1 鉄製武器の東漸 『東アジアの古代文化114号』  2003/2
鉄製武器の東漸−直刀の系譜論を中心に−    
                                                奥野正男 
  はじめに

 筆者は八〇年代はじめ、『魏志』・「韓伝」・「弁辰条」の産鉄記事や弥生時代の九州北部に中国・朝鮮経由の素環頭鉄刀や銅鏡が集中し、石器と鉄器の交代時期が福岡市今山の石斧生産の衰退・中止期(弥生後期初)と重なる事実を基に、邪馬台国九州説と九州北部での韓地起源の小規模鉄生産の開始を想定した(註1)。しかしその後、弥生時代の確実な製鉄遺跡の発掘例が乏しく、近年は日本海沿岸部での鉄器の出土が増加し、その伝播ルートの解明が重要な課題となってきた(註2)。
 日本の考古学界では、八〇年代以降、六世紀後半を遡る製鉄遺跡が未発見であることを根拠に、それ以前の国内での鉄生産が存在せず、列島出土のすべての鉄器を朝鮮半島南部からの輸入とする考えがつよくなった。この“鉄器総輸入説”とでも言うべき仮説は、古代国家形成論にも影響を与え、九〇年代初めに提唱された都出比呂志氏の“前方後円墳体制論”にも取り込まれた。都出説は、三角縁神獣鏡の分有関係を基に近畿邪馬台国・大和政権が四世紀前半までに西日本の政治支配を確立したとする小林行雄説を継承し、さらに大和政権が四世紀の後半代には「鉄の流通機構を掌握する」ために朝鮮半島に軍事進出し、五世紀代には全国的国家統合を果たしたとする(註3)。
 考古学界の古代国家成立論の趨勢は、現在なお“前方後円墳体制論”につよく傾斜しており、今春開かれた「第五回歴博シンポジュウム」にもその主張がうかがわれる(註4)。「大和政権が鉄の流通機構を掌握するために朝鮮半島南部に軍事的進出をした」という仮定を古代統一国家成立の前提条件に据えた“前方後円墳体制論”は、古代日韓関係史のみならず古代製鉄研究上でも看過できない内容を含んでいる。
 一方、韓国考古学界の洛東江流域での伽耶遺跡の調査と古代製鉄の研究は、この十年来著しく進展した。その成果によると、二世紀までの弁辰の鉄をめぐる状況は,釜山・莱城遺跡、勒島遺跡など九州系弥生遺物と鍛冶遺跡の実態から、九州北部から渡海した倭人が弁辰の鉄山で直接製鉄・鍛冶に携わったと想定され、まさに「弁辰」条の「国出鉄、韓、?、倭皆従取之」を彷彿とさせる。また、三〜五世紀の金官伽耶の鉄をめぐる状況は、金海大成洞古墳群をはじめとする伽耶諸地域の発掘と研究により解明された。すなわち3世紀後半、金海に北方系の大形木槨墓をもった支配勢力が形成され、陶質土器や鉄の生産を基盤に鎧甲鎧馬を擁する強力な軍事力をもち、5世紀前半まで倭国をふくむ東アジア社会に積極的な交易活動を展開していた金官伽耶王国の実態が復元されている(註5)。
 一方、三〜五世紀の倭地域には伽耶を起源とする文物・技術(陶質土器・韓式土器・竈付き住居・鍛冶工具・馬具・初期木槨墓・横穴式石室墓)の移入や出自を特定できる陶質土器や墓制の発掘調査・研究が重ねられている(註6)。四〜五世紀を通じて伽耶諸国は、中国の南北朝対立の情勢を反映して、南朝と国交を結び、百済や倭国と同盟して南進する高句麗と対抗していたと見られる。考古学的に明らかになった古代伽耶の鉄をめぐる実像は、“前方後円墳体制論”が“鉄器総輸入説”を前提にして描いた「大和政権の軍事進出」や「鉄の流通機構の掌握」などという伽耶像とは大きな懸隔がある。
 本小論では、韓国考古学の古代製鉄と伽耶史研究の到達点をふまえつつ、倭国の古墳時代前期から増加する直刀の祖型を検討する中から、伽耶系鍛冶技術の移入によって倭国固有の長大な鉄刀を鍛造する技術が生じたことを提起したい。

註1;奥野正男『邪馬台国はここだ』 毎日新聞社 1981年
註2;鉄器文化研究会・鳥取県教育委員会編『日韓合同鉄器文化シンポジュウム・日本海(東海)がつなぐ鉄の文化』2001年
註3;都出比呂志「日本古代の国家形成過程」一九九〇年度日本史研究会大会全体会シンポジュウム。『NHK人間大学「古代国家の胎動」』1998年1〜3月。
註4;国立歴史民俗博物館『第五回歴博シンポジュウム・古代東アジアにおける倭と加耶の交流』2002年3月
註5;『金海大成洞古墳群T、U』 慶星大学校博物館 2000年
註6;『西新町遺跡』T〜W 福岡県教育委員会 2002年。『池の上墳墓群』福岡県甘木市教育委員会 1979年

 T素環頭鉄刀・直刀の出現と鍛冶

  @ 弥生時代の大形武器

 弥生時代に現れる鉄製の大形武器に鉄剣、鉄戈、素環頭大刀がある。大形という場合の基準が特にあるわけではないが、木工用の小刀が刃わたり10cm前後で、ついで中期までに出そろう鉄剣が刃わたり20〜30cm前後、鉄戈が30〜50cm前後であり、後期に現れる中国系の素環頭鉄刀は刃わたり40〜100cmに及ぶ。刃渡りの長い刀剣類の鍛冶技術がきわめて高度なものであることと、鉄戈が国内産ということを参考に、刃わたり40cm以上のものを大形武器として、国産の可能性や鍛冶遺構なども視野に入れて鉄刀の起源・系譜を探ってみたい。
 鉄剣は、楽浪文化を起源に朝鮮半島南部・対馬・壱岐を経由して弥生中期には九州北部の有力首長層のあいだに保有された。鉄剣は弥生中期までの九州北部での独占的保有状態が弥生時代終末〜古墳時代初頭期には破れて、刃わたり30cm前後で、茎(なかご)の長い実用性のたかい鉄剣が西日本の首長の一部に保有されるようになる。

 A鉄戈の製作技術の源流

鉄戈は九州西北部の弥生時代中期後半の甕棺墓から出土する大形鉄製武器である。刃長は30cm前後であるが、なかには50cm前後に達する長大なものもある。出土分布が九州北西部の甕棺墓に限られ、祖型の銅戈と同じように血溝を彫った有樋式の鉄戈もあるために、80年代までは鋳造品という見方がつよかった。これに対し冶金学分野の成分分析によって、鉄戈に鋼を使用していることがわかり、軟硬二種の鋼を用いた「合わせ鍛え」の鍛造品とする説(註7)が提起された。弥生時代の鉄器加工技術が鉄製鍛冶工具の出現によって画期的発展を見たことに異論はないが、弥生時代には壱岐・原の辻遺跡で出た鉄鎚のほかに鍛冶工具はまだ出そろっていない。長大な鉄戈の血溝を削ったり、鋼を用いた刀剣類の「合わせ鍛え」という鍛冶作業には、鉄鎚(かなづち)・鉄鉗(かなばさみ)・鏨(たがね)などが欠かせない工具である。しかし弥生時代にはまだ鉄鉗は見られない。
 鉄戈を製作した鍛冶技術の源流を三韓時代の製鉄・鍛冶遺跡を残した“弁辰の鉄匠”に求めたい。
 韓国南部で近年、刃部の短かな古式鉄戈の出土例が増加しており、鉄戈の直接的な起源地を示唆している。釜山市莱城遺跡では鍛冶炉の周辺に鉄器片や倭人の須玖式土器を残す住居跡が調査されている。慶尚南道茶戸里遺跡では、墳墓に多量の鉄器とともに鉄鉱石や鍛冶工具の鉄鎚を副葬していた。また、慶州市隍城洞遺跡は一世紀代の初期新羅の鍛冶遺跡で、大量の鉄滓や鍛造鉄塊と粒状の銑鉄塊が出土している。これと並ぶ時期の忠清北道石帳里遺跡は、狭い丘の上に製鉄・精錬・鍛冶の遺構が集まり、製鉄原料と見られる大量の砂鉄が集められていた。
 三韓時代は製鉄・鍛冶遺跡が魏の帯方郡の配下にあり、弁辰の鉄は楽浪・帯方の「二郡に供給」されていたのである。弁辰で製鉄・鍛冶に従事していた倭人は、須玖式土器を使っていたから北部九州から来た人々である。彼らが帰国できれば弁辰の製鉄・鍛冶の先進技術の一部が奴国や伊都国に伝えられた可能性があるのではないかと思う。
 
2 素環頭鉄刀と鐶のない鉄刀の出現

 @ 素環頭鉄刀

柄の頭部に鐶を作りつけた中国系の素環頭鉄刀は、弥生時代後期〜終末の時期に、九州北部に五〇例をこえる集中的な出土状態をみせる。
 『三国志・魏書』「東夷伝」倭人条には、魏帝から倭の女王卑弥呼に贈られた賜物のなかに「五尺刀二口」がある。一尺24cmで、5尺は120cmになる。福岡・平原遺跡の被葬者は、直径46,5cmの日本一の国産大鏡や多数の鏡とともに、長さ80.6
cmの素環頭鉄刀(図1−1)を所持していた。
 筆者は80年代初めに、弥生時代の鉄器出土地名表(註1)をまとめたが、大形鉄製武器(剣・戈・矛・槍・刀)の出土数は、近畿(2)に対して九州北部(109)という結果になった。この結果から、鉄器の普及は全国一率ではなく地域的な不均等性をともなうという筆者の主張にたいし、佐原真氏が鉄器の腐食や廃品回収説を唱えて、近畿地方にも鉄器が普及していたと反論した。当時、弥生時代後期になると鉄器は西日本地域には(九州北部と同様に)普及したという考えがつよく、鉄器の出土はないが石器が減少しているといったネガティブな解釈論で、鉄器の出ない地域にも鉄器は普及していたと主張する人が多かった。
 その後20年を経た2000年に、広島大学考古学研究室から川越哲志編『弥生時代鉄器総覧』が刊行された。これによると鉄器の総出土数は増加しているが、地域の出土数はまさに不均等で鳥取・京都など日本海沿岸部で増加するほかは、九州の優位に大きな変化は見られない(表1)。
 素環頭鉄刀については、児玉真一氏と今尾文昭氏の研究がある(註8)。今尾氏は素環頭鉄刀の柄の部分の長さについてグラフを図示しているが、柄の長さは全体として片手で握る範囲を超えないものが多い。弥生時代の素環頭鉄刀(図1、今尾論文の付図の一部)のなかの対馬トウトゴ山の鉄刀は、もっとも柄の長いもの属するが、に全長78.7cmで、柄の長さは15.7cmである。やはり両手で持つにはやや足りない。
 中国の刀剣は、青銅剣の時代から鉄刀の時代まで片手で使う武器である。刀術も片手で使う武器として発達し、柄頭の鐶は柄が手からすっぽ抜けない止め金であり、鐶にはリボン状の紐が結ばれ、剣撃中は紐を手に巻き付けたものと見られる。

 A鐶のない鉄刀(直刀) 

 弥生時代の大形鉄刀で、鐶のないことが明瞭にわかる、茎(なかご)を作り出した鉄刀の完形品はまだ少ない。福岡県前原市の三雲サキゾノ遺跡の鉄刀は、刃渡り約45cm、茎部に目釘穴がなく、茎の頭部が曲刃鎌の着装部のように少し曲げてある。九州北部では弥生時代後期になると舶載の曲刃鎌が現れるが、その着装部がちょうどこの鉄刀のように曲げているのである。目釘穴のないこととあわせ、これは弥生時代に九州北部で初めて現れた鐶のない鉄刀ではないだろうか。
筆者はかねてから古墳時代に量産される長刀が、中国系の柄頭に環の付いたものから環のない、幅の狭い茎部を作り出したものへと変化したという私見をもっていた。
 筆者は1993年に、「弥生時代終末から古墳時代初頭には、各地の首長が一定の盛り土をそなえた「墳丘墓」を造るようになる。この首長墓に各種の鉄製武器が副葬される。それ以前の鉄製武器の副葬が主に九州北部に集中していた状況と比較すると、前方後円墳の出現を前にした新しい特徴ということができる。」と述べ、その時期を「鉄製武器の東漸期」として、各地の庄内期の墳墓から出土する刀剣など大形武器を取り上げた(註9)。、
本小論では庄内期の刀剣類は重複を避け、古墳時代の初頭の項で取り扱うことにした。

 B日本海沿岸部の大形武器

 近年、調査例が増加している日本海沿岸部の大形武器について、池淵俊一氏の報告(註10)、村上恭通氏の著書(註11)などを参照して私見を述べよう。
 鳥取・阿弥大寺墳墓群の大刀(図3−1)、鳥取・宮内第1遺跡の大刀(図3−2)は、ともに茎部の長さがわからないが、全長に対して茎部がかなり短いことがわかる。
 池淵氏は「舶載の素環頭大刀の環頭部を断ち切り別の刀装具に付け替えたものと考えられ、古墳時代前期の大刀の先駆け的存在といえる」としている。九州出土の鉄剣のなかには茎部が短く、しかも目釘穴がないのが多くあり、日本海沿岸部の類例として、石川・寺井山6号丘の鉄刀(刃渡り約40cm)・鉄剣がともに茎部が短く、まだ目釘穴がない(図3−2)。長い刀の柄の部分が実戦の打撃に耐えるためには、素環頭大刀の環頭部が取れて、次の段階で、長い柄部を固定するための目釘穴が付くようになる。日本海沿岸部の鉄器が九州北部ルートとは異なる日本海ルートと見られるから、鋼を用いて長大な刀剣を作る鍛冶技術の源流もまた朝鮮半島にあると考えられよう。そのことは福井・向山B遺跡の茎部の長い長剣(図3−5)や長野・根塚遺跡(図3−6)異形武器の出自が伽耶地域にあることからもうかがえよう。

註7;佐々木稔ほか『鉄と銅の生産の歴史』雄山閣 2002年
 註8;児玉真一「鉄製素環刀」、今尾文昭「素環頭鉄刀考」(『季刊・邪馬台国 40号1989年』に転載
註9;奥野正男『鉄の古代史2』 白水社 1993年
註10;池淵俊一「日本海沿岸地域における弥生時代鉄器の普及−山陰地方を中心に
−」『日韓合同鉄器文化シンポジウム・日本海(東海)がつなぐ鉄の文化』鉄器文化研究会・鳥取県教育委員会編 2001年
 註11;村上恭通『倭人と鉄の考古学』青木書店 1998年