【東京】「緑の都」を夢見て(1) 皇居外苑内堀通り地下化 東大大学院教授 石川 幹子さん2008年1月1日
東京駅丸の内中央口を出ると、幅広の道路が目に入る。丸ビルと新丸ビルの間を抜けて皇居前広場に向かう行幸通りだ。通りの中央にフェンスが立ち並び「植栽帯立ち上げ壁工事」とある。「木を植えて中央を歩けるようにしています」。東京大大学院教授の石川幹子さん(59)が解説する。 日比谷通りを渡って石垣の内側、皇居外苑へ。しかし、車の流れが途切れない内堀通りに遮られ歩みが止まった。 「東京駅から皇居周辺は『日本の顔』として整備していますが、外苑内側に整備の動きはありません」。都市工学と環境デザインの専門家石川さんは「内堀通り地下化」を提案する。「車で分断されている外苑を一体化して日本を代表する広場を生み出す」と言う。 ◇ ◇ 内堀通り地下化は、専門家らには知られた「幻の計画」だ。 昭和十五(一九四〇)年の紀元二六〇〇年を記念した東京市の「宮城外苑整備事業概要」。付帯事業に「宮城外苑地下道築造」が並ぶ。「自動車交通が外苑の尊厳と風致を害(そこな)ふのみならず宮城参拝者に脅威を与へる」。日比谷公園の西南隅を始点に大手町交差点までの一・八七キロ。予算は九百五十万円(当時)で、資金と工事の一部を市民に頼る計画だった。だが、戦況悪化や資金不足で中止になった。
石川さんは“純粋培養”の学者ではない。東大で造園学を学び、設計事務所に勤め、三人の子育てが一段落した四十歳すぎに大学院に入り直した。研究の原点は「小さな命を大切にはぐくむ主婦の視点にある」と言う。 九五年の阪神大震災の直前、知人の紹介で兵庫県の緑地計画メンバーに就任した。発生直後に芦屋までリュックを背負って歩き、町の惨状に打ちのめされた。「なぜ多数が命を失うような都市をつくってきたのか。都市計画のどこかが間違っている」と悩んだ。一方で住民が小公園で雨露をしのぐ姿も目にした。クスノキの焦げ跡は猛火と戦った跡だった。「公園はいざというとき人を助ける」と希望も持てた。 昨年七月、杉並区の通称・三井グラウンドの周辺住民がマンション建設などの事業許可取り消しなどを都や区に求めた訴訟で、意見書を裁判所に出した。三井不動産などのこれまでの維持活動を評価する一方で「江戸の緑が残ってきたのは先人の努力があったから。私たちの世代はこれを継承し、次世代に手渡す責務がある」と住民を支援した。 石川さんは、皇居の形が心臓に似ていることから「グリーンハート・東京」を唱える。皇居外苑の内堀通り地下化には周辺企業などから浄財を集め、大深度地下方式で実現可能とする。「江戸四百年の水と緑を犠牲にした象徴です。皇居周辺の空間は時を超えて継承していくべきです」と力を込めた。 (築山英司) 二〇〇八年は、日本で初めて公園・緑地を都市計画の主要課題に据えた「東京緑地計画」の決定から七十年目にあたる。都(みやこ)を水と緑と花でいっぱいにしたいと夢見て、奮闘する人たちを追った。 <内堀通り> 皇居を取り囲む内堀に沿って走る道。東京都市計画道路環状1号と大部分が重複する。皇居外苑を通る部分は新年一般参賀の日などに車両通行止めになる。
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