第21発『転落劇』
カミングアウトの翌日から、周囲の僕への態度は目に見えて変化した。
教室に入るなり、視線が僕に集るのを感じた。
しかし彼らは僕に批難を浴びせることもなく、一秒もしないうちに目を逸らすのだ。
以前はこんなことはなかった。
僕は空気のように自然に教室に溶け込んで、誰でもない一人として一日を過ごす。
ずっとそうしてきた。そうなるように、演じてきたのだ。
それがたった一晩で劇的に変化した。まるで万人の目に映るように色を付けられた透明人間の有様。
しかし、紛れもない“異物”となった僕に面と向かって侮蔑的な態度を取る者はおらず、
誰も彼も扱いづらい物を避けるかの如く、僕を無視するのだった。
ただの空気は、意識することによって酸素と窒素と二酸化炭素に。
誰かに意識されることは、僕の望むところではなかった。
意識されたいと願った人は、この教室にたった一人。
その滝川マギステルも、教室に僕の姿を見つけると、決まりの悪そうな表情で目を伏せた。
しかし、学校という社会の縮図には当然いろんな人間がいて、
やはり罪を告白した僕に対して“何事もなかったかのように”振る舞う人間ばかりではなかった。
「ちょっと来いよ黒沢」
昼休み、いつものように一人で弁当箱を箸でつついていた僕の目の前に現われたのは、
一連の事件の最初の被害者である、須川麻衣子と原田あゆみ。
彼女らの隣には、制服のブレザーをルーズに着崩した、屈強そうな強面の男子生徒が二人。
僕が何と返せばいいか分からずに黙っていると、須川たちの連れの長髪を赤く染めた男子生徒が
「いいから来いよ」と低い声で言って、僕の椅子を蹴った。
僕は言われるがままに、彼らに連行されて教室を出た。
第一校舎の裏…かつて木登りをする北原と遭遇し、滝川と長岡の逢瀬を目撃したその場所で、
僕は二人の男子生徒に袋叩きにされた。
暴力らしい暴力に曝されたことのない僕は、この日はじめて、
腹を蹴られるよりも丸めた背中を蹴られるほうが身体が痛むのだと知った。
蹴りを浴びせられる度に内臓が回転するようで、抵抗の余地などまったくなかった。
殴られる度、蹴られる度に揺れる視界の中で、須川と原田が腕を組んで冷ややかに僕を睨みつけていた。
五時間目の開始を告げる予鈴が鳴って、男子生徒の一人が「行こうぜ」と言うまで、リンチは続いた。
身体が内側から痛み、それ以上に吐きそうなほど気分が悪くて、僕はそれから十分間ほど立ち上がれなかった。
風邪でもひいたのかと思うほどに、身体の内側から寒気がした。
リンチに遭うのも、授業に遅れるのも、身体が動かないのも、初めての経験だった。
それらを体験することは、今までの自分が消えていくようで、ひどく惨めに思えた。
寒空と、塀の外を横切る車の音が、やけに身体に響いた。
お門違いの怒りなど湧いてくるはずもなく、その時の僕はこれ以上底はないというほど最悪だった。
痛みからではなく、不甲斐無さで胃がキリキリと痛んだ。
もう少ししたら、教室に戻ろう。問い詰められたら面倒だから、保健室には行けないな……
校舎の壁にもたれてそんなことを考えていると、横で「まだいたのかよ」という声がした。
教室に戻ったはずの須川麻衣子が、そこに立っていた。
「…ダッセー格好」
「はは……不良を二人も連れて来られたんじゃ、勝てないよ」
惨めな僕を笑いに来たのか、同情しに来たのか、それともただ授業に出るのが面倒だったのか―――
須川の真意はわからなかった。
けれど僕はその時、人に声を掛けられただけで、なんだかちょっと救われたような気がした。
「むっつりのくせに調子乗るからボコられんだよ。ばっかじゃねーの」
「ボコられるんだよ、って……君らの意思じゃないか」
「は?黙れよ。シメられて当然のやつが偉そうな口聞いてんじゃねーよ」
救われたような気がしたのは、やはり気のせいでしかなかった。
「わかってると思うけど、この時間はサボれよ。そのボロ雑巾みたいな格好で授業に出て、
あっしらのしたことが教師にバレるとウザいから。休み時間になったら鞄取りに戻ってそのまま帰んな」
「なるほど、そういうことか…」
須川の要求をのむことは、取りも直さず、僕にとっても最良の選択だった。
この状態で六時間目の終わりまで教室に居続けて、生徒たちの耳目をひくのは御免だったから。
五時間目が終わると、僕は早退届も出さずに、逃げるようにして学校を去った。
翌日、替えの制服を着て登校した僕を、今度は見えない敵が待ち構えていた。
いくつかの色の油性ペンで書かれた、机の上いっぱいの落書き。
僕がそれに気付いた時、やはり教室の方々から視線を感じたが、嫌がらせの犯人なんて特定できるはずもなかった。
僕だって、犯人を特定されないようなやり方で、複数の女子生徒に陰湿な嫌がらせをしてきた。
そうするのはセオリーなのだ。
机一面に広がる、表情の見えない嘲笑や嫌悪感、侮蔑的な言葉の数々。
「変態乙」「精子王子はTOBじゃなくて精子を仕掛ける!」「キモい氏ね」「退学!退学!さっさと退学!」
因果応報。ありとあらゆる罵詈雑言が、僕を責め立てる。
その中には、黄色いペンで書かれた「オナニーマスター黒沢」という言葉もあった。
オナニーマスター黒沢、か……。
皮肉な言葉だ。
誰かを汚したって、何者にもなれやしないのにな……。
どうやってこの落書きを消そうか、教師の前でどうやって隠し通そうか、
と苦心して一日を過ごすことを考えると、朝から憂鬱な気分になった。
とりあえず、鞄を机のフックにかけようと、僕は腰を曲げた。
その時、偶然に、オタクグループの輪の中心で会話をしていた長岡と、目が合った。
僕たちはすぐさま、どちらともなく互いに視線を逸らした。
どんな顔をしたって、もう長岡とは向き合えない。
今まで僕にしつこく付きまとってきた長岡だって、もう、僕の顔を見てはくれなくなっていた。
その日の放課後、終わりの会の直後に、僕は教室を出ようとしたところを野宮先生に呼び止められた。
「昨日はなんで届けも出さずに早退したんだ。お前に話さなきゃいけないことがあったんだぞ」
その内容は、言わずとも知れている。
ちょっとついて来い、という野宮先生に導かれて、僕は職員室に向かった。
職員室の野宮先生の机には、未だに体育祭準優勝の盾が飾られていた。
教室から持ち帰った学級日誌をブックスタンドに戻すと、
野宮先生はキャスター付きのデスクチェアに、その重たい腰を落ち着けた。
もう一つの椅子を引いて「まぁ座れ」と勧められ、僕も鞄を足元に置き、野宮先生に向かい合って座った。
「本当はな、黒沢。今回みたいな事件があったら、先生はお前の親御さんに連絡しなくちゃいけないんだ」
野宮先生は机の引き出しからセブンスターのソフトパックを取り出して、煙草を一本、口に銜えた。
「だけどな、先生はお前の勇気を買うぞ。先生が注意を促したところで、
目の前にオモチャがあったら遊びたくなる年頃の生徒たちは、お前を簡単に受け入れはしない。
ちゃちな嫌がらせはしばらく続くだろう。お前は自ら茨の道を選んだんだ。先生はそこを評価する」
そう言って野宮先生は、僕の髪の毛を大きな掌でがしがしと撫でた。
そんなことをされてもちっとも嬉しくなかったが、叱責されるよりははるかに良かった。
「イタズラを親にばらされるのは死ぬほど恥ずかしいからな〜。先生もお前くらいの歳の頃、
遊び半分で同級生のパンツを隠したのがバレて、えらい目に遭ったぞ。
両親を学校に呼ばれて四者面談だよ。あの日の夕食の気まずさは三十年経った今でもトラウマだ」
煙草の煙を吐き出しながら、野宮先生は苦笑した。
「そんなわけでな、黒沢。先生はお前の親御さんに連絡するのは気が引けるんだが…
ちょっとマズイことになっててな。被害者の荒井の親から昨日、職員室に電話があってな…
ものすごい剣幕で、お前とお前の親御さんに謝りに来させろっていうんだよ」
何となく、こんな展開になるだろうことは想像していた。
須川や原田のように露骨で堂々とした仕返しではなく、自分の親に相談して僕を糾弾させる。
荒井真希のような生徒がやりそうなことだ。
「先生としても、そんなのは本意じゃないんだけどな…こればかりは、どうしようもない」
野宮先生は、言いにくそうにしながらも、僕に宣告した。
「今晩、お前の家に連絡入れてもいいか」
「いいですよ」
僕は即答した。
「全部、僕がやったことですから。大きなしっぺ返しがくることは、覚悟してました」
「黒沢、お前…」
そう、全部覚悟していた。
陰湿な嫌がらせも、親に僕の醜態が知れてしまうことも。
僕だって、晒し者にされることを望んでいるわけじゃない。
どれも胸が痛く、血の気が引くような後悔ばかりだ。
そんな恥辱は、許されるなら何一つ味わいたくない。
だけど、全部精算したいと思った。
これからずっと、卒業しても、僕はクラスの生徒たちにとって、
オナニーマスター黒沢として記憶されることだろう。
だけど、それでいい。罰の回避なんて僕はしない。
今は正面切って話すことのできない滝川や長岡。
ここで全部精算しないと、彼らと二度と口を聞けないような気がしたから。
野宮先生は、まだ半分も吸っていない煙草を灰皿の上で潰して、両手を僕の肩に添えた。
「それでこそ俺の生徒だ」
そう言われても、やはりちっとも嬉しくはなかったが……
僕はこの日、はじめて野宮先生と真剣に語り合った気がした。
「一体、どういうつもりなの!?」
まだカミングアウトのほとぼりが冷めぬある日、北原が女子トイレに現われた。
北原とまともに口を聞くのは、最後の計画の日以来だった。
「みんなにきつく当たられるのは分かっていたはずなのに…正気の沙汰じゃない」
「いや、僕はいたって正気だよ。むしろ正気じゃなかったのは、今までの僕さ」
個室の中には、つい先ほど僕が自慰に及んだことで生じたあの独特の臭いが、まだ残っている。
罪の自白をした後も、僕の日課は続いていた。
けれど、その楽しみも今日で終わりになる。
次に北原が僕の前に現れた時が引き際だと、僕は心に決めていたのだ。
北原は、理解できないものに対して八つ当たりするような口調で、僕に強く語りかけた。
「顔に青い痣をつくって、机には落書きされて、教科書は盗難されて…そんな目に遭うのが楽しいの!?」
「僕はマゾヒストじゃないんだ。楽しいわけないよ」
「だったら、何で!」
いつもより二倍も三倍も高いトーンで僕に質問を浴びせる、落ち着きを失った北原。
切れた言葉のあとに、彼女の呼吸の音が聞こえた。
おもむろに取り乱す北原とは対照的に、僕の心は不思議と落ち着いていた。
呼吸も脈拍も、一定のリズムを崩さない。
たとえ茨の道でも、行き先がはっきりとしていること。何一つとして迷う要素がないこと。
今まで、僕の胸の中のコンパスを、電磁波のように狂わせてきた北原。
僕は彼女が苦手だった。
女子トイレの捕まえ役に捕まると、向かう先を見失うから。
今?
今は違う。コンパスの針は固定され、僕は奈落の底へと一直線に突き進む。
そこから、這い上がってやる。
「君が感じていた痛み、今ならよく分かるよ」
僕は言葉を選びながら、彼女の質問に答える。
「誰かの悪意の標的になるっていうのは、正直こたえるな。こんなに響くとは思わなかった」
「……」
「何回やられても、慣れなんてないんだな。またか、と思った瞬間にさーっと血の気が引いていく。
家に帰って思い出すと、自己嫌悪に陥るよ。まさか僕がこんなに弱い人間だったとは思わなかった。
修学旅行の時観覧車の中で、君は僕に、誰だって人に嫌われるのはイヤでしょう、と言ったよな。
まったく、その通りだよ。誰からも相手にされなくなって、やっと実感するようになった」
ふと、長岡や滝川のことを思い出した。
いつからか、僕に好意的に接してくれるようになっていた人たち。今は、顔を見るのも辛い人たち。
「何の話よ」
「僕も所詮は、ただの脆弱な中学生にしか過ぎなかったって話だよ」
僕は、トイレの壁に手を当てた。
冷たいタイル張りの壁。煤けて、汚れて、光沢を失っている。
この壁に、何度精子をぶちまけたかわからない。
何度、僕の、弱さを。
「この狭い個室の中なら、手の届かない女にも手が届いたよ。誰も僕を嫌いになんてならなかった」
「黒沢くん…?」
「どのグループにも属さない、孤立無援の自分を作り上げて……
結局僕は、誰にも嫌われたくなかっただけだ。そしてこの個室の中で、人との繋がりに溺れていた」
「何を、言っているの…」
「何って、僕が罪を自白した理由だろ。君が尋ねたんじゃないか。
僕が茨の道を選んだのは、ある意味、僕のためであり、君のためでもある」
「私のため…?」
「君は、僕が持つ数少ない“繋がり”だったからね。…その内容は、最悪だったけど。
ありがたいよ。こんな落ちぶれた男にも、君みたいな繋がりがあるんだからさ」
北原綾。
見た目どおりの大人しい性格の裡に、歪んだ憎悪を秘めている女子生徒。
彼女には散々振り回された。疎ましい存在だった。
誰とも関係したがらなかった僕を捕まえた、たった一人の女子生徒だ。
「僕はあの最後の計画の日、いろんなことに気がついて、いろんなことを考えた。
せっかくだから、君にいいものを見せてやろうと思ったんだ。
僕らに残された、次の季節が過ぎるまでの僅かな時間をかけてね」
「どういうこと…!?」
僕は唾を飲み込んで、北原の胸に直接届くように、はっきりと告げた。
「卒業するまでの数ヶ月、ずっと見ていろ。僕はどんな目に遭っても、折れない。何者にもすがらない。
誰もが僕をただの一生徒としか思わなくなるまで、耐え切ってやるよ」
それは、北原。
君にできなかったことだ。
僕は理不尽を回避しない。耐え凌ぐ。
そしていつか、面と向かって、滝川とも話せるように―――
僕は、錠を外して、個室のドアを開け放った。
女子トイレで、何も隔てることのない状態で北原と対面するのは、初めてだった。
そして僕は、個室を出る。
開いたままの小窓を通って、ひんやりとした風が、僕の首筋を撫でた。
目の前には、眼鏡の奥でつぶらな瞳を大きく見開いた北原が立っている。
彼女の驚いた表情を見ていると、なんだか妙に可笑しな気分になった。
「ホントなら握手でもしてやりたいところだけど、さすがに嫌だよな。性器を握った直後の男の手なんて」
北原は性器という言葉に過敏に反応して、びくっと肩を震わせ、眉を顰める。
その仕草がまた可笑しかった。
「はは、修学旅行で精子詰めのペットボトルを見せた時も、君は顔を赤くしたっけ。
あんなエグい取り引きを持ちかけてくる割に、君は結構ウブなところがあるよね」
「あ、当たり前でしょ…!」
「そういうところだけは、嫌いじゃないよ」
他は、ちょっと色々と、酷いけれど。
僕は踵を返し北原に背を向け、女子トイレの出口の方へ。
「ああ、そうそう。取り引きの内容は、僕が女子生徒の所持品にイタズラをしたことと日課の両方だったっけ?
いいよ。バラしたかったら、バラしても。どうせこれ以上悪くなりようがないし、それに――」
不思議ともう、小さな個室に篭る気は、起きないんだ。
「日課は今日で、終了なんでね」
「……」
北原からの返事はなかった。
肩越しに振り返ると、彼女は茫然自失の表情で、その場に固まっていた。
「……じゃあな」
僕は、心の中で女子トイレの捕まえ役への、別れの言葉を呟いた。
―――また明日、会う時は、教室で。
僕が一人で決意を固めたところで、他人の心までは、すぐには変わらない。
秋の終わりが間近に迫った十一月の暮れになっても、生徒たちの僕への反応は相変わらずだった。
それでも僕は、それでいいと思っていた。
頭から血の気が引いていく、胸がキリキリと痛む学生生活を送って、
放課後には、図書室で本を読んで、家に帰る。
今となっては雨の日になっても滝川は図書室には現われないけれど、
いつか心の準備ができたら、彼女にちゃんと謝ろう。
謝って、彼女が僕を許してくれたら、話したいことがたくさんある。
本の中身や―――僕の夢の話だ。
そんなことを考えながら、いつものように独りの学生生活に耐えていた、ある日。
「よーし、二人一組になって柔軟。はい、始め!」
体育の授業。冬物のジャージに身を包んだ野宮先生が、パンパンと手を叩く。
生徒たちは、それぞれ仲のいい者同士で組んで、ストレッチを開始した。
今日は風邪で欠席した生徒がいるので、不運にも男子生徒の総数は奇数だ。
そんな時、僕は一人でストレッチをやる以外に、取るべき方法がない。
そう思って、一人で両脚を開いて、腰を落としかけた、その時。
僕の視界に、長岡圭史の姿が映った。
「あっ…」
何といっていいかわからずに、僕は間の抜けた吃音を発した。
長岡とは、目を合わせるのも気まずかった。
それは向こうも同じなのだろう。眉を八の字にして、僕から目を背けた。
僕は、そこに長岡がいることに気付いていないフリをして、
地面に視線を落としながら、ストレッチを始める。
長岡はそこに黙って立っていた。
しかし、何秒か経って、僕はとても懐かしい声を聞いた。
「あ、あの……黒沢殿…」
それでも、僕は彼に返事を返すことができなかった。
何と返せばいいのかわからない。僕は地面に視線を落としたまま、両脚を伸ばす。
「おーい長岡!黒沢なんてほっといて、一緒にストレッチしようぜー」
気まずい沈黙に、割り込んでくる小林隆太の声。
僕は地面の砂利を見つめていた。
数秒の間を置いて、長岡は諦めたように、踵を返して、小林の方へと走っていった。
また少し、胸がキリキリと痛んだ。
………やっぱり、なかなかうまく、いかないな。
だけど、その声は。
「黒沢殿ー!一緒にストレッチしませんかー!」
あの鬱陶しいくらい爽やかな響きを持って、僕のほうへと引き返してくるのだった。
そうだ。僕は、知っていた。
この男は………超がつくほど、しつこいんだ。
彼は僕の眼を真っ直ぐ見て、もう一度繰り返した。
「一緒にストレッチ、やりましょう。黒沢殿」
「長岡…」
僕は一度は下げた腰を上げて、再び目の前に立った彼の顔を見た。
何も考えていないように見える、掛け値なしの、純粋な笑顔。久し振りに見た気がした。
彼の笑顔を見ていると。
僕の表情も、崩れてしまいそうだった。
僕はそれを堪えて、かわりに彼と久し振りに言葉を交した。
「ああ、一緒にやろう」
「そう言ってくれると信じておりましたぞぉ〜、黒沢殿。では、さっそく!」
けれど、その前に。
僕のほうから、言っておきたい言葉があった。
彼に初めて声をかけられた日からずっと、言い逃していた言葉だ。
「よろしくな」
僕は、彼に右手を差し出した。
彼の大きな掌は、しっかりとそれに応えてくれた。
その掌には、寒空の下にいても伝わってくる、確かな熱があった。
この繋がりは、もう二度と手放さない。