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鉱毒に消えた谷中:旧村民子孫座談会/上(その2止) /栃木

 (25面からつづく)

 ◇北海道あっ旋、まさに「棄民」--周辺住民の差別ひどく

 亀田東一氏 私たちが県の買収に応じて、南那須志鳥に移転したのは明治38(1905)年でした。当時の志鳥は今で言うと、新興宗教団体が来るような大騒ぎになったと聞いている。

 地元住民は私たちの入植に反対、「谷中出て行け」とムシロ旗を立てて大抗議した。我々の入植地だった国有地は、薪などの燃料を地元住民が集める場所だったから。この反対運動のせいもあり、私たちは荷物を抱えたまましばらく、足止めを食らったわけです。

 島田氏 それはひどい。

 亀田氏 入植してからも、土壌が谷中とはまるで違った。土地が荒れていて肥料を買わないと作物が育たない。谷中では肥料は必要なかった。肥料を買う金もなく結局、みな小作に転落した。過酷な環境に耐えかね、18戸中2戸は脱落し、逃げた。そして、何よりも周辺住民からの差別もひどかった。

 針谷氏 藤岡でも、旧谷中村民は地元の消防団に参加させてもらえないなどの差別があったようだ。また、谷中出身者を「鵜(う)ガラス」と呼ぶ人もいた。魚をよく取っていましたから。無論、これは過去の話ですが。

 亀田氏 周囲の人間は我々を「谷中ドッチン」と呼んだ。私たちの世代はもう経験していないが、2代目まではそう呼ばれていた。私の父母の世代は、学校でもいじめられた。登校時は集落の皆で一緒に行く。しかし、下校は別々だから授業が終わるとなったら、いじめを避けて荷物を持って駆け足で帰った。

 今では、志鳥も豊かになり、「谷中の人にはかなわない」と言われるぐらいになった。それでも、先人たちの苦労は並大抵ではなかった。

 針谷氏 私は、谷中村民らが集団で移住した北海道佐呂間町も訪ねたことがある。しかし寒冷地で、とてもあれだけの大戸数が本土型の農業をできる場所ではない。国が移住をあっ旋したわけだから、村民は国にだまされたことになる。

 土地を持っていて、少ないながらも、買収金がもらえた村民は良い。土地を持たない村民は買収金すらもらえず、廃村後にどこに行ったのか記録も残っていない者が全体の2割に上る。おそらく、東京に出て行ったのでしょうが。本当に「谷中残酷物語」ですよ。

 佐々木斐佐夫氏 まさに、「棄民」ですな。私どもが移住した(茨城県)古河市はその点、差別は少なかった。特に古河は商人の街で江戸時代から谷中産の農作物、魚でもうけていた。だから、谷中がつぶれて古河はとても困った。栃木県が周辺の町に参加を呼びかけた残留民家屋の強制破壊にも当時の町長が反対したぐらい、「谷中シンパ」だった。

 でも、古河に移住した谷中の人々もここでは耕作地が狭いので、村跡で魚を取ったりして生計を立てた。移住後も谷中に依存した生活だった。

 大野裕史氏 私の祖父、曽祖父は谷中村長でした。皆さんのような苦労話がなく恥ずかしいが、廃村後は東京・赤羽に居を構えた。大野家も村長時代は三国橋や下野れんが場の建設など、それなりの資産家だったようだが、赤羽に移転後は裕福でなくなったようだ。赤羽は、東京と言っても北のはずれ。住んでいた土地も借地だった。我々に残された財産もない。=つづく

毎日新聞 2007年12月26日

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