第22発『彼女が消えるまで』
北原にとっても、僕にとっても、辛い日々が続いた。
「目の前にオモチャがあったら遊びたくなる年頃の生徒たちは、お前を簡単に受け入れはしない」
という野宮先生の言葉のとおり、僕への嫌がらせが収束する気配は一向になかった。
朝、学校に登校すれば教室から僕の机が消えていたり、
ちょっとトイレに行っている隙に僕の鞄の中から弁当箱が消えていたり。
毎日そんなことが続くわけではなく、今日は何事もなかったな、
と僕が安堵で胸を撫で下ろした翌日に、思い出したように何がしかの嫌がらせがあるのだ。
天災は忘れた頃にやってくる、というわけだ。
どこかで僕がうろたえるのを見て笑っている、顔の見えない悪意。
そいつと付き合うのは一苦労で、僕の胸にはいつもどんよりと暗い雲が立ち込めていた。
だけど、僕はどうにかそれに耐えつつ学生生活を送ることができた。
机が無くなれば一緒に探してくれる、弁当箱が消えれば購買部まで付き合ってくれる。
長岡圭史という、滅多に出会えないようなお人好しが、いつも傍に居てくれたから。
一方で、北原は、いつ瓦解するとも分からない、極めて危うい精神状態にあるようだった。
十二月の頭の席替えで、僕は彼女と同じ班になり、教室で彼女を間近に見られるようになった。
相変わらず、教室での彼女は他人行儀だった。
たまに目が合っても、言葉を交わすことはなかった。
眼鏡の奥の彼女の瞳は、日増しに光を失っていく。
その理由は尋ねるまでもなく、荒井真希や榛名景子による執拗ないじめだ。
北原をいじることに飽きたのか、それとも受験を目前に控えて、内申点を無視できなくなったのか…
兎にも角にも、北原から手を引いた須川や原田と入れ替わりに、
今では荒井と榛名が北原をオモチャにしている。
北原は、されるがまま。
今では、彼女の小さな背中は、見た目以上に小さくなっているように見えた。
見るに耐えなくて、たまに彼女に声を掛ける時があった。
それでも彼女は、力なく首を縦に振るだけ。
僕と目を合わせようとは、決してしてくれないのだ。
「黒沢くんは、耐え続ける道を選んだんだもんね。私にそれを見せてくれるって言ったよね。
わかってる。卑怯な取り引きなんてしないで、自分で立ち向かえって言いたいんでしょ?
黒沢くんは強いね。私には真似できない。荒井たちを殺してやりたいって、いつも思ってるよ…」
ある日、放課後の掃除の時間、除光液で濡らした雑巾で、落書きされた自分の机を拭いていた北原が、
箒で床を掃く手を止めて手を貸そうとした僕に、そんなことを言った。
同じ班の他の生徒たちは、野宮先生の不在をいいことに、
嫌われ者の僕と北原に掃除を押し付けて、さっさと教室を出てしまっていた。
教室には、僕と彼女の、二人きりだ。
「もう、私に話しかけないで。取り引きが無効になった今、私たちは他人でしょ」
彼女は、一心不乱に机の表面を擦りながら、捨て鉢に言った。
僕は彼女に冷たくされながらも、手近な場所にあった雑巾を手にとって、北原の作業を手伝おうとした。
今なら僕にも彼女の痛みがわかる。
それに、手を貸してくれる人がいることのありがたみも。
「確かに取り引きは無効だ。だけどな、北原。僕は君と他人になったつもりなんてないよ」
そう言って僕が彼女の机に手を伸ばそうとすると、北原は雑巾がけをする手を止めて、
横から机を薙ぎ払うように、床に倒した。
「勝手なこと言わないでよ!」
机が床に落ちる鈍い音とともに、これまでに聞いたこともないような北原の怒声が、
二人きりの教室に響き渡った。
「私は黒沢くんみたいにはなれないって言ったでしょ!?
他人じゃないって言ったり、手を貸そうとしたり……そんなことされたって、全然嬉しくなんかない!
荒井を、榛名を……私に酷いことする奴を、痛い目に遭わせてくれれば、それでいいのに……
同情されたって、私は耐えるなんてできない。あいつらをどうにかすることなんてできないのっ!!」
溜め込んでいたものを全部吐き出すような、荒々しい言葉だった。
「黒沢くんが変わろうとしてるの、わかるよ。私に変われって言ってるのもわかるよ。
だけどそんなの無理なの!私は黒沢くんと違って、心の中がグチャグチャで、汚いの!
私、あんな取り引きをするような女だよ?知ってるでしょ?
卑怯だし優しくなんてないし、嫌いな人には消えて欲しいの!
荒井も榛名も須川も原田も…滝川さんも嫌い…滝川さんのものになっちゃった長岡くんだって許せない…
そんなことばかり考えてる性格の悪い醜い女なの私は!黒沢くんとは違うの!耐えられない!変われない!」
叫びにも似た声でそう言った北原は、息を切らして、肩を上下させていた。
誰にも言えず抱えていた胸の内を大声で撒き散らして落ち着いたのか、
いつもと同じ、影を帯びたおとなしい表情に戻って、彼女は続けた。
「ごめんなさい、怒鳴ったりして……」
北原は俯きがちに、後悔したような声で言った。
僕は、彼女の叫びには答えずに、倒れた机を起き上がらせて、落ちた雑巾を拾い上げる。
「女子トイレに戻ってくる気がないなら、もう私に構わないでよ……
私のことはほっといて。関わりのあるような顔されたら、何でだかわからないけど悔しいの。
自分が惨めだし、他人じゃないなんて言っても、あなたと私は、違うから……同じじゃないから」
そこまで言って、北原は僕の顔を見ることなく、机の上を拭く作業に戻った。
僕は雑巾を絞り、壁に立てかけていた箒といっしょにそれを掃除用具入れに戻して、
自分の席に戻って鞄を肩に掛けた。
「誰かの手を借りたくなったら、いつでも言ってくれ…」
それだけ言い残して、僕は教室を出た。
返事はなかった。
その日の放課後、僕がいつものように図書室で本を読んでいると、思わぬ人に声を掛けられた。
「久し振りだね」
滝川マギステルだった。
毎日教室で顔を合わせているのに久し振りというのも変な話だが、
実際のところ、彼女とまともに口を聞くのは、僕が彼女を汚した体育祭の日以来だった。
こうして図書室で会うのは、彼女が長岡に告白する決意を固めた、あの日以来。
あの日から、僕たちはずっとすれ違いっぱなしだった。
滝川は首に巻いていたマルチストライプのマフラーを解くと、机の上に鞄を置いて、
ハードカバーの小説を片手に、僕の向かいの席に腰を下ろした。
彼女には、伝えたいことが山ほどあった。
だけど、そのほとんどは簡単には言葉にならないもので、実際に口を突いて出てくるのは、
本題からは遠く離れた、当たり障りのない言葉だった。
「今日はなんでまた、ここに来る気になったの?
放課後はいつも、長岡といっしょに下校してるものだとばかり思ってた」
僕の手で心に傷を負った、あの日から。
男子生徒への不審からか、滝川は毎日、長岡を伴って、人目を避けるようにして下校していたのだ。
「あはは。キョンくんとは、学校でも塾でも、いつもいっしょだからね〜。
たまには自分の時間がないと、ねぇ?」
彼女は、けろっとした笑顔でそんなことを言うのだった。
クラスメイトたちの面前で罪を告白したあの日から、僕は彼女との間に深い溝を感じていた。
教室ではどう口を利けばいいのかわからず、図書室を訪れても彼女の姿を見ることはなかった。
そんな溝を、一跳躍のうちに飛び越すような、笑顔だった。
「君の息抜きは、雨の日限定なのだとばかり思っていたよ」
「ううん、今日はほら、雪が降ってるでしょ?」
彼女に言われて窓の外を見てみれば、たんぽぽの綿毛のような小さな粉雪が、
窓を彩るようにふわふわと舞っていた。
十一月の暮れから、しばしば雪が降る日があった。
積もることはないけれど、アスファルトの上に染みを作るくらいにはなる、短い吹雪だ。
「傘、持ってこなかったしね。しばらく本読んでたら、そのうち止みそうだったから」
そうは言っても、下校に差し支えるほど吹雪いているわけではない。
ひょっとすると、ここに来る理由になれば、なんでもよかったのかもしれない。
そんな小さな理由を見つけてここに来てくれたのだと、僕は思った。
「この本、まだ途中だったんだよね〜」
彼女は前髪を掻きあげて、手にした小説のページをぱらぱらと捲り始める。
やがて彼女の指は止まり、その艶やかな瞳は、文字の海へと吸い込まれていった。
そんな彼女の姿を、僕はしばらくじっと見つめていた。
久し振りに見ても、本を読んでいる時の滝川は、やっぱり美しかった。
その美しさに、僕は――――あんなにも、惹かれていたのだ。
いや、今だって惹かれている。
目の前に広がる物語を宿して輝く彼女の瞳。凛とした佇まい。
ずっと、見ていたいと思った。
長岡と付き合い始めて、彼女は変わってしまったと思った。
だけど、変わってしまっても、彼女はこうしてここに来て、あの頃と同じように、
物語に胸を躍らせている。
それを確認できただけで、僕はなんだか胸の閊えが取れたような気がした。
「滝川さん、君に、言いたいことがあるんだけど…」
物語の世界から呼び戻してしまうのは、少し悪いけれど。
―――ちょっとだけ、僕の言葉に、耳を傾けてくれないか。
「何?」
「ごめんなさい」
「え?どうしたの?急に…」
「体育祭のあの日、僕が君にしたこと…ちゃんと面と向かって謝らなきゃって、ずっと思ってたんだ」
一瞬、彼女は面食らったような顔をしたけれど…
僕が顔を上げた時には、また笑っていた。
「あはは、あのことね。いや〜、あの時は真っ青になって吐いたりしちゃって、恥ずかしかったな、私」
「ごめん……何て謝ったらいいのか、分からなかったけど…他に言葉が、思いつかなくて」
何十冊、何百冊、本を読んでも。
自分が本当に大切な人に伝える適切な言葉なんて、どこにも見当たらなかった。
自分の中の一番大きな感情を、伝えてくれる言葉。
そんなもの、この世には存在しないのかもしれない。
「いいよいいよ。黒沢くん、みんなの前でちゃんと謝ったじゃない。
私が警察官だったら、黒沢くんは情状酌量がついて無罪放免だよ?
まぁ、そりゃちょっと、なんであんなことするのかな〜なんて、思ったりもしたけど。
男の子も、いろいろと大変なんでしょう?思春期真っ盛りだもんねー、みんな」
まるで何てことなかった、というふうに、彼女は事件のことを笑い話にしてくれた。
彼女は僕の知っている通りの、性格のできた人だった。
そういうところは、長岡と似ているかもしれない。
本当は、僕が想像できないくらい、たくさん傷ついたはずなのに。
「よかったよ、許してもらえて。本当に済まないことをしたと、思ってる……」
「う〜ん、やっぱり簡単に許さないほうがよかったかな?」
「え?」
彼女は、悪だくみを思いついた子供みたいな顔になって、細い顎に指を添えて天井を見る。
そして、いきなり向き直って、こう言うのだった。
「よし!じゃあ、許すの取り消しね」
「ええ!?」
彼女はくすくすと笑って、左手の人差し指をぴんと立てて言った。
「かわりに、私と取り引きしてくれない?」
「取り引きだって?」
まさかこの言葉を滝川の口から聞くことになろうとは思わなかった。
取り引きだなんて変なことを思いつくのは北原くらいだと思っていたから、少し意外だった。
彼女は楽しそうに目を輝かせながら、突飛な提案の詳細を語った。
「私に許してほしかったら、あの約束、ちゃんと守ってね」
約束―――
僕がこれまでに彼女と交した約束らしい約束は、たった一つだけ。
あの時は彼女は、冗談だと言ったけれど…
彼女が思いつきで言った冗談を、僕は実現する義務ができてしまったようだ。
彼女に許してもらうには……どうやら諦めて、この取り引きに応じるしかなさそうだった。
「何年かかるか分からないけれど、約束、必ず守るよ」
「よかった。じゃ、許したげるね」
僕が取り引きを承諾すると、彼女はまたもご自慢の笑顔を見せてくれるのだった。
契約書の作り方ってわかる?と彼女が冗談めかして言うので、つられて僕も笑ってしまった。
やれやれ。大変な契約に、判を押してしまった。この先何年かかるかわからない。
大掛かりな取り引きに、なりそうだ。
翌日、僕は駅前の進学塾に、入学の手続きをしに行った。
受験までほとんど時間のないこの期に及んで塾に入るような人間は、
よっぽど危機意識がない怠惰な人間か、ようやくその気になったとてつもないスロースターター。
僕はその両方だった。
簡単な学力テストを受けて、入学の動機や希望する進路及び高校名を書いた書類を提出した。
その時担当してくれた塾講師は
「君はけっこう勉強はできる方みたいだから、うちで今から頑張れば、何とかなるかもしれないね」
と言った後に、付け加えるように「ちょっとハードル高いけど」と言って苦笑した。
しかし彼はテストの結果よりも僕が渡した書類のほうに興味があるらしく、
入学を希望した動機について僕に尋ねてきた。
「小説家になりたいって書いてあるけど、これ、もっと直接的な動機はなかったの?
進学とあんまり関係ないよね?」
関係なくはないですよ、と僕は返した。
確かに、人が見たら首を傾げるような動機ではあった。
「友達とね、約束したんですよ。小説家になるって。
その子が言うんです。そのためには、有名進学校に入って、肩書きを得ないとね、って」
僕と滝川マギステルとの約束。
六月の雨の日の図書室で、彼女は僕に恋愛小説を書いて欲しいと言って。
八月の夜のファミレスで、そのために進学して肩書きを作れと、冗談めいたことを言ったのだった。
「ふーん。何だかよくわからないけど、とりあえずはBクラスの教室で勉強してもらうから。
よろしくね」
そうして僕は塾に入り、週四日は学校と塾と家とを行き来する日々が始まった。
年が明けると、受験戦争が本格化する。
一刻を争うというほどの焦燥感はなかったが、それでも時間を無駄にしてはいられない。
前哨戦はすでに始まっているのだ。
僕は塾の講習が終わったあと、勉強のできない居残り組みに混ざって、積極的に補習も受けた。
ほとんどの生徒は午後九時半に講習が終わると、腹を空かせて家に飛んで帰ってしまうのだが、
ほぼ毎日のように補習を受けさせられている常連が、僕以外にも一人いた。
「あ〜っ、ちっくしょ。わかんね〜よ〜もー!何だよ連立方程式って!考えたやつ誰だよ!」
人気の絶えた教室で、僕以外に唯一教室に残って数学のプリントと格闘しているのは、須川麻衣子。
彼女は肩にかかる長い金色の髪をがしがしと掻き毟りながら、幾度となく根を上げ、
気を取り直して再度挑んでは、また根を上げるのだった。
「あ、それ違うんじゃない?代入する値を間違えてると思うよ」
と僕が隣の席から興味本位でアドバイスをすると、
「う、うっせーな!変態野郎には聞いてねぇんだよ!早く帰ってオナニーでもしてろ!」
と、顔を赤くして棘のある言葉を吐くのだった。
そして僕が前に向き直ると、彼女は真冬でも短いスカートから覗く白い脚を正して、
声を低くして僕に言うのだ。
「私をオカズにしたらぶっ殺すからね!」
なんだか笑ってしまう。
「教室では怖いもの無しって顔してるけど、須川さんってけっこう恥ずかしがり屋なんだね」
「は、はぁ!?何言ってんのコイツ!キモ!キモいよ!近寄んな!イカ臭ぇんだよ!」
奇声にも似た高い声でまたも棘のある言葉を吐いて、
彼女は僕と隣り合っていた机を、わざとらしく遠ざける。
それで、そのまま三分間くらい勉強して行き詰ったところで、再び机を擦り合わせてくるのだ。
「……で、でさぁ。さっきの問題なんだけど、やっぱ教えて」
最初から素直に言えばいいのに、と思う。
須川麻衣子。
八ヶ月もの間ずっと同じ教室にいても、彼女のこんな一面はこれまで見たことがなかった。
それ以前に、言葉を交わしたのも数えるほどだ。
自分から外に出たら、そこには思いがけない人がいて、その人との思いも寄らぬ会話があった。
それは新鮮な体験で、その人のことをもっと知りたいと僕に思わせる。
誰とも関わりたくないなんて思っていたのは、今はもう昔のことだ。
僕はもっとたくさん見てみたい。
思わぬ人の、思わぬ表情を。
それは、放課後の生徒たちが校舎から消える時間を狙って、小さな箱の中で自慰に耽ることよりも、
ずっとずっと楽しいことなんだよ、北原。
北原と出会ったことで、平坦だった僕の日常は非日常に変わり、僕は数々の事件に巻き込まれ、
数々の事件をこの手で犯してきた。
一月に入ると、受験と卒業を目前に控えて、クラスには冷静とも緊張ともつかぬ、
なんとも名状し難い、一種独特な雰囲気が漂いはじめていた。
何も起こらず、着々と日付は変わる。
事件が起こるような予兆など、僕は全く感じていなかった。
けれど、事件は起きた。
三年三組最後の事件を起こしたのは、北原綾。
不器用でおとなしい、僕がよく知る女子生徒だった。
三学期に入ってからの美術の授業は、音楽や体育の時間と同じで、生徒たちにとっては、
完全に受験の重圧から開放される“休憩時間”と化していた。
卒業制作のオルゴールを作るという課題はあるものの、ほとんどの生徒の顔には真剣味がなく、
中には一つの机を囲ってUNOに興じる者や、雑誌を読む者まで出る始末だ。
受験生に対する気遣いからか、美術教師も平然と席を移動する生徒たちを咎めることはなかった。
そんな無法地帯の中で、黙々とオルゴールの木箱に彫刻刀をあてがっている生徒がいた。
北原綾。
彼女は誰とも言葉を交わすことなく、孤立無援で卒業制作に没頭していた。
僕は長岡やピザ太たちのグループに混じり、会話の合間を縫って単調なペースで木箱に模様を彫っていた。
教室の中を見渡してみると、授業を放棄して机の上で仮眠を取っている何人かの生徒を除けば、
たった一人で真面目に作業を続けている殊勝な生徒は、北原のみだった。
授業時間が三十分を過ぎて作業が中だるみしてくる頃に、その北原の前の空いている席に、
二人の女子生徒がやってきた。
荒井真希と榛名景子だった。
「きーたーはーらーさん。オルゴール制作は順調?」
「うわー凄い!いっぱい彫ってるねー。何の模様か分からないけど」
かつて須川と原田がそうしていたように、誰も見ていない隙を見つけては、
時たま北原にちょっかいを出しにくる二人だ。
北原は彼女たちの言葉に返事を返さずに、俯いたままの姿勢で、
淡々と木箱に彫刻刀のメスを入れている。
「ねぇ私たちの話聞いてるー?」
「それにしても、机の上に木屑がいっぱい溜まってるよー。掃除したげよっか?」
気の利いたことを言ったかと思うと、荒井は風船に空気を入れる要領で頬を膨らませて、
北原の机の上に山積している木屑に、ふっと息を吹きかけた。
すると木屑が紙吹雪のように舞って、北原の顔に降りかかった。
「きゃはははは!」
顔面に吹きつけられた木屑を振り払いながら咳き込む北原を見て、二人は腹を抱えて笑った。
それを遠目に見ていた僕とそう遠くない距離で、
「あいつらウゼーなー」「あっしらが北原から手を引いた途端しゃしゃりやがって」
という、須川と原田の声が聴こえた。
そんな言葉は耳に入っていないのか、荒井と榛名はますます調子に乗り始めた。
「ごめーん大丈夫?拭いたげるね!?」
どこから持ってきたのか、手にしていた雑巾を、木屑の粉にまみれた北原の顔にムリヤリ押し当てる榛名。
北原が無表情で嫌がる様がよっぽど面白かったのか、二人は両目を細めてケタケタと笑った。
なんとなく、嫌な予感がした。
北原は顔色一つ変えずに耐えていたが、その横顔には何とも言えぬ危うさがあった。
彼女は僕と違い、ただ耐えることを良しとしていない。いつ彼女の我慢が途切れないとも限らない。
茫洋とした不安があった。
そして程なくして、その不安は的中した。
「あれ、北原さん……ひょっとして泣いてる?木屑が目に入っちゃった?ごめんね?」
嘲り笑うような声で荒井がそう言った、次の瞬間――
北原が、突如立ち上がった。
「え、何!?どうしたの?」
困惑した表情で北原を見上げる荒井と榛名。
その目の前で、北原はいきなり―――
手にしていた彫刻刀で、左手の手首を切った。
榛名が大きな声を上げた。ただし今度のは、嘲笑ではなく悲鳴だった。
何事か、という表情で、教室中の生徒の視線が北原に集る。
鈍い美術教師が「どうかしましたか?」と言って立ち上がるよりも先に、
僕は作業の手を止めて北原のもとに駆け寄っていた。
「北原!」
北原は、大きく目を開いて顔を歪め、彫刻刀を持った右手を再び振り上げようとした。
「何やってんだお前!」
考えるよりも先に手が動いた。
僕は彼女の右手を掴み、彼女の動きを制止した。
地面と水平になった北原の手首からは、鮮血が湯水のようにどくどくと湧き出している。
「先生といっしょに保健室に行きましょう!」
美術教師は北原の左手首の出血箇所に自分の手を押し当てると、
そのまま有無を言わさず北原を教室の外へと連れ出してしまった。
教室を出る時、北原が僕のほうを向いて、薄っすらと笑った気がした。
その笑みが何を表すのか、僕は知る由もなかった。
生徒たちは、ざわついている。事件が起きた時、いつもそうしているように。
榛名は見るからに青褪めていて、荒井は「なんで…?」と呟いて、ぼろぼろと涙を流していた。
「泣くくらいなら調子乗んじゃねーよ」という須川の冷めた声が、
そう遠くない場所から聴こえた、気がした。
それが、僕が学校で北原綾の姿を見た、最後だった。
その後、二月が過ぎ、三月になっても、彼女は学校に姿を見せなかった。
三月半ばの卒業式になっても終ぞ彼女は現われず、
卒業証書授与の時には、北原の名前は飛ばされていた。
製作途中の彼女のオルゴールがその後どうなったのか、僕は知らない。
中学三年間の最後の最後で登校拒否になった北原綾は、
卒業アルバムの寄せ書きに自分の言葉を残すことなく、僕たちに別れの言葉を告げることもなく……
幽霊のように、ふっと姿を消してしまったのだ。
やがて寒風が身に凍みる冬は去り、桜の季節が訪れた。