生野オモニハッキョ(大阪市生野区)
◆30年続く民間の識字教室
夜7時すぎ、徒歩や自転車で「オモニ」らが次々に姿を見せる
国内で最多、3万人超の在日韓国・朝鮮人が住む大阪市生野区。小さな商店や住宅に囲まれた3階建ての「聖和社会館」で、毎週月、木曜日夜に在日女性のための識字教室が開かれている。この夏、スタートから30年を迎えた。公費による援助なしに、民間ボランティアだけで続けてきた教室としては異例の長さだ。
オモニは朝鮮語で「お母さん」、ハッキョは「学校」を意味する。40代から80代まで30人ほどが、「あ」組から「か」組まで6つのクラスで日本語の読み書きを学んでいる。
多くは韓国・済州島の出身で、戦中戦後の混乱期に親類や知人を頼って日本にきた女性たち。厳しい差別の下、その家族はほとんどが貧しく、「女に学問はいらん」という封建的な考えも残っていた。家業の手伝いに追われて学校に行けなかった人、日本人児童のいじめに遭って行くのをやめた人が珍しくなかった。
その昔「毎日学校に通う近所の子がうらやましかった」彼女らは、大人になっても字の読み書きができず、役所や病院の窓口でつらい思いをした。一方、若い世代では、在日の夫と結婚して初めて日本に来たという人もいる。
◆「すぐ忘れる」「それでも楽しい」
マンツーマンで教える「あ組」。右上には上級クラス「か組」も
「あ」組は仮名と簡単な漢字を扱う初級クラスで、原則としてマンツーマン。生徒とボランティアスタッフが机をはさんで向かい合い、時には並んで授業が進んでいく。「い」組から「か」組までは複数の生徒が一緒になり、まとまった文章を読んだり作文を書いたり、漢字の練習をしたり。
午後7時半から1時間半、週2回の授業では「いくらやってもすぐ忘れる」という嘆きがよく聞かれる。でも、「オモニ」たちの表情は明るい。学ぶ喜びに加え、雑談する楽しさもある。時には朝鮮語も飛び交い、教室が爆笑の渦に包まれる。
10年ハッキョに通った後、市立の夜間中学に入り卒業、再び戻って1年半になる玄五生(ヒョン・オセン)さん(83)は「頑張って勉強したおかげで、どこに行ってもひとりで手続きができるようになった。苦労も多かったけれど、勉強は自分の財産」と話す。
年に3回は「みんなの会」と称して全員が3階のホールに集まり、書道や工作、年賀はがき作りなどに取り組む。春と秋には手料理を持ち寄り、近くの公園に遠足に出かける。
26年にわたり教えてきた金野南さん
ハッキョができたのは1977年7月。地元のキリスト教関係者らによる「地域問題懇談会」の席上、1人のオモニが「忙しくて夜間中学には行けないけれど字を習いたい、という人がいっぱいいる」と訴えたのがきっかけだ。最初は社会館の隣の教会が使われ、1年ほどで生徒は数十人に増えたが、間もなく空中分解の危機を迎えた。
オモニたちの生活保障運動の中で識字をどう位置づけるか、などについて、在日の若者中心のスタッフ間で意見が対立、相互不信が募ったためで、生徒も4、5人に減った。金野(こんの)南さん(55)が知人に誘われて訪れた81年はそんな時期だったという。
「初めての印象は、何か暗いなあという感じでした」。議論よりも教えることに徹底しよう、と考えた人たちだけが残っていた。1年半後、木下明彦さん(59)が加わった。2人はともに大阪外語大(現大阪大)朝鮮語学科有志による社会人向け教室で朝鮮語を学んでおり、在日の人権問題にも理解があった。
◆低迷期を乗り越えて
社会学調査がきっかけになった谷富夫さん
社会学者で大阪市立大文学部長の谷富夫さん(56)が初めて訪れたのは、広島女子大の助教授だった87年。在日社会を調べるため半年間、地元に住み込んで聞き取りを進めるうち、金野さんらと意気投合して教え始めた。その後中断したが92年に大阪市大に移って再開、今も週1回通う。「フィールドワークで貴重な資料をいただく、その何万分の1かでもお返しできればと思って」。
80年代半ば、ハッキョは勢いを取り戻した。スタッフは日本人主体となり、短大のボランティア部員らも加わった。学生の就職などに伴い入れ替わりは激しいものの、和気あいあいとした雰囲気が保たれ、これまでに3組のカップルが生まれた。韓国映画の字幕制作で知られる根本理恵さんも、大阪外大の学生時代は熱心に通っていたという。
30周年事業のリーダーでもある坂口美知枝さん
30周年記念事業実行委員長を務めた坂口美知枝さん(51)は、学校事務職員の先輩に誘われ、92年から加わった。「日本が植民地時代にしてきたことへの贖罪めいた思いに加え、オモニたちとの会話の中で教えられることがいくつもあり、とても勉強になるんです」。3年前からは長女の音々子(ねねこ)さん(21)も、別のクラスで教えている。
西中富美さん(46)は、坂口さんの夫・邦明さんが高校書道部の先輩だった縁で94年にスカウトされた。自宅で書道塾を開いており、「みんなの会」でも腕前を披露する。
スタッフの”事務局長”も兼ねる林成章さん
大学夜間部の学生だった97年から通う林成章さん(33)は、郵便局員の仕事の傍ら、授業後のミーティングの司会もし、土曜日には社会館で取り組まれている子ども会のリーダーを務める。視野が広がったといい、「楽しいからやっているだけ」と屈託がない。
在日3世の文岩優子さん(30)は2001年、スタッフだった叔母の紹介で訪れた。それまで民族的なものには距離を置いてきたが、当時がんで闘病中の叔母を喜ばせるつもりで誘いに乗り、オモニやスタッフの温かさに触れて「自分が次第に解放されていく」のを感じたという。06年7月に始めたブログ「パラム・ドル・ヨジャ〜済州島に多いものみっつ」は、自在な筆致で自身と周囲を語り、ハッキョの活動記録にもなっている。
◆節目の年…誓い新たに
30周年の今年、7月には近くのホールで韓国舞踊の鑑賞会も兼ねた祝賀会をし、東京や九州などからも20人を超えるスタッフOBが駆けつけた。10月には5年ぶりの記念文集を出した。教育関係者らの視察や見学も少なくない。
時には全員集まって毛筆練習も。ハングルが交じるのも「ハッキョ」にふさわしい
オモニの数はここ数年、減ってきている。在日1世が高齢化し、体を壊すなどして勉強を続けられなくなったからだ。それでも、新入生が絶えることはない。「ようやく自分の時間ができたので」「ここのことは前から知ってましたから」――そんな話を聞くたび、金野さんらは30年という時間の重みをかみしめる。
スタッフが減らないのは強みだ。谷さんの講義に接した橋本真菜さん(20)ら、毎年のように学生が加わるほか、今年は在日のメンバーが2人増え、3人になった。今秋の「ミオ写真奨励賞」作品展でも入選したソウル出身の写真家・文興植(ムン・フンシク)さん(35)と、文岩さんの友人の金山優(ゆう)さん(34)。
ここまで続いた原動力は何なのだろう。厳しい人生を生きたオモニとの交流で学ぶことの多さ、真っ直ぐに感謝される喜び。政治を持ち込まず「のんべんだらりとやってきた」(木下さん)ことも、その1つかもしれない。
「10年ぶりに来てみたら、先生が覚えていて『おかえり』と言ってくれたのが本当にうれしかった」と記念文集に書いたオモニがいた。みんなで心を合わせ、温かな居場所づくりに努めてきたことがしのばれる。ぜひ40年、50年を目指してほしい。
(石塚 直人)
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住所:大阪市生野区桃谷5−10−29 聖和社会館内
アクセス:JR大阪環状線「桃谷」駅から徒歩15分
◆ ボランティアあれこれ ◆
<17> 識字・日本語教室とボランティア
1990年の「国際識字年」、2003年からの「国連識字の10年」を通じて、識字問題への社会の理解は広がってきています。しかし、まだ「途上国の問題で、日本には無縁」と考える人も少なくありません。
85年の政府答弁で、義務教育の未修了者は70万人と推定され、大阪府などの調査でも同和地区を中心に、読み書きの不自由な人がかなりいることが明らかになっています。識字は主に部落解放運動の中で取り組まれ、ここ十数年は急増した外国人労働者やその子どもたちが対象の「日本語教室」も各地に生まれました。
前者は文字、後者は会話を含めたことば全体がテーマですが、ともに教える側はほとんどがボランティア。学校の先生だけでなく、会社員や学生も多く参加し、教育内容をさらに高めようと、行政に働きかけて公立の「夜間中学」を目指すグループもあります。
関西は全国の夜間中学35校の半数が集中し、これらのグループの活動も盛んです。大阪市では90年以来、毎年夏に受講生とボランティアによる「よみかきこうりゅうかい」が開かれ、今年も700人が参加しました。「おおさか識字・日本語センター」は、大阪府内だけで教室が200を超え、5000人以上が学んでいるとしています。
(2007年12月25日 読売新聞)