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2002年1月5日のトップニュース

戦後世代が戦争を記録

「はるかなる南十字星」

元日本兵の支援得て

父の戦争体験を追う

 第二次大戦中、インドネシアに派兵された父の戦争体験の足跡を追ってジャカルタを訪れた娘が、ジャカルタ在住の元日本兵の温かい支援を得て、それぞれの戦争観をまとめた本を出版した。父の小西繁男さん(八一)と娘の小西晴子さん(四一)の共著「はるかなる南十字星」(新人物往来社)。父の戦争記録を重く受け止めた戦後世代の活発な娘が、半世紀前の戦争や歴史認識の違いを知ろうと試み、いまなお戦争に立ち向かう父への連帯のメッセージを込めた記録だ。 

 繁男さんは東京商科大学(現一橋大学)三年で開戦を迎え、卒業を目前にした一九四二年十月に学徒動員、四四年二月に南方軍に配属された。台湾、プノンペン、タイ、マレー半島を南下し、同年四月、ボゴールへ。最初の配属先は「郷土防衛義勇軍(ペタ)幹部教育隊」で、教官としてインドネシアの青年の軍事教育に当たった。その後アンボンの「特設陸上勤務第十二中隊」に配属。そして終戦を迎えた。
 戦後五十六年が経ち、繁男さんは戦争の持つ意味を以下のようにつづっている。
 「大東亜戦争を『侵略』と結論づけ、葬り去ることはたやすい。しかし、アジアの民族解放の事実は、大東亜戦争なくしては考えられないのは歴史の事実なのである。独立戦争や民族闘争を闘ったのは、各民族であるが、アジアにおける西洋帝国主義の存在を駆逐したのは、日本の行動が契機だった」
 「日本は、戦後五十六年たった今、自分の立場に依って立つ立場、そしてアジア諸国との関係において大きな曲がり角に立っているように思う。日本が行った行為の意味を直視することによって、戦争という大きな犠牲を未来に向かって生かさなければならないのである」
 晴子さんは東北大学法学部を卒業後、ニューヨークの大学院でPR、およびTV制作を専攻、現在は大手電機メーカーに勤めている。二〇〇〇年の春、「子や孫に伝えるため」と、父が五年の歳月をかけて書き溜めた二百字詰め原稿用紙にびっしりと詰まった戦争体験の記録を手渡された。
 子供のころ、「逃げろ、敵が来る」とうなされる父の姿で目を覚ましたこともあったという晴子さん。家の壁にはインドネシアから持ち帰ったヤシの実がぶら下げられ、父がアンボンで終戦を迎えたことは幾度となく聞いていた。
 しかし、「大東亜戦争によってアジアの民族意識が覚醒された面があったのは事実。日本の支配がなければ、オランダの植民地体制は継続されていただろう」という父の主張には、大きな疑問が残った。
 インドネシアの本を読み漁るうちに、インドネシアの複雑な民族国家としての苦悩が歴史に根ざしたものであることを知ると同時に、父の主張を自分の目で確かめたいという気持ちがどんどん膨らんでいった。晴子さんは、二〇〇〇年九月、「本当のところはどうだったのだろうか」とジャカルタを訪れた。
 まだ元気だった元日本兵の故乙戸昇さんをはじめ、元日本兵の宮原永治さん、伊丹秀夫さん、日本料理店「菊川」の菊池輝武さん、元郷土義勇防衛軍小隊長のスパディオ氏らに会い、それぞれが感じている戦争の功罪についてインタビュー。これまで教科書やメディアを通じてしか知らなかった戦争に対する考え方が大きく変わり、父の主張に対する疑問が、少しずつ解きほぐされていった。
 「旅の結果、私が実感しているのは、個人の行為と思いは、戦争という国家の行動の中に飲み込まれてしまうということである。最前線で戦闘に加わった日本兵、インドネシア人であればあるほど、戦争の傷を抱えて生きているという事実である」
 「個人の行為と思いは、決して歴史の中に消えてしまうべきものではない。それを知ることは、後の世代の義務でもあり、また、その思いと行為を知り、感じることから、自分のこころの形も明確になっていくように思われるのである」
 晴子さんは、父親の戦争観について、あえて結論を下していない。しかし、父から渡された膨大な戦争の記録を共著としてまとめる作業を通じ、年老いてなお戦争と向き合う父親の真摯な態度に一人の人間として共感し、日本軍の占領下で何が起きたのかを自分自身で検証しようと試みた。
 父の世代は、なぜ、アジアで戦わねばならなかったのか。日本人が関わった戦争の意味について問いかけ、時として自己を失いがちな戦後世代として、自らの戦争観を探り、父と子の記録として一冊の本を完成させた。
 晴子さんは「考え方、感じ方がまったくかみ合わない親子でしたが、一つのテーマをめぐって意見を交換でき、父との関係が非常に良いものになりました。意見や世代が違うからこそ話し合い、特に戦前と戦後に価値観の断絶があると思われる日本人にとって、敗戦を直視し、アイデンティティーを見直すことが、大切だと実感しています」と語った。



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