管理人の簡単な生い立ちと精神状態について。




管理人のメモ(不定期日記)を読んで「何だコイツ?」と思われる方、結構多いかと思います。
簡略化してはありますが、概ねこんなバックグラウンドで育ち、生きているのが私です。
不快に思われるかもしれませんので、特に読まなくて結構です。
(*なお、このページをお読みになる場合はR25、少なくとも社会人の方がお読みくださるようお願いします。学生さんは遠慮していただけると嬉しいです)


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私の父は8人兄弟の長男として生まれました。つまり母は長男の嫁です。
母の家柄は代々続いた江戸っ子、それも(当時は戦後でしたし普通の家になっていましたが)かつてはご典医を務めた、江戸気質と品が自然に備わっていた家でした。一方、父の家柄は関東出身でしたが「江戸っ子」に憧れて状況、祖父が事業に成功して都内の超1等地にビルを構えるまでになった。それでも「江戸っ子」「江戸の粋、品」に対する憧れは変わらず、ツテを頼って父と母を見合いさせ、結婚にいたったのです。
父方の家は、母方の家に対して非常に卑屈な思いを抱いていました。要するに父方は成金だったわけで、しかしどう頑張っても「自然に身についた」「憧れの」気質や品、立ち居振る舞いは身につかない。だから尊敬しながらもチクショウ、という思いもあったのです。

父は結婚前はそれなりに遊び人でした。
結婚当初、「俺には女がいるからお前も仲良くやってくれ」と言われたとかで(流石にそれは父方の両親に激怒され別れたらしいですが)、新婚旅行には父の悪友がくっついてきていました。結婚後(当時は二人きりでアパートにいた)は1年間まったく生活費用を家に入れず、母は自分だけでやりくりしながら生活を繋いでいました。意地でも父に「お金をくれ」とは言いませんでした。1年後、父は初めて頭を下げて「お前には負けた」と言って給料を渡し始めたそうです。この粘り強さは私の血にも継がれているように思います。
父は優しすぎるほど優しい人で人望厚く、子供好きな人でしたが、正義感が強くて不正に耐えられず、職場でそういったことを無理強いされると突然目が見えなくなったり、行方をくらましたりしたものです。その脆弱さは、確実に私に継がれています。私が生まれて、父方の祖父母と同居するようになってからは、父は生きることがもう、辛かったのではないかと思います。アルコール依存で、精神的にも脆く、職にも恵まれなかった。他の兄弟からも「兄ちゃんはダメだ」というレッテルを貼られていました。
私が生まれたとき、父は母に「おい、俺はあと10年でいいか」(そしたら死んでいいか)と言ったそうで、借金してまで保険を掛け捲りました。父は紛れもなく私を溺愛していましたが、しかしかつての言葉通り、私が11歳の時に病死したのははたして偶然だったのでしょうか。

母は基本的に強く明るい、天然のカウンセラーのような人です。
精神的にもポジティブで、父方の祖父母や兄弟との確執にも負けなかった。子供の贔屓目かもしれませんが、父方の連中は本当に馬鹿な頭脳回路の持ち主でしかなく、単純な正論にぐぅの音も出なくなる人達でした。祖父が逝き、父が逝き、うつ状態になった祖母を他の兄弟に預けて私たち親子が家を出て行く際、私は彼らの無知に絶望していました。
一方、私が精神的におかしくなった際には母も私の精神病理に巻き込まれてしまい、親としては当然の反応なのかもしれませんが非常に不安定にもなった。それでも、「これ以上一緒にいるべきじゃない」と主張した私の、それも拒食とうつで希死念慮が一番激しかった当時の私の主張を飲み、独居生活を全面的に支持してくれた。
その時母は、「そんなに辛くて死にたいなら死んでいい」と覚悟を決めたそうです。
私の家に届け物とかに来るたびに、ベッドの中で死体になっている私を思い、覚悟を決めてドアを開けていたそうです。


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私は彼らが結婚後6年して生まれました。
私は両親に大変愛されて育った子供です。祖父も私を孫のうちで一番可愛がってくれた。私も祖父は好きでした。
一方で、祖母が私と、私の母を憎んでいるのはずっと感じていました。祖母は父の事も嫌っていましたから。父は、祖父母の家に同居する頃には、たしか児童書などを主に扱う運送会社の、早い話が安月給の(今の私の派遣の給料より安い)「トラックの運ちゃん」でした。私は子供の頃、自分の洋服や玩具を買ってもらった記憶が殆どありません。8割方、従兄弟からのお下がりで済ませていました。
祖父母の家は大きなビルでしたが、私たち親子は4畳と6畳の部屋をあてがわれた上に生活費用もそれなりに取られ、父が酔って帰ってくれば翌日には親戚中にその話が伝わり、母が祖母に意見をすれば極端に捻じ曲げられた形で親戚中に悪意ある電話が回りました。
反面、父方の姉弟妹は一向親離れのできない人達で、というか親に甘えたり、小遣いをせびったりするような人達でした。酔って自宅まで帰れなくなると勝手に祖父母の家に上がりこみ、勝手に泊っていきました。愛人に追い出されたといって、新興宗教の道具一式とペットを抱えた伯母が転がり込んでも来ました。両親の知らない間に、当時小学4年だった私が彼女の愛人の相手(性的な話を含めた世間話)をさせられたこともあります。

私は長男の孫ということで、「将来は婿を取ってこの家を継げ」と子供の頃から言われ続けていました。また、父に貼られたレッテルと、姑・小姑からの攻撃を受け続ける母を守るために、私は年齢不相応に「しっかりした子供」として生きる事を選びました。
集団の中では常にリーダー格、相談役。
小・中学と、つまりは父の存命〜逝去後、事実上父方の親戚から離れるまでの間、成績は常に上位、学年全体で10位以下に落ちた事は一度もありません。
それを自分で報告した事はありませんでしたが、町内のおしゃべりな人々が「○○ちゃんはまた100点だった」などと勝手に祖母に報告してくださったので、自然、知れたわけです。勿論親戚にも情報は伝わり、「しっかりした子」「頭がいい子」と、別の意味でのレッテルを貼られました。他の従弟も成績優秀ならよかったんですが、生憎私だけが突出していた。「あの子は特別だから」「私たちとは違うから」…大勢の従弟たちと常に比較され、少しでも隙を見せれば攻撃された。年の近い従弟とは特に。

父が死ぬまで、祖父母の家を出るまで、私は両親に「子供らしく甘えた」記憶がありません。
母もないと言っておりました。何しろ、私達の部屋は寝るとき以外はドアを閉めることを禁じられていましたから。そして勝手に従弟や、他の親類が入ってくる部屋でしたから。
私が初めて母に甘えたのは、父が死んだ後、新しいアパートで母と二人きりになってからのことです。母が非常に感動していたのを、覚えています。

父が入院したとき、私は「このまま死ねばいい」と思いました。

父を愛してはいましたが、当時の父はアルコール依存が酷く、失業中で、うつ病で、退院しても親戚のなかで厄介者として扱われることがわかっていたからです。詳しくは話せませんが、犯罪とか警察・裁判所には、父方の親戚でお世話になっていない人はいません。精神科にも。
父が内緒で酒を買ってきて欲しいというと(当時、我が家の真横に缶チューハイの自販機があったもので)、私は黙って協力していました。私が「共謀者」になること、「味方」になることが彼のストレスを幾許か和らげると思った。母は母で、父と私を連れて逃げようと思っていたようです。
父の闘病中は私が付き添い、ベッドの上で苦しみのた打ち回る父を母が押さえる間、私が「どうしても見舞う。兄弟なんだからいいだろ」という馬鹿な親戚をドア先で力いっぱい押し戻した。あと数日で死ぬ、という父の状態をわかりもせず、父の部屋の壁紙を張り替えるからどの色がいいか聞いて来いという祖母がいた。…結局、父は新しい「真っ白な」壁紙の部屋に迎え入れられました。遺体となって。

甘えてはいけない子供。「大人」として振舞うことを選んだ子供。
何故か小学〜中学に上がる春休みの間、うつ症状を呈した父の末妹(子供二人いる)の面倒を見に、私は僅かな休みを全て使って彼女の家に通っていました。叔母はどうでもよかったのですが、まだ幼く、一番可愛がっていた弟のような従弟が不憫でなりませんでした。
その従弟も2年前、末期癌で亡くなりました。まだ24歳でしたのに。4半世紀さえ生きなかったあの子。

私は両親を守るためだけに、あの家にいたのです。
祖父母の家を出た後も、頻繁に関わろうとしてくる父方の親類からどうにか母を守ろうとして(これは詳しく語りませんが、祖父の遺産問題や祖母の問題でいろいろもめていた)いました。
その後、中学から高校(都立の最高峰といわれた名門)に進み、現役で早稲田大学に入学。
まだ、私は戦っていました。少なくとも私の学歴だけでお前たちは一歩下がるだろうと…常に私にとって、親戚というものは最も憎むべき敵でした。
しかしそのうち親戚だけの問題ではなく、様々な要因があって私の精神に変調をきたし始め、母は父方の親類に絶縁状を送りつけました。本来なら戸籍を抜けばよいのですが、父の遺族年金がなければ私達は生活できないのです。今も。
余談ですが私は上記のような家庭で育ち、己のなすべき役割を自ら選んだがゆえに、「生意気な子供」として常に教師・先輩にパワーハラスメントを受け続けてきました。小学校から大学卒業まで、ずっと。
<例1>*小学校の頃
 
隣クラスの担任「●●さんの名前ってさ〜、○○って書くんだよね〜」
 私「はい」
 隣クラスの担任「ウチ、女の子が生まれたんだ。それで○○って名前がいいなって思ったんだけど、
  その字って『気が強くて女らしくない』って姓名判断で出てたから、●●さんみたくなったら嫌だなっ
  て思って違う字にしたんだ〜」
 私「…へぇ、そうですか」


<例2>*大学3年の頃、初めてのゼミ新歓コンパにて
 
教授「(かなり泥酔)…お前はロクデナシだ」
 私「は?」
 教授「お前なんかな、ろくでもない人間なんだよ。そうなんだよ」
 私「そう、ですかねぇ…(教授なので一応気を遣っている)」
 教授「そうだよ、このロクデナシが。どうせお前は大した人間にはなれないんだ」
 私「(酔っ払いの戯言と理解)…ああ、そうかもしれませんね」

  
注1)この「ロクデナシ」発言の前、私は教授と殆ど会話をしていない。
    会場の後片付けを他の数人とで残ってやっていた時に突然始まったものである。
  注2)なお、この冒涜的口撃はその後、所沢で別れるまで40分以上(バスや電車の中でも)
    続いた。他のゼミ生や院生は見ない振りをして誰も関わらなかった(そりゃそうだ)
  注3)翌日、院生に「あれは教授の愛情表現だよ」と言われたが、そんな訳あるか。
    私は彼から謝罪もされていないし、その後殆ど口を利かなくなった。ゼミ中も。


私を批判する多くの人々はどうでもいい事に突っかかり、私が相手にしないのでますます激昂し、評価を下げてきました。対して私は自分の学力でそれらをねじ伏せてきたので常にある程度の位置にいられたのですが。…が、自分自身への評価は低いまま現在に至ります。私は両親を守るためだけに存在し、かつて積み上げた学力の残滓と見せかけの力ばかりで「自分」を演じ続けているのです。
本当に自分が必要とされているのか、評価されているのか、そして本当に存在しているのかさえ、よくわかりません。ただ、ここに重たい肉体があるから「あ、いるんだ」と。
けれどこれが本当に私なのか?と問われると、やっぱりよくわからないのです。
もしかしたら私はもうとっくに死んでいて、誰かの身体を借りているだけかもしれません。
そのほうが幸せだとも思います。


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私は卒業後職を転々として、それでも医療関連の業種からは離れずに(父は最期、医療事故で殺されましたから)、病院や出版社、広告代理店を回りました。
そして代理店時代に完全におかしくなった私を、今度は母が必死に守ろうとしてくれたのです。
しかし当時は私も27歳でしたから、母の愛情が重くて重くて、そこから逃れようとしていた。そこで、一旦「実家の近くで」という条件付で一人暮らしをしました。
やがて私は代理店の先輩と結婚をしました。同じプロジェクトを抱えた彼と、酒の勢いで寝て以来関係を持ち続け、次第に「生活リズムをあわせなければ仕事も自分たちも崩壊する」と思うに至ったゆえの結婚でした。彼は純粋に、単純に、普通の結婚生活を、男の幸せを求めていたようですが。
結婚は、単に仕事の都合ですから、愛情はありませんでした。夫の両親や親戚が私の父方の親戚より酷い感じの人達で、一度会っただけで「これはだめだ」と思いました。夫は仕事の面ではよき相棒でしたが、根本的な人生観が異なるので「ままごと」夫婦でしかありませんでした。セックスをしたのは僅かに3回、子供もできましたが私が子供嫌い(自分が子供だからでしょう)なんと、経済的な理由に加えて「子供なんか生んでる暇はない」という理由から、会社から私宛に出された祝儀を全て遣って(彼は自分に与えられた祝儀で新しいPCを買いました)堕胎しました。私は病院のベッドの上で、手術の順番を待ちながら仕事をしていました。退院して出社したその日、4時間の会議に出席し、全ての資料と仕切りを行っていました。そういう私でした。

彼とは今年(2007年)に別れました。ちょうど1年間の共同生活でした。

どうでもいいことですが、私は結婚時代、彼に「ハプニングバー」に5回ほど連れて行かれ、10人近く?知らない男とFuckし・またはさせられています。私は基本的に人肌が嫌いなのですが後に「空木」として分離するマスター人格の、自虐的精神の部分が従ってしまいました。「自分を壊したい」「自分を穢したい」という、気持ち。…もっともあの場所に行く・そのような行為にいたる一番最初のきっかけは「蜜」となる部分が興味を示したせいもあるでしょうが。
現在の私は玩具でしか欲の処理をしません。性欲はそれなりにありますが、人間と交わりたいとは決して思わない。

この結婚生活がうまくいっていれば、母も安心して暮らせたのだと思います。
でも、そうではなかった。途中、精神科に通う際も夫は一度も付き添わなかった。やがておそらく母の中で、夫に対する憎悪に近い感情が生まれた。…さらに、「一人暮らし」「加齢」という要素が加わって、この頃より母は精神的に不安定になってきた。今まで私が知っていたよりずっと強く、深く。
だから、今度は母を守るために、私は実家に戻ることにしたのです。再び母の重すぎる愛を受ける事を知りながら。それが、子供時代に私を構うことができなかった母なりの償いだとわかっているからです。老い、という年齢的なこともありますが、このまま私が何もせずにいれば母が可哀相だと思うのです。ましてや私が自殺を選んだら(それが私の一番の望みだと、母もわかってはいるのです)、母親として、人間として、こんな可哀相な人生ってありますか。
もっとも、母とは「干渉しあわない」ことで協定を結んだので、これからは少し楽に暮らせると思います。そう、お互いに望んでいます。


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私は与えられ・あるいは自ら選んだ(選ばざるを得なかった)役割の中で、周囲に適応するように、歯車がうまく回るように動いてきただけ。
結果、自分が壊れても私はそれでいいのです。
私には独立した、確立された自我はありません。
お前が思っているほど、お前は大した奴じゃない。それが私。
苦しいけど、痛いけど、それを表に出したところでどうなる訳ではない。
だから一番の望みは「消えること」なのです。「死」というより、「消滅」。

自殺という死に方、これで親より先に逝く以上の不幸は絶対にありません。
私が、自分の中で人格を幾つにも解離させながらそれでも、「まだ生きてなきゃいけないのか?」「でも、母が可哀相過ぎる」という思いで生きているのは、実にそのためなのです。
何というエゴイストでしょう。私は。


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そこで、「その時」(母を看取り、雑務を終わらせていよいよ自ら消滅してもよいとなったとき)まで、私は自らを幾つかに分けて生きることにしました。はじめはボーダーラインパーソナリティ障害によって自然に解離がおきていたのですが、最近は解離した人格に「名前」と「役割」を与えることにしました(便宜上)。
無理に統合する必要も、前向きに生きるための治療を受ける必要もないのです。時折起きる不安定をコントロールするのに精神科の手助けが必要なだけで、「積極的な治療」を受けるつもりはありません。私は、彼ら全てを含めた「群体」で「私」という生命体を形成しているのだと解釈しています。
これからまだ増えるかもしれませんが、今いる人格は以下のとおりです。

名前 年齢 性格 特徴・備考
マスター/空木(うつぎ) 30歳(本当の年齢)
主人格。感情面を担当、感受性が人一倍鋭く傷つきやすい。解離前の(元々の)性格に一番近いが、現在は「自分を使い切った。もう空っぽ、私には何もない。ただ、『その時』を待っているだけ。その時がくるまでこの身体を生かしておく必要があるから、皆に役割を負ってもらった」と言っている。
表に出てくることもあるが、基本的には蜜に任せて自分は眠っている。
「夢の中で全部見ている」らしいので、多分彼女が私自身であり、他の子達を作りだして自分を楽にしようとしているのではないか。
ヒーリング系のDVDが好き。非常に勘がよい。感性的。他人の相談に乗っているのは大抵こっちだが、状況によっては同時に蜜も出ているときもある。常に感覚的なアンテナを張り巡らしているので物事を感じすぎ、精神的な痛みを感じたり、非常に疲れやすい傾向にある。
M.リネハンの提唱するボーダーライン人格障害の定義に合致する。

基本的に優しく穏やかな口調で、年相応の女性らしい話し方をする。
一応、仕事はできるが非常に能率が悪く、身体が動かなくなることも多い。一応日常生活や対人関係もそれなりにこなせる。でも基本的に不安定で自虐的なので、空木が打つメールはすぐわかる。蜜が「落ちた」ときに打ったメールで友人を仰天させたことがある。
大量飲酒や大量服薬(併用)をよくする。基本的に「困った」行動をしてくれるのはこのヒト。結婚決めてくれちゃったのは蜜と分離する前だが、行動から見て多分空木の性格傾向が決定打になったと思われる。
サブ/蜜(みつ) 30歳(本当の年齢) 副人格。2007年秋に大怪我をして以来、マスターから分離した。感情抜きで打算的、仕事と社交性を担当。
クールで冷静なで毒舌で、分析好きな勉強家。男勝りで勝気。男言葉で話すことも多く、一人称が「僕」になったら間違いなく蜜である。
基本的に、通常表に出ているのは蜜。しかし脆弱性は空木よりマシ、という程度で大した事はないので、あまりにも疲れると「落ちて」しまい、空木が表に出てフォローに回る。

仕事とプライベートの境は、空木と同化していた頃よりはずっと分けられるようになった。ただし、自分に任された仕事を他のヒトに割り振られたり取り上げられたりすると「自分の存在価値」が崩れてしまうため意識が落ち、空木か綱(後述)が表にでざるをえなくなり、突然会社を休んだりする。
医学をはじめ専門書を買うのが大好き。アマ●ンの罠(笑)によくはまる。昔のビッグバンドが大好き。爆風スランプとかブルーハーツとか。ほか、エロ系・サブカル系のネタが好きで中野にしばしば通う。空木とは別の意味で常に「人の顔色を伺う」「この時期にこれをぶっこむとベスト」などのアンテナを張っている。生への執着がないのは他人格と同じ。
ここんチをはじめ、主に文章を書いているのは蜜か、たま〜に空木。


ヘルパー/綱(つな) 12歳くらい
セルフヘルプ人格。普段は自殺人格の傍らで彼女を見守っている。
どれだけ自殺人格が暴れても、最後の砦として彼女を抱きしめている。
自殺人格が表出し暴れると(過去に3回ほどあり)リボンで互いの手首を繋ぎながら自分は表に出てきて、助けてくれそうな人物に命綱を投げる。元々名前はなかったが、「命綱を持つ子」ということから蜜が「綱」と名づけた。その名の通り、弊社の社長とか、精神科の医師とか、最も信頼している友人とかにヘルプサインを出す役割の子。


空木は「魚の目を持つ子」と形容している。目を閉じることなくいつも自殺人格(ベッドで眠っている)と手を繋いで、見守っているためで、イメージ的には南インドのミナークシー女神からきているようだ。
先日空木・蜜ともに混乱または落ちてしまったとき、見かねてこの子が医者のところに行ってくれた。
空木の「その時」(自死を選ぶとき)は、空木と蜜が全ての手はずを整えた後、自殺人格を抱いて死に導く役割。
キラー/特になし(他の人格たちは「泣く子供」などと表現している) 概ね8歳〜15歳あたりを変動しているらしい

自殺人格。前職時代・結婚時代はしばしば暴れたが、現在は黒いベッドの中で「その時が来るまで」、眠っている。
非常に衝動的な子供人格。起きている間中「何もかも嫌」「死ぬ」と言って泣き喚いている。時々、「暴れるまでは行かないが目は覚めている」状態であることがある。2007年秋はその好例で、皆で押さえつけようとして空木も蜜も落ちてしまい、綱が社長と母と医者と友人、考えられる限りの資源に命綱を投げた。

一番最初に解離した人格である。
暴れる時はベルト首に巻きつけて引っ掛ける場所探してウロウロしたり、過量服薬したり、PCを突然初期化して、業者に「この部屋片付けるにはどのくらいかかるか」とか見積もり取ったりしている。電車に飛び込みそうになったことも、環八に飛び込みそうになったこともある。しかし痛いのは嫌らしく、リストカットはしない。綱によると、「子供なんで痛いのは嫌っぽい。あと、死ぬなら私が確実に死ぬ方法を取らせるから」だそうだ。


蛇足ながら申し上げておきますと、私は自分が精神科の国家資格を保持している人間であるということ。さらにDIDスケール、BPDスケールでも「要治療」範囲であることを付け加えておきます。自ら「生き延びる」ために解離する事を望んではいますが、いわゆる「あたしって多重人格なの」という「なりたがり」ではありません(結構苦しいですからね実際)。ただ、解離する事が私なりの、サバイバルの手段であると。この辺、マーシャ・リネハンのBPD理論と見事に合致していて、彼女の本を読んで驚きました。わかってくれる人がいるんだって思って、すごく嬉しかった。
ちなみに解離が起きると色々な事が起きますが、特に顕著なのが「蜜」が落ちたときなんで、以下にその例を挙げておきます。

<困った例>
・複数の友人に「超・自虐的メール」を送って困らせた
・家賃の自動引き落とし解約を勝手に行っていた(銀行に解約しにいった蜜が「もう解約されてますよ
 (2ヶ月以上前に:蜜が「落ちた」時期と一致)」と言われ、大家さんに謝り倒して敷金の戻り分から
 差し引いてもらうことで解決)
・約束のドタキャン
・元夫に衝動的に連絡を取っていた
・考え方の違いから7年前に縁を切っていた団体の代表に「カムバックさせてくれ」と電話しており、
 蜜が尻拭いに。
・10年来の付き合いの、私にしては珍しく「本当に大切だった」友人仲間に「私はもう身体を持たないから、
 架空世界の中でのみコミュニケートしてくれ」とか電波的なメールを送って縁を切ってしまった

本当は行動療法でも受ければいいんでしょうが、暴露療法ってのがどうも…こうして文章化する事で状況も把握できるし、何より私達自身が統合を求めていないのだから、いいじゃないですか、と。
多少困ったことがあったって、それは税金みたいなモンじゃないか、と。
とにもかくにも私達は。
群体として、げしょげしょと(@あさりよしとお)生きていくのです。



いつか本当に、『その時』を迎えられる日まで。








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