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2007-12-28
■ [philosophy]狂気と正気

はてなブックマーク > 死生観と医療崩壊 - NATROMの日記
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071228%23p1
# 2007年12月28日 tokoroten999 医療資源不足の一因に患者のモラル変化はあると思うが元記事の話はおかしいでしょ。「医療資源不足なので治療が出来ない」ことと「医療資源不足からみてあなたの死生観はおかしい」ということは全然違うよ。
そのとおりだと思う。
NATROM氏は次のようにいう
個人個人がどのような死生観を持とうとそれは自由である。しかしながら、ある種の死生観を満足させるにはコストがかかる。そのコストを負担する気はありますか?
この立論の何が危ういって、このコスト論こそが、ナチスをして障害者抹殺計画を遂行させたプロパガンダの核となる論理だったからである。
過去にあげた以下のエントリを再録する。
私たちはナチスを克服してなどいない。まがりなりにも生命倫理の思想が行き渡ったはずの現代とは全く隔絶した異常なものであるとして、ナチスを克服したように思いこんでいて、実際はナチと我々の差は強度の差に過ぎない。
あなたは狂気と正気の境界線を示すことができますか。
■[welfare][philosophy]ナチスドイツの障害者抹殺計画は財政論的に根拠付けられていた~なぜ国家によって人は抹殺されうるのか
において、障害者福祉に予算を割くことがいかに不合理であるかを説く、ナチスドイツ時代のプロパガンダ・ポスターが紹介されている。
ナチスの安楽死計画と障害者自立支援法とを結びつけることに強烈な違和感を感じたひともいるのではないだろうか。あるいは、このエントリこそがイメージ操作ではないのかと。
しかし、福祉と虐殺の問題をショートさせるリスクにあえてチャレンジする意味は大きいと私は思う。
「お金がないから福祉に予算を割けないのだ」という不作為と、「お金がないからお荷物を排除するのだ」という作為の間には、実は、地下水脈ではつながっている一面がある。その闇のなかを流れる水を我々は見ないようにしているだけかもしれないのだ。
私たちは、他方で、お金がないのに借金してまで山河にコンクリートを流し込み、ひたすら道路を延ばすなど公共投資をしている。この均衡を素直に検討すれば、道路を作ることのほうが、障害者福祉の充実よりはるかに重要だという価値判断を私たちはしていることになるはずである。
安楽死計画に関連して、+だちょう+■[philosophy]野蛮について考える12月8日で紹介した映画『ライフ・イズ・ビューティフル』(99年イタリア)の一幕をもう一度紹介しておく。この映画は、幸せに暮らしていたユダヤ人親子が強制収容所に入れられてしまうが、子供や妻には絶望をみせず、夢と希望をみせてやろうとした男(グイド)の物語だ。
グイドがウエイターとして働いてきたレストランで、婚約パーティが開かれていたときだ。あるドイツの婦人が世間話でもするように、婚約者(ドーラ)に自国の話題を持ちかける。
「これは小学校三年生向けの問題なの。国家医療費が、精神病患者は4マルク、身体障害者は4.5マルク、てんかん病患者は3.5マルク、 一日の平均を約4マルクとすると、総患者数が30万人の場合、彼らを粛清したらいくらの節約に?。」
ドーラは一瞬目が点になり、硬直気味に「そんな事できないわ」と応えたところ、ドイツ婦人はこう応えた。「私もそう思ったわ。できやしない。」
しかし彼女は次の言葉を滔々と述べて、ドーラたちを沈黙させてしまうのだ。
「7歳児には難しすぎるわ。複雑な計算よ。比例や割合といった代数の知識が必要だわ。中学生向けの問題よ。」
当時、実際に、このような会話が一般国民の間で日常的に行われていたかどうかは不見識でよくわからない。しかし、上記の猿虎さんのエントリで紹介されているような教育映画など、このような会話を成立させるに足りる十分な情報が喧伝されていたことは疑い得ないだろう。
また、障害者の安楽死に対して積極的な評価を与えた最初の論文として有名な『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(1920年)において、執筆者の一人であるホッヘは、次のように述べて安楽死を正当化する。事実上、刑法学者と医学者の見解との合作である、この論文が、学術的な観点から安楽死を後押しする決定的な判断材料となった。
重度知的障害者の養護にこれまでは年間一人当たり平均1300マルクかかっている。ドイツにはいま〔施設外で〕存命している者と施設で養護されている者との両方を併せると、そべての重度知的障害者は推定でほぼ二万人から三万人になる。
それぞれの平均寿命を50年と仮定すると、容易に推察されるように、なんとも莫大な財が食品や衣服や暖房として国民財産から非生産的な目的のために費やされることになる*1
ナチスドイツ時代の安楽死計画は、もちろん、ゲルマン民族の純化・改良計画の一環として、”精神的に欠陥があるひと”救いようがない病者”を排除するという一面をもっていたこともよく知られている。
しかし、病院を追い出し、抹殺する最終的な根拠は、経済的な理由であることが多かったようである。
そもそも、生きるに値しない命とは誰なのかを、一体誰が、どのように判断できるのだろうか。
当時、安楽死計画に批判的であった人物として知られるP・G・ブラウネ牧師は、退院し就職する予定だった娘が安楽死された例にあげて次のように語る。
精神状態のはっきりとしているこの娘たちは計画に巻き込まれ、移送され、殺された。誰が異常で、誰が反社会的で、誰が回復の見込みがない重病人なのか。祖国のために戦い不治の病にかかった兵士はどうなるのか*2。
この点、非常に示唆的なのが、ニュルンベルグ裁判のためにT4計画を調査した米国医師団の一員であるレオ・アレキサンダーの次の言葉である。
レオ・アレキサンダー(1949年)はいう
医者はリハビリテーションの技術者に過ぎなくなってきている。この・・態度は急性の病気と慢性の病気の間である種の区別を生じさせてきた。慢性の患者には汚名が着せられる。社会に役に立つように完全にリハビリテーションされることはないと見込まれるからだ。ますます功利主義的になりつつある社会でこういった患者は不要なお荷物として決め付けられ見下されている。リハビリテーションが現在の知識の範囲内では不可能な人間に対するあからさまな軽蔑が広まっている。これは無意識の敵意による面が多いのだろう。効果的な治療法がない人は全能という新たな妄想への脅威だからである。
病院は完全にリハビリテーションできる患者の面倒だけをみたがる。完全なリハビリテーションが無理な患者は、少なくとも優れた先進的な病院での話だが、第二級の患者とみなされる。フルタイムであれ、非フルタイムであれ、病院のスタッフは目に見えてはっきりと回復という結果をもたらしそうにない治療法を施すのに二の足を踏むようになる。・・慢性病患者を最高の治療から徐々に切り離そうという態度から実際に患者を殺人施設に送り込むまでにはだいぶ距離があるが、それでも論理的には一貫した行動である*3。(ヒュー・G・ギャラファー『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』)より
アメリカ国内の状況に即した教訓として彼は以上のように述べているのである。
しかし、その後のアメリカ医療は、この教訓を学びきったとはいえない一面がある。
1977年から1988年にかけてオクラホマ大学のテュルサ健康サービス・センターは、「二分脊髄髄膜瘤に関する早期管理および意思決定」という実験の報告をまとめた。この病気の新生児は外科手術を受けなければ死亡してしまうが、成長後に発達障害を抱えてしまう可能性がある。
テュルサの医師は、ある小児科医が考案した数式を利用し、二分脊椎症の新生児のうち誰が救命手術を受け、誰が受けないのか、振り分ける決定をした。
公式は
QL(Quality of life)=NE×(H+S)
QL――生きた場合に子どもが持つだろう生命の質
NE――子どもの知的・身体的な天与の資質
H――両親の結婚の情緒的安定度・両親の教育レベル・両親の財産に基づいて、子どもが家庭、家族から得られるだろう支援
S――子供が地域社会から得られる社会的サービスの質
この公式を用いてQOLを数量化し、積極的能動治療を薦められた新生児は手術を受け、存命し、その他の子供の治療は停止され死亡した。
恐らく、テュルサの医者は善意であっただろう。
かつてドイツの医師が証言したごとく、「これらの生き物(子供)は・・健康な民族体へのお荷物にしか過ぎない」などとは決して考えなかっただろう。
そうであるにせよ、実験の結果は、ナチス時代に障害児計画に参加したドイツの医者の得た結果と同じであった、とギャラファーはいう*4。
このような事例から、私が直観的に感じているのは、リスクなりQOLなりを定量的に把握する手法そのものが生命を選別し、抹殺する重要なトリガーになっているのではないか、ということだ。
あるいは、定量的な評価に対して、私たちが批判を加えうる有力な手がかり(共通前提として)を持たないことがひとつの契機になっているのではないか。
もちろん、ほとんど直観的に連続性を読み取れるにすぎず、実証的なデータは何一つ示すことは出来ない。
ここで、”人類普遍の原理たる個人の尊重の原理”を思い出しさえすればいいのだ、この真理こそが国家主義に対するカウンターである、と主張することは簡単である。昨年の5月頃、私もそのように書いた。
しかし、たとえ組織体が質を落とし最悪の場合、破綻しようとも、それでも個人の自律性の実現こそが大切なのだ、とまで多くの国民が言い切れる社会は極めて少ないだろう。プロテスタント的な意味での、神との個人的な契約が全く意識されない日本社会ではとくにそうだ。
さらに、1920年の上記論文においてK・ビンディングという著名な刑法学者は、重度の知的障害者は自由意思を持たないがゆえに、個人の自律性に対する侵害はあり得ないのだ、と論じている。いってみれば、「幸福追求の権利はあるが、その能力がないとみなされる人々」というカテゴリーをカール・ビンディングは用意するわけだ。きわめて重い問いである。
もちろん、「重度の知的障害者が自由意志を持たない」という前提自体が暴論であると反論することは容易である。
しかし、現在における安楽死の議論においても、”植物状態”に陥った人間、さらには”脳”死状態の人間を選別する論理として、かすかにビンディングの理屈の残り香を感じ取ることが出来る。私たちはビンディングの論理を確実に乗り越えたとは言い切れないのだ。
私たちは、誰が生きるに値しないか、という問題をダイレクトに論じることを避けてきたし、そのような切り口で論じること自体、安楽死問題など特殊な状況でしかあり得ないと考えてきた。
しかし、政府が行政サービスを減らすなどの不作為が、患者らに対して、それまでの作為期待を裏切る場合、ことによっては生死に関わることがある。そのとき、財政難で福祉サービスを削った結果、人が死にました、では済まないだろう。ここに問題の接点がある*5。
「コスト不足でこのままでは障害者福祉に支障が出る。障害者福祉にはコストがかかる。そのコストを負担する気はありますか?」
と問うた障害者福祉施設の従事者に対し、「そりゃナチスと一緒だろ」と批判したようなものだ。しかも、障害者福祉施設の現状などまったく知らない人が机上の空論で。誤読で他人をナチス呼ばわりするのは危うくないとでも?
死生観については、「個人個人がどのような死生観を持とうと自由」と明示した。私や私の親が95歳になって同様な状況ならば輸血は拒否する。しかし、輸血をして欲しい人がいれば輸血はする。コストを負担していただかなければ、輸血したくてもできない。