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第18発『Bizarre Love Triangle』


「本当に取り返しのつかないことになっちゃったね」
 放課後、まるで示し合わせたように女子トイレに現われた北原は、だしぬけにそんなことを
言った。
――返す言葉もない。
滝川や長岡と同じ塾に通っていた彼女は、以前から二人がただならぬ仲になりつつあるのを感
じ取っていたのだろう。
 今になって思えば、滝川は僕の前でもその兆候を見せていた。
あの二学期最初の雨の日がそうだ。あの日、彼女はいつになく饒舌で、普段は誰にも見せない
ような顔を僕の前で晒していた。それだけではなく、意中の人がいることを匂わせる発言まで
していた。
今では、それを自分にまったく無関係な話ではないと勝手に解釈していたあの日の僕自身を、
呪いたい気分だ。
 滝川と長岡が付き合い始めてから、一週間が過ぎようとしていた。
二人の噂は電光石火の勢いで全校に広まり、長岡はリアル電車男として、今ではちょっとした
有名人になっている。
 あの日以来、僕はずっと正気を失っていた。
こうして日課を行いに女子トイレを訪れるのも久し振りだ。
雨が降った日も、図書室には行かず、滝川を避けるように一直線に家に帰った。
なにせ、教室で二人が仲良く談笑しているのを見ているだけでも、胸が張り裂けそうに痛むの
だ。
滝川と面と向かって話をする時、冷静でいられる自信がない。
何かとんでもないことを口走ってしまいそうな、そんな気がして怖かった。
「黒沢くん、やっぱり滝川さんのこと、好きだったんでしょう?」
 ドアの向こうの北原の表情までは読み取れないが、きっと僕に同情しているのだろう。北原
なんかに同情されたんじゃ、僕も立つ瀬がない。
僕は便座の上に腰を落ち着け、肩を落としていた。
「誰にも言うなよ…」
「うん、わかってる。絶対に口外しないって約束する」
 北原の声は、いつものごとく、風が吹けば掻き消されてしまいそうに細く小さい。それで
も、僕は彼女の言葉にどこか温かいものを感じていた。
そして続けざまに彼女は、とんでもないカミングアウトをしてみせたのだった。
「私も、おんなじ気持ちだから……」
「えっ?」
思わず顔を上げた。目の前には蹴れば破れそうな薄いドアが一枚立っているだけで、やはり、
北原の表情にまでは届かない。だけど、この時ばかりはなぜか、まるで僕たちを隔てるものな
んて何もないかのように、北原の感情がドアを透過して僕に伝わってきた。
「お前、ひょっとして長岡のこと…」
「……」
返事はなかったが、なんとなくドアのむこうで北原が首肯しているような気がした。
 六月の修学旅行以来、ずっとクラスで孤立していた北原に、友達と呼べる生徒ができた。そ
の生徒は修学旅行の班決めの際にも、率先して余り者である僕と北原に声をかけるようなお人
好しで、修学旅行の最中には、内気で消極的な班のメンバーを異常なテンションで牽引し、そ
のあとも北原をカラオケに誘ったり、何かと親身に接していた。
クラスでのけ者にされている北原にも、他の生徒と変わらず積極的にコミュニケーションを取
っていたそのお人好しの名は、長岡圭史といった。
 ひょっとしたら、北原が長岡と同じ塾に通っているのも、彼を追ってのことなのかもしれな
い。
だとすれば、同じ塾の中でどんどん仲を深めていく滝川と長岡の姿を遠くから見るのは、きっ
と彼女にとって責め苦のようなものだったはずだ。
「どうりで、滝川を汚してくれなんて言い出すわけだ…」
それ以上は、かける言葉が見つからなかった。
 僕だって、長岡と滝川がこうなる予兆をもっと早くに感じ取っていたならば、傷つき、嫉妬
し、二人の仲を引き裂こうとしたかもしれない。
動機は不純だ。
だが、意中の相手が他の誰かと仲睦まじくなっていくのを指を咥えて見ているなんて、僕や北
原のようなちっぽけで弱い人間には、できないことなのだ。
「今だって、あの二人を見ているのは嫌…滝川さんを見ているのも長岡くんを見ているのも嫌
…!」
「北原…」
継ぐべき言葉が見つからなかった。
 北原の声は、いつの間にか小さな嗚咽に変わっていた。
北原にとって、初めてできた、気のおける相手。愛しい人。その人を、横から取られた。
今の彼女の気持ちは、察するに難くない。
「……泣き止んだら、出ていってくれ…」
北原は、僕より少しだけ自分の感情に素直だった。
 僕は彼女の泣き声を聞くともなく聞きながら、ただじっと床を見つめていた。


 二週間が過ぎても、滝川と長岡は相変わらずだった。
いや、以前よりいっそう酷くなっていた。
「おっはよ〜う、キョン君!今日も体育祭の練習、めがっさ頑張ろうっじゃないの〜!」
「おはようですマギステル殿〜!今日もお美しい」
「あっはっは。昨日塾で会ったばっかりじゃないのさ〜」
滝川の喋り方が変化していた。
あの落ち着いた佇まいの滝川はどこへやら、まるで長岡のハイテンションが彼女にも伝染した
かのようだ。
 どうやら、長岡の性格に合わせて、滝川の性格も徐々に変化しているみたいだった。カップ
ルというのは、自然と性格まで似てくるものなのだろうか。
何かのアニメの影響だろうか…?
いつの間にか、長岡の呼び名も“長岡くん”から“キョン君”に変わっていた。
 ……目も当てられない。
その厚顔無恥な惚気ぶりがいちいち癇に障る。
長岡の手によって、僕の知っている滝川マギステルが見る見るうちに壊されていく。
同じ教室にいることすら耐えられない、そう感じることもしばしばあった。
 僕には、未だに滝川が長岡を選んだ理由がわからなかった。
この二週間、あちこちから質問攻めに遭った滝川は、その都度「すごく優しいから」と答えて
いたが、それでは僕は納得いかない。
どう考えても、長岡に滝川は相応しくないように思えた。
 小林隆太らが、長岡の席を囲っている。
「なんかお前らのバカップルっぷりも、堂に入ってきた感じだな?え?」
「いや〜、ははは。照れ臭いですな」
 滝川を落としたことで株が上がったのか、近頃の長岡はやけに人気者だ。
以前は長岡なんて眼中にない、って顔をしていた連中に、やたらともてはやされている。
 思えば、元々長岡はクラスの人間から忌み嫌われてなどいなかった。
ただオタクグループの筆頭として認識されていただけで、誰に迷惑をかけていたわけでもな
い。話してみると意外と面白いヤツだった、ということなのだろうか。今ではクラスの顔役の
一人だ。
 そんな長岡は、北原の目にはどう映っているのだろうか?
教室の隅っこの席でひとり寂しく俯いている彼女に目をやっても、彼女の心の中までは見通せ
なかった。

 来月頭に体育祭を控えているため、ここ最近の体育の授業は男女合同で行われていた。
三年三組には陸上部のエース西本エリカや、俊足が持ち味の野球部員小林隆太らをはじめとす
る有望株が揃っている。
それゆえに担任の野宮先生の気合いの入り方も尋常ではなかった。
クラス一丸となって優勝を狙うぞ、と意気込んで、道徳の時間もほとんどが体育祭の練習にあ
てられた。
「よっしゃああ、盗塁王の実力見せてやんぜ!!」
 小林などは、彼女の前ということもあってか、野宮先生に同調するかのようにやる気満々
だ。
他の男子生徒たちも、女子にいいところを見せようと、両目に炎を宿している。
 ……うっとうしい。
そういう暑苦しいのは好きじゃない。
いくら頑張ったところで、自分の実力以上の力なんて出やしないのだ。適当にやればいい、と
思う。
「マギステル殿、見ててください!ワタクシ、今日は一等賞狙っちゃいますぞ〜!」
 女子の前で闘志を燃やしているのは、長岡も同じことだった。
僕の記憶では、長岡はかなりの運動音痴で、この歳になっても五十メートル九秒台だったはず
だが。
「うん、頑張ってー。応援してる」
滝川はいつもの愛嬌のある笑みを浮かべて、女子の列に並んだ。
「えー、それじゃあ、二人一組になって柔軟!」
 測定記録をチェックするためのクリップボードを片手に持った野宮先生が、太い声を張り上
げた。
うぃーす、という合唱のあと、男子生徒たちはそれぞれ仲のいい生徒とペアを組み始めた。
ペア、か…
さて、どうするか。
 そう思ってキョロキョロと周りを見回していた僕に、声をかける者がいた。
「黒沢殿ぉ〜、いっしょに柔軟体操やりましょうぞ〜!」
長岡だった。
「長岡、お前…」
「ん?どうしたのですか?早くやりましょうぞ〜。ワタクシ、身体が疼いて仕方ありません
よ〜」
 その時、僕は。
唐突に、直感的に理解した。
ああ、そうか…そうだった。
長岡圭史という男は、ずっと前からそうだったのだ。
 コミュニケーションを取ることに消極的で、独りでいることを好しとする僕。
そんな僕に、唯一諦めずにしつこく声をかけてきたのが、この男だった。
その都度僕は適当に理由をつけて彼と距離を置こうとしたが、この男の辞書には諦めという言
葉がないのか、何度も何度も、しつこく僕につきまとうのだった。
 この男との文字通りの腐れ縁は二年生の頃からずっと続いているが、一向に途切れる気配が
ない。
それは全て、この男の性格ゆえだ。
誰かに対して愛想を尽かすとか、見くびるとか…この男は、絶対にそういうことをしないの
だ。だから、長岡のまわりには人が寄ってくる。人との繋がりを欲する、はみ出し者のオタク
たちが集る。
 あの雨の日、滝川はこんなことを言っていた。
――人望があって、みんなに好かれる人気者は、私の憧れなの。
 長岡は最初から、まさに滝川の理想とする人物だったのだ。
普段は接点のない、人気者グループの中心人物と、オタクグループの中心人物。
修学旅行で行動を共にする機会を得て、二人の間に繋がりが生まれた。
それ以来、二人は教室でも会話をするようになっていた。
 今になって思うと、あの頃から滝川は長岡に惹かれていたのかもしれない。
その後、滝川は塾という共通のコミュニティを通して、それまで以上に長岡の人間性に深く触
れた。
そして、やがて滝川の中に特別な感情が生まれてくる。
恋愛小説に出てくるような恋の相手がようやく現れた、と彼女は言い、その日のうちにその相
手に想いを伝えた。
疑問は、残らない。
 滝川が、人を容姿やステータスで判断する女性ではないということは、僕が一番知ってい
る。皮肉にも、彼女が長岡に告白したあの日、図書室で彼女の秘密に少しだけ触れていたか
ら。
「何ボーッとしてるんですか黒沢殿ぉ〜。もうみんな柔軟体操はじめてますぞぉ〜。ほら早く
早く!」
 長岡が、僕に手を差し出している。
彼が差し出すこの手こそ――滝川が彼を選んだ理由だ。
そう思うと、とても彼の顔を正視できなかった。
「悪い、他のやつをあたってくれ…」
「黒沢殿…?」
「いいから、他をあたれって!」
気がつくと、僕は怒声とともに、差し出された手を払っていた。
自分でも驚くような、冷静さを欠いた態度で。
長岡は、目を丸くしていた。
「僕は、ひとりでやるから…」
 いったん長岡に背を向けると、この日、僕と彼がそれ以上言葉を交わすことはなかった。

そうやって僕は、長岡との付き合い方がわからなくなっていった。


 いつの間にか、九月も最終週に入っていた。
体育祭のあとに控えている中間試験のことなど歯牙にもかけず、優勝だ何だとうるさい野宮先
生。
そんな野宮先生の情熱など意に介さず、いたっていつも通りに学生生活をこなす生徒たち。
北原の教科書を掃除用具入れに隠してよろこぶ須川と原田。
仲のいい女子生徒にティーンズ誌の撮影の自慢話をする内藤。
休み時間に教卓の前で平井堅のモノマネを披露する小林と、それを見守る西本。
そして、昼休みに仲良く机をくっつけて昼食をとる、滝川と長岡。
 いたって普通の日常だった。
けれど、僕だけが、普通じゃなかった。普通ではいられなかった。
 かつては、長岡に声をかけられると、心の中では彼を忌避しつつも、体のいい逃げ口上を使
いつつ、適当に彼を相手にすることができた。
だが今はそれもできない。
あの体育祭の練習での一件以来、彼と会話をするのが気まずかった。
 僕は極端なまでに長岡を避けた。彼を無視し続けた。
彼の相手をするのが、辛かったから。
 滝川と会話をするのも、いつの間にか楽しみではなくなっていた。
彼女と言葉を交わす度、どうしようもなく心に影が落ちるのだ。雨の日は図書室に行かなくな
った。
 何かが、大きく食い違っていた。
時を重ねるほどに、そのズレは広がっていくような気がした。
適当にやり過ごしてきた日々。うまくいっていた僕の学生生活は、もう遥か遠くにある。
誰かに冷たくされたわけでもないのに、度々、棘が刺さったように胸が痛んだ。
このままでは、いつか心が折れてしまうだろう。
 そう思っていた、ある日のことだった。

 昼休み。
授業中に本を一冊読み終えたので、僕はそれを図書室に返却しに行き、新たに別の本を借り
た。
その本を小脇に抱えて、教室のある第一校舎に足を踏み入れようとした、その時。
 僕の目に、非常階段でひとときの逢瀬を楽しむ男女の姿が映った。
普段は人気のないそこで肩を寄せ合っているのは、滝川と長岡だった。
 二人はどこか互いに遠慮しているような、照れているような表情を浮かべて、なにやら言葉
を交わしている。

そしてその終わりに、二人は短いキスをした。

そっと唇を離すと、二人は頬を染めながら、お互いの表情を照れ臭そうに確認し合っていた。
 その瞬間――僕の中で、何かが音を立てて崩れた。
今までぎりぎりのところでバランスを保っていた感情が、大きく揺れた後、瓦解した。
瓦礫の中から、混乱ではなく、不安のようなものが、土煙のように胸の中に立ち込めていく。
もう滝川には手が届かない。
そう理解した瞬間だった。

 僕はこの日の日課で、頭の中で滝川を犯した。
壁に張り付く白濁色の液体は、僕の感情の代弁だ。
以前のように、滝川をオカズにして気分が悪くなったり、吐いたりということはなかった。
滝川を欲望を満たすための道具にすることを、今の僕の精神は拒まなかった。
 ただ、後には空しさだけが残った。
いくら頭の中で彼女の四肢を僕の自由にしても…もう、本物の滝川には、手が届かない。
 しばらくして、女子トイレに近づいてくる足音があった。
その足音は、いつものように、僕の目の前のドアのむこうで立ち止まる。
「やっと来たか、北原」
「どうしたの?あなたのほうから私を呼ぶなんて…」
北原はどうやら、僕からの呼び出しを訝しんでいるようだった。
無理もない。
僕自身、自ずから北原を女子トイレに招き入れようなどとは、今日の今日まで考えもしなかっ
た。
 昼休みの後、僕は北原に「いつもの場所で待っている」とだけ告げた。
もちろん理由はあったのだが、それにしたって、深い意味を持っているわけではない。
ただ、誰かに自分の感情を吐露しないと、心が折れてしまいそうだったのだ。
「なぁ北原……僕が前に反故にした取り引きは、今でも有効か?」
「え?それって…」
深い意味があるわけではない。かといって、酔狂で言っているわけでもない。
僕はもう、自分がどうすればいいのか、わからなかった。
「君がそれを願うのならば、君の望みを叶えてやろう」
 本気で言っているの?という質問が返ってきた。
僕は、君にとっても好都合だろう?と返してやった。
ややあって、北原は決意のこもった声で、ただ一言
「やって」
と答えた。
「そうか…それならば……」
 僕の知っている滝川は、もうどこにもいない。
かといって、長岡に働きかける術もない。
図書室でいつも滝川が見せてくれた笑顔。
あの笑顔は、もう僕のものではない。長岡のものだ。
 悔しかった。
悔しくて、辛くて、僕の感情には行き場がなかった。
いや、行き場はある。それはつまり、全部台無しにする、ということだ。
そうすれば、この混沌とした感情の荒波から、解放されるかもしれない。
こんな惨めな思いをずっとずっと引きずっていくのは…
御免だ。
 何にしたって、滝川はもう僕のものにはならない。
滝川が、これ以上変わってしまうというのなら―――
これ以上手の届かないところに行ってしまうというのなら―――

そうなる前に、壊してやるだけだ。

「滝川マギステルを、僕の手で汚してやる」
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