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しらかば帳:一年を振り返って 事件報道に自戒の念 /長野

 それは12年前に見た「オウム事件」を連想させる映像だった。東雲(しののめ)の空の下、小諸市の宗教法人本部に続々と集結する捜査車両。取り巻く報道関係者の喧噪(けんそう)。現場からの報告を聞きながら、支局のテレビにくぎ付けになった。「自分は今、大きなヤマを踏んでいる」。興奮を抑えられなかった。

 「紀元会」事件。県警が強制捜査に着手してからの数日間はまさに「クライマーズ・ハイ」の状態だった。在京テレビ局や雑誌などあらゆるメディアが事件を取り上げた。宗教絡みの事件であり、猟奇性もうかがえ、報道は過熱した。

 「抜いた」「抜かれた」の報道合戦に明け暮れていたころ、ある捜査幹部に言われた。「国家テロを企てたオウム事件とは違う。どう転んでも内輪もめの傷害致死事件。もっと冷静になったほうがいい」。振り返るとその指摘は正しかった。

 自戒を込めて言えば、多くのメディアが雰囲気に流され、虚実ないまぜの報道があふれた。例えば「紀元水1本数万円」説。当然のように報じられていたが、紀元会は後に否定している。元をたどれば近所のうわさレベルの話で、普段なら記事化しなかったはずだ。

 大きな事件は麻薬に似ていると思う。独特の高揚感は感覚をマヒさせ、「他社に先んじろ」の一方で「バスに乗り遅れるな」との空気が現場に横溢(おういつ)した。第一通報者を犯人扱いした松本サリン事件。最近では香川県の事件での遺族報道。紀元会事件の序盤の報道でも同じ論理が働いていなかったか。

 事件報道は被害者の「痛み」に対する社会的な想像力を引き出すためにある。記者の自尊心やよこしまな好奇心を満たすためではない。反省を込めて胸に刻みたい。【川崎桂吾】

毎日新聞 2007年12月21日

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