二〇〇八年が明けた。ふるさとに帰って雑煮やお節料理を楽しみにしている人は多いことだろう。各家庭や、その地に受け継がれてきた伝統の味だ。
文化庁が全国から個性あふれる雑煮を公募し、選定した「お雑煮一〇〇選」という本がある。〇五年に出版された。各地の雑煮は、丸もち、角もち、みそ仕立て、しょうゆ仕立てなどと地域差が際立つ。それに家庭の味が加わるから奥が深い。
当時の文化庁長官で選考委員長だった河合隼雄さんは「日本は近代文明を取り入れつつ、伝統的な文化を相当に保持し、しかも、各地域の特色を生かした生き方をしてきています。その点で、非常に多様で豊かな生活様式を持っている」と書いている。
昨年暮れ、農林水産省が発表した「郷土料理百選」をみても、日本がいかに食文化の宝庫であるかを実感する。
反目し合っては
人、モノ、カネ、情報が東京一極に集中し、吸い取られる地方の衰退が止まらない。このまま手をこまねいていれば雑煮や郷土料理の伝統さえ危うくなってしまう。
歯止めをかける大手術が、中央集権システムを打破するための「地方ができることは地方に」の掛け声で行われた地方分権改革である。国・地方の税財政の三位一体改革が提唱されたが、結果は、期待された国から地方への権限や税財源の移譲が乏しく、地方にとっては裏切られた思いが残った。改革が国の財政再建を優先させるためであり、地方への負担押し付けではないかといった、国に対する不信感も高まった。
地方の痛みは深刻だ。分権への改革疲れが出ても当然だろう。従来の延長線上で分権改革に取り組んでいこうとしても、もはや限界といわざるをえない。発想の大転換がなければ、国と地方は反目を深める不幸な事態になる恐れがあろう。
明確な役割分担
国も地方もともに元気になる処方せんを、政府の地方分権改革推進委員会が描いた。昨年十一月に取りまとめた中間報告は、小手先の改革では間に合わず、国のありようを根本から改める大改革が必要だとして「地方政府」の確立をうたった。
地方政府とは、国との関係は対等で自立し、自主的な行政権、財政権、立法権を持つ。例えば、内閣や各省庁が法律に沿って定める政省令を、自治体の条例で修正できる「上書き権」も認められる。国はさまざまな分野で全国一律の法令を作って自治体行政を縛り付けてきたが、上書き権があれば、地域の実情に合わせた行政が可能になろう。
大切なのは、地方政府確立には、中央政府の役割を限定しなければならないということだ。国は外交や安全保障、通貨などに専念し、地方のことには口を挟まない。明確な役割分担がなければ地方の自立はおぼつかない。もちろん、地方の責任は重くなる。
見えてくる道州制
中央政府と地方政府の役割を見直し、地方が主役の国づくりをという分権委の主張には説得力があろう。国から自立した地方政府を具体的にイメージすれば道州制が浮かび上がってくる。
大幅な事務や権限の移譲を求められる中央省庁の抵抗は必至だろうが、改革を中途半端に終わらすわけにはいかない。地方は一致団結し、国のかたちを変える意気込みで中央の分厚い壁を突破しなければ、地方が個性に磨きをかけて輝けない。
「いま、なぜ地方分権なのか」(西尾勝、新藤宗幸著・実務教育出版)の中で、新藤さんは「地方分権改革は、市民に最も身近な政府である自治体を総合的な地方の政府として確立し、地域の状況に応じた政策や事業を市民自らが決定できるシステムの構築のために必要」と書く。分権改革はだれのためでもない。私たちが活力を取り戻すためであると、再認識することが重要だ。
自らの地域の将来を、自らが主体的に考え、取り組んでいく。国から与えられた設計図通りに生きるより、よほどやりがいがある。今年を真の分権改革に挑む年にしたい。