧による暴風雪に遭遇し、左ルンゼ第二の滝で全員遭難死した。のち、下記パーテイにより完登された。
●記録 *1968年10月10〜13日 小林 隆、仲 孝ニ(『白稜』202号)
*1970年12月28日〜1月2日 長谷川恒夫a、重広恒男b、金坂利明b(a星と嵐同人、b岡山ックライマースクラブー『山と渓谷』1971-5)
●参考資料 長谷川恒夫著『岩壁よ、おはよう』(中央公論社1981)
赤石沢直接稜(あかいしさわちょくせつりょう) ∧地∨
赤石沢本谷とS状ルンゼを分ける尾根。標高差500メートル。傾斜40度。トラバースバンドより下部は樹林に覆われた岩稜。上部は奥壁の左端をなすリッジで、ブッシュの付いた風化の激しい岩稜となって摩利支天峰への尾根に合する。黒戸尾根から見ると直接山頂に達しているように見えるので、あやまってこのように命名された。一、二のピッチを除いては登攀価値はない。
●記録 *上部のルート=1956年8月19日 恩田善雄、青木秀夫(『白稜』111号)
*下部のルート=1959年12月31日〜1月1日 恩田善雄、市川
正(『白稜』152号)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢八丈沢(あかいしさわはちじょうさわ) ∧地∨
赤石沢大滝の落口に左岸から合流している、落差800メートル、傾斜40度の浅い流れで、赤石沢右俣とも呼ばれている。本谷下部からは大滝上に急なルンゼとなって見える。下流は滑滝が続き、巨大なチムニーのある半円状の岩壁の下で二俣となっている。いずれも高さ50メートル近い滝をかけ、八合目台地に突き上げている。急な沢だが赤石沢ではもっとも容易なルートで、左俣上部は前衛壁フランケ群への八合目からのアプローチとなっている。半円状の岩壁から左俣左岸は岩場が続いており、奥壁と呼ばれて、すでにいくつかのルートが拓かれている。八丈沢周辺は下から見ると、岩場が散在しているが、奥壁以外には大きなものはない。
●記録 *1953年7月11日 鎌田 久、恩田善雄、小林良平(『白稜』72号)
*1961年12月31日 新井豊明、吉田 博、板川雅子(『白稜』175号)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
赤石沢八丈沢奥壁
(あかいしさわはちじょうざわおくかべ)∧地∨
八丈沢大滝の上部、左俣左岸にある高さ150メ−トルほどの岩壁で、半ば樹林に覆われ目立った存在ではない。赤石沢Aフランケと同じ岩壁帯に属し、その東側にある。壁は大滝を作る半円状の岩壁帯に続いているので、滝の下から取り付けば、かなり登り甲斐のあるルートとなる。左俣奥壁とも呼ばれているが、いずれも適切な名称とはいえないようだ。
●記録 *上部壁=1976年8月18〜19日 関水忠男、長根 茂(岩と雪の会―『創立二十周年記念会報』)
*下部壁=1981年10月11日 渡部 聰a、吉田 洋b(a東京農大山の会、b相模勤労者山岳会―『岩と雪』87号クロニクル)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢右壁(あかいしさわみぎまた)∧地∨
赤石沢大滝上に左岸から落ち込んでいる急なルンゼ状の沢で八丈沢とも呼ばれている。下流から正面に見えるルンゼである。(→赤石沢八丈沢)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
赤石沢宮の沢(あかいしさわみやのさわ) ∧地∨
赤石沢大滝下の左岸に、坊主尾根の鞍部より落ちている水平距離600メートル。落差300メートルの小沢。小滝やナメがあるだけの小さな流れだが、坊主尾根より赤石沢中流への下降路としての利用価値は大きい。黒戸尾根より赤石沢大滝下へは、篠沢・宮の沢を経由して取り付けることになる。これは五合目より大武川への地元の利用ルートでもある。五合目より3〜4時間。
●地図 長坂上条
赤石沢無名フランケ
(あかいしさわむめいふらんけ)∧地∨
前衛壁Aフランケの下に同じような形をした小規模の壁がある。八丈沢二俣を横切る岩壁の続きで、高さ約100メートル。遠望すると中央に顕著なカンテがあるが、全体的にブッシュが多く、登攀の対象になるかどうかわからない。赤石沢大滝上にある三段40メートルの滑滝の下から右の樹林帯を直上すれば、壁の下に出られよう。登攀記録は未だ発表されていない。
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石沢無名ルンゼ
(あかいしさわむめいるんぜ)∧地∨
本谷大滝の左岸に高さ40メートルの細い滝となって落ちている小沢で、落差は500メートルぐらい。大滝右岸の捲道からすぐ左に見える浅いゴルジュがこの沢で、水量は少なく、滝も10メートル内外のものがいくつかあるだけである。摩利支天峰からの支稜に突き上げている。
●記録 *1969年8月3日 奈良 清、松原昭夫、山森 悟(『白稜』216号)
●地図 甲斐駒ケ岳
赤石山脈(あかいしさんみゃく)∧地∨
南アルプスの中核をなす長大な山脈で、北端の仙丈岳にはじまり、光岳で高山帯を終って、黒法師岳などを経て、遠州平野に達している。長さは、100キロメートルにおよび、主要なピークは北より、仙丈岳(3033m)、三峰岳(2960m)、北荒川岳(2698m)、塩見岳(3047m)、その南に日本一高い峠である三伏峠(2600m)がある。さらに、小河内岳(2802m)、荒川岳(3083m)、赤石岳(3120m)、大沢岳(2819m)、兎岳(2818m)、聖岳(3013m)、上河内岳(2819m)、茶臼岳(2600m)、光岳(2591m)等が、文字通り屏風のように連なっている。各峰間の標高差は北アルプスに比べて大きく、400メートルから700メートルに達し、大体がゆったりとした山容を見せている。森林限界は2700〜2800メートル。ピークのみが高山帯となっている。本邦高山の南端となっているので、高山植物の育成限界を持っており、例えば、チョーノスケ草は聖岳、ハイマツは丸盆岳(2066m)が南限といわれている。山脈の東面に沿って大井川が南に流れ、西面には天竜川の支流、三峰川、小渋川、遠山川が伊那山脈を分断して流れている。この山脈の地質は秩父古成層と中世層から成る推積岩を主としている。
●地図 高遠、市野瀬、大河原、赤石岳、井川、千頭(以上 5万分の1)
明石楔状地(あかいしせつじょうち)∧地∨
南アルプスは、明治初期に来日したドイツの地質学者、E.ナウマンによって、赤石楔状地と呼ばれ、諏訪湖の南から、四本の山脈が、半開きの扇のように広がっている。すなわち、西から伊那山脈、赤石山脈、白峰山脈、甲斐駒山脈が、ほぼ平行に南北に連なっている。伊那山脈は、高さ2000メートル程度の山が続いているだけだが、外の三つの山脈は3000メートル級の高峰を連ね、北アルプスとともに我が国の屋根ともいえる高地を作っている。南北120キロメートル、東西は40〜70キロメートルに達する膨大な山地である。赤石の名を冠したのは、赤石岳がほぼこの中央にあり、ナウマン自身が登山しているからで、赤石楔状体、赤石山地とも呼ばれている。
●地図 甲府、飯田、静岡(以上 二十万分の一)
赤河原(あかがわら) ∧地∨
戸台川の奥、本谷と藪沢の合流点付近の河原は、岩の色が赤味がかっており、古くから赤河原と呼ばれていた。昔は現在の戸台川本谷までを含んで、赤河原と呼んでいたようである。また、その奥にある甲斐駒本峰を赤河原岳といったことが、明治初期に作られた『村誌』に印されている。赤河原を作る岩は甲斐駒ケ岳西面一帯に広がる四万十帯・白亜紀の砂岩を主としているが、源流地帯から流失した花崗岩塊が赤味がかっており、それが命名の根拠となっている。なお、この河原には、ここでしか見られない亜高山植物の「トダイハハコ」の群落がある。また、『南信伊那資料』(佐野重直編・1901)に「赤河原の滝」が紹介されているが、高さから見ると七丈の滝とは思えない。現在のどの滝を指すのか不明である。なお、南面、赤石沢出合い付近の河原もむかし、赤河原と呼ばれていたようである。
●地図 甲斐駒ケ岳
赤蜘蛛同人(あかぐもどうじん)∧名∨
1971年、駒峰山岳会員・井上 進を中心として結成された。同人結成の目的は、赤石沢本谷左岸にある二つの岩壁、ダイヤモンドフランケA,Bと奥壁新ルートの開拓、および、これら三つの岩壁の継続登攀の完成であった。メンバーには井上のほかに、木下五郎、松見新衛、滝沢
学、伊藤忠重らがいた。1971年から72年にかけて、Aフランケ赤蜘蛛ルート、Bフランケ、奥壁中央稜左ルートを開拓。1972年12月、A、Bフランケの冬期継続登攀に成功した。赤石沢の岩場を岳界に紹介した功績は高く評価されている。これらの登攀により、1974年度の「山渓登攀賞」を受賞。このほか、サデの大岩から本峰への継続登攀、海外ではモンブラン・プレトイ大岩稜に新ルートを拓くなどのすぐれた業績がある。1975年、初期の目的を完了したとして解散した。なお松見親衛は1981年7月、中国コングール峰で行方不明となった。
●参考資料 井上 進著『長い壁・遠い頂』(神無書房・1979)
赤薙沢(あかなぎさわ) ∧地∨
大武川中流に右岸より流入する大きな枝沢で、鳳凰山・地蔵岳から早川尾根の頭に至る山稜を水源としている。赤薙の頭(2553m)直下に赤薙と呼ばれる崩壊があり、沢名はそこからきている。出合いに赤薙の滝(15m)があり、かつては、この滝の右手から沢沿いに広河原峠に至る道があった。この道は柳沢から野呂川への仕事道として、古くから歩かれていたようで、一時期、広河原への最短コースとして登山者にも利用されていた。しかし、度重なる風水害で現在は荒廃し、一般コースとはいえない。『山岳』第十五年第一号に、このコースを辿った柳
直次郎の詳しい紀行がある(1916年7月の記録)。また、1929年12月末、北岳に向かった慶応義塾大学山岳部パーテイも、この道から広河原に出ている(『登高行』第8年)。中流は瀑流帯でメドの滝(20m)。袋沢、奥赤薙沢、ミツクチ沢等の枝沢があり、なかでもミツクチ沢は大武川随一の悪沢として知られている。この沢は、1950年10月、甲府一高山岳部の数野泰長らによって遡行されたが、中流部にある南アルプス北部最悪のゴルジュ帯といわれる部分は捲いて離れ山に出ている。完全遡行したのは1964年8月の中条パーテイが初めてで、1962年以来、四回の偵察と試登ののち、ゴルジュの突破に成功している。
●記録 *ミツクチ沢=1964年8月16〜17日 中条洋四也、奥山三徳(『白稜』190号)
1970年9月13〜15日 大竹 実、小林賢一郎、本多 新(『大武川遡行記録集』1977)
●参考資料 小見山 稔「鳳凰山系大武川ミツクチ沢遡行」(『岳人』482号)
●地図 鳳凰山
アサヨ峰(あさよみね)∧地∨
甲斐駒山脈中の一峰で、甲斐駒ケ岳、鳳凰山・観音岳に次ぐ高度を有し、大武川をへだてて、甲斐駒ケ岳と相対している。標高2799メートル。甲斐駒ケ岳と鳳凰山という二つの名山の間にあるため地味な存在で、『甲斐国志』にもその名はない。しかし、展望は無類で、とくに、北岳や甲斐駒ケ岳南面の眺めがすばらしい。山頂の東側には、この付近では珍しい小規模の二重山稜がある。朝与、朝夜などとも当て字されている。明治44年(1911)7月24日、登山者としてはじめてその頂に立った辻本満丸は「甲斐駒ケ岳山脈縦断記」(『山岳』第7年第1号)中で、山名について詳しい考証を行なっている。また、山名の由来について平賀文男は『赤石渓谷』中で以下のように述べており、それが通説となっている。「それは野呂川の渓に入っていた芦倉の山人たちが、往時、木曾の庄屋・中村儀助などに率いられて、広河原あたりに小屋掛けをしていた時、そこから駒も鳳凰も白峰も見えず、もっぱら朝夜の峰頭のみがわずかに仰がれて、朝の仕事に出立の際、それに朝日をみとめる所から、朝日の峰の名称が生まれ、次いで夕陽がそれから消えると見れば、この渓間へはあまりにも早く夜が降りて来るので、ついに朝夜ノ峰となったという」。中村儀助によって伐採が行なわれたのは天保年間(1830年代)のことである。なお、『山岳』第八年第三号中に辻本満丸が書いている古地図の解説は同氏の勘違いであって、浅湯岳と記入されているのは、明治になってから作られた『甲斐国全図』である。
●記録 *北沢より往復=1926年4月8日 矢島幸助ほか(早稲田大学山岳部―部報『リュックサック』5号)
●地図 仙丈ケ岳
旭滝(あさひだき) ∧地∨
尾白川にある小滝で、朝日が最初にこの滝にさしこむことから名付けられたといわれている。近くにある岩屋は甲斐駒ケ岳を開山した弘幡行者が修業した所と伝えられている。前宮から沢沿いの渓谷道を30分ほど登った所に滝への入り口がある。
●地図 長坂上条
悪沢(あしざわ) ∧地∨
鋸岳の北方、編笠山(2514m)より北西に落ち、釜無川の源流に合流する沢で、水平距離2キロメートル、落差1200メートル。日の当たらない荒れた沢に共通した名称である。鋸岳周辺ではめずらしく滝の多い沢で、10〜20メートルの滝が連続している。中流部は深いゴルジュで、沢通しの通過はかなり難しい。地図に名称が記入されていることから、かなり古くから登山者が入りこんでいるが、古い記録は発表されていない。高岩沢とも呼ばれていたらしい。
●記録 *1968年8月14〜15日 幾川、杉村(下諏訪山岳会―『1973年年報』)
*1980年2月11日 木下雅夫、日出孝幸(東京学芸大学登高会―『山と渓谷』1980-6記録欄)
●地図 甲斐駒ケ岳
新しい岩場の出現
(あたらしいいわばのしゅつげん)∧事∨
甲斐駒ケ岳での珍しい現象の一つに、新しい岩場の出現がある。台風によって樹林や土砂が崩落し岩盤が露出して、それが登攀対象となっているのである。黒戸尾根刃渡り南面の桑木沢中央壁、刃渡り北面の壁、南坊主岩東壁、烏帽子中尾根北面側壁等は、いずれも台風によって出現したものである。これらは単に、表面の草付きや樹林が脱落したものではなく、明らかに岩盤そのものが崩壊している。まず、1959年秋の台風によって、黒戸尾根の側壁が出現し、その後、1982年8月に坊主岩や烏帽子中尾根の壁が作られた。この四ケ所の新しい岩場は、本峰の東から北へと半円を描いて存在し、高度も2000メートル前後と揃っている。西側にはこのような現象は見られない。これは偶然なのだろうか。脱落の原因として考えられるのは、第一に豪雨である。これによって岩盤がゆるみ、樹林を巻き込んだものと考えられるが、この地帯だけに特別の豪雨があったとは思えない。高度がほとんど同じであるということは、植生が同じであることを示している。この高度では濶葉樹と針葉樹が混生しているが、これが原因とも考えられないし、地質的にもここに特別の変化があるとは思えない。第二の原因として考えられるのは、台風による強風である。岩盤上の樹林は、根が深く、岩の間に入り込んで、とてもそれが脱落しようとは思えなかった。根による割れ目に雨が侵入し、風で木がゆすられて、岩場全体がゆるみ一気に脱落したのではないだろうか。この高度が強風帯であったことは、桑木尾根のすさまじい倒木帯を見ればうなずける。一般に風が甲斐駒ケ岳のような独立峰に近い山に当たったとすれば、強風は山上に押し上げられず、側面を迂回し、加速されるのである。本峰東面の2000メートル帯はこの加速流の通路であったと想像される。この強風中に直角に尾根があった場合、常識的には風下側の風は弱くなるが、瞬間的には平均風の1.5倍にもなり、しかも風向きが激しく変化することが報告されている。烏帽子側壁や刃渡り北面はこのような状態にあったと考えられるのである。豪雨と暴風、この二つの原因によって新しい岩場が出現したと考えたい。
●参考資料 [T]『昭和34年災害誌』(山梨県)
[U]恩田善雄「山のまわりの風」(『山と渓谷』1976-12)
[V]恩田善雄他「エベレスト山頂周辺の風洞実験」(『第30回・風にかんするシンポジュームム講演集』1983、『白稜』255号)
あて山(あてやま) ∧事∨
あて山とは本来、日陰の山を言うが、古くは交通の目標となる山をもこのように呼んでいた。あて山の条件は、目立った山であることで、だれでもそれとわかる山容をしていることである。当然、独立峰となっている火山が対象となる。その外、特異な山容を持った山が選ばれる。たとえば、山頂に遠くからもよく見える岩塊があることである。フォッサマグナに沿う道では、甲斐に入れば五丈岩のある金峰山や、ピナクルのある鳳凰山が選ばれよう。しかし、摩利支天という特異な岩峰がある甲斐駒ケ岳はあて山とははらなかった。それは、街道の両側に前記した山があることにもよるが、山容が場所によって変化するからである。南北でこの山はまったく異なった山容を見せているのである。あて山はまた、目立った存在であったので名山と呼ばれていることが多い。甲斐駒ケ岳は古くは名山とはなりえなかった。名山として紹介されたのは近年のことで、宇野浩二、前田普羅、深田久弥らによってである。
雨乞岳(あまごいだけ) ∧地∨
本峰の真北7キロメートルにある標高2037メートルのピーク。釜無川の源流にあることから、古くは釜無山とも呼ばれていた。地元では水晶山ともいっているが、この山に水晶があるわけではなく、濁川・笹の沢の源流にある水晶薙をこの山の一部とみて呼んだものであろう。『甲斐国志』巻三十に「駒ケ岳ノ北に連結ス、釜無川ノ両岸甲信共ニ
此ノ称アリ、但シ上教来石、大武川及ビ諏訪領ノ七村、上下蔦木、神代、平岡・机・瀬沢・休戸、入会ナリ、山税若干ヲ納ム。又巣鷹山三所アリ」と印されており、江戸時代の古文書では、ほとんど釜無山となっている。文中、巣鷹山とは幕府の命で鷹狩用のタカを放養しておく所をいう。また、「玉峡山、下教来石村ニアリ、往時水精ヲ出ス。山崩レテ今ハ見エズ、又鍵打山アリ」とあるが、これも雨乞岳でははいかと思われる。『新編甲斐風土記』には「本村(鳳来)の西方にあり、山脈は南方駒ケ岳、北方釜無及弥平の両山に連る。樹木疎立、登路三條あり、一は上教来石組より登る、里程二里半。一は大武川組より登る。二里二十丁。一は鳥原組より登る、三里。共に嶮路なり、渓水四五條あり、皆釜無川に注ぐ」とある。現在の登山道は東山麓の鳥原からのものがあるだけである。雨乞いの行事は、普通、単に神事を行なうもの、火を焚いて煙を出すもの、太鼓などを打ち、音を出すものなどがあるが、この山の行事はめずらしい。山頂近くから東側の流川源流に岩石を落として空気を振動させ、雨を降らせようというもので、太鼓などを打ち鳴らすものと同類とも見られるが、あまり類がない。雨乞いをする山は普通里に近く、したがって低い山が多い。3000メートル級の山でも雨乞いの行事があった記録はあるが、雨乞いと名の付く山では本邦最高で標高は2000メートルを越えている。第二位の御在所岳の西にあるものとの差は800メートルもあり、ほとんどの山は標高500メートル内外のものである。南アルプスの主脈からはずれているため、登る人も少ない静かな山である。雨乞いの行事は昭和初期以後すたれている。最近、小俣川と大武川集落より北東の尾根に山頂直下まで林道が伸び、容易に登頂できるようになった。
●参考資料
[T]山村正光「雨乞岳」(『車窓の山旅・中央線から見える山』実業の日本社・1985)
[U]山村正光「雨乞岳」(『甲斐の山旅・甲州百山』実業の日本社・1989)
●地図 甲斐駒ケ岳
雨乞岳を繞りて(あまごいだけをめぐりて) ∧文∨
山村民俗の会・大石真人による、雨乞岳と、その東山麓の山村に関する研究文で、『あしなか』14輯として1949年8月に発表された。副題に「鳳来村風物誌」とあるように、内容は山よりも山麓の見聞を主にしており、四章に分けて詳しく述べられている。プレアルプを好んで歩いた同氏の面目躍じょたる力作である。筆者は雨乞岳には二回しか登っていないが、その周辺の地誌に関しては、克明に調査し、この山に関する最高級の文献となっている。『あしなか』は、1981年に合本復刻版が出ている。また、『山岳憧憬』(緑書店・1982)及び『山』(朋文堂1952)に、一部が発表されている。なお、鳳来村とは白州町北部の、旧名で、大武川の大、鳥原の鳥をあわせて大鳥を鳳とし、これと教来石の来を組み合わせて村名にしたものだといわれている。
天津速駒伝説(あまつはやこまでんせつ) ∧事∨
甲斐駒ケ岳には、むかし天津速駒といわれる白い馬が住んでいた。武御雷命(タケミカヅチノミコト)から生まれた馬で、羽があって空中を駆け巡り、夜になると頂上に来て眠ったという。それでこの山が駒ケ岳と命名されたともいわれている。この伝説の意味するものは、山頂から鋸岳にかけての山稜が、東から見ると天翔ける馬の姿に似ていることであり、花崗岩の白さが白い馬を連想させたのであろう。また、この馬が武御雷命から生まれたというところに、この伝説の真意がかくされているようにも思われる。この山の北方、諏訪盆地には古代の一つの勢力だった諏訪神社がある。ここの祭神は建御名方命(タケミナカタノミコト)である。大国主命(オオクニヌシノミコト)の次男であったが、天孫族への国譲りに反抗したため、武御雷命に出雲を追われて諏訪に亡命したといわれている。一歩も国外に出ないことを条件に降伏したという。天津速駒はこの監視役としての意味を持っていたのではないか。盆地の南にどっしりとかまえる甲斐駒ケ岳、そこに住むという伝説の馬は、監視するものにふさわしい。それはまた、諏訪族と天津族との権力闘争を象徴しているようにも思えるのである。
●参考資料 北巨摩教育会編『口碑伝説集』(1936)
編笠山(あみがさやま) ∧地∨
鋸岳の北方にある標高2514メートルのピーク。甲斐駒ケ岳、鋸岳を結ぶラインの延長上にあり、地形的には鋸岳最北のピークとも考えられる。三角店ピークより尾根伝いに頂に立つことができる。この山によって釜無川の源流は、本谷と中ノ川に二分されている。主稜線よりわずかはずれているために、登山者の訪れることは少ないが、根張りの大きい立派な山容を持っている。『甲斐国志』巻三十に「釜無川ハ巨摩岳丸岳山ヨリ出ヅ」とあり、「『北巨摩郡勢一班』にも釜無川源流として「駒ケ岳の内丸岳山」と書かれている。この「丸」が形を表しているとすれば、丸岳山とは編笠山を指したものと考えられる。『国志』中、鋸岳周辺に関する記述はこれだけで、あれだけの個性的な山稜にまったく触れていないのは妙である。しいて言えば、駒ヶ岳とはピーク名であるとともに、鋸岳を含んだ山塊名ではなかったのかとも思われる。これは駒ヶ岳山名論に重要な意味を持っている。『山岳』第七年第一号中で辻本満丸は「釜無渓谷に向へる西北端なる一峰は円錐形にして山容穏健なり、山梨県庁の山林図によれば此山に編笠山なる名称あるものの如し」とはじめてこの山を紹介している。なお、位置、名称に関しては明治の登山家たちの間で論争があった。
●参考資料 『北巨摩郡勢一班』(北巨摩郡役所・1913)
●地図 甲斐駒ケ岳
編笠ルンゼ(あみがさるんぜ)∧地∨
鋸岳の北方にある編笠山(2514m)より北東に落ち中ノ川に合する、水平距離1300メートル、落差850メートルのルンゼ状の小沢。出合いは中ノ川下部ゴルジュ帯のすこし上流にある。高さ10メートル内外の滝がいくつかある。中ノ川左岸最下流の枝沢である。下諏訪山岳会に命名による。
●記録 *1968年8月15日 森杉、高木、小泉(下諏訪山岳会―『1973年年報』)
●地図 甲斐駒ケ岳
荒沢(あらさわ) ∧地∨
鋸岳・三角点ピーク(2607m)より北東に落ち、釜無川・中ノ川に合流する、水平距離1.5キロメートル、落差900メートルの沢。出合いから中流まではガレ沢で、右俣は稜線までガレが続く。左俣はゴルジュの中に10メートル内外の滝が連続している。
●記録 *左俣下降=1963年8月25日 土淵知之、谷口博昭、浅賀一夫、加藤雅大、野村やよい(『白稜』184号)
*左俣=1968年8月15日 星野、藤井、渡辺(下諏訪山岳会―『1973年年報』)
●地図 甲斐駒ケ岳
アレ沢(あれさわ) ∧地∨
濁川・笹の沢の源流は二俣になっており、左俣本流を喜平次沢、右俣をアレ沢と呼んでいる。この沢の源頭に水晶薙の奇観がある。源頭一帯をむかし濁山と呼び、そこから流れ出る沢を濁川と呼んだ。本流のつめの鞍部は鬼の窓と呼ばれている。
●地図 長坂上条、甲斐駒ケ岳
┌────────────────────┐
│ 特別連載 │
│ 甲斐駒ヶ岳研究(2) │
│ 恩 田 善 雄 │
│ (東京白稜会) │
└────────────────────┘
池尻沢(いけじりざわ) <地>
尾白川・不動の滝下に右岸から合流している小沢。源流に笹の平の水場がある。沢沿いに踏跡が黒戸尾根登山道まで続いていたが、現在は荒れていて通過困難である。地元ではイケジ沢とも呼んでいる。
●記録 *1997年1月15日 広川健太郎ほか2名(『岳人』600号記録速報)
●地図 長坂上条
イセ谷沢(いせたにざわ) <地>
釜無沢・中ノ川の中流より大岩山北の鬼の窓に達している小沢。登山者の間では鬼の窓沢で通っている。名称は『山梨県山林課調査図』によった。(→鬼の窓沢)
●地図 甲斐駒ケ岳
一条の滝(いちじょうのたき) <地>
大武川本流にあり、赤薙沢出合いより上流で始めて出会う滝である。上一条の滝(二段、高さ12m)、下一条の滝(8m)に分かれており、大きな釜を持っている。上にも滑滝があり、合計四段の滝場を作っている。左岸に明瞭な捲き道があり、踏跡はヒョングリの滝左岸からカラ沢まで続いている。『甲斐国志』巻四十八に「一条ノ石室、駒ヶ岳大武川ノ上流ニアリ人跡ノ稀ナル処何人ナルヲ知ラズ」とあるが、石室の位置は不明で、一条の名称は滝に残っているだけである。天正10年(1582)、織田信忠が武田勢を追ったとき、一条氏は壊滅して残党が大武川の奥に入ったといわれており、そこから命名されたものであろう。
●地図 鳳凰山
一の沢(いちのさわ) <地>
鳳凰山・離山東北面の流れを集めて大武川」に合する沢で、水平距離3キロメートル、落差は1300メートルに達する。出合いは篠沢出合いのやや上流右岸で、大武川林道が横切り、一の沢橋がかかっている。右俣には鳳凰山周辺で最高の落差を有する豪壮な大滝がある。数段に折れてはいるが、落差は150メートル近くあり、滝を囲む岩壁も大きい。登山道からはまったく見えず、ほとんど知られていない滝である。古い地図には滝記号があったが、国土地理院の新しいものでは消えている。1983年12月、遠藤則也ら(わらじの仲間)は氷結したこの滝を直登した。鳳凰山で行なわれたもっとも困難な登攀である。
●記録 *1969年9月7日 小林賢一郎、大竹 実、武藤 栄(紫山岳会―『大武川遡行記録集』1977)
*大滝登攀=1983年12月17〜18日 遠藤則也、宮内幸男(わらじの仲間―『岩と雪』101号、『クライミングジャーナル』No.10
クライミングレポート) 1986年12月13〜14日 溝淵三郎、広川健太郎、長尾妙子(JECC―『クライミングジャーナル』No.28
クライミングレポート)
●地図 長坂上条、鳳凰山
岩登り事始め(いわのぼりことはじめ) <事>
甲斐駒ケ岳におけるはじめての本格的な岩登りは、1931年5月、横田松一ら(関東山岳会)三名による摩利支天南山稜の登攀である。それまでにも試登程度のものは行なわれていたらしいが、一つのルートの完登はこれをもって嚆矢とする。記録は『山と渓谷』10号(1931-11)に15ページにわたって詳細に報告されている。5月20日、大武川より入山、23日、大岩下の岩小屋を発ち、六町ダテの捲道から、南山稜の下部に取り付き、忠実にリッジを登っている。腰から頭まで7時間足らずで抜けており、当時の三人パーテイとしてはかなりの速攻といえる。かれはこの登攀を1927年ころから練っており、綿密な計画のもとに実行している。当時、南アルプスの岩場は鳳凰山・地蔵仏や北岳バットレスの一部が登られていたにすぎず、内容から見ても、南アルプスではじめて行なわれたビッグクライムといえよう。このころの登山界の中心は学校山岳部を主とした学生層であり、北アルプスの岩や雪の尾根に華々しい登攀を繰り広げていた。それらの行動が横田ら社会人登山者にすくなからぬ影響を与えたことは否定できない。その報告「甲斐駒摩利支天南山稜の登攀」を読めば、そこに激しいまでの岩への渇仰が感じられる。この年、ようやく上越線が全通し、近郊の低山彷徨にあまんじていた社会人登山者は、谷川岳というまたとないゲレンデを得て、岩登りに目覚めてくるのだが、それにはまだ時間が必要であった。また、南アルプスの未知の谷を求めたグループも少なくない。北岳の谷を探った明峰山岳会、野呂川や甲斐駒ケ岳の谷に入った山岳巡礼倶楽部などが、その代表的なものだが、横田らの行動は、それらにさきがけて行なわれたまさにパイオニヤワークといえるものだったのである。その後の南山稜には積雪期初登までに以下のような記録がある。
○1932年9月4日 藤林佐太郎、椋尾 穣(神戸高商山岳部―『関西学生山岳連盟報告』4号)
○1934年8月2日 西山敏夫、赤塚丈夫(東京市役所山岳部―『部報』21号)
○1944年8月9日 渡辺 弘(明峰山岳会―『北岳のうた』60周年記念誌・1989、『岳人』28号)
○1946年5月17日 長越成雄、関谷隆春(日本山嶺倶楽部―『山と渓谷』1947-4)
○1947年10月19日 栗原 彰、深沢 統(明峰山岳会―『北岳のうた』60周年記念誌1989・『岳人』28号)
○1950年3月1日 川上晃良(登歩渓流会―『岳人』28号、『山と渓谷』1955-1)
イワンヤ沢(いわんやさわ) <地>
戸台川・白岩ダムの下流に右岸から合流している水量の少ない沢で、水平距離2.5キロメートル、落差1000メートル。下流はS字状に曲がっており、中流二俣付近は洞穴状のゴルジュとなっている。幕岩は、この沢の出合いから左岸の壁を作り、二俣から右岸に幕岩尾根となって伸びている。全渓石灰岩から成り、周辺に鍾乳洞があるともいわれている。ゴルジュも石灰岩が侵食されてもので、この山塊ではめずらしい地形で貴重な存在である。右、左俣との大きな滝はない。『木師御林山絵図』(文化14年製作)中に「岩木屋」とあり、この沢が岩で囲まれていることを暗示している。「イワンヤ」とは岩屋、つまり、洞穴という意味で、二俣付近の形状から命名されたものと思われる。
●記録 *左俣=1980年11月18日 中岡 久、北川勇人、任 上彦(『白稜』251号、『岳人』406号記録速報) 1986年2月23〜24日 小林一弘a、赤沼正史b(クラブ・ポリニエ、b同人・栗と栗鼠―『クライミングジャーナル』No.23
クライミングレポート)
*右俣=1981年11月14日 北川勇人、遠藤喜重郎 1984年2月10〜11日 赤沼正史a、北川勇人b(aロコス、b日本絶壁仲間―私信による)
●地図 甲斐駒ケ岳
ウシロットビ沢(うしろっとびざわ) <地>
鋸岳西方の横岳から西南に落ちる、水平距離1.5キロメートル、落差1000メートルほどの沢で、戸台川・白岩堰堤の上流右岸に伏流となって合流している。出合いやや奥の右岸に、戸台川の河原からもよく見える石灰岩の高さ150メートル、幅200メートルほどの白い岩壁があり、「天狗の壁」と呼ばれている。流れはこの岩壁の下で、小規模のゴルジュとなり、壁の裏側に回りこんでいる。中流はゴーロ状の平凡な流れで、やがて二俣となる。右俣には第二の滝場があり、源流は急傾斜のガレとなっている。沢の名称は地形からきたものと思われる。
●記録 *1980年7月5日 恩田善雄、北川勇人(『白稜』251号、『岳人』400号記録 速報)
●地図 甲斐駒ケ岳
鵜の首の滝(うのくびのたき) <地>
大武川本流にある数段の滑滝。カラ沢出合いよりやや上流にある。国土地理院の五万、二万五千分の一地図上では「ヒョングリの滝」と書かれており、多くの案内書にも同様に紹介されているが、ヒョングリの滝とは、カラ沢出合いより下流にある高さ10メートル程度の二段の滝である。鵜の首のように細く長い滝という意味。右岸に明瞭な捲き道がある。左岸より、捲くと本流に下るのに非常に苦労する。右岸のスラブは、この周辺でのオアシスといってよく、本流遡行のさいの休憩地として利用されている。
●地図 鳳凰山
馬八節(うまはちぶし) <歌>
平安時代末期の戦国時代、大武川筋一帯は甲斐源氏の名馬の産地「甲斐駒」の牧(マキ)の里であった。武田家の家臣、黒田八右衛門を父とし、大坊村に生を受けた八兵衛は、大変馬が好きで、成人して馬子となった。彼は聡明で美声の持主、毎日、河原部村(現韮崎市韮崎町)まで産物を馬の背で運びながら、「田の草節」を唄って通った。街道の人々は、美声の馬子の唄を聞くのを楽しみ、名物馬子となった。いつしか蹄に合わせて唄う「田の草節」は「七、五、五、七、四」調の詩型と独特のテンポとリズムに変わっていった。誰いうとなく、「馬八節」と呼び、道中唄として唄われるようになった。
オーヤレヨー 大川端で コーラ
葦(よし)を刈れば 葦あなびく
葦切あ啼いて コーラ からまる
オーヤレヨー 馬八あ馬鹿とコーラ
仰(おし)やれども 馬八の唄
聞く奴(やつ)はコーラなお馬鹿
(以上『白州町の文化財』より)
馬八節については種々の話が伝わっているが、以上が代表的なものである。白州町無形文化財に指定されており、大坊保存会がある。
●参考資料 『白州町の文化財』(白州町教育委員会編 B5版、総アート 15ページ 1981-12)
裏見寒話(うらみかんわ) <書>
宝暦2年(1752)甲府勤番の士、野田成方(のだ・しげかた)の著したもので、全六巻より成る。勤番中の甲斐の見聞記で、歴史、地理、民俗、伝説等、多方面にわたって書かれている。山に関する記述もいくつかあり、甲斐駒ケ岳については以下のように述べられている。「駒ケ岳戌方聖徳太子金蹄駒ニ召サレ、此絶頂ニ降リ玉フ、其跡山ノ形駒ニ似タリト、天風吹々トシテ此巓ニ綿ノ如クナル雲カカル間モナク西北ノ大風落シ来ル是信州境也、峻嶺ナレハ人跡絶ユルト、此山ニ雷鳥トイフ鳥アリ、大サ白鳥程有リテ黒毛ニ嘴ト足黄色ナリト云フ」。当時、甲斐国は幕府の直轄領であり、甲府勤番は島流し的人事といわれていた。しかし、反面、その余暇を利用して、すぐれた随筆集が生まれるという土壌も育っていた。甲斐駒ケ岳のライチョウを紹介した最初の文献であろう。
衛星峰(えいせいほう) <事>
現在の登山界で、このような呼び方が定着しているかどうか疑問があるが、筆者らは甲斐駒ケ岳本峰をとりまくいくつかのピークを、このように呼んでいる。前衛峰という名称はよく使われているが、これは一次元的な呼び方で、衛星峰とは二次元的なひろがりを意味している。甲斐駒ケ岳のように独立峰に近い形態を持っていてはじめて可能な名称であろう。簡単に言えば主峰をとりまく小ピーク群ということになる。黒戸山、駒津峰、双児山、三ツ頭、烏帽子岳、大岩山、鞍掛山、日向山、嫦娥岳等をこのように呼んでいるわけである。これらはいずれも独立した山とは言い難く、本峰から派出した尾根上のピークにすぎない。しかし、いわゆる秘峰と呼ばれるピークは、このような位置にあることが多い。なお、甲斐駒ケ岳という名称はピーク名であると同時に、これらの小ピークを含んだ山塊を指すものと思われる。また、信仰登山の対象として、ほとんどの頂が古くから踏まれていることは興味深い。甲斐駒ケ岳の信仰登山の研究は案外少なく、未知の部分が少なくない。これらを掘り起こすことは直接登山とは関係がないが意義のある仕事といえよう。
Aフランケ(えいふらんけ) <地>
ダイヤモンドフランケAの略称。1971年、この岩場を開拓した赤蜘蛛同人によって名付けられた。赤石沢側壁群の一つで前衛壁とも呼ばれている。(→赤石沢ダイヤモンドフランケ、→赤石沢前衛壁)
●地図 甲斐駒ケ岳
S状ルンゼ(えすじょうるんぜ) <地>
赤石沢源流右岸の一支流。東の山麓から白くS字状に見え、本峰と摩利支天峰間の鞍部に突き上げている。落差350メートル、傾斜40度。出合いは白い滑滝となって本谷にわずかな水を落としている。第二の垂直の滝を越えると、浅い急なルンゼ状となり、この部分は100メートルほど続く。とくに難しい所はないが、突っ張って登らねばならず、体力を必要とする。上部の傾斜はゆるい。
●記録 *1955年9月24日 恩田善雄、山本輝夫(『白稜』100号)
1961年12月29〜30日 青木秀夫、富田 進、本田守旦(『白稜』175号
)
雪』60号クロニクル)
●地図 甲斐駒ケ岳
烏帽子岩(えぼしいわ) <地>
黒戸尾根九合目にある烏帽子型の岩塔で、南側は広い台地となって幕営も可能(水はない)。黒戸尾根の急登もここで終って、あとは黄蓮谷側のゆるい斜面を登って山頂に出る。すぐ下に二本剣(かつては三本剣だったが台風で破壊された)の岩塊がある。冬期の黒戸尾根は八合目から、この烏帽子岩までが難関となる。赤石沢に滑落した事件がいくつかあるので注意を要する。
●地図 甲斐駒ケ岳
烏帽子沢(えぼしざわ) <地>
黄蓮谷右俣瀑帯上部に右岸より合流するルンゼ状の小沢。出合いは右俣インゼルの右岸にあり、右俣遡行の場合、霧が深いときには迷い込む恐れがある。1940年代の記録で、ここに入ったと思われるものがいくつかある。水量はわずかで、滑滝をいくつか越えれば、ハイマツ帯となって烏帽子岩付近に出る。意識的に登ったのは下記パーテイが最初である。
●記録 *1954年8月17日 山田健三、坂本節夫(『白稜』85号)
●地図 甲斐駒ケ岳
烏帽子岳(えぼしだけ) <地>
本峰の北東2キロメートルにある標高2594メートルのピークで、甲斐駒ケ岳、鋸岳の主稜線より500メートルほど北東に寄った位置にある。山頂は東峰と西峰とに分かれており、東峰上に小祠がある。北東方面から見ると、顕著な鋭いピークで、名の通り烏帽子型をした岩山だが、本峰からでは平凡なピークにしか見えない。ここから北東に伸びる尾根を日向八丁尾根、東側の鞍掛沢と尾白川本谷との間の尾根を、烏帽子中尾根と呼んでいる。本峰北面の展望台で、坊主岩中尾根側壁にかかる尾白川本谷の枝沢が良く見える。南面に小さな岩場がある。
●地図 甲斐駒ケ岳
烏帽子中尾根(えぼしなかおね) 地>
烏帽子岳から東に伸びて、尾白川本谷と鞍掛沢との合流点に達している長さ3.5キロメートルの尾根。上半部はやせ尾根で二つの小ピークがあり、尾白川本谷側に高さ200メートルの障壁を作っている。一般登山道からは見えないが、北側も岩壁となっている。下半は小ピークがいくつかある平凡な樹林の尾根である。日向八丁と間違えて、ここを下ったパーテイがいくつかある。冬期もトレースされているが、記録は発表されていない。
●記録 *1964年1月1日 新井良夫、佐藤邦夫(富士重工大宮山岳部:烏帽子岳頂上
小祠中に残されたメモによる)
●地図 長坂上条、甲斐駒ケ岳
烏帽子中尾根北側フランケ(えぼしなかおねきたがわふらんけ) <地>
中尾根の北側は、鞍掛沢源流に急角度に落ち込み、最下部は鞍掛沢ゴルジュとなっているが、目立った露出壁はなかった。しかし、1982年8月の台風による豪雨で、樹林や土砂が押し流され、標高2200メートル帯の下に、スラブ状の岩壁が露出した。下半はオーバーハング帯、上半は傾斜のゆるいスラブ帯で、約10ピッチの登攀が行なえる。いくつかのルートがひらけるとのことである。
●記録 *1983年6月5日 平松 慈、大滝多美子、山崎盛夫、高橋康雄(『白稜』251号、『岳人』435号記録速報)
●地図 甲斐駒ケ岳
烏帽子中尾根側壁(えぼしなかおねそくへき) <地>
烏帽子中尾根第一峰の南側は尾白川本谷に向かって200メートル以上も落ち込み、大きな岩壁帯を作っている。本谷の核心地帯よりガリーが突き上げ、上部は一枚岩となって迫力がある。未発表を含めていくつかのルートが登られているが、いまだ名称の整理が行なわれておらず、ルート名は混乱している。
●記録 *カモシカ沢=1983年12月30日〜1月3日 名雪博ニ、仲河敏幸、南藤公也(ACC.J−『クライミングジャーナル』No.10,クライミングレポート)
*前烏帽子ルンゼ状スラブ(滑滝沢対岸のガリー)=1985年1月3日 長尾妙子a、
山下智夫b、北川勇人c、小島秀雄d、池 学d(a無所属、b徒歩山渓会、
c日本絶壁仲間、d-RCC神奈川―『岳人』455号記録速報、『クライミングジャーナル』No.17.クライミングレポート)
●地図 甲斐駒ケ岳
烏帽子ナメタ(えぼしなめた) <地>
烏帽子岳東峰と中尾根第一峰との鞍部より尾白川本谷に落ちている小沢で、滑滝が続いている。上流右岸に逆層の赤茶色をした大スラブがあり、ブッシュ一つ見当たらず、一気に伸び上がっている様は壮観である。しかし、傾斜は見た目よりゆるく、40度くらい。烏帽子滑滝沢とも呼ばれている。無雪期はかなり古くから登られているのだが、記録は発表されていない。
●記録 *1985年1月4日 池 学、小島秀雄(RCC神奈川―『岳人』445号記録速報、『クライミングジャーナル』No.17.クライミングレポート)
●地図 甲斐駒ケ岳
縁故節(えんこぶし) <歌>
甲斐駒ケ岳東山麓、武川村を中心に歌われた盆踊りの歌。1928年、小屋忠子、平賀
文男によって編曲整理されて今日のものになった。今では山梨県の代表的民謡となっている。険しい山々に囲まれたきびしい山村の生活が、地味な旋律の中に表現されている。なお、この歌は「島原の子守唄」の元歌といわれている。遠く離れた地に関係しているのは興味あることである。
河鹿ホロホロ 河鹿ホロホロ
釜無下りゃよ アリャセー コリャセー
鐘がなります 鐘がなります 七里岩 ションガイナー
延命行者(えんめいぎょうじゃ) <人>
寛政8年(1796)、信州諏訪で小尾今右衛門の二男として生まれた権三郎は、長じて仏門に入り、18歳の時、甲斐駒ケ岳開山の志を立て、自ら弘幡行者と名乗った。文化13年(1816)開山の後、禁裏内の高貴な人の病気を法力をもって全快させたということで、「延命行者」の名を贈られたと伝えられている。しかし、これは本当のことなのだろうか。『駒ケ岳開山記』には、開山を京都に奏上したことや、そのおりの書類の写しが載せられている。だが私考するに、わずか二十歳のなんの肩書きもないものが、禁裏に上れたのだろうか。当時すでに講の成立をみたとはいえ、それほど一般的なものとはいえず、知る人も少なかったはずである。開山信仰によって庶民に幸いを与えようという今右衛門の願いは果たされたわけだが、それを広めるにはなにか象徴となるものが欲しかった。そのためには開山者にはくをつける必要があった。行者を神聖化するために、あらゆる方法が試みられたとしてもおかしくはない。その一つのあらわれが、法力によって高貴な人の病を治すという話となって表れたのではないだろうか。当然、それらしいいくつかの資料も作られたはずである。このことは「平家落人部落」の話に似ている。全国各地にあるいわゆる落人部落は、そのほとんどが作られたものだという。山仕事をしながら渡り歩いた集団が、ある場所にとどまって、一つの集落を作ったとき、近くに住む人たちに対して、何か自分たちを権威づける必要があった。流れ者と言われないために平家落人という設定がなされた。それらしい話が作られ、いつか落人伝説というものが定着したのだという。(→弘幡行者)
大岩沢(おおいわさわ) <地>
釜無川・中ノ川中流部の河原が終ったあたりに、右岸から合流している小沢。水平距離
1200メートル、落差500メートル。出合いからわずかで二俣となり、左俣本流は日向八丁尾根の大岩山南鞍部に達している。とくに目立った滝はなく、全体が滑状の岩床となり、源流右岸は大岩山の岩壁となって切り立っている。右俣も滑が続いているということである。
●記録 *1963年8月24日 谷口博明、浅賀一夫(『白稜』184号)
●地図 甲斐駒ケ岳
大岩山(おおいわやま) <地>
本峰の北4キロメートルに位置する日向八丁尾根上のピークで、標高2319メートル。
南面から西面にかけてブッシュの付いた高さ100メートルあまりの岩壁となっている。このの岩は古くは「ゼンコの大岩」と呼ばれ、山名はそこからきている。いわゆる日向八丁尾根コースは、この岩壁の下を通ってピークを捲いているが、倒木帯で迷いやすく、コース第一の難関となっている。頂上から尾根通しに南に下るにはアプザイレンを必要とする。東の鞍部は小平地となり、黒川源流喜平谷に水もあることから、かつてはこの尾根唯一つの幕営地として使用されていた。このピークに立つには、尾白川・鞍掛沢支流金山沢をつめて東の鞍部に出るのがもっとも容易である。
●地図 甲斐駒ケ岳
大沢(おおさわ) <地>
雨乞岳より北西に落ち、釜無川に合流する水平距離3キロメートル、落差1000メートルの沢。平凡なガレ沢で遡行価値はまったくない。かつては雨乞岳からの下降路として一部の人たちに利用されていた。『甲斐国志』巻三十に書かれている「丸瀑」は、今は埋まっているらしく所在不明である。
●記録 *1968年9月29日 星野、渡辺(下諏訪山岳会―『1973年年報』)
●地図 甲斐駒ケ岳、信濃富士見
大平(おおだいら) <地>
釜無川源流・中ノ川右岸に広がる甲斐駒ケ岳にあるただ一つの山上高原。標高1500〜1600メートル。東西1キロメートル、南北1.5キロメートル。樹林帯の部分も多いが、白樺の点在する高原ムードの部分もあり、一時期、牧場として使用されたこともあった。中ノ川の出合いから中流に至る林道が、この中央部を横切っている。白州町の自然環境地区(白樺林)に指定されている。また、日向山東山麓一帯も大平と呼ばれている。●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
大平山荘(おおだいらさんそう) <建>
北沢峠の西400メートルの地点にあり、小屋のすぐ下に南アルプス林道が通じている。ここから西方、藪沢沿いに仙丈岳への登山道がある。以前は、大平小屋といっていたが、1982年秋、創設二十周年を記念して、現在のものに改称した。100名収容。(伊那市―竹沢重幸)
●地図 仙丈ケ岳
大薙(おおなぎ) <地>
カラ沢尾根の標高1800メートル圏南面にある崩壊壁で、高さ幅とも200メートル
に達する。遠望すると二本の脆そうな岩稜らしいものがあるが、詳細は知られていない。大武川・前栗沢出合いよりやや下流左岸に小滝となって落ちている小沢(ナギ沢)の奥壁である。甲斐駒ケ岳の登山道からはまったく見えず、早川尾根の一部から見下ろせるだけなので、地元の人にも知られていない。もちろん確たる名称もなく、仮称である。
●地図 鳳凰山
大武川(おおむかわ) <地>
甲斐駒ケ岳南面の水はすべてここに流れ込んでおり、ほぼ西から東に流れて、釜無川に合流する。長さ18キロメートル。その最源流は本峰南面の白ザレの斜面である。右岸に石空川、赤薙沢の二大支流、その他があり、左岸には篠沢、赤石沢等がある。本流にはひ
ょんぐりの滝、鵜の首の滝、横手の滝、六町ダテの滝場等があり、二の沢出合いまで大武川林道、その先は不明瞭な踏跡が仙水峠に抜けている。古くから信州と甲斐をつなぐ道として特殊な人たちに利用されていたらしいが、上流は荒れており、現在は登山者以外にここを通過する人はいないようである。大雨のたびに土砂を押し出す荒れた谷だったが、二の沢出合い付近に砂防ダムが完成し、篠沢出合い下のダムとともに治水工事が進んでいる。遡行の記録は古いものがあり、文化年間の遡行記録が残っている(→文化年間の大武川遡行)。登山者としてここに入ったのは柳
直次郎が古く、大正6年(1918)7月には本流から赤薙沢を遡り、広河原峠を越えている(『山岳』第15年第1号)。積雪期は1929年3月、黒田正夫、初子夫妻が沢中に二泊して北沢に抜けている。この山行中、赤石沢出合いより上流でスキーを使用しているのが注目される。
●参考資料 [T]黒田正夫「早春の大武川を遡る記」(『山岳』第24年第3号)
[U]中村 謙「大武川遡行」(『山と渓谷』1942-9)
[V]平賀文男「大武川」(『赤石渓谷』隆章閣・1933)
●地図 韮崎、市之瀬(以上 5万分の1)
大武川(おおむかわ) <地>
釜無川右岸にある戸数約70の集落名。釜無川沿いの集落では山梨県最北のものだが、国道20号線が対岸の長野県側を通っているため、長野県からでなくては入れないという変った所である。寒さが厳しく、古くから寒天の産地として知られていたが、現在は衰退している。近年、温泉ボーリングに成功、集落中で温泉に入れるようになった。諏訪神社中社がある。かつては上社、下社と並ぶ勢力を持っていたが、現在は訪れる人もまれである。むかし、甲斐は九筋、二領の行政区に分かれ、甲斐駒ケ岳東面一帯を武川筋と言った。その最奥にある集落なので、奥武川と呼ばれたものが、現在のようになったといわれている。『甲斐国志』巻三十に「大(オオ)ノ言ハ奥(オク)ニ近シ蓋シ転訛ナラン」とある。また巻六十六に「大武川七奇」として以下のような記述がある。
足跡石―祠前ニ在リ、千曳石・道反リ石・将軍石・長名石トモ云フ
赤石―村内ニ在リ、国ニ凶事アル時ハ必ス汗スト云
塩沢湯、福泉―水色常ニ白シ
釜無川―本祠下流ニ潭ナシ
鹿島石―上蔦木村ニ在リ水ヲ出ス
大臣ノ池―鳥原村王大臣ノ祠辺ニ在リ大旱ニモ水涸レズ
若シ国ニ変災アル時ハ予メ七処ニ応アリト云フ又大武川岩ハ祠西釜無川ノ水涯ニ在リ
縦横五十歩許リナルベシ 此ノ外乗鞍石・小袋石・小玉石・転石トモ云フ、母石等ノ名石多シ
●地図 小淵沢
大武川遡行記録集(おおむかわそこうきろくしゅう) <書>
都立小石川高校山岳部OBで組織されている紫山岳会による1966〜1976年に至る11年間の大武川流域の遡行記録集。B5版オフセット印刷、127ページ。1977年2月発行。巻頭にアート写真8葉がある。内容は、大武川、赤薙沢、石空川に分かれており、それぞれの本、支流を克明に歩いている。新しい記録は少ないが、この方面のまとまった記録がなかっただけに、よい資料といえよう。写真はすべて珍しいもので貴重な資料である。なお、冒頭の滝の写真は、無名となっているが、これは「ひょんぐりの滝」である。
大武川の読み方について(おおむかわのよみかたについて <事>
現在、大武川(川名)の正しい読み方は“おおむかわ”である。「おおむかわはし」と書かれた橋があるし、地元でも正式にはこう呼んでいる。古い文献では、文政13年(1830)
に作られた『新判色摺甲斐国絵図』(山梨県立図書館蔵)に「大ム川」と書かれている。また『大日本地名辞書』(吉田東伍・1900)にも「オオム川」とある。しかし、現在地元では普通「オームカ」と呼んでいる。参謀本部や地理調査所時代の五万分の一地図『韮崎』を見ると「オームカ」のルビがある。ここから一部の登山者が「オームカガワ」などと呼ぶようになった。『岳人』51号の「南アルプス談義」中で、高須茂が「オームコガワ」と呼んでいるが、オームカからなまったものといえよう。しかし、これは明らかにオームカが川を表すことを知らずに、川を加えてしまったもので、正しい呼び方とはいえない。このような例は外にも見られる。例えば北アルプスの横尾尾根である。これは本来、横尾根(主稜から分かれた枝尾根という意味)と呼ばれていたものがつまって「ヨコオ」となり、さらに末端付近の地名となり、登山者が尾根を加えてしまったものである。このように地名がつまって呼ばれるのは何故だろうか。これは古い日本語に多い名詞の三音節からきたものであると思う。しかも“かわ”の場合には、発音するのに口調を変えなければならず、他の固有名詞とつながって“か”とちぢまる運命にあったといえよう。この周辺には「オームカ」(大武川)、「ガンガ」(雁ガの沢で本来はガンガワ)、「シヨザ」(塩沢川)に、その典型を見ることができ
る。また、中尾、長尾等も同じ理由で中尾根、長尾根がつまったものと考えられる。
大藪温泉(おおやぶおんせん) <地>
大武川右岸にあり「藪の湯」とも呼ばれている。古湯、元湯という二つの泉源があり、「鈴木旅館」「みはらし」が営業している。食塩泉21度。古くから胃腸病の霊泉として、近在の人に親しまれてきた湯である。狩猟の基地としても知られ、付近にはマス、ヤマメの釣り場やキャンプ地もある。ひとむかし前までは、湯治場、登山者の宿だったが、最近は甲府の奥座敷などともいわれ俗化した。『甲斐国志』巻三十、桑木沢・汁垂沢の項に「北ヨリ来テ篠沢ニ注グ此辺ニ大藪温泉アリ」と紹介されており、この湯がかなり古くから知られていたことがわかる。一説には400年前に発見されたともいわれている。地理調査所時代の五万分の一地図『韮崎』図幅には、大坊の西の山寄りにも温泉記号がある。これは駒ヶ岳鉱泉と呼ばれ、昭和のはじめまで営業していた。古い登山記にはよく登場する湯であった。また、1939年、初めて篠沢を遡行した山岳巡礼倶楽部パーテイの報告のルート図に、汁垂沢出合い下に「亀の湯跡」という記入があり注目される。この辺は、糸魚川―静岡構造線が通っているので、それに沿って、いくつかの温泉湧出があったものと考えられる。なお、温泉の奥に構造線の露出面があり、地学上重要な地点として知られている。
●地図 長坂上条
黄蓮谷(おおれんだに) <地>
甲斐駒ケ岳本峰東北面の水を集める谷で、水平距離3キロメートル、落差1500メートルで、尾白川本谷と合流して尾白川を作る。千丈の滝、坊主の滝、奥千丈の滝をはじめとして、全渓が滝の連続で、すべり台のような感じで直接本峰に突き上げている。北面であるにかかわらず全体的に明るく感じるのは、花崗岩のスラブという構成にもよるが、中流から上部がU字型にひらけているためである。甲斐駒ケ岳の代表的な渓谷であり、南アルプスを通じて最も人気のある谷の一つで壮快な遡行が楽しめる。谷は中流で二俣となり、左俣は本流とは異なって垂直に近い独立した滝が多く、急傾斜で黒戸尾根八合目に突き上げている。二俣より下流右岸に、六丈の沢、五丈の沢の二支流があり、左岸には坊主の沢が千丈の滝下に落ちている。出合いからこの千丈の滝までは尾白渓谷道が通じており、ここから五丈の沢に沿って黒戸尾根五合目に達している。黄蓮谷本流(右俣)の魅力は、その谷としての構成の見事さによるものである。下流はいわゆる谷歩きで、両岸がそば立ち、
壮麗な千丈の滝、坊主の滝があり、中流からは一変して、スラブを主にした岩登りとなる。とくに奥千丈の滝にはじまる瀑流帯は、無数の滝が連続しており遡行者を飽きさせない。垂直に落ちている奥の滝を境として源流地帯に入る。ここは柔和な流れで、7月下旬には
高山植物がいっせいに開花する。周辺は明るくひらけて遡行の最後をかざるにふさわしい楽園である。1930年9月、岩瀬勝男(関東山岳会)によって、初めて本流が探られたが、その全貌は未知のまま戦後にまで残された。この谷に登山者が殺到したのは1949年以後のことで、主として本流や左俣が登られた。1950年以後、筆者らによって千丈の滝岩小屋をベースとして、その支流が次々に明らかにされ、未知を求めて、わずかな細流さえも探られた。1954年8月、奥の滝の右手にある主稜線にまで抜けているガリーが鎌田
久によって登られ、無雪期の開拓を終った。1953年11月下旬、筆者は単独で坊主の沢から南坊主岩に登り、雪煙の舞う氷結した右俣を間近く仰いで、冬の谷に甲斐駒ケ岳の真価が秘められていることを知った。この谷にアイゼンをきしませ、ピッケルを振って氷を切ったのは、1955年1月の鹿島達郎、原田敏明パーテイがはじめてであり、それはアイスクライミング時代の到来を告げる初めてのステップとなった。
●記録 *1930年9月7日 岩瀬勝男外1名(関東山岳会―会報『山岳資料』第9輯)
*1949年5月30日 碓井徳蔵 外2名(鵬翔山岳会―『鵬翔』83号)
*1958年12月31日〜1月1日 中尾正司、伊藤幸之輔、小林秀康(『白稜』140号、
●参考資料 恩田善雄「黄蓮谷右俣」(『日本百名谷』白山書房・1983)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
黄蓮谷中間尾根(おおれんだにちゅうかんおね) <地>
黄蓮谷右左俣を分ける尾根で、上部は黒戸尾根九合目の烏帽子岩に達している。下部は岳樺やナナカマドが密生し、上半はハイマツ帯となっている。積雪期といえども登攀価値はまったくない。初期の開拓時代だったから登れた尾根である。
●記録 *1958年1月4日 中尾正司、倉持博幸、小林秀康、石塚正和(『白稜』128号)
●地図 甲斐駒ケ岳
黄蓮谷の滝の名称について
(おおれんだにのたきのめいしょうについて <事>
黄蓮谷の滝の名称は、千丈の滝を除いては、いずれも1945年以後(戦後)に命名さ
れたものが通用している。現在、「坊主の滝」「奥千丈の滝」等が、ほぼ固定しいているが、一部の記録に異なった名称が使われている。この谷は1930年9月に岩瀬勝男(関東山
岳会)によって、右俣より初遡行されているが、その記録には「千丈の滝」以外の名称は使われていない。1947年、地元に菅原山岳会が結成され、この山のコースの整備を行なった。その一環として、千丈の滝上から左俣出合いを経て、黒戸尾根七合目に至る登山道が開拓され、「坊主の滝」とその上にある「鳥居の滝」の命名を行なっている。この登山道は数年を経ずして崩壊し、現在はその痕跡すら留めていない。1949年春から秋にかけて、集中的にこの地域に入山した鵬翔山岳会パーテイは、1950年、会報『鵬翔』83号その記録を報告している。それによると、現在の「坊主の滝」を「中千丈の滝」、左俣第一の滝を「奥千丈の滝」としている。また、1956年12月、左俣の氷瀑登攀を行なった古川純一らも、『岳人』117号、著書『わが岩壁』中で同じ名称を使用している。これは前記の文献を参照したものと思われる。筆者は、黄蓮谷の奥に「奥千丈の滝」と呼ばれる巨大な滝があるといううわさを聞き、右俣200メートルの滑滝をそれとして『白稜』24号(1949)
に報告した。記録の発表にあたっては地元の名称を優先し、それが不明の場合には先登者の命名を尊重すべきだが、鵬翔山岳会の記録を見たのは後年のことで、仲間うちで、その報告中の名称が固定してしまった。遡行から数年を経て、屏風小屋の中山国重らが、奥千丈の滝を「白糸の滝」と呼んでいることを知ったが、筆者の怠慢から会報中での訂正は行なわれなかった。しかし、最近、昭和初期の絵地図が発見され、奥千丈の滝が古くから命名されていたことが判明した(→昭和初期の甲斐駒絵図)。名称が一般化したのは、1961年、東京創元社より『現代登山全集』が刊行され、その第5巻に筆者が「甲斐駒をめぐるバリエーションルート」を発表したからによる。「奥千丈の滝」「坊主の滝」の名称は固定したが、文中になかった「鳥居の滝」という名称はほとんど知られることなく今日に至った。
黄蓮谷左俣(おおれんだにひだりまた) <地>
坊主の滝のやや上流で、落差70メートルの滝となって右岸から本流に落ちている。落差900メートル、平均傾斜は40度に達する。右俣本流が傾斜のゆるい滑滝で構成されているのに対し、この谷は独立した垂直に近い滝を主としており、「く」の字なりに急激にせり上がっている。中流右岸に七合目小屋上に突き上げている七丈ルンゼがある。源流は
不明瞭な三俣となっている。中俣が本流で、黒戸尾根八合目台地にある小キレットに達し、左俣は台地に消えるガラ沢である。本流の左岸はブッシュのある岩壁帯で、ここに右俣が浅いルンゼとなって食い込んでいる。無雪期の遡行の面白さは本流の右俣におとるが、冬期は相貌を一変する。各滝は氷結して格好のアイスクライミングの舞台となり、この山での人気ルートの一つとなっている。我が国のアイスクライミング発祥の地として知られている。
●記録 *1949年6月6日 真鍋祐輔、碓井徳蔵、柴山(鵬翔山岳会―『鵬翔』83号)
*1949年10月31日 碓井徳蔵、真鍋祐輔(同上)
*1950年5月2日 原田敏明、恩田善雄(『白稜』31号)
*1956年12月31日〜1月2日 古川純一、小森康行、石川治郎(ベルニナ山岳会―『岳人』117号、古川著『わが岩壁』山と渓谷社・1965)
●参考資料 [T]八木圭三「甲斐駒黄蓮谷遡行」(『山と渓谷』1953-5)
[U]碓井徳蔵『わが山』(二玄社・1960)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
黄蓮谷左俣中央稜(おおれんだにひだりまたちゅうおうりょう) <地>
黄蓮谷左俣は源流で三俣となり、中央の本流と右ルンゼとの間は、本流側に垂直に切れ落ちたブッシュまじりの岩壁となっている。標高差300メートル、傾斜40度で、黒戸尾根八合目と烏帽子岩の中間あたりに達している。一、二のピッチを除いては特に困難な所はない。無雪期は単なるブッシュの尾根で登攀価値はない。黄蓮谷周辺で始めて厳冬期に登られたバリエーションルートであるというに過ぎない。
●記録 *1953年1月3日 恩田善雄、漆畑 穣(『白稜』67号)
●地図 甲斐駒ケ岳
黄蓮谷左俣右ルンゼ(おおれんだにひだりまたみぎるんぜ) <地>
黄蓮谷左俣は滝場が終わってから不明瞭な三俣となる。右に分かれるのがこのルンゼで、傾斜45度くらい。流水はほとんどなく10メートル内外の涸滝がいくつかある。最後はブッシュまじりの岩壁に消え、烏帽子岩付近に達している。出合いから烏帽子岩までの標高差400メートル。とくに困難な所はなく、壁は木登りに終始する。周辺の地形解明、命名は下記文献によって成された。
●記録 *1952年8月7日 鎌田 久、恩田善雄(『白稜』60号)
●参考資料 恩田善雄「甲斐駒黄蓮谷左俣源流について」(『白稜』67号1953)
●地図 甲斐駒ケ岳
黄蓮谷右俣中央リッジ(おおれんだにみぎまたちゅうおうりっじ) <地>
黄蓮谷右俣源流を分ける小尾根で、奥の二俣からの標高差300メートル。無雪期は単なる藪尾根と思われるが、積雪期はナイフエッジや小岩壁が点在する手ごわい尾根に変貌する。黄蓮谷右俣の厳冬期初登攀はこのリッジを経由して行われた。
●記録 *1959年1月1日 中尾正司、伊藤幸之輔、小林秀康(『白稜』140号)
*1997年1月1〜3日 辻内哲夫ら3名(立川山岳会―『岳人』600号記録速報)
●地図 甲斐駒ケ岳
オーレンと黄蓮谷(おおれんとおおれんだに) <事>
甲斐駒ケ岳のみならず、南アルプス、八ヶ岳、北アルプスまで、この名の谷(沢)は数多くある。「ワサビ沢」などと同様に、オーレンを採集したため命名されたものである。谷の大部分を、ある植物が覆っていれば、その植物名がつくことは当然予想されるが、この場合はむしろ希少植物である。それが少なくとも有用だからこそ名付けられたのであろう。「オーレン」とはキンポウゲ科の小さな草で、初夏に白い可憐な花を付ける。葉は切れ込みのある卵型の複葉。根が黄色で、それが薬用となり「くすりぐさ」ともいわれている。現在でも漢方薬としてさかんに使用されており、沢沿いのじめじめした所に多く見られる。尾白川上流の千丈の滝付近に多いことから、この谷が黄蓮谷と呼ばれるようになった。すでに『山岳』第六年第三号の「鞍掛山、烏帽子岳、鋸岳を経て駒ケ岳に登る記」(星
忠芳)中に、「黄蓮沢」という記述が」見られる。この山のオーレンは古くから知られていたらしく、『甲斐国志』巻百二十三に「駒ケ岳ヨリ出ズル者長大ニシテ甚ダ美ナリ相伝フ・唐山ノ書ニモ倭黄蓮ハ上品ナリト見エタリ」とある。
奥栗沢(おくぐりさわ) <地>
アサヨ峰北面の水を集めて大武川に合流する、水平距離1.5キロメートル、落差
1300メートルの沢。二万五千分の一地図上では、上流にかなりの岩記号が描かれているが、まとまった岩壁は見当たらない。沢も平凡で小滝があるだけのゴーロ状の流れである。(→栗沢群)
●記録 *1974年10月11日 小林賢一郎、生和光明(紫山岳会―『大武川遡行記録集』1977)
●地図 仙丈ケ岳、鳳凰山
奥駒津沢(おくこまつざわ) <地>
戸台川本谷の第二の滝上左岸に駒津沢と並んで、その上流側に急傾斜の滑滝となって落ち込んでいる。落差は700メートル足らずだが、平均傾斜は40度以上もあり、源流には二段の奥壁がある。この壁は戸台川の河原からも見えるもので、本谷流域にあるただ一つのまとまった岩壁である。主壁の高さは150メートル、幅は300メートルに達する。前衛壁は高さ幅ともに100メートルほどで、下からは主壁の下に並んで見える。主壁は左方の岩は堅いが高さは充分ではなく、右方は高いが岩質が脆くなるという欠点を持っている。地元のパーテイによって試登されているが、完登の記録は発表されていない。谷は出合いから滝の連続で、奥壁の下で二俣となっており、右・左俣とも滝が多く楽しめる。本谷流域でもっとも登り甲斐のある沢で、冬の氷壁登攀も一級品である。つめは駒津峰から本谷に派出している支稜に突き上げており、双児山の主稜線に達していない。特に名称ななく筆者の命名による。
●記録 *右俣=1963年7月18〜19日 谷口博昭、田中 進(『白稜』184号) 1966年1月15〜17日 新藤
研、後藤晃博(『白稜』199号、『岳人』307号)
*左俣=1966年7月31日〜8月1日 恩田善雄、市川 正、新藤 研(『白稜』202号) 1967年3月19〜21日 林
孝男、佐藤 勲、小林 隆(『白稜』206号)
●地図 甲斐駒ケ岳
奥千丈の滝(おくせんじょうのたき) <地>
黄蓮谷右俣中流にかかる長さ200メートル、落差100メートルの滑滝で、逆「く」の字形になって落ち、付近には花崗岩のすばらしいスラブが広がっている。水線に沿った登攀は右俣遡行の白眉である。黒戸尾根七合目付近より望見できる滝で、地元では「白糸の滝」
とも呼んでいた。黄蓮谷右俣遡行はこの滝を境として明るくひらけ、岩登りの領域となる。1949年8月、この谷に入った原田敏明と筆者は忠実にこの滝の水線を登って山頂に立った。
●参考資料 恩田善雄「甲斐駒ケ岳における二つの渓谷の登攀」(『白稜』24号・1949)
●地図 甲斐駒ケ岳
奥の滑滝沢(おくのなめたきさわ) <地>
尾白川本谷の核心地帯の最奥、本谷大滝のやや下流に右岸より合流している。地図上では二俣のように見えるが、出合いは壁状の上を落ちるものでわかりにくい。落差700メートル、傾斜30度の沢で、名の通り全渓が滑滝で構成されている。源流は甲斐駒ケ岳・鋸岳の稜線の七合目に達しており、付近はハイマツの海である。美しい流れだが、本谷の源流地帯にあるため、水量の少ないのが惜しまれる。技術的に難しいところはない。初めての遡行にあたって筆者が命名した。
●記録 *1953年8月19日 恩田善雄、清水茂七(『白稜』72号)
1978年12月30〜31日 城山 修、石垣 久(べるくらんとー『山と渓谷』1980-1)
●地図 甲斐駒ケ岳
小黒川(おぐろがわ) <地>
三峰川支流・黒川は戸台付近で二つに分かれ、右は戸台川、左は小黒川となる。入笠山(1955m)から、ゆるやかに南に流れて、長さ15キロメートル、落差800メートル。流れに沿い黒河内林道が伸びて入笠山を越えている。ほぼ釜無山脈に沿って、その西側を流れており、流域は渓流釣りや水石の産地として知られている。むかし、戸台川を黒川と呼んだこともあるので、その支流という意味から小黒川といってのかもしれない。
●参考資料 [T]田山花袋「山を越えて伊那へ」(『山水小記』文陽堂・1917)
[U]斎藤善久「冬の入笠越え」(『岳人』45号)
●地図 甲斐駒ケ岳、信濃富士見
尾白川(おじらがわ) <地>
本峰東北面一帯の流水を集めて釜無川に合流する甲斐駒ケ岳の代表的な渓谷で、長さ約15キロメートル。白い花崗岩の岩床と清流の美しさで知られている。源流地帯には黄蓮谷、本谷側壁、坊主岩等があって、多くの登攀者を迎えている。支流で大きいものに、烏帽子岳に源を発する鞍掛沢がある。竹宇登山口から流れに沿って渓谷道があり、黄蓮谷下流から黒戸尾根五合目に達している。この道を辿れば、多くの滝や淵を持つ渓谷を鑑賞することができる。しかし、度重なる台風で荒れており、現在は一部の通過が困難となっている。聖徳太子が尾の白い馬に乗って、ここを通ったという伝説から、この名が付けられ
たといわれている。天平3年(731)、身体が黒く、たてがみと尾が白い甲斐の黒駒を朝廷に神馬として献上して、たいへんな恩典が下されたということが『続日本紀』(注)に書かれており、伝説はこれに由来するものであろう。『甲斐国志』巻三十に「尾白川山上ヨリ発シ
瀑布ト成リテ懸岩を降リ 級ヲ拾フテ潭トナル 是レヲ千箇潭ト名ヅク 奇勝殊ニ甚ダシト云」とある。文人・大町桂月が「これやこの一万尺の高嶺より下界にそそぐ四十八滝」と歌ったのもここである。以前は「おじろがわ」といっていたのだが、最近、地元で「おじらがわ」というようになったので、これにならった。このの水のうまいことは有名で、環境庁指定の“名水百選”のも選ばれている。
●注 『続日本紀』は延暦12年(793)に完成した勅撰史書で、日本書記の後をうけ、文武天皇元年から桓武天皇の延暦10年までが編年体で書かれている。
●参考資料 原 全教著『東京付近の谷歩き』(朋文堂・1943)
尾白川渓谷道(おじらがわけいこくどう) <地>
尾白川に沿った登山道のことで、入り口は竹宇前宮である。不動の滝までは信仰の道とハイキングコースとなっており、よく整備されている。しかし、それより上流部は桟道が朽ちてかなり荒れており、一般コースとはいえない。道は本谷と黄蓮谷の合流点から黄蓮谷に入り、千丈の滝下より流れを離れて、黒戸尾根五合目に達している。梯子や桟道が多く、もともと楽な道ではない。単に五合目に出るのであれば、尾根道のほうが楽だし、時間もかからない。しかし、水と樹林と白い岩が調和した渓谷美を観賞することができるコースである。途中、数箇の岩小屋がある。1921年に完成し、この折、多くの滝や、周辺の岩場等に現在のような名称がつけられた。1924年夏、大町桂月により宣伝され、一般に知られるようになった。ぜひ再整備してほしい道である。
●地図 長坂上条
尾白川本谷(おじらがわほんだに) <地>
黄蓮谷との合流点より上流の尾白川を本谷とよんでいる。水平距離3.5キロメートル、落差1200メートルの谷で、坊主岩の北裾を回り込み、源流は甲斐駒ケ岳・鋸岳の稜線から烏帽子岳にかけて扇状に広がっている。出合い付近は美しい滑滝群となっているが、本流に大きな滝はなく、まとまった滝場も見当たらない。しかし、中流地帯の側壁と、そこにかかる枝沢の滝は見事である。坊主中尾根側に、上流より奥の滑滝沢、滑滝沢、西坊
主の沢、北坊主の沢が滝となって落ち込んでいる。これに対し、烏帽子中尾根側には顕著な枝沢はない。わずかに烏帽子岳と中尾根第一峰との間に急な沢状のスラブが伸び上がっているだけである(烏帽子ナメタ)。遡行には技術的な難しさはなく、甲斐駒ケ岳谷歩き入門第一課として推薦できるコースである。開拓期、源流に大岩壁があるとうわさされ、ルートなどもまことしやかに伝えられ、意気込んで入谷したのだが、そのような壁は発見できず、幻に終わった。しかし、筆者にとっては、この山における初めてのバリエーションルートであり、当時の期待感や緊張感は今も鮮明に脳裏に残っている。そして、この日を境に単なる登山者から探求者へと変貌したのだった。
●記録 *1949年7月2〜3日 恩田善雄、原田敏明、良方正邦(『白稜』21号)
1960年1月1〜2日 野口末雄、利根川 修、須藤和雄(『白稜』152号)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
尾白川林道(おじらがわりんどう) <地>
尾白川の左岸の峡底から200〜300メートルほどの高さで、鞍掛沢出合い付近まで伸びている林道。着工は1940年代だが、たびたび中断し、現在も工事は中止されている。計画では将来は中ノ川と繋ぐとのことであるが、この周辺は糸魚川―静岡構造線に沿って小さな断層があり、整備してもすぐ崩壊してしまうようである。尾白川の奥に入るには、この道を利用すれば、かなり時間を短縮できる。明るく展望のよい道で、竹宇のはずれに入口がある。
●地図 長坂上条
お中道(おちゅうどう) <地>
甲斐駒ケ岳山頂直下には講中でお中道と呼んでいる二本の道がある。黒戸尾根八合目か
ら赤石沢奥壁直下を通って摩利支天峰と本峰との鞍部に達する道と、北西尾根六合目石室から戸台川本谷源流を横切って六方石に至る道である。いずれも明治初期にはこの道に関しての記述があり、途中、石碑などが見られることから信仰登山のものであることがわかる。頂上直下をトラバースしているので、もし、六合目石室より黒戸尾根八合目に出る道があれば、直下を一周することになる。しかし、この道は探し出せなかった。これは明らかに登山用ではなく、ある目的を持った信仰の道であると思われる。頂上を目的とするならば一般の道で充分であり、わざわざ遠回りする必要はない。どこかが目標であるとする
ならば、それは摩利支天峰しかない。信仰のため奥の院へ至る道と考えるほうが自然であろう。
鬼の窓(おにのまど) <地>
日向八丁尾根より分岐して雨乞岳に続く尾根上と、大岩山北西稜上の二ヶ所にある。尾根が切れ落ちたような鞍部の名称。前者を区別して「口の鬼の窓」あるいは「東鬼の窓」とも呼んでいる。剣岳地方でいう「マド」とは異なり、かつては稜線上に岩穴があいていたものらしい。鋸岳稜線上にある風穴が、鹿の窓とも呼ばれていたことからもうかがえる。前者、すなわち、濁川・笹の沢の源頭にある鬼の窓については、『甲斐国志』巻三十・濁川の項に「上流ニ鬼ノ窓岩ト云フアリ
大岩ノ中ニ二間ニ八尺程ノ穴アリ 往時魑魅ノ棲シ処ト云フ 白須ヨリ凡ソ五里ナルベシ」とある。『国志』中では谷やその源流の記述はいずれも具体性を欠いているが、このようにはっきり書かれているのはここだけである。おそらく近くにある水晶薙への道が古くからひらかれ、付近が探られていたものではないだろうか。
●地図 甲斐駒ケ岳
鬼の窓沢(おにのまどさわ) <地>
釜無川・中ノ川の中流の河原より、大岩山・北の鬼の窓に達している小沢。中流で二俣となり、いずれも小滝と滑が連続している。水平距離1キロメートル、落差約500メートル。『山梨県山林課調査図』ではイセ谷沢と書かれている。
●記録 *1963年8月24日 土淵知之、加藤雅大、野村やよひ(『白稜』184号)
●地図 甲斐駒ケ岳
オボコ沢(おぼこざわ) <地>
塩沢川左岸の支流で、源頭は雨乞岳北尾根1600メートル圏である。水平距離1.7キロメートル、落差600メートル。堰堤が続く平凡な沢である。『甲斐国志』巻三十・塩沢の項に「大武川村ノ南ニ在リ
近傍ニ温泉湧ク、塩沢ノ湯ト云又孩児(オボコ)沢アリ」と紹介されている。孩児とは本来、「みどりご」のことであるが、これは当て字であろう。甲斐の方言で、カイコのことをいう。近くの石尊神社や鞍掛山に蚕神の碑があり、関係があ
るのかもしれない。
●地図 信濃富士見、小淵沢
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│ 特別連載 │
│ 甲斐駒ヶ岳研究(3) │
│ 恩 田 善 雄 │
│ (東京白稜会) │
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甲斐国駒ケ岳之略図(かいこまがたけのりゃくず) <図>
白鳳会・山寺仁太郎氏秘蔵の絵図で同会会報『白鳳』6号にはじめて紹介された。34×26センチメートル、木版刷りのもので、納入袋に明治12年巳卯と書かれている。また官許という文字があり、このような簡単な絵図までも役所の許可が必要だったことがわかる。当時、先達に率いられた講による登山以外にも、甲府あたりの人がけっこう登っており、記録は残っていないが、これらの絵図が案内の役割を果たしたものとも考えられる。駒ケ岳本峰、摩利支天、黒戸山等は明瞭であり、烏帽子岳が左に傾いているのも興味をそそる。この山が日向八丁尾根方面からしか烏帽子型には見えず、その名称と形から、八丁尾根が当時歩かれていたことが推察される。また、鞍掛山が文字通り鞍形をしており、山名の根拠となっていたことがわかる。その上には、南北坊主岩らしき描写のあるのも興味をそそる。図中、遥拝所とは竹宇前宮、大勢利滝とは不動の滝、馬返しとは笹の平と思われる。また、屏風岩近くに五合目という記入があり、当時、五丈という呼び方はなかったのではないかとも思われる。尾白川奥まで道が入っているのも、古くからここに人が入り込んでいたという筆者の主張を裏付けているようにも思える。(口絵参照)
甲斐国志(かいこくし) <書>
文化3年(1806)幕命により、甲府勤番支配、松平定能(まつだいらさだまさ
1758〜1811)が編纂した甲斐国全般にわたる地理書。8年の歳月を費やし、文化11年(1814)に完成した。全百二十三巻。提要部、村里部、山川部、古蹟部、その他数項に分かれており、他の地誌の追従を許さぬ見事なものである。ことに山岳に関する記載の綿密なことは他に類がないといわれている。甲斐駒ケ岳周辺に関する記述も多く、とくに河川に関して詳しく述べられている。しかし、本峰の登路に関しては記述が抽象的で、荻生徂徠の『峡中紀行』を引用した程度に終っている。この時期すでに、山頂に至る道が確保されていたが、この記述は、登るものがごく少なかったことを暗示している。製作にあたっては、編纂の趣を各村に前触れして古老を動員し資料を集め、それを各地担当の役人が集めて編集したといわれている。内藤清右衛門、森島弥十郎助力。原本は二部で、幕府に献上された。この献上本は現在、内閣文庫に保存されている。甲斐の地誌を論ずるには、なくてはならぬ重要な文献だが、今日的な眼から見れば誤りや矛盾も多く、これのみでこの時代の地誌を論ずるのは危険である。『国志』の写本は現在まで十数種類が知られているが、一般向きに印刷刊行されたのは明治から昭和にかけての七回で、以下のごとくである。
1. 温故堂本 温故堂主内藤右伝衛門が明治17年、三十冊の和綴本として刊行。
2. 峡中日報本 明治30年、峡中日報社が古跡部までを刊行したが、以後中止した。
3. 甲陽図書本 明治44年、甲陽図書刊行会・広瀬広一が上下二巻本として刊行。
4. 甲斐志料本 昭和9年、甲斐志料刊行会主・萩原瀬平が上中下三冊として刊行。
5. 甲斐叢書本 昭和10年、甲斐叢書刊行会が広瀬広一に委嘱して上中下三冊を『甲斐叢書』に収めて刊行。
6. 天下堂本 昭和41年、天下堂書店が刊行。
これらは献上本を基底としなかったので、それぞれ記述に若干の相違がある。七回目、1982年に雄山閣より『大日本地誌体系』(44〜48)として刊行されたものは、献上本を基底として校訂を行なっており、『国志』の決定版といわれている。
外国人による駒ケ岳初横断
(がいこくじんによるこまがたけはつおうだん) <事>
明治36年(1903)8月、ウオルター・ウェストンによる黒戸尾根より登頂、戸台に下山したものを嚆矢とする。これは著書『極東の遊歩場』(注1)中の「早川谷と甲州駒ケ岳」に紹介されている。それによると早川谷を探ったのち富士山麓に遊び、軽井沢から塩尻、上諏訪を経て台ケ原に出るという大旅行の後の登山である。ウェストンに限らず、当時、言葉や地理に不自由な外国人が容易に国内旅行ができたのは、『日本旅行案内』(注2)というすぐれた案内書があったからである。ウェストンは台ケ原で案内人(清水長吉)を雇い、黒戸尾根を登って五合目で一泊。翌日、登頂に成功したが、山頂展望のあまりのすばらしさに、七合目まで下って小屋掛けをして泊り、再登頂している。下山路は鋸岳第二高点の手前から戸台川へのコースをとっている。鋸岳を偵察したかのような解説もあるが、紀行中にはそれらしい記述はどこにも見当たらない。信仰登山の道である六合目から下山せず、一般とはいえないコースをとったのは興味のあることであり、わたしなりの解釈を持っているが、まだ疑問点もあり発表の段階ではない。なお書中、大正6年(1917)8月、オズワルド・ホワイトが北沢より駒ケ岳、仙丈岳を往復したことが紹介されており興味をそそる。東面からの甲斐駒ケ岳を「日本中で最も壮大ですばらしい花崗岩の断崖」と述べているのが注目される。この山行について「私が知っている限りでは、ヨーロッパ人の旅行者が、この山を完全に横断した最初の記録」といっている。ウェストンは自身の山行について、“外国人として初めての登山”を詳しくチェックしているが、その中に甲斐駒ケ岳は入っていない。あくまでも初めての横断の記録としているのである。この登山は『日本旅行案内』第四版(1897)の黒戸尾根の案内を参考にしたと思われるが、記事の資料提供者のA.G.S.ホーズが明治14年7月に登ったと思われているからである(注3)。この後の登
山記録としては、明治44年(1911)、神戸在住のH.E.ドーントによるものが『INAKA』(注4)に印されている。
●注1 『極東の遊歩場』(The Playgraund of the Far East 1918 )は、『日本アルプス・登山と探検』に次ぐ第二著書として、ジョン・マレイ社より発行された。ウェストンの第二回、第三回来日中の山行を記したもので、1970年、岡村精一訳のものが山と渓谷社より出版されている。
●注2 『日本旅行案内』(Handbook for Travelers in Japan )は、1881年から1913年まで九版を重ねた。始め、アーネスト・サトウとA.G.S.ホーズ共編で『中部・北部日本旅行案内』であったが後に、チェンバレンとメーソン共編となりマレー社から発行された。執筆はいわゆる“お雇外国人”で、当時の最新情報が盛られていた。我が国登山史上で貴重な文献の一つとなっている。1897年の第四版に、はじめて甲斐駒ケ岳の登山コースが紹介されている。
●注3 ホーズの登山は、明治14年7月23日といわれている。同年、アーネスト・サトウとホーズは 7月から約一ヶ月半をかけて、多摩川を遡り、金峰山に登った後、南アルプス周辺を南下して、最後に千頭までの大旅行を行なっている。同年、二人は『中部・北部日本旅行案内』を編纂しているが、この旅行は次の版への資料収集であったと思われる。二人は適当に別行動をとって、調査範囲を広げている。サトウは詳しい日記を残しており(『日本旅行日記』庄野元男訳・東洋文庫・平凡社・1992)、この中にホーズの甲斐駒ケ岳行について触れている。ホーズはその後、三峰川を遡って遠山川に出るという足跡を残しており、サトウは間の岳、農鳥岳に登っている。日記中には登頂したとは書いていないが、『日本旅行案内』第四版の記述を見れば登頂はまちがいないようである。ホーズについては庄野元男著『異人たちの日本アルプス』(日本山書の会・1990)に詳しく解説されている。
●注4 『INAKA』は、ドーントの登山グループの機関紙で、1915〜1924まで、18巻が刊行された。
外国人による初期の登山(がいこくじんによるしょきのとざん) <事>
わかっているものだけを年代順に記す。
○1881年(明治14年)7月23日 A.G.S.ホーズ 黒戸尾根より登頂。(アーネスト・サトウ『日本旅行日記』中に記してある)
○1905年(明治38年) ウェストンは黒戸尾根より登頂の後、中ノ川乗越しを経て戸
台川に下る。(『極東の遊歩場』)
○1911年(明治44年)、ドーント登頂
(『INAKA』第15巻(1920)中にあり、未見のため登路不明)
○1911年(明治44年)7月18日 ウイルヘルム・シュタイニッツアー(ドイイツ人) 黒戸尾根より登頂。(日本山岳紀行)
○1917年(大正6年) オズワルド・ホワイトが北沢より登頂。(ウェストンの『極東の遊歩場』中に記してある)
甲斐駒尾白川黄蓮谷綜合報告
(かいこまおじらがわおおれんだにそうごうほうこく) <文>
鵬翔山岳会による1949年春から秋までの黄蓮谷遡行の記録を集めたもので、同会の会報『鵬翔』83号中に報告された。残雪期から新雪期までの五山行が詳細に述べられ、当時、秘境といわれた黄蓮谷での苦闘が浮き彫りにされている。この登攀は会報に報告されただけだが、地元の新聞に報道され、クチコミによって岳界に広がり、黄蓮谷周辺がクローズアップされることになった。当時、戦前の古い記録は知られておらず、貴重な資料となった。これらの山行をリードしたのは「カメサン」の愛称で親しまれた碓井徳蔵(注)であった。春二回の山行に東京白稜会会員・良方正邦が参加しており、同年夏の原田敏明、恩田による尾白川本谷、黄蓮谷行のきっかけの一つとなった。
●注 カメさんの名は三つ峠岩場にカメルートとして残っている。
●参考資料 碓井徳蔵著『岩壁登攀』(朋文堂・1958) 『わが山』(ニ玄社・1960)
甲斐駒ケ岳(かいこまがたけ) <書>
日本名山シリーズ(全20巻、別巻4 串田孫一他編)の一つとして、1997年、博品社より刊行された。内容は主として、雑誌、単行本に発表された紀行、随筆、記録等によってまとめられており、無難な編集となっている。会関係では、森
義正の赤石沢奥壁中央稜の記録が再録されており、意外にも見開き裏に甲斐駒賛歌が載っている。甲斐駒ケ岳だけでまとめられた最初の単行本といってよい。B5版、215ページ。
甲斐駒ケ岳赤石沢遭難報告
(かいこまがたけあかいしざわそうなんほうこく) <書>
1962年1月、赤石沢奥壁左ルンゼを登攀中、暴風雪に遭遇して遭難死した森
義正、坪井森次、須藤和雄の遭難報告書で、『白稜』別冊4号として、1963年6月に刊行された。B5版、ガリ版印刷。写真8ページ、本文127ページより成る。第一部・報告編、第二部・追悼編に分かれ、巻頭に空中より撮影された赤石沢奥壁のクローズアップ写真がある。奥壁をこれ以上に見事にとらえたものは過去には見当たらない。皮肉にもこの書のよって赤石沢は本邦の登山界に知られるようになったといってよい。(口絵写真参照)
当時の赤石沢は本谷が二登、左ルンゼが二登されていただけであった。森等は厳冬期の赤石沢を出合いから左ルンゼを経て山頂に立つという計画をたてたが、一年目は見送りとなり、二年目、赤石沢冬山集中合宿の一環として実行に移した。1961年12月29日、大滝下の幕営地を出発、奥壁直下のチムニー滝群で苦闘して、30日夕刻、第1バンドに抜けた。31日、左ルンゼ第二の滝のルート工作。1月1日、第二の滝に取り付いたが午後より風雪となり、滝の途中でわかれわかれの最悪のビバークとなった。2日になっても風雪はおさまらず、退却を決意したが、ザイルが足らず、トップの森は自らのザイルをはずして生還への望みを断った。しかし、後続の坪井、須藤には自ら下降する力はすでになく、やがて凍死。森も第二の滝の上部より本谷に墜落するという悲惨な結果に終わった。合宿隊からの通報により、3日、恩田を隊長とする収容隊が八合目に到着。本谷から森の遺体引上げと第二の滝から、坪井、須藤の遺体引下ろしがはじまった。作業は困難を極めたが、9日、すべてを完了して下山した。二つ玉低気圧により気象遭難であった。三名の遭難碑はトラバースバンド(第1バンド)の奥壁がよく見える展望台と呼ばれる小平地にある。筆者にとって痛恨の事件であり、その無念さは40年近くを経た今日でも深く胸をしめつけるのである。
●参考資料 [T]『岳人』167号
[U]『現代登山全集』9(東京創元社1962)
[V]春日俊吉著『山に遥ける人々』3(朋文堂・1965)
甲斐駒ケ岳事典(かいこまがたけじてん) <書>
1970年代の後半、ある出版社から、甲斐駒ケ岳周辺の岩と谷ルートについての執筆を頼まれ、それまでのノートにばらばらに書かれていた資料をまとめた。執筆後、この資料
を整理して、手書きの小冊子を作ったのが、150事典(1979)であり、項目を並べて解
説した(A5版、29ページ)。翌年、さらに項目を加え、ルート図なども入れて200事典(47ページ)を作った。いずれも20部程度のもので、当時、文章を書く同人『OB白稜』のメンバーに頒布した。その後、さらに300事典を作った(30部、73ページ)が登山以外の項目も加えたのでページ数も多くなり、コンピュータに入れて整理し、本書に引き継いだ。(下記資料館内に展示)
甲斐駒ケ岳資料館(かいこまがたけしりょうかん) <建>
地元白州にあるシャルマン山梨ワイナリー内に1999年10月に開設、翌2000年10月、に新しい建物に移った。平屋40平方メートル。この山に関する資料、写真や登山用具などが展示されている。各種の登山記録がファイルされ、本書及びその原本ともいうべき数種類の小冊子がある。また東京白稜会の全記録が4冊のファイルにまとめられている。
甲斐駒ケ岳の歌(かいこまがたけのうた) <文>
甲斐駒ケ岳を詠んだ歌でまずあげられるのは、「名にし負う駒の嵐の烈しさに 白くぞ峯の雪ぞ崩るる」である。この歌は西面の白崩神社前宮の額に書かれていたそうで、明治40年(1907)に訪れた梅沢親光はこれを見て、白崩岳と駒ケ岳が同じものであると確信したという(「白崩岳に就いて」『山岳』第2年第3号)。歌については詳しくないので、目についた四首をあげるに止めた。
みちのため いさむこころの駒ケ岳 ふみきわめはやみね高くとも 興水 徹
駒ケ岳は奇しき山かも 晴れし日も 己れ雲吐きて隠ろひにけり 島木赤彦
甲斐駒は ゆうべ 雲の中にて 雲ふりて居む 小杉放庵
白砂の雲とみ雪を朝にけに かへてはせおふ 駒ケ岳かも 遠藤足穂
甲斐駒ケ岳の句(かいこまがたけのく) <文>
甲斐駒ケ岳を詠んだ俳句は多いが、ほとんど風景の一つとして、この山をとりこんだもので、山の壮大さ、厳しさを直接表現したものは少ない。登山者の立場から見て心ひかれるものは、やはり山を主題にしたものであり、この地に根をおろした蛇笏や普羅のもので
ある。飯田蛇笏(山慮)は東八代郡境川村、小黒沢の生まれで、青年期にいったん上京し
たが、のち故郷に帰り、生涯句作に専念した。甲斐俳壇の大御所的存在としてあまりのも有名であり、駒ヶ岳に関する句も多い。代表作は
甲斐駒に くれいろひくく 宙の凍て
強霜(コワシモ)や 朝あかねして 駒嶽(コマ)の険
前田普羅は山岳俳人として知られ、香り高い句を残している。東京から富山に移り住んだが、元来が旅の人で、しばしば甲斐を訪れており、1937年、「甲斐の山」と題する一連の句を発表した。その中に次の一句がある。
駒ケ嶽 凍てて巌を 落しけり
山の厳しさを見事に表現した秀句である。またこの句と対比して思い出されるのは飯田龍太のつぎの句である。
旱天(カンテン)の 冷えにのぞける 駒ケ嶽
ただし、これは夏の句である。
夏の句では、水原秋桜子の次のものが、この山の姿を伝えている。
甲斐駒の 天(アメ)の岩肌 夏をはる
石橋辰之助は、いわゆる登れる俳人おして知られ、岩登りに関する優れた句が多いが、この山では次の一句を残している。
甲斐駒に 雪おく朝の 尾花刈り
●参考資料 [T]飯田龍太編『地名俳句歳時記』(中央公論社・1986)
[U]中西舗土著『前田普羅』(角川書店・1971)
[V]『飯田龍太句集』(白鳳社・1968)
[W]石橋辰之助句集『山暦』(朋文堂・1951)
甲斐駒ケ岳の現代詩(かいこまがたけのげんだいし) <文>
目についたもの、三篇をあげる。
山頂の老人 井上康文
3000メートルにちかい山頂で
登行者をまってゐる老爺
地獄谷から襲ひかかる雲を
摩利支天の肩に見ながら
馴染の鋸や仙丈をみながら
幾人もない登高者を
いつまでも待ってゐるのか
小さい箱には絵葉書を入れ
東駒ケ岳頂上のすたんぷをのせて
登ってきても客にはならない人を
どんなに心待ちしてゐるだろう
こんな寂しい暮しもあるのかと
皺だらけの赫ら顔を見て
私は絵葉書とすたんぷの客になった
(『山小屋』1935年10月号より)
甲斐駒ケ岳にて 高須 茂
巨(オオ)いなる花崗岩は
鋭く
天空を限って
うごかない
刃(ハ)の如き稜は
烈しい風を感じつつ
太古の如く
天空に聳えている
ああ五月の正午の明るさ
遠き人を思ふ心は
いくたびかとけて
なお花崗岩の稜にまつはる
その烈しい嵐と
鋭い稜を
明るい正午の日光の中に現じて
泰三よ
お前の顔は
天空の湖に
汗にまみれた肖像となる
「大陸で美しいのは揚柳の芽
ここで美しいのは海の色」
その南海の砲煙の中で
俺とお前をつないでいたのは
あの一巻のアイヒュンドルフだ
屹立した花崗岩は
雲とともに研(ト)がれ
俺は
ああ あの日の
この山嶺の一時を思うのだ
(『山』169号・1949)
● 注 泰三とは『霧の山稜』の著者・加藤泰三のこと、太平洋戦争で戦死された。この詩面には同氏のスケッチが載っている。
秋の遠方 秋谷 豊
遠くの町から ぼくはやって来たのだ
原生林の落葉のさかりのなかへ
一夏よく知っている七丈小屋の方へ
さむい小駅の仮眠の中から
ゆっくりとぼくは目をさまして
キスリングザックを肩に
濃い霧のなかへ出かけていった
陽が一日を閉じるように
一つの昼のなかでぼくは静かに
登攀を夢みるのだ
その午前 屏風岩のあたりで
見しらぬ一人の友と出遭う
彼は昨日仙丈岳をこえてきたのだと言う
……山の色はいちめん燃えているようです
それにしても彼のどっしりと重い微笑は
何という高山草に似ているだろう
ああ 十月の甲斐駒
霧に捲かれ
黒い岩の凹みからぼくは岩頭を狙うのだが
かつての夏の日
空をひき裂く電光が映し出した
ぼくの記憶の襞には
白く崩れ落ちていく山頂があり
褐色の雷鳥の冷いねむりがある
遠くの町からぼくはやって来たのだ
やがて新雪のおとずれる山稜へ
偃松と偃松が重なり合っている暗い方へ
(『登攀』国文社・1962)
甲斐駒ケ岳の三角点(かいこまがたけのさんかくてん) <事>
一等三角点で、標石は山頂の最高地点にある。現在の標高は2967メートル。位置は東経138度14分23秒、北緯35度45分17秒。国土地理院二万五千分の一地図は『甲斐駒ケ岳』、五万分の一地図では『韮崎』中にある。明治14年(1881)、内務省地理局選点、明治24年(1891)に観測、造標を行っている。当時、赤石岳がやっと観測された程度で、南北アルプスを通じて最も古い山頂三角点である。明治29年(1896)、戸台側より登った木暮理太郎の紀行に、頂上に測量小屋があったことが記されている。なお、木暮はこの時、測量小屋に一泊しており、山頂に泊った最初の登山者(測量関係者以外)となっている。
● 参考資料 [T]高木菊三郎著『日本地図測量小史』
[U]木暮理太郎著『山の想ひ出』上巻(龍星閣・1938)
甲斐駒ケ岳の標高(かいこまがたけのひょうこう) <事>
甲斐駒ケ岳が記入されている地図(絵図)は江戸中期よりあるが、これらに高さの記入はない。文献中でも明治になってからである。『南信伊那史料』中では6840尺とあり、『長野県町村誌』では684丈となっている。これをメートルに換算すると、2073メートルとなって、現在のものよりかなり低い値となる。この高さの出所は明らかではないが、江戸後期にはすでに、この値が採用されていたのではないかと思われる。当時は海抜という思想はなかったので、伊那側からこの山がよく見える戸台周辺(標高1000m弱)を山麓と考えれば、かなり近い値となる。ちなみに鋸岳は576丈(1745m)で、これも妥当な値である。何等かの方法で実測されたと思うのだが、未だに明らかでない。明治の登山者は当時発行されていた『参謀本部陸地測量部』および『農商務省地質調査所』の二十万分の一地図を使用していたが、前者は標高の指示はなく、後者は3001.5メートル
となっていた。当時の文献では『大日本地誌』(明治37年・1904)は3001メートルおよび3002メートルとあり、『日本風景論』(明治27年・1894)は3002メートルを採用していた。また、高遠
式編『日本山嶽志』(明治39年・1906)および『山梨鑑』(明治27年・1894)には9905尺とあるが、これは3000メートルを尺に換算したものである。1891年、陸地測量部により山頂に三角標石が設置され、付近の山々への本格的な測量がはじまった。五万分の一地図『市野瀬』は1910年に完成し、1930年修正を加えて、2965.6メートルに固定した。この間、1973年の空中撮影により地形の修正が加えられている。一般に三角点の位置はかならずしも最高点を表しているとはいえず、1988年から再調査が行なわれ、この山の標高は2967メートルとなった。
●参考資料 国土地理院編集『日本の山岳標高一覧・1003山』(日本地理センター・1991)
甲斐駒ケ岳の描写(かいこまがたけのびょうしゃ) <文>
以下年代順に代表的な文をあげる。
○ 峡中紀行(荻生徂徠)宝永三年(1706)
似 焦石畳起者 巌稜角歴々可 数、形勢 然、不 似 前 此芙蓉峯笑容相 者 相伝豊聡王所 蓄驪駒 飲 是渓 、而生、山上莫 有 祠宇 、山 木客、往々而逢、以 故土人不 敢登
○甲斐国志(松平定能編纂)文化11年(1814)完成
巻之三十。横手・台ケ原・白須諸村ノ西ニ在リ樵蘇スル者山祖若干ヲ貢ス 山上ヲ甲信ノ界トス 大武川ニ佇フテ南方ノ山中ニ入ル事若干里ニシテ石室二所アリ 下ヲ勘五郎ノ石小屋ト呼ビ 上ヲ一条ノ石小屋ト呼ブ 此レヨリ上ハ絶壁数千丈ニシテ攀援スベカラズ 樵夫山伐ノ者ト雖モ至ラサル所ナリ 遠ク望メバ山頂巌窟ノ中ニ駒形権現ヲ安置セル所アリ 尾白川山上ヨリ発シ瀑布ト成テ懸岩ヲ下リ級ヲ拾テ潭トナル 是ヲ千箇潭ト名ク 奇勝殊ニ甚シト云
巻之四十八。駒ケ岳ハ奇絶幽蹤神仙ノ所 聚マル古ヘヨリ人ノ躡ム 其ノ地ヲ不 許サ 若シ攀ヂントスル者アレバ必ズ風雨怪異ヲ現スト云フ 頂キニ駒形権現ヲ祭ル 厩戸王ノ驪駒ハ此山ニ産畜セルコトヲ俚談ニ伝ヘタリ 釜無河・尾白河・大武川等此ニ発現ス 甲陽茗話ニ釜無ノ水源ニ神馬ノ精アリ 因ツテ飲 此水 所 蓄フノ馬子必ズ霊ナリト云
○白山楼詩文鈔(高橋白山)巻之五、明治16年(1883)
紀巓安廟宇、嶽勢自巍然、老樹皆垂地、峭石盡指天、興情生羽?、假寝夢神仙、日夕
辞山去、孤峰銷翠煙
○日本風景論(志賀重昴)明治27年(1894)発行
甲斐北巨摩郡西部、此の花崗岩は甲斐の西北隅に蟠屈し一縷の秩父岩帯を隔て信濃に接す、此の花崗岩塊は北に鞍掛山、南に鳳凰山あり、駒ヶ岳は其の中央に秀立す。海抜3002米突。釜無川右岸台ケ原より登る。村より絶頂まで七里と称す。山中に入れば宿泊用に供すべきものはニ小屋あるのみ、且つ飲水に欠乏すれば、台ケ原村にて各種の準備をなすを要す。絶頂にニ峯あり、一峯に大己貴命の銅像建ち、一峯に摩利支天の小像立つ。
○大日本地誌(山崎直方、佐藤伝蔵)巻三、明治37年(1904)
木曾、赤石の両山脈は巍然として高く空を摩し、就中駒ケ岳の如きは其最たるものなり、
駒ヶ岳は伊那の東方に屹立し、高さ3002米、磊塊磐紆俗に三十六峰、八千渓と称し、本県屈指の高峰にして八月の候其山隈越年の雪を望み、背汗喘々水に渇するの旅人をして、歩を止めて思わず快哉を絶呼せしむ。頂上の神社を駒ケ岳神社と云う。盛夏遠近の賽者登攀を企つるもの少なからず白雲脚下に起りて尚冷涼を覚ゆ。
○日本百名山(深田久弥)昭和39年(1964)発行
日本アルプスで一番代表的なピラミッドは、と問われたなら、私は真っ先にこの駒ケ
岳をあげよう。その金字塔の本領は、八ヶ岳や霧が峰や北アルプスから望んだ時、いよいよ発揮される。南アルプスの巨峰群が重畳している中に、この端正な三角錐はその仲
間から少し離れて、はなはだ個性的な姿勢で立っている。まさしく毅然という形容に値する威と品をそえた山容である。日本アルプスで一番綺麗な頂上は、と訊かれても、やはり私は甲斐駒をあげよう。眺望の豊かなことは言うまでもないとしても花崗岩の白砂を敷きつめた頂上の美しさを推したいのである。……ザクザクと白い砂を踏んで頂上と摩利支天の鞍部に通じる道を登って行くのだが、あまりにその白砂が綺麗なので、踏むのがもったいないくらいであった。……甲斐駒は名峰である。もし日本の十名山を選べと言われたとしても、私はこの山を落とさないだろう。
甲斐駒ケ岳北方の特徴的地形について
(かいこまがたけほっぽうのとくちょうてきちけいについて) <事>
甲斐駒ケ本峰から派出する鋸岳山稜と、黒戸尾根に囲まれ、北方を釜無川本流によって区切られた地帯に、南西から北東にかけて四本の平行した地溝がある。これは二万五千分の一地図『長坂上条』『甲斐駒ケ岳』を見れば明瞭に認められる、すなわち南から、尾白川本谷、次いで、鞍掛沢→乗越沢→唐音沢→ガンガの沢が、二つの鞍部でつながっている。さらに、中ノ川・大岩沢→濁川本流も駒薙の頭をはさんで直線上にある。もっとも顕著なものは最北にあり、中ノ川・鬼の窓沢→西鬼の窓→黒川上流部→東鬼の窓→笹の沢上流部→小滝の沢に続くもので、ほぼ直線上にあり、全長6キロメートルに達している。ここは断層によるものであると言われているが、他の三本がほぼ等間隔に並んでいるのは偶然ではないだろう。北方を作る地層に関係しているものと思われる。(後図参照)
●地図 長坂上条、甲斐駒ケ岳
甲斐駒ケ岳山脈(かいこまさんみゃく <地>
南アルプスは明治初期に来日したドイツの地質学者E.ナウマンによって、赤石楔状地と名付けられ、諏訪湖の南から四本の山脈が半開きの扇のように広がっている。この東端のものが甲斐駒ケ岳山脈である。四本のうちではいちばん北に寄っており、北から守屋山(1650m)、入笠山(1955m)、釜無山(2117m)を経て次第に高山帯となって、鋸岳、甲斐駒ケ岳、アサヨ峰、鳳凰山と続いて、夜叉神峠(1770m)から櫛形山(2052m)、富士見山(1640m)に至っている。鋸岳より北を釜無山脈と呼んで区別する場合もある。南部は
早川によって一度切断されているが、身延山もこの延長といえよう。この山脈に沿って、本州を地質的に二分する「糸魚川―静岡構造線」が走っている。
●地図 高遠、韮崎、鰍沢、身延(以上5万分の1地図)
甲斐駒をめぐる岩と渓(かいこまをめぐるいわとたに) <文>
『山と高原』85号(朋文堂・1949-7)に掲載された西山 登の甲斐駒ケ岳のバリエションルート全般にわたる解説文。甲斐駒ケ岳に関するこの種の文章としては、はじめてのものであり、当時の岳界に与えた影響は大きかった。登山者はこの文によって、はじめてこの山に多くの魅力的な岩場や谷があることを知った。尾白川周辺に関しての情報はとくに詳しく細部にわたって書かれている。登はペンネームで、本名は西山敏夫。東京市役所山岳部、雲表倶楽部部員。1934年に摩利支天南山稜の第三登、1935年には坊主岩の偵察を行っている。戦後は尾白川奥壁偵察行、鞍掛沢遡行等がある。のち健康を害して病没。甲斐駒ケ岳の扇動者的存在といってよかった。なお同種の解説文として、保坂
一による「甲斐駒ケ岳をめぐる渓々」(『岳人』51号・1952-7)がある。開拓の歴史については下記資料〔U〕に要約してある。
●参考資料 〔T〕山本 ?「岳連の土台石・西山 登物語」抄録(東京都山岳連盟史・1980)
〔U〕遠藤甲太「鉄驪の峰・甲斐駒ケ岳」(『岳人』45号
〔V〕都庁山岳部部報「創立満三十年記念特集号」(N0.161・1962)
開山(かいざん) <事>
日本には古来から自然を神として祭る素朴な信仰があった。しかし、552年に百済(クダラ)から仏教が伝えられ、時の政府によって国教として認められた。これによって仏は神の上に立つことになり、従来の神は仏の仮の姿で出現したものと考えられた。これが本地垂迹説といわれているものである。古来、山は素朴な信仰の対象であり、山そのものが神体であったり、種々の神が山頂に祭られていたが、これを新しい仏教思想によって統一したものが開山と呼ばれているものである。この開山のためにいくつかの困難な登山が、僧や修験者によって行なわれた。これらの中には初登頂の場合も少なくない。例えば、槍ヶ岳開山の播隆の話は一般によく知られている。しかし、初登と開山とはかならずしも一致するものではない。多くの山の初登は無意識のうちに行なわれており、ほとんどが記録されていない。記録に残る最初のものは、これらの開山記である場合が多いが、すでに登山
道がひらかれていたものもある。多くの開山記には困難な道程が記述されているが、宗教的な思想統一をしながらの登山だったからで、精神的なたたかいを登路の難しさに置き換
えて語られている場合も多い。甲斐駒ケ岳での開山もかなり苦労した模様が伝えられており、現実に困難な登路であったといえるが、他の資料を総合すると、当時、の黒戸尾根にはすでに道が通じていたようである。もちろん初めて登ったものの名も時期も不明である。
●参考資料 [T]藤森栄一著『遥かなる信濃』(学生社・1970)
[U]小説『槍ヶ岳開山』新田次郎
甲斐叢記(かいそうき) <書>
巨摩郡田島の人・大森快庵が起草、松井渙斎が引き継いで前巻五輯を刊行した。別名「甲斐名所図絵」とも呼ばれており、甲斐の紹介書であるが、内容は『甲斐国志』に拠るところが多い。巻末に「嘉永二年巳酉月起草、同年辛亥十二月刻成、甲斐書肆、内藤藤伝右衛門」とある。なお、後輯五巻は明治になってから刊行された。山に関係のある記述は前輯巻之五であるが、駒ヶ岳の項はほとんど『甲斐国志』の焼き直しといってよく、新しいことは書かれていない。ただここで注目すべきは、白須松原の項に、松原から望んだ駒ケ岳の絵が挿入されていることである。ここに描かれた駒ケ岳は黒い岩の塊で、怪奇そのものといってよい。南画の影響とも考えられるが、摩利支天峰や本峰付近の岩場が注目され、誇張されて描かれたのはいうまでもない。このような形での駒ケ岳の描写はめずらしく、他に類例はない。(後図参照)
●注 住谷雄幸著『江戸百名山図譜』(小学館・1995)に同図が収録されている。
甲斐名勝志(かいめいしょうし) <書>
天明3年(1783)、甲斐の国学者・萩原元克(はぎわらもとえ1749〜1805)の著した地誌で五巻より成る。内容は甲斐についての総論、山梨・八代・巨摩・都留四郡の名勝、旧跡、神社、仏閣などの沿革を記述したものである。著者は現在の山梨市の生まれで、加賀美光章の門に学んだ。国学、儒学を修め、地理、詩歌に長じ、旅行を好んだといわれている。甲斐駒ケ岳に関しては以下のように述べている。「駒ケ岳・信濃国高遠領の境なり、往時、名馬出でしと云う。高遠にては前岳と云う。峰に数千仭の岩あり、それを囲りて絶頂に到る十歩あまり、平地あり石仏の観音一区有、此山の西に十賊川とて高遠に流るる川有り。風土記に巨摩郡西は限 十賊川 と云は是也。又甲斐の方に流るるは釜無川と云」文中、
前岳とは仙丈岳、十賊川は野呂川上流であり、かなりの混乱が見られる。当時の山地の地理に関する情報はこの程度のものであったことがうかがえて興味深い。(後図参照)
粥餅石(かいもちいし) <地>
竹宇前宮からの黒戸尾根登山道は、笹の平の手前に水場があり、そこには大きな岩塊があって、小祠が祭られている。弘幡行者が開山にあたって粥と餅だけで修業した場所と伝えられ、この大岩を粥餅石と呼ぶようになった。前の流れは池尻沢の源流をなすもので、この上の笹の平にもう一箇所の水場がある。案内書には「かゆもちいし」と書かれていることが多いが、実際は「かいもしいし」と呼ばれており、また、なまって「けえもちいし」とも呼ばれている。
●地図 長坂上条
角兵衛沢(かくべえざわ) <地>
鋸岳第一高点と、三角点ピークの間より西南に落ち、戸台川に合する石沢で、水平距離2.5キロメートル、落差1300メートル。下部は樹林におおわれているが、上部は破片岩が散乱する荒涼とした谷である。中流左岸に角兵衛の大岩と呼ばれる大岩壁があり、谷の名称はそこからきている。大岩の基部は岩小屋状となって鋸岳登山の根拠地として、古くから使用されている。ここにはこの周辺唯一つの水場がある。また、出合い近くから右岸の尾根を(第一尾根)を乗り越し、寝木小屋沢から横岳峠に至る一般登山道がある。鋸岳登山は古くからこの角兵衛沢を経由して登られていたようである。明治初期に作られた『町村誌』に「黒川谷を経て中ノ嶋より登る」とあるが、中ノ嶋とはこの角兵衛沢の一部を指しているようである。嶋とはこの地方では岩壁を意味している。
●記録 *1921年8月14日 中条常七、青木 勝、人夫・小椋亀十、竹沢友幸(『登高行』第5年)
*1934年1月7日 山県一雄単独(立教大学山岳部)
●地図 甲斐駒ケ岳
角兵衛沢中尾根(かくべえざわなかおね) <地>
角兵衛沢源流を右・左俣に分ける岩尾根で標高差400メートル、傾斜40度。尾根の中ほどにスフィンクス岩と呼ばれる岩壁がある。この尾根の頭、主稜線上の標高2600メートルのピークは角兵衛沢の頭と呼ばれている。
●記録 *1979年12月29〜31日 水野 徹、山田鉄男、飯田恒二(松春専山岳同好会、
国分高山岳部OB―『山と渓谷』1980-3記録欄)
●地図 甲斐駒ケ岳
角兵衛沢の頭(かくべえざわのあたま) <地>
鋸岳第一高点と三角点ピークの間にあるピークで、標高2600メートル。南西に落ちる岩尾根を中尾根といい、かつては中尾根の頭とも呼ばれていた。
●地図 甲斐駒ケ岳
角兵衛沢の岩小屋(かくべえざわのいわごや) <地>
角兵衛沢から鋸岳への登山路は、一合目で左に第一尾根を越えて、寝木小屋沢を登るものと、右に角兵衛沢右俣を登るものとに分かれる。右に入るとまもなく樹林の中に大きな岩塊があり、その下が三、四人は泊れる岩小屋となっている。古くから使用されているものだが、水場が遠く、山麓にも近いので利用価値は低い。
●地図 甲斐駒ケ岳
角兵衛の大岩(かくべえのおおいわ) <地>
角兵衛沢中流左岸にある高さ250メートル、幅150メートルほどの赤茶けた色の岩壁で、第二尾根の側壁ともいえる。鋸岳最大の露出壁で、最下部はオーバーハングして庇状となり、大岩の岩小屋と呼ばれている。岩小屋中に水場があるので、古くから鋸岳登山の基地として利用されている。前面は明るくひらけており、中央アルプス方面の展望がよい。下部岩壁上に咲く亜高山植物は種類も多く見事だがほとんど知られていない。『山岳』第六年第三号、「鞍掛山・烏帽子岳・鋸岳を経て駒ケ岳に登る記」(星
忠芳)中に、「……
ここよりは途中、絶壁の前に当たりて赤河原の覚兵衛の岩と称する大巌ありて、下ることは能はざれど、赤河原より登れば、絶壁の基部に至る事を得れど登攀するを得ずと春吉は語れり」とはじめてこの大岩を紹介している。その正面岩壁は、伊藤峯雄らにより、三回の試登の後、1976年に完登された。鋸岳で行なわれた最も困難な登攀である。岩が脆くかなり危険は登攀だったということである。
●記録 *1976年10月30日〜11月1日 伊藤峯雄、坂井欣ニ、久保田 功(八王子い
わや山岳会―『山と仲間』86号)
●地図 甲斐駒ケ岳
風穴(かざあな) <地>
鋸岳の頂稜を突き抜けている岩穴で鹿の窓とも呼ばれ、小ギャップ近くの中岳寄りにある。立って通り抜けられるほどの大きさで、戸台川側は急なガリーとなって落ちており、ここから稜線をエスケープして大ギャップに至るコースが分かれている。古くは熊穴ともいったらしいが、登山者の間では風穴で通っている。登山者としてはじめてこれを発見したのは中条常七(慶応義塾大学山岳部)らで、1921年8月14日、第一高点より第二高点への初縦走の記録「鋸岳尾根伝い」(『登高行』第5年)中に以下のようにう記されている。「……脚下の密樹が激しく騒ぎ立って強く枝を鳴らしている。そして谷からは雪渓の面でも吹いて来たかと思われるような冷々しい風が強く吹き上げてくる。妙に思って足を岩角の偃松に托し手を岳樺の幹に縋らして荒れて騒いでいる脚下の密樹の様を注意せざるを得なかった。――真夏の午後の静かな日、尾根にさえさほどの風らしい風さえなく万象静の内に黙々として蟠踞するここ、ただ甲州側の垂直の崖に絡む密樹ばかりが物に脅えおののくかのように騒いでいる。―風穴―こんな所にこの尾根の下を割ってあんな大きな風穴があるとは誰か思い設けようか、信州側の風と甲州側の風とは人知れず交渉しているのである。こんな自然の技巧を凝らした荒々しい彫刻を、頂上をのみ望んで尾根を走る人々は多く見逃し去るのである。しかもこの風穴が偶然か自然の寓意か、やがて鋸岳縦走者にとっては有難い通路となって、この風穴の裂目がここに存在することによってのみ鋸岳第一高点と第二高点とさらに鋸岳と駒岳との国境伝いが可能とされる時が来るのではあるまいかと知ったとき、私は一層と驚異の眼を見張らざるを得なかった」。(後図参照)
●参考 1923年、都倉応雄(早大)、小山 茂(東大)が第一高点上に残したメモに「第一、第二ノ間ノ同高ノ二峯○ニ近キ峯ノ南西ニ穴アリ」と印されている。
●地図 甲斐駒ケ岳
金山沢(かなやまさわ) <地>
大岩山東南面の水を集めて鞍掛沢に合流する水平距離1.2キロメートル、落差550メートルの沢で、かつて、この沢に鞍掛鉱山があったので、このように呼んでいる。平凡な沢で遡行価値はないが、大岩山東の鞍部からの下降路として利用されている。鞍掛沢源
流の右俣といってもよいが、尾白川出合いまでを金山沢と呼んだ時期もあった。一般に金山沢という名称は鉱山に関係があると思ってまちがいない。雨乞岳・城の沢の支流で、石尊神社の裏手にある細流も金山沢と呼ばれている。石尊神社の本来の祭神は大山祗命だが、この神は各地で山の神、鉱山の神として祭られている。流川にも鉱山跡があることから、この金山沢にも鉱山があったものと思われる。
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
釜無川(かまなしがわ) <地>
鋸岳西方の横岳峠にその源を発し、ほぼ北に流れて、雨乞岳の北を回りこんで向きを東南に変え、甲斐駒ケ岳を包むように、その東側を流れて甲府付近で笛吹川と合流して富士川となる。源流より右岸に中ノ川、黒川、塩沢川、流川、濁川(神宮川)、尾白川、大武川を合流しており、甲斐駒ケ岳をめぐる主要な谷は、戸台川を除いてはすべてこの川に流れこんでいる。塩沢川出合いより上流は、山梨県と長野県の境となっており、源流まで名を変えない数少ない流れの一つである。『甲斐国志』巻三十によれば「源ヲ駒ケ岳ノ西ニ発シ
北流シ 又東流シテ釜無山中ヲ経テ大武川村ニ至ル」とあり、その名の由来については、「本州ノ人深潭ヲ釜ト云フ
此ノ川下流ニ至リテハ砂川ニテ深潭ナシ 故ニ釜無川ト呼フ」とある。下流とは流れが東南に向きを変える付近より下流をいうらしく、ここに大武川諏訪明神があり、「本祠ヨリ下流ニハ潭ナシ」とある。しかし、別の項で潭についての紹介が何ヶ所かあり矛盾している。また、「此ノ水釜ヲ須ズシテ温ナリ
故ニ名ヅクト」とも書かれているが、これも中国古典からの引用と思われわざとらしい。このことは『国志』中でも触れている。巨摩の兄(こまのせ)川から訛ったという説もある。巨摩郡を流れる大河という意味である。また『甲斐叢記』巻二には「釜はクマの転語にて、カマナシは曲れる隈のなき義なり、此川大武川村を出て東南に向ひ直に流れて屈曲なし、蓋信濃の千隈川に対して称る名ならんか」とある。『地名の研究』(柳田國男)にも「クマとは水流の屈曲している地形を意味する」と解説している。大武川の集落より下流には流れに沿って国道20号線が通じている。
●参考資料 斎藤一男「釜無川」(『岳人』447号)
●地図 市野瀬、高遠、八ヶ岳、韮崎、甲府(以上5万分の1)
釜無川源流域研究(かまなしがわげんりゅういきけんきゅう) <文>
地元、下諏訪山岳会による1967〜1971年の五年間の釜無川源流遡行記録をまとめたもので、1973年の同会年報(B5版、タイプ印刷)中に発表された。釜無川源流の本流、中ノ川、黒川、その他の遡行記録が詳細に報告されている。研究といっても記録集で、他の面にはまったく触れていない。注目すべきは、鋸岳東北面の沢やルンゼが詳しく報告されていることで、同方面のまとまった記録が少ないだけに貴重な資料といえよう。左岸釜無山脈から流れる支流にも記録ある。
釜無山脈(かまなしさんみゃく) <地>
甲斐駒山脈の北部を主脈と区別し釜無山脈と呼ぶことがある。横岳峠以北の呼称で、南から北へ、横岳(2142m)、白岩岳(2267m)、釜無山(2117m)、入笠山(1955m)、守屋山(1650m)等のピークがある。大体がなだらかな山稜で、国道、林道が数ケ所でこの尾根を横切っている。辻村太郎によれば、釜無山、入笠山周辺は隆起準平原地形とのことである。守屋山、入笠山にはハイキングコースがあり、比較的よく歩かれているが、他の山は登る人もまれな静寂境である。なお、小島烏水は、三つ頭以北をこのように呼んでいた。
●記録 *入笠山〜鋸岳縦走=1970年12月30日〜1月2日 滝沢 肇、本田守旦、青柳
進、佐藤拳一、吉井保徳、林 孝男(『白稜』222号)
●参考資料 池 学「釜無川源流部の踏破」(『山と渓谷』1989-10)
●地図 市野瀬、高遠(以上5万分の1)
釜無山(かまなしやま) <地>
釜無山脈中にあり、釜無川をへだてて雨乞岳と相対している。標高2117メートル。山頂付近はクマザサに覆われている。山頂の北側に林道が通じており、容易に登頂することができる。『甲斐国志』によれば、雨乞岳も釜無山と呼ばれていたらしい。
●地図 信濃富士見
GAMS創立25年記念号(がむすそうりつ25ねんきねんごう) <書>
丹沢や南アルプスの沢でパイオニヤワークを行なってきた山岳巡礼倶楽部の会報で、創立25年を記念して、1960年に発行された。タイプ印刷、B5版、180ページ。同倶楽部では1940年前後に、篠沢の初遡行と濁川水源調査行という画期的な山行を実践しており、この記念号に記録が再録されている。GAMSとは会報名で、カモシカのことである。南アルプスではこのほか、早川支流・滑河内遡行の記録がのっている。今日的な眼で見れば、記録にかなりの誇張があるが、昭和初期という年代を考慮すればやむを得ないものといえよう。それより全編にみなぎるパイオニヤワークの精神をくみとるべきであろう。しかし、この二つの記録を発表しただけで、甲斐駒ケ岳開拓からは事実上撤退している。1950年9月23日、筆者は同倶楽部員・牧野錦具(キングヒギンボサム)他二名のパーテイと、大武川を相前後して遡行、翌日、赤石沢大滝上で、滝下まで登ってきた彼らと再び遭遇した。この時は、ここから引き返したということで以後新しい記録は見られない。
(後図参照)
●参考資料 『ガムス・五十周年記念号』(1985)
かもしか山行(かもしかさんこう) <事>
かもしか山行とは、本来、時間的余裕のない人たちが、通常は二、三日かけなければ登れないような山やコースを一日で実行しようとして考えだされた方法である。土曜夕方出発して、月曜日朝までには帰ってくることを原則とした。提唱者は中村
謙(山小屋倶楽部)で、昭和初期に多くの山行を実践した。甲斐駒ケ岳登山は本来は二日行程であるが、一日でも登ってこられる。1906年、小島烏水は台ケ原より、黒戸尾根を経て山頂を一日で往復しているが、これは台ケ原に泊ったもので、かもしか山行とはいえないし、そのような自覚もなかった。この周辺で、かもしか山行が意識的に行なわれるようになったのは、1955年以後で、筆者の仲間たちにより、釜無川―鋸岳―甲斐駒ケ岳、甲斐駒ケ岳―仙丈岳、鳳凰山―仙丈岳等が主として歩かれた。最近では土曜日が休日のところが多く、二日をかけた時間記録や、歩行距離を伸ばすことを目的とした山行が試みられ、これらを総称して、かもしか山行と呼んでいるようである。
●参考資料 [T]中村 謙「かもしか山行・新しき山の登り方」(『山と渓谷』1941-5)
[U]中村 謙―遺稿と追悼『山ひとすじ』(茗渓堂・1981)
カラ沢(からさわ) <地>
大武川の一支流、黒戸尾根八合目より東南に伸びる坊主尾根上の宮の頭(2200m)付近にその源を発し、ヒョングリの滝上で大武川本流に合流している。水平距離2キロメートル、落差800メートル。甲斐駒ケ岳でただ一つの典型的はV字渓谷で深々と切れこんでいるが、滝はほとんどなく、中流に高さ25メートルの大滝があるだけである。大岩の散乱する荒涼とした谷で、本流の遡行価値はない。しかし、この谷の左岸は数百メートルに達する急崖が続いており、燕岩と呼ばれている。周辺には数ケ所の露出壁と数本のルンゼがあり、1980年代になって急激に開拓された。(→燕岩)
●記録 *1949年8月16〜17日 恩田善雄、原田敏明(『白稜』24号)
*1972年11月4〜5日 池岡義孝、杉本隆一(紫山岳会―『大武川遡行記録集』1977)
●地図 鳳凰山、長坂上条
カラ沢尾根(からさわおね) <地>
大武川支流・カラ沢右岸の急な尾根で、標高差900メートル。笹と石楠花の密藪と倒木の尾根で取付き付近を除いて踏跡はない。上半カラ沢側は垂直に近い岩壁帯である。標高1936メートルピーク付近はカラ沢対岸に広がる燕岩の偵察によい。上部に短いがやせた岩稜部があり、尾根の中ほど大武川に面して未知の岩壁帯がある。(→大薙)
●記録 *1980年7月26〜27日 恩田善雄、小林 隆(『白稜』250号)
●地図 鳳凰山、長坂上条
唐音沢(からとざわ) <地>
尾白川中流の左岸にゴルジュとなって合流する沢で、鞍掛山東面の水を集めている。水平距離2キロメートル、落差800メートル。中流で二俣となり、右俣本流は鞍掛山と駒岩との鞍部に達し、左俣は直接鞍掛山のピークに突き上げている。出合いから深いゴルジュとなって滝が連続し、尾白川林道が沢を横切る地点まで続いている。右俣は5メートル程度の小滝が続いているだけの平凡な流れである。左俣には出合いに大きな滝がある。尾白川流域で本格的なゴルジュのあるただ一つの沢で、地元では鞍掛沢とも呼んでいる。沢名がどこからきたか不明だが、山麓に唐土明神を祭った社が多いので、それと関係がある
のかもしれない。尾白川は古くから上流にまで人が入っていたと思われるので、近くに小祠があったとしてもおかしくはない。唐土明神は、現在は「トウド」と発音しているが、本来は「カラト」で唐渡と書いたものもある。ここでいう唐とは古代朝鮮のことで、こんな山奥にも渡来人とのつながりが感じられる。また、カラ沢プラス“と”(谷のせまった所)とも考えられるが、カラ沢というイメージはここにはない。
●記録 *1979年9月8日 恩田善雄、北川勇人(『白稜』249号、『岳人』389号記録速報)
*下部ゴルジュ帯=1980年2月23〜24日 北川勇人、柳沢 京、盛合富雄、小川節子(『白稜』250号)
*上部=1995年1月22日 小林 隆、槙野 弘、嵐 美園、厚見敦子(『白稜』255号)
●地図 長坂上条
空堀沢(からぼりさわ) <地>
雨乞岳の西肩より釜無川本流に落ちる水平距離2キロメートル、落差900メートルの沢。名の通りのガレ沢で遡行価値はまったくない。源流は急なガレが広がっており、かつてはここに岩を落として雨乞を行なっていたということである(後に流川に変わったことが、大石真人の『雨乞岳を繞りて』中に書かれている)。
●記録 *1968年9月25日 幾川、森杉、牧島(下諏訪山岳会―『1973年年報』)
●地図 甲斐駒ケ岳
鹿嶺高原(かれいこうげん) <地>
三峰川の美和湖、黒川、小黒川に囲まれた山域にある山上高原。南北2.5キロメートル、東西500メートルで、標高800メートル圏に広がっている。最高点は1867メートル。北は入笠山に続いている。南アルプス、中央アルプスの好展望台で、夏には牧場やキャンプ場がひらかれる。美和湖畔の溝口より林道が山頂まで続いており、車で登れる。
●地図 甲斐駒ケ岳、信濃溝口
ガンガの沢(がんがのさわ) <地>
尾白川・不動の滝下200メートルに左岸から落ちている沢。水平距離1.5キロメートル、落差700メートル。尾白川左岸最下流にある枝沢である。「ガン」とはこの地方では岩を意味する。雁河と書いた文献もある。不動の滝下左岸に落ちている小沢をヤダの沢といい、ここから尾白川林道に出て、ガンガの沢を横切り、左岸の小尾根を登って日向山に至る登山道がある。この沢の下部は両岸が切り立っているが、平凡なガレ沢で林道上手に高さ30メートルの錦滝ともう一つの30メートルほどの滝がある。上流部は小規模のゴルジュと、左岸に高さ100メートルほどの岩壁がある。
●記録 *1980年6月28日 北川勇人、北川京子(『白稜』)251号、『岳人』399号記録速報)
*1986年2月22日 広川健太郎、武藤末久、山本孝一(JECC―『岩と雪』116号)
●地図 長坂上条
雁ケ原(がんがわら) <地>
日向山の西肩にある白ザレの斜面一帯の名称。ここから北の日向沢に何本かの風化した岩稜が落ち、緑の中に真っ白な花崗岩砂や岩塔が、あざやかに浮かびあがって特異な景観を作っている。薙と呼ばれるものと同じ構成だが、ここは風化が尾根を越えている。ここから北の濁川流域に似たようなところがいくつかある。雁ケ碩と呼ぶ人もいるが、雁ケ原のほうが通りがよい。地元の人が見物のために登るので、日向山からここにかけての道はよく整備されている。日向山―雁ケ原―ガンガの沢のコースが一般的である。山梨県では岩のことを「ガン」と呼ぶところがある。岩を「ガン」と音読みにするといった習慣は各地に昔からあったようで、柳田國男は『地名の研究』中で、「これらは僧侶が学問を独占していた時代、あるいはそれより以前の、旧ハイカラの所為で、在来の日本語を漢字のまま音読する。今も耐えない一種の趣味である」と述べている。たしかに優越感をともなうしゃれた
言い方なのであろう。
●地図 長坂上条
┌────────────────────┐
│ 特別連載 │
│ 甲斐駒ヶ岳研究(4) │
│ 恩 田 善 雄 │
│ (東京白稜会) │
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木師御林山絵図(きじおはやしやまえず) <図>
郷木師支配木改役・黒河内谷右衛門が高遠藩に差し出した山絵図をもとに、代官・石川重佐衛門が制作したもので、文化13年(1816)踏査、14年制作。鋸岳、甲斐駒ケ岳、仙丈岳、塩見岳を中心に描かれている精巧なものである。黒河内家に伝えられ門外不出であったが、1959年にはじめて公開された。図中、仙丈岳周辺の三峰川と戸台川がとくに詳しく描かれているのは、ここが山中検分の道であったからで、高遠藩によって三峰川遡行、尾勝谷下降が定期的に行なわれていたようである。この図には赤河原から駒ケ岳山頂に至る道が描かれており、すでにこの時代にかなり登られていたことがわかる。また、甲斐側の道に白州道と書かれているのも注目される。山名は信州側が白崩岳、甲斐側からは駒ヶ岳と呼ばれていたことがわかる。御林山とは御留山ともいって、一般人の入山は禁じられていたところである。地元の民俗研究家・向山雅重により模写、発表された。(後図参照)
●参考資料 向山雅重「南アルプス北部の古地図」(『岳人』148号)
擬人化(ぎじんか) <事>
山岳の擬人化はしばしば行なわれており、人体の一部がいろいろな固有名詞となって使用されている。いちばん多いのは「頭」で、○○の頭(アタマ)というピーク名はどの山塊にもある。また、山頂のすこし下の小平地には「肩」が使われている。谷川岳の肩の広場は有名である。「耳」はトマの耳(谷川岳)、猫の耳(赤沢岳)、ロバの耳(穂高岳)などが知られている。「鼻」は天狗の鼻(鹿島槍ヶ岳)があるが、甲斐駒ケ岳にも摩利支天東壁に鼻ルートと呼ばれているものがある。この山でかわっているのは「腰」が使われていることである。これも摩利支天峰にあるもので、南山稜の途中にあるたるみをこのように呼んでいる。誰が命名したのか明確ではないが、東面からスカイラインを見れば一目瞭然で、実に的確な命名といえよう。1946年以前の南山稜の記録には、この表現は見られない。はじめて文献上にあらわれたのは『岳人』24号の摩利支天のルート図中で、以後、固有名詞として、ごく普通に使われるようになった。また、坊主岩もその形からきたもので、擬人化の一種といえよう。各地に坊主山と呼ばれているものがあるが、主としてハゲ山をいっている。
北沢(きたざわ) <地>
駒ケ岳本峰の南を区切る仙水峠から西に向かい、東南に向きを変えて野呂川に合流する長さ5キロメートル、落差500メートルのゆるやかな谷。源流部は樹林帯を脱し、U字型にひらけて明るい。これは氷河地形ではなく、上流部、現在の水晶沢が大武川に争奪された結果、中流部がせり上がったものである。このことは、地質の異なる北沢に花崗岩塊が点在することからも明らかである。中流以下の右岸には、北沢峠を越えた南アルプス林道がある。仙水峠下に仙水小屋、北沢峠の近くに北沢長衛小屋がある。この付近は南アルプスで最も登山者の多い所で、甲斐駒ケ岳、仙丈岳、北岳への登山基地となっている。幕営地としてもすぐれ、年間を通じて登山者が絶えない。単に北沢と呼ぶ場合には、小屋周辺一帯を指すことが多い。戸台川から北沢峠を経て野呂川に至るコースは、江戸時代から歩かれていたようである。明治15年(1882)には地理調査のために横山又次郎、山下伝吉、中島謙蔵らが歩いている。
●参考資料 [T]横山又次郎「南アルプス横断の思ひ出」(『山』第2巻第10号・梓書房・1935、
『信濃・木曾』(日本の風土記・宝文館・1959)
[U]「登山セミナー・河川の争奪」(『山と渓谷』1986-9)
●地図 仙丈ケ岳
北沢長衛小屋(きたざわちょうえごや) <建>
北沢峠下、北沢の右岸にある山小屋で、1930年、戸台の竹沢長衛によって建設された。その後、何度か改修され現在に至っている。長衛は1958年、69歳で没し、息子の二代目長衛に引き継がれ、現在は管理がかわっている。150名収容。小屋の近くに初代・長衛のレリーフがある。登山者にもっとも親しまれた山小屋で、とくに初期の積雪期登頂時代には基地として使用され、多くのすぐれた記録を生む原動力となった。
●地図 仙丈ケ岳
北沢峠(きたざわとうげ) <地>
甲斐駒ケ岳と仙丈岳を結ぶ稜線の最低鞍部で、標高2032メートル。付近はシラビソの原生林の広い平で、南アルプス北部の玄関口にふさわしい静寂境であった。戸台川から八丁坂を登って、東大平を抜け峠におどり出ると、一角に「北岳がみへる」と書かれた木札
があり、マッターホーンのように尖った北岳が見えた。重い荷にあえいできた登山者にとって、そこはまたとない憩いの場所であった。矢島幸助は「北沢峠!それは私の心の中に呼び返して、南の山を想って静かにもくもくと越えて行くような峠である」(『リュックサック』5号)と詩情豊かに回想している。1979年11月、南アルプス林道(スーパー林道)が峠上を貫通、近くにはバスターミナルができてすっかり俗っつぽくなり、かつての静かな雰囲気は失われた。近くに村営・長衛荘がある.明治まではここを池の平と呼んでいた。峠近くに湿地帯があるからであろう。小島烏水の紀行にもあるし、前掲の『木師御林山絵図』にも描かれている。1980年9月、西の長谷村と東の芦安村から、村営バスが入るようになった。
●地図 仙丈ケ岳
北岳(きただけ) <地>
甲斐駒ケ岳の真南9キロメートルに位置し、標高3192メートル。我が国第二の高峰である。南に続く山稜上の間の岳(3189m)、及び農鳥岳(3050m)とともに白根三山と呼ばれている。野呂川に伸びた根張りは壮大で第二の高峰の名に恥じない。古くから詩歌にも多く歌われ、『平家物語』中の「北に遠ざかりて雪白き山あり、問えば甲斐の白峰という」というくだりはあまりにも有名である。山頂東面は標高差500メ−トルのバットレスとなり、南アルプスの代表的な岩場として知られている。また、野呂川の源流、荒川流域等は谷歩きの対象としてもすぐれている。明治41年(1908)7月、北岳に登った小島烏水は「小さな石祠がある。屋根に南無妙法蓮華経四千部と読まれた。大日如来と書いた小札が立ててある……。外にも壊れかかった石祠がある。中には神体代わりの小鉄板が錆びて腐蝕しながらも奉納大日如来来る寛政七年乙卯六月と読めた」と書いており、古くから信仰のために登られていたことを示している。また明治4年(1871)、芦安村の名取直衛は官許を得て、この山に登山道を開き、頂上に甲斐嶺神社の奥社を建立した。近代登山はウェストンが明治35年(1902)に広河原より登り、以後、日本山岳会初期の人たちによって次々に登られるようになった。積雪期の登頂は1925年3月、三高山岳部パーテイによって成され、東面のバットレスは、1929年、京都大・高橋健治らによって先鞭がつけられ、東京商大、立教大パーテイの活躍によって初期の開拓を終えた。ここにバットレスという斬新な名を与えたのは意外にも小島烏水で、『山岳』第三年第三号「白峰山脈の記」中に「瞰下すると身の毛もよだつような峨壁(バッテラス)」と書いている。この山は『甲斐国志』には白峯とあり、「北方最モ高キ者ヲ指シテ今専ラ白峯ト称ス」と説明されている。白峯がいつごろから北岳と呼ばれるようになったのだろうか。『山岳』第七年第二号「白峰三山につい
ての異議を読む」中で、高頭 式は「甲斐国全図」(明治11年)を紹介し、「この図にはじめて北岳という記載があり、この図が原図となって、陸地測量部の輯製図や、地質調査所の諸地図に北岳なる文字を見るに至ったものらしい」と述べている。
●地図 仙丈ケ岳
北岳・甲斐駒・赤石(きただけかいこまあかいし) <書>
『現代登山全集』第5巻として、1961年4月、東京創元社より刊行された。A5版335ページ。内容は概説、紀行、記録、案内、随想に分かれている。記録・案内の部に「南アルプスの岩と谷」と題して、下記のような甲斐駒ケ岳に関する詳しい解説と記録が載っている。この山についてまとめられたはじめての出版物で、この書によって多くのバリエーションルートが一般に知られるようになった。以後数版を重ねている。
●内容 [解説] 甲斐駒をめぐるバリエーションルート……恩田善雄
[記録] *篠沢……下村義臣
*赤石沢奥壁左ルンゼ……東京白稜会
*摩利支天南山稜……川上晃良
*摩利支天中央壁……独標登高会
*黄蓮谷右俣……東京白稜会
*坊主岩二つの記録……東京白会
北岳・甲斐駒と黒部の岩場(きただけかいこまとくろべのいわば) <書>
写真による岩場解説シリーズのひとつとして、1981年、山と渓谷社より発行された。B5版変形、159ページ。写真と解説は岡田
実。表題のように約三分の一を甲斐駒ケ岳の岩場で占めている。収録されているのは、赤石沢奥壁、前衛壁フランケ、摩利支天峰とサデの大岩の代表的な10ルート。冒頭に「クライミングに夢中、熱中しているクライマー向きの岩場のガイドブック」とあるように、各ルートが、ピッチ毎に写真で解説され、実用向きの案内書となっている。筆者は現在フリーカメラマン。1979年、タムセルク北壁隊に参加している。元山学同志会会員。
北坊主岩(きたぼうずいわ) <地>
尾白川本谷と黄蓮谷との間にある坊主岩は、南、北、西坊主岩と名付けられた三つのドームより成っているが、この北坊主岩の規模が最も大きく、尾白本谷側に長い裾を引いて形も整っている。坊主中尾根とは、ザッテルと呼ばれる白ザレの鞍部を介して結ばれており、頂上より東北稜が尾白川本谷と黄蓮谷の合流点まで伸びている。岩登りルートとしては、坊主岩最大の規模を持つ東北壁と中央稜、北壁等がある。頂上はザッテルからわずか五分ほどの所で、樹林に覆われたかなり広い台地である。一角に深い洞穴があり、泊ることも可能である。標高2365メートル。登山者としてはじめて頂上に立ったのは1950年8月15日の原田敏明、鹿島達郎、恩田と思われる。
●地図 甲斐駒ケ岳
北坊主岩北壁(きたぼうずいわきたかべ) <地>
尾白川本谷核心地帯の入口に右岸から落ちるガリーと、北坊主の沢との間は、北坊主岩の北斜面にあたり、下部は傾斜50度くらいのスラブとなって北壁を作っている。高さ約200メートル。中央部は頂上までブッシュが続いて、壁はこのブッシュ帯によって、左右に分かれている。左側下部のルンゼ状の部分は、中央稜カンテへの下部ルートとして岩垣寿治ら(泉州山岳会)によって登られている(次項)。中央部を登ることは、ブッシュ伝いで容易である。右はやや傾斜の落ちたスラブで、この部分を登った記録は未だ発表されていない。
●記録 *1961年9月5日 須藤和雄、本田守旦(『白稜』171号) 1978年8月13〜15日 岩垣寿治、中野
満(泉州山岳会―『岳人』379号)
*セイフテイ・ファースト=1989年3月20日 戸田暁人、石黒昌泰(CC蒼氷―『クライミングジャーナル』No.42,クライミングレポート)
●地図 甲斐駒ケ岳
北坊主岩中央稜(きたぼうずいわちゅうおうりょう) <地>
北坊主岩東北壁と北壁を分けるリッジで下部は樹林に覆われているが、上部100メートルほどは、傾斜約60度のブッシュも手掛かりもないカンテとなっている。このカンテはまったく凹凸がなく、埋込ボルトに頼る以外に登る方法はない。まず、このカンテ下か
ら左側面を登るルートが、1960年7月、森 義正、新井豊明、加藤啓司によって開拓され、次いで、岩垣寿治ら(泉州山岳会)が北壁の下部を登って、このカンテを直上した。
●記録 *1978年8月13〜15日 岩垣寿治、中野 満(泉州山岳会―『岳人』379号)
●地図 甲斐駒ケ岳
北坊主岩東北壁(きたぼうずいわとうほくかべ) <地>
北坊主岩最大の露出壁で高差350メートル。尾白川本谷の屈曲点から頭上に見える岩壁である。一般登山道からはこの壁はまったく見えず、本谷からも全貌は見えないため発見がおくれた。1959年5月、東北稜上の展望台からこの壁をはじめて間近く仰いだ恩田、森
義正、原田宗親は、そのあまりのすさまじさに驚嘆した。平均傾斜65度。北坊主岩の他の壁が樹林が多くすっきりしないのに比べ、ここは大きなスラブがむき出しになり、各所にオーバーハング帯があって、登攀の弱点はまったく見出せない。埋込ボルト使用による人工登攀以外の方法では登ることは不可能である。三回の偵察と試登の後、1960年7月、上半部が中央稜よりトラバースして登られ、その後、四回の試登の後、下部からのダイレクトルートが1963年9月にひらかれた。下部からの第二ルートがひらかれたのは、それから14年後のことである。以後、急激にルートの細分化が行なわれ、多くのルートが加えられている。いずれもボルト連打による人工登攀である。1989年3月、戸田暁人ら(CC蒼氷)は壁が氷化していたため短時間で数ルートの開拓を行なっている。技術の革新と体力がこのすぐれた登攀を可能にしたといえよう。
●記録 *白稜上部ルート=1960年7月16日 森 義正、新井豊明、加藤啓司(『白稜』185号、『現代登山全集』5、東京創元社・1961)
*白稜ダイレクトルート=1963年9月23日 加藤啓司、滝沢 肇、本田守旦(『白稜』185号)
*静岡登攀倶楽部ルート=1977年9月17〜20日 高木正男、青木士郎、山田 修(『岩と雪』61号クロニクル)
*信濃登高会わたすげルート=1977年11月3〜6日 森山、小林、滝沢、吉沢(『山と仲間』1981-7)
*神戸登攀倶楽部ルート=1977年12月29日〜1月4日 金山、山田、船橋、広瀬、鹿出、桧垣(『岩と雪』62号クロニクル)
1978年7月29日〜8月2日
森山議雄、三沢宗高、磯部博文、田中智香子、滝沢三喜男(『岩と雪』64号クロニクル)
*泉州山岳会ルート=1978年8月12〜16日 永井文雄、山口修司(『岳人』379号)
*川崎労山ルート=1979年7月28〜29日 入柚実文、糸山 猛(『山と仲間』122号169号) 1988年12月10〜12日 藤原雅一a、島村
忠a、船尾 修a、田中幹也b(a雲表倶楽部、bCC蒼氷−『クライミングジャーナル』No.41)
*フォー・リファレンス=1989年3月11日 戸田暁人a、田中幹也a、神保栄司b(aCC蒼氷、bYCC―『クライミングジャーナル』No.42、クライミングレポート、『岩と雪』135号クロニクル)
*ファイナル・カウントダウン=1989年3月19日 サワデイカップ=3月20日
PATTAYADANCE=3月21日 戸田暁人、石黒昌泰(CC蒼氷―『クライミングジャーナル』No.42、『岩と雪』135号クロニクル) 以下略
●記録中、派生ルート、冬期など一部記載していないものもある。
●地図 甲斐駒ケ岳
北坊主岩東北稜(きたぼうずいわとうほくりょう) <地>
北坊主岩の頂より、尾白川本谷と黄蓮谷との合流点まで伸びている尾根で、全体が深い樹林に覆われている。上部200メートルあまりは、東北壁の左端を作る傾斜60度ほどの急なリッジとなっている。坊主の沢の滝場が終ったあたりで、ほぼ平坦となった稜上に出ると、東北壁がよく見える台地があり展望台と呼ばれている。ここから見た壁はすばらしく偵察に最適である。1950年8月、坊主の沢を遡った原田敏明、鹿島達郎、恩田は、はじめてこの展望台に立ち、周辺の偵察を行なった。しかし、ガスのため北坊主岩東北壁の壮絶ともいえる姿を仰ぐことはできなかった。もしこの時、天候に恵まれて壁を見ることができたならば、疑いもなく坊主岩をめぐる登攀史は変わっていたはずである。東北稜上部の登攀は木登りに終始し、岩登りルートとしての価値はまったくない。
●記録 *上部稜=1963年5月4日 加藤啓司、滝沢 肇、田中 進(『白稜』183号)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
北坊主の沢(きたぼうずのさわ) <地>
北坊主岩と西坊主岩を分ける沢で、尾白川本谷核心部の入口に滑滝となって落ち込んでいる。落差600メートル、傾斜40度。沢というよりルンゼに近い。70メートルの滑滝、垂直40メートルの滝のほか、20メートル内外の滝がいくつかある。坊主岩の頂に出るには一番短い楽なルートである。流域がせまいので流水はわずかで、最近では氷のル
ートとして注目されている。この沢の中流の滝場は、すぐ左隣の北坊主北壁から、西坊主の沢中流の滝場、滑滝沢核心部に続く一連の急傾斜帯となり、坊主中尾根の側壁を形成している。
●記録 *1954年8月16日 鎌田 久 下降(『白稜』87号)
*1954年11月4日 恩田善雄単独(『白稜』87号)
*1978年12月30〜31日 渡辺 晃、大嶋範行(べるくらんとー『山と渓谷』
1980-1)
●地図 甲斐駒ケ岳
峡中紀行(きょうちゅうきこう) <書>
宝永3年(1706)、荻生徂徠が、藩主・柳沢吉保の命を受けて、甲府城におもむいたおり、江戸を出発以来の視察や風景について綴ったもので、上、中、下の三巻より成る。別名を『風流使者記』ともいう。徂徠は甲府滞在中、柳沢家の出生地である駒ケ岳山麓の柳沢を訪れており、鳳凰山の一角にも登っている。このおり駒ケ岳について述べている部分があり、それによると、この山は「神仙の住むところ」として恐れられていたという。「頂上に登ると老翁があらわれて、ここは仙福の地、汝らともがらの来るところではないと髪をつかんで放り出されたとみたら、恍として我が家の庭にあった」と書かれている。これからもわかるように、当時、鳳凰山はすでにかなり登られていたが、駒ケ岳はほとんど未知だったのである。この意味は『甲斐国志』でも触れているように、甲斐側の登路が困難だったからで、難場に遭遇した人が誇張して話したものが、つもりつもって伝説化したものと思われる。しかし、もとの話はもうすこし単純なものだったはずで、この文章の中には明らかに神仙思想が入りこんで来ており、徂徠の脚色が感じられる。この山の馬に関する単純な話に比べて、この文の内容ははるかに高級なのである。書中、「山容不毛、焦石畳起、巌稜歴々、形勢獰然」の句は、この山の特徴をよくとらえている。(→甲斐駒ケ岳の描写)
教来石(きょうらいし) <地>
教来石は流川沿いにある岩塊で、それが集落名になっている。上教来石地区は流川の北にある国道20号線沿いの集落で、山口、上教来石、下教来石より成る。『甲斐国志』巻三十によれば、「村ノ西ニ教来石トテ高サ七尺許堅三間横二間程ノ石アリ
村名ノ起ル処ナルヘシ 俚説種々アレドモ 今略之蓋シ清ラ石ノ転化ナラン」とある。また柳田國男の『地名の
研究』中にも、「教来石、教良木はすべて清ら石、清ら木であり、即ち霊石又は霊木のある地で、其石、其木を神明の依る所として祭祀を営んだ場所であろう」と書かれている。近くの甲六川も、清ら木……コーロギ……甲六と変化したものだという。この集落の教慶寺境内にも教化石というものがあり、さらに転化したものと考えられる。また、ヤマトタケルノミコト東征の伝説説話中の「経(ヘ)て来(コ)し石」から転化したものという説もある(注)。古来、この地方は石の信仰のさかんな所で、道祖神の多いところとしても知られている。釜無川沿いに御座石、祖母石等の地名があり、濁川の北にある石尊神社の御神体も石であるといわれている。なお、下教来石は甲州街道の甲斐側最北の宿場であった。
●注 地元にある文化2年(1805)の古文書に以下の文字が残っている。
教来石之義、いにしへは経来石と書申候、其曰くは其昔、景行天皇四十一歳七月、日本武尊東夷御征伐之折から、酒折の宮より西北方此所迄巡り見玉ふ其筋に、牧の原より西横手村江大武川を越て入らせ玉ひしより、右の道筋は今の駅路より西を通申候、当所に入らせたまひ石の上にやすらひたまひて、御歌をよませ給ふ、「大川を経(ヘ)て来(コ)し石むらに家庭(ヤニハ)も見得あはれと遊せし」より教来石と唱えつゐに此村の名と成り申候、いつれの頃よりか教え来石と音便によりて書来り申候故、色々のあやしき説も出申候(以下略)
●地図 小淵沢
恐竜カンテ(きょうりゅうかんて) <地>
赤石沢前衛壁Aフランケのほぼ中央にある顕著なカンテ。あたかも恐竜の背を思わせるところから、この名がつけられた。「前衛壁登攀は、このカンテを直登したいという慾求からはじまった」と初登攀者の小林
隆は記録中で述べている。命名は1960年前後で、本谷遡行の際につけられた。1968年10月、本谷から奥壁左ルンゼ登攀に成功した小林ははじめてこの壁を仰ぎ、カンテの直登を決意した。1970年9月、試登の際、カンテ左に容易なルートを発見しながらも初志を貫き、二回の試登の後、1971年5月、完登に成功。報告中、自らの行動を「重箱の隅をつつく」とひかえ目に表現しているが、この登攀こそ甲斐駒ケ岳に新しい時代を迎える先駆けとなった。
●参考資料 東京白稜会「甲斐駒ケ岳赤石沢前衛壁登攀」(『岩と雪』32号)
●地図 甲斐駒ケ岳
清春白樺美術館(きよはるしらかばびじゅつかん) <建>
1982年4月、長坂町中丸の小学校跡地を利用して建設された。美術活動をする人たちの貸アトリエ「ラ・リューシュ」もある。武者小路実篤、岸田劉生、高村光太郎、志賀直哉、有島武郎など白樺派とその周辺の絵画、原稿、資料等、またセザンヌ、ロダンの作品も展示してある。この前庭から見た駒ケ岳の全貌は見事で、まさにその姿は馬である。
●地図 長坂上条
熊穴沢(くまあなさわ) <地>
鋸岳の頂稜から西南に落ち、戸台川に合する水平距離2キロメートル、落差1200メートルの石沢で、流水はほとんどない。出合いは広い樹林帯でわかりにくいが、やがてひらけて二俣となる。左俣は小ギャップから大ギャップの間に突き上げている狭い沢で、いくつかの滝がある。右俣は広々としたガレ沢で、中ノ川乗越に達している。右左俣を分ける尾根を中央稜と呼び、右俣側から中間ルンゼが深くくいこんでいる。中央稜、中間ルンゼ、小ギャップルンゼ、第二高点南壁等が岩登りの対象となっている。この一帯を古くは日向嶋と呼んでいた。嶋とは、この地方では岩壁を意味していた。『山岳』第八年第三号「甲斐駒付近に就いて」中で辻本満丸は、山梨県庁の山林図について述べ、「鋸岳の最高峰の付近に熊穴と云う名が記されてある」と説明しているが、これは明らかに現在の風穴のことである。したがって熊穴沢という名称は、その源流にある風穴が根拠となっていると思われる。明治36年(1903)8月、甲斐側から駒ケ岳に登ったウェストンは、右俣を下って戸台川に出ている。
●記録 *1913年10月6日 鵜殿正雄(『山岳』第9年第1号)
*1931年2月12日 堀田弥一、沢本辰雄(『立教大学山岳部部報』3号)
●地図 甲斐駒ケ岳
熊穴沢小ギャップルンゼ(くまあなざわしょうぎゃっぷるんぜ) <地>
熊穴沢左俣は源流で二つに分かれ、それぞれ小ギャップと大ギャップに突き上げている。小ギャップに達するルンゼは、落差200メートルに満たないものだが、ゴルジュの中に数個の滝があり、登攀の対象となっている。
●記録 *左俣―小ギャップ=1963年1月4日 神山卓士、平野治行(東京雄嶺山岳会―『岳人』185号記録速報)
●地図 甲斐駒ケ岳
熊穴沢大ギャップルンゼ(くまあなざわだいぎゃっぷるんぜ) <地>
熊穴沢左俣本流で、小ギャップルンゼを分けてからの名称である。出合いの滝場を過ぎると急な石沢となり、大ギャップに達する。途中、左に頂稜をエスケープするトラバースルートを分ける。この付近の地形は1927年10月、三高山岳部の今西錦司らによって
明らかにされた。
●記録 *1955年3月31日 恩田善雄、楜沢成明、佐藤宏一外2名(『白稜』94号)
熊穴沢中央稜(くまあなざわちゅうおうりょう) <地>
鋸岳第二高点(2675m)より西南に落ちる岩尾根で、熊穴沢を右、左俣に分けている。標高差800メートル、傾斜約40度。中央部は岩稜となり、中間ルンゼによって、左岩稜と右岩稜との分かれている。左が主稜で、熊穴沢左俣側は垂壁となって切れ落ちている。遠目にはブッシュの尾根のように見えるが、思ったより岩の部分が多く、小岩壁が次々に
現われて登攀は意外に手強い。
●記録 *左岩稜=1976年2月8〜10日 藤本良昭、鈴木健次、柳沢英一(山想倶楽部―『岩と雪』50号クロニクル)
*右岩稜=1978年12月31日〜1月2日 山田鉄男a、水野 徹b(a東京クライマスクラブ、b和光大学山岳部―『山と渓谷』1979-3記録欄)
●地図 甲斐駒ケ岳
熊穴沢中間ルンゼ(くまあなざわちゅうかんるんぜ) <地>
熊穴沢右俣に入ってすぐに左から合する小沢で、第二高点より西南に派生する中央稜に深くくいこんでいる。仙丈岳方面から見ると中央稜に切れ込んでいる様子がよくわかる。落差400メートル、傾斜40度。せまいルンゼ内には数個の滝があり、鋸岳の戸台側で最も登り甲斐のあるルンゼである。竹内正巳らが1958年11月、第六の滝までを試登。
翌年6月に完登している。
●記録 *1959年6月28日 竹内正巳ほか(シャロンアルパインクラブー私信による)
*1963年1月1〜2日 諸橋政弘、新川 明(東京雄嶺山岳会―『岳人』184号記録速報)
●参考資料 蟻の会「鋸岳中間ルンゼー甲斐駒ケ岳」(『岳人』285号)
●地図 甲斐駒ケ岳
熊穴沢の頭(くまあなざわのあたま) <地>
甲斐駒ケ岳・鋸岳の稜線上にあるピークで、標高2610メートル。三つ頭と中ノ川乗越との間にある。仙丈岳方面から見ると台形をしたかなり顕著なピークである。地質的に
は鋸岳系だが、地形的には、甲斐駒ケ岳、鋸岳のどちらにも属さない位置にある。一時期、不動岳などとも呼ばれたが、現在は上記の呼び方に固定している。西面、熊穴沢右俣に面してかなり大きい岩壁があるが、崩壊が激しく、岩登りの対象にはならない。西南に伸びる尾根(第三尾根)の末端に嫦娥岳がある。縦走路は頂上直下の樹林帯を捲いている。第二高点南壁の偵察に良い。
●地図 甲斐駒ケ岳
鞍掛沢(くらがけざわ) <地>
尾白川左岸最大の支流で、源流はゴルジュとなって烏帽子岳に突き上げている。水平距離4キロメートル、落差800メートル。本流に滝はなく平凡な沢である。左岸には鞍掛山北の鞍部から落ちる乗越沢、大岩山南面の水を集める金山沢がある。以前は単に北沢と呼んでいたのだが、金山沢に鞍掛鉱山があったので鞍掛沢とも呼ばれていた。1947年秋、地元の菅原山岳会パーテイがこの沢を遡行し、新コースとして山岳雑誌に発表して以来、鞍掛沢に統一された。発表に当たって西面の北沢との混同を避けるため改名したという。鉱山小屋を改造して山小屋とし、一時期、高木董博が番をしていたが、数年を経ずして無人となり、まもなく倒壊した。これといった見どころのない沢なので、人気が出なかったのが原因である。しかし、近年、源流左岸のルンゼや、右岸の岩壁が見直されるようになった。なお、尾白川の北を流れる濁川右岸にも同名の沢がある。(→濁川・鞍掛沢)
●参考資料 山本 元「新コース紹介―甲斐駒ケ岳鞍掛沢」(『山小屋』148号)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
鞍掛前沢(くらがけまえさわ) <地>
鞍掛沢出合いより200メートルほどの下流の尾白川に、左岸より落ちている急峻なルンゼ状の小沢。落差600メートル、傾斜は45度近い。つめは鞍掛山南面の岩壁で、出合いに高さ50メートルの滝が二つあり、上流も10〜20メートルの滝がいくつかある。
二万五千分の一地図上でかろうじて認められる程度の浅い沢であり、地元での名称はなく
仮称である。
●記録 *1986年10月9〜10日 市川 正、宮田建夫(『白稜』203号)
●地図 長坂上条
鞍掛山(くらかけやま) <地>
尾白川中流左岸にある標高2047メートルのピーク。日向八丁尾根の主稜から南にはずれた位置にあるので、登山者としてこの頂に立ったものはきわめて少ない。西面の嫦娥岳とともに衛星峰中の秘峰といえよう。「くら」も「かけ」も通常は岩壁を意味しており、この山も山頂の南はスラブ状の岩がむき出しになっている。山頂は不明瞭な二つのドームから成り、山麓からは鞍のようにも見える。駒ケ岳という名称が馬の形からきているという説もあるので、この山も「くらをかける」という意味かもしれない。山梨県では昔から、クラカケ松、クラカケ石が各地に見られ、いずれも「鞍を掛ける」という意味なので、ここでも同じと考えてよかろう。正徳2年(1712)の古文書(横手村と白須村との境界争い)に「くらかけ山」という文字が見える。北にある日向八丁尾根上のピークを駒岩といい、このピークとの暗部から頂上まで古い鉈目が入っている。山頂南側と鞍部に信仰登山の跡を示す古い石碑が残っている。登山者としてはじめてこの山の頂に立ったのは、星
忠芳と辻本満丸で、明治44年(1911)7月、駒岩から往復し、山頂の様子を以下のように述べている。
「山頂は二つの隆起に分かれ鞍状を成す、南の峰(台ケ原より見て左)の南角、岩(花岩)の露はれたる処に石祠あり、中なる女神の石像は、いとも柔和の顔色なり、石祠の台石は、素人目には、花崗岩でなきやう思ひしが、何処からか荷ひ揚げたるものならん、石祠のある処は駒ヶ岳、烏帽子岳等を仰ぎ、尾白の深谷を下瞰して眺望あれども、其他は針葉樹の林にて甚だ眺望悪き山なり」(辻本)
●参考資料 [T]星 忠芳「鞍掛山・烏帽子岳・鋸岳をへて駒ケ岳に登る記」(『山岳』第6年
第3号)
[U]辻本満丸「甲斐駒山脈の鞍掛、烏帽子、鋸及其他二三の峯に就いて」(『山岳』第7年第1号)
[V]山村正光「鞍掛山」(『車窓の山旅・中央線から見える山』実業の日本社・1985)
●地図 長坂上条
栗沢群(くりさわぐん) <地>
早川尾根上の栗沢山(2714m)、ミヨシの頭(2700m)間から北に流れて大武川に合する四本の沢を、下流からそれぞれ、前栗沢、中栗沢、奥栗沢と呼び、最上流のものを無名沢と呼んでいた。1966〜1976年にかけて、大武川流域を組織的に調査した紫山岳会は、この無名沢に本栗沢という名を与えた。落差はいずれも1000メートル前後である
が、大体がガレと転石の沢であって、まとまった滝場はない。栗沢とは、石ころの多い沢という意味である。「くり」とはまた岩場を意味する場合もあるが、この周辺ではアサヨ峰北面に小規模の岩場があるだけで、外にはこれといったものは認められない。栗沢山(2714m)は栗沢の頭とも呼ばれ、これらの沢群から名付けられたものだが、かろうじて本栗沢が引っかかっているに過ぎない。他の三本の大きな沢は、このピークとは何の関係もないのである。名称の起源や、地形から見ると奥栗沢が中心であり、栗沢の頭とは、本来は北面からのアサヨ峰の呼び名かもしれない。
●地図 鳳凰山、仙丈ケ岳
栗沢山(くりさわやま) <地>
甲斐駒山脈中の一峰で、仙水峠の南にある標高2714メートルのピーク。栗沢の頭とも呼ばれている。栗沢とは大武川源流右岸の四本の枝沢名で、その源頭にあたるわけだが、かろうじて最奥の沢が、このピークに突き上げているにすぎない。古くは仙水の頭、あるいは荒沢山などとも呼ばれていた。このピークから鳳凰山の一角、高嶺に至る尾根を早川尾根と呼んでいる。アサヨ峰とともに甲斐駒ケ岳南面の展望台である。
●地図 仙丈ケ岳
黒川(くろかわ) <地>
釜無川源流右岸の支流で大岩山、雨乞岳を水源としている。水平距離5キロメートル、落差1200メートル。出合いより3キロメートルで二俣となり、左に前松尾沢を分けている。右俣本流は大滝が連続しており壮観である。二つの鬼の窓と呼ばれる鞍部は、この右俣の源流にあり、大岩山を間に相対している。大滝上部で右より合する沢には長大な滑滝がある。源流は二つに分かれて、右本流は大岩山北面に、左は喜平谷と呼ばれて大岩山の東鞍部に達している。『甲斐国志』巻三十にある「丸滝」と呼ばれる滝は不明だが、二俣よ
り下流には地元でトヨ滝と呼んでいる滝がある。地図上細部に至るまで名称が記入されているのは、この谷に多くの人が入り込んでいた証拠で、かつては木馬道が源流まで伸びていた。また、山椒魚の名産地だったともいう。地図上、右俣本流に黒津沢とあるのは誤りで、黒津沢とは濁川側にあり、黒津の頭(1797m)から笹の沢に落ちている小沢の名称である。黒川という名は、釜無川の対岸の枝沢・白川に対して名付けられたものであろう。二俣近くまで林道が入っている。
●記録 *1961年6月1日 森 義正、市川 正、長田昭一(『白稜』168号)
*1980年2月24〜25日 日出孝昭、山本和幸(東京学芸大学登高会―『山と渓谷』1980-6記録欄)
●地図 甲斐駒ケ岳
黒川(くろかわ) <地>
三峰川最大の支流で、出合いから6キロメートルほどで、小黒川と戸台川に分かれている。二俣から三峰川出合までの落差は150メートル。大体が広い河原で、左岸に仙丈岳北面を集める尾勝谷が合流している。右岸には、南アルプス北部のアプローチとなっている道がある。また、二俣下、戸台大橋より南アルプス林道が北沢峠に通じており、夏山シーズン中は仙流荘前から峠まで村営バスの便がある。かつては戸台川までを含んで黒川と呼んでいたようで、その源流にあたる駒ケ岳を黒川岳ともいっていたらしい。従って黒川の本流は戸台川と考えるべきで、小黒川は名称からいっても支流であろう。
●地図 甲斐駒ケ岳、信濃溝口
クロスライン・スーパークラック(くろすらいんすうぱーくらっく) <地>
赤石沢前衛壁Aフランケの恐竜カンテ上部にある二つのクラックを登るルート名で、赤蜘蛛ルートと交差平行している。高さはわずか30メートル余り、2ピッチのルートだが、甲斐駒ケ岳ではじめて意図的に行なわれたフリークライミングのルートとして、その存在意義は大きい。岡田
昇がその著書『北岳・甲斐駒と黒部の岩場』で紹介した見事なクラックは多くのクライマーに注目されたが、1981年6月に池田
功らによって初登攀された。ヨセミテ方式のいわゆるでしまる・グレードで5.10a〜5.10cといわれ、難しさは最高のものとはいえないが、このクラックの立地条件を考えると、甲斐駒ケ岳で登られたもっとも困難なピッチの一つといえよう。
●記録 *1981年6月20日 池田 功、新島孝司(『岩と雪』84、86号クロニクル)
●地図 甲斐駒ケ岳
黒津沢(くろつざわ) <地>
濁川・笹の沢の一支流で前沢とも呼ばれている。水平距離1キロメートル、落差400メートルの小さな沢で、黒津の頭(1797m)に達する。出合いは河原状をなし平凡な沢である。地図上、黒川上流に黒津沢と書いてあるのは誤りである。
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
黒戸尾根(くろとおね) <地>
駒ケ岳本峰より東北に伸びる長さ8キロメートル、標高差2300メートルの深い樹林に覆われた尾根。古くから山梨県側の登山道がひらかれている。途中に黒戸山のピークがあるのでこのように呼ばれている。五合目、七合目に山小屋があり、上半は梯子やくさり場のある急登が続いて八合目で樹林帯を脱する。南アルプスを通じて最も急な登りだが、登山道はよく整備されており、危険地帯はない。アプローチの短いコースで、入山二日目の早朝には山頂に立つことができる。甲斐駒ケ岳は文化13年(1816)、信州諏訪の人、弘幡行者によって、この尾根から開山されたと伝えられている。事実、宗教色の濃い登山道で、五合目から上には多くの石碑が建ち並び、現在も講中登山が行なわれている。この尾根道がいつごろからひらかれていたのか、はっきりしないが、駒ヶ岳神社前宮にある『駒ケ岳縁起』によると、役の小角がはじめて登ったという。しかし、これは各地に伝えられている開山伝説と同じ種類のものであろう。各種の資料を総合すると300年くらいは遡ることができる。講中登山は江戸時代から行なわれており、明治、大正時代が盛んだったようである。一般登山者は明治の中期から訪れるようになり、二日間で3000メートル級の山頂に立てるということで、一時期登山ブームを迎えた。積雪期の初トレースは 1925年3月31日、平賀文男による、北沢―駒ケ岳―黒戸尾根下降だが、この尾根からの山頂往復は、1930年4月、東京農業大学の村崎勝行らによって成された。冬期は1933年12月10日、地元、南嶺会の長田、深野が七丈小屋より往復している。積雪は少なかったということである(『南嶺』3号)。積雪期初登までに以下のような記録がある。
○1915年11月、舟田三郎は単独で山頂を往復した。
○1920年11月、近藤茂吉、悪天候のため屏風小屋より引き返す。(山崎安治著『登山史の発掘』による)
○1924年3月、野々垣邦富、橋本パーテイが八合目まで登った。
○1925年3月31日、平賀文男は柳沢の水石春吉、牛田重義、同五郎作とともに北沢より
登頂の後、黒戸尾根を下降。
○1926年4月30日、法政大学山岳部パーテイが屏風小屋より山頂往復。
○1929年3月、青山学院・小島隼太郎、松尾パーテイが黒戸尾根を山頂近くまで登った。
○1930年4月8日、東京農大・村崎勝行、府立三OB・平木 桂、平木啄次、積雪期初往復。
●参考資料 [T]山崎紫紅「甲州駒ケ岳―またしても山物語」(『文庫』第25巻第1号)
[U]榎谷徹蔵「甲州駒ケ岳」(『山岳』第5年第2号)
[V]「ネーベルメーヤー」(農大山岳部部報創刊号)
[W]『山と高原』339号
[X]湯浅 厳「積雪期の南アルプス」(『登山とスキー』第6巻第5号)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
黒戸尾根案内(くろとおねあんない) <文>
黒戸尾根か本峰に至る案内文は、明治27年10月に刊行された『日本風景論』(志賀重昴)によるものが知られており、これが最初のように思われているが、実はこれには種本がある。わずか半年前に『日本旅行案内』第4版(チェンバレン・メーソン共著・明治27年5月)に同シリーズとして初めて発表されている。以下にその両文を示す。
『日本旅行案内』 『日本風景論』
この大きい山(9840f)には、甲州街道沿いの台ケ原 釜無川右岸台ケ原より登る。
から登る。 ところどころ困難でまた危険な登路がある 村より絶頂まで七里と称す。中
ので、巡礼登拝者達の間では、「親不知、子不知」「一の に入れば宿泊用に供すべきもの
難所」「一の覗」(断崖の上からの覗き)などという言葉 はに二小屋あるのみ。且つ飲水が使われている。
頂上までの距離はかなり長く、およ 欠乏すれば、台ケ原にて各種の
そ七里あるとされている。 そのため途中の山腹にある 準備をなすを要す。絶頂には二
御室 あるいは馬留の山小屋に一泊しなければならない。 峰あり、一峰に大貴巳命の銅像
この二つの小屋以外では 飲料水が得られないので水を 建ち、一峰に摩利支天の小像立
持参した方がよい。 山頂には二つの峰があり、一方に つ。絶頂より四望せんか、北に
は神道の神様である大穴牟遅の銅像が、 奥ノ院と呼ば 越後の妙高山、信濃の戸隠山、
れる高いほうの峰には 仏教の尊体の摩利支天の小さな 飯綱山、浅間山、駒ヶ岳、甲斐、
像が安置されている。 山頂からは全方位の展望が得ら 信濃境上の連山、八ヶ岳を看、
れる。 南には野呂川と田代川の渓谷が流れ、その左に 東は釜無川の渓谷を隔てて金ケ
は白根の長大な山並が聳え、近接して聳えるその最高 岳、木賊山、金峰山、国司岳、
峰 甲斐ケ根には雪が残っている。その向うには間ノ岳 武蔵の秩父山畳を双眸中に収め、
の巨体がどっしりと連山の中央にすわっている。 目の 東南には富士山、伊豆半島を隔
下は谷となり野呂川が甲斐ケ根の麓を巡って流れてい てて、太平洋を認め、南に白根
く。右手の山は仙丈岳だ。 白根の向うには幾つかの高 山、七面山、身延山長損し来り、
い山、多分、駿河と北の境界に聳えると思われるもの 富士川、安倍川のニ渓谷を下瞰
が見える。東の方を見ると、富士川の谷が近くの鳳凰 し、西より漸く北せば、遠く美
山と甲斐ケ根の東側の斜面の間に見えている。そして 濃の恵那山、信濃、飛騨、越中
遠くには伊豆の岬と海を望むことができる。最も心を の群嶺を観る。
打つ眺めは富士山で、その左手には広大な平野が広が
っている。北と西の方面にも多くの山が連なっている。
秩父連山の一部、金峰山、八ヶ岳、浅間山、越中と飛
騨の境界にそそり立つ山々御岳、 信州の駒ケ岳、そし
て恵那山。一方、近いところには甲府平野、釜無渓谷、
蓼科山、和田岬、周辺の山、諏訪湖、天竜川の渓谷な
どが見える。駒ケ岳にはシャクナゲが豊富に咲いてい
る七月の後半のころ、木の生長とともに花が満開とな
り山の景観に魅惑的な彩りをそえる。
(庄野元男著『異人たちの日本アルプス』より)
これを見れば全く同一の文であることがわかる。登山の経験がほとんどなかった志賀が引用したことは間違いない。この外にも数ケ所の引用があるといわれている。原文は明治14年7月に登ったホーズ(『中部・北部日本旅行案内』の編集者)の資料によるものと思われる。
●参考資料 [T]庄野元男著『異人たちの日本アルプス』(日本山書の会・1990)
[U]黒岩 健著『登山の黎明』(山書研究・1976)
●注 『日本旅行案内』および、ホーズについては「外国人による駒ケ岳初横断」の注に解説。
黒戸北沢(くろときたさわ) <地>
黒戸山北面の水を集め、尾白川本谷と黄蓮谷との出合いより500メートル下流に合流
している。落差700メートルの小沢にすぎないが、三段、高さ120メートルの大滝をはじめとして、いくつかの滝がる。大滝下までは沢も明るく、乾いた岩の感触が楽しめる。大滝上で二俣となり、右俣は小滝と滑滝が連続している。出合い対岸に獅子岩がある。確たる名称もなく筆者による仮称である。
●記録 *1965年8月21日 恩田善雄、加藤啓司、新藤 研、花田行世(『白稜』196号)
*1966年2月26〜27日 恩田善雄、市川 正(『白稜』199号、『岳人』307号)
●地図 長坂上条
黒戸山(くろとやま) <地>
駒ケ岳北東稜上のただ一つの顕著なピークで、標高2254メートル。いわゆる黒戸尾根登山道は、この頂上を通らず、北面の深い樹林帯をトラバースして五合目に出ている。山頂は東西500メートルほどの頂稜となり、ほぼ平坦で、三角点は東の端にあり、そこが最高点となっている。頂稜は針葉樹と倒木で踏跡はないが、下生えが少ないので容易に歩ける。西端に出るのは簡単で、北面トラバース道から10分ほどで藪漕ぎもない。このあたりは展望もよく駒ケ岳本峰や、遠く北アルプスもよく見える篠沢側は露岩のある急崖となっているが、対岸から見た範囲内では、まとまった岩場はないようである。むかしは前山と呼ばれていたらしいが、近代登山の開幕後、上記のように呼ばれるようになった。文人・大町桂月はこの山の一角から本峰を仰ぎ、「天下無双是真之霊岳」と表現した。一角に信仰登山の跡が残っている。旧家の部屋を仕切る黒塗りの板戸を黒戸と呼んでいるので、それから名付けられたのかもしれない。
●地図 長坂上条
桑木尾根(くわきおね) <地>
黒戸山東端より東に伸びる水平距離3キロメートルほどの尾根で、篠沢と桑木沢とを分けている。尾根上に踏跡はない。上部桑木沢側は風倒木が多い。
●地図 長坂上条
桑木沢(くわきざわ) <地>
大武川篠沢の支流で水平距離3キロメートル、落差1400メートル。沢の構成は篠沢に似ており、刃渡りの下を通って黒戸山東面に突き上げている。源流地帯左岸に山麓からも見える白い岩壁帯があり、桑木沢中央壁と呼ばれて、登攀の対象となっている。下流は河原が多く平凡な沢だが、中流部より上は滝が連続して、桑木の滝(高さ40m)、奥の大滝
等がある。上流部はチムニー状の滝が次々と表れてかなり悪い。技術的には篠沢をしのぐ。「くわ」は「くえ」などと同じく急崖をあらわしている。近年、大滝までの探勝路が作られた。大滝上部の小滝を含んで黒戸噴水滝と呼ばれている。宝暦6年(1756)の古文書に「桑木沢」の文字が見られる。
●記録 *1965年7月10〜11日 新藤 研、後藤晃博(『白稜』196号)
*1965年1月15〜17日 高間幸一、新藤 研(『白稜』)193号、『岳人』307号)
●地図 長坂上条
桑木沢中央壁(くわきざわちゅうおうかべ) <地>
桑木沢源流左岸にある岩壁で、高さ約250メートル。黒戸尾根刃渡り上部の南側にある。桑木沢の側壁といってもよい。以前は単なる露岩のある急斜面にすぎなかったが、
1959年の台風による豪雨のため、表面の土砂や樹林が流されて、大きな岩壁が露出した。山麓からも白い壁となって見えるもので、現在も一部は崩壊を続けている新しい岩場である。桑木沢の奥にあるので取り付くのはかなりやっかいで、中流の滝場を越えて行かねばならない。黒戸尾根・刃渡りの頭から岩壁の一部を下降して、取り付いたパーテイもある。黒戸尾根からではこの岩壁を見ることはできない。現在3ルートほどがひらかれているが、到達高度が低いことと、ピークを持たないことなどから、あまり登られていない。
●記録 *1976年4月18〜19日 武川俊二、進藤知ニ、奈須川雅俊(東京心岳会―『岳
人』350号)
*1979年2月10〜12日 武川俊ニ、大内尚樹、黒澤孝夫(東京心岳会―『岳人』385号記録速報)
*1979年2月10〜11日 渡辺育夫、坂井欣ニ、伊藤峯雄(八王子いわや山岳会―『山と渓谷』1979-5記録欄)
●地図 長坂上条
渓谷登攀事始め(けいこくとうはんことはじめ) <事>
渓谷登攀という言葉が適当かどうかの議論はさておき、単なる谷歩きではなく、岩登りを含む近代的な登り方で、一つの渓谷を完全につめて山頂に立ったのは、1930年9月7日、岩瀬勝男(関東山岳会)による尾白川・黄蓮谷右俣遡行がはじめてである。同行者は当時、南アルプス北部の名案内人といわれた高木董博であり、登頂の後、六合目石室に下り、鋸岳第一高点を往復してから、中ノ川を下降している。南アルプスのバリエーションルートの登攀は前年の京大・高橋健治らによる北岳バットレス第五尾根ぐらいだったこ
とを考えれば、まさに画期的な山行といえよう。その記録は、関東山岳会年報『山岳資料』第9輯に詳細に報告されている。ちなみに黄蓮谷の第二登は1936年6月、甲府南嶺会パーテイによって行なわれた。この谷がさかんに登られるようになったのは、1949年以後のことである。
●参考資料 恩田善雄「黄蓮谷の初遡行」(『白稜』259号)
継続登攀(けいぞくとうはん) <事>
甲斐駒ケ岳における継続登攀のはじまりが何時かということは、一概には決められない。それは意味が初期のものとは少しずつ変化してきているからである。二つ以上の岩登りルートや沢登りを継いだものなら何でもかまわないといえば、1949年8月、原田敏明と筆者による大武川・カラ沢遡行―坊主尾根―黄蓮谷右俣遡行などは古いものであろう。また、この記録はその嚆矢ともいえよう。しかし現在、一般に理解されているものは、ピッチの短いルートを幾つか繋ぐことによって、より長大なルートを作り出そうというものである。規模の小さい我が国の岩場を、より自由な形で登ろうとして考え出された一つの登攀形態であった。このような見地からすれば、南面にはいくつかの岩場が並んでいるので格好のコースを作ることができる。一つの岩場が終れば、次の岩場がすぐ上にあるので無理なくコースを組み立てることができるからである。1962年12月末から翌年1月にかけて、辻
安一、滝沢 肇、本田守旦は、サデの大岩から摩利支天南山稜を登った(『岳人』216号)。これは同ルートのはじめての記録ではあるが、この形式による初めての試みとはいえない。それは後半の南山稜が山頂に至る必要ルートとして登られたからである。やはり意識して作られたルートであることが必要であろう。1971年から開拓され、赤蜘蛛同人によって完成された赤石沢ダイヤモンドフランケから奥壁への継続登攀は、この山域での最初の試みといってもよいだろう。明らかに意識して作られたルートだからである。このルートの開拓によって、登攀距離は1000メートルにおよび、南面に岩場としての
評価はいっそう高まったといってもよい。また、サデの大岩から摩利支天の各ルートを経
て赤石沢奥壁へと三つのルートを繋ぐ登攀も盛んに行なわれている。アイスクライミングと岩登りを結んだ登攀も行なわれており、例えば黄蓮谷左俣から赤石沢奥壁なども人気がある。継続登攀の隆盛は、登山者の技術向上、とくにスピード化が進んだことにもよるが、登山用の装備、食糧等が著しく軽量化されたことによる。また、多くの登攀者を迎え情報が豊富になり、ルート自体が容易になったことも見逃せない。
結氷期登攀(けっぴょうきとうはん) <事>
甲斐駒ケ岳では、各沢の上流は11月初旬になれば結氷がはじまり、12月下旬には本格的な冬山となる。この間、約一ヶ月余は冬山特有のラッセルもなく、氷登りが楽しめる。一般に登山期は無雪期と積雪期に分類されているが、この山ではこれに結氷期を加えたい。1953年11月、筆者は冬期の坊主岩から本峰への縦走を計画し、その偵察のために単独で南坊主岩に登り、氷結した黄蓮谷を見て、この山の真価が冬の谷にあることを発見した。
黄蓮谷右俣を登ったのは、1956年11月23日で予想にたがわず、すべての滝は氷に覆われていた。この登攀は鹿島達郎らによる冬期登攀へと続くのである。(→アイスクライミング事始め)
厳冬期初登頂(げんとうきしょとうちょう) <事>
1926年1月8日、慶応義塾大学山岳部・漆山己年男、今岡義夫、野村 実(竹沢長衛、深沢松次郎)による北沢からの往復が厳冬期初めての記録である。北沢小屋を基地として、双児山、駒津峰間に出て登頂している。『登高行』第7年の記録中にある「錫杖岳」とは現在の駒津峰のことである。なお、駒ヶ岳―鋸岳の厳冬期初縦走も、同山岳部の望月太郎、土志田孝之助、小糸栄一郎、橋本健一によって、1930年1月4〜5日に完成されている。北沢より双児山・駒津峰間の鞍部に出て駒ケ岳に登頂、六合目石室に泊って、翌日、鋸岳第二高点、第一高点を縦走の後、角兵衛沢から戸台に下山している。これはまた、鋸岳の厳冬期初登頂でもある。また前記、野村
実は同時期、北岳で雪崩により遭難死している。
●参考資料 山内多木編『みのる』(1930)
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│ 特別連載 │
│ 甲斐駒ヶ岳研究(5) │
│ 恩 田 善 雄 │
│ (東京白稜会) │
└────────────────────┘
弘幡行者(こうばんぎょうじゃ) <人>
信州諏訪の人で文化13年(1816)に甲斐駒ケ岳を開山したといわれている。講中では伝説化された聖人として語り継がれており、その生涯については誇大化されて伝えられている。諏訪郡上古田区に『駒ケ岳開山威力不動尊由来記』が残っており、それを要約したものに『駒ケ岳開山記』がある。それらによれば、寛政8年(1796)、諏訪郡上古田村で小尾今右衛門の二男として生まれ、幼名を権三郎といった。十五歳で修験道に入り、文化10年(1813)、十八歳の時、駒ヶ岳開山の志をたてて横手村に入り、尾白川と大武川より登頂を試みたが失敗。三年後の文化13年(1816)6月、黒戸尾根より頂上に立ち開山。文政2年(1819)正月、二十五歳で遷化したと伝えられる。大開山威力大聖不動明王として、黒戸尾根六合目不動岩に祭られている。いろいろな資料を総合すると、当時、黒戸尾根には道があったと考えられる。『開山記』中で苦労した模様が書かれているのは、修業しながらの登山だったからで、開山とは一つの宗教的な行事にすぎない。前二回、谷に登路を求めたのは、開山に要する日数を考慮して、水に不自由しないコースを選んだものと考えられる。しかし、そのコースの困難さをさとって尾根に変更したものと思われる。なお、藤森栄一(諏訪考古学研究所長・1911〜1973)は、権三郎は父・小尾今右衛門によってあやつられたロボットにすぎないという説をとなえている。別名、延命行者ともいう。
●参考資料 [T]藤森栄一著『遥かなる信濃』(学生社・1970)
[U]田中英雄「甲斐駒嶽信仰と山田家当主たち」(『山と渓谷』2000-6)
合目と丈(ごうめとじょう) <事>
山の麓から頂上までを、その距離によらず、登る場合の難儀の度合いに応じて十分割し、その一つを「合」と呼び、必要に応じて、さらにその間に「勺」を設けた。「目」とは場所を表す接尾語である。この習慣は江戸時代からあり、もともとは信仰登山からはじまったものだが、新しく開かれた山でも、その習慣に従ってつけられたものもある。合とは本来は、升目の単位であり、定説はないが、登山の場合に一升の飯を十分割して、疲れに応じて食べたことからきているともいわれている。しかし、最後を一升といわず、普通は「お頂上」と呼ぶ。甲斐駒ケ岳で変っているのは、この合目とともに「丈」が使われていたことで、五丈、七丈、八丈等の地名が現在も残っている。これはもともと長さの単位なので、全体を十分割し、その一つを丈と呼んだのではないかと思われるが、地元でも由来はわからないという。何時頃から使われるようになったか明確ではないが、明治12年に作られた「甲斐駒ケ嶽之略図」(口絵参照)中には、五合目という記入があり、丈の使用は案外、新しいも
のであったのかもしれない。この山では信仰登山道のあった黒戸尾根と、戸台川から北西尾根に出る道に合目がつけられている。黒戸尾根では駒ケ岳神社前宮が一合目で、戸台川は、第四尾根と呼ばれるものの取付きが一合目である。北沢からの登路にはこの呼び方はない。したがって、ここからの信仰登山はなかったものと考えられる。合に似たものに北アルプスの立山に「越」があり、隣接の薬師岳に「塀」があったといわれている。ともに一から五までで、一の越の地名は現在も残っている。五の越(塀)からは裸足で頂上の祠まで登ったという。名称は地形からきたものといわれている。
●参考資料 [T]押田勇雄著『単位の辞典』(丸善)
[U]広瀬 誠著『立山黒部奥山の歴史と伝承』(桂書房・1984)
国界橋(こくかいばし) <地>
甲斐駒ケ岳東面より入山の際に利用される釜無川沿いの国道20号線は、小淵沢駅の西にある国界橋で、右岸より左岸に移る。この地点で、山梨県より長野県に入るわけで、甲州街道と呼ばれた時代も信濃と甲斐の境であった。この橋は以前は甲六橋と呼ばれていた。柳田國男によればこの名称は、清ら木→コーロギ→甲六と変化したものだという(注1)。県境はここから北は釜無川本流、八ヶ岳側は甲六川となっている。この橋のやや下流には、糸魚川―静岡構造線の露出面があり、地学上でも貴重な地として知られている。また、この近くの山口には、かつての国境警備のための番所跡がある。山口は、甲府濁川治水に功労のあった山口素堂(1642〜1717)の出身地でもある。素堂はむしろ俳人として知られ、「目には青葉
山ほととぎす 初がつを」の作者。代表作に「ほそ落ちの 柿の音きく 深山かな」「酒折の
新治の菊と 歌はばや」等がある。国道20号線沿いの生家跡と役場前に句碑がある(注2)。
●注1 柳田國男「橋の名と伝説」(『全集』7 ちくま文庫・1990)
注2 句碑には「目には青葉 山ほと、きす はつ松魚」とある。
●地図 小淵沢
木暮理太郎の登山(こぐれりたろうのとざん) <事>
木暮理太郎(1873〜1944)は、この時代の登山者としては異色の存在で、単独で高山を走破している。後に田部重治と知り合い、秩父の山々を好んで歩いた。奥秩父登山の開拓者として、金峰山麓・金山平にレリーフが作られており、毎年、故人を偲んで木暮祭・碑
前祭が開かれている。東京から見える山々の研究、ヒマラヤ研究のパイオニヤーとしても知られている。1938年、龍星閣より『山の憶ひ出』上下二巻を発行。木暮の甲斐駒ケ岳登頂は明治29年(1896)8月18日で、単独で早朝、戸台を出発。途中、道に迷ったり、風雨にあったりしたが、戸台川本谷から、七丈の滝沢尾根(第四尾根)を登って六合目に出て、午後4時、山頂に到着している。紀行から判断すると、この信仰登山の道はかなり荒れていたようである。その日は頂上の測量小屋に泊って、翌日、黒戸尾根を下山している。甲斐駒ケ岳に関するはじめての詳細な紀行報告であるが、発表されたのはおそく『山の憶ひ出』上巻中である。乗鞍岳、御岳、木曾駒ケ岳に登った後に甲斐駒ケ岳に入るというエネルギッシュな行程で、紀行文は文語体と口語体を並行して書くというユニークなものである。なお、大正7年夏(1918)、北岳より仙丈岳を経て再登頂している。
●参考資料 [T]『山の憶ひ出』(全4冊、福村書店・1948)
[U]『登山の今昔』(山と渓谷社・1955)
[V]神谷量平「木暮理太郎論の試み」(『岳人』400号)
五合目小屋(ごごうめごや) <建>
黒戸尾根五合目にある二軒の山小屋をいう。黒戸山寄りにあるものを五合目小屋、鞍部の屏風岩下のものを屏風小屋と呼んでいる。小屋の歴史は古く、開設してから100年以上を経ている。明治のはじめ、行者の植松嘉衛という人が、五丈岩にノミで穴を掘る作業をはじめて住みつき、小屋掛けをしたのが、五合目小屋の前身といわれ、行者の祈祷所として、明治17年(1884)に開設された。明治27年(1894)発行の『日本風景論』(志賀重昴)中に、「山に入れば宿泊用に供すべきものは二小屋あるのみ」と紹介されている。明治36年(1903)、黒戸尾根を登った武田久吉は「小屋に入れば中央を通路とし左右に床を設け、両端に木戸があり、また南側に突上戸がある」と五合目小屋の構造を紹介しているが、これは現在のものとほぼ同じである。この形式は、大正10年(1921)前後に山梨県で作った南アルプス北部にある数軒の山小屋のモデルになったのではないかと思われる。屏風小屋は一度火災で焼失し、五合目小屋は戦時中無人のため崩壊し、再建され現在に至っている。再建が昭和22年と書かれた文をよく見るが、筆者がここを通過した昭和23年6月には資材が置いてあっただけで小屋はなかった。屏風小屋の名物男「ガイド・アラワシ」こと中山国重はすでに没して小屋は荒廃している。五合目小屋の自称「ミヤマ短大学長」こと古屋義成も山を下りて、まもなく病没。樹林帯中の山小屋なので展望はよくないが、近くから坊主岩、七丈の滝、鳳凰山等が見える。
●参考資料 [T]「甲斐駒に生きる・五合目小屋の百年」(山梨日日新聞・1984-11-12〜16)
[U]伊沢信久「秀峰・麗山漫歩・甲斐駒ケ岳の巻」(『岳人』475、476号)
●地図 長坂上条
小島烏水と甲斐駒ケ岳(こじまうすいとかいこまがたけ) <事>
烏水の甲斐駒が岳登山は二回であることが知られている。最初のものは明治36年(1903)8月、台ケ原から黒戸尾根を一日で往復したもので、同行者は山崎紫紅である。二度目は黒戸尾根を登り、戸台川に下って鋸岳第一高点に登ったもので、同行者は岡野金次郎であった。当時、登る事と同時に書く事に異常な執念をもやしていた烏水は、当然この記録を残しているはずなのだが、まとまった文章を書いていない。それは何故か。はじめの山行は前年に登った槍ヶ岳の紀行をまとめるのにいそがしく、同行者の紫紅にまかしたといわれている(山崎紫紅「甲州駒ケ岳―またしても山物語」『文庫』25巻1号)。また、二度目のものは鋸岳が目標であったので、駒ヶ岳の部分は省略したといわれている(『山岳』第8年第1号)。当時、烏水は南アルプスに異常な関心を示しており、「甲斐山岳の形態美」(『山岳』第2年第3号)、「甲斐山岳論」(『日本山水論』明治38年)等の文章を残しているが、駒ケ岳については簡単に触れているだけである。3000メートルに近い山に登って紀行を残さないのは烏水にとって希有のことであり、そこになにかの原因があったと考えられる。第一の登山については、すぐ後に登った金峰山、八ヶ岳について書いているので、単に忙しかったとは思われない。その原因の一つとして考えられるのは、この山について地形に疑問があり、それが執筆をためらわしたのではないかということである。「白崩岳論争」の項でも述べているように、地形に関しての理解に統一がないように思える。この事が『日本山嶽志』中の白崩岳項の「山巓ハ甲斐ノ駒ケ嶽ト合ス」というあいまいな表現となって表れたのではないだろうか。当時の烏水の、この山についての理解はどの程度だったのだろうか。『山岳』第七年第一号の「信州の甲駿境の一部」(梅沢親光、山川
黙)中に、烏水の以下のような文が紹介されている。「日野春から小淵沢までの間では、大高原を次第と登りとなって、花崗岩の大王、甲斐駒ケ岳は鐘状をなした。鞍掛山から長大にして鋭利刃を横たへたような屏風岩の絶壁となり、烏帽子岳の峻峰を撃がって、最高点摩利支天から、順に低くなって、古成層の朝与岳に続く間に、穂高、富士山に次げる日本アルプス中の第一高座三千百九十二米突の白峰北岳が、鋭錐形の首をちょいと出す」。これを読めばわかるように、かなりの矛盾を含んでおり、このことは『山岳』の同文中でも指摘されている。さらに、最終的には白崩岳論争にやぶれた(→白崩岳論争)。山博士を自認していた烏水にとって、これは耐え難いことだったに違いない。第二の登山は、この地形確認行ともうけとれるのである。また、紫紅の紀行中に烏水の“講中が登るような山について興味が少な
い”とも受け取れる発言がある。烏水にとっては高山深谷を探ることが登山の目的であり、講中がぞろぞろ歩いているような山には興味がなかったのかもしれない。このような種々の理由によって、執筆をためらったに違いないと私考する。烏水については下記の文献が詳しい。
●参考資料 近藤信行著『小島烏水―山の風流使者伝』(創文社・1978)
五丈の沢(ごじょうのさわ) <地>
黒戸尾根五合目の鞍部から黄蓮谷・千丈の滝上に落ちる水平距離700メートル、落差400メートルの小沢。出合い近くに「千丈の滝岩小屋」があり、尾白川源流地帯への根拠地として利用されている。右岸に渓谷道の最上部となっている登山道がある。左岸にも踏跡があり、千丈の滝岩小屋から分かれて屏風小屋に出ているが、荒廃しており、現在はほとんど歩かれていない。沢には数個の滝があるが、わざわざ遡行するほどの価値はない。屏風沢とも呼ばれている。また、小屋から篠沢側に落ちる小沢も五丈の沢と呼ばれている。
●地図 長坂上条
五丈の滝(ごじょうのたき) <地>
戸台川本谷第一の滝のことで、高さ約15メートル。この滝のやや下流に戸台側登山道の一合目があり、かつての講中登山は、この滝の水で身を清めてから登ったという。二万五千分の一地図上に滝の記号がある。付近は幽邃な感じのする所である。左岸から容易に滝の上に立つことができる。すぐ上に同じような第二の滝がある。命名は高さからきたものであろう。
●地図 甲斐駒ケ岳
小滝の沢(こたきのさわ) <地>
濁川(神宮川)左岸最下流の枝沢で、源頭はホクギの平(1600.3m)である。水平距離
2キロメートル、落差800メートル。中流に落差25メートルほどのチムニー状の滝があるだけの平凡な沢。地元ではこの滝を小滝と呼んでいるが、なかなか立派な滝である。本流にある大滝に対しての名称で、沢名もそこからきている。流れに沿ってしっかりした
踏跡があり、ホクギの平とチンバ沢の頭(1485m)との鞍部を越えている。この道は笹の沢源流をトラバースして、黒津の頭(1797m)より、水晶薙付近にまで達している。雨乞岳の登山道として利用できる。
●地図 長坂上条
固定ザイル事件(こていざいるじけん) <事>
1962年1月、赤石沢奥壁左ルンゼで三名の仲間を失った東京白稜会にとって、厳冬期の左ルンゼは執念のルートであった。1965年8月、厳冬期の再計画のため赤石沢合宿を行なったが、その際、左ルンゼの最悪場である第二の滝に、完全に張りめぐらされた固定ザイルと、その末端に結びつけられたペナントを発見した。かつて、穂高岳屏風岩の中央カンテや北岳バットレス中央稜の厳冬期初登をめぐっても同じことが行なわれ、登山界から非難を浴びた。「フィックスザイルの道義的責任」(『山と渓谷』1965-1、232号)によって、その撤去をひろく呼びかけた。翌月号にはペナントを付けたグループによって「フィックスザイルについて」という文が発表され、すでに前年12月には付けられていたことが判明した。このグループと話し合った結果、彼らが付けたものではないことは理解できたが、ザイルは撤去されないまま、同年12月初旬、左ルンゼは富士宮山岳会パーテイによって登られた。結局、固定ザイルを付けたグループは判明せず、翌年、すでに二冬を経過して強度的に危険であるとの判断のもとに、ザイルを切断撤去した。1967年1月、新たに第一の滝直登を含むルートを加えた左ルンゼの登攀に成功した。
●参考資料 [T]『白稜』179〜204号
[U]『創立25年記念号』
駒岩(こまいわ) <地>
日向八丁尾根上にある標高2029メートルピーク一帯の名称で、南の支稜上に鞍掛山(2037m)がある。頂上は樹林に覆われて展望はよくないが、東面は風化した傾斜のゆるいスラブ帯があって明るくひらけている。このスラブの下部は唐音沢右俣源流に垂直の岩壁となって切れ落ちている。駒岩とは本来、この岩壁の名称であり、遠望すると、その形が馬の頭に似ていることから名付けられたものだという。しかし現在では、ピークまでを含んでこのように呼んでいる。頂上から南へ鞍掛山まで明瞭な踏跡がある。南の鞍部付近は笹原で、近くに岩庇状の岩小屋があり、唐音沢源流で水も得られる。この付近での貴重
な泊場といえよう。
●地図 長坂上条
駒ケ岳(こまがたけ) <事>
全国にいくつかの駒ケ岳があるが、わずかな例外を除いては、馬に関係した命名である。駒ケ岳の分布は主に中部地方から東にあり、馬の産地と分布が似ていることからもうかがえる。古来、我が国にも固有の馬がいた事実はあるが、盛んに飼育されるようになったのは五世紀以後で、七世紀に高麗(高句麗)が滅んでからは亡命飼育技術者が数多く来日して、飼育はより盛んになった。残雪の形が馬の姿に似ているものや、山容が馬に似ているものが、生育の安全を願うため、素朴な信仰の対象となったことがうかがえる。「こま」は本来、古代朝鮮からきたもので、古くは『日本書紀』中に甲斐黒駒の記述が見られる。
●参考資料 [T]鈴木 清著『駒ケ岳に魅せられて・全国十八峰を尋ねて』(新風社・1995)
[U]全国駒ケ岳登山(『白稜50周年記念号』1995)
駒ケ岳開山記(こまがたけかいざんき) <書>
甲斐駒ケ岳は文化13年(1816)、信州諏訪の人、弘幡行者(延命行者)によって開山されたと伝えられているが、この小冊子は、その開山百五十年を記念して出版されたものである。駒ケ岳講の一つである信州明山講の故深沢實美がまとめたもので、A5版、48ページ、1963年発行。内容は行者の生い立ちと、開山の模様を綴ったものであるが、元来が信仰登山者のために書かれたもので、完全な史実とはいえず、かなりの誇張がある。記述は登路の困難性を強調しているが、当時はすでに頂上まで道が通じていたはずである。これは開山、すなわち、それまでの各種信仰を統一するという宗教的な厳しさを、登路の困難性に置き換えて語られ、記述されたものであろう。講中の理解を容易にするために、このような内容になったと思われる。種本は諏訪郡上古田区蔵の『駒ケ岳開山威力不動尊由来記』であろう。
『駒ケ岳』という書き方(こまがたけというかきかた) <事>
発音は「こまがたけ」だが、駒ヶ岳と書かれている場合が多い。八ヶ岳、槍ヶ岳も同様であ
る。ここに書かれた「ケ」は片仮名のケではなく、漢字の「个」から変化したものである。「个」とは「箇」の一部からきたもので、本来の意味は竹であるが、箇の略字としえ使用されるようになった。現代中国でも「箇」の代わりに「个」を採用している。発音は中国の発音記号である「ge」である。我が国では「箇」の読み方は「こ」または「か」である。物を数える場合、一ケ、二ケなどと書いてあるのは、一箇、二箇の略字なのである。この「か」が読みやすいように「が」に変わった。深い意味はないが、大体「の」と思えばまちがいはない。本来の意味とは離れているが、これは当て字なのである。衛星峰の一つである嫦娥岳が、もとは城ケ岳であり、古くは城ノ山と呼ばれていたことからもうかがえる。また、丹沢山塊の塔ノ岳も、かつては塔ケ岳と書かれていた。「ケ」または「ガ」の使い方は昔からまちまちで、古い文献を見ても混同されている。しかし、「ケ」が圧倒的に多く、明治以後はほぼ「ケ」に統一され、山名の書き方も固有化されている。したがって、「駒が岳」のように書くことは、固有名詞を変えて書くことになるので好ましいことではない。国土地理院の地図も「ケ」を採用している。ただ、「个」は教育漢字にはないので義務教育の教科書では「が」が使われている。また、山名に「ケ」を使うのは誤りだという説もある。
●参考資料 川崎隆章「接続詞―ケーの誤用」(『山書研究』日本山書の会・創刊号・1963)
小俣沢(こまたざわ) <地>
雨乞岳東側の流川左岸の支流で、長さ2キロメートル、楽さ200メートルのゆるやかな流れ。天狗岩(1209m)の西にある平久保の池(いもり池)を水源としている。この池は下教来石付近の灌漑用として使われている。沢沿いに尾白雨乞林道が池まで通じており、北の塩沢川に抜けられる。
●地図 小淵沢
駒津沢(こまつざわ) <地>
戸台川本谷・第二の滝上に 左岸より高さ40メートルの滝となって合流している。
落差800メートル、平均傾斜は40度を超える。中流で二俣となり、右俣は滝もない平凡な沢で双児山北面に突き上げているが、左俣は源流まで滝が連続している。この沢には甲斐駒ケ岳特有の花崗岩のスラブななく、全渓が四万十帯・白亜紀のスレート(注)の構成である。左俣は駒津峰の肩に達しており、源流はハイマツの海である。出合いの滝は駒ヶ岳・鋸岳の稜線上から見える立派なものである。
●注 泥岩が変形運動を受けて薄くはげやすくなった岩石。
●記録 *右俣=1960年6月12〜13日 長田昭一、中村又吉(『白稜』158号)
*左俣=1960年7月16〜17日 山田 繁、滝沢 肇(『白稜』158号)
1964年12月31日〜1月2日 松居一彰、新藤 研(『白稜』193号)
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
駒津峰(こまつみね) <地>
本峰の西南1キロメートル、仙丈岳への分岐点にある標高2752メートルのピーク。
赤石山脈と甲斐駒山脈との接合点であり、西には双児山を経て北沢峠、南に仙水峠がある。登山者としてはじめて頂に立ったのは山辺好一であろう。明治43年(1910)9月30日に北沢より駒ケ岳に登頂しているので、このピークに立ったはずである。(同行・小椋亀十。上條
武志著『孤高の道しるべ』による)。明治44年(1911)7月には、日向山から駒ケ岳を越えた辻本満丸と星
忠芳が20日にここを越えて仙水峠に下っている。その紀行である「甲斐駒山脈縦断記」(『山岳』第7年第1号)の付記中に、人夫、入戸野作蔵(台ケ原)からの通信として「父上に聞き候所(中略)次に駒岳山より仙水峠に下るをねは駒津峰という」とあり、はじめてその山名を明らかにしている。また、明治45年(1912)、駒ヶ岳か
ら双児山を経由して仙丈岳に登った大槻禎郎は、人夫の言として駒津岳という名を確認している(「甲斐駒ケ岳及仙丈ケ岳登山記」『山岳』第7年第3号)。山梨山林会編著『南アルプスと奥秩父』(改造社・1931)中に、「小松峯(矮小な偃松が山頂一面を覆うている処から、この名が生まれた)」と山名について説明されている。現在の小松説はほとんどこの文献を元にしたものだが、ハイマツは『甲斐国志』の昔からハイマツであり、方言で「いざりまつ」という言い方はあるが、背が低いからといって小松とは呼ばない。その出所を知りたいものである。筆者は「駒つ峰」ではないかと思っている。すなわち「駒に付属した小ピーク」という意味で、この名称が甲斐側から興っていることを根拠としている。『日本案内記』(鉄道省発行・1931)よると横津峯とあり、その出処は明らかではないが、筆者の説を暗示しているように思える。また、「駒つき峯」から転化したという説もある。なお、この山の標高は、1991年8月の国土地理院発表によれば、従来より12メートル高くなっている。(→標高の変更)
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
駒薙の頭(こまなぎのあたま) <地>
大岩山の東隣りにある標高2230メートルのピーク名。駒薙とは、このピーク南面にあるガレ場をいう。大岩山との間の鞍部は幕営地としえ古くから使用されている。北の喜平谷源流に下れば水場があるが、かなり遠い。
●地図 甲斐駒ケ岳
駒の松(こまのまつ) <植物>
横手集落の入口にあるアカマツの独立樹で、山梨県の天然記念物に指定されている。根回り5.65メートル、樹高11メートル、東西、南北とも20メートル近く張り出し、樹形の美しさは県下でも屈指のものだという。この地はもと馬伏せを行なった所で、駒ヶ岳、駒城、また聖徳太子に駒を献上したという伝説などを総合して、駒の字をとって命名したといわれている。
小屋石(こやいし) <地>
釜無川上流右岸、黒川出合いよりやや下流にある岩小屋。前小沢出合いの対岸にある。数名収容でき、古くから山仕事の基地として利用されていた。里に近く林道が発達したため、地元、登山者とも現在はあまり利用していない。
●地図 甲斐駒ケ岳
笹の沢(ささのさわ) <地>
濁川(神宮川)左岸最大の支流。濁川という名称が、この沢の源頭にある濁山から興っていることを考えれば、むしろ本流といえるのかもしれない。それだけの規模と流域を持っている沢である。水平距離3キロメートル、落差750メートル。源流近くで黒津沢(前沢)、アレ沢を分け、つめは鬼の窓と呼ばれる鞍部に達する。滝の数は多いが、まとまった滝場はない。概して中流より下流に集中している。樹林に覆われた深い荒れた谷で、源流の各所に「薙」と呼ばれるガレ場が点在している。なかでもアレ沢の源頭にある水晶薙は有名で、この辺りが昔は濁山と呼ばれていた。「ささ」とは水の勢いよく流れる様をいう。雨乞岳の北面にも同名の小沢があるが、これは小沢という意味であろう。ササとは小さいという意味もある。また、大武川・篠沢も昔はササ沢と呼ばれていたようである。
●記録 *1942年8月10〜12日 下村義臣、西川文男、高嶋一芳(山岳巡礼倶楽部―『ガムス創立25年記念号』1960)
*1964年12月28日 田中 進、高間幸一(『白稜』193号)
*1980年2月26日 日出孝昭、山本和幸(東京学芸大登高会―『山と渓谷』1980-6記録欄)
●地図 長坂上条
笹の平(ささのたいら) <地>
甲斐駒ケ岳にはいくつかの笹の平と呼ばれる笹の生えた平地があるが、一般登山道にあるのは、黒戸尾根1500メートル圏内にあるものだけで、普通、笹の平といえばここを指している。この笹の平の下で、竹宇口と横手口からの登山道は出会って一本となる。この二つの登山道は、二万五千分の一地図上に示されているものとは、かなりちがった場所を通っているので注意を要する。笹の平周辺には二ケ所の水場があり、黒戸尾根の急登はここからはじまっている。1946年前後にこの一帯の笹は完全に枯れた。笹は極端に密生すると、共倒れになるのを防ぐため花をつけ結実して、いっせいに枯れるという。種族を保つために数十年に一度このようなことがあるという。筆者ははじめての駒ケ岳登山で山が枯れているとも見える奇観に遭遇した。笹の花をはじめて見たのは他の山で、2000年6月、南会津の枯木山で、頂上近くの笹藪に穂が付き、花がこぼれていた。近々、枯木山ならぬ枯笹山になるだろう。
●地図 長坂上条
サデの大岩(さでのおおいわ) <地>
摩利支天南山稜下部東面にあり、摩利支天前沢に面して、高さ幅とも400メートル近くの岩壁を作っている。単一の壁としては甲斐駒ケ岳最大の規模であり、傾斜は垂直に近い。岩壁には何本かのバンドが走り、各所にオーバーハング帯があって登攀を困難なものにしている。1959年、岡本竜行ら(独標登高会)によって右端にルートがひらかれて以来、次々に左側の急峻な部分が登られ、現在十本近い直上ルートが作られている。岩壁の上端が摩利支天の他のルートの取付きより下にあるため、最近では継続登攀の下部ルートとして登られていることが多い。遠望するとブッシュや草付きが多く、これらに助けられる登攀も多い反面、不安定な草付きが登路を困難なものにしている。岩壁の下部にあるバンドに岩小屋があり、登攀の基地として利用されている。また岩壁の下、摩利支天前沢に面して、古くから知られている大岩下の岩小屋がある。サデとは桟手と書き、木材を滑らせ運ぶための装置名をいう。山梨県独特の呼び名である。大武川が古い時代に伐採されていたときの名残であろう。『山岳』第七年第一号に「尚ずっと下るとサデの大岩と云って大武川の本谷と地獄谷の下にある赤河原との間に、百二十尋の綱を用いても中途までしか下れない程の岩があるとかの由である」(「信州の甲駿境の一部」梅沢親光、山川
黙)とあり、はじめてこの大岩が紹介されている。
●記録 *独標ルート=1959年7月26〜27日 岡本竜行、鈴木喜治、吉田和弘(『独標』
75号)
*YCC右ルート=1963年9月27〜28日 斎藤勝美、山崎喜一(ヤングクライマースクラブー『YCC』37号) 1964年12月30日〜1月1日 辻
安一、滝沢 肇、本田守旦(『白稜』193号、『岳人』216号)
*YCC左ルート=1966年8月8日 日沼輝夫、樋口勝美(『山と渓谷』365号)
*左フェースルート=1967年8月28日 黒澤勝登志、平尾芳樹 1969年12月31日〜1月1日 戸田直樹、斎藤(俊)、岡本(グロープ・ド・コルデー『山と渓谷』1970-12)
*赤蜘蛛ルート=1973年10月12日 木下五郎、堀尾章四郎、間山 光(『岳人』328号)
*右フェースルート=1974年8月2〜3日 佐藤忠司a、蓑浦登美雄a、直井利明a、水野邦雄b、志田秀雄b(a登攀社、b銀座山の会―『山と仲間』69号)
*名古屋山の会ルート=1977年11月6日 日下部良夫、貝城静司
*泉州山岳会ルート=1979年5月3日 谷口利男、永井文雄(『岩と雪』71号
以下略
●注 記録中、派生ルート、冬期登攀等、一部記載していないものもある。
●地図 仙丈ケ岳
三角岩の沢(さんかくいわのさわ) <地>
黄蓮谷右俣・奥千丈の滝の中段に左岸から落ちている細流で、落差300メートル。坊主中尾根にある三角状の岩峰付近に突き上げているので、このように呼ばれるようになった。とおりたてて問題にするような沢ではないが、右俣ともいうべき草付バンド状の部分は、南坊主岩頂上からの下降路として初期から利用されている。黄蓮谷側へのもっとも容易な下降路であるが、最近、岩が崩れて通りにくくなっているという。
●記録 *1950年8月15日 原田敏明、鹿島達郎、恩田善雄―下降(『白稜』34号)
●地図 甲斐駒ケ岳
『山岳』誌上の甲斐駒ケ岳文献
(さんがくしじょうのかいこまがたけぶんけん) <文>
日本山岳会機関紙『山岳』は明治39年(1906)に創刊され、初期には平均して年間三冊が発行された。古い記録を調べるには、これに頼ることが多く、甲斐駒ケ岳周辺に関する記事もかなりの数にのぼっている。内容は明治後期の白崩岳論争にはじまり、日向山・烏帽子岳を経て鳳凰山への縦走、鋸岳へのパイオニヤワークを主とし、1929年の大武川遡行を最後としている。また、地理解明に関する小文も多く、赤石山系北部の複雑な地形に苦労したあとがしのばれる。
[記事目録]
○第2年第1号 明治40年3月(1907)発行
<雑録> 東駒ケ岳と白崩岳とは同物か将又異物か(NT)
○第2年第2号 明治40年6月(1907)発行
<雑録> 白崩岳駒ケ岳異同辨(烏水)
○第2年第3号 明治40年11月(1907)発行
<本欄> 甲斐山岳の形態美(小島烏水) 白崩岳に向ふの記(鳥山悌成、梅沢親光)
<雑録> 北面より遠望したる赤石山系(城 碧) 白崩山に就いて(梅沢親光)
○第3年第1号 明治41年3月(1908)発行
<本欄> 白崩山を登り駒ケ岳を降る(鳥山悌成、梅沢親光)
<雑録> 甲州駒ケ岳に篭れる行者の迷信(XYZ)
○第3年第3号 明治41年10月(1908)発行
<雑録> 金峰山御室及駒ケ岳屏風小屋の焼失(辻本)
○第4年第3号 明治42年11月(1909)発行
<写真> 前岳より望める甲州駒ケ岳及鋸岳(河田 黙)
<雑録> 甲斐駒ケ岳の小屋(さんゆう)
○第5年第1号 明治43年3月(1910)発行
<スケッチ> 屏風小屋(榎谷徹蔵)
<雑録> 間の岳より北(河田 黙、梅沢親光)
○第5年第2号 明治43年7月(1910)発行
<スケッチ> 甲斐駒ケ岳(榎谷徹蔵)
<写真> 日野春より見たる冬の駒ケ岳(辻本満丸)
<本欄> 甲州駒ケ岳(榎谷徹蔵)
○第6年第3号 明治44年11月(1911)発行
<写真> 鋸岳絶頂―第二最高点より(星 忠芳) 烏帽子岳より鋸岳を望む(辻本満丸)
<本欄> 鞍掛山、烏帽子岳、鋸岳を経て駒ケ岳に登る記(星 忠芳)
○第7年第1号 明治45年5月(1912)発行
<写真> 朝輿岳より見たる駒ケ岳(辻本満丸) 北沢の頂巓と甲州駒ケ岳(浜名泰次郎)
<本欄> 甲斐駒ケ岳山脈縦断記(辻本満丸)
<雑録> 信州の甲駿境の一部(梅沢親光、山川 黙) 甲斐駒山脈の鞍掛、烏帽子、鋸及其他二、三の峰に就て(辻本) 甲斐駒の新登路(辻本)
○第7年第2号 明治45年7月(1912)発行
<雑録> 「白峰三山に就いて」の異議を読む(高頭 式)
○第7年第3号 大正元年12月(1912)発行
<地図> 白峰山脈憶測図 石版四度刷(高頭 式)
<本欄> 甲斐駒ケ岳及仙丈岳登山記(大槻禎郎)
○第8年第1号 大正2年4月(1913)発行
<本欄> 鋸岳の最高峰(小島烏水)
<雑録> 鋸岳と釜無山脈(烏水生)
○第8年第2号 大正2年8月(1913)発行
<雑録> 鋸岳白崩岳及び其他二三ケ條(小島) 鋸岳付近の甲信境(梅沢親光,山川
黙)
○第8年第3号 大正2年12月(1913)発行
<雑録> 甲斐駒付近に就いて(辻本)
○第9年第1号 大正3年6月(1914)発行
<写真> 甲州烏帽子岳の頂上より南を望む(辻本満丸)
<本欄> 鋸岳縦走記(鵜殿正雄)
<雑録> 鋸岳に就きて(鵜殿)
○第10年第1号 大正4年9月(1915)発行
<雑録> 甲斐駒山脈に就て(大槻禎郎)
○第13年第1号 大正7年12月(1918)発行
<会員通信> 地蔵仏―甲斐駒(青木軍次郎) 白根三山―蝙蝠岳―仙丈岳より縦走(木暮理太郎,武田久吉)
○第13年第2号 大正8年4月(1919)発行
<雑録> 甲斐柳沢(武田久吉)
○第13年第3号 大正8年4月(1919)発行
<本欄> 駒ケ岳仙丈岳及鳳凰山塊(柳 直次郎)
<雑録> 白崩山の古道に就て(梅沢親光) 甲斐柳沢近況
○第14年第1号 大正9年2月(1920)発行
<雑録> 駒ケ岳登山強力組合 甲斐柳沢の旅舎と人夫
○第15年第1号 大正9年8月(1920)発行
<本欄> 大武川より三峰川まで(柳 直次郎)
○第16年第2号 大正10年12月(1921)発行
<雑録> 甲斐駒ケ岳の新登路(HT)
○第24年第3号 昭和4年12月(1929)発行
<本欄> 早春大武川を遡る記(黒田正夫)
●参考資料 『山岳』総目録(日本山書の会・1970)
三角点ピーク(さんかくてんぴーく) <地>
鋸岳主稜線最北のピークで鋸岳でただ一つの三角点のあるピークである。標高2607メートル。北に編笠山、西に横岳峠がある。西の肩より戸台川に伸びている尾根は第一尾根と呼ばれている。釜無川本流は、このピークの西斜面を水源としている。とくに定まった名称はなく、登山者としてはじめて横岳峠より登った小島烏水も、『日本アルプス』第四巻に「三角測量のある山」と書いている(『山岳』第8年第1号の報告では編笠山とある)。
明治37年(1904)4月25日、岸田 稔が、黒河内新田の右の谷からこのピークを往復したとされているが、これも同じコースを辿ったものと思われる。
●地図 甲斐駒ケ岳
三大岩壁(さんだいがんぺき) <事>
かつて、甲斐駒ケ岳を代表する岩場は摩利支天峰だったが、1950年代後半から赤石沢奥壁や坊主岩が開拓され、これら三つを三大岩壁と呼んで、代表的な岩場として知られるようになった。その後、赤石沢側壁群が急激に開拓され、赤石沢はその周辺の岩壁を含めて、この山を代表する岩場となった。現在、三大岩壁といえば一般に、サデの大岩までを含んだ摩利支点周辺の岩場、坊主岩周辺、赤石沢全域を指している。
三宝の頭(さんぽうのあたま) <地>
黒戸尾根の刃渡りの下、1900メートル圏にある小ピーク名。付近は深い樹林帯だが、北側は木が払われて八ヶ岳方面がよく見える。ピークには三宝荒神の小祠がある(注)。
この山には聖徳太子が白い馬に乗って山頂に登ったという伝説がある。太子が制定したといわれる十七条憲法に「篤く三宝を敬へ、三宝とは仏・法・僧なり」という項があり、命名と関係があるのかもしれない。
●注 三宝荒神とは仏・法・僧を守護する神、かまどの神でもある。
●地図 長坂上条
山名の起源(さんめいのきげん) <事>
甲斐駒ケ岳とは甲斐にある駒ケ岳という意味で、信州側では別名で呼ばれていた。甲斐とは峡(かい)で、山と山との間を指す。古代の律令制で、甲斐は四郡に分かれ、その一つが巨摩郡(こま)である。これはまた巨麻郡とも書かれた。巨麻とは浅簡風土記によれば「按ズルニ巨麻ハは駒ナリ、コノ地駒馬ヲ多ク産ス
ヨッテ郡名ト為ス」とあり、日本書紀にも「甲斐黒駒」の故事があげられ、この地が古くから馬と関係があったことが記されている。また甲斐国志によれば、駒ヶ岳の項に「山頂巌窟ノ中ニ駒形権現ヲ安置セル処アリ」とあり、馬への信仰のあったことがうかがわれる。また「甲斐黒駒ノ名由リテ来ル事久シ地名
ノ起ル所以是ナリ」「御牧ノ駒ニ由リテ郷名ヲ得郡名ニ及フト云ヲ当レリトスヘシ」とある。他面、元正紀では甲斐に高麗(高句麗)からの渡来人がいたことがあり、これらを一ケ所に集めたと記されている。また、高陽随筆には「高麗人ノ居ル処故ニ高麗居ト云郡名ノ起ル是也」とある。甲斐国志ではこれを「憶説ニシテ明拠ナシ」と否定しているが、近年、山梨大学の関
晃は、上代仮名づかいの研究成果にもとずき、駒から巨摩への成立しがたいことを
明らかにし、高麗から来たものであることを論証している。この地が古代朝鮮と深い関係があったことは、疑いのない事実で、多くの積石古墳、信仰、地名等がこれを実証している。今日、一般には高麗―巨摩郡説が有力で、駒―巨摩郡説は下火となっている。駒ケ岳は一般に巨摩郡から来たものであるといわれているが、巨摩ケ岳では、この山の馬に関する伝説や信仰と矛盾する。もっとも妥当な考え方は、駒から直接、駒ヶ岳と命名されたと考えることである。この山麓には御牧と呼ばれた馬の産地があり、古くから,中央政府に馬を献上していた。人々が馬を飼育するにあたり、生育の安全のために精神的なよりどころが必要であった。それが山頂に駒形権現をまつり、また多くの馬に関する伝説を生む原因となったことは容易にうかがわれる。ほかの山にそれを求めなかったただ一つの理由は、この山の形が馬に似ていたからであろう。裏見寒話にも「駒ケ岳戌方聖徳太子金蹄馬ニ召サレ此ノ絶頂ニ降リ玉フ、ソノ跡山ノ形駒ニ似タリ」とある。一方、この山麓に馬の飼育技術者として住みついた高麗からの渡来人たちが、その祖神を付近の高い山にまつったことが命名の一つの理由であるとも考えられる。彼らの中には山頂は神の降る場所という根強い信仰がある。もともと駒(コマ)は古代朝鮮語からきたもので、それが高麗(コマ)と同じ読み方であることが、解明をいちじるしく複雑なものにしている。
●参考資料 [T]田端真一「駒ケ岳の山名について」(『甲斐路』10号)
[U]恩田善雄「甲斐駒ケ岳山名考」(『白稜』258号1998)
塩沢温泉(しおざわおんせん) <地>
釜無川の支流・塩沢川の出合い付近にある温泉で、二軒の旅館と白州町福祉会館がある。塩化ナトリューム・硫塩石灰含有、26度。胃腸病によいという。「しよざの湯」と呼ばれて近在の人たちに古くから親しまれてきた。『甲斐国志』にも「大武川七奇」の一つとして「塩沢湯、福泉―水色常ニ白シ」と紹介されている。中央本線・信濃境駅西方2キロメートルにある。
●地図 小淵沢
塩沢川(しおざわがわ) <地>
釜無川右岸に流入する最北の支流で、雨乞岳北山稜の東側にほぼ南北に流れている。水平距離5キロメートル、落差約1000メートル。流れに沿って林道が奥まで入っており、源頭は雨乞岳北東の笹の平(1850m圏)である。河原と砂防ダムが続く平凡な流れで、出合い付近に塩沢温泉がある。地元では「しよざ」とよんでいるのに、地図上では塩沢川である。近くにも松山沢川や黒沢川がある。このように沢と川が合体したのは何故だろうか。『甲斐国志』を見るとほとんど全域にわたって○○沢川がある。甲斐から出ればこのような呼び方は稀である。『国志』以前に書かれた『甲斐源委』(文化2年)、『甲斐国三郡川筋帳』(元文年間)中にも多くの川(河)が見られるが、沢もかなり多い。したがってこれは『国志』編纂に当たって名称の統一が行なわれ、それが現代に引き継がれた可能性がある。沢と谷の使い方はほぼ中央高地によって分断され、西が谷で、東が沢であり、多くの研究が発表されている。沢と川の違いは、常識的には上、下流である。甲斐の場合には集落にまで達している沢は川を付けて名称を統一したものらしい。『国志』という総合的な地誌を作るにあたって各地の名称がばらばらでは具合がわるいので統一されたと思われる。
●地図 信濃富士見、長坂上条,甲斐駒ケ岳
鹿の窓(しかのまど) <地>
鋸岳頂稜を突き抜けている岩穴で、風穴とも呼ばれている。また、古くは熊穴ともいったらしい。(→風穴)
●地図 甲斐駒ケ岳
獅子岩(ししいわ) <地>
尾白川本谷と黄蓮谷との合流点よりやや下流左岸にある。オーバーハングした岩が、上流側から見ると獅子の頭に似ている。戦前、烏帽子中尾根を下って、この上に出てしまい本流に下れなくなるという遭難事件があった(屏風小屋・故中山国重氏談)。対岸の小沢は黒戸北沢である。戸台川や大武川にも同名のものがあるが、あまり一般的ではない。
●地図 長坂上条
四丈の滝(しじょうのたき) <地>
大武川・篠沢の中流、流れが南西から北西に大きく曲がるあたりにある。落差約50メートル。左右は大岩壁となっており、水量も多く見事な滝である。1939年4月末、初めて篠沢の遡行に成功した山岳巡礼パーテイによって命名された。甲斐駒ケ岳をめぐる名瀑の一つであり、最近、ここまで見物のため往復する人が多くなった。地元では篠沢大滝と呼んでいる。1971年1月、厳冬期の遡行に成功した犬木精一ら(日本クライマースクラブ)はこの滝を直登している。
●参考資料 『JCCレポーート』No.13
●地図 長坂上条
七合目小屋(しちごうめこや) <建>
黒戸尾根七合目にある山小屋。大正5年(1916)まず七丈小屋が建設された。展望のよい小屋として有名であった。元来は五合目小屋の補助的な存在だったが、山麓の交通事情が良くなるとともに、入山一日目にここまで足をのばす登山者が多くなり、マナスル登頂後の登山ブームで一時期は四軒にまで膨張した。しかし、現在は縮小してモダンな小屋に建て替えられている。白州町管理。100名収容。近くに秋田フキの群落がある。
●地図 甲斐駒ケ岳
七丈の滝(しちじょうのたき) <地>
東面と西面に同名の滝がある。東面のものは大武川・篠沢の源流にあり、数段になり高
さ約120メートル。五合目からよく見える滝である。水量は少なく見栄えしないが、冬期はそれが幸いして見事な氷壁となる。甲斐駒ケ岳で氷結した滝の登攀だけを目的として登山者が集まった最初の場所である。名称は七合目(七丈)にある滝という意味で、大きさを表したものではない。
●記録 *1963年1月12〜13日 小森康行,服部清次、東 久男(日本クライマースクラブー『JCCレポート』No.8、『山と渓谷』1963-4)
*1972年1月3日 須田義信ほか(RCCU―『岳人』307号記録速報)
●地図 甲斐駒ケ岳
七丈の滝(しちじょうのたき) <地>
戸台川本谷右岸の七丈の滝沢にあるもので沢名となっている。滝は出合いからも見えるもので、垂直に落下する高さ100メートル以上の見事なものである。六合目石室への登山道の途中から、その全容を見下ろすことができる。垂直に落ちる滝では甲斐駒ケ岳最高のものだが、惜しいことに水量が少ない。古くは不動の滝とも呼ばれていたらしい。七丈という名称は場所とも高さとも思えずはっきりしないが、信仰登山で甲斐側を表の七丈と呼んだのに対し、西面を裏の七丈の滝と呼んだのかもしれない。七丈の滝沢遡行の際、左側が登られている。また、1983年12月、広川健太郎らは氷結したこの滝の正面を登攀している。
●記録 *1983年12月30日 広川健太郎、富士居孝明(春日井山岳会―『岳人』441号)
●地図 甲斐駒ケ岳
七丈の滝沢(しちじょうのたきさわ) <地>
戸台川本谷右岸の枝沢で、本谷の出合いから1キロメートル上流に落ちている。水平距離1.5キロメートル、落差1000メートル。出合い近くに落差100メートルを越える七丈の滝があり、沢名もそこからきている。この滝の上流にはまとまった滝場はなく、遡行価値もない。右岸から何本かのガリー落ちているが、上部はいずれも崩壊壁となっており、自然落石も多く登攀の対象にはならない。源流一帯は扇状に広がっているので「オーギビラ」と呼ばれているとのことである。これは今西錦司が「鋸岳各ピークの名称と信州側登路とに就いて」(『三高山岳部報告』第6号)中で、竹沢長衛の言として紹介しているが、あまり一般的とはいえない。この沢の右岸の尾根には本谷より六合目石室に至る登山道が
あり、古くから信仰登山の道として利用されていた。遡行者は少なかったが、近年、アイスクライミングのゲレンデとして、七丈の滝や上流のガリー群が登られるようになった。
●記録 *1969年9月6日 宮田建夫、久保木光信、田崎定信(『白稜』217号)
*1983年12月30日〜1月1日 広川健太郎、富士居孝明(春日井山岳会―『岳人』441号)
*七丈の滝周辺=1985年12月31日〜1月4日 富士居孝明、長谷川英世(春日井山岳会―『岩と雪』115号クロニクル、『クライミングジャーナル』No.23
クライミングレポート)
●地図 甲斐駒ケ岳
七丈ルンゼ(しちじょうるんぜ) <地>
黄蓮谷左俣中流の右岸に合流する落差300メートルほどの小沢。出合い付近は小規模の瀑流帯で、源流に奥壁ともいえる高さ100メートルほどの岩壁がある。黒戸尾根七合目のすこし上部に達している。
●記録 *1953年8月10日 鎌田 久、坂本節夫(『白稜』72号)
●地図 甲斐駒ケ岳
七里ケ岩(しちりがいわ) <地>
釜無川左岸の国界橋から韮崎までの間は、八ヶ岳の泥流堆積物が舌状に伸びて急崖を作っており、流れに面して高さ50メートルから100メートルの岩壁を連ねている。距離は文字通り七里近くもあり、見事な景観を作っている。この台地は岩石、砂、泥土などが完全に混合した堆積物より成り、約十万年以前に、八ヶ岳の一部に山崩れが起こり、それが堆積、侵触されて現在のようになったという。地質学上では韮崎泥流と呼ばれている。露頭面にある大小さまざまな洞穴は一種の風化作用によってできたものといわれている。穴山橋近くの高岩、五月雨岩などは150メートル近い高度をもっており、露出面は見事で山梨県の自然保護区に指定されている。最南端には窟観音と呼ばれる巨大な洞穴があり、近くに高さ40メートル、コンクリート製の平和観音があって、韮崎市民の憩いの場所として親しまれている。中央本線はこの台地の上を通過しているので、車中からは七里ケ岩は見えない。ただ釜無川が深く沈んでいるので、この台地から見た甲斐駒ケ岳はどこから見たより巨大である。作家・宇野浩二は小説「山恋ひ」中で、「山の団十郎」と最高の賛辞を
与え、旅行作家・岡田喜秋は「中央線交響曲のクライマックス」と表現している。また、『甲斐国志』巻四十七には「七里岩ノ高キコト百余丈峻 トシテ列鋒ノ如ク臨眺スレバ足慄ク」
と紹介されている。台地には、深沢温泉、穴山温泉、新府城跡、坂井遺蹟などがある。
●参考資料 [T]西宮克彦編著『山梨の自然をめぐって』(築地書館1984)
[U]田中 収著『山梨・地質ガイド』(コロナ社・1988)
●地図 小淵沢、長坂上条,若神戸、韮崎
篠沢(しのざわ) <地>
黒戸尾根八合目台地に源を発し、東に流下して水平距離7キロメートル、落差2000メートルで大武川に合流する。左岸最大の支流で出合い近くに汁垂沢、桑木沢の二支流がある。全渓が深い樹林に覆われ、下流は屈曲が激しく,中流に大岩壁に囲まれた落差50メートルの四丈の滝がある。滝は無数といってよいほどあるが、長い沢なので、ゴーロ状の部分も多く、まとまった滝場はない。源流地帯は風化が進み倒木の散乱した荒れた谷で、最後は落差120メートルの七丈の滝となって八合目台地に突き上げている。1939年荒川万之助ら(山岳巡礼倶楽部)によって残雪期の遡行が成され、はじめてその全貌が明らかにされた。一行は脆い岩壁と雪壁に苦闘し、沢中二泊の後、ようやく八合目に抜け出している。その悪さについて、1951年11月に遡行した保坂
一(甲府昭和山岳会)は「篠沢と書くと何となく平凡な流れのように聞こえるが、死ノ沢と書いたら、この渓の風貌がうかがえるだろう」(『岳人』51号)と述べている。しかし、この沢の完全遡行は、むしろ忍耐と体力を必要とするもので、七丈の滝を除けば技術的に問題になるような所はない。無雪期にはこの七丈の滝を捲いて七合目小屋付近に出るパーテイが多い。結氷期には、この滝だけを目指して入谷するパーテイが急増している。
●記録 *1939年4月29日〜5月1日 荒川万之助、牧野錦具(山岳巡礼倶楽部―『ガムス創立25年記念号』1960,『岳人』28号、『現代登山全集』5・東京創元社・1961)
*1949年10月14〜15日 三石、田沢(東京辿路山岳会―『季報』6号、『創立
50周年記念誌・われらの軌跡』1985)
*1971年1月15〜18日 犬木精一、桜井正己、三宅古己、小見山哲雄(日本クライマースクラブ・RCCU―『JCCレポート』No.13)
●地図 長坂上条、鳳凰山
篠沢の読み方について(しのざわのよみかたについて) <事>
篠沢は古くから「しのざわ」と呼ばれていたのだろうか。登山者はもちろんのこと、地元でもこの呼び方に疑問を抱くものはいない。しかし、「しのざわ」ではその命名の根拠がつかみにくい。大武川上流地帯の支流の名称はほとんどが地勢に基づいているし、地名論では「植物の名をつけたものには当て字が多いので注意が必要」というのが常識となっている。甲斐では「篠」を「ささ」と読むことが案外多い。ここは「ささざわ」、つまり急流という意味(濁川の笹沢のように)ではないだろうか。この沢は『甲斐国志』にも紹介されているが、読み方はわからない。最近、復刻された『国志』の解説もやはり「しのざわ」となっている。一般に人の住む所では、地名は特別のことがないかぎり、短期間に変化することはない。しかし、ここは猟師か、きのこ採り以外には用のない所である。その沢名が国志編纂にあたって収録されて篠沢と書かれ、後年、「しのざわ」と読まれるようになったのではないか。『山岳』第四年第三号に野尻正英(抱影)の「白峰山北ケ岳へ登る記」があり、その付図に注目すべき記入がある。芦安村清水方所蔵の「百五拾年前の古地図に表れし鳳凰山付近図」(後図参照)の転写したものに、早川峠の記入などとともに、大武川流域に「くつ、ささ沢」と書かれている。思うに「くつ」は「くわ」の原形で桑木沢を表し、「ささ沢」は篠沢のことではないだろうか。また、『長坂上条』図幅の右上に、「下笹尾」、『小淵沢』図幅中央下に「上笹尾」という集落がある。現在は小淵沢町に編入されているが、昔は笹尾村(ササヲ)であり、篠尾村とも書かれた。慶長6年(1601)の検地水帳に篠尾卿とも書かれ、『国志』にも篠尾塁跡などの記述が見られる。「ささ」を笹と書かずに篠と当て字したのは、難しい漢字を使うという一種の優越感からであり、また権威付けのためであったと思われる。これは笹子を篠籠と書いたことなどからもうかがえる。明治8年、この二つの集落が合併して篠尾村となり、小淵沢町が誕生するまで続いた。しかし、小淵沢公民館長・清水則雄氏からの私信に」よれば、読み方は「しのおむら」であった。ここでも篠沢と同じ様な変化が起こっていたのである。ごく近くで二つの同じ様な変化が起こったのには何か特別の理由がありそうである。これについては私見をもっているが、まだ発表の段階ではないので、問題を提起するに止めた。
●参考資料 [T]『小淵沢町誌』(小淵沢町教育委員会)
[U]『小淵沢町の文化財』(同・1984)
清水谷(しみずだに) <地>
釜無川・黒川支流の小さな流れで、出合いから約1.5キロメートルほど遡った左岸に、
長さ20メートルぐらいの滑滝となって合流している。源流は大平高原に消えており、谷というにはあまりにも小さく浅い。地図上に、こんな流れの名称が記入されているのは不思議に思われるが,これは黒川にかなりの人が入り込んでいた証拠といえよう。水平距離1キロメートル、落差400メートル。この周辺は典型的な照葉樹林として、白州町の保護区に指定されている。
●地図 甲斐駒ケ岳
錫杖ケ岳(しゃくじょうがたけ) <地>
慶應義塾大学山岳部部報『登高行』第七年の冬期甲斐駒ケ岳初登頂(大正15年1月)の記録中に、錫杖ケ岳という記述があるが、文中からこれは現在の駒津峰を指していることがわかる.昭和初期の文章や登山用の地形図にも同様の記入があるが、そこでは双児山を指している。しかし、いずれにしろ現在ではまったく使用されていない。この名称は古い『山岳』を参照したものと思われる。すなわち『山岳』第七年第一号の「甲斐駒山脈縦断記」(辻本満丸)の付記に、台ケ原の作蔵からの通信として「父上に聞き候所(中略)次に駒岳山より仙水峠に至るをねは駒津峰と云う、其北峰をシャクジョケタケと云う」とあり、また第八年第三号「甲斐駒付近に就て」(辻本)中で、シャクジョケタケの位置について「これは多分南北をあやまったものかもしれぬ」といっているからである。また第七巻第三号「甲斐駒ケ岳及仙丈岳登山記」(大槻禎郎)中で、同じ作蔵の言として双児山に当たるピークを錫杖岳としている。これらの文によって以後、双児山が錫杖ケ岳と呼ばれるようになったと思われるが、筆者はこの命名について疑問を持っている。第一に作蔵は最初父の言といい、二度目には自分で錫杖岳と呼んでいるが、当時、台ケ原の案内人は駒ヶ岳の西側ではせいぜい駒津峰までが行動範囲であり、しかも作蔵は荷物担ぎで、この付近についての経験はなかった。他人に言によって適当に名付けたのではないかという疑問がある。第二に辻本は簡単に南北を誤ったと言っているが、双児山は駒津峰の南にはない。当時、戸台側から錫杖岳と呼んだ記述はなく、これはあくまでも甲斐側からの命名なのである。しかも、駒津峰から見たこの山はピークといえるほど顕著なものではなく、錫杖と言うにはあまりにも平凡すぎ、また頂上にそのようなものがあったという話もない。駒津峰を錫杖岳としても同じことがいえる。「其北峰を…云う」とあるが、講中では鋸岳を錫杖ケ岳と呼ぶこともあるので、北にあたる第一高点とも考えられるが、文章からでは駒津峰に付属したピークと考えるほうが自然である。以上の考えでこれら三つのピークを除外すれば「其北峰」とは六方石以外にはない。岳という言葉に問題はあるが、この岩場は錫杖と呼ぶにふさわしいピナクルを持っており、何よりも台ケ原の人たちの行動範囲内にあったわけである。錫杖
ケ岳という名称がこれらのピークにとってふさわしくないことは、昭和10年代には、まったく使用されていないことからもうかがえる。以上の推理はあくまでも「シャクジョガタケ」イコール錫杖岳としての話である。
●参考資料 恩田善雄「錫杖岳幻想」(『白稜』253号)
写山要訣(しゃざんようけつ) <書>
明治36年(1903)6月、東洋堂より出版。和綴、A5版、78ページ。著者は高島北海(本名、得三)。はやくから山林植物調査のため、北は北海道から南は屋久島まで足を残したが、そのおり写生した図をもとに、先に出版した『欧州山水奇勝』などの資料を加えて、175図の線図と着色地質図三葉に地質学的考察を加え本書をあらわした。乗鞍岳、御岳、槍ヶ岳、鳳凰山、白山、立山など日本アルプスに属する山の写生図がある。これらがいずれも山麓か、それに近い所からのスケッチであるのに対し、甲斐駒ケ岳は黒戸尾根九合目烏帽子岩付近から見た本峰を描いており、赤石沢奥壁中央稜の頭が前景となっている。駒ケ岳山中ではじめてのスケッチであるとともに、登山の実証記録としても貴重なものである(後図参照)。出版以前、この山の登山記は、明治14年(1881)の高橋白山、明治29年(1896)の木暮理太郎によるものぐらいしかない。ちなみに出版の年の夏には、ウェストン、小島烏水、武田久吉らがそれぞれ別に黒戸尾根から登頂している。なお書中、鳳凰山のスケッチは黒戸尾根刃渡りの下付近からのものである(後図参照)。中国画壇史上の最高峰といわれた黄公望(元末期・14世紀)が『写山水訣』を著しているが、表題はこれにちなんだものであろう。
集中登山(しゅうちゅうとざん) <事>
甲斐駒ケ岳における初めての集中登山が、いつ、いかなるグプープによって行なわれたか不明である。それは一般にいわれている集中登山の定義が明確ではないからである。単に頂上でいくつかのパーテイが出会うという程度のものであれば、1938年7月の山小屋クラブによるものが、比較的古いものといえよう。しかし、『RCC報告』第四号に藤木九三が述べているような「クレッテライを主にしたものに限定すべきである」という新しい思想を採りいれれば、すくなくとも戦前の記録は見当たらない。初めて縦走、谷、岩のコースを採り入れ、全面からの集中登山が計画されたのは、1949年10月のことで、東京辿路山岳会によるものであった。予定は、13コース、40名の参加であったが、悪天
候で順延したため、7コース、15名に減少した。しかも、ほとんどのコースが未知であっためトラブルが続出し、2パーテイは目的のコースに入れず,1パーテイが予定外のビバークを強いられるという結果に終わった.バリエーションルートとしては、篠沢,黄蓮谷右俣を遡行するに止まったが、この時期、このような大計画が立案されたのは、甲斐駒ケ岳登山史上特筆すべきことである。全面からの集中に初めて成功したのは、筆者の所属するグループの創立十周年記念登山で、1955年9月末のことである。コースは、黒戸尾根、仙丈岳―双児山より、鳳凰山―早川尾根より、鋸岳より、釜無川・中ノ川、尾白川本谷、鞍掛沢、黄蓮谷右俣、同左俣、戸台川本谷、赤石沢、摩利支天南山稜、大武川本谷の13コース、参加者54名。この中には赤石沢S状ルンゼの初登があった。厳冬期の集中登山は、それから4年後の1959年12月末より正月にかけて、やはり13コース、参加者53名によって行なわれた。コースは、黒戸尾根、北沢より、鳳凰山―早川尾根より、鋸岳より、尾白川本谷、黄蓮谷右俣、同左俣、坊主岩東壁―坊主中尾根より、赤石沢、水晶沢右俣、同左俣、摩利支天南山稜、同西山稜であった。厳冬期初登4ルート、第二登3ルート。以後単一グループによるこのような大規模な集中登山は行なわれていない.
●参考資料 [T]『辿路山岳会創立50周年記念・われらの軌跡』(1960)
[U]『白稜』100号、102号
城ケ沢(じょうがさわ) <地>
戸台川本谷に入ってすぐに左から合流する小沢で、嫦娥岳北方に突き上げている。通常、流水はわずかである。水平距離500メートル、落差500メートル。出合いは平凡なガラ沢である。嫦娥岳へのルートの一つと考えられるが、ここをつめて頂上に立った記録は発表されていない。無雪期の遡行価値は認められないが、冬期は氷が発達するらしい。 1984年1月、北村憲山彦ら(春日井山岳会)が氷を求めて途中まで登っている。第三の滝が大きく、氷結も見事で舞姫の滝と命名している。
●参考資料 [T]『岳人』441号、『岩と雪』101号クロニクル
[U]広川健太郎編『アイスクライミング』(白山書房・19971)
●地図 甲斐駒ケ岳
嫦娥岳(じょうがだけ) <地>
戸台川赤河原の右岸にあり、熊穴沢の頭より戸台川に落ちている尾根(第三尾根)の末
端にある。河原より山頂までの標高差600メートル。深い樹林に覆われている小ピークだが、南西面に高さ200メートル余の岩壁を持ち、2047メートルの三角点がある。地図製作には地元の呼び方に当て字をしたものが多いが、ずいぶんうがった字を当てたものである。娥嫦とは、中国古代の伝説にある (ゲイ)の妻の名。城ケ岳あるいは城ノ山と書かれた古い地図も見られるので、この山頂の下をめぐる岩の帯が城塞に見立てられたと思われる。地元では、この山の姿を弥勒菩薩に見立てている。測量は主稜線から尾根を下って成されたといわれているが、なぜ他の高いピークをさしおいて、こんな低い、しかも展望もよくない場所に三角点を設けたのか不明である。地元では南稜から頂上を往復しているが、南西面からは1979年3月、北川勇人らが中央稜を経由して登頂している。珍しい名称だが、姫路近くの室津港北に嫦峨山がある。
●参考資料 [T]恩田善雄「甲斐駒の山と谷に未知を求めて」(『山と渓谷』1980-8)
[U]「嫦娥岳をめぐる」(『OB白稜』11号)
●参考図 [T]鵜殿正雄の仙丈岳の図(『岳人』409号)
[U]高頭 式「白峰山脈憶測図」(『山岳』第7巻第3号)
●付記 嫦娥とは中国の古い伝説中にある月中に住むという女性の名。 の妻で、 が西王母から不死の薬をもらってきたところ、それを盗んで月中に奔ったといわれ、また、「がま」に化して月の精になったと伝えられる。唐の李商隠の常娥と題する詩には「奔月」がある。また陳舜臣の「小説・十八史略」(毎日新聞社・1978)の冒頭に平易に解説されている。
●地図 甲斐駒ケ岳
嫦娥岳南西壁(じょうがたけなんせいかべ) <地>
鋸岳第三尾根の末端は、赤河原に面して切れ落ちており、嫦娥岳南西壁を作っている。この壁は南稜(丹渓山荘正面の尾根)とロートル尾根(熊穴沢との間の尾根)間にひろがり、中央稜をはさんで左岩壁(高さ幅とも約150m)と正面壁(高さ200m)があり、正面壁には正面ルンゼが突き上げている。また、正面ルンゼ下部左岸に高さ100メートルほどの前衛壁がある。戸台川の河原からは樹林にじゃまされて全貌は見えない。仙丈岳への丹渓新道が、この壁の展望台である。鋸岳系の岩質なので、壁にはブッシュはほとんどないが、浮石が多く、一部にはぼろぼろの砂岩も見られる。開拓は比較的新しく1979年以後で、数ルートが登られている。水はまったく得られないので、ベースは戸台川の河原か丹渓山荘となる。
●参考資料 [T]北川勇人「嫦娥岳の岩場」(『白稜』248号)
[U]『日本登山大系』第9巻・白水社・1982
●地図 甲斐駒ケ岳
小ギャップ(しょうぎゃっぷ) <地>
鋸岳第一高点(2680m)の南側はV字型に切れ込んだ小さな鞍部となっており、第二高点寄りの大ギャップに対して、小ギャップと呼ばれている。急な岩場は底から数メートル程度で、大ギャップに比べ規模も小さく、通過も容易である。ギャップの第一高点寄りから第二尾根が岩稜となって戸台川に落ちている。左右に落ちるガリーはいずれも小ギャップルンゼと呼ばれている。
●地図 甲斐駒ケ岳
精進ケ滝(しょうじんがたき) <地>
大武川支流・石空(イシウトロ)川にある滝で落差121メートル。南アルプス第一といわれる名瀑である。この沢の遡行では左岸を捲いて上に出ているが,結氷期には直登ルートが拓かれている。山高の集落より精進ケ滝林道があり、また鳳凰山麓の御座石鉱泉からハイキングコースがひらかれている。「しょうじ」とはもともと険しい岩場を意味している。
●記録 *1986年1月18日 溝渕三郎a、大波久男b(a JECC、b MRCC―『岩と雪』115号)
*1986年2月9日 宮内幸男、若林岩雄、伊達 聡(わらじの会―『岩と雪』116号)
●地図 鳳凰山
城の沢(じょうのさわ) <地>
濁川(神宮川)とほぼ平行にその北側を流れて釜無川に合する沢で、水平距離5キロメートル、落差900メートル。源頭はホクギの平(1600.3m)である。鳥原より沢に沿って林道が入っている。集落の北にあった鳥原城に水を提供していたので、この名がついたといわれている。下流を松山沢川とも呼んでいる。中流右岸に石尊神社がある。
●地図 長坂上条
昭和初期の甲斐駒ケ岳絵図(しょうわしょきのかいこまがたけえず) <図>
昭和2年製作の極彩色の絵図(大きさ40cm×54cm)で、図を囲んで数葉の写真があり、当時の風俗がしのばれる。図は明治の絵図(口絵参照)を参考にしたものと思われるが,注目すべきは黒戸尾根登山道の一〜五合目の記入があることである。従来、五合目以下の位置は判然としなかったが、この図によって各位置が判明した。一合目―前宮、二合目―笹の平、三合目―刃渡り下、四合目―前屏風上である。ちなみに五合目以上は、六合目―鎖場下のピーク、七合目―七合目小屋、八合目―鳥居のある平、九合目―烏帽子岩である。また、黄蓮谷には「奥千丈滝」の記入があり写真もある。右俣200メートルの滑滝を誤って呼んだと思っていたが、古くからの名称であることが判明した。また、七合目宿泊所の写真があり、「朝香宮殿下御宿泊ヲ賜フ」とあり注目される。簡単な登山案内もついており,一般登山用として作られたことがわかる。(後図参照)
昭和初期の登山(しょうわしょきのとざん) <事>
昭和初期(1926〜)は、甲斐駒ケ岳を中心として積雪期に縦横に歩かれ、バリエーションルートへの探求がはじまった時代であった。昭和2年(1927)10月、三高山岳部・今西錦司らは西面から鋸岳に登って、この周辺の地形を明らかにすると同時にバリエーション時代の先駆けを作った。また、この時代に関東山岳会によって鋸岳研究が成されたことも特筆しなければならない。北沢小屋を中心として駒ケ岳、仙丈岳の積雪期登山がいくつかのパーテイによって試みられるようになったが、他方、昭和4年(1929)3月には、青山学院の小島隼太郎らが黒戸尾根を登って山頂近くまで達しており、同時期、黒田正雄、初子夫妻は大武川を遡って仙水峠より北沢に抜けるという記録を発表している。この初期の黄金時代ともいうべき年は昭和5年(1930)から6年にかけてであって、積雪期登山は急に活発化した。主な記録を下に示したが、注目すべきは、渓谷や岩壁の登攀が始まったことである。当時、登山界の主流は学生層であって、積雪期登山や岩壁登攀は彼らの独壇場といってもよかった。しかし、こと甲斐駒ケ岳の岩登りに関しては社会人登山者が先駆けとなり、現代に引き継がれたのである。昭和7年(1932)以後も、同年9月、神戸高商パーテイによる摩利支天南山稜の第二登、翌年1月、立教大学山岳部の山縣一雄による鋸岳単独登頂。9年8月、西山敏夫による摩利支天南山稜第三登。その後も散発的に岩壁や谷の登攀が記録されたが、学生層の主力は北アルプスへ去った。そして社会人登山者層は、谷川岳というまたとないゲレンデを得て、この山を離れた。昭和24年(1949)年、鵬翔山岳会その他による黄蓮谷周辺への集中的な登攀に至るまで、この山は静寂をとりもどし
たのであった。
[昭和5〜6年の主な記録](1930〜1931)
○昭和5年1月4〜5日 慶應義塾大学山岳部・望月太郎、土田孝之助、小糸栄一郎、橋本健一(竹沢長衛、藤太郎)は、北沢より駒ケ岳―六合目石室―鋸岳―角兵衛沢―戸台の厳冬期初縦走に成功した。(『登高行』第8年)
○昭和5年2月 立教大学山岳部・堀田弥一、広瀬栄一(竹沢長衛)は、熊穴沢を登ったが、強風のため途中から引き返した。(『立教大学山岳部部報』第3号「二月の鋸岳」)
○昭和5年3月24〜26日 立教大学山岳部・酒井吉国、沢本辰雄、小林 丘(竹沢長衛)は、北沢よりアサヨ峰を経て鳳凰三山の積雪期初縦走に成功した。(『立教大学山岳部部報』第2号「三月の早川尾根」)
○昭和5年4月7〜8日 農業大学山岳部・村崎勝行、府立三中OB・平木 桂、平木啄木次は、黒戸尾根より駒ケ岳の積雪期初登に成功した。(農業大学山岳部部報『メーベルメーヤー』創刊号「冬の甲斐駒」、『山と高原』339号「積雪期甲斐駒山梨側よりの初登攀」)
○昭和5年5月5〜6日 立教大学山岳部・酒井吉国、斯波悌一郎、小林 丘(竹沢長衛)
は、赤河原より六合目石室に出て、駒ヶ岳往復の後、鋸岳を縦走して角兵衛沢を下った。(『立教大学山岳部部報』第3号「二月の鋸岳」の付記)
○昭和5年8月、東京慈恵会医科大学山岳部・岡 一雄は鳳凰山より駒ケ岳に縦走中、六方石付近のやせ尾根より転落死亡した。(東京慈恵会医科大学山岳部部報『JOCH』創刊号)
○昭和5年9月6〜11日 関東山岳会・岩瀬勝男(高木董博他1名)は、黄蓮谷を初遡行、六合目石室より鋸岳第一高点往復の後、中ノ川を下った。(関東山岳会年報『山岳資料』第9輯)
○昭和6年2月12日 立教大学山岳部・堀田弥一、沢本辰雄(竹沢長衛)は熊穴沢をスキーで登り、中ノ川乗越下をスキーデポとして鋸岳第一高点を往復した。(『立教大学山岳部部報』第3号「二月の鋸岳」)
○昭和6年3月28〜30日 立教大学山岳部・斯波悌一郎、清水龍三(竹沢長衛)は、北沢から駒ケ岳を越えて鋸岳第一高点を往復した。(『立教大学山岳部部報』第3号「三月の鋸岳」)
○昭和6年5月23日 関東山岳会・横田松一、猪瀬、金子は、大武川から摩利支天南山稜の初登攀に成功した。(『山と渓谷』10号・1931-11)
初登攀論争(しょとうはんろんそう) <事>
北坊主岩東北壁・泉州ルート及び静岡登攀クラブの冬期初登攀をめぐって、藤原雅一(雲表倶楽部)と戸田暁人(登攀クラブ蒼氷)との間で行なわれた論争で、『岩と雪』144〜
147号、『クライミングジャーナル』51〜53号に掲載された。要旨はルート上部の、台風で消滅したピッチの登攀をめぐって行なわれたもので、ルート修了点をいかに定義するかというもののように思えるが、論争は複雑で一言にはいい表わせない。他の岩壁でのルートにも触れており、本質的にはこの山での登攀の問題ではないので、ここでは紹介するに止めた。クライミングをめぐっての最後の論争といってもよく、これ以後、このような論争はおこなわれていない。
白岩(しらいわ) <地>
戸台川本流は出合いから藪沢の合流点まで広い河原が続く明るい流れとなっているが、下流から三分の一ほどの所だけは、両岸が迫って高さ100メートル、幅200メートルの岩壁がそばだっている。この岩壁は全体が石灰岩から成っており、この付近は数百メートルにわたって石灰岩の帯が戸台川を横切っている。白岩とはこの岩壁の岩壁をいい、右岸は幕岩と呼ばれている。最峡部には白岩ダムがある。かつては、この岩壁を二つに割るように高い滝がかかっていたが、南アルプス林道工事によって水が涸れてしまったのは残念である。この小さな沢はホラガイと呼ばれ、古くから登山者に注目されていた。
●地図 甲斐駒ケ岳
白岩岳(しらいわだけ) <地>
釜無山脈の最高峰で、標高2267メートル。山頂付近は黒木と笹に覆われて石灰岩が露出しており、姿も堂々とした立派な山である。直接登る登山道はないが、主稜線上には踏跡がある。東面には門口沢が釜無川に落ち、西面には白岩谷が小黒川に落ちている。戸台川を横切って白岩、幕岩を作る石灰岩帯は釜無山脈に沿って北上し、この山の西面に同じような露岩帯を作っている。白岩谷二俣にある露岩は白岩と呼ばれており、山名もそこから興ったものであろう。頂上に石碑があり、「天保五年、黒河内村、山中講中」とある。
●地図 甲斐駒ケ岳
白須(しらす) <地>
国道20号線に沿った250戸ほどの集落で、尾白川最下流の右岸にひろがっている。駒ケ岳登山道の入口である。一昔前までは東隣の台ケ原が中心で登山基地として利用されていた。しかし、現在では、この近くに登山のために足を止める者はいない。1996年、尾白の森名水公園が開設された。展示館、宿泊施設があり、キャンプ場も併設されている。
●地図 長坂上条
白髭神社(しらひげじんじゃ) <地>
釜無川本流と中ノ川合流点にある小祠。『甲斐国志』巻六十六に「本村ヨリ三里許リ釜無
山中ニ在リ、社地方五十歩又名取ノ社ト云小祠アリ」とある。本村とは大武川集落を指し、現在の位置はかなり離れている。別のものか、あるいは昔、大武川の人たちが竜神に雨乞いを祈願した所だという言い伝えから、竜神を祭った中ノ川の大滝近くまで移したとも考えられる。祭神は猿田彦命であるが、一般にこの名の社は、高麗王・若光を祭ったというのが定説となっている。しかし、最近では新羅(シラギ)説が有力となっており、新羅神社からの転化だという。いずれにしろ、このあたりは古代朝鮮との深いかかわりを持っていたといえよう。
●参考資料 [T]金 達寿『日本の中の朝鮮文化』7(講談社・1983)
[U]上田正明外『朝鮮と古代日本文化』(中央公論社・1978)
汁垂沢(しるたるざわ) <地>
大武川・篠沢の最下流にある枝沢で、源頭は黒戸尾根笹の平上部である。水平距離3キトメートル、落差800メートル。かなり奥まで林道が入っており、しかも流れは平凡で遡行の価値はない。この沢の左岸の尾根に笹の平より大武川に抜ける踏跡がある。出合い近くに高さ20メートルの大滝があり、『山岳』第二年第三号の「鳳凰山第二回登山記」(辻本満丸)中に、「駒城村に汁垂瀑(高さ五丈、幅一丈八尺)あり、大武川に注ぐ」と紹介されている。なお同名の沢が近くの甘利山にもある。韮崎在住の山寺仁太郎氏によれば文字通
り汁が垂れるという意味とのこである。思うに水量が少ない流れをいうものらしい。文化11年(1814)の古文書によれば「シルタリ沢」と書かれている。
●記録 *1967年10月22日 小林賢一郎、大竹実(紫山岳会―『大武川遡行記録集』1977)
●地図 長坂上条
白崩岳(しろくずれだけ) <地>
伊那谷では木曾駒ケ岳を西駒と呼び、これに対して甲斐駒ケ岳を東駒と呼んでいるが、古くは白崩岳あるいは白崩山と呼んだ。江戸後期に書かれた『伊那志略』及び『南信伊那史料』(1901)に白崩岳という記述があり、『木師御林山絵図』(文化14年、1817)にも白
崩岳と書かれている。本峰直下の花崗岩のガレが、遠くからも白く見えたからである。白崩岳と甲斐駒ケ岳が同一の山かどうかということは、明治後期の岳界で論争があった。明治9年(1876)に作られた『長谷村全図』には「信ノ白崩岳、又赤河原岳トモ云、甲ニテハ駒ケ岳ト云、同岳ナリ」と注記してある。また前記『伊那志略』にも「甲斐称駒岳是也」と書かれている。伊那側では山頂に白崩権現を祭り、一時期、信迎登山がさかんになったが、交通不便のため、まもなくすたれてしまった。戸台の手前に前宮があり、そこの額に「名にしおう駒の嵐の激しさに白くぞ峯の雪ぞ崩るる」と書かれていたそうで、これからも同一の山であることが察しられる。信州側からの名称としてしばしば引用されるが、それほど一般的な呼び方ではなかったらしい。高遠から伊那にかけて使用されていたようである。
なお、『日本山嶽志』にある白崩岳の図は仙丈岳であるといわれている。(後図参照)
登白崩岳記(しろくずれだけにのぼるのき) <文>
高橋白山の『白山文集』巻四(明治35年、1902)中にある明治14年(1881)の山岳記行文で、明治16年の『白山楼詩文鈔』巻五にも同じものがある。著者は天保7年(1836)高遠藩の儒者の家に生まれ、通称を敬十郎といった。幼児から学問を好み、16歳で藩の助教を努め、文久年間には江戸に出て、藤森天山の教えを受けた。明治19年から32年まで長野師範学校教諭を務め、明治37年(1904)、69歳で没した。生来、旅行と登山を好み、明治5年(1872)年4月には雪深い中房温泉を訪れて「遊中房温泉記」を書いている。駒ケ岳登山の後、明治15年には木曾御岳、16年には浅間山に登っている。甲斐駒ケ岳登山は戸台から登ったもので、9月6日に頂に立っている。紀行は漢文で書かれたわずか五百余字の短いもので、しかも、前半は山麓の描写である。この時期の登頂記は少ないので貴重な文献だが、登路が不明確で、これが後に論争の種になった。「登る者はははだ希なり。よって行程を識り、後に遊ぶ者を啓せんと欲し…」とあるように、将来、駒ヶ岳への登山が盛んになるものとの予想のもとに、その登路を明らかにしておこうというのが一つの
動機であった。信迎登山から脱皮した新しい登山思想がここに見られるが、登路は今日に至っても完全に解明されていない。赤河原までははっきりしていのだが、そこから先の記述が不明確なのである。「流れを遡ること一里三十丁、雄勝、地蔵の二岳の間を過ぎれば白崩の麓に抵る。山は皆白砂、松は皆五葉にして、景色はなはだ奇なり。是に至れば河水二派を見、東に流れるは甲斐早川となり、西に流れるは即ち小黒川なり」とあり、麓とは北沢峠とも考えられるが、峠の情景は異なっている。また「いまだ頂上へ至らざる八、九町のところに平らなるところありて就憩す。西北に鵝湖を望み、えいえいとして星の如し。東南に姑麻、白峰、鳳凰の諸岳、はるか駿遠国界に連なる」とあり、六合目から北西山稜を辿ったものとも考えられる。行程については初期の『山岳』上で種々論じられており、なかには戸台本谷をつめて六方石に出たのではないかとの説もある。筆者は六合目説をとっている。その理由は、麓の描写と、「麓より以上の里数は詳らかならず、袖時儀を按ずるに経過すること二時三十分也」とあるからである。北沢峠からでは四時間以内には絶対に登頂できない。六合目からの古い記録では二時間程度となっている。(後図参照)
●参考資料 恩田善雄「高橋白山の白崩岳紀行」(『白稜』255号)
白崩岳論争(しろくずれだけろんそう) <事>
甲斐駒ケ岳と白崩岳とが同一の山か否かとの論争が起こったのは明治40年(1907)前後で、日本山岳会内部のことであった。武田久吉は『山岳』第二年第一号に、NTの異名のもとに「東駒ケ岳と白崩岳とは同物か将異物か」という一文を発表し、論争に火をつけた形になった。小島烏水はそれに応えて「白崩岳駒ケ岳異同弁」を発表し対立した。烏水ははじめ同物説をとっていたが、後に異物ではないかと考えて同文を発表したという。たしかに高橋白山の明治14年の白崩岳紀行は登頂のくだりがあいまいであり、当時もっとも権威があるといわれていた山崎直方・佐藤伝蔵編の『大日本地誌』の記述さえも明確さを欠い ていた。同書には「国境に来りて、ここに白崩山、仙丈岳、三峰岳等を起し、更に最も高峻を極る北岳となり、益々南下して荒川岳、農鳥山等を生ず、之より連嶺尚ほ二千米内外の高距を保ちて南方に延び、再び南岳、七面山等の嶮峯を起し、遂に駿河国にはいる。この間渓谷の大なるものなく、交通嶮悪にした、人跡の達せざる所あり。白峰山脈の北部にある白崩山、仙丈岳の東方には、粗粒の閃雲花崗岩より成れる一山塊あり。秩父古成層を貫きて噴出したものにして、駒ヶ岳、鳳凰山、地蔵岳等の諸峯を隆起せり。駒ケ岳は即ち群中の最高峰にして、仙丈岳の東北に聳え北巨摩郡に属す。海抜3001米。東北釜無川の渓谷を隔てて八ヶ岳火山と対峙し、其の高峻を競うものの如し」とあり、赤石山脈の項には「北方に荒川岳、三峰岳、仙丈岳、白崩岳等駢列し、これより以北に信濃国内に入りて西北
に向い、特に釜無山脈と称せらるる」と書かれている。標高は、駒ヶ岳の3001メートルに対し、白崩山は2400メートルとなっており、一見別の山のような印象を受ける。当時、烏水は明治36年に山崎紫紅とともに台ケ原から登頂しただけだが、武田は36年と39年に登っており、山頂でも展望に恵まれ、別のピークはなかったことを確信していた。この論争は明治40年(1907)7月の実証登山によって終止符をうつことになる。武田は、梅沢親光、鳥山悌成、河田
黙らの探査行に参加し、はじめて同一物であることを実証したのであった。
●参考資料 [T]「東駒ケ岳と白崩山は同物か将異物か(NT)」(『山岳』第2年第1号)
[U]「白崩岳、駒ヶ岳異同弁(烏水)」(『山岳』第2年第2号)
[V]「白崩山に向うの記(鳥山悌成、梅沢親光)」(『山岳』第2年第3号)
[W]「白崩山に就て(梅沢親光)」(『山岳』第2年第3号)
[X]「北面より遠望したる赤石山脈(城 数馬)」(『山岳』第2年第3号)
[Y]「白崩山に登り駒ケ岳を降る(鳥山悌成、梅沢親光)」(『山岳』第3年
第1号)
[Z]恩田善雄「白崩岳論争」(『白稜』256号)
神宮川(じんぐうがわ) <地>
1974年、濁川は神宮川と改名された。濁川はかつて大雨の度に土砂を押し出すあばれ川だったが、現在は砂防ダムが作られ、下流一帯の護岸工事も完了しており、一見したところあばれ川というイメージはない。新しい名称の由来は、この川の砂が明治神宮の参道に敷かれるために奉納されたからで、花崗岩の粗い砂は外に使いようがなかったからである。改名にあたっては、いろいろ問題があったようである。企業誘致と観光のためにイッメージチェンジする必要があったのだろう。濁川にある濁山から出たもので、この山は天候が悪化する前に肌の色が変わるといわれていた。現在の水晶薙一帯の名称で、湿気を敏感にとらえていたようである。由緒のある名が消えたのは惜しいことである。登山者の間では、いまだ濁川でとおっているので、神宮川とは平野に入ってから使用し、上流部は古い名称を使うのが妥当のように思われる。
●参考資料 恩田善雄「川の名前が変った話」(『岳人』392号)
●地図 長坂上条、甲斐駒ケ岳
人工登攀(じんこうとうはん) <事>
かつては、ハーケンを吊上げなどに積極的に使用して登ることを人工登攀と称していたが、現代では埋込ボルトを使用して登ることを指す場合が多い。岩面に穴をうがって支点を固定することにより、従来は登攀不可能であった手がかりのない巨大なスラブやオーバーハングした岩壁が登られるようになった。その嚆矢ともいうべき登攀は、1958年6月、雲表倶楽部と東京緑山岳会パーテイによる谷川岳一の倉沢コップ状岩壁正面の完登であった。次いで、1959年8月には登山界永年の宿願であった一の倉衝立岩正面が南
博人ら(東京雲稜会)によって登られ、はやくも、この新しい手段は到達すべき限界をむかえたといわれた。甲斐駒ケ岳においても、当時、埋込ボルトという新兵器の使用をめぐって多くの議論が交わされたが、1960年前後には筆者らによって試験的に、千丈の滝岩小屋を作る大岩や坊主岩東壁下部に手製のボルトが埋められた。これらは現在でも赤錆びて残っているが、本格的に使用して新ルートをひらくまでには至らなかった。1964年8月、藤井義弘、遠藤二郎(山学同志会)は、ハーケン類約20本、埋込ボルト15本を使って、従来は登攀の対象外だった赤石沢奥壁中央壁に新たなラインを引いた。しかし、風化の激しいこの山の岩壁では、ボルトの使用できる岩壁はおのずから制限され、その後、北坊主岩東北壁、赤石沢前衛壁群、サデの大岩等の登攀に使用され、いくつかの驚異的な記録を生んだが、この山での登攀の主流を成すまでには至らなかった。しかも、ハーケンのみでひらいたルートや、フリーで登られていたピッチにまで乱打されるという結果となり、ルートを安易なものにするという悪弊を生んだ。1981年8月、小林
隆らによる宮の大岩ダイレクトルートの開拓によって、このスタイルによるビッグクライムは修了したといってよいだろう。時代はフリークライミングへと移行した。
神蛇の滝(じんじゃのたき) <地>
尾白川にある三段15メートルほどの滝で、前宮から渓谷道を一時間ほど遡ったところにある。右岸から谷に岬のように突き出している台地に滝の展望台がある。闊葉樹が谷を覆い両岸は迫って幽邃な景観を作っている。蛇が谷を遡っているように見えることから名付けられたという。展望台は竜神の小祠があることから竜神平と呼ばれている。対岸の岩壁をグゾバ岩というが、グゾバとは葛のことである。前宮から流れに沿った道と、右岸を水平にからむ道とがここで合流する。現在はここまでが尾白渓谷の観光コースとなっている。
●地図 長坂上条
信州往還(しんしゅおうかん) <地>
甲府から信州へ向かう街道で、現在の国道20号線とほぼ同じ場所を通っている。
1959年、この地を襲った台風以後、国道が整備され、この古い名称はほとんど使われなくなった。国道は街をバイパスしているが、旧道に入れば古い街並みが残っている所もあり、往年の面影がうかがわれる。甲府から国界橋までの名称で、そこから北は信州に入って甲州街道となる。ちなみに、甲州街道とは、日本橋より下諏訪までの総称で、甲府までを表街道、甲府から先は裏街道と呼ばれた。甲斐駒ケ岳山麓には、韮崎、台ケ原、教来石の三つの宿場と、山口、教来石の二つの関所があった。正式の名称は甲州道中で、甲州街道は俗称である。
●参考資料 [T]中西慶爾『甲州街道』(木耳社・1972)
[U]飯田文弥編『甲斐と甲州道中』(吉川弘文館・2000)
●地図 八ヶ岳、韮崎、御岳昇仙峡、甲府(以上5万分の1)
神代桜(じんだいざくら) <植物>
大武川下流右岸にある集落・山高の実相寺にあるエドヒガンザクラで、桜では日本最大といわれ、目通り周囲10.6メートル、根張り30メートルの巨木である。幹の基部から多数の支根が出ており、根周りは14メートルに達する。ヤマトタケルノミコトが東征の帰途植えたといわれ、またその後、文永11年(1274)、日蓮上人が、この基の衰えたのを見て回復を祈念したという伝説があり「妙法桜」ともいわれている。
●地図 長坂上条
新版色摺甲斐国絵図(しんぱんいろずりかいこくえず) <図>
文政13年(1830)に作られた甲斐国の詳細な色刷り地図で大きさは70×90センチメートル、甲斐国巨摩郡鰍沢古久屋紋衛門正之蔵版、青柳城山書、石川盆守画、熊本吉長刀の作者名が入れてある。江戸時代、機密保持のため地図刊行を喜ばなかったふしがあり、この地図にも「不許売買」と印されている。山では白根岳とともに駒ケ岳が最大級に描かれており、この山の存在が大きなものであったことを示している。当時、地図上の山は鳥瞰図として描かれているのが普通で、駒ヶ岳もいわゆる山形描写であり、この山の特徴を表わしていない。釜無川周辺の地名は現在とほぼ同じだが、尾白川を大ム川、大武川をム川
としており、川名の混乱が見られる。江戸時代の甲斐色刷り地図はこの外には「富士見十三州輿地地図」(天保14年・1843、後図参照)があり、この二つのものが原図となって、その外のものが作られている。この二種の地図にはともに北より、駒ヶ岳、地蔵岳、鳳凰山、白根山の順に描かれているのが注目される。(後図参照)
森林限界(しんりんげんかい) <事>
一般に喬木帯と潅木帯との境を森林限界という。これはまた亜高山帯と高山帯との境でもある。ここから上部では背の高い針葉樹は姿を消し、ハイマツ、ダケカンバ、ナナカマド等が見られ、しかも、強風によって形がねじ曲げられて、地上を這っているものが多い。甲斐駒ケ岳での森林限界は、おおむね図に示したようなもので、南側の仙水峠付近では
2300メートル圏まで下っているが、大体標高2600メートルである。高山植物の豊富な場所は、黄蓮谷源流一帯で、赤石沢のトラバースバンドがこれに次いでいる。(後図参照)
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│ 特別連載 │
│ 甲斐駒ヶ岳研究(65) │
│ 恩 田 善 雄 │
│ (東京白稜会) │
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水晶沢(すいしょうざわ) <地>
大武川の最源流は本峰南面白ザレの斜面に発する。ここから仙水峠直下あたりまでの流れを水晶沢と呼んでいる。沢の名は白ザレの斜面に水晶が多かったためにつけられたものであろう。沢は右・左俣に分かれており、左俣には高さ40メートルの大滝が一つあるだけだが、右俣は全渓、滝や滑が連続している。南面にあるため明るく気分のよい沢である。この流れは、本来、野呂川に合する北沢の源流であったが、大武川に争奪された結果、現在のような地形になったといわれている。
●記録 *右俣=1955年12月初旬、永嶋照平外2名(アルムクラブー私信による)
1960年1月2日 中尾正司、中村又吉(『白稜』152号)
*左俣=1940年7月下旬 川島義仁、大森政雄外3名(銀嶺山岳会―『山とスキー』2号)
1956年11月23日 渡辺司夫、楜沢成明(『白稜』114号)
1960年1月1日 中尾正司、中村又吉(『白稜』152号)
●付記 記録中にある『山とスキー』は、北大スキー山岳部有志が中心となって札幌からだした雑誌(1921〜1930)ではなく、第二次大戦直前に『山と渓谷』『山と高原』『練成旅行』の三誌を統合したものである。終戦のためわずか6号で廃刊となった。
●地図 仙丈ケ岳
水晶薙(すいしょうなぎ) <地>
濁川から雨乞岳周辺には、花崗岩の風化によって生じた白砂の斜面が、樹林帯の中にオアシスのように点在し、特異な風景を作っている。これもその一つで、濁川・笹の沢の源流・アレ沢のつめにある。日向山の雁ケ原と同じ構成である。「ナギ」とは、山梨県ではなぎ落ちたような崩壊地を指し、日光地方でいう薙とはすこし異っている。ここも雁ケ原と同様に地元の人たちが見物のために登るらしく、小滝の沢から笹の沢源流をトラバースする造林道は毎年整備されている。水晶崩れ、水晶岩などとも呼ばれ、昔から天気が急変する場合は薙の色が濁るといわれていた。そのため、この一帯を濁山と呼んだ。濁川の名はここからおこったものである。『甲斐国志』巻三十に「濁山―白禿山ナリ土
人其ノ色ノ清濁ヲ望ンデ晴雨ヲ知ル」とある。一説には濁山とは日向山を指すともいわれているが、文化
11年(1814)の古文書にすでに日向山という名称が使用されている。
●地図 甲斐駒ケ岳
スーパー林道(すーぱーりんどう) <地>
戸台川左岸の高さ300〜400メートルの山腹をたどり、北沢峠を越えて北沢に入り、野呂川、夜叉神峠に至る全長5.6キロメートルの産業用林道。1967年着工。北沢峠の原生林の環境保護のため、峠付近の工事が長い間中止されていたが、1975年11月、峠を切開いて全通した。トンネルを作って峠一帯を保護すべきだという自然保護団体の主張は認められず、この開通によって北沢峠の幽邃さは永久に失われてしまった。1980年6月、長谷村と芦安村から北沢峠まで村営バスが入るようになった。一般車は当分通行禁止だが、将来は南アルプス北部の観光道路になることは必至で、登山面でも大きな変化が起こるにちがいない。正式名称は「南アルプス林道」。1982〜3年と続いた台風によって芦安側の林道は大被害を受けた。
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳、鳳凰山、夜叉神峠
菅原山岳会(すがはらさんがくかい) <団>
1948年、菅原村(現白州町の一部)の古屋五郎らによって設立された地元山岳会で、登山活動よりは、案内、登山道の整備、山小屋の管理等を主にしていた。事務所は白州町役場内にある。1948年秋、鞍掛沢新コースの開拓、1950年、高木董博引退記念の黄蓮谷遡行・鋸岳等の記録がある。菅原村は白須の須と台ケ原の原をとって、須が原(菅原)としたものだという。
スキー登山(すきーとざん) <事>
明治44年(1911)年、オーストリヤのレルヒ少佐によって我が国に紹介されたスキーは急激に普及し、積雪期登山がはじまると強力な手段として積極的に使用されるようになった。北アルプスにあっては、はやくも大正8年(1919)3月、板倉勝宣らは常念越え槍沢入りにスキーを使用し、槍ヶ岳への試登を行なっている(遺稿集『山と雪の日記』)。翌年3月には、大島亮吉らは白馬岳スキー登山を試みており(『登高行』第2年)、同時期、富山県師範学校訓導の内山敏雄らは立山へのスキー行を実施している(『中学世界』24年4号)。以後、北アルプスでの積雪期登山といえば、スキーを使用することが常套手段となった。南アルプスではどうだったろうか。降雪量が少なく、森林の多い山塊では当然その使用地域は限定された。大正14年(1925)3月、北沢をベースとして仙丈岳や北岳、間の
岳に登った三高山岳部パーテイは、アプローチに東大平からスキーを使用し、登頂にあたっても積極的に利用している(『三高山岳部報告』第4号)。翌年4月、矢島幸助も北沢から仙丈岳への稜線に使用し、アサヨ峰往復では仙水峠をスキーデポとしている(『リュックサック』第5号)。また同氏は1927年1月、三伏峠から塩見岳の厳冬期初登頂にあたっても一部でスキーを使用した(『リュックサック』第6号)。甲斐駒ケ岳登山では1926年1月、厳冬期の初登頂に成功した慶応義塾大学山岳部パーテイは、スキーが使用できるという理由から、北沢をベースに選んだという(『登高行』第7年)。甲斐駒ケ岳のスキー登山は主としてこのルートからで、仙水峠をスキーデポとするのが普通だったが、駒津峰直下までデポを上げたパーテイもあった。昭和初期、北沢の長衛小屋の入口には「北沢スキーヒュッテ」と書かれていたそうで、かなりの数のスキーパーテイが入り込んでいたようである。竹沢長衛もショートスキーを使用し、スキー登山の先導を務めたといわれている。仙丈岳では北沢峠から主稜線の南側の小沢が滑降に適していたようで、一部の人たちはスキー沢と呼んでいた。また鋸岳方面では、1930年2月、立教大学山岳部の堀田弥一は熊穴沢を途中までスキーで登り、翌年2月には中ノ川乗越しをスキーデポとして第一高点を往復した(『立教大学山岳部部報』第3号)。この頃、三月の北沢峠では1.5〜2メートルの積雪を見たという。この周辺がスキー登山の隆盛期だったのは1930年代の後半までで、それ以後、スキーが競技、遊戯中心にと移行するにともなって急激にすたれ、現在では遊び以外に使用することは稀になった。
積雪期初登頂(せきせつきしょとうちょう) <事>
積雪期のはじめての登頂は、1925年3月31日、甲斐山岳会の平賀文男によって成された。この登頂にはちょっとしたいきさつのあったことが、平賀の「白峰雑記」(『岳人』148号)中に書かれている。それによると、この年、京都の三高山岳部・西堀栄三郎から、野呂川経由で白峰、仙丈岳に登りたいと甲斐山岳会に案内人の依頼があった。しかし、その後、戸台から入山するといって断ってきた。甲斐山岳会では、それならば独自で野呂川から登ろうということになり、平賀は野呂川から大樺沢を経由して、3月28日、北岳に登頂した。後に北沢小屋に入って三高パーテイと会い、すでに19日に仙丈岳、22日に北岳の登頂に成功したことを知った。平賀は仙丈岳に向かったが悪天候で登頂は成らず、残っていた甲斐駒ケ岳を越えて下山することにした。三高の西堀、桑原武夫ら仙水峠まで同行。平賀は柳沢の水石春吉、牛田重義、同五郎作を連れて、正午、登頂に成功、黒戸尾根を下山した。柳沢に着いたのは夜半を過ぎた4月1日の午前1時であったという。第二登は翌年1月、慶應義塾大学山岳部の野村
実らによって行われた。
●参考資料 平賀文男「三月の白峰と駒」(『日本南アルプス』博文館・1929)
石尊神社(せきそんじんじゃ) <建>
雨乞岳登山口の近く、鳥原集落のはずれにある。祭神は大山祗命(オオヤマズミノミコト)と日本武尊(ヤマトタケルノミコト)。応永5年(1398)の建立といわれ、現在の本殿は文祿3年(1594)のものと伝えられる。参道は石が敷き詰められ、樹齢250〜300年といわれる赤松の並木が続き、200段の急な石段を登りつめた小ピークの肩に本殿がある。八ヶ岳方面の展望が良い。本殿、拝殿は白州町の指定文化財、赤松林は県の天然記念物に指定されている。古来、甲斐は丸石信仰の盛んな所で各所に見られる丸石道祖神に民衆の信仰がうかがわれる。ここの御神体も丸石ではないかといわれている。秋の大祭で奉納される素人相撲大会は県内でも有名である。天保2年(1831)の古文書・石尊祭礼角力証状が残っており、古くから行なわれていたことがわかる。
●地図 長坂上条
仙丈岳(せんじょうだけ) <地>
赤石山脈最北端の標高3033メートルの山で、駒ヶ岳とは北沢峠を介して連結してい
る。甲斐駒ケ岳の男性的な風貌とは対称的に、この山はゆったりとした山容で、どちらか といえば女性的といえる。山頂付近に三つの明瞭なカールがあり、それがこの山の姿をやさしいものにしている。宿泊設備も完備し、登路にも険しい部分がないため、初心者でも安全に3000メートルの登山を満喫できる。山頂付近は高山植物の宝庫で、とくにカール中のお花畠は見事で、この山の魅力の一つとなっている。仙丈岳とは本来、甲斐側からの呼び名で、信州側では前岳あるいは尾勝岳と呼んでいたようである。『甲斐国志』では千丈ケ岳となっており、仙丈岳とは主として明治以後の書き方である。小島烏水は『山岳』第三年第三号中で、「甲州人が昔より深山幽谷地に仙丈なる名を呼べるは余のいたく悦ぶところなり」と述べており注目される。記録に残る山行で古いものは、安永年間(1770年代)の高遠藩士・葛上源五兵衛によるものが、随筆集『木之下蔭』に書かれている。江戸時代、この山は御留山として一般人の入山は禁じられており、高遠藩による検分のための登山が定期的に行なわれていたようである。三峰川遡行、尾勝谷下降がその道であったようで、地図も詳しいものが作られており、『木師御林山絵図』(文化14年、1817)が残っている。文政9年(1826)高遠藩奉行・星野
蔀、神波半太衛門その外、役人19人が、人夫163人連れて登ったのも、この三峰川の道である(御登山入用帳)。また、その西山麓から雨乞いの登山が行なわれていたことも伝っている。これには講があり、特別の登山道があったようである。雨乞いに高山が登られたのはめずらしいが、ウェストンはその著書中で、常念岳の雨乞いを紹介している。また白州町にある古文書に雨乞いのために鳳凰山に登ったことが書かれている。近代登山はこのウェストンの明治37年(1904)の登頂によって始まる。積雪期の初登頂は三高山岳部の桑原武夫らによって大正14年(1925)3月、北沢より成された。この山は東面がゆるやかで西面が急激に落込んでおり、この急な部分にいくつかのバリエーションルートがひらかれている。南西面を作る三峰川源流最悪の谷である岳沢は、1958年の夏、岡本竜行ら(獨標登高会)によって開拓された。現在、この谷は氷壁登攀の対象として多くの登攀者を迎えている。また北西面、尾勝谷・奥南沢周辺は1957年8月、筆者が単独で二、三のルートをひらいた。
●記録 *岳沢=1958年8月22〜23日 岡本竜行、鷲尾真也、池田彰孝、石井重胤(獨標登高会―『獨標』69号 1960年1月4〜6日 岡本竜行、鷲尾真也、石井重胤(獨標登高会―『獨標』78号)
*尾勝谷・奥南沢右俣=1957年8月21日 恩田善雄単独(『白稜』123号)
1978年12月31日〜1月2日 石井広一a、宮崎敦裕b(aクラブアルピノ高嶺、b同人稜嵐―『山と渓谷』1979-4)
*奥南沢左俣=1957年8月20日 恩田善雄単独(『白稜』123号)
*奥南沢左俣・馬の背ガリー=1982年7月10日 恩田善雄、中岡 久、山下誠一、山崎盛夫(『FALL・NUMBER』No.25遡行短信)
●参考資料 矢島幸助「仙丈岳―追憶・春の印象」(『リュックサック』5号)
●地図 仙丈ケ岳
千丈の滝(せんじょうのたき) <地>
黄蓮谷の下流にある三段の美しい滑滝で、落差は40メートルぐらい。滝下左岸に洞穴状の滝となって坊主の沢が合流している。尾白渓谷道は、この滝の右岸から流れを離れて黒戸尾根五合目に達している。滝付近にはクルマユリやオーレンが多い。滝下に小さな岩小屋があり、五合目への道を少し登ったところに千丈の滝岩小屋がある。黄蓮谷の実質的な遡行は、この滝の下からはじまる。北原白秋の山の歌「守れ権現」に「滝は千丈の逆おとし」とあるように、千丈とは高いという形容である。
●地図 長坂上条
千丈の滝岩小屋(せんじょうのたきいわごや) <地>
黄蓮谷・千丈の滝付近にあるもので、滝の下にも小さなものがあるが、ここでいうのは滝の捲道から五合目への登山道をすこし登った所にある大岩塊によって作られたものである。登山道に面した岩庇の下に数名、谷に面した洞穴状の部分に10名以上を収容することができる。1950年ころから筆者らによって洞穴内の岩塊が取除かれ、床が平らにされて現在のようなものになった。「白稜の岩小屋」と呼ぶ人もいる。黄蓮谷、尾白本谷の遡行や坊主岩登攀の基地として利用されている。筆者らグループのこの周辺での開拓基地であり、多くの合宿が行なわれて黄蓮谷周辺の地形が明らかにされた。
●地図 長坂上条
仙水小屋(せんすいごや) <建>
以前は北沢小屋といっていたが、1985年、仙水小屋と改称した。1924年、北沢峠下の北沢左岸に山梨県によって建設された、利用度の高い山小屋であったが、1959年の台風によって流失した。1967年、仙水峠下に再建され現在に至っている。50名収容。矢葺敬造管理。明治年間に旧小屋付近に伐採用の小屋があり、やはり北沢小屋と呼ばれていた。
●地図 仙丈ケ岳、鳳凰山
仙水谷(せんすいだに) <地>
赤薙沢と分かれた大武川本流は仙水峠直下に達しているため、仙水谷と呼ばれた。最近ではほとんど使われていない名称である。赤薙沢を左俣、仙水谷を右俣と考えたようである。
●地図 仙丈ケ岳、鳳凰山
仙水峠(せんすいとうげ) <地>
駒津峰と栗沢山との鞍部で標高2264メートル。甲斐駒ケ岳の南側を区切る峠である。岩のごろごろした広場で、ここから仰ぐ摩利支天峰の岩壁は迫力がある。西側に仙水池と呼ばれる凹地があるが、水は涸れていることが多い。栗沢山北西稜の一部が崩れてできた
堰止湖である。峠名はこの池からきている。かつては甲斐と信州を結ぶ峠としてかなり歩かれていたらしいが、現在は南面の岩場に向かう登山者以外にはこの峠を越えるものはいない。大武川の道が、一般コースとはいえないからである。ただ大武川側以外は、南アルプスのメインルートとして、峠を通過する登山者は多い。この付近は樹林帯を脱し、北沢側はゆるやかなU字形の谷となり、大武川側はこれに反し、急に落込んでいる。この地形は、かつて北沢の源流が現在の水晶沢であり、のち大武川によって源流部が争奪された結果であるといわれている。
●地図 仙丈ケ岳
千段刈り(せんだんかり) <地>
日向八丁尾根・駒岩(2020m)の西の鞍部付近をいう。笹原の平坦地で、濁川・鞍掛沢のつめにあたる。この尾根に多くの地名が残されているのは、ここが猟師や茸採りによってさかんに歩かれていたからで、かつては良い道が烏帽子岳まで続いていた。
●地図 長坂上条
僧・海量の詩(そうかいりょうのし) <文>
深田久弥著『日本百名山』中、甲斐駒ケ岳の項で紹介されてから、一般に知られるようになった。しかし、登山界では明治39年(1906)に出版された『日本山嶽志』(高頭
式)の駒嶽の項中で紹介されたのが最初である。この山を讃えた代表的な漢詩であり、作者・海量は文化年間の学僧である。はじめ近江の寺の住職であったが、20歳の時、甥に寺を譲って江戸に出、加茂真淵の門に学んだ。国学、漢学に通じ、のち、井伊真中の命により、学校を創設すべく奔走し、各地を旅し、遠く長崎にまで足を運んだ。文化14年(1817)没す。著書に『ひとよばな』一巻がある。
望駒嶽
甲峡ニ連綿トシテ丘比壑重ナル
雲間独リ秀ズ鉄驪ノ峰
五月雪消エテ絶頂ヲ窺エバ
青天ニ削出ス碧芙蓉
蒼氷の滝(そうひょうのたき) <地>
摩利支天前沢にある長さ100メートルほどの滑滝で、サデの大岩の横、沢が逆「く」の字形に曲がるあたりに落ちている。無雪期は単なるスラブで特に目立った存在ではないが、冬期は蒼氷が発達する。従来は無名であったが、1981年2月、登攀クラブ蒼氷パーテイが氷結したこの滝を登って、上記のように命名した。以後、氷壁登攀のトレーニングの場所としてしばしばのぼられている。なお、サデの大岩直下の滑滝は、カーテンの滝という名称がほぼ固定して使われている。
●参考資料 登攀クラブ蒼氷「甲斐駒ケ岳・摩利支天四つの記録(上)」(『岳人』415号)
●地図 仙丈ケ岳
第一尾根(だいいちおね) <地>
鋸岳から甲斐駒ケ岳への主稜線の戸台川側には四本の顕著な尾根があるが、この尾根はそのうち最も西側にある。鋸岳三角点ピークの西肩より落ちているもので、角兵衛沢と寝木小屋沢を分けている。水平距離2キロメートル、標高差1200メートル。ほとんどが樹林帯で、尾根下部を角兵衛沢出合いより横岳峠に至る登山道が横切っている。一見平凡に見える尾根なので記録の発表は見られないが、中間部に小規模の岩壁帯があるので、登れば案外面白いのかもしれない。
●地図 甲斐駒ケ岳
第一高点(だいいちこうてん) <地>
鋸岳の最高点で標高2685メートル。ドーム状をなした顕著なピークである。戸台川側は崩壊壁で荒涼とした石沢となって落ちているが、反対の中ノ川側はハイマツ帯となっており、南には小ギャップと呼ばれる切れ込みがあって中岳に続いている。明治45年(1912)7月、小島烏水は戸台川から横岳峠を経て、この頂に登山者としてはじめて足跡を印している。この報告中ですでに第一高点(第一高峰)という名称を使用している。烏水は頂上に測量の標石があったことを報告しているが、これは明治37年(1904)8月の御料局踏査官・三宅勝次郎らによって設置されたもので、やはり横岳峠より往復している。古くから登られていたらしく、明治9年(1876)に作られた『村誌』に「黒川谷ヲ経テ中ノ嶋ヨリ登ル」と書かれている。ピーク南面の崩壊壁は一応登攀の対象となっているが、岩がもろく快適なものではない。
●記録 *1912年7月25日 小島烏水、岡野金次郎(『山岳』第8年第1号)『日本アルプス』第4巻
●参考資料 上條 武著『孤高の道しるべ』(銀河書房・1983)
●地図 甲斐駒ケ岳
第一高点正面壁(だいいちこうてんしょうめんかべ) <地>
鋸岳第一高点から戸台川側に落ちているバットレス状の崩壊壁をいう。高さ、幅ともに150メートルぐらいで、三本の岩稜より成る。頂上右肩に達している岩稜が登攀の対象となっているが、岩が極度にもろく、登る人は少ない。
●参考資料 大阪工業大学山岳部OB会「戸台川流域」(『岳人』290号)
●地図 甲斐駒ケ岳
第一高点ダイレクト尾根(だいいちこうてんだいれくとおね) <地>
鋸岳第一高点から北東に落ち、中ノ川・七つ釜付近まで伸びている尾根の仮称で、水平距離1.5キロメートル、標高差950メートル。平凡な樹林の尾根で途中二つの小ピークがある。無雪期には登る価値はないが、積雪期には中級向きの雪稜となる。
●記録 *上部=1963年8月25日 土淵知之、加藤雅大、野村やよひ(『白稜』184号)
*末端より=1982年4月17〜18日 北川勇人、市原 卓(『白稜』250号、『岳人』422号記録速報)
●地図 甲斐駒ケ岳
第一バンド(だいいちばんど) <地>
黒戸尾根八合目から、赤石沢上部を横切って摩利支天峰近くに達する大きなバンドで、一般にトラバースバンドともいわれ、明瞭な登山道がある。信仰登山ではお中道と呼ばれ、摩利支天巡りの周回路となっている。高山植物の種類の豊富なことでも知られている。赤石沢上部(奥壁)にはこの外、第二バンド、二・七バンド、第三バンド、第四バンド(不明瞭)があるが、これは最下部のものである。(→トラバースバンド)
●地図 甲斐駒ケ岳
台ケ原(だいがはら) <地>
尾白川が釜無川に合する地点にある集落で、信州往還に沿った典型的な街道宿であった。明治から大正にかけての甲斐側からの登山は、ここを根拠地としており、戦前までは案内人組合もあった。今は隣の白須と町並みが続いて白州町の中心を作っている。甲斐の代表的な地酒『七賢』の醸造元がある。
●地図 長坂上条
大ギャップ(だいぎゃっぷ) <地>
鋸岳の頂稜にある深い切れ込みで、鋸岳の象徴的な存在であり、山麓からもよく見える。第二高点の北側にほとんど垂直に80メートルほど切れ落ち、中岳側も、もろい急峻な岩場となっている。通過はともに岩登りか懸垂となるが、岩場を捲いて底に出ることもできる。ギャップの戸台川側は熊穴沢左俣のつめで、荒々しい石沢となっている。かつて、ここを長衛沢、反対側を董博沢と呼んだ。今はほとんど忘れられた名称である。大キレットと呼んだ人もいたが、現在では大ギャップに統一されている。はじめてここを通過したのは鵜殿正雄で、大正2年(1913)10月、熊穴沢右俣より第二高点、大ギャップ、中岳、第一高点、横岳峠を経て寝木小屋沢を下っている(『山岳』第9年第1号)。
●地図 甲斐駒ケ岳
第三尾根(だいさんおね) <地>
熊穴沢の頭(2610m)より、西南に向かって落ちる水平距離2キロメートル、標高差 1200メートルの尾根。尾根上は大半が樹林に覆われており、二ケ所ほど小規模の岩壁帯がある。中ほどから七丈の滝沢側に支稜が出ており、西側面は大きな崩壊壁となっている。末端は嫦娥岳の岩壁となって赤河原にそぎ落ちている。
●記録 *1982年3月6〜7日 北川勇人、中野与三郎(『白稜』251号、『岳人』421号記録速報)
●地図 甲斐駒ケ岳
第四尾根(だいしおね) <地>
北西尾根六合目付近から西南に戸台川本谷に落ちてる急峻な尾根で、水平距離1キロメートル、標高差800メートル。全体が深い樹林に覆われたやせ尾根である。尾根上には戸台側登山道があり、古くから信仰登山の道として利用されてきた。尾根の取付きは戸台川本谷中流にあり、最下部が一合目で、三合目付近に水場がある。また四合目の上に岩小屋がある。途中、落差100メートルの七丈の滝が良く見える場所があり、尾根上ただ一つの展望台となっている(旧道)。1960年代に鋸岳の登路を研究していたグループによって、主稜線から戸台川に落ちている尾根に第一〜第四尾根と名付けられ、ほかに適当な名もなかったのでいつか固定してしまった。しかし、この第四尾根だけは古くから七丈の滝沢尾根と呼ばれていた。この尾根上の登山道は、文化11年(1817)に作られた『木師
御林山絵図』にも描かれており、この時代すでに信州側からの道がひらかれていたことを示している。明治初年には、頂上から甲斐側に至るいわゆる白州道と合わせて、二等里程に編入されたということである。それにしても、本谷から主稜線に抜けるルートを探し出すことは容易なことではなかったはずである。本谷に落ちる尾根はすべて樹林に覆われた岩尾根だし、その間の谷は険悪そのものといってよく、この尾根の取付き付近は複雑な地形となっている。かなりの試行錯誤があったものと推定される。古い道が崩れやすいことから、現在は取付き付近に新道が作られている。西面からの登山はここが一般的で、仙水峠からのルートは明治以後にひらかれたようである。
●参考資料 [T]『信濃博物学雑誌』第1号
[U]木暮理太郎『山の憶ひ出』上巻(龍星閣・1938)
[V]武田久吉『明治の山旅』(創文社・1971)
●地図 甲斐駒ケ岳
大正時代の登山(たいしょうじだいのとざん) <事>
明治は探検登山の時代であったが、年号が大正(1912〜1926)に変わると、ピークハンテ
ング主流から、縦走、谷歩きへと移行し、積雪期登頂がはじまった。2年10月6日、鵜殿正雄は従来不可能と思われていた鋸岳頂稜の縦走に成功。その後、この特異な山稜は、多くの登山者に注目されるようになった。8年には六合目石室が建設され、よい足場を得て登山者の数は飛躍的に増加した。また、南アルプスの大縦走も、すでに明治後期から行なわれており、その基点・終点としての駒ケ岳は重要な位置を占めるようになった。7年7月、木暮理太郎、武田久吉による北岳―間の岳―農鳥岳―白河内岳(広河内岳)―蝙蝠岳―北荒川岳―仙丈岳―駒ケ岳などが、その代表的なものであろう。谷では柳
直次郎が6年、大武川より三峰川に抜けている。積雪期登山は一般には、北アルプスでは大正中期、南アルプスでは大正後期にはじまったとされているが、甲斐駒ケ岳では大正初期にその萌芽を見ることができる。山崎安治によれば、4年11月、舟田三郎は単独で黒戸尾根から山頂を往復しているとのことである(日本山岳会『山』416号)。また、9年11月下旬、近藤茂吉が佐伯平蔵を連れて黒戸尾根を登ったが、悪天候のため屏風小屋で三日間停滞ののち下山している(『登山史の発掘』)。13年3月には地元の野々垣邦富、橋本は黒戸尾根を八合目まで登っている。そして積雪期の初登頂は14年3月31日、平賀文男が人夫三名を連れて、北沢より成功、黒戸尾根を下った。また、厳冬期は翌15年1月8日、慶応義塾大学山岳部・漆山己年夫、今岡義雄、野村
実が戸台の竹沢長衛、深沢松次郎とともに北沢より登った。同年4月30日には法政大学山岳部パーテイも屏風小屋より山頂を往復し
ている。また筆者は鋸岳山頂で「大正15年11月30日再度登る新雪山々美」と書かれたメモを発見した。そして時代は昭和に移る。昭和初期は積雪期登山とバリエーションルートの開幕の時代であった。
●参考資料 今西錦司「新雪の甲斐駒ケ岳」(『三高山岳部報告』第3号・1925、斎藤清明編『初登山』今西錦司初期山岳著作集・1994)
第二尾根(だいにおね) <地>
鋸岳第一高点のやや南より戸台川に落ちている尾根で、角兵衛沢と熊穴沢を分けている。上部には岩稜となっている部分があるが、下部は深い樹林に覆われ、角兵衛沢側に角兵衛の大岩がある。1927年、今西錦司らは、角兵衛沢よりこの尾根の上部を乗越して、熊穴沢左俣から鋸岳に登頂している。この山行により西面の地形が明らかになった。
●記録 *1967年1月2〜3日 大阪工業大学山岳部パーテイ(『岳人』244号)
●参考資料 [T]今西錦司「鋸岳各ピークの名称と信州側登路に就て」(『三高山岳部報告』第6号・1929)斎藤清明編『初登山』(今西錦司初期山岳著作集・1994)
[U]山斗岳友会「南ア鋸岳第二尾根―甲斐駒ケ岳縦走」(『岳人』317号)
●地図 甲斐駒ケ岳
第二高点(だいにこうてん) <地>
鋸岳南端のピークで標高2675メートル。中ノ川乗越の北西に位置し、乗越よりガレ場の斜面を経て容易に登頂することができる。頂上は広く最高点には石垣があり、錆びた剣が立っている。南面、熊穴沢右俣側は大きな岩壁となり、第二高点南壁と呼ばれている。北面の第一高点に続く頂稜は、大ギャップと呼ばれる深い切れ込みで、垂直に近く落ちている。頂上から南西に伸びる岩尾根は熊穴沢を二つに分けており中央稜と呼ばれている。鋸岳の南限については異論もあろうが、地形的に見ればここが最南のピークである。明治44年(1911)、星
忠芳は日向八丁尾根から中ノ川乗越を経て、登山者としてはじめてこの頂に立ったが、大ギャップにはばまれて、第一高点への縦走を断念している。この時すでに、頂上に石垣が積まれていたということで、ここも信仰登山の対象となっていたようである。
●記録 *1911年7月19日 星 忠芳、水石春吉(『山岳』第6年第3号)
●参考資料 佐藤文二「鋸岳」(『登高行』第3年)
●地図 甲斐駒ケ岳
第二高点南壁(だいにこうてんなんぺき) <地>
鋸岳第二高点の南側は、熊穴沢右俣に向かって急傾斜で切れ落ち、高さ150メートル、幅200メートルほどの岩壁となっている。極度に脆い崩壊壁で、左に寄るほど傾斜は落ち、右側は垂壁となっている。中ノ川乗越からガレ場を下れば容易に岩壁の下にでることができる。壁には顕著なバンドが二本走っており、初登はこれをたくみに利用している。崩壊がはげしく、初登ルートは現在くずれてしまっているそうである。角兵衛の大岩とともに鋸岳にある数少ない岩壁だが、登攀するものはほとんどいない。初登の記録には正面壁とある。熊穴沢の頭より壁の全貌がよく見える。
●記録 *1965年9月24日 丸毛光雄、上松忠夫(東京雄嶺山岳会―会報『影法師』11号)
●地図 甲斐駒ケ岳
第二最高点という名称をめぐって
(だいにさいこうてんというめいしょうをめぐって) <事>
この名称がはじめて使用されたのは『山岳』第六年第三号(1911-11)中で、星
忠芳撮影による写真の説明に「鋸岳絶頂(第二最高点より)」とある。明治44年(1911)7月、星は辻本満丸とともに、日向山より烏帽子岳、駒ヶ岳を経て鳳凰山に縦走しており、その際、現在名の第二高点に登山者としてはじめて登頂した。「鞍掛山・烏帽子岳・鋸岳を経て駒ケ岳」(同号)の中で、鋸岳の頂稜について以下のように述べている。「本岳は鋸岳連山中、最高峰に次での高峰として、その間の連続は、赤河原の覚兵衛の岩、及び絶壁として、再び絶ゆるを以て、基底にては連絡すれど、頂上にては、別峰の如く分るを以て、何かとこれに名称を付す必要を感ず。例えば富士山に剣ケ峰、三島ケ岳、駒ヶ岳等のある如く、鋸岳にも各峰を云い表わす、名称あり度く思われたり」。以上のように名称の必要性を述べているが、紀行中では特別な名称を使ってはいない。また、同行の辻本は、この紀行の続編ともいえる「甲斐駒ケ岳山脈縦断記」(『山岳』第7年第1号、1912-5)中で、駒ヶ岳山頂付近の一つの峰を第二最高点と呼んでいる。これは頂上に次いで高い地獄谷の頭のことで、さらに同じ紀行中、アサヨ峰でも主稜線上の一峰を第二最高点と呼んでいる。したがって、これは単に「主峰に次ぐ二番目に高いピーク」という程度の軽い意味で使用したものらしく、
固有名詞として呼んだものではないことがわかる。当然、鋸岳での名称も固定したものではない。明治45年(1912)年7月、登山者としてはじめて鋸岳の最高点に立った小島烏水は「鋸岳の最高峰」(『山岳』第8年第1号、1913-4)中で、現在の第二高点を第二高峰、または第二高点と呼び、一定していない。これは前記の星の写真の説明を参照したと思われるが、二つの名称を使用しているのをみると、それほど名称にこだわっていなかったように思われる。はじめて、この頂稜の縦走に成功した鵜殿正雄も同様で「鋸岳縦走記」(『山岳』第9年第1号、1914年6月)中で、やはり第二高峰、第二高点と呼んでいる。また、大正10年(1921)8月、角兵衛沢から駒ケ岳に縦走した中条常七は「鋸岳尾根伝い」(『登行高』第5年、1924-12)中ではじめて第二高峰という一定した名称を使用している。このピークが、第二高点という現在名に固定したのは、今西錦司が「鋸岳各ピークの名称と信州側の登路に就て」(『三高山岳部報告』第6号)中で、「自分が第二高点を選んだのは別に根拠があるわけではなく、この方が口調がいいからである」と述べた以後である。渡辺公平らの『南アルプス』(三省堂・1935)でこれを採用したので、この名称は一般化し、現在に引き継がれた。
大坊(だいぼう) <地>
大武川最奥の100戸ほどの集落名。むかしは「でーぼー」と呼ばれていたらしいが、現在は上記のように呼んでいる。集落の中ほどに笹の平付近を水源とする滝道川が流れている。大坊という名称は、巨人伝説のダイラボッチに関係があるともいわれている。また文
祿年間に大坊山法輪寺という寺があり、その山号を採ったともいわれていたが、寺建立以前に大坊村と称していたことが最近明らかになった。滝道川の支流には法輪寺沢という名が残っている。この沢奥に1930年代まで駒ケ岳鉱泉が営業していた。大武川沿いに篠沢大滝キャンプ場(1984年開設)があり、大堰堤の北に「殿様の足跡」と呼ばれる花崗岩の大岩がある。また、無形文化財として「馬八節」が残っている。
●地図 長坂上条
ダイヤモンドフランケ(だいやもんどふらんけ) <地>
赤石沢左岸にあるダイヤ型の岩壁群の総称。この周辺を開拓した赤蜘蛛同人によって名付けられた。(→赤石沢ダイヤモンドフランケ)
●地図 甲斐駒ケ岳
鷹岩(たかいわ) <地>
三峰川の支流、黒川の右岸にある。戸台への道が小トンネルを出たあたりにある蛇紋岩の露岩。白いタカの形をした斑点があることから、このように呼ばれた。古い紀行文には「雄鷹岩」と書いてある。
●地図 信濃溝口
高岩(たかいわ) <地>
日向八丁の鞍掛沢側にある岩壁で、標高2301メートルピーク(仮称・高岩の頭)を中心に長さは1キロメートルにおよんでいる。高さ100〜200メートルはあるが、ブッシュや樹林に覆われた部分が多いので見映えはしない。この周辺は、ほとんど登山者は入らず、岩登りの対象になるかどうかは不明。露出した岩は一枚岩か垂壁が多い。高岩ルンゼから取り付けよう。黒戸尾根や尾白林道から一部が見える。『山岳』第七年第一号中に、辻本満丸は「台ケ原の老人の画きたる図に高岩と云うあり、大岩のことを斯く呼ぶこともあるものにや」と疑問を提出している。これは高岩という名称を紹介した最初の文献だが、現在は日向八丁の側壁を呼んでいる。
●地図 甲斐駒ケ岳
高岩ルンゼ(たかいわるんぜ) <地>
尾白川・鞍掛沢源流より日向八丁東面に突き上げている小沢群の総称。上流より、上のルンゼ、左ルンゼ、右ルンゼと呼んでいる。高岩のアプローチとも考えられるが、滝が連続しており楽しめる。左ルンゼには高さ100メートル近いフェース状の滝がある。落差はいずれも400メートル前後、傾斜35度。上のルンゼの記録は未発表。
●記録 *左ルンゼ=1981年10月24日 北川勇人、譜久島 仁、中野与三郎(『白稜』251号、『岳人』418号記録速報) 1982年2月13日 北川勇人、下畑喜久次a、石川雅夫a(a東京岳人倶楽部―『白稜』250号、『岳人』420号記録速報)
*右ルンゼ=1982年5月29日 北川勇人、丸山 泰(『白稜』251号)
1983年1月1日 北川勇人、平松 慈、丸山 泰(『白稜』250号、『岳人』429号)
●地図 甲斐駒ケ岳
高遠町(たかとうまち) <地>
高遠は三峰川と藤沢川が合流する段丘地帯に発達した典型的な谷口集落で、内藤氏三万三千石の旧城下町。町はずれの高台に高遠城跡があり、4月下旬には数百本の桜が開花して、この古い町に彩りをそえる。また5月のアヤメも有名である。蓮華寺には絵島の墓があり、観光の名所となっている。絵島は七代将軍・家継の生母・月光院付きの女中年寄として大奥に入ったが、役者・生島新五郎と問題を起こし、当地に流され、28年間ひっそりと暮らしてその生涯を終えた。伊那からバスが通じ、また茅野からも杖突峠を越えてバスが通じている。南アルプス北部へのアプローチの途中にあるため、通過してしまう登山者が多い。「高遠は山裾の町、古き町、行きあう子らの美しき町」と田山花袋に歌われたが、ここにも近代化の波がおしよせ、新しい建物が多くなった。しかし、まだ古い街並みが残っている。一度は訪れたい所である。町営の温泉施設があり、近くに高遠湖、山室温泉がある。
●地図 信濃溝口、高遠
タカミヤ沢(たかみやさわ) <地>
大岩山北西尾根より中ノ川に落ちる小沢で、水平距離800メートル、落差500メートル。出合いは中ノ川中流の河原である。名称は『山梨県山林課調査図』に依った。
●地図 甲斐駒ケ岳
高嶺(たかね) <地>
甲斐駒山脈中の一峰で、早川尾根東端のピークとされている。標高2779メートルの円頂。東に鳳凰山の一角、赤抜沢の頭(2750m)、西に白鳳峠(2450m)があり、峠に向かって大斜面を作っている。昔は「てんごうだけ」(天狗岳と当て字された)などともいわれたらしいが、芦安村では古くから高嶺と呼んでいたようである。甲斐駒ケ岳と北岳の眺めがすばらしい。
●地図 鳳凰山
滝沢(たきさわ) <地>
大武川右岸の一支流で、赤薙沢出合いの上流側にあり、出合いは上一条の滝の上流側にある。水平距離2.5キロメートル、落差1400メートルに達する。源流は早川尾根の頭から2553メートルピークにまでひろがっている。出合いに数段になった落差70メートルほどの滝があり、上流にも滑滝が多い。源流は伐採跡で荒れている。右岸、赤薙沢との間の尾根は、かつては早川尾根と呼ばれていたようで、早川峠(広河原峠)への踏跡があったものと思われる。
●記録 *1965年9月23〜24日 中条洋四也、坂井宏二(『白稜』197号)
*1976年1月7〜8日 小林賢一郎、渡辺 裕(紫山岳会―『大武川遡行記録集』1977)
●地図 長坂上条
滝道川(たきどうがわ) <地>
黒戸尾根1628メートルピーク(笹の平上部)に発し、東に流れて大坊の集落の中央を抜け、中山の麓で大武川に合する。水平距離6キロメートル、落差1000メートル。下流にはかつて瀑流帯があり、名称はそこからきているものと思われる。この瀑流帯は現在、護岸工事と堰堤で埋まっており、仙人の滝(10m)と五色の滝(5m)があるにすぎない。『甲斐国志』に滝戸沢と書かれているが、「と」とは両岸が迫った急流を指している。上流は平凡な長柄であり、地図にある岩記号は泥壁である。大坊にある橋には滝堂川と書かれている。右岸の支流は法輪寺沢である。横手から中流に遊歩道が通じている。
●記録 *1986年8月13日 小林 隆、山崎盛夫(『白稜』251号)
●地図 長坂上条
竹沢長衛(たけざわちょうえ) <人>
1889年、長谷村戸台に生まれる。猟のため戸台川一帯をくまなく歩いた。南アルプス北部信州側の名案内人として知られ、数多くのパイオニヤワークに参加した。1925年3月、三高・桑原武夫らの積雪着・北岳・仙丈岳初登頂に参加。1929年には京都大学・高橋健治らと北岳バットレスを開拓。1932年、京大のサハリン東北山脈踏査行にも参
加している。甲斐駒ケ岳では1926年、慶應義塾大学・野村 実らの厳冬期初登頂、
1930年冬には鋸岳縦走に参加している。また同年11月、北沢峠の下に独力で北沢長衛小屋を建設。南アルプスの重要な基地として、多くの登山者に利用され今日におよんでいる。遭難救助、登山道の整備にも力を入れ、南アルプスの紹介に努めた。1958年3月没。北沢長衛小屋の近くにレリーフが作られている。
●参考資料 [T]向山雅重「竹沢長衛のこと」(『岳人』210号)
[U]川崎吉蔵「おちこちの人・竹沢長衛」(『山と渓谷』1966-10)
武田節(たけだぶし) <歌>
1957年、米山愛紫作詞、明本京静作曲の新民謡。郷土の武将・武田信玄を讃えたもの。全国的にも広く知られている。
1. 甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に 憂いなし
おのおの馬を 飼いたるや
妻子に恙 あらざるや
あらざるや
2.祖霊増します この山河
敵にふませて なるものか
人は石垣 人は城
情は味方 仇は敵
仇は敵
「疾如風 徐如林 侵掠如大 不動如山」
3.つつじが崎の 月さやか
宴をつくせ 明日よりは
おのおの京を めざしつつ
雲と興れや 武田武士
武田武士
武智鉱泉(たけちこうせん) <地>
JR中央本線・富士見駅の南3キロメートル、釜無川の左岸にある。ここはもう長野県
で、望川閣という宿が一軒あるだけである。重曹泉18度。
●地図 信濃富士見
田沢川(たざわがわ) <地>
日向山東面を源として、国道20号線を横切る付近で神宮川に合する水平距離4キロメートル、落差1000メートルの緩やかな流れで、下半は大平といわれる平坦地を流れている。上部は砂防ダムが連続するガレ沢である。
●地図 長坂上条
丹渓山荘(たんけいさんそう) <建>
戸台川本谷と藪沢との合流点にある山小屋。以前は流れを前にした平坦地にあったのだが、度重なる水害で現在の高台に建て替えられた。戸台の丹渓荘と電話が通じていた。戸台川の奥や、鋸岳登山の基地として貴重な小屋であったが、最近無人となった。藪沢対岸にキャンプ指定地がある。長谷村・上島恵理雄管理。
●地図 甲斐駒ケ岳
単独行(たんどくこう) <事>
単独行は登山という行為の究極のスタイルであるといわれており、近年、単独による果敢な登攀がしばしば行なわれている。しかし、これらはすでに登りつくされたルートを登っているにすぎず、テクニックのみが重視されるきらいがある。この山塊では近代登山の開幕とともに散発的ではあるが、パイオニヤワークともいえる単独行が実施されている。これらはいずれも単独行に特別の意味付けをしたものではなく、結果的にそうなったにすぎない。しかし、一つ一つの記録は当時のレベルから見れば傑出したものであった。ここでは、この山塊がゴールデンエイジをむかえるまでの主な記録を列記する。
○戸台より駒ケ岳横断=1896年8月18〜19日 木暮理太郎
○新雪期・黒戸尾根より駒ケ岳=1915年11月 舟田三郎
○冬期・角兵衛沢より鋸岳第一高点往復=1934年1月7日 山縣一雄
○厳冬期・日向八丁尾根縦走=1940年2月7〜11日 松濤 明
○摩利支天正面岩壁登攀=1940年7月18日 小林隆康
○摩利支天南山稜登攀=1944年8月9日 渡辺 弘
○赤石沢奥壁中央稜=1949年11月3日 松田 孝
○積雪期・摩利支天南山稜登攀=1950年3月1日 川上晃良
竹宇(ちくう) <地>
白州町白須地区西端にある100戸ほどの集落で、この奥に黒戸尾根北口の登山道がある。登山口にある駒ケ岳神社は、竹宇前宮と呼ばれている。登山者はこの集落を通過してしまうが、はずれに尾白林道の入口がある。西側一帯の平坦地は大平と呼ばれている。この地区は、冬期も温和であり、古来より竹の生育に適しており、竹生が竹宇となったものだという。
●地図 長坂上条
竹宇前宮(ちくうまえみや) <建>
尾白川が平地に出るあたりの左岸にある駒ケ岳神社の略称。本宮は山頂にあり、ここは前宮と呼ばれる。祭神は大己貴命(オオナムチノミコト、大国主命の別称だが、古事記と日本書紀とでは解釈が異なっている)。摩利支天峰に奥の院がある(奥の院の位置についてもいろいろの説がある)。信仰登山の基地で宿泊設備もある。境内は幽邃な所で神社の横から尾白川本流を渡れば黒戸尾根登山道(竹宇口)があり、尾白渓谷道の入口もある。付近にはキャンプ場があり、不動の滝へのハイキングコースがひらかれている。社伝によれば、約250年前、駒ヶ岳講の信者によって建立されたというが、その時代は開山以前で、駒ヶ岳講は開山後に結成されたということで問題を残している。横手前宮のように別の講によるものではないだろうか。いずれにしろ詳しい設立年代は不明である。毎年4月12日に奉納神楽が行なわれる。神社の少し手前に広い駐車場がある。
●地図 長坂上条
地獄谷(ぢごくだに) <地>
赤石沢上流から奥壁にかけてを、古くから講中や地元では地獄谷と呼んでいた。この名称は信仰登山の対象となった山の荒涼とした谷につけられた共通の呼び名であり、その源頭に懺悔の場所が現在も残っている。登山者の間では下部からの呼び名である「赤石沢」が一般に使用されている。平賀文男は大武川からこの谷を仰ぎ、その著書『赤石渓谷』の中で以下のように述べている。「地獄谷は駒岳の頂稜から東南に向って開かれた深玄な断崖の岩谷であって奥はうす暗く、灰色の節状節理の岩壁を魔のような山霧が常にものすごくからんでいる。山頂までの高度の差五千尺、それはまさに花崗岩が構成した立体面の総合で
あり、大自然が生んだ悪の芸術である」。
●地図 甲斐駒ケ岳
地獄谷の頭(ぢごくだにのあたま) <地>
駒ケ岳山頂の東150メートルの位置にある本峰より15メートルほど低いピークで、赤石沢の源頭にあたる。摩利支天峰への支稜はここから南に分かれている。赤石沢の源流一帯は古くから地獄谷と呼ばれており、その頂上というわけである。ピーク一帯は信仰登山の聖地となっており、「御本地」と呼ばれ、数多くの石碑が建っている。古い記録ではここを第二高点と書いたものがある。また、信仰登山ではここを頂上として、本峰を奥の院と呼んだこともあった。
●地図 甲斐駒ケ岳
長衛荘(ちょうえそう) <建>
北沢峠にある山小屋。長衛の建設したものだが、管理が長谷村役場に移り、1980年、甲斐駒ケ岳随一のモダンなものに改築された。双児山寄りの台地にあり、すぐ下を南アルプス林道が通っている。長谷村側と芦安村側から村営バスがここまで通じている。120名収容。
●地図 仙丈ケ岳
長衛バンド(ちょうえばんど) <地>
摩利支天中央壁を上下二つに分けるバンド。1952〜53年、この付近を集中的に登った東京聖峰会によって名付けられた。長衛の名はこの外に、長衛沢(鋸岳と仙丈岳にある)と長衛の岩小屋(北岳バットレス)として残っているが、沢名はほとんど知られていない。バンド上に信仰登山のあとを示す石像が残っているのは驚きである。
●地図 仙丈ケ岳
町村誌(ちょうそんし) <書>
明治初期、戦乱からこの国の統一を果たした時の政府は、全国調査の一環として、各府県に郷土誌といったものを提出するように命じた。数年をかけて集めた資料は膨大なものになり、未整理のまま焼失したものもあったが、各県地誌として現存している。このうち長野県町村誌の一部として長谷村のものがあり、甲斐駒ケ岳と鋸岳について以下のように記されている。
「赤河原岳―大いに嶮岨にして高さ六百八拾四丈、山脈?山?連互、周回不分明、村の辰の方にあり、東面は甲斐国に連る。樹林は岳白ハギ生ず。村より北に折れ、黒川谷を経て赤河原より上る。登路一里二十町、其渓川潔にて黒川へ合す」
「鋸岳―高さ五百七拾六丈、山脈長く続き周回不分明、村の辰の方にあり、南は信濃の赤河原岳に接し、北は甲斐国、山に連互し、嶮岨にて樹木生ぜず、村より北に折れ、黒川谷を経て中ノ嶋より上る。登路一里十五町其渓川冷水にて黒川へ合す」 また、付図ともいうべき『全図』が明治9年(1876)に作られている。
チンバ沢(ちんばさわ <地>
濁川左岸の小沢で、笹の沢と小滝の沢との間にある。水平距離1キロメートル、落差
500メートル。対岸の小沢はヤチキ沢である。源頭の標高1458メートルの円頂はチンバ沢の頭と呼ばれている。北側の鞍部まで小滝の沢沿いに踏跡があるので、ピークに立つことは容易である。
●地図 長坂上条
つづみ(つづみ) <地>
大武川本流と篠沢を分ける尾根上にある標高1720メートルのピーク名。三角点は山頂の東側にある。広い円頂で周囲は深い樹林と倒木帯で山頂に至る踏跡はない。『山梨鑑』(注1)駒ケ岳の項に「」山頂駒ケ岳神祠アリ、夏秋ノ候、登拝スル者多シ、山中ニ北尾・中尾・鼓等ノ御料林アリテ松、栂、ヤニ、ミヅメ等ノ林繁生セリ」とあることから、この辺一帯が「つづみ」とよばれていたようである。したがって本来は、つづみの頭と呼ぶべきかもしれない。つづみの語源ははっきりしないが、柳田國男によれば、風が吹く時、つづみを鳴らすような音を出す場所につけられた名称であるという。わざわざこれをとりあげて解説しているところをみると、全国に同名のものがいくつかあると考えられる。音から地名(山名)が出たものに新潟県に御神楽岳があり、かぐらばやしのような音が聞こえて来ることからつけられた名称だという。いずれも風の音、あるいは風の運んだ音であって、特殊な地形や植生によるものと考えてよかろう(注2)。1929年に発行された『日本南アルプスと自然界』(流石英治外、朗月堂書店)の紀行中に「小屋の後のコメツガの老樹の間から鼓(ツヅミ)と呼ぶ峰頭が鼓形に見える」とあり注目される。
●注1 『山梨鑑』―明治27年(1894)山梨鑑編纂局発行、小幡宗海、安藤誠治編著、B5版、上下2巻、1100ページ。山梨県について書かれた百科事典のようなもの。海外の記事も多い。甲斐駒ケ岳についての記述は、わずか数行である。
●注2 『甲斐国志』に山から聞こえる音について次の二つの山の記述がある。
姥子山―毎年正月此嶺ニ大鼓ノ音スルコトアリ 山下ノ村 之ヲ聞ケバ其年豊ナ
レトテ悦ブ
滝子山―正月十四日前後ノ山中ニテ笛鼓ノ音シテ囃ノ如シ 是レヲ天狗ノ囃ト云フ
此ヲ聞クトキハ其年必ズ吉事アリトゾ
●地図 鳳凰山
燕岩(つばくろいわ) <地>
大武川支流・カラ沢の左岸に広がる岩壁の総称で、坊主尾根・宮の頭(2200m)、ヤニクボの頭(2165m)の南側に、えんえん2キロメートルにわたってひろがっている。平均傾斜は50〜60度で、高さは数百メートルに達しているが、まとまった露出壁は少ない。規模は宮の頭下の宮の大岩が最大で、他は100〜150メートル程度のものが散在するだけである。この側壁には数本のルンゼがあり、とくに最上流のものは傾斜も急で岩壁に囲まれており興味をそそる(ヤニクボルンぜ)。大武川本流・鵜の首の滝付近から、その右半部
の上部を見ることができる。この壁は駒ヶ岳山中からはまったく見えず、早川尾根がただ一つの展望台である。普通「つばくら」は断崖を意味するが、ここでは燕が翼をひろげた形からきているようである。すなわち幅広い岩壁を意味している。平賀文男の著書によれば、この付近はかつて岩茸採りが、かなり入っていたということで、彼らによって名付けられたものであろう。『山岳』第七年第一号の「甲斐駒の新登路」(辻本)中に「宮の頭の背面(南面)には燕岩という恐ろしき岩壁のある由なり」とはじめて紹介されている。駒ケ岳の一般登山道からは見えないため、登攀対象として認識されたのはおそく、1980年代以後である。
●記録 *右ルンゼ=(付図R4)=1985年2月14日 山下智夫a、青木昭司b、池 学c(a徒歩山渓会、b無所属、cRCC神奈川―『岳人』457号記録速報)
*ヤニクボルンゼ・右ルンゼ中間壁〜右ルンゼ奥壁=1988年5月2日 池 学a、白井秀明a、吉岡秀樹b(aRCC神奈川、b自治医科大学ワンダーフォーゲル部―『クライミングジャーナル』No.36)
*ルンゼ状スラブ(R2左の壁)=1988年5月3日 同上パーテイ
*中央ルンゼ(R1)=1987年12月28日 池 学、白井秀明(RCC神奈川―『岩
と雪』128号)
●付記 『クライミングジャーナル』No.36誌上に「つづみ南壁ルンゼ状スラブ」、『岩と雪』128号誌上に「ツヅミ中央ルンゼ」とあるが、つづみのピークはカラ沢側には面していないのでこの命名は不適当である。
●地図 長坂上条、鳳凰山
つばめがえしの壁(つばめがえしのかべ) <地>
大武川・カラ沢上流部右岸にある岩壁で、大滝上から源流部まで続く垂壁である。すっきりした露出壁はわずかで、岩登りの対象としての興味は少ないが、ヤニクボルンゼ出合いの対岸には、冬期、氷が発達して甲斐駒ケ岳随一の氷瀑を作る。高さ250メートル。一部でカラ沢ナメタと呼んでいる(仮称)。
●記録 *大氷瀑(キャトルキャール)登攀=1987年12月30日 北川勇人a、中根穂高b(a日本絶壁仲間、b信大よい子組―『クライミングジャーナル』No.34)
●地図 長坂上条
燕の巣(つばめのす) <地>
大武川・カラ沢源流、宮の大岩直下にある岩小屋で、1980年、小林 隆らによって発見され、筆者により命名された。宮の大岩の下は広い緩傾斜の草付帯となり、その最下部、扇の要の位置にこの岩小屋がある。大きな岩庇の下に数名収容でき、西に面した部分も宿泊可能である。すぐ横に細い流れもあり、直下は壁状となって明るく環境は申し分ない。宮の大岩、ヤニクボルンゼ等、カラ沢源流探査の基地として使用されている。
●地図 長坂上条
天狗岩(てんぐいわ) <地>
昔から天狗は山に住むものといわれていた。したがって山の岩場には天狗岩と名付けられたものがかなりの数にのぼっている。命名は形からきたものもあるが、ほとんどは天狗の住んでいそうな岩場ということからきている。この山には三つの天狗岩がある。尾白川・不動の滝上流左岸にあるものが一般に知られているが、これは古くからあるものではなく、尾白渓谷道の開拓時(1921)に、観光用に他の多くのものとともに命名されたもので、こじつけの感がある。岩場自体はとくに目立ったものではない。また桑木沢下流右岸にもあるが、登山者にはほとんど知られていない。他の一つは流川支流。小俣沢源流にあるもので、平久保の池東方にある標高1209メートルのピーク名である。近くに本来の岩場があると思うのだが未だ確認はしていない。
●参考資料 岩科小一郎「天狗ノート」(『山と民俗』岩崎美術社・1968)
●地図 長坂上条、小淵沢
天狗の壁(てんぐのかべ) <地>
戸台川本流・白岩ダム上の右岸にある岩壁で、戸台川の河原からよく見える。最大の交差は150メートルぐらいだが、幅は500メートルほどある。ブッシュもなくすっきりしているのはウシロットビ沢に面した幅150メートルほどである。ウシロットビ沢の滝場の入口付近が取付きで、中央部に試登のあとがある。右方のリッジは一見快適なルートのようだが、ブッシュが多く岩ももろい。やわらかな石灰岩で埋込ボルトのききがわるく試登程度に終っている。中央部に顕著なクラックが上まで伸びているので最近流行のハードクライムの対象となるかもしれない。
●記録 *右リッジ1980年9月20日 中岡 久、北川勇人、任 上彦(『白稜』250号)
●地図 甲斐駒ケ岳
伝説(でんせつ) <事>
甲斐駒ケ岳に関する伝説はいろいろあるが、大まかに言って、造山伝説と馬に関するものとの分けられる。造山伝説は日本中どこにでもある一種の開闢伝説であって、巨人ダイラボッチの活躍がここでも認められる。南アルプス北部の山々は、むかし、巨人が両足をふんばって伊那谷から富士川までをひとまたぎにし、北方の土をすくって白根三山、仙丈
岳、甲斐駒ケ岳、鳳凰山などを作ったといい、掘った跡が諏訪湖になったといわれている。白根三山のふもとの奈良田には、その時の「巨人の足跡」というものが残っている。東山麓の中山の造山伝説(→中山)も同じ系統で、小型化したものである。この巨人ダイラボッチの話は、釜無川沿いにいくつかあり、例えば「御崎の飛石」と呼ばれる大岩が七里ケ岩中に現存している。巨人がこの石を踏み台として駒ケ岳までひととびにしたという話で、甘利山の硯石にも似た話が残っている。八ヶ岳山麓にも「こぶち」と呼ばれる足跡があり、やはり巨人がそこを足場として山を越えたという。現在の小淵沢の起こりである。この巨人伝説は時代が下がるとともに想像上の人物から実在の人物へと移って小型化してくる。これは伝説変遷の典型的はパターンの一つであって、ここでは、ダイラボッチ→ヤマトタケルノミコト→聖徳太子→新羅三郎義光→武田信玄という変化を見せている。教来石にはヤマトタケルノミコトが東征のおり、腰掛けて休んだという話があり、若神子には「信玄の足跡石」と呼ばれるものが現存している。この造山伝説の基底となるものは、山は本来、神が作ったという素朴な信仰であって、それが時代とともに、原形がくずれて、想像上の巨人へと変化したものであろう。いっぽう、馬に関する伝説には古くから「天津速駒」の話が伝わっている(→天津速駒)。『日本書紀』雄略天皇の項に出てくる「甲斐黒駒」の話は、この地方の馬に関するもっとも古い文献として知られているが、内容はむしろ伝説に近いものである。話は、天皇が些細なことで木工某を殺そうとしたが後悔し、赦使を甲斐の黒駒に乗せて刑場におくり、危うく一命をとり止めたというものである。馬の飼育の歴史は四世紀まで遡れるといわれているが、六世紀以後、この地に朝鮮からの渡来人が移り住み、飼育が盛んになったようである。やがてこの地方は、ヤマトタケルノミコトの東征の話に象徴されるように大和朝廷の勢力下に入り、貢馬の制度が行なわれるようになった。甲斐の黒駒の話は、この検証としての意味を持っているといわれている。また『続日本紀』聖武帝天平三年の項に「甲斐国神馬ヲ献ズ、身黒ク髪白シ」とあり、これから聖徳太子が尾の白い馬で山頂を往復したという伝説が生まれている。この通り道が尾白川であり、『甲斐国志』にもあるように、この水源に神馬が住むという話へと変化していく。馬に関する伝説で重要なのは、最後は山に結びついていることで、この山の命名に関連しているということである。
●参考資料 土橋里木『山梨県の民話と伝説』(有峰書店・1979)
刀利天祠(とうりてんし) <地>
黒戸尾根前屏風を登りきった小平地を一般に刀利天狗と呼んでいる。ここには刀利天の小祠があるので、本来は刀利天祠と呼ぶべきところであるが、いつかこのように呼ばれるようになった。これは平賀文男が『南アルプス』中で「一際急崖となっている処を攀じ登れば其処は前屏風の頭(1873m)だった。小さな祠や刀利天狗、或は何々霊神と刻まれた石碑が沢山建っていた」と述べており、以後の解説書がすべてこれを採用しているからである。
たしかに刀利天狗と書かれた石碑もあるが、本来、天狗は妖怪の類であって、刀利天狗というものはない。この名称に疑問を提出したのは岩科小一郎がはじめてで「甲斐駒ケ岳雑談」(『岳人』160号)中に「刀利天狗という奇妙な地名」と書いている。刀利天とは梵語の当て字であって、六欲天(凡夫の有する六つの欲を表わしたもの)の第二天を呼ぶ。『開山記』によれば、前屏風の上に祭られたのは刀利大権現猿田彦命となっている。かつて猿田彦命の小像がここにあり、これが天狗と思われていたので、刀利と天狗が合体して使われるよになったものであろう。この山の信仰登山は論理で武装された修験道によるものではなく、庶民の登山であり、それがこのような名称を生んだものと思われる。
戸台(とだい) <地>
甲斐駒ケ岳西面最奥の集落名。現在わずか数戸の小集落である。小黒川の両岸に家が点
在しているが、かつては戸台川右岸の日当たりのよい南斜面にまでひろがっていた。この斜面の集落は、文化14年(18817)に作られた『木師御林山絵図』には「藤岱」と書かれており、その下に「戸台」とある。しかし、この絵図の元になった『元禄図』には「藤岱」とあるだけで、その下には「ひじり島」と書かれていたという。読み方が同じであることを考えると、戸台とは藤岱から出たものであるということができよう。この「岱」という字は、柳田國男の『地名の研究』によれば、傾斜地を表わすという。この集落にふさわしい名称であるといえよう。現在は数軒の廃屋があるだけである。名案内人といわれた初代・竹沢長衛はここの出であった。高橋白山の1881年の紀行には「戸台は三戸で、藤戸袋は二家」と書かれている。その後、1896年にここを訪れた木暮理太郎の紀行には二戸とあるが、「南向きの段丘の裾」とあるので、藤袋のことかもしれない。1907年の鳥山悌成、梅沢親光の「白崩岳に向うの記」(『山岳』第2年第3号)には「戸台は三戸の里」と書かれている。かつては南アルプス北部の登山基地として重要な位置を占めていたが、南アルプス林道の開通によって、ここを訪れる登山者は極端にすくなくなり、孤立した集落となった。
●地図 甲斐駒ケ岳
戸台川(とだいがわ) <地>
甲斐駒ケ岳本峰西面にその源を発し、ほぼ西に流れて、戸台付近で小黒川と合流して黒川となる。長さ10キロメートル、落差2000メートル。駒ケ岳西面、鋸岳南面の流水はすべてここに集まっている。下流三分の二は広い河原で、白岩ダム、戸台ダム等がある。上流部は駒ヶ岳山頂に至る戸台川本谷と仙丈岳北面に至る藪沢とに分かれている。左岸の高さ300〜400メートルに南アルプス林道が通っているが、河原からではほとんど見えない。南アルプス北部の伊那側からの入山路が河原に続き、藪沢に入って北沢峠を越えている。この道は古いもので、江戸時代後期には、ここから野呂川を通って甲斐側に出る道がひらかれていたようである。河原から仰ぐ駒ケ岳はピラミッド型の白いピークで、かつて「白崩岳」と呼ばれていたことがうなずける。宝暦6年(1756)の『駒ケ岳一覧記』に木曾駒ケ岳からの展望中、「戸台の岳、寅卯の方に当る」とあるが、戸台川の奥にある山という意味で、甲斐駒ケ岳を指したものであると思われる。なお、戸台川を黒川と呼んでいる古い文献もあり、ここが黒川の本流であることがうかがわれる。
●地図 仙丈ケ岳、甲斐駒ケ岳
戸台川源流トラバース道(とだいがわげんりゅうとらばーすどう) <地>
本峰西面の六方石から主稜の北西尾根にある六合目石室に通じる踏跡がある。戸台川本谷源流部を横切るもので、六方石の水場から、ほぼ水平にトラバースしている。現在、本谷左俣上部の崩壊地の通過が困難なので、一般登山道とはいえず、どの地図からも消されてしまっている。しかし、左俣周辺を除けば、かなりはっきりした道である。古くは、お中道と呼ばれ、六合目から摩利支天峰への近道として利用されていたらしい。この道はたくみに樹林帯を縫っており、悪天候の際の回避路だったのではないかとも考えられる。
●地図 甲斐駒ケ岳
戸台川本谷(とだいがわほんだに) <地>
藪沢と分かれた戸台川は本谷と呼ばれ、本峰西面の流水はすべてここに集まっている。谷は下流とは趣きを異にし、屈曲が多く、両岸が迫って滝が連続している。右岸には七丈の滝沢、水場の沢、左岸には駒津沢、奥駒津沢等の枝沢があり、いずれも急傾斜で大きな滝があり、登攀対象として興味深い。源流は花崗岩帯となって二つに分かれ、右俣が山頂
に達している。とくに本峰直下は、風化した白い岩とガレが遠方からも見え、白崩岳といわれる原因を作っている。この源流地帯を除けば、砂岩、スレートを主にしており、駒ヶ岳の他の谷とは構成を異にしている。壮大な岩壁はないが、奥駒津沢の奥から、水場の沢大滝、七丈の滝、嫦娥岳南面を通る岩壁帯があり、谷を険しいものにしている。水平距離3.5キロメートル、落差1500メートル。下流1キロメートルほどに六合目石室に至
る一般登山道があり、五丈の滝下から右岸の尾根(第四尾根)を登っている。なお、赤河原という名称は、この谷全体を指す場合もある。
●記録 *左俣=1940年7月下旬 安藤英雄、杉浦六郎(銀嶺山岳会―『山とスキー』2号)
*右俣=1953年8月18日 恩田善雄、清水茂七(『白稜』72号)
1959年12月30日〜1月1日 諸橋政弘、清水光俊、山本一彦(東京雄嶺山岳会―『岳人』156号)
19611年2月19〜21日 加藤昭男、松居一彰、谷口博昭(『白稜』164号)
●参考資料 蟻の会「甲斐駒ケ岳戸台川本谷の冬」(『岳人』270号)
●地図 甲斐駒ケ岳
戸台川本谷無名沢(とだいがわほんだにむめいざわ) <地>
駒津峰西面にある小沢で、水場の沢出合いよりやや上流の左岸で本流に合している。出合い近くに高さ25メートルのチムニーの滝、その他、数個の滝がある。落差500メートル、傾斜40度。水量は少なく夏期の遡行価値はないが、冬期は氷が発達するらしい。東京緑山岳会の報告によると奥駒津沢となっている。
●記録 *1967年2月10〜11日 河野武夫、川原 崇、中島正晴、根本 亨(東京緑山岳会―30周年記念号『登攀』1969)
●地図 甲斐駒ケ岳
戸屋平(とやっぴら) <地>
流川の支流・小俣沢の源流左岸にある。平久保の池の東南にある三角点のあるピーク。標高1228.9メートル。東に宮ノ沢が落ち、東南に加久保沢が落ちている。
●参考資料 山村正光著『中央本線・各駅登山』(山と渓谷社・1994)
●地図 小淵沢
トラバースバンド(とらばーすばんど) <地>
赤石沢源流を横切るおおきな岩棚で、第一バンドとも呼ばれている。黒戸尾根八合目からこのバンドの上に摩利支天峰に通じる登山道があり、信仰登山の道として古くから歩かれている。このバンドは赤石沢本谷と奥壁との境界を成しており、ここを辿れば,壮絶ともいえる赤石沢の概要を知ることができる。八合目近くの展望台と呼ばれる地点は奥壁全体を見るのによく、ここに1962年1月、奥壁に逝った森
義正、坪井森次、須藤和雄の遭難碑がある。また八合目台地近くに岩小屋があり、奥壁登攀の基地として利用されている。このバンドは高山植物が豊富で種類の多いことでも知られている。小島烏水は「地獄谷ニ下ラントスル山ノ中ニ、近来細道ヲ拓キ、御中道ト号スレドモ、花崗岩砂 爆シテ頗ル歩ムニ危殆ナリ」(『日本山嶽志』増補)と述べている(→第一バンド)
●地図 甲斐駒ケ岳
鳥原(とりはら) <地>
雨乞岳の東山麓、城の沢沿いにある80戸ほどの集落で、諏訪神社、福昌寺がある。昔
の信州往還はここを通っていたのだが、道が釜無川寄りに変わってからは、とり残された
静かな山村となった。集落のどこからでも雄大な八ヶ岳の全貌が見え、すばらしい環境だったが、近年、その南側の松林一帯が切り払われ、東洋一との醸造工場といわれるサントリー白州工場ができてから、すっかり変わった。北東880メートルの丘の上に、かつての鳥原の塁があり、その東側に教良石民部(『甲陽軍鑑』、『甲斐国志』にその名がある)の居城といわれた鳥原城跡がある。また、この城跡付近は諏訪古墳群の一つとしても知られている。
●地図 長坂上条
┌────────────────────┐
│ 特別連載 │
│ 甲斐駒ヶ岳研究(7) │
│ 恩 田 善 雄 │
│ (東京白稜会) │
└────────────────────┘
長い壁・遠い頂(ながいかべとおいいただき) <書>
1979年、神無書房から出版された井上 進の登攀記で、A5版、227ページ。著者は1970年代のはじめに赤蜘蛛同人を結成して、赤石沢継続登攀に情熱を注いだ。本書は三つの部分にわかれ、冒頭に赤蜘蛛同人の結成から、ダイヤモンドフランケ登攀への過程が、克明に印されている。ダイヤモンドフランケ発見から完登に至るまでの部分が生々しく迫力がある。この登攀とそれに続くセンセイショナルな発表によって甲斐駒ケ岳の岩場は新時代を迎えたといってよい。井上がダイヤモンドフランケAを完登したのは、小林
隆らの初登攀後半年のことであった。しかし、かれはこの岩壁を単独としてではなく、赤石沢側壁群の一つとしてとらえていた。甲斐駒ケ岳の山頂に至るルートとして三つの壁の継続登攀を目指したところに彼のクライマーとしての鋭い洞察力がある。
●付記 井上 進については『岳人』477号(「初登攀物語 15」大内尚樹)に詳しく紹介されている。
長尾(ながお) <地>
流川と濁川を分ける尾根で、長尾根とも呼ばれている。雨乞岳東南の肩、黒津の頭(1797m)より東に伸び、水平距離4キロメートル、標高差1000メートル。この尾根には鳥原より雨乞岳への登山道が通じており、途中、ホクギの平(1600m)、流れコンバ(1690m)等の平坦地を通り、4〜5時間で頂上に達することができるが、刈り払いのない時は上部の笹藪で苦労する。この山塊の山梨県側では、終りに「尾」のつく地名が多い。主尾根から出ている平坦地の続く枝尾根を指していることが多く、尾根の省略形と考えられる。末端付近に石尊神社がある。この神社の南にある小ピーク(948m)は万燈火山と呼ばれ、かつて、烽火台(注)があった所である。釜無川左岸の笹尾の塁と並んで鳥原の塁と呼ばれ、北方警備のための連絡所の跡といわれている。雨乞岳の登山道はこのピーク直下の南側に通じている。
●注 武田によって設けられた小ピーク上の狼煙をあげて連絡する所で、甲斐の各所にある。
●地図 長坂上条、甲斐駒ケ岳
中尾沢(なかおさわ) <地>
尾白川右岸最下流の枝沢で、竹宇前宮の下で本流に合している。水平距離2キロメート
ル、落差700メートル。黒戸尾根の二つの登山口を分けている。中流で二俣となり、右俣本流上部を横手からの登山道が横切っている。滝もなく平凡な流れ。左俣は蛇沢と呼ばれている。
●地図 長坂上条
中尾根(なかおね) <地>
坊主中尾根、烏帽子中尾根などいくつかの中尾根があるが、雨乞岳東南のピーク・黒津の頭(1797m)より南に鬼の窓まで続く小ピークの多い尾根は、単に中尾根と呼ばれている。鬼の窓の北側にある1780メートル圏の平坦地を笹の平と呼び、その北側1780メートルのピークに水晶薙がある。薙周辺はかつて濁山と呼ばれていた。尾根上にはわずかながら踏跡がある。鬼の窓から南側の尾根は大岩山の吊尾根と呼ばれ、ひどい倒木帯で踏跡はない。
●地図 甲斐駒ケ岳
中栗沢(なかぐりさわ) <地>
早川尾根・ミヨシの頭(2700m)から北に落ち、滝となって大武川に合流している。対岸は赤石沢出合いである。水平距離1.7キロメートル、落差1000メートル。出合いの滝場を除けばほとんどがガレで遡行価値はない。
●地図 鳳凰山
中岳(なかだけ) <地>
鋸岳第一高点と第二高点との間にあるピークで、一時期、第三高点とも呼ばれていた。標高約2600メートル。両高点とはそれぞれ小ギャップ、大ギャップを通じて連結している。山梨県側は樹林に覆われているが、戸台川側は、そぎ落ちた高さ100メートルほどの岩壁となっており、その下に第二高点から風穴に出て、このピークをエスケープするルートがある。ピーク周辺は鋸岳でもっとも顕著なナイフエッジが続いている。
●地図 甲斐駒ケ岳
中ノ川(なかのがわ) <地>
釜無川源流最大の支流で、三つ頭北面を源としている。水平距離5キロメートル、落差1300メートル。上流に七つ釜の奇勝、中流は広い河原となり、下流はゴルジュの中に高さ40メートルほどの二つの大滝がある。下流右岸には大平と呼ばれる高原台地があり、出合いからここを通って中流に至る林道がある。左岸は鋸岳東北面を成し、上流から、小ギャップルンゼ,荒沢、編笠ルンゼが落ち込んでいる。出合いの滝は『甲斐国志』巻三十にも紹介されており、「中ノ川ニ在ルヲ大瀑ト云……懸流幾丈激洙近遠ヲ覆フテ霧雨ノ如シ 土人此ニ至ラントスル者ハ盛暑ノ時裸体ニ蓑ヲ荷ヒテ行クト云ヘリ」とある。また、この滝下に竜神を祭り、雨乞いをしたことも伝えられている。支流というより、釜無川源流は、この沢と横岳峠にむかう本流とで二俣になっているというほうが適切であろう。編笠山が二つの流れを分けている。天保6年(1835)の古文書に「中の川山・黒川山」という文字が見られるが、これは特定のピークを指したものではなく、この川奥一帯に沢名をつけて呼んだものと思われる。
●記録 *1930年9月9〜10日 岩瀬勝男下降(関東山岳会―会報『山岳資料』第9輯)
*1931年7月17日 太田 保(明治大学山岳部―部報『炉辺』5号)
*1954年12月24日〜1月3日 山田健三ら15名(『白稜』90号)
●参考資料 原 全教著『東京付近の谷歩き』(朋文堂・1943)
●地図 甲斐駒ケ岳
中ノ川・小ギャップルンゼ(なかのがわしょうぎゃっぷるんぜ) <地>
鋸岳第一高点と第二高点の東北面から、中ノ川七つ釜上部に落ちる急なせまい沢で、水平距離1キロメートル、落差600メートル。出合い近くで第一高点東北稜(ダイレクト尾根)上の鞍部に出る右俣を分け、ゴルジュの中で大ギャップに至る左俣を分けている。中俣本流はゴルジュ状の急なルンゼで小ギャップに達する。鋸岳・中ノ川側で一番登り甲斐のあるルートである。
●記録 *中俣=1963年8月25日 谷口博昭、浅賀一夫(『白稜』184号)
1981年12月6〜7日 寺島由彦、山本和幸(飯能山岳会、学芸大登高会
OB―『山と渓谷』1982-3)
*右俣=1963年8月25日 土淵知之、加藤雅大、野村やよひ(『白稜』184号)
●地図 甲斐駒ケ岳
中ノ川乗越(なかのがわのっこし) <地>
駒ケ岳・鋸岳の山稜上にある鞍部で、熊穴沢の頭(2610m)と鋸岳第二高点との間にある。鋸岳の東側を区切り、南西には熊穴沢右俣が荒涼とした石沢となって落ち、北東側は中ノ川の源流が深い樹林を作っている。標高2480メートル。
●地図 甲斐駒ケ岳
中山(なかやま) <地>
甲斐駒ケ岳東山麓にある小さな独立峰。北に尾白川、南には大武川が流れ、東は釜無川本流に面している。標高887メートルの三角点が山頂にあるが標高差はわずか300メートルしかない。横手、白須から中山峠を経て尾根を辿るか、上三吹から白州町・武川村の境界尾根を登って山頂に達することができる。地図上では黒戸尾根末端のピークのように見えるが、地学上では鳳凰山の東にひろがる巨摩山地の延長であって、小武川左岸と糸魚川・静岡構造線との間をなす桃の木累層上層部の北限に位置している。この桃の木累層上層部については『韮崎市誌』の地形・地質の部に以下のように説明されている。「早川町仙城沢以北、芦安村金山沢まで東西幅約3キロメートルにわたり分布する。千頭星山の南で芦安断層によってその北部延長を断たれて、大馴鹿峠では幅300メートルにせばまった桃の木累層は、北部に入り、小武川沿いの左岸でふたたびその分布が広くなり、下来沢では幅3キロメートルに達し、ここで大武川沖積地の下にもぐり、北限で中山を起こしている」。山頂周辺は黒色頁岩と砂岩が互層をなしているが、西面から北面、東面に至る台地は八ヶ岳が崩れた韮崎泥流によってできたもので、そこには溶岩や火砕物が堆積した数個の流れ山がある。『甲斐国志』巻四十八に「北ニ尾白川、南ニ大武川ヲ帯ビタル孤山ノ巓ニ方四五十歩ノ塁形存セリ、半腹ニ陣ガ平ト云フ平地又水汲場ト云フ処モアリ、麓ヨリ凡ソ三十町許リノ阪路ナリ」とある。天正10年(1582年、武田氏滅亡の年)織田信忠が甲府に攻めこんだとき、武川衆(武川筋の屯田兵ともいうべきもので、騎馬隊を主にした)が、ここにこもったという。1981年、『武川村誌』編纂事業の一環として発掘調査が行なわれた。東山麓の万休院境内に「舞鶴の松」と呼ばれる樹齢400年の古木があり、国の天然記念物に指定されている。巨人伝説(ダイラボッチ)によれば、北方の土をすくって、甲斐駒ケ岳をはじめとする南アルプス北部の山を作ったことになっており、掘ったあとが諏訪湖になったといわれている。この山も鬼が苧柄(オガラ)を通してかついできたが、ここまでくると苧柄が折れたので今の場所に置いていったという。塩山にも似たような話があり、孤立峰に共通したものといえよう。巨人伝説の変形とみることができる。1911
年7月17日、星 忠芳は日向山から烏帽子岳への山行の前に、この頂に立っている。
●参考資料 [T]北巨摩教育会編『口碑伝説集』(1936)
[U]鹿島達郎「中山考」(『白稜』205号・1967)
[V]山村正光著『車窓の山旅・中央線から見える山』(実業の日本社・1985)
[W]武川村誌編纂委員会『武川村誌』(1986)
●地図 長坂上条
中山のスイッチング作用(なかやまのすいっちんぐさよう) <事>
以下は素人の推論であり、科学的な根拠はまったくないことを断っておく。東山麓の孤峰・中山は地理的には本来、鳳凰山の東山麓・巨摩台地の続きであり、太古には低い峰続きであったと思われる。したがって大武川の本流は現在の横手付近から、尾白川か釜無川に合流していたはずである。もっとも釜無川は塩川と一緒だったと思われるが。一方釜無川の左岸の韮崎泥流台地は焼く十万年以前に八ヶ岳の一部が崩れてできたもので、この時点で中山と地続きになったと考えられる。これはこの時できたといわれる流れ山が中山の釜無川側に存在することからも証明される。したがって現在の白須一帯は水底となり、一時期、湖が出現したと考えられる。この水は最低鞍部である中山の南側を乗り越えて釜無川に下流域に流れ、やがて中山と台地の間も柔らかい地質のために侵食されて、現在のような流れになったと思われる。すなわち横手付近は初期に南から北の流れの中にあり、後にきたから南に流れにさらされたことになる。これを実証するには横手付近の地質を調査すればよい。地元の地質学者による白須湖底説もあり、わたしの推論を実証しているようにも思える。鹿島の中山、八ヶ岳続き論も一応評価されよう。中山が南、東、西との地続きに変わるにつれ、それをめぐる流れは激しく変化したわけである。
中山峠(なかやまとうげ) <地>
中山の北面にある小さな峠で,横手と台ケ原を結んでいる。標高725メートル。よい道が通じており、峠から中山に登ることができる。
●地図 長坂上条
流川(ながれがわ) <地>
雨乞岳にその源を発し、ほぼ東に流れて下教来石で釜無川に合流する。水平距離6キロ
メートル、落差1300メートル。本流には小規模ながらゴルジュやいくつかの滝があるが、河原状の部分が多いため遡行の魅力に欠ける。むかし、この谷の源流にあるコーゲ薙に岩石を落として雨乞いを行なったということである。かつて左岸の支流に鳳来鉱山があり、マンガン鉱を採出していた。『甲斐国志』巻三十に「下教来村山中転石ノ下ヨリ発ス
或ハ云フ 源ハ無名池ナリト 古名ヲ玉峡川ト云不フ 出蚊ノ後ニ今ノ名トス」とある。これからもわかるように昔は美しい渓谷であったが、土石流によって破壊され、かなりの被害が出たものと想像される。山頂の北東1キロメートルにある大薙の頭(1906m)直下に大薙と呼ばれる大崩壊があり、そのあとと思われる。この災害を忘れないために「流れ川」と改名し、いましめにしたのだろう。糸魚川・静岡構造線が横切っている釜無川右岸の支流は、隣の濁川をはじめとして、宮の沢、シミズ沢、カクボ沢、城の沢等いずれも名うてのあばれ川であった。主構造線に沿って小規模ないくつかの断層があり、それが地質を不安定なものにしたものと思われる。
●記録 *1980年11月9日 池 学(『山と渓谷』1981-2)
1984年7月24〜25日 溝江朝臣(『岳人』459号)
●地図 小淵沢、長坂上条、甲斐駒ケ岳
流れコンバ(ながれこんば) <地>
雨乞岳への登山道がある長尾の上、標高1690メートル圏の平坦地の名称。コンバとは小場、つまり山中のややひらけた所を指すもので、本来は山仕事のための中継地となる所を言った。日向山の東に大石コンバ、尾白川沿いにビワ窪コンバ等があったが、固有名詞として残っているものは少ない。
●地図 長坂上条
流れ山(ながれやま) <事>
七里ケ岩上の台地に、お椀を伏せたような円丘が数多くあり、地理学上では「流れ山」と呼んでいる。今から十万年ほど以前に、八ヶ岳の一部が崩れて、岩石、砂、泥土が流下したさい、溶岩が高温堆積したものがブロック状になり、それを泥土で包んだものが各所に
止まったという。二万五千分の一地図「若神子」「長坂上条」を見れば容易に指摘できる。大きなものはJR中央線の長坂、日野春駅周辺に集中している。なかでも穴山駅の東にある能見山は比高70メートル、直径600メートルで最大級のものである。これらの頂は甲斐
駒ケ岳のよい展望台であり、むかしは甲斐の塁が設けられていた。新府駅近くにある西の森と呼ばれている小山も典型的な流れ山であり、かつて武田勝頼の城のあった所である。釜無川右岸にもいくつかの流れ山が見られる。
●参考資料 西宮克彦著『山梨の自然をめぐって』(築地書館・1984)
ナギ沢(なぎさわ) <地>
大武川左岸、カラ沢と赤石沢との間にある小沢。水平距離600メートル、落差500メートル。カラ沢尾根1936メートル台地を源頭とし、横手の滝の上流に小滝となって落ちている。源流左岸に大きな薙がある。薙を持つ沢に共通した名称と思うが、地元でも不明でほかに同名の沢もないので固有名詞としてよかろう。
●地図 鳳凰山
七つ釜(ななつがま) <地>
釜無川・中ノ川の源流にあるゴルジュで文字通り七つの釜と七つの滝がある。かなり古くから名勝地として知られており、中ノ川出合いからここまで明瞭な踏跡があった。七つ釜明神が祭られて信仰の対象となっていたようである。ここの通過は一般には左岸の踏跡に入って大きく捲いており、全貌は見えない。また、この下から右岸の尾根を登って日向八丁に出る踏跡がある。谷通しの通過は、積雪期は容易で、古くからいくつかのパーテイによってトレースされている。無雪期は1971年、下諏訪山岳会パーテイによって、すべての滝を直登する完全遡行が成された。それによると下から三番目の滝がもっとも大きく、これと五番目の滝の突破に埋込ボルトを使用したという。七つ釜という名称は各地に見られるが、釜がいくつか連続した場所を指している。『甲斐国志』巻三十八に「釜トハ方言ニ深淵ヲ云フ」とあるが、柳田國男によれば、釜の語源は「かまど」の形からきたもので、三方を岩に囲まれた地形を指すものだという。
●記録 *1971年5月29〜30日 幾川、児玉、流石、小野、菊池(下諏訪山岳会―『1972年年報』)
●地図 甲斐駒ケ岳
滑滝沢(なめたきさわ) <地>
尾白川本谷の核心部に、坊主中尾根の側壁ともいえる右岸の大スラブの上を数段の高さ200メートルの滝となって落ち込んでいる。水平距離1.2キロメートル、落差750メートル。源流は坊主中尾根と平行し、本峰北西尾根八合目に達している。稜線直下はハイマツの海である。沢といっても下部は壁状、上部の切れ込みも浅いので、明るく気持ちのよい登攀ができる。水量は少ないが出合い付近の景観は尾白本谷の白眉といってもよい。最近はアイスクライミングのルートとして人気を呼んでいる。地元では無名であり、初遡行のさい、筆者が命名したものが、現在に引き継がれている。
●記録 *1956年7月15日 恩田善雄単独(『白稜』110号)
*1964年11月22〜23日 松居一彰、海老原 隆(『白稜』192号)
*1977年12月31日〜1月1日 渡辺 晃、大嶋範行(べるくらんとー『山と渓谷』1978-5、1980-1)
●地図 甲斐駒ケ岳
南嶺会(なんれいかい) <団>
1930年、百瀬舜太郎、三井松男らによって結成された登山団体で、甲府市を中心として、約60名の会員を有している。創立以来、南アルプス全般にわたってパイオニヤワークを行なっており、地元山岳会として常に指導的役割を果たしてきた。1933年12月、黒戸尾根より駒ケ岳往復、1936年6月、黄蓮谷遡行がある。また、1960年から70年にかけて、甲斐駒ケ岳のバリエーションルートを集中的に登った。会報『南嶺』を発行。
濁川(にごりがわ) <地>
日向八丁尾根下半部の北側を流れて釜無川に合流する、長さ1キロメートル、落差
1500メートルの一級河川。山に入って中流で二分し、左俣は本谷、右俣は笹の沢となる。流域中いたるところに崩壊壁、ガレ場があり、名の通り出水の度ごとに濁流と土砂を押出す荒れた流れであった。しかし、現在は中流まで砂防ダムがあり、護岸工事も完了して、かつてのあばれ川というイメージはない。中流から上は深いV字型の谷で、樹林が谷を覆い、薙と呼ばれる白いガレ場が稜線直下に特異な景観を作っている。笹の沢の源頭一帯を古くは濁山と呼んでおり、谷の名称もそこからきている。1929年発行の流石英治外二名による『日本南アルプスと自然界』(甲府朗月堂書店)に、本流の写真八葉がある。本文中の記事はないが、この渓谷をはじめて紹介したものであろう。下流一帯は滝見物の登山者が古くから入っていたようだが、本格的は遡行を試みたのは山岳巡礼倶楽部パーテイがはじめてで、1942年8月、数パーテイに分かれ、細部に至までのほぼ完全に近い探査を行なっている。山麓に近いわりに遡行者が少ないのは、到達高度の低いことにもよるが、源頭にまとまったピークがないためだろう。『甲斐国志』巻三十、四十七に「鳥原村ノ山中ニ発シ白須ノ公林ヲ経テ釜無川ニ入ル……濁川雲端ヨリ流下ル白砂雪ノ如シ」とある。この谷は1974年、神宮川と改名された。
●参考資料 「濁川水源踏査記録・1942年7月」(『GMS創立25年記念号』)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
濁川・鞍掛沢(にごりがわくらがけさわ) <地>
濁川本谷右岸の支流で、日向八丁尾根の駒岩(2029m)から北方に流下している。水平距離1.5キロメートル、落差800メートルの荒れた沢である。出合いからしばらく登ると正面は高さ150メートルの岩壁となり本流は細い滝となって、その岩壁をたち割るように落ちている。この蝶型の岩壁は濁りの大岩と呼ばれ、山麓からもよく見える。(→濁りの大岩)この滝の上流は扇状にひろがったおおだやかな流れである。普通は滝下から左のガレを登るのだが、滝の左手の尾根に出るまでが悪く、どのパーテイも苦闘している。
●記録 *1942年8月9日 三本良三、加藤平治郎(山岳巡礼倶楽部―部報『ガムス』36号、『ガムス創立25周年記念号』、『山』162号・朋文堂)
*1960年7月13日 市川 正、谷口博昭(『白稜』158号)
●地図 長坂上条
濁川本谷(にごりがわほんだに) <地>
神宮川(濁川)の本流を成すもので、日向八丁尾根2190メートル圏より北東に流下して、右岸に鞍掛沢、日向沢を合し、水平距離3キロメートル、落差1200メートルで笹の沢と合流する。下流一帯は滝と樹林が美しく、地元では濁寝覚と呼んで宣伝したこともあった。中流は大滝、瀑流帯、大滑滝、ゴルジュと変化に富んでおり、源流は深い樹林帯の中に小滝が続いている。鞍掛沢を分岐してからすぐにはじまるゴルジュ帯は、この沢の核心部といってもよかったが、左岸の大崩壊により、取付きの大滝と瀑流帯が埋まってしまった。下流一帯は滝見物のため地元の人たちがかなり入っていたらしい。また登山者も途中までは入っていたようだが、山岳巡礼倶楽部による探査行までは発表されたこともなかった。
●記録 *1942年8月9〜10日 高橋定昌、小山田喜八、鈴木利一(山岳巡礼倶楽部―部報『ガムス』36号、『ガムス創立25周年記念号』、『山』161号・朋文堂)
*1964年12月28日 秋野尊愛、海老原 隆(『白稜』193号)
*1982年1月15〜17日 根来秀夫、茂木完治(大阪わらじの会―『山と渓谷』1982-4記録欄
●地図 長坂上条
濁の大岩(にごりのおおいわ) <地>
濁川本谷の支流・鞍掛沢の中流にあり、中央線の車中や国道20号線からも白い蝶型の岩壁がよく見える。高さは150メートルほどで、鞍掛沢の本流はこの中央に高さ100メートル余の滝となっている。水量が少ないので、落水は煙となって飛散し、登山者の間では「霧滝」とも呼ばれている。見事な岩壁だが、風化が激しく岩もぬれているので登攀には適していない。冬期は氷柱が発達して美しいが、落口までつながることは稀なようである。下記の記録はわずかな機会をとらえて行なわれたものである。
●記録 *1996年2月11〜12日 杉山 力、鴨下賢一(静岡山岳会―『岳人』1996-5,『山と渓谷』1996-5)
●地図 長坂上条
西坊主岩(にしぼうずいわ) <地>
坊主岩は黒戸尾根の登山道からもよく見えるため、古くから知られており、二つのドームはそれぞれ、南坊主、北坊主岩と呼ばれていた。1950年夏、はじめて坊主岩の頂に立ったとき、西側に似たような小ドームのあるのに気付いたが、当時は地元でもその存在は知られておらず当然無名であった。西坊主岩という名称は、1954年11月、氷結した西坊主の沢を登って、この頂に立ち、はじめて命名したものである。この時、周辺の無名の小沢にも名を付けた。それまでは例えば、北坊主の沢は仲間内では中間ルンゼ乗越しの沢などと呼ばれていた。西坊主岩の周辺には大きな岩壁はないし、ドームも他の二つのものに比べれば小規模だが形は似ている。標高2430メートル。北西稜が北坊主の沢と西坊主の沢を分けている。この付近の名称は地元でもほとんどなく、筆者の命名が現在に引継がれた。
●地図 甲斐駒ケ岳
西坊主の沢(にしぼうずのさわ) <地>
尾白川本谷核心地帯の入口付近に右岸から落ちている小沢で、北坊主の沢出合いのすぐ上流にある。逆層のオーバーハングした岩から、わずかな水を落としているだけなので、本谷から沢を確認することは難しい。出合いの滝は高さ60メートル。上流も滝の連続で、落差わずか600メートルの小沢だが、平均傾斜は45度近くもある。源流は傾斜の緩い樹林帯で西坊主岩の西側に達し、坊主中尾根に消えている。冬期は出合いから源流まで氷瀑が続き、アイスクライミングのルートとして人気がある。
●記録 *1954年11月5日 恩田善雄単独(『白稜』87号)
*1978年12月9〜10日 渡辺 晃、大嶋範行(べるくらんとー『山と渓谷』1979-3、1980-1)
●地図 甲斐駒ケ岳
二・七バンド(にてんななばんど) <地>
赤石沢奥壁にある不明瞭なバンドで、第二,第三バンド間にある。中央壁上部から斜めに下降して左ルンゼを横切り、中央稜に達している。右ルンゼ右壁の三本並んだクラックの上にあるバンドはこの続きである。左ルンゼ登攀のさいに名付けられた。
●地図 甲斐駒ケ岳
二の沢(にのさわ) <地>
大武川右岸の一支流で一の沢、赤薙沢間にある。水平距離2キロメートル、落差900メートル。源流は鳳凰山・地蔵岳の北方、離山稜線近くの1890メートル圏に達する。明るい沢で大きな滝もなく、特に難しい所もない。加賀爪鳳南著『鳳凰山』中に「大正12年7月、山梨県土木課員一行は砂防調査のため、大武川二の沢を遡り、字ハナレ山に至り、ミノクチの大岩を経て地蔵岳に登攀したとあるが(通路ナク、危険ニシテ、不案内ノ者ハ此ノ方面ヘ向フニハ充分考処ヲ要ス)と注意している」と、初めてこの沢を紹介している。
●記録 *1965年7月15〜16日 中条洋四也、奥山三徳(『白稜』196号)
*1969年9月22〜23日 松居大和、大竹 実(紫山岳会―『大武川遡行記録集』1977)
*1987年1月25日 梅野 弘、阿部達也、川面長司、広川健太郎(JECC―『岩と雪』121号クロニクル、『山と渓谷』1987-3記録速報)
●地図 鳳凰山
日本登山記録大成(にほんとざんきろくたいせい) <書>
日本アルプスを中心とした近代登山の主要な記録を集めたもので、全二十巻。B5版、
1983年11月、京都の同朋舎出版より刊行された。編者は山崎安治外五名である。『山岳』、学校山岳部部報、山岳雑誌等に発表されたものを主として収録してある。なかには編者の発掘によってはじめて陽の目を見た貴重な記録もある。内容は北アルプスを主にしているが、南アルプスも16〜19巻に収められている。甲斐駒ケ岳に関する古い記録も大体揃っており、以下そのリストを示す。なお、各記録には巻末に簡単な解説があるが、甲斐駒ケ岳に関しては数ケ所、誤りや思い違いがあるので注意を要する。
○第16巻
*白崩岳に登る記―高橋白山
*甲斐駒―木暮理太郎
*甲斐駒横断―W.ウェストン
*白崩岳に向うの記―鳥山悌成、梅沢親光
*白崩山に登り駒岳を降るー鳥山悌成,梅沢親光
○第17巻
*鞍掛山、烏帽子岳、鋸岳を経て駒ケ岳に登る記―星 忠芳
*甲斐駒ケ岳山脈縦断記―辻本満丸
*鋸岳の最高峰―小島烏水
*鋸岳縦走記―鵜殿正雄
*鋸岳尾根伝いー中条常七
○第18巻
*積雪期の南アルプスー湯浅 巌
*三月の白峰と駒―平賀文男
*積雪期における南アルプス登山―国分貫一、野村 実
*甲斐駒ケ岳・鋸岳・仙丈岳―慶應義塾大学山岳部
*三月の早川尾根―酒井吉国
*春の甲斐駒ケ岳―村崎勝行
*二月の鋸岳―沢本辰雄
*三月の鋸岳―斯波悌一郎
*甲斐駒ケ岳摩利支天南山稜の登攀―横田松一
*甲斐駒ケ岳摩利支天南山稜登攀―藤林佐太郎
○第19巻
*甲斐駒摩利支天正面岩壁の登攀―小林隆康
*積雪期甲斐駒ケ岳摩利支天南山稜―川上晃良
*厳冬期甲斐駒ケ岳黄蓮谷左俣(1957年1月の記録)―古川純一
*甲斐駒ケ岳赤石沢奥壁中央稜―森 義正
*甲斐駒ケ岳摩利支天中央壁登攀―横須賀山岳会
*黄蓮谷右俣―東京白稜会
*積雪期甲斐駒摩利支天中央壁―獨標登高会
*赤石沢奥壁(地獄谷)左ルンゼー東京白稜会
*甲斐駒ケ岳赤石沢奥壁の遭難(1962年1月の記録)―東京白稜会
*厳冬期甲斐駒ケ岳七丈沢登攀―日本クライマースクラブ
*積雪期における二つの初登(赤石沢奥壁の記録)―富士宮山岳会
日本南アルプス(にほんみなみあるぷす) <書>
平賀文男二冊目の著書で、1929年6月、博文館より発行された。B6版、363ペー
ジ。『三月の白峰と駒』および『六月の鋸岳』がある。前者は甲斐駒ケ岳の積雪期初登の記録、後者は日向山、鞍掛山を経由して行なわれたものである。
日本南アルプスと自然界(にほんみなみあるぷすとしぜんかい) <書>
流石英治、 篠原 博、秋山樹好共著により、1929年7月、甲府の朗月堂書店より発行された。B6変形版、307ページ。内容は、T.本文(紀行および案内)、U.地形,地質、V.植物、W.動物の四部に分かれており、本文中に駒ケ岳より仙丈岳、白峰への紀行がある。この紀行の特色は、植物と地質の詳細な観察と、地名についての注目すべき記述があることである。駒ケ岳の高山植物は232種、変形変種を含むと246種であると報告されており、第四章に場所別の植物目録がある。また地名では、赤薙沢出合い手前の大武川ゴルジュを「横手八丁」、2167メートルを「宮の頭」、頂上近くの凹地を「宮の窪」、つづみを「鼓形の峰頭」としているのが注目される。六方石については「高さ20メートル、周囲80メートルもある粗粒花崗岩の大岩塊で、不規則の方状節理のため六方状をなすゆえこの名がある」と書かれており、以後多くの案内文に引用された。写真も多く挿入されているが、なかでも濁川の八葉はめずらしく貴重な資料となっている。
韮崎市(にらさきし) <地>
1954年、北巨摩郡韮崎町と周辺の十ケ村が合併して市制を施行した。人口約三万人、面積143.44平方キロメートル。市中にJR中央本線の韮崎、新府、穴山の三駅がある。南アルプス北部、東面からの入口にあたり、各登山口にここからバスが運行している。市内に鳳凰三山、千頭星山、甘利山があり、市の中央を釜無川が流れている。県内養蚕地帯の中心で、峡北穀倉地帯でもある。このはか、果樹栽培もさかんである。歴史的には武田家発祥の地であり、武田勝頼が最後に拠った新府城跡がある。釜無川左岸の七里ケ岩は韮崎駅近くまで伸び、末端に平和観音像と窟観音がある。『甲斐国志』巻十二「韮崎トハ片山七里岩綿連ト長ク細ク如韮葉延タル岩鼻屈然トシテ尽ル処ナレバ韮前ト名ク」とある。また『甲斐叢記』二巻には「韮は並の字の誤りにて並は波と訓通へり、此地塩川、釜無の二瀬の合沓にて重波立つる出崎なれば、波崎と云けんを何の時よりか転変て韮崎とは云うならん」と書かれている。
●参考資料 『韮崎市誌』(韮崎市役所・1978)
●地図 韮崎(5万分の1)
寝木小屋沢(ねきごやさわ) <地>
鋸岳・三角点ピークと横岳の間より南に落ち、戸台川に合する水平距離2キロメートル、落差1000メートル足らずの平凡な沢である。入口はせまいが、中流から上は扇状にひらけ、不明瞭な二俣となっている。左俣つめが横岳峠である。出合いから沢通しに峠にでる踏跡はなく、角兵衛沢から第一尾根を乗越して、中流から峠に出る登山道がある。沢一帯は深い樹林に覆われており、登山道はずれればまったくの迷路となる。この道は古くから猟師によって歩かれており、殺生道と呼ばれていた。峠近くに「大崩」といわれる崩壊壁がある。二万五千分の一地図上に記入された名称の位置は誤りで、東隣の沢が正しい。この横岳に突き上げている沢は、今西錦司「鋸岳各ピークの名称と信州側登路とに就て」(『三高山岳部部報』第6号)によれば、コタキとなっており、さらに西の小沢にはタル沢とある。多分、長衛の言だろうが、現在では通用しない。寝木とは倒木のことで、寝木小屋とは倒木を利用して小屋掛けをしたものを云う。主として猟のために作られたものだが、熊が冬眠するときに作ったものもこう呼ぶらしい。
●地図 甲斐駒ケ岳
鋸岳(のこぎりだけ) <地>
甲斐駒ケ岳の北西に連なる文字通り鋸の歯のような山で、頂稜はナイフエッジ状をなし、五つのピークと二つの深いギャップから成っている。ピークは駒ヶ岳側より、第二高点、中岳、第一高点、角兵衛沢の頭、三角点ピークと呼ばれ、その間に大ギャップ、小ギャップの深い切れ込みがある。南は中ノ川乗越を経て熊穴沢の頭(2610m)に続き、北は横岳峠で釜無山脈に続いている。岩質は古生層の硬砂岩を主体とし、戸台川側は赤茶色の崩壊壁と、そこから落ちる破片岩で埋まった石沢となり、荒涼とした景観を作っている。これに反し、中ノ川側は樹林が稜線近くまで発達しており、そこに滝をかけたルンゼが食い込んでいる。最高点は第一高点で標高2685メートル。五万、二万五千分の一地図上では鋸山となっているが、古名も現在名も鋸岳である。この山については『甲斐国志』ではまったく触れていない。これだけの個性的な山が見過ごされていたのには何か理由があったはずである。筆者は、鋸岳は駒ヶ岳の一部とおもわれていたのではないかと考えている。一方、天文元年(1736)、高遠藩城代・内藤庄右衛門らの木曾駒ケ岳登山記『駒ケ岳一覧之記』中では、山頂からの展望として、尾勝岳(仙丈岳)とともに鋸岳の名をあげている。明らかに鋸岳とは伊那側からの名称なのである。したがって登山記録も古くは伊那側からのものが圧倒的に多い。明治初期に作られた『村誌』中にも、「黒川谷ヲ経テ中ノ嶋ヨリ登ル」と書かれている。中ノ嶋とは現在の角兵衛沢付近と思われ、ここから登るコースが現在でも最短で容易である。記録に残る登山では、明治37年(1904)4月25日、岸田
稔が測量調査のため黒河内新田の右の谷から登ったとされているが、これは横岳峠から三角点ピークまでを往復したものと思われる。上條
武の『孤高の道しるべ』によれば、同年8月には御料局踏査官・三宅勝次郎らによって第一高点上に標石が設置されたという。近代登山では明治44年(1911)7月、星
忠芳によって第二高点が登頂されており、翌年、小島烏水らによって第一高点が登られた。頂稜の完全縦走は大正2年(1913)、鵜殿正雄によって完成された。
●記録 *中ノ川乗越より第二高点往復=1911年7月19日 星 忠芳、人夫・水石春吉(『山岳』第6年第3号
)
*横岳峠より第一高点往復=1912年7月25日 小島烏水、岡野金次郎、人夫・水石春吉(『山岳』第8年第1号)
*第二高点より第一高点へ縦走=1913年10月6日 鵜殿正雄、人夫・宮下藤太郎(『山岳』第9年第1号)
*第一高点より第二高点へ逆縦走=1921年8月14日 中条常七、青木 勝、人夫・小椋亀十、竹沢友幸(『登高行』第5年
*厳冬期初縦走=1930年1月5日 望月太郎、土志田孝之助、小糸栄一郎、橋
本健一(『登高行』第8年)
●参考資料 [T]荒城重好「鋸岳に就て」(『わらじ』2号・松本高校山岳部・1928)
[U]沢本辰雄「二月の鋸岳」(『立教大学山岳部部報』第3号)
[V]斯波悌一郎「三月の鋸岳」(同上)
[W]石原正直「鋸岳岩尾根縦走」(「『山と渓谷』1933-10」
[X]『山岳資料』第9輯(関東山岳会・1931)
●地図 甲斐駒ケ岳
鋸岳各ピークの名称と信州側登路に就て
(のこぎりだけかくぴーくのめいしょうとしんしゅうがわとうろについて) <文>
今西錦司による鋸岳西面の研究文で『三高山岳部報告』第6号(1929)に発表された。各種の文献を統合し,頂稜と西面について述べたもので、今日の鋸岳周辺の名称は、これをもとにしている。昭和初期にこのような研究文が発表されたのは希有のことであって、文末の引用文献も豊富であり、学術論文的なまとめかたは見事といってよい。この文によって西面の地形は明らかになり、多くの登山者を迎えるようになった。
●再録 今西錦司初期登山著作集『初登山』ナカニシヤ出版。1994
鋸岳山頂の名刺入れ(のこぎりだけさんちょうのめいしいれ) <事>
鋸岳第一高点上に置かれたブリキ缶製の名刺入れで、1920年前後に設けられたものらしい。ふたに「鋸岳頂上・名刺入れ」とあり、「石を必ずのせておくこと」と注意書きがあった。当時、六合目石室の管理者であり名案内人として知られた深沢松次郎の設置したもので、古い名刺やメモ類が数多く残っていた。(後図参照) 鋸岳登山の歴史を知る上で、またとない貴重な資料であったが、1970年前後から行方不明となった。筆者は1961年夏、名刺類を分類調査し、戦前のものを発表した。同時期、地元の高校の先生も同じような調査を行なったと聞いている(斎藤清太郎氏談・記録未見)。
●参考資料 恩田善雄外「鋸岳山頂に残された名刺」(『岳人』169号)
乗越沢(のっこしざわ) <地>
鞍掛山駒岩(2029m)との鞍部より、尾白川・鞍掛沢に落ちている小沢。水平距離1キロメートル、落差400メートル。出合いは滝となって中流の河原に合しており、尾白川から鞍掛山への最短登路として利用されている。地元、菅原山岳会の命名である。
●地図 長坂上条
野呂川(のろがわ) <地>
南アルプスの東側を流れる富士川の支流・早川は、白峰三山東面の水を集める荒川を分岐してから野呂川と名を変えている。最源流は北岳西面で、そこから北に半円を描くように流れ、東面を南下している。名の如急な流れはなく、源流地帯を除けば、大体がひろい河原で、水は悠々と流れている。中流左岸に南アルプス林道が夜叉神峠から広河原に下り、支流北沢から北沢峠を越えている。また、下流右岸には電源開発道路が広河原に通じている。この流域は、江戸時代から大規模な伐採が行なわれていた。上流はトクサがとれることから、古くは木賊(トクサ)川とも呼ばれていた。『甲斐国志』巻五、村里部、南野呂村の紹介中に「能呂ハ方言緩ナル事ヲ云ヘリ
西郡ニ能呂川アリ」とその語源を説明している。カモシカをこの地方ではノロといい、ノロの住む川なので野呂川と呼んだともいわれている。なお、下流の早川については巻五十一に「早キ事箭ヲ射ルガ如シ」とあり、対称的である。1939年8月、下村義臣ら(山岳巡礼倶楽部)は約一ヶ月をかけて、支流を調査しながら野呂川本流を遡行した(記録未見)。
●参考資料 [T]山村正光「すこし昔の広河原」(『山と渓谷』1980-8)
[U]斎藤一男「早川」(『岳人』448号)
[V]上田哲農「冬の野呂川試行・1931年12月13〜16日」(『きのうの山・きょうの山』中央公論社・1980)
●地図 鰍沢、韮崎、市野瀬、大河原(以上5万分の1)
白州町(はくしゅうちょう) <地>
1955年7月1日、北巨摩郡・鳳来村、菅原村、駒城村と長坂町の一部が合併して町制を敷いた。南はほぼ大武川本流を境とし、北は釜無川本流を境としている。戸台川流域を除けば甲斐駒ケ岳は山麓までこの町に含まれる。人口約4400人、面積137.56平方キロメートル。白須から台ケ原にかけてが町の行政上の中心である。町名は南アルプスを作る花崗岩の白砂と、町域内を釜無川の主流が網の目のように流れ、州の多いことから合わせて白州にしたという。しかし、白州という名称は新しいものではなく、むかし釜無川畔に「白州松原」と呼ばれた名勝があり歌にも多く読まれていた。『甲斐国志』巻四十八には「白州松原―白須、鳥原両村ノ間、釜無川原ニ在リ
濁川其ノ中ヲ流ル 松樹密生シテ稲麻ノ如ク皆ナ直幹雲ヲ払フ 公林ナリ 白砂清麗ニシテ海浜ヲ望ム光景アリ
白州ノ名虚シカラズ」と書かれている。また、古地図に黒戸尾根道を白州道と書いたものがある。白州町のシンボルは甲斐駒ケ岳であり、町のマークには、この山をデザイン化したものが使われている。山間にたくみに水田が引かれ良質の米を産し、野菜、果物の栽培もさかんである。神宮川のほとりには、世界最大の醸造工場といわれるサントリー白州工場があり、観光の町としても発展しつつある。1996年6月、尾白の森名水公園が開設され、1999年には甲斐駒ケ岳資料館が会館した。
●参考資料 『白州町誌』白州町誌編纂委員会・1986
●地図 高遠、八ヶ岳、市野瀬、(以上5万分の1)
白鳳峠(はくほうとうげ) <地>
1925年7月、地元白鳳会メンバーと菅原山岳会の案内人・高木董博等11名により、高嶺の西鞍部より野呂川に至るルートが開拓され、鞍部に白鳳峠の名称を与えた。以後、北岳に至る鳳凰山塊越えのルートとして多くの登山者によって歩かれたが、野呂川林道が通じ、のち南アルプス林道が開通したため、この労の多いルートを辿るものはまれになった。標高2450メートル。
●参考資料 白鳳会創立60周年記念『白鳳』第6号・1988
●地図 鳳凰山
白稜(はくりょう) <書>
1945年10月に創立した東京白稜会の会報名。創刊より23号までは平凡な機関紙にすぎなかったが、24号(1949年)を境として、甲斐駒ケ岳関係の記事が毎号のるようになり、2000年までに258号を発行。4ページから300ページに近いものまでと、バラエテイに富んでいるが、ほとんどの号に岩場や谷に関する記録があり、この山のパイオニヤワークの歴史を知るには最高の文献となっている。ただ、24号以降を揃えて持っているものは数名にすぎず、何らかのかたちでの集大成が望まれる。ほかに記念号、海外登山報告書、遭難報告書等、別冊が数号出ている。(後図参照)
白稜・甲斐駒ケ岳記録集成
(はくりょう・かいこまがたけきろくしゅうせい) <書>
東京白稜会会報『白稜』内に発表されたこの山に関するすべての記録・文章が4冊のファイルにまとめられている。資料館に展示されているが、ファイルはここだけにしかない。
白稜・風雪の25年(はくりょうふうせつの25ねん) <書>
東京白稜会創立25周年を記念して、1970年11月に発行された。会報『白稜』別冊、B5版、タイプ印刷、180ページ。会の創立以来の歩みを述べるとともに、1949年から1970年に至る甲斐駒ケ岳でのパイオニヤワークの歴史が綴られている。記録欄には後立山東面、穂高岳、上越国境での登攀のほかに、以下のような行動が報告されている。
○北坊主岩東北壁(加藤啓司)
○赤石沢本谷より奥壁左ルンゼ(仲 孝二)
○冬期サデの大岩より摩利支天南山稜(辻 安一)
○冬期奥駒津沢右俣(新藤 研)
また遺稿欄に、森 義正の「左ルンゼを目指して」、甲斐雄一郎の「月光登攀」(冬期赤石沢奥壁中央稜)などがある。(後図参照)
白稜・創立50周年記念号
(はくりょう・そうりつ50しゅうねんきねんごう) <書>
東京白稜会創立50周年を記念して、1995年11月、記念祝賀会で頒布された。会報『白稜』別冊、B5版、435ページ、写真14ページ。創立からの歩みは25周年以後を追加加筆するとともに二つの記念行事の報告がある。カラコルム・ライラ峰(6986m)登山と全国駒ケ岳登山である。後者は全国の駒の付いている山を積雪期か、バリエーションンルートから登った記録である。この書のメインは主力を注いだ山塊の記録集成であって、後立山東面、越後三山、冬期剣岳、甲斐駒ケ岳の記録が、クロニクルとして納められ、主要な記録が再録されている。その他、研究「幻の昭和尾根」、随想等19編がある。
長谷村(はせむら) <地>
長野県伊那郡中にあり、甲斐駒ケ岳西面一帯から三峰川上流の全流域を占める。したがって仙丈岳は山麓までこの中に含まれる。広さは約330平方メートル。『吾妻鏡』にある「黒河内」とは、この三峰川沿いの部分である。中流に美和ダム、美和湖があり、その東岸の溝口が行政の中心である。産業は主として林業。支流黒川に南アルプス林道の入口がある。この三峰川沿いの山々は、江戸期、御林山といって一般人の入山は禁じられており、明治になってから官林に編入された。したがって山中見回り以外の山歩きは猟を除けばほとんど行なわれていなかった。
●参考資料 『長谷村の民俗』長谷村教育委員会―内容未見)
●地図 高遠、市野瀬、大河原(以上5万分の1)
八丈台地(はちじょうだいち) <地>
黒戸尾根八合目は、ハイマツのある広い台地となって樹林帯を抜けており、八丈台地と呼ばれている。八丈とは八合目のことである。講中登山では五合目に泊って、ここで御来光を迎える。御来光場、ハゲ天などとも呼ばれている。黒戸尾根はここではじめて展望がひらけ高山帯となる。ここから赤石沢上部を横切って摩利支天峰に通ずる道がわかれており、入口付近に数名収容できる岩小屋がある。また、台地の南側一帯は岩庇状となっているので不時の場合には退避できる。最西端にある小さなギャップは黄蓮谷左俣のつめである。台地の取付きに石造りの鳥居がある。この建造について『山岳』第十年第一号に以下
のような記述がある。「禿の石小屋側に花崗岩の鳥居が出来た。今年8月9日に私が登山した折、丁度鳥居を建て終った処であった」(「甲斐駒山脈について」大正3年、大槻禎郎)。本来は頂上に建てる予定だったが、許可がおりず、ここになったという。なお台地の標高は2670メートル。
●地図 甲斐駒ケ岳
八丈の岩小屋(はちじょうのいわごや) <地>
八合目の台地より赤石沢トラバース道にすこし入った右側にある岩小屋で、数名収容できる。古くから退避用として利用されている。洞穴状のもので環境は良いが水場が遠く、奥壁右ルンゼの流れを使用することになる。現在は主に赤石沢奥壁登攀の基地として使われている。なお、この50メートルほど下にも岩庇状の良い岩小屋がある。
●地図 甲斐駒ケ岳
八丁坂(はっちょうざか) <地>
戸台川から北沢峠への登山道は、丹渓山荘の下から藪沢に入り、左手の山腹をトラバースして急なジグザグの登りとなる。標高差にして約200メートルのこの坂を八丁坂といい、登りきった所が東大平の一角となる。取付きで渡る流れは双児沢である。南アルプス林道が開通するまでは、北部への入山ではじめて遭遇する難関であり、重荷にあえいだものであった。しかし、現在は北沢峠まで村営バスが通じており、ここを通る登山者は少なくなった。
●地図 甲斐駒ケ岳
早川尾根(はやかわおね) <地>
甲斐駒山脈中の栗沢山より、鳳凰山の西端・高嶺の間を、一般に早川尾根と呼んでいる。名称についてはいろいろ問題もあるが、大正年代後期にはすでに、このように呼ばれていた。アサヨ峰、ミヨシの頭、早川尾根の頭、広河原峠、赤薙の頭(2552m)、白鳳峠を経て高嶺に至る全長7キロメートル。最高点はアサヨ峰の2799メートル、最低点は広河原峠で2344メートルである。この尾根縦走コースは甲斐駒ケ岳南面を見るのには最良の
位置にあり、北岳の展望もすぐれている。
●記録 *1911年7月24〜27日 辻本満丸、星 忠芳(『山岳』第7年第1号)
*1930年3月24〜26日 酒井吉国、沢本辰雄、小林 丘(『立教大学山岳部部報』2号)
●地図 仙丈ケ岳、鳳凰山
早川尾根小屋(はやかわおねごや) <建>
早川尾根の頭直下にある山小屋。北岳の眺めがすばらしく水場も近い。1924年、山梨県山林課によって、南アルプス北部に何軒かの山小屋が建設され、県営小屋と呼ばれた。ここもその一つで、間口二間、奥行三間で、真中が通路になっているという県営小屋独特のスタイルであった。戦後一時期改修されたが痛みが激しく、1984年再改修された。50名収容。白州町管理。
●地図 鳳凰山
早川尾根という名称をめぐって
(はやかわおねというめいしょうをめぐって) <事>
甲斐駒山脈中の栗沢山から高嶺までを早川尾根と呼んでいるが、ほぼ中央にある早川尾根の頭と呼ばれるピークは、この尾根の最低に近いもので、尾根の名称は適切なものとはいえない。主脈中にこだけ別の名称があるのも変な話である。一般に「○○の頭」という名称は、沢のつめのピークに沢名を冠したものや、枝尾根が主稜に合するピークに名付けられているもので、早川尾根の頭とは、枝尾根の頭ということになる。このピークから出ている枝尾根は大武川側にあり、滝沢と赤薙沢を分けるものしかない。現在、この尾根には確たる名称はないが、「甲斐駒山脈縦断記」(辻本満丸、『山岳』第7年第1号)中の付図に「早川尾根」という名称が記入されている。(後図参照) この1911年の縦走記中には早川尾根という記述はないが、早川尾根の頭という名称が出てきており、三角標石を確認している。また、早川峠の位置ははっきりしないと述べているのが注目される。この早川峠は、1909年7月、野尻正英(抱影)の「白峰北岳に登る記」(『山岳』第4年第3号)の付図に出てくるが、これは寛延3年(1750)の絵地図にもとづいたものといわれている。(後図参照) 現在、広河原峠と呼ばれている早川峠は、その昔,柳沢の衆が、野呂川に仕事に入るときに越えた峠という意味から名付けられたものであろう。そして、峠近くに
至る尾根を早川尾根と呼んだと思われる。この早川峠を登山者としてはじめて越えた柳
直次郎は「大武川より三峰川へ」(『山岳』第15年第1号)中で、「此岩小屋から沢を離れて早川尾根を登る道がある」と述べており、支稜が本来の早川尾根であることに間違いはない。この支稜の名称が何時主稜に転化したのかはっきりしないが、大正年代の後期にはすでに主稜の名称として使用されている。転化の原因としては、地名の省略が第一に考えられる。『山岳』第十年第一号の「甲斐駒山脈に就て」(大槻禎郎)は、本来は早川尾根の頭と書くべきところを、数ケ所にわたって早川尾根と書いている。次いで柳
直次郎も「駒岳仙丈岳及鳳凰山塊」(『山岳』第13年第3号)中で、この省略を踏襲している。したがってこのピークが早川尾根と呼ばれ、それのある主稜線が早川尾根と呼ばれるようになったものと思われる。もちろんこれには野呂川開発の変革にともなって、早川峠越えの道が次第に疎遠になり、登山者も主稜を辿るだけで、この尾根の存在を知るものが少なくなったという事情が加わったのであろう。しかも、大正12年(1923)には、ピーク直下に県営小屋が建設され、早川尾根小屋と呼ばれたが、この名称も転移の原因となった。主稜線名として決定的になったのは、1930年3月、立教大学山岳部の酒井吉国らが、主稜線の積雪期縦走に成功して『部報』2号に「三月の早川尾根」を発表したことによる。しかし、登山者全体からみれば反対の立場もあったようで、南アルプス研究家として知られた平賀文男は著書の中には使用しておらず、ピーク名を早川尾根としている。なお、山梨県ではピークを尾根と呼ぶ場合もあるということだが、それが固有名詞になっている場所は見当たらない。戦前もっとも権威ある案内書といわれた三省堂発行の『南アルプス』でも使用していない。1947年、地元に菅原山岳会が結成され、荒れていた南アルプス北部の登山道を整備し、鞍掛沢新コースとともに早川尾根縦走コースを宣伝した。これによって、従来は一定しなかったこの尾根の名称は確定したといってよい。
●参考資料 [T]恩田善雄「早川尾根という名称をめぐって」(『白稜』254号)
[U]山田栄治「早川尾根縦走」(『岳人』75号)
早川尾根の頭(はやかわおねのあたま) <地>
甲斐駒山脈中の標高2643メートルの小ピーク。樹林に覆われた平凡はピークで、南
側直下に早川尾根小屋がある。早川尾根とは本来、このピークから北東に伸びている尾根を指すが、現在では主稜線の一部を呼んでいる。
●地図 鳳凰
バリエーションルート時代の開幕
(ばりえーしょんるーとじだいのかいまく) <事>
バリエーションルートの意義は明確とはいえないが、その嚆矢ともいうべき記録は、明治44年(1911)7月の星
忠芳、辻本満丸による日向山から烏帽子岳を経ての駒ケ岳登頂とされている。しかし、沢登りや岩登りを含んだものといえば、1930年9月の関東山岳会員・岩瀬勝男による黄蓮谷遡行や、翌年5月の同会員・横田松一らによる摩利支天南山稜登攀がはじめてといってよい。これらの果敢な行動は、その後、行なわれたいくつかの登攀への指針となったが、本当の意味での開幕とはなり得なかった。それは、当時の山岳界の中心であった学生層登山者がこの山塊から去って、北アルプスの岩場を求めたことが第一の原因であり、一般社会人登山者の中では、まだごく一部の人を除いては激しい登攀への指向は熟していなかったのである。ごく少数の先鋭登山者が谷川岳という格好のゲレンデを得たことも原因の一つといえるかもしれない。本当の意味で、この山に登攀者が殺到したのは、第二次大戦後の1949年のことで、期せずして尾白川を中心としていくつかのパーテイが集まった。その第一陣は残雪期の黄蓮谷を目指した鵬翔山岳会パーテイで、四回にわたって周辺を調査登攀した。多くの滝が秘められているというその報告は、当時の地元の新聞に紹介され、クチコミによって東都の岳界にひろく伝えられた。夏までに本峰東北面に集まったパーテイは、尾白川本谷奥壁をねらった西山
登に率いられた雲表倶楽部、黄蓮谷右左俣を登った静岡山の仲間山岳会、さらに尾白川本谷と黄蓮谷右俣を登った筆者らであった。また10月、東京辿路山岳会は画期的とも言える集中登山を計画して、篠沢と黄蓮谷右俣を登った。11月には鵬翔山岳会の碓井徳蔵らが氷結した黄蓮谷左俣の登攀に成功。この頃、横浜蝸牛山岳会の松田
孝は単独で赤石沢奥壁中央稜を登攀するなど注目すべき記録が生まれた。この間、西山
登は『山と高原』85号誌上に「甲斐駒をめぐる岩と渓」という扇動的な一文を発表し、一躍、甲斐駒ケ岳は岳界の注目するところとなった。地元でも菅原山岳会が結成され、新コースの開発や、登山道の整備等、観光に力を入れはじめていた。1945〜50年頃には、いくつかのパーテイが他の方面にも入るようになったが、継続的な登攀を続けたのは筆者らのグループだけとなった。ふたたびこの山に登攀者が殺到したのは1960年代になってからである。
刃渡り(はわたり) <地>
黒戸山の直下、黒戸尾根の主稜にあるナイフエッジ状の岩稜で、南側は桑木沢側壁となって垂直に落ち、北は尾白川の峡底まで一気に落込んでいる。かつては樹林帯のやせ尾根
にすぎなかったが、1959年のこの地方を襲った台風によって崩壊し、現在のような鋭い岩尾根に変化し後に手すりが作られ、一般登山者も安全に通過することができるようになった。
●地図 長坂上条
刃渡り沢(はわたりざわ) <地>
黒戸尾根・刃渡りの北面に落ちている沢で、落差600メートル,平均傾斜30度。出合いは尾白川中流の屈曲点である。中流で二俣となり、右俣は前屏風へ、左俣は刃渡りに突き上げている。一部の登山者は前屏風の沢と呼んでいる。刃渡りから見下ろすとかなり急に落込んでいるが、周辺には大きな岩壁はない。
●記録 *1964年8月8日 新藤 研、佐藤拳一(『白稜』190号)
*1967年4月10日 佐藤拳一単独
*1977年2月19〜20日 城山 修、石垣 久、渡辺 晃、本松香敏(べるくらんとー『山と渓谷』1980-2)
●地図 長坂上条
Bフランケ(びいふらんけ) <地>
赤石沢側壁群の一つで、ダイヤモンドフランケBの略称。Aフランケの上部、第一バンド直下にある高さ200メートルほどのブッシュと草付きの多い壁。
Aフランケほどの迫力はなく、ルートもすっきりしたものはない。4ルートほどがひらかれているが、もっぱら冬期登攀の対象として、Aフランケと結んで登られている。1972年、Aフランケとともに赤蜘蛛同人によって開拓命名された。
●記録 *赤蜘蛛ルート=1972年8月4日 松見親衛、滝沢 学、伊藤忠重(『山と渓谷』1972-12)
*右直登ルート=1974年1月3日 近藤国彦、真鍋周三
*岩と雪の会ルート=1979年2月11日 関水忠男、尾形好雄(『創立20周年記念号』、『岩と雪』69号クロニクル)
*薄志弱行ルート=1980年12月30〜31日 岡田秀一、加治屋 昇(JMCC―『岩と雪』84号クロニクル)
●地図 甲斐駒ケ岳
東大平(ひがしおおだいら) <地>
双児山の西面直下にひろがる南北800メートル、東西500メートルのシラビソの原生林に覆われた台地で、標高1700〜1800メートル。その西端に赤河原から北沢峠への登山道が通じている。取付の急坂を八丁坂という。平の南に南アルプス林道が通っている。
●地図 仙丈ケ岳
東駒ケ岳(ひがしこまがたけ) <事>
信州伊那谷の人たちは、普通、木曾駒ケ岳を西駒、甲斐駒ケ岳を東駒と呼んでいる。もちろん東駒とは東駒ケ岳の略称だが、元来、駒ヶ岳という名称は甲斐側のものである。西から見たこの山は、ピラミッド型の白い峰で、古くは白崩岳、あるいは赤河原岳などとも呼ばれていた。名称が一定しなかったのは、この山がとくに目立った存在ではなかったからで、里からは遠く、しかも前方にある仙丈岳があまりにも大きく見えたからである。これに対し、甲斐側は里から一気に二千数百メートルの高さに聳え、他の山を圧し、名称も
固定していた。
日向沢(ひなたさわ) <地>
濁川本谷より日向山の西肩に達している落差600メートル足らずの小沢。出合い付近に小規模の滝場があるだけで、中流より上は破片岩と白ザレの沢である。日向山北面から何本かの岩稜が落ちているが、風化が激しく登攀対象にはならない。1942年8月、山岳巡礼倶楽部の濁川探査行のさいに遡行されている。地元では古くから、日向山から濁川上流部への下降路として利用されていたようである。冬期は1965年1月の濁川合宿のおり、秋野尊愛らによって日向山山頂のベースから登降されている。
●地図 長坂上条
日向八丁(ひなたはっちょう) <地>
烏帽子岳より北東に伸び、大岩山南の鞍部に至る長さ2キロメートルほどの尾根の名称。数個の小ピークを持ったやせ尾根で稜線上は深いブッシュに覆われ、踏跡もさだかではない。中ノ川と鞍掛沢源流とを分けており、鞍掛沢側は高岩と呼ばれる岩壁帯となっている。
●地図 甲斐駒ケ岳
日向八丁尾根(ひなたはっちょうおね) <地>
尾白川の北を区切る尾根で、烏帽子岳、大岩山、駒岩を経て日向山に達する。長さ約
7キロメートル。日向八丁とは本来、烏帽子岳から大岩山南鞍部までを指し、大岩山から東は日向尾根、あるいは大岩山尾根などとも呼ばれていたが、最近では烏帽子岳からの尾根全体を指して、日向八丁尾根と呼ぶ場合が多いようである。踏跡はあるが荒れていてわかりにくい場所もある。とくに下降は迷いやすい。大岩山の東肩にこの尾根ただ一つの水場があり幕営可能である。水場は鞍部より北の喜平谷に下るのだが、季節によってはかなり遠くなる。
●記録 *1911年7月18〜19日 星 忠芳、辻本満丸(『山岳』第6年第3号)
*1940年2月7〜11日 松濤 明(遺稿集『風雪のビバーク』登歩渓流会・1950)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
日向山(ひなたやま) <地>
尾白川下流左岸にある山で、標高1660メートル。日向八丁尾根末端のピークである。竹宇の集落より尾白川林道を経て容易に登ることができる。頂上は樹林に覆われた平凡な台地だが北はひらけて展望はよい。また、西肩にある雁ケ原と呼ばれる薙の美しさは一見の価値がある。朝日がまず当たりはじめ、一日中よくあたるので、この名がついたといわれている。文化11年(1814)の古文書にすでに日向山という文字が見られる。日向山―雁ケ原―尾白川のコースは、駒ヶ岳をめぐるすぐれたハイキングコースとして推薦できる。
●地図 長坂上条
檜尾根(ひのきおね) <地>
濁川の本流と笹の沢をわける尾根で、水平距離2.5キロメートル、標高差1100メートル。途中、二つの小ピークがある。全体が深い樹林に覆われている。標高2140メートル圏で大岩山の吊尾根に合している。
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
標高の変更(ひょうこうのへんこう) <事>
我が国の山岳の標高は、頂上付近にある三角点の高さであって、かならずしも真の標高を示しているとはいえなかった。国土地理院では1989年から1991年にかけて標高の再調査を行い、全国の主要な1003座について発表した。甲斐駒ケ岳付近で高さが変更になったピークは次のとおりである。
○駒ケ岳 2966→2967メートル
○駒津峰 2740→2752メートル
○双児山 2640→2649メートル
○鋸岳(第一高点)2680→2685メートル
○三つ頭 2580→2589メートル
○地蔵岳(鳳凰山) 2750→2764メートル
駒ケ岳頂上には三角点より高い岩塊があり、これが評価されたものであろう。また地蔵岳は地蔵仏のピナクルが加わったものである。その他は再測量の結果高くなったものと思われる。
●参考資料 国土地理院編集『日本の山岳標高一覧―1003山』(日本地理センター・1991)
瓢箪淵(ひょうたんぶち) <地>
尾白川不動の滝の上流にある瓢箪型のゴルジュ。近くに養老の滝、地獄滝、曲り淵等がある。噴水の滝とともに尾白川中の奇観である。この付近の渓谷道は荒れており、踏跡も年によって位置がかわっているので気付かず通過してしまう場合が多い。(後図参照)
●地図 長坂上条
屏風岩(びょうぶいわ) <地>
普通、屏風岩といえば横にひろがった大きな岩壁を指すが、この山のものは高さわずか30メートル足らず。しかも、ほとんどが樹林に覆われ、名前から受ける感じとは大分かけはなれている。黒戸尾根五合目の鞍部の本峰寄りにあるもので、屏風小屋裏の小祠のある岩場である。直下にある小像は、この山の開山者・弘幡行者である。すぐ横に一般登山道があり、梯子があって簡単に上に出ることができる。この屏風岩に対し、黒戸山への登り口にある長い梯子のかかった急崖を前屏風と呼んでいる。
●地図 長坂上条
ひょんぐりの滝(ひょんぐりのたき) <地>
大武川本流、カラ沢出合い直下にある落差10メートルほどの美しい二段の滝で、落水が滝下の甌穴に入ってとび上がっているもので、このように名付けられた。各地にある同名の滝のルーツともいえる滝である。「ひょんぐり」とは、「ひょぐる」からきており、『広辞苑』によれば「小便が勢よくほとばしるの意。膝栗毛にも“きた八をのせたる馬かた大道にひょぐりながら“とある」と説明されている。このため、落口から水がとび上がるような印象を受けるが、事実は、落下した流水がとび上がるもので、現在では水量の多い時だけ、この奇観が見られる。一部の案内書には「侵蝕が進んだため現在はひょんぐっていない」などと書かれているが、これは上流にある鵜の首の滝を、この滝としたためである。国土地理院の地図中にあるひょんぐりの滝の位置は、カラ沢出合いより上流に書かれており、いまだに訂正されていない。ひょんぐりの滝をはじめて紹介したのは柳
直次郎で、『山岳』
第十年第一号(大正9年)の「大武川より三峰川まで」中に、水石春吉の言として「かの奇抜な名のヒョングリの瀑なども其一に数ふべきものであるが、今瀑壷が浅く埋もれて、落下する水勢を反発せしむる力がなく、最早舊時の奇観を見る事は出来ないさうである」とある。また、平賀文男は『赤石渓谷』中で、「この滝名は、渓流が岩盤を河触の甌穴へ奔下して、噴出逆転している奇観により命名された滝である。ところが現今は侵食が進んで逆転、即ちヒョングリ返らす、単なる急湍の形式となっていた」と書いている。侵蝕説はこの二つの文、および、位置の間違いから出たものと思われるが、雪どけが雨後などは確実に1メートルはとび上がっている。滝の左岸の岩上に大きな岩庇状の岩小屋があり、「ひょんぐりの岩小屋」と呼ばれて古くから利用されている。なお、尾白川にある噴水の滝も同系のものである。(後図参照)
●写真 [T]平賀文男著『赤石渓谷』(竜章閣・1933)
[U]山梨山林会編著『南アルプスと奥秩父』(改造社・1931)
[V]紫山岳会著『大武川遡行記録集』口絵(1977)
●地図 鳳凰山
平賀文男(ひらがふみお) <人>
明治38年(1895)1月,山梨県北巨摩郡穂坂村に生まれ、1917年、早稲田大学政経卒。1913年、富士登山。1919年ころより、八ヶ岳、南アルプスを主として登る。1922年、小槍の第二登。1924年6月、甲斐山岳会を創立。翌年3月、大樺沢から北岳登頂ののち北沢に入り、甲斐駒ケ岳の積雪期初登頂を果たす。南アルプスの研究家として知られ、その開拓につとめた。1964年没。著書に『日本アルプスと甲斐の山旅』(1926)、『日本南アルプス』(1929),『南アルプスとその渓谷』(1931)、『赤石渓谷』(1933)がある。村会、県会議員をつとめた。フリークライミングのメッカである小川山、金峰山周辺でもパイオニヤワークを行っており、「金峰・剣岩の初登攀」(『山小屋』22号)、「屋根岩山」(『山小屋』111号)等が発表されている。
広河原峠(ひろがわらとうげ) <地>
早川尾根上の最低鞍部で標高2244メートル。展望もない小平地である。ここより野呂川に下る明瞭な道がある。かつては赤薙沢よりこの峠を越える道があり、北岳への最短路として利用されていたが、現在、赤薙沢側は荒廃している。柳沢から野呂川への仕事道
として古くから使用されており早川峠と呼ばれていた。広河原峠という名称は、明治44年(1911)7月、駒ヶ岳より鳳凰山に縦走した星
忠芳、辻本満丸が、同行した柳沢の水石春吉の提案によって命名したものである。
●参考資料 辻本満丸「甲斐駒山脈縦断記」(『山岳』第7年第1号)
●地図 鳳凰山
┌────────────────────┐
│ 特別連載 │
│ 甲斐駒ヶ岳研究(8) │
│ 恩 田 善 雄 │
│ (東京白稜会) │
└────────────────────┘
フォッサマグナ(ふぉっさまぐな) <地>
本州を地質的に東北と西南に二分する糸魚川・静岡構造線を含む大断裂帯の名称で、明治初期に日本に招かれたドイツの地質学者ナウマンによって提唱された。茅野付近で、糸魚川―静岡構造線に、九州にまでも達する中央構造線が合し、甲斐駒ケ岳はこの二つの構造線によって作られたクサビ型地形内に位置している。駒ケ岳東面での構造線は、国界橋と藪の湯を結ぶ線で、石空川本流を経て、早川沿いに南下している。国界橋東南の釜無川中と石空川本流で、その断層露出面を見ることができる。この断裂帯形成には大きな変位運動が伴われたといわれており、内部に多くの温泉が湧き出していることからもうかがわれる。地学的には本州の中央部を横断する大断裂帯であるが、山岳地帯を削った平坦路が南北にひらけたことによって、古くから民族の移動、それに伴う文化の流入があった。そして南北からの接点が駒ケ岳東面にあたる峡北の地であった。この山麓の歴史や民俗を語るにはこのことを考慮しなければならない。
●参考資料 [T]西宮克彦編著『山梨の自然をめぐって』(築地書館・1984)
[U]『ミニグランドキャニオン』(白州ふる里の自然と緑の会・1984)
[V]田中 収著『山梨・地質ガイド』(コロナ社・1988)
[W]杉山隆二編『中央構造線』(東海大学出版会・1973)
[X]山下 昇編著『フォッサマグナ』(東海大学出版会・1995)
[Y]「フォッサマグナ探訪」(糸魚川市・1990)
●地図 長坂上条
双児沢(ふたござわ) <地>
双児山(2640m)双峰の間から西に落ち、丹渓山荘の近くで藪沢に合流する。甲斐駒ケ岳西面で戸台川本谷に合流しない数少ない流れの一つである。水平距離2キロメートル、落差1200メートル。下流は東大平の北を区切る落差の小さい平凡な河原だが、右に不動岩に達するガレを分岐してからは、平均傾斜は45度にも達し、上半部の落差800メートルは西面随一の険谷を作っている。取付きの落差60メートル以上と思われる行者の滝は、巨大なオーバーハングした岩壁にかかる見事なものである。上部にもゴルジュや大滝が連続し、左岸は不動岩の岩壁、右岸も数段の大岩壁が続いており、困難度も西面第一であるといえよう。東大平の深い樹林帯にはばまれて、北沢峠への一般登山道からはまったく見えず、開拓がおくれた。全貌を見るには丹渓新道がよい。江戸時代に作られた古地図(木師御林山絵図)には北沢と書かれている。
●記録 *1979年7月21日 恩田善雄、北川勇人、盛合富雄(『白稜』249号、『岳人』
388号記録速報)
*1981年12月28〜29日 北川勇人、天内基樹、平松 慈(『岳人』247号)
*1982年12月19〜20日 伊東正樹(伊那山の会―『岩と雪』94号クロニクル)
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
双児山(ふたごやま) <地>
甲斐駒ケ岳・仙丈岳間の稜線上にある標高2649メートルのピーク。山頂が二つに分かれているので、このように呼ばれている。赤河原から上流側真正面に見える山で、けっこう尖っており,一時期、岳界では錫杖岳と呼ばれていたが、この呼びかたは不合理であり現在ではまったく使用されていない。二万五千分の一地図上では低いピークに不動岩と記入されているが、不動岩とは、この山の西面にある岩壁で、ここは不動岩の頭と呼ぶほうが適切であろう。西面は西壁と呼ばれており、東大平に向かって数百メートルも落込んでいる。明治45年(1912)9月日、大槻禎郎は駒ケ岳より駒津峰を経て、登山者としてはじめてこの山の頂を踏み北沢峠に下った。
●参考資料 大槻禎郎「甲斐駒ケ岳及仙丈ケ岳登山期」(『山岳』第7年第3号)
●地図 仙丈ケ岳
双児山西壁(ふたごやまにしかべ) <地>
双児山(2649m)の西面は、藪沢に向かって平均傾斜45度で、700メートル近くも落込んでおり、一帯を西壁と呼んでいる。双児沢上部、不動岩が障壁を作り、南には無名ガリーがくいこんでいる。縦走路は稜線をはずれ、また、戸台川から北沢峠への登山道は東大平の深い樹林帯を通っているため、ここを近くから見ることはできない。偵察には仙丈岳への登路である丹渓新道がよい。西壁の初登攀はおそく、1979年7月、双児沢からなされた。
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
双児山北西尾根(ふたごやまほくせいおね) <地>
双児山山頂より北西に伸び、戸台川本谷と藪沢の合流点に達している尾根で、水平距離
2キロメートル、標高差1200メートルに達する。二つの小ピークと上部に二ヶ所ほどブッシュに覆われた岩壁帯がある。山頂近くまで樹林に覆われている。
●記録 *1985年1月1〜3日 伊東正樹、田中年一、丸山武雄(伊那山の会―『岩と雪』108号クロニクル)
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
双児山無名ガリー(ふたごやまむめいがりー) <地>
双児山・不動岩の頭(2610m)と、その南の2502メートル峰との間より、東大平に落ちている急峻なガリー。下半は落差のない河原で樹林中に消えているが、2502メートル峰南に突き上げている枝ガリーを分岐してからは、急傾斜となって深く切込んでいる。出合いは東大平の藪沢大滝が見えるあたりだが、流水もなく沢状をなしていない。深い樹林中の小さなゴーロとなっているので発見しにくい。ガリー状部の標高差は400メートルくらい。20メートル内外の滝がいくつかあるという。以前、この近くで遭難事件があり、地元ではこの付近をかなり歩いている。地元での呼び名はないようである。
●地図 仙丈ケ岳
不動岩(ふどういわ) <地>
黒戸尾根六合目と七合目との間にあるクサリのついたほぼ垂直の岩場をいう。黒戸尾根道最大の難関である。弘幡行者が開山にあたって、ここを突破するのに不動明王を念じたと伝えられている。なお、行者は威力開山不動尊として、ここにまつられている。取付きにある橋のかかった鞍部は六丈沢(不動沢)のつめである。結氷期の七丈の滝登攀は、この鞍部から篠沢側に下って取付いている。
●地図 長坂上条
不動岩(ふどういわ) <地>
双児山西面にある岩壁で、南西峰(不動岩の頭)西稜の下部、東大平の奥に赤茶色の二つの壁を作っている。岩壁は双児沢本流寄りの下部岩壁と、その南奥の上部岩壁とにわかれており、それぞれ高さ幅とも200メートルに近い規模を持っている。平均傾斜60度。
下部岩壁の中央には大ジェードルがあり、伊東正樹ら(伊那山の会)によって、この岩壁ではじめてのルートがひらかれている。この二つの岩壁の間は、せまい急なルンゼで、北川らによって登られた。上部岩壁は草付とブッシュが多く登攀価値はない。戸台川の河原からその一部が見えるが、北沢への一般登山道からは東大平の樹林にさえぎられてまったく見えず開拓がおくれた。偵察には丹渓新道か南アルプス林道がよい。
●記録 *ジェードルルート=1980年10月4〜5日 伊東正樹、川淵浩二(伊那山の会―『岩と雪』79号クロニクル) 1982年12月30〜31日 竹内省吾、岩松親博(G登攀倶楽部―『岩と雪』94号クロニクル)
*ジェードル派生ルート=1983年7月9日 沢田清隆a、向坂和弘b(aコロボックル、b乙訓労山―『岩と雪』99号クロニクル)
*ルンゼルート=1981年7月11日 北川勇人、久保敏郎(『白稜』251号、『岳人』415号記録速報) 1988年1月2日 岩松親博、河村敬介、岡野真一(G登攀倶楽部―会報『ASCENT』7号、『岩と雪』133号クロニクル) 同日 小野口広伺、武末勝芳(『白稜』152号)
●地図 仙丈ケ岳
不動岩の頭(ふどういわのあたま) <地>
双児山の南西峰で標高2610メートル。地図上では不動岩と書かれているが、不動岩とはこのピークの西面にある岩壁の名称である。登山道はこのピークの直下を捲いている。まばらな樹林とハイマツに覆われた平凡なピークである。
●地図 仙丈ケ岳
不動の滝(ふどうのたき) <地>
尾白川の中流、日当山南面直下にある高さ15メートルほどの垂直に落ちる滝。水量が多く見事な構成で、甲斐駒ケ岳をめぐる名瀑の一つとして知られている。弘幡行者が開山
にあたって修業した所と伝えられており、信仰登山の聖地であり、行場の滝とも呼ばれている。講中では前宮からここまで往復するのが一つの修業となっており、足弱の人はここまで来て、お水をとることを登山と称して頂上に立つことに代えている。また、この滝まではハイキングコースにもなっており、道も常時整備されている。右岸より池尻沢、左岸にヤダの沢が合流している。このヤダの沢から尾白川林道に出る踏跡がある。滝下には二、
三の岩小屋がある。西面にある七丈の滝も古くは不動の滝と呼ばれていた。
●地図 長坂上条
フランス人のチムニー(ふらんすじんのちむにい) <地>
赤石沢本谷最上部の滝場にある二本並んだ幅広いチムニーの愛称。1961年7月、この滝場を登った青木秀夫らによって名付けられた。「両足を突張って登るのは日本人には少し無理」ということでこのように呼ばれたが、それが後に固有名詞となった。ある山の本に「何とも味気ない名称」という酷評がのっていたが、それはこの登攀の時代背景を知らない人の言葉であると思う。当時、フランス人たちは文字通り世界の登山界をリードしており、1950年、人類最初の8000メートル峰・アンナプルナの登頂に成功し、1953年にはヌン,次いでチョモランマ、マカルーと次々にヒマラヤの巨峰を落としていった。またアルプスにあっても、シャモニーを中心として驚異的な登攀を行っていた。それらの詳報はマスコミを通じて我が国にも紹介され、若い登山者の心をゆさぶったのであった。しかし当時、外貨事情は極めて悪く、海外の山を目指して日本から脱出するのは容易なことではなかった。学術研究という名のもとに学校山岳部を中心としたエリート遠征隊が年に数隊ヒマラヤに向かったが、社会人登山者に道は閉ざされていた。1960年、やっと年に一隊の外貨の枠が割り当てられ、全日本岳連隊がヒマラヤを目指すことになったが、海外の山はまだ遠かった。その後、外貨事情はすこしずつ好転し、1965年、芳野満彦らがアルプスの岩壁に挑戦したのを皮切りに、ヒマラヤ、アルプスへの夢はやっとかなえられることになったのである。1960年代の登山者の海外へのあこがれは国内の山での継続登攀という新しい形式を生み、極地法ごっこと一部の人たちから批判されながらも、深雪と戦って経験を積んでいったのであった。このような背景のもとに、未知のチムニーを前にして、人類の夢を次々に実現していったフランス人たちの果敢な行動に思いをはせながら、自分たちのひらいたルートに、その名を付けたとしても批判するにはあたらないだろう。すくなくともそこにはまだ名はなかったのだから。当時のメンバー中、半数のものは山にその若い命を捧げ、残りのものも現役から退いている。彼らの青春のモニュメントとして、この名称を永久に残したいと願うのは筆者の感傷にすぎないのだろうか。
●参考資料 『白稜』176号
●地図 甲斐駒ケ岳
フリークライミング(ふりいくらいみんぐ) <事>
安全確保以外には一切器具を使用せず、自らの手足のみで登る方法をフリークライミングという。もちろん困難は岩場が対象である。1970年代にヨセミテで開花したこのフリークライミングの波は、我が国にも上陸し、完全に定着したようである。未開の領域がほぼ失われたとみられるこの国の登山界は、人工登攀、継続登攀というスタイルを経て、フリークライミングへと大きな転換期を迎えた。既登ルートのフリー化という課題とともに、小川山などをはじめとする新しい領域の発見によって、さらにハードなクライミングへと進みつつある。これは単に輸入スタイルの定着化というだけではなく、昭和初期からすでに行きづまりを叫ばれながらも、つねに新しい方法を求めて止まなかった登山界の流れの一つとして位置付けられよう。宗教色が濃く、開拓のおくれた甲斐駒ケ岳も、この新しい波から逃れることはできず、1981年6月、池田
功らによる赤石沢Aフランケ・クロスライン・スーパークラックの登攀によって、フリー化の時代を迎えたようである。険悪といわれた奥壁左ルンゼも同年8月、戸田直樹によってフリー化されている。しかし元来が、ブッシュの多い岩場が主となっているこの山では、フリー化の対象となる岩壁は少なく、冬の氷壁がその対象となった。1982年1月、須田義信らによる篠沢七丈の滝のフリー化をはじめとして、黄蓮谷左俣、西坊主の沢、滑滝沢、奥駒津沢等の滝場が次々と、ダブルアックスと出歯のアイゼンで登られるようになった。この山のフリー化の特徴といえよう。より困難をもとめて止まないクライマーの行動には敬意を表するが、年毎に異なった状態の氷壁のフリー化ということに対して、筆者は疑問を持っている。
文化年間の大武川遡行(ぶんかねんかんのおおむかわそこう) <事>
諏訪史談会編『諏訪史蹟要項』に小尾今右衛門による文化11年(1814)の大武川遡行の様子が書かれている。今右衛門は、後年駒ケ岳を開山した権三郎の父で、この夏、権三郎とともに大武川に入っている。権三郎は、この山の谷に入るのは二度目で、前年、尾白川に入ったが、険悪な谷に阻まれて遭難寸前に救助されている。今右衛門の日記によると、三日間を要して赤石沢出合いまで達したようである。この年は中部日本は大旱魃に見舞われたため大武川の水量が少なく、これが遡行を可能にしたものと思われる。二人はイワナ
を手づかみにしながら遡行を続け、三日目の夕方、赤石沢出合いの岩小屋に達した。しかし、今右衛門の右足がはれあがり、一歩も動くことができなくなったので、そこから先は権三郎がただ一人で上流に向かっている。権三郎は日記を残さなかったので、どこまで行ったか不明だが、南面の岩場にはばまれて引き返しているものと思われる。二人が別れた
岩小屋は「子別れの岩小屋」といわれ、同じものかどうかは不明だが同名のものが1959年の台風で流されるまで残っていた。赤石沢出合いやや下流の左岸にあったもので、すすで真黒になっており、かなり利用されたものらしかった。下山もたいへんな苦労をしており、渓谷遡行の非をさとって、二年後の文化13年(1816)、黒戸尾根を登って開山を完成している。前年の尾白川遡行はいわゆる試登程度のものだが、大武川入りは、事前に八ヶ岳の沢で訓練までしており、周到な準備のもとに決行している。
●参考資料 [T]藤森栄一著『遥かなる信濃』(学生社・1970)
[U]諏訪史談会編『諏訪史蹟要項』(茅野市豊平篇)
噴水の滝(ふんすいのたき) <地>
尾白川の本流、鞍掛沢出合いの上流にある滝。トヨ状の岩盤を落ちる水が、浸触された岩に当たって宙にとび上がり、しかも、ねじれて見事な曲面を作る。水量が多くても、少なくても、この奇観を見ることはできない。滝の左岸の岩壁は花岩と呼ばれている。すこし下流に噴水の岩小屋がある。二万五千分の一の地図上にある滝の位置は誤りで、実際はずっと下流にある。
●地図 長坂上条
鳳凰山(ほうおうざん) <地>
地蔵岳(2764m),観音岳(2840m)、薬師岳(2780m)より成る花崗岩の山塊で、早川尾根の続き、甲斐駒山脈上にあり、鳳凰三山とも呼ばれている。養老6年(722)、行基によって開山されたと伝えられ、信仰登山の対象として古くから登られている。山名は奈良法王の伝説から、法王山といわれたものが、いつか現在のように書かれるようになったという説がある。また、山麓の鳳凰山を山号とした寺が多いことから、信仰から興ったともいわれている。三山の名称については、かつて一大論争があり、一部の人たちの間では現在も続いているが、一般に国土地理院の地図上の名称が使用されている。鳳凰山の研究書として有名な、加賀爪鳳南著『鳳凰山』中でも、山名について詳しく述べられている。明治17年(1884)地質調査のため、原田豊吉らによって登られたのが近代登山の開幕である。1927年4月2日、樋口英造(東京野歩路会)は青木湯から登頂、1929年3月には立教大学山岳部・酒井吉国、小原勝郎が登頂に成功している。鳳凰山の象徴であるオベリスクは明治37年(1904)、ウェストンによって初登攀されている。この山には大きな岩壁はなく、バリエーションルートとしては、赤薙沢支流、石空川、野呂川の支流など主として渓谷が古くから登られている。
●参考資料 [T]加賀爪鳳南「登山者名簿より」(『山小屋』19号)
[U]『立教大学山岳部部報』第1号
●地図 鳳凰山
鳳凰山(ほうおうざん) <書>
1933年7月、加賀爪鳳南の著書としてハイキング社より発行された。B6版、210ページ。鳳凰山に関する研究書だが、ここでとくにとりあげたのは周辺の山に関する多くの古文献や古地図が紹介されているからである。内容は、自然界、山名論、伝説、文献等から成り、なかでも山名論は詳しく、改称論、妥当論、考証、資料等、全体の三分の一近くを占めている。この三山の名称が古くから論争の種になっていたことがよくわかる。南アルプスの単独の山でまとめられた貴重な研究書であるが、昭和初期の発行であるため、バリエーションルートの紹介はまったくない。付図あり。
坊主岩(ぼうずいわ) <地>
尾白川本谷と黄蓮谷を分ける坊主中尾根上にあるドーム状の岩峰の名称。本峰北1.5キロメートルの地点にあり、五万、二万五千分の一地図上では坊主山となっている。しかし、地元での呼び名は古くから坊主または坊主岩である。南坊主、北坊主、西坊主岩の三つのドームにわかれ、どれもスラブ状の岩壁で囲まれている。岩登りの対象としては北坊主岩東北壁と南坊主岩東壁がすぐれている。標高は西坊主岩2430メートル、南坊主岩2365メートル、北坊主岩2365メートル。峡底よりの高さは500〜600メートルである。坊主の沢と北坊主の沢が三つのドームを分けている。坊主頭を連想させることから命名されたと思うが、実際は露出した岩壁は意外に少なく、樹林とブッシュに覆われた部分が多い。ルートさえあやまらなければ、三つの頂に立つことは比較的容易である。坊主岩をめぐる稜・壁・沢の名称は、西坊主岩周辺を除いては、『白稜』54号(1952)中の「坊主岩付近の地形とその登路考察」(恩田)でほぼ定まったといってよい。はじめてこのピークの登頂を試みたのは東京市役所山岳部パーテイで、昭和初期に黄蓮谷側から取付いたが途中から引き返している。登頂に成功したのは1950年8月、坊主の沢からの鹿島達郎、原田敏明、恩田が最初と思われる。辻本満丸は『山岳』第七年第一号中で以下のように坊主岩を紹介している。「駒ケ岳の頂より西北に向へる山稜(甲信界)より分かれたる一山背、尾白川に向って突然急斜面を造る、此懸崕の上部、二つに分かれたる部分に南坊主、北坊主の名あり、尾白本谷と黄蓮沢との間に夾まれたる山躰の末端にて、駒ヶ岳本山の一角なり。尾白の渓谷を隔てて、北方鞍掛山と対峙せり。山梨県庁の図には鞍掛方面(尾白の左岸)に北坊主を記しありしが、そは誤りなるものの如く、余は竹宇の村民より、あれこそ南坊主、北坊主とて斯様に並び居ると明かに指し示され、且つ両坊主の間の窪は登り得ること迄も教えられたり。只だ、どちらが南坊主か、北坊主なるかは問うことを忘れたり。会員某氏嘗て駒ケ岳に登られしに、南坊主でないのが北坊主で、北坊主でないのが南坊主であるという極めて適切な返事を得られし由を後に伝聞せり。坊主の高さは烏帽子より低く、黒戸より高く、先づ二千四百米位のものなるべし」。以上の文章に西坊主は見られないが、これは筆者が初めてこのピークに立ったとき命名したものである。
●岩登りルート解説 藤原雅一「甲斐駒・坊主岩」(『クライミングジャーナル』No.48)
●地図 甲斐駒ケ岳
坊主岩鉢巻ルート(ぼうずいわはちまきるうと) <地>
坊主岩を囲む岩壁の基部を巡り、しかも坊主岩の三つの頂を踏むコースで、千丈の滝岩
小屋から一日行程である。坊主岩周辺の概念や岩場の状況を知るのにはよい。鎌田らによって踏破命名された。コースは、岩小屋―坊主の滝―東稜乗越しー南坊主岩東壁下―坊主の沢―東北稜乗越しー北坊主岩東北壁下―北壁下―北坊主の沢―西坊主岩北西稜―西坊主岩頂上―ザッテルー北坊主岩頂上―往復―南坊主岩―三角岩の沢―南坊主岩正面壁下―東稜乗越し下で往路に合する。
●記録 *1959年7月16日 鎌田 久、倉持博常、松居一彰、加藤啓司(『白稜』146号)
●地図 甲斐駒ケ岳
坊主尾根(ぼうずおね) <地>
黒戸尾根八合目からほぼ東に伸び、大武川に達する水平距離6キロメートルの尾根。篠沢の右岸を作るもので、全体が深い樹林に覆われ、宮の頭(2200m)、ヤニクボの頭(2165m)、つづみの頭(1715m)等のかわった名のピークがある。尾根上の踏跡はなく、一部はナイフエッジになっている。また、末端にこの付近では珍しい小湿原がある。なぜここが坊主尾根と呼ばれるのか不明だが、かつて摩利支天峰が坊主と呼ばれたこともあるので、そこに続く尾根と間違えて命名されてものではないか。黒戸尾根五合目、八合目間があまりにも険しい岩場であるため、もしかするとこの尾根上に古い登山道があったのではないかとの疑問を抱き調査したが、尾根上に何らの残留物はなく、また、ナイフエッジの存在によって、筆者のささやかな夢は砕かれた。しかし近年、カラ沢周辺の岩場の開拓が進み、そのアプローチとして歩かれている。これは大武川本流沿いの道が荒れているためと思われる。『山岳』第七年第一号中で辻本満丸は、この尾根について以下のように述べている。
「……今一つ甲州方面より登る新しき道あり、其の順路は駒城村を発して大武川の渓谷に入り、左大武川本流、右篠沢(黒戸山と宮の頭の間にある大武川の一大支流、表山七丈滝の下流は此沢となるものならん)の間なる山背を登り、ツヅミと称する一峰(三角点ありという)を経,益々登りて宮の頭に達す、此峰は日野春方面より駒ケ岳を望む時、頂上の左下にありて、黒戸山(右下にあり)に並べる尖峰にて、高さは黒戸より少し低き様なれども、二千米以上はあるべし、宮の頭より山背は次第に下りとなり、著しき一凹部を経て、駒の本山にかかり、再び登りとなり、ハゲの岩小屋付近にて表山の道と合するなり、此登路は未だ全く記録なく勿論路と云うべきもの有る筈なけれど、柳沢の水石孫太郎に依れば確に登り得らるるとの話なり、宮の頭背面(南面)には燕岩という恐ろしき岩壁ある由なり、余は昨夏、朝與岳に登りしも此方面は雲の為展望を妨げられしは遺憾なりき、登山の途中、摩利支天の絶壁、地獄谷等を間近く望み得るは此登路の特色ならん……」。
●記録 *上半部=1949年8月18日 恩田善雄、原田敏明(『白稜』24号)
1961年12月26日〜1月3日 松居一彰他13名(『白稜』175号)
*篠沢側より宮の頭往復=1959年1月1〜4日 吉田憲彦、川井正男(ベルニナ山岳会―『ベルニナ』12号)
*末端より=1984年1月5〜8日 松本賢司a、行方 聡a、萩 賢司b(a昇仙峡開拓団、b山梨昇高会―『岳人』442号記録速報)
●参考資料 恩田善雄「坊主尾根についての覚書き」(『鉄驪峰通信・1986』)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条、鳳凰山
坊主中尾根(ぼうずなかおね) <地>
尾白川本谷と黄蓮谷を分ける尾根で、本峰北西尾根の八合目付近から真北に分岐し、中ほどに坊主岩のドームを持っている。上部は広々としたハイマツ帯だが、坊主岩付近にはナイフエッジ状の部分もある。下半部の尾根は北坊主岩東北稜の続きである。無雪期の通過は藪に苦しめられるが、上半部の積雪期の通過は容易である。途中、三角岩と呼ばれる岩峰があり、その下部で西坊主岩への支稜を分岐している。坊主中尾とも呼ばれている。
●記録 *1954年1月1〜2日 恩田善雄、原田敏明、漆畑 穣、高橋一郎(『白稜』78『岳人』91号、『現代登山全集』5巻・東京創元社・1961)
*1972年1月1〜2日 佐藤常明、宮崎吉宏、宮川芳春(甲府南嶺会―『南嶺』第4号、『岳人』307号)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
坊主の沢(ぼうずのさわ) <地>
黄蓮谷・千丈の滝下左岸に、洞穴状の岩壁に囲まれ、高さ30メートルの滝となって落合う小沢で落差700メートル、傾斜35度。南坊主岩と北坊主岩を分け、源頭はザッテルと呼ばれる白ザレの小鞍部に達している。下部はゴルジュ帯で、南坊主岩東壁の下に達している左俣を分岐してからは、大きな滑滝が連続している。上部の急な部分は、南、北坊主岩の間にあるので、中間ルンゼとも呼ばれている。坊主岩の登山者としての初登頂は、この沢を経由して行なわれた。
●記録 *1950年8月15日 原田敏明、鹿島達郎、恩田善雄(『白稜』34号)
*中間ルンゼ=1953年11月23日 恩田善雄単独(『白稜』73号)
1954年1月1日 恩田善雄、原田敏明、漆畑 穣、高橋一郎(『白稜』
78号、『岳人』91号、『現代登山全集』5巻・東京創元社・1961)
*下部=1977年12月29日 渡辺 晃、大嶋範行(べるくらんとー『山と渓谷』1980-1)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
坊主の滝(ぼうずのたき) <地>
黄蓮谷・千丈の滝上にある垂直に落ちる落差35メートルの滝。1949年頃、地元の菅原山岳会によって命名された。黄蓮谷遡行の関門ともいうべき滝で、この上から源流まで滝が連続している。右手の岩壁を直登できるが、右のガリーから小尾根を乗越した簡単に捲くことができる。なお、この捲き道から南坊主岩の東稜乗越しに至る踏跡がわかれている。以前、この滝上にある高さ8メートルの鳥居の滝上から黒戸尾根七合目に出る登山道があったが、現在はその痕跡さえもない。この滝を作る岩壁上を左から六丈の沢が合流している。1956年12月、黄蓮谷左俣を完登した古川純一らはこの滝を直登している。
●地図 甲斐駒ケ岳
ホクギの平(ほくぎのたいら) <地>
雨乞岳への一般登山道は、東山麓の鳥原から、長尾の尾根を辿るものだが、途中にある標高1600メートルのピークをホクギの平と呼んでいる。三角点はこの平の東端、登山道からはずれた最高点にある。平は笹と落葉松に覆われて展望は得られない。東に流下する沢は、小滝の沢といい濁川に合している。
●地図 長坂上条
本峰西尾根(ほんぽうにしおね) <地>
戸台川本谷の源流は二俣となっており、この間の尾根は西尾根と呼ばれて、本峰北の小ピーク(北山)に達している。頂上までの標高差700メートル、平均傾斜35度。下部は岳樺などのある樹林帯だが、すぐ高山帯となり、何ヶ所か露岩がある。右俣側は小規模の垂壁となって切れ落ちている。
●地図 甲斐駒ケ岳
本峰西岩稜(ほんぽうにしがんりょう) <地>
本峰から西に戸台川本谷右俣源流に落ちている岩稜で、平均傾斜35度、標高差200メートル。この付近は本谷最後のルートとして、いろいろな場所が登られており、各所にスラブや小フェースがあって楽しめるところである。後記の記録には西南岩稜とある。駒津峰の頂上からこの周辺はよく見える。
●記録 *1972年3月19〜21日 柴沼光孝、高橋宏安、黒田 薫(臨時登攀同盟―『山と渓谷』1972-8記録欄)
●地図 甲斐駒ケ岳
本峰北西尾根(ほんぽうほくせいおね) <地>
甲斐駒ケ岳の山頂より北西に伸びている岩尾根で、先は三つ頭、熊穴沢の頭より鋸岳へと続いている。甲斐駒山脈の主稜だが、とくにここだけの名称はない。頂上より六合目石室付近までを何となくこのように呼んでいる。石室から頂上までの標高差460メートル。距離約1.5キロメートル。上部は完全な岩稜だが、別に難しい個所はない。
●地図 甲斐駒ケ岳
舞鶴松(まいづるまつ) <植物>
中山東山麓・万休院の門前にある赤松で、鶴が翼を広げたような形をしているのでこの名がある。枝上に枝を重ねて左右に伸びた美しい樹形である。高さ8.6メートル、根元の周囲約4メートル。樹齢は400年といわれ、国の天然記念物に指定されている。松のかたわらに「見ぬ人に
見せばや松の 深みどり」と刻んだ句碑がある。
●地図 長坂上条
前栗沢(まえぐりさわ) <地>
大武川源流にある四本の栗沢の中で、もっとも下流にあるもので、早川尾根・ミヨシの頭(2600m)より北東に落ち、水平距離1.8キロメートル、落差1000メートルで大武川に合流している。いくつかの滝はあるものの、まとまった滝場はなく、どちらかといえば平凡な沢である。
●記録 *1974年10月11〜12日 小林賢一郎、生和光朗(紫山岳界―『大武川遡行記録集』1977)
●地図 鳳凰山
前屏風の頭(まえびょうぶのあたま) <地>
前屏風の頭とは、普通、黒戸尾根にある1881メートルの小突起を指している。また、刃渡りの上にある2049メートル峰とした案内書もある。しかし、前屏風とは、刃渡りの上部にある梯子のかかった急崖の名称であり、明らかに誤った表記である。これは平賀文男が『日本南アルプス』中で「一際急壁となっている処を攀じ登れば其処は前屏風の頭(1873m)だった。小さな祠や、刀利天狗、或は何々霊神と刻まれた石碑が沢山建っていた」と書いて、現在、刀利天祠と呼ばれている所と、桑木沢と汁垂沢間の尾根が合するピークを混同したためである。この1873メートル峰の標高が、新しい地図では1881メートルとなっているのである。刀利天祠のある場所は実際はピークをなしておらず、その少し上に地図にはない小突起がある。頭をピーク名とするならば、ここを呼ぶのが適当といえよう。標高2120メートルぐらい。
● 地図 長坂上条
前松尾沢(まえまつおざわ) <地>
釜無川源流右岸にある黒川は、出合いから3キロメートルほどで二俣となっており、右俣が本流、左俣は前松尾沢と呼ばれている。この沢は水平距離1.6キロメートル、落差600メートルほどで雨乞岳の山頂付近に達している。出合いは二段20メートルほどの滝となり、上流にもいくつかの滝がある。樅沢との間の尾根は前松尾根と呼ばれている。
●記録 *1963年10月16〜17日 田中 進、野村やよひ(『白稜』185号)
*1970年5月31日 森杉、菊池、大輪、有賀(下諏訪山岳会―『1973年年報』)
*1981年1月24〜25日 北川勇人、盛合富雄(『白稜』250号、『岳人』406号)
●地図 甲斐駒ケ岳
前宮(まえみや) <建>
山頂に本宮のある駒ケ岳神社の前宮のことで、竹宇、横手の二ヶ所にあり、ここが登山口ともなっている。戸台側にも昔、白崩神社の前宮があったということである。
(→竹宇前宮 →横手前宮)
●地図 長坂上条
前山と前岳(まえやまとまえだけ) <事>
黒戸山のことを昔は前山と呼んでいた。勿論駒ケ岳本峰の前面にある山という意味であ
る。しかし、近代登山が始まるとともに黒戸山という呼び名が一般化した。伊那方面で、前岳といえば仙丈岳のことで、これも甲斐駒ケ岳に対してであるといわれている。これは『山岳』第三年第三号誌上で小島烏水が「信州の人は此山に対して仙丈もしくは奥千丈なる名を唱へず、単に前岳なる平凡なる名称を以ってせり、蓋し駒ケ岳の前岳(高遠方面より見て)という意義なりという」と書いたのが一般化したものと思われる。しかし、伊那谷から見た駒ケ岳は呼び名も一定しなかったほどの目立たないピークであり、南アルプスの連嶺に対しての名称ではないかというのが、筆者の主張である。前山、前岳という呼び名は現在ではまったく使用されていない。
牧原(まきのはら) <地>
国道20号線沿いの集落で大武川が釜無川に合するあたりにある。集落北の四辻を西へ行けば柳沢、横手を経て、駒ヶ岳横手登山口に至り、東すればJR中央本線・日野春駅に至る。この周辺は1959年の台風による出水によって壊滅するという被害を受けた。筆者は直後に訪れ、大武川の土砂が集落を埋めつくし、家ほどもある岩塊がいたるところに転がっているという惨状を見た。それから30余年、現在は武川村の中心として発展している。駒ケ岳山麓は昔、三牧といって馬の産地として知られていた。真衣野、穂坂、柏前であるが、この真衣野が牧原付近ではないかといわれている。
●地図 若神子
幕岩(まくいわ) <地>
戸台川の中流、白岩の対岸からイワンヤ沢の左岸を作り、二俣で沢を渡って幕岩尾根となる石灰岩の露出壁の総称。長さは2キロメートルに達する。戸台川本流に面した部分に正面壁、イワンヤ沢の側壁に北壁、奥壁と呼ばれている高さ100〜200メートルの岩壁があり、伊那山の会パーテイによってルートがひらかれている。戸台川に面した部分は以前、螺岩とも呼ばれていた。この石灰岩帯は、この周辺ではめずらしいもので、幅約
1キロメートル、南は仙丈岳に続く三石山(2016.9m)から、北は白石岳まで南北7キロメートルにわたって伸びており、南から白岩、幕岩、それに大久保谷右俣の奥、白岩谷に露岩帯を作っている。戸台川の下流から白岩、幕岩周辺は三峰川水系県立公園に指定されている。
●記録 *正面壁=1979年11月25日 伊藤晴夫、伊東正樹(伊那山の会―『いわつばめ』78号)
*北壁=1983年9月14日 伊東正樹、酒井 昇、能勢 淳(伊那山の会―『岩と雪』100号クロニクル)
●地図 甲斐駒ケ岳
幕岩尾根(まくいわおね) <地>
戸台川支流・イワンヤ沢の二俣から北に伸びている岩稜で、標高差500メートル、傾斜約40度。釜無山脈の2114メートルピークから戸台に落ちる支稜の1850メート
ル圏に達している。尾根の西側が岩壁となっているが、高さは100メートル以下で、登攀対象となるのは、最下部にある岩場だけである。尾根上は木のまばらに生えた岩稜で、とくに難しい所はない。岩質は石灰岩。戸台川の河原からはまったく見えず、南アルプス林道から遠望されるだけである。(後図参照)
●記録 *1980年11月23日 山下誠一、北川勇人、盛合富雄(『白稜』251号、『岳人』407号記録速報)
●地図 甲斐駒ケ岳
摩利支天(まりしてん) <地>
本峰南500メートルにあるドーム状の小ピークで標高2820メートル。頂上に摩利支天像があることから摩利支天峰と呼ばれている。古代インドでは、陽炎を見て、これをマリーシ(カゲロウ)天と名付けて礼拝の対象とした。つねに日天に付属して自在の通力を有するという仏神で、普通は天扇を持った天女の姿に造られているが、三面六臂または八臂の忿怒像もあり、猪の上の三日月上に立つ姿も多い。古くから武士の守護神として信仰を集めてきた。ここはまた、駒ヶ岳神社の奥の院でもある。本峰から見れば、コブのような小ピークだが、南側は岩壁となって1000メートルも落込み、多くの岩登りルートがひらかれている。東の山麓からは、その特異な姿が本峰の横に見られ、駒ヶ岳の象徴的存在として知られている。天明3年(1783)、荻原元克のあらわした『甲斐名勝志』に「峰ニ数千仭ノ岩アリ
ソレヲ囲リテ絶頂ニ至ル」とあるが、これは、このドームをあらわした最初の記述であろう。
●地図 甲斐駒ケ岳
摩利支天沢(まりしてんざわ) <地>
摩利支天のピークの真南にある小沢で、落差400メートル、傾斜35度。数個の滝がある。南山稜と南西稜を分けており、つめの岩壁は中央壁と呼ばれている。かつては仙水峠から南山稜登攀のアプローチとして遡行されていた。しかし、『岳人』86号に、仙水峠から南西稜を越える南山稜下部エスケープルートが発表されてから、ここを登る登山者はいなくなった。出合いは大武川本流、六町ダテの滝場が終ったすぐ上である。
●地図 仙丈ケ岳
摩利支天正面壁登攀(まりしてんしょうめんがんぺきとうはん) <事>
1940年7月18日、昭和山岳会会員・小林隆康は単独で大武川を遡り、摩利支天正面岩壁の登攀に成功した。これは甲斐駒ケ岳で登られた初めての壁であるとともに、当時、開拓された数少ない本格的な壁のルートでもあった。しかも、この登攀はノーロープによる単独行で、まさに驚異的といえるものであった。この記録は『山と渓谷』64号(1940-11)誌上に発表され、後に同氏の登攀記録をまとめた『岩壁登高』にも収録された。そのルートはごく最近まで、現在の摩利支天東壁を登ったものと信じられていた。それは記録中に「南山稜の地獄谷側にある岩壁」という記述があり、何ら疑問を持たれなかった。しかし、登攀ルートは明確さを欠いていた。1955年ころから、この記述に疑問を持った筆者は、問題点を提起し、多くの資料から細部の地形を明らかにし、正面岩壁とは東壁ではなく、現在、中央壁と呼ばれている岩壁であると同定した。筆者を含めて、この周辺の研究者すべてが既設の地形区分に惑わされたのが誤りの最大の原因であった。東壁が初めて登られたのは1961年8月のことで、森
義正、辻 安一、矢野和男によるものである。
●参考資料 恩田善雄「幻の昭和尾根」(『山と渓谷』1977-12)
●付記 小林隆康については『クライミングジャーナル』No.28に詳しく紹介されている。また『岩壁登高』については『岳人』499号に「山書散策―岩壁登高」(浅野孝一)の解説がある。(後図参照)
摩利支天西山稜(まりしてんせいざんりょう) <地>
南山稜の西側にあるリッジという意味で、このように呼ばれたが、この周辺の地形は複雑で、その場所は一定しなかった。1952〜3年に、この付近を集中的に登った東京聖峰会が現在のような区分を『岳人』86号に発表してから混乱がなくなった。これにより、水晶沢右俣左岸の尾根が西山稜、摩利支天沢右岸の肩の白ザレに消える尾根が南西稜と呼ばれるようになった。ともに岩登りとしての価値はない。とくに西山稜は下降も容易で、本峰から仙水峠への近道として利用されている。ピーク直下に西山稜フランケと呼ばれる小規模の岩場がある。1947年10月19日、南西稜を登った渡辺
弘ら(明峰山岳会)はこの壁の中央部の登攀に成功している。
●記録 *1954年3月27日 岡本竜行(獨標登高会―『獨標』43号)
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
摩利支天中央壁(まりしてんちゅうおうかべ) <地>
摩利支天峰の南面を作る白い二段の平行四辺形の岩壁である。南山稜と南西稜との間にあり、仙水峠から良く見える岩壁で、高さ、幅とも約250メートル。摩利支天沢の奥壁でもある。アプローチは仙水峠から水晶沢を横切り、南西稜を越えて壁の下に出るのが普通である。ルートは南山稜寄りがまずひらかれ、次いで中央部、左方の順に登られた。上部壁にはクラック、ジェードルルート等がある。上段と下段をわけるバンドは長衛バンドとも呼ばれる。岩は概して脆く、全面が風化の影響を強く受けている。南西稜寄りはかなりブッシュがある。甲斐駒ケ岳で最初に開拓された壁である。
●記録 *右ルート=1940年7月18日 小林隆康(『山と渓谷』1940-11、『岩壁登高』博山房書店・1942) 1958年8月23〜24日 渡辺隆市、岡部忠男、中村俊彦、
落合義男(横須賀山岳会―『山と渓谷』1958-11) 1959年1月27〜28日 相原
茂、福島英雄、落合義男、岡野忠男(横須賀山岳会―『岩と雪』5号)
*中央ルート=1959年2月22〜23日 山口輝久、岡本竜行、鷲尾慎弘(獨標登高会―『岳人』133号、『現代登山全集』5・東京創元社・1961)
*左ルート=1971年5月4日 大村勝彦、芦沢 泰、斎藤 登(北嶺登高会―『岩と雪』32号)
*北嶺ルート〜マイペンライルート(中央と左ルートとの間)=1988年12月29〜30日 戸田暁人、田中幹也(CC蒼氷―『岩と雪』133号クロニクル)
●地図甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
摩利支天東山稜(まりしてんとうざんりょう) <地>
摩利支天の頂上から大武川本谷と赤石沢出合いまで伸びている急峻な尾根で、全体がブッシュと樹林に覆われている。摩利支天では最長のリッジである。上部300メートルほどは急な岩稜で、各所に露岩はあるが、大半はブッシュをつかんでの腕力登攀となる。
●記録 *1960年2月5〜6日 鷲尾慎弘、藤原 功(獨標登高会―『獨標』78号)
●地図 鳳凰山、甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
摩利支天東壁(まりしてんとうへき) <地>
摩利支天東南面をつくる岩壁で、南山稜と東山稜上部の間にあり、高さ約250メートル。下から三分の二ほどの高さにバンドがあって、上下二つの部分にわかれている。上部は大半がブッシュ帯で、岩登りとしての価値はなく、下部の壁のみが登攀の対象となっている。下部岩壁には中央に壁の中ほどにまで達する岩稜があって「鼻」と呼ばれ、壁を左右のフェースにわけている。また、壁の下部には摩利支天前沢源流部の大きなスラブ帯がひろがっている。初登は岩稜から右フェースを登り、上部フェースの右寄りのブッシュ帯を越えて行なわれた。後にひらかれた鼻ルートと呼ばれるものは、この初登ルートとほとんど同じである。岩稜上部から左方クラック、草付きを登る中央ルート、右フェース直上ルート、左フェースダイレクトルート等がひらかれている。摩利支天前沢の奥まった位置にあるため、現在はサデの大岩と継続して登られることが多い。東壁という名称は1960年頃、獨標登高会の岡本竜行によって提唱されたものである。
●記録 *白稜ルート=1961年8月18日 森 義正、矢野和男、辻 安一(『白稜』176号)
*白稜中央ルート=1968年8月1日 最首利考、松原 弘(『山と渓谷』1968-10登攀月報)
*ダイレクトルート=1968年8月3日 本所高校定時制山岳部OB
*右フェース蒼氷ルート=1982年1月2日 戸田暁人、西ケ谷一志、倉岡裕之(『岩と雪』87号)
*右フェースルート(明日にかける橋)=1988年1月16〜18日 戸田暁人、田中幹也(CC蒼氷―『岩と雪』127号クロニクル、128号)
●地図 仙丈ケ岳
摩利支天南山稜(まりしてんなんざんりょう) <地>
摩利支天のピークから南に落ちる岩稜で、東の山麓や仙水峠からスカイラインとなって見える。下部三分の二は明瞭な樹林の尾根だが、上部の岩の部分は稜というより壁に近い。上部の高差200メートルが登攀の対象となっている。中部に岩塊の乱立するロックガーデンと呼ばれる岩場があり、下部は大武川のゴルジュ帯に切れ落ちている。甲斐駒ケ岳で最初にひらかれた岩登りルートがここである。昭和初期の南アルプスでは京大パーテイによって北岳バットレス第五尾根が登られていたにすぎず、はじめての本格的な登攀といってよい。ルートはいくつかあるが、右に寄るほどブッシュが多く容易になる。
(→岩登り事始)
●記録 *1931年5月23日 横田松一、猪瀬、金子(関東山岳会―『山と渓谷』1931-11)
*1950年3月1日 川上晃良(登歩渓流会―『岳人』28号)
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
摩利支天南西稜(まりしてんなんせいりょう) <地>
摩利支天峰頂上直下の肩の白ザレに発し、大武川源流の屈曲点に落ちる尾根で、摩利支天沢の右岸を作っている。下部は樹林帯、上部もほとんどブッシュに覆われており、露岩はあるものの登攀価値はない。稜上中間部を仙水峠より南山稜に至る踏跡が越えている。この道は西面から摩利支天中央壁、南山稜登攀へのアプローチとして使用されている。以前、この尾根は西山稜と呼ばれ、いく組かの登山者を迎えたが、現在は登る人はほとんど見当たらない。
●記録 *1947年10月18日 渡辺 弘、酒井宇太蔵、栗原 彰、野村 滋、山岸勇三、深沢
統(明峯山岳会―『北岳のうた』60周年記念誌・1989、『岳人』28号)
[注]記録中には西山稜とある。
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈ケ岳
摩利支天前沢(まりしてんまえさわ) <地>
摩利支天南山稜と東山稜との間を流れる小沢で、源流は東壁の下からサデの大岩の裏側にまわりこんでいる。サデの大岩や東壁登攀へのアプローチとして歩かれており、中流から上部は大きな滑滝が連続している。右岸最初の小沢をつめて南山稜上の小鞍部を越えれば、大武川本流のゴルジュ帯を回避することができる。登山者によって名付けられたカーテンの滝、蒼氷の滝等がある。最近、氷のルートとして注目されるようになった。
●記録 *1963年9月23日 辻 安一、宮野正捷、青木 進、中条洋四郎、酒井宏二(『白稜』185号)
*1981年2月8〜9日 戸田暁人、遠藤晴行(CC蒼氷―『岳人』415号)
●地図 仙丈ケ岳
摩利支天ルンゼ(まりしてんるんぜ) <地>
赤石沢右岸の支流で、摩利支天東山稜の東側に平行に細く長く伸びているルンゼ。赤石沢大滝を作る断層状の岩壁から、高さ40メートルの滝となって本流に落ちている。落差800メートル、平均傾斜40度。源流は摩利支天の東面を作るブッシュの壁に突き上げている。チョックストンのあるチムニー状の滝が続き、赤石沢の他の支流とは構成が異なっている。滝場が終ってから摩利支天の上までの登りが長く苦しい。1958年、筆者がその存在を確認し命名した。
●記録 *1960年7月24日 市川 正、新井豊明(『白稜』158号)
*1961年12月31日〜1月2日 土淵知之、松居一彰、中尾靖一郎(『白稜』175号、『岳人』216号)
●参考資料 恩田善雄「幻の昭和尾根」(『山と渓谷』1977-12)
●地図 鳳凰山、甲斐駒ケ岳
水場の沢(みずばのさわ) <地>
戸台川本谷中流にある枝沢で、左俣源流に六合目石室の水場があることから、このように呼ばれるようになった。勿論仮称だが、地元でも特別な名称はないようである。水平距離1キロメートル、落差800メートル。出合いよりわずか上流に高さ50メートルの大滝があり、落口で二俣となっている。本流は右俣で、ほどなく岩質が花崗岩に変わり、連続する滑滝を越えてゆくと、本峰北西尾根の七合目に出る。左俣は小規模なもので、10メートル内外の滝がいくつかある。
●記録 *右俣=1961年7月29日 恩田善雄、恩田キミ子(『白稜』170号)
1964年12月31日〜1月1日 市川 忠、糸井嘉幸(『白稜』193号)
*左俣=1960年2月7日 加藤昭男、原田宗親、長田昭一(『白稜』153号)
●地図 甲斐駒ケ岳
三つ頭(みつがしら) <地>
甲斐駒ケ岳と鋸岳の稜線上にある標高2589メートルのピーク。ここより北東に烏帽子岳を経て日向八丁尾根がわかれている。このピークは地形的に駒ケ岳の北西を区切り、また地質でも花崗岩の西への限界点となっている。花崗岩の西限界線は、六方石の南より、戸台川本谷上部を横切って、このピークに達し、釜無川上流・中ノ川の本流に沿って北上している。この線より西側は古成層より成っている。このピークは小島烏水らによって不動山と呼ばれたが、平賀文男は『南アルプスとその渓谷』の中で、三つ頭であることを強調している。細井らの『南アルプス』でこの説を採用してから、ほぼ三つ頭と呼ぶことに統一されたようである。
●地図 甲斐駒ケ岳
三つのつむじ(みっつのつむじ) <事>
南アルプス北部な内部を流れる大河は、釜無川、野呂川、三峰川である。これらはいずれも、その源流が上流から見て右回りに180度近く曲がっている。これは偶然の産物なのだろうか。このため北部の地形、とくに山と山とのつながりぐあいがいちじるしく複雑になっているのである。北部の地形図を眺めていると、これらは壮大な三つの“つむじ”のように見える。このような流れの曲がり具合は他の山でも見られるが、本流そのものが
曲がっているのは少なく、まして三つも近接しているものは例がないといえる。しかも、これらの流れは揃って源流まで名を換えていない。もしも、古人がこの地形に気付いていればかならず地名(川名)上に現れるはずである。例えば奥多摩の川乗山にある逆(サカサ)川は、源流で完全に180度曲がって逆流しており、それが川名になっている。しかし、釜無川源流の古名はいまのところ発見されていない。野呂川上流はかつて十賊(トクサ)川と呼ばれていたようだが、これはトクサがとれたからで地形に関係はない。これらの川のうち、もっとも顕著な逆行は三峰川であろう。ここに古名にないものだろうか。文化年間に作られた『木師御林山絵図』によると、この屈曲点より上流は「ヲモ川」と書かれており、何等かの手掛かりになりそうである。名称はさておき、この壮大なドラマを上空から一度眺めたいと思っていた。過日、この上を飛ぶ機会に恵まれたが、10000メートルの高度ではまだ充分ではなかった。(後図参照)
南アルプス(みなみあるぷす) <書>
1935年5月、三省堂より『北アルプス』、『上越の山』とともに三部作の一つとして発行された。渡辺公平、細井吉造、山下一夫共著。B6版、336ページ。当時としては最新の情報をとり入れた案内書として高く評価された。渓谷の部に詳しく、とくに一章を設けて解説している。駒ケ岳の項では、一般登路のほかに、簡単ではあるが黄蓮谷や摩利支天の岩場にも触れており、大武川のコースも詳しい。この書の特筆すべきは、鋸岳の項で、ピーク、山名の考証から、文献の紹介、それに新ルートの解説にまで及んでいることで、同峰に関する貴重な文献となっている。現在の鋸岳周辺の地名はほぼこの解説に従っている。1943年までに五版を重ねている。付属に、八ヶ岳解説と地図三枚がある。
南アルプス(みなみあるぷす) <書>
『日本登山大系』(柏瀬裕之、岩崎元郎、小泉 弘共編。全10巻・白水社)の第9巻として1982年6月に刊行された。A5版、316ページ。この全集の意図は全国の山のバリエーションルートをまとめて紹介することにあり、この巻も、南アルプス全般にわたる谷や岩場の紹介で占められている。内容の五分の二は甲斐駒ケ岳関係で、谷ルート、岩場、氷のルートが詳細に解説されている。編集は甲斐駒ケ岳を中心としてまとめられたといわれ、この山を巡る最新のルートも収録されている。
●内容 *甲斐駒ケ岳・鋸岳・鳳凰三山―恩田善雄、紫山岳会、伊那山の会
*甲斐駒ケ岳赤石沢の岩場―グループ・ド・コルデ、恩田善雄
*摩利支天峰の岩場―登攀クラブ蒼氷、恩田善雄
*甲斐駒ケ岳の氷瀑ルートーべるくらんと
南アルプス国立公園(みなみあるぷすこくりつこうえん) <地>
1964年6月1日指定。長野、山梨、静岡の三県にまたがり、中部山岳国立公園とともに、我が国の代表的な山岳公園である。面積は35798.8ヘクタール。北は鋸岳、南は光岳に達し、赤石山脈、甲斐駒山脈、白峰山脈の北部を含み,大井川がその中央部を流れている。山体はモミ、ツガなどの原生林で覆われ、標高2600メートル付近で樹林帯を脱している。甲斐駒ケ岳周辺では、本峰、鋸岳、黒戸山が含まれている。(後図参照)
南アルプスと奥秩父(みなみあるぷすとおくちちぶ) <書>
1931年7月、改造社より発行。山梨山林会編著、B6版、321ページ。南アルプスの研究解説書であって、案内や記録は一切ない。この中に「駒ケ岳及鳳凰山山塊」という一項がある。内容はとりたてて紹介するほどのものではないが、記述中、現在の早川尾根を鳳凰山脈と呼んでいるのが注目される。また、小松峰を「矮小な偃松が山頂一面を覆うている処から、この名が生まれた」としている。なお、駒ヶ岳の古文書にかんする紹介は誤りであって、これは木曾駒ケ岳のことである。挿入写真に鼓滝、ひょんぐりの滝、神蛇ケ滝がある。ひょんぐりの滝とはカラ沢出合い下にあるものが紹介されている。
南アルプス林道(みなみあるぷすりんどう) <地>
スーパー林道(通称)の正式名。1979年11月竣工。1980年6月、開通した。
(→スーパー林道)
南坊主岩(みなみぼうずいわ) <地>
坊主岩は三つのドームより成っているが、黄蓮谷に面し、坊主中尾根の末端台地となっ
ているものが南坊主岩である。中尾根の続きは、ここより東稜となって千丈の滝下に落ちている。頂上は正確にはピークをなしておらず、単なる尾根上の台地に過ぎない。南側と東側が岩壁となっており、それぞれ岩登りルートがひらかれている。北坊主岩とは台地の北にあるザッテルと呼ばれる白ザレの鞍部で結ばれている。坊主中尾根は南坊主岩の近くでナイフエッジとなっている。標高2390メートル。
●地図 甲斐駒ケ岳
南坊主岩東壁(みなみぼうずいわとうへき) <地>
黒戸尾根五合目から北に、ガラス板を立てかけたように見える岩壁で、高さ250メートル,傾斜60度。下部は坊主の沢左俣のつめとなっており、小オーバーハング帯が壁の最下部を横切っている。かつては壁の半ばは樹林に覆われ見映えしなかったが、1982年の台風による豪雨のため、樹林が落ちて立派なスラブが顔を出した.中央の浅いクラック沿いにまずルートがひらかれ、それと交錯するように第二、第三のルートがひらかれた。南坊主岩の代表的なルートとして、またフリークライミングルートとして人気が出ている。
●記録 *1959年12月30日 森 義正、加藤啓司(『白稜』152号)
*1983年5月2〜3日 藤原雅一a、清水 薫a、砂子 勉a、伊藤陽久b(a雲表倶楽部・b無所属―『岩と雪』97号クロニクル、『雲表40周年記念号1983』)
*1984年3月11〜17日 永田東一郎、千葉厚郎、三谷英三、神沢 章、武中
誠(東大スキー山岳部―『岩と雪』108号クロニクル、『クライミングジャーナル』No.14)
*ノープロブレム=1986年6月8〜9日 中嶋正宏、丸藤正晴、渋谷正明(CC蒼氷―『岩と雪』118号クロニクル、『クライミングジャーナル』No.25、クライミングレポート)
19873年3月6〜8日 丸山正晴、中嶋正宏、田中幹也、丸藤正晴(『クライミングジャーナル』No.30)
*下部同志会ルート=1987年8月14日 市川 篤、豊田敏夫(山学同志会―『岩と雪』125号クロニクル、『クライミングジャーナル』No.32クライミングレポート)
1988年12月3〜4日 戸田暁人、田中幹也(CC蒼氷―『クライミングジャーナル』No.41クライミングレポート)
●注 記録中、冬期、一部の派生ルートなど記載していないものもある。
●地図 甲斐駒ケ岳
南坊主岩東稜(みなみぼうずいわとうりょう) <地>
南坊主岩の頂上より千丈の滝下に落ちる急峻な尾根で、坊主中尾根の事実上の延長尾根である。上部の高差250メートルほどが、傾斜約60度の岩稜で東壁の左端を成している。このリッジの最下部を東稜乗越しと呼んでおり、坊主の滝の捲道から踏跡が続いている。上部に下からもよく見える顕著なフレーク状の岩があり、東稜カンテと呼ばれている。一見面白そうなリッジだが、樹林とブッシュに覆われており、岩登りとしての価値はない。坊主岩頂上へのバリエーションルートとして初めて登られたリッジである。
●記録 *1952年8月9日 鎌田 久、鹿島達郎、恩田善雄(『白稜』60号)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
南坊主岩正面壁(みなみぼうずいわしょうめんかべ) <地>
南坊主岩南面にある高さ150〜200メートルのスラブ状の岩壁。黒戸尾根七合目から黄蓮谷をへだてて見える草付の多い壁である。左方は高差が小さく、右寄りは高差はあるが、ブッシュや樹林が多くなっている。下部は奥千丈の滝左岸のスラブ帯に続いている。南坊主岩を代表する岩壁だったが規模は小さく、最近、樹林が落ちて岩肌を露出した東壁に代表の座を明け渡した。一般に「正面」とは、太陽が最初に当たる場所を指している。しかし、登山者が命名したものは登山道に相対している場所を指す場合が多い。命名は西山敏夫(雲表倶楽部)
●記録 *右ルート=1954年8月18日 鎌田 久、山田健三(『白稜』85号)
*左ルート=1969年10月12日 長尾孝和、鈴木稔彦(東京白樺山岳会―『山と渓谷』1978-3記録欄)
*中央ルート=1978年8月15日 須藤建志、南裏健康(京都岳人倶楽部―『山と渓谷』1979-4記録欄)
●地図 甲斐駒ケ岳
三峰川(みぶがわ) <地>
仙丈岳を源として赤石山脈の主稜に沿って南に流れ、塩見岳北面直下で、向きを北に180度転換し、高遠からは西に流れて天竜川に合する。長さ約60キロメートル。南アルプス北部の水を集める大河である。甲斐駒ケ岳北面の水は戸台川から黒川となって中流に注い
でおり、三峰川最大の支流となっている。また、高遠から南に、流れに沿って中央構造線が、市野瀬を経て小渋川へと抜けている。本流沿いの道は塩見岳直下までは車も入る立派なもので、林道は荒川出合いまで伸びている。この三峰川筋は山中検分の道として、江戸時代から定期的に歩かれていたようである。これは、この周辺が木材の宝庫だったからで、一般人の入山は禁じられていた。文化14年(1817)には『木師御林山絵図』という詳細な地図が作られている。中流に美和ダム、高遠ダムがある。上流には小瀬戸峡、小瀬戸の湯があり、左岸には平家落人伝説のある集落・浦がある。名称の由来は、甲斐、信濃、駿河の三国の境にある山を三峰岳と呼び、そこから興ったものだといわれている。『山岳』第五年第一号「間の岳より北」で、山川
黙、梅沢親光は、三峰岳が三峰川の途中にある目立たないピークであることから、本来の三峰岳とは、峰頭が三つにわかれて見える仙丈岳であるとし、そこから流れる谷を三峰川としたという意味の発言をしている。しかし、前記、『木師御林山絵図』には、三つの国境に三峰岳とはっきり記されている。この図中、三峰川とは荒川出合いまでであって、そこから上流は「ヲモ川」と記されているのが注目される。
●参考資料 [T]河田 黙「三峰川の上流」(明治42年7月の紀行、『山岳』第4年第3号)
[U]梅沢苫瓠「三峰川昇り」(『山岳』第9年第1号)
[V]斎藤一男「三峰川」(『岳人』447号)
[W]松山義雄「平家落人集落・浦」(『深山秘録』法政大学出版局・1985)
●地図 赤穂、高遠、市野瀬、大河原(以上5万分の1)
宮の大岩(みやのおおいわ) <地>
坊主尾根・宮の頭(2200m)南面一帯にひろがる幅400メートル、高さ250メートルの岩壁帯の名称で、中央部のフェースは完全な一枚岩となり、各所に巨大なオーバーハングを見せ迫力がある。カラ沢左岸を作る燕岩の最上部にある最大の露出壁だが、カラ沢を遡行する以外には近くから見ることはできない。下から三分の二ほどの高さに壁を横断する不明瞭なバンドがあり、そこまでは傾斜70〜90度のすさまじい岩壁である。フェースにはまったく弱点がなく、ボルト連打によって完登された。甲斐駒ケ岳で開拓された最後の壁といってもよく、ボルトによる登攀は事実上ここで終了した。壁の下部は広い草付き帯が扇状に広がり、最下部、要の位置に燕の巣と呼ばれている数名収容の岩小屋がある。
●記録 *右リッジルート=1980年9月14日 小林 隆、北川勇人(『岳人』403号記録速報)
*ダイレクトルート=1981年8月13〜15日 小林 隆、山下誠一、北川勇人、太田泰弘大成
守a(a東京岳人倶楽部―『白稜』251号、『岳人』413号)
1987年12月30日〜1月1日 新保栄司a、中村太a、斎藤幹司b
(a東京YCC、b GHM.J―『クライミングジャーナル』No.34)
*鉄腕ルート(右方大ハング帯)=1984年9月29日〜10月1日 池 学a、小林秀雄a、安田秀己b(a
RCC神奈川、b東京心岳会―『クライミングジャーナル』No.49、クライミングレポート)
●地図 長坂上条
宮の頭(みやのあたま) <地>
黒戸山の南、篠沢をへだてた坊主尾根上にある2200メートルのピーク。西の鞍部から篠沢に落ちる小沢を宮の沢といい、ピーク名はそこからきている。樹林に覆われた円頂だが、最高点からの赤石沢奥壁の展望はすばらしい。南面はカラ沢源流に面して大きな岩壁となっており、宮の大岩と呼ばれている。西の鞍部までは幅広い樹林の尾根だが、東のヤニクボの頭(2165m)との鞍部まではやせ尾根で、岩稜となっているところもある。
2165メートル峰を宮の頭としている文献も多いが、近くに小祠があることから、このピークを指すのが妥当と思われる。「みやのかしら」と呼ぶ人も多いが、本来は「みやのあたま」である。
●地図 長坂上条
宮の沢(みやのさわ) <地>
大武川の支流・篠沢は長大な谷であるにもかかわらず、出合い付近を除いては、めぼしい枝沢はなく、わずかに源流付近に宮の沢があるに過ぎない。この沢は落差400メートルほどで、坊主尾根の標高2094メートルの鞍部から本流右岸に落ちている。流れの左岸は切り立っているが、右岸はひらけ、数本の滑滝をかけている。鞍部付近の小ピークに小祠があるので、このように名付けられたものであろう。ここから赤石沢大滝下に落ちている小沢も同名で呼ばれており、黒戸尾根から赤石沢下部への近道として利用されている。また、釜無川沿いにある山口の集落の西、天狗岩(1209m)と、トヤツビラ(1228.9m)より釜無川に落ちている小沢も同名で呼ばれている。
●地図 長坂上条
妙見岳(みょうけんだけ) <地>
本峰の北側、鋸岳への縦走路を五分ほど辿ったところにある小ピーク名で小祠がある。このピークを講中では「北山」あるいは「妙見岳」と呼んでいる。妙見とは北斗七星のことで、北辰とも呼ばれている。古代中国には北斗七星を神としてまつる土俗信仰があり、それが仏教に入って日本に渡来し、古くから「妙見様」として全国にひろまった。神仏混仰の名残で、妙見神社として祭られていることが多い。そして、その奥にある山を妙見岳と呼んだ。佐渡と兵庫県の北部に、登山者にも親しまれている妙見岳がある。甲斐駒ケ岳の場合は主峰の北側に小祠を置いてものが、何時かこのように呼ばれるようになったものであろう。妙見とは北側に祭るのである。
●地図 甲斐駒ケ岳
┌────────────────────┐
│ 特別連載 │
│ 甲斐駒ヶ岳研究(9) │
│ 恩 田 善 雄 │
│ (東京白稜会) │
└────────────────────┘
武川村(むかわむら) <地>
白州町の南隣りにあり、人口約3400、面積60.24平方キロメートル。北は大武川本流、南は早川尾根から地蔵岳、燕頭山の線を境としている。村内を大武川が流れ、古くは一帯が武川筋と呼ばれていたことから武川を村名とした。四道将軍・武渟川別命(注)
が鰐塚に封ぜられ武川の名が起こったといわれ、また、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の御子・武田王がこの地に封ぜられ武川となったという説もある。『甲斐叢記』には「又古老ノ説ニ郷中ニ尾白河、大武河、小武河、濁河、流河、黒沢河、六派アリ釜無川ニ注ク
因リテ名ツクト云」とある。大武川下流沿いに耕地がひらけ、県内一の良質米を産し、果樹、野菜の栽培もさかんである。石空川には県下第一の落差を有する精進の滝(落差121m)があり、また、山高には神代桜と呼ばれる日本最大の桜の巨木があって、万休院の舞鶴松とともに天然記念物に指定されている。
●注 記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣された将軍、東海地方に派遣されたのが、タケヌナカワワケノミコトといわれている。歴史的事実はない、ということである。
●参考資料 『武川村誌』武川村誌編纂委員会・1986
●地図 鳳凰山、長坂上条、韮崎
胸突八丁(むなつきはっちょう) <地>
黒戸尾根・笹の平上部の小鞍部から1881メートル峰までの標高差300メートル弱の登りをいう。「八丁登り」と呼ぶこともある。樹林帯の変化のない急登で、黒戸尾根中で一番苦しいところである。この上部の1881メートル峰を「前屏風の頭」と呼ぶ案内文もあるが、これは誤りで地元では「八丁の頭」と呼んでいる。(→前屏風の頭)
●地図 長坂上条
明治時代の登山(めいじじだいのとざん) <事>
文化13年(1816)、弘幡行者によって開山されたと伝えられる甲斐駒ケ岳は、江戸後期に講が結成され、明治から大正時代にかけて信仰登山がさかんに行なわれるようになった。しかし、いわゆる近代登山は明治14年(1881)9月の高橋白山による戸台側からの登頂に始まったといわれる。しかし、実際はそれより二ヶ月はやく、A.G.S.ホーズが黒戸尾根より登頂したことが、アーネスト・サトウの日記により明らかになった。明治時代の登山はまだ探検の域を出ず、甲斐駒ケ岳と白崩山が同一のものかどうか論争になったほどであった。明治24年(1891)、陸地測量部によって、山頂に一等三角点が設置され、ここを基点として測量が行なわれ、ようやく細部にわたる地形が明らかにされた。この間、日本山岳会創世記の人たちによって、さかんに登頂が行なわれ、他の山々への縦走もはじまった。そして、小島烏水による鋸岳第一高点の登頂によって、この時代を終った。南アルプス全体を見ても、ピークハンテイングが一応終了し、縦走登山へと移りはじめた。明治の紀行を読むと、信仰登山者以外に一般の登山者がけっこういたことがわかる。甲府あたりの人が多かったようである。かなり目立った山なので興味の対象になったと考えられる。東京方面からの登山者は少なかったようだが、記録に残ったものは多い。地質学者、植物学者の登山があったことがうかがわれる。
[明治時代の主な登山]
○明治14年7月23日 A.G.S.ホーズ゙、黒戸尾根より登頂。(アーネスト・サトウの『日本旅行日記』東洋文庫・庄田元男・1992)
○明治14年9月6日 高橋白山(同行、伊藤瀬平)は戸台より駒ケ岳を往復した。(『白山楼詩文集』巻5・明治16年、『白山文集』巻4.明治35年)
[注] 戸台川本谷より六合目に出たと思われる
○明治15年6月23日 内務省地理局・三原 昌、三角点選定のため駒ケ岳登山。(『一等三角点の記』)
○明治24年、陸地測量部・高井鷹三、一等三角点造標、矢島守一観測。標石、7月10日 点、7月14日。観測、9月12日。(『一等三角点の記』)
○明治29年7月9日 木暮理太郎は戸台より駒ケ岳に登り、頂上小屋に泊って黒戸尾根を下山した。(『山の憶ひ出』上巻)
○明治36年8月1日 小島烏水、山崎紫紅、黒戸尾根より駒ケ岳往復。(山崎紫紅「甲州駒ケ岳―またしても山物語」『文庫』25巻1号)
○明治36年8月13日 武田久吉、黒戸尾根五合目小屋に泊り駒ケ岳往復。(『明治の山旅』)
○明治36年 ウェストンは黒戸尾根より駒ケ岳登頂の後、鋸岳の手前より戸台に下山した。(「早川谷と甲州駒ケ岳」『極東の遊歩場』)
○明治37年 陸地測量部・岸田 稔は三角点選定のため、横岳峠より三角点ピークに登った。選定登山、5月11日。造標、6月8日。観測、10月1日。(『日本登山記録大成』17巻中の山崎安治の解説による)
○明治37年8月 御料局踏査官・三宅勝次郎は鋸岳第一高点に三角点を設置した。横岳峠より往復。のち甲斐駒ケ岳の測量も行った。(上條
武著『孤高の道しるべ』による)
○明治39年 辻本満丸、駒ヶ岳登山(『山岳』第2年第3号「甲州鳳凰山と地蔵岳」中にあり)
○明治40年7月 武田久吉、河田 黙、鳥山悌成、梅沢親光は戸台より駒ケ岳に登り、黒戸尾根を下山した。(『山岳』第3年第1号)
○明治42年8月 榎谷徹蔵、黒戸尾根より駒ケ岳往復。(『山岳』第5年第2号)
○明治42年8月21日 加山竜之助、甲州駒ケ岳に登る。(上條 武著『孤高の道しるべ』による)
○明治43年9月30日 山辺好一は北沢より駒ケ岳に登った。小椋亀十同行。(上條
武著『孤高の道しるべ』による )
○明治44年7月 辻本満丸、星 忠芳は日向山、鞍掛山より鋸岳第二高点往復ののち、駒ケ岳を経て、仙丈岳往復、鳳凰山へ縦走した。(『山岳』第6年第3号、第7年第
1号)
○明治44年7月18日 ウイルヘルム・シュタイニッツアー(ドイツ人)、黒戸尾根より登頂。(日本山岳会『山』1983年10月号で宮下啓三が紹介。『日本山岳紀行』w・シュタイニッツアー・安藤
勉訳・信濃毎日新聞社・1992)
○明治45年7月 小島烏水、岡野金次郎は黒戸尾根より駒ケ岳を越えて戸台川に下山の後、横岳峠より鋸岳第一高点を往復、さらに仙丈岳、塩見岳に登った。(『山岳』第8年第1号)、]『日本アルプス』第4巻
○明治45年9月 大槻禎郎は黒戸尾根から駒ケ岳を越え、双児山を経て仙丈岳に登った。(『山岳』第7年第3号)
樅沢(もみさわ) <地>
釜無川源流・黒川右岸の支流で、水平距離1・3キロメートル、落差700メートルで雨乞岳の西肩に達している。平凡なヤブ沢で遡行価値はまったくない。
●記録 *1970年5月31日 児玉、唐沢、黒沢(下諏訪山岳会―『1973年年報』)
森 義正(もりよしまさ) <人>
1936年3月4日、東京・世田谷区に生まれ、1955年、東京白稜会入会。家業の染物店を手伝うかたわら、精力的に谷川岳、後立山、甲斐駒ケ岳の岩場を登った。厳冬期の南坊主岩東壁より本峰への縦走、赤石沢奥壁中央稜、無雪期の赤石沢奥壁左ルンゼ、北坊主岩東北壁上部ルート、摩利支天東壁等の初登攀を行なった。他山塊では不帰一峰尾根の積雪黄初登攀がある。すぐれたクライマーであった半面、低山の逍遥や、ピクハンテングをも好んだ。1961年12月末、赤石沢本谷より左ルンゼを目指したが、本谷完登後、左ルンゼ第二の滝登攀中、暴風雪に遭遇し、坪井森次、須藤和雄とともに遭難死した。
●参考資料 『甲斐駒ケ岳赤石沢遭難報告』(1963)
矢当石(やあていし) <地>
日向山の竹宇登山口付近にある三角形の大石。林道から登山道に少し入ったところにある。これは、その形から「やたていし」の転化したものと思われる。「やたて」とは屋立、つまり家形のことで、三角形の石につけられることが多い。
●地図 長坂上条
ヤチキ沢(やちきざわ) <地>
日向山北面にある落差600メートルの小沢で、濁川の一支流。濁川林道の奥から簡単に取付ける。とくに目立った滝はないが、山頂近くまで小滝が連続しており、けっこう楽しめる沢である。日向山・雁ケ原と結べば変化にとんだよいコースとなる。1942年7月、山岳巡礼倶楽部パーテイによって初遡行されている。
●記録 *1963年6月2日 市川 正、本田守旦、鈴木雄作(『白稜』183号)
*1983年1月10〜11日 広川健太郎(JECC−『山と渓谷』1983-3速報欄)
*1983年1月15日 北川勇人、角田孝之(『白稜』250号)
●地図 長坂上条
柳沢(やなぎさわ) <地>
中山の南、大武川右岸にある集落で、武川村に所属している。むかし、ここに大柳の木があり、名物になっていたということで、そこから命名されたものであろう。ここやり石空川沿いに精進の滝に至る道があり、かつては鳳凰山口登山道であったことが、『甲斐名勝志』、『裏見寒話』に記されている。柳沢氏の興ったところで、後年、柳沢吉保の命により、荻生徂徠はここを訪れ、『峡中紀行』中に鳳凰山登山記を残している。鳳凰山権現の里宮がある。なお、雨乞岳北面にも同名の沢がある。
●地図 長坂上条
ヤニクボの頭(やにくぼのあたま) <地>
大武川支流・篠沢とカラ沢を分ける尾根(坊主尾根の下部)上にある標高2165メー
トルのピーク。山頂はツガと石楠花に覆われており展望はまったくない。南面カラ沢側は露岩の多い急崖となっており燕岩と呼ばれている。このピークを宮の頭とする文献も多いが、命名の根拠から見れば2200メートル峰を指すのが妥当と思われる。『山梨鑑』によれば、駒ケ岳の項に「山中ニ北尾、中尾、鼓等ノ御料林アリテ、松、栂、ヤニ、ミヅメ等ノ林木繁生セリ」とあり、ヤニとは植物名であることがわかる。すなわちヤニの生えた窪と考えれば沢名となり、その源頭のピークということになる。しかし、どの沢を呼ぶのかは不明である。
●記録 *篠沢側より=1959年1月2日 吉田憲彦、川井正男(ベルニナ山岳会―『ベルニナ』12号)
*カラ沢側より=1980年9月14日 恩田善雄、小川節子(『白稜』250号)
●地図 長坂上条
ヤニクボルンゼ(やにくぼるんぜ) <地>
坊主尾根・宮の頭(2200m)とヤニクボの頭(2165m)の鞍部よりカラ沢に落ちる細い流れで、燕岩の一角に深く切れ込んでいる。落差約400メートル、平均傾斜は45度近い。下部は両岸が切り立ったルンゼで、チョックストンを持つ数個の滝があり、中流部にある奥壁状の岩壁に突き上げている。源流部は平凡な樹林帯で、事実上の登攀はこの壁で終わる。壁下から左にトラバースすれば、宮の大岩直下にある燕の巣と呼ばれる岩小屋付近に出る。
●記録 *1981年8月13日 北川勇人、大成 守a(a東京岳人倶楽部―『岳人』413号)
*1984年1月2日 平松 滋、北川勇人a(a日本絶壁仲間―『岳人』442号)
*奥壁大凹角ルート=1987年12月31日 池 学、白井秀明(RCC神奈川―『岩と雪』128号)
●地図 長坂上条、鳳凰山
藪沢(やぶさわ) <地>
戸台川上流は本谷と藪沢とに分かれる。源流は仙丈岳北面の藪沢カールを作り、その下流はほとんどが広い河原で、上流部に大滝が一つあるだけの平凡な沢である。水平距離
6キロメートル、落差1500メートル。左岸に平右衛門谷、右岸に双児沢の二支流がある。この沢は出合より奥まで明るくひらけ名前にそぐわない。ヤブとはブッシュではなく、
狩猟からきたものではないだろうか.野呂川の奥にも同名の沢がある.
●地図 甲斐駒ケ岳、仙丈岳
藪の湯(やぶのゆ) <地>
大武川右岸にあり、大藪温泉とも呼ばれている。(→大藪温泉)
●地図 長坂上条
山梨県北巨摩郡山岳登山案内
(やまなしけんきたこまぐんさんがくとざんあんない) <書>
1924年、北巨摩郡山岳開発会によるB6版、19ページの小冊子。名のごとく北巨摩郡に属する山の簡単な案内である。尾白川の項に「大正12年7月、菅原村青年団は前人未踏の登路を駒ケ岳の尾白川深谿に拓く。懸崖、飛瀑、天下秘蔵の奇勝なるに恥じず。その命名するものを挙ぐれば、鼓滝、旭滝、クスバ岩、葛滝、神蛇滝、石室、不動の滝、不二岩、地獄滝、天狗岩、長渓、瓢箪滝、養老滝、女夫滝、梯子滝、遠見滝、噴水滝、三斜滝、花岩、獅子岩、千丈滝、雪渓等である」と渓谷道の開拓について述べられている。解説は平賀文男。現在の渓谷沿いの名称はこれによって確定した。
山の団十郎(やまのだんじゅうろう) <文>
東面からの駒ケ岳を「山の団十郎」と形容したのは、作家・宇野浩二である。これが登山界に最初に紹介されたのは、山村正光著『車窓の山旅・中央線から見える山』中であり、著者は駒ヶ岳への最高の賛辞であるといっている(注)。舞台で大見得を切った姿に例えたものだろう。名優の完成された姿と甲府盆地を睥睨したとも見える駒ケ岳をダブらせたところに作家の鋭い洞察がうかがえる。小説内の文章ではあるが、筆者はしばしば諏訪を訪れているので、そのおりの印象を綴ったものと思われる。それにしても明治以前にこの山が名山として認められなかったのは不思議としかいいようがない。出典は私小説『山恋ひ』(大正12年発表)中であって以下のように述べられている。「……汽車が甲府をすぎて、日野春あたりにさしかかったとき、私の左の窓にあらわれたけしきは、ふたたび私をうちょうてんにまでおどろかした。それは、私の汽車のはしっている線路の左手は、かなりき
ゅうな角度をもって目のくらむような大きな渓谷をなしていた。反対にいうと、つまり私の汽車は大渓谷を仕きっているところの、とても人工ではおよばないような天然の土手のうえを走っているわけで、その土手の傾斜のつきるところ、すなわち大渓谷のもとも底を、一条の急流がながれているのが、汽車の窓から見おろされるのである。地図に記するところによると、それは釜無川である。ところが、汽車の走っている、その私たちのばしょから、釜無川へは、かなりきゅうな傾斜であるというものの、そのあいだには畑もあり、ところどころには、ちいさな村落もあり、しょせん、大なる天然の土手の側面というにすぎないが、それが釜無川で切られて、さてそのむこう岸はというと、それはもう傾斜でもなければ、大なる土手でもない。まさに直立した、といっても、ほとんど誇張ではないところの、崖というか、切立てというか、とにかく嶮阻きわまる山が、ぼうをたてたように、あるいは屏風をたてたように、そそりたっているのである。私たちの、はしっている汽車の位置が、すでに、さきにもいったように、かなり高いところであるが、その谷底の釜無川は、海抜からいっても、けっしてそんな高いところではない。ところで、その彼岸の山は、そこからむきだしに、ぼうのように、一万尺の高さにそびえているのである。それはまさに甲斐駒ケ岳なのである。甲斐駒ケ岳は九千七百八十何尺の山である。汽車の窓から見ると、駒ヶ岳のうしろ左手にそれよりは高くはあっても、けっして低くないところの山々のいただきが二つも三つものぞいて見える。たぶんそれは鳳凰、地蔵、奥千丈などという山々であろうか。その他、私の目のまえに、その山をせんとうにして、夕日を背にして黒々と、奥へ奥へと南につづいている山々は、日本一の白峰山脈にちがいないのである。だが、そのとき私の目は、ときどき他のほうに目うつりしながらも、絶えずその全山を私たちの目のまえに露出している、おどろくべき駒ケ岳にかえってくるのであった。駒ケ岳はあたかも舞台にでている団十郎のようにみえた。ほかのもろもろの山はことごとく彼の影にけされて、ひとり彼だけが、駒ヶ岳だけが観客の目を引きつけるのであろうか。が、なにはともあれ、駒ヶ岳はほかの山よりも、私たちのもっともまじかに、その怪異なすがたをまるだしのして、突ったっていることも事実であった。彼女はそのふもとを釜無川にあらわれながら、一万尺ぢかいその異様なかたまりを、根もとから私たちに露出して、そのもはや肩からうえを、雪をかぶって、いびつになったいただきは、あたかも隣国信濃の国を山々のいただきをこえて、のぞきこんでいるかとも見えるのである……」(現代かなづかいに直した…資料は山村正光氏の御好意による)
●参考資料 宇野浩二著『山恋ひ』(共立書房・B6版、337ページ・1947年)
●注 旅行作家・岡田喜秋は「甲斐駒が見える温泉宿」(『岳人』304号)中で「…登山好きとは絶対いえない、ひとりの小説家、いまは故人となった宇野浩二氏さえ手放しの賞め方で“山恋ひ”という作品のなかに書いている…」と紹介しているが、団十郎という言葉はでてこない。
山は生きる(やまわいきる) <書>
今井徹郎の随筆集。1932年6月、木星社書院発行。B6版、402ページ。甲斐駒ケ岳周辺関係では「中村儀助の覚書」、「その後の水石春吉を語る」、「石倉初男君遭難顛末記」の三編がある。覚書は、天保年間、江戸城修理の用材調達のため野呂川に入った木曾の庄屋・中村儀助の覚書をもとに、日記風に現代文で書き改めたものである。儀助は天保8年(1837)、広河原の雪中で亡くなったといわれ、小太郎沢にはその墓が最近まであったという。また広河原の自然石に「天保八年木曾ノ庄屋中村儀助コノ地ニ死ス」と刻まれていたが、明治41年(1908)の大洪水で流失したという。儀助の死については疑問点も多く、死亡年も謎に包まれているということである。第二項の水石春吉は、明治から大正にかけて活躍した柳沢の山案内人で、初期の重要な登山にはほとんど同行している。また、平賀文男とともに積雪期の駒ケ岳登頂も行っている。甲斐側で代表的な山案内人をあげるとしたら、この人をおいて他にはない。第三項は、1931年7月、帝大生・石倉初男は鳳凰山から駒ケ岳を目指したが、予定日を過ぎても下山せず、地元の白鳳会に捜索が依頼された事件である。7月18日から8月8日にわたって各方面から捜索が行なわれたが、北沢小屋以後の足取りがつかめず、一時は打ち切りかと見えた.この事件は連日、マスコミをにぎわし、捜索状況が紙面にのったが、長期化するにつれ、他の登山団体も動き出し、義勇隊をつのるという意外な方向へと発展した。白鳳会とこの団体との間にいろいろと問題があったようで、その辺の事情が詳しく書かれている。8月20日、白鳳会、東京からの応援隊、地元、その他と大規模な捜索が再開されたが、偶然、地元の案内人が摩利支天と本峰との間のハイマツの中に倒れていた同君を発見した。捜索の規模といい、いろいろ話題を残した点といい駒ケ岳開山以来の大事件であった。
横岳(よこだけ) <地>
鋸岳の西方にある標高2142メートルのピーク。頂上は針葉樹に覆われてお展望はない。横岳峠から簡単に登ることができる。ここから西・北方に伸びる尾根を釜無山脈と呼んでおり、南アルプス最北の主脈となっている。東は横岳峠を経て鋸岳に連結している。峠から山頂まではっきりした踏跡があり、主稜線に続いている。辻本満丸は「甲斐駒付近に就て」(『山岳』第8年第3号)中で「山林図には、丁度横岳と同じ辺りに、矢張り横岳という名がある。これは如何にも、その名の如く鋸の主脈から横に分かれた山脈であるからであらう」と述べている。
●地図 甲斐駒ケ岳
横岳峠(よこだけとうげ) <地>
鋸岳西端を区切る峠で、標高1980メートル。ここから西・北方に続く稜線は釜無山脈と呼ばれている。峠は釜無川の最源流にあり、甲斐から伊那側に抜ける道が通じて古くから猟師やイワナとりに利用されていた。峠に至る戸台側の道が、殺生道と呼ばれていたのはこのことによる。釜無川はこの峠から三角点ピーク、編笠山に囲まれた地帯を水源としている。横岳とは峠の西にある標高2142メートルのピーク。南アルプスは、この峠を境として東側で高山帯に入る。峠からの北岳はとがって見えるといわれていたが、最近では木が茂って展望はあまりよくない。登山者としてはじめてこの峠に立った小島烏水は、同行した水石春吉のいう雁木に、雁木峠という名を与えた。「がんぎ」とは、こびき用うる大きな鋸をいう。のち、陸地測量部五万分の一地図『市野瀬』中に横岳峠と書かれたのでそれが一般化した。
●地図 甲斐駒ケ岳
横手(よこて) <地>
黒戸尾根登山口は二つあり、南側が横手口である。この登山口のある横手の集落は中山の西側一帯にひろがり、200戸近い家が集まっている。西のはずれに駒ケ岳神社の横手前宮があり、韮崎駅から集落の中ほどまでバスの便がある。現在では町制が敷かれて白州町横手だが、かつては駒城村(注)横手であった。『甲斐国志』巻十三に「」本村山腹ニ倚リ居ル因リテ横手ヲ名トス」とある。信仰登山はここが表口本道であった。山側に別荘地があ
り、滝道川遊歩道が通じている。山寄りに江戸時代につくられた横手堰があり、この一帯を潤している。
●注 北巨摩郡誌に「往古此地一帯は牧場なりしより、駒置の国音に因み、駒岳の駒と、中山城の城の字を取れるものなりといふ」とある。
●地図 長坂上条
横手前宮(よこてまえみや) <建>
黒戸尾根登山口には横手口と竹宇口があり、それぞれ入口に駒ケ岳神社の前宮がある。本宮は山頂にあり、摩利支天峰に奥の院がある。祭神は大己貴命(オオナムチノミコト、大国主命のこと)。信仰登山は横手が表口であるが、登山には竹宇口のほうが何かと便利である。戸台側にも前宮があったということだが現存していない。『山岳』第二年第三号「白崩山に向うの記」中に詳しい描写がある。鷹岩よりやや下流にあったということである。社伝によれば雄略天皇2年6月に出雲国宇迦山から遷座したというが、詳しい設立年第は不明である。1984年5月、この前宮の境内からサンショウウオに似た紋様のある縄文中期の土器が発見され話題となった。約4500年前の藤内式と呼ばれる土器で、峡北地方の森林地帯からの出土はめずらしいものだという。同時に平安時代の土器も発掘されており、神社成立の鍵をにぎっているとも見られている。古くから医薬の神として信仰を集め、講社も結成された。明治23年(1890)、神楽殿が改築され、昭和のはじめには社殿も改築されている。毎年4月20日には、白州町の無形文化財に指定されている代太神楽が行なわれている。
●地図 長坂上条
六合目石室(ろくごうめいしむろ) <建>
甲斐駒ケ岳の北西尾根上、標高2520メートルの地点にあり、この山塊中で一番高い所にある山小屋である。樹林帯を抜けた稜線直下にあるので展望は抜群で、とくにここから見た北岳はもっともとがっているといわれている。壁が石造りのためこのように呼ばれている。鋸岳寄りに戸台川からの登山道がある。鋸岳への縦走の基地としての利用度は高い。難は水場が遠いことで往復30分はかかる。大正8年(1919)建設、30名収容。長谷村役場管理。
●地図 甲斐駒ケ岳
六丈の沢(ろくじょうのさわ) <地>
黄蓮谷の一支流で、坊主の滝と同じ岩壁上に、右岸より滝となって合流している。落差600メートル、平均傾斜35度の小沢で、中流で二俣となっている。左俣はガレ沢だが、右俣には四段落差50メートルの滝があり、黒戸尾根六合目上部の橋のある鞍部に達している。不動沢とも呼ばれている。
●記録 *1952年8月5日 恩田善雄、清水一夫(『白稜』60号)
●地図 甲斐駒ケ岳、長坂上条
六町ダテ(ろくちょうだて) <地>
摩利支天南山稜の末端、大武川に向かって切れ落ちた部分をいう。大武川本流は、この部分で数個の大滝をかけ、ゴルジュとなっているので、本流沿いの踏跡は摩利支天前沢の支流に入って、南山稜下部の鞍部を越えている。尾根の末端が切断されたように直立した所を、「おったて」または「はしだて」などと呼んでいるので、同様の意味なのであろう。(注)なお、ゴルジュの通過は右岸、左岸ともになされているが、まき気味に越えたもので、すべての滝を直登して抜けた記録は未だ見当たらない。
●注 秩父・武甲山西尾根の末端に橋立があり、茅ケ岳の東にある太刀岡山も同様の命名であろう。
●地図 仙丈ケ岳
ロックガーデン(ろっくがーでん) <地>
摩利支天南山稜の登攀は普通、仙水峠から南西稜を乗り越して、腰と呼ばれる南山稜上のたるみに出るのだが、この腰の下方にロックガーデンと呼ばれている岩場がある。小規模の風化した岩塊が尾根上から東面にかけて並んでいる。かなり個性的な岩場なのだが、わざわざ登りに行くほどの価値はない。東面下部にサデの大岩がある。
●地図 仙丈ケ岳
六方石(ろっぽうせき) <地>
本峰と駒津峰の中間にあり、花崗岩の岩塊が乱立している。流石英治外二名著『日本南アルプスと自然界』(朗月堂書店・1927-7)中に、「六方石は高さ20米、周囲80米もある粗粒花崗岩の大岩塊で、不規則の方状節理のため六方状をなすゆえ此の名がある」と解説されている。普通、六方石といえば水晶のことだが、この辺で水晶が採れたという話はない。ここから戸台川本谷源流を横切って、六合目石室に至る踏跡があるが、現在は崩壊がはげしく通過は困難である。ただ本谷の水場までは良い道である。この付近には夏期まで氷が残っていることがある。駒津峰寄りはナイフエッジ状を成しており、クサリ場がある。慈恵会医科大学山岳部・岡
一雄遭難の地で、この辺が花崗岩の西南への限界となっている。1930年8月、鳳凰山から縦走して駒津峰を越えた慈恵会医科大学山岳部パーテイの最後尾を歩いていたリーダー岡
一雄は、パーテイの誰もが気付かぬままナイフエッジから転落死亡した。鳳凰山地蔵岳にあった登山者名簿(注)に「1930−8−17日、午後2時40分到着、濃霧のため眺望皆無」という絶筆がある。昭和初期の記録に双児山を錫杖岳としているものがあるが、筆者は六方石こそ錫杖岳であったと思っている。(→錫杖岳)
●岡 一雄・参考資料 *慈恵会医科大学山岳部部報創刊号『JOCH』1号
●注 石仏会が設置したもので、『山小屋』19号(1931)に加賀爪鳳南氏が「登山者名簿より」として内容を紹介している。この中で注目すべきは、鳳凰山の積雪期初登頂の記録があることで、「昭和2年4月2日、青木湯より二日がかりにて地蔵岳を極む、積雪六尺。野歩路会・樋川栄造。気温あたたかく、積雪に埋没して登行極めて困難なりし、北御室より上は稍可、北御室は中へ入られず」と書き残されていた。また、地蔵仏登攀など貴重な記録がある。筆者による鋸岳山頂の名刺の調査は、これが契機となって行なわれたものである。(→鋸岳山頂の名刺入れ)
●地図 甲斐駒ケ岳