TOPに戻る
前のページ 次のページ

最終発『きみといっしょ』


 とある女子高校生の証言。
「北原さん?ああ〜、あのちょっと鬱入った背の低い子でしょ。
一学期の最初の一週間くらいじゃない?学校来てたの。最近見ないよねー」

 僕が北原の住むマンションを訪ねたのは、高校が二学期に入って間もない頃のことだった。
所用があって中学時代の恩師、野宮先生に電話で中学卒業後の北原のことを尋ねたところ、
“一応”彼女は高校に進学した、という返事が返ってきた。
その証言をたよりに北原の高校を訪問してみたところ、
入学して間もなく彼女が登校拒否になったという情報を得た。
それで致し方なく、僕は北原の自宅を訪ねることになったのだ。
 北原は中学卒業後も転居することなく、僕たちが通った中学校から徒歩十五分のところにある、
白塗りの壁が煤けた古めかしい六階建てのマンションの四階で、母親と二人で暮らしていた。
 北原の住所を調べるのには、たいした手間はかからなかった。
中学の卒業アルバム。住所はそのクラス名簿の中からあっさり見つけることができた。
個人情報保護の観点から長者番付が公表されなくなり、病院も患者の部屋をすぐには教えてくれない。
そんな時代になっても、教育機関の個人情報保護は案外ザルだ。
 休日の昼間に僕がインターホンを鳴らすと、玄関まで出てきて応対してくれたのは、
どこにでもいそうな背の低い四十半ばくらいの女性だった。ただ、ひどくくたびれた顔をしていた。
 北原の母親と思しきその女性が見るからに不審げな目でこちらを見上げてくるので、
僕は一言一句誤りのないように、極めて適切な言い回しで訪問の事情を説明した。
「綾さんの中学時代の同級生で、黒沢といいます。綾さんはご在宅でしょうか?
近々、三年次のクラスの同窓会が開かれることになったので、
綾さんにその旨を直接伝えたくてお訪ねしました」
 僕がそう言うと、北原の母親は警戒を解いたようだったが、
口元に手を当てて俯きがちに「あの子に友達なんていたかしら」と思案をめぐらせた。
「親しくしてもらいましたよ」
僕も安易に北原のことを、友達だと言い切ることはできなかった。
 僕と彼女の関係は、良友とも悪友ともつかない、奇妙なものだった。
女子トイレの捕まえ役と、捕まえられ役―――
第三者に説明するには、あまりにも取りとめの無い、なんとも名状しがたい関係性。
それは当事者である僕と北原にしか、真相を掴めないものなのかもしれない。
 北原の母親は、僕と目を合わせないまま、僕を部屋に招き入れる合図をした。
「綾ならいますよ。ずっと自分の部屋に。最近は、滅多に外に出ないんです」
「お邪魔してもよろしいですか?」
「ええ。中学校の同級生と久し振りに話ができれば、あの子も少しは心を開くかもしない。
だけど、黒沢くんには非常に申し訳ないけれど……あの子の顔は見れないと思います」
「顔が見れない?どうしてですか」
「あまり人様にこんなこと言いたくないのだけれど、あの子、引き篭もってるんです。
中学校を卒業した後、定員割れのあった高校の進学コースの二次募集に受かって高校にも入ったんですけど、
それも一週間ほどで行かなくなってしまって……近頃は、何かの用事で夜に家を出るくらいで、
普段は私でさえあの子の顔を見ることは少なくなってしまったわ」
それから北原の母親は、狭い内玄関で、僕にことの仔細を語ってくれた。
 顔を合わせることもなく、会話をする機会も減った親子のコミュニケーションの断絶。
たまに言葉を交わしても、北原は胸の内に秘めた彼女の悩みを話そうとはしないのだ、という。
 こんな状態がいつまでも続くのはよくない、なんとかして娘を外に出すしかない。
そんなふうに思いつつも、思い切った行動を取れずに娘を甘やかしている、
と北原の母親は語る。
 北原がまだ幼い頃に蒸発した父親。十数年間、その父親の代わりをたった独りで務めてきた母親。
安っぽい昼間のドラマにでもありそうな、よくある話を聞いた。
よくある話は、どこにでも転がっている。
本当にそんな話に遭遇した時、そのチープな真実を、誰も笑い話にはできない。
「甘やかしちゃいけないことは分かっています。あの子もこのままではいけないと思っているはずです。
だけど、私は何もできないの。あの子はこの半年間で二回、自分の手首を切りました。
下手に触れるとあの子が壊れてしまいそうで、怖いんです。
私はあの子を失うのは嫌です。だって十六年間も、いっしょに暮らしてきたんですもの」
 手詰まりなの、と彼女は自嘲気味に笑った。その苦々しい笑みは、どこか北原と似ていた。
「そんなわけだから、黒沢くんはおろか、母親である私でさえもあの子の顔は見れなくて……
話をする時はいつも決まってドア越しなんです。ドアに向かって話をしているようなものだわ。
悪いけれど、黒沢くんにも、そうしてもらうことになると思います……」
僕は靴を脱ぎながら、返事をする。
「構いませんよ」
「え?」
「ドア越しに話をするのは、慣れてますから」
 ドア越しだろうが何だろうが、僕は北原と話をしなくてはならない。
彼女のことは、半年前に終わった僕の中学生活の、唯一の心残りだからだ。
心残りは、きっちり精算しなくてはならない。
後始末は完璧に。
それが僕のジャスティスだからだ。



「それで、どうだったんだよ?北原のお宅訪問の結果は」
 揺れる電車の車内。
学校帰りの高校生たちで溢れる車内でなんとか座席を確保できた僕の目の前で、
座席を確保できなかった須川麻衣子が、吊り革に両手をぶらさげて、前に後ろに揺れながらそう言った。
「とりつく島もなかったよ」
「なんだよ撃沈かよ〜。あいっかわらず使えない男だな〜」
実は同窓会のメンバー集めにかこつけて北原の家を訪ねたのも、須川からの依頼が一つの理由だった。
 中学生活の最後の最後で手首を切った北原の人格形成に間違いなく自分が影響していることを自覚し、
ここ最近の須川は、らしくもなく反省していた。
高校に入学してアルバイトをするようになり、自由奔放だった彼女も、
ずいぶんと目の上のたんこぶに悩まされたらしい。
そんなこともあって、すこしだけ遅いけれど、かつての我が身を省みて後悔の日々を送っているようだ。
 だけど妙なところで弱腰の彼女は、直接北原に会って謝罪をするのは気が進まないらしく、
僕にそのことを依頼してきたのだ。
 須川とは今でも、たまにこうして電車の中で学校の帰りに会うことがあった。
高校は違うけれど、互いに私立の学校で授業時間がだいたい同じなうえに、二人とも帰宅部だ。
そのお陰で、地元に帰る電車が二駅ほど通り過ぎてから、同じ車両に乗り合わせることが多かった。
「で、北原とはどんな話したんだよ?」
「別に。僕が志望の高校の特進コースに落ちて、進学コースに入学したって話とか、近況とか。
あとは長岡と滝川は同じ高校に入学して、相変わらず人目をはばからずイチャついてるよ、とか……
ほとんどこっちが一方的に喋ってるだけだったけどね」
 他にも、夏の甲子園の予選に補欠として一度だけ出場機会を得た小林隆太の話とか、
アニメーターだかエロゲの原画だかを目指して専門学校に通っているピザ太の話とか。
ほとんどは長岡や滝川から又聞きした話だが、そんな話をいくつかした。
 珍しくそわそわした須川が、声を小さくして訊ねてきた。
「わ、私のことは?」
「須川の話聞きたい?って尋ねたら、聞きたくないって返されたよ」
僕がそう答えると、須川は顔を真っ赤にして、ところ構わず声を荒げた。
「なっ…!北原アイツ、調子乗りやがって!何だよ、私がせっかくしおらしく謝ろうってんのにさ!」
「まぁ同窓会の時に直接謝ることだね」
はぁ、と溜め息をついてうなだれる須川であった。
「で、どうなんだよ。北原のやつ、同窓会来るって?」
「いや、来ないってさ。絶対行かない、行きたくない、って丁重にお断りされたよ」
「ダメじゃん!」
「そうだな…でもまだ一ヶ月くらいあるし。それまでに何とかしてみるよ」
「?何とかって?」
「また訪ねてみるよ、北原のとこ。
まだ話してないこともたくさんあるし、そのうち心を開いてくれるかもしれないしさ」
「そっか……まぁ頑張ってよ」
 そこまで話し終えると、会話は途切れてしまった。
塾が同じだっただけで、元々はそりの合わない二人だ。
以前から、こうして会話が途切れてしまうことも少なくなかった。
 それでも、彼女と二人でいるのは、なぜか不思議と心地がいい。
高校でなかなかクラスに馴染めず孤立している僕でも、話し相手がいるというのはいいものだった。
 何か別の話題を提供しようと思って、僕は吊り革を支点にブランコのように揺れる須川と、
その抵抗を受けて上下に揺れる彼女の豊満なバストに話しかけた。
「そういえば、高校に入ってもまだ日課は続いてるの?」
「は?日課?」
「煙草。吸ってるんでしょ?身体によくないから、止めたほうがいいよ」
僕は何の気なしに言ったつもりだったが、それが須川にはひっかかったらしく、
彼女は首を捻って考え込んでしまった。
「あれっ…?なんで煙草のことこいつにバレてんの?
っかし〜な〜、私こいつの前では、吸わないようにしてたはずなんだけど……」
どうやら“日課”という言葉にはひっかからなかったらしい。
 須川の日課。放課後、六時間目が終わって間もない時間に、
第一校舎二階の女子トイレに篭って、原田あゆみや屋代摩子といっしょに煙草をくゆらせること。
中学二年生の最後のあの日、彼女たちと同様に別の“日課”を嗜んでいた僕が、
日課の真っ最中の彼女たちとニアミスしたことは―――誰にも話せない、僕だけの秘密だ。
 今は、そんなことよりも。
「へぇ。僕の前では禁煙してたのか……君なりに気を遣ってくれてたんだ。ありがとう」
「へっ?」
須川は面喰らったように目を大きく見開いて、顔を紅潮させてそれを否定した。
「ばっ……ちが、ちげーよ!誰もお前のことなんか気にも留めてねぇよ!
お前みたいな真面目クンの前で煙草吸ったら、高校にチクられるかもしんねーだろ!?
言っとくけどお前なんか歯牙にもかけてねぇから!勘違いすんな、キモ野郎!」
「ははは。ごめんごめん。それでも煙草は止めなよ」
うるせーな、ほっとけ、と毒づいて彼女はふてくされてしまった。
 そのあと電車を降りて自転車を漕いでいる間も須川はずっと不機嫌だったけれど、
顔を赤らめて怒っている彼女を見ているのは楽しかった。
 須川と途中で別れて家に帰ると、僕は部屋のドアに鍵をかけて、制服のズボンを下ろした。
僕の日課は今も、自宅の自室に場所を変えて継続している。
 今日のオカズは誰にしよう。
須川?それもいい。
だけど、なぜだか最近、彼女のことを考えながらイチモツを握ると、なぜか胸が痛み出すんだ。
その胸の痛みに合わせるように、イチモツは怒張して硬化し、脈を打つ。
 こんな経験は、中学時代にもあった。
硬化脈動するイチモツは、何のはじまりを告げるベルだったか。
その切なくも温かい感情の正体を、僕は今でもしっかり覚えている。


 その後、僕は週に一度、暇を見つけては北原の家を訪ねた。
あまり彼女を刺激しないよう、説得には細心の注意を払ったが、
結局彼女の口から、外に出るとか同窓会に出席するという言葉を聞くことはできなかった。
十分から二十分、ありふれた世間話や近況を話しても、彼女はいつもうわの空。
最後には、いつもお決まりのように僕が「また来るよ」と言い残し、彼女が「来なくていい」と答えるだけ。
 最後の最後まで僕は何の成果も上げられぬまま、十月の同窓会の日を迎えた。


 九月の暮れにはまだ感じられた夏の残り香も、十月が半ばに入る頃にはすっかり息を潜め、
上着なしでは外に出られなくなっていた。
夜の風は冷蔵庫を開け放したように冷え込み、油断すると風邪をひきそうなほどだ。
歩いていると耳が痛くなり、蓋をしたくなる。
 夕方六時半に集合場所の焼肉屋の前に自転車を押していくと、
すでに駐車場には懐かしい顔がいくつも並んでいた。
「おおーっ、黒沢殿!会うのは夏休み以来ですなー」
「おっそーい。遅刻ギリギリ」
長岡と滝川が真っ先に僕の到着に気付いて、手を振って迎え入れてくれた。
 滝川がコーディネイトしたのか、長岡は長身によく映えるベロアジャケットに身を包み、
ブロッコリー然としていた天然パーマは、ごく自然な感じにワックスで整えられていた。
滝川の私服は相変わらず大人びていて、女子大生だと偽っても通用しそうだった。
「黒沢くんご到着ー」
「あいよ」
 僕の姿を確認して、幹事の西本エリカと小林隆太が、紙にボールペンで名前をチェックしてくれた。
西本は高校に入ってから髪を染めたらしく、もう以前のような少女の面影はない。
隣に並んで立つジャージ姿の小林とのツーショットは微笑ましかったが、
この体育会系に転身したカール・ハイドのような男に処女を奪われたのかと思うと、なんだか切ない気分になった。
 僕の視界の中にいるのは、どれも懐かしい顔ぶればかり。
ハイティーン向けのファッション誌のモデルになり、より都会的に磨きがかかった内藤恭子。
相変わらず脂肪量は維持したまま、服装だけは無理してB-BOY風に決めているピザ太。
 みんな少しだけ変わったけれど、この狭い駐車場には、半年前の三年三組と同じ空気が満ちている。
唯一変わっていないのは、皺だらけでくたびれたスーツに身を包んで煙草をふかしている、野宮先生だけ。
「ま、他県に引っ越したやつとか用事があるやつはしゃーないとして、だいたいみんな集ったな〜」
 小林が坊主頭の後頭部を掻きながら、手に持った紙に目を落として言った。
「じゃあそろそろ店入りますか!」
 小林の合図に合わせるように、あちこちからウィースとかウェーイといった返事が重なる。
「じゃあお前ら、ついてこいや!」
 小林が先導して、ぞろぞろと元三年三組の生徒たちがその背後に集っていく。
この店超美味いんだぜ〜?とか、消防の頃から試合のあとはこの店って決まってんだよ!と、
 小林が嬉しそうに自慢話をしいしい、店の入り口のドアノブに手をかける。
出入り口が引き戸でない焼肉屋は珍しい。
戸が開くガラガラガラという音のかわりに、錆びた蝶番の金属が、ギィと軋む音がした。
 店の中から、がやがやと喧しい音に紛れて、いらっしゃいませー、という声が聴こえる。
「二十七名で予約してる小林ッスけどー」
店の名前が入った三角巾を頭に巻いた若い店員が、ありがとうございます、と言いながら、
入店名簿にチェックを入れる。
それを見ると小林は、この店は馴染みだと言わんばかりに、店員の案内を待たずに店の奥へと踏み込んだ。
 そして僕が、それを制止した。
「ちょっと待って」
小林と、その後ろに続いていた何人かが、僕のほうを振り返った。
僕は彼らの視線を一身に受けつつ、半身になって駐車場を振り返った。
「どしたよ黒沢?」
足を止めた小林が、きょとんとした顔で振り返る。
「ちょっと三十分くらい、出かけてきていいかな。すぐ戻るから」
「この期に及んでどこ行くんだよ〜?おま、まさか家帰ってオナニーしたくなったとかじゃねぇだろうな!
久しぶりにあった女子一同を見てイチモツの鼓動を抑え難くなってそれで…」
想像が飛躍しすぎた小林を、ばか、といって西本が小突いた。
「いや、そうじゃなくて。ちょっと、連れてきたいやつがいるんだ」
「?どゆことよ」
「欠席ってことになってるけど、ひょっとしたら来てくれるかも。わかんない。ダメ押しだよ」
僕が店員に二十八名になっても大丈夫ですか?と訊ねると、店員は愛想のいい顔で大丈夫ですよと答えてくれた。
「そういうことだから、ちょっと行ってくる」
僕はそう言って、駐車場に走り出し、自転車の鍵を外した。
元三年三組のみんなが奇異の目でこっちを見ている気配を感じた。
 だけど、ほっとくわけにはいかないだろう。
他県に引っ越したわけでも用事があるわけでもないのに、家を出てこれないやつがいるんだから。


「北原、来いよ。同窓会、始まってるぞ」
 頑丈そうな室内ドアに向けて、僕は語りかける。
返事はなかった。二度語りかけると、今度は「行かない。行くわけない」という返事が返ってきた。
 自転車を全速力で漕いで十分。エレベーターを待たずにマンションの四階まで階段を駆け上がって三分。
息を切らしながら、僕は北原宅へと駆け込んだ。
疲労に顔を歪めてインターホンを鳴らした僕を、北原の母親は何事かという驚きの表情で迎えてくれた。
 僕が北原を訪ねると、北原の母親はいつも「じゃあ私は買い物にでも行ってくるわね」といって、部屋を空けてくれる。
そして僕が何の成果も上げられぬまま北原宅を出ると、毎回むかいの廊下で「また来てあげてね」といって、
表情に落胆の色と無理矢理作った笑顔を浮かべてくれるのだが、今日はそうはさせない。
 今日でここに来るのは終わりだ。
今日、北原を外に連れ出して、それで僕の役目は終わり。
「半年ぶりに、懐かしい顔ぶれが揃ってる。同窓会なんて、次はいつになるかわからないんだ。
ひょっとしたら、あのメンバーが一同に会するなんて、もうないかも。せっかくだから来いって」
 もう手は尽くした。これ以上は弄する策もない。
ただ「来い」と言う以外、僕に言える言葉はなかった。
「長岡だって来てる。今なら言えるだろ、好きでしたでも何でも、笑って話せばいい」
「イヤよ。行きたくない。誰の顔も見たくない」
ドアの向こうに立っている北原。顔は見えない。僕たちはいつもこうだった。

―――今度会う時は、教室で。

 そんな言葉を思い出した。いつだったか、彼女にそれを直接言うことはなかったけれど。
中学校を卒業した今、“教室”で会えるのは今日しかない。
この日を逃したら、僕たちは永遠にドア越しになってしまうような気がした。
「だいたい、誰も私に会いたいなんて思ってないでしょ?私のことなんか、もうみんな忘れてるよ……
最後の最後に手首を切って、学校に来なくなった女のことなんて」
「そんなことないさ。僕は覚えてる。だからこうしてここに来てるんだ。……それに、滝川もね」
「……滝川さん?」
北原の声のトーンが変わった。
「お前は知らないだろうけどな、滝川の夢は、またみんなで修学旅行の時みたく、旅行に行くことなんだよ。
みんなってわかるか?D班だ。長岡がいて、ピザ太がいて、それに僕と……お前だよ」
「…………」
「だからさ、来いよ。いっしょに旅行の計画立てよう。いつになるか、わかんないけど。行こうみんなで」
北原の声が、聞こえなくなった。
僕はようやく息が落ち着いてきたところだった。
 頭の中が澄んでいく。今なら、言えるような気がした。ずっと、言い逃していたこと。
「なぁ、北原。覚えているか?僕が修学旅行の帰りの新幹線の中で、お前に言ったこと」
やはり返事はなかった。
それでも、僕は続けた。
「あの時、君があんまり復讐の話ばかりするんで、僕はこう言ったんだ。
僕には君が弱いようには見えなくなってきてる、って」
 失敗した屋代摩子への復讐計画。心も身体も疲弊しきっていた、あの時。
「君ほど強い女の子なら、もっと違う何かができるんじゃないか、って」
「……」
「でも本当は、君は僕が思っているほど、強くなんてなかったのかもな。
いつもクラスの中で独りきりで、いろんな重圧に耐えてて、耐え切れなくなって、今はこうだ」
「……」
「もっと違う何かができるなんて言っても、やったのはせいぜいリストカットで自滅だったしね」
「……」
「だけどさ、何もできない君じゃない。
強くはないかもしれないけど、君にだってできることがあるんだ。今やっとわかったよ」
「……」

「この部屋のドアを開けるくらないなら、君には簡単なことさ」

 君は非力で、独りではあまりにも小さすぎるけれど。
このドアを開ければ僕だっているし、何かあれば手を貸してやるさ。
体操服を窓の外に捨てられた時は、木登りくらいは、手伝ってやれるし。
二人なら、何もできないなんてことはないだろう?

 僕はドアの向こうの北原にそう語りかけた。それでもやはり、返事はなかった。
だけど、それでもいいと思った。ドアの向こうにまで、ちゃんと僕の言葉が届いてさえいれば。
あとはもう、僕にできることは何もない。
三十分で戻ると、小林には約束した。長居はできない。
「それじゃ、僕はそろそろ行くよ」
沈黙しか返ってこないドアに背を向けて、僕は北原の部屋の前を離れた。
そして僕が玄関に差し掛かったその時、ドアの向こうから――
「待って」
声がした。
小さくて、別のことを考えていたら、聞き逃してしまいそうな声。
「着替えるから、待って」

 部屋着から外行きの服に着替えた北原を伴って、僕は彼女の家を出た。
マンションの渡り廊下に出ると、北原の母親が買い物袋を片手に立っていた。
「お邪魔しました」
そう言って僕は北原の母親に一礼した。
北原は母親の顔も見ずに「ちょっと出かけてくる」とだけ言って、渡り廊下を先に行ってしまう。
北原の母親は僕たちを見て呆気に取られていた。
 僕がもう一度軽く頭を下げて去ろうとすると、「待って」と呼び止められた。
「あの子が外に出るなんて、信じられない。一体あなた、あの子とどういう関係なんですか?」
 友達でもなければ、ましてや恋人なんていいものじゃない。
複雑極まる、捕まえ役と捕まえられ役の関係。
かつて北原には「私と黒沢くんとは違う。他人だ」と言われたけれど、そんなあっさりしたものでもないだろう。
 僕は一瞬逡巡したけれど、鼻の頭を掻いて、笑い混じりに言ってやった。

「同類ですよ」


 外に出ると、いつの間にか空は暗幕を下ろしたような漆黒に染まっていた。
僕たちはその下を、街の灯に紛れて自転車を漕いでゆく。頬を撫でる風で、顔が引き攣りそうになる。
 途中、北原が自転車を漕ぐペースを落とし、僕の背後で「ちょ、ちょっとゆっくり」と言った。
僕は自転車を降り、北原も肩で息をしながら自転車を降りた。
僕たちは二人、自転車を押しながらとぼとぼと歩いた。
「ずっと家に篭ってたから、ちょっと外、きつくて…」
「少しずつ慣れればいいよ」
北原はおとなしめの黒のワンピースの上に、白いカーディガンを羽織っていた。
少し大きめのカーディガンの袖口から、左手首を隠すリストバンドが覗いて見える。
 それから僕たちは、並んでしばらく他愛のない会話をしながら歩いた。
北原がいなくなってから卒業までの間の中学生活の話とか、高校に入ってからの僕の近況とか。
「辛くないの?親しくしてくれる友達もいなくて……独りなんでしょう?高校」
北原は、地面を見ながら、白い息を吐いて言う。
空中で霧散する白い息を見て、僕はもう冬が近いことを知った。
「辛いけど、なんとかやれてる。今は、なりたいものもあるし。取り引きしちゃったからね、ある人と。
それに、気になる人もいるんだ。だから僕は大丈夫だよ」
「それって、女の子?」
北原は、横から僕を見上げるようにして聞いてきた。
僕は少し背の低い彼女に微笑みかける。
「ちょっとガサツで、不良だけどね」
「……そうなんだ」
北原は再び視線を落として、とぼとぼ歩く。
「今度、彼女をどこかに誘ってみようと思うんだ。映画でも、遊園地でも、どこだっていいけど…
意地っぱりな彼女のことだから、誰がお前みたいなキモ野郎と行くかよ、って突っぱねられるかもしれないけどね」
「怖くないの?」
「怖いよ。断られたら、ガラにもなく落ち込んで、しばらく立ち直れないかも」
でもさ、と前置いて、僕は続けた。
「もう言いそびれるのは、イヤだろ」
すると北原は、黙り込んでしまって、返事をしなかった。

 程なくして、僕たちは焼肉屋の駐車場に着いた。
三年三組の生徒たちの自転車が所狭しと並んでいて、車輌の駐車スペースまでも侵食している。
 僕は自転車に鍵を掛けて、北原を焼肉屋の入り口へと誘う。
「さ、入るぞ」
「待って」
北原は、立ち止まって俯いた。
「やっぱり、少し怖いかも…」
そう言って、目を伏せる。
店の入り口の照明の光を反射して、メガネの奥の表情までは窺えなかった。
「北原……」
 僕は、彼女のほうを振り向いて、一歩、二歩、歩み寄る。

そして彼女を、ぎゅっと抱きしめた。

「く、黒沢くん…?」
耳元で、北原の驚いた声が聞こえる。
抱きしめた彼女のカーディガンは、夜風に冷えて、冷たくなっていた。
 僕は肩越しに、顔の見えない彼女に言う。
「取り引きを無効にしたあの日、僕はトイレのドアを開け放って、君の驚いた顔を見たよ。
すると不思議とね、君の顔がいつもと違って見えたんだ。毎日、教室で顔を合わせてたはずなのにね。
だけど本当の僕たちは、いつもドアを隔てていたんだ。あの日、女子トイレで見た君は、別人だったよ」
彼女の背中に回していた腕をそっとほどき、あらためて彼女の顔を見る。
彼女はぽかんと口を開けて硬直していた。

「ドアを開けてごらん。きっと、いつもとは違った、僕やみんなに、会えるから」

 僕は彼女に背を向けて、再び焼肉屋のドアの前へ。
ドアノブを回して中に入ると、さっきと同じ店員の、いらっしゃいませー、という明るい声と、
玄関までも響く元三年三組のメンバーたちの喧しい声が、いくつも重なって僕の耳に飛び込んできた。
 僕はドアを閉めて、内玄関で立ち止まる。

 そこで、耳を澄ました。
中の喧騒に、その小さな音が、掻き消されてしまわないように。
僕は待つ。
君がドアを開いて、僕たちに会いにくる、その音を。
それは何かを予感させる、世界でもっとも美しい音なんだ。
 今度は僕が捕まえ役だ。
何もかもが思い通りに行くわけないこちら側の世界に、君が望んでやってくるのなら――
僕はしっかり、その音を聞き届けてやる。

 耳を澄ませば、ほら――――


蝶番が、軋む音。








「ああ〜期末どうすっかなぁ〜。マジで憂鬱なんだよなー」
 僕は今、電車に揺られて学校の帰り。
隣では、この日は運よく座席を確保することのできた須川が、頭を抱えて溜め息をついている。
 本格的に季節が冬に入ると、電車の中は、マフラーを巻いたり、コートを身にまとった人ばかり。
ついこの前までは、夕方でも混んでくると車内は暑かったのに、今は厚着をするくらいが丁度いい。
「な〜、今度私に勉強教えてくれよー。飯おごるからさ」
 須川が長くて白い脚を投げ出して、うしろの窓にもたれかかりながらそう言った。
だけどその時、須川の言葉は僕の耳を素通りして、僕は目の前の窓の向こうを見ていた。
 各駅停車の電車がガタンゴトンと揺れる音に合わせて、ゆっくりと窓の外を通り過ぎてゆく景色。
僕はその中に、冬服の制服を着て駅のホームに立っている、一人の小さな女子高生の姿を見た。
その女子高生の背後では、同じ制服を着た女子高生たちが、何人かで仲良さげに、きゃっきゃと笑っている。
まだその輪の中に入れないその女子高生は、それでもしっかりと、今日も一日の学生生活を生きたのだろう。
「おい黒沢、お前話聞いてんのかよ?せっかく私が誘ってやってんのに……ん、どうかしたの?」

あっという間に通り過ぎてゆく景色。
だけど、僕はその中に、確かに彼女の姿を見たんだ。

「別に。どうもしないよ」
「んだよ〜、だったらちゃんと話聞いとけっての」
 須川に頭を小突かれながらも、僕の胸の中には、あたたかい灯がともっていた。


 見知らぬ駅のホーム。
そこに立っていたのは確かに、メガネをかけた背の低い、仔リスのような女の子だったから。
前のページ 次のページ
TOPに戻る