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2007年11月
東京への旅
カシュガルからの中継最終回で放送する撮影済みテープを抱えて東京へ。
2日かけて関口さんと旅した道のりを、また列車で逆戻り。
北京行きの飛行機に乗るためウルムチまで行く旅路です。
ウルムチまでの乗車時間は14時間。私にとっては最長の鉄道の旅です。
寝台車での移動は飛行機に比べ遙かに快適なものでした!
しかも、乗った列車は2日前に乗った列車と同じもの。
乗務員さんも同じメンバーで、前に乗ったのを覚えていてくれているのか、
気のせいか前よりも親切でした。

朝8時、食堂車に一番乗りで朝ごはんを食べ、寝台車に戻りました。
こちらは日の出が遅いので、車窓からは山のシルエットがうっすらと見えるぐらいです。
そこに、小さな女の子がやってきました。
一生懸命話しかけてくれるものの、中国語がわからずにどうしていいかわからないでいると、
一緒に移動をしてくれているコーディネーターが戻ってきました。
通訳してもらうと女の子はおかあさんに頼まれて、ボールペンを借りに来たのだといいます。
目的のものを手にした女の子はうれしそうにボールペンを手に帰って行きました。
それをきっかけにちょこちょこそばに来ては、
おしゃべりをしたり、自分の名前を書いてくれます。
女の子は咳が止まらないのでお母さんとウルムチの病院に行くところだそうです。
私が、お返しに敦煌で撮ったラクダの写真を見せたり、持っていた紙で折り紙を作ると
お互いの言葉は通じないのですが、楽しそうに遊んでくれるのでした。

そういえば、クチャでのロケでは関口さんが村の中を歩いていると、
どこからともなく通学途中の子どもたちが次から次へと付いてきて、
ハメルーンの笛吹のような場面がありました。
関口さんの旅のお供ができたみたいでほほえましかったのですが、
帰りの列車では関口さんだけでなく、私にも旅の友だちができたようです。
ウルムチから4時間半、更に3時間半かけて、成田に到着。
中国大陸の大きさをあらためて実感すると同時に、
番組の中にある人と人との出会いが
自分の旅にも起こりうることなんだということを実感した旅でした。
投稿者:ディレクター 羽田 | カテゴリ:舞台裏よもやま話 | 固定リンク
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冬の火焔山
トルファン駅から車に揺られること一時間。
孫悟空が牛魔王から奪い取った芭蕉扇で、
燃え盛る焔を消したという“火焔山”を訪れました。
火焔山へ向かう道中の車窓には、映画「ジャイアンツ」で見たような
石油の採掘風景が広がっています。

そのほかには特に何もない灰色の乾いた大地が続き、
こんなところにあの有名な山はあるのかと思っていると、
本当にレンガ色をした山が見えて来ました。

もちろん『西遊記』は架空の物語ですが、
炎に包まれた山のイメージを壊さない雄大な土地でした。
トルコでカッパドキアを初めて見たときも驚きましたが、
ここもそれに匹敵するほどの驚きがあります。
この山が赤く見えるのは、鉄分が多く含まれているからだそうで、
よく見るとそれぞれの山の色が微妙に違います。
そして、見事に、山肌には草一本も生えていません。
しかし、谷間には川が流れ、水の音が聞こえます。

火焔山は平均海抜500mといわれ、真夏には気温50度を越えるという土地。
しかし、今は冬。
毛糸の帽子を取り出さずにはいられないほどの寒さでした。
これからは、ますます寒さは厳しくなり、零下30度近くまで下がるそうです。
そんなところで、生活はできないだろうと
東京で暮らす軟弱な私は思ってしまうのですが、
山をてくてくと登っていくと、
新聞配達に使われるような何の変哲もない50ccのバイクが通ります。
ときにはおじいちゃんが二人乗りをしていたりします。
不思議に思ってたずねてみると、もっと先に村があるそうです。
彼らは厳しい気候の中で、いったいどんな暮らしをしているのでしょうか?
今回は、時間がなくて行くことができませんでしたが、
後ろ髪を引かれつつその場を後にしたのでした。
投稿者:ディレクター 羽田 | カテゴリ:旅のこぼれ話 | 固定リンク
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本物のオアシス
朝8時、敦煌の鳴沙山に到着。
やっと辺りが明るくなってきました。
番組でも、紹介していますが、西の地域は日の出が遅いので、
朝7時は、まるで夜です。
日差しが当たっていない砂丘は思いのほか寒く、
砂丘の中にある泉には薄氷が張っていました。

この日の中継は砂丘の尾根の上からと、月牙泉と呼ばれる泉のほとりの二箇所で行いました。
ここではその月牙泉という泉について紹介したいと思います。
泉は名前のごとく、上から見ると三日月型の形をしています。

なんと6000年も前からあったといわれる天然の泉です。
そばに建物があるので、あたかもその庭園の一部として造られた人工池のようにも見えますが、
自然が奇跡的に作り出した正真正銘、天然のオアシスです。
ほとりにはかつて、仏教と道教のお寺があったそうですが、文化革命のときに破壊され、
1990年代に今ある建物が造られました。
現在の水深はおよそ1メートル。
しかし、1930年代には、水深10mもあったというから驚きです。
水位低下の原因は、人口増加による地下水の使用量が増加、
またダムができたことなどが主な原因として考えられています。
この危機的な状況を打開するために、1979年には
水を別のところから引き入れるという対策も採られましが、失敗に終わり、
今は行われていません。
かつては、遊覧用のボートもあったそうで、
茶屋のおばさんは70年代にこどもをボートで遊ばせている写真を見せてくれました。
通常の観光では、現在、泉のまわりには柵があり水際まで行くことはできませんが、
今回の中継では許可を頂き、水も飲んでもよいということになりました。
一見、砂丘の上から見ると水は濁っているように見えるのですが、
陽の当たる水面をそばで見ると、きれいに澄んでいるのがよくわかります。
砂の中から湧き出た地下水は雪解け水が流れ込んだもので、
とても冷たく、癖のない水でした。

昔は、こどもたちがこの泉に砂丘から駆け下りて飛び込んだり、
野生の山羊が水を飲みに来ていたのとのこと。
残念ながらそのような風景を今は見ることができませんが、
昔の旅人たちがこの水で癒されたことは、想像するに難くない風景でした。
投稿者:ディレクター 羽田 | カテゴリ:旅のこぼれ話 | 固定リンク
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タマネギは西からやってきた
胡麻(ゴマ)、胡瓜(キュウリ)、胡椒(コショウ)…。
かつて「胡」と呼ばれた西域からは、シルクロードを経由して、
多くの品々が中国に伝えられました。
この日から、関口さんの旅のルートは
東西の文明を結んだシルクロードに入ります。
日も傾き始めた午後、郊外の農村に足を運ぶと、
農家の軒先には、収穫されたばかりのタマネギが
山積みされていました。

一説によると、このタマネギもシルクロード経由で
西アジアから伝えられたものだと言います。
タマネギと言えば、酢豚や八宝菜など、
私たちにおなじみの中国料理には欠かせない食材ですが、
実は、中国の食文化の史料にタマネギがあらわれるように
なってくるのは19世紀になってからだそう。
数千年におよぶ中国料理の歴史のなかでは、
新顔の部類に入る食材と言えるでしょう。
ちなみに、日本にタマネギが普及したのも
中国と同じく19世紀、明治時代になってから。
こちらはアメリカ人の開拓使たちが北海道の農学校で
栽培方法を指導したのがはじまりだそうです。
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砂とたたかう人々
この日利用するのは、
内モンゴルの包頭から甘粛省の蘭州を結ぶ包蘭線です。
全長1000キロのこの包蘭線、
1957年の開通以来、最大の敵は「砂」でした。
お隣のモンゴルから広がるテンゲル砂漠の
南の端に位置するため、開通当初は風に吹かれた砂で
何度も線路が埋められてしまったと言います。
砂漠に足を伸ばした関口さんが訪れたのは
「中衛固砂林場」という研究所。
地元蘭州の鉄道局が防砂研究のため開設した施設でした。
「固砂」とは文字通り、風で砂が飛ばされぬようにすること。
ここでの研究に基づき、包蘭線では、
沿線の砂地を草や木で覆って緑化することで
砂の被害を食い止めているのです。
こうした緑化研究は、砂漠の拡大が地球規模の問題となるなかで
高く評価されるようになり、1994年には、国連環境計画から
年間表彰を受けるまでになりました。
研究が始まった1950年代といえば、
砂漠化や温暖化などといった環境問題など、
まったくと言ってよいほど認識されていなかった時代です。
50年ののち、自分たちの研究が地球的規模の関心事に
なっていようとは、 当時の研究者には予想もしえなかったのでは
ないでしょうか。

投稿者:ディレクター 苗代 | カテゴリ:旅のこぼれ話 | 固定リンク
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中国鉄道お弁当事情
日本では、「駅弁」といえば列車の旅の魅力のひとつ。
各地の駅で特色あるお弁当が売られていますよね。
一方、中国では、いわゆる「駅弁」は一般的ではないようです。
各駅の売店ではカップ麺やパン、おつまみなどは手に入れられますが、
ご当地の味が折り詰めになったお弁当には出会いませんでした。
理由としては、油を多く使う中国の料理は、
冷めてしまうと味が落ちてしまうので
駅弁には不向きだということらしいのですが…。
そんな中国の列車で、乗客の胃袋を支えているのが
日本では消えつつある食堂車の存在です。
夕方6時、食堂車をのぞいてみると

ほっかほかのお弁当が作られていました。

ごはんとニンニクの芽の炒め物など4種類のおかず
がセットになっています。

あっという間にできあがった50食のお弁当。
「駅弁」ならぬ、「列車弁」といったところでしょうか。
お値段は15元(およそ250円)。
カートに乗せられて、冷めないうちに客車へと運ばれていきました。
投稿者:ディレクター 苗代 | カテゴリ:とっておきのご当地情報 | 固定リンク
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中国鉄道マニアック情報 その3
中国鉄道の魅力を余すところなく伝える中国鉄道マニアック情報の第三弾。
今回のテーマはこれ。

中国で列車に乗ったことがある人なら誰もが一度は目にするのがこのトレードマーク。
このマークには3つの意味が込められているのだとか。
いったいなんだと思いますか?答えは一番最後に。
よくよく見るといろんなところに

機関車の先頭にマークが輝く

特製の湯飲みとつまようじ入れ ちょっと欲しいかも

もちろん制帽にも

駅前のマンホール

硬座の天井にある扇風機

「果皮箱」はゴミ箱のこと
鉄道のマークの答
1.蒸気機関車 丸い胴体に煙突をのせたSLの姿です

2.レールと列車 Iのマークは線路。その上に列車が走る。

3.鉄道職員 マークをばらばらにしてみると、「工人」と読めます

皆さんの予想はいかがだったでしょうか。
この3つの答えを考えられた方、いずれも正解です。
一つのマークに3つの意味がこめられているんだそうです。
投稿者:ディレクター 岡村 | カテゴリ:とっておきのご当地情報 | 固定リンク
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遊牧が終わってゆく理由

内モンゴルの人々は、ただ安楽を求めて定住を選び
始めたわけでも、国に定住を押し付けられているだけで
もなかった。
羊は牛と違って草もその根も食べるので、自給自足の
範囲の少ない羊と放牧している分には良かったけど、今のよう
に都市部の需要や外国への輸出をも満たすだけの沢山の
羊を放牧すると、砂漠化してしまう。昔とは羊の数が違うのだ。
そこで、根を残して草を刈り、それを羊に食べさせれば、
たくさんの羊が養える上に、牧草も無くならない。だから今、
遊牧が終わろうとしているのだった。
もし彼らに遊牧を続けて欲しいなら、中国製の羊毛を輸
入せず、火鍋も食べず、彼らのみならず僕たちも自給自足の
生活に帰らなければならないことになってしまうのだった。
投稿者:関口知宏 | カテゴリ:関口知宏の絵日記 | 固定リンク
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