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番外発『アイ・ノウ・ユー』


 僕の制服の内ポケットには、もう二ヶ月以上もの間、映画のペアチケットが差し込まれている。
この薄っぺらな二枚の紙切れは、新聞の勧誘員から滝川の母親の手に渡り、
滝川の母親から滝川を経由して僕へと巡り巡ってきた。
「同窓会の二次会のカラオケで黒沢君、気になる人がいるって言ってたよね?行ってきなよ、二人で」
二ヶ月前に僕のバイト先のコンビニに顔を出した滝川が、そう言って譲ってくれたのだ。
長岡と二人で行けばいいのに僕に気を回してくれるところが、なんとも彼女らしい。
 だけれど僕は、未だに滝川の厚意に応えられずにいる。
このペアチケットを内ポケットから取り出すタイミングを計りあぐねているうちに、
師走が過ぎようとしていた。


 十二月二十二日。
僕の高校はこの日が終業式で、年明けまでの短い冬期休暇に突入した。
「つってもさー、たったの二週間だよ?休む暇ないっての」
正午前、僕と並んで座って電車に揺られていた須川が、気だるそうに言った。
 須川とは高校こそ違えど、地元が同じなので、よくこうして電車の中で一緒になる。
快速の電車が刻むガタンゴトンという不規則なリズムに身を任せて彼女と言葉を交わすひと時は、
窮屈な学生生活における、貴重なリラクゼーション・タイムだ。
 この日も僕たちは、受け取ったばかりの成績表の中身の話だとか、
須川が今ハマっているドラマの話だとか、あさってには忘れていそうな他愛もない会話をしていた。
そうしている時間が、僕にはとにかく心地がいい。
その心地良さの発信源を辿ってみると、どうやら左心房と生殖器の二箇所が、
豆電球のように内側から熱を帯びて脈を打っているのだ。
 僕は中学時代の苦い経験から、この現象の意味するところを知っている。
どうして須川に対してそのような感情を有するようになったのか、
その理由は全くもって謎のままだが、異性を意識するというのは、そういうものなのかもしれない。
「須川はこの冬休みは、何か予定があるの?」
 軽く探りを入れてみることにした。
「あるよ。ありまくり。バイトして、あゆみたちと服買いに行って、あー…あとスノボも行きたいな」
「クリスマスは?」
「あー、バイト入れてる。とにかく金がないと何もできないかんね。私、下流チャンだから」
少しあざといかと思いつつ、クリスマスにかこつけて彼女を映画に誘おうとしたのだが、
その線は消えてしまった。
「黒沢はクリスマスどうすんの?」
一応、内ポケットに眠ったままの映画の招待券のことを考えてクリスマスはバイトを空けていたのだが、
それも甲斐なく終わってしまいそうだ。
もっともらしい理由をつけてクリスマスに休みを取るのは、れなりに骨が折れたのだが、致し方ない。
「特に用事もないし……まぁ、本でも読みながら過ごすよ」
「かっ、出たよ根暗趣味が。独り身は寂しいねぇ〜」
須川は嫌味に口元を綻ばせながらそう言った。
「須川だって同じだろ?」
「は?バカにすんなよ。私はお前みたいなのとは違って、男を作ろうと思えば余裕なんだよ。
今はめんどいから誰とも付き合ってないだけ。その気になれば亀梨でも田中でも落とせるっつーの。
あ〜あ、やっぱクリスマスはバイト休んで誰かいい男と二人で過ごそっかな〜」
「尻軽女…」
仕返ししてやった。
「は。言ってろ、根暗野郎。お前にはクリスマスは一人寂しくオナニーってのがお似合いだよ」
 相変わらず須川は口が悪い。だけど、そんなところも嫌いじゃない。
断っておくが、僕は断じてマゾヒスティックな性分ではない。
それでも彼女のこういう一筋縄ではいかないところが良いと感じるのは、
飼い主にじゃれついてこない猫の素っ気なさを可愛いと感じるのと、傾向としては近いかもしれない。
 須川は咳払いを一つして、僕の顔を見ずに言った。
「でもまぁ、男探しすんのも面倒だし…その、どっかもっと手近なところに暇な男がいれば、
あ〜……えと、遊んでやらないことも、ない……かな」
不自然に視線を泳がせつつ、愛想が良いんだか悪いんだかわからない口振りで言う須川だった。
光明が見えた気がした。
「じゃあさ――」
と僕が言いかけたところで、「麻衣子!」という甲高い声とともに、
場所も省みずにばたばたとうるさい音を立てながら、こちらに近づいてくる足音が二つあった。
「麻衣子!久し振りじゃん!」
 どうやら須川の知り合いらしい足音の主は、僕たちの目の前に並んで立ち止まった。
他の乗客が迷惑そうな顔をしているのを歯牙にもかけず、須川とその二人は再会を喜び合っていた。
「おー、摩子久し振りー!愛美も!お前らおんなじ高校?」
 どうやら、二人のうち片方は、中学時代に三年四組いた屋代摩子のようだった。
かつて北原綾の復讐計画の標的にされたこともある須川グループの一員だが、
髪にパーマがかかっているせいか、当時とは少し違った面持ちに見えた。
 屋代も、愛美と呼ばれたその友人も、僕とは面識がないので、
僕を完全スルーした状態で、須川相手に盛り上がっていた。
「チョー懐かしいんだけど」「今何やってんの?」「ていうか中学ん時とカンジ違くない?」などと、
ひとしきり再会時の定型文の応酬を繰り返している姦しい光景を前にして、僕はひとり肩身が狭かった。
「んで、そっちの彼はどちら様?」
 僕が今日のオカズは誰にしようかなぁ、なんてことを考え出したあたりで、
不意に屋代たちの注目が僕に向けられた。
「カレシ?」
と須川に尋ねる屋代。
「あー、こいつは……」
言いかけて、須川は口ごもった。
僕のほうに目配せをして、一瞬、考えるように目を伏せてから、続けた。
「ただの知り合い。別にカレシとかじゃないから」
屋代たちから、へぇー、そうなんだ、という気のない返事が返ってくる。
 …まぁ、そりゃそうだよな。
別に違う返事を期待していたわけではないが、あらためて須川の僕への認識を確認すると、
なんだか胸の中にぽかんと穴が空いたような、漠とした虚無感があった。
僕たちは友達ってわけでもないし、中学時代に仲が良かったわけでもない。
元はといえば、塾が同じだった、というだけの関係。知り合いか。相違ない。
「そんじゃー麻衣子は今フリーなわけ?」
「ああ、うん。そうだよ」
そう答える時も、須川はなぜだかチラリと僕の顔を窺った。
何も遠慮することなんてないのに。
「マジで?もったいねー。麻衣子くらいならいい男いくらでも釣れんのにね」
「ははは。んなことねーよ」
いや、さっきと言ってることが違うぞ。
「そんならさー、麻衣子、今晩ヒマ?」
「ヒマだけど。何かあんの?」
制服の胸ポケットから携帯電話を取り出しつつ、屋代が言った。
「ウチら今日合コンやるんだけど、カレシいないんだったら来なよ」
「うんうん。麻衣子だったら大歓迎。ちなみに相手の男たち結構レベル高いよ」
合コン。僕とはまったく無縁の、別世界の話題が展開されている。
 合コンなんかに行ったりするということは、屋代はもう山田光義とは別れたのだろう。
修学旅行の時、僕の目には二人はとても仲睦まじいカップルに映っていたけれど、
中学生の恋愛なんてそんなものかもしれない。線香花火のようにぱっと咲いて、儚く消える。
「冬休みだし、やっぱカレシくらいいないと寂しいっしょ?ね、来なよ」
完全に誘い気の屋代たち。
「あー…どうしよっかな……」
須川は足元を見ながら、躊躇うように言葉を切った。
そして、またも僕の顔を窺うのだった。
「行ってくれば?クリスマスはいい男と一緒に過ごそうかなって、さっき言ってたじゃないか」
思いとは裏腹に、そんな言葉が僕の口を突いて出てきた。
遠慮したりためらったりするのは須川らしくないと思った。
「う、うっせーな。お前に言われなくても行くっつーの」
僕にそう言って、須川は再び「うん、行く」と屋代たちに返事をした。
「よっしゃ決まり!そんじゃ先方にメールしとくかんね」
トントン拍子で、屋代たちは事を進めていく。
 そうこうしているうちに車内アナウンスが流れ出し、電車は僕たちの地元の駅に到着した。
「じゃあ打ち合わせも兼ねて今からどっか遊びに行こっか」
屋代たちの誘いに、須川は気のない返事を返していた。
 駅のホームに降りた時、須川は僕に「じゃ、そういうことだから」と告げた。
それが、今日はこの二人と一緒に帰るから、という意思表示だとすぐにわかった。
いつもは並んで自転車を漕いで帰る。今日は別々だ。
 須川たち三人は、僕を置いて和気藹々と昇降口へと向かった。
途中、須川が一度だけ、僕のほうを振り返った。
何かを言いたそうな顔をしていたけれど、すぐにかぶりを振ってしまったので、読み取れなかった。
 三人と少し距離を置いて昇降口に向かう僕の胸ポケットには、
今日も取り出すタイミングを逃したペアチケットが残っていた。


「ヤンキー女はマジで止めといたほうが無難だ」
 その日、夜間のバイト中、同じ職場の先輩から、ありがたい忠告をいただいた。
 僕は今年の夏休みから、コンビニで夕方から深夜までのアルバイトをしている。
僕が通うお堅い私立の高校は原則としてアルバイトは禁止されているが、
監視するわけでもなく形だけ存在している校則なんてザルだ。遵守するべきものでもない。
 別段金が要り様になるような生活はしていないのだが、
僕には現在進行中のある“計画”があるので、そのための資金を今から蓄えておく必要があるのだ。
その計画を同窓会で滝川や元D班の連中に話してみると、みな快諾してくれた。
それぞれ資金を蓄えて、来年の夏休みはみんなで大阪に小旅行に行く手筈になっている。
 腰に手を回してエプロンの紐を結びながら先輩が言った。
「その手の女は、理想だけはいっちょ前なんだよ」
曰く、“柄の悪い女に限ってテレビドラマのような純愛をしたがる”んだそうな。
「そのくせ、すぐに鞍替えしやがる。要するにラブラブを満喫できれば誰でもいいんだよ、奴らは」
偏見だが実体験だ、とその先輩は付け加えた。
 大学を中退してフリーター歴三年、自称“経験豊かな人生”を送ってきた先輩が言うのだから、
この忠告も心の片隅に留めておいていいくらいには信憑性があるのだろう。
相手がどんな人間にしたって、何事においても経験者は馬鹿にできない。
「どうせ中学生や高校生の恋愛なんて、大して長続きしねぇよ。持って二ヶ月がいいとこだろ。
三ヶ月まで引っ張れたら拍手モノだな。それ以降はご卒業おめでとうございます、だ」
 言われてみれば、確かにそんな気がしないでもない。
高校でクラス内の恋愛模様を観察していても、大抵みんなそんなものだ。
Aくんと付き合っていたBさんが破局後、Aくんの友人のCくんと付き合っていたり。
人間がまだ出来ていないから、破局も心移りも日常茶飯事だ。
お陰で、クラス内の一部モテグループの男女は、
傍から見ていても微妙に気まずい関係になっているパターンが少なくない。
「ヤンキー女だと尚更だぞ?ちゃらけているように見せかけて、
あれ、実はこの子けっこうしっかり者なんじゃ……なんて思い始めたらアウトだ。騙されてる」
耳が痛い。
「どのみち長続きはしねぇよ。ひと月も持たずにグダグダになって別れるのがオチだ。
とにかく止めとけ。付き合う女は慎重に選べ」
まるで女のことは一から百まで知っているジゴロのような物言いの先輩だが、
言いたいことは分からなくもない。
 僕だって不安になる時がある。須川が僕のことをどう思ってるかなんて知りようもないし、
万が一須川とうまくいっても、それが永遠に続くなんて到底思えない。
そもそもが、僕と須川はタイプの違う人間なのだ。うまくいくほうがおかしい。
「俺から言えるのはそれだけだな。あ、客来たら呼んで。奥で雑誌読んでるわ」
 そう言い残して、先輩は僕に仕事を押し付けて事務室に引っ込んでしまった。
兄貴風を吹かすだけ吹かして、仕事じゃてんでやる気を見せないんだから、困った人だ。
 僕はがら空きのコンビニのレジに一人ぽつんと取り残されて、頭の中で先輩の言葉を反芻していた。
どのみち長続きはしない、か……まぁそれもそうかもな。
その点、長岡と滝川や小林と西本のカップルは、よくやっているなと思った。
先輩の言葉を借りれば拍手モノだ。
長岡たち二人は互いに性格ができている者同士だし、小林と西本はボケとツッコミ、
夫婦漫才の関係で、どちらも相性が良かったのだろう。
 僕と須川はどうだろう。あまり相性が良くはなさそうだ。
うまくいっても、赤ワインとチーズのような関係になる可能性が高い。
そうなるとやはり“長続きはしない”という予言を地で行くことになってしまうのだろうか。
そもそも、須川は僕を恋愛対象として見てくれるだろうか。
屋代たちには僕のことを、ただの知り合いだと紹介していたし……――
 まったく客の入りがない夜間のエアポケットのような時間帯、
レジの奥に立つ僕の頭の中を、数え切れないほどの想像が堂々巡りしていた。
悩んだところで、答えが出ようはずもないのに。
 今頃須川は、どこぞで屋代たちと合コンを楽しんでいるはずだ。
僕がこんなくだらないことで頭を悩ませている間にも、いい男を見つけて、
デートの約束でも取り付けているかもしれない。
 そう考えると、なんだか自分が酷く惨めに思えた。
結局僕は、中学の時と同じで、何もできずに、目の前の魚をみすみす逃してしまうのだろうか。
一人で想像だけを逞しくして、目が覚めた頃には、
意中の人は手が届かないところに行ってしまっている――
また同じことを、繰り返すのかな。
 と、そんなことを考えていると、店の入り口のドアが開く音がした。
急に現実に返って、反射的に「いらっしゃいませー」と声をかけ、ドアのほうに目を遣る。
「よっ」
入り口に立つ彼女は、コートのポケットに片手を突っ込んで、もう片方の手を挙げて言った。
「須川……」
深夜の珍客に、僕は何と声をかければいいか分からなかった。
須川はすたすたとレジの前に歩み寄ってきて、
検分でもするようにじろじろとエプロン姿の僕を見て笑った。
「似合ってねぇなぁ、そのカッコ」
前にも彼女は何度かこうしてバイト中の僕を茶化しに来ていた。その度にそんなことを言うのだ。
「どうしたの?合コンは?」
「あ〜…抜けてきた。いい男いなかったからさ」
 レジの前に立つ彼女は、何だか吹っ切れたような顔をしている。
ひょっとして今朝、電車の中で、屋代たちのいる手前、僕に素っ気ない態度を取ってしまったこと…
こちらとしては全然気にしていないが、それを気にかけてわざわざ顔を出してくれたのだろうか。
 迂闊にもそんなことを尋ねたら、キレられた。
「は、はぁ!?なんで私があんたのことを気遣わなきゃいけねんだよ!ばっかじゃねぇの!」
そう言って、唾でも吐き捨てそうな顔をする。
ぷくりと頬を膨らませでもすれば、まだ可愛げがあるのに。
「何か買ってかないの?」
「マルボロライト」
「煙草は止めなよ」
「うっさいな、身内でもないくせに偉そうなんだよお前は」
堂々とそんなことを言う。僕に喫煙がバレてから、開き直ってしまっている須川だった。
「ていうか未成年者の喫煙は法律違反だから」
「っせ〜な〜、融通利かせろよ融通。そんなんじゃモテねぇよお前」
そう言って、彼女はポケットからレザーの豪奢な財布を取り出して、小銭をカウンターに乗せた。
僕は仕方なく煙草を手に取り、レジを打つ。
「はい」
「どうも」
煙草を手渡すと、須川はそれをコートのポケットに突っ込んだ。
 しばし、気まずい沈黙が流れた。
沈黙は苦手だ。特に、意中の人との沈黙は、不安の影を呼び寄せる。
「ねぇ」
「あん?」
「なんでわざわざ、店まで来てくれたの?」
「いや、煙草が切れたから……」
言って、須川は口ごもった。
まだ深夜十一時は回っていない。わざわざ僕のバイト先まで来なくても、街中の自動販売機が稼働中だ。
「なぁ、お前バイト何時あがり?」
話を逸らす須川。
「十一時だけど」
「あと十分ちょっとだな」
「だけど、それがどうかしたの?」
「外で待ってるから」
十一時になったらモタモタしてないでさっさと出てこいよ、と言い残して、須川は店を出て行った。
 僕は「ありがとうございました」と声をかけて、彼女の小さな背中を見送った。

 タイムカードを押して着替えると、僕は先輩に挨拶だけして、早々に店を出た。
外に出ると、息が白くなった。身も縮こまるような十二月の夜の風。
 店の入り口を出たところの駐車場で、須川がしゃがんで煙草を吸っていた。
足元にはすでに二本の吸い殻が転がっている。少し待たせてしまったか。
 須川が煙を吐くと、店の光に照らされて、白煙はわずかな時間、夜の闇に霧のように広がった。
「遅い」
棘のある口調で彼女は言う。
「もう十一時十分」
「レジ集計に時間がかかちゃってさ。これ、お詫びのしるし」
僕は両手に持っていた缶コーヒーを一本、須川に差し出した。
手がかじかんでいたのか、須川は受け取った缶コーヒーで、懐炉でも触るように手を暖めていた。
「あったけー」
缶コーヒーのプルリングを開けて、一口だけ喉に通した。身体の芯が温まるような気がした。
「どうして僕を待ってたの?」
須川は立ち上がって、同じように缶コーヒーを開けて言った。
「少しぶらぶらしようぜ」


 二人で歩いているうちに、腕時計の針は深夜十一時三十分を回っていた。
外の風も一層冷え込んできたような気がする。上着のポケットから手を出すのがためらわれる。
 僕たちは、距離を取って人気のない公園の中を歩いていた。
僕たちの口数は少なく、寒風の隙間から、新聞紙がはためいているような木々のざわめきが聴こえた。
 須川は、どういう心積もりで僕を誘ったのだろう。
今朝、映画に誘いそびれた時、冬休みが明けるまで当分須川には会えなくなると思っていたので、
その日のうちに再会できたことは、心持ち嬉しかったのだが。
 こんなふうにして、二人で外を歩くのは初めてのことだった。
須川は何か、僕に伝えたいことでもあるのだろうか。無くてもそれはそれで構わない。
僕のところにきて、こうして二人だけの時間を作ってくれただけで、僕はじゅうぶん満足だった。
「なんかさ」
 僕より二メートルほど手前を歩く須川が、背中越しに語りかけてきた。
「何しててもつまんないんだよな、最近」
そんなことを、いつものあっさりした調子で彼女は言う。
「合コンも退屈だったし。周りのやつらに調子合わせてキャーキャー言ってても、全然楽しくねぇの」
こちらを振り向かずにそう言う彼女の表情までは窺えなかったが、
公園の外灯が作り出す薄ぼんやりした日溜まりの中に立つ彼女の背中は、
いつもより少しだけ小さく見えた。
 今朝、駅のホームで屋代たちに混じって僕を置いていった時の、須川の表情を思い出した。
合コンに行くと言ってから先の、あまり気乗りしなさそうな受け答えも。
「高校だって、入る前はさぞかし楽しいとこなんだろうと思ってたけど、実際入ってみると全然だし」
 それは僕だって同じことだ。
僕は別段高校に変な理想像は抱いていなかったけれど、いざ高校生になってみると、
その窮屈さは中学時代の三割増だと感じていた。
「あーあ、ホントつまんね」
そう言って、須川は立ち止まった。
彼女に倣うようにして、僕も歩を止めてしまった。
 駆け寄って背後から何か優しい言葉をかけてやろうかとも思ったが、
その優しい言葉とやらの持ち合わせがなかった。
日々の窮屈さを忘れさせてくれるような魔法の言葉があるのなら、僕だってそれに縋りたいと思う。
「中学ん時は、あゆみと馬鹿やって、先公だって全然怖くなかったし、
トイレで隠れてコソコソ煙草吸ってんのも、冒険してるような気分でなんだかちょっと楽しかったよ」
そう言う須川の背中は、どんどん小さくなっていくように見えた。
 僕の中には、今でも中学の頃の須川のイメージがある。
怖いものなんてないような顔で、豪胆で大胆に振る舞う彼女の姿。今でもその面影は残っている。
だけど、彼女が弱音を吐く姿を見るのは、初めてだった。
「あゆみとは毎晩電話してる。たまには遊びに行くし、
先公だって中学の時ほどウザイやつばっかじゃなくなった。
高校になると、外じゃ周りのツレはみんな煙草吸ってるし、コソコソ隠れる必要もなくなった」
 なのに、と言って須川は続けた。
「なのに、どうしてこんなにつまんないんだろ……」
僕のほうを振り向いた彼女の表情は、暗がりの中でも、はっきりと泣きそうに見えた。
 駆け寄るタイミングなら今しかない、と思った。
僕は数歩、彼女との距離を詰める。
「教えてくれよ、なぁ……」
消え入りそうな声で、彼女は言う。
やはり返す言葉は思いつかない。魔法の言葉なんて有り得ない。魔法は空想の産物だ。
「とりあえず、座ろうよ」
それが僕に言える精一杯だった。
 ちょうどおあつらえ向きに、僕たちの間近に噴水があった。
音もたてず停止しているその噴水を縁取るように、タイル張りのベンチが円状に広がっている。
そこに二人並んで腰掛けた。ジーンズの裏からでも、冷えたタイルの温度が肌に伝わってくる。
 僕たちは、いつも学校の帰りに電車の中でそうしているように、肩を並べて座った。
この公園は大通りからは少し外れている。僕たちが言葉を交わさなければ、
木々のざわめき以外は、車の往来もないし静かなものだった。
 隣で、すん、という鼻を啜るような小さな音がした。
「泣いてるの?」
そう訊ねると、
「アホか…誰が泣くか。寒くて鼻が気持ち悪いんだよ」
という、いつもの強気な声が返ってきた。
 こうしていると、なんだか気持ちが軽くなるような気がした。
いつも電車の中でそうしているように、話せばいい。
「何かあった?」
「何もねぇよ…」
「何もないの?」
「何もないから辛ぇんだよ」
須川はまた鼻を啜った。
あまり音を立てずに小さく鼻を啜るその仕草が、女の子らしくて、ちょっとだけ可愛く思えた。
 ――中学生は子供だ。
ついこの前まで中学生だった僕たちでも、時としてそれに気付いてしまうことがある。
たった数ヶ月の間に何が変わったかと問われれば答えに戸惑うが、
確実に何かが変わっている。変わっていく。
ある時期を境に、はたと我に返る。
それまではただ時の流れに身を任せて周囲の環境を享受していた自分と、そうではない今の自分。
それに気付いた時に、かつてあったような万能感は失われてしまう。
ついこの前までの自分と、今の自分では、周囲に対する意識が違うように感じる。
今までどのような意識を持っていたのか、わからなくなってしまう。
 僕の境目は分かりやすかった。
クラスメイトの面前で自分の行いをぶちまけたあの日から、
徐々に平衡感覚を失っていったような気がする。
新しいバランスを身につけられるようになったのは、それから当分先のことだった。
 須川は今、その時期に来ているのかもしれない。
僕は、長岡が差し出してくれた手のことを思い出していた。

そんな時は、無性に。
誰か、心を委ねられる人が欲しくなるのだ。

「須川さ」
「あ?」
まだ弱々しい表情をしている彼女に、僕は言った。
「映画とか観る?」
「?……あんま観ないけど」
「観に行かない?」
言えた。
やっと。
 ちょうど招待券が二枚あって、一緒に行ってくれる人を探していた。
そんなようなことを言った気がする。
自分でもどんなふうに彼女を誘ったか、そこら辺の記憶はあまり定かではない。
思うままの言葉を、あまり吟味せずにそのまま口にしたような気がする。
 だけど、その後彼女が口にした言葉は、鮮明に印象に残っている。
「やだ」
僕は思わず言葉に詰まってしまった。
須川は顔を背けて続けた。
「そんな誘い方じゃやだ」
それ以上、彼女は何も言わなかった。僕の言葉を、ただじっと待つように。
僕は一呼吸して、息を整える。
気持ちを落ち着かせて、再度、アタックを試みる。
「須川、デートしよう」
「………」
「退屈はさせないから」
「……ホントに?」
子供のような目で、僕を見上げてくる。
 須川はなんだか最近退屈だ、と言った。
ならその退屈から引き摺りだしてやるのが、僕の使命だというものだ。
彼女が楽しいと言ってくれれば、僕だって、退屈なことなんて、一つもないのだ。
「誓うよ。しょげてる須川なんて、もう見たくないからね」
「は、はぁ?誰もしょげてねぇよ!」
そう言って、須川は僕の肩をばしんと叩いた。
強気な彼女に戻って一安心だ。
「どこ見たら私がしょげてるように見えるんだよ!アホじゃん?」
「アホでもいいよ。希少価値の高いものを見れたから」
「うわー、うざ」
「勿体ないから、このことは僕の心の中にだけそっとしまっておくことにするよ」
「けっ、言ってろ」
須川は拗ねるように口を尖らせた。
……まぁ、これはこれで、彼女らしいかな。
 須川は咳払いをして、ぽつり呟くように言った。
「……バイト」
「何?」
「バイト、お前クリスマス空けてるんだろ?私も頼んでみる。やっぱ空けてくれって」
僕の顔を見ずに、地面を見つめながら彼女はそう言った。
「つまんねぇクリスマスにしやがったら、あとで殺すから」
初デートで殺されたんじゃ、溜まったものじゃない。
映画を観に行く前後のスケジュールも、入念に組んでおく必要がありそうだ。

 僕たちは、しばらくしてから公園を出て、途中までいっしょに帰った。
帰り道も互いに口数は少なかったが、
別れ際に須川が頬を朱色に染めてにっこり笑いながら言ったその言葉は、忘れようもない。
「映画、楽しみにしてるかんね」
まさに魔法の言葉だった。
それだけで冷え切った身体の芯が熱くなってしまったのだから。


 さて、クリスマス当日は、映画を観て、そのあとはどこに行こうか。
猶予は一日しかないが、それを決めることが僕に課せられた当面の課題だ。
須川をがっかりさせてしまったら、あとで殺されちゃうからな。

とりあえず明日、バイトの先輩に、オススメのデートスポットでも聞いてみるとしようか。
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