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第17発『スキャンダラスモーニング』


「滝川マギステルを、僕の手で汚す…?」

 その時の僕は混乱していて、おうむ返しに訊き返すことしかできなかった。
僕の質問に、北原は短く「そう、お願い」とだけ答えた。
 僕の日課の秘密を守ることと引き換えに北原が持ちかけてくる“取り引き”はこれまで、総
じて彼女の私怨による復讐計画だった。復讐される対象には、多かれ少なかれ復讐されるべき
理由があるはずなのだ。
 滝川が何らかの形で、北原の不興を買うようなことをしたのだろうか…?
いや、それは考えにくい。
滝川はひとに好意を寄せられるようなことはしても、ひとから恨みを買うような真似は絶対に
しない。僕は知っている。滝川マギステルというのは、そういう女性なのだ。
事実、滝川は一学期の修学旅行以来、北原にも親身に接していたではないか。
 …ますます話が見えてこなくなる。
小さく深呼吸を、三回。息を整えて、僕は北原に訊ねた。
「なぜ滝川なんだ。彼女が君に何かしたか?」
しかし返事はなかった。返ってくるのは、女子トイレに流れる冷えた空気を研ぐような、わず
かばかりの沈黙だけだ。
ややあって、北原は感情を殺した無機質な声で答えた。
「…あなたに教える義理はないわ」
義理はない、ときたか。
 一方的に弱みを握られている分、イニシアチブは北原のほうにある。僕に彼女の意を汲む必
要はなく、求められているのはただ彼女の道具たりえることのみ。
これは限りなく脅迫に近い取り引きで、僕に異を唱える権利はないというわけだ。
 しかし、今回ばかりは黙って北原に従うわけにはいかない。
僕は少しアプローチの仕方を変えて、彼女の真意を探ってみることにした。
「久し振りに僕の前に現れたかと思えば、会話の中身は相も変わらず陰気な復讐計画か。飽き
ないね、君も」
「…黙って」
「他にすることないのか?受験勉強とかさ。ターゲットの滝川は塾で頑張ってるそうだが?」
「うるさい…いいから、黙って私の言うことを聞いてよ」
心なしか彼女の言葉には、苛立ちが含まれているように思えた。
しかし、その苛立ちは僕の挑発的な言動に向けられているわけではないようだ。何かもっと別
のものに対して、焦りを感じている…そんなふうに聞こえた。
 対照的に、僕の精神状態は徐々に平静を取り戻しつつあった。
もっとも、北原が滝川を標的にする理由が分からないせいで、心に靄がかかった状態ではあっ
たが、僕にも彼女の無理な注文に対する免疫ができたということだろうか。
「とにかく…」
突然、北原が冷めた声で、呟くように言った。

「とにかく、男性不審に陥るくらいに滝川さんをグチャグチャに汚して。それが私のお願い」

「なっ…」
平静を取り戻したかと思ったのも束の間、心電図の波が大きくブレるように、安定しかけてい
た僕の精神は大きく揺らいだ。
 まさかそこまでのことを要求してくるとは、予想だにしていなかった。
今までのチンケな報復とは比較にならない。具体的で、絶望的な要求だった。
再び息を整え、なんとか強気を装う。
「悪いけど、正気を疑うね。僕はきみと違って、性根まで腐っちゃいない。罪もない人間に、
そんなことできるか」
 罪がないというのは、僕の憶測に過ぎない。
考えにくいことだが、僕のあやかり知らぬところで、北原は滝川になんらかの屈辱を受けたの
かもしれない。しかし、当の本人が理由を語らないのでは、そんなところまで推し測ることは
できない。そんなことは、雲の上の空の様子を考えるようなものだ。
「けどやって欲しいの!黒沢くん、お願い!それができる人は、あなたしかいないわ…!」
珍しく北原は声を荒げた。
よほど差し迫った事情でもあるのだろうか。時限爆弾でも抱えているんじゃないかと思うほど、
彼女の言葉は焦燥感に溢れていた。
「できるかよ、そんなこと…」
「黒沢くんは滝川さんのこと、好きなんでしょう?」
「は?」
度肝を抜かれた。
北原のやつ、いつの間に読心術を身につけたのだ。
「誰にどう言われても何振り構わない、クラスでも自ら孤立を選ぶようなあなたが、修学旅行
の時、私に繋いだ手を解いてくれって頼んだのはなぜ?」
ユニバーサルスタジオ・ジャパンでの一場面を、ふいに思い出す。
「滝川さんが駆け寄ってきたからじゃないの?」
その頃は僕自身、滝川への好意に自覚がなかったのだが、今になって思うと、あの頃、僕はす
でに滝川に対して他の女子生徒とは違う何かを感じていたのかもしれない。
 この北原綾という女子生徒は、普段は仔リスみたいに大人しいくせに、妙なところで勘がい
い。
「それは……それだけでは、僕が滝川に好意を寄せているというには、根拠が乏しいな」
「そうね…そうかも。でもね」
一区切り置いて、北原は続けた。
「もしそうなら、黒沢くん…このままじゃ、絶対後悔することになると思うよ」
それは、僕の心の靄をより一層濃くするような、不穏な一言だった。
「後悔って何だ?君の計画に首を縦に振らなかったことをか?」
「そう」
「馬鹿げてる」
そうは言ったものの、北原の一言は、僕の胸の深いところに影を落とした。
 後悔することになる…?何をだ?
この日の北原の言動は、その全てが謎かけのように不明瞭で、僕の頭に山のような疑問符を積
み上げた。
彼女が何を企んでいるのかは、分からない。彼女の発言の真意も掴めない。
けれど、僕は彼女の命に背くことはできない。
北原が僕に取り引きをもちかけてきた六月のあの日から、僕はずっと彼女に首輪をかけられた
ままだ。
―――僕に拒否権はない。
その点に関しては、北原からこれまでにも幾度となく釘を刺された。
だが、しかし…
今回ばかりは、刺された釘を抜いてやろう。
僕は僕の意思で、この歪んだ従属関係を破棄し―――滝川の身の安全を、守る。
「僕の答えはノーだ。僕に言うことを聞かせたいなら、せめてきみが抱えている事情を僕に説
明するんだな。僕は家に帰る。トイレを出るからさっさとそこをどいてくれ」
 ……言ってやった。
返事はすぐには返ってこなかった。かわりに、蛇口を捻るような、上履きが床で擦れる音が聴
こえてきた。直後、北原の粘着質な声が、僕の耳に届く。
「本当に後悔すると思うよ。ひょっとしたら、もう遅いかもしれないけどね…」
その言葉の真意もまた、読めなかった。
「今日は少し残念だったけど、また今度」
どうやら、北原は今日のところは諦めて、一時撤退してくれるらしかった。思わず胸を撫で下
ろしたくなる。
「また来るから。必ず」
少し愁いを帯びた声でそう言って、彼女は女子トイレを去った。
 北原の足音が完全に消えると、四角く区切られた個室の中、僕は安堵の溜め息を漏らした。

 家に帰りベッドに身体を預けると、全身から一気に力が抜けていった。
北原の取り引きを思い切って拒絶したことと、上手くその場を凌げたことで、今は胸がすく思
いだ。
 シーツの上に大の字になって天上を見上げていると、おかしなことに、沸々と満足感が込み
上げてくる。
――ざまぁみろ、北原。
弱みを握られているにしたって、僕はただの言いなりにはならない。いくら君が僕を脅迫した
ところで、僕の滝川への気持ちだけは、揺るがすことはできない。
君の企みなど、知ったことではない。
今僕は、滝川マギステルという女性から、底知れぬエネルギーを得ているのだ。
 僕は数時間前、図書室で滝川と交した会話の内容を、頭の中でフラッシュバックしていた。
――ずっと恋愛小説に出てくるような恋の相手が現れるのを、待ってたんだよ。
含みありげに、滝川はそう言った。
北原の発言と同様、滝川の発言の真意も、やはり掴むことができない。
けれど、滝川の言葉が意味するものは…きっと、僕の心の靄を、晴らしてくれることだろう。
 家に帰ってからしばらく、そんな素敵な予感が続いた。
シャワーを浴びていても、夕食を食べていても、見るともなくテレビの前に座ってみても…
滝川のことしか、考えられなかった。
早く彼女の言葉の真意が知りたい。
 僕は、待ちきれずに家を飛び出した。
夏休み中、連日そうしていたように、街の中へと、滝川の姿を探しに。

 滝川を探して外を徘徊する時、僕はいくつかのルート設定に沿って街を散策することにして
いた。市内の地図上にある塾を、点を線で結ぶように、しらみつぶしに当たっていくのだ。
そうしていれば、確率は低くとも、いつかどこかで滝川に遭遇できるはずだと夢想しながら、
生暖かい風が吹く九月の夜道を巡るのだ。
そうすること、一時間。
この日とうとう、僕は初の成果を上げた。
 深夜十時。駅近郊のテナントビルの出入り口から、同年代の子供たちがぞろぞろと沸いて出
てきた。ビルの三階と四階にある有名な学習塾の生徒たちだ。
この日の僕は運がよかった。
その塾帰りの中学生の群れの中から、とうとう滝川の姿を発見したのだ。
「あれ、黒沢くん?」
小洒落たトートバッグとビニール傘を手にもった滝川が、僕の視線に気付いた。
「すごい偶然。どうしたの、こんなところで」
「ちょっと駅前のコンビニに用があってさ」
この際、いいわけの内容なんてどうでもよかった。会ってどうするかという考えがあったわけ
でもない。ただ、滝川と一言二言、言葉を交わすだけで…それだけで僕は、十分過ぎるほど満
足だった。
 その時僕は、滝川の表情が普段とは少し違うことに気がついた。頬は桜色に染まり、口元は
弓なりになって、見る者の心を温かくするような笑顔を作っていた。
何かいいことがあったに違いない。
「どうしたの滝川。なんだか凄く嬉しそうだね」
「えへへ、そう?」
そう返した滝川の表情も、いつになく晴れ晴れとしている。
「他の子たちは勉強の疲れで精根尽きたって顔してるのに、君だけ幸せそうだ。何かいいこと
でもあった?」
「ふふふ、明日までナイショー」
そう言われると、何かとてつもなく良いことがあったのではないかと想像してしまう。
しかしその内容までは考えが及ばない。…模試で一位を取ったとか?
「じゃあ私、友達といっしょに帰るから。また明日、学校でね」
滝川は連れていた数人の女子たちと、自転車置き場のほうに足を向ける。もう少し喋っていた
かったが、引き止めるのも忍びない。今日の成果は、これだけでもう充分だ。
「ああ。また明日」
 滝川は笑顔で手を振って、僕に背を向けた。
私服姿の滝川は、他の同年代の女子よりも一層大人びて見える。
人の目さえなければ、その後ろ姿をいつまでも見送っていたかった。
 だが、手を振りながらそんなことを考えていた僕の目の前に、束の間の幸せを台無しにする
ような人物がひょっこりと顔を出した。
「こんなところまで滝川さんに会いにくるんだ…やっぱり彼女のこと好きなんじゃない」
思わず仰け反りそうになる。
北原綾の姿が、そこにはあった。
「北原!?なんでこんなとこに?」
「なんでって、私もここの塾の生徒だから…」
 滝川や長岡、小林&西本のカップルだけではなく、北原までこの塾の生徒だったとは。
少し驚いたけれど、あり得ない話ではない。
長岡も滝川も、塾についての話題では北原の名前は出さなかったが、この塾はテレビでコマー
シャルをやっているような、全国展開の有名な進学塾だ。
僕が知らないだけで、僕の学校の生徒もかなりの数がこの塾に通っているのだろう。
「受験勉強とかしないのかって放課後訊ねたばかりだったけど、ちゃんとやってたんだな、お
前…」
「うん。本当は塾なんて嫌だったんだけど、親が勝手に入会手続きしちゃって」
「まぁそんなことはどうでもいい。僕はコンビニに用があってここに来たんだ。別に滝川に会
いに来たわけじゃない。もちろん君にだって用はない。じゃあな」
「うん。ばいばい」
どうやら今回は北原に粘着されずに済んだみたいだ。
滝川に会うためはるばるこんなとこまで足を伸ばしたってのに、学校の外でまで取り引きの話
の続きをされては、たまったもんじゃない。
「あ、それと黒沢くん」
「なんだよ、僕は君に用は…」
「遅かったみたい。やっぱり、後悔することになると思うよ」
「え…?」
後悔って何だ?放課後の話の続きか?
「じゃあ、また学校でね」
北原はその続きは口にせず、滝川と同じ別れ文句を言って僕の前から姿を消した。
「後悔って、何だ…?」
寒空の下、人もまばらになったビルの前に、僕は一人取り残された。
 そして翌日、僕は北原の言葉の意味を痛感することになった。


 夜が明けて、二学期二日目の朝。
今朝のニュースでは、午後からの降水確率は九十パーセントだと若い気象予報士が告げてい
た。ひょっとしたら、今日の放課後も滝川に会えるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、僕は意気揚々と学校に登校した。
 僕が教室に入った時点では、まだ机は半分ほどしか埋まっていなかった。
なにせ朝のホームルームまで、まだ二十分も時間があるのだ。各々、仲のいい者同士で寄り集
まって、実のない会話をして時間を潰している。
 長岡の席にも、お決まりのように何人かの生徒が群がっていた。
けれど、この日はそのメンツがいつもと少し違っていた。
普段から長岡と親しくしているオタク連中ではなく、何ヶ月かに一度しか長岡と会話をしない
ようなイケメングループの面々が、長岡の席をまるで芸能人に群がるマスコミのように囲って
いるのだ。
 僕は机に鞄を置くと、その事情を聞きに長岡の席に向かった。
「これマジでありえねって!ブロリーてめ、一体どんな魔法使ったんだよ!?」
「なにこの奇蹟?エロゲ?ねぇこれエロゲ?」
 長岡の席に群がっている生徒たちは、どこか楽しそうに目を輝かせている。
その中には、長岡と同じ塾に通っている小林隆太の姿もあった。
接点がなさそうな二人だが、塾での過酷な受験勉強を通して友情が生まれたりしたのだろう
か?
とにかく、滅多にお目にかかれない珍しい光景だった。
「どうしたんだ長岡?今朝はやけに人気者じゃないか」
そう言って僕もその輪に混じった。
「おお、黒沢殿。おはようございます」
まだ午前八時を回ったところだというのに、長岡はどこか憔悴したような顔をしていた。
この質問攻めじゃあ、無理もない。
「なぁ黒沢、すげぇんだぜ長岡のやつ!ついにやりやがったよ、このブロッコリはよ!」
小林はボリュームのある長岡の天然パーマをくしゃくしゃっといじりながら、興奮気味にそう
語った。
「何のことだ?さっぱり意味がわからないんだが…」

「こいつ、オタクのくせしていっちょ前に彼女作っちゃったんだよ!」

そいつは、確かに驚く。
女性には縁のなさそうなオタクマスター長岡に、よもや恋人ができようとは…
そりゃ質問攻めに遭うわけだ。
「おめでとう長岡。っていうかお前、二次元以外の女にも興味あったんだな…」
「いや〜、ハハハ…参りますね、どうも。今ワタクシ、スキャンダル真っ只中の芸能人の心境
ですよ」
 長岡は疲れた表情を見せながらも、やはりどこか照れ臭そうだった。
「で、相手は誰なんだ?僕も知っている女子か?」
そんな僕の質問に答えたのは、長岡ではなく小林だった。
「それがよぉ黒沢!お前、こいつの彼女の名前聞いたら超驚くぜ!ありえねーもんマジで!」
「ありえない?何が?」
「相手は校内男子が指をくわえて悔しがるような超絶美少女だぜ?やべぇよ、リアル電車男だ
よ!」
「だから、誰なんだよ、その相手の超絶美少女ってのは…」
「マジでビビんなよ?そいつはなぁ…」
小林がそこまで言いかけたところで、ガラガラガラ、と。
教室のドアが開く音がした。
「おっ、噂をすればお出ましだよ!」
 小林の口ぶりでは、どうやらたった今教室に着いたその女子生徒が、渦中の人だそうだ。
愚かにも長岡と付き合うという一世一代の奇行に出てしまったその生徒の顔を拝もうと、僕も
教室の入り口へと視線を向けた。
 そして僕は、我が目を疑った。

「あー、おはようタッキー」
「うん、おはよ」
その女子生徒は、ドアの間近にいた親しい生徒と軽く挨拶を交わし、淀みない足取りで、教室
の中を自分の席へとすたすたと歩いていった。
 小林が、その女子生徒に声をかける。
「よー、滝川!お前今日は質問攻め覚悟しとけよ!?長岡なんて一夜にして時の人だぜ!」
彼女は、自分の席に鞄を置きながら、笑って答えた。
「あはは、勘弁してよもー。あんまり私のカレシいじめないでねー」

え…?

頭の中が、揺れる。
何がどうなっているのか、わからない。

「おはようです滝川殿ー。ワタクシは朝からもう大変ですよー。あっという間に噂が広がるん
ですから。情報化社会の怖さを身をもって知りましたー」
「ははは、だから下の名前で呼んでいいよ。もう私たち、恋人同士なんだしさ」
「そうですねー、マギステル殿ー」
「殿はいらないってばー」

ははははは、という笑い声。二人を茶化すような周囲の嬌声が聞こえる。
僕は何がどうなっているのか、わからない。
昨晩の滝川の幸せそうな顔を思い出していた。桜色に頬を染めた滝川。
――ずっと恋愛小説に出てくるような恋の相手が現れるのを、待っていたんだよ。
そんなことを言っていた滝川の顔を、思い出す。
 混濁する意識の中、いつもの鼻にかかる長岡の声だけが、耳に届いていた。
「少し照れ臭いですが…黒沢殿、あらためて紹介しますね。ワタクシの彼女の滝川マギステル
殿です」
「本日付けで長岡くんの彼女になった滝川でーす、よろしくね。なんてね…恥ずかしいよ、も
う」
滝川は、これまでに見せたことないような最高の笑顔でそんなことを言った。
僕は事情が掴めずに、適当に祝福の言葉を贈った。

 この日の午後、やはり雨は降った。
僕はワケがわからぬまま一日を過ごし、この日は図書室には行かず、女子トイレにも行かなか
った。
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