◆朝鮮戦争(上)
*◇「済州島悲劇」冷戦に遠因◇
米国の朝鮮現代史研究家のブルース・カミングスは、著書「朝鮮戦争の起源」で、「五〇年六月の本格的戦争の開始は、以前から進んでいた闘争の別の手段による継続に過ぎなかった」と指摘する。「朝鮮は、(強大国による覇権争いという)朝鮮民族自身の力では動かし難い外力の渦の中にあった」と、第二次大戦後の米ソ対決構図に戦争の遠因を求めている。日本の植民地から解放された朝鮮は、統一独立を願う国民の思いとは裏腹に国際社会の冷戦力学にのみ込まれて行く。
四八年四月三日未明、韓国の最南端の島、済州島で小銃と竹やりで武装した約二千人の若者たちが、山に上がったのろしを合図に、島内十一か所の警察支署を一斉に襲った。これが、一年以上にわたり警察・軍とゲリラ・島民が抗争を繰り広げ、島民三万人が虐殺されたとされる四・三済州島事件の幕開けだった。
韓国政府は、長年、「事件は北朝鮮の指令を受けた共産主義者らによる暴動」と規定し、軍・警察による住民虐殺の事実をやみに葬ってきた。
「発端に左派の扇動があったとしても、三十万の全島民を巻き込んだ事件の真相は、朝鮮半島を取り巻く当時の状況抜きには解明できない」。八九年以降、タブーとされた事件の真相発掘を続ける地元紙、「済民日報」の梁祚勲(ヤンジョフン)常務は語る。
四七年三月には米大統領のトルーマンが「トルーマン・ドクトリン」を発表し、対ソ連封じ込め政策を打ち出す。応じるようにソ連は九月、各国の共産党を組織し、コミンフォルムを発足させ冷戦の溝は深まっていった。十月、朝鮮独立への道筋を話し合う米ソ共同委員会は決裂。国連は四八年二月、「総選挙」を同年五月十日に設定したが、ソ連がこれに反対するや、米は「国連監視による可能な範囲での選挙実施」をねらい、事実上三八度線以南だけでの単独選挙の準備を進めていた。
総選挙が南北分断の永久化につながるとの反発が、住民のゲリラへの共感を高めていた。
解放後の南朝鮮地域(韓国)内での左派運動に詳しい金南植(キムナムシク)氏は、「朝鮮半島南部を反共の拠点とするための米軍政の焦りが、済州島での事態収拾を困難にした」と指摘する。
解放後の朝鮮では、全土で、自然発生的に臨時行政組織としての人民委員会が組織されたが、済州島では左派、南朝鮮労働党(南労党)が主導権を握った。そこへ、社会主義的な社会再編を嫌って北部地域から南に逃れた保守住民たちの「西北青年団」が、左翼対策として島に送り込まれ対立が激化していた。
四・三事件発生後、米軍政下にあった警察当局は、山間地に逃げ込んだ南労党のゲリラたちの討伐に乗り出すが、一般住民たちに対しても厳しい弾圧を開始する。夜間に村に下りて食料を調達するゲリラと住民を分断するため、山間地の住民を石垣で遮断した海岸部に強制移住させた。土地への執着から村にとどまる住民は「共産分子」として連行され、虐殺も行われた。十月には、済州島に派遣される軍部隊が島の対岸の麗水で反乱を起こし市内を占拠、反乱は隣の順天に飛び火する。
「総選挙を経て八月に発足した大韓民国の李承晩政権が事態収拾を焦り軍を動員、山間部集落で虐殺に走るのはこのころから。政権を固めるため早急なゲリラ掃討の必要があった」と梁常務は分析する。
「四・三事件民間人犠牲者遺族会」の朴(パク)会長(56)は、抗争が激化した同年十二月に父親を虐殺された。「山にはゲリラがいる。ふもとからは軍・警察が容赦なく攻撃する。島民たちは生きるために右往左往し、殺されていった」
済州島の悲劇は、二年後の朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)を予告していた。(地方部 宇恵 一郎)
[連合国の朝鮮戦後処理構想]
米英中の3国は43年のカイロ宣言で「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、しかるべき順序を経て朝鮮を自由かつ独立のものにする決意をもつ」と確認した。45年12月、モスクワでの米英ソ外相会議は中国を含む4国による朝鮮の信託統治を5年間を期限に実施することを決めたが朝鮮内で賛否両論を巻き起こした。
◆朝鮮戦争(中)
*◇統一へ“最後の一手”挫折◇
日本植民地からの解放後、北部朝鮮地域では、ソ連に後押しされた金日成(キムイルソン)を中心に、社会主義国家体制が着々と固められていったが、南部朝鮮地域では政治的混乱が続いた。米国から帰国した李承晩(イスンマン)、中国・重慶の亡命臨時政府から帰った金九(キムグ)が右派を二分、さらに朝鮮共産党の流れをくむ南朝鮮労働党(南労党)など左派勢力も非合法活動に追い込まれながらも大衆を組織、国論は分裂していた。
国連が四八年二月に打ち出した南朝鮮単独総選挙実施の方針は、混乱に拍車をかけた。
李承晩は「南の単独政権樹立もやむなし」との立場から国連の方針を歓迎したが、同じ右派でも金九は、「南北分断を永久化する」として反対に回り、中道派の金奎植(キムギュシク)も金九に同調した。
金九らの要請に金日成が応じる形で、統一政府樹立のための南北の要人、団体代表による南北指導者連席会議が四月十九日から平壌で開かれた。
「このままでは南北は分断される。北朝鮮が統一問題をどう考えているのか。聞くだけでもと、統一独立への最後の望みをかけた」。三均主義学生同盟の一員として会議に参加した趙萬済(チョマンジェ)氏は当時を振り返る。南朝鮮代表二百四十人は三八度線を越えた。
結局、会議は、南朝鮮単独選挙反対と米ソ両軍即時撤退などを決議したが、具体的な統一への道筋への合意は得られず同二十八日閉会した。
当時、平壌に駐在していたソ連軍民政司令官のニコライ・レベジェフ少将は、会議の経緯を詳細にメモに書き留めていた。メモによれば、ソ連の最大の関心事は南朝鮮の単独選挙の阻止にあった。
「金九が到着すれば問いたださねばならない。南で総選挙反対の署名運動をやっているというが事実なのか。だれが南の選挙を止められるのか。金九は南の人民たちの絶対的な信任を受けているのか」(四月八日メモ)
同じく単独選挙反対とはいえ、金九らが「国連監視下で全土で選挙を実施し、三八度線を撤廃すべきだ」との主張に対し、北側は、「国連監視を排除して米ソ両軍を撤退させ、民族が自主的に全朝鮮政治委員会を組織した後の選挙実施」を譲らず、合意点を見つけることは困難だった。
趙萬済氏によれば、一行は、会議の合間に、製鉄所、大学など、北の社会視察に連れ回された。孤児院では丸々と太った子供たちを見せられ、社会主義優位の宣伝も。
金日成競技場では初めてベールを脱いだ人民軍を動員した「歓迎式」という名の査閲に立ち会った。ある部隊長は壇上の金日成に向かって叫んだ。「民族反逆者の李承晩、金九打倒」
「南の右派を非難する従来のスローガンが思わず出たんでしょうが、金九を迎えていながら、これが歓迎の本質だった」(趙萬済氏)
一行は失意のうちに南に戻る。「平壌でわかったことは、北ではすでに人民委員会を中心に軍を含め社会主義国家体制ができあがっていることだった」と、趙萬済氏は当時感じた統一への絶望感を話す。
金九が率いる韓国独立党など連席会議に参加した諸政党は、残された道として五月十日の総選挙をボイコットする。選挙結果を受けて五月三十一日に発足した国会は、七月二十日、李承晩を大統領に選出。解放三周年の八月十五日、大韓民国は独立を宣言する。
一方、北朝鮮も八月二十五日に最高人民会議の総選挙を行い、九月八日に朝鮮民主主義人民共和国政府の成立を宣言。翌九日、金日成が首相に就任した。
「シカゴ・サン」の東京特派員だったマーク・ゲインは「南北の両地域にひとたび相対立する政権が樹立されれば、もはや内戦は避けがたい」(「ニッポン日記」)と四八年七月に予言している。(地方部 宇恵 一郎)
[米ソ両軍の朝鮮撤退]
1947年9月、米が朝鮮問題を国連に付託し、総選挙提案を行うと、ソ連は「米ソ両軍は撤退し問題を朝鮮人民の手にゆだねるべきだ」と主張。ソ連軍は48年末までに北朝鮮からの撤退を終えて米に圧力を加え、米軍も49年6月、約500人の軍事顧問団を残して韓国からの撤退を完了した。
◆朝鮮戦争(下)
*◇荒廃の末、残った分析◇
一九五〇年六月二十五日未明、三八度線の全戦線で砲声が響き渡った。北朝鮮軍は、ソ連製のT34戦車部隊を先頭になだれ込み三日で韓国の首都・ソウルを占領した。しかし、釜山を目前に、日本から急派された米第八軍主体の国連軍の抵抗に遭い、洛東江をはさんで戦線は膠着(こうちゃく)。九月十五日、米極東軍司令官マッカーサーの指揮による仁川上陸作戦で戦況は逆転、ソウルを奪還した国連軍は追撃戦に移った。
「尊敬するヨシフ・ビサリオノビッチ(スターリン)同志へ。敵は続けて北部朝鮮に対する攻撃を実施する模様」
九月二十九日、北朝鮮首相・金日成(キムイルソン)は、外相・朴憲永(パクホニョン)と連名で、モスクワのクレムリンに緊急の親書を送った。
「敵が三八度線以北に侵攻した場合、ソ連軍部隊の直接的出動が必要になる。もし不可能なら、中国その他の民主主義国家による国際義勇軍の組織、出動を援助願いたい」
九四年にロシア政府が韓国政府に伝達した朝鮮戦争関連の旧ソ連外交文書に、この親書も含まれていた。一連の文書は、北朝鮮軍侵攻による朝鮮統一工作が四九年初頭から金日成、スターリン、毛沢東の綿密な協議の上で進められたことを物語っている。
韓国政府が公開した同文書の要約によると、金日成は、朴憲永とともに四九年三月五日、モスクワを秘密訪問、スターリンとの会談に臨んだ。
「武力統一」を訴える金日成。スターリンは「攻撃は南の侵略を撃退する場合にのみ可能だ」とくぎを刺した。
韓国大統領の李承晩は当時、武力による北進統一論を唱え米国をてこずらせていた。スターリンは戦闘開始の口実を韓国軍の動きに求めていた。
同年五月、朝鮮人民軍政治局長・金一(キムイル)は北京で毛沢東と面談した(金日成から平壌駐在ソ連大使・スチコフへの報告、五月十四日)。毛沢東は「中国共産党が蒋介石の国民党を打ち破り、中国を完全支配するまで、決定的な動きを留保するように」と、北朝鮮軍の南進を「時期尚早」として思いとどまらせた。
九月には中国人民解放軍は国民党軍を台湾に追い落とし、十月一日、中華人民共和国の建国が宣言される。
「中国の統一が完了し、次は南朝鮮を解放する番だ」(五〇年一月十七日、金日成、在平壌ソ連大使館での発言)
一方、一月十二日、アチソン米国務長官は、ワシントンで「西太平洋における米国の防衛線はアリューシャン、日本、沖縄、フィリピンを結ぶ線である」と演説、台湾、韓国を防衛線からはずした。
朝鮮戦争を研究する作家の萩原遼氏は「こうした動きが中ソの決断に影響を与えた」と指摘する。
四月(日時不明)、モスクワで金日成と会談したスターリンは「国際環境は有利に変化している」として北朝鮮の武力統一路線に同意、「北朝鮮と中国が最終決定すべきだ」と、中国の決断にゆだねた。
五月十五日、毛沢東は、訪中した金日成に、軍事行動開始へのゴーサインを出す。そして付け加えた。「万一、米軍が参戦すれば、中国は兵力を派遣し北朝鮮を助けよう」
国連軍が中朝国境に迫った十月、林彪指揮下の中国人民解放軍十数万の精鋭大部隊が約束通り、鴨緑江をひそかに渡り北朝鮮に入る。戦争は国連軍と中国軍が激突する国際代理戦争に変容した。
「発端は、金日成の武力統一という短慮から始まった。そして冷戦構図の中で勢力図の変更を許さない米国と中ソの戦争となり、朝鮮半島の人々に国土の損傷と憎しみだけを残した」(萩原氏)
五三年七月二十七日、北朝鮮軍と中国軍、国連軍の間で休戦協定が結ばれた。膨大な犠牲を強いた戦いの末に画定された南北の分断ラインは、開戦前の北緯三八度線とほぼ変わらぬものだった。(地方部 宇恵一郎)
[朝鮮戦争の犠牲者数]
韓国政府は、3年間の争乱による民間人を含む死者、負傷者を約300万人と推計。このうち、韓国軍の被害だけでも、戦死13万7899人、米軍を中心とする国連軍は戦死5万7933人。民間人と北朝鮮、中国軍の死者数は不明で、戦後、家族が南北に生き別れになった離散家族は1000万人に上るとされる。
*◆日米衝突
*◇中国巡り覇権争い◇
「体験」から「歴史」へ、一次情報から知識へと変わりつつある日米間の戦争とは何だったのか。
◇
「これから少し歴史の話をしたいと思います。教科書にはあまり書かれていないことです」
米バージニア州の田園地帯に建つハーンドン中学校。
六月中旬、歴史科の特別授業の講師として教壇に立ったのは、地元に住む元日本軍捕虜、ジョージ・ダグラス・アイドレット氏(79)だ。三十六人の生徒を前に「死の行進」と呼ばれた一九四二年のフィリピン・バターン半島での徒歩護送の体験を語った。
日本人兵士に何度も殴られたことを話す一方、収容所で体調を気遣い、ビタミン剤をくれた日本人通訳がいたことも付け加えた。
十三〜十四歳の生徒からは時折ため息が漏れた。「歴史に少しでも現実味を感じてくれたと思う」と語る担任のドーレン・カンプ先生(27)も、もちろん日本との戦争のことは直接知らない。
二十一世紀を前に、米国は一九四六年生まれのクリントン大統領をはじめ、国民の約四分の三が戦後生まれとなった。日本人も約三分の二を戦後生まれが占める。
日米戦争には、まず太平洋をはさんだ新興勢力同士の覇権争いの面があった。新しい辺境を求めて西漸した米国は、ちょうど百年前の一八九八年、米西戦争でフィリピン、グアムなどを併合し、明確に「太平洋国家」への道を歩み始めた。
◇
米海軍大佐・アルフレッド・T・マハン(一八四〇〜一九一四年)が二十世紀を目前に「海上権力史論」(一八九〇年)で示したシー・パワー(海上権力)という考え方は、日本海軍にも大きな影響を与え、皮肉にもこうした共通認識が、日米衝突の一要因になったとの指摘もある。
さらにそこには、アジア、特に中国をめぐる対立があった。二十世紀初頭の日露戦争(一九〇四―五年)の後、少しずつ不協和音を奏で始めた日米関係は、第一次大戦後、一九二〇年代初頭のワシントン体制の協調時代をはさみながら、一九四一年の真珠湾攻撃の破局に突入する。
黒船の来航(一八五三年)以来の日米関係の歴史を、近著「ザ・クラッシュ(衝突)」で分析した米コーネル大のウォルター・ラフィーバー教授は、「戦争は、米国と日本との間でほぼ半世紀にわたって生成された問題が爆発したものだった。最も重大な対立点は、日米どちらが中国で主要な役割を果たすかだった」と語る。
マサチューセッツ工科大のジョン・ダワー教授は、「『太平洋戦争』という呼称自体、アジアという視点が欠落する意味で、問題を含んでいる」と指摘する。
「戦争は、大きく見れば、植民地主義国家同士の最後の大規模な闘争だった」
◇
この戦争で、アメリカ人にとって日本は「米国の現代史で米国の国土を攻撃した唯一の国」(有賀貞・独協大教授)となり、「唯一の被爆国」となった日本には、ヒロシマ、ナガサキという深い傷が残った。
「攻撃は報復を生み、長い目で見れば勝者はいない。二度と世界のどこにもヒロシマやナガサキが生まれないことを祈るのみだ」
陸海軍、海兵隊の三軍に所属した経験を持ち、大使時代から「二十一世紀は太平洋諸国の時代だ」が口癖だった、マイク・マンスフィールド元駐日大使(95)は、そう振り返る。
一方で、戦後、高度経済成長を果たした日本の米国との経済摩擦は、しばしば「貿易戦争」と呼ばれ、太平洋戦争とのアナロジー(類推)で語られる。また、九四年から九五年にかけてのスミソニアン航空宇宙博物館での原爆展や米郵便公社の「きのこ雲」切手をめぐる論争を通じ、戦後半世紀を経ても、太平洋戦争はまだ「歴史」になり切っていないとの指摘もある。
「注意すべきは、『歴史とは何か』より、人々が歴史をどう政治的に『使う』かだ」(ダワー教授)との命題は、日米両国に突き付けられた課題だ。
◇隔たり広がる戦争観◇
首都ワシントン郊外のアーリントン国立墓地に隣接した米海兵隊の「硫黄島記念碑」。一九四五年の硫黄島戦で有名になった、星条旗を立てる海兵隊員のシーンを再現した像の台座には、一七七五年の「革命戦争(独立戦争)」から、最近の「パナマ」(八九―九〇年)、「ソマリア」(九二〜九四年)まで、米国が経験した戦争の名前が金色の文字で刻まれていた。
「これだけの戦争があったとはね……」
六月の晴れた日曜日、イリノイ州シカゴから観光で来たジョン・ターシャ氏(38)は、地面に地図を描いて、歴史好きの長男アレックス君(10)に戦争の説明をしながら、改めてその数の多さに目をみはっていた。
「でも、『自由』が脅かされる時、真っ先に出て行かざるを得ない。そんな最もタフな兵士たちが海兵隊なんだと息子に教えている」
米国にとって「戦争」は単に「歴史」ではなく、現在との連続性のうえにある。
◇
「アメリカ人には第二次大戦以後、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争など次々に戦争があった。もちろんベトナム戦争など、まだ消化しきれていないものもあるが、そのベトナム戦争にしても三十年も前の話だ。第二次大戦や朝鮮戦争については、印象が薄くなってきているのが実情だ」と、国務省OBでコロンビア大学東アジア研究所のロバート・イマーマン上級研究員は語る。
多くのアメリカ人にとって、日本との戦争は「第二次世界大戦」の一部、半世紀前の戦争に過ぎない。
ダワー教授は言う。「第二次大戦は、多くのアメリカ人にとって、道徳的に『良い戦争』だったということになっている。なぜなら敵がヒトラーや軍国日本だったためだ。そして、ベトナム戦争は、単に勝てなかったからでなく、道徳的にあいまいな戦争だったから、『悪い戦争』だったと考えている」
「良い戦争」も「悪い戦争」も、戦争すべてを否定しようとする平和国家・日本と、なお「正義」の旗を掲げる唯一の軍事超大国・米国。戦後半世紀、敗者と勝者の意識は、その意味で、大きく隔たってしまった。
イマーマン氏は、「第二次大戦後すぐに冷戦が始まったが、日本は連合軍の占領下にあり、朝鮮戦争も『アメリカさんにお任せします』と言えた。日本は『安全毛布』にくるまれていた。日本におけるその後の日米安全保障条約をめぐる議論は、国際政治とはかけ離れた国内政治の問題だった。その意味で、戦後日本が初めて選択を迫られた戦争は九一年の湾岸戦争だった」と、語る。
ワシントンの事務所で、マンスフィールド元駐日大使は力を込めて語った。
「今世紀は戦争の世紀であると同時に、偉大な繁栄の世紀でもあった。第二次大戦後の半世紀は、世界的に見れば最も長く平和が続いた時代だ。そして、これは何度も、何度も、繰り返し言ってきたことだが、世界で最も重要な二国間関係は日米関係である」
「二十一世紀には、大きな経済力を持ち、核大国を志向する中国が台頭する。『中国に敵対するためのものではない』といくら説明しても、中国は日米安保条約に疑いの目を向けている。将来的には、米日中という三国間の安全保障体制を構築することも、アジア地域を安定させる方策の一つだ」
◇
明治以来の大陸政策を敗戦によって否定された戦後の日本は、長く続いた極東の冷戦構造の中で、真の意味での対中政策、対アジア政策を築くことが出来なかった。戦場となった中国、アジア諸国の人々は、まだ戦争の清算は終わっていないと主張している。
連載では、新たな世紀の日本のために、今世紀、日本が戦った「アジアの戦争」を問い直す。(政治部・西岡 努)
[マハン理論]
国家の発展に向け海の支配力や海上貿易の重要性に着目した「シー・パワー」の考え方は、米国の海軍拡張、太平洋進出の理論的支柱をなした。日本でも日本海海戦で参謀を務めた秋山真之らを通じ、海軍史の中に大きな位置を占めた。
*◆日本の誤算
*◇名ばかりの民族協和◇
中国東北地方、吉林省の省都長春。「満州国」時代には新京と呼ばれた。駅から南にまっすぐ延びる人民大街を十キロほど下ると、楊柳の緑がまぶしい歓喜嶺が広がる。今は長春大学の新キャンパスが建つこの丘に、一九三八年、関東軍と「満州国」政府は、文科系の最高学府、満州建国大学を設立した。
建学精神に「民族協和」を掲げ、日本、中国、朝鮮、モンゴル、白系ロシアの優秀な学生を募集、将来の「満州国」の指導者を養成するのを目的とした。全寮制・授業料免除など軍関係の学校並みの好条件で、一学年の定員百五十人に二万人以上の応募が殺到した。
「民族協和は民族平等が原則。日本から派遣されて来る官吏のように一段高いところにいてはダメだと思った。頭から優越意識をぬぐい去り、すばらしい国づくりにわが生涯をかけようと、燃えていました」と、一期生の斉藤精一さん(76)は振り返る。
◇
「五族協和」は、三二年三月に建国された「満州国」の建国理念でもあった。しかし、大学から一歩外へ出ると厳しい現実があった。
食糧の配給差別はあからさまだった。日本人には白米、中国人にはコウリャン、朝鮮人には白米とコウリャンが半々配られる。中国人らが白米を口にするのは禁じられた。
「学生が話し合って食事は全員平等の待遇にしたのですが、外の食堂に行くと、中国や朝鮮の友人は白いご飯が食べられない。これが民族協和の理想と現実なのかと、腹が立った」と、七期の水口春喜さん(71)。
やはり七期の中国人、吉林市在住の元中学教師、李鴻儒さん(71)は言う。「食事の前後には必ず天照大神への賛歌を唱えた。日本人は、自らの文化や習慣に他民族を同化させることしか考えていなかった」
◇
近代日本のアジア観を考える時、欧州のアジア観抜きには語れない。
欧州の繁栄がアジア、中国との貿易に依存していた段階では、中国は異質であっても侮蔑(ぶべつ)の対象ではなかった。十八世紀フランスなどで、「中国賛仰(シノワズリー)」が流布したことがいい例だ。
ところが、産業革命の進展でアジアとの生産力格差が開き、中国でのアヘン戦争の勝利(一八四二年)などを経て評価は一転する。アジアは「未開で野蛮で停滞した社会」となり、文明化の使命を持った西欧人がアジアを植民地として領有することは「白人の責務」として正当化されていった。
「脱亜入欧」のかけ声の下、西欧的近代化を推し進めていた日本は、アジアに対するこうした見方をいやおうなく取り込んでいく。
「満州事変に始まる戦争で、アジア社会停滞論の最も強烈な信奉者は日本の指導者だった」と、京大の山室信一教授は言う。日本は、アジアに位置しながらも、西欧文明をいち早く摂取して欧米と対抗できる力をつけた。その意味で「アジア的な(遅れた)存在」とは異なり、「アジアの盟主」になりうるという、屈折した議論が展開されていく、との指摘である。
かつて徳富蘇峰が唱えた「日本人によりて亜細亜(アジア)を処理する」というアジア・モンロー主義的考え方は、第一次大戦後の対米英協調外交で影を潜めていたが、満州事変を機に復活する。三二年九月発行の陸軍省調査班のパンフレットは、「満州国」の承認を「欧米追随外交、委縮退嬰(たいえい)外交の思想を精算排撃して、自主独往外交への躍進である」と意義づけた。この考え方は、四二年一月、東条英機首相の帝国議会演説「大東亜共栄圏建設の根本方針」で、より具現化される。
◇
建国大学で学生たちが青春の夢をかけた「民族協和」の試みは、敗戦とともにはかなく消えた。戦後、斉藤さんは商社マンに、水口さんは日本共産党中央委員に。異なる道を歩んだ二人だが、「建大で実践したことは未来への教訓になるはずだ」と口をそろえる。
社会としての統合を保ちながら、異なる民族の異なる文化を受け止められる寛容さをいかに持ちうるか。それは、二十一世紀の課題でもある。
◇反感招いた優越意識◇
「中国から来たと言っただけで、日本人は見下す目をした。仕事場でも、中国人は働くのが嫌いなんだろうと、何度も聞かれた」
中国黒竜江省の省都ハルビンから東へ車で四時間ほどの方正県で、吉田英行(中国名・芦永徳)さん(61)は、静かな怒りを込めて語り始めた。
父は長崎県の神社の神主だった。一九四一年、同省通河に赴任が決まり、家族四人で移った。終戦の時は八歳。父は前年に爆殺死、母と弟は方正県の収容所で病死し、一人残されたところを中国人養父母に引き取られた。「残留孤児」である。
四五年八月九日午前零時。松花江沿岸は雷雨に見舞われた。参戦と同時にソ連軍は「満州国」へ侵攻を開始、日本人開拓団が襲撃された。危機を逃れて難民収容所にたどり着いても、今度は飢えと病気が襲ってきた。生と死が薄皮一枚で隔てられた状況で、多くの人が吉田さんと同じ運命をたどった。中国側資料によると、方正県には終戦直後一万三千人の日本人女性と子供がいたが、翌四六年二月までに五千人が亡くなった。
吉田さんは日中国交正常化後十数年かかって親類を捜し出し、八七年初めて故国の地を踏んだ。が、五年で中国にUターンした。
「私は日本人。けれど故国の人は冷たく、私の居場所はなかった」。近年故国に絶望して中国に戻る人が、「孤児」や二世の中にぽつりぽつり出始めている。
◇
黒竜江省のある村で、日本に留学した中国人男性(29)が怒っていた。
「日本人は自分はアジアでは別格と思っている。だから、中国人を戦争の時みたいに『チャンコロ』なんて呼ぶんです。欧米人に蔑称(べっしょう)を使うこと、ありますか?」
日本がアジアから留学生を受け入れたのは、一八九六年にさかのぼる。日清戦争に敗れ、国民国家形成の必要性を痛感した清朝政府はそのモデルを日本に求め、多くの官費留学生を送り込んだ。二十年ほどの間にその数、十万人余。中国だけでなく、朝鮮、ベトナムからも受け入れている。
ところが、日本での差別から嫌日の感情を抱いて帰国した人もいるし、植民地支配や「満州国」の傀儡(かいらい)政権に留日経験者が登用されたものの、敗戦と同時に切り捨てられた例も少なくない。いまアジアの留学生は九五年をピークに激減。日本への関心は急速に薄れているのが現状だ。
残留孤児にしても留学生にしても、日本は、国や民族を超えて「懸け橋」となるべき人材をこうして失ってきたのである。
◇
日本は、日清・日露戦争以降、国力が増大するとともに、アジアでの影響力を強め、ついに「アジア人のためのアジアの構築」という理念を掲げて、「野蛮なアジアの開化」に力を注ぐ欧米先進国と真っ向から対決することになる。もちろん、だからといって、その際日本が欧米型の植民地主義を対決方法として選んだことが許されるわけではない。
「日本は、文化・地理的にアジアの一員でありながら、日本以外の他のアジアに対して常に距離を保ってかかわることを運命づけられた孤独な国だった」。大阪国際大学の岡本幸治教授の指摘である。
日本人がアジアを見る目は、いまだに太平洋の両岸で振り子のように揺れている。戦後半世紀は圧倒的に米国寄り。だが、米国との経済摩擦が激化し、さらには対日批判が強まると、ムードはアジアにシフトする。九〇年代には「欧米流の直接対決よりアジア的な合意による意思決定の仕方を見直すべきだ」といった論調まで登場する。そして、「アジア経済危機」の時代。日本は自分の身をどこに置いていいのかわからなくなっているようにもみえる。
「アジアの日本」が、「アジアと日本」とどうかかわっていくのか。欧米の描いてきたアジア像を超えて、日本独自の新しいアジア観を示していくことが求められている。(生活情報部 永峰 好美)
【建国大学】
関東軍参謀の石原莞爾、京都帝国大学教授の作田荘一らがかかわり、「満州国」国務総理の直轄学校として設立された。6年制で、卒業後に政府機関などへの服務義務があり、45年の閉学までに約1400人が在籍した。
*◆軍縮会議(上)
*◇「対米7割」海軍の執念
「米国との戦争がきょうから始まった……」。第一次大戦後、米国の提唱で開かれたワシントン会議で、米・英・日の三大海軍国は、海軍軍縮をめぐり、「五・五・三」の主力艦比率と十年間の主力艦建造禁止でまとまった。
仮協定が結ばれた一九二一年十二月十五日夜、日本海軍の首席随員・加藤寛治(ひろはる)中将(後に軍令部長)は宿舎で、悔し涙を浮かべて、どなり散らしたという。「対米七割」が日本案であり、海軍にとっては至上命題だった。加藤の口からは「報復」という言葉も飛び出した。
ワシントン会議は軍縮のほか、中国の領土保全・門戸開放・機会均等と日英同盟破棄による東アジアの「新秩序」構築で、合意に達した。山東省の権益返還など、日本が大戦中に目指した中国での独占的地位を葬り去る結果ともなった。
加藤の言葉はあまりにも刺激的だが、ワシントン会議は、協調ムードとは裏腹に、危うさが潜んでいた。後に日本国内に「屈辱外交」という批判も呼ぶ。
しかし、軍縮をテコに財政破綻(はたん)の危機克服を目指し、「対英米協調路線」をとる原敬内閣の決断で、ゴールにたどりついた。軍縮機運の世論も追い風となった。決断を軍縮交渉で実らせたのは、海軍大臣の加藤友三郎首席全権(大将)だった。
会議冒頭、ヒューズ米国務長官が示した「五・五・三」は、米国がはじきだした「現有勢力」に沿ったものだったが、「どうしても主義として反対することはできない」と決めた加藤友三郎は、米国との交渉に臨みながら、「もう一人の加藤」ら強硬派との調整にあたった。二人はたびたび衝突したが、全権が押し切った。
二人の衝突は、「国防は軍人の専有物にあらず」と、国力を判断して「対米不戦」の立場をとる友三郎と、「持たざる国は平時から強大な兵力が必要」とする寛治の戦争観の相違から生まれたものだった。
このギャップが、海軍内部に「条約派」と「艦隊派」の対立を生んでいく。
池田清・青山学院大教授は、「七割論」について「日露戦争で、『東洋の奇跡』といわれた日本海海戦の勝利に縛られ、総力戦としての第一次大戦を学びきれなかった象徴」とみる。「七割」は日本近海での艦隊決戦主義に基づき、一九〇七年ごろ導き出されていた。同じ年に制定された「帝国国防方針」で、海軍が軍備標準国の意味で米国を「仮想敵国」とし、「七割」と「対米」が結びつく。
米海軍兵学校によると、同じころ米国でもフィスケ理論という戦術理論があり、予測できた数字だった。日米海軍の共通認識だったことから、「七割」の合理性は戦術上、否定できなかった。加藤友三郎も「帝国国防方針」に沿う「八八艦隊」の創設者で、「七割」の推進者だった。
しかし、この数字は「二人ゲーム」の理論からはじき出されている。このため、三国間で行われた交渉で、「七割」絶対論は、国家戦略に結びつく海軍戦略を、局地戦術のレベルにとどめることだった。それを避けて、加藤友三郎は、日米英が太平洋に持つ小笠原諸島、香港、フィリピンなど貿易・海軍の根拠地に関する「防備制限」交渉で、新基地を建設しないという条件でまとめた。この結果、日米ともに太平洋横断作戦は至難となった。
ところが、「対米七割」は、海軍内部で「執念」としてくすぶり、危うさは現実味を帯びていく。
池田教授によれば、ワシントン条約の主力艦比率は、米国戦略のバックボーンである「マハン戦略」に照らすと、貿易を支える海軍力で、トップの座にあった英国を追い落とし、「中国貿易で主導権を奪い、覇権を獲得するという米国の意思が現れた勢力比」ともいえるからだ。(社会部 五味 稔典)
[軍縮の財政効果]
1921年度の日本の予算は約14億円で、海軍軍事費は、うち26.2%。ワシントン条約締結後10年間の海軍軍事費は14.8〜18.1%。艦艇建造費と維持費の削減だけで、年間約4億円が節減されたという大蔵省の計算もある。
*◆軍縮会議(下)
*◇「補助艦」も屈服、不満爆発◇
「早晩帝国と衝突を惹起(じゃっき)すべきは必至の勢いにして、我が国防上最重要視すべきものなり」
ワシントン軍縮条約が調印されてからほぼ一年後の一九二三年二月、「帝国国防方針」が改定され、日本は米国を文字通りの「仮想敵国」のトップに据えた。「国際協調」を基調にしながらも、「対米不戦」の原則を否定し、将来の戦争は「アジア大陸をめぐる経済戦」とも予測していた。
麻田貞雄・同志社大教授は「日米戦争宿命論が貫く方針で、軍縮の生み出した最大の皮肉」と話す。
当時の首相は、「対米不戦」の加藤友三郎で、海軍大臣も兼ねていた。しかし、「帝国国防方針」には加藤寛治・海軍軍令部次長ら「艦隊派」の意見が反映したようだ。改定作業は、軍令部が積極的に加わり、陸軍(参謀本部)と協定を結んだ後、加藤首相の「同意」を取り付けるという経過をたどった。友三郎は半年後にこの世を去った。
この改定に歩調を合わせて、建艦競争が激化する。ワシントン会議は、補助艦の削減についてはまとまらず、抜け道として残っていた。その結果、二七年には日本の補助艦の対米比率は「七割」を超えた。軍縮は「海軍の休日」をもたらすはずだったが、「かえって軍備を精鋭化させ、日米海軍の敵対意識に拍車をかける結果となった」(池田清・青山学院大教授)。もうひとつの「皮肉」とも言える。
しかも、この時期になると、「日米双方で太平洋戦略の構想が具体性を帯びてきた」と麻田教授は指摘する。日本の「用兵綱領」改定であり、米国の「統合オレンジ計画」策定だった。太平洋をはさんだ「ミラー・イメージ」(鏡像)がくっきり浮かんだ。
盲点となっていた補助艦制限については、二七年にジュネーブ会議が開かれたが、決裂した。三〇年に舞台はロンドンに移り、「対米七割」が再び焦点となる。日本海軍の「三大原則」は、総括比率七割、大型巡洋艦比率七割、潜水艦の自主所要量だった。
金融恐慌を経て、緊縮財政と対英米協調を掲げた浜口雄幸首相にとり、軍縮は政策実現の支えだった。ワシントン会議当時と同じ判断といえた。浜口首相は、加藤友三郎と軍縮観で共通していた若槻礼次郎を全権に立てて、条約調印を決断した。総括比率は0・25%の不足にとどまったが、残る二原則の妥協案は、「条約派」のテクノクラートにとっても容認できない内容に映った。
調印後間もなく、海軍は「この条約は国防の危機を含むものとするが故に、あくまで永続せしめてはならぬ」という方針を決めて明文化した。「ロンドン軍縮条約は、すでに成立の時点で、短命に終わる宿命にあったといえる」(麻田教授)。その三年後の大角岑生(おおすみみねお)海軍大臣による「条約派」の粛清人事も、無条約時代へかじを切らせた。
この間、満州事変発生で、日米関係が「緊張のひとつのピーク」(池田教授)を迎え、国際連盟脱退をきっかけに軍備平等権を求める流れが海軍の大勢となった。
海軍の強硬方針を受け入れ、日本は三六年、軍縮体制を脱退。脱退後には超ド級戦艦「大和」の建造を含む補充計画が成立した。
麻田教授によれば、日本海軍に関するかぎり、ロンドン軍縮会議はワシントン軍縮体制への反発を一挙に爆発させ、対米英戦争の決意まで連なる連鎖が内包していた。
確かに「七割の執念」は日米開戦まで消え去ることはなかった。軍令部が早期開戦を有利とした根拠は、石油の確保が大きな位置を占めたが、艦隊兵力比率で、四一年に「対米七割」のピークを迎えるという計算もあったのだ。(社会部 五味 稔典)
[仮想敵国]
「帝国国防方針」で定めた。1907年は、日露戦争の復しゅうを懸念した陸軍がロシアを仮想敵国に、海軍が予算獲得の面から「軍備標準国」として米国をトップにし、次いでドイツ、フランスだった。18年の第1次改定では、ロシア、米国、中国の順になり、23年の第2次改定の結果、米国、中国、ロシアと順位が逆転した。
*◆米中接近(上)
*◇日本を警戒、連携深める◇
アメリカの哲学者ジョン・デューイは一九一九年、五・四運動のさなかに中国を訪問、その印象を、次のように記している。
「中国ほど学生が新しい思考様式に関心を寄せている国はない」
「保守思想も、知的で思慮深く因習に縛られていない。中国人は日本人よりはるかに大きな変化を遂げるであろう」
デューイはその直前、日本にも立ち寄ったが、日本では西欧的な政治運動とされている大正デモクラシーですら、西洋からの借り物のように見えたという。デューイは、民族の自立を求める世論のうねりが政府を揺さぶった五・四運動の方に、深い精神的共感を寄せたのであった。
文明への畏敬(いけい)、民衆運動への共感のほかに、当時、中国には約二千五百人の米国人宣教師が活動、日欧の経済支配下に置かれた中国人に同情を寄せていた。当時のウィルソン米大統領ら理想主義的政治家から、「米国は弱い中国を助けるべきだ」との主張も起こっていた。
米中接近策には外交上の理由もあった。「中国の近代化を米国の手で進めたいとの考えが根底にあったと思う。中国が日本のように(急速な富国強兵をめざす)プロシャ型の表面的な近代化を進め、アジアに日中の一大ブロックが形成されれば、西洋文明への脅威になると考えられた。また、ソ連に対抗する意味でも、米国は中国と緊密な関係を結ぶ必要があった」。入江昭・ハーバード大教授は、このように分析する。
米国は二〇年代後半、中国の関税自主権をいち早く認め、また南京の国民党政権を最初に承認。中国側も、日本の対抗勢力として米国に期待を寄せた。
一方、米国の対日政策の重点は、二一〜二二年のワシントン会議が象徴するように、日本を国際協調体制の枠組みに取り込むことにあった。
「この百年の歴史を振り返れば、一時期(三〇〜四五年)を除き、米国は親中であるよりも、はるかに親日であった」。こう語り、文化面より経済面を重視して日米中関係を分析するのは、米コーネル大学のウォルター・ラフィーバー教授である。
一九年当時、米国の対日輸出額は、三億六千六百万ドルで、対中国輸出額の一億六百万ドルの三倍に達していた。
中国への経済進出をめぐっては、一八九九年の門戸開放宣言を基本とする米国と、満蒙を中心とした既得権益を強調する日本の間に立場のずれはあったが、ワシントン体制では、主要国は、中国の領土保全を前提に列強の一定の権益を認め、そこでの通商上の機会均等を図ることで合意した。
米国の実業界は、宣教師らの情熱とは逆に、政治システムが安定している日本に対する期待が強かった。関東大震災の復興でも、対日投資は積極的に行われ、日本の満州での鉄道建設でさえ、一部は米国資本に支えられていた。
「ワシントン体制は、ニューヨークと東京の密接な経済関係の上に成立していた。世界大恐慌で、米国資本が力を失うと、経済的側面が後退し、文化の相違が日米関係の前面に現れ、日米関係は暗転した」(ラフィーバー教授)
大恐慌後の満州事変をきっかけに、日本は対米協調を放棄。日中の間に揺れていたアメリカ外交も、中国支援に大きく傾斜して行くのである。
最近のクリントン大統領の訪中では米中友好が改めて注目されたが、三〇年代の経験は、今日の日米中関係にも微妙な影を落としている。(文化部 天日 隆彦)
【五・四運動】
1919年、第1次大戦の戦後処理を行うパリ講和会議で、山東半島でのドイツ権益の日本譲渡などが合意されたため、5月4日、北京で学生ら数千人が抗議のデモ行進、その後、抗日運動は全国に拡大した。反日世論の高まりを受け、中国政府はベルサイユ条約調印を拒否、親日派政府高官3人も罷免された。
*◆米中接近(下)
*◇米の選択に内部批判も◇
一九二五年、アメリカの新駐中国公使ジョン・アントワープ・マクマリーが北京に着任した。この年、上海の五・三〇事件を契機に労働者のストライキが全国に広がるなど、中国国内は反帝国主義の機運が高まりを見せていた。
「父が北京郊外をロバに乗って散策していたのを思い出します。儒教や仏教に関心が深く、週末には山の寺院をよく訪ねていました」。現在ボストン美術館の作品解説員を務めるマクマリーの二女、ロウェス・スターキーさん(75)は、当時を懐かしく振り返る。
マクマリーは、二一―二二年のワシントン会議で活躍したキャリア外交官で、米国最高の中国専門家と評されていた。しかし、二五―二九年の北京公使在任中、対中国政策をめぐってケロッグ国務長官ら国務省主流と対立した。
マクマリーの基本的立場は三五年、国務省に提出した覚書に示されている。
国際協調路線の下、中国の権利回復を漸進的にはかって行くのがワシントン体制だったが、中国政府は、ワシントン体制を支える細部の取り決めを半ば無視する形で、中国の不利な立場を直ちに改めるよう、国際的な場ではなく、各国政府に個別に働きかけた。米国は、これに一定の理解と支持を示したため、ワシントン体制の崩壊、満州事変以降の日本の暴走を招いた――。
覚書は、中国の性急さと、それを助長した米国の姿勢を批判している。
この主張は、中国ナショナリズムに同情的な米国世論と大きくかけ離れたもので、米国務省極東部長のホーンベックも、これを黙殺した。マクマリーは、新しい中国のナショナリズムに無理解な反動的外交官と見なされたのだった。
この覚書は、第二次大戦後、米国務省きっての論客ジョージ・ケナンが外交文書の中から発見、そこに示されたソ連に関する予見の鋭さを名著「アメリカ外交50年」で再評価するまで、歴史から葬り去られていた。
マクマリーの評伝「平和はいかに失われたか」の著者、アーサー・ウォルドロン米ペンシルベニア大教授は「彼は反動と誤解されがちだが、ウィルソン大統領に代表される理想主義を信条としていた。不平等条約が、平和裏に秩序正しく廃止されることを主張していたのです」と語る。
「父は蒋介石を、機会主義者として批判的に見ていたのは確かです。しかし、日本と中国を常に公平に見ようと努めていました。戦後は、蒋介石の国民党よりも共産党の方が信用できるとも語っていました」(スターキーさん)
ただ、マクマリーが主張するように、ワシントン体制が維持されていれば、日中衝突は回避されていたかについては議論のあるところだ。ウォルドロン教授も「(ワシントン体制下で)中国が日本の満州での特殊地位を崩すため外交攻勢に出た場合、日本は結局単独行動をとった可能性もある」と指摘する。しかし、ワシントン体制の枠組みが、日本の親英米派の支えとなっていたことは間違いない。
今世紀に入って世界の強国になった日本は、十九世紀までに欧州諸国が世界各地に植民地を広げたのと同じように、中国で利権を確保できると信じていた。しかし、二十世紀は、そのような外国支配の歴史に終止符を打つプロセスが始まった時代でもあった。マクマリーは、時代の変動を平和的に進める枠組みとしてワシントン体制に賭(か)けた。各国の利害がモザイクのように複雑に絡み合ったワシントン体制の崩壊は、国際政治システム転換期の困難を、歴史の教訓として今日に伝えている。(文化部 天日 隆彦)
[ワシントン体制]
1921〜22年、米国の主唱で9か国が参加したワシントン会議の結果、海軍軍縮5か国条約、4か国条約、9か国条約の3条約が調印され、第1次大戦後の東アジア・太平洋地域の新秩序が確立した。中国の主権尊重、領土保全、機会均等、門戸開放などが盛り込まれ、日英同盟は廃棄された。
*◆海軍と開戦(上)
*◇中堅将校、強硬な主戦論◇
中国大陸での陸軍の「独断専行」による戦線拡大が、英米の反発を招き、日米戦争へ――こうした経緯から、「海軍は日米開戦に反対したが、陸軍が戦争に引きずり込んだ」との認識が定着している。しかし、海軍内部にも対英米主戦論を唱える勢力は存在した。
「ドイツの復興はめざましく、領土回復のため実力をもって立ち上がる。その時こそ、日本が(英米ソ中オランダの)包囲網を破る好機である」
開戦の五年前、石川信吾(終戦時、海軍少将)は欧州出張の報告書で「ドイツに続いて日本も参戦すべし」との持論を展開した。石川は、四〇年に、戦争指導、対外政策を担当する海軍省軍務局第二課長に就任、海軍の政策決定にかかわるようになる。
日米開戦直前、海軍内部の主戦論者は、石川だけではなかった。石川と同年代(四十歳代)の中佐、大佐クラスには、反英米、親独感情を持つ者が多かったという。
理由は二つある。一つはワシントン、ロンドン両軍縮会議以来の反英米感情だ。一部海軍将校にとって、両会議での海軍兵力の削減は、「極東侵攻を狙う米国による押しつけ」と映った。
もう一つは、海軍士官の留学、駐在先の中心が、三〇年代に入り従来の英国からドイツに移った点だ。第一次大戦後、潜水艦などで軍事技術先進国となったドイツへの海軍の関心が高まったことなどが、その背景にある。発展期のナチス政権は、士官たちにとって強大な政治指導者のもとに一致団結した国家に映った。
主戦派の中心となった石川は、軍令部参謀時代、内閣書記官長(現在の官房長官に当たる)に直談判して追加予算を獲得して「政治軍人」として名をあげた人物。
四〇年当時、日本は、中国大陸からの撤退か、南方進出かの選択を迫られていた。石川は、中国大陸からの撤退は英米への屈従として断固反対の立場をとっていた。
この時の米内、近衛両内閣は、軍撤退も南方進出もせず国際情勢の変化を待つ姿勢だった。「現在からみれば、この方針が最善だったかもしれない。しかし、石川らには、これは主体性のない無為無策にしか見えなかった」と秦郁彦・日大教授は指摘する。
石川らの働きかけで、海軍内に対米開戦や南方進出などを検討する国防政策委員会が新設された。委員会は四一年六月、「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度」との文書をまとめた。
この文書では、国力、国際情勢を考慮しても対英米戦争は可能だとし、威勢のよい文言が並ぶ。
「海軍ハ皇国安危ノ重大時局ニ際シ…直ニ戦争(対米ヲ含ム)決意ヲ明定シ強気ヲ以テ諸般ノ対策ニ望ムヲ要ス」
こうした主戦派の影響力については、現在でも専門家の間で議論が続いている。
公刊戦史である「戦史叢書海軍開戦経緯」の執筆者・内田一臣・元海上自衛隊幕僚長は「石川の一連の発言は、幕僚は何をいってもよい、という海軍の伝統に沿ったもので、全体への決定にとっては重要ではなく参考資料程度」と説明する。
しかし、その影響力を示す史料もある。沢本頼雄・海軍次官の日記(四一年七月七日付)には、天皇の言葉として、こう書かれている。
「永野ハ、仏印出兵ハ始メ反対ナリシモ部下ノ言ニヨリ決心セルヤ」
永野とは、海軍の作戦担当最高責任者である永野修身(おさみ)・軍令部総長であり、部下とは、石川だとの説が有力だ。
沢本日記には、保科善四郎・海軍省兵備局長の石川評もある。「偏シタル人ヲ要職ニオクハ大事ヲ誤ルオソレアリ」(編成部・今井洋)
[海軍軍務局]
海軍の全体的な方針決定を担当した海軍省の機関。1940年11月、海軍省の組織が改編され、軍務局第二課が新設され、石川が初代の課長となった。国防政策を担当した第二課は、陸軍省の軍務局軍務課に相当するもので、陸軍の政策に引きずられることのない自主的な政策の立案を期待された。
*◆海軍と開戦(下)
*◇省益が「ジリ貧論」後押し◇
海軍内の主戦論を後押ししたのが、「じり貧論」だった。 一九四一年七月、日本が南部仏印(ベトナム)進駐を実施、これに対し米国は制裁として、在米日本資産の凍結、さらに日本への石油禁輸を決めた。
軍艦は停泊していても、発電などで石油を消費する。海軍全体の石油消費量は、一日約一万トンともいわれた。
四一年八月一日現在の日本全体の石油備蓄量は九百七十万トン。当時の年間消費量は民需も含め五百四十万トン。残りの石油をすべて海軍のために使っても一年半で使い切ってしまう計算だ。石油禁輸をきっかけに「座して死を待つより打って出るべし」との意見が強まる。これが、「じり貧論」だ。
だが、海軍省首脳は、それでも開戦に関してはまだ消極的だった。
「ジリ貧トイフモ、是ノミニテ万事ヲ決スベキニ非ズ」(米内光政元首相、元海相の発言、沢本頼雄海軍次官の四一年十月七日付日記より)。米国との国力の差を考えると、消耗戦、総力戦になれば、国力に劣る日本に勝ち目はないと冷静に判断していた。
三輪宗弘・九州共立大講師によると、四一年十月まで海相を務めた及川古志郎も、対米戦回避のため、石炭による人造石油実用化に取り組んでいた。「及川は、人造石油で当面の危機を乗り切り、その間に日米交渉の妥結を期待した。戦争については消極的な意見を述べ続けた。この粘りは評価すべき努力だった」という。
だが、人造石油計画はうまく進まず、対米英戦回避派は、海軍内でも徐々に少数派になっていく。「じり貧論を主張する者にとっては、開戦の時期が遅くなればなるほど日本に不利になる。(一部強硬派だけでなく)作戦担当の軍令部、実戦部隊の連合艦隊も早期開戦に傾き出した」(三輪講師)
回避派が主流だった海軍省にしても、最後は開戦に同意した。その要因のひとつが、「省益」擁護だった。
軍艦を建造し、大量の重油を消費する海軍は多額の予算が必要になる。三九年度軍備充実計画では、戦艦一隻の建造に約一億三千万円がかかるとされた。四一年度の国家予算は約八十億円で、その二割に当たる約十五億五千万円を海軍予算が占めていた。
「仮想敵国は米国」を理由に軍備を拡充してきた海軍は、「米国と戦ったら勝てない」と言いにくい状況があった。また、陸軍から「海軍は無用の長物」と非難され、予算獲得が困難になりはしないかとの懸念も省内に強まってきた。
四一年十月三十日、嶋田繁太郎海相は、開戦の決意を沢本頼雄海軍次官に披露する。その理由は「数日来ノ空気ヨリ総合シテ考フルニ、(開戦という)大勢ハ容易ニ挽回スベクモ非ズ。無理ニ下手ナコトヲヤレバ却ツテ大害ヲナスニ至ルベシ」(沢本日記)だった。
戦後、東京裁判でA級戦犯で起訴された二十八人のうち、陸軍関係者は東条英機をはじめ計十五人にのぼっているのに、海軍関係者は、開戦時の海相・嶋田繁太郎、軍務局長・岡敬純(たかずみ)、軍令部総長・永野修身(おさみ)の三人だけだった。開戦は陸軍に引きずられた結果とする海軍の主張は、連合国側にそれなりに認められたといっていい。
ただ、三輪講師はこう指摘する。
「積極的に開戦を主張した海軍中堅将校の責任は重い。しかし、戦争回避の努力をしながら、結局、『どうせ戦争になる』とあきらめて、なし崩し的に開戦に向かった海軍省、軍令部、連合艦隊も、責任がないとはいえない」(編成部・今井洋)
[海軍省と軍令部]
海軍の組織は、軍事行政担当の海軍省と作戦担当の軍令部の二本柱からなる。それぞれの長は海軍大臣と軍令部総長。海軍では伝統的に海軍省の権限が大きかったが、ロンドン軍縮条約締結時の統帥権干犯問題以降、兵力決定に軍令部総長の同意が必要とされるなど軍令部の権限が強まっていった。
*◆開戦決定
*◇軍の官僚化迷走に拍車◇
「今ヤ自存自衛ノ為蹶(ためけつ)然起ツテ一切ノ障礙(がい)ヲ破砕スルノ外ナキナリ」
一九四一年十二月六日、軍と政府の協議機関である大本営政府連絡会議が採択した宣戦詔書案は、開戦に向けた悲壮な決意を示していた。弱い方から強い方に戦争を仕掛けるという意味で、日本は「歴史上あまり例のない」(伊藤隆・政策研究大学院大教授)戦いに突入した。
ただ、その開戦という国家の重要意思決定に至る道は、開戦か和平かをめぐる攻防を軸に、近衛首相ら政府、陸海軍、外務省などの各機関の思惑や利害が交錯し、迷走を続けた。
そもそも、こうした意思決定のあいまいさは、明治憲法そのものに内在し、現在にも通じる官僚的なタテ割り組織の硬直性も反映していた。
開戦の意思決定をめぐる揺れが凝縮されていたのが、四一年九月六日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」だ。この「要領」には、対米開戦を辞さない決意が示される一方で、「外交ノ手段ヲ尽シ」として和戦両論が併記された。
さらに開戦決意の期限についても「十月上旬ごろまでに要求貫徹しない場合」との原案の立場を、結局、「貫徹するめどが立たない場合」との表現に修正して先送りする可能性を残していた。
結局、第三次近衛内閣は、「勝利の見通しがつかない対米開戦と、陸軍が譲歩しない限り妥結の可能性がみえない外交交渉の両論どちらも選択できず」(森山優・静岡県立大講師)に総辞職に至り、後を継いだ東条内閣による国策の「再検討」という曲折を経て、「開戦決定」へと突入していく。
こうした意思決定をめぐる迷走の背景には、「統帥権の独立」の名の下に、陸海軍の統帥部と内閣が対峙(たいじ)する明治憲法下の権力機構の構図があった。近衛首相の優柔不断さを指摘する見方も多いが、内閣自体、各国務大臣が天皇を補佐するとの憲法規定があり、首相が内閣で指導力を発揮しにくい仕組みだった。
「明治憲法は、非常に多義的な解釈ができ、議会中心にも天皇中心にも解釈が可能で、全体として権力が一元化されていなかった。山県有朋などの元老が次々と世を去り、大正から昭和にかけ利害対立を調整する力が弱まり、政策決定を非常に難しくした」と、鳥海靖・中央大教授は指摘する。
統帥権を盾にする軍部でも、陸軍と海軍とのあいだにセクショナリズムがあった。仮想敵国が陸軍はソ連(当時)、海軍は米国と違っていたし、「『戦争決意なき戦争準備』をすすめる海軍と、戦争の決意をしなければ何事も始まらないとして決意を求める陸軍」(大江志乃夫・茨城大名誉教授)との間で攻防が繰り広げられた。陸海軍の対立は、予算の「分捕り合戦」の意識も生み、意思統一をより複雑にした。
しかも、国家主義が高揚するなかで純粋培養された軍部エリートが台頭し、官僚体質を助長させるシステムが確立していった。
伊藤教授は、「陸軍も海軍も結局は官僚だった。陸軍士官学校、陸大と昇っていった学校秀才らがエリートとなるようなシステムができ上がり、新しい状況への即応力が欠如していたのではないか」と指摘する。
両論併記、玉虫色の字句修正、先送り――戦争をめぐる意思決定過程にみられたこうした特徴は、政治のリーダーシップの不在、官僚の独走など、現代日本の政策決定と相通じるものといえる。(政治部 西岡努)
[統帥権]
軍隊の指揮統率権。明治憲法は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(11条)と規定している。平時には陸軍の参謀本部、海軍の軍令部が、戦時には陸海軍を統一した大本営が統帥権の発動を補佐した。統帥権は、内閣、議会からも独立するとされ、海軍軍縮をめぐる政府の対応が「統帥権干犯」として問題化したこともある。
*◆真珠湾攻撃(上)
*◇舞台裏、核心いまだ封印◇
一九四一年十二月七日午前八時(ハワイ時間)、当直将校の電話を受けて官舎を飛びだした米太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将は、上空に群がる日本の編隊をぼう然と見上げた。日米開戦の幕開けとなった真珠湾奇襲――。戦艦「アリゾナ」を始め湾内の艦艇十八隻が損害を被り、死傷者は約三千五百人に達した。
責任を問われたキンメルは、翌年退役処分を受け、世論からも厳しい批判にさらされた。キンメルの三男で、亡き父の遺志を継ぎ、その名誉回復運動に取り組むエドワード・キンメルさん(76)は語る。
「父は当初、強い自責の念に駆られていました。しかし、四四年に海軍通信局のローランス・サフォード大佐から、米国が解読していた日本の外交暗号の全容を知らされた時、真相究明に闘志を燃やしたのです」
米国は、真珠湾攻撃の前夜、東京からワシントンの日本大使館に打電された「対米交渉打ち切りの覚書」を解読、内容を知ったルーズベルト大統領は、「これは戦争だ」と言ったという。しかし、キンメルの元に警告が届いた時、真珠湾奇襲は既に終わっていた。フィリピンなどへの打電が優先され、さらに電波の状況が悪く、出力の大きい民間無線に回されたことなどもハワイへの通知が遅れた原因となった。
これに対し、大統領が真珠湾攻撃を事前に知りながら故意に予防策を取らなかったとするルーズベルト陰謀説も、やがて浮上した。ハワイの太平洋艦隊をオトリとして日本に攻撃させ、アメリカの第二次大戦参戦をスムーズに運ぼうとしたのではないかとの疑惑である。戦後まもなく開かれた米上下両院合同調査委員会、東京裁判は共に陰謀説を否定したが、研究者の間ではその後も論争が続いた。
論争を検証してきた京都産業大学の須藤眞志教授は、「ルーズベルトが真珠湾攻撃を確実に知っていたことを示す信頼すべき証拠は今のところない」と語る。日本の外交暗号には真珠湾攻撃という言葉は出てこない。別ルート(スパイや日本の艦船が発した電波)から察知したとする説も、「裏付けは不十分」という。
キンメルさんも、「ルーズベルトが何を考えていたかが問題ではない。当時の緊迫した状況を、海軍首脳がハワイに十分伝えていなかったことが問題なのです」と語り、陰謀説には固執しない。もっとも現在関心を寄せているのは、チャーチル英首相が真珠湾攻撃を事前に察知、無線電話でルーズベルトに伝えるのをドイツの秘密警察が傍受していたとする研究者グレゴリー・ダグラスの新説だ。
歴史家ジョン・コステロも近著「真珠湾、クラーク基地の悲劇」(啓正社)で、米国が十分には解読できなかった日本海軍の暗号(外交暗号とは別)の中に、真珠湾攻撃を示唆するものが豊富に含まれていたことを明らかにした。
高度な情報収集能力を持つ英国が日本海軍の暗号をどこまで解読していたのか。チャーチルの秘密ファイルの日本関連部分は「七十五年間秘密」とされ、真相は不明のままだ。
須藤教授は「イギリスの文書公開で、新たな展開があるかもしれない。万が一、ルーズベルト陰謀説が明らかになれば、(陰謀説を否定した)東京裁判を始めとする正史が覆される。しかし、可能性は、きわめて低いと思う」と慎重な見方を示す。
現代史の根幹にかかわる「真珠湾の真相」の最終的解明は、封印されたまま、二十一世紀にゆだねられようとしている。(文化部・天日隆彦)
[日本の宣戦布告]
「対米交渉打ち切りの覚書」を野村吉三郎、来栖三郎両大使がハル国務長官に手渡したのは、真珠湾攻撃開始直後の午後2時すぎ(米東部時間)だった。東京裁判では、通告の遅れ、覚書自体が正規の宣戦布告文でなかった事が米側から指摘され、「詐欺、欺まん、不忠実」(キーナン検事)と批判された。
*◆真珠湾攻撃(下)
*先月二十二日朝、ハワイ・オアフ島の真珠湾にタグボートに引かれた灰色の巨艦が姿を現した。最後の航海を終えた米退役戦艦「ミズーリ」だ。
一九四五年九月二日、東京湾・横須賀沖に浮かんだこの艦上で、日本の降伏文書調印が行われた。「太平洋戦争」のラストシーンの舞台となった五十四歳の“老艦”は、今後、日米戦争が幕を開けた真珠湾で第二次大戦を伝える博物館として余生を送ることになった。
このミズーリから一キロ足らずの海上に、横長の白い建築物が浮かんでいる。真珠湾攻撃で沈没した戦艦「アリゾナ」の記念館だ。アリゾナの沈没地点に位置する記念館は、真珠湾での戦死者の霊を慰めるために建てられた。
中央部がなだらかにくぼんだ記念館の形は、設計者が、太平洋戦争にちなみ「最初の敗北と最終勝利」を表現したものだという。ミズーリの真珠湾入りで、戦争の始めと終わり、そして、米国にとっての「敗北」と「勝利」の二つの象徴が、奇襲から五十七年目にして真珠湾に並んだ。
だが、「最終勝利」をもってしても、米国にとっての「パール・ハーバー」の傷が消えるわけではない。
四一年十二月七日朝(日本時間八日未明)、ハワイは穏やかな日曜の朝を迎え、ラジオからは音楽が流れていた。この音楽を朝食のテーブルではなく、空の上で聴いていた人物がいた。第一次攻撃隊の百八十三機を率いる淵田美津雄中佐だ。淵田中佐は、ラジオ放送から方位を測定して進路を決めた。
午前七時四十九分、淵田中佐機は、「全軍突撃せよ」を意味する「ト連送」を打電した。そして三分後、有名な「トラトラトラ(われ奇襲に成功せり)」を発信、その直後、急降下爆撃隊が湾口に近いヒッカム飛行場に爆弾を投下、日米戦争が始まった。
「八時ごろ、雷のような音が聞こえたので、飛び起きて外に出たら空に黒煙があがっていた。対空砲火が空中でさく裂するのも見えた。随分、リアルな演習だと思ったが、ラジオをつけると『非常事態です。日本軍機に攻撃されました』と放送していた。もう驚いてね。信じられなかった」と、当時、ハワイ大三年生だった日系二世のテッド・ツキヤマ氏(77)は、その時の衝撃を振り返る
。
「これは『ハリウッド』製ではありません。すべて『真実』です」
記念館見学者センターではドキュメンタリー映像上映の際に、ガイドは必ず映像が実写であることを強調する。
記念館のすぐそばの海上からは、赤茶けたアリゾナの残がいが顔をのぞかせている。海底に残る船体とともに、今なお千百余人の遺体が眠っているという。館内には犠牲者の長いリストが展示されている。
国土を攻撃された経験がほとんどない米国にとって、戦争の傷跡が形として残る数少ない場所だ。館内は、戦争犠牲者を追悼する厳粛さが漂う。ここを訪れる日本人は、広島の原爆ドームや長崎の原爆資料館とイメージを重ねることも多い。
記念館の責任者キャシー・ビリングスさん(43)自身、昨年十月、広島を訪れた。
「とても悲しかった。ここアリゾナ記念館で人々が感じる気持ちと同じだと思う。こんなこと二度と見たくない、平和のためには不断の努力が必要だ、と。そこにこうした記念館の存在意義があると思います」
戦争は、局面によって、加害、被害の両面を生む。太平洋戦争では、日米は戦勝国、敗戦国に分かれたが、双方の国民にとっては、勝利か敗北かとは別の思いが残る。(政治部 西岡努)
[戦艦アリゾナ]
ニューヨークの海軍造船所で建造され、1916年就役した。全長約180メートルで、通常排水量は約3万1000トン。真珠湾攻撃時、前方弾薬庫に被弾し、わずか9分で沈没、1177人の乗組員が死亡した。公金と一般募金による記念館が62年に開館した。
*◆山本五十六(上)
*◇死招いた“東郷の幻影”◇
一九四三年五月二十一日、大本営は衝撃的な事実を公表した。山本五十六の戦死だ。
「連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六ハ本年四月、前線ニ於テ全般作戦ヲ指導中、敵ト交戦飛行機上ニテ壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ」
山本長官機とともに宇垣纏(まとめ)連合艦隊参謀長機も撃墜され、両機に乗っていた高田艦隊軍医長、樋端航空参謀、今中通信参謀、室井航空参謀が戦死、宇垣参謀長も重傷を負い、連合艦隊司令部中枢は、海ではなく、空の上で、一瞬のうちに壊滅した。
撃墜された場所は、南太平洋に浮かぶブーゲンビル島のジャングルだった。山本はなぜ、日本から数千キロも離れた南海の島で戦死したのか。
それは、山本の指揮方法に原因がある。
山本は開戦以来、戦艦部隊を率い常に前線で部隊指揮を執ってきた。日本本土に戻っても、ほとんど上陸せず、戦艦内にある連合艦隊司令部から命令を出し続けた。
ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いでも、連合艦隊の旗艦「大和」の艦橋で、前線指揮を執った。
戦死につながった航空機での移動も、山本自らが希望したものだ。最前線のショートランド方面を視察して海軍将兵を激励するとともに、ガダルカナル島で苦戦した陸軍部隊の労をねぎらうためだった。
これに対し、米海軍の指揮スタイルは、日本とまったく対照的だった。
米太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将は、太平洋戦争中、個別の実戦の指揮はハルゼーら部下に任せ、ほとんど艦船に乗らず、ハワイにある陸上の司令部を離れなかった。
防衛大学校の田中宏巳教授は「山本五十六は、東郷平八郎以来の『連合艦隊司令長官』像のまぼろしに縛られていたのではないか」と指摘する。
双眼鏡を首にかけ幕僚を従えて戦艦「三笠」の艦橋に悠然と立つ東郷平八郎――絵画にも描かれ有名となったこの姿は、危険を顧みず前線で指揮を執る連合艦隊司令長官の理想像と考えられていた。戦死に至るまでの山本の行動は、その日本海軍の伝統に忠実だったというわけだ。
しかし、この指揮方法には問題があった。
ミッドウェー海戦では、山本が乗る「大和」護衛のために多くの艦艇が割かれたが、「大和」は空母部隊のはるか後方に位置しており、実際の戦いでは大きな戦力減につながった。
また、秘密保持に無線封鎖を行うため、総指揮官の山本が適切な指示をすることも難しい状況だった。
田中教授は、「太平洋戦争の時代になれば、実戦部隊の総指揮官が最前線に出撃することには、士気鼓舞以外の意味はない。通信機能の貧弱な軍艦の上での指揮は、陸上に比べ、不便な点が多かった」と指摘する。さらに、山本の死が実証したように、前線指揮方式は司令部壊滅の危険も伴う
。
山本の国葬が行われた六月五日は、くしくも、九年前東郷平八郎元帥の国葬が行われた日だった。
東条英機首相は、「陣頭指揮ノ神髄ニ徹シテ斃(たお)レラレタル元帥ノ烈々タル精神ハ、全皇軍将兵ノ士気ヲ逾々(いよいよ)鉄石ノ堅キニ昂揚(こうよう)シ、全国民ノ敵愾(てきがい)心ヲ深キヨリ揺リ動カシテ居ル」とたたえた。この“指揮官最前線”の伝統は、山本の後任、古賀峯一大将にも受け継がれた。
連合艦隊長官が陸上から指揮を執りはじめるのは、古賀司令長官が殉職し、豊田副武(そえむ)大将が司令長官を引き継いだ後の四四年九月だった。しかし、この時、連合艦隊はすでに守勢一方で、もはや能動的な作戦が実施できる状況ではなかった。(編成部 今井洋)
[連合艦隊]
初めて編成されたのは日清戦争時の1894年(明治27年)7月で、初代司令長官は伊東祐亨。日露戦争など戦時を除いては、大演習などに際し臨時編成されるだけだったが、1933年(昭和8年)からは常置されることになった。日米開戦時、連合艦隊は10個艦隊で構成されていたが、終戦時は壊滅状態だった。
*◆山本五十六(下)
*◇実像覆う伝説のベール◇
一九四三年五月二十一日の山本連合艦隊司令長官の戦死発表は、国民に大きな衝撃を与えた。戦争に批判的だった評論家の清沢洌(きよし)でさえ、日記に「これを知り茫然(ぼうぜん)たりだ」と書いた。葬儀は国葬となり、当日は、式場の日比谷公園までの沿道は、山本を見送る数万の人で埋め尽くされたという。
戦死が発表まで一か月も秘密にされていたことも、指導者層が「山本の死」に動揺していたことを示している。
山本は開戦以来、日本海軍と無敵連合艦隊の象徴だった。陸軍には、山本に比肩するスターはいなかった。新聞に何度も登場した白い軍服姿の山本司令長官の姿は国民に強烈な印象を残していた。
戦後も、山本五十六の評価は低くない。
「山本五十六の誤算」を執筆した福岡大の宮野成二名誉学長は、〈1〉航空機の時代を見抜いた先見性〈2〉駐米経験などから常に無謀な戦争に反対した理性〈3〉連合艦隊司令長官としては、常に積極的に戦い続けた武人としての潔さに加えて、〈4〉「勝利は不可能」と語っていた通り、開戦から一年半後に、自殺のような形で戦死した悲劇性――などを人気の原因としてあげる
。
ただし、評価の重心が戦前と戦後では変化している。戦前は、真珠湾攻撃などの戦功が評価されたが、戦後は、戦争反対を主張した点が強調されるようになった。
この変化の背景には、海軍の戦争責任回避戦略もあった。
生き残っていれば、真珠湾攻撃の最高司令官として戦犯で起訴された可能性もあった山本だが、戦後、岡田啓介、米内光政、井上成美などの旧海軍指導者たちは、戦争の主な責任は海軍ではなく陸軍にあったことを主張するため「海軍良識派」の代表として日独伊三国同盟に反対した山本の業績を宣伝した。
暗い時代にも、理性ある日本人がいたあかしとして、国民が山本に救いを見いだそうとした事情も、山本伝説を強化した。
こうした山本像に疑問の声もある。
防衛大学校の田中宏巳教授は、「山本が三国同盟に反対したのは事実だが、一貫した対米戦反対論者というわけではない」と指摘する。
ロンドン軍縮条約以来、海軍の人事は最長老で軍縮路線に否定的な「艦隊派」寄りの伏見宮元帥が握っていた。伏見宮は、山梨勝之進、堀悌吉(ていきち)といった軍縮推進派幹部を、能力に関係なく次々と現役からはずした。
しかし、山本は予備役にも回されず、海軍内で生き残り昇進を続けた。田中教授は「常に海軍内で多数派にくみしたからではないか」として、「出世にこだわらない信念ある穏健派」とのイメージに疑問符を付ける。
また、戦後、旧海軍軍人に聞き取り調査をした九州共立大の三輪宗弘講師は「文献の裏付けはない」としながらも、山本が「米国は徹底的にやっつけ、目に物見せてやらねばならん」という趣旨の発言をしていたとの複数の証言があったとし、「連合艦隊司令長官の山本は、最も好戦的な軍人でしかない」と切り捨てる。
山本の心情を示す資料としては、東京裁判に提出された書簡集「五峯録(ごほうろく)」があるが、なぜか原本はなく、写本しかないという。三輪講師は、「山本イコール戦争反対者のイメージに合うよう、書き換えられた可能性もある」と指摘する。
山本に関する伝記、評伝は多いが、本格的な学問研究はほとんどない。その実像に迫るのにはまだ時間がかかりそうだ。(編成部・今井洋)
[山本五十六と映画]
山本を演じた回数では三船敏郎が目立つ。「連合艦隊司令長官 山本五十六」(1968年、東宝)「激動の昭和史 軍閥」(70、同)「ミッドウェイ」(76、米)の3作で山本を演じた。70年の「トラ・トラ・トラ!」(日米合作)は山村聡、「連合艦隊」(81年、東宝)では小林桂樹が山本役となった。
*◆沖縄戦(上)
*◇失われた魂の発掘続く◇
沖縄の戦跡として名高い「ひめゆりの塔」から東へ約五キロ。沖縄県糸満市摩文仁の「平和祈念公園」には、屏風(びょうぶ)状の御影石百十六基が並ぶ一角がある。
背後には紺碧(こんぺき)の海。照りつける陽光。南国の明るさとは対照的に、その碑には陰惨な戦争の歴史が刻まれている。
一面にびっしりと連なるのは、満州事変以降の沖縄出身戦没者、あるいは沖縄戦での死者の名前だ。米兵などを含め、刻まれた名前は二十三万人分に及ぶ。
名づけて「平和の礎(いしじ)」。この石碑が、県の事業として、沖縄戦屈指の激戦地、摩文仁に建立されたのは九五年六月、実に敗戦五十年後のことだった。はるかな時を隔て、この碑が生まれたことに、どんな意味があるのか。
「実は、そこに沖縄戦の本質にかかわる問題があるのです」。県史の沖縄戦記録の編集に携わった経歴をもち、「嶋津与志」の筆名で作家活動も行っている大城将保・県教育庁文化課長(58)は語る。
「沖縄戦では戸籍が戦火で焼けてしまい、そのうえ避難中に亡くなった住民も多く、どれだけの人間が犠牲になったのかさえも正確にはわかっていなかったのです」
戦没者数については、県援護課の推定資料によると、全体で米軍兵士を含め約二十万人。このうち県外出身日本兵が約六万六千人で、沖縄県人は約十二万二千人(うち一般住民約九万四千人)。当時の県民六十万人の約五分の一が亡くなった計算になるが、一般住民に限っていえば、概数に過ぎない。
本土攻略をにらみ、沖縄の戦略的価値を重視した米軍は、陸上戦闘部隊だけで十八万三千人、海軍や支援部隊を含めれば五十五万人という大軍を進攻作戦に投入した。
一方、日本軍の兵力は約十一万人。戦力の不備を補うため、住民は「防衛隊」として戦場に駆り出された。残された人々も自力で安全な地域へ避難しなければならない。住民は兵士と近接した状態で本島南部に追われ、「鉄の暴風」とも形容される激烈な地上戦に巻き込まれた。
ひとりひとりの死を積み上げて沖縄戦の実態を明らかにする。そんな試みが初めて全県的に行われたのが「平和の礎」の事業だった。
実際の調査は各市町村が担当した。例えば、米軍上陸後、チビチリガマと呼ばれる自然壕(ごう)で住民八十三人が「集団自決」した悲劇で知られる本島西岸の読谷村。ここでは人口の四分の一にあたる約三千八百人が亡くなっていた。
聞き取り調査に携わった同村職員の小橋川清弘さん(41)は報告記録に、こう書いた。
〈乳飲み子を胸の中で死なせた母親の涙が数字の裏にある〉
戦没者の名前は、毎年新たに判明した分が平和の礎に刻み込まれていく。現在のところ、碑に名前が刻まれた県民は十四万八千百三十六人。沖縄戦の定義問題やデータ不備といった理由で、沖縄戦に限定した死者数はまだ公式に集計されていない。しかし、「その数は十数万に及ぶはず」(県平和推進課)。
大城課長は語る。「戸籍もなければ何の文書にも名前が残っていない、だから、ここに名前が刻まれていることが唯一の存在証明という戦没者も多いのです。涙しながら、碑に刻まれた名前を指でなぞる人をみかけたこともあります」
ひとりひとりの死にざまの掘り起こし。それは人を将棋のコマのように扱った総力戦の論理に抗して、人間の尊厳を取り戻そうという試みにも映る。沖縄の戦争は、まだ終わっていない。(文化部 時田 英之、写真も)
[防衛隊]
1944年から翌年にかけ陸軍防衛召集規則に基づき地域住民から召集された兵員組織。対象は満17歳から45歳までとされたが、実際は50歳以上の男性も召集された。後方部隊として編成されたが、45年3月末から約3か月続いた沖縄戦の混乱の中で2万5000人中、約1万3000人が死亡したとされる。
*◆沖縄戦(下)
*◇悲劇見直す第三の視点◇
沖縄各地で進められる戦争体験の聞き取り調査。そこから明らかになってきたのは、近代の総力戦体制が住民にもたらす黙示録的な悲劇だった。しかし、その意味が、本土の人間に届いているのかどうか。沖縄戦の研究に携わる識者の多くは否定的だ。
新崎盛暉・沖縄大教授(62)(沖縄現代史)は語る。
「いざとなれば沖縄は切り捨てる、という構造的な差別があった。太平洋戦争に起因する沖縄の米軍基地問題が、今も解決していないことを考えれば、その構造がなくなったとはいえないでしょう」
戦争の継承という面でも、とりわけ本土の人々との関係で、沖縄の人々はしばしば無理解の壁に突き当たる。
八九年に糸満市に開館した「ひめゆり平和祈念資料館」では、開館以来、元ひめゆり学徒隊員が毎日交代で展示説明を引き受けている。
「ここへ来れば語り部の話を聞ける、という場ができたのです。継承という意味では画期的なことでした」と話すのは、沖縄戦の記録や文学に詳しい仲程昌徳・琉球大教授(54)(日本近代文学)。
ところが、九一年に、南部戦跡を訪れた東京の大学生が「ひめゆり学徒隊の語り部は自分に酔っている」との感想を記したことが明らかになり、物議をかもした。
仲程教授は「基本的には、沖縄戦の知識がないまま語り部の話を聞いてもわからない、ということなのかもしれません」と語る。
言語に絶する体験を持つ証言者に、戦争のリアリティーを実感できない人間と。そのはざまで沖縄戦の伝承は次第に困難な状況に陥りつつある。
しかし、仲程教授は文学の世界にひとつの光明を見てとる。「沖縄の戦争文学でも、これまでは主人公の直接的な体験が語られることが多かった。しかし、最近、第三者的視点から沖縄戦を描き、なお優れた作品が現れたのです」
その作品が、沖縄出身で宮古島在住の作家、目取真(めどるま)俊さん(37)による『水滴』。昨年の芥川賞受賞作でもある。
沖縄では戦後の一時期、戦没者の埋まった土地で冬瓜やカボチャが異常に大きく成長し、生き残った人々の貴重な食糧になったという。この伝承を下敷きに、作中では「他者の犠牲の上に成り立つ生」というモチーフが展開される。
主人公は、かつての「鉄血勤皇隊」の少年兵。戦後五十年を経たある日、その足が冬瓜のように膨れ上がり、そこから水滴が滴り落ちるようになる。実は、主人公にはかつて、戦友を見殺しにして生き延びた体験があった。
やがて枕元(まくらもと)に夜ごと戦友の亡霊が立ち、その水滴をすすっていくようになる。ある夜、主人公は亡霊に向かって言う。〈赦(ゆる)してとらせ……〉。そして叫ぶ。〈この五十年の哀れ、お前が分かるか〉
その発想の原点について、目取真さんはこう語る。「私には戦争中に警防団長をしていた祖父がいました。おそらく地域のまとめ役として地域に軍の指令を伝えることもあったでしょう。ところがそんな戦争協力の話はついに聞けなかった」
「戦争体験を語る人々の存在は貴重です」と言う。「しかし、これまで語られてきた体験の多くは、戦場を逃げまどった、というようなものではなかったか。記憶は自分に都合よく語られがちです。〈語られてきた記憶〉の内側をつき崩すことが、小説家の仕事でしょう」
「沖縄の人間イコール平和の民、というのは幻想だ」とも言う目取真さん。「語り部」と「聞き手」の溝を新たな視点から乗り越えようという試みが、いま文学の世界から始まった。(文化部 時田 英之)
[ひめゆり学徒隊]
沖縄戦で、沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の生徒によって編成された看護隊。約300人が動員され、多くは南風原陸軍病院(現・南風原町)に配備されたが、のち米軍進攻に伴い県南部の喜屋武半島に移動。その後、激戦地で解散を命じられたことから犠牲者は219人(引率教員を含む)にも上った。
*◆陸軍幼年学校
*◇俊英誤らせた特権意識◇
東条英機をはじめとして、永田鉄山、山下奉文、石原莞爾など昭和史を彩った著名な陸軍軍人には、陸軍幼年学校の卒業者が多かった。
将来の将校育成を目的とする陸軍幼年学校は、全国に東京、大阪、仙台、熊本など六か所あり、教育年限は三年間、現在なら中学生に相当する子供たちが生徒となった。定員は一学年五十人で、競争率は五十倍以上にのぼり、陸幼生徒は全国から選び抜かれたエリートだった。
陸軍幼年学校の教育とはどんなものだったのか。
意外にも、陸軍幼年学校では、実際的な軍事訓練はほとんど行われていなかった。戦時教育を採用した一九四三年時点でも、一年生は、野営演習などの特別授業を除くと、授業は、週五回の教練・作業以外は一般科目で占められ、勤労動員や教練に明け暮れ勉強どころではなかった一般の中学校に比べ、恵まれた教育環境だった。
外国語も英語だけでなく、フランス、ドイツ、ロシア語を学ぶことが出来た。しかも、戦時中、「敵性語追放」で英語がほとんどの一般の中学校で教えられなくなった後も、陸幼では外国語教育が途絶えることはなかった。
終戦前五か月を東京幼年学校で過ごした国分康孝・聖徳栄養短大教授(心理学)は、「陸幼教育は、生徒に自分の意見を持たせ、誇りと自覚を育てることを重視した理想的な人間教育だった」と評価する。
国分教授は「生徒監(生活指導担当将校)は、生徒を対等な人間として扱ってくれた。結論をまず述べイエス・ノーを明確にすることなど、他人を説得する(個人の)意見を持つことの重要性を教えてくれた」と述懐する。
四五年四月、ルーズベルト大統領が死亡したとのラジオ放送に生徒たちが拍手をすると、「たとえ敵でも人が亡くなった時に拍手などするな。弔うのが武士だ」と諭されたという。
ビルマ進攻作戦などに参加した第三十三師団の獣医中尉だった輿水渉さん(79)は、桜井省三、柳田元三など陸幼出身の師団長に仕えた。二人とも、陸軍大学を優秀な成績で卒業した陸軍エリートだった。
「優秀な人が師団長に来ることは師団の誇りで、人柄も立派だった。また、陸幼出身将校は、若いこともあり死を恐れず勇敢だった」と語る。
しかし、陸幼教育にも問題点があった。社会への視野を欠き、誤ったエリート意識を増長させた点だ。
幼年学校では、商店への出入りは禁止され、小説を読むと軟弱だと批判された。お金の話をすることも見苦しいとされ、五円、十円とは言わず、五メートル、十メートルなどの隠語を使ったという。
一般の中学校出身の将校への差別意識もあった。後に陸軍「統制派」の指導者となる永田鉄山は二八年ごろに結成した私的グループ「一夕会」のメンバーを陸幼出身者で固めた。その理由について、永田は「中学出身者を好まないのは、彼らには堅い操守がなく豹変(ひょうへん)するからだ」と述べている。
元陸軍中佐の故・加登川幸太郎も、遺著「陸軍の反省」の中で、「物心つかない少年をおだてながら教育して、自分たちは偉いんだという勘違いから人生のスタートをさせた」と陸幼教育を批判している。
日本最後の陸軍大臣・下村定大将は、敗戦直後、四五年十一月の衆院本会議で、「陸軍内の者が、軍人としての正しき物の考え方を誤ったこと、特に指導の地位にありますものが、やり方が悪かったこと、これが(軍国主義発生の)根本であると信じます」と、陸軍エリートの責任を認めている。(編成部・今井洋)
[陸軍エリート]
典型的なエリート・コースは、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学。参謀や師団長に必要な戦略・戦術を学ぶ高等教育機関の陸軍大学を卒業すれば、ほぼ将官への道が約束されていたが、陸軍大学に入校できたのは、士官学校卒業生の1割にも満たなかった。
*◆日系米兵
*日本と米国が真っ向から衝突した太平洋戦争は、当時の在米日系人を、祖国と米国との板ばさみに追い込んだ。それは「人種偏見」との格闘でもあった。戦争は、約十五万人もの日系人が住むハワイの真珠湾への奇襲攻撃で始まり、多くのハワイ移民を出した広島に原爆が投下される皮肉な展開を遂げた。
「ゴー・フォア・ブローク(当たって砕けろ)」。日系米兵部隊のモットーだ。戦後、欧州戦線での二世部隊の活躍を描いた映画の題名にもなった。この精神を実践する形で、その存在を一躍有名にしたのが、欧州戦線での「失われた大隊」の救出戦だ。
四四年十月、独仏国境付近の山岳地帯でドイツ軍にはさまれ孤立した米テキサスの歩兵大隊を救出するため、日系米兵の若者たちは敵の機関銃をかいくぐって、森の中に突っ込んだ。二百十余人を救出したが、日系米兵の死傷者は四倍にものぼったといわれ、その武勇ぶりは米軍史に大きく名を残した。
「敵国人と同じ顔をした日系兵が、米国に忠誠を証明するには、米軍の軍服を着て戦うしかなかった。日本語学校で、武士道や『肉弾三勇士』を教わっていた二世は、普通のアメリカ兵が考えもしない決死の『バンザイ突撃』を行った。それはまさに肉弾三勇士と同じスピリット(精神)だった」。
日系部隊の四四二連隊で訓練を受けたハワイ在住のテッド・ツキヤマ氏(77)は日系米兵の心情をこう語る。
もちろん「祖国」との戦争の間、苦悩を経験した日系人は、前線の兵士たちに限らなかった。
二十世紀初頭から米西海岸を中心に高まった「黄禍論」や「恐日論」を背景に、日系人は、カリフォルニア州外国人土地法(一三年)やいわゆる排日移民法(二四年)などを通じ、戦前から「人種」をめぐる摩擦の中にあった。
そして、四一年の開戦直後から日系社会の指導者たちは、米連邦捜査局(FBI)に連行され、四二年に入ると、太平洋沿海州の約十一万人の一般の日系人も、十か所の収容所に強制的に送られた。
◇米への忠誠 武勇で証明◇
「米国は第二次大戦を、ナチスの人種差別や日本の軍国主義との戦いと位置付けていたが、国内には黒人や東洋人への差別問題を抱えていた。その意味で開戦当初、米政府が一番恐れたのは、欧米の『植民地主義』や『人種差別』に対する日本の批判が、東南アジアなどに受け入れられることだった」と、米カリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)のユウジ・イチオカ教授は指摘する。
「アメリカニズムは心の問題だ。断じて人種や祖先の問題ではない」(フランクリン・ルーズベルト大統領)、「諸君は敵と戦っただけでなく、偏見とも戦い勝利した」(トルーマン大統領)。歴代米大統領は日系米兵にこうした言葉を贈った。
だが、「二つの祖国」をめぐる思いは単純ではない。国籍とは何か。
ロサンゼルスの全米日系人博物館でボランティアを務めるヘンリー・ヤスダ氏(70)は、「パパにとって、アメリカと日本と、どっちが一番なの」と子供たちから時々問われたという。米国で生まれ、戦中は日本の旧制中と海軍兵学校で、戦後は米国の大学で学び、米軍の仕事に携わった。「結局、若いころは夢中で、日本であれ、アメリカであれ、国のために尽くすということしか考えられなかった」と語る。
太平洋戦争という極限状況は、国境を越えた祖先を持つ日系人にアイデンティティーの問題を突き付けた。(政治部 西岡 努)
[日系米兵]
1942年6月、最初の日系部隊である100大隊がハワイで編成された。この実績をもとに43年2月に新たな日系部隊442連隊が編成され、ヨーロッパ戦線で100大隊と合流し活躍した。このほか日系二世は太平洋戦線でも、MIS(陸軍情報部)語学兵として情報収集などに従事した。
*◆原爆投下(1)
*◇展示論争、揺れる米の「常識」◇
五十三年前のきょう八月六日、広島に原子爆弾が投下された。半世紀を経た今でも、核兵器が、この世界に投げかけた長い影は、消えていない。
◇
今年五月二十八日、米ワシントンの自宅で、マーティン・ハーウィット博士(67)は、信じられない思いでテレビを見つめていた。インドに続くパキスタンの核実験実施。画面には首都イスラマバードの街頭が映っていた。
「狂喜した市民が、踊っていた。野蛮な政府を非難すべき市民が、ダンスを……」
博士の脳裏には三年前の苦い記憶がよみがえってきた。
博士は、米国立スミソニアン航空宇宙博物館の前館長。原爆投下五十周年に向けて原爆展を計画した。
展示内容は、平均的米国民の“常識”に疑問を突き付けるものだった。常識とは、「原爆投下が終戦を早め、日本上陸作戦で犠牲になるはずだった数十万人の命を救った」との投下正当化論だ。それは、米政府の公式見解でもある。
展示計画では、投下の背後にソ連への牽制(けんせい)が含まれていたことや、アイゼンハワー将軍ら米軍首脳内にも投下反対意見があったことを紹介する予定だった。さらに、原爆を投下した爆撃機「エノラ・ゲイ」の機体と共に、被爆者の写真、焦げた弁当箱、その瞬間で針が止まった時計など、ヒロシマ・ナガサキの惨状を語る資料も展示する手はずだった。
当時を振り返り、博士は、この挑戦的な企画の動機を、こう説明する。
「民主国家を支えるのは、健全な判断力を持つ市民だ。博物館には、市民にプロパガンダではない歴史事実を提供する使命があると思った」
だが企画は、会員三百十万人を擁する退役軍人会などの反発を招く。「投下がなければ、日本上陸戦で我々は死んでいた。展示は反米的だ」。さらに上院が「エノラ・ゲイは大戦を慈悲深く終わらせるのに役立った。企画は従軍兵士にとって侮辱的」と決議、博物館の上部組織スミソニアン協会は九五年一月、原爆展の中止を決定した。
平岡敬広島市長は、「米国民に直接、被爆の惨状を知ってもらう好機と思っていた。しかし、日米の意識のギャップを再認識させられた」と、三年前の失望を語る。
米国内でも中止決定に対し、歴史研究者らから「歴史への検閲だ」と反発が起きた。
専門家の間では、四五年当時の政府・軍首脳が「日本は通常戦でも四五年末には降伏する」「日本上陸作戦の場合の米軍戦死者は数万人」と見ていたとする点で、まず異論がない。六〇年代以降、相次ぎ公開された機密文書、日記の研究が進んだ結果だ。原爆問題の権威、バートン・バーンスティン米スタンフォード大教授も、「企画書は水準の高いものだった」と評価する。
原爆展の代わりに、スミソニアン協会は、解説なしでエノラ・ゲイの機体だけを展示した。その機体も今春撤去され、二〇〇一年に新館が完成するまで倉庫で眠っている。
同協会のデービッド・ユマンスキー広報部長は現在でも、「当初の膨大な原爆展は感情的で、見学者を混乱させるだけだった」と語り、中止を悔いてはいない。新館では原爆投下関連の展示をする計画があるのか聞くと「日本には真珠湾や南京虐殺を反省する展示館があるのか」と皮肉な口調で切り返された。
原爆を巡る日米の意識変化を見てきたニューヨーク市立大ロバート・リフトン教授(心理学)は「米国にとってのヒロシマ、ベトナム、ナチス・ドイツのアウシュビッツ、日本の戦争犯罪……どの国にとっても、自国の犯した破滅的行為を直視するのは難しい」と指摘する。
だが教授は未来を悲観してはいない。中止をきっかけに、市民の問題意識も深まったと実感している。印パ核実験への非難も以前には考えられないほど広範で厳しいものだった。教授は語る。
「ヒロシマで我々は人類滅亡のイメージを垣間見てしまった。人類という『種』の視点から核を考える人たちは、確実に増えている」
◇慈悲なき戦いの果てに◇
「私は三万二千フィート(九千六百メートル)上空にいて、もちろんその瞬間は見えなかった。作業に忙しかった」
電子回路担当として米爆撃機「エノラ・ゲイ」に搭乗していたジェイコブ・ビーサーが残した言葉だ。ここには、地上に対する“鳥”の無関心がある。三万二千フィートは、国際線ジャンボ機並みの高度。地上に人間が見えたとしても、砂粒ほどの大きさもなかったろう。だが四万フィートを超えて立ち上ったキノコ雲の、その「下」には、人間が生き、暮らしていた。
◇
今世紀、戦争は総力戦・科学戦となった。
第一次世界大戦では飛行機、戦車、毒ガス、潜水艦が登場、こうした新型兵器を開発し大量生産する科学力・工業力が戦争の勝敗を決めることになった。そして兵士と市民、前線と銃後との区分は意味を失い、工場が集中する都市、石油精製基地、食糧・物資の輸送網を攻撃目標とする無差別都市爆撃(戦略爆撃)が生まれた。
ヒロシマ、ナガサキも、この無慈悲な大量殺りくの延長線上にあった。
航空戦略論の創始者、イタリアのジュリオ・ドゥエ少将は「今や戦争をするのは軍隊でなく全国民である。鳥を抹殺したければ、飛んでいる鳥を撃ち落とすだけでは足りない。卵と巣が残っている」と語った。これは一九〇三年のライト兄弟の動力飛行からわずか十八年後のことだった。
三〇年代に入ると、独がラインラント進駐(三六年)、伊がエチオピア併合(三六年)、日本も三八年に中国・重慶攻撃で無差別爆撃を開始した。
これに対し当初、連合国側は無差別爆撃の採用には、とまどいを示していた。
ルーズベルト米大統領は欧州戦開戦の翌日、交戦国に市民を目標とする爆撃は控えるよう呼びかけた。開戦直後、英軍は独ハンブルクなどを空爆したが、事前に数百万枚のビラをまき市民に警告した。「軍需工場といえども民間人の財産。爆撃は違法ではないのか」との検討も行われた。まだ“空の騎士道”が残っていた。
だが連合国側でも、まず英国が無差別爆撃に踏み切る。きっかけは、ロンドン空襲の激化だった。
「敵国市民の士気も軍事目標だ」とするチャーチル首相は、ドイツ都市への報復を命令、夜間無差別爆撃を連日敢行した。
米国は当初、軍事施設に限定した昼間精密爆撃に固執したが、損害の拡大に対する責任追及に抗しきれずに、B17による無差別爆撃へとシフトさせていった。その主役が、米爆撃部隊指揮官カーチス・ルメイ少将だった。
ルメイ少将は、四四年八月、アジアへ転属となるや、迷うことなく無差別爆撃を対日戦に持ち込む。彼の手元には、在欧兵力よりはるかに強力な最新鋭重爆撃機B29と無数の焼夷(しょうい)弾があった。
四五年三月十日、焼夷弾を満載した三百三十四機のB29が、首都東京を襲った。約二十七万棟の建物が焼き払われ、少なくとも八万人以上の市民が死んだ。東京大空襲は今でも、核兵器によらない一度の作戦としては、史上最大の惨禍と言われる。
その後、終戦までに日本上空に延べ約二万九千機のB29が出撃、計六十六都市に対して計十七万六千トンの爆弾を投下した。ヒロシマ、ナガサキに投下された原爆も、米の戦略爆撃にとっては、「巨大爆弾」のひとつに過ぎなかったのかもしれない。
“原爆の父”といわれた物理学者ロバート・オッペンハイマーは終生、自分が加担したヒロシマの惨状に苦しみながら、こう自問している。
「東京大空襲を敢行した米国に、『原爆を使用しない』という道徳上の歯止めが残っていただろうか」(科学部・柴田文隆)
*◆原爆投下(2)
*◇広島の惨状隠した軍部◇
一九四五年八月六日午前八時十五分、広島に人類初の原子爆弾が落とされた。
ニューメキシコでの実験成功からわずか二十二日。米国は原爆と同じ形の爆弾を約五十発も各地に落として投下実験を繰り返しており、満を持しての投下だった。
原爆は広島城の南約一キロ、高度五百八十メートルで炸裂(さくれつ)。好天の空に閃光(せんこう)が走った。だれもが思わず閉じた目を開けると、人口約三十万の都市はキノコ雲の底の闇(やみ)に覆われていた。それが晴れると風景は一変。やがて黒い雨が降った。
城内の陸軍中国管区司令部の半地下壕(ごう)。学徒動員で電話交換をしていた岡ヨシエさん(67)は爆風に飛ばされ、気を失った。気づいて外に出ると、一面が赤茶けたガレキの山。詩人・峠三吉が「ビルディングは裂け、橋は崩れ/満員電車はそのまま焦げ……ボロ切れのような皮膚を垂れた/裸体の行列」と詩(うた)った光景が広がっていた。
慌てて壕に引き返し歩兵41連隊(広島県福山市)に電話、「広島が全滅」と叫んだ。だが、大本営に届いた記録はない。信じなかったのだ。
この日、黙示録の町を撮影した写真が二コマある。
中国新聞の写真部員だった松重美人さん(85)は、爆心の南東二・七キロの自宅で被爆。崩れた壁土の下のカメラを掘り出し、町へ出た。
「死臭の漂う静けさ。それを切り裂く怒号と絶叫。累々(るいるい)と横たわる死体。人々が幽鬼のようにさまよっていた」
だが、シャッターが切れない。カメラマンもレンズをそむける惨状。二時間ほど歩いたか。赤むけの肌に一斗缶の油を塗る一群に会い、初めてカメラを構えた。
「二回、シャッターを切ったが、生死の境であえぐ姿を撮る自分が鬼畜に思えた。顔は写せなかった」
退職して三十年。松重さんは今も「なぜ、もっと……」と問われる。「修羅場だった。それに、原爆とは、だれも知らなかった」という。
高松宮宣仁殿下、梨本宮伊都子妃、内大臣・木戸幸一、海軍中将・宇垣纏、作家・海野十三、歌人・斎藤茂吉、声優・徳川夢声。戦時下を綴(つづ)り続けた人たちの日記にも「この日」を明確に伝えるものはない。
「日本は真珠湾で空から戦争を開始した。そして彼らは、その何倍もの報復を受けた」と、米大統領トルーマンが「原爆投下」声明を発表したのは、日本時間の七日未明。被爆当日に「原爆」と気づいた日本人は、いなかった。
呉海軍工廠(こうしょう)でキノコ雲を見た大尉の西田亀久夫さん(81)は、広島市内の弾薬庫が爆発したと早合点。「陸軍の野郎」と思った。東京帝大理学部で原子核物理を学び、「放射能測定」を卒論にした専門家だが、当日、呉鎮守府の調査隊の一員として現地に入ってもなお「原爆とは夢にも思わなかった」という。
原爆研究中の理化学研究所博士の仁科芳雄らでさえ、「ウラン濃縮には数年かかる。当分は米国も作れない」との結論を出していたからだ。
だが、七日夜の調査隊の検討会では、各班の報告を白地図に加えるたび、異様な爆発力が浮き彫りになった。トルーマン声明の内容が伝わると、出席者は言葉を失った。
そのころ、東京の仁科は声明をもとに爆発力を計算し、参謀本部に入った被害報告と照合。「吾々(われわれ)(日本の原爆研究の)関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ。トルーマン声明は真実であるらしく思はれる」と推論した。
陸軍調査団とともに広島入りした仁科らが物証をもって「原子爆弾ナリト認ム」と断定したのは投下四日後だった。だが、政府や軍部は「声明は謀略の恐れあり」として公表せず、「やけどには油類を塗るか塩水で湿布」などと、防御方法ばかりを発表。原爆投下の事実と広島の惨状は終戦まで秘匿される。これが、アメリカをいら立たせる。
◇沈黙への回答 長崎にも◇
広島原爆は約六十キロの濃縮ウランを核分裂させた。正確な計測は不可能だが、爆発時、十四兆カロリーのエネルギーを放出、表面温度最大三十万度の火球は爆心で一平方メートル三十トンの衝撃波を生み、十五キロ先のガラス窓を割ったとされる。
米国は、日本が瞬時に悲鳴を上げ、降伏すると思っていた。だが、日本は沈黙。なぜだ。一束の文書綴(つづり)が、そのいら立ちをうかがわせる。
東京・愛宕山のNHK放送博物館に残る「敵性情報」。ざら紙にタイプされているのは、同盟通信による米国ラジオ放送の傍受記録だ。
「(日本の)検閲は広島の原子爆弾攻撃の詳細を隠している」(AP・グアム島七日)、「世界は、広島の被害を早く知りたがっているが、偵察機の努力も、いまだ甲斐(かい)なく、惨たんたる地上の姿を知るには、しばし待つ以外ない」(ロイター・ロンドン七日)、「米軍筋は、爆弾の効果に関し、報告を待っている」(ロイター・ワシントン七日)
米国が被害実態をつかめずにいる間にも、トルーマン声明は世界を駆けていた。
エジプトの「アル・アハラム」紙は七日付一面で「ダイナマイト二万トン以上の破壊力の核爆弾を開発」と報道。インド「ヒンドゥスタン・タイムズ」も「日本に原爆」と伝えた。モスクワでも「原爆出現」が各紙に掲載された。
だが、日本は伏せ続けた。
「恐ろしい爆弾だとわかったら、国民が混乱して士気に影響する。情報管制すべきだと、軍が譲らなかった」
外相秘書官として連日、外務省と陸海軍の幹部会議に出席していた加瀬俊一氏(94)は鎌倉市の自宅で振り返る。耳は遠いが、歯切れ良い口調は、今も変わらない。
外相の東郷茂徳はトルーマン声明の三時間後、内容を知り、陸軍に問い合わせた。軍部は「強力な普通爆弾だ」と突っぱねる。午後の閣僚会議でも「トルーマン声明は謀略かもしれない」と言った。
それでも、うわさは流れ、作家の高見順は七日付の日記で、新橋駅で会った義兄から、「広島は原子爆弾でやられたらしい」と聞かされたことを記している。
「政府でも、一発の爆弾で二十万人が死んだという話だったが、状況がつかめず不気味だった」と、加瀬氏はいう。原爆開発中の仁科芳雄に確認して「原爆だろう」と知らされ、東郷に報告した。
「本件爆弾は惨虐(ざんぎゃく)性において、人類文化に対する新たなる罪状なり」
政府は九日夜、中立国スイス経由で米国に抗議した。
国際社会でも原爆批判が始まっていた。
「ローマ法王庁が原爆投下に遺憾の意を表明」(ロイター、AP)、「被爆地は七十年間、死の世界と化す。科学者が宣告」(米ワシントン・ポスト紙)、「陸軍省は、広島が放射能のため何十年も居住不能になるという説を否定した」(AP・ワシントン)
そして九日午前、米国はしびれを切らしたように「二発目」を長崎に投下した。未明にはソ連も参戦。天皇は十日、ついに聖断を下した。
その直前、駐スイス日本公使から外務省に送られた電文が、国立国会図書館に残る。
「スイス紙は八日、『連合国側は新爆弾の人道的なる所以(ゆえん)を説かんとし、これにより将来戦争は起こり得ざるべしと言い居るも、米国世論の一部さえ、米英による右製造の独占は結局、一時的のものたらざるを得ずとし居れり』と指摘、英仏の新聞も『新爆弾が一強国により独占せらるる場合には帝国主義的征服の一手段と化す』と懸念している」(瑞西(スイス)情報第二七三号)
世界はすでに、戦後に起きる核問題を見通していた。
[敵性情報]
戦争末期、社団法人「同盟通信社」情報局分室が連合国側の電波を傍受、それを翻訳したもの。陸海軍など関係機関に配布されていたが、新聞社などには公開可能なものだけが流されていた。日本放送協会(NHK)放送博物館では現在、45年8月7〜11日と同14日の計6日分が所蔵されている。
(大阪地方部 永山太一、同社会部 西嶌一泰)
*◆原爆投下(3)
*人類は無数の戦乱で、生命を奪い合ってきた。
第二次世界大戦でも、ドイツのハンブルクは四日間で二千五百四十機の爆撃を受け、七千九百四十一トンの爆弾を浴びて約十万人が死亡。東京は九か月間で四千九百機から四十万発を投下され、十万人とも言われる犠牲を出した。
だが、広島では、たった一発の爆弾が、約十四万人を死に追いやった。廃虚の街で、壊れたビルが墓標のように点々と立ち尽くす光景は、この世の終わりを思わせた。
半世紀後、その墓標の一つが、世界の遺産となった。
九六年十二月五日、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会が、メキシコの古都メリダで開いた総会で「原爆ドーム」の登録を承認。広島で朗報を聞いた平岡敬・市長は「ドームの価値が国際的に認められた」と、メッセージを発信した。
同じころ、地球の反対側の総会場で、米国代表が苦渋の表情を浮かべながら、声明を読み上げた。
「原爆投下の前に何があったか。ヒロシマの悲劇を理解するカギは、そこにある」
米国は登録に同意しなかった。被爆の悲劇を世界が認知するドーム遺産化。原爆投下を「日本が起こした戦争を早く終わらせるため」(当時の陸軍長官スチムソン声明)と正当化してきた同国には、それが耐えられなかったのだ。
「戦争遺跡には、それぞれの思いがある。当事者が生きている間の遺産化は時期尚早かもしれない」と、日本政府関係者らと総会に出席した元国立文化財研究所長の伊藤延男さん(73)は振り返る。
ドームは世界での認知を求めた瞬間から、国際政治のただ中にほうり込まれた。
日本政府は九四年六月、核兵器使用が国際法に反するかどうかを審理中の国際司法裁判所に「違法とは言えない」とする陳述書を提出。「唯一の被爆国が核保有国の肩を持つのか」と批判を浴びた。
ドーム遺産化に本腰を入れ始めたのはその直後だった。
だが、米国は厳しかった。
「困ったことが起きた」と、遺産の候補を事前審査する非政府組織「国際記念物遺跡会議」の副会長だった伊藤さんは九六年三月、エルサレムでの会合で、米国代表から耳打ちされた。「選挙を控え、上院が、当局に対し、ドーム遺産化を認めないように働き掛けている」
さらに三か月後、パリでの遺産委総会の事前会合では、ドームが議題から外れた。議長国ドイツが「政治問題化を避けるため、十一月の米大統領、上院議員選まで議論しない方が得策」と判断した。
日本側も刺激をやわらげようと腐心。「ドームは戦争の悲惨さの象徴ではなく、平和のシンボルだ」と訴えた。
それでも総会では、中国も「アジア諸国も(日本軍のため)あの戦争で多大な人命と財産を失った」と棄権した。
意外な「反乱」も起きた。
もう一つの被爆地・長崎で十六年間、市長を務めた本島等さん(76)が遺産化に対して「広島よ、おごるなかれ」とする論文を発表。「原爆は日本の侵略への報復。反省があれば、登録申請などできなかったはず」と訴えた。
本島さんは、原爆で一歳下のいとこを失った。一家六人の遺体を焼いた親類もいる。だが、「アジアには、原爆によって日本の支配から解放されたと考えている国もある。日本は被爆を訴える前に自らの戦争を総括するべきでは」と問いかける。
被爆後の両市の対応ぶりには「怒りの広島、祈りの長崎」とされる違いがある。
米雑誌「タイム」は六二年五月十八日号で「広島は悲運を宣伝している。長崎は寛容の記念碑」と対比した。
この差が生まれた背景は、あまり知られていない。
(大阪社会部 西嶌 一泰)
[原爆ドーム]
広島県物産陳列館として1915年に完成した鉄骨入りレンガ、石造りの3階建ての建物で、後に県産業奨励館と改称した。原爆は建物から南東約160メートルの上空で爆発、建物はほぼ真上から1平方メートルあたり30トンともいわれる衝撃波を受け、中央部のドーム周辺を残して大破、内部にいた約30人が即死した。現在は国内外から年間約150万人の観光客らが訪れている。
*◆原爆投下(4)
*◇撤去された「長崎の遺産」
ヒロシマの三日後、二発目の原爆が長崎に投下された。
広島の一・五倍の威力を持つ爆弾「ファットマン」は一九四五年八月九日午前十一時二分、市中心部の北約三キロの上空五百メートルでさく裂した。
「緑という緑は木の葉、草の葉一枚残らず姿を消している。ああ地球は裸になってしまった。数えきれぬ裸形の死人。地獄だ、地獄だ」
放射線医学者、永井隆が「長崎の鐘(かね)」で描いた惨状。約七万四千人が犠牲になった。
消えた遺産がある。浦上カトリック教会の天主堂だ。ロマネスク様式でアーチ型の玄関や二つの塔を持つ「東洋一の大聖堂」は、あの日、レンガ壁の一部と聖マリア、ヨハネの石像を残し、倒壊した。
「はかなさと悲哀。人間の愚かさを実感させる荘厳な廃虚だった」。元市議、岩口夏夫さん(71)は面影をたどる。
市の「原爆資料保全委員会」は九度、当時の市長・田川務に保存を求め、市議会も保存を決議した。その廃虚が五八年春、取り壊された。
うわさがあった。米国が「なぜ二発目を、しかも神の館に……」との非難をかわすために惨禍の記憶を廃虚と一緒に消そうとし、市もそれに協力したのでは、というのだ。
市は五五年、日本と海外の姉妹都市の第一号として、カトリック信者が多い米セントポール市と縁組。岩口さんは「政治のにおいを感じた。市長は五六年に訪米、天主堂再建資金の寄付を受けたのでは、とささやかれた」と言う。
教会からは司教の山口愛次郎が五四年に渡米、寄付を募った。「二百五十万ドル必要で、全米で四万ドル集まった。司教も私も、悲惨な廃虚はない方がいいと考えた」と、渡米を勧めた米国人神父トマス・パーセルさん(85)は話す。
教会にも、保存派はいた。
「被爆の悲劇をあれほど伝えたものはない。米兵に『見に来なさい』と言っても、怖がって来なかったほどだ」と、当時の主任神父の中島万利さん(90)。「再建は代替地で、との考えもあったが、市はなぜか具体策を示さなかった」と、首をかしげる。
天主堂は五九年、廃虚跡に再建された。岩口さんは「あの天主堂があれば、原爆ドームとともに世界遺産になった」と、今も口惜しがる。
米側の圧力もあった。
「長崎の鐘」の出版を担当した式場俊三さん(86)は四八年冬、東京・虎ノ門のビルの一室で、連合国軍総司令部(GHQ)中佐から「これは命令だ。聞かなければ会社をつぶす」と告げられた。日本軍のフィリピンでの残虐行為の記録「マニラの悲劇」を「長崎の鐘」に併載せよ、というのだ。
「長崎の鐘」は四九年一月に出版、映画化もされるなど、一世を風靡(ふうび)した。
その初版、再版の約十五万部で原爆の悲劇とセットにされた記録は「GHQ諜報(ちょうほう)課」編。「日本兵は銃剣を赤ん坊の頭に突き刺した。母親が叫び声をあげると、即座に彼女を射殺した」などと虐殺の模様を列挙し、序文で「この無差別な殺傷行為を止めるため、米国は原爆を使った」としている。
狙いは明らかだ。
式場さんは「永井さんが原稿を書いたのは平和のため。日本の過去を謝罪するためではないと訴えたが、認められなかった」と振り返る。
永井の長男の誠一さん(63)も「GHQに屈したと言う人もいるが、父は『これで世界にナガサキが伝えられる』と喜んでいた」と証言する。
ヒロシマと長崎。二つの被爆都市は、戦後も国際政治の波間に揺れ続けてきた。(大阪社会部・西嶌一泰)
[永井隆の「長崎の鐘」]
永井は被爆後、救護活動に尽力したが、長年の研究と治療で浴び続けた放射線のため、白血病を発病、51年5月、43歳で亡くなった。病床で、自らの体験や幼いわが子への思いをつづった「この子を残して」「ロザリオの鎖」などの作品を発表した。「長崎の鐘」は、救護の記録などをもとにした処女作。原爆を「神の摂理」としたくだりが「原爆投下を正当化する」との批判も浴びた。
*◆原爆投下(5)
*◇核の時代と2人の女優◇
一九四五年八月十六日、玉音放送の翌日、東大安田講堂前を白い花柄のワンピース姿の女性が歩いていた。
新劇の女優、仲みどり。移動演劇団・桜隊の団員として公演先の広島で被爆し、廃虚をさまよって九日に帰京した。外傷はなかったが、食欲不振やめまいがひどく、東大付属病院を目指していた。
医学部二年だった中村克郎さん(73)は道を尋ねられ、放射線障害の権威の教授・都築正男のもとへ案内した。
「言葉もしっかりし、重症には見えなかった」
が、二日後、臨床講義の教室で再会すると、髪が抜け、別人になっていた。発熱、腫瘍(しゅよう)など病状が悪化。二十四日に死亡した。享年三十六歳だった。目まぐるしい容体の変化は医師たちに衝撃を与えた。
死亡後一時間で解剖。都築は記録に「原爆症第一号」と書き込んだ。医学部の標本室には、破壊された肺組織と血液が黄変した大腿(だいたい)骨の切断面が今も残る。
広島、長崎の全員がこの症状とすると……。都築は無数の患者を思い浮かべ、すぐ政府に働きかけ広島へ向かった。
広島・比治山公園にカラフルな七棟の建物がある。放射線影響研究所。今は日米共同運営となったが、前身は都築らが働きかけ、米国学士院が四七年に設立した原爆傷害調査委員会(ABCC)だ。
当初はマンハッタン計画の後身の原子力委員会が運営資金を出すなど、軍事目的の思惑もうかがえた。調査対象は約二十万人の被爆者。人類初の惨禍の犠牲者が身をもって提供したデータは、放射線被曝(ひばく)の線量限度の国際的基準や、全世界の原子力発電所の安全基準に生かされた。
だが、医療を重視する日本側と、研究を急ぐ米側は、軍事機密もからんで衝突。都築は四か月で解任された。
写真撮影では女性まで全裸にされた。「被爆者は実験台なのか」との声が漏れた。
「ABCCは研究のみで、治療を行わない」と抗議した国労広島地方本部の執行委員だった末宗明登さん(72)は「米国相手の抗議には大変な勇気が必要だった」。ABCCの連絡員だった山内幹子さん(67)は「調査で被爆者宅へ行くと『売国奴』とどなられ、幾度も泣いた」という。
米国側も譲らない。
五四年、女優のマリリン・モンローがやってきた。
「とてもかわいらしい人。皆は毛皮の下に何も着てないとうわさしていた」と、仕事机の角に突然、座られた元職員の横山初子さん(89)は、来訪を振り返る。モンローはその足で、朝鮮戦争直後の韓国の米兵も慰問した。ルーズベルト元大統領夫人も前年、ABCCを激励に訪れており核時代の最先端研究施設にかける米国の強い期待をうかがわせた。
初代副所長の槙弘さん(93)は五七年から十五年間所長を務めたダーリングが「(患者重視へと)流れを変えた」と信じている。部屋に武者小路実篤の絵を飾り「カボチャ、ナスと外観は違っても皆同じ」が口癖のダーリング所長。被爆者の慰霊祭を営むなどで不満をやわらげ、長期的な研究計画を策定した。
白血病以外のがんと放射線の関係がこの研究で判明。国際放射線防護委員会(ICRP)はそれを基に七七年と九〇年の二度、基準を厳しくした。原発や医療などで被曝と背中合わせの放射線従事者は世界で約四百万人。日本の防護学界のトップの一人、草間朋子・大分県立看護科学大学長は「被爆者の尊いデータが核時代の人類を守っている」と語る。
仲みどりとマリリン・モンロー。二人の女優が核の時代を横切って去った。
だが、今なお核の十字架を背負って生きる家族もいる。(大阪地方部・永山太一)
[被爆医療]
広島、長崎両市の医師は被爆当日から救護活動を開始、そのさなかに原爆症死した例も多い。占領時代は被爆実態は隠されていたが、GHQが去った52年には両市の医師が行政などと作った原爆障害の対策協議会で明らかにされた。チェルノブイリ後は研究機関も含めた国際協力組織が両市にでき、被爆経験を生かした海外貢献を行っている。
*◆原爆投下(6)
*◇“見えぬ恐怖”一家に魔手◇
広島、長崎に投下された原爆の被害は、五十三年たったいまも確定されていない。
爆心地を中心に跡形もなく消えた人間が何人いたのか調べようもなく、大量の放射能を浴びた被爆者たちがいつ、どんな症状に襲われるかも、現在の医療水準では明確にできないからだ。
原爆投下の時点でわかっていたのは、被曝(ひばく)が白血病を誘発し、腫瘍(しゅよう)の原因になることぐらいだった。ラジウムを発見し、白血病死したキュリー夫人、大量のエックス線にさらされ、がんで死んだエジソンの助手らが、戦前の被曝死例だ。
だが、全身に大量の放射能を浴びた広島、長崎の被爆者六十万人にどんな症状が現れるかは未知の世界だった。
大阪市鶴見区の吉田光代さん(65)の戦後は、恐怖と不安の歳月だった。
一家は長崎市浦上町に住んでいた。兄は出征したが、父は軍隊に行くこともなく、両親と姉、光代さん、弟と二人の妹、七人の元気な家族。つましくも、落ち着いた戦時の暮らしだった。
あの日は、学徒動員先の三菱長崎兵器大橋工場にいた。光代さんが病院で意識を取り戻したのは三日後。九月に入って歩けるようになると、家族を求めて瓦礫(がれき)の町へ出た。
爆心地から一キロの自宅は見る影もなかったが、両親と四人の姉妹弟は大けがもなく、兄も帰還して、近くで仮住まいをしていた。光代さんが戻り、一家がそろったのを機に、福岡県飯塚市のいとこの家に身を寄せた。一家は原爆を乗り切ったかに見えた。
だが、間もなく両親と長姉が高熱を出し、胸や喉(のど)の皮膚が黒く変色した。
九月十日午前五時、母が「針、針……」と突然、うわ言を言った。かけ寄ると死んでいた。三時間後、今度は父。昼前には姉が「お母さんが呼んでる」と遺体にすがり、息絶えた。二十世紀初頭、エジソンの助手の時代に米国の医師が「他の病気に比べるべくもない」と表現した放射線障害だった。
光代さんら幼い四人は兄と別れ、四九年、大阪の叔母に引き取られた。
安らぎが戻ったのも束(つか)の間。妹二人と弟の髪が全部抜けた。被爆時、母が覆いかぶさって守った三人。なのに脱毛するほどの大量被曝だった。
叔母はかつらの心配までしたが、やがて容体は落ち着き、原爆症の恐怖は去った。
六五年、長崎大が被爆者の白血病発生は五一〜五三年をピークに減少したと報告。光代さんらは白血病多発期を乗り越え成人、結婚もした。
ところが七〇年、原爆障害調査委員会が「被爆者は一般より27%もがん発生が多い」と不気味なデータを出す。
八四年、症状はまず、被爆していないはずの兄に現れた。投下直後の長崎で家族を捜した際の〈二次被曝〉。肝臓がんになり、入院一か月で死んだ。五十六歳。息子を案じながらの死だった。
翌年、末妹が肺気腫に。肺は真っ白で入院から四十日、四十五歳で逝った。
九〇年には、末弟が兄と同じ肝臓がん。五十三歳で、血を吐いて死んだ。四年後、放射線影響研究所は、肝臓がん発生が被曝線量に比例して増えると発表した。
光代さんも九七年に大量吐血。今春、脳内出血で倒れ、白内障で視力も低下した。
「私には、何が襲いかかるのか」。せめて子どもたちが元気なのが救いだが、恐怖は絶えず走る。幸い、遺伝子への影響についての決定的な証拠は、まだない。
長崎、広島に落とされた人類初の原爆。この〈最終報告書〉を人類が手にするのは、二十一世紀以降になる。(大阪地方部 永山 太一)
[被爆二世]
動物実験では放射線が遺伝子を傷つけ突然変異を誘発することも確認されている。だが、広島・長崎の調査では現在まで遺伝障害の有無はわかっていない。重度の先天異常が、死産や新生児死亡に紛れて調査されなかった可能性を指摘する研究者もいるが、現時点では、想像の域を出ない。
*◆原爆開発(1)
*◇「国家管理の科学」幕開け◇
「ここに滞在できるのは九十分間。ここで物を食べたり、物を拾ったりしてはいけない」
案内役の国防総省広報官、デボラさんから注意を受ける。ここは、米ニューメキシコ州アラモゴルド砂漠。五十三年前の七月十六日、史上初の核実験「トリニティー」が行われた場所だ。
「日本だから原爆を投下したのではないか」と聞くと、父親が日本軍と戦ったというデボラさんは、あっさり「ドイツ相手には落とさなかったと思う。米国にはドイツ移民も多い。どこからドイツ人で、どこからアメリカ人かなんて言うのは難しい。人種の問題があったと思う」と答えた。
◇
核実験の瞬間、マンハッタン計画の指揮官レスリー・グローブズ少将、ロスアラモス研究所のロバート・オッペンハイマー所長らが見守る中、高性能火薬約二万トンに相当する威力のプルトニウム型原爆が天を焦がした。午前五時二十九分だった。その爆発音は約百九十キロ離れたアルバカーキの街でも聞こえ、早朝ということもあり不審に思った住民も多かった。
だが、機密保持に抜かりはなかった。無用の関心を封ずるため、地方紙向け発表文がすでに用意されていた。翌日の新聞には「弾薬庫が爆発」と小さく載った。
マンハッタン計画は徹底した情報管理が行われ、実務は「暗号」に満ちていた。計画の正式名称は「代替品開発計画」、プルトニウムは「四九(プルトニウムの原子番号九十四をひっくり返した)」や「銅」、ウランは「チューブ用合金」、原爆開発の中核となったロスアラモス研は「Y号地」、シカゴ大の研究所は「冶金(やきん)研究所」と呼ばれた。
人名も頭文字だけ同じ変名で、史上初の原子炉を作ったエンリコ・フェルミ(三八年ノーベル物理学賞)は「ユージン・ファーマー」、理論物理の大御所ニルス・ボーア(二二年同)は「ニコラス・ベーカー」といった具合だ。
標高二千百メートルの孤立した台地に、原爆開発のために建設されたロスアラモス研では、関係者は、指紋と顔写真を採られ、体中の傷を調べられ、手紙は検閲、電話は盗聴された。登録番号「技師一八五号」の物理学者リチャード・ファインマン(六五年同)は、夫人との手紙でわざと、暗号めいた表現を入れたり、ジグソーパズルの手紙を出そうとしたりして検閲係をからかった。
グローブズがロスアラモス研を作った目的の一つは、シカゴ大やコロンビア大など全米に散らばった科学者集団を一か所にまとめて監視しやすくすることだった。グローブズは、科学者集団の自由かっ達な雰囲気、行動のスタイルを嫌っていた。彼は「外野手が、投手の交代時期などを考える必要はない。科学者はそれぞれ、自分の仕事をすればよい」と厳しかった。
当時、シカゴ大冶金研でプルトニウムを大量生産する方法を研究していたグレン・シーボーグ博士(86)(五一年ノーベル化学賞)は「トリニティーでの実験は事前にシカゴには知らされなかった。それがグローブズの隔離主義だった」と証言する。
マンハッタン計画において、科学者は初めて本格的に軍や国家による管理を体験し、それに従った。「国家に貢献する科学」の確立だった。そして、戦後、際限ない核軍拡競争に多くの核科学者が疑いを持つこともなく参加していくことになる。
(科学部・柴田文隆)
[原爆のニックネーム] 広島に投下された原爆は、関係者の間で「リトル・ボーイ」、長崎の原爆は「ファット・マン」というニックネームで呼ばれていた。しかし、この事実は60年代まで機密扱いだった。大きな惨禍を招いた原爆投下において、あまりに不謹慎ではないかとの国際的非難を恐れた米国政府の措置だったと言われる。
*◆原爆開発(2)
*◇米計画支えた“亡命頭脳”◇
米マンハッタン計画の原動力となったのは、独伊などの枢軸国側から逃れ、米国に新天地を求めた亡命科学者たちだった。その多くはユダヤ人で、英国の作家C・P・スノーは、一九三〇年代に起きたこの大規模な頭脳流出を「ビザンチン帝国崩壊以来の劇的で影響の大きい、知識人の大移動だった」と表現した。
ナチスの残虐さ、ドイツ科学の優秀さを知り尽くす彼らは、ドイツが先に原爆を手にすることを恐れ、米国の原爆開発にまい進した。開発を担当したロスアラモス研究所の理論部門責任者、ハンス・ベーテ博士(92)も、亡命を受け入れてくれた米国に対し「何か役に立ちたいとの熱気があった」と当時を振り返る。
そもそも、ハンガリーからの亡命者レオ・シラードが奔走しなければ、マンハッタン計画は存在しなかったかもしれない。同計画は三九年八月、アインシュタイン博士がルーズベルト大統領に原爆製造を促す手紙を出したことから始まるが、博士を説得し、下書きを練ったのは彼だった。
エンリコ・フェルミは、三八年のノーベル賞授賞式出席のためムソリーニ政権下のイタリアを出国、そのまま米国に亡命した。核分裂を引き起こす中性子の権威であるフェルミは、計画に欠かせない頭脳だった。そして四二年十二月二日、シカゴ大でプルトニウム生産に必須の原子炉「CP1」の制御に成功する。人類が“原子の火”を手に入れ、暗中模索だったマンハッタン計画が実現に向け大きく踏み出した瞬間だった。
当時、原爆の原料になるのが濃縮ウラン、プルトニウムだということはわかっていたが、どちらを選択すべきかは不明だった。米国は、強大な国力を頼りに「同時に全部やる」と見切り発車していたが、もしCP1が失敗すれば、計画全体の再構築が迫られるのは必至だった。
原子炉の実験当日、マンハッタン計画の上層部は、炉が制御不能となってシカゴ市が全滅することを恐れ、実験をシカゴ大学長にも通告せず、炉に特殊な液体をかけて緊急停止させる“自殺部隊”まで待機させていた。同僚科学者が逃げなかったのはひとえに、自信に満ちた天才フェルミを信じたからである。
多大な貢献をした亡命科学者たちも、マンハッタン計画が進展するにつれ、計画の重要な部門から遠ざけられた。特にシラードのように、原爆の対日使用に反対し、科学者の署名を集めて阻止を企てるような政治的な人物は切り離され、影響力を失った。
一方、敵性外国人でありながら、フェルミは、例外的に最後まで中枢部門に関与する。ラジオの所持禁止、移動の許可制など、私生活は不便だったが、米国の研究環境に満足していたのである。
CP1成功直後、祝福を受けるフェルミに、シラードがかけた言葉は、やがて起こるヒロシマ・ナガサキの惨劇を予見したものだった。「きょうという日は、人類史に『暗黒の日』として残るだろう」
フェルミの成功を受け、ワシントン州ハンフォードにプルトニウム生産施設が建設され、やがて大量のプルトニウムがロスアラモス研に出荷されるようになった。テネシー州オークリッジのウラン工場から濃縮ウランも届けられ、四五年七月までには、ウラン型原爆一発、プルトニウム型原爆二発が組み立て可能となったのである。
英国のレーダー開発の父と言われたワトソン・ワットは「次善の次を戦場に送れ。次善は遅れる。最善は完成しない」と言った。だがマンハッタン計画は“奇跡”を起こした。原爆は、対独戦にこそ遅れたが、極東の戦場には間に合ってしまったのだった。(科学部・柴田文隆)
[亡命科学者]マンハッタン計画にかかわった亡命科学者には、アインシュタイン、ジェームズ・フランク、ハンス・ベーテ(以上ドイツ)、フェルミ、エミリオ・セグレ(以上イタリア)、ユージン・ウィグナー(ハンガリー)らノーベル賞受賞者も多く含まれている。当時、米国は移民を制限していたが、知識人は優先的に受け入れた。
*◆原爆開発(3)
*◇独計画葬った最終報告◇
米英は、ドイツが先に原爆を開発するのではと恐れていた。それには理由があった。
ウランの核分裂を一九三八年末に発見したのは、ドイツ人科学者のオットー・ハーン(四四年ノーベル化学賞)らだったし、ドイツは当時、優良なウラン鉱山があるチェコスロバキアを占領していた。
そして何より、米英を疑心暗鬼にさせたのが天才物理学者、ウェルナー・ハイゼンベルクの存在だった。
ハイゼンベルクは二十代にして不確定性原理で量子力学の基礎を築き、三十一歳でノーベル賞を受賞。米国の原爆開発の中心となったロバート・オッペンハイマーが「私がドイツで原爆を製造するとしたら、まず彼を協力者とするだろう」と評した逸材だった。彼がナチスに協力し、原爆開発に関与している、と疑われる「状況証拠」もあった。
その最たるものは、彼が、米コロンビア大などから教授職提供の申し出を受けながら、また友人らの亡命を勧める説得にもかかわらず、ドイツにとどまり続けたことだった。四一年九月、ハイゼンベルクがかつての僚友ニルス・ボーアに「原子エネルギーの軍事利用の可能性」について語ったことも連合国側の恐怖心をあおった。ナチスへの危険な協力者として彼を暗殺する計画すら立てられたという。
だが実際には、ハイゼンベルクは、原爆開発に加担していなかった。
ハイゼンベルクは開戦直後の三九年九月二十日、陸軍に呼び出され、原爆の可能性を研究するよう命令された。だが彼は四二年六月四日、兵器開発の全権を握るシュペーア軍需大臣に対し、原爆開発には膨大な資金と数年の年月がかかり、ドイツの戦時下の国力では無理とする最終報告をした。ヒトラーは当時、開発に半年以上かかる兵器研究を認めておらず、ドイツの原爆開発計画はこの日、葬られたのである。
彼の本心については諸説あるが、彼がナチスに同調せず、それに利するような原爆研究はサボタージュし続けた、というのが真相のようだ。事実彼は、ユダヤ人のアインシュタイン博士を公然と支持、ナチスに入党せず、ナチス式敬礼すら拒否、厳しい迫害に耐えていた。彼は、ナチスが滅びた後の祖国ドイツの復興を思い描いていた。「ナチスは二年程度で戦争遂行能力を失うだろう。戦後のドイツ科学界を再建するためにも、自分がドイツから逃げてはならない」と考えていた。
結局、彼が戦時研究として細々と続けたのは、エネルギー源としての原子炉建設だった。連合国の空襲が激しくなると、ベルリン郊外の研究所を離れ、最後はドイツ南西の田舎町ハイガーロッホまで逃れ、研究は続けられたが、研究炉はついに戦時中には臨界に達することもなく終わった。
ドイツ・ライプチヒ大時代にハイゼンベルク教授のゼミナールを受けたハンス・ベーテ博士(92)(三五年米国亡命)は、「原子炉があれば、原爆の材料になるプルトニウムが作れることを彼が知っていたのは間違いない」と証言する。だがハイゼンベルクがその知識を軍に提供した形跡は全くない。
ただ、天才ハイゼンベルクにも、重大な見込み違いがあった。彼は米国ですら、原爆をこの戦争に間に合わせることはできないと考えていた。
だが、シュペーア軍需大臣が原爆を断念したと同じころ、まさに米マンハッタン計画は、ウラン型とプルトニウム型原爆を同時並行で開発する方針を固め、全力疾走の態勢に入っていたのである。(科学部 柴田 文隆)
[連合国の諜報活動]
ドイツの原爆計画に神経をとがらせていた米英は、特殊部隊を編成し、欧州で広く諜報(ちょうほう)・破壊活動を展開した。ハイゼンベルク暗殺計画立案のほか、ドイツが押さえていたノルウェーの原子力関連施設(重水工場)爆破、ハイガーロッホ原子炉の探索・破壊などを遂行。情報戦でもドイツを圧倒した。
*◆原爆開発(4)
*◇「仁科研究」灰じんに帰す◇
日本の原爆研究も、着手時期は早かった。
太平洋戦争が始まる八か月前の四一年四月、陸軍航空技術研究所長の安田武雄中将が、理化学研究所の大河内正敏所長に研究を依頼。仁科芳雄主任研究員が担当者になり、ニシナの頭文字をとって陸軍「ニ号研究」がスタートする。
安田が部下の鈴木辰三郎中佐に「原爆の可能性について調査せよ」と指示したのは、さらに一年さかのぼる四〇年四月のこと。鈴木氏(86)は三七年四月から委託学生として東大物理学教室で学び、当時、陸軍の研究所に戻ったばかりだった。同氏は、「安田中将に『原爆は実現する可能性がある。八キロ・グラムのウランが爆発すると火薬一万八千トンと同じ力を出す。ウラン資源も探せば日本にもあるのではないか』と報告したことを鮮明に覚えている」と語る。
日本陸軍の劣勢ばん回の切り札をゆだねられた仁科芳雄は、世界の物理学の中心だったデンマークのニールス・ボーアのもとで、生まれたばかりの量子力学を学んだ俊秀。彼が指導した理研には、旧習にとらわれがちな帝国大学理学部とは違った雰囲気が満ち、「科学者たちの自由な楽園」(朝永振一郎)と評されたほどだった。
欧米の科学誌も届かず、世界の物理学界から孤立を深めていた日本だが、仁科は、イオン粒子を加速する巨大装置サイクロトロンの建設を指揮し、四二年十二月には宇宙線を研究中の竹内柾(まさ)研究員に、ウラン濃縮技術の開発を指示するなど、基礎研究を進めた。また開始時期は遅かったが、海軍が京都大・荒勝文策教授に依頼した「F号研究」(「F」は「核分裂=fission」の頭文字)も小規模ながら研究を行っていた。
戦後、日本は科学戦で米国に敗れたとされたが、当時の日本の物理学水準は、部分的には、世界の先端に近い位置にあったと言える。
ドイツの動向にはあれほど神経を配った連合国も、日本の原爆研究にはノーガードだった。しかし、終戦直後に進駐し日本の研究状況を調査した米軍は、当時は世界でも米カリフォルニア大などにしかなかったサイクロトロンが理研、京大、大阪大に計四基も建設されているのを知って驚き、この四基を破壊した。
竹内研究員らは四三年三月、ウラン濃縮の方法として、ウラン化合物をガス化し長大な筒を通して濃度を上げていく「熱拡散法」を採用したが、これは米マンハッタン計画でも検討された方法だった。
だが無論、戦時下の日本の国力で原爆を製造することなど夢物語だった。それは仁科にもわかっていた。
陸軍が理研に提供した予算は約二百万円。朝鮮半島や福島県石川町で行われたウラン資源探索などの予算まで含めても最高二千万円程度。算定方法にもよるが、これは米マンハッタン計画の数百分の一から千分の一程度にとどまる。
山崎正勝・東工大教授(科学史)は「米国は四四年末の報告書で、日本は資源不足で原爆開発は無理と見切っていた。米国は、世界中のウラン資源を会社に委託して調査させたが、この文献・実地調査の年間予算だけで、仁科研で使われた開発費を上回っていた」と分析する。
竹内は四三年秋までに高さ五メートル、直径四十四ミリの二重になった銅製パイプを組み立てる。だが翌年三月までの試験の結果、ウラン濃縮の効果は得られなかった。そして、終戦の四か月前、空襲で理研は焼け落ち、日本の原爆研究は幕を閉じたのである。(科学部 柴田 文隆)
[ウラン輸送作戦]
1945年5月19日、北大西洋で日本に向かっていた一隻の独潜水艦Uボートが米軍に投降した。艦内には、世界初のジェット戦闘機の設計図、部品のほか、日本陸軍が要請した酸化ウラン約560キロが積まれていた。このウランが広島、長崎に投下された原爆の原料になった、との米側関係者の証言もある。
*◆大東亜共栄圏(1)
*◇理念空回り、日本の大義◇
いつの時代も戦争は、理念と大義を必要とした。太平洋戦争も例外ではない。米英は「自由と民主主義」の旗印の下に、「軍国主義」日本を軍事力でたたいた。これに対して、日本が掲げたのが「大東亜共栄圏」だ。
開戦時の首相、東条英機の遺族宅に一枚の写真がある。
参議院一号委員会室(当時貴族院)。コの字形の机の中央に軍服の東条が陣取り、両わきに六人、後方に随員。
「父が逮捕されるまで東京・用賀の私邸の応接間にこの写真が掲げてあった。最も誇らしい晴れ舞台だった」と東条の三男、敏夫さん(72)。
撮影日は一九四三年(昭和十八)十一月五日か六日。初の「大東亜会議」の光景だ。
このとき東条が提案し満場一致で採択された「大東亜共同宣言」は、英米の「大西洋憲章」に対抗、日本の大義「大東亜共栄圏」構想を初めて世界に問うものだった。
日本は真珠湾攻撃の直前まで開戦の名目が立たず苦しんでいた。四一年十一月二日の段階で天皇から「(戦争の)大義名分をいかに考えるか」と尋ねられた東条が「目下研究中」と返答している。五日の御前会議で「自存自衛」と「大東亜の新秩序建設」を掲げることに決したものの、諸外国には説得力がなかった。
新たな大義を必要とするほど日本は追い込まれていた。
遅ればせの宣言だったが、内容を要約すれば「共存共栄」「独立親和」「文化高揚」「経済繁栄」「世界進運貢献」の「五原則」。
伊藤隆・政策研究大学院大教授(65)は「植民地解放をうたい、戦後、アジア各国の独立を促した。旧宗主国の英仏、オランダが植民地を取り戻そうとしたとき、これに勝る大義名分がなかったからだ」と話す。名越二荒之助・元高千穂商科大教授(75)も「戦後、バンドン会議でネールらが提唱した平和五原則の先駆け。アジア各国に深い影響を残した」という。
しかし、このとき出席したのは、大半が日本のかいらい政権代表だった。
中華民国(汪兆銘政権)の汪行政院院長、「満州国」の張景恵首相、フィリピンのホセ・ペ・ラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース代表の賛成演説は、東条のコピーに近い。
唯一の正統政府、タイは、ワンワイ・タヤコン殿下を代理出席させ、距離を置いた。
豪ABC放送は「二人の顕著な欠席者がある。タイのピブン総理と仏印のドクー総督。この両人は、自国民の反日感情、ないし対日非協力の態度を知り、日本の独裁者に対する自信を持ち始めた」と分析した。
反英闘争の英雄、ボースは「岡倉覚三(天心)先生、孫逸仙(孫文)先生の夢が実現されんことを」と発言したが、仮政府代表として、共栄圏をインド独立に利用したいとの思惑が先立っていた。
天心の言葉「アジアは一つ」にもかかわらず、この時期から抗日運動が激しくなる。
ベトナムのベトミン戦線、フィリピンの人民抗日軍、マレー人民抗日軍。旧満州では関東軍七十万人のうち四十万の兵力を東北抗日連軍の「討伐」に割いていた。
日本軍は、この時期、タイ・ビルマ間の泰緬(たいめん)鉄道建設で現地人に強制労働をさせ数千人が死亡、ジャワの農村では「ロームシャ」狩りを行っていた。理念は高く、現実は泥の中であえいでいた。
戦況もあやしかった。すでに二月にはガダルカナル島を撤退、戦線は、総崩れの状態。敗走する日本兵の現地調達という名の略奪も激しさを増し、会議当日にはブーゲンビル島が総攻撃された。(大阪文化部・森恭彦)
[大東亜共栄圏]
日本を盟主にアジア、太平洋に広がる経済圏をつくろうという主張。旧満州に対して「日満一体」、日中戦争期には「東亜新秩序」が叫ばれたが欧州支配下の東南アジアへ「南進」するため植民地解放のスローガンが盛り込まれた。公式の発言としては開戦前年の1940年(昭和15)8月1日、第2次近衛文麿内閣の外相、松岡洋右が記者会見で最初に使用した。
*◆大東亜共栄圏(2)
*◇「国家の理想」東条の弁明◇
晴れ舞台である「大東亜会議」の写真が東条家の応接間を飾ってから二年半、東京裁判の被告席に座る東条英機の姿が世界をめぐった。階級章をはぎ取られた軍服姿の東条は、力なく見えた。
東京裁判では、東条をはじめ二十八人がA級戦犯として起訴された。終戦翌年の五月、東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校大講堂で始まった裁判は、約二年半後、途中死亡の松岡洋右と永野修身、精神に異常をきたした大川周明の三人を除く全員に有罪を言い渡す。
昨年十二月八日。東京の帝国ホテル。軍靴を響かせて近づく坊主頭の男に東条の孫、岩浪由布子さん(59)は涙した。駆け寄り、東条役の津川雅彦さん(58)の手を握る。
「やさしい祖父がそこにいるような気がした」
東京裁判を検証した映画「プライド―運命の瞬間」の製作発表の席だった。
監督の伊藤俊也さん(61)は「日本人は東条が悪いやつと最初から思い込んでいる。一種の思考停止だ」という。
東条評価は、今も揺れる。
最も世論の反発をかったのが東条の自決未遂事件だ。
事件は終戦の秋起きる。MP(憲兵)が拘引命令書を見せると、東条は窓を閉め、心臓に向け、けん銃を発射した。
だが死ななかった。「生きて虜囚の辱を受けず」という戦陣訓を作った男だけに、世間は「自決に失敗するとは」「ひきょう者」となじった。
遺族は反論する。
「銃身の長いコルトで、左利きの東条が自分の左胸に向けると角度が浅く、弾が心臓をそれた。本当に命を絶ちたかったのです」と岩浪さん。
巣鴨で身の回りの世話をしたBC級戦犯の岩渕清巳さん(91)も「よくふろ場で背中を流した。弾は左胸から背中に貫通していた」と証言する。
東条への疑問はほかにもあった。大東亜共栄圏構想は本気だったのか、戦争遂行の口実ではなかったのか。
東条は、タイプ打ち二百二十ページに及ぶ宣誓供述書を書く。五十の訴因で起訴された東条のこん身の弁明だった。
この供述書をもとにキーナン首席検事が初尋問で取り上げたのが「大東亜共栄圏」。
キーナン「米国および西欧諸国が大東亜共栄圏を邪魔したから攻撃したというのか」
東条「国家の理想として大東亜建設を考えた。しかも平和的方法でやりたいと」
だが検察は共栄圏には踏み込まず、開戦の責任に終始した。理念は無視したのだ。
陸士出身の少尉として中国を転戦、いわゆる「三光作戦」にも参加した藤原彰・一橋大名誉教授(76)は、現地で日本が共栄圏など本気で考えていないと、当時気付いた。
華北の農民反乱の鎮圧作戦にも参加するが、「水害による飢饉(ききん)で、日本軍にばかり協力するかいらい政権の過酷な政治に耐えかねての農民の反抗だった。母乳が出ない母親が赤ん坊に雑草の茎を吸わせる姿も見た。これを弾圧しながら東亜解放の聖戦とか、民衆を愛護しているとか言えるわけがない」と証言。
「中国との戦争に行き詰まり、軍需資源獲得のために南方に行った。大東亜共栄圏は、後から考えたこじつけ。まやかしに過ぎない」という。
「中国、アメリカ、フィリピン、イギリス、オランダ、フランス、タイに対する戦争遂行、さらに俘虜(ふりょ)、中国の一般人らの殺害……」
東京裁判の起訴状は、東条を二千数百万の犠牲者を出した戦争犯罪の最高責任者と認定、開戦の責任も負わせた。
東条らA級戦犯七人の絞首刑は四八年十二月二十三日。連合国は、天皇の責任は問わなかったが、皇太子(現天皇)の誕生日を処刑日に選んだ。(大阪文化部 森 恭彦)
[東条英機]
1884年(明治17)陸軍中将、東条英教の長男として東京に生まれる。陸軍大学校を卒業。旧満州で関東軍参謀長。1940年(昭和15)近衛文麿内閣の陸相に。対米英開戦を主張して内閣を倒壊に導き41年(昭和16)10月自ら組閣。首相、陸相、内相を兼任し開戦に踏み切る。44年(昭和19)戦局の悪化で辞任。東京裁判でA級戦犯。48年(昭和23)絞首刑。
*◆大東亜共栄圏(3)
*◇加筆された西田の理想◇
京都・東山の「哲学の道」。大哲学者、西田幾多郎(きたろう)に由来する散歩道だ。思索を愛した学者は、軍靴を嫌悪した。
その西田について衝撃的なリポートが発表される。東条英機が大東亜会議に出した「共同宣言」草案の執筆者だというのだ。東条が断罪されて六年後の「文芸春秋」。筆者は大宅壮一だった。
西田に「戦争協力者」というレッテルが張り付けられたのだ。真相はどうか。
サーフィンのメッカ、湘南・七里ガ浜。今夏も若者の車列が続く。近くに旧西田邸「寸心荘」がある。京都大退官後、夏冬を鎌倉で過ごし、海が見える部屋で論文を書いた。戦後、家は学習院に寄贈、隣家の前川清一さん(83)が管理人を務めてきた。「浜の散歩が先生の日課。戦時中は、米軍上陸に備え砲台や塹壕(ざんごう)がいっぱいだった」と語る。その浜辺の道を黒塗りの車が西田家へたどったのが四三年(昭和十八)五月十九日。
「昭和最大の怪物」と大宅があだ名した政界の黒幕、矢次一夫の国策研究会が差し向けた車だ。西田を乗せると東京・築地の料亭「大和」へ。
料亭には佐藤賢了・陸軍軍務局長、天羽英二・情報局総裁、大政翼賛会の永井柳太郎代議士ら約二十人がいた。
孤高の哲学者と東条内閣の接点は、満州建国に奔走した金井章次。「弟子と自称して出入りし、私も遊んでもらった」と西田の孫、元東京銀行常務の幾久彦(きくひこ)さん(69)は言う。
「戦局が怪しく、こうなったら思想戦だ、大東亜宣言を発表して世界を感服させようと、教えを乞(こ)いに来た」
会合は紛糾。佐藤軍務局長が共栄圏の情勢について説明した後、「日本の天皇(制)をどういう形でどこへ持っていくか」と西田に聞いた。天皇制をアジアに輸出する試みだ。西田は「しょうもなしに、何を言うか!」と一喝した。
さらに「それでは帝国主義でないか。皆が満足しなければ共栄圏でないんじゃ。勝手にこちらから決めて共栄圏だと」と怒る。座は白け、一同は平身低頭で西田を送った。
だが東条のブレーンの一人、蒙疆(もうきょう)学院副院長の田辺寿利は翌日から五日、西田を訪ね、「お説をわかりよいように書いて欲しい」と頼み込む。
渡した草稿が「世界新秩序の原理」。難し過ぎるというので田辺らが書き直し、軍や政府関係者に配った。
勝手に加筆した「聖戦」などの言葉が並ぶ国粋主義的なもので、「徹底した自由主義者だった」=孫の上田薫・都留文科大名誉教授(78)=西田の思想とは遠かった。
新聞で東条演説を知った西田は友人の和辻哲郎に「東条の演説には失望した。私の理念が少しも理解せられていない」と、手紙を送っている。
西田研究家の上田閑照・京都大名誉教授(72)によれば西田が描いていた大東亜共栄圏は、欧州連合(EU)や東南アジア諸国連合(ASEAN)に近いという。西田は、十八世紀は個人が目覚める時代、十九世紀は国家的自覚の時代、二十世紀は世界が自覚する時代と考えた。国家主義や帝国主義は前世紀の遺物ということになる。なのになぜ、西田は料亭へ出掛け、原稿を渡したのか。
永井柳太郎の長男で、学生時代、西田を訪ねた永井道雄・元文相(75)は「学者は政治に恐怖心がある。人間の存在は生臭い」との苦しげな言葉を聞かされたという。
西田は「孤高の哲学者」ではなく、自らの思想をもって「大東亜共栄圏」の理想を実現したいと考えた。その思いが政治に群がる人々につけ込まれたのかもしれない。
(大阪文化部・森恭彦)
[西田幾多郎] 1870年石川県宇ノ気村生まれ。東京帝大哲学選科を卒業。旧制四高、学習院教授を経て京都帝大教授に。禅仏教に傾倒、ドイツ観念論を基礎に東洋的論理を見直す。著書「善の研究」(1911年)は大正期の青年の必読書とされた。戦時中、京都学派と呼ばれる高弟たちに戦争賛美の言動が目立ったが、西田自身は右翼御用学者の攻撃の的となった。45年6月病没。
*◆大東亜共栄圏(4)
*◇南進の先兵、鉱山王・石原◇
日本は「大東亜共栄圏」を唱え南進するが、本音が資源確保であることを世界は知っていた。近代国家には鉄や石油が必要だ。だから明治以来、一獲千金を夢見る野心家が南方にチャンスを求めた。
九三年(平成五)、大阪・江戸堀に十八階建てガラス張りのビルが完成した。酸化チタン製造で国内トップの石原産業本社だ。一〜三階をイシハラホールが占める。ギリシャ風の音楽堂。モーツァルトで開幕以来「音楽のイシハラ」は、市民に定着、指揮者、朝比奈隆さん(90)も「ぜいたくなホール」とたたえる。
創業者、石原広一郎が「南洋の鉱山王」だったことは案外、知られていない。京の農家出身。「熱帯を制する者世界を制す」と訴えた竹越與三郎の「南国記」がヒットした一六年(大正五)、英領マレー(現マレーシア)に渡る。
長男、石原健三さん(75)は「農民で終わらないとの思いが雄飛させた」と話す。
京都府の農林技手をしていた石原の熱帯の道は平たんではなかった。ゴム園を経営するが、結局手放す。
「ふと握った歩道の石が褐鉄鉱。そこで、この国には鉄鉱山があるとひらめいた」(健三さん)という。
石原はジャングルを踏査する。トラや象の足跡を近くで見る日々が一年以上。そして、南部のスリメダンで鉄鉱石の山に出くわす。
この地を訪れた元山師で、詩人の金子光晴は「まるで落ちている石をひろって積み出すのと同じ容易さ」と書く。常識外れの鉱山だった。主権国イギリスは、日英同盟もあって石原に採掘権を与える。
一山当てた石原は、八幡製鉄所の長官に面会、契約を結ぶ。同時に台湾銀行の融資を受け南洋鉱業(現石原産業)を創業。戦争末期まで八幡製鉄所の全鉄鉱石の実に37%、約千五百万トンを供給する。
「鉄は国家なり」といわれた時代、石原は、政治や軍へのかかわりを深める。
きっかけは尾張徳川家の徳川義親との出会いだった。石原は三一年(昭和六)、マレーにトラ狩りに来て知り合った徳川の紹介で、国家改造論者の大川周明を知り、政治活動にのめり込む。
石原研究の赤沢史朗・立命館大教授(50)は「近代化で日本は堕落したといい、マレー人の素朴な生活に共感を抱くところがあった」という。
石原は神武会や明倫会といった団体の結成に資金を投入。二・二六事件では、徳川、大川と反乱将校の趣旨を天皇に伝えようと工作する。
石原は、反乱ほう助予備罪で逮捕されたが、「金の使い道は聞いていない」と突っぱね証拠不十分で無罪になる。
戦時中、軍の下請けでマレーやフィリピンで鉱山開発をするが、次第に軍の統制的なやり方に反発する。
石原が戦後書き留めた記録には、「木戸幸一内大臣に面会、フィリピンの軍政は全くの失敗で、一年もすれば比島人は離反し、中国人同様に日本を恨んでくる。日本軍人・官吏は東亜民族指導の資格なしだ、と訴えた」とのやりとりが生々しく記されている。
政界中枢と接近した石原は戦後、「日本の南方進出の活発な宣伝家」としてA級戦犯容疑で拘置される。巣鴨で東条の世話をした岩渕清巳さん(91)は、石原と同室。「児玉誉士夫さんとは気が合ったみたいで、二人で軍を批判していた」と語る。結局、不起訴釈放される。
「大東亜」を巡って様々な人物が跋扈(ばっこ)した戦争の時代。二・二六事件と東京裁判という歴史の転換点に二度登場した石原は、そんな時代を象徴する人物かもしれない。
(大阪文化部・森恭彦)
連載「20世紀」の単行本第一弾「革命編」が、本日、読売新聞社から発売されます。
[南進] 明治以降の南方への経済的、軍事的進出をいう。明治20年代、志賀重昂が東洋、西洋と違う「南洋」という考え方を提唱して南進論が盛んになる。“からゆきさん”相手の雑貨店経営からゴム、ヤシ、マニラ麻などの栽培、鉱山開発、林業、漁業へと拡大。陸軍の華北進攻に対抗する海軍が1935年(昭和10)南方進攻を唱えはじめ大東亜共栄圏構想につながった。
*◆大東亜共栄圏(5)
*◇ビルマ独立抑えた日本◇
日露戦争で西洋の大国・ロシアを下した日本の「大東亜共栄圏」構想は、植民地支配に甘んじてきた国々の自立を促す炎ともなった。
各国の若者の「独立」への希望は、燎原(りょうげん)の火のように瞬く間にアジアに広がった。
青い水をたたえる静岡県の浜名湖。一九八六年春の晴れた日、面田紋次(おもだもんじ)の娘は、かつて父親が潜伏した旅館の二階から、湖面を見つめていた。
面田は、ビルマ(現ミャンマー)を独立に導いた将軍アウン・サンの偽名。漢字の緬甸(ビルマ)の一部を取った。
娘はミャンマー民主化運動の指導者で、ノーベル平和賞受賞者のアウン・サン・スー・チーさん(53)。十二年前、京都大の研究員として来日中、父の足跡を訪ね歩いた。
アウン・サンは、英国からの独立を目指すタキン党の中心人物で、中国共産党と接触するため、四〇年八月、貨物船で祖国を脱出、廈門(アモイ)に入った。それに目をつけたのが、ビルマ工作を担当していた陸軍大佐の鈴木敬司だった。
「ファシストの日本と手を組むのか」。アウン・サンは悩みながらも、鈴木の手引きで十一月、「面田」の旅券を手に羽田空港に到着。だが、上層部が鈴木の独断専行を認めず、鈴木の実家がある静岡県浜松市付近の民家や旅館を転々とした。浜名湖畔の旅館「小松屋」も、その一つ。熱帯から来た二十五歳の青年は、寒風の中、どてらを着込み、火鉢で暖をとっていた。
世話をした鈴木の妻、節さん(94)は、半世紀近くを経てやってきた物静かな娘に青年の面影を重ね合わせた。
「外にも出ず、無口な人だったが、独立への決意をここで固めたのでしょう」
四一年二月、鈴木を機関長とする南機関が結成された。アウン・サンは祖国に潜入、若者たちを集めた。「三十人志士」。台湾の南方・海南島の軍事訓練所で、武器の扱いを学び、図上演習を行った。
初めての武器に感激するビルマの若者。熱意に打たれた日本人教官。独立へ、片言の英語と身振りで、絆(きずな)は深まる。
十二月の真珠湾攻撃の二十日後、鈴木を大将、アウン・サンを少将として、独立義勇軍が結成された。銀の器に血を集め、回し飲みして独立を誓ったとされる志士たちは翌月、日本軍と同時にビルマへ進み、要所を次々に制圧、兵力を一万人に膨らませた。
義勇軍水上支隊の一員として、夜光虫が光るアンダマン海沿岸を小舟で北上した大屋敷久男さん(76)は「祖国の独立にかける意気込みは強烈だった」と振り返る。
だが南部の要衝モールメンを制圧しても、日本軍は約束の独立宣言を認めなかった。
大屋敷さんも「なぜ」と責められたが、答えるすべはなかった。
日本軍にとって、義勇軍は露払いに過ぎなかった。
全土を制圧した日本は六月に軍政を敷いた。「独立」を最後まで主張した鈴木は、近衛師団司令部付となって日本へ帰国。義勇軍は日本軍配下のビルマ防衛軍に改編された。
「原住民に対しては、皇軍に対する信倚(しんい)観念を助長するよう指導し、その独立運動は過早に誘発せしめないこと」(大本営「南方占領地行政実施要領」)
国家の決定の前に、個人的な信頼関係は無力だった。
鈴木の離任の際、銀の筒に入った感謝状を贈ったアウン・サンも、すでに日本への恩義は感じなくなっていた。(大阪社会部 高部 真一)
[南機関]
鈴木大佐が1940年、ビルマに潜入した際に名乗った日緬協会書記兼読売新聞記者・南益世にちなんでつけられた。ビルマから中国・重慶の蒋介石政府への物資の補給路「援蒋ルート」遮断のための工作が目的。当初は大本営直属の特務機関。ビルマ政府は、ファシスト日本と南機関を区別、82年には南機関の7人に「アウン・サンの旗」勲章を贈り功績をたたえている。
*◆大東亜共栄圏(6)
*◇同士と娘、今皮肉な対立◇
ビルマ(現ミャンマー)は一九四三年八月に独立した。
日本は、占領地の独立を渋っていたが、正面の敵だった連合国軍に攻め込まれ、現地では、日本軍に対する人々の反発も絶えなかった。地元住民との融和を図り、士気を高める政策が必要だった。
日本軍政下のビルマ防衛軍司令官アウン・サンが東京に呼ばれたのは同年三月。首相の東条英機が、何と独立を指示したのだ。日本側は事前に「緬甸(ビルマ)独立指導要綱」を作る念の入れようだった。
ビルマ独立を目指すアウン・サンらの「三十人志士」を育てた南機関長の鈴木敬司は当時、北海道の第七師団の参謀長。長男の邦幹さん(70)は、かつて鈴木のもとで祖国に思いをはせながら潜伏していた浜松に立ち寄ったアウン・サンに会い、父が買ったヒグマの木彫りを手渡した。
二十八歳の雄姿に「二年ぶりの再会。相変わらず無口だったが、すっかり軍服が板につき、堂々たる青年司令官になっていた」と振り返る。
だが、独立で国防相に就任したアウン・サンは、日本の傀儡(かいらい)政権の実態に「亡霊のようで猿芝居みたいな独立。幻想に過ぎない」と、いら立っていた。
四四年七月、日本軍がビルマからインドに攻め入ったインパール作戦で敗れると、ひそかに抗日勢力を集めて「反ファシスト人民自由連盟」を結成。国軍と地下組織の二つの指導者の顔を使い分けた。
四五年三月、首都ラングーン(現ヤンゴン)で、イギリス・インド軍の掃討に向かう国軍の出陣式で、来賓の日本軍幹部らを前に、兵士たちへの演説をこう締めくくった。
「最も近くの敵と戦え」
照準は日本軍。アウン・サンは式場を離れる車内から、金色に輝くシュエダゴン・パゴダ(寺院)に合掌して「戦勝」を祈った。十日後、国軍と地下組織は抗日のために全土で一斉に蜂起(ほうき)した。
「アウン・サンは親日でも反日でもなく、真のナショナリスト。独立への最短距離を歩むためには、だれとでも組む戦略だったが、敗戦が決まっていた日本と心中するわけにはいかなかった」と、根本敬・東京外大助教授(ビルマ近現代史)は指摘する。
だが、独立が日本の敗戦で白紙に戻った後も、南機関に対する好感情は衰えない。根本助教授はビルマ留学中の八五年、国防省の公文書館で、旧南機関の幹部の紹介状を示して「非公開資料の閲覧もフリーパス」の厚遇を受けた。
「第二次大戦について、旧連合国は『民主主義とファシズムの戦い』と位置づけ、戦後の共産圏の国々は『帝国主義国同士の戦い』と言った。だが、植民地だった国々が、宗主国同士の争いを最大限に活用して独立につなげた、という側面も見逃せない」
アウン・サンは戦後、独立の機運が高まるアジア諸国に「新秩序の構築を」と訴えたが、一方で「一民族が支配、操作するような大東亜共栄圏になってはならない」とクギを刺すことも忘れなかった。
自国の独立に向けても再び宗主国の英国と交渉を続けたが、悲願達成が半年後に迫る四七年七月十九日、政敵に射殺された。三十二歳だった。
現在の軍事政権に根強い影響力を持つネ・ウィン将軍は「志士」の一人。それに対抗する民主化運動の指導者アウン・サン・スー・チーさん(53)はアウン・サンの長女。政治活動を制限され、ヤンゴン市内のインヤ湖を挟んでネ・ウィン将軍邸と対峙(たいじ)するように立つ自宅は、周辺を封鎖されている。
かつての同志と娘。ミャンマーでは皮肉な構図の対立が続く。「大東亜共栄圏」がついえて五十三年。「自立」を目指すアジアの苦悩は深い。(大阪社会部 高部真一)
[アウン・サン・スー・チー]
ミャンマーの野党・国民民主連盟(NLD)書記長。イギリス人学者と結婚、英国に滞在していたが、母の看病のためビルマに帰国中の1988年、民主化運動に参加、市民の人気を集めた。89年、軍事政権によって自宅軟禁、95年に解放されたが、その後も政治活動を制限されている。
*◆大東亜共栄圏(7)
*◇数奇な運命、強いた大義◇
「国の誉れの日の丸を/世紀の空に燦然(さんぜん)と/掲げて築けや新アジア/いざ征(ゆ)け」(一九三九年、生田大三郎詩「出征兵士を送る歌」)
日本の青年たちは「大東亜共栄圏」構想に背中を押されるように戦地へ赴いた。そして、日本兵としての戦いには敗れたが、現地人と一緒に独立戦争を戦った若者も多い。
高層ビルと屋台、熱気と排ガスが混じるジャカルタの下町。宮原永治さん(75)の胸には、いま、金色のインドネシア在郷軍人章が輝く。
日本の植民地だった台湾で「李柏青」の名で生まれた。台南市の家では、表札の横に「国語家庭」という札があった。家でも日本語の使用を心掛ける「模範的」な一家。両親とは台湾語も交じったが、弟や妹とは、けんかも日本語だった。学校も、全授業が日本語。校門わきに奉安殿があり、“日本の神”に礼拝した。
十八歳で軍属に志願。開戦と同時にフィリピンのルソン島、四二年にはジャワ島に。中国系商人ら住民の中に潜入して日本軍への協力を要請した。その後、マラリアやデング熱対策を学び、防疫給水部隊員として、シンガポールやマレーシア、タイを経由、ビルマ(現ミャンマー)に渡った。共栄圏の南方全域を、夢中で走り、敗戦と人生の挫折にたどり着いていた。敗戦直前、単身、部隊を抜け、ジャワ島に密航した。
日本は米国の植民地になる。蒋介石の敵・日本に協力したのだから台湾でも生きていけない。結局、三番目の祖国独立のために戦った。
インドネシア名「ウマル・ハルトノ」の彼は語る。
「台湾で生まれ、今も怒ると日本語になり、ふだんはインドネシア語。死にたくなかったから残留した」
大東亜共栄圏の夢が人生を裂いた例だ。
スマトラ島北部で少尉として終戦を迎えた乙戸昇さん(80)。東京都出身。早大卒業後、飛行機製造会社に勤務、四三年四月に召集された。近衛歩兵第三連隊に所属、その秋、スマトラ島へ。四四年にジャワの予備士官学校。ここでは共栄圏の大義より、「生きては、帰れないと思え」とばかり教えられた。
「大正デモクラシーの時代、エジソンやワシントンの伝記で育った。戦争物を読んでいた少し下の世代とは意識が違ったと思う」と乙戸さん。共栄圏についても「どの国も国益を最優先する。日本のためで当然。結果はアジアの解放になった」と考える。
敗戦直後、デマが流れた。「船が不足、復員に二十年かかる」「連合軍は帰還兵の船を海上で爆破する」。その最中、独立のため、共栄圏のため戦おうと戦友に誘われた。負けて帰ることに抵抗もあった。部下が自分の小隊から逃げ、責任も感じた。
「残ろう」。決めたからには、この国の土になる。「独立しなかったら居場所がなくなる。運良く独立できたら、第二の人生を送ろう」
インドネシアだけではない。ビルマ国軍に入り、反乱軍と戦った北村作之亟さん(80)が思い出すのは「勝って来るぞと勇ましく」の歌だ。「故郷の新潟で盛大に送られたから、負けて帰るの恥ずかしかった」
戦犯として裁かれるのを恐れて。現地で拉致(らち)されて。女性と恋仲になって……。残留兵の動機は様々だ。
そして、終戦を知らずに取り残された兵士もいた。三十年近くたってグアム島の横井庄一さん、フィリピン・ルバング島の小野田寛郎さんがジャングルから生還した。大東亜共栄圏の前線各地で消息を絶った旧軍兵士の数は今なお確定していない。(大阪社会部・高部真一)
[インドネシア残留日本兵]
独立戦争に参加した日本兵は最大2000人とも言われ、残留日本兵の互助組織「福祉友の会」は1981年の調査で総数755人を確認。独立戦争中、うち226人が死亡し、238人が行方不明になった。63年、スカルノ大統領令でインドネシア国籍が与えられ、旧軍の刑法で「脱走兵」扱いをしていた日本も91年、一時軍人恩給を支給。95年8月には、日本大使が両国友好に尽くしたとして感謝状を贈った。
*◆大東亜共栄圏(8)
*◇武器と人、独立を支援◇
インドネシアでは、一九四五年八月十五日と同時に、日本軍の役割が終わったわけではない。
連合軍からは、連合軍到着まで現地の治安維持を命じられ、独立を目指すインドネシアからは、武器引き渡しを求められ、ジレンマに陥った。
敗戦二日後、スカルノが独立宣言、インドネシアの再植民地化をねらうオランダとの独立戦争が始まる。だが、三年半の日本統治が、結果として三百年ものオランダ支配の呪縛(じゅばく)から解き放っていた。
日本軍は、インドネシア人を補助部隊として使うため、ペタと呼ばれる郷土防衛義勇軍を創設した。インドネシア大学日本研究センターのストポ・スタント教授は「今もロウムシャという言葉で残る強制労働など日本支配はこの国にとってトラウマ(精神的外傷)だった。しかし、ペタに武器を持たせ軍事訓練を施してくれたおかげで、独立に役立った面もある」と指摘する。
その中で残留を決めた日本兵の“賭(か)け”もスタートした。
スマトラ島にいた中川義郎さん(80)。四三年に現地除隊になり、軍の宣伝班で、中国系新聞の検閲やマレー沖海戦映画の巡回上映をしていた。現地の女性との間に娘も生まれていた。国軍の兵士に誘われて独立戦争に。ヤマヒルが血を吸うジャングルの戦い。部隊とはぐれた時も、地元民がかくまい、食事をふるまってくれた。「インドネシア国民全体の独立運動だった」
ジャワ島西部のバンタムで陸軍軍曹をしていた藤山秀雄さん(76)は、終戦二日後、「日本敗戦」を知らされた。日本は全滅したとの情報。何の希望もなくなり、帰っても仕方がないと考えた。そんな時、日本語を話せる独立軍少佐に誘われ、軽機関銃を持ち出し国軍入りした。対戦車地雷で敵のトラックを吹き飛ばし、大声をあげ夜襲をかけ、敵が逃げると武器をぶんどるまったくのゲリラ戦だった。「国境の町」「忠治子守歌」を口ずさみ、自らを励ました。周囲の日本兵十三人のうち十人が戦死した。藤山さんも右足に弾を受けた。それでも「日本兵がいると勝てる」というムードが流れていた。
結局、オランダはゲリラ戦に悩まされ「点と線」しか制することができなかった。四九年十二月、インドネシアは主権を回復、独立を達成する。同時に、戦闘を業とした日本兵は職を失った。新たな生活の糧として、藤山さんは爆雷を池に投げ魚をとって売った。
六〇年代、日本企業の進出が本格化、旧日本兵は、今度は日本企業のアジア進出の「先兵」の役割を担う。藤山さんは自動車メーカーの通訳を経て、車修理工場を経営。中川さんは商社の嘱託となり、木材輸出などに従事した。独立戦争時の人脈が役立った。
二人はすでにインドネシア国籍を取得、子供や孫に囲まれている。藤山さんは、孫の音楽発表会に目を細める。
でも、日本人である事実は消えない。日本企業向けにニュースレターを発行する中川さんは最近、日本から送られた本の中に「我々は戦後の日本を建て直した戦友だ」という表現に目が止まった。独立への功績で三つの勲章を手にしたが、こんな言葉は使えないと思うと寂しく、自問する。「日本人として、日本の戦後復興に尽くすべきでなかったか」
インドネシアに残る未帰還兵は三十九人になった。平均年齢は七十七歳。
独立の英雄である旧日本兵は、国軍の儀じょう兵によって英雄墓地に埋葬される。棺は赤と白の国旗が包む。日の丸ではない。上半分が赤、下が白のインドネシア国旗だ。(大阪社会部・高部真一)
[インドネシア独立宣言]
日本はインドネシア支配のため、1945年3月、独立準備調査会を設置。同年8月16日夜、大統領に就任するスカルノ、副大統領のハッタらが海軍武官府少将の前田精邸で独立宣言を起草、翌日、スカルノが宣言を読み上げた。日付は「05年8月17日」。日本の皇紀2605年の下2けたをとった年号だった。オランダとの独立戦争の末、50年8月にインドネシア共和国が樹立された。
*◆大東亜共栄圏(9)
*◇勤勉と融合南洋を開化◇
釣り舟に乗って南の島に漂着した日本人少年が島の王様になって活躍する一九三〇年代の人気漫画「冒険ダン吉」は、それまで日本人になじみのなかった「南洋」のイメージを示し「大東亜共栄圏」の夢とロマンを駆り立てた。
腰蓑(こしみの)姿のダン吉が、悪い白人を撃退、島民と学校や病院を作り、島に文明をもたらす。
モデルはトラック諸島(ミクロネシア連邦チューク州)に渡った森小弁(一八六九〜一九四五)だ。
DS
「日本の薬を与え、島初の学校を建てた。運動会で腰蓑の下にパンツをはくよう子どもたちに言ったのですが、みんな恥ずかしがって……」
州の首都、青い海に囲まれたウェノ島で会った五男、森五郎さん(74)は小弁の“文明開化”への尽力ぶりを語る。高知の士族の二男、小弁は一八九二年(明治二十五)、貿易会社員としてスペイン領トラックに単身渡る。
ウェノ島などを拠点にせっけん原料のヤシを輸出、日本の雑貨を輸入する。成功のカギは酋長(しゅうちょう)の娘との結婚だ。
「村同士の戦争があって、こん棒で殴り合っているところに父が加勢、弓を持っていったから、敵側は降参。味方の酋長の娘を嫁にもらった」
「私のラバさん(恋人)酋長の娘、色は黒いが南洋じゃ美人」。昭和初期のヒット曲そのままに実際、島社会に入り込んだ日本人は多かった。
この間、南洋群島は、スペインからドイツ領となったが、第一次大戦中、ドイツに宣戦布告した日本が軍艦を派遣して占領する。
対日輸出は全盛期を迎え小弁は、有数の資産家となる。
現地を調査した文化人類学の中山和芳・東京外国語大教授(52)は「ダン吉は、腰蓑をつけても腕時計を離さない近代文明の人間」と指摘するが、小弁はどうか。
孫の正隆さん(75)は、時計は記憶にないが「食事にはしを使い、日本人であることを忘れなかった」という。
若い世代の孫、可保さん(64)は「島を変えたのは日本人の勤勉さだ」と言う。
スペイン、ドイツは、少数の白人が島民を使役した。しかし日本人は自ら働いた。
三万五千人が来島、勤勉さで日本人町を建設。トラックの海は「日本の真珠湾」と呼ばれ、海軍主力が集った。
チューク州裁判所長のショーキチ・フリッチさん(67)も「裁判制度などが進んだのも日本時代」と話す。
「人を殺しても赤いきれいなサンゴを遺族にあげれば許されていたが、法律で人が裁くようになった」とデュブロンの元酋長、キミオ・アイセックさん(70)。貨幣経済も浸透し、町は活気づく。
だが町は米軍の爆撃で壊滅、やがてジャングルに。
現在、小弁を始祖とする森ファミリーは千人を超え、島経済の中枢を押さえている。
ひ孫に当たるホテル支配人のエルビス・シライさん(38)や、ハワイ大学へ進学予定というチェイミー・アイセックさん(18)は「島のヒーロー。サムライ出身だもの」と小弁の末えいであることを誇る。
出国前、小弁は自由民権運動に傾斜、明治十八年、明治政府打倒を目指す大阪事件に連座、一か月、投獄された。
トラックに渡っても闘志は衰えず「君とわれ南洋の島に兵を行わば我トール(島)に拠らん君トノアス(島)を略(と)れ」と歌を詠んで村同士の戦争に参加。漫画のダン吉同様、島の王様になろうとした。漫画のダン吉は最後に日本に帰ってしまうが、モデルの小弁は日本統治が始まると方向を転換、商人に徹し、最後まで、島と運命を共にした。
勤勉と現地への融合。特に小弁を始めとするトラックに残ることを選んだ人々は、「大東亜共栄圏」の中で、ともに栄える道を選んだ数少ない日本人だった。(大阪文化部森恭彦)
[トラック諸島]
ミクロネシアのカロリン諸島中部の島々。波が穏やかなため「太平洋の湖」とも呼ばれる直径65キロの世界最大の環礁に、39の島が浮かぶ。ヤシの実の胚乳(はいにゅう)を乾燥させたコプラ、かつお節が主な産品。都市化したのは中心地ウェノ島だけ。戦前はデュブロン島(夏島)に日本海軍の基地があった。
連載「20世紀」の単行本化第一弾「革命編」(読売新聞社刊)が好評発売中です。
*◆大東亜共栄圏(10)
*◇日本文化残した“共通語”◇
戦時中、日本語を「大東亜共栄圏」の共通語にするプランが実行に移された。
植民地のほかアジア、太平洋の占領地で日本語が強制され、使用人口世界第二の「大言語」に成長した。だが、敗戦で日本語は、アジアの人々から捨てられる。旧英仏植民地の英語、フランス語とは大きな違いだ。
どこが違ったのか。旧委任統治領、南洋群島で探った。
浅黒い肌、ふんどし一つの男の子と洋服の女の子が、白シャツの日本人教師と体操をしている。セピア色の「南洋群島寫眞帖(しゃしんちょう)」(一九二五年刊)。撮影地はパラオのコロール公学校。
日本はコロール島に南洋庁を置きトラック、ポナペなどを統治。当時の人口は約七万六千人を数えた。
旧南洋庁の近くの老人クラブでオラク・コテッブさん(82)に会った。「八歳のときから三年間、アンガウル島の公学校に通ったな」と「ダンチョネ節」を三番まで歌ってくれた。流ちょうな日本語を話すが、漢字混じりの日本の本は読めない。カタカナ主体で習ったからだ。
南洋群島に残る日本語を調査した土岐哲・大阪大教授(52)は「官庁や商店で日本人の下働きをさせるため短期間に教えた日本語」という。
退職警察官、フミオ・レンジールさん(81)は日本はパラオ人を差別したと怒る。「アメリカの時代が来て、やっと本物のポリスになれた」という。
テゲレン・シルベステルさん(77)は例外だ。優秀な島民を集めた木工徒弟養成所に二年通い慶応大理工学部に留学。「三田に住んでおりました」と折り目正しい言葉遣い。
「日本時代はようございました」と懐かしむが、アジアに雄飛しようとしたとき太平洋戦争に突入、軍属で召集された。戦後は日本で進駐軍の通訳、さらにサイパンで観光ガイドに。留学の成果はついに生かせなかった。
島では無用となった日本語だけが残った。
当時、南洋庁の国語編修書記として公学校を視察した、名作「李陵」の作家、中島敦は「級長は授業中も室内を歩き廻り、怠けおる生徒を笞(むち)うつべく命ぜられおる」とスパルタ教育に腹を立てたが、そのせいか島では今も日本語の記憶は鮮やかだ。
ポンペイ島、コロニアの町に残る公学校に案内してくれたメルリ・ベンジャメンさん(68)は「女の子はたたかれません。一番いやだったのはでんでん虫集めの当番。寄宿生の食料にしたの」と笑う。
戦争が始まると、大半がキリスト教徒の児童も町の照南神社で戦勝祈願させられた。
朝鮮や旧満州に比べ、南洋群島では「日本」は大きな抵抗もなく受け入れられた。だが戦後、アメリカに信託統治されると教育は英語に変わり、日本語人口は現在、七十歳前後より上のごくわずか。
言語人類学の崎山理・国立民族学博物館教授(61)は「戦後もカタカナ情報を送り続けたらよかった」と話す。
ただ、崎山教授の調査では、現地語に取り込まれた日本語は数千語にのぼる。
スコキ(飛行機)やカツド(活動=映画)、チチバンドといった日本が持ち込んだモノの名前だけでなく、音韻、形容詞、動詞、句、文のレベルにも影響が及んでいる。
日本食も残った。「カツドン」や「イナリスシ」はパラオ料理の定番だ。「ウドン」が汁の少ない琉球そば風なのは、かつて在留邦人の六割を沖縄出身者が占めたからだ。
「大東亜共栄圏」時代、軍事力を背景に強制された日本語は捨てられた。だが便利さやおいしさの記憶に結び付いた言葉や食は、今後も残っていくに違いない。そこに新しい時代の国際交流を考える手掛かりがある。
(大阪文化部 森 恭彦)
◇
[南洋群島] 太平洋中西部、赤道以北のマリアナ、パラオ、マーシャル、カロリン諸島から成る。第1次大戦までドイツ領だったが、講和後、日本の委任統治領に。民政に移管し外務省(後、大東亜省)南洋庁が管轄。内南洋とも呼ばれた。第2次大戦中は日米の激戦地となり、戦後はアメリカの信託統治領。1960年代以降、多数が独立。
*◆日中戦争(上)
*◇利益線構想、膨張を助長◇
一九七二年の日中共同声明で、中国は対日賠償請求権を放棄、両国の「戦後」に法的に終止符が打たれ、国交が正常化した。しかし、日中戦争は、宣戦布告なき泥沼の戦いであり、当事者の利害が複雑に絡み合っていたこともあり、その全体像の把握は、今なお容易ではない。
◇
日中戦争は、その期間についても諸説がある。東京裁判では、日本による「中国侵略」の期間について、三一年九月十八日に始まり、四五年九月二日の日本の降伏で終わったとしている。満州事変をスタートとし、「十五年戦争」ともいわれる。
ただ、日本でも中国でも有力な考えは、三七年七月七日の盧溝橋事件による日中衝突から始まったという説だ。上海に戦火が飛び火した同年八月以降に全面戦争に入ったとの見解もある。
渡辺昭夫・青山学院大教授は「どこまでさかのぼって、というのは大変難しいが、アジアの戦争は百年単位でみるべきだろう。一九四五年を境にし、その前の五十年で、戦争のテキストができるのではないか」と語る。そのテキストの端緒が日清戦争(一八九四年)だ。この戦争の結果、日本は最初の植民地として台湾を領有、海外膨張の第一歩を踏み出した。
日中戦争の性格についても、「侵略」「自衛」など見解は分かれるが、「主権線と利益線」の観点から、日本の中国大陸政策を包括的に分析する方法がある。
主権線は「国境線」であり、利益線は、主権線を守るための境界線だ。
北岡伸一・東大教授はその著「日米関係のリアリズム」で、「日本の大陸政策は、慎重な検討もないままに、利益線の拡大に進んだ」と説明する。
「主権線と利益線」の枠組みは、日本初の議会が開かれた一八九〇年十二月六日、総理大臣・山県有朋の施政方針演説で示された。山県は「国家独立自衛の道に二途あり、第一主権線を守禦(しゅぎょ)すること、第二には利益線を保護することである」と述べた。
当時の利益線は、ロシアによる南進の脅威から自国を守るため、朝鮮半島に設定されていた。
アジア初の近代国家となった日本にとって、最初の戦争は、利益線である朝鮮半島の主導権をめぐる日清戦争だった。
日清戦争に勝利した日本は、日露戦争(一九〇四年)にも勝ち、朝鮮支配と満州権益を獲得する足場を獲得した。
その三年後に出された帝国国防方針で、日本は、「大陸国家」として発展し国防政策を「攻勢」とする方針を定めた。この結果、利益線から、従来の防衛目的の色合いが薄れてくる。
日韓併合(一〇年)で主権線が朝鮮半島にまで延び、今度は南満州の一部が利益線に想定された。第一次世界大戦後の対中国二十一か条要求(一五年)によって、さらに利益線は、南満州全域と東部内蒙古(もうこ)に広がった。
主権線も、満州国建国(三一〜三二年)で、事実上、満州全域に拡大、「満蒙は日本の生命線」というスローガンがうたわれた。利益線もついに、満州に接する華北地方へ広がり、盧溝橋事件をきっかけに全面戦争へと進んだ。
北岡教授は「利益線の発想は他国の領土を対象にする一方的なもの」と指摘する。自国の安全の問題を、他国に対する領有や占領という手段でのみ確保する発想だというわけだ。
防波堤だったはずの利益線は、いつのまにか領土拡大のための橋頭保となっていた。(社会部 五味 稔典)
[盧溝橋事件]
37年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍が銃撃され、日本兵一人が行方不明になった。日本軍はこの発砲事件をきっかけに中国軍を攻撃した。停戦協定が11日に成立したが、日本政府は同日、中国東北部への部隊派遣を決定、戦闘は拡大していった。
(社会部 五味 稔典)
[盧溝橋事件] 37年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍が銃撃され、日本兵一人が行方不明になった。日本軍はこの発砲事件をきっかけに中国軍を攻撃した。停戦協定が11日に成立したが、日本政府は同日、中国東北部への部隊派遣を決定、戦闘は拡大していった。
*◆日中戦争(下)
*◇楽観と中立法 泥沼招く◇
日中戦争は、なぜ宣戦布告なき戦争となったのか。
第一に、日本の政府や軍部が、軍事衝突開始時、全面的な戦争になることを予想していなかった点があげられる。
日本政府は、一九三七年七月七日の盧溝橋での衝突事件を「北支事変」と呼び、約一か月後に上海で戦闘が始まっても、「支那事変」と呼称を変えて、「戦争」ではなく「事変」と位置づけていた。
近衛文麿首相は、上海で戦闘が本格化した後の三七年八月十五日、「帝国としては最早隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲(ようちょう)し以て南京政府の反省を促すため、今や断乎(だんこ)たる措置をとるの止むなきに至れり」と声明を発表した。
この声明には、一撃を加えれば中国は容易に屈服するとの目算が示されており、戦争への見通しは感じられない。
第二には、米国の中立法への配慮があった。
三七年当時、米国には、戦争状態にある国への軍事物資禁輸などを定めた中立法があった。宣戦布告すれば、米国からの軍事物資輸入が止まることになり、日本はこれを恐れた。
「模索する一九三〇年代」(加藤陽子・東大助教授著)によると、寺内寿一・北支那方面軍司令官ら現地軍指導部は、宣戦布告がないと戦争法規で認められている占領地への軍政ができないなどの不備があるため、布告するよう陸軍中央に迫った。
しかし、外務、大蔵、商工、陸海軍の各省次官で構成された内閣第四委員会は、宣戦布告の可否を検討、米中立法発動による貿易・金融などに及ぼす影響甚大などを理由に布告を見送る決定を行った。
中立法への配慮は、中国側にもあった。
中立法は、戦争当事国に対し、非軍事物資についても、当事国の責任で、現金で支払い自国船で運搬するよう定めていた。自国が内戦状態の中国にとって、宣戦布告すれば、軍事物資ばかりでなく日常物資も米国からの輸入が困難になるため、布告を見送った。
こうした理由から、日中戦争は宣戦布告なき戦争という曖昧(あいまい)な性質を持たざるを得なくなり、これが、ゲリラ戦による小規模戦闘が果てしなく繰り返される泥沼戦争の一因となった。
曖昧さは、戦争目的についても言える。
近衛文麿内閣は三八年十一月三日、「東亜新秩序声明」を発表し、日本を中心とするアジア新秩序建設が戦争目的であることを明らかにした。しかし、「アジア新秩序の建設を正当化しようにも、実際は中国をむしりとっていた日本の行動があり、その間に大きなジレンマがあった」(渡辺昭夫・青山学院大教授)。
中国側の認識も日本と食い違う。
中国出身の劉傑・早稲田大助教授は「日本に一貫した戦争目的があったという根拠は史料からは見いだされない」という立場だが、「日本には大陸への侵略という一貫した目的があったとする見方が中国では一般常識」と指摘する。
中国人民解放軍軍事科学院が九四年に出版した「中国抗日戦争史」にも、「日本は明治時代の中期に大陸政策を完成し、中国を膨張の目標に設定した」とある。
これに対応する形で、中国にとっての戦争目的は、現在では「反侵略」と集約されている。
しかし、当時の中国では共産党と国民党との抗争という国内事情があった。両勢力の間に抗日民族統一戦線ができつつあったものの、日中戦争の全期間を通じて中国の戦争目的に確固とした一貫性があったといい切れるかどうか、見解はわかれるところだろう。
(社会部 五味稔典)
[日中戦争の規模]
宣戦布告はなかったが、日本は日露戦争以来の大本営を設置、1945年までの日中戦争の全期間を通じ、常時70万から100万人の兵力を投入して中国戦線にはりつけた。死者は日本軍が40万人を超え、中国側は軍民合わせ1000万人余とも2000万人ともいわれている。
*◆日露戦争(上)
*◇脱亜の果て、分割に参入◇
中国東北地方遼東半島の南端にある旅順は、日露戦争(一九〇四〜〇五年)の激戦地として知られる。ここが外国人に開放されたのは、つい二年前のことだ。
日本軍が造った砲弾形の慰霊塔がそびえ立つ二〇三高地からは、旅順港が一望できる。今も人民解放軍が海軍基地として利用しているという。
「昔はのどかな小漁村でした。十九世紀末にロシアが軍事基地をつくり、村人は漁で生計を立てられなくなった」と、案内の中国人が教えてくれた。
二〇三高地のふもとに広がるりんご畑を抜けると、東鶏冠山に出る。山上には、日本軍が四か月に及ぶ攻防戦の末に陥落させたロシアの要さいが、弾痕も生々しく、当時のまま残されている。
日露戦争は、日清戦争の約四・五倍の百十万近い兵力を地上戦で動員し、戦死者は八万人を超えた。
◇
「日露戦争はロシアの脅威から守る祖国防衛戦争だった」という議論がある。「ロシアは朝鮮半島と満州(中国東北部)を狙い一気に日本までも取り込もうとしていた」「実際にバルチック艦隊は日本まで攻めてきたではないか」との指摘である。陸軍省が胃腸薬に「征露丸(のち正露丸に改名)」と名付け、軍隊に配布したのは日露開戦の前々年。日本人の中に少なからぬ“恐露病”があったことは確かなようだ。
だが、歴史学者の大江志乃夫・茨城大名誉教授は、「日露戦争は、日本とロシアによる、東北アジア勢力圏の分割戦争だった」と言い切る。その証拠に、戦争直後に両国は一転して三次にわたる日露協定でその都度秘密協約を結び、東北アジアにおけるそれぞれの利権を拡大していったではないか、というのだ。
この戦争の戦場が、サハリンを除けば日露両国ではなく、争奪の対象となった朝鮮と満州であったことに何より注目せねばなるまい。
朝鮮において、民衆は、鉄道や電信など軍事施設のための土地を収用され、兵站(へいたん)輸送のために徴用され、様々な軍事行動の協力を強制された。
満州でも、日本軍は軍票流通を強制し財産の所有権に大幅に制限を加えるなどした。そして、朝鮮や中国の「中立国民」の多くの命が奪われた。
東北師範大学歴史系の夏景才教授は、「日露戦争は侵略者同士の戦争。中国東北の民衆にとっては、侵略者がロシアから日本に代わったに過ぎなかった」と強調する。
こうした見方は、当時のアジアの民族独立運動指導者の言葉からもうかがえる。
中国の孫文もインドのネールも、日露戦争の日本の勝利を「西洋民族に圧迫を受けて苦しめられていたアジアの民族に大きな希望と勇気を与えた」と評価しつつも、日本が朝鮮の完全植民地化を進めたことには失望を隠さない。たとえばネールは、「日露戦争のすぐ後の結果は、一握りの侵略的帝国主義グループにもう一国を加えたというに過ぎなかった」(「父が子に語る世界史」)と述べている。
日露戦争の勝利によって日本は、台湾だけでなく朝鮮を保護国化しやがて併合する。さらに、ロシアから譲渡された南満州鉄道(満鉄)を足がかりに満州南部にも勢力圏を築くことに成功した。
植民地をもつことで「軍部の自己肥大化が進み、以後軍部は国政を左右する一大勢力になっていく」(中村政則・一橋大教授)。列強による世界政策に名乗りを上げた“近代国家・日本”の、軍事的支配を中軸に据えた植民地経営がここに始まる。(生活情報部 永峰好美)
[日露戦争の戦費]
「明治財政史研究」(高橋誠著)によると、日清戦争の戦費が約2億円余だったのに対して、日露は約17億1644万円(実際支出額)で8.5倍以上に達した。戦費総額の4割近くは外債。戦費調達のために、所得税や酒税、砂糖消費税などの増税や半ば強制的な国債募集や献金も行われた。
*◆日露戦争(下)
*◇講和の陰に米の思惑◇
白い帆を張ったヨットがミズスマシのように通りすぎた。弁護士チャック・ドリアックは、入り組んだ水路沿いの邸宅で「灰色の建物の一角が海軍造船所。ホテルはその後方」と霧雨に煙る対岸を指さした。ここで米大統領セオドア・ルーズベルトが仲介し、日露戦争処理をめぐる講和条約が締結された。そして百年、ドリアックは代表団が宿泊したホテルを国際安全保障の拠点にしようと奔走する。二人のアメリカ人は日本の運命を決めたポーツマスにどんな思いを託したのか。
日本軍は一九〇五年三月、奉天を占領したが、戦闘能力は極限状態で兵器、弾薬は底をつき、軍費調達のめども立たなかった。革命の勃発(ぼっぱつ)による国内情勢の混乱やあいつぐ敗北による軍の弱体化でロシアも瀬戸際に追い込まれた。列強も日本の強大化を恐れ、講和を求める空気は、日増しに高まった。日本海海戦の勝利は、日本にとって講和の絶好の機会だった。
駐米公使・高平小五郎の「中立の友誼(ゆうぎ)的斡旋(あっせん)」(外交文書)申し入れで和平の動きが具体化した。ルーズベルトの仲介で、日露代表団は、ウエントワース臨海ホテルに滞在し、小艇で公式会議場の海軍造船所に通った。ホテルも非公式会議の舞台となった。
ルーズベルトは日露講和になぜこれほど深くかかわったのか。日本や仏独からの講和斡旋要請を受けた形だが、親日的な言動が目につく。
「日本海海戦のニュースで、ルーズベルトは『興奮して自分の身はまったく日本人と化した』という。ただポーツマス以降その対日観が変わる。別に親日的でなくなったということではなく、国際政治の必然といえる。たとえば太平洋戦争で日本が負けると、それまで味方だったソ連が敵になるようなものだ」
外交評論家岡崎久彦氏の紹介するエピソードである。
外交文書にも「日本にとって予(ルーズベルト)の努力が最も利益になるというのなら、いかなる時にでもその労を執る」とか、「(日本への)同情が欠如している」として駐韓公使を変更させるなど親日的な言動が散見される。
こうした言動について京都府立大学・井口和起学長は、「広報のために金子堅太郎が旧知のルーズベルトに密着して活動していた。大統領は強力なイニシアチブで新たな世界政策を目指しており、金子工作も効果的に働いたのではないか」と分析する。
講和会議の歴史遺産保全活動を進めるドリアックは、「国際社会の主役になるという思惑があった。とくに東アジアの勢力均衡を確立する上で、日露講和条約は、米国にとって絶好のチャンスだった」と“米国の思惑”を示す。
戦闘機のパイロットだった父が、占領軍の一員として日本に滞在した時にドリアックも家族と一緒に東京で生活したことがある。そして地元の銀行の博物館長として、ニューイングランドの歴史を調べるうちに八一年に閉鎖されたままで、傷みもひどいホテルの現状を知った。
「対岸の海軍造船所とホテルは私の生活の一部で、放置できない気持ちもあった」
地元有志で「ウエントワース友の会」を設立し、日本にも協力を呼びかけて復元運動を開始した。日米ロ三国の専門家による「ポーツマス講和フォーラム」も二度開催。ルーズベルトの仲介で講和を実現した歴史に学び、米国が支援し、日ロが主体となって、北太平洋安全保障問題を論じた。ドリアックは「一つの町が国際的な講和達成に貢献した。このポーツマスの精神をボスニアやパレスチナ和平にも生かしたい」と将来の抱負を語る。(編集委員・高木規矩郎)
[ポーツマス講和]
賠償金支払い拒否、樺太南部の割譲というロシア案を受諾する形で1905年9月5日、ロシア側全権ウィッテと日本側全権小村寿太郎の間で日露講和条約(ポーツマス条約)が締結された。11月には日本は第二次日韓協約で韓国を保護国とし、さらに関東州の租借権を獲得、日中戦争、太平洋戦争に至る大陸政策の基盤を築いた。
*◆軍神の誕生(上)
*◇戦意高揚に”英雄”創造◇
軍神。それは明治以降の日本で、軍人の亀鑑ともいうべき武勇を示し、壮烈な戦死を遂げた人々に与えられた美称だった。
「しかし、日本では古来、タケミカヅチノカミのような(神話上の)神を軍神と呼んでいました。明治以降の軍神は、(現実の)英雄に対する崇拝といった意味合いが強い、新しいタイプの軍神だったのです」。神道史に詳しい国学院大日本文化研究所の大原康男教授(55)は、そう解説する。この「新しい軍神」は、いかにして生まれたのか。
日露戦争開戦直後の一九〇四年三月二十七日。旅順港のロシア極東艦隊を封じ込めるべく、日本連合艦隊は港口に老朽船を沈める旅順口閉塞(へいそく)作戦を敢行した。この作戦に参加したのが、当時三十五歳の人望厚き海軍少佐・広瀬武夫。
行方不明になった部下を捜して沈没寸前まで老朽船に残り、ボートで帰還中、銃弾を受けた。肉片が飛び散る壮烈な戦死。戦地からの報告に「或人叫んで軍神と唱ふ」とあった。死後中佐に昇進。その最期は大本営海軍幕僚公報に発表され、新聞などで軍神と呼ばれ始める。「新しい軍神」第一号の誕生だった。
同年八月に遼陽の戦いで戦死した陸軍の橘周太中佐と並び、彼は国語や修身の国定教科書でもたたえられた。
しかし、「こうした状況は意図的に作られた」とみる研究者もいる。防衛大学校の田中宏巳教授(55)の話。「近代戦では国家の総力を挙げた戦時体制が求められる。それまで一般に公開されていなかった大本営海軍幕僚公報を発表したのは、開戦直後のこの時期、戦意高揚に彼を利用したかったからではないか」
皮肉なことに、日露戦争が終わると、海軍当局の広瀬に対する態度は一変した。
戦争中から、広瀬の銅像を建てようという運動が全国的に盛り上がっていた。その中心は海軍兵学校の同期、財部彪(たからべたけし)。しかし、一九〇六年、彼は斎藤実海相に呼ばれて「君らは即刻その事業から身を引くように」とクギを刺される。あとを継いだ同期会も積極的には動かず、東京・神田万世橋に像が立ったのは一九一〇年のことだった。
田中教授は語る。「戦時中に必要とされた軍神も、戦争が終われば用がなくなる。軍人たちにすれば、彼もしょせん自分たちと同じ人間ではないか、なぜいまさら銅像か、という思いもあったでしょう」
閉塞作戦は、四か月間にわたって計三回行われた。広瀬が戦死したのは第二次作戦だったが、「ここにも広瀬が軍神とされた一因があるのでは」と田中教授は指摘する。
「閉塞作戦成功の可能性がほとんどないことは一回目の失敗でわかっていた。望みがないと事前にわかっていた第二次作戦だからこそ、その死が深い意味をもった」
国民の熱狂が頂点を極めた後に行われたのが、第三次閉塞作戦。このとき消息を絶った軍人に白石葭江(よしえ)少佐がいた。
北清事変(一九〇〇〜〇一)での太沽砲台奪取などでその勇猛ぶりは内外に知れ渡っていた。日露戦後、彼の事跡も中学、高等小の国語教科書に掲載された。しかし、白石は軍神と呼ばれることもなく、やがて忘れられていく。
「もし第二次作戦で戦死していたのが広瀬でなく白石だったら、どうなっていたでしょうか」と田中教授は言う。
開戦冒頭に国民的英雄が登場し、その活躍が喧伝(けんでん)されるという事例は欧米にもしばしばあるという。いわゆるウォー・ヒーロー。明治の軍神伝説は、近代国家間の戦争に突入していった日本が、いやおうなく持たざるを得なかった壮大なフィクションだったのかもしれない。(文化部 時田 英之)
[旅順口閉塞作戦]
1904年2月から5月にかけ、旅順港の港口に老朽船を沈め、入港していたロシア極東艦隊の動きを封じようと日本連合艦隊が行った作戦。計3度の作戦はいずれも十分な成果を上げられなかった。第2次作戦での広瀬武夫の最期は、戦前の文部省唱歌「広瀬中佐」などでも広く知られた。
*◆軍神の誕生(下)
*◇偉人、「武神」へと変質◇
明治時代に生まれた「戦争英雄」としての軍神は、昭和に入ると次第に変質していく
一九三五年、広瀬武夫の出身地、大分県・竹田に広瀬神社が創建された。四〇年には、陸軍の橘周太をまつる橘神社が長崎県・千々石(ちぢわ)に誕生。レトリカルな意味での軍神が文字通りの神になっていった。
広瀬神社が創建される経緯について、同市在住の橋爪春海さん(83)は回想する。「昭和のはじめごろ、神職だった私の祖父を、地元の退役軍人の方が訪ねてきたのです。『広瀬中佐が亡くなって三十年近くになる。そろそろ神社を建てたいのだが』。そんな相談だったようです」
地元有志から広がった神社創建の動きは、旅順口閉塞(へいそく)作戦当時の広瀬の上官で、のちに明治神宮宮司になった有馬良橘を創建奉賛会総裁に頂き、一気に進んだ。
広瀬の忠魂をまつり、敬仰の精神を捧(ささ)げる。そんな趣意で創建されたはずの神社も、しかし、日本の大陸進出が進む時代の流れと無関係ではいられなかった。
広瀬神社の五代目宮司、後藤文武さん(75)は、神職の家の出身ではない。職業軍人から戦後教員に転じ、退職後に神官になった。創建当時は地元の一中学生。だが、その脳裏にも神社にまつわる記憶が焼きついている。
「連合艦隊が別府に入港するたびに、将兵が列車で竹田駅までやってくるんです。そこから音楽隊を先頭にした隊列が神社まで行進していたのを覚えています」
国学院大日本文化研究所の大原康男教授(55)によると、四〇年には同神社で出征者の「勤務精励」の祈願が行われた記録もあるという。「偉人崇拝の要素の強かった軍神が、次第に人々が武運長久を祈願するような伝統的なタイプの軍神と重なっていったのではないでしょうか」
偉人崇拝と伝統的な武神崇拝のはざま。そんな場所に位置づけられた広瀬は、戦後、微妙な立場に追いやられる。
「教員時代、学校では広瀬中佐はずっとタブーでした」と後藤宮司。
しかし、「それはどこか違う」と思ってきた。「私にとっての中佐は、単に勇ましいだけの武人ではありませんでしたから」
部下思いの人情家。生前、武官としてロシア留学した時のロマンスも伝えられているが、それは「眼中に〈国家〉しかない純情・誠実な人柄が敬愛されたからでしょう」と後藤宮司は言う。
のちに自ら遭遇した戦場では、人が尊い命を捨て去ることがいかに困難であるかを知った。「そんな偉業を成し遂げたのが中佐なのです」
戦場に散った中佐。しかし、その生き方は、戦争を超えた普遍的な価値を宿していると後藤宮司は思う。
戦前は県社として公費を受けていた広瀬神社だったが、氏子がいないだけに維持は苦しい。崇敬者団体の会員は約百人いるが高齢化は進む。
広瀬神社の職員として、戦後の神社を見守ってきた広瀬智子さん(78)はしみじみと語る。「中佐をかわいがっていた兄嫁が、創建前にこんなことを言っていたそうです。神社ができるのはいいことかもしれないが、先の先まではわからない。本当に喜んでいいのか、と。後々まで神社を維持できるのか、心配していたのですね」
広瀬神社の一角には、戦前広く歌われた文部省唱歌「広瀬中佐」の歌碑が立っていた。その最後の一節。
―旅順港外 恨(うらみ)ぞ深き 軍神広瀬と 其(そ)の名残れど
軍神とあがめ奉られたことが、広瀬にとって幸せなことだったのかどうか。
(文化部 時田 英之、写真も
)
[軍神の定義]
公的な定義はなく、軍部の黙認を受けたマスコミが軍神報道を続けるうちに、特定の戦没者が軍神と認められていったケースが多い。代表的な軍神には神社にまつられた広瀬武夫、橘周太のほか、真珠湾攻撃の「九軍神」、「西住戦車隊」の西住小次郎、「加藤隼戦闘隊」の加藤建夫らがいる。
*◆満州事変(1)
*◇軍独走、国際協調を破壊◇
入り口の黒い大理石のレリーフに、「勿忘国恥」の文字が深く刻まれていた。
高層ビルが立ち並ぶ中国東北部(旧満州)の遼寧省瀋陽市郊外、柳条湖にある「九・一八記念館」。中国では、満州事変を「九・一八事変」と呼ぶ。事変六十周年の一九九一年に建てられ、昨年九月、当時の橋本首相も立ち寄った。
「九・一八こそ十四年間にわたる日本の中国侵略の始まり。人民はこの屈辱的な歴史を忘れてはならないし、後世に伝える義務がある」。現在記念館の拡張工事が進行中で、そのための史料収集にあたっている遼寧大学日本研究所の劉毅教授は言う。
三一年九月十八日午後十時過ぎ、奉天(現瀋陽)駅から北約七キロの柳条湖付近で、突然爆発音が響いた。関東軍は、日本が経営する南満州鉄道(満鉄)線が中国軍に爆破されたとして、奉天軍閥張学良の兵営を奇襲攻撃。翌朝までに奉天を占領した。満州事変の始まりである。
この事件が、板垣征四郎、石原莞爾ら少数の関東軍参謀により仕組まれたことは、今日ではよく知られている。
満州は当時の日本にとって国防上の要地であり、そこに眠る天然資源は経済発展を約束するもので「満蒙は我国の生命線」と喧伝(けんでん)された。事変前夜、中国の排日機運が高まり、中国は、満鉄に並行させて鉄道を敷設、運賃を安くするなどして、日本の権益を脅かしつつあった。
「満鉄の経営悪化、沿線の邦人の生業圧迫など、危機的な現実を焦慮した関東軍参謀は、この際軍事的支配を断行しても大義名分は立つと考えた」と、臼井勝美・筑波大名誉教授は解説する。
関東軍の軍事行動は瞬時にエスカレートした。十九日夜までに営口、安東、遼陽、長春など満鉄沿線の要衝を制圧。二十一日、吉林の治安不安を理由に派兵要請があると、林銑十郎朝鮮軍司令官は、軍の国境外への移動に必要な奉勅命令を待たずに、朝鮮軍を満州に出動させた。
若槻内閣は、協調外交の原則から、事態をこれ以上拡大しないことを決定し、陸軍中央も同調した。が、関東軍は統帥権の独立をタテに政府の方針を無視、戦線を拡大していった。「関東軍の独走」である。
中国の研究者の多くは「事変は関東軍の独断専行ではない。日本軍国主義の一貫した大陸政策の中で行われた」(遼寧社会科学院歴史研究所・馬越山副研究員)と糾弾する。いずれにせよ、日本政府は軍が次々と作り出す既成事実を追認していった。
関東軍の軍事行動が比較的スムーズに進んだのは、なぜか。背景には、米英が経済恐慌から回復せず、ソ連も第一次五か年計画達成に余念がなかったこと、一方、蒋介石率いる国民党も国内統一を最優先にして日本に対し不抵抗主義を貫いたことなどが挙げられる。
さらに、「一連の軍事行動を国民が圧倒的に支持したことも軍に自信をつけさせた」。臼井教授の指摘である。
事変拡大とともに、「鬼畜に劣る徒輩を排撃」(読売新聞三一年十月五日)など、新聞は中国への侮蔑(ぶべつ)と憎悪をあおった。国民も、「軍部が政府を引きずったのではなくして、輿論(よろん)が政府を鞭撻(べんたつ)した」(橘樸(しらき)編「満洲と日本」)と記されるように、軍を激励し続けた。
十二月、若槻内閣は倒れ、政府も満州占領を追認する方向に傾く。日本はヒトラーの政権獲得より二年早く、第一次大戦後の国際協調体制を公然と破り、アジアの一角で戦争への一歩を踏み出した。(生活情報部・永峰好美)
[満蒙生命線論]
満蒙とは、中国の東三省(遼寧、吉林、黒竜江省)と内蒙古(熱河、チャハル、綏遠省)。満蒙権益を、31年の衆院本会議で「満蒙は我国の生命線」という表現でアピールしたのは、のちの満鉄総裁松岡洋右。「咽喉(のど)は身体の生命線 咳(せき)や痰(たん)には竜角散」など広告にも応用され、流行語になった。
*◆満州事変(2)
*◇領有を断念、「独立国」樹立◇
中国東北地方に清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政とする「満州国」が樹立されたのは、事変勃発(ぼっぱつ)から約半年後の一九三二年三月だった。
吉林省の省都長春(旧新京)には、るり瓦(がわら)の溥儀の住居が残り、「偽皇宮」の名で公開されている。当時のまま復元したという部屋はどこも驚くほど狭く、調度品もみすぼらしい。溥儀が目付役の関東軍からどう扱われていたかが、容易に想像できる。
「偽」には、人民に承認されない、非合法な傀儡(かいらい)との意味が込められているという。
中国では「満州国」を「偽満」と呼ぶ。「偽満の本質は傀儡国家。溥儀は国家樹立の段階から、関東軍司令官に国防・治安維持の日本への委託などを秘密協定で約束させられていたのだから」と、東北師範大学日本研究所の呂元明教授(73)は言う。
◇
「満州国」は、「中華民国と関係を脱離し、創立す」と宣言、独立国家として出発した。列強とアジアの覇権を争っていた日本はなぜ、緒戦の圧倒的勝利にもかかわらず、満州(中国東北部)を植民地として領有せず、独立国家として成立させたのだろうか。
二〇年代、石原莞爾ら関東軍参謀の間では、日本領土化をめざす「満蒙領有論」が練り上げられていた。この背景には、日米関係があった。
日本は二三年の「帝国国防方針」改定で、想定敵国一位をソ連から米国に代えた。これに対し、米国も日本を仮想敵国とする「オレンジ作戦計画」を作成、日米両国は来るべき衝突を予測し備えていた。
米国は、国民政府による満州を含めた国家統一を支持するなど、日本の中国・満蒙政策の前に常に立ちはだかっていた。石原は「満蒙問題は対米問題なり」と考え、日本は「東洋の選手権獲得のために」中国を兵站(へいたん)基地化することが不可欠で、「満蒙領有」から着手しなければならないと説いた(「満蒙問題私見」)。
「日米開戦を射程に入れた石原の理論は、それまで孤絶した案件だった満蒙問題を、日本が目指す世界戦略の中に位置づけた点に意義がある。この問題を武力で解決しようと狙っていた関東軍に、明確な指針を与えた」。京都大の山室信一教授の指摘である。
しかし石原理論は、いよいよ実践という段階になって後退を余儀なくされる。柳条湖事件からわずか四日後の三一年九月二十二日、関東軍は幕僚協議の結果、「満蒙領有」計画を断念し、満蒙に新たな「独立国家を建設」する案に転じている。なぜか。
山室教授の分析はこうだ。「国際的反発を考え、事変不拡大方針を採っていた陸軍中央の支持を取り付け、軍費や兵員の補充を引き出すには、独立国家建設の方が現実的と、石原らは考えたのだろう」
十月、関東軍は張学良政権の移駐地錦州を爆撃。現地の「独立国家建設工作」に引きずられるように、陸軍中央は政府の不拡大方針から離れ、三二年一月には、政府も建国工作を追認する。
関東軍が手を焼いたのが反満抗日ゲリラだった。満鉄経営の撫順炭鉱を襲撃したゲリラをかくまったとして、関東軍はある村を焼いた。三二年九月、平頂山虐殺と呼ばれる事件の犠牲者は、中国側発表で約三千人。現地には今も「遺骨八百余体が七〇年に発掘されたままの状態」で展示されている。
呂教授は小学生の時、父親と出掛けた吉林省臨江の路上で、日本の軍人が市民の首を刀ではねているところを目撃したという。「まさに恐怖政治でした」
王道楽土の理想を描いて建設した「満州国」の基盤は、かように脆弱(ぜいじゃく)だった。
(生活情報部 永峰 好美)
[満州国]
1932年3月、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀を執政として樹立。9月、日本政府は日満議定書を結んで満州国を承認したが、33年国際連盟に否認されて連盟を脱退する。34年溥儀を皇帝に帝政を施行。実際には関東軍司令官の下、要職に就いた日本人官吏が各部門で実権を握った。45年8月対日参戦したソ連軍により占領、消滅した。
*◆満州事変(3)
* 米英との協調から米英との対決へ――。満州事変は、第一次大戦後の日本の対外路線を大幅に転換させるきっかけになった。
中国は、柳条湖事件に始まる日本軍の満州(中国東北部)南部での軍事攻撃を阻止するように、事件三日後国際連盟に提訴した。共産軍の脅威で、日本軍への抵抗作戦を展開する余裕がなかった蒋介石の国民政府は、国際世論の圧力で抑えようと図ったのだ。
しかし、三一年十月の理事会で採択された日本軍の期限付き撤兵決議は、日本の反対で否決。日本軍は北部黒竜江省チチハルにまで進攻、列国の対日非難は強まる一方だった。そうした中、幣原喜重郎外相は十一月の理事会に、連盟からの調査団派遣を提案する。調査団に中国の現状を見せ、中国が外国人の生命や財産を保障できる状態にないことがわかれば「日本軍の自衛行動」という主張に連盟は理解を示すと期待したのである。
理事会は、英国のリットン伯を委員長に英米仏独伊五か国で調査団を結成、三二年二月末から九月初めまで満州などで調査を進めた。
団員は植民地行政の経験者が多く日本有利とみられたが、リットンの判断は幣原の期待を裏切るものだった。奉天滞在中、妹にあてた私信で、「満州国は虚偽である。中国の混乱状態の大部分は日本自身が作った」と書いている。
三二年十月二日公表された「リットン調査団報告書」は、柳条湖事件を「合法なる自衛の措置を認むることを得ず」とし、満州国も「純粋且(かつ)自発的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず」と断定した。
だが一方で、日本が中国の「無法律状態に依り何(いず)れの国よりも一層多く苦(くるし)みたる」ことも紛争を誘発したと指摘。解決策として、中国の主権の下に、東三省(遼寧・吉林・黒竜江省)自治政府を設け、指導のために「日本人が充分なる割合を占むる」外国人顧問を任命することなどを提案した。日本を含む列強の共同管理の下に満州を置こうという、日本に宥和(ゆうわ)的な内容を含む構想だった。
報告書の審議は十二月、連盟総会に移された。顔恵慶中国代表は満州国の解消などを求め、「日本は満州を日本の生命線というが、大戦で苦痛を受けた国にとって国際連盟は近代文明の生命線」と述べた。対する日本代表の松岡洋右は満州国承認こそ紛争解決策と譲らず、「数年ならずして(日本非難の)世界の輿論(よろん)は変わる。ナザレのイエスが遂に世界に理解された如く、我々もまた世界に理解されるであろう」と主張した。
その後日中両国を除く委員会で、満州国の存在を完全否認する勧告案がまとまり、最終報告書案に盛り込まれた。注目の採決は、三三年二月二十四日の総会で始まった。
結果は、賛成四十二、反対一(日本)、棄権一(シャム)。中国が留保なしで受け入れたのは「日本に対する制裁措置への期待」(南開大学日本史研究室・兪教授)だった。報告書は採択され日本は国際連盟脱退を決める。
「四十二対一」という数字は、満州事変と満州国に関する日本の主張が国際的に通用しないことを明らかにした。「英国やフランスなどは日本の弁護に回り、妥協案を提示した時期もあったのに耳を貸さなかった。独りよがりの日本外交の敗北だ」と、臼井勝美・筑波大名誉教授は言う。
日本の連盟脱退を、グルー駐日米大使は「日本は最も重要な外部世界への橋を燃やそうとしている」と評した。
ドイツではナチスが急速に勢力を伸ばし、三三年十月連盟脱退を表明。東西で旧来の国際秩序が崩れ始めた。(生活情報部 永峰 好美)
[リットン調査団]
調査団を構成した列強5か国の中には、中国に多くの権益をもっている国もあり、日本の満蒙・上海地域等における軍事行動を放置しておけなかった。一方、関東軍は調査団が現地に入る直前に満州国を樹立させ、既成事実化をはかった。これは連盟を無視する行為として西欧諸国の対日感情の悪化を招いた。
*◆満州事変(4)
*◇「抑制なし」戦争の道招く◇
国際連盟脱退と前後して、関東軍はアヘン産地熱河へ進攻を開始した。万里の長城を越え、一九三三年五月満州(中国東北部)域外の北平(現北京)から三十キロに迫った。
この情勢に五月二十五日中国側は停戦を申し入れた。天津近郊の港町塘沽(タンクー)で両軍の交渉が行われ、日本軍の提案を全面的に受け入れて停戦協定が調印された。
「十五年戦争」という言い方がある。三一年九月の満州事変から四五年八月の太平洋戦争終結までを総括することで、日本の戦争の全体像をとらえようとする見方だ。
満州事変について、中国大陸南部や台湾では、「東北で起きた一地域紛争」(台湾中央研究院近代史研究所・林明徳研究員)とみる学者が少なくない。だが、日本の「十五年戦争」という見方を受けて、八〇年代後半から東北三省中心に満州事変に始まる抗日戦争研究が進み、「十四年戦争(中国では正味の期間で表現)という呼称が中国の歴史学会で広まりつつある」と、遼寧省政協和文史委員会の趙杰副主任は言う。
欧米でも満州事変は、太平洋戦争へと続く時代の起点との意見が強い。当時の米国務長官ヘンリー・スティムソンも四八年、「第二次大戦への道は、奉天近郊の鉄道爆破事件から広島・長崎への原子爆弾投下へとつながっている」と自著で述べている。
ただし十五年の間、日本は戦争ばかりしていたわけではない。塘沽停戦協定で、満州事変は一段落した。関東軍は河北省東部に非武装地帯を設定し、華北への膨張の足場を確保したものの、以後三七年七月まで大規模な軍事行動を起こしていない。
臼井勝美・筑波大名誉教授は、「日本の膨張に一貫した意図があったわけではなく、盧溝橋事件に始まる日中戦争は、日本が改めて選択した戦争だ」とみる。
こうした様々な議論を踏まえた上で、「戦争の時代」への転換の時期を見つめ直すと、やはり満州事変がポイントになってくる。「関東軍は満州事変で、国際協調と政党政治という相互の自制と信頼から成り立っているシステムを一挙に破壊してしまった」(北岡伸一・東京大教授)ことが重要だからである。
日本の満州での行動に不承認決議をした国際連盟は、中国が期待した経済制裁をとることも、日本の熱河進攻を阻止することもできず、無力さを露呈した。
英サセックス大教授の故クリストファー・ソーンは、満州事変から日本の連盟脱退へと続く三一―三三年危機を「ワシントン会議で規定された極東体制に対する日本の攻撃を抑えることができず、連盟のもつ弱点を暴露した事件」と位置づけている(「満州事変とは何だったのか」)。
また、政党政治の崩壊に伴って、政府と軍の関係、さらに軍内部の指揮系統も混乱を極めていく。
陸軍刑法を厳格に適用すれば、満州事変を起こした関東軍参謀は軍法会議で査問を受けるはずだった。しかし、参謀たちには進級叙勲の論功行賞がなされ、侍従武官長の重職に就いた人もいた。「規律や命令を無視しても結果さえよければ恩賞にあずかれるという風潮が軍部幕僚の間に広まり、功名心に駆られた現地軍の突出が日本軍の悪(あ)しき伝統をつくった」と、京都大の山室信一教授は指摘する。
柳条湖跡にある「九・一八記念館」のパネル展示はこんな言葉で終わっている。
「日本の侵略者が中国民衆に無残なことができたのは、中国が当時遅れた国で政府が腐敗していたからだ。九・一八を胸に刻み、強い中国の建設に努めることを誓う」
満州事変は、いくつもの教訓を現在に残している。(生活情報部 永峰 好美)
[塘沽停戦協定]
協定の主な内容は〈1〉河北省東部からの中国軍撤退と攪乱(かくらん)行為禁止〈2〉日本軍の飛行機等による同地域の自由な視察〈3〉同地域の治安維持には(軍隊ではなく)中国警察機関をあてる〈4〉日本軍の「概(おおむ)ね長城の線」への帰還など。この結果、中国側は長城境界線に迫れなくなり、熱河省も事実上、満州国の一部となった。
*◆石原莞爾(上)
*◇事変の張本人 裁かれず◇
東北の一地方都市で“東京裁判”が開かれていたことは、あまり知られていない。それも、たった一人の証言を聞くために。
一九四七年五月、山形県酒田市で極東国際軍事裁判酒田臨時法廷が開催された。出廷したのは、元陸軍中将・石原莞爾。この法廷は彼を尋問するためだけに開催された。
石原は元関東軍作戦主任参謀。自著「最終戦争論」をもとに満州事変の構想を練った。本人も満州事変の中心人物であることを認めている。
関東軍は、石原の作戦のもとで、張学良軍の十分の一にも満たない兵力で満州全土を制圧した。石原は「戦略的にも戦術的にも非凡な才能を示した」(野村乙二朗・東京農大講師)とはいえ、世界の協調体制を破壊し、その後の日本を戦争に向かわせた最大級の責任者といえる。
だが、石原は、事変の責任を問われた被告人ではなく、証人として法廷に立った。
なぜか。連合軍側は、A級戦犯の枠を二十五人前後に設定したため、軍人の被告は階級上位者に限られ、当時中佐だった石原は起訴の対象からはずされた、というのが有力な説だ。
連合軍側は、石原を「反東条の大物」として重要視、東条有罪につながる証言を期待して証人として呼んだ。
戦後、石原は農業理論実践のため、遊佐町西山の地で開拓事業に取り組んでいた。仲篠立一さん(69)は、病気で体調のすぐれない石原をリヤカーに乗せ、自宅から迎えの車の来る国道まで運んでいった開拓地入植者の一人だ。
夕方、酒田までひざ掛けと書類を届けに行った仲篠さんは、ホテルで記者団に囲まれている石原を見つけた。
東条に関するコメントをとろうとする記者団に石原は、「君たちは東条を独裁者だというが、彼は私の団体を解散はさせなかった。それをマッカーサーは簡単に解散させた。マッカーサーの方が独裁者ではないか」と話し、記者団の笑いを誘っていたという。
法廷でも、石原は連合軍が期待したような東条批判は行わず、「軍が最悪の事態に備えて軍事的な準備をすることは当然である」として関東軍の軍事行動の正当性を主張した。さらに、関東軍が最初から満州国建国を目指したわけではないと説明した。
法廷での発言を見る限り、石原莞爾は満州事変に関して、罪の意識はほとんどなかった。「少なくとも事変発生当時、関東軍の行為は、天皇にも理解・許容されると考えていたのでないか」(野村講師)という。
石原は事変当時、中国のナショナリズムを軽視していた。早稲田大の小林英夫教授は「石原莞爾は、満州と中国は別と考えていた」と指摘する。満州を日本が支配下においても、中国人のナショナリズムを刺激することはないと認識していたというのだ。だが「満州事変ほど、中国人のナショナリズムを揺り動かしたものはなかった」(小林教授)。
また法廷で、石原は、満州事変で関東軍が「究極において軍の統帥作戦に関し、奉勅命令にそむき、もしくは奉勅指示に違反したことは一回もなかった」と証言した。ただ、石原ら関東軍幹部が政府や陸軍中央を無視、独断専行で戦線を拡大したことは事実だ。この独断専行は後に、しっぺ返しを受ける。
六年後、石原は参謀本部作戦部長として日中戦争拡大阻止に奔走する。だが、拡大派の部下、武藤章に「私は閣下が満州事変の際になされたことと同じことをしているだけです」と言われ、反論の言葉を失ったという。(編成部 今井洋)
[石原莞爾]
1889年山形県出身。1918年陸軍大学校卒。関東軍参謀時代の31年、板垣征四郎関東軍高級参謀らとともに満州事変を計画、実行。参謀本部第一(作戦)部長、関東軍参謀副長、第16師団長などを歴任するが、東条英機と対立して、41年、中将で予備役編入。「世界最終戦論」など著作多数。熱烈な日蓮宗信者としても知られる。49年没。
*◆石原莞爾(下)
*
石原莞爾(かんじ)は「不思議な人物」だ。時期、立場によって様々な顔を見せる。
満州事変を引き起こしながら、日中戦争拡大阻止を叫び、朝鮮、満州の独立などを軸とした「東亜連盟」構想を主張し東条政権を批判した。「世界最終戦争論」を発表しながら戦後は「戦争放棄」を唱える……。
周囲からは変節の繰り返しに映ったが、石原自身は、その一貫性を信じていた。それは、持論の「最終戦争論」に基づいていると考えていたからだ。
「最終戦争論」は欧州戦史研究と強烈な日蓮信仰をもとに生み出された石原の代表的著作だ。
これによると、戦争の歴史は「決戦戦争」と「持久戦争」の繰り返しであり、究極の決戦戦争が「最終戦争」である。その最終戦争によって世界が統一され永久平和が訪れるという。
石原は、最終戦争には「一発あたると何万人もがペチャンコにやられる」ような破壊兵器が開発される必要があるとし、天皇を中心とする東亜の「王道」と米国の「覇道」との間で最終決着がつけられると予測した。そして、日本は、最終戦争に備えるため、アジア諸国と東亜連盟を結成して米国に匹敵する生産力をつけなければならない、と説いた。
この「最終戦争論」は石原を解くカギともいえる。
石原が満州事変を引き起こしながら、日中戦争などその後の日本の戦争拡大政策に批判的だったのは、満州は日本が最終戦争を行う国力を養うために必要だが、対中全面戦争は、対ソ戦をより重視する石原にとって不要なものだったからだ。
東亜連盟構想は、「最終戦争」の準備のため、より自発的なアジア各国の協力を求める手段であり、各国の独立自体が目的ではなかった。
晩年の石原は「一種の農本主義者的な思想家」(東京農大・野村乙二朗講師)になっていた。「都市解体、農工一体、簡素生活」の三点を日本復興の基礎として挙げ、「戦争放棄に徹しよう」と題した論文を発表していた。原爆投下で石原が想定していたような「最終兵器」が出現したことも、戦争放棄論に影響を与えたのかもしれない。
戦後の一時期、石原の人気は高かった。講演会に数万の聴衆が詰めかけたこともあった。「目的は何であれ、日中和平などを戦前から述べていたので、発言に説得力を持てた。加えて東条政権の批判者だったことも有利に作用したのではないか」(早稲田大・小林英夫教授)。
現在でも一部に熱狂的な石原信奉者がいる。
今年八月二十九日、山形県遊佐町で、石原莞爾将軍五十回忌が開催された。豪雨にもかかわらず、各地から約五十人が参列した。開催に尽力した元福島女子短大助教授の佐藤秀一郎さん(69)もその一人で、晩年の石原に会ったことがある。石原の話は、聞き手を引き込む独特の魅力があったという。「農工一体とは、現在の田舎志向を予言していたのかもしれない」とも話す。
満州事変以降、石原は軍内で力を失っていくが、もし、影響力を保持していれば、何かを成しえただろうか。
その可能性について、小林教授は「プランは作れても、満州事変の際の板垣のように、自分を認めてくれる人間が上にいないと力を発揮できないタイプ」と否定的だ。
石原は、終戦の四年後に病死した。長命を得ていたら、戦後日本は、石原の目にどう映っただろうか。(編成部 今井 洋)
[東亜連盟構想]
石原が「昭和維新」の最大眼目として主張したアジア共同体構想。「国防の共同、経済の一体化、政治の独立、文化の溝通」の4条件を基礎とした。朝鮮はじめ東アジア各国の独立、日中和平などを唱えたため、東条内閣に警戒され、戦時中、石原は憲兵や特高の監視下に置かれた。
*◆満鉄(上)
*◇西欧の“風”運び近代化◇
中国遼寧省の瀋陽市郊外にある鉄路蒸気機関車陳列館には、満鉄(南満州鉄道会社)が世界に誇った大陸超特急「あじあ」号が中国人技術者によって復元されている。
野外に展示されているため、淡いグレーの車両にはさびが目立つ。それでも、流線型のモダンなデザイン、直径二メートルの巨大な動輪は、今もなお独特の風格を感じさせる。
「あじあ」号は一九三四年十一月、満州(中国東北部)の大連と新京(現長春)間で運転を開始した。最高時速百十キロ、冷房完備の蒸気機関車は、西欧の空気をアジアに運ぶ国際列車として登場した。当時日本から大連経由満州里まで満鉄を使い、シベリア鉄道に乗り換えてパリまで約二週間。外務大臣松岡洋右もヒトラーに会いに訪独する際、「あじあ」号を利用した。
満鉄はポーツマス講和条約でロシアから譲渡された東清鉄道の南半分と沿線付属地の利権をもとに、一九〇六年産声を上げた。資本金二億円の日本最大の株式会社。重要産業を押さえ、満州に君臨したが、実態は「英国の東インド会社と同じく、植民地支配のための会社」(小林英夫・早大教授)であった。
付属地に学校、病院、公園、神社などを建設し、日本色の強い近代都市へと変貌(へんぼう)させた。同時に、野球、ラグビー、映画、音楽など、欧米の文化やスポーツも運び込んだ。
夏目漱石が一高以来の親友、二代目満鉄総裁中村是公の招待で満州を訪問したのは一九〇九年九月。本社のある大連で遊園地を見物、「あれはなんだいと聞くと、電気仕掛けで娯楽をやるもので内地にはないとの説明。内地から来たものは田舎もの取扱にされても仕方ない」(「満韓ところどころ」)と感嘆している。
これは、初代総裁後藤新平の「文装的武備」による植民地経営という考え方に基づく。武力に頼るだけでなく、教育、衛生、学術などの環境づくりが重要だとの提言である。核になったのが、科学的な調査活動を売り物にした満鉄調査部の創設だった。
第一次大戦後ロシア革命を経てソ連が誕生すると調査部は拡充され、膨大な予算を使って資料を収集、中国本土や極東シベリア研究を中心に続々刊行物を出版した。
ところが、三一年九月満州事変の勃発(ぼっぱつ)で、後藤の文化的戦略は変質する。関東軍が満州で軍事活動を展開すると、満鉄はその手足となって動き始めた。満鉄自ら編纂(へんさん)した「満州事変と満鉄」によると、「会社は事変発生と共に全能力を挙げて軍隊及び軍需品の輸送に当たり迅速果敢なる陸軍の行動に絶大なる貢献をなした」と、積極的なかかわりを明らかにしている。
「老舗(しにせ)意識の強い満鉄社員だから、事変以降発言力を持ち始めた新参者関東軍への反発はあったが、反軍意識はなかった。若手には、これをきっかけに新しい自由な社会をつくると張り切る人も多かった」と、小林教授は言う。
二六年入社の天野元之助は随想「私の学問的遍歴」で、「これまでの満鉄本線は関東州と満鉄附属地に封じ込められたうっとうしいものだったが、満州事変で目の前が明るくなり、経済分析を担当する我々の猛勉強ぶりは忘れられない」と振り返っている。
三二年一月満鉄調査部門は「満鉄経済調査会」と名称を変え、満鉄の一部門でありながら、関東軍の要請を受けてその政策立案にあたるという奇妙な機関になった。
調査会は、「日満経済を融合し自給自足経済を確立する」などを柱に「満州経済統制策」を練り上げていく。
満鉄の知識を総動員する形で、「満州国」のグランドデザインが生まれていった。(生活情報部・永峰好美)
[満鉄の福利厚生]
第1次大戦後の好景気は、満州に日本企業と意欲に燃えた若者を殺到させた。満鉄は帝大卒のエリートを多数採用。会社のイメージアップ、そして優秀な社員をつなぎ止めておくために、社宅制度が整備され、社員共済や今日の健康保険に近い制度が内地の会社よりいち早く実施された。
*◆満鉄(下)
*◇関東軍の“手足”に変容◇
満鉄は、満州事変だけでなく、日中戦争の発端とされる一九三七年七月の盧溝橋事件にも大きく関与していたことが、早大の小林英夫教授と中国遼寧省档案館の共同研究で最近明らかになった。
事件勃発(ぼっぱつ)まもなく、満鉄天津事務所が関東軍に協力して「満州事変よ、もう一度」との方向で拡大に寄与した、というのだ。それを裏付けるように、档案館所蔵の旧満鉄総裁室文書課史料には、天津事務所長名で打電された「満州事変を経験した金融法や国際法の専門家を早く送れ」、「看護婦や医者を送れ」といった電報が数多く残っている。
中国は三五年十一月の幣制改革で全国的に統一された法定通貨を定め、中央政府の求心力が急速に強まった。この変化にいち早く気づいたのは、華北経済調査を進めていた満鉄経済調査会だ。だが、関東軍は武力で抑える方針を変えず、また満鉄も関東軍を止めようとしなかった。
盧溝橋事件以後、満鉄の経済的支配力はますます制限され、現業部門は鉄道と撫順炭鉱に限定された。国策会社「満州重工業開発(満業)」を設立して主要な製造企業を移管、産業部に改組された経済調査会は三八年五月に廃止された。
満鉄の将来はどこにあるべきか。満鉄総裁松岡洋右は三九年、打開策として大調査部構想を持ち出す。野々村一雄、石堂清倫(きよとも)ら左翼運動の前歴をもつ者を登用、調査部門を活気づけようとした。
現在も労働運動の研究を続ける石堂さん(94)は、アジア経済研究所の聞き取り調査(八八年)でこう語っている。「満鉄幹部には内地の会社より案外リベラリストが多かった。日本の普通の官僚社会と違って、上級の社員でない人も、かなり大きな仕事が自由にできた」
しかし、戦局の逼迫(ひっぱく)とともに調査部門の言論の自由も制限され出す。転向者がいるからと関東軍憲兵隊は目を光らせ、四二年九月から一斉検挙が始まり、満鉄は存立の余地を失っていく。満業も経営破綻(はたん)し、四五年八月ソ連軍侵攻の中で最後の時を迎えた。
日本では近年、満鉄の歴史的役割を再評価する動きがある。満鉄経済調査会幹事・宮崎正義研究はその典型だ。
帰国した宮崎は、三五年日満財政経済研究会を組織。参謀本部の石原莞爾らと「産業開発五ヵ年計画」を作成、満州国の統制経済化を説いた。
その内容は、今風に言えば「行政改革」の断行だ。大臣が十三人もいる内閣の規模を三分の一に縮小し、その代わり経済参謀本部の機能を持つ総務庁を新設、政策の立案や執行を行う。総務庁の下で経済各部門の国家管理を提唱、電力、航空機、兵器などは国営化し、石油、石炭、鉄鋼などは監督官庁が許認可権をもつ官僚統制にと分けた。
「宮崎の提言は日本の戦時体制(一九四〇年体制)の下敷きになった。骨格はそのままでないにせよ、戦後の高度経済成長を推進した官僚主導型経済へとつながる」と、小林教授は指摘する。
一方、中国側が満鉄を見つめる目は一貫して厳しい。大連の満鉄本社をはじめ満鉄関連の建物は現在も政府や軍の施設に使われているが、遼寧社会科学院歴史研究所の張志強副研究所長は「満鉄が残したものは中国人に苦しい歴史を思い起こさせる。日本式の都市計画は東北地方の発展を邪魔している」と話す。
吉林省の炭鉱町九台の元炭鉱労働者(78)は「食事は二食。病気でも休めない。毎日たくさんの病死者が埋められた」と、山のふもとを指した。科学的労務管理で炭鉱の近代化を進めたといわれる満鉄だが、中国人労働者は恩恵を受けなかったらしい。
満州に根をはった「知の集団」の視線は、日本にだけ向けられていたのだろうか。(生活情報部・永峰好美)
◇
[残留した満鉄社員]
敗戦後も現地に残り、満鉄時代に蓄えた知識や技術を中国人に伝え、復興に協力した日本人もいる。中央試験所長の丸沢常哉もその一人。一緒に残留した所員は「(丸沢)先生は日本人として戦争責任を感じて、中国に何かお役に立てないかを真剣に考えていた」(「満鉄中央試験所」)と振り返っている。
*◆西安事件
*◇抗日統一戦線にはずみ◇
満州事変の停戦を定めた「塘沽(タンクー)停戦協定」(一九三三年)から四年間、中国大陸で大規模な戦闘はなかった。しかし、この間にも関東軍は、華北五省の国民党政府からの分離をめざし、冀東(きとう)防共自治政府や冀察政務委員会など傀儡(かいらい)政権樹立を着々と進めていた。
日本の軍事的圧力が強まるなか、三五年八月、モスクワでのコミンテルン第七回代表大会で、中国共産党代表団は、抗日運動の流れを変える宣言を出した。「抗日救国のために全同胞に告げる書」(八・一宣言)だ。
「金がある者は金を出し、銃がある者は銃を出し、食料がある者は食料を出し、力のある者は力を出し……」
依然として南京政府と蒋介石を「売国賊」とする「反蒋抗日」路線だったが、上流階級や軍閥も含んだ統一戦線への呼びかけだった。
さらに一年後、コミンテルンが中国共産党に「反蒋」の放棄を求め、抗日方針は「逼蒋抗日(蒋介石を抗日に追いやる)」に定まる。しかし、問題は、蒋介石側が統一戦線に消極的だったことだ。
蒋介石は日本に対し、「和平が完全に絶望の時期に至らない限り、決して和平を放棄せず」との立場をとり、依然、「安内攘外」(国内安定後に外敵を撃つ)路線は捨て切っていなかった。
この蒋介石を「監禁」という非常手段で強制的に統一戦線路線に向かわせたのが三六年十二月十二日に起きた西安事件だった。
事件の首謀者、張学良は当時、軍閥である東北軍の首領。
中国社会科学院近代史研究所の楊奎松研究員によると、張学良はこの年の初めから共産党と接触を重ね、四月九日には周恩来と秘密会談を行っていた。
張学良は満州事変で失ったふるさとの奪回への思惑とともに「抗日戦について蒋介石と意見が合わず、共産党に積極的に接近を図った」という。
楊研究員は、内戦停止・一致抗日・政治犯釈放など八項目の要求を蒋介石が拒んだため、張学良が諫(いさ)めようとして蒋介石を監禁したという有力説に疑問を投げかける。
「蒋介石の拒否は予想していた。張は諫めるというより、革命をやっていると考えていた。ただ、それは願望であり、実現不可能だった」
事件に対する日本の反応はどうだったのか。ソ連の関与も取りざたされたほか、蒋介石後の南京政府を親日派が握る期待もあった。が、「静観して絶対にかれこれ小策を弄(ろう)しないように」(海軍)という対応だった。
蒋介石の処遇に内外の注目が集まった。共産党内部には「裁判にかけるべし」の声もあったが、結局、蒋介石夫人の宋美齢、張学良、楊虎城、周恩来らが会談を重ね、蒋介石が八項目要求をほぼ認めることで決着、蒋介石は二十五日解放された。
蒋介石が南京に帰還すると、「南京市中は青天白日旗の波であり、民衆の大群は蒋介石の着陸する故宮飛行場に向かってただ歓呼をもって動いた」。西義顕満鉄南京事務所長は、その著「悲劇の証人」にこう描いた。
西安事件は、抗日統一戦線へ大きなはずみをつけた。
かつて毛沢東は「西安事件は我々を牢獄(ろうごく)のなかから解放させてくれた」と評価した。
楊研究員も「西安事件は、抗日全面戦争の時期を早めた。この事件がなかったら、共産党は新たな長征を行う必要に迫られただろう。そうなれば、内戦が長引き抗日も困難になったはずだ」と語る。
張学良はハワイで健在だが、事件の真相についてすべてを語ってはいない。(社会部・五味稔典、北京支局・大江志伸)
[張学良]
中国東北部を地盤とする軍閥、張作霖の長男。張作霖が日本軍に爆殺されると、その後継者となる。西安事件後、自ら蒋介石を南京まで送りとどけ、身柄拘束される。国民政府の軍法会議で禁固刑の有罪判決を受け、その後、国民党によって身柄を台湾に移され、以後、40年以上、軟禁状態に置かれた。現在は、ハワイ在住。
*◆中国再認識
*◇関係修復に結びつかず◇
西安事件による中国国内の「内戦停止・抗日一致」の動きで、日本国内では中国の力を見直す「中国再認識論」が盛り上がったが、西安事件以前の「綏遠(すいえん)事件」と日中交渉の決裂も、この「再認識」の伏流となった。
綏遠事件は、一九三六年十一月、察哈爾、綏遠両省(ともに現在の内蒙古自治区)を舞台に、蒙古民族が関東軍の指揮下、南京政府に対し、独立・自治を求めて起こした軍事行動である。
しかし、蒙古独立派は、国民党政府軍に完敗、中国国内ではこれが関東軍に対する勝利と受け止められ、抗日機運が盛り上がった。
また、綏遠事件の二か月前、川越茂・駐華日本大使と張群・国民党政府外交部長との間で日中の国交調整をはかる外交交渉が行われていた。交渉では、日本側は華北五省の「自治運動」に日本の影響力を反映させる形での解決を要求、中国側は、綏遠独立派に対する関東軍の工作中止を要求していた。しかし、交渉は、綏遠事件の発生で終止符が打たれた。
中国再認識論の象徴となったのが、三七年三月の佐藤尚武の外相就任だった。
海外勤務が長いため国内情勢に疎く、外務省主流派でもない佐藤は、「浦島太郎」とも評され、新政策を打ち出す力はないとみられていた。ところが、就任直後の議会答弁で、その評価は変わる。
「本当の意味の危機、つまり戦争の勃発という意味の危機、日本がこれに直面するのもしないのも、日本自体の考え如何によって決まるのである……」「平等互恵の立場に立って、支那の心配する所も聴き、また吾々の緊密とする権益に関する主張も十分に聴いてもらって……」
中国側に配慮した新外交方針は、それまでの「広田三原則」に代表される広田弘毅―有田八郎らの主流派外交とは異なったものに映った。
「広田三原則」は、欧米依存主義からの脱却と対日親善政策の採用のほか、満州国の事実上の黙認、共同防共を中国に求めるものだった。これに対し、新外交方針は、相互の独立尊重、紛争の平和的解決などを求めた中国側の「三原則」に近いものとみられた。
政府だけでなく、軍部にも中国再認識論は台頭していた。
西安事件直後の三七年一月、参謀本部作成の「対支実行策改正意見」には「帝国の対支強圧的または優位的態度を更改」との記載がある。
この背景には、対ソ戦略のため、中国政策の転換を考えていた石原莞爾・作戦部長代理(後に部長)の意思が反映したともいわれている。
一方、中国にも「主権の障害を除去せば両国間の懸案は完全な解決を得ずとも、少なくとも和平の方法を以て紛糾解決の可能の端緒を得べし」(国民党三中全会宣言)というように、まだ対日妥協の線は残されていた。
しかし、佐藤はわずか四か月足らずで降板、その後、再び広田が外相になった。
新外交路線が続いていれば、戦争は避けられたかもしれないという見方は少なくない。佐藤外交は、広田外交の対極との通説もある。
反論もある。中国出身の劉傑・早稲田大助教授は、「広田、佐藤とも、外交姿勢にさほど大きな違いはみられない」と指摘する。
二人とも、中国での権益への固執という強硬な面と、戦争回避の道を探る協調路線との両面を持ち、有吉明公使ら「中国通」外交官の対中国政策の流れが共通の基盤になっていたというのだ。
結局、両者とも「満州権益の保障」への執念は変わらず、和平の期待を秘めていたかにみえる新外交方針も日中関係修復にはつながらなかった。(社会部・五味稔典)
◇
[日中親善経済使節団] 児玉謙次・日華貿易協会会長を団長に、藤山愛一郎はじめ、三菱、三井、紡績関係の有力財界人が1937年3月、佐藤外相就任と同時期に、上海、南京などを訪問して、蒋介石らと懇談した。しかし、外交交渉の行き詰まりの影響を受け、経済提携の進展など具体的な成果はあげることができなかった。
*◆盧溝橋事件
*◇「北京占領」に徹底抗戦◇
北京郊外の永定河に架かる盧溝橋。マルコ・ポーロが「東方見聞録」でその美しさを称賛したこの橋で、満州事変以来途絶えていた戦闘に再び火がついた。一九三七年七月七日夜、日中の両軍が衝突した盧溝橋事件である。
満州事変は関東軍による謀略というのが日中ともに定説だが、盧溝橋事件については、日中間で見解が分かれる。
日本では、戦闘の発端となった「第一発」について、中国軍(第二十九軍)発砲説が有力だ。また、事件自体は偶発的で、事件後の双方の対応が原因で全面戦争に向かったという解釈が一般的になっている。
これに対し、中国では、先に発砲したのは日本軍であり、事件発生を含め日本の計画的謀略とみて「第二の九・一八(満州事変)」とする見解が支配的だ。
また、第二十九軍には共産党の秘密党員もいたとされるが、事件の際にどのような行動をとったかもはっきりしていない。
それでは、盧溝橋事件の重要性は、どこにあったか。
「中国人民抗日戦争記念館」の張承釣館長は、「どちらが先に撃ったかは重要ではない。大切なのは、衝突の現場が北京だったことだ。これは全面的な中国侵略の意図があったことを示す」と語る。
中国社会科学院近代史研究所の楊奎松研究員も「南京政府は、東北部(満州)問題は重要視しておらず、関内(中国中心地域)の統一こそが最大の関心事だった。このため、本格的な抗日活動を行うかどうかの決断は、関内での日本軍の行動にかかっていた」と述べ、盧溝橋事件で日本軍が関内の重要都市・北京を占領したことが、その後の全面戦争につながったと指摘する。
事件に対する日本の対応は、一貫性を欠いたものだった。
日本の支那駐屯軍は、当初、早期収拾に動き、日本政府も「現地解決・不拡大」の方針をとり、現地で七月十一日、停戦協定が成立した。
ところが、近衛文麿内閣は協定調印からわずか数時間後に、盧溝橋事件を「全く支那側の計画的武力抗日」と断定し中国側の謝罪を求める声明を出し、「華北派兵」を決定した。
この決定は、不拡大方針だった現地軍を武力解決へと向かわせる効果を生んだ。
一方、南京政府は、日本政府の派兵決定とほぼ同時に、中央軍を北へ向かわせた。しかし、南京政府と、事件の現場をかかえる冀察政務委員会、中国共産党の抗日姿勢が必ずしも一致せず、さらに軍の準備も不十分で、中央軍本隊は、北京への進軍を見送った。
蒋介石は七月十九日、「盧山談話」を公表した。「和平を熱望しているが、ひとたび最後の関頭にいたれば徹底的に抗戦する」。和平解決の余地を残すものでもあったが、「緩兵の計」(引き延ばし作戦)という時間稼ぎの狙いがうかがえる内容だった。
秦郁彦・日大教授は、自著「盧溝橋事件の研究」で、盧溝橋事件が全面戦争に向かった要因は、日本が「華北派兵声明」を行い、また中国側が中央軍を北上させたことで、双方の中央政府が介入したため、と分析している。
七月下旬に入り、日本軍は北京と天津の間の廊坊で攻撃され、北京城広安門でも機銃掃射を受けた。日本政府は、派兵声明後も控えてきた内地師団の動員に踏み切り、二十八日、総攻撃を開始、北京とその周辺を占領する。
蒋介石は二十七日、中共軍の再編と出動を命じるメッセージを周恩来に送り、二十九日には、局地解決の可能性はなくなったとして抗戦への決意を明確にした。
本格的な抗日統一戦線となる第二次国共合作が実現したのは、その五十日後だった。(社会部 五味 稔典、北京支局 大江 志伸)
[支那駐屯軍] 1900年の義和団事件後の「北京議定書」に基づき華北に駐屯していた日本軍。36年6月、「塘沽停戦協定」の履行監視と同協定に基づく非武装地帯の治安維持のため、兵力は約5800人に増強され、駐兵地域も天津から北京に近い豊台まで拡大した。増加兵力のうち歩兵第一連隊第三大隊第八中隊が盧溝橋事件の直接の当事者となる。
*◆上海事変
*◇海軍参戦で「日中」全面化◇
一九三七年八月九日、日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が、中国保安隊員に射殺される大山事件が起こった。この事件をきっかけに第二次上海事変が起こる。
日中戦争の全面化――これが第二次上海事変が持つ歴史的意味だ。「全面化」には、いくつかの側面がある。
まず、和平の可能性消失と中国側の抗日戦線本格化があげられる。
日本政府は、盧溝橋事件の局地的解決を図るため、元外交官で中国勤務の長かった船津辰一郎を軸に和平を模索していたが、この事変で和平工作はストップする。
事変直前、地方の軍事実力者や周恩来ら中国共産党の代表者に呼びかけて「徹底全面抗戦」を確認していた蒋介石は、大軍を上海に投入した。中国軍は、七十万の兵士を動員、クリークとトーチカを利用して徹底抗戦を行った。
「盧溝橋事件で戦った中国側部隊は、地方の部隊に過ぎなかったが、第二次上海事変では蒋介石直属の部隊の七割が投入された。この事変がなければ、全面的な日中戦争にはならなかったかもしれない」。上海社会科学院歴史研究所の楊国強研究員は、事変の重要性をこう語る。
蒋介石が上海戦を重視した理由としては、まず、商業都市・上海が持つ経済力の死守があげられる。また、国際都市・上海での戦闘で国際的な対日批判が高まり、英米による調停か武力干渉で中国に有利な状況がうまれるとの読みもあったのではないか。
海軍の本格的参戦も、全面化の重要な側面である。
第二次上海事変まで、軍部は、陸軍の「拡大派」ですら戦線は華北に限定することを前提としていた。ところが、海軍がこの事変で「不拡大」方針を転換、本格参戦する。
その伏流は、前年の三六年にあった。日本海軍が英米との間の軍縮体制から離れた年だ。同年八月の「国策の基準」は、対ソ危機感から北方重視の戦略をとる陸軍に対し、海軍は南進論を掲げ、南方に植民地を有する英米との対決姿勢を示した。この時点での対中国政策は「平和的手段をもって」という穏健策であったが、海軍の権益地域である華中・華南で、抗日ゲリラ活動激化を受け、海軍では、中国全域への軍事作戦への機運が高まっていた。
海軍大臣・米内光政は、大山事件直後、陸軍派兵に渋々応じるなど、当初は、事変拡大に消極的だった。しかし、陸軍派兵が決定した翌日の十四日、閣議で「海軍としては必要なだけやる考えである」と不拡大方針を放棄、南京占領の強硬論まで提言した。
外務省東亜局長の石射猪太郎は、「海軍もだんだん狼(おおかみ)になりつつある」と当時の日記に記している。
米内の態度豹変(ひょうへん)の理由は不明だ。しかし、米内はその日の午前中に中国空軍機が上海の海軍陸戦隊本部などを爆撃したことに怒っていたという。この爆撃が「日本が、大国としての襟度をもって積極的に支那をリードするべき」との認識を持つ米内に、大きな衝撃を与えたのかもしれない。
中国軍の空爆に対し、九州、台湾の日本海軍航空隊は十五日から、杭州・南昌・広徳・南京などの中国空軍基地に対し、渡洋爆撃を開始した。続いて陸軍も、上海に上陸、上海全域が戦場となり、その後、戦線は中国全土へ広がっていく。
「第二次上海事変は、中国戦線で初めて海軍が本格的に参加した戦いとなった。海軍が対中国全面戦争への牽引(けんいん)車となった面が強い」(広瀬順晧・駿河台大教授)。
日本政府は九月二日、「北支事変」を「支那事変」に改め、日中戦争の全面化を表明した。(社会部・五味稔典、北京支局・大江志伸)
◇
[渡洋爆撃]
37年8月15日、長崎の大村基地を発進した爆撃機隊は、悪天候の中、東シナ海を越えて首都・南京を爆撃した。当時としては、世界的にみても例をみない最大規模の都市爆撃で、海軍省は「世界航空戦史上未曽有(みぞう)の大空襲」と戦果を誇示した。爆撃はその後も繰り返され、国際連盟が非難決議を行うなど、国際的反発も招いた。
*◆朝鮮統治(1)
*◇「内鮮一体」掲げ皇民化◇
韓国釜山市に住む金成壽(キムソンス)さん(73)と李圭哲(イキュチョル)さん(73)が、日本海に面した慶尚南道蔚山(ウルサン)郡(現蔚山市)の鶴城普通学校に入学したのは一九三一年(昭和六年)の春だった。朝鮮人だけが通う小学校だったが、校長は日本人だった。
当時の「国語」は「日本語」。週に五時間の朝鮮語の授業はあったが、算数、修身、歴史、授業はすべて日本語で行われた。
同校では、その朝鮮語の授業も、五年に進学した三五年から消えた。児童たちは、ちょうど名刺大の日本語奨励カードを持たされた。表には「国語奨励」、裏には「はいありがとう」と書かれていた。休み時間でも朝鮮語を話すと、相手に一枚ずつカードを取り上げられた。月末にカードの多い生徒はほめられた。「子供ですから何の疑いもなく、教えられるままに日本人になろうと努力した」(李さん)。
金さんが釜山にある東莱高等普通学校(旧制中学)に、李さんが地元の農業学校にそれぞれ進んだ三七年七月に盧溝橋事件が起き、日中戦争は泥沼に入る。前年八月に朝鮮総督に就任した陸軍大将南次郎は「内鮮一体」をスローガンに掲げ「皇国臣民化」を推し進める。三八年には朝鮮教育令を改正、朝鮮全土で朝鮮語の教育は事実上廃止された。
「(日本人と朝鮮人は)相互に手を握るとか、融合するとか、そんな生温かいものじゃない。手を握るものは離せばまた別になる。水と油も無理にかき混ぜれば融合した形になるが、それではいけない。形も心も血も肉もことごとくが一体とならなければならん」。南総督は三九年五月三十日、国民精神総動員朝鮮聯盟役員総会のあいさつで絶叫した。内鮮一体の究極の目標について、「内鮮の無差別平等に到達すべきである」と強調している。
宮田節子・早稲田大講師は、「日中戦争の深化とともに、朝鮮軍司令官も経験した南総督は、将来の朝鮮での徴兵制の導入も視野に入れていた。兵の不足を補う必要はあるが、天皇のために死ねる兵士に仕立てる必要がある。日本語教育の強化も、銃後を含めて軍事的な円滑なコミュニケーションの必要上から生まれたものだ」と指摘する。
朝鮮総督府は三七年十二月、「皇国臣民の誓詞」を制定、半島内の学校では、朝鮮人の児童、生徒に朝礼ごとに唱和させた。
「我等は皇国臣民なり、忠誠を以って君国に報ぜん」「我等皇国臣民は互いに信頼協力し以って団結を固くせん」
紀元節、天長節に明治節。その都度、校内の奉安殿からうやうやしく天皇の御真影が取り出され、生徒たちは、東方の皇居に向かって宮城遥拝(ようはい)をした。南京入城、漢口陥落、その都度、昼の行進、夜の提灯(ちょうちん)行列に駆り出され、内地と同様に勝利に酔いしれた。「そうした時代の空気の中でいつしか、日本の勝利を確信し、天皇の赤子であることに疑いも持たなくなっていった」(金さん)。
三九年十一月、氏名を日本式に改める「創氏改名」の政令が朝鮮総督府から公布される。
政令施行日の翌年二月十一日の紀元節を期して、金家は「大立」姓に代えた。「大立俊雄」。これが自分の名前なのかと不思議な気持ちもしたが、兄が商売の必要上すでに大立姓を名乗っていたこともあり、「当たり前のこととして」(金さん)受け入れた。
李さんは「木下朝幹」と改名した。「木下藤吉郎のキノシタ」と名乗る時、少し誇らしい気すらした。
時局は急を告げ、二人が卒業を間近にした四一年十二月八日、日本海軍機動部隊の真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)。二人は皇軍兵士として、戦いに巻き込まれていく。(地方部 宇恵一郎)
[朝鮮総督府]
1910年(明治43年)の日韓併合に伴い、同年、京城(現ソウル)に植民地朝鮮の統治機関として設置。総督には陸・海軍の大将が任命され、天皇に直属した。官房と総務、内務、度支、農商工、司法の各部が置かれ、憲兵と警察が合体した憲兵警察制度を通じて、抗日運動を徹底して取り締まった。
*◆朝鮮統治(2)
*◇悲劇呼ぶ徴兵制前倒し◇
戦前に徹底した皇国臣民化教育を受けた金成壽さん(73)(韓国釜山市)の手元に、日本の厚生省援護局が七八年八月一日に発行した受傷証明書がある。
「歩兵第一四四連隊、陸軍上等兵、大立俊雄。昭和十九年十二月十二日、ビルマ南部ワラバン付近の戦闘において左下腿、右肩甲部、腰部軟部盲貫迫撃砲破片創を受ける。昭和二十年三月四日、ビルマ南シヤン州ライカ所在第一二一兵站病院入院中、敵機の爆撃により右上腕、投下爆弾破片創を受ける」
「自分の人生は何だったのか」。創氏改名政策で「大立俊雄」と名乗らされた金さんは、爆撃で腕を失った右肩をなでながら今も問い続ける。
「大立、帝国陸軍に志願しないか」。東莱高等普通学校五年生の秋。担任の日本人教師がもちかけた。一九四一年(昭和十六年)。太平洋戦争の開戦は間近に迫っていた。
朝鮮総督府は、日韓併合以来、朝鮮住民に対して兵の募集は行ってこなかった。それが日中戦争の長期化で、兵の不足を補うため、一九三八年四月から「朝鮮陸軍特別志願兵令」を施行。五月には内地の国家総動員法を朝鮮にも適用する。
金さんのすぐ上の兄は、京城(現ソウル)の普成専門学校(現・高麗大学)で摘発された抗日運動に関与したとして逮捕されていた。「志願すれば兄も釈放されるかもしれない」との思いもめぐった。
「行きます」。この年、同校から志願したのは金さんただ一人だった。
「半島二千三百万の熱血をあげて若人にひらく軍国の門」(雑誌「朝鮮」三九年三月号)。勇ましい掛け声とは裏腹に、実際には各行政単位、学校で志願者数を割り当てた強制徴兵そのものだった。
「内鮮一体を推し進める朝鮮総督府の究極の目標は志願制度を経て徴兵制度の施行。しかし総督府の内部資料によると、思うように皇国臣民化は進まず、徴兵制の目標年次は、皇民化教育が浸透する次世代の昭和三十五年ごろとされていた。それが戦局の急迫によって前倒しされた」(宮田節子・早大講師)
金さんは、卒業とともに、京城郊外の志願兵訓練所で六か月の訓練を受け、一九四四年六月、配属された歩兵連隊の擲弾(てきだん)筒手として、釜山を出港、ビルマ戦線に向かった。 日本の敗色が濃くなった四四年二月には朝鮮全土についに徴兵制度が敷かれる。
金さんの普通学校(小学校)時代の同級生、李圭哲さん(73)は、故郷、蔚山の農業学校を卒業後、満州の旧ソ連国境に近い東安(現・密山)で朝鮮人の国民学校の教師だった四五年八月九日、赤紙を受け取り応召する。四四年度の徴兵検査では教師は兵役を免除されたが、ソ連軍の参戦で、男子は根こそぎ召集を受けた。
一週間。直接ソ連軍と対戦することもなく、武装解除。しかし本当の戦いはそれからだった。部隊を乗せた貨車はシベリアへ。そしてウラル山脈を越えた。氷点下40度にもなる酷寒と飢えの中で森林伐採に追われた。日本人を含む戦友たちは枯れ木のような体で次々と息を引き取った。
「朝鮮人なのに、なぜ日本の戦いに巻き込まれ、こんな地獄を見るのか。初めて朝鮮人として目覚め愕然(がくぜん)とした」(李さん)
金さんが韓国に帰り着いたのは終戦翌年の四六年夏。李さんが故郷に帰還したのは四九年二月のことだった。
言葉も名前も奪われ、日本人に仕立てられた「皇軍兵士」たちは、五二年のサンフランシスコ講和条約で法的に「日本国籍」を失った。元日本軍兵士に支給される軍人恩給制度からも「国籍条項」を盾に見捨てられたままとなっている。(地方部 宇恵一郎)
[第2次大戦中の朝鮮人の軍事動員数]
軍人は、陸軍約9万5000人、海軍約2万1000人。このほか軍属12万7000人。軍人、軍属を合わせた戦没者は約2万2000人(厚生省調べ)。また、韓国の抑留者団体によると、シベリア抑留兵士は1万人から1万5000人と見られるが、正確な数字は把握されていない。
*◆朝鮮統治(3)
*◇近代化の陰で農民犠牲◇
日本の植民地統治を総括して新しい日韓の国交関係を結ぶための日韓交渉は敗戦六年後の一九五一年から開始されたが、請求権の扱いを巡り紛糾を重ねた。朝鮮戦争休戦後の五三年十月に再開された第三次会談の請求権委員会で、日本代表の久保田貫一郎の発言が韓国側の猛反発を呼び、その後、日韓会談は四年半も中断することになる。
「韓国側が日本統治下の朝鮮に対しての賠償をうんぬんするのであるなら、日本が韓国の経済力を培養したという事実を指摘せざるを得ない。日本の朝鮮統治は必ずしも悪い面ばかりでなく良い面もあった」
さらに久保田代表は、朝鮮の鉄道、港の建設や農地造成など、日本の大蔵省は当時、多い年で二千万円も持ち出していた、と言及した。
植民地統治を通じて、近代資本主義の地盤を築いたとする「植民地近代化論」だ。
「しかし、一体だれのための近代化だったかの視点が抜け落ちているのではないか」と、鄭泰憲(チョンテホン)高麗大学講師(韓国近代史)は反論する。
「資本主義化、市場経済化が近代化だという視点には異論はない。しかし植民地支配下の朝鮮では、農業も紡績も鉱工業も資本の九割が日本人のものという現実がある。膨大な資本が日本から投入されたことは認めるとしても、結局は朝鮮の国内総生産(GDP)の半分以上が日本に流出した。朝鮮に資本の蓄積はなされなかった」
日清、日露の両戦争を経て一九一〇年の日韓併合後、日本の朝鮮植民地統治の経営理念は、大陸進出のための「兵站(へいたん)基地化」にあった。
さらに一八年に日本国内で米価の高騰と米不足に端を発して「米騒動」が起きると、日本への移出用として朝鮮での米の増産が緊急課題となってきた。
一方で、朝鮮内では、日本の植民地支配への反抗の動きが激しくなり、一九年三月には、朝鮮の知識人たちが京城市内で独立宣言を読み上げ、全国に独立運動が広がり始めていた(三・一運動)。
こうした内外の危機を受けて、朝鮮総督府は二〇年、「産米増殖計画」に着手する。
当初の計画では、十五年間で四十万町歩(一町歩は約一ヘクタール)を土地改良し、年間九百二十万石(一石は玄米百五十キロ)の米を増産する計画だった。五百万石を日本に移出し、残りを朝鮮内の消費にあて民生の安定を図る計画だった。
総経費は一億二千万円にのぼる巨額だったが、当時、経済学者の矢内原忠雄氏は「米および籾(もみ)の輸入関税を撤廃して外米の輸入を容易にした方が現実的だ」と喝破している。
実際に、朝鮮経済年報の統計によると、一九年から三一年までの間に、朝鮮では米の収穫高は、千二百七十万石から千五百八十万石へと三百十万石の伸びを示したにすぎなかったが、日本への移出は二百八十万石から九百万石へと三倍以上に急増した。移出率でみると22%から56%となり、朝鮮内では農民も食米に事欠くありさまとなった。
この間、朝鮮の総人口の八割を占める農民の生活は困窮を極めた。前年の収穫米を消費し、麦が出回るまでの三月から六月の春窮期に野草や松の皮などで飢えをしのぐ「窮民」が続出した。
三一年八月五日付の朝鮮語民族紙「東亜日報」は、総督府農務課の調査を引用し、「朝鮮の米産地である全羅北道は地主と外来人の多い関係上、窮民の数が全農家数の62%に達している」と報じている。
食い詰めた農民たちは、北部では鴨緑江、豆満江を越えて満州地域へ、南部では職を求め日本へと渡ることとなる。(地方部 宇恵 一郎)
[日本内地へ流入した朝鮮住民]
日韓併合直前の1909年、日本に住む朝鮮人の数は790人でその大半が留学生だった。20年には3万人、30年には30万人、38年には80万人と激増した。39年からは炭鉱や港湾労働者としての強制的な徴用(強制連行)が始まり、終戦直前の45年5月には210万人と推計されている。(旧内務省警保局統計)
*◆朝鮮統治(4)
*◇引きずる「36年」の清算◇
「我が国が過去の一時期、韓国の国民に対し、植民地支配により、多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのおわびを表明する」
金大中韓国大統領を迎え、今月八日に行われた日韓首脳会談で、小渕首相は両国間の過去の問題をこう総括した。金大統領は、「今後、韓国側から過去の問題を持ち出さないようにしたい」と応じた。 「それでも、私の戦後は終わっていない」。旧日本兵として、ビルマ戦線で右腕を失う戦傷を負った金成壽さんは、釜山の自宅で、複雑な思いを抱きながら日韓首脳会談のニュースを聞いていた。
両国間では、植民地統治に対し、六五年に結ばれた日韓基本条約と、付随の諸協定で合意が成立している。植民地統治の根拠であり、韓国側が国家としてのメンツを懸け、締結自体の無効を強く主張した日韓併合条約については「もはや無効である」との表現で玉虫色の結論に達している。
久保田貫一郎代表の発言で紛糾した「請求権問題」に関しては、在韓日本財産に対する日本側の請求権と、国家、民間の被害に対する韓国側の対日請求権をまとめて相殺し、日本側から韓国側に対して無償三億ドル相当と有償二億ドル相当の資金の供与を約束し、実行された。当時日本の外貨保有高十億ドルの中から供与された資金は、浦項製鉄所の建設を始め、鉄道、道路、ダム、学校整備など、朝鮮戦争で灰燼(かいじん)に帰した韓国の社会基盤整備に大きく貢献した。
個人被害に関しても、韓国政府は七一年、「対日民間請求権申告に関する法律」を制定。第二次大戦時の軍人・軍属の戦死者の遺族九千五百人に一人当たり三十万ウォン(当時十九万円相当)が支給された。しかし、戦傷者は対象から除外された。
「日本人として戦地に行き負傷した私は、日本政府に補償要求の権利があるはずだ」と、金さんは九二年、厚生省が発行した受傷証明書を添えて軍人恩給の支払いを求め、東京地裁に提訴した。今年七月三十一日、敗訴の判決が下りた。国籍条項が壁となった。
裁判長は「国際関係の中で、なぜ原告の恩給権がなくなってしまったのか。国籍条項の問題だけでなく、戦争賠償、戦後補償一般の問題につながってくる。判断は難しい」と金さんに語りかけた。
韓国人の旧日本軍人・軍属、さらに日韓条約締結後に問題が噴き出した元従軍慰安婦の女性たちによる、同様の戦後補償を求める提訴が相次いでいる。いずれも敗訴しているが、各級の裁判所は、請求は退けながらも、立法の不備を指摘し、対応を促している。
金さんの幼なじみの李圭哲さんと同様、戦後、シベリアに抑留された韓国人旧日本兵が結成した「韓国シベリア朔風会」は九月末、日本の抑留者団体「全国抑留者補償協議会」と共同し、シベリアでの強制労働への補償を日韓両政府に求めることを決めた。
さらに、日本の朝鮮植民地統治についての決着は、半島の北半分を有効支配する朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で、外交的に未解決のままだ。日朝両国は、九一年一月から国交回復の交渉に入ったが、北朝鮮の「核開発」疑惑や日本人拉致(らち)問題などを巡って紛糾し、現在、中断されている。一連の交渉で北朝鮮側は「わが国は、日本の支配に対して抵抗し、日本側と戦った」と主張、植民地支配に対する請求権ではなく、交戦国としての賠償を求めている。
足掛け三十六年にわたった朝鮮統治の清算は、戦後五十三年を経た今も引きずったまま、間もなく二十一世紀を迎えようとしている。(地方部 宇恵一郎)
[日韓基本条約]
1965年6月22日に調印された。日韓併合条約については「もはや無効である」と表現。また韓国政府の管轄権は「(48年に半島の南半分だけで実施された総選挙の根拠となった)国連決議第195号3項に示されている通りの、朝鮮における唯一の合法政府」との表現で、日本政府は、北朝鮮の存在に含みを持たせた。
*◆台湾統治(上)
*◇“ご都合主義”の同化政策◇
「お母さん、なぜ、僕たち、日本に帰らないの」
戦争が終わり、植民者・日本人が台湾から引き揚げた時、多くの台湾の子供たちがこう尋ねたという。皇民化教育を受けた子供たちは、気持ちのなかでは「日本人」になっていた。しかし、制度面では、台湾は日本統治時代、さまざまな面で「日本であって、日本でない場所」(小熊英二・慶応大講師)だった。
◇
日清戦争後の下関講和条約(一八九五年四月)で、日本は清から台湾を割譲された。日本は、台湾の地で銃を一発も撃たずに最初の植民地を手に入れた。
福沢諭吉は、その著作で「無知蒙昧(もうまい)の蛮民をば悉(ことごと)く境外に追い払ふて殖産上一切の権力を日本人の手に握り、其全土をあげて断然日本化せしむること」と台湾の日本化を激烈に主張した。
しかし、台湾住民の反発は激しかった。漢民族系住民は「台湾民主国」の独立を宣言、山岳少数民族も各地で反乱を起こした。台湾統治の中核となった台湾総督府は、抗日ゲリラに厳罰で対処、当初の七年間で人口の1%を超える三万人以上の命を奪った。
こうしたなか、日本では台湾統治をめぐり議論が起こる。台湾を、本土化するか、本土と一線を画す植民地にとどめるかの論争だ。
当時の政府顧問、イギリス人のカークウッドは、英国のインド統治をモデルに、台湾を「日本化」せず経済的利益を重視する統治方針を主張した。植民地住民を完全に本国人化するには教育をはじめ膨大なコストがかかるからだ。
一方、本土派は、国防上の利益を重視した。台湾領有は南方の国防上、大きな意味があり、完全に日本化しなければ外国に奪取される危険があると主張した。また、原敬は、人種的、地理的近接性を理由に、沖縄を前例にあげて「内地延長主義」を唱えた。
結果的に、統治方針は、この両者が折衷され「日本であって日本でない」形となった。
それでは、日本領・台湾の何が「日本でなかった」のか。
まず明治憲法が完全に適用されなかった。
明治憲法は、三権分立を定めていたが、台湾の行政府の長官である台湾総督には、律令とよばれる事実上の法律を制定する権限があった。本土の刑法も適用されず、本土にはない過酷な刑罰も科された。
さらに、日本語教育などを通じて日本への忠誠を要求されたが人権保護はなく、税金は徴収されたが参政権はなかった。
また、台湾の原住者は、国籍法上は日本人になったが、戸籍法は適用されなかった。このため、日本に移住しても本籍の移動はできず、一九二〇年までは内地人との婚姻届も受理されなかった。
天皇の下での平等を唱えた「一視同仁」が叫ばれたが、こうした差別は、朝鮮統治でも同様だった。
沖縄、アイヌ、台湾、朝鮮に対する近代日本の政策を通じて日本人論を展開した力作「〈日本人〉の境界」(新曜社)を著した小熊講師は「日本の植民地統治は、支配下に置いた人間を日本人か非日本人かあいまいにしたまま、必要になれば同化を強制し、不要になれば日本人から排除する“ご都合主義”だった」と語る。
小熊講師は、その一例として、徴兵実施などの「日本人化」が一番促進されたのが、本土で人的資源が枯渇した戦争末期だったことをあげる。
大正デモクラシーの論客、吉野作造は、同化政策を、こう批判している。
「(同化政策は)日本人と同じ者になれと云うのでなく、日本人の云う通りの者になれという要求なのである」(国際部 土生 修一)
[台湾]
大きさは九州とほぼ同じ。マレー・ポリネシア系住民を中心にした部族社会が続いていたが、17世紀前半にオランダが、中国、日本への通商基地として占領した。17世紀後半に、日本人を母に持つ鄭成功がオランダを追放して清打倒の拠点とするが、1684年に清の領土となる。清時代に福建省、広東省からの移民が増加、漢民族の社会的基盤ができた。
*◆台湾統治(下)
*◇“親日”に屈折した愛憎◇
台湾を「親日の島」と呼ぶ人がいる。
確かに、植民地時代に学んだ日本語に愛着を持つ人も多く、短歌や俳句を作る会が今もある。レコード店では日本軍歌集のCDも売られている。台北で、元日本兵の老人から「日本精神を忘れてはおりません」とあいさつされて驚いたこともあった。
台湾は戦前、朝鮮半島と同様、日本の植民地だった。「反日の朝鮮半島、親日の台湾」。この違いは、どこから来たのか。
◇
「“親日”の背後には台湾が抱えている複雑な歴史的、政治的事情があります」
台北にある中央研究院台湾史研究所の周婉窈研究員は語る。
まず、台湾と朝鮮半島では、植民地化の際の状況が大きく違っていた。台湾は、清の領土だったが、清にとって辺境の一つに過ぎず、そのため日清戦争の結果、あまり執着もみせず日本に譲渡した。先住山岳民族や、福建省、広東省などからの移住者からなる住民も、出身地が違えば言葉も通じず、「台湾人」意識は希薄だった。
一方、朝鮮半島では、日本は、長い歴史を持つ朝鮮民族の統一王朝に対し、軍事力を背景に丸ごと支配下に置いた。民族的反発の土壌は台湾よりも根深かった。
さらに周研究員は、台湾人意識育成への貢献も親日感情の背後にある、と言う。
「日本時代、それまで交流がなかった出身地の違う移民の子供たちが、共通語である日本語を媒介にして同じ教室で学んだ。これが台湾人意識を育成し、近代的ナショナリズムの母体となった」と指摘する。
また、台湾師範大学歴史学部の呉文星教授も、日本がもたらした教育制度やコメの品種改良などの新しい農業技術が、戦後の台湾の経済発展の基礎となったと評価する。戦争末期の四四年でも台湾の初等教育就学率は70%を超えアジアで日本に次ぎ二位だった。
呉教授は「台湾開発は、あくまで日本のためだった。しかし、日本統治が結果的に、台湾に近代化をもたらしたことも否定できない。これは日本統治を正当化するものではなく、史実である」と語る。
戦後、長い間、国民党支配下で、日本統治は「奴隷時代」として全否定されてきた。台湾生まれで京都帝大にも在籍していた李登輝総統の登場後、植民地時代の再評価を公言しやすくなった事情もある。
ただ、「親日」の最大理由として多くの台湾の市民、研究者があげたのが、終戦直後の国民党支配への反発だった。
「犬は逃げたが豚が来た」。当時、人々がささやいた言葉だ。犬は日本で豚は国民党。
台北市民の日本語学習会である「友愛会」会員の劉心心さん(70)は、「日本統治が終わって、正直、うれしかった。中国人としての新しい時代が来ると思い、国民党に期待した。しかし、やってきたのはなべとかまをぶら下げて、くたびれ果てた敗残兵だった」と回想する。
国民党軍兵士による略奪、暴行が頻発、四七年には住民多数が国民党軍に殺される二・二八事件が起こる。
劉さんは「期待が大きかっただけに、ほんとにがっかりした。これなら、日本時代の方がよほどマシに思えた」と、よどみない日本語で話してくれた。
戦後大陸から渡ってきた人々と、台湾住民は、戦争中は敵国民同士。共存は多くの悲劇を生んだ。
「台湾万葉集」編集など台湾で短歌活動を続けてきた孤蓬万里氏(72)(本名・呉建堂)は、昭和の終わりに、幾重にも屈折した日本への愛憎を織り込めた一首を詠んだ。
すめらぎと曾て崇めし老人の葬儀のテレビにまぶたしめらす(国際部 土生 修一)
[2・28事件]
47年2月、やみタバコ摘発をきっかけに、台湾住民の国民党支配に対する不満が爆発、全土で暴動が発生した。国民党軍は武力弾圧で応じ、さらに多数の知識人を逮捕、処刑した。犠牲者数は約3万人ともいわれる。87年に戒厳令が解除されるまでタブー視されていたが、李登輝総統は95年、事件について公式に謝罪、台北に記念碑も建てられた。
*◆海外神社(上)
*◇異民族支配に深く関与◇
東京・小石川大神宮の宮司で、元神社本庁調査部長の小野迪夫さん(78)は、幼い日に見たその光景が今も忘れられない。
戦前、樺太の落合町にあった落合神社の社頭。元日になると、腰まである雪の中を二万人ほどの町民が押し合いながら初詣(はつもうで)にやってきた。かがり火がたかれ、お神酒が振る舞われる。やがて人波が引けた後に広がるのは、一面の雪が踏み固められた境内――。
神職の子として、六歳から十二歳まで、この神社で過ごした。「内地と同じように季節ごとの行事があった。夏祭りの神輿(みこし)も立派でしたね」
神社のある風景。それは戦前、海外であっても日本人の住む場所では当たり前のものだった。「日本人の行くところ、まず神社が建てられたものです」と小野さん。海外神社は日本人の進出とともに飛躍的に増え、明治以降の創建数は六百五十を超えた。
しかし、海外神社には、「在外邦人の心のよりどころ」にとどまらない一面もあった。この点について、龍谷大社会学部の新田光子助教授は、〈氏神タイプ〉と〈神宮タイプ〉という二つの類型を示して説明する。
「自発的な社会的統合をもたらす〈氏神タイプ〉の神社にたいして、〈神宮タイプ〉の海外神社は、神社を統治の手段として、すなわち日本の政治・教育・文化を浸透させる手段と考えるものである」(「大連神社史」より)
とりわけ韓国では、日韓併合の直後から、現地の人々にも神社を崇敬させようという運動が朝鮮総督府によって進められた。その過程で創建された〈神宮タイプ〉の代表格が、アマテラスと明治天皇を祭神として韓国・ソウルに創建された朝鮮神宮だった。
一九一八年十一月、当時の朝鮮総督から原敬首相あてに送られた朝鮮神社創立の詮議(せんぎ)書にはこうある。「内鮮人の共に尊崇すべき神祇を勧請(かんじょう)し、半島住民をして永へに報本反始の誠を致さしむるは朝鮮統治上最も緊要の事と存候」
翌年には内閣告示で朝鮮神社創立決定。朝鮮神宮への改称を経て、鎮座祭が行われたのは二五年だった。
総督府は、すでに人々に祝日ごとの神社参拝などを強要していたが、朝鮮神宮建立後はその動きに拍車がかかる。とりわけ信仰上の理由で参拝を拒否したキリスト教徒への弾圧は厳しかった。
数多くのキリスト教系の学校が閉鎖に追い込まれた。「日本統治下で延べ七千人の信者が逮捕され、千二百の教会が閉鎖されました。拷問などで殉教した人も五十人に達したでしょう」。強制参拝問題に詳しい韓国基督教歴史研究所の金承台研究委員(43)は語る。
神社参拝を受け入れた牧師に、みそぎをさせたり、新しい官立神社の造営に作業員として駆り出した例さえあった。
一般の人間も例外ではない。「朝鮮神宮の近くを通る電車の中では、車掌が『気をつけ』と命じ乗客に最敬礼させた記録もあります」
参拝を強制する根拠として、「日鮮同祖論」やスサノオが渡韓したという神話的伝承まで持ち出された。しかし現地の人々にとって、それは「創氏改名」などとともに民族の誇りを傷つける抑圧でしかなかった。
こうした施策を、金氏は日本の戦時体制と結びつける。「満州事変以降の大陸侵攻の中で、朝鮮民族の協力が必要になった。そこで自発的に戦争協力させるための洗脳が必要になったのです。その手段が皇民化政策であり、神社参拝だったのです」
〈神宮タイプ〉の神社は、しかし、ついに異民族の心をとらえることはできなかった。やがて神社を待っていたのは、過酷なまでの破局だった。(文化部 時田英之)
[現地人と神社]
朝鮮神宮への朝鮮人参拝者は30年の約6万4000人から35年には約22万5000人へと急増。神宮大麻(お札)の頒布数も28年の約4万から37年には約18万に増えた。しかし、お札を「日本の鬼神」と記して便所に張るなどした例もあり、神道崇拝はさほど浸透しなかった。
*◆海外神社(下)
*◇神道界内部から批判も◇
日本の異民族支配に、結果として深くかかわった韓国の神社。しかし、朝鮮総督府主導の神社政策に対して、神道界も無批判に従っていたわけではない。
一九二五年の朝鮮神宮鎮座祭直前、公然と総督府を批判した人々がいた。福岡・筥崎(はこざき)宮の神職の家から出た葦津耕次郎(一八七八―一九四〇)ら、在野の神道人グループである。問題となったのは朝鮮神宮の「祭神」だった。
同神宮の祭神として総督府が定めたのは、日本の皇祖であるアマテラスと明治天皇。しかし、葦津らはこれに異を唱え、朝鮮民族の始祖神とされている「檀君」も合わせてまつるべきだとした。
当時、葦津が執筆した「朝鮮神宮に関する意見書」の一節にこうある。
「(朝鮮神宮に)皇祖および明治天皇を奉斎して、韓国建邦の神を無視するは、人倫の常道を無視せる不道徳にして、人情を無視し人倫を顧みざる行為なり」
この発言について、耕次郎の孫にあたる神社新報社の葦津泰国社長(61)は語る。
「神道にはもともと、神社を創建する時に土着の神をまつるという伝統があったのです。彼らに日本の神を信仰してくれ、というだけでは〈心の暴力〉になってしまうという気持ちもあったでしょう」
支配者としての日本と、支配される朝鮮。そんな構図の下で、仮に日韓の神を同格に遇しても共感が得られたかどうか。
しかし、「そもそも祖父は日韓合邦反対論でした。相手には対等の礼をもって尽くすべきだという考えだったのです。中国に対しても手荒な事はするなと軍に抗議にいったこともあったそうです」と泰国氏。
結局、彼の提言は皇民化を徹底的に推進しようとする総督府には全く受け入れられなかった。限られた選択肢の中で、神道人として示したせめてもの良識も、時局を動かすまでには至らなかった。彼は朝鮮神宮の最後を見届けることなく、四〇年、失意のうちに没する。
四五年八月十五日、日本敗戦。翌十六日からの八日間で、韓国内の神祠(しんし)・奉安殿に対する破壊・放火は百三十六件におよんだという(森田芳夫「朝鮮終戦の記録」より)。
神社への反感が噴出する中で、朝鮮神宮でも十六日、祭神を天に帰すという、神道史上前代未聞の「昇神式」を行った。九月から十月にかけては正殿などの解体・焼却作業も日本人の手で行われた。
韓国の神社のあまりに無残な最期。韓国基督教歴史研究所の金承台研究委員(43)は言う。
「強制徴用された人たちは、神社に参拝してから連れていかれることが多かったようです。人々の反感の強さというものも、わかってもらえるでしょう」
一方で、金氏はこうも語る。
「かつて訪日した時、日本の神社を訪ねたことがあります。杜(もり)の中にある社殿。自然を尊び、先祖を敬う神道。それは大変美しいものだと思いました。ただ、神道は私たちに押しつけられた。そのことが問題なのです」
先に引いた耕次郎の意見書は、こう続く。
「然らば則日韓両族融合の根本たるべき、朝鮮神宮は反(かえ)りて、日韓両民族乖離(かいり)反目の禍根たるべし」
ソウルの市街地にほど近い同神宮の跡地を訪れてみた。のちに南山公園として整備された一帯は、市民の憩いの場となっている。往時の同神宮をしのばせるものは一掃され、わずかに残っているのは当時の石段だけ。
「乖離反目の禍根」。遠い昔に耕次郎が残した予言が、改めて脳裏に浮かんだ。(文化部 時田 英之)
[韓国の神社]
1609年、朝鮮と対馬・宗氏の間の条約により釜山に居住するようになった日本人が、現地に金比羅神の祠(ほこら)を建てたのが最初ともいわれる。「朝鮮総督府統計年報」などによると、今世紀に入ってから各地で建立が進み、神社数は1925年に42、終戦時には70を超えた。その多くは祭神としてアマテラスをまつっていたという。
*◆政党政治の崩壊(上)
*普通選挙を実現させた加藤高明の護憲三派内閣が一九二四年に成立、その後、政党内閣が七代にわたって続き、政友会と民政党の二大政党が交代で政権を担った。帝国議会の開設(一八九〇年)から三十年余り、日本に本格的な「政党政治の時代」が訪れた。
しかし、それは、海軍の青年将校一団が犬養首相を射殺した五・一五事件(三二年)によって、たった八年間で終止符を打つ。以後、政治の主役は軍部に代わり、政党は急速に力を失ってゆく。
政党政治はなぜ、崩壊したのだろうか――。
◇
三二年三月五日昼、三井合名理事長の団琢磨は、いつものように東京・日本橋の三井本館に出勤した。車から降り、玄関ドアのハンドルに手をかけた時、一人の青年が駆け寄り、短銃を団の右胸部に押しつけ一発発射した。弾は右胸を貫き、団は約一時間後、息を引き取った。
団の暗殺は、同年二月の井上準之助前蔵相の射殺と合わせて「血盟団事件」と呼ばれる。首謀者は国家主義者の井上日召。政府高官や政党・財閥幹部を標的にし、二か月後の五・一五事件と連動する行動だった。
四元義隆・三幸建設工業社長(90)は、当時、東大生だったが、事件に連座、殺人罪の共同正犯として有罪判決を受けた。出獄(四〇年)後は、近衛文麿、鈴木貫太郎元首相の知遇を得て政界につながりを持つようになり、戦後は吉田茂、中曽根康弘・元首相ら歴代首相の指南役を務めるなど政治の舞台裏で活躍した。四元氏は、遠い六十六年前の心象風景をこう語る。
「あのころの政党は、財閥からカネをもらって癒着し、ご都合主義の政治を行っていた。この国をどうするのか。そんな大事なことに知恵が回らず、日本を駄目にした。これではいかん、(と決起した)ということだった」
四元氏の心象は、当時の社会に充満していた政党への不信感を照らし出したものだ。
政党にとって不幸だったのは「政党政治の時代」が「恐慌の時代」とも重なっていたことだ。とりわけ農村の困窮ぶりは深刻で、米価や繭価(けんか)が下落し、婦女子の身売りや欠食児童の増加(全国で約二十万人)が社会問題化し、不満が堆積(たいせき)していた。井上前蔵相や団理事長を暗殺した二人も茨城県の農村青年だった。
一方、升味準之輔・東京都立大名誉教授は、「当時、中国では、日本の満蒙権益確保の動きに反発する形で民族主義が活発になった。これに刺激され日本でも、北一輝や大川周明らを中心にした国家改造運動が強まり、この影響を受けた青年将校、民間の国家主義団体が政党内閣の協調外交や財閥との癒着を攻撃し、血盟団事件と五・一五事件につながった」と指摘する。
大陸から民族主義という“土石流”が押し寄せ、その余波で、わが国の政党政治が崩壊したというわけだ。
政権の維持・奪取のための離合集散やスキャンダルの暴露も、政党への信頼を低下させた。三〇年の衆院選では買収容疑で、一万七千百二十四人が起訴されるなど選挙腐敗も進んだ。
このため、リベラルなジャーナリストとして知られる馬場恒吾(戦後、読売新聞社長)も「(既成政党は)早晩崩壊すべき運命に面している」と突き放したほど。
こうして政党は、外からは、「経済失政への不満」と「国家改造運動」に包囲され、内からも「腐敗と堕落」により墓穴を掘っていった。
その後、岡田内閣が三五年に国体明徴声明で政党政治の理論的支柱だった天皇機関説を否定、新体制運動のうねりの中で、四〇年には全政党が解党、日本から政党が消えた。(政治部 吉田 清久)
[国体明徴声明]
1935年2月、貴族院で軍出身議員が「美濃部達吉の天皇機関説は、国体に対する緩慢な謀反」と発言、これを機に在郷軍人会や民間右翼団体から天皇機関説非難が高まった。政友会も倒閣のためにこれに同調、追い詰められた岡田内閣は国体明徴声明を出し、公式に天皇機関説を否定、美濃部の著書も発禁処分とした。
*◆政党政治の崩壊(下)
*◇翼賛選挙 干渉激しく◇
「内外の新情勢に応じ、大東亜戦争の完遂に向かって国内態勢を強化、これを一分の隙(すき)もないものにするのが、今度の総選挙の持つ重大な意義だ。推薦制の活用が大いなる貢献と示唆をもたらすだろう」
総選挙の投票を三日後に控えた一九四二年四月二十七日、東条英機首相の声が日比谷公会堂に響いた。この総選挙は「翼賛選挙」と呼ばれ、これを機に日本の「政党政治」は名実ともに消失した。国内は、太平洋戦争緒戦の勝利で沸き立っていた時期だった。
◇
すでに全政党は、四〇年に解党しており、帝国議会は政府の方針を追認するだけになっていた。しかし、鳩山一郎の同交会などの院内交渉団体が、野党的な存在として残っていた。東条の狙いはそうした勢力を一掃し、戦時体制を強化することにあった。
翼賛選挙では、政府御用機関の「翼賛政治体制協議会」(翼協、会長・阿部信行陸軍大将)が選定、推薦した候補者が大量に立候補した。翼協推薦候補者に対しては、県、大日本翼賛壮年団、学校長、警防団、町内会長など、官民あげて手厚い支援が行われ、臨時軍事費からも「一人あたり、五千円の選挙費用が渡された」(大谷敬二郎「昭和憲兵史」)という。翼協は定数と同数の四百六十六人を推薦、新人は二百十三人と全体の46%を占め、政治刷新のカラーを打ち出した。新人の顔ぶれは、官僚・軍人出身者、大政翼賛会関係者が目立った。
これに対し、非推薦候補(六百十三人)には激しい選挙妨害が行われた。
旧鹿児島三区から非推薦で出馬して落選した二階堂進・元自民党副総裁(89)が干渉の実態を証言する。
「演説後、翼賛壮年団員が壇上に上がり『今しゃべった二階堂は、アメリカ帰りのスパイで国賊だ。彼に投票したら地下足袋を配給しない』と、会場の聴衆を脅迫した」
演説会場には複数の警官が詰め、時局批判すると「弁士中止」と制止した。二階堂氏に対する中止処分は、選挙期間中、七回を数えたという。
これに対し、同県総務部振興課長として「官製選挙」の実務責任者だったのが奥野誠亮・自民党衆院議員(85)だ。
奥野氏は「政党の腐敗を目の当たりにし、清新な人の手で新しい政治をやれるようにと、クーデターを起こす覚悟で仕切った。政策遂行のためにはすっきりした体制が望ましいと思ったからだ」と強調、当時の新進官僚の、政党への不信感が、猛烈な選挙干渉の背景にあったと説明する。
そのうえで奥野氏は「確かに大変な選挙干渉だった。私自身が、町内会長を集め、推薦候補陣への投票を依頼したり、講演会への弁士派遣を指示した」と率直に振り返る。
選挙干渉は全国的に行われ、「憲政の神様」、尾崎行雄は、都内での応援演説が「不敬罪」にあたるとし投票一週間前に拘禁、起訴された(後、無罪判決)。また「反軍演説」で衆院を除名処分となり議席回復を目指していた斎藤隆夫も選挙用の印刷物八万数千枚を差し押さえられた。二人とも非推薦候補者だった。
投票の結果、翼協推薦者は三百八十一人が当選、全議員の八割以上を占めた。翌五月、東条内閣はほとんどの議員が参加する政治結社「翼賛政治会」(総裁・阿部陸軍大将)を発足させ、同交会など院内交渉団体も解散させた。
議席回復を果たした斎藤隆夫は「政党無き国会」の現状を嘆き、その無力感を漢詩に詠んだ。
憲政ヲ完(まっと)ウセント欲スルモ志成リ難シ、首(こうべ)ヲ回セバ多年蝸角ニ争ウ
(憲政を完成しようとしたが、その志は実現しがたい。顧みれば些細(ささい)な争いごとばかりをやっていた)(政治部 吉田 清久)
[衆議院議員調査票]
1942年2月、警察当局は、国策に協力的か否かを基準に、ひそかに現職議員全員を甲乙丙の3ランクに格付けした。翼協推薦候補の選考資料となるもので、「時局認識に薄く、いたずらに旧態を墨守し常に反国策的・反政府的」で「不適当なる人物」である「丙」には、鳩山一郎、芦田均、尾崎行雄、浅沼稲次郎ら138人の名前が並んでいる。
*◆三国同盟
*◇ソ連加えた連合構想も◇
一九四〇年九月、日本と世界大戦との関係を決定づける同盟が結ばれた。日独伊三国同盟だ。
この同盟は、それまで別々の問題だったアジアと欧州の戦乱を一つに結びつけ、ニュルンベルク、東京両国際軍事裁判では、日独伊による「共同謀議」の結実とされた。同盟締結は、日本が「自由主義陣営の敵国」と明確に認識された瞬間だった。
マスコミは、同盟締結を「帝国の画期的新外交」と高く評価したが、その効果を危惧(きぐ)する声も少なくなかった。
海軍は、「英米を敵に回す形での同盟には絶対反対」との姿勢を崩さなかった。
枢密院顧問官の石井菊次郎も、日独防共協定があるにもかかわらず、ドイツが日本に無断で三九年に独ソ不可侵条約を結んだことを挙げ、「(ヒトラーは)国際条約を一片の紙切れとみなし、まったくこれを重んじていない」と同盟の将来に懸念を示している。
少なからぬ反対がありながら、同盟締結に踏み切ったのはなぜか。
三宅正樹・明大教授は「同盟締結に当たり、ソ連を含めた日独伊ソ四国協商構想があったからだ」と話す。
四〇年九月、独外相の特使として来日したシュターマーは、松岡外相に「日本は三国同盟を結んだ後にソ連に接近すべきだ。そうすれば、独ソ不可侵条約を結んでいるドイツは、日ソ交渉で『公正な仲買人』として役割を果たす用意がある」と話し、自分の言葉はそのまま独外相の言葉と受け取ってもらって構わない、と保証したという。
三国同盟は、独伊連携ばかりでなく、ソ連との関係改善も可能にする。その結果、ユーラシア大陸を横断する大同盟が生まれ、米国への大きな牽制(けんせい)となって日米戦争も回避できる。さらに、日中問題への英米の干渉も困難になる。
松岡の頭には、こうしたシナリオが浮かんだのかもしれない。「もし実現していれば、松岡は天才外交家といわれていただろう」(三宅教授)
だが、この構想に現実性が多少でもあったのは、わずか二か月に過ぎなかった。四〇年十一月には、ヒトラーは、すでに対ソ戦の決意を固めており、翌年六月の独ソ開戦で、その構想は完全に崩壊した。
ナチス・ドイツは独裁者の意思で政策が百八十度変化し、外相の保証でさえ、あてにはならない国だった。石井が指摘した通りだった。
また、ソ連が連合構想に乗るつもりがあったかどうか、日本側が検証した形跡がほとんどない。さらに日本政府は独ソ不可侵条約の脆弱(ぜいじゃく)さにも気がつかなかった。
「三国同盟は、日本にとってはデメリットしかなかった。独ソ開戦で四国協商構想が崩壊した時点で、日米交渉妥結のために同盟を解消すべきだった」と三宅教授は話す。
三輪宗弘・九州共立大講師に至っては、さらに辛辣(しんらつ)だ。「シュターマーは、日ソ間の調整としか言っておらず、四国協商構想も回想で語られたものばかりで当時の一次史料はない」とし、「四国協商構想など最初からなかったのではないか」という。また、近衛と松岡に対しても、「外相時代の松岡の発言は矛盾と支離滅裂の連続。松岡の外相起用は、近衛が、奇策を弄(ろう)する奇人に飛びついたに過ぎない」と手厳しい。
近衛文麿は戦後、「只(ただ)少くとも同盟締結後約一年有余米国が参戦しなかったという事実は、三国同盟の効果であるといわれぬ事はない」と弁明している。
近衛首相、松岡外相とも発言の真意をくみとりにくい人物。二人が目指したのは、壮大な同盟構想だったのか、それとも、思いつきの奇策だったのだろうか。(編成部 今井洋)
[日独伊三国同盟]
〈1〉日本は独伊の欧州での新秩序建設に関し指導的地位を認める〈2〉独伊は、同様に日本の大東亜での指導的地位を認める〈3〉3国のいずれかが、欧州、日中の戦争に参入していない国に攻撃を受けた場合、相互に援助しあう――などを内容とした。自動参戦条項はなく、欧州での戦争に日本は介入しなくてもよいと考えられた。
*◆混合民族論
*◇植民地政策の道具に◇
「日本人のからだが貧弱なのは欧米に比べて近親結婚が多いことに起因する。民族を強くするには、ある程度の『雑婚』つまり異民族との結婚が有効と思われる」
人類学者で元厚生省人口問題研究所長の篠崎信男さん(故人、享年83)は、東京帝大助手だった一九四三年、請われて同研究所に移った。入所まもなく機関誌「人口問題研究」に発表したのが、「民族混血の研究」と題する論文だった。大学時代南洋諸島で行った欧米白人と現地島民の「混血」百五十人余の調査が下敷きになっている。
今年四月心不全で亡くなった篠崎さんを東京・武蔵野市の自宅に訪ねたのは、昨年十二月末のこと。その熱っぽい語り口が忘れられない。
「日本が世界に影響力を持つ国になるにはどうすればいいか、それには、混血を進めて日本語が通じる文化圏を広げる必要があると考えた。私は百年単位で考えていたのだが、当時、研究者も戦局に引きずられ、未来を見つめる余裕がなかったようだ。研究の本質は理解されなかった」
戦時体制下の日本の人口政策は、ナチス流の血の純潔主義を基調にしているといった印象が強い。だが実際には、「混合民族論」は、戦前・戦中の日本で決して突飛な研究でなかった。
「時事新報」の記者、高橋義雄が「日本人種改良論」を発表したのは一八八四年。日本人を改良するために、人種的に優種である欧米人との「雑婚」を進めるべきだと主張した。東京帝大教授で社会学者の建部遯吾(とんご)は一九一四年、日本社会学院大会で「日本が世界の強国になるには領土拡張と十億の日本民族が必要だが、十億の日本民族は多少の混血を妨げぬ」と発言している。
そして何よりも、「朝鮮・台湾支配では、混合民族論が大々的に利用された」と、「単一民族神話の起源」(新曜社)を著した小熊英二・慶応大講師は指摘する。
朝鮮の王家・李王世子(皇太子)垠と日本皇族梨本宮方子が結婚した翌二一年、内鮮人通婚法が成立。朝鮮総督府は同化政策の一環として日朝間の内鮮結婚を進める。反発が強く結婚数は伸びなかったが、三六年総督に就任した南次郎は「朝鮮と日本は形も心も血も肉も悉(ことごと)くが一体にならなければならん」と述べ、内鮮結婚を大いに奨励した。朝鮮では三七年、千二百組を突破する(女性史研究家の鈴木裕子氏の調査より)。
しかし一方で、篠崎論文が発表されたのと同じ四三年、人口問題研究所は「大和民族を中核とする世界政策の検討」を百部限定で作成している。政府部内に配布された機密資料で、「雑婚の夫婦はその民族の平均者よりも社会的地位、知能において劣等」など、混血防止を強調している。
戦局不利が明らかになってきた四四年ごろには、主要雑誌から混合民族論を唱える論客は姿を消す。二〇年代、「大和民族は凡有る種族の混一、化合したるもの」(国民小訓)と述べていた徳富蘇峰さえ、「戦争が長引けば混合人種国家米国では人種対立が起きて、持久戦は民族的統一性に勝る日本に有利」(時局問答)と主張し始める。ただ実際には、戦局不利になるほど朝鮮・台湾での徴兵と動員は強行され、総動員体制という名で他民族との一体化が進行した。
◇
終戦直後、篠崎さんは産児調節の調査を言い渡され混血の研究を続けることはできなかった。「結局日本人は島国感覚から抜けきれず、純血神話に縛られていた。グローバルで柔軟な発想であるはずの混合民族論が、戦時の植民地拡張政策を正当化したという印象だけに終わってしまったのは残念だ」。インタビュー最後の言葉だった。 (生活情報部 永峰好美)
[厚生省人口問題研究所]
厚生省が設立された翌39年に発足。「人的資源保持涵養」「出生率維持増加」など戦時人口政策推進のための調査研究が期待された。月刊の機関誌「人口問題研究」は40年4月創刊、「ナチス民族人口政策摘要」の翻訳、「満州における移動人口調査」などの論文が発表された。
*◆戦争報道(上)
*◇強制と迎合で“宣伝役”に◇
読売新聞の社会部記者だった福岡良二さん(82)は一九四一年十二月八日未明、会社の宿直室で仮眠をとっていた。午前四時過ぎ、まくら元の電話のベルが鳴り、大本営報道部から「発表があるからすぐ来い」と呼び出される。あわてて三宅坂の参謀本部に駆け付けると、会見場は報道陣ですでに満杯だった。
「帝国陸海軍は今八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
会場は一瞬しんとなり、続いて歓声のようなどよめきが起こった。「当時は戦争継続以外に道はなく『来るとこまで来たか』との思いだった」
戦後、新聞界は国民を戦争に駆り立てた責任を問われたが、福岡さんの胸中は複雑だ。「思想的に締め付けられ批判記事を書けば経営が脅かされる時代だった。新聞だけが責めを負うべき問題ではない。世の中全体が戦争遂行に追従していった」
宮本太郎さん(88)は、旧制水戸高校を左翼運動のため退学となり、三五年、読売新聞社に入社した。中国侵略に対する批判的な気持ちもあり、「同僚らと三七年ごろから会社には秘密で時局研究会を設け、政治情勢について話し合ったりもした」という。
しかし、左翼系知識人も参加した近衛文麿のブレーン集団「昭和研究会」が東亜協同体論を唱え、さらに戦争目的は東亜新秩序建設にあるとした三八年の近衛声明が出されると次第に疑問を感じなくなった。四五年四月末ごろ、九州総局長に赴任すると、紙面で沖縄決戦での特攻隊の任務の重要性を説いた。
「上からの圧力で筆を曲げるというよりも、目先の記者活動に自分を埋没させてしまい、時流に流されていった」と苦渋に満ちた表情で語る。敗戦後は自分の書いた記事を悔やみ、新聞社の戦争責任などをめぐり発生した「読売争議」に身を投じる。四六年に退社後、赤旗編集局で記者を続け、現在は共産党中央委員会顧問のポストにある。
戦前から戦中にかけての新聞は、数々の規制により報道の自由を奪われていた。だが一方で、新聞社側から積極的に権力に迎合していったことも明らかになっている。
報道統制を取り仕切っていた内務省資料を分析した青山学院大の中薗裕講師によると、日中戦争期に同省図書課と同盟通信、東京朝日、東京日日、読売など東京市内の有力八社との間には直通電話が設置され、頻繁に連絡がとられていた。中薗講師は、「連絡記録からは、新聞社側が検閲に困っていた様子はまったくうかがえない。逆に八社側が直通電話を利用して当局の情報を入手、自主規制を徹底させていた。そうして発禁処分を免れ地方紙よりも優位に立っていった」と指摘する。
また成城大の有山輝雄教授によると、二〇年代の大衆社会の出現により、軍部や若手官僚は、国民を総動員しなければ戦争は勝てないと考え、マスメディアを国家宣伝に利用することにした。そして三〇年代初め、新聞の整理統合の研究に早くも着手した。
同教授が入手した内閣情報局の資料では、新聞界が中央と地方では利害が一致していないことや、各社の内情などが詳細に分析され、広告などの営業面から新聞を操作する方法も検討されている。
これに対し新聞界の中には、四一年の新聞事業令公布まで統合に法的根拠が無かったにもかかわらず、その方針に同調する動きが出てきた。
有山教授は「新聞社の中には自ら統合案を示す社もあったし、経営の拡大・合理化を図るため統合に賛成した社もある。メディア側は長期的な見通しを持たないまま、一つ一つの統制を重要視せずに協力し、自らを抜き差しならない状況に追い込んでいった」と、その姿勢を糾弾している。(地方部 小野孝夫)
[報道統制]
1909年の新聞紙法によって新聞は規制された。内務大臣は記事が「安寧秩序」「風俗」を乱すと認めるときは、発売頒布禁止を命じることができた。41年、国家総動員法に基づき、新聞紙等掲載制限令、新聞事業令が公布され、さらに同年の言論・出版・集会・結社等臨時取締法で言論の自由はほぼ完全に失われた。
*◆戦争報道(下)
*◇「教化」…実態は日本の宣伝◇
太平洋戦争が始まって二年近い一九四三年秋、読売新聞校閲部の舟木正義さん(83)は東京・立川の飛行場からインドネシアのバリ島へ向けて旅立った。現地でマレー語新聞を発行するのが目的で、「戦争を直接体験したくて、社内で志願した」という。
南方占領地に新聞社を進出させ、「原住民の教化」などにあたらせようと考えた軍は四二年、「新聞政策要領」を発表。読売報知、東京日日(大阪毎日)、朝日、同盟通信の四社に地域を割り振った。
読売が受け持ったのは、ビルマとセラム(現在のインドネシア東部)。セラム地域では、アンボン島でマレー語紙「シナル・マタハリ」と日本語紙「セラム新聞」、バリ島でマレー語紙「バリ新聞」を発行する。舟木さんは、五人いたバリ新聞の日本人スタッフの一人だった。
四四年三月八日から、二ページの新聞を隔日発行で約八千部出した。
小磯国昭首相が同年九月七日、国会でインドネシアの独立を確約する演説をした時は、独立運動の象徴であるメラ・プティ(紅白旗)を題字の横に日の丸と並べて刷り込んだ。海軍民政部の課長が「軍はまだ独立旗を認めていないので、掲載は困る」と飛んで来た。その夜は、バリ新聞が主催して「独立許容の夕べ」を、街の映画館で行った。
現地人の兵補が爆薬を抱いて敵陣に突入した記事などを派手に載せ、愛国心を鼓舞した。新聞社に「義勇軍に参加したい」と志願してくるインドネシア人もいた。
日本軍の南方進出は石油などの資源確保が最大の目的だったとされる。「日本軍の本心はそこにあったのだろう。しかし私たちは純粋な気持ちで独立を支援しようとしていた」と舟木さんは繰り返した。
だが、一方でこうも打ち明ける。「生活物資も不足し始め、現地人は日本軍から離れつつあった。このままだと民衆を抑えられなくなるので、愛国心に訴えて鎮静化させようという政治的な意味も当然あった」。大東亜共栄圏建設のため、新聞記者が果たした役割について、舟木さんは複雑な心の内を垣間見せた。
ビルマでは、四三年一月一日から日本語紙「ビルマ新聞」が、二月十一日からは隔日で英字紙「グレーター・エシア」が発行された。読売の機報部員だった松崎茂実さん(76)はその年の夏、報道班員としてビルマに着任した。無線で原稿を送るのが役目で、前線を駆け巡り四四年三月のインパール作戦にも同行した。
「ビルマ新聞は活字に飢えていた現地の兵隊にとても喜ばれた。グレーター・エシアでは宣撫(せんぶ)工作や教化をやってはいたが、あまり役に立たなかったと思う。英語を読めるのは上流階層だけだったし、彼らは敵の英語のラジオ放送を聞くことができたから」
ラングーン陥落の直前、松崎さんら報道関係者は港から船に乗って脱出した。その時、岸から機銃射撃が始まった。日本軍が侵攻した際、英軍が残していった機関銃で、ビルマ人に渡したものだった。「日本が支援した独立義勇軍に撃たれたわけです」
南方占領地だった八か国を対象に、日本統治下で発行された新聞の調査にあたった同志社大の浅野健一教授は「新聞発行に条件が良かったジャワを各社が取り合うなど、新聞社は南方を一大マーケットと見て進出していった」と指摘する。
「現地で発行した新聞は、アジアの民族主義の高まりに寄与した面もあったし、アジアの独立に役立ちたいと良心的に活動した記者もいた。だが、相対的には、軍の道具として利用されたことは間違いない」と、同教授は調査の結果を結論付けている。(地方部 小野孝夫)
[南方軍政地での新聞政策要領]
陸軍が42年10月20日、海軍が12月8日に発表。その結果、読売のほかは、毎日がフィリピン・セレベス、朝日がジャワ・南ボルネオ、同盟がマレー・昭南島(シンガポール)・スマトラ・北ボルネオを担当することになった。4社は現地軍管理下とはいえ、ほぼ独占を保証され新聞を発行した。
*◆国民生活(上)
*◇官民挙げ「総力戦」突入◇
宮崎市街を一望できる県立平和台公園に、高さ三十六・四メートルの巨大な石造りの塔がそびえ立っている。
通称「平和の塔」。塔の由来を記す石碑には、「紀元二六〇〇年記念行事として県奉祝会が中心となり国内外有志の協賛を得て『八紘之基柱(あめつちのもとはしら)』の建設を行い、昭和十五年(一九四〇)十一月二十五日完成」とあった。
四〇年は、神武天皇即位から二千六百年にあたるとされる年。記念行事が全国で盛大に繰り広げられ、中でも、天孫降臨伝説の舞台、宮崎県の力の入れようは並々ならぬものがあったらしい。
「八紘(はっこう)一宇の神話を強調した塔の建設は、国民精神動員の総仕上げといった意味をもつ。戦争が泥沼化する中で、不自由さを増した生活への不満を一時的にでもそらし、国民を戦争遂行へと向かわせるのに有効と思われたのだろう」と、地元の歴史研究家、杉尾哲哉さんは言う。
大戦争を戦い抜くには、国内の産業動員、労働力動員、思想動員などが不可欠だ。が、「総力戦」としての第一次世界大戦を直接経験しなかった日本は、軍備の近代化と総力戦準備の両面で、欧米諸国に後れをとっているとの危機感が軍部にはあった。
そこで軍部は、日中戦争の勃発(ぼっぱつ)に伴う国民の軍国熱や排外熱の高揚を利用して総動員体制を一気に確立しようとする。三七年八月の国民精神総動員運動実施、三八年四月の国家総動員法公布、四〇年十月の大政翼賛会発会など、体制は着々と整備されていく。
国民は、地域でも職場でも様々な総動員組織に組み込まれ、国家の統制は、町内会や隣組を通して家庭生活の隅々にまで及んだ。
この点で極めて重要な意味を持ったのが、政府が四二年八月、町内会や隣組といった地方行政組織を、官製国民運動団体である大政翼賛会の直接指導下におく決定を行ったことだ。この結果、町内会長(全国に約二十一万人)が翼賛会の世話役に任命され、隣組長(同約百三十三万人)も翼賛会の世話人となった。
「戦時体制の強化のもと、生活の窮乏化が国民の戦意の低下や厭戦(えんせん)機運に結びつかないようにするためには、管理の徹底した組織が必要だった」と、一橋大学の吉田裕教授は指摘する。
戦時下の国民生活で、町内会・隣組の果たす役割は決定的だった。住民の登録、警察情報の提供、防空活動、特殊戦時作業のための労働力提供など、あらゆる側面にわたった。特に、食料をはじめとする生活必需品の配給は、まさに命綱。町内会長が配給の通帳に捺印(なついん)し、それを隣組長が配る。町内会の活動に非協力的な住民には、配給を停止する事例もみられた。
住民に対する貯金奨励、国債の割り当て消化も、町内会・隣組の重要な仕事だった。四四年には、軍事費の財源の大半は国民の貯金や国債があてられた。
四三年度の貯蓄日本一になった奈良県磯城郡田原本町の隣組活動から拾ってみると、「貯蓄目標額は一戸あたり町民税の六倍で、これ以下だと町内会のだれかが埋め合わせる。子供の誕生日には誕生日貯金。組長が集金し、通帳を保管する。実行しないとその子供を配給の原簿に登載しない。配給切符が配られるごとに、感謝貯金として、木炭につき五十銭、ビール十一銭を蓄える」(「主婦の友」四四年五月号)など、涙ぐましい努力のあとがわかる。
こうして国民は、町会・隣組など、網の目のように張り巡らされた国民統制組織の下で相互に監視・干渉させられ、戦争協力へと駆り立てられていった。(生活情報部 永峰 好美)
[大政翼賛会]
40年10月、近衛文麿首相を総裁にして発足。当初の意図は、ナチス流の一国一党的な政治組織だったが、近衛への権限集中に対する右翼勢力の反対などもあり、結局、上意下達のための行政補助機関となった。内務官僚が主導し、産業報国会、大日本婦人会、町内会など、国民諸団体を下部組織に編入した。45年6月国民義勇隊の設置に伴って解散。
*◆国民生活(中)
*◇生活水準下げ、戦争維持◇
「ニンジン・ダイコン・カボチャの葉っぱ、枯れ葉も食べよ。卵の殻はすりつぶし粉にしてみそ汁に。茶殻、オオバコ、クローバーなど雑草も工夫して食べよ」
「米は洗わず湯炊きして三割増しにする『国策炊き』を実行せよ。少量で口を満足させるには、ダイコンはおろし状になるまでよくかむこと、ご飯は最初に汁物を二杯ほど飲んでから食べること」
一九四三年から四四年にかけて、雑誌「主婦の友」に掲載された食関連の記事だ。
政府は軍需生産を急速に拡充するため、三九年ごろから国民に対して、生活費を必要最小限まで切り詰める「生活戦」への協力を求めた。南方での資源供給の道を断たれつつあった四三年には「戦争生活の徹底」を掲げ、空き地利用の家庭菜園をつくるなど「決戦下の食糧戦を勝ち抜く」自給自足体制を整えるように呼びかけている。
わずかな食料をわずかな燃料で調理する――。銃後の主婦にとって、台所はまさに「戦場」だった。
「貧しい日本の国力で(三七年以後四五年まで)長きにわたる戦争を耐えることができたのは、国民生活の水準を際限もなく切り下げる政策をあえてとり、ほとんどの国民が声もなくこの負担に耐えたためであった」。東洋英和女学院大学の中村隆英教授は、著書「戦前期日本経済成長の分析」でこう述べている。
個人消費支出額の推移をみると、日本の場合、三九年以降ずっと減り続け、四二年に三九年時点の八割、四四年には同六割まで落ち込んだ。
この点、同じファシズム陣営のドイツと好対照を成すことが、戦後の米国戦略爆撃調査団の報告書などで指摘されている。
ドイツの場合、四三年四月、ヒトラー自らが「民需品購入に対する無用の制限は望まない」と言明。時に軍需を抑えても生活必需物資を確保し、国民の生活水準の維持には特別に配慮する政策がとられたのである。その結果、個人消費支出額は四三年でも、第二次大戦開戦時三九年の八割を維持。戦争末期の四四年でも73%で、これは世界恐慌で個人消費が冷え込んだ三二、三三年を上回る数字だ。対する日本では、太平洋戦争開戦前四〇年に早くも恐慌期を下回った。
さらにドイツでは、食料品や民需向け鉱工業製品の供給も、戦前とほぼ変わらなかった。綿・毛織物、化繊、革靴、傘、畳などの供給が激減した日本とは明らかに事情が異なる。
こうした日独の差は何から生じたのだろうか。
東海学園大学の山崎広明教授は「同じファシズム陣営とはいえ、日独では(大衆の支持を土台とする)政党組織の有無が、国民の生活水準に対する配慮に大きな違いをもたらした」と指摘する。
ドイツでは、大衆運動を背景に権力を掌握したナチス党にとって、生活水準の極端な低下は、党の基盤である大衆組織から反発を招く恐れがあった。一方、日本の場合、大政翼賛会は、政党ではなく上意下達の官製組織であったため、構造的に政府への批判的視点を欠いていた、というわけだ。
「欲しがりません勝つまでは」を黙々と実行していた国民に、四五年七月、主要食料のさらなる減配を発表した石黒農相はこう呼びかけた。
「腹が減っては戦はできぬという言葉は真実を率直に表したものではあるが、今は腹が減っても戦わねばならない」
当時米の代用として配給されたのは、「ホンダワラという海草で作った、カエルの卵みたいな」(松谷みよ子「現代民話考 銃後」より)海草麺(めん)だった。(生活情報部 永峰 好美)
[配給制と食生活]
6大都市で家庭用砂糖・マッチの切符配給制度が実施されたのは1940年。翌年4月の生活必需物資統制令公布以降、米、木炭、酒、塩、みそ、しょうゆなどが次々配給制に。隣組長によって配られる切符を手に小売店前に行列するのが日課になり、44年の主婦の平均睡眠時間は1日6時間を切った。
*◆国民生活(中)
*◇生活水準下げ、戦争維持◇
「ニンジン・ダイコン・カボチャの葉っぱ、枯れ葉も食べよ。卵の殻はすりつぶし粉にしてみそ汁に。茶殻、オオバコ、クローバーなど雑草も工夫して食べよ」
「米は洗わず湯炊きして三割増しにする『国策炊き』を実行せよ。少量で口を満足させるには、ダイコンはおろし状になるまでよくかむこと、ご飯は最初に汁物を二杯ほど飲んでから食べること」
一九四三年から四四年にかけて、雑誌「主婦の友」に掲載された食関連の記事だ。
政府は軍需生産を急速に拡充するため、三九年ごろから国民に対して、生活費を必要最小限まで切り詰める「生活戦」への協力を求めた。南方での資源供給の道を断たれつつあった四三年には「戦争生活の徹底」を掲げ、空き地利用の家庭菜園をつくるなど「決戦下の食糧戦を勝ち抜く」自給自足体制を整えるように呼びかけている。
わずかな食料をわずかな燃料で調理する――。銃後の主婦にとって、台所はまさに「戦場」だった。
「貧しい日本の国力で(三七年以後四五年まで)長きにわたる戦争を耐えることができたのは、国民生活の水準を際限もなく切り下げる政策をあえてとり、ほとんどの国民が声もなくこの負担に耐えたためであった」。東洋英和女学院大学の中村隆英教授は、著書「戦前期日本経済成長の分析」でこう述べている。
個人消費支出額の推移をみると、日本の場合、三九年以降ずっと減り続け、四二年に三九年時点の八割、四四年には同六割まで落ち込んだ。
この点、同じファシズム陣営のドイツと好対照を成すことが、戦後の米国戦略爆撃調査団の報告書などで指摘されている。
ドイツの場合、四三年四月、ヒトラー自らが「民需品購入に対する無用の制限は望まない」と言明。時に軍需を抑えても生活必需物資を確保し、国民の生活水準の維持には特別に配慮する政策がとられたのである。その結果、個人消費支出額は四三年でも、第二次大戦開戦時三九年の八割を維持。戦争末期の四四年でも73%で、これは世界恐慌で個人消費が冷え込んだ三二、三三年を上回る数字だ。対する日本では、太平洋戦争開戦前四〇年に早くも恐慌期を下回った。
さらにドイツでは、食料品や民需向け鉱工業製品の供給も、戦前とほぼ変わらなかった。綿・毛織物、化繊、革靴、傘、畳などの供給が激減した日本とは明らかに事情が異なる。
こうした日独の差は何から生じたのだろうか。
東海学園大学の山崎広明教授は「同じファシズム陣営とはいえ、日独では(大衆の支持を土台とする)政党組織の有無が、国民の生活水準に対する配慮に大きな違いをもたらした」と指摘する。
ドイツでは、大衆運動を背景に権力を掌握したナチス党にとって、生活水準の極端な低下は、党の基盤である大衆組織から反発を招く恐れがあった。一方、日本の場合、大政翼賛会は、政党ではなく上意下達の官製組織であったため、構造的に政府への批判的視点を欠いていた、というわけだ。
「欲しがりません勝つまでは」を黙々と実行していた国民に、四五年七月、主要食料のさらなる減配を発表した石黒農相はこう呼びかけた。
「腹が減っては戦はできぬという言葉は真実を率直に表したものではあるが、今は腹が減っても戦わねばならない」
当時米の代用として配給されたのは、「ホンダワラという海草で作った、カエルの卵みたいな」(松谷みよ子「現代民話考 銃後」より)海草麺(めん)だった。(生活情報部 永峰 好美)
[配給制と食生活]
6大都市で家庭用砂糖・マッチの切符配給制度が実施されたのは1940年。翌年4月の生活必需物資統制令公布以降、米、木炭、酒、塩、みそ、しょうゆなどが次々配給制に。隣組長によって配られる切符を手に小売店前に行列するのが日課になり、44年の主婦の平均睡眠時間は1日6時間を切った。
*◆国民生活(下)
*◇「強兵」優先の人口政策◇
「とうとうこの町からも日本一の桃太郎が出たぞ。お前たちもあとに続いて頑張るんだ!」
体錬を得意とする担任教師が朝刊を握りしめ、上気した顔で教室に飛び込んできた日のことを、児童読み物作家の山中恒さん(67)はよく覚えている。
一九四一年六月二十五日。山中さんは神奈川県平塚市平塚第二国民学校四年生だった。「日本一の桃太郎」とは、おとぎ話の主人公になぞらえた「日本一の健康優良児」のこと。毎年開かれていた「全国健康優良児表彰会」で、同じ町の十一歳の少年が一位になったのだ。
身長百五十五センチ、体重四十六キロ、胸囲七十六センチ、座高八十六センチ。当時(三九年度)の全国平均値に比べて、身長は十七・二センチ、体重は十三・五キロも上回っていた。
新聞報道の翌日から、山中さんの担任教師が体錬科の授業に一段と気合を入れ始めたことは、言うまでもない。
三〇年前後の大恐慌以降、徴兵検査を受ける男子の体格や体力が低下したことを懸念した陸軍省の強力な要請を受け、厚生省が設置されたのは三八年一月。同省の付属機関、人口問題研究所の調査をもとに、四一年「人口政策確立要綱」が閣議で決まった。
「大東亜共栄圏」の確立と発展のため、六〇年までに内地総人口を一億人に増やすことを目指したこの要綱には、「出生数の増加」「死亡数の低減」「資質の向上」の三つの要素が盛り込まれている。
ナチス人口政策を徹底的に研究した日本は、ドイツにならって結婚相談所をつくり、結婚貸付金制度を設けた。一組の夫婦が平均五人の子供をもうけることが目標とされ、男性は二十五歳、女性は二十一歳までに結婚することが奨励された。
四〇年、満六歳以上の健康な子女を十人以上育て、かつ夫婦が品行方正である家庭を「優良多子家庭」として表彰する制度ができ、同年十一月、一万六百二十二件が選ばれた。
「ムッソリーニは『人口戦』なる適切な言葉で表現しているが、実に国力の基礎は国民の人口である」(週報244号)として、政府は「結婚報国」「育児報国」を大いに宣伝。「産めよ増やせよ」の時代に突入した。
また、「健民健兵」をスローガンに掲げ、ラジオ体操や乾布摩擦などが奨励され、17―19歳の男子には、体力検査が義務付けられた。
さらに、健康な子供を産むためにと、三四年から優生学に基づく断種法(民族衛生法)制定の動きが始まり、四〇年「国民優生法」が公布された。
「悪質な遺伝性疾患を有する国民の増加を防止」するためにと断種手術が認められ、同時に、「健全なる素質を有する国民の減少を防止」するために産児制限が禁止になった。結核や妊娠中毒症などで母体が危険な場合でさえ、人工妊娠中絶はできなかったのだ。戦後の厚生省公衆衛生局のまとめでは、戦時中断種・不妊手術を受けた人は四百五十四人、うち女性が六割を占めた。
「結婚も、健康な子供を産むことも、それ自体は個人の人生にとって喜ばしいと受け止められていたので、戦争遂行のために女性のからだを管理する施策が続々と登場するという異常な状況に対しても、女性の側から批判的な声が上がらなかった」と、女性史研究家の折井美耶子さんはみる。
戦後四八年、「優生保護法」の制定で「国民優生法」は廃止されるが、そこに盛られていた優生思想はそっくり継承された。優生思想に基づく条文が削除されるのは、つい二年前、九六年「母体保護法」に改正された時だった。(生活情報部 永峰好美)
[国民の栄養状況]
厚生省の「日本人栄養要求量標準」(1941年)によると、1日1人当たり熱量2000キロ・カロリー、たんぱく質70グラムが最低限必要とされたが、実際の摂取量は、42年にこの数値を切り、年々低下していった。特に青少年の体重や胸囲の減少が目立ち、子供たちの間で「栄養失調5分前」が流行語になった。妊婦の体重も激減、42年前後の流死産は全妊娠の2割を占めた。
*◆逆流移民
*◇父の国で“母国”米と敵対◇
逆流移民(リバース・イミグラント)――移民である父祖を持ち、その祖国に戻った人たちのことだ。戦前の日本では、日本軍将兵となった日系米国人などが、これに当たる。日本で召集され前線で命を絶ったり、特務作戦などに従事した者も少なくない。
ハワイ地裁は一九五三年四月十四日、逆流移民の一人、原告ムラタ・ヒサオ(当時三十一歳)の米国籍を認める判決を下し、ムラタは米国民として晴れて故郷のハワイに戻れることになった。
ムラタのように、日本軍に参加した日系米国人は、戦後、敵国に尽くしたとして失効扱いを受けた米国籍の回復を求め次々と訴訟を起こした。ハワイで入手したムラタの裁判資料は、二つの祖国への忠誠心のはざまで揺れる日系人将兵の複雑な心境を浮き彫りにしている。
ムラタはしょうゆ工場経営者を父とするハワイ生まれの日系二世。国籍法により日本の国籍も持っていた。父親の勧めに従って、四〇年にハワイの高校卒業後、法政大学に在籍登録した。だが判決理由によると、「ハワイの身内を巻き込んだ日本軍の真珠湾奇襲で(日本に対する)不快感を抱き」退学、山口県の親類の家に身を寄せた。四三年三月召集令状が届き、陸軍兵士として中国戦線で従軍した。
「徴兵拒否者を力ずくで連行して虐待したり、自分や身内の者も殺しかねない憲兵への恐怖」から、やむを得ず入隊を受け入れたという。
戦後、日本に帰国後、米国のパスポートを申請したが、米国領事は、日本軍への入隊歴などを理由に申請を却下した。ムラタは、米国市民に戻るため、ハワイで米政府を相手に訴訟を起こし、ハワイ地裁は入隊が不可抗力だったことなどを考慮して、米国籍が失効していないとの判断を下した。州検察は最高裁に上告、最高裁はハワイ地裁への差し戻しを命じたが、地裁は五三年四月、同じ判決を下し、ムラタの米国籍はようやく確定した。
三〇年代の米国の不況で日系米国人たちはビジネスの機会がなく、新アジア建設のため海外進出を積極的に推進する日本に新たな夢を託していた。英語力があり、国際感覚を備えた日系人はとくに満州(現中国東北部)、朝鮮半島、樺太、南洋の日本人社会にとっても強力な助っ人であった。日系人社会の新聞もアジアの「ニューフロンティア」への夢をあおり、逆流移民が激増する一因となった。
逆流移民現象を研究しているハワイ大学歴史学部のジョン・ステファン教授は、「十九世紀末から開戦までに米大陸からは四人のうち一人、ハワイからは三人のうち一人の日系二世(一部三世)が内地に戻り、さらにアジア大陸に渡った。満州だけで二千人の日系人を受け入れ、満州帝国外務省情報部や満州銀行、満州日日新聞、満鉄などの企業で活躍した」という。
日本軍への参加も若い逆流移民世代の夢だった。日系将兵は外務省資料などから推測するとざっと五千人(日系紙「パシフィック・シチズン」)。だが軍部内では内地人、日系人の明確な区別がなかったため、実態はほとんど知られていないという。特に広島出身者が多いため、江田島の海軍兵学校に入ることは、時代の最先端を行く日系の若者のあこがれだった。
しかし、日本の敗戦で日系将兵の立場は極めて微妙なものになった。「欧州戦線で米軍の先兵として戦った日系人部隊の活躍は、繰り返し称賛されるが、日系人の日本軍への参加は歴史から抹殺されようとしていた。米国籍回復の裁判過程は日系人の屈折した心境を知る数少ない資料だ」。ステファン教授は国籍回復の裁判資料によって、「戦争の本当の悲劇性を検証したい」と日本軍の日系将兵の一人一人の生きざまを追っている。(編集委員 高木規矩郎)
[日系人と逆流移民]
米国の海外移民の中でも特に日系移民に顕著に見られた。経済的に成功した移民が、日本文化になじませたり、祖国で教育を受けさせようと子女を帰国させるケースなどが目立った。歌手の灰田勝彦(ハワイ生まれ)や元外相松岡洋右(12歳で渡米しオレゴンで育った移民)らも一例。現在の逆流移民としては、南米から仕事を求めて来日する日系人の例がある。
*◆ソ連参戦(上)
*◇「反ソ」強めた中立破棄◇
一九四五年八月八日夜から九日未明にかけて、ソ連軍は旧ソ満国境を突破、対日戦争の火ぶたを切った。日ソ中立条約を破っての宣戦布告――米国が広島に原爆を投下して二日目だった。
「ほとんど無抵抗で進軍できた。占拠した日本軍の陣地では衣料など多くの物資を捕獲した。そのとき見つけた外套(がいとう)は、綿の代わりに紙が縫い込んであり、軽くて温かかった。後に冬を過ごすのに助かった」
ソ連第六戦車師団の戦車隊員として大興安嶺のソ連国境に駐屯、対日戦に参加したパーベル・カザリンさん(78)は半世紀前の当時を、こう回想する。今はウクライナ・クリミア半島に住む年金生活者。四五年の対日参戦をソ連が「楽勝した」唯一の戦争と呼ぶ。
この戦いで日本は北方領土問題の難問を抱え込むことになり、日本の対ソ観は極度に悪化した。ソ連の対日参戦は、日本にいやし難いトラウマ(精神的傷痕)を刻み込む戦争だった。
ソ連の対日参戦には疑問が二つある。第一は、ソ連がなぜこの時期に参戦したか。第二は、ソ連指導者スターリンが一体いつの時点で、この対日攻撃に思い至ったかという点だ。
参戦への経緯をみよう。
ソ連が米英に初めて対日参戦の合意を伝えたのは、四三年十月のモスクワ米英ソ外相会議。独ソ戦開始から二年四か月、ドイツ軍退潮の兆しを背景に米英の関心は対日戦争に移り、米国は「日本の背後を攻める」ソ連の参戦を切望した。スターリンは、これに「ドイツ降伏後」の条件を付けている。
翌十一月の米英ソ・テヘラン首脳会談では、ソ連参戦への見返りとしてスターリンはサハリンなど極東のソ連権益を回復したいと示唆し、米英の理解を得た。次いで一年後の四四年十月、チャーチル英首相には「ドイツ降伏当日の参戦」を確約している。
ところが、四か月後の四五年二月、旧ソ連クリミア半島ヤルタでの米英ソ首脳会談になると、スターリンは前言をひるがえし、対日参戦をドイツ降伏の「二ないし三か月」後と変更する。
ドイツはヤルタ会談から三か月後の五月に降伏した。それから三か月後の八月、ソ連は米英への「参戦約束期限」のぎりぎり、しかも日本の敗色がはっきりした時点で初めて参戦した。
ロシア世界史研究所の歴史家オレグ・ルジェシェフスキ氏(67)によると、ヤルタ会談直前の四五年一月、当時のソロモン・ロゾフスキ・ソ連外務次官がモロトフ外相にあて「対日参戦に反対する意見書を出していた」という。このころ、ソ連指導部内になお対日参戦をめぐる議論があったということだ。
しかし、一方では日ソ中立条約を締結した四一年の末、スターリンは訪ソしたイーデン英外相に「ドイツに踊らされる日本への警戒」を指摘している。ルジェシェフスキ氏は「スターリンがよく使った方法だ。はっきり言わずに暗示する。スターリンはこのころ、参戦を考えたのではなかったか」と推察する。
しかし、実際には対独戦の遂行に手足を縛られ「参戦を実行できないまま、結局はドイツ降伏後になった。三か月は極東への軍の移動に必要だった」とする研究者は少なくない。
スターリンの胸中を明かす証拠は今のところ何もない。しかし、スターリンが米国の参戦要請を勘案しながら、同盟国への義務履行を装って日本の「降伏が見えた」時期を選んだことはありえよう。そのあいまいかつ俊敏な行動は「政略家」スターリンの巧みさと言うほかないのかもしれない。
(モスクワ 熊田 全宏)
[ロゾフスキ・ソ連外務次官のモロトフ外相あて書簡]
ソ連がヤルタ会談に臨むに当たって〈1〉日本との中立条約は期限満了まで順守する〈2〉ドイツ降伏まで日ソ関係の悪化は好ましくない〈3〉ソ連はドイツ降伏後に米英と太平洋問題を討議する――との内容を米英に主張すべしとした書簡。ソ連解体後の秘密文書解禁で見つかった。
*◆ソ連参戦(下)
*◇北海道巡り冷戦の兆し◇
「北海道と千島南部占領の作戦準備を八月二十三日までに完了せよ。開始時期は追って指示する」――ソ連極東方面軍のワシレフスキー総司令官(元帥)は、一九四五年八月二十日、参謀本部からの指令に基づき各部隊の司令官に暗号電文を発した。
八月九日に始まったソ連の対日戦は、満州(中国東北部)、サハリン、千島の三つの戦線で火を噴いたが、クレムリンでは最高司令官スターリンが、もう一つ極秘の「北海道上陸作戦」を練っていた。
この構想が明らかになったのは、日本が無条件降伏を発表した翌日の八月十六日。降伏後の日本周辺での版図を決める交渉の過程で、スターリンがトルーマン米大統領に、北海道をソ連と米国で分割し、釧路と留萌を結ぶ線から北半分をソ連領土とするよう初めて要求したのだ。
日ロの戦史が専門のビャチェスラフ・ジモーニン極東研究所研究員は、南サハリン占領、千島の武装解除の状況に加え、冒頭の電文を基に、「北海道上陸は二十四、二十五日のいずれかに決行する手はずが整っていた」と推測している。
だがその作戦は、スターリンが二十二日にワシレフスキー総司令官へ発した中止命令で急きょ取りやめになった。このため、ソ連軍の北海道上陸は現実のシナリオだったのか戦術的な脅しだったのかを巡り二つの説が存在する。
作戦を「本物」と解釈するジモーニン研究員は、〈1〉中止決定が出るまで参謀本部から前線に繰り返し作戦準備の指令が出された〈2〉スターリンは戦勝国の権利としてソ連が日本の主要四島の一部を獲得するのは当然と考えた――などの点を指摘し、「スターリンは北海道上陸を真剣に検討していた」との見解に立つ。
そしてスターリンが撤回を決断した理由について、同研究員は「日本が各戦線で戦闘行為を停止しソ連が新たな作戦を展開する大義名分を失ったことと、作戦強行による米国との対立を懸念したため」と説明する。
一方、「上陸作戦」は、対米交渉での駆け引き材料に過ぎなかったとの説もある。
世界史研究所のオレグ・ルジェシェフスキ研究員は、第二次大戦が終結し、米ソ間で世界分割に向けた思惑が交錯していた当時の状況から、「ヤルタ協定で合意した千島をソ連領から外されたスターリンが、失地回復を狙い、北海道を含むより大きな要求を持ち出した」との見方を示す。
トルーマンは八月十五日、スターリンに送った日本軍に発する「一般命令第一号」の文案で、日本軍がソ連に降伏する地域を「満州、北緯38度以北の朝鮮、サハリン」と記し、千島を除外した。
米英ソの三国首脳によるヤルタ会談(四五年二月)では、ソ連の対日参戦とサハリン、千島列島をソ連が領有するとの秘密協定が交わされた。これに従いソ連は、独ソ戦の勝利が見えた直後(同四月)から対日戦の準備を進め、再び三国首脳が会したポツダム会談(同七月)でも、日本周辺での米ソの勢力圏の境界は北海道の北側と確認された。
このため千島をソ連の勢力圏から除外すると一方的に通告したトルーマンの「命令」は、スターリンには到底容認できないものだった。
トルーマンは十七日、スターリンの北海道分割案を拒否したが、千島に対するソ連の要求には同意した。この直後からスターリンは、カムチャツカ半島のソ連軍を千島に南下させ千島占領の既成事実化を急ぎ、北海道を狙える体制も二十二日まで堅持した。
「北海道上陸作戦」は幻に終わったものの、米ソは約一週間にわたり外交戦を繰り広げた。これは後に続く冷戦の「発露」とも言える。 (モスクワ 緒方賢一)
[極東のソ連軍]
旧ソ連の史料によると、ソ連軍は第2次大戦中、満州国境を中心に極東に100万人以上の兵力を維持。ドイツ降伏後の45年5月から8月までにドイツ戦線からベラルーシ、ウクライナ方面軍など約60万人の兵力を増強した。ソ連国防委員会は4月30日、極東への石炭、食料など戦略物資の大量補給を命じ対日戦準備を開始した。
*◆昭和天皇(1)
*◇責任論議 深いよどみに◇
昭和天皇が重病の床にあった八八年十二月七日の長崎市議会一般質問。本島等(ひとし)長崎市長は先の大戦における天皇の戦争責任について所感を問われ、「私も軍隊では教育に関係していたが、そういう面から天皇の戦争責任はあると思う」と答えた。
市長は答弁の後、記者団に「私は『天皇のために死ね』と教育した。私にも戦争責任はある」と補足したが、その後の反響はすさまじく、激励の投書が続々届く一方で、自民党県連は市長を顧問から解任。平成に変わった九〇年一月には暴漢に背後から銃弾を浴びる悲劇にも見舞われた。
弾は奇跡的に急所をはずれたため、本島氏は元気を回復、七十六歳の現在も一市民として執筆活動に余念がないが、当時の発言は今も正しかったと考えているという。
◇
一九四五年夏、昭和天皇の「御聖断」により日本が連合国のポツダム宣言を受諾し無条件降伏してから五十三年がたつ。しかし、先の戦争における昭和天皇の責任問題、あるいは日本の戦争責任を、本島氏のようには断定することのできない日本人はまだ少なくない。人々の意識の中で、天皇の戦争責任は今も、探求することのはばかられる深いよどみとなっているようだ。
この一因は、連合国の占領下、天皇制護持を最優先課題に昭和天皇への責任追及を回避しようとした日本政府と、天皇のカリスマ性を利用し占領政策を円滑に遂行しようとしたマッカーサー連合国最高司令官の双方の利益が一致し「天皇に戦争責任なし」で日米両政府が早々と公式決定を打ち出したことにもあった。
幣原(しではら)喜重郎内閣は、マッカーサーの腹心フェラーズから極東国際軍事裁判に対する米政府の方針を聞きながら天皇免責工作を進め、四五年十一月五日、戦争責任に関する閣議決定を行った。そこでは、天皇は〈1〉対米交渉の円満妥結を最後まで断念しなかった〈2〉開戦決定・作戦計画遂行に関し、憲法運用上の慣例に従い統帥部・政府の決定したものを裁可し却下したことはない――との天皇無実論が打ち出された。
マッカーサーも、四六年一月二十五日付のアイゼンハワー陸軍参謀総長への手紙で、「天皇が過去十年間の日本政府の決定に大きく関与した証拠はない。天皇制を破壊すれば、日本も崩壊する。ゲリラ戦には百万人の軍隊が必要である」と呼応し、米政府を天皇免責の方向へと導いていった。
この結果、昭和天皇の戦争責任問題は公式には事実上解決ずみの扱いとなった。以後、終戦まで昭和天皇が実際どんな立場に置かれていたのかに関する実証的な検証も、昭和時代が終わるまで長らく閑却され続けた。
◇
もっとも、政府の「天皇に戦争責任なし」の公式判断とは別に、昭和天皇個人としては「憲法とかに関係のないもっと高い水準の道徳的責任」(真崎秀樹・元宮内庁御用掛)を痛感していたことも側近日誌などから間違いない。
昭和天皇が個人として対外的に戦争責任を表明した代表例としては、四五年九月二十七日の一回目のマッカーサーとの会見での「私(昭和天皇)は全責任をとる。自分自身の運命は問題でない」との発言がある。これは、会見から十年後の五五年九月、マッカーサーが明らかにしたもので、当時、読売新聞がスクープとして報じた。天皇側から発言内容の確認はないままだが、松尾尊兌京都大学名誉教授らの研究により、おおよそ「開戦のやむなきに至ったことは誠に遺憾。責任は日本の君主たる自分にある」という趣旨であったろうと推定されている。(調査研究本部・鬼頭誠)
[戦争責任の表明]
昭和天皇が、自身の戦争責任を国民に対して明確に表明したことはなかった。1952年の独立回復まで二度「敗戦の責任を深く国民に詫(わ)びる」などの文案が宮中で検討されたが「君主無答責の旧例にもとる」との政府、側近の判断もあり実現しなかった。天皇自身は「出さないで困るのは私だ」(「芦田均日記」)と不満だったといわれる。
*◆昭和天皇(2)
*昭和天皇の戦争責任を考える際、明治憲法の建前だった立憲的君主制との関係が一つのポイントとなる。天皇が内閣の輔弼(ほひつ)(補佐)・軍首脳部の輔翼(同)にそれぞれ従い自身の権力行使を控えていたとすれば、道徳的にはともかく法的責任は軽くなるからだ。
一九二九年、当時二十八歳の昭和天皇は、田中義一首相(政友会)を叱責(しっせき)、総辞職に追い込んだ。田中首相が、張作霖爆殺事件の首謀者を厳罰にすると上奏(最終報告)しながら実行しなかったからだ。この時、輔弼役の元老・西園寺公望は「天皇の言葉が首相の進退を直接左右するのはよくない」と最終的に判断したものの、天皇は従わず、立憲的君主の矩(のり)を超え親政を行った。
後年、天皇は田中上奏事件を「若気の至り」と反省し、「以来、内閣の上奏は自分が反対でも裁可することに決心」した。政府方針決定までの過程で、内奏(中間報告)に対する御下問(質問)、御諚(ごじょう)(意見)こそ積極的だったが、元老、首相ら輔弼者の結論がまとまると、ほとんど逆らわなくなる。
もっともそれは、田中首相に関係者を厳重に処罰させようとした天皇や内大臣ら天皇側近の行動に対し軍中堅・若手が憤激し、さらに野党に転落した政友会まで「(田中内閣崩壊は)宮中の陰謀」(森恪政友会幹事長)と逆恨みし軍部に同情を示す意外な展開に、天皇側が動揺したためでもあったらしい。
田中事件から二年後の三一年九月、関東軍が独断で満州事変を起こすと、天皇は当初、若槻内閣の不拡大方針を支持したものの、「十月九日になって突然、軍事行動の拡大に同意」(安田浩・埼玉大教授)し、軍部寄りに変わる。
天皇は、政務について内閣の輔弼を受けるべきだが、この時は「事変は(宣戦布告していないから)政府の問題ではなく統帥事項である」として政府不介入を図る統帥部の輔翼を優先させてしまった。
原因は、天皇の不拡大支持を「(天皇)側近の入れ知恵」(『木戸幸一日記』から)と見た軍部内の不穏な動きが影響したと安田教授は見る。事実、直後にクーデター未遂の十月事件が発覚、翌年には五・一五事件で犬養首相が暗殺され、西園寺らは御諚を極力控えるよう助言し始める。
軍の力の前に立憲君主としての天皇の権威は大幅譲歩を余儀なくされて内閣は弱体化、逆に陸軍は天皇の大元帥としての権威をかさに着て一層独断的行動を強めていった。
「立憲君主」昭和天皇の立場をさらに苦しくしたのは、天皇機関説排撃運動(三五年)だった。天皇を「憲法に従う国の機関(立憲君主)」と解釈するのが憲法学会の通説だったが、軍の力に幻惑された議会両院は「天皇主権がわが国体の本義」などとする決議を満場一致で可決、「明治憲法の立憲君主制を実質改正」(三谷太一郎・成蹊大教授)してしまったからだ。
天皇はこの扱いに抗議したが、ある海軍武官に「陛下は暫(しばら)く臣下の論議を静視されよ」(『本庄繁日記』)と一蹴(しゅう)された。
こうして、建前上、親政君主・大元帥・現人神(あらひとがみ)にされたとはいえ、天皇の実態は、輔弼・輔翼を常時仰ぐ立憲的君主だった。ただ、戦況深刻化とともに「御軫念(ごしんねん)(心配)」から、時に政軍人事や軍事作戦に主導的役割を担った。「日中・太平洋戦争のうち十五件で天皇は作戦(計画)に大きな影響を与えた」(山田朗・明治大助教授『大元帥・昭和天皇』)とする最近の研究結果もある。
このため、戦争下の昭和天皇は以前の受動的君主から「能動的君主としての側面を強めた」(吉田裕・一橋大教授)との見方も出て、天皇の戦争責任問題に波紋を投げかけている。(調査研究本部・鬼頭誠)
[天皇輔弼]
明治憲法は、天皇は国務大臣の輔弼を得ながら統治権を行使する立憲君主制をとった。輔弼は閣僚のほか慣例として明治政府の功労者だった元老が行い首相指名などに関与した。昭和期に元老は西園寺公望だけとなったため32年ごろから首相経験者らを重臣として加えた。重臣会議世話役の内大臣(宮中官制による天皇補佐役)の影響力も増した。
*◆昭和天皇(3)
* ◇聖断…究極の国家意思◇
昭和天皇が国家元首として、先の大戦についてあらゆる結果責任を負う覚悟だったことはすでに触れた。
親政君主・大元帥・現人神(あらひとがみ)として立つことを余儀なくされた三〇年代後半以降、立場上、意思表明が命令ではなく御下問(質問)、御諚(ごじょう)(意見)だとしても、「最終的な国家意思に大きな影響を与えた」(吉田裕・一橋大教授)可能性は否定出来ない。従って、戦後の昭和天皇の責任意識は、国民一般に明示させなかった政府の判断の当否は別にして、誠実なものだったといえよう。
昭和天皇の実質責任が頻繁に取りざたされる〈1〉日米開戦(四一年十二月)裁可の責任〈2〉降伏を進言した近衛文麿元首相の上奏(四五年二月)を無視した責任――はどうか。
天皇の開戦責任については、戦後、天皇を守る立場と見られた近衛と天皇の弟・高松宮が否定できないとの見方を示し、おのおの「日米開戦は回避できた」などと述懐した。根拠をまとめれば「天皇御親政なら、身をていして反対の意思を示せば開戦阻止は可能だった」となる。
しかし、開戦の根拠となる「開戦有利」の決定は政府・大本営による最終合意事項であり、平和のため立憲君主がルールを破っても開戦を阻止すべきだったと戦後になって指摘するのは「(窮すると)何もかも全能の天皇に頼ろうとする天皇神話の思考様式だ」(長尾龍一・日大教授)と言えないかどうか。
実際、「期限付き開戦決意」を行った四一年九月六日の御前会議では、天皇は平和を勧める明治天皇の御製を読み武力に訴えることを戒めた。しかし、近衛首相らだれ一人方向転回を提起せず天皇の憂慮は空回りした。
「終戦では天皇一人で決断したではないか」との指摘もある。ただ、この時は議論が行き詰まり御聖断にゆだねるほかにシナリオがなくなっていた。終戦時に比べ、開戦時は軍部の理詰めの説得に加えハル・ノートという米からの「最後通牒(つうちょう)」(東郷茂徳外相)が到来し最後は天皇も含め全員が開戦決意に至ったわけで、状況は完全に違っていた。
八四年に高松宮の話を直接聞いた加瀬英明氏(外交評論家)も、「宮がそう考えたのは開戦を心から悔いておられたからと思うが、開戦阻止はできなかったろう」と語る。
四五年二月の近衛上奏は、戦局が不利となって以降初めて政府周辺で表面化した終戦勧告。しかし、昭和天皇は「一度戦果を上げないと軍部への終戦工作に入りにくい」としてこれを退けた。
これに対して本島等・前長崎市長は八八年の「天皇に戦争責任」発言の際、「天皇が重臣(近衛)の上奏を退けなければ沖縄、広島、長崎の悲劇はなかった」と主張した。
当時の状況はというと、〈1〉現地の戦況報告の水増しもあり統帥部は損害の把握が甘く、陸軍の進めていた本土決戦は準備が全くない上に中国派遣軍の消耗もはるかにひどいことを天皇が認識したのは六月初めの現地調査官が帰ってきた後だった(『戦史叢書』など)〈2〉近衛の他に前後して上奏した重臣六人はだれも終戦勧告しなかった――のである。
近衛は終戦後、米軍の質問に「終戦工作が具体化した七月でさえ軍では(反乱の)示威が起こった。それ以前に終戦の勅語が出ていたら(軍)蜂起(ほうき)は避けられなかった」と上奏が甘かったことを認めた。
それでも近衛上奏の後の東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎原爆の犠牲合計数十万人とポツダム宣言、ソ連宣戦を経なければ終戦に至らなかった悲しい歴史を振り返ると、天皇周辺が軍の反乱におびえ過ぎていたように見えなくもない。ただ「狂信者集団(軍部)とかかわらなければならなかった天皇の困難にもう少し同情的であってもよい」(長尾氏)との見方もなお強いのである。(調査研究本部 鬼頭 誠)
[天皇の平和主義]
昭和天皇は「一貫した平和主義者」(中曽根元首相)との見方がある。軍部の独断専行を抑えようとし日米開戦回避にも努めた印象は確かに強い。ただ、いざ帝国日本の国益擁護のため戦争となると、立憲君主、統帥権者としての任務に専念しており、実際は「帝国主義的平和主義」(升味準之輔・都立大名誉教授)に近かったのではないか。
*◆昭和天皇(4)
*◇占領期に「陰の日本代表」◇
昭和天皇は一九四五年八月十五日、終戦の詔勅を発し、大元帥として秩序ある降伏を先導した。しかし、天皇の役割はそれで終わらなかった。被占領国日本の政府とは別に、陰の日本代表として、占領の終わる五二年四月までの七年間、占領行政と占領終了後の日本の国際関係について、マッカーサー連合国軍最高司令官や米政府にしばしば直接注文をつけた。
四七年五月三日、日本国憲法が施行され、昭和天皇も「統治権の総攬(そうらん)者」から「象徴」に変わった。しかし、天皇は「憲法の定める国事行為のみを行い国政に関する権能を有しない」との規定にはとらわれなかった。超憲法的存在である占領軍の最高司令官が公認した超憲法的“賓客”だったからである。
四五年九月二十七日の第一回天皇マッカーサー会談でマッカーサーは天皇に信頼感を抱き、「今後も種々ご助言を得たい」(『木戸幸一日記』)と要請した。これにより、二人と通訳一人だけの内密の会談は、マッカーサーが帰国する五一年まで計十一回を重ねた。天皇はまた、通訳などを担当した外務省出身の寺崎英成を通して米政府関係者にメッセージを伝え続けた。寺崎はNHKテレビで放映された日米の懸け橋「マリコ」の父、真珠湾攻撃の時はワシントンで開戦通告遅延を目撃した一等書記官である。
会談のうち四七年五月六日の第四回の内容はAP通信がスクープ、天皇が「憲法は軍備を禁じているので日本人は不安を抱いている」と述べたのに対し、マッカーサーは「米軍による日本防衛を約束」したと翌日のニューヨーク・タイムズなどで報道された。
同月に成立した片山社会党連立内閣の芦田均外相が米国防総省関係者に聞かれて「国民は米国による安全保障を希望している」との極秘書簡を提出したのが九月、日米安保条約の固まったのが五一年だから、天皇の要請は随分先見性があったわけである。
続いて天皇は四七年九月十九日、寺崎を通じて「沖縄メッセージ」を米政府に伝えた。
「沖縄は、日本に主権を残す形で、すなわち長期の貸与(二十五―五十年ないしそれ以上)という擬制の上に、米軍による軍事占領の継続を希望する。この方式なら、米国が永久に沖縄を占領する意図ではないことを日本国民に理解させることが出来る」(『シーボルト政治顧問メモ』)
戦後の沖縄統治について当時の米政府内では、事実上の永久占領に結びつく戦略的信託統治方式が浮上していた。この話を「米側から聞きつけた寺崎が天皇に報告」(升味準之輔・都立大名誉教授『昭和天皇とその時代』)してきたため、天皇はすぐ代替案を提示し米国の軌道を変えさせようと試みたようだ。この問題はその後さらに転々したが、結果的にはやはり天皇の提案通り、米は日本の潜在主権を認めたのである。
この時の天皇外交が寺崎を中心に一握りの外務省関係者の“輔弼(ほひつ)”によって行われていたことは確実だが、当時の政権と連携していたのかは今のところわからない。その成果も再評価される機会のないまま、天皇外交は五二年対日講和の発効による日本の独立回復とともに静かに、親善のみの皇室外交に特化されていった。
文字通り「象徴」の地位に退いた昭和天皇は、その後、記者会見で聞かれる度に「私は(終始)立憲君主として行動してきています」と断言し続けた。かつて領土、国家体制など国の基本問題で立憲君主の矩(のり)を超えたとすれば、それは「天皇を補佐すべき政府・軍部の極端な誤りを正す超法規的緊急避難であった」と訴えたかったのであろうか。(調査研究本部 鬼頭誠)
◇
[天皇の陳謝]
「私自身としては、不可抗力とはいいながら、この戦争によって世界人類の幸福を損ない、わが国民に物心両面で多大な損失を与え、多くの忠勇なる軍人を失い、国家のため粉骨努力した忠誠の人々を戦犯たらしめたことについては、わが祖先に対して誠に申しわけなく、衷心陳謝する」(46年春、木下道雄侍従次長『聖断拝聴録原稿』から)
*◆ヤルタ会談
*◇猜疑・敵意 冷戦への序章◇
黒海に突き出したクリミア半島の避暑地ヤルタ――青く澄んだ海を見晴らす丘にあるリバディア宮殿は今、ヤルタ会談記念館として公開されている。ルーズベルト、チャーチル、スターリンら米英ソ首脳が第二次大戦後の新秩序を話し合った宮殿は、明るい晩秋の日を浴びて立っていた。
会議場が記念館として一般に開放されたのは、ソ連解体後の九四年。今では年間約二十万人の観光客が訪れるという。会議場ホールの丸テーブルには、消滅したソ連の「赤い」国旗が米国の星条旗、英国のユニオン・ジャックと共に飾ってある。
◇
ヤルタ会談は、ナチ・ドイツの敗色が深まった四五年二月、八日間にわたって開かれた。わずか三人の指導者が戦後世界を裁断したこの会談の歴史的意義は英米ソ三国が大国支配を固めたことである。それは会談初日、「(戦後世界の)平和は小国ではなく、大国によって実現される」と述べたスターリンの発言に、ルーズベルトが「即座に」合意を与えたことにも象徴されている。
この大国支配の結果、戦後欧州は東西二陣営に分割され、ソ連の東欧支配に礎石が敷かれて、その後の半世紀を支配する「ヤルタ体制」が確立した。
ヤルタ会談は、主要連合国の指導者による“味方同士”の話し合いだった。しかし、そこは、互いの国益をめぐる熾烈(しれつ)な戦いの場でもあり、その後、半世紀にわたって続いた新たな戦争――冷戦の序章でもあった。特に、スターリンは、自国領土での開催という“地の利”を最大限に利用した。
ロシア科学アカデミー歴史研究所が最近出版した論文集「スターリンと冷戦」によると、スターリンはヤルタ会談で大々的な盗聴作戦を展開し、盗聴した米英代表団の会話記録のすべてを毎朝、届けさせていたという。
同盟国に対するスターリンの疑心暗鬼と猜疑(さいぎ)心。ヤルタ会談は「味方を欺く」ための会談でもあった。
ソ連側は、英米代表団が一般のロシア人と接触することも嫌った。
会談を控えてヤルタから百三十キロ離れたクリミア半島北西海岸サキのソ連軍基地には米英軍の先遣隊が早くから駐屯し、基地の特別兵舎で会談の準備に当たっていた。
サキのソ連軍基地で先遣隊の世話をしたロシア人たちは、当時を回想してこう語る。
「われわれは理由を告げられずに基地に来た。見たもの聞いたものは絶対に口外しないと宣誓書を書かされて署名した。外国人と口をきいてはいけないとの注意も受けた。首脳会談があるとわかったのは、会談の前日だった」
現地で看護婦を務めたベーラ・クリサンさん(75)も、「米兵の中にはロシア語を話す者もいた。接触してはいけないと注意されたが、兵舎の外へ出てひそかに片言で話し合った。友軍兵士となぜ話をしていけないのか。そんな時代だったのです」と往時を述懐する。
ヤルタでも、英米代表団に対する隔離は徹底していた。
リバディア宮殿に集まった代表団は、英米各三百五十人、ソ連四百人。会議場には二千五百人の警備員が配備され、一般市民が米英兵士と触れる機会はなく、スターリンの「秘密」警察が会議場を二重、三重に取り巻いていた。また、チャーチル、スターリンの宿舎からルーズベルトが泊まっていた会議場まで約二十キロの沿道を百メートル間隔でソ連兵が警護した。
第二次世界大戦は、この会談の後、五月のドイツ降伏から七月のポツダム会談、八月の原爆投下と日本降伏を経て急テンポで終息した。その後にあらわになる冷戦は四六年三月、チャーチルが行った「鉄のカーテン」演説をもって始まるとされる。
しかし、すでに平和な戦後世界を語り合ったヤルタを舞台に、大国同士の目に見えない敵意が渦巻いていた。これは、「戦闘なき戦争」と呼ばれた冷戦の姿を、この時点で十分に暗示していたといえる。
◇米ソが“獲物の分け前”◇
スターリンにとって、ヤルタ会談の大きな成果は、ソ連が「戦後世界の大国」という認知を米英両国から受けたことだった。
ソ連が進駐した東欧諸国は後にソ連の「衛星」国家群へと変貌(へんぼう)したが、スターリンは、そのソ連の東欧支配についても、ヤルタで英米に異論をはさませなかった。
チャーチルは、後にヤルタ会談を振り返り、「ワシは小鳥のさえずりを許すが、小鳥が何を歌うかは気に掛けない」との警句を残している。会談での「小鳥のさえずり」の一例が、ポーランド亡命政府の扱いだった。
ロンドンのポーランド亡命政府は、米英を通じて新政権への参加を求めていたが、スターリンは占領下のルブリン(ポーランド南東部都市)に設置した「親ソ」政権の主導権を譲らず、最後には米英を「欺いて」ポーランドを掌中にする。大国が小国を黙殺する体制は、その後五十余年にわたって崩れなかった。
ヤルタ会談で決まったソ連の東欧支配について、ロシア科学アカデミー世界史研究所のユリ・ジューコフ上級研究員(60)は「欧州の分割支配はスターリンの念願だった。対独戦が始まって間もない四一年末ごろ、スターリンはすでに戦後体制の在り方を描いていた」と言う。
ソ連解体後に発見された記録文書「スターリン・イーデン英外相会談報告」(四一年十二月)には、スターリンがポーランド国境の変更やチェコスロバキアの領土拡張などを詳述した部分がある。
ジューコフ氏は「スターリンは当時から、戦後のスウェーデン、ドイツ、スイスを中立国として、欧州を二分する構想を持っていた」と指摘する。
さらに、この中立国地帯の東側を自国防衛の緩衝地帯として「西側からの侵略」に備えようとしていたのではないか、とも推測する。
一方、米英も、ヤルタ会談でそれぞれ成果をあげた。
英国を脅かすドイツ潜水艦への対策としてチャーチルは、ソ連にポーランドのドイツ軍港ダンチヒ(現グダニスク)への攻勢を要請して合意を得た。同時に、西欧へのソ連の侵出を阻止するため、フランスの「ドイツ戦後処理」参加を提案して、スターリンの了解を取り付けた。
ルーズベルトも、チャーチルの不安をよそに、国内の「内向き」姿勢に配慮して戦後の米軍欧州駐留を「二年に限る」とした。また、ソ連には対日参戦を確約させ、戦後の国際社会の基礎となる国際連合の創設問題では、議席数でスターリンの譲歩を得て安堵(あんど)した。
冷戦はそれから半世紀にもわたって続いて行く。この五十余年をソ連の側から眺めると、第二次大戦で「大国の地位」に就いたソ連は、軍事超大国へと向かい、さまざまな対米挑戦を試みながら米ソ二極構造の一極を担う頂点にたどり着く。しかし、ソ連は民生を無視、巨大な軍事負担に耐えきれず、八〇年代後半、対米核軍縮を許容して、一気にしぼむ。その解体は、瞬く間の出来事だった。
◇
ヤルタ会談でスターリンとその側近が宿舎に使ったユスポフ宮殿は今、ホテルに改造され、その四室のスイートは「スターリンの間」と名付けられている。食事付き一泊四百四ドル。スターリンに付き添った従者「モロトフ(外相)の間」も、隣にある。客は富裕な「新興」ロシア人家族が多いという。会談の会場となったリバディア宮殿も一部が貸会議場となっている。近く、米国の大手投資会社が社員教育の会場に使う話も進んでいた。
冷戦がその鼓動を開始したこのヤルタでも、冷戦はもはや過去の一コマになっていた。(ヤルタで、熊田 全宏)
[ヤルタ会談と対日問題]
スターリンは、秘密協定の中で、ドイツ降伏後3か月以内に対日参戦することを約束、その見返りとして、サハリン(樺太)、千島列島の領土化や、旅順租借権回復、満州鉄道中ソ共同運営など中国東北部での権益が約された。
*◆吉田茂の選択(上)
*◇「経済専念」成功で神話化◇
“霧の都”サンフランシスコは、その日、早朝から雲ひとつない快晴だった。
一九五一年九月八日、同市のオペラ・ハウスで開かれたサンフランシスコ講和会議の調印式。吉田茂首相、池田勇人蔵相ら六人の日本全権は、緊張した面持ちで日本の独立回復を定めた対日講和条約に署名した。一人ずつサインが終わるごとに場内は拍手に包まれ、調印の模様はテレビで全米に放映された。
一方、同じ日の夕刻、サンフランシスコの米軍第六司令部では、ひっそりと日米安全保障条約の調印式が行われた。米側はディーン・アチソン国務長官、ジョン・ダレス国務省顧問ら、日本全権団は吉田一人だけが署名した。この日、吉田は一か月半断っていた葉巻に火をつけた。葉巻は講和会議で議長を務めたアチソンから贈られたものだった。
◇
対日講和条約と日米安全保障条約。吉田が締結に深く関与した両条約で、日本は、西側陣営の盟主・米国の同盟国として冷戦構造下の国際社会に復帰した。その結果、「日米安保により軽武装での国防を可能にしたうえで経済立国に専念する」との戦後日本の基本路線が成立した。この路線のおかげで日本は世界的経済大国になったといわれ、吉田を戦後日本の功労者とする「吉田神話」が生まれた。
しかし、そうした「吉田神話」を見直す動きが出ている。
きっかけは、九六年に相次いで出版された「安保条約の成立」(豊下楢彦・立命館大教授著、岩波書店)、「吉田茂とサンフランシスコ講和」(三浦陽一・中部大教授著、大月書店)の二つの著作だ。
両条約の骨格が固まったのは五一年一月末―二月の吉田とダレス(米大統領特使)との一連の会談だが、両書は、その際の交渉を「拙劣だった」と批判する。
会談では、ダレスが執拗(しつよう)に再軍備を迫ったのに対し、経済的理由などを盾に吉田は激しく抵抗したとされ、吉田も回想記で、「(再軍備反対を)重ねて強く希望したところ、ダレス特使は『アメリカは日本に再軍備を強制する意志はない』旨を確言してくれた」(吉田著「回想十年」)と得意気に記している。
しかし、豊下、三浦氏らは、日米両国の外交機密文書などを詳細に分析した結果、「吉田は、米国の最大の狙いが日本再軍備ではなく、米軍の日本駐留であったことを見抜けず、本来なら、もっと“高く売れた”はずの米軍駐留のカードを安売りしてしまった」(三浦氏)と切り捨てる。
吉田の「安売り」のため、米国ペースで交渉は進み、安保条約は結局、米国が駐留権を持つが日本防衛の義務は負わない米国有利の内容となった、というわけだ。その具体的規則を定めた行政協定でも米国は、日本国内のどこでも基地を設置する権利を確保したほか、刑事裁判でも米軍関係者の犯罪には日本の裁判権が及ばないなど、「名誉ある独立国家とは言えない」(豊下氏)ものとなった。
裁判権問題はその後、一部改善されたが、最近では九五年の沖縄駐留米兵による少女暴行事件で再び問題化した。
吉田路線をめぐっては冷戦終結前の八〇年代に中曽根康弘・元首相(80)が「戦後政治の総決算」を提唱、「吉田政治の是正」を訴えた。
中曽根氏は「吉田政治は英国流の功利主義、政策も重商主義的で、当時の選択としてありうるものだった。しかし便宜主義的でもあり、安保面では、自分の国は自分で守るという点を軽蔑(けいべつ)し、一国平和主義が長引いた」と指摘する。
吉田―ダレス会談から半世紀。吉田路線が前提とした冷戦は終結、最重視した経済も低成長時代に入った。その時期に、吉田路線を見直す動きが出てきたことは偶然ではなさそうだ。(政治部・吉田清久)
[サンフランシスコ講和会議]
会議は1951年9月4―8日、日本と連合国との間で講和条約締結を目指し開催された。北京の共産党と、台湾の国民党政権は会議の紛糾を避けて招請されず、インド、ビルマは参加を拒否した。一方、52か国の参加国のうち、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは調印式を欠席、日本は英米など48か国の西側陣営との「単独講和」を選択した。
*◆吉田茂の選択(下)
*◇極秘裏に再軍備約束◇
「吉田・ダレス会談 再軍備密約文書を入手 五万人の保安部隊」――。
一九八二年九月二十日、読売新聞は五一年一―二月の日米交渉の際、日本が、米国に提出した外交機密文書を特報した。スクープは、「吉田神話」の見直しの起点となるもので、吉田が「最後までダレスの求める再軍備を拒否した」のではなく、米国側の要求に折れる形でひそかに再軍備を行う意思を伝えていたことを明らかにするものだった。
この文書は、交渉最中の二月三日午前、吉田が作成を指示、大磯(神奈川県)の吉田邸で急きょまとめられ、同日夕、米国側に提出された。
日本側は文書の中で「平和条約及び、日米安保協力協定の発効と同時に、日本が再軍備計画に乗り出すことが、必要となろう」と確言。さらに、前年発足した警察予備隊などとは別に、総数五万人の「保安部隊」の創設を表明していた。「再軍備に徹底抗戦した吉田」という戦後史の定説を大きく修正するものだった。
この文書の存在は、日本側の申し入れで秘密にされ、これ以降の日米交渉でも取り上げられていない。吉田はその後も国会答弁などで「再軍備の否定」を繰り返していた。
これに対し、ダレスとしては、最大の焦点だった基地駐留権を確保し、同時に再軍備についても日本から約束を取り付けた格好になる。吉田との最終会談(二月七日)を終えた日の翌朝、ダレスは随員との会議で、「すべてうまくいっている。あとは行政協定にもっと日本が犠牲を払うものを盛り込むだけだ」と満足そうに語っている。
こうした批判に対して、吉田擁護論もある。
渡辺昭夫・青山学院大教授は、「再軍備の問題で吉田が、いろいろ詭弁(きべん)を使ったことは事実だ。しかし、当時の情勢からすれば、米軍基地の継続使用を前提に講和後の安全保障体制を構想することは合理的な選択だった。基地提供を交渉カードにすることは、最初から吉田さんの眼中になかったのではないか」と指摘する。
吉田批判の研究者が指摘する「拙劣さ」については、渡辺教授は「細かい交渉の事実の話にすぎず、それをもって吉田の役割を軽視すべきではない。吉田の選択がなかったら、(今日のような)抑制された軍備ではすまなかったはず」と反論する。さらに「戦前の反省を踏まえた『経済力の範囲内での軽武装を持つ』という吉田路線の大原則は、時代を超えて、いまも正しい」と強調する。
吉田路線は戦後体制に大きな功績を残したのは間違いないだろう。しかし、一方で、吉田擁護、批判派の双方から「吉田路線は金科玉条のドクトリンとして固定化し、とくに安保面で、まじめに考えることを放棄した」(渡辺氏)、「吉田の結んだ安保条約は独立国家にふさわしいものではなかったのに、吉田の後継者は、そこを見据えず、ただひたすら、経済第一主義で走ってきた」(豊下楢彦・立命館大教授)と、吉田の後を託された政治家たちの責任を問う声も聞こえてくる。
では、吉田自身は、講和・安保体制の将来をどう考えていたのだろうか。
これをめぐって、吉田の秘書を務めたことのある松野頼三・元防衛庁長官(81)には、忘れられない思い出がある。
吉田がサンフランシスコの調印から帰って三か月後の五一年の暮れ、松野氏は、首相官邸の執務室で吉田が講和・安保条約について、こう漏らすのを聞いている。
「俺(おれ)の力ではこれぐらいのことしかできない。もっとしたいが、米国の言うことを聞くしかないんだ。この後は若い人たちが、これを直していくんだろうよ」(政治部・吉田清久)
[吉田の再軍備論] 海原治・元内閣国防会議事務局長(当時、国家地方警察本部企画課長)(81)は講和交渉時から吉田は再軍備が必要だと考えていたという。「50年末ころ、吉田さんに『日本が独立した場合、軍備はどうなるんですか』と尋ねた。吉田さんは、『独立国である以上、軍隊が必要なのは当然だ。ただ、(政敵の)芦田君(均・元首相)が再軍備論を言っているので私からは言わない』ときっぱり言った」
*◆日米安保の源流
*◇「芦田メモ」講和へ瀬踏み◇
一九四七年六月一日、社会、民主、国民協同党の三派連立による片山哲社会党首班内閣が成立した。外相には外務官僚出身の民主党総裁・芦田均が就任した。
「色々候補者を考えて、どうしても適任者がない。私(の外相就任)は必ずしも最上の代物とは思わないが――」
芦田は内閣発足の日、日記にそう記している。当時は、二月にイタリアが連合国との講和条約に調印したほか、三月にはダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官が記者会見で「早期講和論」を提唱、これを受け、米国務省は七月に「対日講和予備会議」を提案するなど講和に向けた動きが表面化していた。芦田の謙そんは、古巣への復帰に対する、彼一流の「自負と意欲」の反語法と見ていい。
就任早々、芦田は極秘に講和準備に取り組む。
まず、同年七月、講和条約への要望事項をまとめ、GHQ(連合国軍総司令部)のジョージ・アチソン外交顧問、コートニー・ホイットニー民政局長に手渡し、九月にはロバート・アイケルバーガー第八軍司令官に、日本の安全保障についての意見書を預けた。
このうち、講和への要望書は「(ソ連など)他国を刺激し、日本に不利になる」(ホイットニー)として、後で返却されたが、独立後の安全保障に対する見解を示した第八軍司令官への意見書については、仲介役の鈴木九萬・横浜終戦連絡事務局長(故人、元駐伊大使)が後に「司令官は陸軍省や国務省関係者にきちんと説明した、ということだった」と証言している。
同司令官への文書は「芦田メモ」と呼ばれ、この中で、「米ソ関係が悪化し、世界平和に不安が生じた場合」を想定し、〈1〉平和条約の実行監視のための米軍駐留〈2〉日米間に特別協定を結び日本の防衛を米国にゆだね、米軍は日本の近接要地に駐留、有事に進駐する――と提案した。
その構想は、後の日米安全保障条約の源流となるものだが、「安保反対」を党是とした社会党首班政権によって作られたのは歴史の皮肉だ。
芦田の講和工作は、米ソ冷戦の激化から「早期講和論」が下火になって「瀬踏み」で終わってしまう。しかし、構想の内容は、芦田のことを「丹波の山猿」と嫌った政敵・吉田茂に受け継がれ、四年後に結実する。
芦田は憲法九条をめぐっても「芦田修正」を行っている。講和条約、安保条約をまとめた吉田茂の功績に隠れた格好だが、「戦後の日本の安全保障体制にとって重要な役割を果たした」(増田弘・東洋英和女学院大教授)といえる。
その後、芦田は、片山内閣総辞職を受けて四八年三月、内閣を組閣する。しかし、政権は昭和電工事件で、わずか七か月で終止符を打つ。自身も収賄容疑で逮捕され、議員活動の傍ら五八年に無罪を勝ち取るまで裁判闘争の日々を送ることになる。
芦田は、朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)(五〇年六月)を機に「再軍備の論客」として再び脚光を浴びた。五一年十月の臨時国会では、吉田茂首相と再軍備論争で対決した。
芦田の孫で芦田の日記を編さんした下河辺元春氏(58)は「再軍備論は吉田へのアンチテーゼの面もあった。昭和電工事件を政治的陰謀ではめられたと思っていたし、その面目を保つため、吉田の『再軍備否定論』を論破しようと考えたんだろう」とみる。政治家の主義・主張と人間関係を考えると興味ある分析だ。
芦田は晩年、「戦争という間違いを二度と起こさないよう、どこで足を踏み外したのか、正しい認識を持ってもらおう」と「第二次世界大戦外交史」の執筆に精力を注いだ。
本当は、自ら主人公となる「戦後外交史」を書きたかったに違いない。(政治部 吉田清久)
[芦田修正]
1946年の衆院憲法改正特別委で芦田委員長の発案で憲法9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」の字句が加えられた。この結果、「自衛のための軍備保持」を合憲とする解釈が可能になった。芦田の著作「新憲法解釈」では「自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である」と明記している。
*◆曲学阿世論争
*◇政治の「現実」と「理想」対立◇
「永世中立とか、全面講和などということは、いうべくして到底行われない。南原東大総長などが政治家の領域に立ち入って、あれこれいうことは、曲学阿世(あせい)の徒にほかならない。学者の空論だ」
一九五〇年五月三日、東京・永田町の自由党本部で開かれた同党両院議員総会。講和問題の情勢報告を行った吉田茂首相は、秘密会という気安さも手伝ってか、南原繁・東大総長の名前を挙げて、その全面講和論を厳しく批判した。
吉田の発言は翌日の新聞で報道され、大きな波紋を呼ぶ。
三日後の六日、南原が記者会見で応戦した。
「(吉田発言は)学問の冒涜(ぼうとく)、学者に対する権力的強圧以外のものではない。全面講和や永世中立論を封じ去ろうとするところに、日本の民主政治の危機の問題がある」
耳の後ろにできたコブの切除手術の直後で頭部を包帯で巻いた痛々しい姿だったが、南原は、吉田発言に戦前の「学問の自由への弾圧」を想起し、過剰反応ともいえる激しい言葉で切り返した。
二人の応酬は、その後も繰り返された。時の首相とアカデミズムのトップ、東大総長の一騎打ちという前代未聞の組み合わせだっただけに「曲学阿世論争」として新聞に取り上げられた。
吉田は、四九年四月、南原に手紙を送っている。封書には「東京帝国大学(マ マ )南原総長閣下」とあり、「閣下」という表現に学者・南原への尊敬の念がうかがわれる。
それが一年後に「曲学阿世の徒」に変わった背景には、その間に「単独講和か全面講和か」の議論で国論が二分し、中でも同年十二月、渡米先のワシントンで「永世中立、全面講和論」を展開した南原が全面講和論のオピニオンリーダーになっていたという経緯があった。
二人の対立について、南原の孫弟子、加藤節・成蹊大教授は「敗戦という挫折から、独立回復と国際社会復帰を目指す点で、二人は同じスタート台に立っていた」と指摘する。しかし、激化する東西冷戦への対応が二人の分岐点となった。
吉田は「現実をみれば、西側とのきずなを強めることで独立復帰を早め、経済再建を急ぐしかない」という現実路線に向かった。一方の南原は「冷戦の片側にくみすることは、真の独立とは言えない。すべての連合国との講和による普遍的な平和を求めるべきだ」とする理想主義にこだわったといえる。
論争の翌年、南原は「真理こそ最後の勝利者である」との言葉を残し総長を辞任し、書斎に戻った。総長在職中を含め、政党の総裁や文相、最高裁長官就任への誘いを受けたが、「男子一生の仕事として政治は学問以上のものではない」として固辞した。
五一年のサンフランシスコ講和会議で、日本は英米など西側四十八か国との単独講和を選択。日本は日米安保体制の下で「軽武装、経済優先」の吉田路線を進み、経済大国となった。論争について、歴史の審判は、「現実路線」の吉田に軍配を上げた。
ただ、南原が提起した「高く掲げた理想を現実化することこそ政治の役割」(加藤氏)とする考えは、むしろ今日的な課題である。なぜなら、現在の政党・政治家は、少子高齢化と未曽有(みぞう)の不況で閉塞(へいそく)感が増す中にあって、新たな理念、理想を示す構想力を失っているからだ。それは戦後、政治がひたすら現実路線を走り続けた弊害とも言える。
晩年(七〇年)、南原はインタビューで語っている。
「世間から遠ざかっている間に日本は豊かになった。しかし、何か大事なことを忘れていたのじゃないですか」(政治部 吉田 清久)
[曲学阿世]
史記にある言葉で、「真理を曲げた不正の学問により、世俗や権力におもねり、人気を得ようとする」の意。真理を追究する学徒にとって、きつい侮辱表現といえる。福田歓一・東大名誉教授によると、南原は吉田のことを後年「吉田さんは礼儀正しい人でした。その吉田さんが、あんなことを言うとは。あの時はどうかしていたのではないか」と話している。
*◆再軍備
*◇「許可」後4日で編成決定◇
一九五〇年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)した。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍は韓国領内に南進、日本駐留の米陸軍四個師団のほとんどが朝鮮半島に出動、日本は軍事的に空白地域となった。
これを受けマッカーサー連合国軍最高司令官は七月八日、吉田茂首相に書簡を送った。便せんよりやや大きめの用紙二枚にタイプされた書簡には、こう記してあった。
「私は日本政府に対し、人員七万五千人からなる『ナショナル・ポリス・リザーブ』を設立し、海上保安庁の現有要員を八千人増強することを許可する」
「許可」は実際、「命令」を意味していた。七万五千人は、日本駐留の米陸軍四個師団の人員に相当した。ナショナル・ポリス・リザーブ=警察予備隊はその後、保安隊を経て、五四年、自衛隊となる。
さらに、七月十二日、連合国軍総司令部(GHQ)は、「日本の安全保障諸機関の増強」と題する文書をまとめた。その中心は「警察予備隊創設案」で、いわば予備隊の「設計図」とも言えるものだ。規模や組織、管理方法など詳細にわたっているが、興味深いのは、それがマッカーサー書簡から四日、朝鮮戦争が起きてから十七日という短期間で決定されたということだ。
警察予備隊本部の警備課長兼調査課長として、部隊編成に携わった後藤田正晴・元副総理(84)が当時を振り返る。
「(受け渡された編成表を見て)前々から米国は(再軍備のための)案を用意していたのではないか、と感じた」
後藤田氏の直感は当たっていた。
米国側の公開文書を詳細に分析した増田弘・東洋英和女学院大教授は「ワシントンでは四八年二月ごろから、陸軍省、国防省、統合参謀本部を中心に、日本の再軍備計画の検討が始まっていた」と指摘する。
増田教授によると、四八年一月のケネス・ロイヤル陸軍長官の演説をきっかけに、翌月二十四日、ジェイムズ・フォレスタル国防長官がロイヤルに、日本の再軍備を研究するよう指示、ロイヤルは、五月に報告書をまとめた。報告書は、将来の占領軍撤退に合わせ「限定的な再軍備計画」を用意するべきだ、との内容で、「限定的」とは米軍指導の下で編成・監督された小規模で軽武装の軍隊という意味だった。マッカーサー書簡の出発点は、この「ロイヤル報告」にあった。
もっともロイヤルの再軍備構想には、当初、マッカーサーという大きな「障害物」が控えていた。マッカーサーは「再軍備は、日本経済を弱体化させ、日本人は、もはや軍隊の保持を歓迎しない」などを理由に同構想に強硬に反対したからだ。その背景には、自ら主導して日本国憲法に盛り込んだ第九条の戦争放棄規定の存在があった。一方、国務省も近隣諸国への配慮などから再軍備に慎重だった。
しかし、マッカーサーはその後の冷戦激化を受け、「憲法九条は自衛権を否定しない」(五〇年一月、年頭声明)と非武装路線から転じ、結局、ロイヤルの構想は、本格的な軍ではなく、国内治安維持を目的にした「警察軍」の創設案に落ち着く。そして朝鮮戦争勃発を契機に、日本の軍事的空白を埋めるべく名前を「警察予備隊」に変え、マッカーサーがゴーサインを出したというわけだ。
マッカーサー書簡は、当時の日本政府にとって「寝耳に水」で、ナショナル・ポリス・リザーブの意味さえつかめず、混乱した。
日本の戦後体制の枠組みは、憲法ばかりでなく、安全保障の基本となる軍備まで、米国主導で作られた。(政治部 吉田 清久)
[ロイヤル演説]
1948年1月6日に、米国のロイヤル陸軍長官がサンフランシスコで行った重要演説。この中でロイヤルは、東西の冷戦激化を踏まえ、日本を「新たな全体主義戦争の脅威に対する防壁に」と強調、日本の政治的安定を維持し「健全な自立経済が必要」と明言した。それは従来の「非軍事化、民主化」という対日占領方針の転換を示唆するものだった。
*◆東京裁判(1)
*◇法的根拠に「戦争違法観」◇
一九四六年五月三日、東京・市ヶ谷の旧陸軍省。高台に建つ白亜の三階建てビルは、朝から内外の報道陣でごった返していた。
午前十一時十五分、二階大ホールを埋めた数百人の傍聴人の目が、右奥の出入り口に集中した。軍服姿の佐藤賢了・元陸軍省軍務局長を先頭に入廷する戦争の「最高指導者」二十六人は、やせこけていた。十一か国の国旗が掲げられた向かいの席には、黒い法衣をまとった九人の裁判官。静寂が支配する大法廷に米国人法廷執行官の声が響いた。「ここに極東国際軍事裁判所を開廷します」
第二次大戦後、ドイツと日本の主要戦犯を裁く国際軍事裁判が開かれた。「ニュルンベルク裁判」と「東京裁判」である。「戦争を遂行した罪で……」。歴史に例のないこうした軍事裁判の背景には、第一次大戦を境にした戦争観の劇的な変化があった。
二十世紀初頭まで、国際社会で戦争が犯罪と見なされることはなかった。捕虜の虐待禁止などの交戦法規さえ守っていれば「他の手段をもってする政治の継続」(クラウゼウィッツ『戦争論』)と考えられていたのである。
そうした戦争観を一変させたのが第一次大戦だった。国民生活のすべてが戦争に動員される「総力戦」が展開され、兵器として新たに爆撃機や戦車なども登場した。都市への無差別攻撃が通常になり、死者数は世界で「軍人一千万人、市民五十万人」(B・ゲプハルト『ドイツ史のハンドブック』)に上った。
「ここには村があった、森があった、工場があったという処(ところ)が、大砲、爆弾、地雷火のために荒らされて、ほとんど樹一本もない、家一軒もない、まるで砂漠のようであった」。パリ講和会議に全権委員として出た牧野伸顕は、『回顧録』にフランス北部の惨状をそう記している。
第一次大戦が終わると、国際社会は戦争の違法化に向けて急速に動き出した。国際連盟は「侵略戦争は国際犯罪である」と宣言し、二八年八月には拘束力を持った不戦条約として結実した。
条約は第一条で「締約国は、国際紛争の解決のために戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄する」と規定した。戦争を「犯罪」とはしなかったが「不当な行為」とし、米、仏、英、独、日、伊など十五か国が即座に調印した。
日本も、時の首相の田中義一が「戦争の全廃を企図する崇高仁慈なる目的に衷心同感の意を表し、最も誠実なる協力を致すを欣快(きんかい)とする」と表明した。ただ、自衛のための戦争を例外とすることは関係国の了解事項となっており、日本はその後、満州事変などを「自衛戦争」と主張することになる。
二つの国際軍事裁判は、こうした「戦争違法観」を法的な根拠にしていた。一方、戦争指導者を裁判にかけるという、これまた歴史に類例のないやり方について、連合国の間で合意が成立したのは、ドイツの敗北が決定的となった四五年五月の米英仏ソ外相会議でのことだった。
ドイツの戦争責任者の処遇について、英国は当初、「裁判は手続きが煩雑なうえ、指導者処遇は司法問題ではなく政治問題である」として、軍事法廷での即決処刑方式を主張した。
これに対し、ソ連のスターリンが四四年十月の英ソ首脳会談で反対を表明し、米国でもスティムソン陸軍長官がルーズベルト大統領に裁判方式を進言した。結局、英国が譲歩して決着した。
「即決処刑は正義の原則に反し、犯罪人を殉教者にまつりあげてしまう」(ヤルタ覚書)。米国の主張には、裁判という人道的な形を採ることで、枢軸国の「悪」を歴史的に確定させようとする意図が潜んでいた。(社会部 石井一夫)
[国際軍事裁判]
ドイツと日本の「主要な戦争指導者」を裁いたもので、ニュルンベルク裁判ではナチス党幹部ら24人、東京裁判では元首相ら28人が起訴された。戦争の計画、開始の罪が問われたことから、日本では「A級戦犯」と呼ばれ、捕虜虐待などが問題とされた「BC級戦犯」と区別されている。
◆東京裁判(2) *
*◇宿命づけられた政治性◇
国際法を専攻する東大の大沼保昭教授(52)は、あの当時の衝撃を忘れられない。研究者になって間もない一九七一年春、東京・本郷の研究室で「ジャクソン報告書」を読み進んでいた時のことだ。そこには、ニュルンベルク裁判と東京裁判の宿命的とも言える政治的な性格が、生々しく記録されていた。
二つの裁判については、それを開く法的根拠となった国際軍事裁判所憲章(条例)の当否をめぐって大きな論争が繰り広げられた。東京裁判では公判四日目、弁護側が憲章を不当とする動議を提出し、ニュルンベルク裁判でも弁護側から提起された。
これに対し、四六年十月一日のニュルンベルク判決は「憲章は戦勝国が権力を恣意(しい)的に行使したものではなく、当時の国際法を表示したものである」「不戦条約以降、戦争は国際法上不法とされ、それを遂行する者は犯罪を行うことになる」と述べ、東京裁判の判決も「憲章は本裁判所を拘束する」と表明した。
両裁判の法的性格に関しては、ドイツと日本の学会でも当時から「勝者の裁き」などとする熱い議論が展開されてきた。「ジャクソン報告書」は、二つの判決の見解にくさびを打ち込むものだった。
報告書は、四五年六月に米英仏ソの法曹界を代表するメンバーを集めて開かれたロンドン会議の議事内容を伝えている。米代表だったジャクソン最高裁判事が政府の内部文書として作成した。
それによると、会議では「侵略戦争を犯罪とするかどうか」をめぐり、積極派の米国と慎重派の英仏ソの対立が深刻化。七月十九日の会合で、フランスの代理委員だったグロ教授が「侵略戦争の開始は犯罪となるべき違反行為ではない」と主張し、ソ連も自らのポーランド侵入などが問題化することを恐れて同じ立場についた。
これに対し、米国のジャクソン判事は当初、第一次大戦以降の戦争観の変化などを挙げて三国を説得したが溝は深まるばかり。最終的に米国の主張に沿う形で決着したのは、同二十五日、判事が米国の政治的な立場を吐露し、その主張が通らない限り交渉継続には応じられないとの強硬姿勢を示したためだった。
「侵略戦争を犯罪としない限り、米国が中立を表明していた時代に(戦争の一方の当事者の)英仏を援助したことの正当性が失われてしまう。私は『米国がこの戦争を違法なものとみなしたことは間違っていた』と告白するためにここにいる訳ではない」
ジャクソン報告書をもとに、大沼教授は、米英仏ソは国際軍事法廷を開くにあたり〈1〉連合国側の過去の行動を問題とさせない〈2〉枢軸国側の正当性の主張を封じる〈3〉四大国の将来の軍事行動などを拘束することを避ける――などの点で一致していたと述べる。
ロンドン会議から五十三年を経過した今年七月、ローマで開かれていた国連外交会議は国際刑事裁判所(ICC)の設立条約案を賛成多数で採択した。ICCは、国際社会に対する重大犯罪にかかわった個人の責任を問う常設国際機関で、条約案では「大量虐殺」「戦争犯罪」「人道に対する罪」「侵略」の四つの行為を犯罪と規定した。
しかし、米国が批准に消極的な姿勢を示しているほか、「侵略」の定義について合意が得られず、侵略戦争の犯罪化には早くも赤ランプがともっている。
「東京裁判は国際政治そのものであり、司法的な取り組みと言えるものではない」。四八年三月、米国務省政策企画室長だったジョージ・ケナンは対日政策を再検討する中で東京裁判をそう論評した。日暮吉延・鹿児島大助教授はその言葉を引いて、「戦争原因をめぐって司法手続きをとることの難しさを鋭く示唆している」と指摘している。(社会部 石井一夫)
[国際軍事裁判所憲章]
東京裁判では先頭に「極東」の文字が付き、全5章17条で構成。第5条で対象犯罪として、侵略戦争遂行の罪に当たる「平和に対する罪」のほか「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」を掲げている。ニュルンベルク裁判の憲章にも同様の規定があるが、「欧州枢軸国側の行為」に限定している。
*◆東京裁判(3)
*◇証拠文書国を挙げて焼却◇
東京・霞が関の内務省庁舎に、各省の官房長らが慌ただしく駆け付けてきた。一九四五年八月十日。ポツダム宣言の受諾に聖断が下って数時間しかたっていない。招集は「戦争終結後の処理方針の検討」のためで、その場で公文書の焼却が決定された。
東京裁判の訴追機関として設置された国際検察局(IPS)は、記録の少なさに悩まされた。千百トンもの公文書類が押収され、「文書裁判」とも称されたニュルンベルク裁判とは対照的で、原因の一つが、各省庁の公文書の一斉焼却にあったことは間違いない。IPSは焼却の実態について調査したが、命令系統の解明にまでは至らなかった。
では、焼却はどのように行われたのか。「そりゃ、官房長会議で考えたんだ。みなさんの意見を私が集約した」。内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった奥野誠亮・衆院議員(85)はこう断言する。
奥野氏によると、ことの発端は、迫水久常・内閣書記官長が「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争終結を強く決意しておられる。ついては、内務省で終戦処理方針をまとめてもらえないか」と言ってきたことだった。
この指示を受けて、奥野氏は軍関係を除く各省の官房長を招集した。主な議題は「軍の物資の処理方法」だったが、終戦後の戦犯問題にも話が及び、「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」という方針も決めた。その際、「文書に残すと問題になる」との配慮から、各地の地方総監へは口頭で伝えることとし、奥野氏ら数人が出向いた。
奥野証言が明かすこうした官房サイドの文書焼却の指示系統は、これまでの戦後史研究でも「ほとんど知られていなかった内容」(吉田裕・一橋大教授)と言う。吉田教授は、公文書焼却をめぐる動きとしてさらに、終戦当時の閣議を指摘する。
「資料は焼いてしまえという方針に従って焼きました。われわれが閣議で決めたことです」「軍あるいは各省関係の書類についても、できるだけ早く焼いてしまえと通達した」。大蔵省が七八年に編集した『聞書戦時財政金融史』で、終戦時の広瀬豊作蔵相はそう語っている。
また、第一復員局(旧陸軍省)の美山要蔵・文書課長は、東京裁判に提出した文書の中で「八月十四日、陸軍大臣の命令により高級副官の名をもって全陸軍部隊に『機密書類は速やかに焼却』すべき旨を指令された」と証言した。
東京都東村山市の「ふるさと歴史館」に「武警兵第号外」「昭和二十年八月十八日」と書かれたB5判の公文書が眠っている。茶色く変色したその文書には「召集、徴兵、点呼関係書類は一切速やかに焼却す」とした東京連隊区司令官(陸軍の地方組織)からの指示が記されている。閣議の焼却命令が、形に表れたものだろう。
一方、外務省も独自に極秘記録の焼却を決めていた。外交史料館に保管されている当時の決裁書類によると、四五年八月七日、松本俊一次官らが決裁した。「外務省記録文書は内容の如何(いかん)を問わずいかなる事態に於(おい)ても之(これ)を第三者の利用に委(い)するが如(ごと)きことあるべからず」としたうえで、速やかに全部焼却するよう求めていた。
「官房長会議ルート」「閣議ルート」「外務省単独ルート」――それぞれに行われた文書焼却。そのため、東京裁判は証拠の多くを宣誓供述書や法廷証言に頼ることになり、一年以内で終わったニュルンベルク裁判に対し、二年半かかった。四八年十月、米国の国家安全保障会議は「東京裁判は早く終了すべきだ」と決議。当初考えられていた二次、三次の裁判は立ち消えとなり、巣鴨のA級戦犯たちは徐々に釈放されていった。(社会部 石井 一夫)
[宣誓供述書]
東京裁判では文書記録が少なかったため、検察側は証人尋問を多用した。しかし、翻訳に膨大な時間がかかるため、検察側は証言内容を前もって文書化した宣誓供述書の採用を提案。弁護側は、法廷証言に代えるには不十分として異議を申し立てたが、裁判所はこれを直接証拠とする裁定を下した。
*◆東京裁判(4)
*◇GHQの目逃れ文書隠匿◇
東京裁判で弁護側の反証が行われていた一九四七年暮れ。自転車の荷台に山のように書類を積み上げ、汗だくになって東京・大塚と本郷の間を何度も往復する男がいた。何時間か前に米国秘密警察の詰問を受け、全神経をすり減らしていた。それでも力を振り絞ってペダルを踏む男が運んでいたのは、GHQが血眼になって探していた日本陸軍の機密文書だった。
戦争中の記録は焼却されたものもあるが、隠匿された文書もあった。焼却が各省で半ば公然と行われたのに対し、隠匿は一部の軍関係者によって進められた。その当事者の一人が東京にいた。
調布市に住む合気道師範、大谷一枝氏(78)。戦時中は中国広西省で歩兵第六十五連隊の曹長だったが、そこで服部卓四郎・元陸軍大佐と出会い、戦後、文書隠匿に関係することになった。
大谷氏がかかわったのは〈1〉「上奏書類」「機密作戦日誌」の複写〈2〉両文書の隠匿〈3〉「大本営陸軍命令」(大陸命)「大本営陸軍指示」(大陸指)の隠匿で、いずれも陸軍の最重要機密文書に関するものだった。服部元大佐の指示で主に大谷氏が動いたという。
同氏によると、「上奏書類」「機密作戦日誌」の複写は、四七年一月から十月まで、東京裁判で東条英機・元首相の主任弁護人を務めていた清瀬一郎弁護士の事務所(紀尾井町)で行った。
両文書は当時、旧陸軍省の第一復員局史実調査部(市ヶ谷)に保管されていたが、同年二月ごろ、「GHQが調べ始めた」との情報が入ったため、ロッカーごとリヤカーに積み、清瀬事務所近くの地下壕(ごう)に移送。その後、大谷氏の実兄宅(鷺宮)とその引っ越し先(大塚)を経て、同年暮れには服部元大佐の知人宅(本郷)に運び込まれた。大塚に置いていた時、米国の秘密警察の詰問を受け、「大慌てで本郷へ移した」という。
一方、「大陸命」「大陸指」は、史実調査部長の宮崎周一・元陸軍中将が千葉・松戸の自宅に隠していたが、四七年四月に服部元大佐がそれを知り、大谷氏らに命じて右翼指導者の自宅(久我山)に搬送。その後、四九年五月に元大佐の借家(世田谷)に移していた。
裁判当時、隠されていた陸軍の資料には、ほかにも「御前会議議事録」などの重要機密文書があるが、『杉山メモ』(参謀本部編)の「資料解説」(稲葉正夫・元中佐)によると、いずれにも服部元大佐が関係していた。
隠匿を指示した服部元大佐はなぜ、機密文書を焼いてしまわなかったのか。
服部元大佐は戦時中、大本営陸軍部の作戦課長を務め、戦後は宮崎元中将の後任として史実調査部長についた。文書隠匿について、大谷氏に「占領されてこういう書類がなくなると、日本の歴史がとだえてしまう」と話していた。五三年にはこれらを駆使して『大東亜戦争全史』を書き上げている。服部元大佐の意図は裁判の証拠隠しよりも、自らの手による歴史の記述にあったと考えられよう。
だが、東京裁判の判決はこう述べた。「書類が裁判所に提出されないように抑えられていることがわかったならば、国際正義にとって、著しい害が加えられたことになる」
実際、国際検察局(IPS)の尋問調書によると、木戸幸一・元内大臣や東条元首相は当初、「四一年十一月五日の御前会議」の存在を隠していた。日米交渉の一方、この会議で開戦が事実上決意されており、会議の内容が知れると、日本側の「追い詰められた戦争」の論理が崩れるためだったとの見方がある。
IPSは、その後の調べで会議の存在を把握したが、機密文書類の欠如は「被告の選定や判決の行方にかなりの影響を及ぼした」(吉田裕・一橋大教授)と言えるだろう。(社会部・石井一夫)
[陸軍機密文書]
「上奏書類」は作戦計画などに関し天皇の了承を仰いだ文書、「機密作戦日誌」は参謀本部と地方部隊などとの電報つづりで、「大陸命」には天皇の命令が記された。「機密戦争日誌」「大本営政府連絡会議審議録」「重要国策決定綴」などもあり、いずれも服部元大佐が隠匿を指示していた。
*◆東京裁判(5)
*◇「天皇擁護」検事が密命◇
一九四八年の元日未明、寝静まった東京・代々木西原町(現・渋谷区西原)の屋敷町。一台の車が滑り込んで来て、宮内省内記部長・松平康昌元公爵邸の近くに停車した。降りてきた男は門へ回るのももどかしかったのか、塀を乗り越えて慌ただしく邸内に入った。男は元陸軍省兵務局長の田中隆吉・元少将。東京裁判のキーナン首席検事(米国代表)の密命を受けて、松平元公爵を連れ出すためにやって来たのだった。
東京裁判では、マッカーサーが占領政策上の配慮などから、早い段階で昭和天皇の不訴追を決定した。しかし、国際検察局(IPS)の被告選定会議でオーストラリアが天皇訴追を提案したほか、その後もソ連や中国の検事が天皇の証人喚問実現に向けて動いていた。
天皇を切り離すことが重要任務のキーナン検事にとって、公判は綱渡りの日々だった。そんな検事が顔色を失ったのは、東条英機・元首相の個人立証が行われていた四七年十二月三十一日の法廷。木戸幸一・元内大臣の弁護士の質問に対し、東条元首相は「日本国の臣民が、陛下のご意思に反してかれこれするというのはあり得ぬことであります」と言い切った。
重大発言だった。東条元首相は宣誓供述書の中で「太平洋戦争は絶対に陛下のご責任ではありません」と述べていたが、証言は「戦争は天皇の意思に従ったものだ」と語ったに等しかった。慌てたキーナン検事は審理が終わると、IPSの協力者だった田中元少将を山中湖から呼び出して策を練り、松平元公爵を担ぎ出すことになった。
松平元公爵の妻の綾子夫人は生前、日債銀総合研究所の多田井喜生社長のインタビューに「田中隆吉さんて方が元日の朝、二時だか三時ごろに塀を乗り越えて訪ねて来られて、なんでも来てくれとかって……。それで暗いうちに出ていったことを覚えているんざんすよ」と語っている。
キーナン検事の秘書だった山崎晴一・元東洋大教授の『天皇戦犯とキーナン工作の秘密』によると、松平元公爵を交えた話し合いで、同検事は、東条元首相に法廷で前言を訂正させることを決め、松平元公爵が巣鴨拘置所の木戸元内大臣を通じて極秘裏に働きかけることになった。
「あれ(田中元少将)は、松平さんの所にも行ったし、僕の所にも来た」。木戸元内大臣の二男で補佐弁護人を務めた孝彦氏(75)は、当時のことをそう述懐する。
同氏によると、田中元少将は「キーナンから頼まれたから何とかしてほしい」と泣き付いてきた。孝彦氏は東条元首相の米国人弁護士に話す一方、東京裁判所の面会所で東条元首相と会ったが、「なかなか、うんと言わなかった」。そのため、木戸元内大臣のほか松平元公爵も面会し、ようやく了承させたのだという。
東条元首相は四八年一月六日の法廷で「(前の証言は)私の国民としての感情を申し上げた。天皇のご責任とは別の問題です」と述べた。
天皇擁護は、米国政府だけでなく、東京裁判の被告たちにも共通の課題だった。そのために、宮中の側近や重臣たちはIPSの尋問に積極的に協力し、松平元公爵らはGHQ幹部らに「接待攻勢」を展開した。ただ、検察側にとっては、「侵略戦争を行った犯罪者」の存在は不可欠であり、そこに位置づけられたのが、陸軍を中心とした軍人グループだったといえる。
「穏健派の天皇や重臣が軍国主義派の一部軍人らに押し切られた」。検察側はこうした構図で十五年戦争の全体像を描いた。しかし、「国家意思決定メカニズムの段階的変動」(安田浩・埼玉大教授)の考え方にたつ最近の一部歴史研究は、軍人グループだけでなく、天皇を輔弼(ほひつ)した各勢力の役割にも注目している。(社会部 石井一夫)
[各被告の量刑]
東京裁判では、判決を受けた25被告のうち、東条元首相ら7人に絞首刑、木戸元内大臣ら16人に終身禁固刑、東郷茂徳・元外相に20年、重光葵・元外相に7年の有期禁固刑が言い渡された。絞首刑の7人のうち、広田弘毅・元首相以外はすべて、陸軍関係者(元大将4人、元中将2人)だった。
*◆東京裁判(6)
*◇「共同謀議」巡り被告対立◇
東京裁判で木戸幸一・元内大臣が毎日のように証言台に立っていた一九四七年十月下旬。被告らを乗せて巣鴨拘置所へ戻るバスの中は険悪な空気に満ちていた。武藤章、佐藤賢了の二人の元陸軍中将が、木戸元内大臣を指さして「この大ばか野郎め」とどなり上げた。橋本欣五郎・元陸軍大佐も「本来なら、こんな奴は絞め上げてくれるのだが」と続いた。A級戦犯だった児玉誉士夫氏は、拘置所で側聞した話として、『芝草はふまれても』にそう記した。
裁判で、被告・弁護側は戦争自体を正当化する「国家弁護」と、個人の関与を否定する「個人弁護」のいずれの方針を採るかで足並みが乱れ、四七年二月から反証が始まると、軍人被告と文官被告の対立がはっきりしてきた。
弁護側の冒頭陳述は、東条英機・元首相の弁護人だった清瀬一郎弁護士が弁護団を代表して朗読したが、重光葵・元外相は「戦争を正当化する陳述には加われない」と不参加を表明した。
さらに同年十月十四日に朗読された木戸元内大臣の宣誓供述書。「私の生涯は軍国主義者と戦うことにささげられてきました」。木戸元内大臣は「内大臣が無罪なら天皇も無罪」との考えに立って徹底した無罪主張を展開し、後に世に知られる『木戸幸一日記』を検察側に提供した。二男の木戸孝彦弁護士(75)は「天皇の平和主義のお気持ちを証明するのに必要と判断して」と振り返るが、日記は軍人被告を追い詰める重要証拠にもなった。
被告間の対立は、同年十二月十七日から始まった東郷茂徳・元外相の反証でより激化した。真珠湾攻撃が事前通告なしに行われた問題をめぐり、岡敬純・元海軍中将が外務省に責任転嫁していたのに対し、東郷元外相は「(四一年十二月初めの)連絡会議で、永野修身・元軍令部総長が『戦争は奇襲でやるのだ』と発言した。余は通告は絶対必要と主張したが、賛成する者はなかった」と述べたのである。
こうした対立の根底には、検察側が訴追にあたって用いた「共同謀議」の概念があった。共同謀議は「違法な目的のために行われた二人以上の合意形成」そのものを犯罪とする英米法特有の法律概念で、その「合意」は必ずしも明示されていなくても、状況証拠で立証すればよいとされる。このため米国では、マフィアなどの犯罪集団や違法な労働運動の取り締まりといった、共通の意思をもって行動する組織の規制に大きな威力を発揮している。
ニュルンベルク裁判では「ゲルマン民族による世界支配」を目的に組織づくりをしたナチス・ドイツの犯罪を裁くための「有力な武器になる」として導入され、そのまま日本にも適用された。
東京裁判で検察側は「被告たちには、東アジア地域などの支配という一貫した目的があった」とし、日中戦争や太平洋戦争の遂行に直接かかわっていなくても、それに至る過程で開かれた一部の会合や政策決定の場に出席しただけで「侵略戦争の共同謀議に加わった」と判断した。
「起訴状を読んだ時、これではいくら何を言っても駄目だと思った」。平沼騏一郎・元首相の補佐弁護人を務めた沢邦夫氏(86)は、そう回想している。
しかし、被告ら全員が戦時中、検察側の描いたような目的を共有して行動したという見方は、その後の歴史研究の中で否定されている。共同謀議の概念はまさに、「証拠不足や人員不足の中で速やかな訴追作業を迫られた検察側にとっては共通の認識道具として絶大な威力を発揮したが、日本の歴史を見るうえではいかにも無理のある枠組み」(日暮吉延・鹿児島大助教授)だったと言えるだろう。(社会部 石井 一夫)
[審理状況]
1946年5月3日に開廷した東京裁判は冒頭手続きのあと、検察側が同6月3日から翌年1月24日まで立証を展開。弁護側の反証は同2月24日から48年1月12日まで。刑の宣告は同11月12日。計4336通の証拠が受理され、419人が証言に立ち、779人の供述書が朗読された。
*◆東京裁判(7)
*◇歴史認識巡り問題提起◇
漫画家小林よしのり氏の『戦争論』が今、売れている。太平洋戦争や日中戦争を描いた歴史漫画で、「戦争は『政策』である」「日本の戦争に正義はあった」といった見方が強調されている。発行元の幻冬舎では「すでに五十万部を突破した」という。
東京裁判の判決が言い渡されてから五十年がたつ。この間、日独両国で国際軍事裁判はどう受けとめられてきたのか。
「東京裁判は復しゅうのための裁判だ」。一九四八年十一月、インド代表のパル判事は、「共同謀議」の概念などをめぐって多数判決に異議を唱え、全被告の無罪を主張する個別意見を提出した。
同様の見方は当時、わが国の学界にもあり、「勝者の裁きか、文明の裁きか」といった議論を引き起こした。だが、五〇年代以降主流となったマルクス主義的な歴史研究は裁判には触れず、どちらかと言えば、その処罰に追随する姿勢を採ったと言える。
ところが、七〇年代には「判決は東アジア地域などの支配目的という、誤った見方で日本の歴史をとらえている」との主張が現れ、「東京裁判史観」という言葉も登場した。裁判が示した歴史構図へのこうした反論が、一部では「大東亜戦争は侵略戦争ではなく、アジア解放のための東亜百年戦争だった」(林房雄『大東亜戦争肯定論』)などの主張と結び付いた。小林氏の『戦争論』はその延長線上にあり、こうした立場で展開されている「東京裁判批判」が教科書の歴史記述問題などにも及んでいる。
一方、ドイツでは今も戦犯捜査が続いており、「ナチス犯罪追跡センター」が国内だけでなく海外逃亡中の容疑者も追跡し、西ドイツは戦後三十年間で約六千四百人を有罪にした。その過程で時効の壁が問題となったが、西ドイツは八〇年にナチス追及の根拠としていた「謀殺罪」の時効を外した。ナチを正当化したり、ニュルンベルク裁判を非難する声は出ていない。
ただ、「永遠に我々は悪者扱いされなければならないのか」との反発が世論の一部にあることも事実だ。
「過去に目を閉ざすものは現在にも盲目になる」と述べた八五年のワイツゼッカー西独大統領の演説に対し、当時のシュトラウス・バイエルン州首相は「ドイツ人が相変わらず世界史の悪者として非難されることにうんざりしている」と反発。八〇年代後半にはベルリン自由大学のノルテ教授が独有力紙で、ナチスの行為はドイツ特有のものではなく、世界の全体主義の流れの中でとらえるべきとの主張を展開した。
これに対し、左派を代表してフランクフルト大学のハーバーマス教授は「ナチスの罪を相対化する危険な意見」と反論した。欧州通貨統合を目前にした現在でも論争の火種は消えていない。
東京裁判研究は七〇年代後半以降、連合国内部文書の発掘などで飛躍的に進み、裁判の政治性や一方的な歴史のとらえ方が浮き彫りになってきた。だが、それは、日本の戦争を肯定、擁護する立場とは一線を画すものだ。
「日本人が戦争に行った際の自己意識の中の『正義』は、今から見れば『泥棒にも三分の理』を多く出るものではなかった」「だからといって、東京裁判が一面的な決め付けを多く含んでいることを否定しうるものではない。『共同謀議』論も『指導者責任』論も、日本政府における意思決定の実際に照らして空虚さを免れない」
五百旗頭(いおきべ)真・神戸大教授は最近、『開戦と終戦』の中でそう表現した。戦後から半世紀たった今日、求められているのは「『一国史観』を超えて、広い国際的相互関係の中で、日本のあの時代を浮かび上がらせること」(五百旗頭教授)だと言えるだろう。(社会部 石井一夫)
[個別意見]
東京裁判の判決は、11か国中7か国の多数派判事が起草した。これに対し、豪代表のウェッブ裁判長は死刑に疑義を示した個別意見を提出。オランダ、フランスの判事は、判決内容に反対する意見書を出した。インドのパル判事は最も強硬な反対論者で、唯一、多数判決に署名すらしなかった。
*◆財閥解体
*◇民主化へ産業支配分散◇
一九四五年八月三十日午後二時五分、夏の日がさす神奈川県の厚木飛行場に、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官がコーンパイプをくわえて降り立った。講和条約が発効する五二年四月まで六年八か月にわたる占領時代の始まりだった。
GHQは四五年九月に「初期の対日方針」を発表すると、十月には「人権確保の五大改革」を指令した。占領政策の第一段階は、非軍事化、民主化といった懲罰的な政策に眼目が置かれていた。
民主化は「日本の産業」も対象にしたが、そこでGHQが進めた一つが財閥の解体だった。「財閥は、過去に戦争の手段として利用されたのであって、これを解体し、産業支配の分散を図ることは平和目的に寄与する」。財閥の調査団長として四六年一月に来日したノースウェスタン大のコーウィン・エドワーズ教授の言葉は、米国が財閥をいかにみていたかを示す。
三井、三菱、住友、安田の四大財閥は、終戦時には計七十九億円と全企業の資本金の四分の一を占める力をもっていた。財閥は一族の出資する持ち株会社を頂点に、子会社、孫会社とピラミッド形に支配する企業集団。解体はトップの持ち株会社が持っている傘下企業の株を放出させ、一般に分散させるものだった。
しかし、敗戦直後の財閥に危機感は薄かった。「平和産業は三井が得手とするところだ。米英のほうの風当たりも悪いことはあるまい」。三井の大番頭と言われた江戸英雄は、『昭和経済史への証言』でそう回顧している。
ところが、GHQの財閥解体方針が伝わり、衝撃が走った。三菱では、当主の岩崎小弥太が「戦争遂行に全力をあげて協力したが、これは国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、省みて何ら恥ずるところはない」と解散を拒んだ。
『三井本社史』によると、三井では住井辰男筆頭常務理事がGHQ経済科学局長のレイモンド・クレーマー大佐と九月二十七日、十月一日、十六日と立て続けに会談した。三回目は東京・三田の「綱町三井倶楽部」で行われたが、クレーマーは「何らの手を打たぬならば、命令をだすだろう」と言い切った。
結局、四大財閥は解散をのんだが、GHQは「解体が不十分」として、さらに四七年七月に「商事会社の解体に関する覚書」を出す。三井物産は約二百社に、三菱商事は百三十九社に分割された。
◇
占領も二年たつと、政策に変化があらわれた。そのきっかけとなったのが、四七年十二月のニューズウィーク誌に載ったジェームズ・カウフマン博士の論文だった。
GHQの政策を「現在、わが国で認められているいかなるものよりもはるかに左寄りの経済理論を押しつけるものだ」と批判した。米ソ冷戦の始まりを強く意識したもので、この結果、米国議会でGHQの経済民主化政策をめぐって大議論が展開された。
そして四八年一月、ケネス・ロイヤル陸軍長官がサンフランシスコで演説する。「今後、極東に脅威をもたらす全体主義の防波堤を築かねばならない」。占領政策は「非軍事化・民主化」から、冷戦を背景とした「経済自立・反共の砦(とりで)」への転換を明確にした。
そうした変化のためだろう、四七年十二月の「過度経済力集中排除法」では三百二十五社が指定されたが、分割されたのは日本製鉄、王子製紙など十一社にとどまった。金融界は手つかずだった。
「温存された銀行を軸に新たな企業集団が形成され、戦後の日本の高度成長を支えた」(柴垣和夫・武蔵大教授)が、いま護送船団方式や横並び体質など「戦後体制」のひずみが噴出している。金融業界などの合併再編劇は、その清算なのかもしれない。(経済部・山根章義)
[対日占領]
ポツダム宣言を受諾した日本は、45年9月2日に降伏文書に調印した。占領政策は11か国(49年以降13か国)で組織された極東委員会で決め、その意を受けたGHQが、東京に置かれた米英中ソの対日理事会に諮問した上で日本政府に指令を出す間接統治の仕組みだった。だが、実態は米国単独占領だった。
*◆ドッジ・ライン
*◇均衡予算でインフレ抑制◇
「日本の経済は竹馬に乗っているようなものだ。一方の脚は米国の援助、他方は国内の補助金でできている。竹馬の脚が長くなれば降りる時に大けがをする。いまこそ脚を短くする時だ」
後年まで語られる「日本経済竹馬論」は一九四九年三月七日、東京・内幸町の放送会館で、GHQの経済顧問ジョセフ・ドッジの記者会見で展開された。
戦争が終わり東京は焼け野原。国民は配給だけでは生活できず、食料品や日用品などを扱うやみ市はごったがえしていた。生産機能の回復が急務だった。政府は四六年十二月、鉄鋼と石炭の生産を重点においた「傾斜生産方式」を打ち出すとともに、復興金融公庫からの融資で産業復興を後押しした。
しかし、一方でインフレが進行した。産業復興資金などがどっと出回ったからだった。東京小売物価指数でみると、三四年から三六年の平均を一とした場合、終戦の四五年には三・一、四九年には二百四十三・四に上昇した。
業を煮やしたGHQは四八年十二月、第二次吉田茂内閣に対し、インフレ収束と経済安定をねらいとする「経済安定九原則」を指令する。そこで登場したのが、デトロイト銀行頭取、全米銀行協会長のドッジだった。
彼は、国家はなるべく介入しない「自由経済論者」だった。戦後日本の経済運営の主導権はGHQの経済科学局が握っており、そこには三〇年代の大恐慌の対策として登場した「ニューディール政策」の信奉者が多かった。言わば「投資優先論」の一団に、戦後の西ドイツ通貨改革を行った「安定政策論」のドッジが飛び込んできた格好だった。
ドッジの視線は、補助金に頼らず、自力で立てる経済体制への編成替えを見据えていた。大恐慌で失業を体験し、銀行の使い走りから頭取となった苦労人で、「節約」「耐乏」をモットーとしていた。ドッジは、ニューディーラーたちに「今の日本政府や占領軍に一番必要なのは、国民に耐乏生活を押しつける勇気だ」と言い切った。
宮沢喜一蔵相は、そのころ大蔵省の事務官だったが、記者会見の数日後にドッジに会うと、「新聞を通じて日本国民にメンタル・マッサージをやったつもりだ」と語っていたと、『東京―ワシントンの密談』で紹介している。耐乏生活を強いるので、国民に心の準備をさせたというのだ。
その言葉通り、ドッジはインフレを抑えるための荒療治を行う。実質赤字だった予算を均衡させるよう政府に指示した。大蔵省の査定室は黒いカーテンが張られ、昼夜なくドッジの査定が続けられた。できた予算は一般、特別会計合わせても赤字を出さず、逆に黒字を生んでそれを復金債などの償還に充当した。また、一ドル=三百六十円の為替レートも設定した。
これら一連の政策、いわゆる「ドッジ・ライン」によってインフレは鎮静化していった。しかし、資金が市中に回らなくなり、中小企業が倒産し失業者が増大することとなった。ドッジ不況だ。
さなかの五〇年六月、朝鮮戦争が起きた。補給基地として日本は「特需」にわき、経済復興の足がかりとした。大蔵省主計局長としてドッジ予算を編成した河野一之氏(91)(さくら銀行名誉顧問)は「ドッジ・ラインを非難する声もあったが、占領下でなければできないような政策を強行したからこそ経済も安定したし、特需にも対応できたんだ」と振り返る。
ドッジ自身の評価はどうだったのか。五一年十一月末の離日の際、「日本は誤れる伝説のペストにかかっている」と批判した。右肩上がりの経済が続くと思い込んでいる危険性を言いたかったのだろう。いま、日本は戦後最悪の不況に苦しんでいる。(経済部・山根章義)
[1ドル=360円の為替レート設定]
ドッジの行った経済安定化策の一つで、49年4月25日に実施された。日本の企業はコスト削減を図るなど国際競争力をつける必要に迫られた。71年8月の「ニクソン・ショック」で主要国は変動相場に移行し、同年12月のスミソニアン協定で、基準相場は1ドル=308円に変更された。
*◆シャウプ勧告(上)
*◇「公平な税制」旗印に◇
戦後日本の税制の基礎となった「シャウプ税制勧告」。その報告書をつくったカール・シャウプ博士はいま九十六歳。米ニューヨークから四百キロほど離れたニューハンプシャー州にある湖畔の町で静かな余生を過ごしていた。
「私は税制勧告が有益になればと望んだし、有益だと証明されたと思っている。実際、四、五十年たった今でもかなりの部分が有効に機能している。日本の発展に、少しでも寄与できたことに満足している」。足は少し不自由だが記憶は鮮明で、自らの仕事を振り返った。
コロンビア大学の教授だったシャウプ博士がきたのは一九四九年五月十日。「ドッジ・ライン」による経済安定策が効果を上げるためには歳入面の整備が必要だ。彼の使命は日本に適した税制を勧告することだった。
「より公平な税制を設けるよう進言したい」。シャウプ税制使節団はそう声明を出すと、すぐに各地を回り始めた。日本の実態に合った税制が何かを知るためだ。大蔵省が用意した税務署での説明会には出ずに、銀座の喫茶店に入ったり、農村に出かけたり、炭坑に潜ったりした。
その年六月十二日午後三時、一行は千葉県本埜村の農民歌人吉植庄亮宅にフォード車で乗り付け、村内を回って農民に尋ねた。
「税は適当と思うか」「いいえ」。「異議申し立てはしたか」「いいえ」。「なぜしないのか」「税務署は独善で聞いてくれないから」。「支出は記帳しているか」「いいえ」。一行を案内した吉植氏は、自ら主宰する短歌誌に博士と農民のやりとりを載せている。シャウプ博士が日本で見たものは、混乱した納税環境だった。
当時の税制は、四〇年の大幅改正で間接税中心から直接税の所得税中心になっていた。直接税と間接税の比率は、三四年から三六年までの平均は35対57だったが、四一年には64対31。戦費調達のため課税最低限が引き下げられ、三九年には百八十八万人だった納税者は、四四年に千二百四十三万人に。国民所得に対する租税負担の割合は、四一年は18%だったのに対し、四四年は25%に達していた。
戦後、政府は歳入不足から徴税を強化したが、ヤミ経済の横行で成果はあがらなかった。また、浦和税務署事件など、税務署員に金を渡して税を減額してもらう事件が多発していた。大蔵省主税局長だった平田敬一郎氏が「狂乱怒濤(どとう)の時代」(『昭和財政史』)と表現したように、公平な課税にはほど遠い現状だった。
精力的な実態調査をへて、わずか四か月後の九月十五日、シャウプ税制勧告の全文が発表された。A5判ほどの大きさ、四巻あわせて約四百ページにもおよび、日本語と英語が併記された。
所得税の最高税率を85%から55%に下げる一方、資産への富裕税を創設する。取引高税(税率1%)を廃止する。国民の勤労意欲を高め、経済活動を活発にしよう――そんな意味が込められていた。また、四〇年の改正まで戦前は間接税中心だったのが、この勧告で直接税中心が確定されたと言えよう。
さらに、徴税の仕組みだけでなく、青色申告制度を提案して納税意識の向上も図ろうとしていたのが、勧告の大きな特徴だった。金子宏・学習院大教授は「税痛感をもちながら納付すると、国民が建設的な意見を政府に対して持つ。だから、単に税制というよりも、納税環境や納税者の意識向上まで広く勧告した。シャウプ博士はこれが民主主義につながると考えていた」と指摘する。
シャウプ勧告の意義は戦後改革にとどまらない。そこには、今日の消費税の萌芽(ほうが)となる概念も展開されていた。(ニューヨーク支局 三浦潤一、経済部 山根章義)
[青色申告]
所得税や法人税を正しく課税するため、シャウプ勧告によって1950年に創設された。個人事業者や法人が対象で、取引内容を正確に記録することが求められている。その代わり、白色申告ともいわれる通常の申告と違い、特別控除など税制上のさまざまな特典が受けられる。
*◆シャウプ勧告(下)
*◇進取の理論「付加価値税」◇
「税を負担することは国を造る、という報告書の意味をもう一度問いたかった」。東京都立川市で税理士事務所を開く井上一郎さん(71)は、一九八五年にカール・シャウプ博士の「税制勧告」の復刻、出版作業にかかわった際の動機をこう語る。四九年九月に発表された報告書は一万部印刷され、国税庁勤務だった井上さんは一セットを入手し、「座右の書」にしてきた。
復刻した当時、政府の税制調査会では、売上税の導入が焦点になっていた。直接税が主体のシャウプ税体系の見直しで、研究者の間でも直接税と間接税の比率の適否などが熱っぽく論議されていた。
その売上税だが、実は源流はシャウプ勧告の付加価値税にあった。シャウプ博士は戦後の地方自治のため、都道府県の独自財源の確保を目的に、勧告にこの税を盛り込んだのだった。
製造―卸―小売りの各段階で、それぞれの企業活動によって生じた付加価値(売上高と原材料費などとの差額)に課税するという仕組み。付加価値をつけた場所で課税するので、税が都道府県に分散するという特徴があった。
「一国の税制として付加価値税という名称で提唱したのはシャウプ博士が最初だった」(柴田弘文・立命館大教授)というように、まさに進取の理論だった。
付加価値税は、五〇年七月に成立した「地方税法」の二三条に盛り込まれた。しかし、企業から反対の声があがった。「赤字でも払わなければならないのか」――実施は延びのびとなり、五四年には廃止となってしまった。
そのころ大蔵省主税局長だった平田敬一郎氏は、後の六五年に開かれた大蔵省広報誌『ファイナンス』の座談会で、「(法案を提出した自治省が)『どういう性格の税ですか。わけがわかりませんが』と相談に来た」「付加価値税を一国の税制でやるということは、当時としては相当勇気がいった。悪口をいえば学者の議論だった」と回顧している。この税の理念、仕組みが、理解されなかったということだろう。
しかし、シャウプ博士の提唱した付加価値税は世界に広がっていった。欧州を見ると、まず五四年にフランスが導入し、六七年には欧州共同体(EC)の共通税へと発展していった。フランスはそれまで取引高税を取り入れていたが、それだと製造―卸―小売りの各段階でそれぞれの業者が売上高に応じて税金を支払うため、重複して課税されてしまう。「付加価値」という概念を導入することで、重複課税を避けられるという利点が着目されたのだ。
日本にこの付加価値税が導入されたのは、八九年四月の竹下登内閣のときの「消費税」だった。それまで二度試みられたが挫折していた。
最初は七九年の大平正芳内閣時代で、赤字国債解消を目的に「一般消費税」導入を公約にして総選挙が繰り広げられたが、自民党は大敗し、特別国会で消費税を導入しないという内容の決議がされた。八七年には中曽根康弘首相が売上税導入を提案したが、廃案に追い込まれた。
大型間接税導入をめぐる「十年戦争」が消費税導入でピリオドが打たれたとき、竹下首相は異例の談話を発表した。「豊かな長寿社会をつくる礎が築かれたことは、まことに意義深い」
シャウプ博士は、消費税論議が繰り広げられていた八八年十月に来日した際、マスコミから感想を求められても「ノーコメント」を通した。「発言の影響力を心配したから」(柴田教授)という。
いま、博士は米ニューハンプシャー州の自宅でこう語る。「過去五十年間で、付加価値税が世界の大部分で導入され、効果的だと証明された。だから、あの税制勧告は歴史的に見て正しかったと思う」(ニューヨーク支局・三浦潤一、経済部・山根章義)
[シャウプ税制使節団]
GHQ内国歳入課のハロルド・モス課長が1948年秋にシャウプ博士に来日を要請。シャウプ博士は49年5月に来て、コロンビア大学のウィリアム・ビクリー教授(ノーベル経済学賞受賞)ら6人と日本で調査した。49年8月に報告書をまとめて帰国。50年7月には実施状況の確認にも来た。
*◆農地改革(上)
*◇戦前の増産政策 原点に◇
農地改革がほぼ終わった一九四九年十一月三十日、東京・永田町の旧参議院議員会館に七人の官僚が集まった。農相を経験した和田博雄氏、農政局長だった山添利作氏、農政課長だった東畑四郎氏……。目的は、極秘の座談会をやるためだった。まだGHQの占領下にあったので、速記録は「相当の期間」、公表しないという約束をしていた。
『農地改革資料集成』に収められている速記録の冒頭を見ると、座談会の趣旨について、旧農林省の外郭団体、農政調査会副会長の田辺勝正氏が記している。「あの敗戦の混乱時に、政府がいち早く第一次農地改革を立案実施しようとした真の意図は何であるか。これを明らかならしめるため開催した」
田辺氏が「第一次」の言葉を使ったように、戦後の農地改革は二段階で進んだ。二次はGHQの指令によるものだったが、一次は日本の独自政策だった。農地改革は明治期から模索されていたのだ。
戦前の農業生産は、不在地主や在村地主のもと、小作制度のうえに成り立っていた。小作料は物納がほとんどで、『農地改革顛末概要』によると、三五年ごろ、小作料は46―50%に及んでいた。農業生産量を上げるため、自作農創設などが求められていた。
そのための第一次農地改革に至る過程について、東畑氏は座談会で、秘話を明かしている。
四五年四月に米軍が沖縄に上陸した際、「アメリカが日本へ来れば、農地改革というような筋は出てこない」と感じたという。米国が資本主義を支える地主の利益に反することはしないという理屈だった。
東畑氏は敗戦を覚悟しただけに、農地改革の早期実現を焦っていた。内務省などに働きかけ、小作農家の負担を減らす小作料の金納制などが政府の次官会議で了承されるところまでこぎつけた。だが閣議で却下された。「終戦処理で閣僚の頭がいっぱいで、他をかえりみる余裕がなかった」と東畑氏は推測している。
戦争が終わり、四五年十月に幣原喜重郎内閣ができると、松村謙三農相はただちに自作農創設を打ち出した。東畑氏は、松村農相から「戦争が終わり思想的に混乱する。この際、農村が赤化しては一大事じゃないか」と聞いたという。そのころ、小作農家が「民主化」闘争を展開させていた。とりわけ、自作農創設政策を聞いた地主が、小作地の取り上げにかかったのが反発を大きくした。全国の争議は一か月に二千件以上起きた。
自作農創設は同十二月、「改正農地調整法」で具体化した。不在地主の田畑所有は認められず、在村地主も五町歩(約五ヘクタール)に制限され、それを超えた土地の自作地化、小作料の金納化が骨子だ。いわゆる第一次改革である。
しかし、GHQの農業担当顧問だったウォルフ・ラデジンスキーは四六年三月十一日の記者会見で、「(第一次は)農地改革の第一歩であり、決して完全なものとはいえない」と見直しを迫った。
その結果が同十月の第二次農地改革だった。ここで在村地主の保有が、さらに一町歩(約一ヘクタール)に限定された。農地の売買などの実務は農地委員会が間に入って進められ、四五年に自作地九割以上の自作農は百七十二万九千戸と全農家の31%だったのが、改革後の五〇年には三百八十二万二千戸と62%になった。
戦後の農地改革は、韓国、フィリピン、インド、バングラデシュなどでも試みられた。しかし、韓国は比較的成功したといわれているが、そのほかは、農地価格が高くてはかばかしく進ちょくしなかった。田中学・東大教授は「社会主義国を除けば、日本は早期でしかも短期に土地を分配できた。というのも、戦前から自作農創設への準備ができていたことと、GHQの後押しがあったからだ」と分析している。(経済部 山根章義)
[農地委員会]
自作農創設を目指し、38年に公布された農地調整法でできた組織。農地改革は、市町村農地委員会が農地の買収、売り渡し計画などを定め、都道府県農地委員会が承認して実施された。市町村委員会の委員は公選で、地主3、自作2、小作5の割合だった。その機能は51年に農業委員会に引き継がれた。
*◆農地改革(下)
*◇大地主解体で平等実現◇
「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿さまに」――民謡の酒田節の一節は、山形県酒田市の地主だった「本間家」が江戸時代の大名より財力があったことを示している。本間家は最も多いころで三千町歩(二千九百七十五ヘクタール)を所有し、小作五千人がいたとも言われる。
それだけに、GHQの民主化政策の標的になった。戦時体制を支えたのが、財閥とともに、本間家のような大地主だと見られていたからだ。
シカゴ・サン紙の特派員だったマーク・ゲイン氏は一九四五年十二月二十五日、米駐屯軍の将校と本間家を訪問した。後に出版した『ニッポン日記』で、日本の農村について「米を基礎にして築かれ、人間の価値はその家系や知能によってではなく、所有する土地の大小によってはかられる」と書いている。
こうしたGHQの視点が四六年の農地改革となり、地主は土地を売却させられていった。本間家は戦前から所有地を小作農家に払い下げていたが、この機会にさらに千六百十五町歩(千六百二ヘクタール)を手放した。残った田地は、本間農場の四町歩(四ヘクタール)という。
農地の解放は五〇年までにほぼ終わるが、この間、不在、在村地主あわせて百八十万人から、全農地のほぼ三分の一にあたる二百万町歩(百九十八万ヘクタール)が四百三十万世帯に売り渡された。
農地の譲渡は、いったん国が地主から買い上げ、それを小作農家に売り渡す形がとられた。旧農林省の資料によると、売り渡し価格は収穫量などによって異なるが、田地一町歩(約一ヘクタール)あたり平均七千六百円で、小作農家は国に対し、低利息での二十四年の年賦払いが認められた。
山形県余目町の農業、池田利吉さん(75)は、その時に自分たちの農地を手に入れた。今も売り渡し書を大事に持っている。
池田さんは二十五歳で農家の養子になった。聞けば、祖父は小作地さえなかった状態から、やっと一・五町歩(約一・五ヘクタール)を借りるまでに汗水流して働いたという。「田んぼを買い、家を建て、土蔵を造るのが夢だった。小作地が自分の家の土地になり、とにかくどの農家より収入を増やそうと頑張った」。池田さんは往時をこう振り返る。
農地改革によって、農村経済は戦前と比べよくなった。一世帯あたりの年間所得でみると、五〇年が二十一万円だったのが、六五年には八十三万円に上がった。小作料の負担がなくなり、農機具への投資も増えた。生産性も旧農林省の統計によると、五〇年―五二年を一〇〇とすると、六五年には一六〇に上昇した。
機械化が進むにつれ、農村人口は減少した。総務庁の産業別就業人口統計で五〇年と六五年を比較すると、農業人口は全体の45%だったのが23%に低下し、対照的に製造業人口は16%から六五年には24%に増加した。農村から流出した労働力が工業地帯を支えた。大内力・東大名誉教授は「高度経済成長は、農地改革がプラスに作用したからといっていい」と総括する。
池田さんは農地を買い求め、現在、三町歩(約三ヘクタール)に広げた。長男の隆さん(48)は後を継ぎながら、八七年から町会議員を務めている。
一方、日本一の地主とうたわれた「本間家」はその後、どうなったのだろうか。農機具の売買などの会社を興し、一時は「本間さまが戻った」と言われるまでになった。しかし、事業が行き詰まり、中核会社の一つだった「本間物産」は九〇年に事実上倒産してしまった。
農地改革の意義を問われて、池田さんは「農地改革がなければ、うちの息子が町議になることもなかった。これが平等になったということだと思う」と語った。(経済部・山根章義)
[不在地主]
地主には不在と在村がいた。不在地主について、第2次改革は、住所のある市町村区域外の小作地の所有者とした。農地改革で、不在地主の小作地すべてと、在村地主の1町歩(約1ヘクタール)を超す小作地が買収された。終戦時、不在地主の所有する小作地は72万町歩(71万4000ヘクタール)で全農地の14%、在村地主の小作地は148万町歩(147万ヘクタール)で29%を占めていた。
*◆非ナチ化
*◇“組織の罪”徹底糾弾◇
第二次大戦の敗戦国ドイツも日本と同様に、占領で戦後体制が始まった。
◇
「朝早く呼び鈴が鳴り、玄関にナチ秘密警察が立っている。もうこんな恐怖を感じなくてすむのね」。妻が就寝前にこう言った。翌朝、実際に呼び鈴が鳴った。入り口に立っていたのは、ナチではなく、米兵だった。米兵は私に言った。「ナチの大物だったあなたを逮捕します」
ドイツの作家エルンスト・フォン・ザロモンが一九五一年に出版した自伝的小説「アンケート用紙」には、作者自身が「非ナチ化」に巻き込まれていく様子が描かれている。
連合国側はヤルタ会談などで、ナチの影響力を一掃するため非ナチ化措置をドイツ占領政策の柱に定めた。ドイツ敗戦直後の六月から、法的手続きなしのナチ指導者逮捕が始まり、七月にはアンケート調査方式による非ナチ化政策の本格的実施が始まる。
調査項目は、党員歴、職歴、学歴、海外滞在歴、財産状態など百三十二項目にわたった。調査用紙は行政機関を通じ、食料の配給券などと引き換えに配られた。占領軍がナチの名簿を押収しており、党員歴の虚偽の回答はすぐにばれた。四六年三月には、十八歳以上のすべてのドイツ国民に回答が義務づけられた。
米国占領地で千三百万人が回答し、そのうち三百五十万件が審理の対象となった。非ナチ化裁判所が各町単位に設置され、最盛期には五百四十五か所にものぼった。
「非ナチ化の立案、組織は米国が行った。英、仏の二国は米国を見習ったに過ぎない」と、非ナチ化や戦後賠償の専門家ルッツ・ニーターマー・イエナ大学教授は言う。「ユダヤ人強制収容所の惨状は、米国人に大きなショックを与えた。そのことが、米国人をおおいに道徳的にした」(ニーターマー教授)。連合軍の占領政策を扱った代表的研究書であるクリストフ・クレスマンの「二様の建国」は、「宣教師的情熱、厳格さが当初の米国の施策を支配していた」と表現している。
米占領地域でナチ組織に何らかのかたちでかかわっていたのは成人の三分の一にのぼった。「ナチの組織員だった、という理由で自動的に罪になる組織犯罪の考え方は、米国の対マフィア法から来ており、欧州の法にはなかった」(ニーターマー教授)。専門家が不足し、重要なものほど審理が後回しになるなどの支障も出た。
非ナチ化は、公職追放の側面も持っていた。ハンナ・アーレント研究所のクレメンス・フォルンハルス研究員は「バイエルン州ウュルツブルクの市役所では、役人の三分の一が追放になった。非ナチ化措置は自治体の行政組織の崩壊につながった」と指摘する。
非ナチ化裁判所の検事がその後被告として有罪判決を受けたり、「非ナチ化証明書」を入手するために買収事件が起きるなど数々の悲喜劇が発生した。非ナチ党員だったザロモンも小説で「非ナチ化はおめでたく、ばかげている」と嘆いている。
処分は最も重い重要犯罪者(西側占領地域全体で千六百六十七人)を含め五段階に分けられ、段階に応じ、強制労働、公職追放、罰金などが科された。しかし、ドイツ人の反発と冷戦激化により、非ナチ化政策は四八年に中断される。処分を受けた人々も次第に恩赦などによって復職した。
米国占領軍が実施した世論調査によると、「ナチは悪い思想」と答えたドイツ国民は四五年から四八年にかけて41%から30%に減少している。「非ナチ化はナチへのドイツ国民の態度に深い影響を与えなかった」と、クレスマンは著書のなかで結論づけている。(ベルリン 三好 範英)
[ソ連占領地域の非ナチ化]
社会主義化の重要な手段として行われ、ナチへの関与よりも、資本家、大土地所有者を追放する措置として進められた。戦争終了直後だけで、12万人から19万人が逮捕された。逮捕者は、ナチがそれまで使用していた強制収容所に入れられ、3分の1が病気などで死亡したといわれる。
*◆ドイツ戦後憲法
*◇統一願って「基本法」◇
ドイツ・バイエルン州にあるキーム湖のヘレンキームゼー島に「古城」と呼ばれる建物がある。ここに、一九四八年八月十日、当時のドイツ州首相、法律専門家ら約四十人が集まった。
この島は、今でこそ夏の観光地として有名だが、当時は電話線が二回線しかない“孤島”だった。しかし、この環境は集中を要する重要会議にとっては好条件だった。議論は会議室、テラスと場所を変えながら続けられ、わずか二週間の集中討議で戦後ドイツの新憲法草案がまとまった。
新憲法制定が日程に上るまで、終戦から三年以上もかかった。冷戦を決定づけたトルーマン・ドクトリン発表が四七年三月。四八年二月―六月と長期にわたったソ連抜きのロンドン会議では、西ドイツ国家をつくる方針が確認され、七月一日に連邦制的国家、民主主義など憲法の基本原則を定めた「フランクフルト文書」がドイツ側に手交される。
「憲法制定が遅れたのは、ドイツが米英仏ソの四か国に分割占領されていたからだ」。ミュンヘンにある現代史研究所のウド・ウェングスト副所長は指摘する。大戦直後からの米ソの対立に加え、ドイツを小国に分割し弱体化を目指すフランスも強硬な立場をとったため、占領軍の最高決定機関「管理委員会」が一致した意思決定を行うことは、事実上不可能だった。
同副所長によれば、ソ連によるベルリン封鎖(四八年六月―四九年五月)が制定への大きな転換点となった。封鎖に対し、米国を中心とした西側連合国は生活物資などをベルリン市民に空輸する「空の架け橋」作戦を実施した。「この封鎖をきっかけに、ドイツ国民にとって、西側連合国は、占領者から共産主義の脅威に対する防衛者に変化した。冷戦の急速な深化により、ドイツの指導者も、西側陣営を安定させる必要を認めたのだった」(ウェングスト氏)。
しかしそれでもドイツ側は憲法制定には難色を示した。憲法制定による西ドイツ発足が、分断国家の容認であることは明らかだったからだ。四八年七月、当時のドイツを代表していた州首相会議で、憲法を「基本法」という名称とし、国民投票ではなく、州議会代表からなる「議会評議会」で憲法を制定することが決定された。憲法を暫定的な性格のものとし、将来の新憲法制定への余地を残したいとのドイツ側の抵抗の表れだった。
州首相会議の場では、占領軍側とドイツ側の激しいやり取りが交わされたが、ドイツ側は占領軍の反対を押し切り、「議会評議会」での「基本法」制定の方針を確認する。
古城での検討後、発表されたヘレンキームゼー草案をもとに、四八年九月一日、ボンに議会評議会が招集された。出席者は各州議会から選出の六十五人の代議員。議長は初代首相コンラート・アデナウアーだった。
米仏がさらに分権的体制を求める一幕もあったが、民主主義、自由主義などの基本原則については草案のままで、「基本法」は四九年五月二十三日に公布された。「当時の支配層は民主主義的憲法に賛成であり、ワイマール民主主義の伝統と同じ考え方をしていた」(同)。将来の統一ドイツの余地が残される限り、ドイツの政治家たちの理念に、米英仏との距離はほとんどなかったのである。
再軍備に道を開いた五六年の改正など、基本法は今に至るまで四十五回の改正を行っている。改正を繰り返す中で、憲法の正当性はむしろ高まったといってよく、「『押し付け憲法』という議論は、五〇年代まであったがその後はない」(同)。そして、ドイツ統一が基本法の旧東独地域への拡大というかたちで成立したことも、基本法の定着を物語っている。(ベルリン・三好範英)
[西独基本法]
基本法は国民投票の規定を持たず、また「民主的基本秩序を侵害する政党の存在を許さない」とする、いわゆる「戦う民主主義」の原則が明示されている。背景には「(大衆民主主義を背景に生まれた)ナチの体験に基づく大衆への不信」(ウェングスト副所長)と、冷戦の深化に伴い強まる共産主義の脅威があった。
*◆日本の賠償(上)
*◇免れた「生産基盤」破壊◇
一九四八年一月十六日、神奈川県・横須賀港から中国船の海康(ハイカン)号が上海に向けて出港した。賠償品搬出の第一陣。旧日本軍工廠(こうしょう)から取り外した小型工作機械四百五十三台を積み込み、ふ頭ではGHQ係官ら立ち会いのもと、引き渡し調印式も行われた。それ以来、五〇年五月まで、機械類約五万台(約一億六千五百万円相当)が中国、フィリピンなどに送られた。
ポツダム宣言には、現金賠償を避けた「公正なる実物賠償」の規定が盛り込まれていた。第一次世界大戦後、過酷な現金賠償をドイツに科し、暴走させたという歴史の教訓が背景にあった。それは「両大戦で犠牲になった幾千万人の死者たちからの厳粛な贈り物」(原朗・東大経済学部教授)でもあった。
しかし、実際の対日賠償要求は当初、かなり厳しい内容だった。ポーレー米大統領特使は四五年十二月の「対日賠償中間報告」で、陸海軍工廠、航空機・軽金属・ベアリング工場のすべて、造船所、火力発電所、鉄鋼・工作機械・硫酸・ソーダ工場のほぼ半数を、賠償としてアジア諸国に搬出する方針を表明した。
報告は「日本の工業設備は、戦争向けに大拡張された。戦災を受けた今日でも、実際には平和時の民間消費を満たす以上の余剰生産力がある」とし、「賠償は、日本の生活水準を下げるものではない」と強調していた。
四六年、この報告を基礎にした極東委員会(連合国の対日占領最高機関)の中間賠償計画に基づき、約千の施設が「賠償工場」に指定された。最新設備を誇る鶴見(神奈川)、尼崎第一(兵庫)など二十の民間火力発電所、日本製鉄(現・新日本製鉄)広畑製鉄所など基幹産業の拠点が含まれ、火力発電所など一部例外を除き、稼働停止・保全管理が命ぜられた。
撤去が実施されれば、三〇年当時の生活水準の確保も困難と見られた。特に火力依存度が相対的に高い四国・中国地方の電力不足が懸念され、造船生産能力は数十年前のレベルへの後退が予測された。
政府は再考を懇願したが、米国は四七年四月、前渡し分として賠償指定施設の30%即時取り立てを決め、翌年には工廠の機械類のアジア地域搬出が始まったのだった。
ただし、これと並行し、米政府は賠償政策の見直しにも着手した。「ポーレーの賠償方針は日本経済の現実を無視した空論で、受領国側の経済効果の面でも疑問が多かった。懲罰の意図もあったと思うが、新憲法公布(四六年)で日本が『無害化』されると、その意味もなくなった」(北岡伸一・東大法学部教授)。
その後の米ソ対立の深刻化、また日本経済の停滞が、米国の負担(戦後五年間で約二十億ドルの援助)としてはね返っていたことも、政策見直しの大きな要因となった。
GHQ最高司令官マッカーサーは四八年三月、来日した米国務省政策企画室長ジョージ・ケナンに「中国やヨーロッパ復興計画に援助する際には、それら諸国に対日賠償請求権を放棄させたらよかろう」(大蔵省財政史室編『昭和財政史』第一巻)と提案した。
四九年五月、極東委員会のマッコイ米代表は、搬出は賠償指定施設の30%で打ち切ると発表、接収はほぼ軍工廠関係だけでおわった。
アメリカは、さらに対日無賠償方針を打ち出したが、フィリピンなど東南アジア諸国に拒否され、解決はサンフランシスコ講和会議後に持ち越された。しかし、占領を脱し、また「朝鮮特需」を契機に復興軌道に乗った日本経済にとって、「賠償」はもはや身をえぐられるような痛みを伴う問題ではなくなっていた。(文化部 天日 隆彦)
[中間賠償]
賠償が講和条約などで正式に決まるまでの間、とりあえず実施される賠償の中間的措置。極東委員会の中間賠償計画では、取り立て後の配分をめぐり米ソの対立が続いた。こう着状態打開のため、米国は、極東委員会の決定を待たずに中間指令権を発動し、賠償施設の30%即時取り立ての手続きをとった。
*◆日本の賠償(下)
*◇「道義的問題」なお消えず◇
一九五二年十月、フィリピンに日本政府在外事務所が開設された。戦争中のフィリピン人犠牲者は百十一万人。マニラ湾には、太平洋戦争中に撃沈された百二十四隻の艦船が放置され、マストが不気味に海面から突き出ていた。日米の激戦で破壊されたマニラの復興は遅れ、フィリピン政府は日本に当初、八十億ドルの賠償を求めた。
初代事務所長の中川融さん(87)(後に外務省アジア局長)が振り返る。「損害規模を考えれば、決してフィリピンの要求は誇大ではなかった。しかし、支払いは到底不可能な額だった」
五一年のサンフランシスコ講和条約の調印国(四十八か国)のうち、米国など四十五か国は米ソ冷戦を背景に対日賠償請求権を放棄したが、フィリピンはインドネシアなどと共に拒否した。そしてフィリピンは現実的な額として十億ドルを提示したが、日本の二億五千万ドルとの隔たりは大きかった。
こう着状態を打開したのは、賠償を通じ日本の技術と東南アジアの資源を結びつける日本側の発想だった。ここで特使としてフィリピン要人と折衝したのが、元衆議院議員の永野護氏(後の日本鉄鋼連盟会長・永野重雄氏の兄)だった。帝国人造絹糸などの取締役を経験していて、吉田茂首相の信頼も厚かった。
永野氏らは、賠償として機械類などの資本財を提供し、一方で経済開発借款を進めることが、経済進出の呼び水になると考えた。日本の先進技術を駆使した鉄、木材などの資源開発も、安価な原材料確保の道と見据えていた。中川さんは「賠償は負の面だけではない。そう思うと、交渉にも張り合いが出た」と回顧する。
続く鳩山一郎内閣は五六年、大蔵省の反対を抑え、賠償額五億五千万ドルの日比賠償協定を締結した。同時に決まった二億五千万ドルの経済開発借款を含め八億ドルを計上することで、フィリピン側のメンツも立てた。
永野氏は「実に有利な話である。五億五〇〇〇万ドルの物資を引き渡すかわりに、二億五〇〇〇万ドルの仕事を日本人に委ねる約束ができたと考えても差支えない」(『アジア問題』五六年七月号)と胸を張った。
フィリピン側の事情は複雑だった。厳しい反日世論を説得し、サンフランシスコ講和会議に代表団を送ったキリノ大統領は、日本軍の銃撃で妻子を失っていた。
「フィリピンが経済的要請から協定を受諾したのは事実であったが、総額には不満であり、受諾は苦渋と無念の思いで決断された」(京都産業大・吉川洋子教授『日比賠償外交交渉の研究』)。
九〇年代以降、外国人の旧日本軍軍属、元従軍慰安婦らが個人として日本に補償、賠償を求める訴訟が相次いでいる。「日本は償っていない」との意識が底流に見られる。「賠償は国家に支払った。個人の請求権は認めない」とする日本政府の「筋論」は、不幸にも「冷たい大国」の印象を増幅した。
東大法学部の大沼保昭教授(国際法)は「個人の戦争被害を一つ一つ算定し、個別に賠償を支払うのは一般的には難しい。そのため相手国に一括して賠償を支払う方法が、第二次大戦後に定着した」と、国の主張する法律論を原則支持した上で、次のように強調する。
「せめて経済大国となった七〇年代の段階で、法的問題とは別に、道義的問題として償いを考えるべきだった。今日でもなおこの点で反対が見られるのは理解に苦しむ」
日本は賠償問題の現実的解決にベストを尽くし、協定を誠実に実行した。しかし、高齢に達したアジアの戦争被害者たちが日本を見つめる目は依然厳しい。(文化部・天日隆彦)
◇
[賠償の変遷] 20世紀初頭まで、賠償は戦争の敗者が勝者に一方的に支払う償いであった。しかし、第1次大戦後、賠償は違法な戦争に対する償い、さらには戦争法規違反(捕虜虐待、占領地での住民殺傷など)に対する補償の意味あいを含むようになり、勝者、敗者が相互に賠償請求権を放棄する事例も増えた。
*◆マーシャル・プラン(上)
*◇欧州の東西分断明確に◇
ソ連の独裁者スターリン(共産党書記長)には、重要な会談を真夜中に行う癖があった。「大国」の力を背景に夜中に突如会談を設定、相手の疲れを誘い、会談の流れを有利に運ぶことが狙いだった。
一九四七年七月十日、モスクワ・クレムリンで行われたチェコスロバキア代表団との会談もまた、真夜中の午前零時半から開始された。だが、スターリンにとってこの会談は、駆け引きを気にしなくてもよかった。会談の結論がすでに見えていたからだ。
会談の出席者は、チェコ側がゴットワルト首相、マサリク外相、ドルティナ内相、一方のソ連側がスターリンと、その腹心のモロトフ外相という顔ぶれだった。
会談では、米国のマーシャル国務長官が一か月前にハーバード大学での演説で発表した「欧州経済復興計画」(マーシャル・プラン)が最大の焦点となった。チェコは七月七日の閣議で、「計画は東西欧州の統合に寄与する」(マサリク外相)としてこの計画の受諾を決定、英仏が呼びかけたパリでの第一回欧州経済復興会議(七月十二日)に参加することも決めていた。この会談でも、非共産党閣僚のマサリク外相が参加の意向を再度、表明した。
しかし、会談が進展するにつれ、チェコ側の態度が否定的になっていった。実は、スターリンは会談に先立ち、チェコ共産党員であるゴットワルト首相と極秘に会談、チェコがマーシャル・プランに参加しないとの言質を取り付けていたのだった。スターリンは、チェコ代表団との会談の前に、会談で手渡されるはずのチェコ大統領からの親書のロシア語訳まで持っていた。
「党の決定が国家の意思に優越する構図がこの時、でき上がってしまった」と、プラハ大学のクラティケ教授は、近年の歴史研究で明らかになってきた両国共産党の極秘会談の重要性を指摘する。チェコの議会制民主主義が大きく揺らぎ出した瞬間だった。
ソ連は当初、マーシャル・プランに関心を示したが、その後、「ソ連・東欧の経済主権を侵害、内政干渉にあたる」として拒否する方針に転じていた。このプランが、東欧をソ連から離脱させるのではないかと恐れたからだ。
だが、共産党主導の強引な方針変更は、本国に混乱をもたらす。
マーシャル・プラン不参加、パリ会議欠席との会談結果を受け、プラハでは、シロキ副首相を中心に緊急閣議が十日午後一時から開かれたが、審議は紛糾した。
非共産党系政党も含む連立内閣では、国民党などがパリ会議参加を強硬に叫んだ。ゴットワルト首相は三回モスクワから電話を入れ、早急に「会議不参加」を政府決定するよう促した。不参加の決定が下ったのは午後八時。スターリンが設定した最終期限の午後四時からは大幅に遅れる結果となった。
外務省への連絡も遅れたため、チェコ交渉団は十一日、パリ入りした。「パリ空港に到着した途端、帰国命令が来た。飛行機でプラハ―パリ間を往復しただけでした」と随行員の一人、元外務省職員のベストリツキーさん(90)は当時を回想する。
マサリク外相はモスクワから帰国した際、「ソ連へは独立した国家の外相として向かったが、今はスターリンの召し使いとして帰ってきた。チェコに未来はない」と失望感を語った。マサリク氏は翌四八年三月、外相官邸の庭で死体で発見される。自殺とされるが、共産党関係者による暗殺説もある。
チェコは当時、国際連合のアンラ援助(UNRRA)を受けていた。国民はこの援助にマーシャル・プランが取って代わり、生活水準が向上すると期待していたが、結局、無駄に終わった。
チェコ共産党は“セミ・クーデター”(四八年二月)などで実権を掌握、マーシャル・プランを契機に欧州は明確に東西に分断された。(プラハ 島崎 雅夫)
[マーシャル・プラン]
米国は48年6月から約4年間で、総額約135億ドル(現在の880億ドルに相当)を西欧諸国に援助した。借款、供与などの資金援助のほか、食料、肥料、工業原材料などの米国製品が西欧に流入した。プラン成立の要因は、「共産主義封じ込め」のトルーマン・ドクトリンに見られるように、欧州での共産勢力伸長の抑止だった。
*◆マーシャル・プラン(下)
*◇西欧、小国主導で結束◇
「欧州(西欧)建設の立役者は、スターリン(ソ連共産党書記長)だ」
欧州議会議員のアントワーネット・スパークさん(70)は、父親の一言が今も心に残っている。
父親は、第二次世界大戦前後、欧州政界で活躍したベルギーの故ポールアンリ・スパーク元首相兼外相。もちろん、この言葉は逆説だ。スターリンが、欧州経済復興計画(マーシャル・プラン)の受け入れを拒否したことで、欧州は東西に分断された。この分断が、西の結束を促すことになったことを指している。
「父は、スターリンの下で主権を制限された東欧と、西欧が対峙(たいじ)して、第三次世界大戦が起こるのではないかと懸念していました」とアントワーネットさん。この危機感とマーシャル・プランが原動力となり、欧州経済は復興に向けて進みはじめた。
経済復興、さらに欧州の戦後体制の大きな柱である欧州統合に、大きな役割を果たしたのが、小国ベルギーだった。
戦後のベルギーの状況は、他の欧州諸国とは大きく異なっていた。重工業など基幹産業への被害が小さく、工業生産では、三八年を一〇〇とすると、終戦直後の四六年には八〇に落ちたものの翌年には一〇二に回復した。
ベルギーはこの経済回復を背景にまず、欧州域内の自由貿易の発展を目指した。すでに戦前から、ルクセンブルクやオランダと通貨協定、関税協定を結んでおり、これが基盤となった。
「ベルギーは、自由貿易こそが、自国の利益になると考えていました。また、マーシャル・プランによって、欧州の大国が小国をのみ込むような形で、欧州の復興がなされることに懸念を抱いていた」とベルギー・ルーバン大学(フランス語系)のグロボア教授(33)は指摘する。ベルギーは、この経済安定によって、援助の主体である米国の信頼も得ていた。
ベルギーは、スパーク首相兼外相と、経済官僚だったスノウ卿の“二人三脚”で、西欧の協力体制確立に大きく貢献した。ルクセンブルク、オランダとの通貨協定、関税協定を発展させて、四八年にはベネルクス関税同盟を発足させ、地域経済の核を築いた。また同年四月、スパーク首相兼外相は、マーシャル・プランの実施計画策定にあたる欧州経済協力機構(OEEC、経済協力開発機構の前身)の理事会議長に就任、スノウ卿が実務面でこれを支え、米国による西欧十六か国への援助計画の具体化に尽力した。
スパーク首相兼外相は理事会議長に就任した際、「欧州の恐怖」と題する演説を行っている。ソ連を信頼できない理由を、ソ連の強圧体制下に置かれた東欧諸国を例に挙げながら、「民主主義欠如の危険性」を指摘、民主主義に基づいた「欧州建設」の必要性を訴えた。
演説が終わった時、聴衆は十数秒間、沈黙。その後、一斉に拍手がわき起こり、マーシャル米国務長官が立ち上がって、握手を求めた。
マーシャル・プランによって、西欧は、急速な経済復興を果たした。戦争終結直後(四六年)の工業生産は、その十年前に比べると、各種工業で50―80%のレベルだったが、五一年に戦前の生産水準に回復、貿易総額はこの間、70%もの伸びを示した。
その後、欧州は、OEECで芽生えた欧州の広域経済統合の理念をもとに、欧州経済共同体(EEC)の前身となる欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)へと発展する。
マーシャル・プランは、東西分断をもたらしたが、同時に、小国ベルギーの奮闘によって、長期的には「欧州統合」への道を開くことになった。
(ブリュッセル 島崎 雅夫)
◇
[ベネルクス三国の役割]
マーシャル・プランでの援助受取額は英、仏、西独、伊の順。オランダを除くと、ベネルクス三国の受取額は小国ゆえに多くなかった。しかし、共同復興計画の策定と援助物資分配の監視を二本柱とするOEECに対し、〈1〉貿易障壁削減による域内貿易の促進〈2〉関税同盟、自由貿易圏の創設――などの導入を働きかけ、欧州経済統合に貢献した。
*◆冷戦思想(1)
*◇「封じ込め」ソ連の自壊待つ◇
元米国務次官補のマーシャル・グリーン氏が昨年六月、心臓発作のため八十二歳で亡くなった。そのニュースを聞いて驚いた。発作で倒れる二時間前、自宅でインタビューしたばかりだったからだ。
取材テーマは、冷戦初期の米国の「ソ連封じ込め戦略」。グリーン氏は、一九四八年、国務省政策企画室長で、この戦略の“原作者”であるジョージ・ケナン(現在九十四歳)に同行して、訪日した。
当時、ケナンは、マーシャル国務長官の要請で、世界地図に冷戦の“設計図”を描いていた最中だった。最優先課題だったマーシャル・プランの立案が終了、次の重要課題である対日政策を練り直すため、連合国最高司令官のマッカーサー元帥と会談するのが訪日の目的だった。
「ところが、マッカーサーは、国務省から横やりが入るのが気に食わない。彼は、まるで我々を敵のスパイのように扱った」と、グリーン氏は話していた。
元帥との会談は平行線をたどったが、すでに冷戦は国家の基本戦略である。元帥の反対は無視され、新対日政策である国家安全保障会議(NSC)文書一三/二がまとまった。公職追放は緩和、財閥解体は中止。いわゆる「逆コース」の始まりである。
だが、「二人は奇妙なところで意見が一致した」とグリーン氏は語った。
日本の「中立化」だ。元帥は日本を「東洋のスイス」にしたいと思っていた。ケナンも、ソ連と交渉して米ソ両軍の日本と朝鮮半島からの撤退を決めたうえで「日本を非武装中立国とすることも可能」と考えていた。
中立日本の発想は、ケナンの描いた「封じ込め戦略」の設計図に、軍事同盟の網でソ連国境を包囲するような計画がなかったことを示している。北大西洋条約機構(NATO)の発足にも反対したケナンは、ソ連の脅威の本質を軍事力でなく、政治的、心理的なものと考えていたからだ。
ケナンによれば、ソ連の拡張主義は、ロシアの伝統的ナショナリズムと共産主義に源泉があり、全体主義的独裁体制を正当化するため、「外の世界を邪悪で敵対的なものに描く必要から生まれたもの」である。
そうであれば、米国がいくら善意を示してもソ連の拡張主義と敵対姿勢を変えることは不可能だ。だから「長期間、忍耐強く確固とした立場でソ連を“封じ込める”」(ケナン、X論文)ことで、ソ連体制が内部崩壊するのを待つしか選択肢はない――というのが封じ込め戦略の根拠だった。
だが、ケナンは、戦争で疲弊したソ連が軍事的冒険を企てているとは考えなかった。ソ連拡張主義の先兵は、各国内の共産主義者であり、戦争の荒廃で自信を失い、経済混乱に陥った欧州と日本への共産主義の浸透こそがソ連の脅威の本質だ、と考えた。
だから、必要なことは軍事対決でなく、欧州と日本の復興を急ぎ、共産主義という“病気”にかからない健康体にすること――とケナンは言う。
しかも、ケナンが主張した封じ込めは、極めて限定的だった。彼は、世界の「力の均衡」に影響を与えるような工業力と軍事力を備えた国は「米、英、ドイツ・中欧地域、ソ連、そして日本の五つしかない」と主張する。米国といえども国力には限界があるから、封じ込めの目的を、「五つの地域が、これ以上ソ連の支配下に入らないようにすること」に限定し、米国の死活的な利害の絡まない地域へは介入すべきでないと主張したのである。
ケナンは、米ソ協調による戦後世界構築を夢想していた米外交政策を批判し、米国に冷戦への舵(かじ)を切らせた中心人物だ。だが、その戦略は、後に展開する膨大な核戦力を背景に世界を二分した米ソ冷戦とは性格が大きく異なっていたのである。(ワシントン 飯山 雅史)
[長文電報とX論文]
ケナンは、1946年2月、合計8000単語に及ぶ異例の長文電報を国務省に送った。第二次大戦後も米ソ協調体制の維持に腐心する米国の対ソ政策を批判し、強硬策への転換を主張した内容で、大きな衝撃を与え、無名の外交官だったケナンを、一躍、冷戦理論の第一人者たらしめた。ケナンは同様の内容を、フォーリン・アフェアーズ誌に著者名Xで発表した。
*◆冷戦思想(2)
*◇米、議会対立収拾し軍拡◇
ルシアス・バトル元駐エジプト米大使(80)は、冷戦が激化した一九四九年、アチソン国務長官の特別顧問に抜擢(ばってき)された。国務省政策企画室の初代室長だったジョージ・ケナン(94)とは、その時からの友人だ。
「アカデミックなジョージは、国務省の中ではいつもどこか孤独だったし、浮世離れしたところもあったね」
精緻(せいち)な「ソ連封じ込め理論」を構築して、初期の冷戦政策を立案したケナンだが、現実の政策遂行には議会を説得して予算を獲得しなくてはならない。「そのためには(ソ連の脅威を誇張するなど)議会を少しばかり脅かさなくてはならなかったが、ジョージはそういうのは嫌いだった」とバトル氏は回想する。
ケナンはトルーマン・ドクトリン(四七年三月)にも、苦々しい気持ちを抱いていた。
ドクトリン発表の前年には、20%減税と政府支出大幅削減を公約にした共和党が中間選挙で大勝し、十六年ぶりに上下両院を制覇した。国民は大戦中に膨張した政府の縮小を求め、再び孤立主義が広がっていた。
こうした中、四七年二月、経済危機に陥ったイギリスから、ギリシャとトルコの共産化阻止のための軍事援助肩代わりを求める緊急要請がワシントンに舞い込んだのである。
ソ連との協調政策に終止符を打ち始めていたトルーマン政権は、援助肩代わりに異存はない。だが、イギリスは翌月には援助を中止するという。短期間で予算の議会承認を受けるのは至難の業だ。
あたふたと議会の根回しを始めたアチソン国務次官(当時)に対し、上院国際関係委員会の長老、バンデンバーグ委員長(共和党)は、「国民が援助の必要性を納得するような演説を大統領自身が行うこと」を援助予算同意の条件としてあげた。
これを受けて、国務省は、国民に「電撃的衝撃」(国務省文書)を与える演説を作成することを決意する。
世界を自由主義(善)と全体主義(悪)に二分して、冷戦開始の号砲を鳴らしたトルーマン演説(ドクトリン)は、こうして生まれた。
それは「主に国内世論を対象にした」(ジョン・ルイス・ガディス・エール大学教授)ものだった。ケナンは議会対策という政治性の強いこの宣言に強い嫌悪を示した。
火ぶたが切られた冷戦は、瞬く間に世界に広がっていく。ソ連はベルリンを封鎖し、核実験に成功した。中国では共産主義革命が起きた。共和党からは、「中国をソ連に奪われた」として民主党政権の責任追及の声がわき起こった。トルーマン政権は、冷戦政策立て直しのために、後に冷戦の基本哲学となる国家安全保障会議(NSC)文書六八の作成に乗り出した。
五〇年四月に完成したNSC六八は、「ソ連が約二百発の核爆弾を生産する一九五四年」に米ソ戦争勃発(ぼっぱつ)の危険性があると強い警鐘を鳴らし、米国の大軍拡を訴えた。限定的な政治対決を目指したケナンの封じ込め戦略はすでに説得力を失い、冷戦は全世界を舞台にした米ソ超大国の軍事対決色に染まったのである。
だが、NSC六八の危機感に満ちた表現の背景には、国防費拡大を求める国内政治の力学が深く忍び込んでいる。
当時、孤立主義的な共和党保守派と緊縮財政派のルイス・ジョンソン国防長官が国防費増額に激しく抵抗していたので、「(危機感をあおることで)大統領が(新しい戦略を)決断し、実行できる環境を作り出す」(アチソン国務長官)必要があったからである。大戦終了時(四五年)に八百十六億ドルだった国防費は、二年後に百三十一億ドルと約六分の一に削られていた。
米国の冷戦政策は、ソ連の現実の脅威に対抗する一方で、国内の複雑な政治力学の産物でもあったのである。(ワシントン 飯山 雅史)
[国家安全保障会議(NSC)]
米国でトルーマン・ドクトリンが発表された後の47年7月に発足した大統領直属の組織。大統領が議長となり、副大統領、国務、国防長官らがメンバーとなり安全保障に関する国防、外交、内政問題を総合調整する。トルーマン時代にはNSC68だけでなく、NSC13(対日政策)など、連番の文書で冷戦政策のガイドラインをまとめた。
*◆冷戦思想(3)
*◇ソ連、西側の影響徹底排除◇
「戦争が終わり、ドイツで捕虜になっていた兵士たちが戻ってきた。汽車が駅に着くというので、町の人たちと迎えに行った。ところが、だれも降りて来なかった。汽車は少し止まっただけで、東へ向けて立ち去った。窓越しに見た兵隊たちは汚れて、疲れ切っていた……」
ゴルバチョフ元ソ連大統領顧問アレクサンドル・ヤコブレフ氏(75)は、半世紀前の故郷ヤロスラブリで見た光景を、こう述懐する。当時、多くのソ連兵捕虜がシベリアへ送られた。「正確な数はわからない。おそらく万の単位だろう」と同氏は語る。
なぜ、こんなことが起こったのか
。
その背景を、ロシア史研究所のウラジーミル・ネベージン研究員(46)は、次のように説明する――
「スターリンは外来の考え方を極度に警戒した。社会主義を転覆させはしないかと恐れていた。捕虜になった兵士たちも外国を見た者たちだ。社会主義を捨てて反ソ活動をするのでは、との疑念を抱いた。捕虜の家族も厳重に調べられ、調べられた者の大半がシベリアの強制収容所へ送られた」
イデオロギーとは、世の中を「どう見るか」という世界観・思想のことだ。そしてソ連では、ただ一つ「社会主義の思想」しか許されなかった。イデオロギー闘争とは、その「社会主義を守る闘い」だった。
ソ連は、もともとロシア革命で資本主義を転覆して誕生した国家。従って、資本主義との敵対関係は、ソ連体制にとって必然的に内在されており、その基礎ですらある。ところが、この大前提が第二次大戦で大きくゆがんだ。同じ同盟国として米英と軍事協力が成立したことで、ソ連国内にも「西側との協力は可能」との“幻想”が芽生えて来たからだ。
スターリンが最も恐れたのは、その幻想が「現実になること」だった。その「恐怖」を脱するには、外国からの思想流入を阻止することが必要だった。戦後の西側との協力はもはや、ソ連にとって有害になった。冷戦を進めねばならない理由もここにあったし、国民を冷戦に慣れさせる準備が、為政者に求められていた。
ネベージン氏によると、スターリンがイデオロギー闘争の準備に入るのは意外と早い。
戦争終結前の四四年十月には、党機関紙に西側への「文化攻勢開始を指示する」論文が発表され、四五年一月、ヤルタでの米英ソ三首脳会談を控えて、スターリンは「われわれは今、資本主義の民主派と組んではいるが、将来は彼らと戦うことになる」と、ディミトロフ「コミンテルン」(共産主義インターナショナル)元議長に語っている。
対独戦勝利が決まった四五年五月には、戦後ソ連の文化政策を仕切ったアンドレイ・ジダーノフ(共産党書記)が「ソ連思想の宣伝強化」を訴える論文を発表し、米英ソ三国の協調を象徴するポツダム会談(同年七月)を前にして、西側への「思想」対決姿勢をはっきりさせている。
東西冷戦が始まる前、こうしてソ連国内では、西側に対する警戒心がスターリンの指図で喧伝(けんでん)され、西側に触れた者たちの「社会主義への忠誠心を疑う」キャンペーンが始まった。捕虜になったソ連兵たちは、その格好の対象にされたのだ。
終戦直後にジダーノフの音頭で始まったイデオロギー闘争は、公式に「西側の影響を排除する闘争」と呼ばれている。
その思想闘争は、まず大衆の「思想引き締め」を行って国民を「社会主義思想で武装した」うえで、やがて始まる冷戦に対するスターリンの周到な準備でもあったのだ。(モスクワ 熊田全宏)
[アンドレイ・ジダーノフ]
ソ連共産党「イデオロギー」問題指導者(1896―1948)。哲学・文学・芸術などあらゆる文化・思想問題を担当、一時はスターリンの後継者と目された。「冷戦」初期のソ連思想界を支配し、その資本主義・社会主義「二極陣営」論は有名。米国を「反動勢力の牙城(がじょう)」、マーシャル・プランを「米帝国主義の拡張政策」と非難して、西側への思想闘争の必要を強調した。
*◆冷戦思想(4)
*◇政権維持へ宗教、流言弾圧◇
モスクワの常駐特派員をしていた七〇年代初め、復活祭の時期に市内にあるロシア正教会の教会を訪ねたことがある。
教会の周辺には赤い腕章を付けた若者たちが集まり、教会へ入ろうとする市民を呼び止めては乱暴な口調で、教会に来た理由を質(ただ)していた。その質問攻めを振り切り中に入ると、教会内は立錐(りっすい)の余地もない人込みだった。
教会を囲んでいた若者は、コムソモール(共産青年同盟)のメンバーたち。政府・共産党によるイデオロギー闘争の一環として、教会へ通う人々を「宗教から離反させる」のが、彼らに課された義務だった。
ソ連憲法は、信教の自由を保障していたが、それはあくまで紙の上だけだった。スターリン時代には多数の宗教関係者が逮捕、国外追放された。非スターリン政策を進めたフルシチョフ時代でも、一万以上の教会が破壊されたという。
共産党幹部にとって、宗教は人心を惑わせる危険思想であり、冷戦時代のイデオロギー闘争でも“主要敵”であり続けた。
思想統制の対象は、体系だった思想や宗教だけではなかった。町のうわさも摘発の標的になった。それが顕著になったのは第二次大戦直後だった。
大戦直後の社会事情を調べているロシア史研究所のエレーナ・ズプコワ女史(39)は、最近の論文「スターリンと世論」の中で、戦後のイデオロギー闘争を「国民を操る心理作戦」と分析したうえで、大戦直後の状況をこう記している。
「対独戦争に勝利して、人々は社会の変化を求めた。こうした雰囲気を反映して、全国にさまざまなうわさが流れた。例えば、対独戦勝利後の四五年七月には、農村にコルホーズ(集団農場)解体説が流れ、都市では共産党の解散説までがささやかれた」
このため、一部の集団農場では、恒例の「収穫目標・超過達成の誓い」が署名を拒否された。また「政府にコルホーズ解体の委員会が設置された」とのうわさが伝わる一方、「スターリンがそんなことをするはずがない」との否定説も流れ、農民に動揺が広がった。また、チャーチル元英首相の「鉄のカーテン」演説(四六年三月)の際には、戦争が再び起きるとのうわさが広まって、物価が数倍跳ね上がるなどの事態となった。
ソ連政府にとって、これらの流言は、体制を動揺させる一種の“危険思想”だった。政府は、流言の土壌となる、国民各層の変化への期待を封じる必要があった。
第二次大戦直後のイデオロギー闘争は、こうした状況下で始まった。
「うわさを流した犯人は摘発されねばならない。流言飛語は外部の敵の仕業とされていたから、犯人はまず、外国あるいは外国人と接触のある者、外国を知る知識人らに求められ、次々と異端者が作り出された」とズプコワ女史は言う。
この仕組みこそ、まさにイデオロギー闘争を支える構造だった。加えて「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」の情報操作、西側への警戒心を煽(あお)る「思想」宣伝、社会主義の「国定」思想を疑う「怪しい者」の取り締まり――その弾圧と強権発動が厳しければ厳しいほど、政権もまた安定した。
スターリン死後、西側との「平和共存」が声高に唱えられながら、イデオロギー闘争が密度を濃くして遂行されたのも、政権維持に有効だったためだ。
◇
ソ連崩壊から七年。モスクワでは今、至るところで教会が修復されている。照明を受け夜空に映える教会群は、かつて若者たちが展開した反宗教闘争の「虚(むな)しさ」を、改めて象徴している。(モスクワ 熊田 全宏)
[平和共存と思想闘争]
「平和共存」は、ロシア革命後に社会主義と資本主義が「共存可能」として、レーニンが使った言葉。フルシチョフ時代に再び唱えられ、「社会主義の優位を確信して資本主義を思想的に超える」ことが、思想闘争の目標とされた。しかし社会主義と資本主義はもともと両立し難い立場。西側社会との共存を唱える陰で、国内では厳しい反西側の「思想引き締め」が実行された。
*◆東独成立(上)
*◇「民主」装い共産主義工作◇
その時、ソ連軍はベルリンで、ナチス・ドイツ軍との最後の攻防戦を展開していた。
一九四五年四月三十日午前七時。モスクワ郊外の飛行場から、後の東独国家評議会議長ウァルター・ウルブリヒトをキャップに、ドイツ共産党の工作員十人を乗せた飛行機が、ドイツ・ポーランド国境を目指し飛び立った。途中でソ連軍の車両に乗り換え、五月一日にベルリン郊外の村ブルッフミューレに入る。
「二週間で計二十のベルリンの区すべての行政組織を再建しなければならない」。到着早々、ウルブリヒトは工作員たちにこう指令した。「区長は共産主義者である必要はないが、警察組織再建のため信頼できる党員を探せ」。そしてこうも付け加えた。「外見は民主的に、しかし我々がすべてを握らねばならない」
この「ウルブリヒト・グループ」の最年少工作員として、当時二十五歳のウォルフガング・レオンハルト氏がいた。
ドイツ・ラインラントプファルツ州にある自宅書斎で、レオンハルト氏は苦難に満ちた若き日々の記憶を語った。壁一面の書棚には共産主義に関する膨大な文献が並ぶ。
同氏はドイツ共産党員だった母親に連れられ、十三歳の時モスクワに亡命した。母親がソ連の収容所に入れられたり、友人が粛清されるなどの体験をしたものの、コミンテルン学校などに通い若き共産主義者として成長していく。
モスクワで「自由ドイツ」のアナウンサーとして対独宣伝工作に従事していた四五年四月中旬、編集局長のアントン・アッカーマン(社会主義統一党政治局員候補となったが、五三年失脚、後自殺)から「君はドイツに戻ることになった」と突然命令を受ける。
「何をするのか全くわからなかった。ウルブリヒトだけが我々の任務を知っていた」
工作員の奔走で、後に東独領土となるソ連占領地域で、ソ連軍司令部は着々と地ならしを進めて行った。ドイツ共産党は四五年六月十一日に正式に活動を再開する。
しかし、共産党は結成宣言で社会主義という言葉は一切使わず、「議会制民主主義共和国」を目標に掲げ私的企業活動の自由も認めていた。「プロレタリア独裁、マルクス……そうした言葉は当時一切演説に出てこなかった」とレオンハルト氏は回想する。
ウルリヒ・メーラート連邦政治教育センター研究員(東独史)は「スターリンはドイツ分断を望んでいなかった。ドイツの大半が西側に属してしまい、賠償も獲得できなくなることを恐れたからだ。五〇年代初めまでは自国の安全保障が確保できれば、東独は手放してもいいとすら考えていた」とその背景を説明する。
共産党の権力独占は進む。四六年四月、ソ連占領軍の圧力下、共産党と社民党(SPD)が合同し社会主義統一党(SED)が発足。当初、指導部は両党同数とするなど対等合併の形を取ったが、その後二十万人もの社民党員が逮捕、追放となり、さらに四百人以上が殺害され、四九年までに事実上の一党独裁が完成する。
SEDのスターリン主義路線に次第に失望の念を深めていたレオンハルト氏は、四八年六月にコミンフォルムから除名されたユーゴ共産党の資料を持っていたため査問を受け、それをきっかけに四九年三月、西独に亡命した。
ソ連のドイツ中立化の試みは、五二年三月のスターリンによる統一ドイツ中立化案、いわゆる「スターリン・ノート」提案まで続く。しかしこの提案は、コンラート・アデナウアー西独首相によりはっきり拒否され挫折する。五五年、ソ連は東独の完全主権を認める条約に応じ、二国家論の立場に転換した。これで東独は暫定的性格を脱したが、それはまた、ドイツ分断の完成も意味した。(ベルリン 三好 範英)
[スターリン・ノート]
アデナウアーの拒否の理由は、中立ドイツでの共産党の影響力増大は必至と判断したこと、ソ連との関係強化は西側諸国に猜疑(さいぎ)心を呼び起こす懸念があったから――などとされている。メーラート研究員は、「スターリンの対独方針は、ドイツ統一といいながら、一方で、ドイツの非共産党系政党を弾圧するなど矛盾しており、結果的にドイツ分断を促進した」と指摘する。
*◆東独成立(下)
*一九六〇年初夏。旧東独ブランデンブルク州の小村シュモルデの農民アルバート・コボウさんのもとに、ベルリンの人民軍スポーツ協会から、馬術教師として採用したいとの連絡が舞い込んだ。
七月末、コボウさんは弟と二人で、約百二十キロ離れたベルリンに向かった。待ちに待っていたベルリン行きのチャンスだった。ベルリンの壁ができる一年前。東ベルリンに出られれば、西ベルリンへの脱出はまだ容易だった。ベルリンで両親と合流、コボウさんは十七世紀以来の先祖伝来の土地を捨て「他人の財産をかすめとる共産主義者の国」からの脱出を果たした。
この脱出の背景には、社会主義建設の柱の一つとなった農業集団化があった。
第二次大戦終結当時、シュモルデは戸数三十三戸の小さな農村だった。戦後、収穫物の自由売買は許されなくなったが、まだ土地も家畜も私有だった。しかし、五二年、農業集団化が開始される。
「農業機械は取り上げられ、所定の場所に集められた。農業生産協同組合(LPG)に加わらない農家は機械の貸し出しを断られたり、子供に高等教育の機会が与えられないなど様々な嫌がらせを受けた」。現在六十四歳のコボウさんは、ドイツ統一後に取り戻したシュモルデの自宅で、述懐した。
「旧東独の農業集団化は二つの波があった」とポツダム現代史研究センターのアルント・バウアーケンパー研究員(東独史)は言う。
第一の波は、ソ連をモデルにした「社会主義の基礎建設」をうたった五二年七月の社会主義統一党(SED)第二回党協議会に基づく。しかしこの集団化は、五三年の労働者暴動「六月十七日事件」で挫折、当局は集団化を一時棚上げにした。その後、国民の生活水準も徐々に向上、五九年の逃亡者数は四九年以来最低の十四万三千九百十七人にとどまった。
しかし、一層徹底した集団化の第二の波はその年にやってきた。党内基盤を固め自信を持ったウルブリヒトSED第一書記は、一挙に社会主義建設の完成を目指した。
「ソ連の人類初の人工衛星『スプートニク』打ち上げに象徴されるように、五〇年代後半の社会主義陣営には、社会主義的技術で何でもできるという大いなる楽観主義があった」。バウアーケンパー研究員は時代背景を説明する。「集団化の目標を達成するため、専門の党員が組織されて村々を回った。抵抗する農民は逮捕され、名指しのビラを配られた」。五九年48・2%だった農業集団化率は、六〇年92・4%に跳ね上がる。
五二〜五三年にシュモルデ村では四家族、六〇年には五家族が西側に逃亡した。その所有していた農地などはLPGに吸収された。馬場も所有して乗馬に親しんでいたコボウさんにとって「愛馬を手放すことが一番つらかった」という。
集団化は手工業や小売業の分野でも進められた。この結果、六〇年の逃亡者数は十九万九千百八十八人だったのが、六一年七月一か月間だけで三万四百十五人、そして八月の最初の二週間だけで、四万七千四百三十三人と加速度的に上昇した。しかもその大半は青年壮年層だった。貴重な労働力の流出を放置することは、東独経済そのものを崩壊させかねなかった。
八月十三日日曜日未明、東独政府は東西ベルリン境界で交通遮断措置を取り、「壁」の建設を開始する。
壁構築により、労働力を囲い込むことに成功した東独当局は、社会主義建設の足がかりを得た。しかしそれは不満層や反体制派を体制内に取り込む必要が増したことも意味した。その後、東独社会は国家公安局(シュタジ)のスパイ網が張り巡らされた密告社会の様相を強めていった。(ベルリン 三好 範英)
[ベルリンの壁]
西ベルリンを、東ベルリンと周辺のブランデンブルク州から隔てるため全長155キロにわたり建設された。逃亡者増大に危機感を抱くウルブリヒトが、消極的だったソ連当局を説得して、建設承認を取り付けた。建設の実質的責任者はホネッカー治安担当政治局員(後の国家評議会議長)。市民団体の調べでは、「壁」を越えようとして殺害された市民は89年までに239人に上った。
*◆東西分断
*奇妙な光景だった。
壮麗な大聖堂の周辺に、醜悪なコンクリートのアパート群が雑然と並び、中世の教会は雑居ビルに埋もれていた。アパートの設計者が過去の文化遺産に何の敬意も払わなかったことが一目でうかがい知れた。
「無理もない。ドイツ人の街を、ポーランド人が勝手に作り替えたのですから」。数少ないドイツ系住民のアルフォンス・ボベクさん(70)は、静かに語る。
ポーランド西端、オーデル川河口のシチェチン。バルト海に臨む旧ハンザ同盟都市は、第二次世界大戦まで北ドイツの港湾都市として栄えた。ロシア女帝エカテリーナも、この市のドイツ貴族の娘ゾフィーとして生まれた。
戦後の欧州新秩序構築の中で、最大の人的犠牲を出したのが、ドイツ、ポーランド、ソ連の国境画定だ。対独戦で二千万人の死者を出したソ連は、緩衝地帯を求め、大戦中の米英との話し合いで、対ポーランド国境をブク川まで西に移動させ、その代償として、ドイツ領のオーデル、ナイセ川以東及びシチェチンをポーランドに割譲することを提案した。
その結果、第二次大戦後にドイツは、東プロイセン(現ロシア、ポーランド領)やシレジア(現ポーランド領シロンスク)など、伝統的ドイツ領を失うことになった。またポーランドの国境も二百キロ以上、西に移動した。
この地図の塗り替えは、大規模な悲劇を伴った。
ドイツ政府の統計では、新国境以東の旧ドイツ領や東欧各国に住んでいたドイツ人は、終戦時一千六百五十五万人。このうち一千百七十三万人が追放され、現在のドイツ領内に逃げ込んだ。しかし、強制移住・追放の過程で、二百十万人が死亡、または行方不明となった。住み慣れた土地を追放されたドイツ人は、着のみ着のままほうり出され、移動中に、復しゅう心に燃える現地住民や赤軍兵士に、リンチ、レイプ、略奪を受けた。
英国の哲学者バートランド・ラッセルは、この事態に対し、「虐殺が平和の名のもとに起こっている」と警告したが、国際政治が東西冷戦に向かう中、「鉄のカーテン」の向こう側で進行した惨劇を国際社会は黙認した。
ドイツ名シュテッティンだった港町シチェチンからも、ドイツ人が逃げ出した。人口三十万人の九割以上が追放され、代わりに、ソ連領となった旧ポーランド領からポーランド人が大量に移り住んできた。再建を担うポーランドの新統治者たちは、なりふり構わず新住居を築き、ハンザ同盟の古都は、社会主義プロレタリアートの生活空間に変ぼうしていった。
戦後欧州では、中東欧八か国で共産政権が誕生した。これがどこまでスターリンのシナリオ通りだったかは議論が分かれるが、米国の駐ポーランド大使も務めた歴史家、トーマス・サイモン氏は「ソ連は安全保障上、ポーランドとルーマニアを共産化する意図があった」と指摘する。両国では早くからソ連人顧問が軍、治安当局を抑え、弱体だった地元共産主義者をもり立て、ドイツ人追放と反対派弾圧を同時進行させ、新国家の土台を作った。シチェチンで起こったエスニック・クレンジング(民族浄化)、新都市建設は、両国全土で繰り返され、やがて中東欧全域に浸透する。
戦後処理に伴う悲劇は日本人引き揚げ者にも起こった。だがドイツ人が失った東方領は、哲学者カント(ケーニヒスベルク)、ヒンデンブルク元独大統領(ポズナニ)らを生んだ歴史的ドイツ文化圏だっただけに、引き揚げ者の故郷喪失は深い恨みを残した。
ポーランドには八十万人のドイツ人が残ったと推計されるが、彼らが少数民族としての権利を主張し始めたのは、八九年の共産政権崩壊後だ。戦後の同化政策の中で、ドイツ語を話すボベクさんの世代は死滅しつつある。
戦後処理と東西冷戦は、一民族の遺産を乱暴に壊してしまった。(シチェチン 伊熊幹雄)
[ドイツの東方領]
13世紀のドイツ騎士団による東方植民以後、現在のロシアからルーマニアにかけての地域に、ドイツ人の入植が続き、今世紀まで、ドイツ語、ドイツ文化を守りつづけた。ドイツ少数民族の存在は、ナチスの東方進出の根拠となり、各国内ドイツ人もその先兵役となった。
*◆国際連合創設(上)
*◇大前提に大国の「拒否権」◇
国際連合の創設(四五年)は、第二次大戦を通じ圧倒的な超大国にのし上がった米国の主導で進められた。その陣頭に立ったのはフランクリン・D・ルーズベルト大統領(在任三三―四五年)である。
四一年八月、ルーズベルトは大西洋上で英国のチャーチル首相と初会談を行い、侵略国の武装解除など戦後世界の指導原則を定めた「大西洋憲章」を発表した。これは、米国がハーディング、クーリッジ、フーバーと続いた孤立主義の政権から決別、ウッドロー・ウィルソン大統領(在任一三―二一年)以来の「国際主義」外交に再び乗り出す出発点となった。ルーズベルトはしかし、戦後世界の秩序形成のための「国際組織」にはいっさい言及しなかった。
ルーズベルトの頭にあったのは、第一次大戦後、ウィルソン大統領主唱の国際連盟が米上院の承認拒否で失敗に帰したことだ。「孤立主義の影がまだ濃い時期で、米国民の猛反発を食いかねないとの懸念が大統領にあり、慎重にならざるを得なかった」と歴史家のスティーブン・シュレシンガー氏は語る。
しかし一方でルーズベルトは、後に国連憲章となる青写真作成を国務省にひそかに命じ、国務省は四一年末に立案に着手する。米国はこの年の十二月に日独と開戦、時は急を告げていた。四二年一月、枢軸国と戦う米英、ソ連、中国など二十六か国代表はワシントンで「連合国による宣言」を発表、結束維持を表明した。この時、「連合国」を表現するのに使用されたのが、現在、国際連合と訳されている「ユナイテッド・ネイションズ」だ。最初にこの言葉を思いついたのがルーズベルトだと言われる。
歴史家ロバート・ディバイン氏の著書「セカンドチャンス」によると、この言葉がひらめいたルーズベルトは同意を求めるため急いでホワイトハウスに泊まっていたチャーチル首相の部屋にかけこんだ。その時、チャーチルは風呂(ふろ)を浴びていた。四一年末のことだ。「チャーチルは素っ裸でごらんのように隠すものは何もありませんと大統領に言って同意を与えた」(シュレシンガー氏)という。
このころから、ルーズベルトには「同盟主要国である米国、英国、ソ連、中国の四大国で世界の平和を維持しようとする『四警察官構想』があった」と元国務省高官のジェームズ・サタライン氏(エール大国連研究所)は指摘する。後にフランスが加わり五大国は安全保障理事会で拒否権を持つことになるが、現在に至るまで国連が大国主導で動いてきた原型がここにあった。
拒否権構想について、シュレシンガー氏は「国際連盟は約五十か国の執行評議会(国連安保理に相当)メンバー国がすべて拒否権を持ち何事も決まらなかった。この教訓が、限られた大国だけに拒否権を付与しなければならないという米国の強い信念につながった。新しい国連は、強制力というキバを持つ必要があった」と分析する。
国務省の立案作業にあたり、ルーズベルトは二つの原則を厳守した。ひとつは立案作業に米上院の代表を入れること、いまひとつは大戦終了前に国際組織を創設することだった。「国際連盟が上院に葬られた経験があったため、特に共和党議員の取り込みが必要だった。また戦後では各国の平和創設の熱意が失われるのではと心配したため」(シュレシンガー氏)だった。
カイロ、テヘランで四三年十一月に行われた首脳会談で四大国の意見調整が行われたが、間もなく、安保理の拒否権などをめぐって米英とソ連の対立が表面化する。中東欧に対する影響力拡大を図るソ連と米英などの不信感は、同盟の衣をまといながらも次第に膨らんでいった。(ニューヨーク 寺田 正臣)
[5大国]
米英ソは当初から確定していたが、ソ連は中国を加えることに難色を示した。しかし米国は、日本対策の意味合いと、白人支配に対する非白人諸国の懸念に配慮して中国の参加を主張、ソ連を説得した。国力が疲弊していたフランスは当初、「大国」とはみなされなかったが米英の後押しで44年末に参加が確定した。
*◆国際連合創設(下)
*◇現実政治の「力」を体現◇
四四年八月から十月にかけ、ワシントン郊外ダンバートン・オークスで米英中ソの四大国代表による会議が開かれた。米国はこの席で総会、安保理、国際司法裁判所、事務局を柱とする現在の国連の枠組みを規定した提案を行った。しかし、安保理での拒否権や総会議席数をめぐりソ連と米英との対立が噴き出した。
拒否権については「拒否権保有国が紛争の当事者であった場合、その国は拒否権を行使できない」との米英提案に対しソ連が猛反発した。後に外相となるソ連首席代表、アンドレイ・グロムイコ駐米大使は「ソ連邦を構成する十五共和国すべてに総会議席を与えることを要求する」との爆弾発言を行った。ソ連邦全体の一議席を加えソ連は計十六議席を要求したことになる。
歴史家ロバート・ヒルダーブランド著「ダンバートン・オークス」は、ソ連は戦後世界での孤立化を懸念して多議席確保を狙ったと指摘する。ルーズベルトはこの要求に「マイ・ゴッド」と叫んで仰天、「外部に漏れたら国連構想自体が崩れる」と深刻な危機感を示したという。これは米外交団の間で「X事項」として極秘扱いされることになる。
会議終了後、ほぼ米国案に沿った形で新しい国際組織「国際連合」の形態が発表されたが、拒否権と総会議席については首脳同士の政治決着に任されることになった。結局、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三首脳によるヤルタ会談(四五年二月)で〈1〉紛争当事国でも拒否権が行使できる〈2〉ソ連にはウクライナと白ロシアを加え計三議席を与える――との妥協が成立した。国連創設を決めたサンフランシスコ会議(四五年四月―六月)に米国代表団の記録係として同席したローレンス・フィンケルシュタイン氏(73)は「米ソとも大国として拒否権がどうしても必要だった。この点については基本的相違はなかった。だから妥協が成ったのだ」と言う。
もっとも、フランスを含めた五大国の拒否権については、サンフランシスコ会議で、オーストラリア、オランダ、中南米諸国などが強く反発した。ソ連も「投票だけでなく討議を行うかどうかについても拒否権が行使されるべし」と主張したが、結局、米国などの説得で譲歩することになる。元国務省高官のジェームズ・サタライン氏は「国連創設の最大ポイントは、五大国以外の加盟国が、安全保障問題で拒否権を持つ五大国の決定に従わざるを得ないことになり、自国の主権の一部を放棄することになったことだ」と指摘する。大国主導の体制がここにできあがった。
サンフランシスコ会議の雰囲気についてフィンケルシュタイン氏は「戦争終結が見えており、大いなる楽観主義に包まれていた」と述懐する。それは米国の圧倒的な力を背景にしていた。歴史家スティーブン・シュレシンガー氏によると、米国はほとんどの国の代表団と本国との電報のやりとりを盗聴しており、会議を自分のペースで運ぶことができたという。また、「米国はオーストラリアなど戦争で疲弊した多くの国にサンフランシスコ行きの軍用機まで提供した」と同氏は語る。
ルーズベルト大統領はこの会議が始まる二週間前に死去したが、大統領の理念を強く反映した国連憲章は六月二十五日に全会一致で採択された。
四四年末まで国務長官を務めたコーデル・ハルは「国連創設は真の文明社会に向け人類が築いた偉大なる一里塚」と絶賛した。しかしシュレシンガー氏は「国連は民主主義ではなく力そのものを体現した組織。だからこそ現在まで生き残れた」と言い切る。
理想主義ではなくリアルポリティック(現実政治)に根ざした国連の実態は、今もまったく変わっていない。(ニューヨーク・寺田正臣)
[国連機構]
安保理は当初、11理事国(5大国を含む7か国の賛成で可決)で構成されたが、65年に現在の15理事国(可決必要数9)に改正された。サンフランシスコ会議では軍事行動には総会の同意を必要とすべきとの意見もあったが、大国に押され総会の権限は「勧告」にとどまった。国連発足時点の加盟国は51国。現在の加盟国数は185か国。
*◆米統治下の沖縄
*◇共産勢力への戦略拠点化◇
一九五二年四月二十八日、沖縄が日本から切り離された。この日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本本土は連合国の占領から主権を回復したが、沖縄は引き続き米国の占領下に置かれた。
沖縄は終戦直後の四五年から五年間は米軍、五〇年から七二年の復帰までは米民政府(USCAR)によって統治された。この時期は、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、アジアでも東西冷戦が深刻化した時代だった。米国は沖縄を西側陣営の最前線と位置づけ、住民から土地を強制収用して次々と基地を建設していった。
五八年五月、米統合参謀本部のナサン・トワイニング議長が、ニール・マッケロイ国防長官に送った「沖縄の戦略的重要性」と題されたメモは、沖縄に基地を持つ意味を、露骨かつ明確に記している。
「ソ連、中国、その他極東の共産勢力に対し、原爆も含む攻撃が必要となる世界戦争などが起きた場合、(沖縄の)基地から作戦を支障なく遂行できることが不可欠である」
こうした考え方は、そのまま基地建設に反映された。六二年前半に沖縄に配備された核搭載の中距離弾道ミサイル(IRBM)の「メースB」はその象徴の一つだ。
メースBは、射程約二千二百キロ。中国本土と朝鮮半島全域をカバーし、爆発力は広島原爆級の二十キロ・トンとされた。当時、米国は核兵器開発でソ連に後れをとっていた。焦る米軍はわずか半年間で、八つの発射口を持つ巨大な発射基地を沖縄本島の四か所に建設し、核弾頭も持ち込んだ。
メースB配備に伴う沖縄への核持ち込み方針は、六一年一月のワシントン発の外電などで事前に漏れ、沖縄だけでなく日本国内でも反発が高まる。当時の小坂善太郎外相は国会答弁で「沖縄は日米安保条約の適用区域に入らず、メースB配備は日米間の事前協議の対象とならない」(三月二十二日)とかわしていた。
同年十一月四日朝、小坂は箱根で、来日したディーン・ラスク米国務長官にこう訴える。「事前公表がなければ、日本政府にとって問題は減ります。(核兵器)持ち込みの後の公表なら、それは既成事実となります」
この問題でラスクはその後、東京の米大使館にこう連絡した。「日本政府には秘密裏に事前通報するが、一方的な通報は政府をかえって窮地に追い込み、有害な場合もある。通報しないことも賢いオプションかもしれない」
これらの事実を分析した琉球大の我部政明教授は、「メースB問題は、それ以降の核持ち込みをめぐる日米間の暗黙の手順のパターンを作った。通報がないことが、事実がないこととは言い切れない」と指摘する。
沖縄住民は、こうした核問題に強く反発し、米軍の強制土地収用にも多くが“島ぐるみ闘争”で抵抗した。さらに、B52戦略爆撃機の墜落(六八年)、猛毒神経ガス一万三千トン貯蔵の発覚(六九年)などが続き、反米運動は激化した。
一方、この時代の沖縄は、経済復興の面でも、本土とは別の運命をたどった。
米政府は基地建設でばく大な資金を投下、経済は活性化したが、建設を急いだために、物資の供給が間に合わず、物資の大半を日本本土から輸入した。日本経済が大量生産の輸出型で高度成長を遂げたのとは正反対だった。琉球銀行前常任監査役・牧野浩隆氏(現副知事)は、「沖縄経済は宿命的に基地収入に依存したうえ、資材調達を輸入に頼ったため、製造業も育たなかった」と、今日に至る依存型経済の影響を指摘する。
多くの沖縄住民にとって、本土と沖縄との戦後の運命をわけた四月二十八日は、米統治期間中、「日本復帰を願う象徴的な日」(我部教授)であった。(政治部那覇駐在・飯塚恵子)
[米統治下の「日の丸」]
沖縄の米軍、米民政府は、政府の建物や公の広場などでの日の丸掲揚を原則的に禁止、代わりに「琉球の旗」を制定しようとした。しかし、住民は復帰運動と反米のシンボルとして日の丸掲揚運動を展開した。教員出身の屋良朝苗(後に初代知事)は、本土の日教組教研集会に出席、「日の丸掲揚運動は、異民族支配下に置かれ、そこからの脱却を願うものの叫びだ」と訴えた。
*◆沖縄本土復帰
*◇日本側がギリギリの譲歩◇
一九六五年八月十九日、佐藤栄作は日本の首相として戦後初めて沖縄を訪問した。快晴の那覇空港に降り立った佐藤は、帽子を大きく振ってあいさつ、空港で一語一語をかみしめるように演説を始めた。
「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって『戦後』が終わっていないことをよく承知しております」
米統治下で“動かない島”と見られていた沖縄の早期返還を目指す突然の声明は、日本中を驚かせた。外務当局ですら青天のへきれきだった。沖縄では、待ち焦がれた本土復帰を喜ぶ人々が沿道を埋め尽くし、万歳を連呼して佐藤を迎えた。
しかし、米国はその一か月前、ベトナム戦争への本格介入を始めたばかりだった。このため、日米間で返還交渉が具体化するまでに、声明から二年以上の歳月がかかった。
沖縄では、六八年十一月、琉球政府初の主席公選が行われ、教員出身で革新系の屋良朝苗(当時65歳)が当選した。返還交渉の断片を、日本政府から折々伝えられた屋良は「本土復帰=基地撤去にはならない。交渉はむしろ県民意思と逆に向かっている」ことを感じ取る。実直で酒が飲めず、思い悩むタイプの屋良は、眉間(みけん)の縦じわが次第に深まり、それがトレードマークとなった。
六九年十一月二十一日、佐藤・ニクソン両首脳会談後の日米共同宣言で、沖縄の「七二年返還、核抜き、本土並み」の三本柱がうたわれ、最大の焦点だった沖縄からの核撤去の合意が発表された。
しかし、その舞台裏は、二十五年後の九四年五月、佐藤の密使としてヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官と極秘に交渉を続けた若泉敬・元京都産業大教授(故人)によって暴露される。
若泉の著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」によれば、日米間には「核抜き・本土並み」返還の実現と引き換えに、米軍部が主張していた緊急時の沖縄への核兵器再持ち込みと、繊維輸出問題に関する日本側の譲歩を約束する密約があった。
著者はその意味について「自国の生き残りを米国の核の傘に求めている敗戦国・日本としては、緊急不可避の非常危機事態が生起した場合、自国の生存と安全のためにもこの文書が必要となるかもしれない。それがそもそも日米安保条約の存在理由ではないか」と記している。
当時の屋良は無論、密約など知る由もないが、記者会見では、佐藤への感謝の気持ちと葛藤(かっとう)しながら、「共同宣言に完全に核無しが明記されなかったのは、有事核持ち込みというまやかしだ。新たな苦難の出発点だ」と述べ、沖縄側の不満を表明した。
国会でも、野党が沖縄返還協定の批准に強く反発した。七一年十一月十七日、自民党は衆院沖縄特別委で強行採決を断行、国会は大混乱に陥った。
その日の午後、佐藤は、当時沖縄復帰担当だった山中貞則総務長官(77)と、二人きりで首相官邸の執務室にいた。佐藤と向かい合っていた山中氏は、突然佐藤のほおを一粒の涙がこぼれ落ちるのを見る。
「僕は、沖縄県民のために良いことをしていると思っているんだが……悪いことをしているんだろうか」
敗戦国・日本に対し、米国は、自分のペースで返還交渉を進め、最終的に何も失わなかった。一方、佐藤、屋良ら日本側関係者は、思うに任せないギリギリの展開にそれぞれの立場で煩悶(はんもん)し、「戦後」と戦った。
沖縄は七二年五月十五日に日本に復帰した。同年、沖縄では「核も基地もない全面返還」を求める大衆運動が高まったが、復帰の日、屋良は万感こめて「民族的願望がついに達成した」と記した。(政治部那覇駐在 飯塚 恵子)
[核抜き・本土並み]
米政府は核撤去の象徴として、時代遅れになった中距離弾道ミサイル「メースB」を復帰前の69年までに撤去、その作業の模様を大々的にマスコミに公開した。本土並みとは、日米安保条約の本土並みの適用をさす。沖縄には本土にない戦略飛行連隊などの特殊部隊があり、その処遇が問題となったが、結局は返還後の活動を事前協議で規制すれば本土並みになるとして、個々の存続を判断しなかった。
*◆欲望消費社会(1)
*◇「米国式」世界へ広がる◇
米ニューヨーク市クィーンズ地区。初夏の休日、フラッシング・メドウ・コロナ公園は、日光浴をし、アイスクリームスタンドに並ぶ人たちでいっぱいだった。今世紀初め、ここが広大なごみ捨て用沼地だったとは、緑あふれる今の光景からは想像できない。
作家スコット・フィツジェラルドは一九二五年の小説『グレート・ギャツビー』で「ここはいわば灰の谷」と描写した。
モノクロ映画がカラーに変わるように、「灰の谷」に未来都市が出現する。三九年四月三十日、この地でニューヨーク万国博覧会が開幕した。会場中央には高さ二百十メートルの塔と直径六十メートルの球からなる真っ白なモニュメントが立ち、赤、黄、青に塗られた通りが続いた。
「この万博は未来のショーケースだった。大企業がこぞって、大量消費を是認するアメリカ型生活を宣伝したのです」と、ニューヨーク市立大学ハンターカレッジのスチュアート・ユーウェン教授(54)(メディア論)は話す。
産業社会化を背景に十九世紀半ばから欧米で盛んに万博が開かれたが、このニューヨーク博の特徴はライフスタイルを前面に打ち出し、民間企業主導だった点にある。消費財の生産で急成長した企業がインダストリアルデザイナーを動員し、「明日の世界」を視覚化した。
ゼネラル・モーターズ(GM)社は、高速道路にミニチュアの車が行き交う未来都市の模型を作った。デュポン社はナイロンストッキングを披露した。ウェスティングハウス社は「電気は時間を節約する」と掲げ、家電を使う「モダン夫人」と手仕事の「あくせく夫人」の食器洗い競争を見せた。同社が五千年後に向けて埋めたタイムカプセルには、聖書やドル札とともに、ミッキーマウスのカップやシアーズ社の通信販売カタログなどが収められた。
十九世紀末からアメリカは大衆消費社会に突入する。大量生産の進展、交通網の発達、広告・宣伝の広がりなどが背景にはある。
「イギリスのように植民地という市場を持たないアメリカでは、国内市場の拡大が急務となり、そのための手法が生まれた」と、麗沢大の大橋照枝教授(マーケティング論)は指摘する。一九〇〇年代から各地の大学がマーケティング講座を設け、GM社は二一年に消費者の欲求を調べる心理調査課を作った。
新たに国内市場を担ったのは、急増する海外からの移民だった。一八八〇―一九〇〇年は九百万人だったのが、一九〇〇―二〇年には千四百万人に達した。移民たちは産業を支える労働力であると同時に、大量生産品を買う消費者になる。異なる生活文化を背負ってきた人も同じ商品を買い、同じ目標を持つことで均質化される。これが「移民のアメリカ化」だった。
近隣の商店で必要なものだけを買う代わりに、目の前に並ぶ多くの商品から選ぶことの快楽を人々は知った。十九世紀のパリに出現したデパートという形態はニューヨークやシカゴなど大都市で隆盛した。二九年の大恐慌後、より安い商品が求められ、セルフサービス方式の大規模なスーパーマーケットも各地に広がる。三六年にはショッピングカートも考案された。
大恐慌の後、企業は巻き返しを図ろうとする。万博に先立つ三七年、主要企業で作る経済団体NAM(全国製造業者協会)は、こんな看板を立ててキャンペーンを始めた。「世界最高の生活水準」「アメリカンウエー(方式)のほかにウエー(道)はない」
ユーウェン教授は言う。「アメリカ的な生活様式の宣伝は、ファシズムや共産主義に対する政治的なプロパガンダであると同時に、ニューディールによる公共事業の広がりに、民間企業が強い危機感を覚えた結果でもある」
企業の思惑をはらんだ壮大なニューヨーク博の会期途中、三九年九月に第二次大戦が突発する。そして、この戦争を境にして、「“市民”に代えて“消費者”を生んだ」(ユーウェン教授)アメリカ型の生活様式が、日本を含む世界各地に広がることになる。 ◇米ソ 熾烈な「イメージ戦争」◇
一九四五年一月、フィリピンのミンドロ島で従軍中、米軍に捕らえられた作家大岡昇平は、帰国後その体験を『俘虜(ふりょ)記』にまとめた。捕虜収容所での生活も、細かく描写されている。
「煙草(たばこ)が何よりの贈物(おくりもの)であった。(中略)ラッキイ・ストライク、キャメル等の綺麗(きれい)な包装が、五個ずつ二段に並んだ眺めは悪くなかった。石鹸(せっけん)はLuxという化粧石鹸であった」
食事には、ビスケットやコーヒー、コンビーフが登場する。米兵はタイムやライフなどの雑誌、探偵小説を貸してくれた。「雑誌類を通じてアメリカ的豪奢(ごうしゃ)がまた私の生活を侵し始めた」
生と死のあわいをくぐり抜け、突然「アメリカ的豪奢」に触れた大岡の感慨と戸惑いは、そのまま、戦後、占領下に暮らした多くの日本人の心情にもつながる。
武蔵野美術大の柏木博教授(デザイン史)はこう言う。
「米軍は戦地や占領地に、食品や日用品をすべて現物で持ち込むことによって、アメリカ型のライフスタイルを世界各地に広げた。十九世紀の帝国主義が領土で世界を支配することだったとすれば、二十世紀のアメリカはモノとイメージで世界を一元化しようとした、と言えるのではないか」
五九年七月、ニクソン米副大統領はソ連を訪問し、フルシチョフ首相らと首脳会談を行った。この訪問は、モスクワで開幕したアメリカ博覧会に合わせたものだった。会場で、二人はこんな舌戦を繰り広げる。
フルシチョフ「あと七年で、私たちはアメリカと同じレベルに達します。追い越す時は手を振ってあげましょう」
ニクソン「ロケットの打ち上げでは、あなた方は先を行っているかもしれないが、カラーテレビについては、私たちが先んじてますよ」
会場に飾られた最新型の洗濯機の前に来て、ニクソンはこう言う。「アメリカでは、女性たちを楽にするためにこういうものを作っているんです」。フルシチョフは一言、「資本主義者の態度だね」と切り返す。
当時の「ニューズウィーク」誌はこのやりとりを報じる特集記事に、「小さなコミュニストにロリーポップを」とニクソン夫人が子供たちに棒つきキャンデーを渡す写真を添えた。
核の力を背景にした米ソのイデオロギー対立という冷戦構造の底流で、実は「豊かなくらし」をめぐるイメージ戦が熾烈(しれつ)に繰り広げられていたことを、この論争は端的にあらわしている。
「社会主義国は最後まで、新たな社会に見合った生活様式のイメージ、未来の夢を描けなかった。そこにイデオロギーの敗北の一因もあったのではないか」と柏木教授は言う。
とはいえ、アメリカはこのイメージ戦において最終的に勝利したのだろうか。六〇年代にアメリカ国内から広がったカウンターカルチャーの潮流は、プラスチックや化学繊維を生み出した大量消費型の社会へ異議を申し立て、綿のTシャツやジーンズに象徴されるように自然志向のライフスタイルを示した。さらに、「移民のアメリカ化」を企図した一元的な生活様式ではなく、民族や人種などの多様性こそに価値を認める生活文化が広がりつつある。
さらに、皮肉なことに東西対立の終えんと相前後する八〇年代後半から、地球環境問題の深刻化が叫ばれ、アメリカが世界に誇示してきた大量生産・大量消費社会のあり方は、根底から問い直されることになる。
欲望を肯定し、欲望によって突き動かされてきたこの世紀が終わる今、「消費者」が市民へと立ち戻り、新たな「ライフスタイルの夢」をどう描くかが問われている。(生活情報部 福士 千恵子)
[台所論争]
ニクソンとフルシチョフが資本主義国と社会主義国の生活水準を巡って行った論争は、アメリカ博会場のモデルキッチンで行われたことから、こう呼ばれた。会場でのやり取りは米企業が開発したばかりのビデオで録画され、アメリカ本国でテレビ放映された。舌ぽうの鋭さを目の当たりにし、ニクソン人気が高まったと言われる。
*◆欲望消費社会(2)
*◇「隣人と同じ幸せ」追求◇
ヒット曲『ストレンジャー』で知られるポップス歌手、ビリー・ジョエルの父親は、ドイツ生まれのユダヤ人だった。ダッハウの収容所を生き延びアメリカへ。ニューヨーク市ブロンクスで家庭を持ち、一九四九年にビリーが生まれて、一家は引っ越す。市の中心部から四十キロ離れたレヴィットタウンという町だ。
四七年から五一年にかけて、ロングアイランドの真ん中のジャガイモ畑をつぶして、一万七千五百戸の建売住宅が建設された。リビングルーム、台所、寝室二室で計六十平方メートル余り。テレビと洗濯機は作りつけだった。平均年収三千ドルの当時に、約八千ドルという価格。頭金五十八ドルでローンが組めた。
開発者のウィリアム・レヴィットは「規格化」によって住宅建設の速度を飛躍的に高め、五〇年には『タイム』誌の表紙を飾った。レヴィットの方法は、ヘンリー・フォードが今世紀初頭に確立した自動車の大量生産の住宅版だ。木材や石こうボードなどの加工材料を現地で組み立てる。同じ形の住宅が一日に三十六戸も建設された。
第二次大戦が終わり、戦地から続々と兵士たちが帰国して、家庭を持つ。住宅の建設は急務となり、復員軍人向けに低金利の住宅ローンも整備された。米統計局の調べでは、四五年に年間三十三万戸だった全米の住宅着工数は、四六年には三倍の百万、五〇年には二百万戸近くに達する。
インスタント・サバーブ――即席の郊外という呼び名が広がった。住民は小さな子供のいる夫婦が中心で、夫たちは鉄道や自動車で都市に通勤する。「大量生産」の住宅に住む中産階級の家族が、五〇年代の好景気の波に乗って「大量消費」の担い手になり、均質の幸福感を味わった。
しかし、郊外のライフスタイルは「陳腐」だとからかわれ、郊外化批判も展開された。社会批評家のルイス・マンフォードは『歴史の中の都市』(六一年)で、「同じテレビ番組を見て、同じ冷蔵庫から同じ味気ない冷凍食品を出して食べ……低レベルの同じ環境から、もはや逃げ出すことはできない」と手厳しく表現した。また、社会学者のチャールズ・ライト・ミルズは『ホワイト・カラー』(五一年)で、「時間やエネルギーだけでなく個性をも売っている」と批判した。
「同じであることの不安」がひそかに郊外を覆っていった。夫が仕事に行き、妻と子供は規格化された住宅に取り残された。後に女性運動のリーダーとなるベティ・フリーダンは『女らしさの神話』(六三年)で「(郊外生活の主婦たちは)寝床を片付け、食料品を買いに出かけ、子供の世話をし、夜、夫の傍らに横になる時も、『これでおしまい?』と自分に問うのをこわがっていた」と書いた。フェミニズムや若者の反抗は、郊外から発した。
「人間が移動をし生まれた場所で死ななくなったこと、コミュニティーを離れて家族を再生産せざるを得なくなったことが、ライフスタイルや家族のあり方を大きく変えた」。「新人類」「第四山の手」などの言葉を生んだ『アクロス』誌元編集長の三浦展氏は郊外化をこう分析する。
周囲と同じ幸せを求める志向は、日本では高度経済成長期に強まり、日本型のマイホーム主義を生み出した。五〇年代のアメリカの姿は、七〇年代から八〇年代にかけての日本に重なる。「郊外は地域社会から切り離されてきた。共同性の欠如、均質性の支配など、郊外の生活のある種の貧しさは解消されてはいない」と三浦氏は言う。
現在のレヴィットタウンも、郊外の中産階級の住宅地であることに変わりない。だが五十年たって、もともとの住民は高齢になり、若い世代も移り住んできている。かつて「隣人と同じであることの幸せ」を求めた街のたたずまいも一色ではなくなった。(生活情報部 福士千恵子)
[サバービア]
郊外を意味する英語のサバーブから発した言葉で、郊外という場所、居住者、生活様式など幅広い意味で使われる。しかし、50年代から60年代の郊外批判とともに、からかいや軽べつのニュアンスを持つようになる。「スラム」と「サバーブ」を合わせた「スラーブ」などの言葉も生まれた。
*◆欲望消費社会(3)
*◇家にあふれる新製品◇
大阪の下町にある2Kの「文化住宅」。四人家族が暮らす二十四平方メートルの借家で、生活用品を数えたら七百品目あった。一方、埼玉の新興住宅地にある5DK(百二十平方メートル)の家庭では九百品目。一九七五年、民間シンクタンクの商品科学研究所(現セゾン総合研究所)とCDIが行った「生活財生態学」の調査結果だ。
ダイニングセットやカラーテレビなど大型の耐久消費財は共通していた。保有品目の主な違いは、来客用の食器類などの接客用品と、宝石類や正装服、趣味の道具などの社交用品の有無だった。
調査では百四十家庭を対象にしたが、生活財の平均保有数は八百二十一品目だった。CDI代表取締役の疋田正博氏(55)は「生活財には、その家特有のスタイルがあるという仮説に基づいて調査したが、差があったのは社交用品と接客用品だけだった」と、その画一性を指摘する。
報告書は「現代の家庭はモノであふれている」「家庭の景観は著しく整合性を欠いている」と語った。七輪や三味線など使用頻度が低いものも大事にされていた。
この日本の八百二十一品目は、七七年にヨーロッパの主要三都市で行った調査と比べると百五十品目多かった。そして、生活財は年を経るにつれ増えていった。八二年の調査では千二百十九品目、九二年は千六百四十三品目を数えた。
例えば男性用の靴を取っても、それまでは通勤用と家でちょっと履くサンダルぐらいだったのが、カジュアルシューズ、運動靴、ブーツ、レインシューズなど目的に応じて細分化し、保有品目が膨らんでいった。
五九年公開の映画『お早よう』(小津安二郎監督)に、こんな場面がある。
東京郊外の住宅地、小中学生の兄弟がテレビを両親にねだり、口をきかない戦術を取る。ところが、隣家の主人が定年後に家電のセールスマンとなり、父親が「仕事初めのお祝いに」と、白黒テレビを買うと、兄弟は大喜び。「勉強しないと、返しちゃうぞ」と父に言われ、兄は机に向かったが、弟はうれしさの余りフラフープを回しだす。近くの家も月賦で電気洗濯機を購入した。
人々は新しいモノを持つことで幸福の一端を実感した。大正から昭和初期にかけてアメリカから家電が輸入され、「家庭電化革命」と呼ばれたが、購入できるのはごく一部の家庭に限られた。戦後の高度経済成長により、その垣根は低くなった。「モノの所有が、社会の平等感も作り出していった」と疋田氏は言う。
所有の対象となる頂点にあったのが、家だった。
戦後の復興期、日本も当初はイギリスなどと同じように公共賃貸住宅に重点が置かれた。しかし、用地取得難などから賃貸住宅の供給が伸び悩み、七〇年ごろから、住宅金融公庫の融資による「持ち家促進」に変わっていった。
戦前の日本社会では家や土地は借りることが一般的だった。二〇年代に東京や大阪などへの人口集中、私鉄の郊外延伸など「都市化の時代」を迎えたとき、借り手側を保護する借地法・借家法が制定(二一年)されたことは、そのことを物語っていた。
そこから、一転して「持ち家」志向の台頭。「マイホーム」という言い方も広がった。実はこの言葉、五七年にすでに松下電器がPR誌のタイトルに使っていた。同社社史室では「電化されたハイカラな生活をイメージさせる言葉だった」と解説するが、その後、「持ち家」という意味で一般化していった。
モノを持つことで得られてきた日本人の幸福感や平等感。しかし、九〇年代に入り、バブル経済の崩壊や阪神大震災などを目の当たりにして、大きく揺らぎ始めている。(生活情報部 菊池裕之)
[マイカー]
自家用自動車を表す和製英語で、56年にトヨタの販売会社がPR誌で初めて使用した。その後、61年に技術評論家の星野芳郎氏が「マイ・カー――よい車とわるい車を見破る法」を著し、一般に広まった。乗用車の生産台数がバス・トラックを上回った66年が「マイカー元年」と言われる。
*◆欲望消費社会(4)
*◇経済成長が生んだ進学熱◇
「アルバイト料を払ってもらえず、授業料を五か月滞納し、学校から停学通知が来ました」(高校一年男子、一九五〇年一月)。「毎日のようにPTA会費を催促され、生活苦で自殺も考えます。学校をやめてどこかへ就職したいのですが」(中学三年女子、五二年二月)。
一九一四年に始まった読売新聞生活面の「人生案内」に寄せられた相談には、学業についての悩みも少なくなかった。戦後間もなくは「家が貧しくて通学できない、進学できない」といった訴えが主だったが、時代を経るにつれて、受験や学歴に関するものに変わってゆく。
「受験勉強から逃避したくて高校を出て働きましたが、就職して初めて大学へ行きたいという欲望がおこり、仕事に気が乗りません」(男性、六二年六月)。
経済白書が「もはや戦後ではない」と言った五六年、文部省の統計によると、高校進学率は51%、大学・短大進学率は10%だった。その後、経済成長とともに進学率も上昇し、七七年には高校93%、大学・短大38%となった。そして、九八年には高校が96%、大学・短大は48%に達した。
教育の価値や重要性が多くの人々に認識され、教育を受ける機会も広く開放された社会――。東京大大学院の苅谷剛彦助教授(43)は、このような在り方を「大衆教育社会」と定義づけている。「『だれでも努力すれば……』という平等観に基づき、社会で成功するために、多くの人がより高い学歴を追い求めたことに特徴がある」
階層社会のイギリス、多民族社会のアメリカなどでは、事情は違う。階層や人種による環境の格差といった学校以前の問題が、就学の機会や学歴に影響を及ぼしているという見方が今も一般的だ。
イギリスでは上級の学校に進んだ労働者階層の子供が、しばしば小説のテーマになった。『チャタレイ夫人の恋人』で知られる作家デイビッド・ハーバート・ロレンスは炭坑員の息子に生まれ、奨学金を受けて大学へ進んだが、中産階層の子弟が集まる中で疎外感と不快感を味わう。「学校は人間との生きた接触ではなくて、単なる幻滅を意味した」と、『自伝スケッチ』(二九年)に記した。
日本では進学率が上がり始めたころ、経済成長と相まって、家庭での間取りも変わってきた。子供部屋の誕生だ。六〇年前後の女性誌には盛んに子供部屋の特集が掲載され、当初は「自立心を養う場」と位置づけられていた。だが、六〇年代半ばから「勉強部屋」へと性格を変える。
建築家の故清水一氏が七二年に出した『新住居入門』には、子供部屋は個室という考えの間取りが紹介され、反響を呼んだ。
家庭が子供にかけるコストも膨らんだ。日本生協連の全国生計費調査(約二千世帯対象)によると、仕送りなども含めた教育費(月平均)は、この二十年を振り返っただけでも、七八年の二万八千円は九八年に六万三千円へと増加した。消費支出に占める割合も10%から13%へと増えた。
教育費の負担感も強く、経済企画庁の九八年度国民生活選好度調査では67%が「苦しい」と答えていた。
平等主義と能力主義で展開されてきた大衆教育社会。「学級崩壊」「学力低下」「いじめ」など子供たちの「異変」が続いているが、社会には「だれでもがんばれば」という「平等神話」「強迫観念」が根強い。
最近の人生案内に「高校生の息子が退学したがっています。中学の時に部活を頑張り通したのが認められず、学校に失望したようです。親としては高校だけでも卒業して欲しいのですが」(四十五歳主婦)というのがあった。何はともあれ教育を――。大衆教育社会は重苦しい空気も発している。(生活情報部 菊池 裕之)
[イギリスの中等教育]
かつては、11歳時の選抜試験で進む中等学校を「モダン」「テクニカル」「グラマー」に分ける「三分岐制」をとっていたが、実態として労働者層と中産階層では進む学校が異なり、階層による学校選別の傾向が批判された。60―70年代にそれらを統合した無試験の「総合制」へ変わったが、総合制でも能力別の学級編成が行われ、階層間の格差を指摘されている。
*◆欲望消費社会(5)
*◇「階級」超えたジーンズ◇
一九七七年五月二十五日の新聞各紙社会面に、こんな見出しが躍った。「阪大で“ジーパン団交”」「レディーははかない?ジーパン」
大阪大学文学部の五十代のアメリカ人男性講師が、ジーンズ姿の女子学生に、教室を出るように命じたことが、全国ニュースになった。
「ジーパンは家庭にしばりつけられた女性を解放した服装だ」と主張する学生に対し、講師は「大学に学ぶ女性はファーストクラスの女性になるよう努めるべきだ。セカンドクラスの男性の格好をすべきではない」と応じた。
この時期、すでに学生運動は下火だった。ジーンズはもはや六〇年代のように反体制の象徴とは言えなかった。しかし、戦前生まれのアメリカ人の中には、社会的な階層意識と服装を結び付ける考えがまだ残っていたことはうかがえる。
ジーンズは十九世紀後半にアメリカに生まれ、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアで労働着として広がった。一定の地域の風俗という枠を超えて、そのスタイルが受け入れられるようなきっかけは、三〇年代にあった。
デュードランチという観光牧場が大恐慌後のアメリカでブームになる。デュードとはしゃれ者のこと、ランチは牧場を意味する。西部の牧場は恐慌による牛肉価格の急落から、観光に活路を見いだした。鉄道や自動車の発達で、豊かな階層は遊びのために旅をすることも可能になった。ハリウッドの西部劇映画も流行した。東部の都会人が休暇で西部を訪れ、カウボーイスタイルに身を包む。それが先端の流行になった。
サンフランシスコ市のリーバイ・ストラウス本社には当時の資料が残されている。観光牧場を訪れる際の服装ガイドブックには、ジーンズのほか、テンガロンハットやカウボーイブーツを装うコツが説明されている。
同社の歴史研究員リン・ダウニーさん(44)は「観光牧場を体験した人が東部に戻り、日常着としてジーンズを着るようになったことがきっかけで、市場は急速に広がった。アメリカでは不況になると西部ブームが盛り返す。大恐慌後、不安やストレスにさらされていた東部の人々が、荒々しい自然や、組織に縛られない生活にあこがれを感じたのではないか」とみる。
消費社会論の分野で近年再評価の進むアメリカの経済学者ソースティン・ヴェブレンは、すでに十九世紀末に、大衆消費社会を予見していた。『有閑階級の理論』(一八九九年)で、顕示的消費と顕示的閑暇、つまり金とヒマの所有を周囲に見せる消費行動が都市の富裕層に生じたとし、その典型例として「衣装」を挙げている。
「(優雅なドレスは)着用者が比較的大きな価値を消費しうるということを示すだけでなく、同時に、何も生産せずに消費する、ということを立証している」
ヴェブレンの時代には、優雅さこそが富を表し、着ている服がその人の財力や職業をある程度示していたが、大衆消費社会のらん熟とともに、その機能は低下する。観光牧場が流行した三〇年代当時は、「富とヒマ」を表していたジーンズも、第二次大戦を挟んで労働着としての意味を減じ、戦後はアメリカ国内のみならず世界の幅広い層に受け入れられるようになった。
大量生産によって、現代のファッションは、階級、財力や職業といった社会的な差異を、少なくとも見た目において解消することに寄与した。
「(着ている服が)肉体労働の結果を示していれば、優雅であるとか上品であるとは理解されない」と書いたヴェブレンは、資産世界一のビル・ゲイツ・マイクロソフト社会長でさえもジーンズをはくこの時代をどう見ただろうか。
(生活情報部・福士千恵子)
◇
[ジーンズ]
サンフランシスコの織物商リーバイ・ストラウス社のもとに、仕立屋のヤコブ・デイビスが作業着の補強のためびょうを打つアイデアを持ち込む。1873年に特許を取得、あい染めのデニム地が一般化し、ブルージーンズの原型ができる。第二次大戦時には軍需品に、60年代には反戦平和の「ユニホーム」になった。
*◆欲望消費社会(6)
*◇服は身体表現の一部に◇
カチリと音を立ててカギが回るように、時代が変わる一瞬がある。一九六五年、ローリング・ストーンズは「アイ・キャント・ゲット・ノー・サティスファクション(満足なんてありはしない)」と歌った。身体で欲望を肯定する時代がやってきた。
フランスのデザイナー、アンドレ・クレージュがこの年のパリ・コレクションで、ミニスカートを発表する。短い丈のスカートがロンドンなどで流行の兆しを見せてはいたが、オートクチュール(高級仕立服)のコレクションにはじめて登場したことで、モードとして認知された。
六三年から七五年までフランスの婦人プレタポルテ連盟総代表を務めたブリュノ・デュ・ロゼルは『20世紀モード史』(八〇年)で、当時の衝撃をこう書いている。
「(モデルたちは)脚を出していたのである。文明国といわれる国々ではこれまで決してみられなかった、ひざとももを露出していたのだ。(中略)クレージュがこのコレクションで取り上げたテーマは、あらゆる性のタブーに対する解放の肯定だったのである」
ズボン姿を含めて、欧米で女性の脚の形をあらわにすることはタブーだった。女性の脚には性的な意味合いがあると同時に、脚は行動力をあらわしてもいた。もう一つの服装上の決まり事はコルセットだった。胴を締めることで「女性らしい」体の線を強調し、一方で女性の身体から行動の自由や自然な感覚を奪った。長いスカートとコルセット、両方のタブーからの解放は二十世紀になって始まった。
一九〇六年にフランスのデザイナー、ポール・ポワレが、コルセットをつけずに着るハイウエストのドレスを発表。ガブリエル・シャネルは一九一〇年代から、自立して働く女性を念頭に置いた、機能的なスーツを作りはじめた。女性の活動範囲が広がるにつれ、スカート丈も短くなっていった。しかし、五〇年代には、いったん長い丈が流行する。クリスチャン・ディオールの、布をたっぷり使って女性らしさを強調したモードが注目された。
「大量に布を使うことが、当時は豊かさの象徴だった。六〇年代になると、布が多いか少ないかは問題にならなくなる。ミニは『すでに豊かな時代』のファッションとして登場し、女性たちの身体と意識を解放した」と、京都服飾文化研究財団理事の深井晃子さんは言う。
日本にもソ連にもミニはブームを巻き起こした。メディア論で知られるカナダの英文学者マーシャル・マクルーハンは六七年、『人間拡張の原理』で「衣服は皮膚の拡張である」と語る。衣服が肉体を隠すものから、肉体をより美しく見せ、身体意識(ボディーコンシャス)を解放する方向へと転換したことをこう表現した。透ける素材、サイケデリックな色彩、肩や腕を出すスタイル、パンティーストッキング、パンタロン――衣服はますます活動的になり、皮膚との境もあいまいになった。
深井さんはこう語る。「二十世紀のファッション史は、いかに服を脱いできたかの歴史だった。六〇年代にはまだ、より良い服、上等なものを身につけたいという欲望があったが、八〇年代までにはそれも達成された。服だけでは自分と他人を差異化できない。そこで、化粧や髪、入れ墨など、体そのものに自分を語らせようとする。それが今、ではないか」
六八年、文部省統計数理研究所の「男女どちらに生まれたいか」という調査で、女性たちの回答がはじめて、「男性」を上回って「女性」になった。社会制度や慣習の上で、女性解放が主張されるのは七〇年代に入ってからだが、ミニスカートが街を席巻した六〇年代後半、女性たちが自分の身体、自分の存在そのものに、自信を持ちはじめたことは確かだろう。(生活情報部 福士千恵子)
[サイケデリック]
60年代後半、ヒッピームーブメントをきっかけに、幻覚的という意味の「サイケデリック」が、鮮やかな色彩の組み合わせを指す流行語になり、ファッションやアートに影響を与えた。繊維メーカーは、男性もカラーシャツをと「ピーコック(クジャク)革命」と銘打ったキャンペーンを始め、日本のサラリーマンもおしゃれを楽しむきっかけになった。
*◆欲望消費社会(7)
*◇性の「自由化」多様に◇
一九五四年、フランスで『O嬢の物語』という小説が出版された。女性主人公の告白の形を取って暴力的な性の快楽を描いたこの作品は、世界に衝撃を与え、二十か国以上で翻訳された。作者はポーリーヌ・レアージュという女性名だが、その正体は長年わからなかった。九四年、『ニューヨーカー』誌が、ドミニク・オリという女性編集者が実作者だと明らかにする。
オリは九八年四月に九十歳で亡くなったが、その前年に作製された記録映画『エロティカ』でこう語っている。「家族の大半は、あの小説にいい顔はしませんでした。母は性に関するすべてを嫌っていました。肉体が嫌なのね。罪の源だから」
五三年には『プレイボーイ』誌が登場するが、編集長のヒュー・へフナーは創刊の辞で「天下国家を論ずることは私たちの領域ではありません。(中略)アメリカの男性たちに、極上の笑いと、核時代の気晴らしを届けられれば、私たちの存在は正当化されるはずです」と書く。
男性たちが性を「核時代の気晴らし」と明るくうたった当時、女性が性を、特にその快楽を語ることはタブーだった。恋愛と結婚と性は一直線上に並び、それぞれが不可分のものだった。オリが四十年余り沈黙を守ってきた理由もそこにある。
アメリカでも五六年、郊外の一主婦が書いた小説が一躍ベストセラーになる。グレース・メタリアスの『ペイトンプレイス』はこんな風に始まる。「インディアンサマー(小春日和)は女性のようだ。熟して、熱く情熱的で、でも気まぐれで」。ニューイングランドの小さな町を舞台にセックス、不倫、暴力などをはらむ人間模様を描き出した。
翌年には映画化もされるが、メタリアスは「ブルージーンズをはいたパンドラ」と呼ばれた。災厄の箱を開けた女性、というわけである。
二十世紀には二回の「性革命」があったといわれる。まず二〇年代、結婚という枠内の性に光を当てた「性革命」が起こる。アメリカの女性運動家マーガレット・サンガーらによって、避妊による産児制限が広がる。オランダの産婦人科医ヴァン・デ・ヴェルデは二六年、性の入門書『完全なる結婚』を発表した。
第二次大戦を経て五〇年代、社会は性を抑圧する。冷戦下にあって、国家を支える「よき家族」「よきモラル」が賛美された。性科学者アルフレッド・キンゼーは四八年の男性版に続き、五三年『女性の性行動』を発表するが、アメリカ白人女性の50%が婚前交渉を持つなどの内容に、「女性の侮辱者」「共産主義者」と非難を浴びせられた。メタリアスへの批判も、こうした潮流の一環だった。
ベトナム反戦や公民権運動が盛り上がりを見せた六〇年代後半、「戦わずに愛し合おう」とフリーラブ、フリーセックスに象徴される「性革命」が起きた。ジョン・レノンとオノ・ヨーコは全裸の写真をレコードジャケットに使った。また、同性愛者の権利を求める運動も起きてくる。
八〇年代に入ってエイズ感染の広がりが社会の注意を喚起し、性の「自由化」には歯止めがかかった。しかし、非婚や同性愛など多様な生き方を頭から否定せずに、選択肢の一つとして認めていく方向に社会は向かっている。
立教大学の北山晴一教授(フランス史・比較文明学)はこう話す。「近代社会では、共同体のあり方の変化が、性と結婚を徐々に切り離してきた。先進諸国では、飢餓など生存の危険もなくなって、共同体を維持するためだけの結婚と生殖は意味をなさなくなったからだ。現在ではむしろ、一人ひとりの幸せの実現こそが、家族を持つことの目的となった。性や恋愛から社会制度まで、個人の幸福感、QOL(生活の質)の観点から考えていくべきだろう」(生活情報部 福士 千恵子)
[『完全なる結婚』]
オランダのヴァン・デ・ヴェルデが、主に既婚者を対象にして書いた性科学書。生殖のためだけではない性のあり方について具体的に言及し、話題となった。1926年に出版され、4年後には日本でも訳書が出版されるが、即座に発禁に。戦後の46年に改めて刊行され、さまざまな性の入門書の先駆けとなった。
*◆欲望消費社会(8)
*◇健康が「自己目的化」◇
米ミシガン州で十九世紀末、医療、栄養指導、運動、湯治などの機能を備えた保養所「サン」が、金持ちや著名人の人気を集めた。菜食を中心にして、アルコールやたばこを禁じ、適度な運動をする「エデンの園的生活」が売り物だった。
そこを運営するケロッグ兄弟が、入所者のために小麦やトウモロコシをフレーク状にした穀物食(シリアル)を考えつき、これが健康食として関心を呼んで一九〇六年に企業化された。限られた人のためのぜいたく品として生まれた健康食品は、消費社会化の波に乗って市場を広げた。
五〇年代から六〇年代にかけては、美容のための減量がブームになる。六三年、ニューヨークで、肥満女性の助け合いグループ「ウエートウオッチャーズ(体重監視人)」が結成された。しかし、アメリカ人が、真剣に健康と食事のかかわりを考えざるを得なくなったのは、七〇年代に入ってからだ。
七七年、米上院特別委員会が公表した「マクガバン報告」は、食生活のあり方について具体的な目標を示して警鐘を鳴らし、アメリカ社会に衝撃を与えた。消費熱量と同じだけのカロリーしか摂取しないこと、糖分の摂取を約45%減らすことなど七項目から成るこの報告に基づき、八〇年には農務省と厚生省が共同で、一般向けにわかりやすくした食生活指針を定めた。
「多種類の食品を食べましょう」「脂肪の取り過ぎを避けましょう」「アルコールは適量にとどめましょう」――食事と成人病の関連について懸念が深まっていた。
米統計局の資料によれば、心臓病など循環器系の疾患による死亡者は七〇年代前半にピークに達し、十万人当たり五百人近かった。豊かな社会は「飽食」の結果として、不健康というツケを払わされることになった。
ダイエットに加え、ジョギングやエアロビクスなどの運動を通じて健康を実現する「フィットネス」もブームになる。ベトナム反戦運動に取り組んだ女優のジェーン・フォンダは七九年、ロサンゼルスに教室を開き『ジェーン・フォンダのワークアウトブック』(八一年)を出版し、健康主義のシンボルになった。
食品からヘルスクラブまで新しい健康商品が現れ、ヤッピー(都市部の若い専門職層)を中心に市場が広がった。社会批評家のバーバラ・エーレンライクは『「中流」という階級』(八九年)で、「(フィットネス熱の)中心は上昇志向の中流階級であり、フィットネス――つまり達成する努力――はあっという間に、社会階級のもうひとつの勲章となった」と分析し、「フィットネスは道徳の再生という姿に化けた消費」と表現した。
アメリカの健康消費文化は、日本をはじめ、他の地域にも伝播(でんぱ)する。しかし、日本の場合、健康ブームの主な担い手は、ヤッピーに近い若年層よりも、むしろ中高年世代だった。
静岡大学の栗岡幹英教授(社会学)は、「高度成長後、豊かな生活に慣れた日本人は、その一定水準の生活を維持するために、健康で働き続けることを余儀なくされた。家族を抱えたサラリーマンにとって、健康主義は差し迫った選択の結果で、深刻さや切実さを内包する」と話す。
ダイエットのし過ぎで体調を崩す例など、行き過ぎた健康主義は弊害も引き起こした。また、若い世代の過度の清潔志向にも、健康や身体についての感覚のゆがみが見える。「豊かな社会ゆえの達成感の喪失が、健康そのものの自己目的化現象を生み出した」と栗岡教授は指摘する。
健康主義の過熱時期を経て、「病気にならないため」から「より良く生きるため」へ、健康観、身体観を問い直すことが必要とされている。
(生活情報部・福士千恵子)
◇
[食生活指針] アメリカの食生活指針は80年から5年ごとに改訂されている。現行の第4版は95年のもので、食事量と身体の活動量のバランスをとる、という表現が加わった。日本でも83年、農水省の懇談会が8項目の目標を発表した。アメリカで理想とされた低脂肪で繊維やでんぷんを多くとる食事は、日本型食生活に近いといわれる。
*◆欲望消費社会(9)
*◇「移動」が変える風景◇
「ここの空は青い力を内に秘めていて、近くの丘や森を鮮やかな濃い青に染め上げて見せる。日ざかり、大気は炎と燃え立ち、いきいきと大地をおおう」
デンマークの名家に生まれ、後に作家となるアイザック・ディネーセン(一八八五―一九六二)は一九一四年、北欧の貴族社会に背を向けてケニアに渡る。コーヒー農園の女主人として十八年間を過ごし、『アフリカの日々』(三七年)を書いた。広大な自然とともに、アフリカの人々にも魅了された。「私にとって、世界がめざましく広がることにほかならなかった」
一八六九年にスエズ運河が開通し、十九世紀から二十世紀にかけて航路、鉄道、そして自動車や飛行機と輸送技術が格段に進歩した。体力のない女性や子供でも長距離の移動が可能になった。消費社会化は、人とものの流動性を高め、商用や観光の機会、大量生産を支える働き手として移民などを増やした。未知の国や大陸に降り立ち、「世界がめざましく広がる」ことは、ディネーセンのみの経験ではなかった。
東京大学の山下晋司教授(文化人類学)はこう言う。
「現在、世界人口六十億人の十人に一人、つまり年間六億人が国境を越えている。現代は“移動の時代”だ。生まれ故郷で一生を過ごす人は少なくなり、教育や仕事、より良い生活を求めて都市や国外へと移る。地球上をさまざまな人が流動し、生活や文化の風景はダイナミックに変わる」
山下教授は昨年九月から一年の予定で、米カリフォルニア大学バークリー校に客員研究員として滞在し、アジア系移民、特に日系移民に焦点を当てた研究をしている。
日本からアメリカへの移民は十九世紀末から急増するが、一九二四年の排日移民法、太平洋戦争開戦による四二年の強制収容命令など、日米のはざまで苦難を経験した。自ら移民した一世、子や孫にあたる二世、三世、四世と、世代によっても意識やライフスタイルは変わる。
戦前の移民とその子孫に対し、戦後の移住者は新一世と呼ばれ、当初は新しい仕事を求めての渡米が多かった。しかし、経済成長とともに日本企業の駐在員が増え、中には新たにビジネスを起こしてアメリカに根を下ろす例も出てきた。最近は、日本で就職した会社をやめ海外で転身を図る、いわゆる「OL留学」の女性も目立つ。
「かつての経済的な理由での移民とは異なり、最近の若い世代は社会的・文化的な理由で国を離れる。日本という国は本当の意味で豊かになったのか、問いを投げかけられている。国と国、社会と社会のはざまに生きる人は、これからますます増えていくに違いない」と山下教授は見る。
移民たちが異文化を持ち込むことによって、その国や地域の生活にも変化が生じる。アメリカでは公民権運動などがきっかけになり、六〇年代以降、多様な価値観を認める方向へ社会は転換してきた。
アジア諸国の生活文化に詳しい、アメリカ工芸美術館(ニューヨーク市)のデビッド・マクファデン主任学芸員(51)はこう言う。
「アメリカは物質的な豊かさを追求してきたが、多様な文化を知ることで、少しは謙虚になってきたと思う。エコロジーの広がりで、自然との調和を図った生活、例えば日本の住まいや道具への関心も高まっている。二十四本のバラよりも一本の完ぺきなバラがあれば十分、ということを、私たちはそろそろ学んでもいいのではないか」
日本もアメリカも、他の諸国も「豊かさ」を追い求めて、この世紀を走ってきた。しかし、人、もの、情報の移動が量においても速度においても頂点に達したいま、「立ち止まること」こそが新しい一歩になるのかもしれない。
(生活情報部 福士 千恵子、写真も)
[グローバル・エスノスケープ]
インドからアメリカに渡った文化人類学者アルジュン・アパドゥライの言葉。地球規模の民族移動の風景、つまり観光客、移民、難民、亡命者、外国人労働者などさまざまな人々が国境を越えて移動することによって生じる風景を指す。文化人類学の研究領域として注目されている。
*◆家族と地域(1)
*◇「帰属人」から「生活者」へ◇
破天荒な会社員が活躍する植木等主演の映画「無責任男シリーズ」は、経済大国に向けて突き進む一九六〇年代の日本の妙な熱っぽさを発していた。映画からヒットした数々のサラリーマンソングを作詞したのが、青島幸男氏であることはよく知られている。
しかし、今から半世紀以上前に、その青島・前東京都知事と同じように、“マルチ文化人”から自治体の長になった新居(にい)格(いたる)(一八八八〜一九五一)という人がいたことは、歴史に半ば埋もれている。
大正期に新聞記者として読売、毎日、朝日の三社を渡り歩き、昭和初期にかけては、モダニズムの流行作家としても活躍する。終戦後の初の選挙で東京都杉並区長になるが、「区役所の窓口」と書いたプラカードをかついで町を回るような型破りな首長ぶりが周囲とのあつれきも生み、一年で退任した。
新居は地域に根差した自由な生き方を理想とした。「近ごろの私の頭を領有している考えは、好ましい生活者ということである」(『街の哲学』四〇年)
官僚や大会社など組織に守られた人を「帰属人」と批判し、一方で「自分で自分の生活を組織し運行」する「野心はないが、独立心のある」人を「市井人」「生活者」と呼んだ。戦前期にすでに、高度成長後のサラリーマン社会とその矛盾を、予見していたかのようだ。
「生活者」という言葉が、頻繁に使われだしたのは九〇年前後から。政党や企業が一斉にこの言葉に飛びついた背景には、経済成長が頭打ちになり「生活の豊かさ」を重視する風潮が出て来たこと、家庭や社会で男女の役割の相互乗り入れが進んだこと、環境問題の顕在化で従来の「消費者」に代わる概念が求められたこと――などがある。
お茶の水女子大の天野正子教授(社会学)の研究によれば、「生活者」という言葉を最初に使ったのは作家の倉田百三と見られるが、やや宗教的な意味付けをしていた。三〇年代後半から、生活文化の担い手という意味で使いだしたのは哲学者の三木清で、新居もその時期に重なる。
経済学の上で「消費者」をこえる「生活者」概念を示したのは、経済学者の大熊信行(一八九三〜一九七七)だった。日本が大量消費社会に突入した六〇年代、生産と消費を切り離さず、その循環こそが「生活」であると論じた。
天野教授は「二十世紀は、あらゆる意味で『分節化』が限りなく進んだ時代だった」と振り返る。生産と消費の分離は、家族の中で、夫と妻が賃労働と家事労働の役割を分け合うことに反映された。社会全体では、生活の場、仕事の場、社会のルール作りの場が、相互に切り離された。
外へ働きに出るだけの男性たちは、家庭や地域といった暮らしの舞台から疎外されていく。父親不在などさまざまな問題も出て来た。さらに、右肩上がりの時代が終わって日本型の終身雇用制度が揺らぎ始め、企業が一生を保証してくれるとは限らなくなった。家庭と企業、それぞれから背を向けられ、男たちの居場所はますますなくなる。
「家事や育児を男女がともに担う、生活課題を政治の場へ持ち込む、地域に密着した仕事を起こしていく――こうしてさまざまな境界を崩していかない限り、これからの社会は立ち行かなくなる。二十一世紀は分節化社会から境界破壊型社会へと向かっていくだろう。そのためには、女性も男性も『生活者』としての足場を取り戻すことだ」と天野教授は話す。
「わたしは形容詞のない人間(ノンタイトルド・マン)であることが理想である。つまり市井の人として終始することだ」(『区長日記覚え書』)――新居の言葉にうなずく人は、少なくないはずだ。(生活情報部 福士 千恵子)
[企業社会批判]
高度成長末期には、日本人の働き過ぎ批判が高まる。モーレツ社員、企業戦士などの言葉が生まれ、80年代末には「過労死」が大きな問題に。働き過ぎの背後にはしばしば「家族のため」という理由がある。企業文化や労働観を再構築するとともに、家族のあり方の見直し、「男らしさ」意識からの解放も必要になっている。
*◆家族と地域(2)
*◇三次にわたる「主婦論争」◇
女性の生き方を検証し、差別の解消を目指すフェミニズム運動が社会全体に広がるのは一九七〇年代からだが、その一つのきっかけになったのは「主婦とは何か」という問いかけだった。
アメリカの女性運動家ベティ・フリーダンが『女らしさの神話』で、都市郊外に住む中産階級の主婦たちの不満から女性論を展開したのは六三年のこと。しかし、日本ではこれに先駆けて、すでに五〇年代から「主婦」をめぐる論争が盛んに戦わされていた。
日本の「主婦論争」は、五五年から五九年の第一次、六〇年から六一年の第二次、七二年の第三次の三度にわたって繰り広げられている。
口火を切ったのは、『婦人公論』誌五五年二月号に掲載された評論家石垣綾子の「主婦という第二職業論」だった。石垣は、産業化や技術の革新によって家事の負担が減ったことを指摘し、「主婦という第二の職業に、女が飽き足らなくなったのは、当然のことではなかろうか」と、女性も社会に出て家庭と職場の両立を目指すべきだと論じた。
これに対し、「家庭は人間の信頼や愛情の場。経済的自立だけが幸福ではない」(福田恆存)、「職業を持つ持たないは個人の選択。家庭婦人の役割も評価し、職業婦人もともに連帯して社会を改革していくべきだ」(平塚らいてう)などの意見が続いた。
第一次の論争では、主婦という役割をどう評価するかが焦点だったが、第二次では、家事労働の経済的価値をどう位置づけるかが、主に経済学者らによって議論された。
第一次、第二次の論争の時期、日本は高度経済成長のスタート地点に立っていた。産業構造が大きく転換し、農業や自営業を中心とした社会から、企業に雇用されるサラリーマンを中心とした社会へと変わりつつあった。
「日本女性が大挙して主婦になっていった時期に、まさに主婦とは何かが問われることになった」と、国際日本文化研究センターの落合恵美子助教授(家族社会学、人口論)は表現する。
落合助教授は、女性の労働力率の変動の長期的な分析から、「女性の主婦化」がどう進んで来たかが見えるという。アメリカやスウェーデンなど欧米諸国で、女性の労働力率が最も低いのは今世紀はじめで、ほぼ20%だが、それ以降は年々上昇していく。雇用されて働く女性が増えていくためだ。
一方、日本のカーブは逆だ。百年前には70%近かった女性労働力率は、農業や自営業で働く女性が減り、サラリーマンの妻たちが増えるにつれて徐々に下がる。しかし、五〇―六〇年代には50%前後で横ばいになる。戦後の近代化があまりに急速で、「女性の主婦化」とその後に来る女性の雇用化が混在してしまったため、欧米のような労働力率の再上昇カーブが見えにくくなっている。
第三次の主婦論争は、高度成長が終幕にさしかかり、女性運動も広がってきた七二年に『婦人公論』誌上で起こる。評論家の武田京子は「生産労働こそ価値があるというのは産業社会の論理。『生産』より『生活』に価値を置く主婦の暮らしこそ、すべての人が目指すべきもの」と、「生活者」論に近い立場を打ち出す。これに対し作家の林郁は「生産性論理の否定と主婦の解放は別問題。主婦の無償労働が夫の生産を支えているに過ぎない」と反論した。
三次にわたる主婦論争は、家事を男女がどう担うか、無償労働をどう評価するか、など今に続く問題を提起してきた。景気の停滞で、女性の雇用者数は伸び悩んではいるものの、結婚や出産による退職は減り、専業主婦の生活を続ける女性は少数派になっている。しかし、「生活者視点」で暮らしの安全や環境問題などを早い時期から提起してきたことなど、「主婦」の役割は決して小さくはなかった。(生活情報部 福士千恵子)
[無償労働(アンペイドワーク)]
家事や地域活動など貨幣に換算されない労働の経済的な貢献を明らかにし、男女の不均衡な役割分担を見直そうという考えが広がっている。95年国連世界女性会議(北京)で採択された行動綱領でも、無報酬の労働を計測・評価するよう各国政府に働きかけている。日本では経済企画庁が97年から「無償労働の貨幣評価」を発表している。
*◆家族と地域(3)
*◇密室育児…密着する母子◇
第二次ベビーブームがピークを迎えた一九七三年は、赤ちゃん受難の時代とも言われた。東京や大阪で駅のコインロッカーに乳児を置き去りにする事件が多発し、この年だけで四十件余りを数えて、「母性喪失」が指摘された。
恵泉女学園大の大日向雅美教授(48)は、そのころ東京都立大大学院の博士課程で心理学と女性学を研究していたが、母性喪失批判に「どんな時でも崇高な母性愛が発揮できるものだろうか」と疑問をいだき、子育て中の女性約五十人から母親意識についての聞き取り調査を行った。
「子育ては年中無休で二十四時間営業の店を一人で切り盛りするようなもの。何もかも捨てて逃げ出したくなる」「昨日、カッとなってこの子をベランダから放り投げようとしたの」――。母親たちはためらいながらも本音を語り、六割近くが「育児ノイローゼに共感できる」と答えた。
「『完ぺきな子育てができて当たり前』という母親観に支配され、よきママを演じようとしていた。孤立し、精神的に追い詰められている姿が浮かんできた」
大日向教授は七八年、「多くの母親が育児の心理的負担に悩まされている」という調査結果を日本心理学会で発表した。母親が朝から晩まで子供と向き合う閉そく的な育児状況。「密室育児」という言い方が広まっていった。
この密室育児、実は戦前からあったという。法政大学の横山浩司教授(55)(心理学)は「大正期の大都市部の俸給生活者家庭にまず表れた」と話す。
日本の都市化が進んだ二〇年代、企業には「新中間層」と呼ばれる専門・管理職が登場した。地方出身の二男、三男で、高い学歴を持ち、家事に専念する妻と新興住宅地に住んだ。親や知り合いが近くにいないため、子育ては育児書や雑誌頼りだった。
育児書にそって授乳や昼寝の時間を決める。「義母が訪ねて来た時も『すいませんけど、今おねんねの時間だから、抱かせられなくて』」。横山教授が著した『子育ての社会史』(八六年)には、新中間層のこんな体験談も登場する。
もっとも、こうした新中間層は少数派で、農村や都市のほとんどの家庭では家族ぐるみ、地域ぐるみの子育てが行われていた。家業があれば、母親たちはそこでの貴重な労働力であり、赤ん坊は兄や姉、祖母、近所のおばさんなども面倒を見た。こんな光景は、戦後も続いた。
しかし、五九年に労働力人口のなかでいわゆるサラリーマンが半数を超え、高度成長が始まると、核家族化、専業主婦化が進んだ。一方で、一人の女性が生涯に産む子供の数を表す合計特殊出生率は、第一次ベビーブームだった四九年の4・32から第二次の七三年には2・14、九八年は1・38にまで落ち込んだ。核家族化、専業主婦化、少子化は、密室育児を余儀なくさせていった。
密室育児は母子関係をより密着させた。育児書の国際比較を行った東京大学の恒吉僚子助教授(38)(比較社会学)は、「日本は心理的に母子が一体化しやすい。夫婦というヨコの関係を重視する欧米に対し、子供のいる夫婦が『パパ』『ママ』と呼び合うなどタテの関係が強いことが背景にある」と指摘する。
受験競争の過熱とともに登場した「教育ママ」、母離れできない男の「マザーコンプレックス」など、依然として親子の密着ぶりが語られることも多い。
しかし、九〇年ごろから、各地の母親グループが地域密着型の子育て情報誌を刊行する動きがでてきた。九五年からは、その編集者が全国から集まる「マミーズサミット」が毎年開かれ、二十グループ前後が参加している。母親たちが密室で孤立しないで、子育てに「社会との接点」を探す潮流が生まれてきた。(生活情報部・菊池裕之)
[3歳児神話]
「3歳までは母親が育てるべきだ」との考え方で、60年代に日本国内に広まった。海外でのホスピタリズム(乳児院など施設にいる子供の発達異常)研究が紹介されたとき、母親不在による影響面が強調され、それが「三つ子の魂百まで」などのことわざと結び付いて「神話」になったと見られる。98年版『厚生白書』は「合理的な根拠は認められない」と指摘した。
*◆家族と地域(4)
◇「理想の町」と「団地の望み」◇
詩人で作家の佐藤春夫が一九一九年に書いた『美しき町』は、理想の町をつくろうとする男たちの物語だ。隅田川の中州に「善美を尽くした」百戸の家を計画する。住人になるにはいくつか条件がある。「互いに自分たちで選び合って夫婦になった人々」「商人でなく、役人でなく、軍人でないこと」「必ず一匹の犬を愛育すること」――。
大規模なコミュニティーを計画し、人工的につくることは今では珍しいことではない。しかし、「自分たちで選び合って」結婚することと同じように、「町づくり」もまた、近代化とともに広がった新しい概念だった。
イギリスの都市計画家エベネザー・ハワードは、一八九八年に田園都市の構想を発表する。十八世紀後半からの産業革命で工業が発達、農村から都市へ急速に人口が流入し、生活環境の悪化が問題になっていた。ハワードは都市の利便性と農村の自然環境を取り入れた町を構想した。人口の上限は三―五万人、職住一体、土地は原則公有、住居は農地や緑に囲まれていること、などが基本原則だった。一九〇三年、ロンドンの北約五十キロに、最初の田園都市レッチワースが計画された。
第二次大戦でロンドンを中心に空襲を受け、戦後の住宅不足が悪化すると、それまでの民間企業主体の田園都市に代わり、政府による大規模な町づくりが始まる。四六年にニュータウン法が制定され、公的な大規模開発都市はニュータウンと呼ばれるようになるが、ハワードが言った職住一体の町を目指した点は変わらなかった。
「日本も、戦災による住宅不足が、戦後の都市開発の出発点になった。これに高度成長が重なり、さらに膨大な住宅需要が生じた。しかし、日本のニュータウンは、イギリスのような職住一体ではなく、外へ通勤するサラリーマン家庭の町としてつくられた」と、大妻女子大学の福原正弘教授(地理学、都市論)は言う。
終戦直後の不足住宅は四百二十万戸。公営住宅の建設が急がれ、五五年には日本住宅公団(住宅・都市整備公団)もでき、集合住宅、いわゆる「団地」が各地に広がる。初期の公団住宅の入居案内にはこんな記載も見える。「ステンレススチール流し・浴室(浴槽つき)・水洗便所・ガス・上下水道が完備しております」。団地は、ダイニングキッチンなど新しい生活様式を庶民の暮らしにもたらした。
六〇年代に入ると、数万戸単位の公的大規模ニュータウンの建設が進む。大阪府の千里ニュータウンでは六二年に入居が始まり、愛知県の高蔵寺ニュータウン(六八年)、東京都の多摩ニュータウン(七一年)などが続いた。
しかし、当時一斉に入居した同年代の住民が定年から老後にさしかかり、現在は“オールドタウン”化の傾向もうかがえる。千里では七〇年に3%だった六十五歳以上の高齢者比率が、九五年には12%にまで上がった。
福原教授は九五年から三年間にわたって各地のニュータウンの住民を対象に意識調査を行い、延べ二千五百人から回答を得た。「ずっと住みたい」という永住志向は全体で30%を超し、千里ニュータウンでは半数近い。「当分住みたい」を加えると各地区とも70―80%に達する。
「その町で生活を始めた人たちが年を重ね、愛着や地域とのつながりも生まれてきた。ニュータウンはもはや仮の住まいではない。家族の数や形態が変わっても同じ地域に住み続けていくには、地域内で住み替えしやすい制度なども必要だろう」と福原教授は言う。
その調査で、「これから必要な対策」を聞いたところ、最も多く挙がったのは「自然環境の保全」だった。百年前にハワードが抱いた理想の町は、現代のニュータウン住民の望みとも重なる。(生活情報部 福士 千恵子)
[公営51C型]
建設省は1949年度から公営住宅に標準設計方式を採用。6畳、4畳半、ダイニングキッチンから成る51年の「公営51C型」は2DKの基本スタイルになり、その後の公団住宅にも引き継がれた。食事と就寝を分ける「食寝分離」、夫婦と子供の寝室を別にする「就寝分離」が可能になり、ダイニングキッチンは家事の合理化を進めた。
*
*◆家族と地域(5)
*◇個人基本に きずな多様化◇
スウェーデンで一九八九年に、「近しい人をみとるための看護休業制度」が法制化された。勤労者が病人の看護や介護のために、有給で最高三十日間の休暇を取れる制度だが、画期的だったのは、親子や夫婦など従来の家族の枠を超えて、親せきでも友人でも近所の人でも、その人にとって「近しい人」のために休みが取れる点だった。
この春まで一年間、スウェーデンに滞在した大阪経済大学の伊田広行助教授(社会政策)は、「『近しい人』という定義は、これまでの家族観を超える新しい発想に立っている。家族の形や価値観が多様になったことをふまえ、社会の単位である『個人』の権利を保障した制度だといえる」と話す。
日本でも家族の多様化は進んでいる。二十世紀に入ると、医療や公衆衛生の発達もあって、人口構造は多産多死から少産少死へと大きく転換した。
その間、一九二五年から五〇年ごろまで、多産少死の過渡期があった。この時期に生まれた兄弟姉妹の多い世代が、長男を実家に残して都市部へ移り、新しい家族を作る。それがちょうど六〇年代の高度成長期にぶつかった。「核家族化」が盛んに言われだしたのはこの時期のことだ。
しかし、核家族世帯が全世帯に占める割合は、八〇年に60%を超えてからわずかずつ下がる。核家族の中でも、「夫婦のみ」の世帯が三分の一以上を占めるまでになった。少子化、さらには中高年以上の夫婦が子世代と同居しなくなった傾向が表れている。
さらに、晩婚化や高齢化によって、各年代で一人暮らしの世帯が増えている。五年に一度の国勢調査で、一九九五年、はじめて単独世帯、つまり一人暮らしの世帯が一千万を超えた。全国四千三百九十万世帯のうち千百二十万世帯、四軒に一軒が一人暮らしということになる。六〇年調査の三百六十万世帯からみると、ほぼ三倍にあたる。
また、例えば高齢者同士の共同生活など、血縁や結婚によらない非親族世帯も、徐々にではあるが増え、九五年には十二万八千世帯に達した。
九八年版厚生白書は「夫婦と子どもからなる核家族世帯は、今や家族構成の典型ではなくなりつつある」「これまでの社会の仕組みは家族を基本に構築されてきたが、今後は、だれしも人生の一時期をひとりで暮らすことを経験する可能性がある」と、家族の形の変化に即した社会システムの見直しに言及している。
税や年金など現行の社会制度、企業の雇用システムは、夫婦と子供二、三人の家族を「標準」としている場合がほとんど。配偶者や子など扶養家族の数にもとづく税控除などの仕組みは、裏返せば、単身者などに負担をしわ寄せすることにもなる。「標準」以外の家族が増えるにつれ、こういった批判も出てきた。
「社会制度から個々人の意識のあり方まで、家族単位から個人単位へ発想を転換する時が来ている。支え合う人間関係を地域や職場で再生すること、多様な幸福のあり方を認めることが大切だ」と、伊田助教授は言う。
一人暮らしを続けた作家永井荷風(一八七九〜一九五九)の日記『断腸亭日乗』は、晩年になるほど記述が簡略になる。「二月廿(にじゅう)八日。晴。正午浅草」などと規則正しく出歩いていた日常が突然変わる。「三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆(ほとんど)困難となる。驚いて自働車(じどうしゃ)を雇ひ乗りて家にかへる」「三月二日。陰(くもり)。病臥(びょうが)。家を出でず」。そして「四月廿九日。祭日。陰」と書いた翌朝、息を引き取って発見される。
荷風の最期が「孤独の死」といわれてから四十年がたち、家族に囲まれることも、一人で暮らすことも、「近しい人」とともに生きることも、どれも一つの暮らしの形だと言える時代が来つつある。(生活情報部 福士 千恵子)
[核家族(ニュークリア・ファミリー)]
もともとは文化人類学用語で、夫婦と未婚の子供からなる家族を指す。アメリカの文化人類学者ジョージ・ピーター・マードックが『社会構造』(1949年)で、普遍的に存在する社会集団の基本単位として定義した。日本でも60年代から現実の核家族世帯の増加とともに、よく使われる言葉になった。
◆技術が変えた(1) *
*◇大衆車が開いた“新世界”◇
アリゾナの砂漠を、土地を追われた小作農一家十二人が中古トラックで西へ向かう。一九二九年の大恐慌下、貧農一家の苦難の旅を描く米映画『怒りの葡萄(ぶどう)』は、いち早くソ連で上映された。破たんした資本主義の姿を国民に示す格好の映画とクレムリンが判断したのだ。
だが、思惑は外れた。
「映画は人々を驚かせた。なぜなら、パンを買う金もない人間が靴をはき、車に乗っていたのだから。貧しさの質が違った」。南カリフォルニア大のマイケル・オコーナー客員教授(消費文化論)はそう話し、「車が米国を底あげした」と指摘する。
十九世紀末、南北戦争(一八六一―六五)後の米国は、鉄道を中心に都市化が進む。大陸横断鉄道も完成し、広大な米大陸は点から線で結ばれた。これを、さらに面へと広げたのが車の発達である。
ガソリン車は十九世紀末、ドイツのダイムラーが発明し、各国で開発競争が起きた。一九〇〇年にはパリに救急車が登場、欧州の都市を結ぶ自動車レースも始まる。だが、それは大金持ちの道楽の域を出なかった。車に革命をもたらしたのが、一九〇八年、大量生産システムを導入した米フォード社の「T型フォード」の発売だった。
同社は平均二千百五十九ドルだった車を八百五十ドルで売り出し、さらにシステムの改良によって四百四十ドル、二百六十ドルと値段を下げ、大衆車ブームに火をつけた。
その年の米国の車登録台数は二十万台、それが十年後には三十倍の六百万台を超え、二〇年代半ば、世帯への普及率は50%に達した。英仏両国が同じ水準になるのは六〇年代末、日本は七八年であり、半世紀も早い車社会の出現である。
車は石油や鉄鋼ブームを起こし、豊かなアメリカへの牽引(けんいん)車となる。石油王ロックフェラーや鉄鋼王モルガン、カーネギーらが台頭し、彼らの派手な暮らしがアメリカンドリームをかき立てた。
車ブーム時の米国人の生活変化を調査した社会学者R・S・リンド、H・M・リンド夫妻は「車がアメリカを一変させた」と書き残した。
調査したのはスピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』の舞台にもなったインディアナ州マンシー市。二四年当時、人口約三万人に対し、車の登録台数は六千二百二十一台。三世帯に二世帯が車を持っていた。七割以上は月賦で購入しており、聞き取り調査した二十六世帯のうち、二十一世帯は家にシャワーがなかった。家より車に走った市民が米経済に火をつけたのだ。
車は生活を一変させた。遠い森林や湖を身近なものにし、自然へのあこがれを呼び覚ます。全米でオートキャンプ熱が起き、マンシー市民の年間平均走行距離は八千キロにのぼる。地域共同体の中心だった教会は「日曜ミサに人が来ない」と車に反発した。
二〇年代の米社会を検証した『オンリー・イエスタデイ』の著者フレデリック・L・アレンは「車はアメリカを遊牧民の国にしてしまった」と書いた。
保守的な地域社会から脱出したアメリカ人は道路沿いに新世界を築きはじめる。かつてポーチ前で恋を語った若者はドライブに。モーテル、青い芝生の郊外住宅、車の中で食べられるホットドッグ、ハンバーガースタンド……。
ハイウエー中心の米社会を、フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールは皮肉を込め「アメリカは高速道路に過ぎない」と語ったが、米国人は「ロードサイド・エンパイアーズ(大いなるロードサイド)」と呼ぶ。
オコーナー教授は「米国は二度、自由を手にした。最初は新大陸に移住した時。二度目が車を持った時。車はこの国を解放した」という。
そして、「大いなるロードサイド」は、今も帝国のように世界に君臨する。
(大阪社会部 松尾 徳彦)
[馬車から車へ]
19世紀末、ガソリン、蒸気、電気を使った自動車の開発競争が激化した。しかし、蒸気は容器に、電気は備蓄に難題があった。結局、ドイツ人のダイムラーによる四輪ガソリン車が制した。先に三輪車を作ったベンツとともに「自動車の父」と言われる。いま、大気汚染で電気自動車が巻き返す。
*◆技術が変えた(2)
*◇家電登場、家事の質も向上◇
一九〇四年。米国セントルイス万国博覧会は、蒸気に代わる新エネルギー、電力の時代の幕開けを告げる祭典だった。エジソンが白熱電球を発明して四半世紀。五百ヘクタールという、万博史上最大規模の会場を無数の電灯が照らし、百六十台の電気自動車が入場者二千万人の足となった。明るく、クリーン。それは、二十世紀のもう一つのエネルギー、石油にはない快適さである。
米国の家庭に電気が普及するのは今世紀初め。油田の発掘ラッシュと競うかのように発電所建設の槌(つち)音が全米を包んだ。一〇年に15%の家庭しか使えなかった電灯が、三〇年には七割の世帯に届く。一九〇七年に初めて電気洗濯機が、間もなく冷蔵庫、掃除機も出そろう。電気は、人々の暮らしに輝きを与えた。
一枚の写真がある。シルバーのトースターのそばに、そっとおかれた指輪。ニューヨーク市のクーパーヒューイット博物館で、古い家電製品とともに展示された五十年前の広告だ。新婚生活の必需品。日本なら、トースターでなく、炊飯器といったところだろうか。
六年前に開かれた、この展覧会のタイトルは「機械化時代の花嫁たち」。企画したメリーランド芸術大のエレン・ラプトン教授は「家電製品が普及し始めた時、主婦たちは洗濯機、掃除機にキスし歓迎した。とてもロマンチックなパートナーだった」と話す。
戦後、五〇年代後半から始まる日本の家電ブームも、そうだった。
子供を背負い衣類を手洗いしていた主婦作家重兼芳子氏は著書『女房の揺り椅子(いす)』の中で、初めて洗濯機を使った時の感動を書く。
〈機械ががたがた回りながら、私の代わりに洗濯してくれる。こんなぜいたくをしてお天道(てんと)さんの罰が当たらないかと、わが身をつねって飛び上がった〉
それまでの家電と言えば、アイロン、扇風機、ラジオくらいのもの。それが、総理府統計局「全国消費実態調査報告」によると、東京オリンピックが開かれた六四年には、テレビ、炊飯器の世帯普及率は90%以上、洗濯機が80%、冷蔵庫も70%を超え、掃除機も50%に達した。
「家事からの解放」「明日から朝寝坊」「働く女性の味方」。女性をターゲットに、家事軽減を打ち出す広告が新聞やテレビを埋めた。
国際日本文化研究センターの落合恵美子助教授は「そのイメージとは反対に、女性は懸命に家事をする専業主婦になった」と指摘する。
当時は、平均10%という未曽有(みぞう)の高度経済成長期。農村の若者が都市に集中し、五九年には、サラリーマン(雇用者)が初めて、自営業主、家族従業者の合計を上回る。このため、家業に従事する主婦は減少していき、サラリーマン世帯の専業主婦がピークとなる八〇年には一千万人を数えた。二十五年間に倍増したわけだ。
「NHK国民生活時間調査」では、主婦の一日の平均家事時間は六〇年が七・一二時間。これに対し、八〇年は七・三六時間と逆に増えている。
「便利な機械が家に入り、毎日、洗濯、掃除をするのが当たり前になる。求められる清潔さの水準が上がり、家事負担は逆に重くなった」
ラプトン教授はそう指摘し、「米国で七〇年代以降、フルタイムで働く主婦が増えたが、依然、夫の何倍もの家事を請け負っている。家電もまた、家事を肩代わりするには全く不十分」と言い切る。
日本でも八〇年代以降、女性の職場進出が進み、四十歳代の主婦のほぼ七割が仕事を持つ。家電は依然「良きパートナー」であっても、「ロマンチックな存在」ではなくなった。
家電製品がもたらした家事の質を維持しながら、夫も妻も、それぞれ個人の生き方を求める――。家庭生活はいま、新たな課題に直面している。(大阪社会部・松尾徳彦)
[家電受難時代]
家電は米国が先行したが、日本でも洗濯機、冷蔵庫は1930年、掃除機も翌年に国産化に成功した。一部富裕層を中心に家電ブームの兆しがあったが、太平洋戦争前年に、戦時品のラジオを除いて、あらゆる家電製品が宝石やパーマネントとともに「ぜいたく品」として禁止となり、日本での普及は大きく遅れた。
*◆技術が変えた(3)
*◇携帯が生む若者情報社会◇
「欲は善。欲は正義。欲こそは力」。日本で携帯電話サービスが始まった一九八七年に制作された米映画『ウォール街』。マイケル・ダグラスふんする投資家は、豪華なオフィスの電話、散歩する浜辺からの携帯電話で、次々と株の売り買いを指示する。電話一本で巨額のカネとモノが動く社会、それが二十世紀だ。
携帯電話がいま、若者の間に急速に広がっている。ビジネスから遊び感覚へ。電話は「一人一台」の時代に入り、新しい情報空間を形成する。
日本で一般向け電話業務が始まったのは一八九〇年(明治二十三)。物理学者のグラハム・ベルが米ボストンの自宅で、「ワトソン君、用事があるから来てくれ」と、隣室の助手に送った電話の第一声から十四年後のことだ。
日本では電灯すらまだ珍しく、たちまち「電話機から伝染病がうつる」とのデマも広がった。その後、政府の設備投資ははかばかしくなく、加入数が一千万に達するのは戦後の高度成長期。車の登録台数が一千万台を突破した翌一九六八年のことだ。
かつて夏目漱石は「電話はかけるために買った。次々かかってくる電話には耐えられん」ともらしたという。漱石、ベルの時代、用件を伝える道具だった電話は、普及とともに若者たちの重要なコミュニケーション手段となる。六〇年代後半、公衆電話の長話がひんしゅくをかった。評論家の大宅壮一氏は「一種の公害」と断じ、六九年末から三年間ほど、公衆電話は三分間で打ち切られた。米国でも若者の長電話が問題化し、精神医学会が「子供の精神的欲求を満足させる」と、おしゃべりを擁護する騒ぎも起きた。
国民の二人に一台、約五千万に膨れ上がった携帯電話の加入数。郵政省郵政研究所によると、二十歳代の利用率が最も高く、PHSでも唯一、十歳代が増加している。若者たちが、いち早く携帯電話に飛びついた実態が浮かぶ。
博報堂生活総合研究所の関沢英彦所長は「若い人に『親友は何人』と聞くと、平気で『三十人』と答える。人生相談はあいつ、スキーの話は彼、カラオケなら……と人との付き合いがパート化している。こうした人間関係はフェース・ツー・フェースでなく、デジタルな関係。携帯電話など情報機器を中間にはさんで結ばれている」と指摘する。
かつてアパートの共同電話では、その若者がどんな交際をしているか、周りの人に見えた。家庭の電話でも会話の雰囲気から、親はそれとなく子供の交友範囲を知っていた。それが子供部屋に携帯電話という組み合わせ。まるでホテルの一室のようだ。
顔も住所も知らない者同士の会話が不気味に広がるデジタル社会。佛教大の富田英典教授(社会学)は「フランスの哲学者ドゥルーズの言葉を借りれば、リゾーム(根っこ)型だ」と分析する。
「会社や学校、家といった生活単位とは別に、個々人が変幻自在に形成する小グループができ、それがあるグループとはつながり、別のグループとは遮断されている」。例えば、マスメディアが情報を発信し、網の目のように広がるネットワーク型情報社会とは全く異質だという。
富田教授は、若者に広がる「メール文化」にも注目する。携帯のプッシュボタンを親指一本でたたき、「文字メール」を送る若者たち。
「ポケベル、携帯世代は、常にだれかとつながっていたい反面、自分が傷つくのを極度に恐れる。メールは電話を切られる心配がなく、受け手も好きな時に好きなメールだけ見ればいい。互いに負担の少ないコミュニケーションの方法」と、パソコン通信との類似点を強調する。
家から個人へ、用件からおしゃべりへ、声からメールへ――。コミュニケーション空間の変化が、カネとモノの流れをも変えようとしている。(大阪社会部・松尾徳彦)
[ホットライン協定]
世界を核戦争の恐怖に陥れたキューバ危機を教訓に、63年8月、米ソのトップ間に直通電話が開通した。1本の電話にゆだねた世界平和。24時間体制で機器点検を行い、1時間ごとにメッセージを流し合う。無線とケーブル電話は人工衛星回線になり、84年に高速ファクスも加わった。
*◆技術が変えた(4)
*◇仮想現実さまよう童心◇
バブル崩壊後の一九九二年八月二十六日、名古屋証券取引所。トヨタ自動車の豊田章一郎社長(当時)は苦渋に満ちた表情で、九一年度の決算発表に臨んだ。本業の利益を示す営業利益は自工、自販の合併以来、最低の千二百四十九億円。同年度の任天堂の千四百三億円を大きく下回った。二十世紀産業社会の主役である自動車が、テレビゲームに敗れたのだ。子供の遊びが大人の世界を変える端緒をひらいた瞬間とも言えた。
任天堂がゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売したのは、東京ディズニーランド開業三か月後の八三年七月。以来、日本のテレビゲームは世界市場を独占し、出荷累計はゲーム機二億台、ソフトは十五億本を超える。
子供の世界から、童謡が流れるような光景が消えた、と東京成徳短期大の深谷昌志教授(教育学)は嘆き、「子供は、外で遊ばなくなった。けんかをしながら人間関係を築く鍛錬の機会も失った」と言う。
テレビゲームの影響で、米国では、テレビ視聴時間が大幅に減った。ところが、九七年に全国の小学三―六年生千五百人を面談したNHKによると、日本では、テレビ、ゲームの時間とも十年前より増加。特に「夕食前に何を」との問いに、「テレビゲーム」との答えが倍増した。一方で、減少したのは野球、サッカーなどボール遊びや自転車遊びだった。米国とは対照的に、双方にのめり込んでいるのが日本の子供の現状だ。
「格闘系のアニメやテレビゲーム、死を扱った映像、書籍など刺激的な場面に影響されやすかった」。九八年三月十八日の東京家裁。中学三年の少年がナイフで警官を襲い短銃を奪おうとした事件で、裁判官は犯行の背景にゲームの影響を挙げた。今年四月、米コロラド州の高校で、十三人を銃殺した高校生二人のうち一人もゲーム愛好家だった。
「心理学的実験では悪影響は証明されていない」というお茶の水女子大の坂元章助教授(社会心理学)も、「人気ソフトは、百人を超える専門家が一年以上かけて練り上げる。映像はよりリアルに、キャラクターはより自由に動き、現実と仮想世界の垣根は低くなる。子供たちは現実と仮想の狭間で行き暮れないか」と、高性能化に懸念を抱く。
懸念は米国でも広がっている。ペンシルベニア州立大のゲーリー・クロス教授(歴史学)は「今世紀、子供の遊びが親の世界から離れてしまった」と心配する。
一例が、米大手チェーン店が導入した「レジストリー(登録)」販売。クリスマスや誕生日前に、子供がほしい物を店に登録し、親や祖父母は来店して、子供の指示に従って商品を購入する仕組みだ。
「長い歳月、親が子に遊び方やおもちゃを与え、親のメッセージを込めていた。テレビゲームなどの登場で、親の世代が知らないヒーロー、ヒロイン、がん具が生まれ、移り変わりもめまぐるしい。親は、子供の世界が見えず不安だけが増幅される」という。
鬼ごっこ、ままごと、竹とんぼ、メンコ、ビー玉、ベーゴマ……。日本の遊びも、緩やかに移り変わってきた。
戦後の高度成長期、大量生産のがん具が登場する。フラフープ、ダッコちゃん、ホッピング。先端技術を使ったプラモデルやラジコン(無線操縦装置)。そして、巨大産業となったテレビゲーム。高度な技術の波のなかで、子供の脳は変わってしまうのか。
北里大の養老孟司教授(解剖学)は言い切る。
「人の脳は百年や二百年では何も変わらない。例えば、五万年前の子供をいま、小学校に入れれば、ちゃんと現代人になる。変わったかどうかは、意識の問題に過ぎない」
現実と仮想現実をさまよう子供の意識のたどり着く先はまだ見えない。(大阪社会部 松尾 徳彦)
[テレビゲーム今昔]
発祥地は米国。原子爆弾の回路設計を担当した技師が、世界最初となる「テニスゲーム」をつくる。その後、アタリ社が初めて家庭用を商品化したが、粗悪ソフトのはんらんなどで、80年代半ばには市場が崩壊。ファミコンはその空白を突いて、本場・米国で一大ブームを巻き起こし、以来、日本企業の独壇場となる。
*◆技術が変えた(5)
*◇プラスチック文明の影◇
二十世紀に入って十日目の一九〇一年一月十日。米国南西部のテキサス州で、三百五十メートルの地中に眠る「黒い水」が、ごう音とともに噴き上げた。十九世紀の細々とした油田とは比較にならない日産十万バレル(一万五千九百キロ・リットル)。この「スピンドルトップ油田」の発見で、石油文明の世紀が始まった。
ベルギー系米国人レオ・ベークランドが最初の完全なプラスチック「フェノール樹脂」を開発するのは、その五年後。ポリエチレン、ポリプロピレン……。多種多様なプラスチック素材が誕生した。石油を原料に大量生産でき、安くて加工が簡単だし、軽くて強い。まさに「夢の新素材」である。
日本でも石油化学工業が高度成長のけん引役の一翼を担う。日本プラスチック工業連盟によると、プラスチック国内生産量は五五年の十万トンが六七年には二百六十万トン。米国に次ぐ世界二位の生産国に躍り出た。
ところが、全盛期の七〇年、大阪での「日本万国博覧会」で、コップやトレー、弁当箱など会場で使う「使い捨て容器」からプラスチック製品が一掃される。
主催者の万博協会が「大量のプラスチックごみを焼却すると、高熱で焼却炉を傷める」と、出店の八百業者に使用禁止を言い渡した。
「プラスチックの問題点が公に問われた初めてのケースだった」と、万博協会衛生課長だった猫西一也さん(75)は振り返る。
業界は反発し、「科学技術を紹介する万博で、最先端技術の排除は納得できない」と撤回を求めた。
それも一理あった。
万博では、先端技術を後世に残そうと、カプセル詰めにして地中に埋めるイベントが行われた。カプセルには、ピンキーとキラーズのヒット曲『恋の季節』のレコード、人工血管・心臓弁から、女性のファッションを変えたナイロン、自動車部品、フィルムなど数えきれないほどのプラスチック製品が収納されていたからだ。
さらに、七年後、環境問題が一気にクローズアップされる。オランダ・アムステルダム大学の研究グループが、一般のごみ焼却炉から飛散した灰に発がん性の化学物質ダイオキシンを検出した。プラスチックごみが、その発生源の一つとされたのだ。
昨年のプラスチック国内生産量は一千四百万トン。万博当時の三倍である。
今、家庭ごみの六割以上は、プラスチックが大半の「容器・包装材」。スーパーの食材を包むトレー、ラップ、ビニール袋やペットボトル、発泡スチロールなど。
しかも、大阪市のデータでは、人口の増減と比例していたごみの量は六〇年代半ば以降、人口が横ばいにもかかわらず、三倍にも膨れ上がっている。使い捨て感覚のまん延、一人暮らし、核家族化による世帯数の急増……。ライフスタイルの変化が、ごみの増大をうながし、環境問題を引き起こす。
京都大の酒井伸一助教授(環境工学)は「この地球の許容量もそろそろ限界に来ている。ごみを減らし、リサイクルを進め、最後に残ったごみを適正に処理する。着実に取り組む以外に解決策はない」と警告する。
朝もやの残るニューヨーク市のマンハッタン。9ミリ自動短銃をさげた男が歩道に山積みのごみをあさる。
リサイクルごみの分別収集を怠った市民に対し、初めて罰金制度を導入したのだ。一日十枚以上の違反切符を切る市衛生局「ごみポリス」のマルティネス・ウィリアム巡査(34)はこの朝、ごみ出しされたばかりの袋をほどき、こう言い放った。
「人間っていうのは、本当に怠け者だね」
(大阪社会部 松尾 徳彦、写真も)
ごみポリス 市警と同じ制服と装備で、700万市民、年間200万トンのごみを監視。ニューヨーク市は1991年、紙は半透明、プラスチックやアルミなどはブルー、それ以外の一般ごみは黒と、色分けした袋でのごみ出しを義務化した。罰金25ドル。2回目以降、同額ずつ加算されるが、完全に分別できているのは、全世帯の3割程度だ。制、私服108人いる。
*◆テレビ(1)
*◇時空超え届く“現実”◇
その日、世界中の人々がテレビにくぎ付けになった。一九六九年七月二十日、アポロ11号が月着陸に成功し、三十八万キロを超えて生中継されたからだ。宇宙の情景も自宅で見られる時代の訪れだった。
時空を超えて届く映像に対し、多くの研究が行われてきた。米国でテレビが家庭に浸透しつつあった五三年、社会学者のラング夫妻は「テレビ的現実」の実例を示した。
夫妻は、五一年四月にシカゴで行われたマッカーサー元帥帰国パレードで、沿道の聴衆の反応とテレビ中継とを比較した。沿道の聴衆は「テレビで見るべきだった」と不満をもらした。通り過ぎる元帥の姿を垣間見ただけだったからだ。一方、画面では常に元帥が中央にいて、熱狂的な聴衆と交互に映った。聴衆は撮影されることを意識して拍手や歓声を上げた。よりドラマチックな「現実」を、画面は映し出していたのだ。
米国の文明史家ダニエル・ブーアスチンは『幻影の時代』(六二年)にこう記した。「この五十年来、我々の経験や見聞の大半はマスコミによって合成された疑似イベントになり、観客は自然さより物語の迫真性や見た目の本当らしさを好むようになった」
映像を巡る論議は、テレビが普及する前の三〇年代にもあった。写真や映画を取り上げ、ドイツの思想家バルター・ベンヤミンが「理解しやすく、多くの人が使いこなす力を与えてくれる」と評価したのに対し、ドイツの哲学者テオドル・アドルノは「観客は想像や思考を奪われた。産業社会の暴力は心の奥底にまで力を及ぼした」と批判した。
東京経済大の桜井哲夫教授(メディア論)は、「視覚メディアの可能性を論じた二人の対立は、そのままテレビに当てはまる」と指摘する。
長期的な影響調査で注目されたのが、米の社会学者ジョージ・ガーブナーが七〇年代に相次いで発表した研究成果だ。彼は十二年にわたって番組の暴力シーンの頻度を調べ、一方で視聴者に対し「あなたが暴力に巻き込まれる確率は」と推定してもらった。
その結果、習慣的に長くテレビを見ている人はテレビ的現実をもとに主観的現実を再構築する傾向があり、実際以上に暴力が起きると考えていた。視聴時間と現実認識のずれには相関関係があった。
かつて個人の社会的認識は、地域でのやりとりや体験に基づいて形成されてきた。だが、メディアの発展により、現代ではまずそこから情報を得るのが当然になった。
「自ら確かめられない分野はメディアに頼らざるを得ない。特にテレビは視覚と聴覚を刺激するため、活字より人間の本能に訴える」。東京大の橋元良明教授(コミュニケーション論)はそう話す。
橋元教授は人類が高度な言語を使い始めてからの約三万五千年を、一年の暦に換算してみた。言語の獲得を一月一日にすると、紀元前約三千百年のシュメール人による文字発明は十一月八日、一四五〇年の印刷術発明は十二月二十六日、テレビ登場は大みそかの午前六時半になった。
「人類が文字を介したコミュニケーションを始めてそう長くはない。それ以前の六分の五の期間は目と耳を同時に使って生きていた。テレビが急速に普及したのも自然の成り行きだった」
ユネスコ統計(九七、九八年)によると、世界二百一か国のうち百九十三か国でテレビが放送され、先進諸国では千人当たりの受像機は五百四十四台を数えている。
米国の人類学者マーガレット・ミードは『地球時代の文化論』(八一年)で、人類に対する影響力でテレビは核爆発に匹敵すると述べた。その影響力を示すように、草創期には「テレビ功罪論」も盛んに語られた。そして、いま――「テレビが現れて半世紀、その広がりが速過ぎて、我々はテレビとどう付き合えばいいか、まだわからないでいる」(桜井教授)。(社会部 笠間亜紀子)
[アポロ11号の中継]
日本時間では69年7月21日に中継され、視聴者はアームストロング船長の第一歩や地球に比べて6分の1の重力のために船長らが跳びはねる姿を目にした。「テレビ中継はさぞ盛況だろうな」と、船長が予想した通り、東京で生中継を見た人は15歳―69歳では68%、ニュースなどを含めると91%がテレビでこの第一歩を見た(NHK調査)。
*◆テレビ(2)
*◇社会も動かすCM◇
女性が薬を飲もうとする。すると、「医者は何を勧めていますか」という声が流れ、女性が動きを止めた。動画に切り替わって、頭の中でハンマーが打ち鳴らされる場面が展開される。そんな激しい痛みもこの頭痛薬で「すぐすぐすぐ」効くという訳だ。
アメリカでテレビの普及が進んだ一九五〇年代、ニューヨークの広告マン、ロッサー・リーブスがつくったこんなコマーシャル(CM)がヒットした。製作には八千四百ドルかかったが、このCMが流れた後、商品の売り上げは三倍になったという。
「だれもがテレビというニューメディアにとまどっていた時、リーブスは商品の特性を『すぐすぐすぐ』など、わかりやすく短いコピーに絞り込み、視聴者に効率よく記憶させた。今に通じる一つの形式を作ったと言える」。早稲田大の有馬哲夫教授(メディア論)はそう解説する。
世界初のテレビCMは、米ニューヨークの地方放送局WNBTから四一年七月一日に放送された。ニューヨークの受像機がまだ四千台程の時代。大リーグの試合中継でブローバ社の時計が映し出され、時刻が告げられた。日本では民放が始まった五三年八月二十八日、精工舎の時報でテレビCM史の幕が開いた。
広告の歴史は古い。チラシは江戸時代、「引札」と呼ばれた。井原西鶴の『日本永代蔵』(一六八八年)には、開店時に「現金安売(やすうり)掛値(かけね)なし」という引札を配った日本橋の呉服店の話が出てくる。平賀源内は一七六九年、歯磨きの引札に「歯をしろくし口中のあしき臭をさり」と、今で言うコピーを書いた。
新聞やラジオにも広告はあったが、テレビは視聴覚の両面に訴える点で違っていた。
日本でもテレビの普及とともに、視聴者は消費へと駆り立てられていった。五八年に10%だったテレビ普及率は、年を追うごとに24%、45%、63%と増え、六二年には79%になった。炊飯器や洗濯機などはCMを流すそばから売れ、朝食に即席スープをといった新しいライフスタイルの提案も現れた。「イエイエ」(六七年)という軽快なCMソング、「はっぱふみふみ」(六九年)という言葉遊びのCM――高度成長の勢いがそのままCMにも反映された。
だが、七〇年代に入ると趣は変わり、商品と関係ない自然や人間の風景など、社会性のあるメッセージも流れ始めた。「モーレツからビューティフルへ」(七〇年)。七三年に起きた石油ショックがこうした潮流を確かなものにした。人々の要求も量的拡充から生活の質を充実させようと変わってきていた。
社会学者の加藤秀俊氏は『CM25年史』(七八年)で、CMを戦後社会の「キー・シンボル」と述べ、「(CMによって)人々は行動し、共通の経験を分かち合うようになった。生活、思想、行動様式だけでなく、経済のあり様も変えた」と記した。広告評論家の山川浩二氏は「CMは世相を映す鏡として独自の文化を形成した」と話す。
だが、CMが描く世界と現実社会との間には隔たりもある。「リッチでないのにリッチな世界などわかりません ハッピーでないのにハッピーな世界などえがけません」。こんな遺書を残し、七三年、一人のCMディレクターが自殺した。化粧品など情感溢(あふ)れるCMを数多く手がけた。遺書は、作り手側のジレンマの一端をのぞかせていた。
夢、笑い、感動――CMは多様化し、さらに広がりを見せている。「時間、ライフスタイル、極端なことを言えば幸せまでも買うことができる。視聴者は、知らず知らずのうちにそんな強烈なメッセージを受け続けていることを自覚し、文字通り受け止めていいのか、立ち止まる必要があるのではないか」。東京学芸大の村松泰子教授(メディア論)はそう指摘している。(社会部 笠間 亜紀子)
[テレビの広告費]
昨年は1兆9505億円で、ラジオ、雑誌、新聞を含めた媒体広告費の52%に及ぶ。食品、化粧品類、飲料・し好品の3業種で41%を占める。75年に新聞広告を追い抜いた。CMの総量は1週間の総放送時間の18%以内とされており、CMに使われた新曲がヒットする例も目立つ。
*◆テレビ(3)
*◇女性の意識改革促す◇
米国のテレビ草創期に、局側も予期しなかったほどの人気を集めた番組があった。一九五一年十月にCBSで始まった月曜夜九時の『アイ・ラブ・ルーシー』だ。
スターを夢見る主婦ルーシーと、平凡な暮らしを望み、妻は家にいてほしいというバンドマンの夫。隣人夫婦も巻き込んで毎回、妻と夫がドタバタ喜劇を繰り返す。
四十歳のルシル・ボールが演じる主人公に、視聴者は一喜一憂した。ニューヨークのコラムニスト、スーザン・ホロビッツ氏は、「主婦たちはルーシーの姿に、家庭に埋没している自分を重ねて共感した」と分析する。
ちょうどテレビが家庭に入り始めたころ。五一年に23%だったテレビの世帯所有率は、番組が終わる五七年には82%に達した。その間、「ルーシー」は四回にわたり、夜のプライムタイムの平均視聴率でトップに輝いた。
「ルーシー」が放映された当初、テレビでは大都市の劇場で催される成人男性向けのライブショー番組が人気だった。だが、テレビの前には女性も子供もいた。家族そろって見ることのできた「ルーシー」は、このショー番組を駆逐する結果ももたらした。
「女性がテレビのチャンネル権を持っていることを示した端的な事例」。早稲田大の有馬哲夫教授(メディア論)はルーシーの番組成功をそう解説する。
視聴者として女性の力が大きいのは、日本でも同じだった。かつて大衆娯楽の代表といえば映画。ヒロインの多くは若く美しい女性、あるいは郷里の母親をしのばせる女性だった。映画館に足を運ぶのは若者や男性がほとんどで、家庭に縛られがちな主婦は観客として対象になっていなかったからだ。テレビドラマでは、その主婦が主人公となって画面に登場した。
映画評論家の佐藤忠男氏は「テレビが初めて主婦層にスポットを当てた。女性たちは、映画に見いだせなかった自分の代弁者をテレビに発見した」と話す。
だが、テレビが一般的になっていくとともに、女性たちはテレビが描く女性像に対し不満を抱き始めた。テレビはドラマやCMで良き妻、良き母像を描いたが、それは旧来からの性別役割分担を押し付けるものだというのだ。「テレビが映像化することで、それまで潜在化していた男女差別が表面化し、拡大した」(有馬教授)。
後に女性運動の指導者となるベティ・フリーダンは『テレビとフェミニンミスティーク』(六三年)の中で、「テレビに映っているのは姿形こそ女性だけど、人格はなく空っぽ」と異議を唱えた。「テレビが描く望ましい妻、母像は女らしさについての間違った神話だ。その虚像と現実のギャップは主婦たちをいらだたせ、悩ませる」
フリーダンは六六年に全米女性機構会長に就任すると、放送局や広告代理店に対し、テレビが描く女性像の見直しを迫り、その運動は国境を超えて広がっていった。
そうした女性たちの問題意識の裏側で、テレビは情報の平等化を促す役割も果たした。
米国のニューハンプシャー大のジョシュア・メロビッツ教授(コミュニケーション論)は『場所感覚の喪失』(八五年)で、「米大統領選で女性の投票率が男性と並ぶのは、テレビ普及が進んだ五六年の選挙が初めて」という事実を挙げ、「雑誌などでは情報は階層や性別で細分化されていたが、テレビを通じて男性と共通に得られるようになったことが大きい」と指摘した。
「テレビが家庭に持ち込む情報は、女性に主婦から国民としての役割を自覚させる作用をした」。同志社大の佐藤卓己助教授(メディア史)はそう語っている。(社会部 笠間 亜紀子)
[女性とメディア]
日本では80年ごろ、夜の全国ニュースに女性アナウンサー、キャスターが相次いで登場した。「国連世界女性会議行動綱領」(95年)では、メディアの描く男女像になお隔たりがあり、女性が求めている情報が足りないとして、各国政府やメディアに対し〈1〉企画や番組を女性の視点で見直す〈2〉製作側に女性を増やす――などの必要性を訴えている。
*◆テレビ(4
*◇“見分ける力”子供にも必要◇
一九八〇年代のアメリカで「ゾンビー・チャイルド」という言葉が親の間にはやった。子供向け番組『セサミ・ストリート』を監修したハーバード大のジェラルド・レサー教授(心理学)による造語で、何時間もテレビ画面に夢中になり催眠状態のようになった子供を指していた。
この言葉は、テレビ研究家のケイト・ムーディが『テレビ症候群』(八〇年)で使って広まった。「テレビは手を使う経験を少なくする」「五歳までに二百時間以上の暴力映像にさらされ、十四歳までに一万三千人が殺されるのを見る」。こんな分析とともに造語が浸透した背景には、テレビの暴力シーンを懸念する親心があった。
アメリカではテレビ草創期の五〇年代から、暴力シーンを巡って多くの研究、議論が行われてきた。「テレビ暴力モニター調査」(カリフォルニア大)、「全米テレビ暴力研究」(テキサスなど四大学)……発表されたものだけでも、ゆうに三千五百は超す。
議会が最初に動いたのは五四年だった。テレビの世帯所有率が58%のころ。問題にされたのは西部劇だった。激しく撃ち合う場面が必ずあったからだ。連邦議会上院は小委員会で「子どもとテレビ」をテーマに公聴会を開いた。
行政では、公衆衛生局長官が七二年、「テレビの暴力の視聴で子供の攻撃的な態度が増す傾向にある」とする報告書を出した。八百万ドル(当時約二十四億円)をかけ、一万人を対象に五十もの実験研究を行った結果だった。九二年には米心理学会が「他人への暴力を増やす」「被害にあうのではという恐怖心を生む」「暴力への感覚がまひする」と指摘した。
こうした潮流の中で九六年、米議会は通信法を改正し、問題の多い番組を自動的にカットする「Vチップ」の導入を決めた。来年一月から生産される十三インチ以上のすべての受像機に搭載される。
「暴力シーンだけが犯罪を起こす原因という訳ではないが、アメリカは銃社会で、テレビの普及と歩調を合わせるように少年犯罪が急増した事情がある」。お茶の水女子大の無藤隆教授(発達心理学)はそう解説する。
一方、九〇年代に浮上したのが「メディアリテラシー」という概念だ。メディアが伝えるものを主体的、批判的に読み解く力をつけることを意味している。三〇年代、ローマ法王庁がナチスのメディア戦略に脅威を感じ、見る側が選別力を付けなければと指摘したことに端を発する。
九〇年七月には仏ツールーズで、ユネスコなどがメディアリテラシーをテーマに初の世界会議を開き、四十五か国から二百人が集った。
会議で注目されたのがカナダの取り組みだった。オンタリオ州は八七年、中、高校の国語教育にメディアの非現実と現実とを見分ける力を養う授業を組み入れた。七〇年代にアメリカからテレビ映像が大量流入し、暴力の影響を心配した親たちが市民運動を発展させた。
テレビが家にやってきたころ、だれもがその映像に驚いた。しかし、草創期と違い、現代では生まれた時からテレビに接している。
日本の小児科医らの調査(八九年)によると、三、四か月児の50%がテレビを見ており、その時間は平均一時間十八分だった。ユネスコが九六、九七年に行った二十三か国の十二歳児調査では、テレビの視聴時間は一日三時間だ。
カナダの文明批評家マーシャル・マクルーハンは『メディア論』(六四年)などで、「メディアはメッセージである」と述べた。
「子供たちは、現実社会と、テレビメディアの描く社会と二重構造の中で生きている。子供たちがテレビのメッセージを受け止めて賢明に生きる術(すべ)を身に付けられるか、その責任は大人にある」と、無藤教授は話している。(社会部 笠間 亜紀子)
[日本の議論]
昨年1月に栃木県で起きた中学生による殺人事件をきっかけに議論が始まり、日本民間放送連盟はNHK、郵政省と共同でこの6月、性や暴力の表現を自粛しようとする子供向けの初の指針をまとめた。10月からは、午後5―9時までを「子どもに配慮した時間帯」とする。メディアリテラシーのための小学校高学年向け番組も秋に放映される。
*◆大衆民主主義(上)
*◇「人気取り」の危うさ◇
テムズ川沿いにたたずむイギリス国会議事堂。ゴシック様式の荘厳な建造物は、十三世紀に起源をもつ英国議会の伝統と風格を漂わす
。
その下院で一九四七年十一月十一日、ウィンストン・チャーチル保守党党首はこう演説した。「民主主義は政治にとって最悪の制度だ。ただし、それ以外のこれまでの制度はもっと悪いものばかりだが」
英国首相として、第二次世界大戦で功績をあげたチャーチルだが、戦後処理を討議するポツダム会談のさなかの四五年七月の総選挙で労働党に敗れ、政権から退くという大きな屈辱を味わった。この言葉には、民主主義を標榜(ひょうぼう)する労働党への皮肉とともに、それでもなお社会主義や全体主義などよりはましだという意味が込められていた。
英国では一八六七、八四両年の改革で選挙権が大幅に拡大し、政党も名望家政党から大衆組織政党へと脱皮した。男女の完全普通選挙制は一九一八年と二八年の法改正で実現し、大衆の政治参加の要求としての民主主義は少なくとも形式のうえでは完成していた。
名門貴族の出自なのだが、選挙で何度も落選を経験しているチャーチルの民主主義観は複雑だ。父親のランドルフもやはり保守党の指導者で、長い議会の歴史で保守党が培った「上流や中産階級だけでなく、貧しい層の支持もなければ国政運営はできない」という信条を持っていた。チャーチルもまた、それを受け継いでいた。
一方で、彼は民主主義の欠陥もよくわかっていた。選挙権が貧しい階級にも広がった十九世紀後半は、「ビール一杯で一票」と言われるほど腐敗が横行した。母親が米国人だったこともあり、平等の意識が国民に強い“民主主義の先進国”米国では、政党が大衆迎合に陥っていることも知っていた。
父は保守党の民主的改革を目指した「トーリー・デモクラシー」を唱えたが、一八八六年に党内の反対勢力に敗れて失脚し、失意のままに九年後に病死した。「チャーチルは、大衆政党の機構、大衆民主主義に父親が殺されたと受け止めた。彼は大戦を勝利に導いた直後の総選挙で敗れた時は、大衆の忘恩だと怒った」(学習院大学の河合秀和教授)という。
チャーチルは、首相になる前からこう述べていた。「民主主義が、進歩への原動力として不適当であることは周知の事実だ。多くの国における現在の指導者は有能でもなければ、国家的重要さを把握した人物でもない。民主的政府は、耳触りのよい言葉を並べて人気取りに憂き身をやつしている」(『わが思想わが冒険』一九三二年)。
大衆民主主義の持つ危うさは、一八三一年に米国を訪れたフランスの政治思想家アレクシス・ドゥ・トックヴィルが、いち早く指摘した。米大統領選を見たトックヴィルは、「陰謀と買収とは選挙制政治の腐敗的影響である」(『アメリカの民主主義』一八三五、四〇年)と述べている。
河合氏は「『民主主義』という言葉は、第二次大戦後に世界的シンボルになった。ファシズム国家に対抗した米英ソ大同盟の共通スローガンが、『民主主義』だったからだ。そうした中で、チャーチルは演説で、民主主義に幻想を持つべきでないと訴えた」と語る。
大衆民主主義への危惧(きぐ)は、チャーチルとほぼ同時代の英国の政治学者グレアム・ウォーラスも、著書『政治における人間性』(一九〇八年)ですでに問題を提起していた。
ウォーラスは、政治的立場はチャーチルと反対の社会主義者で、フェビアン協会の有力メンバーだった。大衆は習慣や暗示、模倣などに左右されがちで、民主主義はそんな人間に不向きではないかと考えたのだった。
長く忘れられた思想家だったウォーラスはいま、英国で見直す動きが出ているという。オックスフォード大セント・ジョーンズ・カレッジのロス・マクキビン教授は「冷戦後、社会主義という敵がいなくなり、我々の制度はこれでいいのかという現代人の疑問が、ウォーラスへの共感になっているのだろう」と語っている。(政治部・榊原智子)
*◆大衆民主主義(下)
*◇脱「官僚支配」今なお課題◇
普通選挙制と議会制の広がりとともに、二十世紀の政治の潮流になった民主主義は、反面、大衆の政治への参加によるさまざまな副作用をもたらすことにもなった。
今世紀初め、政府や軍隊などにみられるようになっていた特性を「官僚制」と定義し、官僚制化の進行は「前進する大衆民主主義から分かつことのできない影」だと予言したのは、ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(一八六四―一九二〇)だった。
第一次大戦が終わった直後の一九一九年一月末。敗戦が暗い影を落としていたドイツで、ミュンヘン大学のわきにある書店のホールは、学生らの熱気で満ちていた。薄暗い、百五十人ほどでいっぱいになるこの狭い場所で、ウェーバーの講演「職業としての政治」は行われた。
「専門的に訓練された官僚層が、ドイツでは圧倒的な重要性をもってきた。その点ではドイツは世界のトップクラスだ。官僚は閣僚の地位さえ要求するようになった」
政治家の持つべき資質を論じたことで有名な演説だが、ウェーバーの最大の眼目は、いかに官僚支配の現状を克服するかにあった。
ドイツは、強引な対外膨脹政策を進めたあげく第一次大戦に突入し、中立国の船舶をも攻撃対象にする無制限潜水艦作戦でアメリカの参戦を招き、敗戦に至った。
ウェーバーには、この失敗は、無定見な皇帝ウィルヘルム二世と、それに無責任に追従してきた官僚がもたらしたものと映っていた。政治的指導力を発揮すべき議会や政党は、権限もなく、事態を追認するばかりだった。
どう国家の危機を乗り切るか。ウェーバーが編み出した処方箋(せん)が、官僚支配という「指導者なき民主制」を改め、有能な政治指導者を生み出す議会制民主主義を確立することだった。
官僚制は「隷従の檻(おり)」を作り出すとも予言している。
「生命ある機械」である官僚制が、国家や企業、軍隊、政党、学校、組合など様々な組織に入りこめば、個人の尊厳は抑圧され、古代エジプトの民のように隷従してしまうという意味だ。
「ドイツの富裕な人々は官僚制の管理と対立していた。すべてを支配する装置、社会や個人を殺す装置。ウェーバーの官僚制の概念は、この恐怖感から発展した」。バイエルン州立科学アカデミーのカール・アイ博士はこう解説する。
大きな勢力になりつつあったマルクス主義への対抗意識もあった。東京大学の富永健一名誉教授は「ウェーバーは、社会主義は結局は巨大な官僚制を作るものだと考えた。国家全体が官僚制になるのだと。マルクスへのアンチテーゼという意思が明確にあった」と指摘する。
実際、ウェーバーの指摘は、世界中で検証されることになる。二十世紀に入ってから産業の発展に伴い、あらゆる大組織でいかによい組織内官僚制を作れるかが競われた。ソ連をはじめ社会主義国には強固な官僚機構が出現した。西側諸国でも、福祉政策の拡充は政府の官僚制をより強大にした。
ドイツではいま、膨大なウェーバーの著作を集めた全集の編集が進んでいる。編集責任者の一人、エルフルト大学ウェーバー研究所所長のウォルフガング・シュルフター教授は「官僚制は、ウェーバーの時代と現代とでは、清廉さや忠誠心などで大きく違うが、共同体意識が薄れてバラバラになった現代人は、ますます管理されやすくなっている。日本やドイツだけでなく、巨大な官僚制を抱えるEUでも、議会のチェック機能をどう確保するかが急務になっている」と話す。
近代が生んだ官僚制という装置をどうコントロールしていくか。ウェーバーが提起した課題は残されたままだ。(政治部・榊原智子)
[官僚制]
官僚制理論の原点とされるウェーバーの概念は、「あらゆる領域における『近代的』団体形態」を指しており、その特徴は〈1〉専門職員の資格による採用と身分保障〈2〉権限の分担〈3〉勤務規則〈4〉文書の活用〈5〉階層制――などにあるとしている。近代官僚制は「合法的支配」である点で、古代エジプトや中国にみられた官僚制とは区別されている。
*◆ファシズム
*◇経済危機の対応 分岐点◇
ドイツ首相だったヒトラーが、大統領も兼務する総統になる直前の一九三四年六月三十日、その事件は起きた。
まだ闇(やみ)の濃い未明、ボンから飛行機でミュンヘンに乗り込んだヒトラーは、近郊の保養地に向かい、そこに滞在していた突撃隊の参謀長レームと側近を、たたき起こして銃殺したのだ。
当時、伝統的な国防軍を味方につける必要に迫られていたヒトラーは、長年の同志だったレームらを「武装蜂起(ほうき)」のうわさを理由に粛清することで、国防軍の統帥権も握ることに成功する。
レーム事件と呼ばれるこの非合法な虐殺事件を、ドイツ法学界の重鎮だった政治学者カール・シュミットは、「ドイツは依然として法治国家だ。ドイツでは、ヒトラーが非常時に判決を下せる最高裁判官であるから」と擁護した。
ナチスの台頭期を支えた政治思想家の一人が、シュミットだ。もともと保守支配層のイデオローグだった彼は、三三年にヒトラー内閣が成立するやナチスに入党し、党の最高法律顧問となる。レーム事件でのシュミットは、ナチスの危険を感じつつも取り込まれていった当時のエリートの姿そのものだった。
シュミットの思想とは何だったのか。
彼は、ワイマール共和国(一九年発足)の当初から、「民主主義を定めた憲法のもとで民主主義の危機を除去するために独裁者が現れれば、独裁と民主主義は矛盾しない」(『独裁』二一年)と、独裁の有効性を主張していた。
第一次世界大戦に敗れたドイツでは、欧米列強や社会主義勢力の脅威に対抗するため、強力で安定した国家の再生が国民の悲願だった。
ドイツのフンボルト大学で歴史学を教えるルドルフ・ハープスト教授は、シュミットの思想を西欧の議会制民主主義への不信とみる。「討論に明け暮れる議会制では深刻な危機を乗り切れないと考えた。世界大恐慌で欧米各国に独裁への傾向が生まれたが、議会の伝統が長い英国では議会制民主主義への信頼は揺るがなかった。そこが、ドイツ、イタリアとは違っていた」
シュミットがナチスを利用しようとしたという指摘もある。「恐慌後の経済再建という汚れ仕事はあいつらにやらせてみようという考えだったのだろう。だが、逆にナチスに利用されることになった」。一橋大の田中浩名誉教授はこう話す。
同じころ、イタリアでは、社会主義政党に幻滅した政治学者ロバート・ミヘルスが、ファシスト党に入党する。ミヘルスは、大衆は個人的崇拝の対象を得たいという欲望を持っており、大衆社会では組織の内に「少数者支配への傾向」があると主張した。
一方、大衆運動を背景に独裁者が支配したドイツやイタリアとは違い、日本の戦争突入は軍部や官僚という国家機構の内部で推進された点に特徴があった。戦後、政治学者の丸山真男東大教授は、それを「上からのファシズム」と規定した。丸山は、国民を「隷従的境涯」に追いやった背景には、政治的、精神的な権威を、ともに天皇制に求めた日本の国家構造に問題があったと分析した。
戦後、ファシズムの問題に多くの学者が取り組んだ。ドイツからアメリカに亡命した哲学者ハンナ・アレントのように、国家からではなく市民の視点から政治を考え直そうとする参加民主主義の動きも生まれている。
ドイツ生まれの社会科学者で英国上院議員ダーレンドルフ卿は、ファシズムとの分岐点をこう分析する。
「ドイツでは経済の悪化が民主主義の問題ととらえられ、民主主義を破壊する強い指導者が選ばれた。英国は、経済問題を民主主義のせいにしなかった。経済危機に陥った時でも民主主義を守りぬけるかどうか、そこが重要だ」(政治部 榊原智子)
[ファシズム]
1922年のイタリア・ムソリーニ政権が最初のファシズム政権。ナチスとの共通項は〈1〉指導者原理〈2〉政治的暴力の行動隊による大衆運動〈3〉基盤は中間的階層――など。国民の危機感を強烈なナショナリズムと指導者崇拝で克服しようとする(山口定著『ファシズム』)。戦時中の日本軍国主義がファシズムかどうかは議論がある。 連載の単行本第5巻「思想・科学」が刊行されました。
*◆都市化と民意
*◇メディア選挙の幕開け◇
ニューディール政策への支持を訴えるフランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)が再選するか、挑戦者アルフ・ランドン候補(共和党)が勝つか――一九三六年の米国大統領選は白熱した。
ニューディール政策に否定的な多くの新聞、雑誌はランドンを支持し、選挙予想の権威「リテラリー・ダイジェスト」誌もランドンの勝利を予想していた。ところが、統計学者ジョージ・ギャラップが前年に設立した「アメリカ世論調査研究所」は逆だった。
結果は、ルーズベルトの圧倒的な勝利。ダイジェスト誌は、自動車と電話の所有者名簿から選んだ一千万人に質問表を送ったが、そんなぜいたく品を持たない庶民の声は聞いていなかった。ギャラップは、調査対象をいろいろな階層から人口比で抽出する「標本割当法」を用い、わずか二千人を調査することで結果を的中させたのだった。
米国は、二〇年に都市人口が農村人口を上回り、都市国家に変容した。急速な人口増、都市化でとらえにくくなった民意の動向を科学的にとらえようという試みは、そのころから米国政治学の一潮流を作っていく。
シカゴ大のチャールズ・メリアム教授は、二三年のシカゴ市長選での棄権者六千人に面接し、なぜ棄権したのかを調べた。米国では二〇年に参政権が女性にも付与され、有権者が大幅に増えていたが、逆に投票率は低下し、市長選の投票率も五割を切っていた。それは、選挙権拡張運動を進めてきた民主主義論者が予想もしなかった現象だった。
分析したところ、棄権した理由のトップは「無関心」の44%で、二位の「不在」11%を大きく引き離していた。メリアムは「政治的無関心」の問題を初めて提起し、政治教育の強化や不在者投票の制度化といった改革案を示した。
都市化の進展は、無関心層を拡大させる一方で、経営者団体、労働団体といった「圧力団体」の登場を促すことにもなった。早稲田大学の内田満教授は「都市化が進むと人々の利益が多様化し、こうした利害をめぐる対立の調整には、議会や政党といった既存の制度では不十分になった。新しい利益団体は自ら組織化し、発言力を確保する必要性が生じてきた」と指摘する。
三六年の大統領選には、もう一つ別の側面があった。ルーズベルトがマスメディアを効果的に利用したことだ。
ラジオ放送が二〇年に始まった米国では、三四年ごろ、ラジオセットは二千万台を突破し、世界全体の半分を占めていた。
「彼の声はテノールに近く、しかも丸みのある豊かな声量は放送におあつらえ向きだった。ルーズヴェルトは放送演説に『炉辺談話』『腹を割っての相談』などと名付けた。ラジオを通して権力維持の新しい活路を見出したのだった」(中屋健一著『ルーズヴェルト』)
選挙でのマスメディアの利用は、テレビの普及とともにさらに進んだ。
六〇年の大統領選で行われたケネディとニクソンのテレビ討論会は、その幕開けとして知られている。画面に映ったニクソンが青白く病み上がりに見えたのに対し、ケネディは日焼けして精かんな印象を与えた。当時、米国のテレビ普及率は既に九割に近く、テレビ時代のスター政治家ケネディを生んだのだった。
ニクソンは回顧録にこう書いている。「討論のやりとりとは関係なしにイメージ上の効果としてはマイナスだったことは間違いなかった。テレビではケネディ、ラジオでは私という討論終了後の人気調査の勝敗結果によっても証明されている」
世論調査の進展と、マスメディアの活用。現代の選挙戦ではそれが一体化し、票の動向には、政策よりもイメージ操作の影響が大きいという傾向が強まっている。
*◆55年体制(上)
*◇なお見えぬ二大政党制◇
緩やかな坂を上ると英国風の美しい洋館が姿を現す。東京都文京区音羽、鳩山一郎元首相の私邸、通称「音羽御殿」。一九九六年から一般公開されているこの邸宅の応接間は、五五年十一月十五日の自由民主党結成(保守合同)に向けて、当時、日本民主党総裁だった鳩山氏が、三木武吉総務会長らと密議を重ねた場所でもある。
鳩山一郎氏の孫、由紀夫氏(民主党代表)はことし九月の党代表選で訪れた高松市の街頭でこう演説した。
「半身不随で政治から引退しようと思っていた鳩山一郎を励まし、首相まで導いて下さったのが三木武吉先生だ。その三木先生のふるさとだから、こんなにありがたい地はない。今の自民党が、祖父や三木先生が描いていたのとはあまりにも違った姿であることを、二人の先達は嘆かわしく思っているに違いない」
自民党は、結党時に「党の政綱」に掲げた憲法改正を棚上げして、軽武装、経済中心の保守本流路線をまい進し、奇跡的な高度経済成長を実現した。
これを支えたのが日米安保体制だ。大平、中曽根両内閣で首相のブレーンを務めた政策研究大学院大学の佐藤誠三郎副学長は、「社会党は安心して非武装中立を唱えることが出来、反米と言えば一定の票がとれた。恵まれた国際環境が社会党を非現実的な安保政策に押し込め、自民党長期政権をもたらした」と指摘する。
豊かな社会になるにつれ、イデオロギー対立は薄まった。六〇年代半ば以降の自民、社会両党の支持率の低下と支持政党なし層の増加現象について、東京大の村上泰亮教授は当時、保身性と批判性の強い「新中間大衆」が登場し、保革対立図式は終わったと分析した。
八九年七月、消費税、リクルート事件、農政を争点とした参院選で自民党は空前の大敗を喫し、参院で与野党が逆転した。社会党が躍進した九〇年二月の衆院選直後、国会近くの霞友会館で自民党の最大派閥竹下派を率いる金丸信元副総理と社会党右派・田辺誠副委員長が交わしたやりとりは、五五年体制の終焉(しゅうえん)を予感させるものだった。
金丸氏「連立にはカネがいる。甲府の土地を売れば何十億円だ。これを提供する」
田辺氏「我々は組織が大事だ。カネが先に来たり、党を割るのは現実的じゃない」
金丸氏が働きかけたのは、自民党を二つに割り、その一方が社会党右派と組むという二大政党論だった。
田辺氏は今、こう語る。
「金丸氏の提案は現実的な選択ではなかった。社会党内に左派とたもとをわかって新党を作ろうという機運はあったが、五五年体制と、中選挙区制度のもとに安住して、改革には踏み込めなかった」
長期政権で自民党の金権体質は強まり、政・財・官の癒着が進んでいた。金丸氏の政界再編論は、保守政治の先行きに対する危機感の裏返しだったかもしれないが、皮肉なことに金丸氏自身が起こした東京佐川急便事件での五億円違法献金問題が五五年体制幕引きの一つの要因となる。
自民党は九三年六月、政治改革をめぐる対応で分裂。七月の衆院選を経て細川連立政権が政権交代を実現した。
鳩山由紀夫氏の弟で、やはり政権交代直前に自民党を離党した邦夫氏(元民主党副代表)は、こう言う。
「祖父は政権交代があっていいと思っていたはずだ。そういう意味で五五年体制は、祖父の最も望まない方向に行ったのではなかったか」
確かに、保守合同には、二大政党制への期待感があった。保守合同の立役者の一人、岸信介元首相はその狙いの一つに「二大政党の出現による円滑な政権交代」があったと回顧録に書いている。だが、五五年体制が終わり、政治改革の眼目だった小選挙区制度が出来てもなお、二大政党制への道筋は見えてこない。(政治部 飯田 政之)
[保守合同]
1955年11月15日、東京・神田の中央大講堂で自由民主党結成大会が開かれ、日本民主党(鳩山一郎総裁)、自由党(緒方竹虎総裁)が合流した。初代幹事長は岸信介氏。総裁は調整がつかず、鳩山、緒方氏ら4氏の総裁代行制とした。緒方氏は2か月後急死し、鳩山氏が初代総裁に就いた。自民党、社会党(55年10月に統一)による政治体制を55年体制と呼ぶ。
*◆55年体制(下)
*◇地方の経験生かせぬ社党◇
一九六七年三月、東京・新宿の都電通りに面したビル一階に小さな事務所が急ごしらえで作られた。美濃部亮吉都知事選事務所。間口は一メートルほどしかない狭い入り口を入ると、正面の壁に、佐々木更三社会党委員長、野坂参三共産党議長の「祈必勝」に挟まれて豪快な字が躍っていた。
「天下無敵」
美濃部氏の後見役でマルクス経済学の権威、大内兵衛・元法大総長の書だ。社会党国民運動部長の伊藤茂氏(現社民党副党首)が、事務所に訪れた大内氏に墨汁を入れた茶わんと模造紙を差し出すと、大内氏は一気に書き上げた。
大内氏は、社共両党ではなく革新都民党としての姿勢を前面に出すよう指導し、四月の美濃部都政実現の立役者となった。選挙後、大内氏は伊藤氏に「この教訓を社会党に生かしなさい」と語ったという。
革新自治体は、六三年四月に社会党衆院議員の飛鳥田一雄氏が横浜市長に当選したころから増加し、七〇年代に入って三百六十前後に達した。公害など高度成長に伴うひずみ、さらにベトナム反戦の世論の高まりが背景にあった。
だが、七〇年代後半には財政赤字などを招き、姿を消していく。革新市長会の中心的存在で、社会党委員長も務めた飛鳥田氏は回想録『生々流転』でこう語っている。
「地方自治の経験を中央で生かし切れなかったのが最大の失敗だ」「新しい政策を打ち出すだけの力がなかった。政策の手詰まりとその裏にある『なあに昔の勢いでまだやっていけるさ』っていう甘え。その辺が原因じゃないかな」
実際、東京・三宅坂の社会党本部では、「現実主義排除」をスローガンに左派が右派を切り捨てる歴史が幾度か繰り返された。西尾末広氏らが離党して六〇年一月に民社党を結成。構造改革論を唱えた江田三郎氏らも離党、七七年十月に社会市民連合(翌年三月、社会民主連合)を結成した。
この中で「党中党」と言われるほど、力を持ったのが、向坂逸郎元九州大教授を中心とする最左派の理論集団「社会主義協会」だ。国会議員のメンバーは少ないものの、同協会は地方の活動家に勢力を拡大し、七〇年代半ばには党大会代議員のほぼ半数を占めるほどになった。社会党が現実路線にカジを切れなかったのは同協会の影響が大きい。
逆に、自民党は社会主義的な政策を取り込んでいった。最も手厚かったのは田中角栄元首相と言われる。
加藤紘一自民党元幹事長が、著書の中で「自民党は外交・防衛問題を除けば社会主義的、集団主義的傾向を次第に強めていった。その敗北主義的な姿勢が日本を次第に『社会主義の国』にしてしまった」と批判するように、自民党が営々として築いたのは「大きな政府」だった。自民党のこうした“混合経済”路線がライバル社会党の存在価値を失わせたとも言える。
社会党は八六年一月の党大会で新たな綱領「新宣言」を採択し、ようやくマルクス・レーニン主義から脱皮する。
九三年八月の細川連立政権で社会党は与党になり、九四年六月の村山内閣で政権を握った。社会党の力というより、自民党の敵失で獲得した政権からは、わずか四年で離れ、党勢は大きく衰えた。自らも閣僚となり、社民党幹事長として生きた伊藤氏は、大内氏の「天下無敵」を大切に保管しているが、今それを見つめる思いは複雑だ。
「革新自治体は社民政治を実践した。それを党中央がリードできなかった。党は随分元気をなくしてしまったが、西欧のように保守対社民という思想の対立は存在する。まだドラマはありますよ」(政治部 飯田 政之)
[新宣言]
1986年1月の社会党大会で採択された綱領。マルクス主義的な考え方を否定し、「国民の党」への脱皮と政権参加を掲げた。西独の社民党は59年に国民政党へ転換。日本社会党が遅れた理由の一つに「戦前・戦中の治安維持法による弾圧で、欧州のようにマルクス主義を実践、検証出来ず理論闘争に走った」(曽我祐次元社会党副書記長)との指摘もある。
*◆新保守の潮流
* ◇市場経済の活力引き出す◇
米国バージニア州の古都ウィリアムズバーグ。英国が植民地として開いた緑豊かなこの地で、中曽根首相、レーガン米大統領、サッチャー英首相ら先進七か国の首脳会議(サミット)が開かれたのは一九八三年五月のことだ。
当時、米ソ間では中距離核戦力(INF)削減交渉が行われていた。レーガン氏は、ソ連に中距離ミサイルSS20を撤去させるため、ミサイル「パーシング2」の西欧配備で対抗する方針を示し、サッチャー氏も一致していた。西側の結束が問われていた。
中曽根氏は、こう振り返る。「日本は安全保障について何も発言してこなかったが、私はむしろ積極的に発言し、レーガンと(慎重姿勢だった)ミッテラン(仏大統領)を握手させた。それで世界的なソ連包囲網が出来たわけですよ。西側が結束し、ある程度の軍備拡張をやればソ連は追いつけない。財政破たんするだろうという戦略を持っていた」
八〇年代、中曽根、レーガン、サッチャー三氏の政治姿勢は新保守主義と呼ばれた。
その定義は〈1〉対ソ強硬外交を重視する「ナショナリズム」〈2〉国営企業解体などによる「経済的自由主義」〈3〉技術に対する楽観主義――を柱とする変革の試みで「西側思想の極である新保守主義と東側的思想の極であるブレジネフ主義とが正面から激突して、後者が敗れ、歴史は動いた」(村上泰亮『反古典の政治経済学』九二年)と評価される。
とくに、経済政策に特徴があった。第二次世界大戦後、先進国に共通した公共投資による景気刺激策(ケインズ政策)や基幹産業の国営化、福祉国家政策を見直す動きが、「サッチャリズム」「レーガノミックス」「中曽根行革」だ。「大きな政府」を整理し、市場経済の活力を引き出す点に眼目があった。
サッチャー行革は、ケインズを批判し、自由な競争市場こそが一定の秩序をもたらすと唱えた経済学者フリードリヒ・ハイエクの思想が支えた。サッチャー氏は、七〇年代半ば、野党だった保守党の党首に就いて間もないころから、ハイエクの著書を熟読し、英国経済の立て直しを考えたと言われる。
九〇年代、冷戦終結後の西側に、“共通の敵”はなくなった。先進各国は、社会主義に勝利したはずの市場経済がもたらしたグローバリゼーション(経済の世界化)、アジアの金融危機などの問題に直面した。伝統的な「国家観」も揺らぎ始めている。
欧州では、欧州連合(EU)加盟十五か国のうち十三か国が社民主義政党を中核とする中道左派政権だ。
これは、新保守主義への反動と言われるが、かつての社民主義への回帰ではない。英国のブレア首相が掲げるのは、「第三の道」だ。
先月末、英南部のボーンマスで開かれた労働党百年記念大会で、党首のブレア氏は、保守党と同様に経済成長、競争促進を掲げ、その一方で福祉制度維持、完全雇用実現など社民主義政策も実現するという戦略を明示した。
一方、日本では、中曽根内閣で徹底しきれなかった行政改革を橋本内閣が引き継いだ。さらに、金融、経済構造などの改革が、「小さな政府」や規制緩和を基本とする新保守の理念で進みつつある。
京大経済研究所の佐和隆光教授はこう語る。「サッチャー、レーガンは市場を完全なものに近づけようと様々な措置を講じ、日本も徐々にそういう方向へと進んできた。その結果、完全な市場の力は暴力と化しかねないことを知った。所得格差の拡大、公的医療・教育の荒廃、自然独占・寡占の発生などだ。市場の力が暴力とならないよう制御するのがこれからの政府の役割だ」
経済がグローバルに拡大し続ける中で、市場万能主義と政府の介入の調和をどう図るかは、二十一世紀の政治の大きな課題になりそうだ。(政治部 飯田 政之)
[サミット]
1975年11月15日から3日間、石油危機後の世界経済を協議するため、パリ郊外のランブイエ城に日、米、英、仏、西独、伊の6か国首脳が初めて集まった。カナダは2回目から参加。ロシアは94年から政治問題に限り参加し、97年のデンバー(米)で正式メンバーに。来年は沖縄で開催される。ユーゴ、コソボなど地域紛争への対応も毎回問題になる。
*◆人びとが動いた(1)
*◇時代の空気伝えた音楽◇
二十世紀は大衆が歴史の舞台に躍り出たが、初めのうちは選挙演説を聞く群衆であり、工場でせきたてられる労働者だった。それが、さまざまな顔をのぞかせるようになった。市民、主権者、消費者。人々が動き始め、社会を動かし始めたのだ。
一九六九年八月十五日。米国ニューヨーク州ベゼル村。大農場に五十万人の若者が集まる。「戦争を止めた音楽会」と今に伝わる「ウッドストック」の開幕だった。
ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン……。時代を代表するミュージシャンが舞台に上がった。とりつかれたように会場を目指す若者たち。道路は車で大渋滞。食料もトイレも不足し、激しい雨で付近は「泥の海」と化す。ニューヨーク・タイムズ紙は、北米の原野を走るネズミの大群に例え、「レミングの行進」と報じた。
米国はベトナム戦争に足を取られ、旗印の「正義」が揺らいでいた。米海兵隊が六五年にダナンに上陸してから、密林でのアメリカの若者の死はすでに四万に迫っていた。
一か月前に「アポロ11号」が月面に星条旗を翻した歴史的な時に、天才ギタリストのジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌「星条旗」を悲鳴に似たひずんだ音で奏でる。彼は叫んだ。「大人たちにわからせるには、こんな集会しかないんだ」
集会は三日、続いた。歌と新しい風俗。みんなが時代の変わり目を感じていた。ウッドストックの“熱い風”は全世界に吹き荒れた。
フランス革命の「ラ・マルセイエーズ」、パリ・コミューンからロシア革命にかけて歌いつがれた「インターナショナル」。動乱で音楽が生まれることはあったが、今度は音楽が何かを生み始めた。三か月後にはワシントンに二十五万人が集まる。そして、七三年一月、ニクソン大統領がベトナム戦争の終結を宣言した。音楽に込めたメッセージが届いた瞬間だった。
ウッドストックのほぼ三十年前、大衆は音楽によって踊らされた。集会でワーグナーなどを巧みに使ったナチス指導者ヒトラー。若者は「ヒトラー・ユーゲント」として歓呼の声をあげた。
反発した若者もいた。上流家庭の青少年らは、米国のジャズをアレンジして踊りまくり、「スイング・ユーゲント」と呼ばれ、「エーデルワイス海賊団」の若い男女は、替え歌で時代に反抗した。「ヒトラーが何をくれる。ヒトラーなんかいらない」。だが、止める力はなかった。
ウッドストックの後、音楽は時代を斬(き)るナイフとなる。八六年十二月八日、チェコスロバキアの首都プラハ。ジョン・レノン暗殺から六年。五百人が追悼集会を開く。六八年、ソ連の戦車が「プラハの春」を踏みつぶしたあと、町は閉そくしていた。
「ウッドストック」やビートルズを擦り切れるほど聞いていた若者たちを阻止する治安部隊。肩を組み、ジョンの「イマジン」を繰り返す。自由への意思が白い息とともに、古都の闇(やみ)に浮かんだ。
民主化を叫んだ八九年の天安門広場。スハルト退陣を求めた九八年のインドネシア。メッセージは歌に託された。
ウッドストックで歌ったカントリー・ジョー・マクドナルドは「戦争を止める原動力になった」と振り返る。
東京の新宿駅で六九年に反戦の「フォーク集会」を始めた東海大福岡短大の伊津信之介教授はこう言う。「力でやり合うより、音楽のほうが伝わると考えた」。コロンビア大学で音楽の社会的影響を検証するチャールズ・カイザー研究員は「二十世紀、音楽は社会変革の役割の一部を担った」と話す。
伝説から三十年。聖地の農場は小鳥がさえずり、風がタンポポやクローバーを揺らす。一角にミュージシャンの名を刻んだ石碑があった。
「PEACE AND MUSIC(平和と音楽)」の字がまぶしい。(大阪社会部・高部真一)
[ウッドストックの影響]
ウッドストックはチャリティーコンサートのモデルになり、85年、アフリカの飢餓を救う「ライブ・エイド」が英国と米国の2会場で開かれ、衛星中継で見た80か国、20億人から165億円が集まった。ウッドストックのビデオを見たグループ「GLAY」が今年7月に千葉・幕張で国内最高の20万人を集めた。
*◆人びとが動いた(2)
*◇国際条約作るNGO◇
若者たちを熱狂させた一九六九年の伝説のコンサート「ウッドストック」に、大人たちは無秩序な集まりとまゆをひそめた。カナダ国境の近く、米バーモント州に住む十九歳の女子大生ジョディも音楽会に行きたかった。だが、両親が禁じた。「でも、私も既存の価値観が大きく変わったウッドストック世代の一人」と、ジョディ・ウィリアムズさん(49)は笑った。
二十八年後、その女子大生がノーベル平和賞を受ける。九七年十二月、雪化粧したカナダの首都オタワにある古い駅を改装した国際会議場。ジョディさんは国連のコフィ・アナン事務総長の隣で、対人地雷全面禁止条約の調印式を見守った。
その時、気温30度を超すカンボジアでは地雷除去作業が続いていた。金属探知機が、地中の「隠れた殺人者」を探す。「地雷危険」――どくろマークの赤い看板を横目に、学校では、子供たちが「地雷に気をつけよう」と書かれたノートを使っていた。
ジョディさんの活動の原点は、障害を持つ兄だった。彼女は米ジョンズ・ホプキンス大学院で国際関係論を専攻後、中米での医療援助計画に携わる。そこで、地雷で手足を失った子供たちに接した。兄の姿と重なった。
世界は貧困と戦乱に満ちていた。七十か国に一億個の地雷が埋設されている。毎月二千人が命や手足を奪われ、二十分に一人の犠牲者が出ていた。戦闘後も、田畑や子供の遊び場は「戦場」のままだ。
なんとかしなければ。組織も権力もない乗馬と詩作が趣味の女性が、素手で地球を回そうとした。反地雷キャンペーンの開始だ。
彼女は、NGO(民間活動団体)の連合体「地雷を禁止する国際キャンペーン」(ICBL)を組織し、対人地雷の全廃だけにテーマを絞った。
共感は広がり、九二年十月に六団体で始めた運動は、現在では六十か国、千団体になった。
だが、各国政府の思惑から条約づくりは進まない。業を煮やしたICBLは、賛同する国だけを集めようと呼びかけた。独自の平和外交を目指すカナダ政府が動き、九六年十月、「オタワ・プロセス」が条約づくりに着手した。
しかし、最強国アメリカが朝鮮半島の例外化を求め、譲らない。ところが、地雷廃止を訴えたダイアナ元英皇太子妃の事故死で、国際世論が動き出す。
日本も動いた。ICBLに参加した「難民を助ける会」が絵本『地雷でなく、花をください』を出版し、ベストセラーになる。
米国に追随していた日本政府も態度を変えた。九七年九月、小渕外相が「地雷除去に協力しながら、条約を認めないのでは筋が通らない」と発言、調印に回った。
従来、国際条約を作るのは、プロの外交官たちだった。NGOは政府と対決するものだった。だが、常識は覆された。
現在、ICBLの国際大使として世界を飛び回るジョディさんは「問題は残るが、まずまずの出来。広く使われる武器を軍隊から取り上げる史上初の条約だから」と言う。
条約には「国際赤十字、赤新月運動、ICBL、その他、世界中のNGOにより行われてきた同じ目的の努力を認識し」と、彼女たちが果たした役割が明記された。
九七年十二月に京都で開かれた地球温暖化防止会議で、議定書づくりにほとんど関与できなかった経験を持つ「気候ネットワーク」の浅岡美恵弁護士は「官僚には、NGOと協議しながら政策を決める発想がない。NGOも専門知識を持つ人材を育てなければ」と話す。
米カーネギー国際平和基金のアン・フロリーニ上級研究員は「地雷禁止条約が特例で終わるかどうか、西洋だけでなく、日本を含めたアジアの市民社会が成熟しなければならない」と指摘する。
(大阪社会部 高部 真一)
[地雷]
地雷は19世紀のアメリカの南北戦争のころから使われてきた。20世紀、第1次大戦に登場した戦車を防ぐ兵器として着目され、さらに歩兵の進軍を阻む安価で効果的な兵器として、世界中に拡散する。対人地雷全面禁止条約には、現在、135か国が調印、うち86か国が批准、99年3月に発効した。
*◆人びとが動いた(3)
*◇品質に視線 消費者運動◇
二十世紀の大量生産、大量消費社会の道を開いたのは自動車だった。自動車はアメリカの世紀を支え、人々の時間と空間を押し広げる牽引(けんいん)車だった。
米コネティカット州のラルフ・ネーダーという無名の弁護士が、この産業社会の申し子に「ノー」を突きつけたのは一九六五年秋である。
ハーバード大を出て、五八年に弁護士になったが、たいした仕事もなく、六二年、ヒッチハイクでワシントンに出た。YMCAに宿泊し、ホットドッグをかじる暮らし。
その時、彼に一つの機会がやってきた。どう考えても、車がおかしいとしか思えない交通事故があった。訴訟人の主張を聞いて、裏付け調査を進めた。その結果をもとにネーダー氏は六五年十一月、『どんなスピードでも自動車は危険だ』という本を出版し、ゼネラル・モーターズ(GM)は乗用車コルベアが横転しやすい欠陥車と知りながら販売していると告発した。
車は、富とステータスの象徴で、悪者にはならない存在だった。事故は、すべてドライバーのせいだった。ネーダー氏はそれを覆そうとした。
社会やメーカーの衝撃は大きかった。GM社は私立探偵にネーダー氏を尾行させ、スキャンダルを探った。それがばれ、GMのジェームス・ローチェ社長が上院公聴会で謝罪し、プライバシー侵害の損害賠償としてGM社は四十二万五千ドルを支払わされた。
この資金をもとに、彼は「ネーダー突撃隊」と呼ばれる若者を動員して、議会や企業の不正を多角的に追及した。ニューズウィーク誌の表紙は、十字軍の兜(かぶと)と鎧(よろい)を着たネーダー氏を登場させた。
日本にも戦後すぐ、消費者運動が現れた。四五年十月、大阪の主婦十五人が、一日三百グラムの配給米の遅配に怒り、米穀配給公団支所に押し掛け、白米を食べていた職員に詰め寄ったのだ。
その一人、比嘉正子を中心に「大阪主婦の会」がつくられ、戦後消費者運動のさきがけとなるが、なにしろ物不足の時代、「モノよこせ」「安くしろ」が先にたち、品質は二の次だった。まさに生きるための消費者運動だった。
その運動の視線が品質に向けられるのは、六九年に日本消費者連盟創立委員会ができてからだった。発足時に代表委員だった竹内直一さん(81)は「日本の運動は数や力に頼りがちだった。ネーダーは正当な根拠にもとづく告発によって大企業に対抗できると教えてくれた」と振り返る。
竹内さんは経済企画庁国民生活局の参事官だったころ、牛乳の小売価格引き上げに反対する運動を推進した。それがもとで退職して連盟に入るが、そこでは鉛添加ガソリンや食品添加物の追放など経済成長のひずみを追及した。
アメリカは、七〇年代から、消費者が企業を訴える「訴訟社会」に変容した。製造物責任訴訟は、連邦裁判所だけで年間約二万件、州を含むと数十万件に上る。賠償金が高額化し、企業が訴訟を恐れて製造をやめるケースも出た。
八〇年代、日本に書籍などでこんな話が紹介された。「アメリカで、ぬれたネコを電子レンジで乾燥させようとして死なせ、訴えられた家電メーカーが負けた」
最近になって日本の弁護士が製造物責任訴訟に関連して調べ、事実無根とわかった。出所も不明という。だが、訴訟社会・米国を象徴する逸話として世界で引用された。「消費者の非常識な使い方でも、製造物責任は求められるという例」「訴訟社会の行き過ぎの戒め」。逸話が独り歩きしたのも、訴訟社会の相克を示していたからだろう。
ホワイトハウスから一キロにある事務所の書庫から現れた消費者運動家ラルフ・ネーダー氏(65)はかすれた声で言った。「消費者がこの世紀に主権者になったかって? 答えはノーだ。車の安全性などほんのわずかな分野でだけだ」(大阪社会部・高部真一)
[製造物責任法]
PL法と呼ばれ、欠陥商品による事故について、メーカーの故意、過失の有無にかかわらず、消費者が損害賠償の請求をできることを定めた法律。米国で1960年代に確立。日本では95年7月に施行。冷凍庫やテレビから出火した事故について、メーカーの責任を認定、賠償命令する判決が出ている。
*◆人びとが動いた(4)
*◇「被災地救え」若者集結◇
二十世紀は、若者の正義感や情熱が政治に向かった時代だった。ロシア革命にキューバ革命。スペイン内戦ではアーネスト・ヘミングウェー、アンドレ・マルローらの文学者が、フランコのファシズムと戦った。いずれもボランティア(義勇兵)だった。
第二次大戦後、兵器のハイテク化で義勇兵の場所は狭まるが、若者はパリのカルチエラタン、北京の天安門広場事件など、既存の価値観の破壊へと動いた。だが、日本では安保反対闘争などが終息した一九七〇年代半ばからデモの隊列は消え、若者のエネルギーはさまよう。そうした時代は約二十年間続いた。
若者が突然、姿を見せたのは九五年の激震の後だった。一月十七日未明の阪神大震災である。マグニチュード7・2。死者六千四百二十五、全半壊家屋約四十九万。
体育館に安置された何人もの遺体。倒壊家屋の下で動けない人。寒空の中、食料を待つ長い列。毛布や薬がない。助けを求める手を混乱した行政はつかめない。その時、全国から被災地に向かってリュックの列ができた。ボランティアの登場だった。
阪神大震災で活躍したボランティアは百三十八万人。炊き出し、援助物資の配布、救助作業、荷物運び……。兵庫県の調査では、ボランティアの73%が三十歳未満だった。初めて参加したのは69%。「ボランティア元年」と言われるゆえんだ。
長野県飯田市の勤務医の上田明彦さん(32)もその一人だった。テレビで惨状を見た。「何かできるのでは」と、薬品や点滴など二十キロ分をリュックに詰め、現地へたつ。避難所で診察に回った。同じように立ち働く若者の姿が新鮮だった。
NGO「アジア医師連絡協議会」(AMDA、本部・岡山市)に登録し、身軽に動くために九九年三月には勤務先の病院を辞めた。
地球上で地震は年間八万回も起きる。ことし八月十七日未明、今度はトルコ西部をマグニチュード7・8が襲った。上田さんは、がれきの街を通り、四日後から山村で治療活動を始めた。眼下のマルマラ海を見ながら、「神戸の六甲山と似ている」と感じた。
倒壊建物は少ないが、村人は怖がって、庭先にテントを張り、生活している。話をじっくり聞くことに努めた。阪神の時、お年寄りに持病の薬を渡そうとした。メーカーが別なので包装が違った。服用を嫌がり、納得してもらうのに苦労した経験があった。
そして、九月二十一日未明、さらにマグニチュード7・6が台湾で起きた。すぐに救助犬を連れたボランティアが関西空港を飛びたった。
若者の意識を変えたのは、阪神大震災が初めてではない。「過去における日本の救済事業の発達がいつも災厄を中心として発達した」。二三年の関東大震災の時、神戸からかけつけた社会運動家の賀川豊彦はこう記録した。
東京帝大教授の末広厳太郎を中心に学生が活躍した。大学構内の数千人の避難民に食料を配った。八千人が避難した上野公園では消毒作業を行い、「東京罹災(りさい)者情報局」も設置した。死者や入院患者、被災者の立ち退き先をまとめ、問い合わせに答えた。
「今の若い者は」。いつの時代も大人が口にする言葉だが、末広は「私事と享楽とにのみ没頭せるものの如(ごと)くに罵(ののし)られ勝ちであった現代の学生が今回の不幸を機として一致協力」と評価した。
国連ボランティア名誉大使中田武仁さん(62)は、九三年に国連ボランティアの長男を亡くした。「あの時、『ボランティアは別世界の奇特な人』との考えが強かった。今は、若者は大きな不幸を見ぬふりができない。その気持ちと力を二十一世紀につなぎたい」(大阪社会部・高部真一)
[NPO法]
特定非営利活動促進法。阪神大震災のほか、日本海の重油流出事故でボランティアの役割が評価されたことを機に、災害救援、国際協力、医療・福祉など12分野のボランティア団体に法人格を与えるため、98年12月に施行された。市民レベルの活動の促進が狙いだが、税制上の優遇措置は見送られた。
*◆人びとが動いた(5)
*◇生活守れ 工業優先に異議◇
「お願いでございます」。第十六回帝国議会の開院式を終えた明治天皇が、馬車で貴族院角に差しかかった一九〇一年十二月十日正午前、一人の男が飛び出した。驚いて剣を抜いた警護兵が落馬し、男も転んで捕まった。元帝国議会衆院議員の田中正造で、「足尾鉱毒問題で陛下の深い慈悲を」との直訴状を手にしていた。
新世紀を迎えたばかりのこの年二月、官営八幡製鉄所の溶鉱炉に火が入り、日本は重工業への道を踏み出した。だが、すでに公害問題も持ち上がっていた。栃木県足尾町の足尾銅山では川に鉱物が流れ込み、下流の作物を枯らしていた。田中は帝国議会で追及し、被害救済を求めた。前年には農民二千五百人が直訴したが、警官隊に阻止された。
田中は釈放後、社会主義者の幸徳秋水に「(切られず)弱りました」と話す。死んで世論を動かす計画だった。「権利を守れ、が正造の教えでした」と、郷土史家の布川了さん(73)は言う。運動は挫折したが、その精神は半世紀後によみがえる。
経済白書が「もはや戦後ではない」と記した五六年、熊本県の漁村で異変が起きた。五歳の女の子がけいれんし、舌をかむ。チッソ水俣工場が流す有機水銀が、魚介類を通じて人体に蓄積され、中枢神経を侵した。一万人以上が巻き込まれる人類史上、最悪の環境汚染だ。後に認定患者の一人となった石田勝さん(72)らは東京の本社前に座り込んだ。「こっちが倒れるか、相手を倒すかのけんかでした」。座り込みは連続六百二十二日に及び、ついに「補償協定」を勝ち取った。
六七年には新潟水俣病で昭和電工が、翌年には富山・イタイイタイ病で三井金属が、訴えられた。立命館大学の宮本憲一教授(経済学)は「大規模公害が短期間に集中発生したのが日本の特徴。しかも、発生の態様が様々だった」と話す。
特定地域の公害を“点”とすると、次に“面”の被害が出てきた。三重県四日市市で工場排煙が住民を襲う。車社会は、大阪・西淀川など沿線住民の排ガス被害をもたらし、深刻な事態に陥った。
危機感を抱いた佐藤栄作内閣は七〇年、水質汚濁防止法、廃棄物処理法など新規六法案、改正八法案を一気に成立させ、翌年には環境庁が発足した。
沖縄大の宇井純教授(都市工学)は東大助手時代に夜間自主講座「公害原論」を十五年間主宰し、学生、主婦らに公害の実像を伝えた。「住民の決起で公害対策は進んだ」と振り返る。
事情を異にしたのが旧ソ連・東欧諸国だった。モスクワ郊外にある環境保護団体「グリーンピース」ロシア支部で、アレクサンダー・シュバロフ資金調達部長は「ソ連時代、公害反対は反政府活動とされる恐れがあった。だれもそんなことはしないよ」と語った。モスクワの二酸化窒素濃度は東京の約十倍、旧東独とチェコ、ポーランドの工場が集中する国境の山間部では長さ五百キロ・メートル、幅数十キロ・メートルにわたって緑が消失――。ソ連崩壊後に明るみに出た。
米シカゴでは七〇年代、公害企業数社の煙突や排水口をふさぎ、役員室にヘドロをぶちまける怪盗が現れた。犯行現場に必ず「FOX」のサインを残し、全米の注目を集めた。犯人は「フォックス川の汚染に怒る」中年男。賛同者が「FOX友の会」を結成し、後に「緑の党」になった。
九二年六月、ブラジル・リオデジャネイロでの「国連地球環境サミット」。先進国がエネルギーの八割を消費する現実に、発展途上国は開発権を主張した。横浜国立大学の中西準子教授(環境リスク論)は述懐する。「会議は衝撃的だった。人口で八割の途上国が先進国並みの生活を送れば地球は破滅する。これまでの公害運動は被害者の視点でした。が、今は加害者の視点が必要だと痛感しました」(大阪社会部・ 脇孝之)
[公害輸出]
先進国の企業は他国にも公害をもたらした。日系企業が問題視されたのは東南アジア。マレーシアでは80年代、放射性物質を池に大量投棄し、村人の白血病や異常出産を招いた。インドネシアでは約150社がジャカルタ特別区市に進出し、ジャカルタ湾を水銀や鉛などの重金属で汚染した。
*◆人びとが動いた(6
*◇労働運動 社会変革を模索◇
石造りの古い街並みが続くロシアのサンクトペテルブルク。中心部の「ロシア政治歴史博物館」に、世界史を転換させた事件を描いた幅四メートル、高さ三・五メートルの絵が掛かっていた。コートの胸を開いて「私を撃て」と叫ぶ男、恐怖で目をむく群衆……。題名は『一九〇五年一月九日』。画家ウラジーミル・マコフスキーがその年一月二十二日(ロシア暦で九日)に起きた「血の日曜日事件」を目撃して描いたものだ。
長時間労働に苦しむ七万人が、皇帝ニコライ二世が住む冬の宮殿に向かって嘆願行進していたところへ、軍が発砲し千人以上の死傷者が出た。雑誌「ロシア史」編集長のスタニフラス・チュチュキン氏はいま、「帝政下、我慢から抵抗へと国民は意識を転換させた。一種の革命だった」と述べる。
弾圧はロシアだけではなかった。今世紀初頭、欧米諸国でも労働運動の指導者が次々に逮捕された。一方、ベルギーで、イタリアで、スペインで、労働側の全国ストが展開された。この対立を変えたのは第一次大戦だった。日本女子大の高木郁朗教授(社会政策)は「欧州で初の総力戦。戦争に勝つため労働者の力が必要だった」と解説する。
英国で労組幹部五人が、フランスで三人が、ベルギーでも一人が閣僚に抜てきされた。英国では選挙権が拡大し、フランスで八時間労働法が成立した。
血の日曜日から十二年後、ロシアでは革命が起き、労働運動は頂点を極めた。「ところが」と、ロシア大統領府付属政治諮問評議会のアンドレイ・コシャコフ委員は言う。「ソ連時代は労働者より国家を優先した。国家利益に反する賃上げは決して実現しない。ストもなかった」。結局、労働者のユートピアは幻に終わった。
米国でも第一次大戦の特需で労働市場は活気づき、労組員は五百十万人に伸びた。若い国だけに早くから参政権が確立し、組合は生活に密着した問題に取り組んだ。職場には給料ピンはね、わいろなど不正が渦巻く。四〇年代のニューヨーク港で不正に立ち向かう港湾労働者を描いたマーロン・ブランド主演の映画『波止場』は、ピュリツァー賞の記事を原作とした実話だ。
日本で労働運動が盛り上がるのは第二次大戦後だ。毎月、数十件のストが発生し、四八年には二百七十人の解雇通告で「東宝争議」が起きた。「立て、飢えたるものよ」。三船敏郎、久我美子らスターたちも労働歌を歌いながら撮影所を占拠する。
「昔陸軍、今総評」と言われるほど労組が全盛期を迎えた六〇年、戦後の企業社会を決定づける争議が起きた。真夏の七月十九日、福岡県大牟田市の三井鉱山三池鉱業所。ホッパー(石炭の一時的な貯蔵庫)を占拠した組合員ら二万人が、警官隊一万人とにらみあう。約千二百人の指名解雇への徹底抗戦だった。
現地には延べ三十万人が動員され、総評は六億五千万円を支援した。経営側は銀行八行の協調融資とシェア競争の自粛で対抗し、国民注視のなかで総労働と総資本がぶつかり合った。熾烈(しれつ)を極めた闘争は、組合側の敗北で終わる。石炭から石油へ、日本の産業構造は大転換期にあった。
三井炭鉱労組連合会の事務局長だった河野昌幸さん(85)は「この敗北に国民は闘争の限界を見た。闘う組合は減り、労働運動の質が変わった」と語る。
政治への影響力が強い欧州の組合は、八一年に仏・ミッテラン左派政権を登場させた。米では航空管制官、大リーグなど大規模なストが相次ぐ。日本では八九年に「連合」が誕生したが、現在の組織率は23%に低下した
高木教授は言う。「日本の労組は、経営への発言など社内での地位は築いた。だが、その力を社会へどう影響させるか、悩んでいる」
*◆ユダヤ人迫害(上)
*◇なぜドイツで 重い問い◇
一九二〇年二月二十四日、二千人がひしめくドイツ・ミュンヘンのビアホール「ホーフブロイハウス」で、演台のアドルフ・ヒトラーは国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の二十五か条綱領を発表した。四条には「ドイツ国家同胞になれるのは、ドイツ人の血を有する者に限られる」と書かれていた。
ヒトラーはその後、「殺す以外にその被害を免れる道はない」などとユダヤ人を攻撃した。自著『わが闘争』(二五年)では、人種を「文化創造者」「文化支持者」「文化破壊者」に三分類し、ドイツ人が代表するアーリア人種を創造者、ユダヤ人を破壊者とする独自の世界観を示した。
政治記者のセバスチャン・ハフナー氏は著書『ヒトラー注釈』で、人種・血統理論に基づくユダヤ人の組織的な迫害について、「ヒトラーの犯した錯誤の中で、最も重大な影響を及ぼした」と指摘す
三三年にナチス政権ができてからの歩みは、この「錯誤」を実行していく過程だった。ドイツ人とユダヤ人の結婚を禁止する「ドイツ人の血と名誉を守るための法」(三五年)が制定され、断種の強制を可能とする「対遺伝病質子孫予防法」など優生立法も行った。
行き着いた先は、三九年の第二次大戦ぼっ発後の、死者総数六百万人以上とされるユダヤ人大量殺害「ホロコースト」だった。
ベルリン自由大学のウォルフガング・ウィッパーマン教授(ドイツ現代史)はホロコーストについて、〈1〉早い段階で確立していたヒトラーの意図〈2〉人種主義的思想に基づく動機〈3〉国籍を問わず全ユダヤ人を殺害対象とする全体性〈4〉絶滅収容所にみられる徹底性――の四点で、「人類史上、類例がない」と述べる。
この「人道に対する罪」が、なぜドイツで起きたのか。
政治学者のフランツ・ノイマンは、ナチス分析の古典となった『ビヒモス』で、分断状態が長く続いたドイツは「遅れてきた近代国民国家」であり、「人種」を国民統合の根拠とせざるを得なかった事情を背景の一つに挙げた。だが、ドイツは決定的な答えを見いだしていない。
ユダヤ系米国人の歴史学者ダニエル・ゴールドハーゲン氏が九六年に書いた『ヒトラーの自発的死刑執行人たち』はドイツで猛烈な反響を起こした。同書は、ドイツでは十九世紀初めに反ユダヤ主義が「常識」になり、十九世紀末までにはユダヤ人をあらゆる手段で排除しようという思想が「文化の型」になったと指摘。一般大衆を含むドイツ人が「自発的死刑執行人」になったと結論づけた。
これを、一部の知識人は「ホロコーストがドイツ人、ドイツの歴史、ドイツのイデオロギーに関係することは、否めない」(ウィッパーマン教授)と受けとめた。
一方、「人種理論に基づく反ユダヤ主義は十九世紀以降、欧州に広まり、ロシアなどの方が強かった。第一次大戦敗戦後のドイツの壊滅的経済も考慮する必要がある。ゴールドハーゲン説は単純すぎる」(ベルリン工科大学反ユダヤ主義研究所ウォルフガング・ベンツ所長)などの反論も相次いだ。
ドイツで今年八月、一人のユダヤ人が亡くなった。収容所で肉親を失いながらもドイツにとどまり、ドイツ人との和解の努力を続けてきたドイツ・ユダヤ人中央評議会長イグナツ・ブビス氏だ。
氏は死の直前のインタビューでこう言い残した。「ドイツには自分たちにアウシュビッツ(ユダヤ人絶滅収容所)の責任がある、との意識が根づいていない。私の墓は(極右活動家に)荒らされる恐れがある。イスラエルに埋葬してほしい」
氏の晩年のペシミズムは、ナチズムの克服に努力してきた戦後ドイツに、改めて深刻な問いを突きつけている。(ベルリン・三好範英)
[ユダヤ人迫害]
キリスト教という宗教的動機からのユダヤ人迫害は中世を通じ続いたが、近代以降、ユダヤ人が社会に「同化」し、社会的地位を得ると、今度はそれに反発して、経済社会的な動機も迫害理由になった。人種間に優劣があるとする社会ダーウィニズムなどの影響もあり、人種理論に基づく反ユダヤ主義が欧州を中心に広まった。
*◆ユダヤ人迫害(下)
*◇戦後のポーランドでも◇
「何を立ち聞きしているんだ。ユダヤ人め」。ののしりと同時にこぶしが顔面に飛んできた。一九六七年のポーランド・ワルシャワ中心街。高校生のコンスタンティ・ゲーベルトさんは、ユダヤ人の悪口を言い合っていた二人連れとすれ違い、立ち止まった時に暴行を受けた。悪口に反発した表情から、ユダヤ人とわかったようだ。だれも止めに入らなかった。
ポーランドではそのころ、反ユダヤ主義の嵐(あらし)が吹き荒れていた。「シオニスト(ユダヤ人国家建設に賛同するユダヤ人)はナチス・ドイツと同じだ。ポーランドの冒とくをたくらんでいる」。こんな文句が統一労働者党(共産党)機関紙に載った。シオニスト反対デモが各職場で組織され、ユダヤ人は公職から追放された。
ゲーベルトさんはいま四十七歳になり、ユダヤ系雑誌「ミドラシュ」の編集長を務めている。「ナチス占領下の我が国で、ホロコースト(ユダヤ人集団殺害)が起きたのは、その二十年あまり前。我が国にまたユダヤ人絶滅収容所ができてしまうのか……。私がいかに不安だったか、想像つくでしょう」と語る。
反ユダヤ主義運動は六七年六月十九日、ウワディスワフ・ゴムウカ統一労働者党第一書記が「我が国のユダヤ人は、対イスラエル協力勢力」と宣言したことで始まった。
直接の原因は、ユダヤ系軍人が、第三次中東戦争終了時にイスラエル戦勝会を開いたことへの、党の反発だ。ソ連・東欧圏は「親アラブ」だった。党として、ポーランドで「親イスラエル」の言動を許すことはできなかった。
だが、ポーランドの反ユダヤ主義の根は深い。
同国は近代以降、国家建設のためにユダヤ人移民を広く受け入れる政策をとり、東欧随一のユダヤ人住民を数える国となった。十九世紀末には人口の14%。しかし、それは、東欧で最も強いとされる同国の反ユダヤ主義の土壌にもなる。
ナチスはこの国にアウシュビッツ絶滅収容所を作り、ユダヤ人を集団殺害した。ドイツ降伏後は、「ポグロム」(民衆によるユダヤ人虐殺)が相次ぎ、犠牲者が戦後の数年間で約二千人に及んだとされるのも、歴史的背景なしには理解できない。
ワルシャワのユダヤ歴史研究所フェリクス・ティフ所長は「ナチスのユダヤ人虐殺の主な場所はポーランドだった。このことが、ポーランド民衆の間にユダヤ人の命を何とも思わない空気を作ってしまった」と指摘する。
六七年からの反ユダヤ主義運動は、統一労働者党が指導したのが特徴だ。運動には権力闘争の一面もあった。
ティフ所長は「党の第一世代には、ユダヤ人が多かった。反ユダヤ主義を持ち込んだのは第二世代」と話す。第二世代は、国民の反ユダヤ感情を利用し、第一世代のユダヤ系幹部の追い落としを図ったのだった。
反ユダヤ主義運動は一年半続いた。約三万人いたユダヤ系ポーランド人のうち、一万三千人から二万五千人が国外追放された。「人間の顔をした社会主義という、党の理想がうち砕かれ」(ティフ所長)、自殺したユダヤ人党員も出た。
ゲーベルトさんの一族では、姉一家がウィーン経由でイスラエルへ去った。同氏は「ポーランド通貨は国外で通用しない。姉一家の出国の前夜、家財道具を処分、がらんとした部屋に一族が集まり、目にしたことのないごちそうを食べた。散会の時、みんな号泣した」と語る。
なぜ、戦後ポーランドに反ユダヤ主義が根強く残り、時に噴出したのか。ゲーベルトさんの見解はこうだ。「ドイツは戦後、議論を重ね、反ユダヤ主義の克服を規範にまで高めた。統一労働者党支配下で言論の自由がないポーランドは、それを欠いた」(ワルシャワ・三好範英)
[ポーランドのユダヤ人問題]
ポーランドには戦前、約350万人のユダヤ人が居住していた。ナチス・ドイツの迫害でその多くが死亡し、難を逃れたユダヤ人も戦争直後、ポグロムの対象になり、約13万人が出国した。その後も出国は続き、現在のユダヤ人住民は1万人弱とされる。90年の大統領選挙では有力候補マゾビエツキ元首相が反ユダヤ・キャンペーンにさらされた。
*◆レイシズム
*◇定住外国人へ強い反感◇
刃物の製造で知られるドイツのゾーリンゲン市。しょうしゃな住宅が並ぶ市中心部ウンテレ・ウェルナー通りでは、「八一番地」が欠番のままだ。鉄さくに囲まれた更地に小さな石碑が立ち、五本のトチの木の葉が風に揺れる。
一九九三年五月、戦後ドイツで最悪の人種差別犯罪とされるトルコ人住居焼き打ち事件が、ここで起きた。
裁判記録によると、酒を飲み、外国人とけんかして気が立っていた地元の若者四人が、けんかとは何のかかわりもない、八一番地のトルコ人住居放火を思いつく。彼らは外国人排斥を叫ぶ極右組織の影響を受けていた。深夜、ガソリンをまき、火をつけた。十九人が暮らす木造家屋は炎に包まれ、子供ら五人が死亡し、十人が負傷した。
それ以前にも、トルコ人労働者宅を狙う連続放火事件が北部メルン市で起きるなど、外国人を標的とする放火・襲撃事件がドイツ各地に広がっていた。極右組織の影響が背景として指摘された。
トルコ人は、旧西独政府の呼びかけに応じてやってきたガスト・アルバイター(お客労働者)と、その親族だ。
第二次大戦後の高度成長に伴い労働力不足に直面した西独政府は、五五年にイタリアと労働者派遣協定を結んだのを最初に、スペインやトルコからも次々に労働力を招き入れた。五〇年代まで年間十万人前後だった外国人入国者は急増し、七〇年ごろには年間九十八万人に達した。ケルンにある米自動車メーカー、フォードの工場では労働者の九割を外国人が占めた。
「移入労働力が国内に定住するなど、当時はだれも考えなかった」。バンベルク大学のフリードリヒ・ヘックマン教授(移民政策)は、政策担当者、ひいてはドイツ社会の誤算を指摘する。外国人労働者は一年程度の短期契約で働きに来たが、契約満了後、むしろ雇用主が放したがらず、滞在は長期化した。
転機は七三年の石油危機だ。雇用事情の悪化で、政府は国外からの労働者の募集を打ち切った。それを聞いて、トルコ人は「出国すると二度とドイツに戻れない」と案じて、家族を呼び寄せた。「募集停止は、入国者を一時労働力から事実上の移民へと変えた」(ヘックマン教授)
同様の事態は、フランスやスイスでも起きた。仏政府は、いったん受け入れたアルジェリアなどマグレブ系労働者の強制送還を計画したが、人権団体や左派政党の反対で取り下げ、アルジェリア人らは郊外へ集団で移り住んだ。スイスの著述家マックス・フリッシュが「我々は労働力を呼んだのに、実際にやって来たのは人間だった」と述懐する、予期せぬ現実が進行した。
定住した外国人労働者は、失業の波に合わせて高まる外国人排斥運動(レイシズム)の脅威にさらされた。「外国人が我々の職を奪っている」「ドイツ人のためのドイツを」。極右組織のスローガンは、若年層の現実への不満を吸収した。
欧州各国で失業問題が構造化し、失業率が10%を超える水準で高止まりするなか、極右政党は支持基盤を広げ、ドイツでは独民族同盟が、フランスでは国民戦線が、地方議会に進出した。注目されるのは、極右政党への支持が、フランスではアルジェリア独立によって避難してきた白人、ドイツでは旧東独国民の間で、極めて強いことだ。国民国家の主流を外れたと意識する人々ほど、外国人に強い敵意を抱き、人種主義に走った。
ゾーリンゲン市幹部は、若者教育や外国人住民の発言力強化など様々な対策を講じたことを強調し、「この地で同じような犯罪が再発することはない」と断言する。
だが、八一番地では「我々はあなた方のことを決して忘れない」と書かれた板が何者かにはぎ取られ、問題の根深さを示していた。
(フランクフルト 貞広貴志)
◇
[レイシズム]
もともとは人種による差別を意味する言葉。欧州主要国は1960年代に経済成長を支える労働力不足解消のため外国人労働者を招き入れたが、70年代に不況で高失業が構造的になると、外国人労働者排斥の動きが顕著になった。近年では、この動きを指して、「レイシズム」と言うことが多い。
*◆アパルトヘイト(上)
* ◇血流し勝ち取った自由◇
南アフリカ共和国ケープタウン沖のロベン島には、一九九六年末まで監獄があった。その後、監獄は博物館になった。そこの「独房5」が観光客の目を引く。南アの白人支配に対する抵抗運動の指導者ネルソン・マンデラ氏(81)は二十七年半の獄中生活を強いられたが、そのうち十八年間はこの独房にいたからだ。
ガイドのパトリック・マタンジャナ氏(56)も囚人だった。「我々はここをマンデラ大学と呼んだ」と言う。黒人囚人は彼から、黒人闘争史だけでなく数学、そして支配者のオランダ系白人「アフリカーナー」の言葉も学んだ。敵を知ることは闘争を有利にする。マンデラ氏の兵法だ。
だが、監獄でも黒人は差別された。ターボ・ムベキ大統領(57)の父親で、囚人の一人だったゴバン・ムベキ氏(89)は「カラード(混血)とインド系の囚人の食事はパン付き。黒人にはパンはなかった。黒人は冬でも半ズボン。床にござを敷いて寝た。寒さで目が覚めた」と回想する。
アパルトヘイトは、少数派白人が多数派黒人を支配する国家による人種差別制度だ。白人至上主義に立つアフリカーナーの政党である国民党が政権を奪取した四八年以降、制度は強化された。
後に首相となったヘンドリック・ファーウールト上院議員(当時)はその年九月、議会演説で「隔離政策」をこう説明した。「狙いは、原住民と白人がお互いにとって危険な存在にならないように努めることにある」と。
しかし、その実態は、白人による黒人の排除だった。黒人に選挙権はなく、教育、居住地、公共施設利用など生活のあらゆる面で黒人は基本的人権を否定された。人口の七割の黒人住民は、「ホームランド」と名づけられた国土の13%の荒地に囲い込まれた。安価な労働力として都市部で働く黒人は「外国人」とされ、市民権はなかった。
黒人の抵抗運動は六〇年三月のシャープビル虐殺事件を契機に激化する。ヨハネスブルク郊外シャープビルで、黒人の自由な移動を規制したパス法に抗議した黒人デモに警察隊が発砲し、六十九人が死亡した事件である。「みんな、背中を撃たれて死んだ。逃げる人間を撃ったのだ」とゴバン氏は語る。
抗議運動は広がり、マンデラ氏が指導するアフリカ民族会議(ANC)は武装路線に転じた。マンデラ氏は六二年に逮捕され、反逆罪などで終身刑を下された。
黒人抵抗運動の先鋭化と白人政権の弾圧強化は、六〇年代のアフリカ諸国の相次ぐ独立とも呼応している。南アの黒人は「民族自決」の流れに力を得た。政権は逆に白人支配の存続に危機感を抱いた。
一方、国際社会は五〇年代から南ア政権を非難し、七三年のアパルトヘイト条約ではアパルトヘイトを「人道に対する罪」とし、国際犯罪と規定した。米欧は八〇年代、南ア経済制裁に踏み切った。
国際的孤立と国内の暴動激化に直面した白人政権は、八〇年代半ばから「融和策」をとり始め、九〇年にはアパルトヘイト解体を迫られた。政権はその年二月にマンデラ氏を釈放し、翌九一年六月にはアパルトヘイトの基幹三法を廃止した。
だが、白人支配層がアパルトヘイトを放棄したのは、人道的理由からではない。この地で、アフリカーナーの存続を図るには、ほかに方法がなかったからだ。
アフリカ民族会議は九四年四月、全人種参加の総選挙で圧勝し、マンデラ氏が黒人初の大統領に就任、民族和解政権を立ち上げた。
ゴバン氏は闘争記録写真集のページを繰りつつ、こう話す。「本当に多くの命が失われ、抑圧された黒人がやっと自由を手に入れた。我々は最後に勝ったのだ」
(ヨハネスブルク 森 太)
[南アの白人支配]
1652年、ケープ地方に上陸したオランダ人が先住民を奴隷としたのが始まり。20世紀に入り、白人政権は人種別教育を定めたバンツー教育法、白人と黒人の性交渉を禁止した背徳法など350以上の法律で支配体制を強化した。アパルトヘイト基幹3法は、原住民土地法、人種別に居住地を定めた集団地域法、人口登録法。
* ◆アパルトヘイト(下)
*◇変わらぬ「経済格差」◇
「黒人も白人も、すべての南アフリカ人が、恐怖を抱かず、人間の尊厳に欠くことのできない権利を保障され、胸を張って歩ける――。我々はこんな社会の建設を約束する。虹(にじ)の国をつくりたい」
南アフリカ共和国初の黒人大統領、ネルソン・マンデラ氏は一九九四年五月十日の就任演説で、カラード(混血)やインド系も含め、全人種が融和をめざす、南アの新生を高らかに宣言した。白人が非白人を支配するために人種差別を制度化したアパルトヘイト(人種隔離政策)は、マンデラ政権の誕生で終焉(しゅうえん)した。虹の国は世界の祝福を受けて歩み出した。
新憲法の成立は九六年十二月十日。第一章で「反・人種差別」「反・性差別」を国家の拠(よ)って立つ価値観と規定した。
マンデラ政権は、アパルトヘイト時代の人権侵害の取り扱いについて、キリスト教的とも言える解決を選んだ。真実和解委員会(委員長=デズモンド・ツツ元大主教)が調査にあたり、罪を記録するが、その告白者の一部は刑事免責した。三千五百ページに及ぶ最終報告書は九八年十月、ツツ委員長から大統領に提出された。黒人活動家弾圧など旧白人政権下の罪を列挙する一方、抑圧された黒人側によるリンチ、テロ事件も指摘した。
だが、白人警察官らの免責は、多くの黒人の心の傷を癒(いや)しはしなかった
南ア人種問題研究所は今年七月、「真実委の真実」と題した報告をまとめた。ジョン・ケインベルマン副所長はその冒頭でこう書いた。「真実のすべてを明らかにしなかったことに、最終報告書の根本的問題がある。免責を求める人々の証言に対し、裏付けをとらなかった。一万二千以上の殺人事件は全く触れられていない。真実は隠され、ゆがめられた」
過去は清算されていない。それが顕著なのは社会・経済分野だ。旧白人政権時代、国会議員でただ一人、アパルトヘイト撤廃を訴えたヘレン・スズマン氏(82)は「経済的アパルトヘイトは残ったままだ」と話す。
水道のある世帯は、白人の96%に対し、黒人は27%。失業率は、白人の4%に対し、黒人は42%。黒人は人口の八割だが、企業の管理職に占める黒人の割合は6%。農地所有者のほとんどは白人だ。
約四千万人の国民のうち、旧黒人居住区で最貧生活を送る人は七百万人とされる。ヨハネスブルク市内の旧黒人居住区に住むヨハネス・モナレン氏(59)は「生活水準は、アパルトヘイト時代と何ら変わらない」と失望する。
米欧の南ア制裁で疲弊した経済は、回復していない。外国投資の停滞で高失業は改善されず、それが世界最悪とされる犯罪発生率の原因となる。治安悪化で外国投資が停滞する……。悪循環と鉱業不況が重なり、九四年以降、計五十万の職が失われたとの試算もある。
政府は今年八月、雇用機会均等法を施行した。企業主は従業員の七割は非白人を、五割は女性を雇用しなければならなくなった。「反・人種差別」「反・性差別」に沿った政策ではある。
しかし、旧白人支配下で教育機会を奪われた、大多数の黒人の教育水準は低い。法の履行は新たな混乱を予想させる。スズマン氏は「外国企業はさらに投資を手控えるだろう。市場原理に反した悪法だ」と反対する。経済が活性化しない限り、高失業が解消されず、結局、黒人の生活は改善されないからだ。
南アのノーベル賞作家、ナディン・ゴーディマ氏は「我々にとって決して存在することのなかった人間的な社会を、我々は創造しなければならない」と書く。人種や性差による差別のない社会実現に向けた南アの道のりは険しい。(ヨハネスブルク・森 太)
[アパルトヘイトの刑事免責]
真実和解委員会によると、全国2万1300人が人権抑圧被害を訴えた。一方、罪を告白したのは約7000人。「政治的理由」の犯罪だったと真実委が判断すれば、刑事免責(恩赦)され、538人が対象となった。5412人は免責されなかった。審査は続行中。
*◆人権と犯罪(1)
*◇抑圧と闘う「静かな力」◇
英国ロンドンのイーストン・ストリート。市の中心部に位置するが、人通りは多くない。その通りに面した何の変哲もない四階建ての建物に、国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」の国際事務局はある。受付から先は、専用の身分証明書がなければドアのかぎを開けられない。広報部門へたどり着くまでに九つのドアがあり、うち四つは身分証明書が必要だ。
ここでは、政治的、宗教的な理由などで不当に拘束されている世界各地の「良心の囚人」についての情報が、調査スタッフによって集められている。家族や知人からの訴えも届く。「クルド人男性が民族的出自を理由に逮捕され、起訴、裁判もないまま拘禁され続けている」「開発に反対していた中米の男性が、推進派の一人を殺害したことにされ、有罪を宣告された」……。
広報担当のベン・ローズ氏は「秘密事項もある。被害にあった人がこちらと連絡を取っていることが分かって、拷問を受けたりすると困るから」と、厳重な警備の理由の一端を明かす。
この事務局に詰めているのは三百二十人の常勤職員と九十人余りのボランティア。キャンペーン、出版など二十ほどの部門に分かれている。会員は百六十以上の国・地域に広がり、主婦、学生、勤め人など百万人を超す。支部は日本を含め五十六を数える。
「あなたもはがきを送って下さい」「釈放され、メッセージが届きました」。会員に届くニュースレターにあるように、会員一人ひとりが良心の囚人の釈放などを求め、問題の国の政府に手紙を送るという地道な活動がアムネスティの基本だ。発信された手紙の総数は、事務局でも把握しきれないほどという。
国連は一九四八年の総会で、「すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する」などと、人間の尊厳と権利をうたった「世界人権宣言」を採択した。その理念は六六年、法的拘束力を持つ二つの国際人権規約となって具体化された。
だが、世界を見回すと、人権宣言に反するような事態が起きていた。医療サービスを改善しようとしたアフリカの医師が拘束されたり、民主団体の連帯を図ろうとした西欧の弁護士が逮捕され裁判もないまま拘禁されたり。
そんな時代の六一年、アムネスティは設立された。英国の一人の弁護士がオブザーバー紙に「忘れられた囚人たち」と題する意見広告を出したのがきっかけだった。
活動の目的として「世界人権宣言にうたわれているような人権が守られる世界に貢献すること」(『アムネスティ ハンドブック 改訂版』九八年)を掲げ、良心の囚人の釈放、政治囚に対する公正・迅速な裁判を求め、さらに死刑、拷問にも反対して動き始めた。七七年には「自由、正義、世界平和に貢献した」としてノーベル平和賞、七八年には国連人権賞を受けた。
「人権問題を国際社会の共通の関心事にしたと同時に、政治権力というハードパワーに対抗しうる、説得と合意によるソフトパワーを開発した」。法政大の江橋崇教授(憲法)はこう解説する。
しかし、国連の人権政策を途上国が「内政干渉」と批判するように、アムネスティに対しても「欧米寄り」などの反発がないわけではない。
国際事務局のピエール・サネ事務総長(セネガル出身)は、こうした見方を否定する。そのうえで、大量虐殺や戦争犯罪などを犯した個人を裁く「国際刑事裁判所」を常設する条約案が昨年、国連外交会議で採択されたことに今後の展望を見いだす。
「裁判所の設立を通じて国際正義を促進し、国内法を整備するキャンペーンをしたい。また、人権を経済的な面からもとらえていきたい」。アムネスティも間もなく四十周年。そこから始まる新たな世紀に意欲を見せる。(社会部 藤田和之)
◇
[国際人権規約]
「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約または社会権規約)と「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(B規約または自由権規約)。いずれも採択から10年後の76年に発効。B規約には、人権侵害された個人からの通報を規定した選択議定書、死刑廃止を目指す第二選択議定書もある。日本は規約だけ締結し、議定書は締結していない。
*◆人権と犯罪(2)
*◇「無罪推定」浸透なお課題◇
国連が一九四八年に採択した「世界人権宣言」には、「犯罪の訴追を受けた者は、すべて、有罪の立証があるまでは、無罪と推定される権利を有する」(一一条)との一文が盛り込まれた。
これは無罪推定の法理と呼ばれ、「無罪の者を有罪とする事例はたとえ少なくとも、その過ちは、裁判の正義の面からみてはかりしれないほど大であるとの自覚から生まれた」(鴨良弼(よしすけ)著『刑事訴訟法の基本理念』)。刑事裁判の原則として知られる「疑わしきは被告人の利益に」もほぼ同じ意味だ。
この理念は、日本では第二次大戦後に法体系が改革される中で、憲法のほかに四九年施行の刑事訴訟法にも盛り込まれた。
新刑訴法は第一条で、公共の福祉と基本的人権の調和を図りつつ真相を明らかにするとうたい、捜査、公判などの手続きは「真実の追求」と「適正手続きの保障」が二つの柱となった。
戦前の旧刑訴法の下では、起訴状に捜査の証拠資料を添付する方式がとられた。このため、裁判官に公判前から予断を与えかねないなど、適正手続きの保障は極めて不十分だった。
無罪推定の原則が広く知られるようになったのは、七五年の「白鳥決定」だった。
警察官射殺事件の首謀者とされ、懲役二十年が確定した男性が冤罪(えんざい)を訴え、再審請求。最高裁はその特別抗告を棄却したが、決定の中で証拠の評価の仕方を緩和したうえ、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が再審にも適用されることを示した。これが判例となり、以後、四人の死刑囚が再審で無罪となった。
八三年、その最初の例となった免田栄さん。無実のまま三十四年半も死の恐怖と隣り合わせの獄中生活を強いられた。発端は四八年暮れ、熊本県人吉市で一家四人が殺傷された事件。翌年、別件逮捕され、刑事たちの拷問で“犯行”を自白、強盗殺人罪などで起訴された。
新刑訴法が施行された年だったが、その理念には程遠い捜査だった。
いま七十四歳になる免田さんは振り返る。「本当にものすごい拷問じゃったですよ。起訴後に面会に来た弁護士の顔が、三つにも四つにも見えた」
白鳥決定は法曹界で、「決定からの十年は、再審にとってそれまでの閉塞(へいそく)・停滞からまさに激動・躍進の十年であった」(日本弁護士連合会編『続・再審』)などと評価された。
新刑訴法の立案に携わり、同決定にもかかわった元最高裁判事の団藤重光氏(86)は、「警察の捜査に作為が感じられたので、従来の再審の基準ではいけないだろうと、後のことを考えて再審の範囲を広げた」と振り返る。
無罪推定の法理は、古くは一七八九年のフランス人権宣言にさかのぼる。「ヨーロッパでは、人権を意識した刑事法の大きな改革の際に、よくそのモットーとして利用されてきた」(『刑事訴訟法の基本理念』)という。
現代では「有罪推定の閉ざされた訴訟制度から無罪推定の開かれた制度への切り換えの要請は、世界的な傾向」(同)だ。
日本でも白鳥決定以後、再審の運用に一定の前進が見られたことは間違いないが、こうした理念は、刑事手続き全体にどれほど浸透しているのだろうか。
京都大の平場安治名誉教授(刑事法)は「裁判官も理屈としては認めているが、適用には慎重だ。検察官が起訴して一応の証拠をそろえると、被告側が無実を証明しないといけないのが現実。裁判官は上から人を裁くという姿勢が抜けていない」と憂慮している。(社会部・藤田 和之)
[再審]
冤罪救済のための制度で、無罪や確定判決より軽い罪を言い渡されるのが当然であるような「明らかな証拠をあらたに発見したとき」などに請求できる。白鳥決定は、「明らかな証拠」かどうかは新証拠と旧証拠を総合評価して判断すべきことも新たに示し、「開かずの門」と言われた再審の門戸を広げた。この後、免田事件のほか、財田川、松山、島田の各死刑事件も再審無罪となった。
*◆人権と犯罪(3)
*◇尽きぬ死刑存廃論議◇
英国で一九五〇年、一人の男の死刑が執行された。ティモシー・エバンス。その前年、妻と娘が絞殺体で見つかり、彼が娘を殺したとされた。
執行から三年後、妻子の遺体の第一発見者で、一家が間借りしていた住宅の持ち主が、女性六人を殺害していたことが判明し、エバンスの妻殺しも認めた。娘の殺害は否定したが、これら一連の事件を本で紹介したロンドン大のテレンス・モリス名誉教授は「エバンスはどう見ても犯人ではない可能性が高かった」と話す。
エバンス事件は社会に衝撃を与え、英国が死刑廃止に向かう契機となった。五七年に死刑を適用できる殺人と他の殺人を区別する法律ができ、その後、五年の試験的な死刑廃止期間を経て、六九年には戦時犯罪などを除く犯罪についての死刑廃止に至った
。
死刑制度については、存廃をめぐって古くから議論が闘わされてきた。英国の政治家トーマス・モアは『ユートピア』(一五一六年)でキリスト教信仰を基に死刑廃止を主張し、フランスの思想家ジャンジャック・ルソーは『社会契約論』(一七六二年)で存置論を展開した。
日本でも明治期以降、西欧の廃止論が伝えられ、存廃論議が交わされるようになった。近年も、団藤重光・元最高裁判事が自らの判事体験から「死刑そのものがいいかどうかの正義論は水掛け論になるが、誤判の恐れによる死刑廃止論はある意味で分かりやすい。無実の者を処刑することの不正義は、何人の反論も許さないはずだ」と主張すれば、存置論の立場からは「誤判はすべての裁判にあってはならない」「死刑廃止ということの持つ意味は、犯罪人に対し『どんな残虐非道のことをしようとも、犯人の命だけは保障してやる』と宣明するのと同じ」(植松正著『法の視点』)と反論が出るなど、論争が続く。
世界の現状はどうなっているのか。アムネスティ・インターナショナルのこの六月現在の資料では、死刑全廃が六十八、通常犯罪の死刑廃止が十四、十年以上死刑を執行していない事実上の廃止が二十三の計百五か国・地域で、死刑存置は九十か国・地域。国連が八九年、死刑廃止条約を採択(九一年発効、日本は未批准)した後、廃止した所も少なくない。
先進国で死刑を維持しているのは、米国と日本だけだ。米国では七二年、連邦最高裁で死刑を違憲とする判決が出たが、四年後に覆された。現在は連邦と三十八州で存置し、十二州が廃止している。一方、日本では最高裁が四八年、「一人の生命は全地球よりも重い」としながらも死刑を合憲と判断し、この判例は変わっていない。
数百年の歴史を持つ死刑存廃論議の論点は、出尽くした感がある。人道主義的観点、被害者感情、世論の動向、犯罪抑止力の有無、廃止した場合の代替刑……。
こうしたなか、国内ではここ数年、双方が接点を探るなど、注目すべき動きも見られる。
「死刑は絶対悪」として代替刑の提示にも反対していた明治大の菊田幸一教授が、「被害者感情を考えると理屈だけではいかない」と、二十年前後で仮釈放が認められている現行の無期懲役刑より重い仮釈放なしの絶対的終身刑を代替刑として提案。一方、元最高検検事の土本武司・筑波大名誉教授も「現状では存置論だが、社会情勢の変化によっては廃止もありうる」と述べ、廃止した場合の代替刑として、恩赦の余地を残した絶対終身刑を唱えている。
世紀をまたいで議論されてきた死刑制度について、今世紀に入って世界が廃止に傾いたのは確かだろう。だが、フィリピンや米国の一部の州のように、いったん廃止しながらも復活した例もある。是非をめぐる議論はなお続く。(社会部・ 藤田和之)
[死刑制度に対する世論]
総理府が94年に実施した世論調査では、「どんな場合でも廃止すべき」が13.6%、「場合によってはやむを得ない」が73.8%。ただし、後者の回答者のうち、39.6%は「状況によっては廃止してもよい」だった。フランスでは81年、死刑廃止の公約を掲げて大統領に就任したミッテラン氏が約6割の廃止反対の世論を押し切って廃止した。
*
*
*◆人権と犯罪(4)
*◇置き去りにされた被害者◇
一九九五年四月十九日、米オクラホマ州の連邦政府ビルが爆破された。百六十八人もの死者を出した米史上最悪の爆弾テロ。この時、一つの小さな集団が派遣された。民間組織「全米被害者援助機構(NOVA)」が、被害者を支援するために編成した特別チーム(CRT)だった。
事件から三日目、捜査当局が男二人を拘束したと発表した。「でも、この事件の裁判で、被害者は自分たちの権利として発言はできなかった。私は被害者の中に怒りの炎を見た」。NOVAのマリン・ヤング事務局長は、十月の来日講演でそう語った。
ワシントンに事務局を置くNOVAは七五年、犯罪被害者救済のため発足、その後、支援対象を災害や事故にも広げた。CRTは阪神・淡路大震災にも駆け付けた。オクラホマ、阪神の双方に参加した警察官のエド・ネケル氏は「被害者にはすべてを語らせ、平常心を保たせることが大切だ」と強調する。
被害者はかつて「忘れられた人々」と呼ばれた。近代法が整備され、被疑者・被告人の権利は尊重されるようになったが、犯罪や事故の被害者は置き去りにされたからだ。
いち早く被害者支援に動き始めたのは英国だ。五七年、「被害者のための正義」という一つの論文が発表されたのを機に公的補償の必要性に社会が目を向け、六四年に補償制度ができた。七四年には民間の「被害者支援協会(VS)」が生まれ、現在はロンドンに本部を置き、全国に三百八十六の支部を持つ。警察と連携をとり、被害者の精神的ケアなどにあたる。
一方、米国には官民一万以上の援助組織がある。数少ない全国組織のNOVAは各組織の調整にあたり、自ら二十四時間体制で電話相談も行う。近年は、被害者が刑事手続きの中で意見を述べたりできるよう、連邦憲法に被害者の権利を盛り込む運動を他の組織と展開している。
英米を先駆けに、多くの国で被害者対策は〈1〉経済的援助〈2〉援助組織によるカウンセリングやサービスの提供〈3〉刑事手続きでの被害者の地位向上――の順に進んだ。国連も八五年の総会で「被害者人権宣言」を採択した。
しかし、日本では対策が遅れた。八一年から給付金の支給制度が始まったが、「不慮の死を遂げた者」の遺族と重い障害が残った被害者に対象が限られ、それ以外の対策は進まなかった。NOVA創設にもかかわった常磐大のジョン・ドゥーシッチ教授はその理由として、運動の担い手が学者で援助より理論が重点だったことや、「忍耐は美徳」という文化的な要因などを挙げる。
動き出すきっかけは九一年、給付制度十周年のシンポジウムで精神的な支援を訴える遺族の発言だった。翌年、東京医科歯科大に犯罪被害者相談室が開かれ、九五年の阪神大震災、地下鉄サリン事件で被害者援助の必要性が叫ばれるようになった。だが、民間の支援組織はまだ全国に十二、被害者の権利については今年十月、法整備が法制審議会に諮問されたばかりだ。
事件で妻を失った岡村勲・元日本弁護士連合会副会長は、被害者が事件の当事者でありながら、刑事裁判では地位も権利も与えられない現状を疑問視する。「被害者が裁判に関与すると報復的になって刑が重くなるという意見があるが、被害者が当事者である民事裁判でも、報復的な賠償額が認められるわけではない。刑事裁判に被害者が関与しても適正な刑以上の判決が出るはずもないのに、なぜこれを許さないのか」
米国で昨年、司法省の支援で主な民間組織がまとめた「現場からの新たな指針――二十一世紀のための被害者の権利とサービス」は、二百五十以上の勧告を掲げた。その一番目には「憲法上保護される権利」として、保釈や刑の宣告について、被害者が法廷で意見を述べる権利などが含まれるべきだと記されている。(社会部 藤田 和之)
◇
[被害者の意見陳述権] 捜査、公判などの過程で、被害者自身が犯罪によって受けた影響などを書面や口頭で述べる権利。米国では連邦法で認められている。これに対し、英国では試験的に導入されたが、被告の保釈や訴追、量刑を決定するのにほとんど影響がなく、「期待が裏切られた被害者に評判がよくなかった」(内務省)ことなどから、制度化は微妙だという。
*◆女性の進出(1)
*◇早過ぎた「第二の性」◇
今年一月、パリで『第二の性』出版五十周年を記念するシンポジウムが開かれた。世界から集まった約三百人の研究者らは口々に「フェミニストのバイブルである」とたたえ、この本が今も変わらぬ価値を持つことを強調した。
フランスの作家シモーヌ・ド・ボーボワール(一九〇八―八六年)が『第二の性』を出版したのは一九四九年。フランスには家父長制度が色濃く残っていた。住む場所を定める権利を基本的に夫が持ち、既婚女性は自由に職業を選択する権利もないなど、妻は夫の所有物という概念から抜け出しきれないでいた。そして女性は、主婦として夫を支え、家を飾り立てて暮らすことが幸せと信じていた。
その時代に、ボーボワールは「人は女に生まれない、女になるのだ」と断言した。性別分業を基本とし、女性を一人前の人間と認めない男性支配の社会に対し、女性が「男性より劣っている」わけではないと平等を訴えた。
後のフェミニズム理論に大きな影響を与えた『第二の性』だが、出版当初は「ショッキングな文書」と受けとめる者が多かった。とくに、口にすることもはばかられた女性の性体験をも記述し、論証に使ったことは、センセーションを巻き起こした。時代を代表する哲学者のジャンポール・サルトルと結婚に縛られない関係を持つボーボワール自身が新しい女であった。
彼女は生前のインタビューで、「カミュからは『あなたはフランスの男性を笑いものにした』と言われました。何人かの教授はあの本を少し読んだあと、部屋の隅に放り投げました」と語っている。知識人ですら受け入れ難いものだった。
皮肉なことに、こうした反応が話題となったこともあり、発売わずか一週間で二万部以上も売れた。
それからほぼ二十年後の七〇年。六八年の五月革命で、男性活動家に雑用しかさせてもらえなかったという差別を体験した女性たちが、パリ凱旋(がいせん)門の無名戦士の墓で「さらに無名な戦士の妻たちへ」と花輪をささげ、仏版ウーマンリブが幕を開ける。母の時代から読み継いだ「第二の性の娘たち」がこれを担った。
「女性たちの漠然とした被害者意識を明快な論理で解剖した」といわれながら、女性が行動を起こすのにこれほどの時間が必要だったのはなぜか。ブリュッセル自由大学のモニク・レミ教授は『第二の性』が「時代の先を行き過ぎていた」と説明する。
出版当時、多くの地域は二度の大戦から立ち直っていなかった。女性問題に関心を払うには経済的余裕がなさ過ぎた。さらには、進学率の向上によって女性側が『第二の性』が訴える新しいメッセージを受け入れる力を蓄えることが必要だったと教授は言う。
七一年、それまでのフェミニストの動きは十分ではないとして距離を保ってきたボーボワールが街頭デモに参加し、「私もフェミニストである」と高らかに宣言した。中絶合法化など制度改革に向けて活動の先頭に立つ。
七〇年代にボーボワールと活動を共にしたクロディーヌ・セールさんによると、彼女は、運動が成果をあげても「永遠に続くと思ってはいけない」と諭し、「経済危機に陥れば女性の権利は再び奪われる」と警告したという。
ボーボワールは『第二の性』の中で、結婚は二人が望めば自由に解消され、母となるのも自由、結婚しているかどうかにかかわらず母子に平等な権利が与えられる社会を予測していた。
それから五十年、フランスの都市部では同棲(どうせい)がカップルの三分の一にのぼり、婚姻手続きを踏んでいようがいまいが女性、そして子供の法的地位は平等となった。「今の女性は『第二の性の孫』である。知らないうちに恩恵と影響を受けている」とセールさんは語った。(国際部 秦野るり子)
[『第二の性』邦訳版]
日本では53年に出版され、ベストセラーとなった。その邦訳書では後半部分の「体験」が、冒頭に置かれるなど構成が大幅に変更されていた。原書の前半は哲学的なため、体験を冒頭に出した方が読まれると判断したらしい。原書に忠実な訳書は、日仏女性資料センターの中島公子さんらによる「決定版」が出る97年まで待たねばならなかった。
*◆女性の進出(2)
*◇「中絶の自由」への闘い◇
セイラ・ウェディングトン弁護士(54)は、米女性史の伝説的人物である。テキサス州オースチンに住む彼女は、一九六七年のある日のことから静かに語り始めた。
アルバイトを掛け持ちしながら法律大学院で学んでいたウェディングトンさんは、ボーイフレンドのロンさんと車でメキシコ国境に向かっていた。妊娠していた。子供を産めば、二人は共に弁護士となる夢を捨てることになる。苦しんだあげくの決断は中絶。そのための国境越えだった。
当時、テキサス州は全米のほとんどの州と同じように、人工妊娠中絶を禁止していた。レイプによる妊娠に対しても中絶を許さない厳しいものだった。メキシコでも中絶は違法だったが、テキサスよりは闇(やみ)の施術場所が簡単に見つかることで知られていた。
医療免許を持つかどうかもわからない者に身を預ける恐怖。彼女の体験は、全米で年間二十万件(推計)にのぼった闇中絶の「裏路地のホラーストーリー」の一片に過ぎなかった。命を落とさなかっただけ幸運だった。闇手術を受けるだけの資金と手段があったことも。
六〇年代末に火の手を上げた女性解放運動は、女性の権利を阻害する様々な規制に挑戦したが、中でも中絶を選ぶ権利を勝ち取ることを焦点に据えた。不意の妊娠・出産は、学業、仕事の中断につながるなど人生設計を狂わすことがある。こうした重要なことは女性自身が決定すべきで、国や地方政府が介入すべきでないというのだった。そして合法化は、より安全な中絶をも意味した。
ウェディングトンさんは、弁護士資格を得ると地元の女性グループとともに運動を始めた。そして、望まない妊娠をしながら闇中絶を受けるお金もなく困っていたダラス在住の未婚のウエートレス、ノーマ・マッコービさんを説得し、彼女を原告に七〇年、州法は違憲であると連邦地裁に訴えた。ジョージア州などでも訴訟が行われていた。
マッコービさんの仮名「ロー」と「ウエイド」ダラス地区検察官の「ロー対ウエイド」訴訟は、最高裁まで進み、ウェディングトンさんは駆け出しの女性弁護士が最高裁で弁論するという偉業も成し遂げた。
裁判には全米から支援の手が差し伸べられ、女性解放運動の火付け役ベティ・フリーダンさんも傍聴に駆けつけた。七三年、最高裁は「政府から不当な干渉を受けないプライバシーの権利を認める。これには妊娠を継続するか否かを決定する女性の権利も含まれる」という画期的な判断を下した。戦後フェミニズムの最盛期だった。
ギリシャ・ローマ時代、中絶は法で認められていたが、キリスト教が胎児に魂を認めたことから、「中絶は殺人である」という考えが広まったという。国家安全保障を阻害する犯罪とされたこともある。中絶を選ぶ自由は、兵力、労働力の確保のため女性の体をも支配しようとした男性社会、国家からの解放を意味した。
七三年の判決を受け、米国では宗教右派がこれを覆すと宣言し、各州政府に様々な規制の導入を迫った。一方、過激派は、中絶手術を行う医者などを襲い、九五年にはマサチューセッツ州で二人を殺害した。中絶を行う医院は減り、七〇年代半ばより、現在の方が中絶手術が受けにくい状況になっている。
中絶を進んでする者はいないだろう。だが、自分の人生のため、伴りょのため、家計を救うため、苦しい選択を迫られることがある。その際、精神的、肉体的に傷つくのは女性であるという事実は変わりない。それだけに、選択権は女性にあるべきだというのがウェディングトンさんらの立場だ。「ただ、誤解しないで欲しい」と彼女は力を込めた。「私たちの運動は、決して中絶を奨励するものではない」と。
(国際部 秦野るり子)
[フランスでの運動]
フランスでも中絶合法化を求める運動は劇的に展開された。71年、シモーヌ・ド・ボーボワール、女優のカトリーヌ・ドヌーブら343人の女性が「私はかつて闇中絶を行ったことがある」と告白して自由化を要求する宣言を雑誌に発表。これをきっかけに議論が噴出し、75年、合法化(当初は時限立法)された。
*◆女性の進出(3)
*◇セクハラ被害 沈黙破る◇
一九九一年十月十一日、米ワシントンの連邦議会の一室で、オクラホマ大の三十五歳になるアニタ・ヒル教授が十四人の男性議員と対峙(たいじ)していた。ブッシュ大統領が連邦最高裁の判事に指名したクラレンス・トーマス氏の就任を承認するかどうかを審議する上院司法委員会。
教授は八一年から八三年まで教育省と公正雇用機会委員会(EEOC)でトーマス氏の補佐官を務めた際、セクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)を受けたと名乗り出ていた。
国内外のメディアが取材に詰めかけたなか、公聴会は進んだ。「被害に遭いながら十年も黙っていたのか」「セクハラを受けたなら、トーマス氏が異動した時、なぜついて行ったのか」。そして、セクハラの詳細を再現するよう迫った。これに対し、教授はデートに再三誘われ、断るとポルノ映画の内容を聞かされたことなどを語った。
二十世紀、女性の地位向上、社会進出はそれまでにない速さで進んだ。十九世紀末に婦人参政権が確立していたのがニュージーランドだけだったのに対し、今ではサウジアラビアなどわずかな国を除いて女性は投票権を持つ。
米国では九〇年代までに少なくとも制度上の男女平等はほぼ達成されたと信じられた。だが、女性の間からは、昇進の際などに暗黙の性差別を感じ、見えない障壁「ガラスの天井」の存在を指摘する声が上がっていた。セクハラもその一つだった。
生中継される公聴会でのヒル教授に、自分の体験を重ね合わせた女性は少なくなかった。責任ある仕事を維持するため、トーマス氏について行かざるを得なかったという教授の言葉に納得した女性も多かった。だが、百人のうち、わずか二人しか女性議員がいない上院の反応は鈍い。
そもそも司法委は、事前に受け取ったセクハラ行為を訴える教授の供述書を、マスコミがすっぱ抜くまで無視していた。公聴会ではトーマス氏が体に触っていないことを重視した。連邦最高裁は八六年の判断で「セクハラは性差別である」としたうえで「好ましくない環境」をもたらすこともセクハラに含むとしていたが、司法委メンバーは触らない限りは問題ではないと考えたようだ。女性側の認識と大きな開きがあった。
司法委は、結局、トーマス氏の判事就任を支持、上院本会議も賛成多数で承認した。
現在、ボストン近郊のブランダイス大学で教べんを執るヒル教授は、当時、被害にあっても女性はセクハラを招いた自分を責め、すべてを胸のうちにしまっておく状況にあったと指摘した上で、自らの行動は「真実を明らかにするため進み出ることができる、と示せたことに意味があった」と振り返る。
訴え出れば苦い経験を公にしなければならない。それでも立証は難しい。公聴会はセクハラ問題の難しさを露呈したのだが、女性たちはひるむどころか怒りを爆発させた。
EEOCへのセクハラ被害の訴えは、それまでの年平均四、五千件から一万件を超えるまでに跳ね上がった。海軍での組織的セクハラが暴かれ、有力上院議員が、スタッフへのセクハラが原因で辞任に追い込まれた。これに呼応するように、最高裁は九三年、職場でセクハラを受けた女性は精神的に傷つけられたことを証明しなくとも損害賠償を受けられるという判断を下した。一方、公聴会は「政治を男性だけに任せてはおけない」という機運を生み出した。九二年の選挙では女性上院議員が六人に増え、下院では倍増、地方議会にも躍進した。
全米女性機構の元幹部シェイラ・トバイアスさんは、公聴会によってセクハラに対する社会的認知が一挙に進んだと指摘し、また「政治におけるフェミニズムの分水嶺(ぶんすいれい)となった」と分析している。(国際部 秦野るり子)
[公正雇用機会委員会(EEOC)]
公民権法によって設立された。性、人種、宗教の違いによる職場差別を監督している。差別の告発を受けると、事実調査を行い、十分な証拠があると判断すれば調停を行う。不調に終わった場合、EEOCが被害者に代わって訴訟を起こすこともある。性差別の被害者としては、男女双方を想定している。
*◆女性の進出(4)
*◇「差別は悪」一歩踏み出す◇
一九七五年九月、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」の七人が、東京・日本橋の食品メーカーを訪れた。「私作る人、僕食べる人」という即席めんのテレビコマーシャルについて、「食事作りは常に女性の仕事だという印象を広めるもの」として抗議し、放映の取りやめを求めた
。
手渡した異議申立書には、その年、国連の国際婦人年世界会議で採択された「世界行動計画」が男女平等の実現を唱え、性別役割分担を否定していることが記されていた。コマーシャルは中止され、「行動を起こす会」は抗議の成果と受け止めた。
七五年は、国連が「国際婦人年」と定めた年であった。スローガンは「平等、発展、平和」。行動を起こす会は、それを機に立ち上がった女性団体の一つ。世話人の一人だった中島里美さん(現女性連帯基金事務局長)は「あらゆる抗議で『行動計画』に触れた。国連のお墨付きがある意味は大きかった」と語る。
その年、労働省の実施する「婦人週間」のテーマに「男女の平等」という言葉が初登場した。婦人週間運動は、四六年に日本女性が参政権を初めて行使したことを記念して毎年展開されてきたが、それまでテーマが「平等」に触れたことはない。
当時の労働省婦人少年局長だった森山真弓さん(現衆議院議員)は、「それまでは『平等』を真っ正面から強調すると、反発をかうだけだった。だが、国連がスローガンに掲げたことで『平等』という観点からアプローチができるようになった」と振り返る。
高度成長を経て、日本社会では、猛烈サラリーマンの夫が安心して働くため女性が家を守る――という構図が当然のようになっていた。
職場では女性は短期で補助的な労働力と考えられていた。男女間の賃金格差は男性を100とすると女性は55・8(現金給与総額、七五年調査)と、先進国の中では格差が際立ち、定年についても男女別に定めている企業が27%(七四年調査)にのぼった。
ただその一方で、職業を持つ既婚女性の割合が専業主婦を上回り、就業年数も徐々に伸び、女性の権利意識は高まりつつあった。そこに国連が国際婦人年を定め、続く七六年から十年間を「国連婦人の十年」としたことは、変化をもたらすきっかけとなった。
日本政府は、国際婦人年を受けて総理府に「婦人問題企画推進本部」を設置し、地方自治体でも女性政策を専門とする部署が作られた。政府は八〇年、寸前まで渋ったあげく、国連が採択した女子差別撤廃条約に署名した。署名は批准を国際公約したに等しく、「婦人の十年」の最終年にあたる八五年の批准に向け、国内法の整備に重い腰を上げざるを得なくなった。
母親のみが日本人でも出生時に日本国籍が取得できるよう国籍法が改められた。職場での平等の法制化も求められ、男女雇用機会均等法が成立した。
財界の抵抗、女性労働者に対する保護規定の緩和についての労組側の反対、均等法ができるまでに厳しい対立があった。そして、内容には女性団体からは批判と失望の声が上がった。「募集・採用、昇進の差別解消を事業主の『努力義務』としただけで罰則規定がない」「新設される機会均等調停委員会が差別を巡る紛争の調停に乗り出すには事業主の同意がある場合に限られている」……。
均等法は、婦人の十年の“外圧”、女性の権利意識、そして企業論理が絡み合った「妥協の産物だった」(大脇雅子参議院議員)。婦人局長として法案をまとめた赤松良子さん(現文京女子大教授)自身、「弱い法律だった」と認める。それでも「『差別のどこが悪い』という日本の風潮を『差別は悪』へと近づけた」と自負している。
(国際部 秦野るり子)
[日本のウーマンリブ]
日本のリブは70年に始まったとされる。70年代前半は、欧米でのリブ運動が盛り上がったのに比べ参加者が少なく、男女平等へ向けた法・制度の改正に直接つながることはほとんどなかった。東京大学の上野千鶴子教授は、理由として「メディアがリブのイメージをゆがめて伝えた」「市民活動が政策決定過程に入り込むのは難しかった」ことを挙げる。
*◆グローバル・スタンダード
*◇S&L破たん処理で脚光◇
一九八〇年代、日本経済が元気だったころは、終身雇用制度や労使協調路線など日本型ビジネスが世界の模範とされた。しかし、九〇年代に入り日米の経済状況が逆転した途端、日本型ビジネスの長所は忘れ去られ、アメリカ型ビジネスが見直された。アメリカ企業も外国に対し、アメリカ型ビジネスを採用するよう善意の押し売りをしてはばからない。
日本には、長引く不況で自信を失った経営者が、新たな経営手法としてアメリカ型ビジネスを称賛する際に使う「グローバル・スタンダード」という和製英語があふれている。アメリカの世紀といわれた二十世紀最後の十年は、アメリカ経済を世界の模範に祭り上げた時代となった。
アメリカ型ビジネスが見直されるきっかけとなったのは、諸説あるが、貯蓄・貸付組合(S&L)の破たん処理との見方がある。S&Lは非営利の中小金融機関で、八〇年代の規制緩和に合わせ業務を急拡大させたが、リスク管理能力があまりないのに、危険度の高い不動産投機などにまで融資対象を広げたため、膨大な不良債権を抱える組合が続出した。八八年初めには全米三千百五十組合のうち、七百四十七組合が破産状況に追い込まれた。
ブッシュ政権は八九年にS&L救済法を成立させ、十年間に限り千六百六十億ドルの公的資金を投入することにし、影響が金融界全体に広まるのを防いだ。また、整理信託公社(RTC)を新設して不良債権の処理を進めるとともに、違法な取引に携わったS&L幹部五百人以上を次々と摘発した。
いち早い対応が奏功し、S&Lは九〇年代に入ると急速に再生し、現在では資金量が大手銀行に匹敵するような組合まで出ている。
日本では九〇年代半ばから不良債権問題が表面化したが、住宅金融専門会社(住専)の処理一つをとっても利害対立から果敢な決断を下せず、問題を先送りし、結局、傷を広げてしまった。日米のこの違いがアメリカ型ビジネスを見習うべきだという声に結び付いた。
八〇年代から急速に進んだ経済のコンピューター化やネット化もアメリカ経済を押し上げた。アップル、マイクロソフトなどの企業がきら星のごとく現れ、たちまち世界のコンピューター産業の中心となった。ネット普及率はアメリカが断然、世界トップで、諸外国はこれに追随するしかない。アメリカではいかにネット化が進んでいるかで外国の経済成長度を測るような風潮さえ出ている。
また、コンピューター化が進んだことで企業の在庫管理などがより正確になり、生産性が著しく向上した。最近では「景気の循環が緩やかになり、もはや深刻な不況に陥ることはない」とする楽観的なニュー・エコノミー論まで登場した。これが正しいかどうかはともかく、経済のハイテク化が景気を拡大させ、結果的にアメリカ型ビジネスを正当化させることになったのは間違いない。
しかし、どんなシステムも長所と短所の二面を持つ。アメリカ型ビジネスは市場への介入を可能な限り排除する自由放任主義を原則としているが、資本の流れが変わり、株安などをもたらす資本流出が急増した場合、この原則は何の役も果たせなくなる。
また、簡単にリストラを断行できるアメリカ型ビジネスは不況時には失業率の大幅な増加をもたらす。大量の失業者を抱えた九〇年代初頭は、失業が犯罪の増加など社会問題にもつながった。当時の日本の経営者はアメリカ経済を一種の侮べつの目で眺めていた。
アメリカ型ビジネスがグローバル・スタンダードとして二十一世紀も生き残るかどうか。それはひとえにアメリカ経済の好調さが今後も続くかどうかのみにかかっている。
(ニューヨーク 三浦 潤一)
[S&L]
主に低、中所得者を対象とした非営利の組合だったが、82年の法改正で銀行並みの業務ができるようになった。しかし、不動産投機やジャンク債(信用度の低い非投資適格級の社債)投資などを活発化させたため傷を広げた。政治家との不明朗な関係も指摘され、失脚した政治家も多い。
*◆理想主義外交
*◇救世主的な世界観◇
ロサンゼルスのオートリー美術館に、「アメリカ」を象徴する絵が飾られている。
東に描かれたのは、明るい太陽に照らし出されたニューヨーク。ブルックリン橋の下を蒸気船が往来する文明の世界だ。そこから電信線と啓蒙(けいもう)書を携えた女神に率いられ、三本の大陸横断鉄道や郵便馬車とともに開拓者が西へ向かう。西部は暗闇(くらやみ)が支配する野蛮の世界だ。追い立てられているのはインディアンと呼ばれた原住民である。女神の額には合衆国の象徴である星が輝く。
絵の題名は「アメリカの発展」という。同美術館のジェームス・ノッテイジ副館長によると、一八七二年、ニューヨークで西部開拓者への情報紙を発行するウィリアム・クロフットというビジネスマンが、西部開拓へのロマンをかきたてるために無名の画家にかかせたものだ。
「アメリカの拡大が野蛮の地に文明、つまり自由と民主主義をもたらすというのが、この絵のテーマ。それは、当時のアメリカ人にとって神から与えられた使命であると同時にロマンでもあった。そのためには、原住民の運命も意に介さない。そうしたアメリカのムードをこれほど正直に伝えた絵も珍しいですね」と、副館長は説明する。
世界で初めて自由と人民主権を国家原理に誕生したアメリカには、「われわれは世界に自由と正義を与えることで、世界を救いに来た」(ウッドロー・ウィルソン大統領)という宣教師的な衝動が奥底に常に存在していると、歴史家のアーサー・シュレジンガー氏は指摘する。
だが、この絵がかかれた十九世紀、孤立主義のアメリカは世界への関与を避け、その衝動のはけ口は北米大陸に限られていた。二十世紀の特徴は、そのアメリカが世界に比類無い経済力と軍事力を持った巨人となって国際舞台に登場してきたことである。
ウィルソン大統領が第一次大戦後のパリ講和会議(一九一九年)に携えていった和平案は、民族自決を基本原理とし、国際連盟によって法の支配による平和を実現しようとした。それは、力の均衡を基礎にした欧州の伝統的な権力外交を否定して、「正義」を外交の基礎に置こうとしたものだった。
民主主義は普遍的なものだというウィルソン理想主義の系譜は、冷戦の開始を宣言したトルーマン・ドクトリン(四七年)にも色濃く表れている。彼は世界を「恐怖と抑圧の全体主義」と「自由と人権が保障された自由主義」との間の黙示録的な闘争の場として描き、世界のどこでも隷属に抵抗する国民はアメリカが支援すると宣言したのだ。
だが一方で、こうした救世主的な世界観こそが、やがて世界中の紛争に対するアメリカの過剰介入を生みだし、ベトナム戦争の惨劇につながる伏線でもあった。文明を旗印に原住民を駆逐していく傲慢(ごうまん)さは、ここにも表れた。
もちろん、アメリカの外交は理想主義だけに固められていたわけではない。「力の裏付けのない気の抜けた正義」を嫌ったセオドア・ルーズベルト大統領に始まり、米中ソの戦略三角形を操ったキッシンジャー外交などの現実主義も特徴の一つだ。実際には、すべての政権が現実主義的な計算によって外交を進めてきたと言うこともできる。
だが、アメリカという巨艦の舵(かじ)を切り、巨大なエネルギーを爆発させるのに成功したのは、常に「民主主義を守れ」という理想主義の訴えであり、権謀術数にたけた現実主義が世論を沸かすことはなかった。だからこそ、すべての大統領は彼らの行動を理想主義の論理で組み立ててきた。理想主義は、常に米外交の本流となってきたのである。
「巨大なパワーが使命感と結びついた」(ハーバード大学の入江昭教授)ことが、アメリカの世紀の始まりだった。(20世紀取材班飯山雅史)
[現実主義]
正義を外交の基礎に置く理想主義外交は、さまざまな「正義」の間で妥協のできない対立を招く。戦後米国の反共十字軍的な外交に、そうした批判を投げかけたのが、現実主義派の国際政治学者ハンス・モーゲンソーらだった。彼は「国益」を基礎にした権力外交が、イデオロギー対立を超えて国家間の妥協と共存を生むと述べた。
*◆帝国の肥大
*◇“正義の介入”に撤退なし◇
一九六四年四月六日、国防総省で「シグマ64」というベトナム戦争の図上演習が行われた。
単なる軍事演習ではない。国務、国防両省や中央情報局(CIA)など関係機関が総参加し、軍事介入の政治軍事的影響を探る大規模なシミュレーションゲームである。参加者は青組(米国、南ベトナム)、赤組(北ベトナム)、黄組(中国)に分かれ、四日間、各政府になりきって、事態の進行に応じた戦略を描く。
当時、CIAスタッフとして青組に参加したドナルド・グレッグ元駐韓大使は、「北爆を実施するかどうかで激論になった。かつて対日爆撃を指揮したカーチス・ルメイ将軍は『北爆をすれば中国が南ベトナム爆撃で仕返しするだろうから、そのチャンスに北京を原爆攻撃して一挙に決着をつければいい』とまで考えていた」と話している。
だが、赤組と黄組はその手には乗らなかった。彼らは、米国に正面から向かう報復爆撃を避け、国際世論に爆撃の残虐さを訴える戦略を選ぶ。「その結果、世界に反米世論が高まるのは明らかだった。だから、爆撃は不利だというのが演習の結論だったんだ」と、グレッグ氏は振り返る。
だがその四か月後、米国はトンキン湾事件をきっかけに北への直接攻撃を拡大し、翌年には北爆開始で泥沼の戦争へ進んでいったのである。
演習ではあらゆる選択肢を検討したが、撤退は議論の対象にならなかった。「ベトナムの共産化は、自由世界への脅威だという前提を疑う人はいなかった」からだ。
冷戦が終わるまで、アメリカのすべての政権はソ連封じ込め戦略を遂行してきた。だが、何を脅威と見て、世界のどこにまで介入していくかは、政権によって濃淡が表れた。その中で、アジアの小国であるベトナムの、民主的とはとても言えない政府を守るために約五十万人もの兵士を送ったケネディ、ジョンソン政権は、最も介入主義的な政権だったと言えるだろう。
だが、両政権の国家安全保障会議などでベトナム政策を担当したテキサス大学のウォルト・ロストウ教授は、ベトナム介入が正義の戦いだったことを今でも疑わない。「東南アジアへの勢力拡大を狙う中国の動きが活発で、地域全体が共産主義に落ちる恐れが現実にあったのだ。そうなれば、オーストラリアや日本さえも危機にさらされただろう」と主張するのである。
アメリカは力の絶頂にあった。それを背景に、ケネディ大統領は「自由が生き延びるためには、いかなる犠牲も払い、いかなる友人も助ける」と訴えた。それは、介入の歯止めにはならず、むしろ「小国だから見捨てるというのは非倫理的」(ロストウ教授)という理想主義に発展した。
これに対して、介入に抑制的だったのは、後を継いだ共和党ニクソン政権の現実主義外交だった。
そこでは、世界の力のバランスを決めるのはソ連や中国、欧州、日本といった大国であり、小国ベトナムではなかった。だから、中国と手を結び力のバランスを有利に運べば、ベトナムが共産主義に落ちることは大きな問題ではなかったのだ。ニクソン・ドクトリン(六九年)は「自国の防衛は自分で責任を持て」として、米国の軍事支援を拒否する姿勢まで示すのである。
アメリカが十九世紀に行った戦争は三回だった。だが、二十世紀の戦争で、アメリカが関与しなかったものはいくらもない。
ジョージ・ワシントン初代大統領は、他国と同盟を結ぶなという遺訓を残したが、戦後、トルーマン政権だけで四十一か国との同盟が結ばれた。二十世紀に孤立主義を捨てたアメリカは急速に“帝国”として膨張し、その先にベトナム戦争の悲劇は起きた。どうやって帝国の肥大に歯止めをかけるか、アメリカは新たな苦悩を抱えることになる。(20世紀取材班 飯山 雅史)
[ドミノ理論]
アイゼンハワー大統領は1954年4月、インドシナが共産化すれば、ドミノのパイが倒れるように東南アジアの周辺諸国が共産主義の手に落ちるだろうと述べ、アメリカのベトナム介入の根拠となった。だが、同政権が小規模な軍事顧問派遣にとどめたのに対し、ケネディ政権は顧問数を拡大、部隊も投入して介入を本格化させた。
*◆核戦略
*◇使用封じる「使う意思」◇
デフコン(防衛体制)3の警報がモンタナ州マルムストロム空軍基地の地下二十五メートルにあるミニットマン・ミサイル発射司令室に鳴り響いた。一九七三年十月二十四日、突発した第四次中東戦争に軍事介入することを宣告したソ連をけん制するため、米国が全軍に警戒体制を敷いたのである。
デフコン3は平時の最高の防衛体制で、その上のデフコン2はキューバ危機(六二年)で発令されただけだ。
司令室で当直だったブルース・ブレア中尉は、核攻撃の衝撃から守るために安全ベルトで体をコントロールパネルのイスにしばりつけ、赤い安全金庫から発射コードの文書を取り出して、相棒と読みあわせを行った。コードが確認されると二人はかぎを取り出して、パネルに差し込む。これで発射指令が出て二人が同時にかぎをひねれば、一・二メガ・トンの核弾頭を搭載した五十基のミサイルがごう音をあげて飛び立つはずだ。
「そのとき、僕が何を考えていたかわかるかい?」。ブレア氏はこう問い掛け、答えを続けた。「もちろん神経は高ぶっていたさ。でも、考えていたのは翌日の大学院入試を受けられるかな、ということだよ。デフコン3になると、二十四時間は拘束状態が続くからね」
彼は、「発射指令が来ればためらわずにかぎを回すよう訓練されていた」が、実際にかぎを回す予感はまったくなかったという。
それは極度の緊張と弛緩(しかん)が同居する奇妙な空間だった。何万発もの核弾頭を突きつけて米ソが対峙(たいじ)した冷戦は、その恐怖の大きさゆえの安定をもたらしていたのである。後の歴史家はこの時代を、世界史に珍しい「長い平和」の時代ととらえるかもしれないと、エール大学のジョン・ガディス教授は指摘する。
だが、それを支えた核抑止理論とは、矛盾に満ちた論理の迷宮だった。抑止が成立するためには、敵の攻撃に確実に報復する「能力」に加えて「意思」が必要だという認識があったからである。
最初に登場した核戦略はアイゼンハワー政権の「大量報復」理論だった。朝鮮戦争(五〇―五三年)が泥沼化し、米軍からも十六万人の死傷者が出て厭戦(えんせん)気分が広がる中、ジョン・フォスター・ダレス国務長官は「米国はもはや敵の土俵では戦わない。すべての侵略には即座に大量の核報復で対応する」と宣言したのである。
だが、それは米ソ核戦争の抑止には有効かもしれないが、インドシナ紛争などの小規模紛争に対応できる理論ではなかった。アメリカがそんなところで原爆を大量使用する「意思」があるとは信じられなかったからである。
ケネディ政権はこれに対応して、マクナマラ国防長官が「柔軟反応戦略」を立案し、以後の核戦略は基本的にこの考え方を踏襲する。小規模侵攻にはまず通常戦力で対応し、拡大に従って戦術核、戦域核、そして最後には戦略核兵器で対応する。
それは核戦争を限定的に戦う発想の始まりであり、核使用が人類の自殺行為とならないようにすることで、実際に核を使う「意思」があることを証明するのが目的だ。
だが、米ソ核戦力が均衡するにつれて、同盟国の中からは「ソ連がドイツを攻撃した時、米国はワシントンへの報復攻撃を覚悟してまで核を撃つだろうか」という「核の傘」の信頼性に対する疑念がわいてくる。
八〇年代に米国が欧州配備した中距離核戦力は、その疑念への回答の一つでもあった。核戦争を欧州内に限定できれば、米国は核を実際に撃つと思えるからだ。
核兵器を「使えない兵器」とするのが核抑止論の目的だが、そのためには核兵器を現実に使える戦略が必要になる。「長い平和」はこうした危うい迷宮を抱えていたのである。(20世紀取材班 飯山 雅史)
[単一統合作戦計画(SIOP)]
核戦略理論を実際に運用するのがSIOP。中身は攻撃目標とするソ連、中国の軍事施設などの膨大なリスト(最大時約5万件)で、これに基づいてミサイルの照準が設定される。大量報復戦略では全目標の総攻撃しか想定していないが、柔軟反応戦略では100基以下から総攻撃まで選択肢が用意された。
*◆CIA
*◇“親米”のための秘密工作◇
米中央情報局(CIA)の本部は、ワシントンから車で十分ほどのバージニア州ラングレーにある。周囲は高級住宅地だが、広大な敷地はうっそうとした森に囲まれて、中をうかがい知ることはできない。
年間予算約三十億ドル。一万七千人の職員を抱える巨大情報機関。反米政権を秘密工作で倒し、冷戦の最前線を担った陰の「帝国」でもある
。
そのCIAが一九四七年に誕生して間もないころ、まだワシントン中心部にあった旧本部で、CIAに就職したばかりのドナルド・グレッグ氏(後に駐韓大使)がスパイの訓練を受けていた。教官が常に言っていたのは「目には目を」という言葉である。
「共産主義者が謀略で世界を支配しようとするなら、我々も同じように対応しなくてはいけない、ということだった。私は『それでは、我々も共産主義者と同じレベルになってしまうではないか』とよく反論したのだが、教官はその質問が嫌いだった。なぜなら、答えられない質問だったからだ。それは常に我々のジレンマだった」と、グレッグ氏は三十余年間のCIA勤務を振り返って、そう総括する。
CIA黄金時代を築いたアレン・ダレス長官は秘密工作を好んだ。「外交手段での解決が困難で、軍事行動も取りにくい時は、たいてい我々(CIA)が呼び出しを受けた」とグレッグ氏は言う。秘密工作は、忍耐の必要な外交手段や膨大な予算を食う軍事行動より、手っ取り早く安上がりな問題解決の手段だった
その感覚をダレス長官に植え付けたのは、この人かもしれない。カーミット・ルーズベルト氏(83)。セオドア・ルーズベルト大統領の孫で、一九五三年、イランでクーデター工作を行ったCIAのスパイだ。CIAにとって初のクーデター工作だった。
彼は、わずか五人の米人工作員とともにテヘランに潜入し、石油国有化を宣言したモサデク政権をあっけないぐらい簡単に倒して、親米のパーレビ国王(シャー)を復権させてしまった。用意した資金はわずか百万ドル。米国が援助した四〇年代のギリシャ内戦では、左派ゲリラ一人を倒すのに平均五万ドルもかかっていた。
病床の父に代わって、息子のカーミット・ルーズベルト・Jr.氏(61)は話す。「イラン・クーデターは教科書のように成功した工作だったが、それはモサデクの政権基盤が揺らいでいるという客観情勢があったからだ。父は、イランの成功を見たダレス長官が、そうした背景を無視して、何でもこのやり方で片付けようとするのではないかと危惧(きぐ)していた」
危惧は当たっていた。イランから帰国したルーズベルト氏を待っていたのは、中米の極貧国グアテマラで社会改革を進めるアルベンス政権転覆のクーデター計画である。その後も、カストロ暗殺やピッグズ湾事件など、ダレス長官は次々と秘密工作を展開する。日本の自民党に対する秘密献金疑惑もこのころに集中する。兄のジョン・フォスター(国務長官)と比較して、アレンは「非友好国担当の国務長官」と自称していたのである。
アメリカは民主主義を守るために冷戦を戦うと主張したが、CIAは親米なら独裁政権でも支えて、民主主義を圧迫した。イランでは二十六年後の革命までシャーの専制政治が続き、グアテマラでは、親米軍事政権に対するゲリラ闘争で約十万人が死んだ。それはアメリカの抱えた最大の矛盾だった。
だが、CIA最高の諜報(ちょうほう)殊勲章を受章して引退したグレッグ氏は今でも自分の仕事を誇りに思っている。「CIAは、冷戦が冷たいままでいることに貢献してきた。そのために、どこまで民主主義の原則を曲げることが許されるのか、それは歴史が決めることだ」
(20世紀取材班 飯山 雅史)
[秘密工作]
CIAは本来、情報収集分析機関であり、秘密工作はその根拠法である国家安全保障法に「その他」として掲げられているだけだ。だが、発足と同時に「その他」は拡大され、54年に国家安全保障会議が出したCIAへの指令では、「プロパガンダ、敵対政権の転覆工作およびこれに関するすべての必要な活動」が追加された。
*◆冷戦の終結
*◇12兆4000億ドル、軍拡の“城”◇
米カンザス州ドーバーの平原の真ん中にあるエド・ペダン氏(52)の自宅建物は、冷戦の終結を象徴しているかのようだ。それは、破棄された大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射基地なのである。
半地下式の発射司令室には、暖かいじゅうたんを敷いて居間にした。当直室は静かな寝室に、四・五メガ・トンのミサイルが鎮座していたバンカーは広大な仕事部屋である。
「一メガ・トンの核爆発に耐えるように作った建物だ。四十年前で建設費が三百三十万ドル(当時の為替レートで約十二億円)。これほど頑丈で豪華な家があるかい」と、ペダン夫婦はこの奇妙なマイホームに至極満足している。一九六五年に軍が建物と敷地合わせて一ドルで払い下げたが、冷戦中はソ連ミサイルの標的にされている気がして、利用者はいなかった。
ペダン氏は、他の払い下げミサイル基地も買い集めて、それを再販売する不動産業を始めた。会社の名前は「二十世紀の城」。すでに二十五件を売りさばいた。
冷戦を戦うために、アメリカは四十年間で合計十二兆四千億ドル(九六年の物価水準に換算)をつぎこみ、様々な二十世紀の城を築いてきた。冷戦は永遠に続くかと思われたが、八九年十二月、米ソ首脳によるマルタ会談で突然、「冷戦終結」が宣言された。
冷戦が終わったのはなぜか。レーガン政権のキャスパー・ワインバーガー元国防長官は「我々がソ連封じ込め政策をやめ、共存を目指したデタント(緊張緩和)も葬り去って、敢然と戦う政策に転換したからだ」と主張する。
ソ連のアフガニスタン侵攻でデタントが崩壊した後、八一年に誕生したレーガン政権には「ソ連に裏切られた」といういらだちを抱えた保守派が結集した。彼らはB1爆撃機や六百隻艦隊計画を立て、十六年ぶりの新型ICBM(MX)配備を断行するなど大軍拡を開始して、強硬対決姿勢を鮮明にする。
ソ連を大規模な軍拡競争に引きずり込み、経済を破たんに追い込む戦略だ。「ソ連が『アメリカには勝てない』と納得するまで続けるつもりだった」と、ワインバーガー氏は話す。共存と妥協のデタントを捨てて「悪の帝国」と対決するレーガン戦略は、ある意味でウィルソン理想主義の一つの表現でもあった。
その対決姿勢は、ソ連指導部を怖がらせた。国家保安委員会(KGB)は八一年、「アメリカが近くソ連を攻撃する」という分析を固め、全世界のKGB支局に戦争のあらゆる兆候を報告するよう指令したのである。
何よりもソ連のICBMを無力化すると標ぼうした「戦略防衛構想(SDI)」が脅威だった。ゴルバチョフ書記長は、その中止を求めるために戦略核兵器の全廃まで提案したのである。何よりも、ソ連が技術的にも経済的にもSDIに対抗できないことがわかった時、米ソの国力差は明白になり、ソ連の敗北心理は次第に強まっていった。
だが、それは危険なレースだった。八三年にはすべての米ソ軍備管理交渉が中断し、アメリカは実際に核戦争を想定した核戦略を立案した。緊張の高まりの中で欧州や日本では、反核運動が盛り上がった。タカ派のワインバーガー氏でさえ「冷戦が終わる前に本当の戦争が始まってしまうのではないか、という恐れは常にあった」と言う。もっとも彼は、「だからこそ、軍拡を急がなくてはならない」と判断するのだが。
何が冷戦を終結させたのか、歴史の評価は定まっていない。ソ連の崩壊はブレジネフ書記長時代に緩慢に進んだ現象であり、レーガンが作り出したわけではない。だが、正面対決によって、共産主義社会の矛盾を目に見える形でさらけ出したのは、レーガンのカウボーイのような、つまりは単純で素朴な理想主義だったのかもしれない。(20世紀取材班・飯山雅史)
◇
[新思考外交] 冷戦終結への動きが始まったのは、ゴルバチョフ書記長の新思考外交が始まった後だ。同書記長は、86年に三段階核廃絶、87年の戦略核兵器半減提案などを打ち出し、東欧諸国への軍事介入を正当化したブレジネフ・ドクトリンを公式否定した。それがワルシャワ条約機構解体やベルリンの壁崩壊につながった。
*◆民主主義の拡大
*◇歴史の節目で世界に貢献◇
「アメリカの世紀」という言葉を米マスコミで初めて使ったのは、タイムやライフ誌を創刊したヘンリー・ルースだ。第二次世界大戦をめぐり孤立派と参戦派が激しく対立する中で、ルースは一九四一年二月、ライフ誌に「アメリカの世紀」と題した論説を発表し、「民主主義を守るために」アメリカは立ちあがれと訴えたのである。
だが、彼の訴えはそれにとどまらない。ローマ帝国や中国など歴史を画した国家は、それぞれ世界に何かをもたらしてきた。二十世紀は、初めてアメリカが大国として登場した世紀だ。そのアメリカは世界に何を訴えるのか。
それは、「人民の人民による人民のための国際主義」でなければならない。それを基礎に自由企業経済体制と科学技術を世界に広げ、「自由と平等のための力の源泉となること」で、アメリカの世紀は実現するという。
巨大な力を持つアメリカが力の行使を逡巡(しゅんじゅん)していたことに、ルースはいらだっていたのだろう。ライフだけでは満足せず、新聞に全面広告で論説を掲載し、批判を小冊子にまとめて出版したりした。
その世紀が終わろうとしている今、エール大学の著名な歴史学者ジョン・ガディス教授は、アメリカの世紀がもたらしたものは「民主主義の世界への拡大」だと総括する。
「二十世紀の幕が開いた時、世界に約四十あった独立国の中で、民主主義と呼べる国はアメリカ、イギリスを含めてせいぜい五、六か国しかなかっただろう。だが、今や約百九十か国のうち百二十ぐらいは民主主義だ」
それを、すべてアメリカがもたらしたとは言わない。「各国国民が必死で戦い取ったものだ。けれども、民主主義の運命がかかった歴史の節目で、アメリカが果たした役割は小さくない。中でもアメリカの占領で、日本と(西)ドイツが民主主義国になったことが最大の貢献だ」と、教授は指摘する。
冷戦戦略を作ったジョージ・ケナン氏によれば、四〇年代の世界で、歴史の流れを変える力を持った国は、アメリカ、ソ連、イギリス、ドイツと日本の五つしかない。
ガディス教授は「そのうち二つが、新たに民主主義陣営に加わったことで、歴史の流れは変わった。戦後日本の発展と成功はアジア諸国のモデルになったし、両国が民主主義陣営にいなければ、冷戦の姿はまったく違ったものになっていたはずだ」と強調する。
第二次大戦も民主主義の岐路だった。二〇年には三十五か国以上の立憲主義的な政府があったが、四四年の世界には十二か国しか残っていなかった(エリック・ホブズボーム『二十世紀の歴史』)。
大恐慌で自信喪失状態にあった民主主義より、急速に勢力を広げるファシズムにこそ人類の将来があるように見えた時代だ。アメリカと連合国の死力を尽くした戦いがなければ、民主主義が今世紀の勝利者となったかどうかわからない。
戦後、アメリカは西側陣営の盟主として冷戦を戦った。共産主義にはまだ活力があり、植民地から独立した若い国家にとって魅力的な政治経済体制でもあった。アメリカこそが、社会改革に敵対して民主主義を抑圧する新植民地主義と見られたこともある。
だが、「ソ連の拡張を辛抱強く封じ込めて、内部から変化するのを待つ」というアメリカの対ソ封じ込め戦略は四十余年たってようやく成功し、ソ連はその体制の根本的な矛盾によって自壊した。それを民主主義の最終勝利ととらえて、「歴史の終わり」と判断するのは短絡的かもしれない。だが、ごく一部の国にしかなかった民主主義が世界を覆った今世紀の歴史に、アメリカが大きな足跡を残したことは間違いない。
(20世紀取材班 飯山 雅史
)
[民主主義]
プラトンがギリシャの民主制に疑問を投げかけて以来、民衆の自治能力を前提にした民主制は歴史の中で否定的に見られ、近代まで再登場しなかった。人民主権を理念としたアメリカでも、建国当初は大規模社会で民主主義が可能かどうか危惧(きぐ)する声は強く、白人成年男子の普通選挙制が拡大するのは1830年代である。
*◆世紀末
*◇民主化、好況…勝利に浸る◇
アメリカは、熱狂的な勝利の感覚の中で、世紀の終わり、千年紀の終わりを迎えている。
ソ連の崩壊によって唯一の超大国として勝ち残り、「史上類例を見ない強大な軍事力」(エール大のポール・ケネディ教授)を脅かす国は、当面現れそうにない。
情報革命とグローバリゼーションの波に乗った経済も、未曽有(みぞう)の好景気を続けている。一九九六年末、連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン議長は「非合理的な熱狂」という発言で景気の過熱に警告したが、懸念をよそに経済は拡大を続け、当時六千ドル台だったダウ平均は一万一千ドル台に達した。来年二月には、第二次大戦後で最長だった六〇年代の景気拡大記録百六か月を超える
。
街は年末の買い物客でごった返し、お祝いのシャンパンが飛ぶように売れている。
こうした勝利の感覚の中で、ほんの十年前まで議論されていた「アメリカ没落論」は、「アメリカを脅かす要因は見当たらない」とする楽観論に変わった
ソ連崩壊直後の九二年、政治学者フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』を著し、全体主義、社会主義の敗北によって、個人の自由と国民主権に支えられた自由民主主義だけが「唯一普遍的有効性を持つイデオロギー」として残り、「自由民主主義と経済の自由主義的諸原則は世界に拡大している」として、西欧近代の市民社会に生まれた資本主義と民主主義の推進者としてのアメリカの最終的勝利を宣言した。
ニューヨークに本部を置く民主主義・人権推進団体フリーダムハウスの最近の報告によると、一九〇〇年には民主政体をとる国は世界で二十五。ただすべて、性別や人種、貧富による選挙・被選挙権の制限つきだった。それが二〇〇〇年には百三十五か国、しかもほとんどが制限なしの普通選挙だ。こうして民主政体は世界人口のほぼ七割を覆っている。報告をまとめたアドリアン・カラトニキは「今世紀を通じて民主政体は劇的に拡大した」という。
ニューヨーク・タイムズ紙コラムニストのトーマス・フリードマンは「冷戦システムの象徴はすべてを隔てる壁だったが、グローバリゼーションの象徴は、すべてを結び付けるワールド・ワイド・ウェブである」とし、冷戦後、グローバリゼーションが唯一の世界のイデオロギーになったと主張する。
徹底した自由市場の拡大を原理とするグローバリゼーションは、コンピューターによる情報革命を受けて、個人から国家までをより深く速く安く、そして仮借なく世界に結び付ける。
フリードマンは「グローバリゼーションは全面的ではないにしても、そのほとんどはアメリカ化の世界への拡大」であるとし、「アメリカが当面の間、このグローバリゼーションの戦利品のほとんどを獲得することは確実である」という。
それでは来世紀、アメリカを脅かすものは何か。歴史は「帝国がその頂点に立った時すでに没落の種子を胚胎(はいたい)している」ことを教えている。前世紀末、西欧世界は楽観論が支配的だった。科学が疾病と貧困を克服し、自然は技術に組み敷かれ、民主主義が世界に拡大するとの期待だった。
しかし、現実に二十世紀は悲観の世紀だった。世紀前半には二つの壊滅的な世界戦争、全体主義イデオロギーの台頭を経験し、その後半には核兵器、環境破壊が人類に重くのしかかった。
歴史家のアーサー・シュレジンガー二世は「勝利の感覚は危険だ。ほんの十年ほど前まで、アメリカ経済は重苦しい状況だった。状況は非常に速く変化する。未来は常に予測を欺く」と警告する。(ワシントン・山口勉)
[米国100年の推移]
米人口は1900年の7599万人が2000年には2億7348万人に達する。100年前の都市住民40%は現在75%になった。国家予算の103億ドルは1兆7000億ドルになり、うち国防予算は40億ドルが2680億ドルに増えた。ダウ平均は68.13ドルが1万1000ドル台に、乗用車の数は8000台が1億3000万台に、高校卒業率は15%が83%に上昇した。
*◆大分裂
*◇貧富の差、急速に拡大◇
十九世紀アメリカ論の古典『アメリカの民主主義』(アレクシス・ドゥ・トックヴィル著)に強く影響された政治学者マックス・ラーナーは、その著『文明としてのアメリカ』で、アメリカは普遍的価値を生み出し、自己増殖する現代の文明であると主張した。
確かに今世紀のアメリカ民主主義、資本主義の発展は、国家意思を超えた、理念の発展という側面を強く持つ。
一九四一年八月、フランクリン・ルーズベルト大統領はチャーチル英首相とともに大西洋憲章を発表し、枢軸国との戦争遂行の理念と戦後世界の青写真を示した。
しかし、憲章は「世界の諸国民は恐怖と欠乏からの自由を保障される」としながら、現実にはアメリカ国内では黒人差別、同盟国である中国からの移民規制などが公然と続いていた。
それが六〇年代に動いた。第二次世界大戦に徴兵という形で国家への義務を果たした黒人が権利を要求した時、白人多数派はこれを否定できなかった。黒人の公民権闘争は結局、すべての人種の平等、移民規制の緩和に道を開いたが、その過程にはまさに、「普遍的で抗し難い支配的な力」(トックヴィル)が働いていたように見える。
民主主義理念の追求は、七〇年代以来今日に至る女性の権利の拡大、さらには同性愛者の権利要求に拡大している。また各人種は、それぞれの視点での歴史と文化を主張し始め、マルチカルチュラリズム(多文化主義)と呼ばれる潮流を形成している。
九一年に『アメリカの分裂』で、この多文化主義がアメリカの「中心」の喪失と分裂を招くと警告した歴史学者アーサー・シュレジンガー二世は、現在はむしろ、グローバリゼーションという新たな産業革命による貧富の差の急速な拡大が懸念されるという。
「産業革命では農村から工場に経済の中心が移行した。現在はそれがコンピューターを中心にした経済に移行している。産業革命は数世代にわたって起き、人間や社会はその変化に適応する時間的余裕があった。今回の革命はあまりに急激であり、二、三か月ごとに、全く新しい世代の技術が登場する。急激な分だけ、その傷も深くなる」
エール大のポール・ケネディ教授は、グローバリゼーションの波は「コンピューターを持つ者と持たざる者の分裂」を生み出し、すでにアメリカの貧困ライン以下の人口は四千万から四千五百万人に達していると推計する。
新たな産業革命の中で、極端な個人主義志向と適者生存の社会的ダーウィン主義が復活しつつあるように見える。例えば、カリフォルニア州では多くの自治体が、ホームレスに対し、バスの片道切符を与える、警察が罰金の切符を渡すなどして、街頭から駆逐する政策をとっている。そこには、「ホームレスとして生きる権利」そのものを否定する考え方が見え隠れする。
シュレジンガー二世は「グローバリゼーションに対する反動は、すでに十一月のシアトルの世界貿易機関(WTO)会議へのデモで示された。世界は一体化すればするほど、分裂していく。なぜなら、人々はこの地球という名も知れぬ海を漂い、何ものかへの帰属を求める。それは民族の価値観であったり、宗教であったりする。宗教的原理主義の台頭はグローバリゼーションへの反動の一つである」という。
政治学者フランシス・フクヤマは近著『大崩壊』で、「アメリカの倫理的、社会的混乱はさらに深刻化することが運命付けられているのか、それともこの分裂は一時的なもので、アメリカは再び規範を作りあげることに成功するのか」と問いかけている。(ワシントン 山口 勉)
[社会的ダーウィン主義]
ダーウィンの進化論を人間社会に当てはめた英国の哲学者ハーバート・スペンサーの主張。1870年代の米国で盛んとなり、アンドリュー・カーネギーは無制限の競争とこれに適応できない者の排除が国民経済を着実に進展させると主張。70、80年代を通じて経済の自由放任主義のバックボーンとなり、世紀末には列強帝国主義の正当化に使われた。
*◆一極支配
* ◇世界へ圧倒的影響力◇
「今世紀、アメリカは世界の環境に押し上げられて、指導的地位についた。来世紀のアメリカは、自らその進路を選択していかねばならない」
サミュエル・バーガー大統領補佐官(安全保障担当)は最近の講演でこう述懐した。
アメリカは今世紀、第一次大戦、第二次大戦、そして対ソ冷戦と、三回にわたって世界を動かし、そのたびに強大化した。しかし、今世紀のアメリカの世界関与は必ずしも自ら選択した道ではなく、旧世界、ユーラシアからの挑戦に応じた側面が強い。
世紀末に至り、ソ連の崩壊によって唯一の超大国として勝ち残ったが、この国を直接軍事的に脅かす敵を失ったことで、アメリカは行き着く先のわからない「海図のない航海」(ヘンリー・キッシンジャー元国務長官)に乗り出したように見える。
冷戦後の世界の構図についてのベストセラー『文明の衝突』を書いたハーバード大のサミュエル・ハンチントン教授は今春、外交雑誌に発表した論文『さみしい超大国』で、世界は冷戦時代の二極構造から、湾岸戦争時(九一年)の短い一極構造時代を経て、現在は「一つの超大国といくつかの大国」で構成される「一超・多極構造」時代に入っており、来世紀は真の多極構造時代になると予言した。
「重大な国際問題の解決には唯一の超大国の行動が必要だが、いくつかの大国の協力も必要である。一方で重要な問題での大国の共同行動に、唯一の超大国は拒否権を発動できる」
しかしこの超大国は、地域紛争への介入で数人の犠牲者が米軍に出ただけで、国内世論が撤退論に傾く「非帝国主義的超大国」(サマーズ財務長官)でもある
。
さらに、長期的見地から見ても、教授の言う「一超・多極構造」の外交は、十九世紀の孤立主義外交と、世界をその理想に合わせようとする、十字軍的な二十世紀のウィルソン主義外交しか知らないアメリカにとって、かつて経験したことのない難題である。
キッシンジャー元国務長官はその著作『外交』(九四年)で、「ウィルソン主義というアメリカの過去の目標」の将来的な必要を認めながら、その実現は「一つ一つの部分的な成功の、辛抱強い積み重ねによってこそ求められるべきだ」として、来世紀のアメリカ外交がバランス・オブ・パワー(力の均衡)を学んでいく必要を提唱する。
歴史家のアーサー・シュレジンガー二世は「不幸なことに、古典的な意味での孤立主義ではないが、その現代版とも言えるユニラテラリズム(アメリカの意思の一方的押し付け主義)が台頭している。唯一の超大国として、アメリカは行動の自由を放棄すべきではなく、好きなように振る舞うべきだという気持ちをアメリカ人の多くが抱いている。一方では、唯一の超大国ということだけで、世界には潜在的にアメリカへの反発がある」と語り、反米感情とユニラテラリズムの悪循環を懸念する。
「アメリカは結局、国際機関を強化することで、世界の問題に対処する以外にない。地域の問題はその地域の国々の方が良く理解しており、国際機関を通じて地域が責任を分担することだ」
世紀末、グローバリゼーションという新たな産業革命の時代を迎えて、アメリカの世界への影響は確実に強くなっている。それでは、来世紀、国境を超えたグローバリゼーションの力は、アメリカと世界の国民国家を溶解する方向に動くのか。解答はたぶん、この先に来るであろう、新たな混沌(こんとん)の時代を経なければ見えてこないだろう。
(ワシントン 山口 勉)
[アメリカの楽観論]
最近の世論調査によると、81%の米国人は来世紀を楽観視している。53%が次の半世紀に唯一の超大国ではなくなるとし、67%が中国がライバルとして台頭すると見る。経済では、64%が米国がさらに強力になると見る反面、52%が平均的米国人はグローバリゼーションに打撃を受けるとしている。
*◆大量生産(1)
*◇「だれもが買える車」実現◇
一九〇九年六月二十三日、米ワシントン州シアトル。初のアメリカ横断自動車レースのゴールとなったこの町は歓喜の声に満ちていた。圧倒的な速さで優勝したのは、前年十月から生産を始めたばかりのT型フォードだった。さらに、衝撃的だったのは、当時の観衆はもちろん知るすべもないが、この瞬間こそが、二十世紀の産業を語る上で欠くことができない「モータリゼーション」と「大量生産・消費時代」の到来を告げるものだった。
フォード・モーター社は、このレースに二台のT型を参加させた。T型は当時としては驚くほどの小型車で、重量は千二百ポンド(五百四十四キロ・グラム)しかなかった。ライバル車はいずれも四千ポンド(千八百十四キロ・グラム)前後の大型車で、スタート前は誰(だれ)もがT型の苦戦を予想した。
しかし、操作性の良さと、故障しても簡単に直せる簡易さを武器にT型はスタート直後から安定した走りを見せつけた。未舗装の悪路で次々と立ち往生する大型車の横を小さな車が悠々とすり抜けていく様子は、コースになった中西部の人々に鮮烈な印象を与えた。
目の前でレースを見て、後にフォード車のディーラーとなったロスコー・シェラーは、著書『私とT型フォード』の中で、「T型車の出現は車が一握りの金持ちのおもちゃでないことと、T型のような小型車が当時の道路状態に合っていることを明確に示した」と書いている。
レースの六年前の一九〇三年にフォード・モーター社を創設したヘンリー・フォード(一八六三―一九四七)は、T型の前にA、B、Dなど七種類のモデルを作っていた。中には明らかに金持ち専用の豪華車もあった。だが、T型は「すべてのアメリカ人が買える程度に十分に安く、簡単に修理でき、誰もが楽に運転できる車」とのコンセプトで設計された。馬に代わる移動手段を求めていた当時のアメリカ社会の要求に合致するものだった。
販売台数は発売後の最初の一年は一万七千台だったが、レースの優勝も追い風となり、一九一二年には十倍の十七万台に達した。
こうして、T型はモータリゼーションの先べんを付けていった。同時に、T型への人気が、後のアメリカに大量生産方式を本格的に根付かせる遠因となった。というのも、急増する需要の前に生産が追い付かず、部品を一つ一つ取り寄せて組み立てて行く従来の工程は明らかに限界に来ていたからだ。
フォードで最初のベルトコンベヤー方式の生産ラインシステムを開発したエンジニアのチャールズ・ソレンソンは「突然私の頭にひらめくものがあった。人が部品庫から部品を取ってくるより、車を部品庫に移動させ、その場で組み立てた方がよっぽど効率的だ」と、後に著書『フォードと私の四十年』で回顧している。一九〇八年のことだった。
ソレンソンのアイデアは極秘のうちにフォード社内で検討され、車の生産に応用可能と判断された。ソレンソンの着想から五年後の一三年、ミシガン州デトロイトのハイランド・パーク工場に、世界初の自動車生産ラインが誕生した。
この結果、T型の生産台数はさらに大幅に拡大し、一六年には七十三万五千台に達した。生産性も飛躍的に向上し、ライン導入前には一台作るのに十二・五時間かかっていたのが、導入後は一・五時間に短縮された。
ラインは他の工場にも次々と導入され、二五年にはT型としては最多の二百十五万台が製造された。大量生産の導入で価格も低下し、発売直後は八百五十ドルした小売価格は二四年には二百九十ドルに下がった。この当時、アメリカ人は五人に一台の割合で車を持つようになっていた。これは他の国の平均より八倍も高い数字だった。
「すべてのアメリカ人が買える車を作る」というヘンリー・フォードの願いは、生産ラインの発明で実現したのだった。
*◆大量生産(2)
*◇ナイロン「働く女性」の象徴◇
T型フォードと並び、アメリカの大量生産と大量消費のシンボルとなったのがナイロンだった。特にナイロンストッキングは絹製に比べ、はき心地が格段に優れていたため、女性の圧倒的な支持を集めた。
ナイロンを発明したのはハーバード大の化学者ウォーレス・カロザース(一八九六―一九三七)だった。一九二八年、化学品大手のデュポン社は彼を高分子化合物(ポリマー)を研究する特別職員として採用した。カロザースはポリマーが多数の分子の集合体で出来ていることなどを発見し、三〇年にはナイロンの基になる「ポリアミド66」を発見した。
デュポンはこれを製品化し、三八年十月、ニューヨークでナイロンとして発表した。その時のうたい文句は「鉄のように強く、クモの巣のようにしなやかで、美しい光沢を持つ」だった。翌三九年、デュポン社はデラウェア州に最初のナイロン工場をつくり、本格的な製造を始めた。歯ブラシ、魚釣りの糸、外科手術用の縫合糸……。ナイロンは初めから様々な商品に応用されたが、思わぬブームになったのがナイロンストッキングだった。
三九年十月、デラウェア州のデパートで初めてナイロンストッキングが売り出されたが、瞬く間に完売した。
四〇年五月の全米一斉販売では、四日ですべての在庫がなくなった。四六年四月には、サンフランシスコでナイロンストッキングを求めた女性約一万五千人が暴徒化し、店のガラスを割ったり商品を略奪したりする事件が起きた。
デュポンが工場の数を増やす一方、他の化学メーカーも競ってナイロン製品を作るようになったため、四八年以降は騒動もなくなったが、ナイロンストッキングは働く女性を象徴する商品とされ、あこがれの的となった。
自動車にせよ、ナイロンにせよ、二十世紀初頭に大量消費と大量生産がアメリカで本格化した理由は二つある。
その一つは石油だ。石油はアメリカでは十九世紀に発見されたが、二十世紀初頭までは主に灯油に精製され、照明用に使われていた。
しかし、十九世紀後半に白熱電球が発明されると、照明用としての石油の役割は低下した。特に、当時の中心的な油種だったペンシルベニア州産やオハイオ州産は品質が劣り、灯油を精製するのがやっとだった。これに転機をもたらしたのが、一九〇一年にテキサス州ベアマウントで発見されたテキサス油種だった。
テキサス産は今でいう典型的な中質油で、ガソリンを豊富に精製できた。ベアマウントでは当時、日量七万五千バレル(一万千九百二十四キロ・リットル)だったが、その後、テキサス州のメキシコ湾沿いに同質の石油を大量埋蔵する油田が次々と発見された。
これを機に自動車の大量生産、大量消費が始まるとともに、それまでは石炭が主流だった工場の動力源に石油が用いられるようになり、石油の大量消費を前提とする工業化が広まっていった。
二つ目の理由として指摘されるのが、アメリカそのものの国家の成り立ちだ。大量生産システムがアメリカで発達した背景には、この国が移民国家だったことがある。言葉があまり通じず、熟練工も少ない中で、生産性を上げるには、作業をなるべく単純化し、同じ作業を繰り返させた方が良い。こうした事情がラインシステムの開発を急がせる背景となった。
ベルトコンベヤー方式の生産ラインは他の自動車メーカーはもとより、電気製品工場から果ては町のキャンデー工場まで、あらゆる製造業に広まった。T型フォードの成功を契機に、アメリカは人類がかつて経験したことがない大量生産・販売時代に突き進んでいった。(ニューヨーク・三浦潤一)
[部品の共通化]
T型フォードが成功した一因に徹底的な部品の共通化がある。10台のT型をばらばらにしても、一つの部品も残さず再び10台つくれるといわれた。部品共通化の歴史はアメリカ建国の1700年代にさかのぼる。戦争や開拓のため容易に修理できる銃が必要とされ、銃メーカーは競って部品を共通化させた。これが後の大量生産時代に生きた。
*◆大量生産(3
*◇スーパー出現“豊かさ”実現◇
世界恐慌下の一九三〇年三月十二日。米ニューヨーク・マンハッタンの東約十キロ、しゃれた邸宅が並ぶロングアイランドに開店したその店は、ざん新な売り場とサービスで、主婦たちの話題をさらった。「キング・カレン」と看板を掲げた約五百平方メートルの平屋の店内には、みずみずしい肉、青果や加工食品、雑貨が整然と展示され、しかも、安かったのだ。
不況下、消費者に突き付けられた新鮮で安い品々。それに、客が自ら商品を手に取り、レジへ運ぶセルフサービス。何もかもが新しかった。
「世界一の大胆な価格破壊者」。創業者のマイケル・カレンは自らをそう呼び、大衆消費社会の到来を宣言した。このスタイルは、やがてスーパーマーケットと呼ばれ、流通史を塗り替える
。
「一時間で買えるバスケットの中身の違いこそが米ソの違いだ。米国民の願いは、スーパーマーケットを通して豊かさが実現される社会だ」
六二年五月、シカゴでの全米スーパーマーケット協会二十五周年式典に出席したダイエーの創業者、中内功会長は、そこで披露された当時のジョン・F・ケネディ大統領のメッセージを、「涙が出るような思いで聞いた。自分の進む道は、やはりこれしかないと思った」と振り返る。
それから十年後の七二年。ダイエーは、高度成長の時流に乗って店舗網を広げ、その年の八月期決算の売上高で、百貨店の三越を追い抜き、流通業日本一に躍り出た。「スーと出てパッと消える」と陰口をたたかれたスーパーが、日本でも大衆消費社会の主役となった瞬間だった。
スーパーマーケットの誕生以降、米国では新スタイルの店舗が次々と生まれた。
第二次大戦後は、戦地から帰国した人たちの生活を満たすため、食料品だけでなく、衣料、家電、家具などを安く売るディスカウントストアが現れた。郊外での暮らしが広がった六〇年代からは、広大な敷地にスーパーや百貨店などを併せ持ったショッピングセンターがブームとなった。その後も、カテゴリーキラーと呼ばれる専門店チェーン、コンビニエンスストアなどが台頭し、流通産業の主役はめまぐるしく入れ替わった。
「社会、経済の環境変化を敏感にとらえた起業家が、消費者の潜在需要を喚起するため、異質化の挑戦を試みてきた結果だ」と、米国流通史に詳しいジャーナリストの角田正博氏は言う。
日本では、九〇年代に入ると、夜型社会の到来、女性の社会進出などを背景にコンビニエンスストアが躍進する。若者だけでなく、主婦までがコンビニを「冷蔵庫代わり」に利用するようになった。
最大手のセブン―イレブン・ジャパンは、九七年二月期決算で親会社のイトーヨーカ堂の売上高を抜き、一千五十一億円の経常利益を達成し、小売業では初めて一千億円の大台を突破した。スーパーが百貨店を追い抜いてから二十五年、再び主役が交代した。
交通網が発達し、情報が駆け抜ける現代社会。消費者は欲しい物によって店を選び、単に価格や品ぞろえだけではショッピングに出かけなくなった。多様化、複雑化する消費者志向に惑わされた流通業の経営者たちは、口々に「消費の動向がつかめない」と漏らす。
そんな成熟社会の消費動向をノーベル経済学賞を受賞した米経済学者のゲーリー・ベッカー氏はこう分析する。
「消費者にとって最も重要なことは、一日をどう過ごすかである。モノを買うことは、目的ではなく、幸福を実現するための手段に過ぎない」
インターネットを使った通信販売、ICカードを小銭の代わりに使える電子マネー……。新しい世紀の流通スタイルは、その一端をのぞかせている。主役を奪い取るのは何か。その答えは消費者が握っている。(大阪経済部・櫨本洋司)
[流通革命]
林周二・東大助教授が62年に刊行した『流通革命』で、スーパーが急成長し、大量生産体制と結びつくことで問屋は排除され、流通の近代化が進むと予測、論議を巻き起こした。一方、ダイエーの中内会長は「流通革命とは価格決定権をメーカーから奪い返すことにある」として、製品の安売りに踏み切り、家電メーカーなどと長く対立した。
*◆大量生産(4)
*◇防げたはず 洗剤パニック◇
一九七三年十月、エジプトとシリアの両軍によるイスラエル攻撃で第四次中東戦争が始まった。サウジアラビアなどのアラブ産油国は、イスラエルを支援するアメリカには石油の輸出全面禁止を、非友好国には輸出量削減を打ち出した。さらに、石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を一バレル=二ドルから八ドルへと四倍に引き上げた。日本も「非友好国」とされ、供給を削減する方針が打ち出された。「第一次石油危機」の始まりだ。
原油が来なくなる――。燃料としての石油だけでなく、化学繊維などの石油製品、石油から生まれた化学肥料や農薬を使い生産向上を図ってきた農産物といった、衣食住の幅広い物品が、危機ぼっ発の影響を受けた。
十一月五日。洗剤メーカー最大手の花王・大阪店の十六台の電話は鳴りっぱなしになった。「洗剤が切れた。至急」との小売店からの注文が殺到した。「洗剤だって石油から作るのよ。いつなくなるやら」。そんな不安から、洗剤の買い置きを増やす人が出てきた。大阪・千里ニュータウンや池田市のスーパーの店頭で洗剤を求める人の群れが報道されたのをきっかけにパニックは全国に広がった。
当時、花王の広報担当だった山田重生取締役(57)は「洗剤はふだん通り生産しており、品不足になる状況ではなかった」という。洗剤は一箱二・六五キロ入りで、一家庭が二か月程度で消費する。一箱余分に買うと、各家庭は三―四か月分の「在庫」を持つことになるが、それでも、消費者は買いだめに走った。
一日の販売量はすぐに二倍以上に急増、七三年十一月の家庭での洗剤購入は前年同月の二・九二倍に達した。一方、メーカーの増産能力は20%程度が限界だ。供給不足に陥るのは当然の結果だった。
こうした現象は、建材用合板でも見られた。建築業者が東京に集結し、「パニックに便乗して商社が品物を隠している」と、糾弾集会を開いた。
丸紅で木材輸入を担当していた近藤久雄・丸紅建材常務(54)は、「輸入した原木は生鮮品と一緒で何か月も放置できない。隠せるものではない、と何度説明しても納得してもらえなかった」と話す。消費者の疑念は膨らみ、パニックはトイレットペーパー、灯油、砂糖などあらゆる生活必需品に及んだ。
「アメリカでは大統領が国民にテレビで平静を呼びかけるなど必死の対応をした。パニックが起きたのは日本だけだ」と、岐阜聖徳学園大学の牛島俊明教授(65)は言う。
三菱石油(現・日石三菱)の企画担当者として、中東の産油国諸国などとの折衝に当たっていた牛島氏は、石油危機が起きる四か月前の七三年六月にロンドン郊外で開かれた国際会議に招かれた。
会議には米、英、仏などの政府のエネルギー担当者と、エクソンやシェルなど国際石油資本(メジャー)の首脳たちが出席した。「中東の緊張が高まり、OPECが原油の価格決定権を握れば石油危機が秋にも起こる」との指摘も出た。牛島氏はこの様子を報告したが、日本の通産省などは「危機は仮説に過ぎない」と冷ややかだった。
日本政府は危機を見て、あわててアラブ支持の政策を打ち出した。この結果、七四年の原油輸入量は二億六千万キロ・リットルと前年比4・4%減にとどまったが、日本側が危機管理能力に欠けていたのは明らかだった。牛島教授は「的確に情報を分析し、対策を国民に冷静に訴えていれば、洗剤が消えるようなパニックは防げた」と強調する。
石油危機は、エネルギーが国家の安全にもかかわる有限な資源であることを先進各国に教えた。同時に、従来の大量生産と大量消費型の社会が曲がり角にさしかかったことを世界に示した。
(大阪経済部 彦坂 真一郎)
[石油輸出国機構]
中東諸国を中心とする産油国が、生産量を調整し、石油価格の実質的な決定権を握ることを目的に1960年に設立した協議機関。現在の加盟国は11か国で、中東のほかアジアや南米の国も参加している。80年代に欧州の北海油田などOPEC以外の石油開発が本格化する一方、原子力など石油に代わるエネルギーの利用も進み、発言力は弱まったとされる。
*◆大量生産(5)
*◇「脱石油」太陽電池から◇
歴史学者ダニエル・ヤーギンの著書『石油の世紀』によると、人類がエネルギーを石油に依存するようになったのは一九一一年、当時のチャーチル英国海軍大臣(のち首相)が大英艦隊の燃料を石炭から石油に転換する決断したことに始まる。以降、石油は大量生産に象徴される二十世紀の産業の中核に常に位置した。
だが、二度の石油危機を経験した人類は、モノに囲まれた「豊かさ」が幻影に過ぎないのではないかと考え始めた。大量生産を背景とした急速な経済成長は、反面で深刻な公害を引き起こし、地球環境の悪化を招いた。
こうした「負の側面」への指摘は、石油危機以前から、すでに公にされていた。
地球は一つの宇宙船。皆が使いたい放題に資源を浪費すると人類だけでなく、すべての生物を危機にさらす――そんなメッセージをアメリカの建築家リチャード・バックミンスター・フラーが発したのは六〇年代のことだ。
七二年には、ローマクラブが『成長の限界』というリポートを発表。現在のペースで経済や人口の成長が続けば、世界は破局を迎える恐れがあると警告した。実際に石油危機が起きて、これらの指摘に現実味が増したのだ。
環境保全の重要性を訴える非営利組織(NPO)の草分け的存在となった「関西リサイクル運動市民の会」を神戸で始めた高見裕一・日本リサイクル運動市民の会代表(43)は、第一次石油危機当時、高校生だった。
「ヒッピーだった」と自らを語る高見代表は、高校時代にヒッチハイクで日本を放浪した。美しい自然に触れる一方、廃油ボールで汚れた砂浜などを目の当たりにした。「宇宙船地球号という言葉に出合ったのもそのころです」
高見氏は七七年、学生仲間とリサイクル運動を開始、その後、減・無農薬野菜の宅配事業などに取り組んでいる。
産業界も石油危機を契機に石油を前提とした生産方式の変革に乗り出した。その象徴例が、光エネルギーを電気に変える太陽電池だった。
三洋電機中央研究所の若手研究員だった桑野幸徳専務執行役員(58)は、入社以来約十年、半導体材料となるシリコンを結晶でも液体でもない状態(アモルファス)にして薄い膜状のトランジスターなど電子部品を作る研究を進めていた。研究は信頼性や価格面から商品化には至らず、暗礁に乗り上げた格好だった。
そこに石油危機が発生、社の経営を圧迫した。当然に、成算のない研究は縮小せざるをなかった。だが、研究所長の故・山野大前副会長はこんな指示を下した。「これからはエネルギーの時代。アモルファスを太陽電池に使えないか」。この決断がアモルファス・シリコンの運命を変えた。同社は従来の技術を応用、七六年に世界初の薄膜型太陽電池の工業化に成功した。八〇年には太陽電池を組み込んだ電卓が登場した。九二年には桑野専務が自宅に太陽光発電装置を設置、これを機に住宅の太陽光発電システムに国が補助する制度も始まった。
現在確認されている石油の埋蔵量は二・二兆バレル、約四十年間分とされる。「未発見のものもあり、石油資源の短期枯渇はない」との見方もあるが、行方は極めて不透明だ。こうした情勢の中で、国際石油資本の一つであるブリティッシュ・ペテロリアム(BP)でさえ、太陽エネルギーの開発に取り組み始めた。同時に、石油などの化石燃料の使用で発生する二酸化炭素(C(O2))で地球温暖化が進む懸念も強まっている。
「限りある資源」と「地球環境保全」という二つのキーワードの下、世界は新たな対応を取ることを迫られている。「石油の世紀」はその世紀末を迎え、ようやく「再生可能エネルギーの世紀」に向けての準備を始めた。(大阪経済部 彦坂 真一郎)
[太陽電池]
光が当たると物質の内部で電子が移動する半導体の性質を応用して光エネルギーを電気エネルギーに変換する装置。1954年にアメリカのピアソンらが発明した。当初は人工衛星に搭載され通信用電源などに活用されたが、石油危機以降は代替エネルギー源として民生用の開発が進んだ。アモルファスのほか、単結晶や多結晶のシリコンを使ったものが主流になっている。
*◆大量生産(6)
*◇“電脳”激しい覇権争い◇
「一月二十四日、アップルコンピュータはマッキントッシュを発売します」――。全米が熱狂するスーパーボウルの会場にもなった米ニューオーリンズのスーパードームの大画面スクリーンに、大掛かりなコマーシャルが流されたのは一九八四年一月二十二日のことだった。これを機に、二十世紀最大の発明といわれるコンピューターは、本格的なパソコンの時代を迎えることになった。
第二次世界大戦中から、暗号解読用の計算装置として開発が進められてきたコンピューターは、四六年に米ペンシルべニア大が世界で初めて、完成にこぎつけた。以降、産業用にも用途が広がってメーンフレーム(汎用(はんよう)機)全盛期を迎えた。さらに、半導体の技術革新を背景に、より小型で、高性能なパソコンが登場する土壌が生まれた。
パソコン時代の先陣を切ったのが七六年に設立されたアップルコンピュータ社だった。同社が七七年、大衆向けに初めて投入したパソコンは「四キロ・バイト」という、今から見ればおもちゃ程度のメモリーしか持たなかった。それでも、メーンフレームに頼らなくても、美しい文書が書け、簡単に計算できる機械が欲しいという需要の中で、アップル製品は評判になった。そして、一段とバージョンアップした「マッキントッシュ」が登場したことで、アップルは新時代の覇権を握ったか、に見えた
だが、それは実際にはコンピューターの歴史上に名を残す、米IBM社とのし烈な闘いの幕開けに過ぎなかった。
メーンフレームの覇者IBMも八一年、アップルに対抗し、パソコン「IBM PC」を発売した。
その上で、IBMがアップル追い落としの最大の戦略としたのが、コンピューター・ソフトの「オープン化」だった。同社は、パソコンを動かす頭脳にあたる基本ソフト(OS)をマイクロソフト社にライセンス供与し、これによりIBMと互換性があるパソコンが他メーカーから続々と販売された。
マイクロソフトのビル・ゲイツ会長は八五年、アップルにもOSの公開を求めた書簡を送った。アップル社内ではオープン化の是非を巡って、大論争が展開されたが、51%もの粗利益を上げるマッキントッシュのOSを公開すれば、減益につながる。経営陣は「粗利益を削ってまでシェアを伸ばす必要はない」と公開を拒否した。
マッキントッシュ・シリーズは、使いやすさなどで他の機器に比べ十年は先を歩んでいるとされた。マックファンは世界で約二千七百万人に及んだ。これだけの人気商品を抱えていながら、ソフト戦略を誤ったアップルは九〇年代に入り、凋落(ちょうらく)の一途をたどった。
九七年八月、米ボストンで開催された「マックワールド・エキスポ」の会場はブーイングが飛び交った。アップルの共同創設者スティーブ・ジョブズ氏が、マイクロソフトから一億五千万ドルの出資受け入れを発表したためだ。観衆は、「反権威」の旗頭でもあったアップルがコンピューターの進化という時代の流れにのみ込まれたと感じた。
これでもまだ、覇権争いが決着しないのがコンピューターの世界だ。九〇年代に入って、この世界はインターネットへの接続を前提とした通信との融合技術に傾斜した。そこでは、IBMとの提携で力を蓄えたマイクロソフトがOSの約90%ものシェアを握った。しかし、そのマイクロソフトも、インターネットの閲覧ソフト(ブラウザー)と呼ばれる次世代の主戦場を巡り、米ネットスケープ社などと主導権争いに入っている。
メーカーの覇権争いは今後も続く。それが、依然として、進化の過程にあるコンピューターの世界に技術革新をもたらすことも事実だ。(ニューヨーク 三浦 潤一)
[アップル社と日本]
アップルと日本はどこか共通点が多い。アップルは何物にもとらわれない自由を社風にしている。しかし、自由は時としてあだとなった。危機が目の前にあるのに果断な決定を下せないといった事態を多数招いた。80年代に躍進し、90年代に急速にしぼんだ点もそうだが、バブル崩壊後、適切な判断をすべて先送りし、結局、破たんした日本企業の二重写しのようでもある。
*◆自由貿易への道(1)
*一九三三年、世界は六月十二日からロンドンで始まった国際経済会議の行方を固唾(かたず)をのんで見守っていた。第一次世界大戦の戦後処理に加えて、二九年には世界大恐慌が起こり、国際経済は大混乱に陥っていた。これを受け、イギリスと日本が三一年に、そしてアメリカも会議の直前の四月十九日に金本位制から離脱した。ロンドン会議は、世界の緊急課題となった通貨安定策を打ち出すために急きょ、開催されたのだ。
会議には当時の世界のほぼ、すべての国に当たる六十四か国から七百人以上の代表団が参加した。三三年三月に国際連盟から脱退していた日本も加わった。重苦しい空気の中、ようやく、英米仏三か国の通貨の変動幅を暫定的に一定範囲内に抑制する合意がまとまりかけた。
しかし、合意は土壇場で空中分解した。ドル高水準で為替が固定されることを嫌ったルーズベルト米大統領が七月三日、「合意はその場しのぎにすぎない」と批判する「爆弾声明」を発表したのだ。会議は同二十七日、何らの進展もなく幕引きとなった。
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのダドリー・ベインズ教授は「会議は、各国が危機を交渉によって解決する最後のチャンスだった。会議の瓦解(がかい)が第二次世界大戦につながった」と指摘する。
一八年に休戦協定が結ばれた第一次世界大戦は、敗戦国で巨額の賠償金を請求されたドイツだけでなく、欧州経済全体に暗い影を投げかけた。戦争で直接的な被害を受けず、むしろ、国力を高めたアメリカが世界経済の復興に向けて主導権を発揮する、との期待も生まれたが、第二次世界大戦後と違って、アメリカはこれを十分には履行できなかった。米ウォール街を発信地とする世界大恐慌の発生で、経済的な余力がなくなったためだ。
恐慌は各国の経済政策を、より「内向き」なものへと変質させた。アメリカは三〇年、保護主義の代名詞として悪名高い「スムート・ホーレー関税法」を成立させた。世界最大のマーケットであるアメリカが参入障壁を高くしたことを機に、各国は一斉に自国と植民地を関税の壁で囲い込むブロック化の道に走った。
三三年三月四日に行われたルーズベルト大統領の就任式は、暗く、しかも、慌ただしいものになった。預金の取り付け騒ぎが全米にまん延する中、同日、ついにニューヨーク、イリノイという経済の中枢部にある両州でも銀行休業令が発せられたためだ。五日には九日まで全国の銀行を休業させる緊急大統領令が発表された。そして、ロンドン会議の開催につながる金本位制からの離脱に向かった。
関税の引き上げ競争と自国通貨の防衛――。この二つは、他国の犠牲のうえに自国だけが不況からの脱出を目指す、いわゆる「近隣窮乏化政策」にほかならない。こうした強硬な姿勢をロンドン会議という“泥縄”に近い調整で打開しようとすること自体に限界があった。日本政府代表団の一員だった日本銀行の深井英五副総裁(当時)は、「会議は行き着くべき所に行き着いた」と述懐した。
その後、こうした調整の場は設定されなかった。列強は一段と経済のブロック化を突き詰め、やがて、世界は経済戦争から武力を用いた戦争へと、破局への一本道をたどることになる。
第二次世界大戦後、通貨安定と自由貿易体制の確立に世界各国がことさらに神経を使うようになったのを見て、ベインズ教授は「ロンドン国際経済会議が決裂したコストはあまりにも大きかったが、その結果、大戦後の各国は交渉で問題を解決する術(すべ)を学んだ」と述べている。ロンドン国際経済会議の皮肉な意義を強調した発言だ。(経済部 松田 陽三)
この連載を単行本にした「革命」「ヨーロッパの戦争」「日本の戦争」「大戦後の日本と世界」を発売中。
[スムート・ホーレー関税法]
アメリカのスムート上院財政委員長とホーレー下院歳入委員長が共同提案して成立した関税引き上げ法。関税率が平均約50%引き上げられ、各国の関税引き上げ競争の引き金となった。その後、4年間で世界貿易は三分の一の水準まで縮小した。
*◆自由貿易への道(2)
*◇“次善の策”ガット誕生◇
一九四一年八月十四日、カナダ東岸に停泊したイギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」艦上で、チャーチル英首相とルーズベルト米大統領が「大西洋憲章」を発表した。第二次世界大戦のさなか、英米は戦後の国際的な政治経済の枠組みを形作った。
八項目からなる憲章は、国際連合の創設などに結び付いたが、同時に、ドルの金交換に裏付けられた固定相場制による通貨体制(ブレトンウッズ体制)と、自由で多角的な通商体制(ガット=関税・貿易一般協定=体制)を生み出す基になった。憲章は第四項で「世界の通商及び資源に対するすべての国の平等なアクセス」をうたった。
「二つの大戦を経験して、連合国の指導者たちは、理想に燃えていた。ガットは、理想主義の中から生まれた」。ガットの“生き証人”とも呼ばれるフリオ・ラカルテ氏は、ガット創設の意義を総括する。氏は四八年のガット発効時、国連で経済担当の執行事務官補だった。九三年に妥結した多角的貿易交渉「ウルグアイ・ラウンド」ではウルグアイの政府交渉代表を、現在はガットを引き継いだ世界貿易機関(WTO)の「紛争処理上級委員会」で上級委員職にある。
ただ、理想主義だけが当時の世界通商に浸透していたわけではない。その事実は幻に終わった国際貿易機関(ITO)を見ても検証できる。ITOは米主導で準備作業が進んだ。国際通商規約の設定のほか、完全雇用政策の実施、審判機能の付与などが機関の機能に盛り込まれ、四八年、国際貿易機関憲章(ハバナ憲章)が採択された。
ただし、提唱側のアメリカでは議会が、機関が持つ審判機能などに拒否反応を示し、批准できなかった。イギリスも英連邦の特恵関税などの存続を望む声が強まり、批准を見送った。
一方で関係国は憲章採択前から、関税引き下げ交渉を前倒しして開始していた。交渉では憲章の中から通商政策上のルールだけを抜き出して暫定活用していたが、機関の創設が不可能になり、やむを得ず、この暫定ルールに恒久的な性格を持たせた。このルールこそが、ガットなのだ。
いわば、「次善の策」としてスタートしたガットだったが、それでも、今世紀後半の世界通商には大きな役割を果たした。その象徴が六四―六七年の「ケネディ・ラウンド」だった。自由貿易の推進者でもあったケネディ米大統領が提唱したこのラウンドは関税を50%引き下げることを目標に進められ、結局、関税引き下げ額は当時の世界貿易の四分の一にあたる四百億ドルに達した。大統領はラウンド開始の前年、凶弾に倒れたが、遺志は見事に生かされた。
「ガットは組織的に弱く、その美しいルールを保ってゆくのは容易ではない。これからはガットの機能を強くすることを考えるべきだ」。ラウンド終結時にガットの初代事務局長エリック・ホワイト氏はこう、提案した。これを受けて、七三年から始まった「東京ラウンド」では、関税引き下げだけでなく、前ラウンドでカバーされなかった非関税障壁が協議された。ダンピング(不当廉売)防止措置を取る際には、輸入で生じる損害の証拠を示すように定めたり、政府調達に関するルール作りが行われた。
ガットの取り組みは、日本を始め、復興から経済成長期に入った国々を支援した。日本がガットに加盟したのは五五年のことだ。翌年には経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言している。日本は自由化を目指す世界通商の枠組みのなかで、加工貿易国としての地位を築き上げた。
「日本は、ガット体制の下、最大の恩恵を被ったと言える」。世界通商に精通する成蹊大学の松下満雄教授は、ガット体制を振り返って断言する。(ジュネーブ 佐藤 伸)
[日本加盟の内幕]
日本は55年にガット加盟を果たしたが、日本の参加を巡っては意見の対立があった。日本の復興を支援するアメリカは、加盟促進派に立ったが、欧州勢を中心に警戒論も多かった。というのも、日本が戦前にダンピング輸出や、集中豪雨的な輸出の“常習犯”だったため、ガット協定を十分に守れるかどうかを、疑問視する向きがあったからだ。
*◆自由貿易への道(3)
*◇交渉7年WTOに結実◇
ガット(関税・貿易一般協定)の多角的貿易交渉は、一九四八年のガット発効以前から始まり、七九年に終わった東京ラウンドまで七回の交渉が行われた。その仕上げとして八六年からスタートしたのが、ウルグアイ・ラウンドだった。
同年九月、南米屈指の海岸リゾートとしても知られるウルグアイのプンタ・デル・エステで初会合が催された。この時には、だれもが妥結までに七年余もの歳月を要するとは予想しなかった。だが、ガット事務局長のピーター・サザランドが、ジュネーブのガット本部で、ラウンド終了の木槌(きづち)を下ろしたのは、九三年十二月十五日のことだった。
ウルグアイ・ラウンドが難航を重ねたのには理由があった。ケネディ、東京両ラウンドに続き、工業品の大幅な関税引き下げを目指した。さらに、農業やサービスなど、極めて政治的で、扱いにくいテーマに取り組んだためだ。
「日本はラウンドを壊すつもりか」。時の細川連立政権は、ラウンド終盤に関係国からの非難が強まる中、ついに「一粒たりとも輸入させない」としてきたコメ関税化阻止方針を転換、部分開放に踏み切った。やり玉に挙がったのは日本だけでない。EU(欧州連合)も域内の農業分野での補助金を削減するようアメリカから強硬に迫られ、米・EU間で“死闘”が続いた。各国が極限の調整に乗り出さなければ、合意はあり得ないほど、交渉水準は上がった。
このラウンドでは、通商の新時代を開く協定も結ばれた。「TRIP」と呼ばれる、知的財産権に関するルールだ。特許権や商標権などの保護は、従来の関税引き下げなどと並んで、フェアな貿易を保証するための手法として、重要性が増していた。八〇年代に入って、米国のレーガン政権は、その強化を打ち出すことで、自国産業の優位を確保しようとした。成長著しい日本やアジア勢のハイテク産業の追い落としにも役立つからだ。
八二年六月、日立製作所、三菱電機の多数の社員が、米IBMから企業秘密の先端技術情報を盗み出そうとした容疑で米捜査当局に逮捕された。日本の関係者にとっては前代未聞の産業スパイ事件だ。こうした行為が国際的にも明確に犯罪として認識される時代になれば、米企業は膨大な特許料などを手に入れることができる。この意味で、TRIPの成立は、日本などの産業を生産中心から技術中心に転換させる契機を与えた。
もう一つ、ウルグアイ・ラウンドが果たした役割は、ガットという殻を破り、世界貿易機関(WTO)を九五年に生み出した点だ。ラウンドの終盤、関係国は内々に新機関の名称を募った。中には、半世紀近くも前に、機能が強すぎることから、創設が見送られた国際貿易機関(ITO)の名前もあった。
だが、各国はITOに比べても強力な機能を持つ新機関を作るため、新たにWTOの名称を選んだ。WTOは貿易紛争の処理で、新たに設けられた二審制に加え、提訴国がWTO勧告を受け入れない国に対抗措置を取る際、全員が一致して反対しないかぎり、これを認めるなどの新ルールを与えた。
今後のWTOを巡っては、課題も残されている。法政大の佐々木隆雄教授は「世界共通のルールを無数につくり、貿易自由化の論理を強調しすぎたきらいのあるガットの思想は、見直す時期に来ている」と指摘する。自由貿易を一直線に進めれば、時には、途上国の成長を阻害する要因になるからだ。環境保全と通商の兼ね合いも問題となる。二〇〇〇年から始まるWTOの新ラウンドでも、こうした議論が展開されるのは必至だ。
第二次大戦の反省から生まれた「ガット体制」が進化を続ける中で、世界はさらに新たな課題に取り組もうとしている。(経済部 高畑 基宏)
[知的財産権]
技術の発展に伴い、「権利」をめぐる摩擦が浮上した。ウルグアイ・ラウンド交渉では、映画や音楽などの著作権、生産方法の特許のほか、商標、デザインなどの保護期間が定められた。だが、例えば医薬品の技術に長期の保護期間を設けることに途上国が抵抗するなど、先進国主導のルール作りに反発する動きも目立った。
*◆自由貿易への道(4)
*◇戦火の反省 統合を加速◇
一九九八年の大晦日(おおみそか)の夕刻。厳冬のブリュッセルは街を行く人の影もまばらだが、欧州連合(EU)本部だけは人いきれにむせていた。各国の蔵相らが翌日の九九年元日に誕生する欧州単一通貨「ユーロ」を祝福、シャンパンの栓が次々と抜かれた。欧州委員会のジャック・サンテール委員長は「欧州統合は新たなステップを踏み出し、さらに前進する」と力強く宣言した。
通貨統合に参加した欧州十一か国は、人口が計二億九千万人、国内総生産(GDP)が計六兆五千億ドル(約七百十兆円)に達し、アメリカに匹敵する市場規模を誇る。欧州統合は日米経済に対抗し、欧州再興の悲願を果たす最大の戦略だった。EUは目標をさらに、政治や外交、軍事統合に移し、今後も壮大な実験を断行してゆく構えだ。
欧州統合という発想は、一九二三年、オーストリア人のリヒャルト・クーデンホフ=カレルギー伯爵が「汎(はん)欧州綱領」を発表したことに始まる。欧州だけでなく、アメリカ、ロシア、イギリス、極東アジアの五地域でそれぞれ国家連合をつくった上、将来は世界統一を目指すことをうたった。伯爵は世界貿易が拡大し、国際的な連携が重要になった時代に、小規模国家が乱立したままでは国家間の対立が激化し、戦争突発の原因にもなると考えた。綱領に沿って、伯爵は汎欧州運動を展開した。
伯爵家はベルギー、ギリシャ、ロシアなどの欧州各地の貴族の血を引く家系で、伯爵自身は一八九四年、東京でオーストリア人外交官と日本人女性青山光子との間に生まれた。伯爵のめいで、現在、ウィーンのテレビ局で解説者として活躍するバーバラ・クーデンホフ=カレルギーさん(67)は、「伯父は、西洋人であり、東洋人でもあるコスモポリタン(世界市民)だったからこそ、国民国家の枠を超える欧州統合の構想が生まれたのでしょう」という。
しかし、ファシズムが台頭してきた時代に発表された汎欧州綱領は、各国には受け入れられなかった。統合が現実問題として俎上(そじょう)にあがってきたのは、第二次大戦直後だった。
フランス人の銀行家ジャン・モネは、欧州大陸に二度と戦火をもたらさないためには、ドイツとフランスの和解が不可欠だと考えた。五〇年、モネのアイデアをもとにロベール・シューマン仏外相が、独仏国境に近いザールやルール地方の石炭・鉄鋼産業を超国家機関で管理する「シューマン・プラン」を打ち出した。軍需産業の基礎となる石炭と鉄鋼を国家管理から取り上げ、戦争遂行能力を奪おうという計画だ。
計画には、独仏のほかイタリアとベネルクス三か国も参加し、五一年に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の条約に調印した。このECSCをベースに、五七年には欧州経済共同体(EEC)が、六七年には欧州共同体(EC)がスタートし、統合のプロセスを着実に深化、拡大させていった。
こうした動きに世界は複雑な反応を見せている。欧州が統合をバネに復権を果たしつつあることを、期待と警戒が入り交じった思いで見つめてきたアメリカは、対抗措置として、九四年に北米自由貿易協定(NAFTA)を発効、北米三国の市場の囲い込みに乗り出した。
一方、地域統合には後ろ向きだった日本は九九年版「通商白書」で、「地域連携・統合への建設的対応」という新たな考え方を示し、現実にも日韓自由貿易協定締結などに向けた研究に着手している。
第二次世界大戦にもつながった経済のブロック化に対するアレルギーが完全には払しょくされない中で、世界は欧州統合の深化という、紛れもない現実に対して、どう、対応すべきかを模索し始めている。
(経済部 松田 陽三)
この連載を単行本にした「革命」「ヨーロッパの戦争」「日本の戦争」「大戦後の日本と世界」を発売中。
[イギリスの立場]
欧州で忘れてはならないのが、島国イギリスの特殊な立場だ。欧州大陸以外にアメリカなど旧植民地の友好国を抱えるイギリスは、独仏主導で進む欧州統合に慎重な姿勢を取ってきた。99年1月の通貨統合も第一陣での参加は見送った。しかし、英国内にも親EUの世論が増えており、完全にEUの一員になる日も近そうだ。
*◆巨大化する企業(1)
*◇独占進み労働争議も◇
二十世紀の扉が開いたばかりの一九〇一年二月の米ニューヨーク。鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(一八三五〜一九一九)が紙の切れ端に「売却額四億八千万ドル」という数字を無造作に書き付けた。それを見て、金融界を支配するジョン・P・モルガン(一八三七〜一九一三)は「受けた」と即答した。全米一位のカーネギーの鉄鋼会社がモルガンに売却され、米鉄鋼市場の67%のシェアを握る「USスティール」社の誕生が決まった瞬間だ。
USスティールには、カーネギー鉄鋼をはじめ計十社が統合された。資本総額は当時のアメリカの国内総生産(GDP)の3・8%に当たる十四億ドル。世界初の「十億ドル企業」が登場したのだ。
一八七〇年代から一九〇〇年代にかけて、アメリカの産業界では企業合同(トラスト)が活発化した。カーネギー、モルガンのほか、スタンダード石油を抱えるジョン・ロックフェラー、鉄道王エドワード・ハリマンなどが、トラストの主役になった。USスティールだけでなく、独占的なシェアを有する巨大資本が相次いで登場した。
この時期にアメリカでなぜ、独占資本主義が浸透していったのか。ニューヨーク大学のジョージ・スミス教授は、その背景として、南北戦争以降、全米を巡る鉄道網が発達し、経済活動が急拡大したことを指摘する。鉄道業の発展は物流の発達だけでなく、鉄道の生産財としての鉄鋼需要の拡大を促した。アメリカの鉄鋼生産量は南北戦争直後の一八六五年には一万四千トンだったが、十五年間で百倍に膨れ、十九世紀中にイギリスを追い越し一千万トンに達した。
スコットランドの貧しい移民から身を起こしたカーネギーは、この時勢に乗って、新たな経営戦略を実践した。生産工程ごとに企業が分かれていた当時の鉄鋼業を見直し、一貫生産体制を作ることで極限までコストを削減、生産の効率化を図った。この中で国内で断続的に起きた不況も利用し、経営が傾いたライバル企業を統合していった。
一方のモルガンは、父から銀行業を引き継ぎ、南北戦争では軍需品を納め、戦後、金融財閥を形成した。この巨頭二人がUSスティールの誕生で手を握り、さらに巨大化していった。
モルガンは、さらに鉄道、兵器、映画など幅広い産業に触手を伸ばしてゆくが、彼には独占に対する一種の哲学があった。企業間競争は金融を始めとする経済の混乱をもたらす無駄にしか思えなかったのだ。鉄道各社は運賃のダンピング(不当廉売)と新路線敷設でし烈な競争を繰り返してきたが、モルガンはこうした混乱を企業統合という形で収拾、再編成したともいえる。
もちろん、独占がもたらす弊害も露呈した。モルガンはトラストに絡んで、企業の株をつり上げては利ざやを稼いだため、「ロバー・バロン(泥棒貴族)」とも呼ばれた。
労働問題も深刻化した。独占のあらしの下、労働者の賃金は抑制され、資本家に対する怒りがたまっていった。
カーネギーの鉄鋼会社のホームステッド工場(米ピッツバーグ)では一八九二年、激しい労働争議が起きた。工場側は警備員を雇い武力でストライキの鎮圧に乗り出し、労働者が死亡したりした。ピッツバーグの郷土史家デービッド・デマレストさんは「会社が世界一になっても、労働者は一家総出で週に八十四時間働かなければならなかった」と当時の状況を説明する。
大量生産方式の導入とともに、企業合同の動きは、その後のアメリカ経済が発展を遂げる骨組みにもなった。しかし、一部の大富豪が産業を牛耳る結果生まれた弊害は、国民に大きな衝撃を与え、以降、アメリカの社会・経済を貫く「反独占」の理念をはぐくむ結果にもなった。(ワシントン 坂元 隆、写真も)
[社会還元]
独占資本主義の立役者たちは社会に利益を還元するフィランスロピーの開拓者でもあった。「大金持ちで死ぬのは恥辱」と書いたカーネギーは、USスティールで得た資金の7割以上にあたる3億5000万ドルを寄付し、全米に図書館や研究機関を建設。米国を代表する慈善福祉団体に成長したロックフェラーの財団は関東大震災復興にも一役買った。
*◆巨大化する企業(2)
*◇反トラスト貫く米政府◇
第二十六代アメリカ合衆国大統領、セオドア・ルーズベルト。説得力のある演説で知られる彼を有名にしたのは、アメリカが西半球諸国に国際警察力として介入することを正当化した「新モンロー主義」だ。同時に、大統領の特徴として後世に語り継がれるのが、トラスト(企業合同)への“挑戦”だった。
「トラストは禁止されるべきではなかろう。しかし、当局が監視の目を光らせることはやむを得ないと私は判断する」。大統領に就任して間もない一九〇一年十二月三日、ルーズベルトは米議会でこんな演説を打った。大統領は「トラスト形成の自由より、公共の福祉の方が上回る」と明確に断定した。
これより前の一八九〇年、米議会は「シャーマン反トラスト法」を制定した。国内でトラストなどによる独占化が進行した時期だ。同法は巨大企業の形成などで市場が独占され、公正な取引が制限されることを禁止したもので、「慣習法に頼っていた独占禁止規定を初めて連邦法で規定した」(マーティン・スクラー著『一八九〇―一六年米資本主義における企業再構築』)。
しかし、クリーブランド、マッキンリー両大統領は同法の本格適用には二の足を踏んだ。建国以来、自由な企業活動を伝統としてきていたアメリカでは、政府による規制への反発も根強かったためだ。
こうした時代にルーズベルトは登場した。大統領の意を受け、司法当局は石油王ジョン・ロックフェラー率いる「スタンダード石油」をターゲットにした。オハイオ州の灯油精製会社に過ぎなかった同社は、ライバルを次々と統合し、石油採掘やパイプライン事業も手掛けるようになり、一八九〇年代には全米の石油事業の90%を牛耳る巨大トラストに成長した。米連邦最高裁判所は一九一一年、スタンダード石油トラストの解体を命じ、同トラストは三十七もの企業体に分割された。
係争中、スタンダード石油も当然黙っていなかった。ロックフェラー家の顧問で、『ロックフェラーの世紀』の著書があるピーター・ジョンソン氏によると、スタンダード側は〈1〉スタンダード石油の事業統合開始はシャーマン法制定以前〈2〉トラストは事業効率化が目的〈3〉石油製品価格はむしろ低下した――などと反論、無罪を主張した。
だが、司法はこの主張を退けた。連邦最高裁は同年、米たばこ市場を事実上支配していたアメリカン・タバコに対しても解体命令を出した。この二つの判例で、シャーマン法による“トラスト崩し”の流れは固まった。
産業の活性化をリードする巨大企業の出現が、アメリカ経済と国民生活の向上に大きな役割を果たしたことは、否定できない現実だ。それと「独占」という問題をどう扱うのかは、極めて難解なテーマだ。ジョージ・ワシントン大法律大学院のウィリアム・コバシック教授のように、トラストを「大企業の近代的企業経営の確立や、生産・販売一体化による効率化の利点もあった」と擁護する向きもある。
しかし、その後のアメリカは、「公正な競争」を金科玉条とする反トラスト体制を完成させていく。一九一四年、価格差別による競争制限などを禁止するクレイトン反トラスト法を制定した。同年には、司法省とともに独禁法違反事例を監視する連邦取引委員会(FTC)が設けられた。
戦後も、IBMやAT&T、マイクロソフトなど、アメリカを代表する巨大企業に挑む独禁当局の姿勢は不変だ。それどころか、アメリカは通商戦略の中で、こうした考えをグローバル・スタンダードに広げる動きも強めている。「機会の平等」を何より重視するアメリカで、反トラストは今や、この国の経済政策を支える根底の理念となった。
(ワシントン 国松 徹)
[トラスト]
参加企業は自社株式を受託者団に預託し、引き換えにトラスト証券を受け取る。受託者団はこれら企業の経営権を握り、圧倒的なシェア(市場占有率)を強みに価格支配力を持った。生産調整などの業界申し合わせにとどまるカルテルよりも、資本集中が進んだだけ拘束力が強い。トラストは石油などのほか、砂糖、ウイスキー、皮革、ゴムといった幅広い産業で形成されていった。
*◆巨大化する企業(3)
*◇世界にM&Aの連鎖◇
一九九八年一月、米ミシガン州オーバーンヒルズの大手自動車メーカー、クライスラーの会長室を訪ねた独ダイムラー・ベンツのユルゲン・シュレンプ会長は、こう切り出した。「こんなことを言うと、私が気が変になっているか、あまりにナイーブと思われるかもしれませんが」
続いてシュレンプ会長が口にしたのは、ドイツ最大の企業ダイムラーと米ビッグスリーのクライスラーの合併構想だった。クライスラーのロバート・イートン会長は静かに聞き届けると、自らも他社との提携を胸に抱いていたことを明かした上で、「二週間以内に正式交渉に入るかどうか、返事する」と応じた。
この合併は、四か月後に正式発表されたが、世界の自動車業界を震撼(しんかん)させることになった大合併劇は、わずか十七分の会談で動き出したことになる。
九〇年代後半に入って、国境を超えた巨大な合併・買収(M&A)が相次いでいる。
石油業界では、英ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)が米アモコと合併した。米エクソンはモービルを買収し、世界最大の企業「エクソン・モービル」の設立を決めた。再編はこれだけでは終わらず、BPアモコが再び動いて、米アトランティック・リッチフィールド(ARCO)を買収した。一方、仏医薬大手ローヌ・プーランと合併した独ヘキストは、同時に企業活動を生命科学に特化し、名門化学企業の看板を捨てた。
フランスの欧州経営大学院フィリペ・ハスペスラク教授は「世界にM&Aの連鎖反応が起きている」と評する。M&Aの目的は、市場の開拓、膨大な研究・開発費用の捻出(ねんしゅつ)、重複部門の統合によるリストラ(事業の再構築)と、まちまちだ。
だが、「一勝者が(企業間競争という)試合のルールをがらっと変える。これまで安泰だった企業の地位が、巨大企業の出現で突然、危機にさらされるようになった」(同教授)という事情は共通で、世界の超優良企業が取りつかれたようにM&Aに走り始めた。
*◆基軸通貨の変遷(1
*◇“後光”失ったポンド◇
イギリスの中央銀行・イングランド銀行は、通称“金の博物館”を併設している。その奥まった広間では、重さ十三キロもの巨大な金の延べ棒が鈍い光を放つ。傍らには、その日の金一キロ当たりの市場価格が表示されている。
今でもロンドンを中心に値決めされる金の国際価格は、一九九〇年代に入り、投資や宝飾品向けの需要が冷え込んだため、長期下落傾向にある。だが、近世から現代において、金は世界経済に重く君臨してきた。この体制を主導してきたのがイギリスだった。
イギリスは一八一六年、通貨をいつでも金に交換できる「金本位制」を世界で初めて採用した。各国の通貨への信用が定まらなかったこの時代に、金の裏付けを与えることで通貨に信頼性を持たせ、貿易取引の拡大を図ったのだ。「安心できる通貨」を強みに石炭や綿織物の輸出で十九世紀の貿易をリードし、二十世紀に入って「世界の工場」としての地位を確立した。この結果、イギリスは積み上がった経常黒字をベースに、ポンドを「基軸通貨」に押し上げた。
一九〇四年四月一日。当時の日本銀行副総裁、高橋是清はロンドンに到着した。日露戦争の戦費に充てるため、この地で外貨建て国債を発行しようと交渉にやってきた。通貨の覇者となったイギリスは、国際金融センターの機能を備えていった。
著名な経済学者ジョン・M・ケインズは、センターを監督する重責を担ったイングランド銀行の権威をたたえ、「国際的オーケストラの指揮者」と呼んだ。
そのイギリスの栄光にも影が差し始めた。二十世紀初頭には、「工業国」としてのイギリスと、「農業国」としてのアメリカ、ドイツなどが国際分業を形成していた。ところが、アメリカなどの欧米各国が工業化に目覚め、イギリスを追撃し始めた。旧来の繊維産業に依存したままのイギリスは、鉄鋼などを主体とする各国との競争に苦戦した。
イギリス経済史に詳しい英レスター大学のフィリップ・コットレル教授は「十九世紀の遺産だけでは外国の欲するものを生み出せなくなっていたイギリスに代わって、アメリカが世界の市場を仕切るようになり、ドルの地位が向上していった」という。この時期に、ポンドは弱体化の道を歩み始めていたのだ。
英・米双方のすう勢を完全に決したのが、二度にわたる世界大戦だった。
金本位制は、経常赤字が出ても、それに見合う金を相手国に送ることで、信用保持を図る仕組みだ。だが、第一次大戦が始まると、交戦国は手持ちの金の海外流出を防ぐため、相次いで金本位制の停止に踏み切った。第一次大戦後、各国は制度を復活させるが、長続きはせず、二九年の世界大恐慌を契機に英米日などが軒並み離脱に走った。
目まぐるしい過程の中、イギリスは基軸通貨国としての機能を次第に失っていった。一方、アメリカは欧州に対する戦後の復興物資と資本の供給国としての地位を固めた。
第二次大戦は、この両国の明暗を一段と鮮明にした。戦後の各国経済は、戦勝国でも極度の疲弊に追い込まれた。物資難にあえぐソ連は、ドイツ占領区から現物賠償として「複線の鉄道の片方のレールを次々と外し、持ち去った」といわれる。本土が空爆対象にもなったイギリスにしても混迷の状況は変わらなかった。もはや、世界を立て直す力はアメリカにしかなかった。
基軸通貨は世界の通貨の最終的な保証者であることを意味する。この重責を果たすためには、常に世界経済のリード役であることが義務付けられる。反面で、自国の経済政策の都合で自由に通貨を発行できる特権を持つ。世界はこの権利と義務を、戦後経済の新たな覇者アメリカに与えることにしたのだ。(経済部 高畑基宏)
[日本の金本位制]
日清戦争に勝利した日本は、清から巨額の賠償金をロンドンでポンド建てで受けとった。日本はそれまで事実上の銀本位制だったが、松方正義内閣は国際標準の金本位制でなければ外国から資本を導入して日本を近代化することは困難と考えた。政府は賠償金を金に換え、1897年に金本位制に移行した。
*◆基軸通貨の変遷(2)
*◇激論、ケインズ案敗れる◇
ブレトンウッズは、米ニューハンプシャー州の森の中のリゾート地だ。第二次世界大戦も終盤の一九四四年七月、そこに四十四か国の代表七百人余が集まり、約三週間にわたって戦後の国際経済体制の枠組みづくりを協議した。
「当時は(連合軍がノルマンディー上陸した)『Dデー』の数週間後で、我々は戦後の新たな国際金融システムづくりに取り組むんだとの意気込みに燃えていた」。オランダ代表団の一員としてブレトンウッズ会議に参加したジャック・ポラック氏(85)は、会議の模様を振り返る。
この会議の結果、世界の通貨・経済システムを安定させるための二機関が創設された。ポラック氏が後に理事を務めることになる国際通貨基金(IMF)と、世界銀行だ。この「ブレトンウッズ体制」が構築されたことで、四八年に発効したガット(関税・貿易一般協定)とともに戦後の国際経済を支える基本的な枠組みがそろったことになる。
ブレトンウッズ体制は、金保有が潤沢なアメリカが他国に対して金一オンス=三五ドルで交換する義務を負い、他国はドルと自国通貨を固定するという内容だ。戦前型の金本位制を脱却し、ドルを基軸通貨とした固定相場制度の発足を意味している。
しかし、この新通貨体制が構築されるまでには、新旧の世界経済の覇者、イギリスとアメリカによる激しい論争があった。
双方を代表する論客の一人は経済学の一時代を築いた英大蔵省名誉顧問のジョン・M・ケインズ。もう一人は米財務次官補のハリー・ホワイトだった。
二人は四二年半ばから意見交換を始めたが、双方がそれぞれ事前に温めていた構想は「〈1〉安定した通貨制度の創設〈2〉自由・開放貿易体制の確立〈3〉各国経済の安定・再興のための基金と銀行の設立――など、驚くほど共通点があった」(キース・ホースフィールド著『国際通貨基金一九四五―六五、第一巻編年史』)。
しかし、新体制にどんな機能を持たせるか、といった具体論になると、国情を反映して、意見が対立した。戦費調達で巨額の債務を負ったイギリスは、新体制による国際的な貸し出し機能の充実を第一に考えた。ケインズは、大英帝国の栄華を取り戻すため、IMFが新国際通貨「バンコー」を発行し、債務国に供給する案を主張した。
一方、ホワイトは、ドルが世界通貨の主役を務める時代には、通貨の安定が必要と判断し、IMFに各国の為替政策を綿密に調査、勧告する権限を与えようとした。
世界が注目した英米エコノミストによる論争は、結局、バンコーの採用は見送られ、ホワイト案を一部修正した形で決着した。米ハーバード大のジェフリー・サックス教授は、この英米の対立を「債権国で最強通貨を持つアメリカと、債務国で通貨切り下げが必要なイギリスとでは結果は明白だ。ブレトンウッズ会議は、イギリスからアメリカに世界経済のパワーが最終的に移行した象徴的出来事と言える」と解説する。
論争による心労がたたったケインズは、ブレトンウッズで軽い心臓発作を起こしていた。四六年三月のIMF初総会にもイギリス代表として出席したが再び発作を起こし、帰国後の翌四月に不帰の人となった。一方、会議を制したホワイトも、後にマッカーシズムの嵐(あらし)に巻き込まれ、共産スパイの嫌疑をかけられたまま他界した。
「二人は互いに尊敬していた。ブレトンウッズ体制は、ケインズとホワイトの出会いによって、より優れた構想に高められた」。IMFで歴史研究を担当するエコノミストのジェームズ・ブートン氏は、こう総括している。
(ワシントン・国松徹)
[会場選択]
新たな国際経済体制を協議する場として、当初はワシントン近郊のリゾート地が検討された。しかし、そこはかつて南北戦争で南軍に属したバージニア州に位置し、当時は依然、人種差別の名残があったため、開発途上国からの参加もある会議には不適と判断された。結局、有力上院議員の“引き”もあり、ニューイングランド地方の避暑地が選ばれた。
*◆基軸通貨の変遷(3)
*◇“エース”ドルの落日◇
一八〇四年に創立された名門ロスチャイルド銀行は、世界の金融センター、ロンドン・シティーの小路の傍らに、意外なほど質素な本店を構えている。建物の三階には「黄金の間」と呼ばれる秘密めいた部屋がある。毎日、午前と午後、五つの主要銀行のディーラーが金の売買データを持ち寄り、その日の需要と供給に基づいて金の相場を決める。これがロンドン金市場だ。市場は一九九九年九月十五日、開設八十周年を迎えた。
戦後、構築されたブレトンウッズ体制は一オンス=三五ドルという公定価格によるドルと金の交換を前提とした固定相場制を作った。一方、自由市場も存在する。自由市場の価格は日々、変動するが、公定価格からかけ離れて上昇すれば、ドルとの交換水準は実態を反映しないものになり、ドルの威信は損なわれる。そんな危機が実際に訪れた。
ことの発端は、一九六七年十一月十八日に実施されたポンドの大幅な切り下げだった。産業の近代化が遅れたイギリスは、輸出が伸び悩み、貿易赤字が慢性化していた。この打開策に為替政策を変更したのだ。かつての威光は失われたとはいえ、ポンドは国際的な決済通貨の地位を保っていた。その切り下げは、基軸通貨ドルの切り下げ観測を呼んだ。アメリカもまた、ベトナム戦争への巨額な出費や、日本からの輸出攻勢などを背景に、国際収支の恒常的な赤字に苦しんでいたからだ。
「ドルが値下がりすれば、金価格は上昇する」。投機的な思惑が全世界を覆った。人々は金を求めて自由市場に押し寄せた。多くの国の中央銀行は自由市場で金を売り、アメリカ財務省から公定価格で金を買うことで利ざやを稼いだ。二十世紀版の「ゴールドラッシュ」が発生した。
緊迫した状況の中で、イギリス、アメリカ、西ドイツなど七か国の中央銀行は反撃に出た。ドル防衛に向けて、手持ちの金を売り浴びせる「金プール」作戦を展開した。その主戦場が、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行から代行業務を担っていたロスチャイルド銀行の「黄金の間」だった。
「われわれは、最後の金塊を売り尽くしてでも、金の公定価格を守り抜く」。アメリカ連邦準備制度理事会のウィリアム・マーチン議長は声明を発した。しかし、ゴールドラッシュは止まらなかった。市場が気にかけるアメリカの国際収支は改善の兆しを見せなかったためだ。アメリカの国際収支の赤字累積は、各国が保有するドルを過剰に膨脹させた。各国は不安にかられて、そのドルを金に交換するという悪循環に陥った。
七一年八月十五日。ポンド切り下げから約四年後、ニクソン米大統領は全世界のテレビ、ラジオに向けて演説した。「われわれは、ドルを守るために、ドルと金の交換を停止する」。戦後の金ドル本位制が崩壊したことを意味するこの声明は、市場どころか、各国の通貨・金融当局にも“寝耳に水”の唐突なものだった。世界の金融市場が大混乱に陥ったのも当然だった。
「ニクソン・ショック」から四か月後、先進十か国の蔵相らはようやく、ワシントンのスミソニアン博物館に集まり、対策を講じた。ドルを切り下げた上で、固定相場制は維持する「スミソニアン協定」が決定された。しかし、その後もドルの信頼は回復しなかった。七三年、日本やヨーロッパ各国はついに、現在の変動相場制への移行を余儀なくされた。戦後、世界経済を支えてきたアメリカが、もはやエースを演じることが出来なくなった時代を迎えたのだ。甲南大学の山本栄治教授はこの歴史的プロセスを「ニクソンが、通貨制度の最後のよりどころだった金というアンカーを引き揚げ、世界をリスクと不確実性の海に導いた」と表現している。(経済部 高畑 基宏)
[ドル本位制]
ブレトンウッズ体制で生まれた金ドル本位制から、変動相場制によるドル本位制に移行したことで、ドル相場は極めて不安定になった。73年の第一次石油危機では上昇し、カーター米政権期は下落した。レーガン政権の80年代前半は極端なドル高で貿易不均衡が深刻化し、85年9月、ドル高是正のプラザ合意につながった。
こうした状況の下では、とにかく合併することが先決で相手選びは二の次、という事態も時として生まれる。
「花嫁はきれいだし、花婿はとても生殖能力が高い」。九八年五月の合併発表でシュレンプ会長は、理想の妻(クライスラー)をめとった喜びを、やや品のない表現で語った。
だが、ダイムラーの本命は実は米フォードで、同年四月にフォードとの話が決裂するまで、クライスラーと二股(ふたまた)で秘密交渉していた。かたや、クライスラーも独BMWとの提携を視野に入れていた、とされる。合併発表のひな壇の顔ぶれが入れ替わっても、不思議はなかったわけだ。
国境を超えた合併が進む背景には、冷戦の終結を受けたグローバル化の急速な進展がある。「経済国境」の消失は海外の競争相手からの防壁をも取り払った。単一通貨ユーロの誕生で欧州十一か国の通貨圏自体が“大合併”したことや、情報化の進展で経済活動に時差がなくなったことも追い風になっている。
こうした波は、日本にも押し寄せている。英通信会社ケーブル・アンド・ワイヤレス(C&W)は、NTTとの激しい競争の末、日本の国際デジタル通信(IDC)を買収した。仏ルノーと日産自動車は資本提携に踏み切った。
M&A戦国時代――その行く末について、チューリヒ大学経営研究所のエドウィン・ルーリ所長は「まさに戦争と同じ。良い同盟を結べた企業が勝つ」という。ただ、M&Aを行った結果、組織肥大化で業務効率がかえって低下したり、企業文化の違いに苦労する例も少なくない。「巨大企業化」が大競争時代を生き残る真の解答なのか、その答えは来世紀に持ち越される。(フランクフルト 貞広 貴志)
[M&A]
合併(Merger)と買収(Acquisition)の頭文字。国際的なコンサルタント会社KPMGによると、99年上半期の国境を超えたM&Aは総額4090億ドルと、前年同期比61%増で過去最高だった。背景として、買収企業などの株を一定比率で旧会社の株主に割り当てる「株式交換方式」が広まり、巨額の買収資金がいらなくなったことや、M&Aのノウハウを蓄えた投資銀行の介在が指摘される。
*◆基軸通貨の変遷(4)
*◇「一人前」の自覚迫られた日本◇
ニクソン米大統領が一九七一年八月十五日に突然、ドルと金の交換停止を発表したことで、各国は自国の外国為替市場の対応を巡って、選択を迫られた。固定相場制の下の為替市場では、固定レートから大幅に変動する事態になれば、下落した通貨を各国が買い支える必要があった。このため、演説を聴いた各国は市場を閉鎖した。
だが、先進国でただ一つ、市場を開け続けた国があった。日本である。大蔵省や日本銀行関係者は、現地時間で十五日午後九時からの演説を米短波放送でキャッチした。しかし、時は日本時間で十六日月曜日の午前十時で、すでに東京市場は始まっていた。
市場を開けたままにしておくように指示したのは、同年六月に大蔵省財務官を退官、同省顧問の任にあった柏木雄介氏(現・東京三菱銀行特別顧問)だった。
氏はその理由について、「一ドル=三六〇円の固定相場に慣れ切っていた国内輸出産業や銀行が円切り上げで打撃を受けることを恐れた。円と日本経済はまだそれほど強くないと思っていたので、いかに円を守るかの心配が先に立った」と証言する。
市場を閉めれば、再開時には円を切り上げるか、変動相場への移行を迫られる。欧州はすでに暫定的な変動相場の採用に傾いていたが、とりあえずは、固定相場を守るため、世界の投機筋と対決、ドルを買い支えることにした。
だが、以降の市場の扱いを巡り、大蔵省は揺れた。省内にも「(市場を開けて)切り下げが確実なドルを買い続ければ、政府が巨額の為替差損を被る」との市場閉鎖論はあったからだ。
当時、就任間もなかった水田三喜男蔵相は海外情勢をつかむため、柏木氏を十八日、米仏に派遣した。この出張で、柏木氏は通貨に対する「日本の視点」と「世界の目」に大きな差があることを実感することになった。
日本が産業保護のため、四九年以来、続いてきた一ドル=三六〇円という固定相場に固執したのに対し、欧米はドル切り下げか、変動相場制によって、各国が新たな応分の負担をしなければ、弱体化した基軸通貨・ドルは守れず、必然的に世界経済が危機にひんすることが分かっていたのだ。日本がまだ、自らを「半人前」と称した輸出競争力も「一人前」扱いされ、日本の負担も当然と考えられていた。
柏木氏はポール・ボルカー財務次官(現・米プリンストン大教授)ら米政府首脳と会談し「円も無傷ではすまない」と認識した。ボルカー氏は当時の模様について、ニューヨークにある個人事務所で、「われわれの意図は、投機的圧力による金の海外流出を防ぐためにドルの安定を回復することだった。そのため、為替相場を変えたかったのだが、日本はドル買いを続け、従来通りの為替相場を維持しようとした」と振り返る。
柏木氏はOECD(経済協力開発機構)のエミール・バン・レネップ事務総長にも念を押された。「すべての主要通貨の対ドル相場をどう調整するかという話だ」
柏木氏の報告を受けつつ、大蔵省は二十二日の日曜日、緊急省議を開催、変動相場制への移行を固め、二十八日に実行した。通貨体制はその後も二転、三転した。同年十二月のスミソニアン会議では、新固定相場制が導入され、円は一ドル=三〇八円に切り上げられた。七三年二月には日本は各国に先駆けて変動相場制に踏み切り、円は同年、一ドル=二六〇円台まで上昇した。
柏木氏はニクソン声明について「あれが円の危機でなくドルの危機であることに気づかなかったのは、世界が日本経済をどう見ているか、分からなかったからだ」と語る。それは欧米を追撃することだけを考えてきた日本が、世界の主要メンバーとして自覚を求められた瞬間でもあった。(経済部 高畑 基宏)
[インフレ]
ニクソン声明後も外国為替市場を開き続けた日本の円売りドル買い介入は、総額40億ドル(1兆5000億円)にも達した。一方で、円切り上げによる景気後退を恐れた日銀が、公定歩合を相次いで引き下げたため、その後の第一次石油危機時の悪性インフレの遠因になったとの批判が巻き起こった。
*◆基軸通貨の変遷(5)
*◇バブル呼んだ「合意」◇
金との交換に裏付けられたドルを軸とする固定相場制が一九七一年のニクソン・ショックで崩壊した後、主要通貨は変動相場制に踏み切った。変動相場制の下で通貨の価値を決める材料は、各国経済の状況や、貿易収支、金利政策などが絡み合って判断されるファンダメンタルズ(経済の基礎的諸条件)だった。通貨はこの新たな概念に沿って変動を繰り返すことになるが、その最大のヤマ場の一つが八五年のプラザ合意だった。
同年九月二十二日、ニューヨークのプラザホテル一階のホワイト・アンド・ゴールド・スイートルームでは、四時間にわたり、先進五か国(G5)の蔵相と中央銀行総裁が協議を続けていた。アメリカの貿易赤字の元凶でもあるドル高の是正への対応策を検討していたのだ。この中で、竹下登蔵相が発言した。「円は10%以上の上昇を許容できる。今のような円安では大蔵大臣を卒業できない」
後に日本の関係者が驚いたのは、通訳として同席した大蔵省幹部が「このままでは総理大臣になれない」と誤訳したとされ、後に政局絡みの話題のタネにもなったためだが、その場に臨席していた欧米の代表が注目したのは、自国の産業保護のために円高を嫌っていた日本が、自発的に円の切り上げを申し出たからだった。G5はドル高是正に向け、各国がドル売りの協調政策を採用する声明を発した。
ドル高を招いた原因は「レーガノミックス」と呼ばれるレーガン米大統領の経済政策だった。八一年に就任したレーガン大統領は、カーター政権末期に顕著だったインフレ、低成長、ドル安の三重苦を克服し、経済を再生させるため、高金利政策、減税、歳出削減を強力に進めた。それがドル高につながったのだ。
米連邦準備制度理事会(FRB)議長としてプラザ会合に出席した米プリンストン大教授のポール・ボルカー氏は「われわれは、あそこまでドルを強くしようとはしなかった」と振り返るが、ドルは八五年二月には一ドル=二六〇円台に上昇し、日本が変動相場制に踏み切った七三年とほぼ同レベルにまで強くなった。
「日本の輸入を増やして対米貿易黒字を減らそう」。ドル高に伴い、アメリカに保護主義が高まったことを案じて、中曽根首相は八五年四月九日、テレビ中継で輸入促進に向けて、国民一人当たり百ドルの外国製品を買おう、と呼びかけた。為替問題が日本にとっても大きな課題になっていた表れだった。
ところが、そこから流れは一転する。プラザ合意を受けて、市場はドル売りを加速したが、その動きが止まらなくなってしまったのだ。円は急騰し、八五年十一月には一ドル=二〇〇円を突破した。
八七年二月二十二日、G5蔵相はパリのルーブル宮に集まり、今度はドル安定を目指すため、各国が協調利下げに踏み切る「ルーブル合意」を完成させた。しかし、アメリカの財政と貿易の「双子の赤字」は膨張する一方で、ファンダメンタルズはドル売りのベクトルを示すばかりになっていた。現在に至る円高・ドル安の基調はこの時代に形作られた。
合意の翌日に当たる二月二十三日、日本銀行は年2・5%という当時の史上最低水準にまで公定歩合を引き下げた。この結果、生命保険などの機関投資家は、高金利の米国債への投資を進め、「ザ・セイホ」の名を世界にとどろかせた。国内では金融機関などの余剰資金が株式や土地などに洪水のように押し寄せた。バブル経済の発生だ。
この現象は一面では、国際的な資金還流の道を作り、アメリカの財政などを助けた。しかし、バブル経済は経済の体力を弱めた。バブル崩壊から十年近くたった今も、日本はその処理に追われている。(経済部 高畑 基宏)
[協調利下げ]
ルーブル合意で主要各国はそろって利下げに踏み切り、国内の資金を対米投資に向かわせようとした。日本にとっては円高不況を乗り切る意味合いもあった。ただし、87年2月までの5回にわたる公定歩合引き下げは、すでに日本経済が回復の兆しを見せていた中で実施されたため、日銀内部にも4次下げ、5次下げに反対する意見もあった。
*◆基軸通貨の変遷(6)
*◇ドルに挑む「ユーロ」◇
一九九九年を迎えた欧州連合(EU)域内のホテルや商店は、新年にもかかわらず、徹夜で料金表の変更作業を続けた。元日に誕生した欧州単一通貨「ユーロ」の為替取引が四日から始まるのに備え、ユーロ換算の料金を自国通貨と二本建てで表示する必要があったためだ。ユーロ紙幣が流通するのは二〇〇二年一月からだが、クレジットカードなどを使ったユーロ決済は四日から可能になった。
その一月四日、世界の主要市場は「ユーロ人気」で沸いた。どの市場も朝方から買い進まれ、東京外国為替市場では一時、一ユーロ=一・一九ドル台、同一三五円台を記録した。EUの執行機関である欧州委員会が前年十二月三十一日に発表した参考値は、一ユーロが一・一六六七五ドル、一三二円八〇銭で、この水準を大きく上回った。サンテール欧州委委員長(当時)は「円滑な取引はユーロへの明確な信認の表れだ」と自信を示した。
欧州が通貨統合に踏み切った背景には、基軸通貨・ドルへの“挑戦”があった。ルクセンブルクのピエール・ウェルナー元首相(86)は「『国際通貨体制は不変のドルが軸だ。通貨政策では他国通貨が歩み寄らなくてはならない』というのがアメリカの主張だった。欧州諸国は有効な経済政策を取らせないアメリカに不満感を募らせた」という。
一九六〇年代後半、ベトナム戦争への戦費増大で国際収支の慢性赤字に陥ったアメリカがドルを乱発した結果、欧州に大量のドルが流入した。市場では、米ドルから、経済好調な西独マルクへの大量投機が進み、英ポンド、仏フランがこのあおりで通貨危機に直面した。欧州経済は、自国の都合で紙幣を増刷できる基軸通貨・ドルにほんろうされてきた。
ただし、通貨統合への道は平たんなものではなかった。欧州共同体(EC)は七〇年、ウェルナー氏を委員長とする特別委員会が八〇年までの十年間に単一通貨を導入する欧州経済通貨同盟(EMU)構想を初めて示した。
しかし、統合にあたっては、各国経済が順調に運営されていることが条件になる。そのためには、国内批判があっても、財政健全化政策などを実行する必要がある。この大前提が、まず、七三年の第一次石油危機による経済混乱で崩れた。
その後は、欧州通貨制度(EMS、七九年)、単一欧州議定書(八六年)、そして、欧州中央銀行(ECB)の創設への準備と段階的な手順を踏み、九二年のマーストリヒト条約へとつなげた。だが、EU参加十五か国中、イギリス、スウェーデン、デンマーク、ギリシャがユーロへの参加が果たせなかった。現実に、自国の政策を縛ることをためらった国や、参加を希望しても財政規律などの条件が満たせなかった国が出たのだ。
もちろん、先発組十一か国にも課題は残る。各国経済が不調なら、ユーロの価値は低下するからだ。好スタートを切ったユーロは七月中旬には、一ユーロ=一・〇二ドルにまで落ち込んだ。景気減速と、軒並み10%近い失業という不安材料があったためだ。ベルギー・ルーバン大学のポール・ドゥグルーエ教授は「ユーロが米ドルに対抗する国際基軸通貨となるかは、経済の構造改革次第だ」と分析する。
統合の核になったドイツとフランスはユーロ誕生に際して、日本にある提案を打診してきた。ドルとユーロ、円の安定を図りたいという。この構想はドイツの蔵相交代などもあり、その後は進んでいないが、世界主要三通貨の間に目標相場圏のような仕組みを作るアイデアで、将来は三通貨による新基軸通貨体制の構築をうかがう考え方だ。
欧州は域内経済の結束を図りながら、日米の出方を見極めつつ、ユーロを通じて復権を果たす準備を進めている。(ブリュッセル 島崎雅夫)
[通貨の切り替え]
実際にユーロの紙幣や硬貨が市中に流通するのは2002年1月からで、同年7月までの併存を経て各国通貨は回収される計画だ。しかし、ユーロ圏では、併存期間が長いと消費者に混乱を招くとして1―3か月間に短縮しようとする動きが活発化してきた。ただ、硬貨だけで約500億枚の回収が必要で、併存期間の短縮が実現するかはなお不透明だ。
*◆規制からの脱却(1)
*◇米企業 パワーの源泉◇
「パンナム(パンアメリカン航空)や、イースタン航空がつぶれても大統領は動じないか、と私は側近に問い返したんだ」。米コーネル大名誉教授アルフレッド・カーン氏(82)は述懐する。一九七七年に氏が、カーター大統領から米航空業界の規制当局である民間航空局(CAB)委員長就任を打診された時のことだ。ホワイトハウスから「大統領は競争原理を信頼する」との返事を受けて、カーン委員長が実現した。
カーター政権が、市場原理に基づく規制緩和を強く提唱していた氏をCABトップに起用したのは、「三八年民間航空法」で縛られていた航空業界の体質改善を断行するという、意思の表れだった。
七〇年代のアメリカ経済は、固定相場制の崩壊や石油危機などを背景に変調をきたし、インフレが進行した。この時代に矢面に立たされたのが、政府規制に守られ、新規参入や料金自由化が進まない航空などの産業だった。高止まった価格を下げ、企業の競争力を高めるには、大胆な規制緩和が不可欠になっていた。
規制に“安住する産業”への挑戦はフォード政権から始まった。だが、フォード大統領が規制緩和の切り札として試みた「七五年航空法案」は業界の反対で葬り去られた。この雪辱戦がカーン委員長に託された。
氏は精力的に動いた。議会の根回し、業界の意見聴取、記者会見や世論対策による国民の支持の取り付け――。運賃低下の期待から、ラルフ・ネーダー氏率いる消費者団体などが全面支援したほか、小売業、製造業などの主要産業も理解を示した。
難関の議会も、エドワード・ケネディ上院議員らを軸に民主、共和両党の多数が賛成に回った。競争こそがより良い商品やサービスを生み出す、との考えが次第に主流となった。
もはや、反対派は航空会社と労働組合だけで、カーン氏がいう「包囲網作戦」は成功、七八年十月、ついに「航空規制緩和法」は成立した。署名に臨んだカーター大統領は「初めて主要産業の規制緩和を実現した」と宣言を発した。その後、米航空業界は運賃引き下げ競争と再編を繰り返した。このあおりで、パンアメリカン航空はカーン氏の“予言”通り、九一年十二月四日、運航を全面停止し、六十四年の歴史に幕を閉じた。
同様の試みは通信産業でも行われた。その最大のヤマ場が八四年のAT&T分割だった。同社は「三四年通信法」によって独占・無競争体制に置かれ、全米の電話加入数の八割以上を占めていた。その巨大企業を長距離電話専門会社として分離すると共に、長距離市場を原則自由化して競争を促した。
同時に、AT&Tの子会社だった二十二の地域電話会社を分離、「ベビーベル」と呼ばれる七つの地域電話会社に再編成したが、これら各地域での独占状態は残された。
その後、九六年の通信法抜本改正で、長距離、地域、ケーブルテレビ分野の相互参入にも道が開かれた。「政府規制に代わる市場メカニズムの活用は、今や世界の潮流」(アメリカン大学のパトリシア・アウフデルハイド教授)になった。
「三四年通信法」や「三八年民間航空法」は、二九年の世界大恐慌後、ニューディール政策を推し進め、アメリカが「大きく強い政府」の下で、経済復興を目指した時代に作られた法律だ。アメリカはこうした政府の役割そのものの見直しを規制緩和を通じて加速した。
カーターの挑戦は、レーガン大統領が唱えた「小さな政府」に結実した。政府の関与を抑え、民間の競争を促す戦略は、クリントン政権にも引き継がれ、現代のアメリカ経済のパワーの源泉にもなっている。(ワシントン 国松 徹)
[試練]
米航空界では81年に新規参入が、82年に運賃自由化が実現し、84年にはCABそのものが廃止された。この結果、当初約20あった航空会社は、84年のピーク時に120以上に急増。この激動期には競争激化や値下げ合戦などで倒産や買収・合併が進み、パンナムやイースタンだけでなく、ウエスタン、ブラニフなど半分以上の企業が姿を消した。
*◆規制からの脱却(2)
*◇英の民営化、世界に衝撃◇
一九八一年一月、サッチャー英首相は突然の内閣改造を実施して国民を驚かせた。歳出削減に反発する閣僚数人を一度に更迭したからだ。首相は回顧録の中で「異論を唱えた閣僚は経済政策に反対することに熱心なだけでなく、自分の省庁の予算を守ろうとしていた」と断言、この閣僚たちを痛烈に批判した。イギリス初の女性首相、マーガレット・サッチャー氏は、八二年のフォークランド紛争などで見せた剛腕ぶりから「鉄の女」と呼ばれる。だが、彼女の本当の強さは妥協を許さない政策の断行に見受けられた。
「欧州の病人」――そんな異名を取るほどに当時のイギリス経済は疲弊していた。インフレの進行と企業の競争力低下、深刻な不況が国内を覆い尽くしていた。この中で、サッチャー氏は財政再建と産業活性化を同時に実現する「魔法の杖(つえ)」を振るった。それが国有企業の民営化だった。
七九年から始まった民営化は、メージャー政権に引き継がれた九四年まで、鉄道、電力、通信、ガス、水道など国有企業の三分の二に当たる四十八社に及んだ。通信の巨人、ブリティッシュ・テレコム(BT)のほか、英国航空、ロールス・ロイス、ブリティッシュ・ペトロリアムなど世界的な著名企業が名を連ねた。
民営化は三つのメリットを生んだ。まず、民営化による株式売却益が六百億ポンドに上った。BTの株式は八四年から九三年にかけて、三十億千二百万株が放出され、売却益は四十億ポンドに達した。同時に、国有企業への補助金も大幅削減できた。さらに、収益を上げるようになった民営化企業からの税収が、九四年度には二十六億ポンドに膨らみ、財政赤字の削減に貢献した。
しかし、最大の成果は民営化後、企業が格段に活性化した点だった。国際通信大手のケーブル・アンド・ワイヤレス(C&W)は、八五年の民営化以来、現在までに世界七十か国にデジタル通信網を構築し、千七百万人の顧客を持つ企業に成長した。同社のメディア部長、ピーター・ユーステイス氏は「新たな戦略を実行に移すたびに政府の許可を必要とした国有企業時代なら、何よりスピードを必要とする国際ビジネスの展開は不可能だった」と力説する。
イギリスの決断は各国にもインパクトを与えた。統一前の西ドイツは、八〇年代に連邦政府が保有していたフォルクスワーゲンなど四つのコンツェルンや、ルフトハンザなどを相次ぎ民営化した。フランスは金融大手のパリバ、ソシエテ・ジェネラルなどを中心に民営化した。日本も電電公社、専売公社、国鉄の三公社が、それぞれ、NTTなどに生まれ変わった。
民営化路線を突き進んでいた八三年、サッチャー氏は証券取引所との間で、ある和解に達した。前の労働党政権からの宿題だった制度改革で、取引所側は八六年末までに証券取引の固定手数料の廃止を約束した。証券業者間の分業体制の垣根も撤廃することになった。「ビッグバン」(金融制度の抜本改革)の到来だ。
イギリスから始まったビッグバンに、世界は衝撃を受けた。それが単なる規制緩和の積み重ねではなく、国際的な金融再編を意味していたためだった。イギリスの金融界ではビッグバン実施後、テニスの全英オープンのように地元の有力プレーヤーに乏しい「ウィンブルドン現象」が進んだ。日本でも九月、経営破たんした旧日産生命を引き継いだ「あおば生命」のフランス資本傘下入りが決まるなど、閉鎖的な産業の代表である「金融」に外資が堂々と進出してくる時代が訪れている。
消費者にとって、安価で良質なサービスを提供するために行われてきた規制緩和は、サッチャリズムを経て、国境なき市場主義を支える重要な柱に進化しつつある。(経済部 高畑 基宏)
[エージェンシー]
イギリスは、国有企業の民営化と並んで、政府の各省庁の執行部門を企画立案部門から切り離し、独立採算などによって効率化させる「エージェンシー」化も進めた。この措置で、全国家公務員の4分の3がエージェンシーに移り、政府の年間の経費削減額の6割をエージェンシー効果であげるまでになった。
*◆規制からの脱却(3)
*◇国際資本がアジア直撃◇
冷戦の終えんは国際経済に変化をもたらした。東西、南北の区別なく、通商や金融市場が国境を越えて一体化する市場経済の隆盛期に入ったのだ。新時代に投資や生産を促し、勝ち残るためには、大胆な規制緩和による自由化が不可欠になった。だが、各国の経済成長の段階は異なる。市場主義が、成長だけでなく、混乱をもたらすのも当然だった。九七年、その危惧(きぐ)がアジア通貨危機で現実化した。
同年五月十二日、バンコク外国為替市場で、タイ・バーツが二十億米ドル分以上も売られた。それまでにもバーツ売りの動きはあったが、一日数億米ドル分止まりだった。売り浴びせの主役はヘッジファンドなどの投機筋で、先物取引などで利ざやを稼ぐため、相場をかく乱する戦術を進めていた。
これを実現するためには、あらかじめ現地通貨を用意しておく必要がある。タイ中央銀行は、バンコクの市中銀行幹部をひそかに集め、投機筋に資金を貸さないよう求めたが、投機筋はすでに大量のバーツを確保していた。政府は投機筋との闘いに敗れ、七月二日、バーツのレートをドルに連動させた事実上の固定相場制を放棄した。
アジア各国の急速な経済成長は、通貨体制が支えた側面がある。八五年のプラザ合意以降の円高を背景に日本は生産のアジア・シフトを進めた。自国通貨とドルを連動させる仕組みを採用した各国は、円高時代に産業競争力を増した。さらに、市場経済の浸透に伴い、各国は海外からの投資を一段と促すため、金融市場の自由化に踏み切った。
この結果、タイなどのアジア市場には海外からの短期資金が大量流入、不動産バブルが発生した。こうした中で円安・ドル高が進み、輸出競争力が衰え始めたのを契機に資本流出が始まった。タイのチュラロンコン大学のティーラナ・ボンマカパット準教授は「投機家たちは、その動きを見抜いていた。タイ経済の実力から見て割高になったバーツの矛盾を突いた」という。
危機はインドネシアやマレーシア、韓国にも波及した。市場主義の落とし子ともいえる国際投機筋がアジアを席巻した。通貨下落は経済の停滞に直結し、倒産も相次いだ。タイの芸能プロダクションの女性社長ノッサバー・ワーニチャアングーンさんは「テレビのスポンサーの予算カットのあおりで、売上高は40%以上落ち込んだ」と振り返る。
危機打開に向けて、国際社会は国際通貨基金(IMF)を軸に支援に乗り出した。だが、この対応が一段の混乱を生んだ。IMFはタイ、インドネシア、韓国に対し、金融支援の実施と同時に金融引き締めや緊縮財政などの経済再建プログラムの履行を求めた。
この結果実施された政府補助金の削減などが、国民の収入減や必需品の高騰につながったインドネシアで、暴動が起きた。国民の怒りは身内が経営する企業を優遇してきたスハルト大統領のアジア的な“資本主義”にも向けられ、九八年五月、三十二年も続いたスハルト政権が崩壊した。
この危機で、マレーシアのマハティール首相は、ジョージ・ソロス氏などの投機筋を名指しで非難した。欧米主導の市場主義との対決色を強め、九八年九月、海外でのマレーシア・ドルの流通を厳しく制限する資本取引規制を導入した。首相は「小国が投機筋から身を守るには、こうした手法しかない」と強調した。
アジア危機は「民間の巨額の国際資本移動によってもたらされた二十一世紀型の危機」(ミシェル・カムドシュIMF専務理事)だ。市場主義の「影」を体験した世界が対応を巡り苦悩している間にも危機はロシアや南米に拡大した。さらに新たな危機が生まれない保証はどこにもない。(シンガポール 浦崎 直樹)
[アジアの奇跡]
アジア各国は、初等教育の普及による良質な労働力の存在や、高い貯蓄率、政府の直接投資受け入れ振興政策などを背景に経済成長を達成してきた。60年代から97年半ばまで、フィリピンを除く東アジアの国の一人当たり実質国内総生産(GDP)伸び率は年率5%を超え、アジアは「世界の成長センター」と呼ばれた。
連載の単行本第5巻「思想・科学」が刊行されました。「革命」「ヨーロッパの戦争」「日本の戦争」「大戦後の日本と世界」も発売中。
*◆市場経済への移行(1
*◇「改革」の名の下に汚職◇
ロシア第二の都市、サンクトペテルブルク市の検察局は今月半ば、前市議会議長を職権乱用罪で訴追することを決めた。議長職にあった一九九六、九七年、市の基金から地元大手紙に対して二回にわたり、計約百万ドル(ルーブルを当時の為替レートで換算)の資金を無利子で貸与して焦げ付かせ、市に損害を与えたというのがその容疑。
一見ありふれたこのスキャンダルがことさら目を引いたのは、エリツィン政権を巻き込んだ一連の「クレムリン・ゲート」にも通ずる「改革派の犯罪」の典型とも言える事件だったからだ。
前議長は、旧ソ連時代、体制変革を訴えたシンガー・ソングライターの出身で、同じように検察当局に追われ国外へ逃れたかつての「改革の旗手」アナトリー・サプチャク前市長の盟友でもあった。融資を受けた側の地元紙も、当時の代表的な改革推進派。しかも、その融資自体も元をたどれば、「市場経済の発展」を促進するために設けられた公式の制度を利用したものだった。
同市議会は九五年はじめ、市の予算をもとに総額五千万ドル(同)の「特別基金」を創設。各議員は一人百万ドル(同)の範囲で、議会の承認なしに、この基金を有望企業への振興費などに使うことができるという決定を採択した。
しかし、この破天荒な試みはたちまち「汚職の温床」となった。「チャス・ピーク」紙などによると、市場化振興に使われるはずだった資金は、専ら海外旅行などの遊興費や議員の系列企業への「寄付金」に流用された。
前議長による情実融資も実のところ、資金規模、使途とも「他の議員並み」に過ぎないのだが、皮肉にも、返済期限などを定めた「正規の融資契約書類」を残したことがあだとなって、融資先の破産と自身の議員資格喪失の後、刑事訴追の対象とされたのだという。
この事件の背景には、「選挙で選ばれた選良にはどんな権限も与えられ、改革のためにはどのような手段も許されるという、民主化と市場化にからんだ二重の神話がある」と、地元紙編集者は言う。
経済学者のニコライ・シメリョフ欧州研究所主任研究員は、こうした事件は「国家(行政)が自ら作り上げた構造汚職のメカニズム」の当然の帰結だとし、政権側が「改革」の大義名分のもとで用いた蓄財の手段をいくつかの段階と類型に分類する。
第一は、石油・ガス・貴金属輸出に関する特定企業へのライセンス供与。例えば石油輸出を認可された企業は、十三、四倍に達していた内外価格差を最大限に享受した。
第二はチュバイス元国家資産委員会議長(のち大統領府長官)が主導した企業の民営化。政権とのコネを利用し、「不当な安価」で国有企業の払い下げを受け、「けた違いの価格」で転売する例が多発した。
第三に国家予算によって育成された銀行制度。ほとんどが旧ノーメンクラツーラ(共産党幹部)によって創設された銀行は、事実上、無利子で国から調達した資金によってマネーゲームに狂奔した。
第四には「国家スポーツ基金」「アフガニスタン帰還兵連盟」「ロシア正教会」の三団体に対する優遇税制。関税などを免除された結果、自動車、ウオツカ、たばこなどの売買で巨富を築き、一部はマフィアの資金源にもなった。
第五は、行政当事者が陰で絡んだヤミ経済。その最たる例は、武器などのヤミ輸出で、国外への資金流出、マネーロンダリング(資金洗浄)の流れは、この分野が先駆けになったという。
シメリョフ氏によれば、ロシアの資本主義への移行は、何よりもまず「国家による国有財産の強奪」として始まったのだ。(モスクワ 布施 裕之)
[クレムリン・ゲート]
エリツィン政権による市場化政策開始以来、最大規模の疑獄事件。エリツィン大統領の家族やクレムリン高官がからむ贈収賄、国際通貨基金(IMF)融資をも含む資金洗浄、ロシア国債をめぐるインサイダー取引の3つの疑惑がある。ロシア国内では今年はじめからくすぶっていたが、夏ごろから米欧で一斉に報道されたことで火がつき、米連邦捜査局(FBI)が調査に乗り出した。
*◆市場経済への移行(2)
*◇「民営化」に内容伴わず◇
北緯69度、北極圏のツンドラ地帯にあるロシア・ノリリスクのニッケル鉱山は、スターリン時代の一九三〇年代半ばに開かれた。ノリリスク強制収容所の政治犯を含む囚人たち(延べ約五十万人)が、七年がかりで精錬工場をはじめとするコンビナートを築き、初代所長には当時の秘密警察である「内務人民委員部」の高官が就任した。
それから六十年後の九七年八月、コンビナートはエリツィン政権の「国営企業民営化」によって、ウラジーミル・ポターニン元第一副首相が頭取を務める「オネクシム銀行」の系列企業に、六億八千万ドル(ルーブルを当時の為替レートで換算)で払い下げられた。
下院・国家会議の後の調査によると、競争入札こそ形式的に行われたものの、参加企業は実質的に「オネクシム銀行」の系列企業だけで、競売委員会議長も同銀行副頭取。しかも払い下げの当時、利益率ゼロとされていたコンビナートは、翌九八年末には「年間利益十―十五億ドル(同)、資産価値百二十億ドル(同)」を誇る世界有数のニッケル生産・精製企業となった。
スターリン時代の無償の強制労働から生み出された旧ソ連の国有財産が、民営化の結果、錬金術のように巨大資産に生まれ変わったのだ。
ロシアの市場化の過程で、疑獄事件と紙一重のこのような「不正な民営化」(下院の調査報告)が多発した理由として、経済学者でもあるパーベル・ブーニチ下院議員(所有・私有化・経済活動委員長)は、「国有財産強奪に対する罪の意識の低さ」をあげる。
もともと国有財産は、だれの所有にも属さない分だけ資産価値が低いとみなされ、「奪っても罪悪を感じにくい対象」だった。それを「強奪の欲望」から守っていたのは、「強制収容所」に代表される旧ソ連体制の恐怖支配だった。
ところが、企業民営化をはじめとする私有化政策は、旧体制崩壊による恐怖支配からの解放と同時並行で急激に進められたため、「恐怖に代わって社会を支配するルール(法基盤)の確立」が置き去りにされ、国有財産は文字通り「投げ売り、投機、転売の草刈り場」となった。また、エリツィン政権自体、国有財産の分配によって早急に「新興資本家層」を作り出すことを、新体制強化の手段として促進した面があったという。
一方、歴史家で文芸評論家のワジム・コージノフ氏は、現在のロシアを「社会主義の遺産を食いつぶしている」と語る。
私有化政策は、錬金術こそ生んだものの、産業構造の転換はもたらさなかった。国民経済を支えるのは現在も石油・ガス、軍需産業のような旧体制下で蓄積された部門で、銀行など新制度のもとで生まれた産業は、生産拡大と無関係にマネーゲームに狂奔した結果、昨年八月の経済危機で壊滅的な打撃を受けた。
「政権が、所有形態さえ私有制に改めれば、人間の意識も資本主義的になると考えたのは、社会主義時代に唱えられたのと同じユートピアだ」と、コージノフ氏は皮肉る。ロシアの市場経済が、ハンガリー、チェコのような「欧州の中流国」、言い換えれば、同じ旧社会主義国ながら過去に資本主義時代を経験した国並みに「文明化」するだけでも、十年近くはかかるだろうと予想する。
エリツィン政権初期に政府顧問を務めた米国人経済学者が、改革失敗の理由を外科手術に例え、「患者にメスを入れてみたら、体の構造が自分たちとまるで違うことがわかった」と説明したように、ロシアの資本主義への移行は、国民の意識やモラル、法体系などが整わないまま強行された実験だったといっても過言ではない。(モスクワ・布施裕之)
[国営企業の民営化]
エリツィン政権が価格統制の撤廃に次いで導入した市場経済への移行策。全国民に民営化証券(額面1万ルーブル)を無償供与し、国営企業の株の購入に充てさせた第1段階(1992年10月から)と、現金による株式売却を通じ、より大規模な国営企業を払い下げた第2段階(94年7月から)に分かれる。
*◆市場経済への移行(3)
*◇資本主義 貧富の差拡大◇
「資本主義は、一握りの金持ちと貧乏人ばかりを生み出すだけさ。みんながそこそこに生きていた(社会主義体制の)時代が懐かしい。今の時代をどう思うかって? 答えられないな。政治に口出して命を縮めたくはないからね」
旧ソ連、現在のアゼルバイジャン共和国の首都バクーにある旧国営バザール(生鮮品市場)で、年配の管理人が肩をすぼめた。簡素なつくりの屋根の下に、隣との仕切りもはっきりしない八十ほどの店が並び、野菜や瓶詰などが山積みされている。昼前なのに客は少ない。
アゼルバイジャンは石油の国だ。カスピ海に臨むバクー油田は、今世紀初頭には一時期、世界の産油量の半分以上を採取したこともあった。カスピ海にはまだ膨大な量の石油と天然ガスが眠っており、採取権を巡っては、数年前から国際石油資本が競い合っている。
その石油をあてこんで、中心街には豪華な建築の銀行や貸しビル、国際ホテルが並びたつ。だが、地元紙「ゼルカロ」のサミル・スルタノーグル経済部長は「貧富の差が激しくて」と嘆く。この国で富を象徴する高級乗用車ベンツの登録台数は九千台。ドルに換算すると、一台数万ドルはするという。「国民の平均月収は四十ドルです。格差がわかるでしょう」と話す。
ここの指導者はゲイダル・アリエフ大統領(76)。かつてソ連共産党政治局員で、ソ連国家保安委員会(KGB)アゼルバイジャン議長を務めたこともある。アゼルバイジャンは一九九一年に独立を宣言した後、隣国アルメニアとの武力紛争や国内の権力闘争で混乱したが、そのさなかの九三年、大統領直接選挙で当選した。
以来、一貫して政権を担当している。冠婚葬祭への「気配り」など巧みな人心掌握術と、共産党時代からの強権的な統治スタイルが、アゼルバイジャンの「家父長的部族主義」(クラン体制)の伝統に合致して、絶大な人気を保ち続けている。
社会主義体制が解体して市場へ移行する際、基本となるのは旧国家資産の公平な分配だ。民営化という名の資産配分は、その国の民主主義の度合いを示すが、アゼルバイジャンではどうだったか。
例えば、九六年に実施された農地分配。「集団農場の幹部が農地を適当に区割りして、農場員にクジを引かせて分けた」「クジ引き前に、肥よくな土地は幹部が自分たちのために除いておいた」。スルタノーグル部長はこう指摘する。こんなやり方に農場員の不満が爆発し、一部地方では不穏な事態も招いたという。
農地はすでに99%が私有化された。しかし、その土地を登記するには担当官庁の係官に「礼金」を払わなければならない。一方、個人商売は自由化されたものの認可制なので、承認を得るのに役人への「礼金」が欠かせない。
社会の秩序は一族の「長」を中心に成り立つ、と考えられてきた風土のもとでは、「何がしかのお礼」は「社会の潤滑油」とさえ言われている。市場経済のかけ声はあるが、この仕組みに個人一人では背けないのが実情だ。
国民総生産は九八年度で約三十六億ドル。その半分近くを支えるのが石油産業で、国家は石油に浮かぶという表現も過言ではない。これを仕切るのがアゼルバイジャン国営石油会社(SOCAR)だが、副社長は大統領の子息で、アリエフ一家の力は強い。
今世紀初頭のロシア革命で、旧ソ連南部地域は一挙に社会主義体制へ挑戦し、一応の生活水準を達成したが、その枠組みが外れて見えてきたのは、古くから続く専制的な統治体質と「長いものには巻かれろ」という意識構造だった。市場経済への道はまだ遠く、なお幾代かの世代交代を待たねばなるまい。(バクー・熊田全宏)
◇
[アゼルバイジャン] 人口763万人。国民の8割以上がトルコ系、宗教はイスラム教シーア派。アゼルは火、バイジャンは国を意味し、直訳すれば「火の国」だ。バクー沖の石油埋蔵量は180億バレルと見込まれ、開発採取に米英露のほか日本も参加。今後50年は採取可能とされる。生産本格化に伴う新パイプラインの設置で米露間に争いもある。
*◆市場経済への移行(4)
*◇民営化に潜む旧体制の影◇
チェコの市民の暮らしを見たいと思って、プラハ中心街のスーパー「テスコ」を訪ねた。地下食品売り場は立すいの余地もないほど混雑している。その盛況ぶりを写真に撮りたいと支配人に申し込んだが、即座に拒否された。「来月は商品棚を組み替える。棚の様子が外部に漏れると困るので撮影は許せない」という言葉が返ってきた。
かつて共産党時代のモスクワでは、百貨店内の写真を撮るのに手紙を書いて一か月で許可が出ればいい方だった。黙って撮ろうとしたら、「国家機密を盗むのか」と威迫されたこともあった。いま、社会主義経済から市場経済へと変わったはずのチェコだが、事情は変わっていないようだ。
プラハの町並みは清潔で明るい。それだけ見ると、チェコ経済は「華麗に繁栄している」かに映る。だが、スーパーの棚には自国製品はほとんどない。チーズ、化粧品、リンゴ、衣類、食器……。ほぼ八、九割は西欧からの輸入品が並んでいる。競争力の落ちたチェコ製品は放逐され、安価な商品がアジアからもやって来る。流通機構には、すでに市場経済の原則が貫徹している。
かつて工作機械の「シュコダ」などは世界のブランドにもなったが、今や壊滅状態に近い。「残ったのは乗用車のシュコダぐらいでしょう。それもドイツ資本が入ったからで、シュコダ重機や製鉄所は民営化に失敗し、世界の市場から脱落した」と、チェコ経営センターのヤロスラフ・イラシェック教授は話す。
チェコでは貿易収支の赤字拡大などから一九九七年に通貨コルナが急落し、昨年からはマイナス成長に陥っている。銀行は民営化されたが、その銀行群が買いあさった旧国営企業で赤字が続く。それでも、銀行側は合理化に踏み込めず、手放すこともできない。政府が、現在の失業率8%がさらに悪化するのを懸念しているからだ。
赤字企業が倒産するのは経済の鉄則だ。それを明記した「会社倒産法」は九六年に制定されたが、適用されたためしはないという。「これでは経済の健全化を狙った法律もザル法になってしまう。民営化はすっかりゆがんでしまった」と、プラハの週刊誌「エコノミスト」のミレナ・ゴイソバさんは指摘する。
どうしてこうなったのか、理由の一つに、旧時代の国営企業の指導層が市場経済下の新企業の経営者としてとどまったことがある。計画経済のもとで政府からの「トップダウン」に慣れきった思考からは、市場経済の競争に立ち向かう「民間」の発想は生まれにくかったのだ。
チェコは第二次大戦前、オーストリア・ハンガリー帝国の遺産を継いで中欧の先進国の位置を保った国だ。共産党支配下でも、「プラハの春」で知られるように、いわゆる「人間の顔をした社会主義」運動が盛り上がった。しかし六八年、結局はソ連の武力弾圧で引き戻されてしまう。
そして年月を経て八九年、東欧に体制改革のあらしが起きた。チェコは政治分野では先頭に立ったが、経済体制の移行では詰まるところ、旧支配者層が国家財産を「民営化」の名目で分け合う事態を生み出した。民営化情報がインサイダー・ビジネス風に取引されたと言われている。
「今は企業経営の自由があり、だれでも市場に参入できる。だが、まだ中小企業の段階だ。大企業の経営は不透明だし、政権との癒着もひどい。真の市場経済ははるか先だ」と、フリーの経済記者ヤン・エリネクさんは語る。
社会主義革命が今世紀の実験だったように、計画経済から市場経済への転換もまた一つの実験だろう。市場経済化の成否は、十年、二十年の単位でしか測れない。(プラハ 熊田 全宏、写真も)
連載の単行本第5巻「思想・科学」が刊行されました。「革命」「ヨーロッパの戦争」「日本の戦争」「大戦後の日本と世界」も発売中。
チェコのクーポン民営化 政府が安価で国民にクーポン券を発行、そのクーポン券を使って国民が株式会社(民営企業)となった旧国営企業の株を購入し、企業の市場経済化を行う方法。92年に実施された。しかし、市民の多くがこのクーポン券を投資会社に預け、詐欺まがいの被害に遭う事件も多発した。
*◆市場経済への移行(5)
*◇国有企業、外資へ売却◇
「日本から買った一台のフィルム現像機が始まりでした。今は年間四百万枚の写真をプリントしています。ほかに眼鏡、家具、化粧品なども販売しており年商は二億ドル。売り上げは伸びてますよ」
ハンガリーの首都ブダペスト。ドナウ川を見下ろす総合小売業「フォテックス」の本社ビルで、写真部門の専務エディット・ケペッシュさんはこう語った。同社は東欧の市場経済化の波に乗って急成長し、今ではコダック、ポルストなどの外資大手と業界のシェアを争っている。
フォテックスは一九八四年、ブダペストに構えた一つの店舗から始まった。社会主義経済のハンガリーでもすでに当時、「人は雇わない」という制限付きで個人企業の経営が認められていた。例えば、家族だけで営むレストランなら、といった具合だ。
社主のガボール・バルセギさんは効率の悪い国営写真現像店を見て、政府と折半の会社を起こした。個人企業では人を雇用できないが、国との合弁によって企業を「国営」化すれば可能だと思い立ったのだ。もちろん、経営の主導権は自分が握る。
「あのころは写真フィルムを現像するのに二、三週間もかかっていたが、日本から導入した現像機によって数時間に短縮できた。この早さで完勝しました」と、ケペッシュさんは回想する。
ハンガリーは東欧諸国の中でも、早くから改革に手をつけていた国だ。五六年には、「ハンガリー動乱」と呼ばれた労働者や学生による自由化運動が起きた。ソ連の軍事干渉を受けて押し戻されたが、六八年から始まった開放政策では、ソ連を刺激しないように注意しながら、企業経営の自由裁量を少しずつ増やしていった。サラミ・ソーセージを薄切りにするようなやり方から「サラミ自由化」政策と呼ばれた。フォテックスもその政策の中から生まれた。
外資の導入にも七〇年代に道筋がつけられ、ヒルトンなど幾つもの国際ホテルがドナウ河畔に建った。八九年に東欧で市場経済への改革が始まった時、ハンガリーはすでに市場経済への基本的な対応ができていたのだ。
計画経済から市場経済へ移る際、どの国でも腐心するのはどのように国有企業を民営化するかという点だ。ハンガリーでは、チェコなどと違って、国有財産を直接、外国企業へ売却する政策を積極的に進めた。こうして外資を導入すれば、金のかかる体制改革に弾みもつくだろう。それが政府の読みだった。
「ハンガリーには外資への不信が少なかった。サラミ政策の時代から西側と接触していたので、外国資本を入れたら国を乗っ取られるというような経済的な国粋主義は生じなかった。それが幸いした」と、民営化初期に政府経済顧問を務めたペテル・ラングさんは指摘する。
景気は九六年後半から上向き、昨今では経済成長率5%になっている。輸出製品の六割が外資企業の産品だ。日系企業ではソニー、スズキなど現地法人がほぼ十社、合弁を入れると七十五社を数える。世界のトップ企業も大半がここに拠点を持っている。
だが、問題が皆無なわけではない。かつて東欧市場を制覇したバス製造のイカルス社は操業停止状態にある。政府の民営化責任者が優良企業に天下った例が無数にあり、それが現在に影を落とす。ラングさんは「私有財産制度にはなったが、固定資産税も相続税もない。法案を出そうとすると潰(つぶ)される」と指摘する。
経済の市場化は進んだが、裏打ちする制度は行き届いていないということだろう。自由経済への道はハンガリーといえども決して容易でない。「まともになるには、あと十五年はかかる」と、ラングさんは言い切った。(ブダペスト・熊田全宏)
[ハンガリーの欧州連合(EU)加盟問題]
チェコ、ポーランドと並んで98年から交渉が始まっており、2002年の加盟達成が目標になっている。実現を困難視する向きもあるが、各種の経済指標では、3か国のなかでは一番乗りになるという判断が圧倒的だ。民営化で大胆に外資を導入したことが経済の競争力を付けたと評価されている。
* ◆自然観の革命(1)
* ◇物理学を変えた相対論◇
東京駅にはその姿を一目見ようと、数百人が押しかけた。一九二二年十一月十八日のこと。大騒ぎのなか、「相対性理論」で時の人になった四十三歳の物理学者アルバート・アインシュタインが現れた。出版社の招きでヨーロッパから海路で神戸につき、午後七時二十分着の特急列車でやってきたのだ。「待たれた人がきた」。翌日の読売新聞は興奮気味にそう報じた。
アインシュタインブームは日本だけではなかった。米国のプリンストン大学で行われたアンケートでは、ルーズベルト大統領をはるかに上回る人気を獲得し、ヨーロッパでは、赤ちゃんにアルバートと名付けるのがはやったという。
米物理学研究所のスペンサー・ワート物理学史センター長は、今世紀を振り返って、「物理学者を偉大な順に挙げるとしたら、一位から三位までアインシュタインでしょう」と語る。だが、往時のブームはそれだけでは説明しきれず、今も科学史上の謎(なぞ)とされるほどだ。
理論自体は、むしろ誤解、曲解されることが多く、「あれは科学というより哲学」とも言われた。帝京平成大学の金子務教授(科学史)は「アインシュタインに人間的な魅力があったからでしょう」と指摘する。「第一次大戦下の独ベルリンで反戦署名をしたように、大勢に流されず保身も考えない。私利私欲のない人だった」
アインシュタインは一八七九年、ドイツの実業家の家庭に生まれた。父は事業に失敗し、食費にも困る青年時代を送った。子供のころから学校の勉強には背を向けていたが、自然に対する興味は人一倍だった。
十六歳の時に一つの疑問を抱いた。「もし光の速度で光を追いかけたら、光は止まって見えるか」。止まって見えそうだが、電磁気学の方程式ではそうならない。どうして。
親せきの援助で大学を出ると、スイス・ベルンの特許局で働きながら思索を深めていった。そうしてたどりついたのが一九〇五年に発表された『特殊相対論』と、さらに一六年までに完成させた『一般相対論』だった。
相対論は、「時間」と「空間」の概念を書き換えたといわれる。彼の出発点となった疑問通り、光が止まって見えないためには、「時間」と「空間」が変わらざるを得ない。
時計の進む速さで測れる「時間」と、モノサシで測ることのできる「空間」はどこでも同じというのが、それまでの人類の常識だった。ところが、アインシュタインは、時計の進み方が変わったり、モノサシごと縮んだり曲がったりすることがあることを、理論的に突き止めたのだ。
日常生活では体験できない現象だが、猛烈な速度で飛ぶロケットの中では、時計の針の刻み方は遅れ、モノサシごと空間も縮む。さらに太陽など極めて重い物体のそばでは、強い重力の影響で空間がゆがむため光も曲がる。
そんな奇妙な予言には科学者から異論も出たが、一九一九年には、太陽の重力によって、地球に届く星の光が理論通り曲げられていることが日食の際に観測され、相対論は着実に地歩を固めていった。
ニュートン(一六四二〜一七二七)は、この地球上での物体の落下も天体の運行も同じ万有引力に支配されていることを見つけ、古典力学を打ち立てた。しかし、引力を生み出す根源までは説明できなかった。
「アインシュタインの相対論はより根源に立ち入って、時間と空間の性質から、重力によって引力が生まれる理由を説明した」と、米テキサス大学のスティーブン・ワインバーグ教授(理論物理学)は言う。
潮の干満や物の落下などわれわれが日常生活で見聞するほとんどの現象はニュートン力学で説明できるが、宇宙の起源といった気の遠くなる分野や原子の崩壊など極微の世界は、相対論によって初めて解明の手掛かりを与えられた。
科学の地平を大きく切り開いたアインシュタイン。それを突破口に、自然観を大きく書き換える物理学の成果が次々と続いた。
(科学部・井川陽次郎)
◇物質解明への挑戦◇
量子力学の父祖、ドイツのマックス・プランク(一八五八〜一九四七)には、こんな逸話が残っている。一八七四年にミュンヘン大学で研究生活に入るとき、教授からこう言われたそうだ。「物理学は完成された科学で、将来展望はない」
十九世紀末、人類は自然界の法則を解明する理論はほぼ手中におさめたと考えた。物質の運動、エネルギー、電気、磁気、熱、音……。研究者たちは「物理学の法則で新たな発見はもうない」と公言してはばからなかった。
しかし、のちに古典物理学と総称されるこれらの理論体系に、ほころびが出るまで年月はかからなかった。
一八九五年、物質を通り抜ける奇妙な光「エックス線」が発見された。しかし、エックス線がどうやって発生するのか、当時の理論では説明できなかった。
さらに、一八九六年から一九〇一年にかけて、物質が放射線を出し、勝手に他の原子に変わる現象が見つかる。それまでの物理学では、原子は物質の究極の単位とされ、それ以上は分割できないものと考えられてきた。根源のはずの原子が変わるのはなぜか。
二十世紀の物理学は、それらの謎(なぞ)解きから発展した。フランスの数学者アンリ・ポアンカレ(一八五四〜一九一二)が「科学者が自然を研究するのは、それが人間の利益になるからではない。そこに喜びを見いだすからだ」と言ったように、科学者にとって魅惑的な時代になった。
だが、その研究成果は、社会に大きな影響を及ぼしていく。アインシュタインの相対性理論は最たるものだろう。この理論からは「物質はエネルギーと同等」との結論が出る。物質が壊れてエネルギーになることもあり、エネルギーが物質を生むこともあるという。有名な「E=m(2)c」の式だ。物質の質量mに、光速cの二乗をかけた値がエネルギーEに等しくなるという内容を表す。
その予言は、最も不幸な形で実証された。一九四五年、広島と長崎に投下された原子爆弾だ。核分裂により壊れた物質のエネルギーが、すさまじい破壊力をもたらした。
一方、原子の解明への挑戦は、二〇年代に「量子力学」となって実を結ぶ。「極微の世界で、原子や電子はどう動くのか、それが多数集まってできる物質の構造はどうなっているのかを説明した」。米ニューヨーク州立大学のチェン・ニン・ヤン名誉教授(理論物理学)はそう話す。
この理論は、原子核の中の陽子や中性子に始まり、物質を作る基本粒子と考えられるクォークといった究極の世界の力を説明する方向へ発展し、物質の根源に迫る。
応用も広がった。テレビやコンピューターなども、微細な電子回路は量子力学に基づいて設計される。「量子力学の助けなしでは、電子の動きを予測したり、制御したりできない」(ヤン名誉教授)
医学や生物学の進歩も支えた。生き物は分子からできており、体の機能は分子同士の反応によって説明される。分子を作るのは原子だから量子力学が活用される。がんの放射線治療、脳の画像診断、医薬品の開発、遺伝子の解明など適用は多岐にわたる。
相対性理論と量子力学は、宇宙の歴史の解明にも欠かせない。《宇宙は一センチの一兆分の一兆分のさらに十億分の一の超高温の点から始まった。それが膨張し、電子やクォークといった基本粒子が生まれて銀河や星が形成され、一メートルの一兆倍の一兆倍の一万倍という現在の宇宙の大きさまで進化した》――こんな壮大なシナリオが描かれつつある。
東京大学の佐藤勝彦教授(理論物理学)は言う。「今世紀の科学はほとんどが相対論や量子力学の上に築かれた。宇宙創成のような、以前なら神や宗教の領域だったことが科学の言葉で語られるようにもなった。それが今世紀だ」
[不確定性原理]
量子力学によると、極微の世界では、日常の物理法則に慣れた感覚では理解しにくい現象が起きる。特に有名なのがこの原理で、量子力学から導かれる。例えば電子の位置と速度は、どんなに測定法を工夫しても、同時に決めることができない。位置を正確に決める測定をすると速度は不確定になる。逆に速度を決めようとすると位置が不確定になる。
*◆自然観の革命(2)
*◇原子の中身 次々発見◇
自然を構成する究極の物質は何か――。古代ギリシャの時代から追い求めてきたこの命題に、十九世紀の物理学は「原子こそ、それ以上分割できない最小の単位」という答えを出してはいた。だが、二十世紀初頭になっても、原子の姿を見た科学者はだれもいなかった。
その突破口を開いたのは、英マンチェスター大の教授アーネスト・ラザフォード(一八七一―一九三七)だった。一九一一年の初頭、彼の指示で実験していた助手が興奮して報告にきた。「何個かのアルファ粒子が真っすぐ跳ね返ってきました」
彼はそのころ、自ら発見した放射線の一種アルファ粒子の研究に打ち込んでおり、それを照射して通り抜けるか、跳ね返るかを観察すれば、目に見えない極微の物質も調べられるのではと気づいた。
実験ではひたすら、薄い金箔(きんぱく)にアルファ粒子を照射した。大半の粒子は金箔を素通りするが、ごく一部が固い芯(しん)に突き当たったように戻ってきたのだ。この不思議な現象をどう考えたらいいのか。
〈原子とは大半が何もない空っぽの空間で、そのなかにものすごく小さくて重い核がある〉。ラザフォードはこんな結論に行き着いた。「原子核」の発見だ。
この時の驚きを、彼は後年、故郷のニュージーランドで行った講演で「十五インチ(約三十八センチ)砲弾が、薄い紙に跳ね返されると信じられますか。それと同じぐらい信じられないことだった」と振り返ったという。すでに一八九七年には「電子」が確認されており、ラザフォードの成果を機に原子核の周りを電子が周回するという原子像ができあがっていく。
「ラザフォードによって、人類は原子の中を探る手段を初めて手にした。それが彼の真の偉大さだ」と、東大の本間三郎名誉教授(素粒子物理学)はいう。
ところで、ラザフォードに先立って「原子に核あり」と提唱した日本人がいたことも忘れるわけにはいかない。長岡半太郎(一八六五―一九五〇)だ。
ドイツ留学歴のあった東京帝大教授の長岡は、一九〇〇年にパリで開かれた初の万国物理学会に招待され、原子の構造をめぐる欧州の熱気に触れた。それに刺激されて研究し、「プラス電気の核の周囲を、土星の輪のようにマイナスの電子が回っている」という「土星型原子模型論」を一九〇三年に発表した。しかし、実験で裏付ける手段もなく、世界にインパクトを与え得ずに終わってしまった。
「早過ぎた理論」といえるが、横浜市大の都筑卓司名誉教授(理論物理)は「学問の中心地・欧州から遠く離れた極東で、あの時代に独自の物理理論が生まれたのは異例」と評価する。
原子核の発見で〈原子物理学の創始者〉の地位を固めたラザフォードは一九年、栄光のケンブリッジ大キャベンディッシュ研究所の所長に就任した。そのころ、「理論物理のドイツ」「実験物理のイギリス」と呼ばれており、同研究所はその中心だった。ラザフォードのもとには世界から若手が集まった。
その中から十二人のノーベル賞受賞者が輩出するが、極めつけはジェームズ・チャドウイック(一八九一〜一九七四)だった。三二年、彼は軽い金属であるベリリウムにアルファ粒子を当てる実験から、電気的に中性な新粒子「中性子」を見つけた。
すでに「陽子」も発見されており、これで物質の素となる粒子(素粒子)がそろった。〈物質は原子からなり、原子は原子核とその周囲を回る電子で構成されている。原子核は陽子と中性子でできている〉。今では高校の教科書にも載っている、こうした階層構造を持つ物質像が完成した。
しかし、解明されたかに見えた「物質の根源」は、それにとどまらなかった。
(地方部・川西勝)
[原子と原子核]
物質を形作る「原子」の大きさは1億分の1センチ程度。さらに原子の中心にある「原子核」は、約1兆分の1センチと気の遠くなる小ささだ。原子の大きさを野球場に例えると、原子核は球場中央に置かれたパチンコ玉ほどの大きさになり、観客席のあたりをケシ粒ほどの「電子」が高速で周回する――そんな姿が浮かんでくる。
*◆自然観の革命(3)
*◇極微の世界描く「量子」◇
米プリンストン大のジョン・ウィーラー教授(87)は、一九三九年一月にニューヨーク・ハドソン川の波止場で、恩師であるデンマークのコペンハーゲン大教授ニールス・ボーア(一八八五〜一九六二)が乗った客船を待ったときの高揚感を忘れない。
ボーアは、今世紀物理学の最大の成果の一つである「量子力学」の創始者の一人。成果のもう一つである「相対性理論」を打ち立てたアインシュタインと、量子力学が描き出す極微の世界をめぐって十数年来の「大論争」を繰り広げていた。
アインシュタインはそのころ、ユダヤ人を敵視するナチス政権の迫害を避けるため米国に移住し、プリンストン高等研究所の教授職に就いていた。ボーアの渡米はその研究所の招きによるもので、「二人が久しぶりに再会してどんな議論になるか、期待に胸を膨らませましたよ」とウィーラー教授は、当時を振り返る。
しかし、大論争の再燃はなかった。ボーアがその時にヨーロッパから持ってきた「ドイツの科学者らが核分裂を起こさせた」というニュースは、それが原爆の可能性を示唆するだけに、米科学界を騒然とさせた。論争どころではなかったのだ。
だが、現代物理学の両巨星の論争はやんだわけではなかった。問題となった「量子力学」はそもそも難解な理論だ。原子やそれより小さな極微の世界では、何事も確率的にしか分からないという。例えば電子がどう動くのか、どこにあるのかは、確率で表現するしかない。
巨視的世界を扱う古典力学では、例えば月の軌道を正確に計算し、動きが予測できる。なのに、「微視的な世界では、なぜ『確率』か」との疑問が、二〇年代に理論が確立した直後から噴き出した。
しかし、日常の物理現象を考える時には「確率」で構わない。例えば、ウランの原子が壊れて放射線を出し、別の原子に変わる現象。一個の原子がいつ壊れるかは、確率でしか言えない。だが、現実には原子一個で考えず、ウラン数グラムという単位で発想する。そこには数兆個の数十億倍もの原子があり、放射線の強さは一個が核分裂する確率を基に正確に計算できる。
人間の歩く速度は個々人で違うが、百人で行動するときには、その平均速度を目安に計画をたてようとする。つまり、それと同じことだ。
パソコンなどの半導体素子も、動作の度に電子が数十億個動く。個々の電子の動きは確率でしか分からなくても、電気の流れは計算できる。
ボーアら大勢は「計算で正しい結果が出るなら、それでいい」と考えたが、アインシュタインは納得できなかった。「決定論的に物が言える理論があるはずだ」。一連の論争の中で彼が主張した「神はサイコロを振らない」との言葉はあまりにも有名だ。
結局のところ、現在もボーアのように割り切って考える物理学者が圧倒的に多い。量子力学の利用価値が、それだけ絶大なためだ。
その昔、「相対性理論を理解できる人間は世界に十人といない」といわれたことがある。量子力学はどうなのか。
「ノーベル物理学賞を受賞した米国の物理学者リチャード・ファインマンが言っています。『どんな仕掛けで自然がそんなふうに振る舞うか、だれにも分からない』と」。日立製作所基礎研究所の外村彰主管研究長はそう話す。
「根源には、(量子力学より)もっと深い理論があるのではないか。いつか、その理論を見つけたい」と、外村主管研究長は最新の電子顕微鏡を使うなどして、そのなぞに迫ろうとしている。
同じ意思をもつ世界の研究者が意見を交わす会議が日本で三年ごとに開催されているが、画期的な成果はまだない。量子力学が描き出す自然像を人類が完全に理解するには、なお時間がかかりそうだ。(科学部・井川陽次郎)
◇
[量子] 量子力学によると、極微の世界で万物は粒子と波の両方の性質を持つ。こう考えた時の状態を「量子」という。ただ粒子は数えることができるが、波は水面の波のような現象で、日常感覚では理解が困難だ。波は確率を表し、たとえば電子の位置を観測した時に、ある位置で見つかる確率はこの波から算出できる。
*◆自然観の革命(4)
*◇ビッグバンの痕跡観測◇
米ニュージャージー州ホルムズデルの丘に、巨大なラッパのようなアンテナが建っている。宇宙の始まりの大爆発「ビッグバン」の証拠を初めてとらえたのが、ベル電話研究所(現ベル研究所)が造ったこのアンテナだった。
「私が幸運をつかんだ所です」。発見の業績で一九七八年のノーベル物理学賞を受賞したロバート・ウィルソン氏(63)は、全長二十フィート(約六メートル)のアンテナを見上げながら誇らしげに語った。
今では、ほとんどの科学者が宇宙はビッグバンで始まったと信じている。その筋書きによると、宇宙は小さな点から急速に膨張。物質を構成する基本粒子の電子やクォークが生まれ、陽子や中性子を作り、最も単純な元素である水素やヘリウムができた。やがて星や銀河が登場した。
この間、八十億〜百数十億年。人間にとっては悠久ともいえるはるかな時を経てなお残っている、誕生の痕跡とは何だったのか。
物語は、ウィルソン氏がベル研に入所し、ここで観測を始めた六三年にさかのぼる。ちょうど通信衛星の打ち上げが始まったころ。同研究所も通信衛星「エコー」を使った実験のため、アンテナを建造したばかりで、その性能と雑音の原因を調べるのが観測の主な目的だった。
ノーベル賞を共同受賞する先輩研究員のアーノ・ペンジアス氏(66)と泊まり込みで観測したが、どうしても雑音が残る。「アンテナは地上の電波を拾わない設計のはず。納得できなかった」と、ウィルソン氏は振り返る。
鳥がアンテナに巣を作っているのを見つけて取り除くなど手を尽くしたが、どうにもならない。それを解くカギは宇宙にあった。
宇宙の構造や始まりを考える試みは古くからあった。ただ、確固たる理論や観測に基づいたものではなかった。今世紀になって理論面から武器となったのは、アインシュタインの一般相対論だ。この理論からは「宇宙は膨張する」との結論が出る。
観測手段も格段に進歩した。二〇年代、巨大な望遠鏡が建設され、二九年、ついに米国のエドウィン・ハッブル(一八八九〜一九五三)が、遠くの銀河の観測から宇宙の膨張の証拠をとらえた。
となると、膨張の始めがあってもいいはず。そういう仮説が四八年、ソ連出身のジョージ・ガモフ(一九〇四〜一九六八)らによって初めて唱えられた。ビッグバン理論の原型だ。
宇宙膨張の初期は高温の塊のような状態だったという。この状態からは光が出る。宇宙が膨張するうち光の波長は伸びてしまうが、「残照」は「背景放射」として今も宇宙を漂うとした。ところが、仮説には重大な欠陥があることが分かり、いつしか忘れ去られてしまった。
「(ビッグバンは)だれも注目していなかった」。京都大学の佐藤文隆教授(宇宙論)は、当時の学界の潮流をそう語る。むしろ、宇宙では常に物質が生成されていて、それが膨張した空間を埋めているとの「定常宇宙論」の方が関心を集めていたという。
雑音の正体は偶然、判明する。ウィルソン氏らの元に、定常宇宙論に飽き足らないプリンストン大学の物理学者たちが、宇宙初期の「残照」を探すため、似たような観測を計画中との情報が伝わって来た。話し合ったところ、雑音と思われた電波は、ガモフらの理論が予測する「残照」に一致した。六五年に論文が専門誌に発表される。「背景放射」が見つかったのだ。
「最初は重大な発見をしたと思っていなかった。定常宇宙論を信じていたから。しかし、ニューヨーク・タイムズが一面で紹介したのを見て考え直した」。ウィルソン氏は苦笑する。「背景放射」の発見は、宇宙の歴史を科学の言葉で語り始める契機となった。(科学部 井川 陽次郎)
[宇宙像の変遷]
体系立った宇宙像としては、紀元前のギリシャの哲学者アリストテレスの天動説が知られる。地球を中心に太陽や惑星が回り、星も巡るとした。16世紀には、コペルニクスの観測で太陽を中心に地球が回る地動説へと一変する。ただ、今世紀初めまで、宇宙は不変の存在との見方は揺らぐことがなかった。
*◆自然観の革命(5)
*◇素粒子世界の扉開く◇
戦争のつめ跡が残る日本を一九五一年五月、粒子加速器「サイクロトロン」の発明で知られた米カリフォルニア大バークレー校教授アーネスト・ローレンス(一九〇一〜一九五八)が訪れた。
東京・駒込の理化学研究所にはサイクロトロンがあったが、終戦直後、軍事利用を恐れたGHQ(連合国軍総司令部)が解体し、東京湾に廃棄していた。破壊の跡を見て心を痛めたローレンスは残った部品での再建を促し、GHQとも掛け合って了解を取り付けてくれた。
この加速器は翌年に完成した。「日本の原子核研究が戦後の空白から脱却するきっかけになった」と、理研研究員だった故田島英三氏は『ある原子物理学者の生涯』で回顧している。
加速器は、電子、陽子などの荷電粒子を光に近い速さで物質に衝突させ、どのように散乱するかを調べる。物質の根源を探る超高性能の顕微鏡といえる。
第一号は二九年に英国で作られたが、三二年にローレンスが磁場の中で粒子を周回させる加速方法を開発。これがサイクロトロンで、加速器時代の道を切り開いた。
「加速器の出現で、物理学を主導するのは天才の頭脳から実験家の技術力へと移り、加速器が未知の世界を開く英雄になった」と、東京大の本間三郎名誉教授は語る。
後に宇宙開発などと並んで、「ビッグ・サイエンス」(巨大科学)の典型と呼ばれる加速器が絶大な力を発揮するのは第二次大戦後になってからだ。というのも、それまでの実験装置と違って、これは膨大な建設費を必要とし、米国といえども戦中には資金を投入できなかった。
戦争が終わると、ローレンスを擁する米国が加速器の大型化などによって世界をリードした。対して、ヨーロッパでは一国だけでは資金を賄いきれないため、各国が協力して五四年、スイスに欧州合同原子核研究機関(CERN)を設立した。
「科学に国境はない。だが科学者には国境がある」と言ったのは仏の微生物学者ルイ・パスツールだが、加速器こそ「国境のない科学」の象徴だった。
加速器は原子核の構造解明などに威力を発揮したが、実は難問も物理学者に突き付けた。加速粒子の衝突によって膨大な種類の素粒子が生み出され、その数はたちまち百を突破した。自然界に存在する元素(原子)の数九十二を超え、もはや「素」と呼ぶのもおこがましいような混迷をもたらした。
この難問を解く努力から生まれたのが、六四年に米国のマレー・ゲルマン(一九二九―)らが提唱した「クォーク仮説」だった。《たくさん発見された粒子は、「クォーク」という基本粒子がいくつか集まってできた複合粒子だ》。この説は論議を巻き起こしたが、六九年、米スタンフォード大での加速器実験で陽子の中にクォークが確認され、正しさが証明された。
それまで、原子核は陽子と中性子で構成されていると考えられていたが、陽子と中性子はさらにそれぞれ三個のクォークで成り立っていることがわかったのだ。
ところで、ローレンスの助力で再出発した日本の加速器開発はどのような経緯をたどったのか。本格的な研究機関として七一年に国立の高エネルギー物理学研究所が茨城県つくば市に設立され、八六年には念願の加速器「トリスタン」が稼働した。そして今、この研究所を改組した高エネルギー加速器研究機構で、最新鋭の加速器「KEKB」が動きだそうとしている。
「素粒子の世界には多くの謎(なぞ)があり、加速器を武器にした闘いは続く。日本もその一角を占めて、世界に貢献したい」と、同機構の黒川真一教授は二十一世紀を展望する。(地方部 川西 勝)
*◆自然観の革命(6)
*◇究極テーマ「統一理論」◇
あの物理学者のアルバート・アインシュタインは晩年、孤独感にさいなまれていたという。秘書の日記には、そんな悩みを物語るようなエピソードがつづられていた。
「ある晩の夕食の席で、彼がこういったのを覚えている。『私が正しい道にいることはわかっているんだが、この予感を同僚たちに伝えることができないんだ』と」
そのころ彼の目線は、自然界の多彩な法則は一つに統合できるはずだという「究極のテーマ」に向けられていた。「統一理論」と呼称され、完成すれば、その理論一つで万物を説明できるだろう。
しかし、当時は「世捨て人か引退した学者しか取り組まない」と皮肉られるほど、「非現実的」なテーマだった。「実験データもほとんどない。手がかりもない。結局うまくいかなかった」。東京大学の江口徹教授(統一理論)はそう話す。
アインシュタインはその時期、米ニュージャージー州の閑静な大学町プリンストンにいた。一九三三年、ユダヤ人排斥を逃れ、母国ドイツから移り住んだ。プリンストン高等研究所が、教授第一号という栄誉あるポストを用意してくれたのだ。ここでは研究と思索に専念でき、「知的エデンの園」とも呼ばれるほど環境には恵まれていた。「相対性理論」によるアインシュタイン人気にも変わりない。客も後を絶たなかった。
しかし、気休めにはならなかった。募る孤独感。その中で研究を支えたのは、「理論は、その前提がより単純であるほど……そしてその適用領域が広ければ広いほど、より印象深くなる」(『自伝ノート』)という信念だった。
電磁気学や力学も、ある意味で統一理論といえる。例えば、電気と磁気。十九世紀半ばまで、それぞれ別の法則で説明されていたが、磁石をリング状の電線の中で出し入れすると電線に電気が流れる現象が発見され、両者が結び付いて電磁気学となった。大げさに言えば、発電の原理を人類が知るのはその電磁気学が確立してからだ。
アインシュタインは、この電磁気力の法則を重力の法則に統一して一つの理論で語ろうとしたが、五五年に死去して夢半ばで終わった。
しかし、六〇年代に入ると、アインシュタインが探究した「究極のテーマ」が現実味を帯びてくる。自然界には、日常生活でなじみの「電磁気力」と「重力」のほか、極微の素粒子だけに働く「弱い力」と「強い力」があることが実験から確実視されるようになったためだ。陽子と中性子が一塊になって原子核を作るのも「強い力」のためだった。
この四種類の力を研究する過程から、電磁気力と弱い力をまとめて説明する「電弱統一理論」や、強い力についての「量子色力学」が七〇年代に相次いで確立した。両者は合わせて「標準理論」と呼ばれる。この三つの力を統合した理論として「大統一理論」というのも提唱され、現在では確認のための実験が進んでいる。
最後に残った難題は重力。江口教授は「他の三つの力と同じ手法で統一しようとすると、何もないはずの真空が無限大のエネルギーを持つといった訳の分からない結果が出てしまう」という。
そこで、従来とは手法を変えた理論の研究が八〇年代から本格化した。名称は「M理論」。「M」は、すべての理論の母(マザー)の頭文字ともいわれる。「超弦理論」の別名もあるが、物理学者の間でも「難解」とされ、検証も容易でない。
「自然を学ぶうちに無神論者になった」というアインシュタインは生前、「百年後には、物理学者たちは私を理解するだろう」と話していた。神に代わって万物を統一的に語る究極の理論というアインシュタインの夢を、人類は実現できるのだろうか。(科学部・井川陽次郎)
[M理論]
現在の宇宙は、空間(縦、横、奥行き)と時間の計4つの次元から成る。M理論では、実は宇宙には11次元があるが、4つの次元以外は通常見えないと考える。そして万物は、11次元の中で振動する1センチの一兆分の一兆分の十億分の一の極めて小さな弦から出来ているとする。「超弦理論」の名前もここに由来する。最近は、「弦ではなく膜」との説もある。
*◆思考の道具(1)
*◇「弾より速い」計算能力◇
米国で一九四〇年代、初期のコンピューター開発に挑んだ男たちには、奇妙な共通点があった。その多くが、今では消えてしまった職業の女性を伴りょにしていたのだ。その職業は「コンピューター」。当時の英語で「計算する仕事に携わる人」を指す。
「私もコンピューターの一人でした」。米ミシガン州に住む作家アリス・バークスさんの声は、七十歳を超えているとは思えないほど張りがあった。
四二年夏、大学を休学し、学費稼ぎのために名門ペンシルベニア大学ムーア校でこの仕事に就いた。実は四年後に同校から世界初のコンピューターとされる「ENIAC」が生まれるが、当時はもちろん想像だにしなかった。
「手動計算機を使っての単調な作業。数の差を計算して、ならして……。良く覚えてない。半年ちょっとで結婚したから」。相手は同校教官のアーサー・バークス氏で、彼は間もなくしてENIACの計算回路の設計に携わる。八十三歳になった現在はミシガン州立大学の名誉教授をしている。
四二年は第二次世界大戦のさなか。同校は、軍の委託をうけ、砲弾をどんな角度で撃ち出せば的確に目標に着弾するか、その射出表を作る計算を急ピッチで進めていた。
「二千人近くの女性コンピューターがいた」とバークス氏は振り返る。彼女たちは忙しかった。「季節ごとに風向や強さが変わるから、毎月三千種の弾の軌道を算出しなくてはならなかった。週四十時間も働いていた」
それでも表の作成は遅れがちで、軍からの催促が相次いだ。ENIACはその苦境を打開する切り札として、やはり女性コンピューターと結婚していた同校教官のジョン・モークリー(一九〇七〜八〇)が提案したものだった。
四三年春に軍の予算が付いて開発が始まった。ただ、軍上層部は、開発が成功すると本気では考えていなかったらしい。技術的な課題があまりに多過ぎたからだ。
例えば、計算を担う電気回路の主要部品の真空管。長期間、安定して作動する半導体素子が当たり前の今日からは想像しにくいが、真空管はそのころ三〜四か月の寿命とされた。ENIACの設計図によると、一万八千本近い真空管が必要で、単純計算すると十分間で一本の割合で真空管が壊れることになり、使いものにならない。
開発者の一人ジョン・エッカート(一九一九〜九五)が難題を解決していった。真空管は通常の三分の二の電圧で使い、寿命を数十倍に延ばした。また故障は、電源を入れて温まるまでの間に起きやすい。だから電源は切らないようにした。
大戦には間に合わなかったが、四六年初めに完成にこぎつけた。真空管が発する熱対策としてムーア校地下の空調付きの大部屋に設置された。形はU字形をしており、総延長二十五メートル、高さ二・五メートル、奥行き一メートル。一秒間に四百回の掛け算ができた。砲弾の軌道一つの計算時間は四秒。「弾より速い」と言われた。
同二月十六日の始動式は報道陣に公開され、「コンピューター誕生」のニュースが世界に流れた。ただ、実際はそれ以前から試験的に稼働していたようだ。「原爆開発に携わっていた数学者のフォン・ノイマンのグループが前年から核爆発の計算を試していた。始動式も実際は始動ボタンとENIACはつながっておらず、お偉いさん相手のセレモニーだった」。バークス氏が秘話を明かしてくれた。
一方、ENIAC開発を主導したモークリーとエッカートはムーア校を辞め、翌三月から商業用コンピューターの製造に乗り出した。
この機械が、やがて「思考の道具」として社会を大きく変えようとは、往時の関係者も思っていなかった。(科学部・井川陽次郎)
[計算機の歴史]
英国の発明家チャールズ・バベッジ(1792〜1871)は歯車を組み合わせた精巧なコンピューターを構想したが、とん挫した。電子式は、大戦下のドイツや英国でも開発されたが、その後につながらなかった。ENIACについても、開発者のモークリーが米国の他の研究の成果を応用したとされ、「初」かどうかに異論もある。
*◆思考の道具(2)
* ◇苦闘する「人工知能」◇
一九八七年十月二十日、世界の新聞に「暴落」の大見出しが躍った。記事は、ニューヨーク株式市場で起きた空前の株価暴落を伝えていた。
余波は世界に及び、かつての大恐慌の引き金となった二九年十月二十四日の大暴落「ブラックサーズデー(暗黒の木曜日)」を思い起こさせた。それにならい、八七年十月十九日は「ブラックマンデー」と呼ばれている。
「私の人工知能も、その数年後からうまくいかなくなった」。静岡大学の山口高平教授(人工知能)はそう嘆く。山口教授は当時、コンピューターを使った株価予測を試みていた。「人工知能」の一種といえる。
複雑な状況を分析して判断する人間の知能を、コンピューターを使って実現し、あわよくば代行させる研究が、「人工知能」だ。コンピューターを「思考の道具」として使う究極の目標ともいえる。
山口教授は、過去の株価の推移からコンピューターに最適な売り買いの銘柄を選ばせることを目指していた。その予測精度は、ブラックマンデーの数か月前には71%の正解率。国内外から「仕組みを教えて欲しい」との問い合わせが相次いだ。
しかし、九〇年からは、「実験を続けたが正解率は落ちた。八〇年代は、株価は上り調子。そのデータをもとにした予測では、それ以降の不安定な状況は読めないから」と分析する。
「株価の動きに規則性を見いだす相場観をコンピューターに持たせたい」と、山口教授は今も株価予測に挑んでいるが、コンピューターという機械で、人間の知能を実現することの難しさが改めて浮き彫りになったといえる。
人工知能研究は、五六年夏始まったとされる。米ニューハンプシャー州のダートマス大学に、この分野に関心を持つ研究者十数人が集まり、二か月間にわたって意見を交換した。「人工知能」の言葉も初めて提唱された。コンピューター史に「ダートマス会議」として残る出来事だった。
当時は、初の電子式計算機「ENIAC」の誕生から十年。米国ではコンピューター産業が盛んになり、科学技術計算の分野だけでなくオフィスへも利用が広がっていた。 会議を契機に、「人工知能は遠からず出来る」との期待が高まった。コンピューターに数学の定理を証明させたり、ごく初歩的とはいえ人間の言葉を理解させたりする例もあった。さらに、自動翻訳や、裁判の判例探索をさせる試みもあった。山口教授の研究もその延長線上にある。
誕生当時からみればコンピューターは着実に進歩し、以前なら人間しかこなせないことをやれるようにもなったが、どうしても人間の知能には及ばない。漫画や映画には、人間と変わらない知能を持つコンピューターやロボットも登場したが、あくまで空想の世界にとどまる。
『鉄腕アトムは実現できるか』の著書もある電子技術総合研究所の松原仁主任研究官(人工知能)は「『人工知能研究者は、月を目指すといいながら木に登っているだけ』と批判されたりする。中世の錬金術にもたとえられる。ただ、批判は一部当たっている」という。
根源には、人工知能で実現しようとしている知能や意識の本質を、人間自身も理解できていないことがある。コンピューターは、人間が動作手順をプログラムに書いてやらないと動かない。しかし、人間にも分からないことはプログラムに書きようがない。
「批判はあるが、人間のような知能の実現は不可能なのか。それを確かめるためにも、まず地道な研究を積み重ねるしかない」(松原研究官)。コンピューターが「思考する道具」になるかどうか、まだ決着はついていない。(科学部・井川陽次郎)
[人工知能とチェス]
IBMのスーパーコンピューター「ディープブルー」が1997年5月、人間の世界チェス王者を負かして話題になった。ただ、これで人工知能が実現したとみる専門家は少ない。人工知能研究が、複雑で規則性の見えない実社会を対象としているのに、チェスは限られたルールに従う。ディープブルーもチェス専用で、予想される手筋をしらみつぶしに計算した。ひらめきや直感がかかわる人間の知能とは別物とされる。
*◆思考の道具(3)
*◇半導体が情報化加速◇
誕生して半世紀余り、コンピューターは社会の隅々まで欠かせない道具になったが、トランジスターに代表される半導体の技術なしには、今日の隆盛はなかった。
一九四八年六月三十日、ベル電話研究所(現ベル研究所)のニューヨーク本社で開かれた記者会見には数十人の報道陣が集まった。研究所幹部が「これをトランジスターといいます」と切り出した。さらに、この耳慣れない単語を強調するため「ト・ラ・ン・ジ・ス・タです」と繰り返した。
その電子部品は、実に奇妙だった。外見は、鉛筆の端に付いている消しゴムほどの金属の筒。それが、ラジオなどの電気回路に使われている「真空管」と同等の機能を持つという。
ただ、構造は全く違う。まず小さい。冷たい固体だから、加熱の繰り返しで数か月で壊れるといわれる真空管の欠点も乗り越えられる――そんな説明だった。
しかし、記者たちは「だから何なんだ」と思ったらしい。二十世紀社会を変えることになるとは予想しなかった。翌日の新聞には、ほとんど取り上げられなかった。ソ連が西ベルリンを全面封鎖した数日後のことで、世界は騒然としていた。米有力紙ニューヨーク・タイムズも、ラジオニュース欄で「ラジオに応用できる部品を公開」と、地味に扱っただけだった。
ベル電話研で、トランジスターの原理が発明されたのはその前年の十二月。日本のトランジスター開発の草分けで、発明者のウィリアム・ショックレー(一九一〇〜八九)とも交流があった東海大学の菊池誠教授はいう。「今世紀最大の発明だった。そのすごさは、発明者ショックレーの理解さえ超えていた」
まず利用されたのはラジオで、トランジスター式のラジオは発表から十年とたたないうちに、故障の多い真空管式を駆逐した。しかし、真価を発揮したのは、何といってもコンピューター分野だった。
当時は、コンピューターの開発が始まったばかり。その本体は巨大な「真空管の塊」だった。大会議室を占拠するほどの大きさで、数万本の真空管が猛烈な熱と光を発しながら計算をする。冷房も追い付かず、技術者は半裸で作業をしたとの逸話も残る。
開発費も数十万―数百万ドルかかった。「軍や政府機関、大企業だけが手に出来る巨大技術だった。現在の巨大な天文台と同じだ。半導体技術が、そんな時代に終わりを告げ、コンピューターを一気に普及させた」。米スミソニアン博物館のポール・セルージ研究員(コンピューター史)はそう語る。
実際、真空管式しかなかった五六年までに、全米で生産されたコンピューターは千五百台。しかし、五九年に発表されたIBMのトランジスター・コンピューター「1401」は、それだけで一万二千台も出荷された。
トランジスターを生み出した半導体技術はさらに、数センチ大の基盤の上に電気回路を詰め込むIC(集積回路)技術へと発展した。ICを初めて利用した米DEC社の「PDP―8」(六五年発売)は洗濯機ほどの大きさになり、「ミニコンピューター」と呼ばれた。部品が小さくなると同時に回路の動作速度が上がり、価格も下がる。「より小さく、速く、安く」。コンピューター開発競争の幕が切って落とされた。
テレビなどあらゆる家電製品に微小なコンピューターが組み込まれるようになったのも半導体技術によるものだ。半導体産業は今や一国の経済さえ左右する。
十八世紀の蒸気機関の発明は産業革命をもたらした。十九世紀後半の製鉄・製鋼技術の拡大は、鉄道を始めとする交通機関を普及させ、今世紀に入ると、石油が大量消費社会を生み出した。そして今世紀後半、「半導体技術」が情報社会を招来した。
(科学部 川西 勝)
[半導体]銅のように電気をよく通す「導体」と、通さない「絶縁体」の中間の性質を持つ物質。鉱石のゲルマニウムや砂に含まれるシリコンが代表的。電圧をかける方向により、電気が流れたり止まったりするなどの性質を持つ。こうした特性を生かし、微弱な電気信号を増幅するのがトランジスター。「トランス・レジスター」(電気抵抗を変える)を縮めた造語だ。
*◆思考の道具(4)
*◇米追い詰めた「日本製」◇
米国に遅れることほぼ十年でコンピューター開発に参入した日本は、今や世界第二のコンピューター大国になった。だが、その歩みは平たんではなく、王者・米国との競争に神経をすり減らした道のりでもあった。
「ついに、トラの尾を踏んでしまったか」。関係者を暗然とさせる出来事が一九九六年春に起きた。その前年、米大気研究センター(NCAR)が、超高性能の「スーパーコンピューター」の更新を決めた。新機種として有力視されたのが日本のNECの製品。実現すれば、米政府機関に初めて日本製スパコンが入るはずだった。
しかし、米のスパコン企業が「不当廉売(ダンピング)」と物言いをつけたのだ。「言いがかり」とNECは反論し、NCARも「性能で(日本製を)選んだ」と主張したが、導入はとん挫した。
スパコンは、使いやすさが優先されるパソコンと違い、計算の速さを至上とする。技術の粋を集めた設計で、一秒間に数千億〜一兆回計算ができる。その速度は、初期のコンピューターの数百億倍だ。
用途も広い。自動車の設計に使えば、実際に車をぶつけずに、事故時の衝撃力を計算できる。気象や気候の予測でも強力な武器となる。NCARの導入計画も気候変化の高度な予測が目的だったが、「日本製断念」で、研究は大幅に遅れたといわれる。
それを知りつつ米国が過敏に反応したのは、暗号解読や核兵器開発といった安全保障の根幹にかかわる研究にはスパコンが必須で、「超大国の譲れぬ聖域」という事情もある。米政府は結局、ダンピングと認定し、日本製スパコンに重い関税をかけて、事実上、締め出した。
これには米国内にさえ異論があった。しかし、それは日本が世界のスパコン市場を米国と二分するほどにまで躍進したことの反映でもある。こうした原動力はどこにあったのか。富士通の山本卓真名誉会長(73)は「コンピューターの発展が、戦後復興と重なったことがプラスに働いた。新しいものを生み出そうという機運があった」と語る。
実際、トランジスター式コンピューターの開発は、米国より早かった。通産省電気試験所(現電子技術総合研究所)が五六年に完成させた「ETL―Mark3」だ。開発期間はわずか一年。費用は二百八十万円だった。「米国で発表したら、『こんな短期間のうちに。安過ぎる』と驚かれた」。当時、設計にあたった東京工科大学の高橋茂学長(78)は、そう振り返る。
ハードの開発だけでなく、利用技術でも先進的な試みがあった。コンピューターで結んだ国鉄の列車予約システム「MARS―1」は六〇年に稼働したが、オンラインシステムとしては米国に劣らぬ早い時期の実用化だった。
英語しか使えなかったコンピューターに日本語を入力するシステムや、人工知能の実現を目指した第五世代コンピューター開発計画など、独自の取り組みも少なくなかった。八二年にはついに、コンピューターの対米輸出額が輸入額を上回り、日本を経済大国へ押し上げる一因となった。
だが、高橋学長は「世界の標準となるような技術開発には、ほとんど成功しなかった」と指摘する。スパコンを例にとっても、その基本的な作動原理を考え出したのは米国だったし、「ウィンドウズ」に象徴されるように各種コンピューターの作動を根本的に支えるソフトは、米国製が世界市場を席巻している。
ともあれ、「アリとゾウの戦い」といわれながら、米国を追ってきた日本。「わが国だけが、米国の独り勝ちを許さなかった」(山本名誉会長)というところで、今世紀のコンピューターの攻防は幕を閉じようとしている。(科学部 川西勝)
[日本のコンピューター]
1956年、富士写真フイルムが複雑なレンズ設計計算用に作った真空管式の「FUJIC」が第1号。東大や電気試験所などの研究機関がこれに続いた。工業立国を目指す通産省がコンピューターを基幹産業と位置付け、50年代後半から国内メーカーの育成に力を入れたこともあって、急速に米国を追い上げた。
*◆思考の道具(5)
*◇チップで世界が一変◇
「二十年前、スキー場のリフトで女性と相席になり、仕事は何かという話になった。『マイクロチップを作っている』と説明したが、どうしても分かってくれなかった」
世界最大のマイクロチップ企業、米インテル社のアンドリュー・グローブ会長は、社創立三十周年にちなんで昨年夏に出版した写真集『ワン・デジタル・デイ』で、そんなエピソードを語っている。
マイクロチップは、シリコン結晶の薄片(チップ)だ。切手より軽く指先にも載る大きさだが、内部には大都市の街路網に匹敵する複雑な電気回路が組み込まれている。単なる記憶装置(メモリー)として使われる場合もあるが、情報処理に用いられる時は「マイクロプロセッサー」と呼ばれ、チップ一つでコンピューターの役割を果たす。
トランジスターに始まる半導体技術が生み出したこのちっぽけな部品ほど、社会を変えたものはない。写真集は、グローブ会長が現状を紹介するため企画した。百人のカメラマンを二十八か国に派遣。一九九七年七月十一日を期して、一斉にマイクロチップが活躍する風景を撮影した。
米西部の牧場では、牛の脚にチップが付けてあった。牛の健康を管理する。米東部の火事現場では、消防士がチップ入り眼鏡をつけていた。煙の向こう側の火勢を映像でとらえる。東京ではハイテク便座の開発が進む。アフリカのサバンナでは、希少動物チーターの行動解明のため皮膚の下にチップを埋め込む。
データを記憶したり、計算したり、電気信号を言葉に変換したりと、多彩な機能を持つ微小なコンピューター「マイクロプロセッサー」が、思いもつかない場所で活躍していた。その数は、今や世界で約百五十億個、一人当たり二個に当たる。
パソコンも、マイクロチップなしには誕生しえなかった。その源流は七一年十一月にさかのぼる。「新時代が到来……チップに載った微小コンピューター」。インテル社のそんな広告が米国のコンピューター専門誌に掲載された。初のマイクロプロセッサー「4004」の登場を告げていた。チップ一つが、巨大な真空管の塊のような最初期のコンピューター「ENIAC」と同等の機能を持つという。
このチップは、もともと高性能の電卓用に開発され、さらに高性能のものが続々と登場した。そこに電気工作好きの若者らが目をつけた。当時は小型コンピューターといえども洗濯機ほどの大きさで、高価だった。チップを使えばそれが自分で作れると、趣味のコンピューター作りが広がり、そうしたマニア相手に、米MITS社がパソコンの原型「Altair」を発売したのが七五年。
さらに二年後、家庭に売り込もうと、米アップル社が「パーソナル・コンピューター(パソコン)」のうたい文句で「Apple2」を発売した。ついにコンピューターが個人のものになる時代が到来したのだった。
アスキー社の西和彦取締役もそのころ、いち早くマイクロプロセッサーの可能性に気がついた一人だ。当時はまだ大学生。「コンピューターが小さなチップ一つに入るなんて、すごいと思った」。在学中の七七年にパソコン情報誌「アスキー」を創刊し、さらに幅広いパソコン事業を展開、時代の先頭に立ってきた。
ただ、初期のパソコンは使いにくかった。アップル社が八四年に発売した「マッキントッシュ」が変革をもたらした。画面の中の絵を操作すれば、簡単にプログラムを動かせる。その方式は九〇年にマイクロソフト社も本格採用し、パソコン普及を後押しした。
「コンピューターは永遠に未完成の道具」と、西さんは話す。実際、その頭脳であるマイクロプロセッサーの応用は拡大し続けている。
(科学部・井川陽次郎)
[IBM―PC] 世界最大のコンピューター企業IBMがパソコン商戦に参入したのは81年夏。看板の威光もあり、瞬く間にオフィスの標準機種となった。他社も安価で同等以上の機能を持つ「互換機」を続々と発売。ひとまとめにして「PC」と呼ばれ、米タイム誌は83年1月号で恒例の「マン・オブ・ザ・イヤー」に、人ならぬこのPCを選んだ。
*◆思考の道具(6)
*◇地球規模で情報交換◇
インターネットの創始者ロバート・テイラー氏(67)は今も怒りが収まらない。「歴史は当事者ではなく、知らずに書く人間が作るのか」
原因は、その創世の「神話」にある。「ソ連の核攻撃の脅威が、米国でインターネットを生み出した」という説が、新聞やテレビ、雑誌などで繰り返し紹介されてきた。
テイラー氏は「ばかげた話だ」と言い切る。米週刊誌がこの神話を紹介した一九九四年には、編集部に抗議の手紙を書き送った。「当初から、情報の交換を民主化するための道具だった」と。
現在のインターネットは、彼の思想を体現する。今や世界で数億人が利用し、自由に意見を発信できる。電子メールを使えば、地球の裏側とも手軽に意見を交換できる。
「神話」は、どこから生まれたのか。一つに、インターネットの原形を作ったのが国防総省の先端研究計画局(ARPA)だったことがある。同局の情報処理技術室(IPTO)が音頭をとり六六年、四大学のコンピューターセンターを結ぶ小規模な実験から始まった。「ARPAネット」と呼ばれた。
テイラー氏は当時、IPTO室長に就任したばかり。実験を立ち上げた担当者だった。違う機種のコンピューター同士で情報の交換を可能にして、有効活用する狙いがあった。同じメーカーのコンピューター同士を接続することはすでに可能だったが、メーカーが違えば難しかった。
軍事には直接関係しない。しかし、そんな研究が許された背景にはARPAの特異な性格もあった。設立は五八年。ソ連が前年、世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、米国民に衝撃を与えた。それを受けて出来たARPAには、国全体の技術水準を上げる使命も課せられた。「軍事でも何でも、コンピューターが人間にとって使いやすいことが前提との大義名分があった」。米国のコンピューター史を研究する京都大学大学院生の石川千草さんもそう話す。
石川さんはさらに、聞き取り調査などから「(神話は)別の研究と混同されたせいではないか」と言う。米空軍は六〇年代初め、核攻撃下で軍の通信網が生き残る方策を一つの企業に検討させた。立ち消えになったが、インターネットは、そこで提案されたのと同じ技術を使う。それが混同の原因という訳だ。
この技術は、データが流れる経路を制御する。経路は常に複数あり、どれかが切れても、う回して通信できる仕組みだ。核攻撃にも強い。九五年の阪神・淡路大震災の際にも、電話回線は分断されたが、インターネットは被災地との情報のやり取りに活躍した。
テイラー氏は六九年に国防総省を去り、民間で新たな技術開発に取り組む。ARPAネットも八〇年代初め、ARPAを離れてインターネットとして急拡大を続けた。
引退後、米カリフォルニア州パロアルト郊外で悠々自適の生活を送るテイラー氏は言う。「中国の難病の子供が、インターネット経由で米国から伝えられた治療法で助かった例がある。いい話だ。しかし、技術は悪にも使える。悪のせいでインターネットが非難されず、役に立ったと祝える日が来ればいいのだが」
英国の作家H・G・ウエルズは三〇年代、世界の知識データをネットワークで結んだ「世界頭脳」構想を唱えた。米国のコンピューター研究者J・C・R・リックライダーは六〇年、著名な論文『コンピューターと人間の共生』で、コンピューターは人間の知能を増幅する道具とし、それを結んだ「未来の図書館」計画を提唱した。
そんな理想を実現する技術は出そろった。情報ネットワークは、どのような文明をもたらすのか。人類がかつて経験したことのない実験が、すでに始まっている。
(科学部 井川 陽次郎、写真も)
*◆感染症との闘い(1)
*◇天然痘撲滅に成功◇
「あんなことが本当にできるとは思わなかった」。国際保健医療交流センターの蟻田功理事長(72)はそう振り返る。一九八〇年五月八日、ジュネーブの国連ホール。世界保健機関(WHO)は総会で高らかに「天然痘の根絶」を宣言した。人類の英知が、数限りない命を奪ってきた感染症の一つを葬り去ったのだ。
加盟国が「わが国に天然痘はない」と壇上でサインしていく光景を、蟻田氏はWHO天然痘根絶本部長として最前列で感慨深く見守った。
人類は有史以前から天然痘と闘ってきた。紀元前のエジプト王ミイラの発疹(はっしん)跡、中国・周朝の文献の記述。日本でも奈良時代の『続日本紀』が「無数の死者」と記し、平安時代には藤原道綱母が『蜻蛉(かげろう)日記』で「皰瘡(ほうそう)(天然痘)おこりて、…助(道綱)、重くわづらふ」と書いた。
中世の欧州で猖獗(しょうけつ)を極めたペストと並び、人々を何度も恐怖の底に陥れた疫病だ。
人類が反撃に転じたのは十八世紀、英医師のエドワード・ジェンナー(一七四九―一八二三)が「牛痘にかかれば天然痘にならない」という伝承をヒントに種痘ワクチンを始めてからだった。天然痘は人間から人間にしか感染しない。ワクチン接種が進み、発症者がいなくなればウイルスも消える。ジェンナーは「いつか種痘が天然痘を撲滅する」と予言した。
それからほぼ二百年。WHOは六七年に根絶に着手し、約四十の天然痘常在国で、患者の周囲にワクチンを集中投入する「封じ込め作戦」を展開した。しかし、意外な壁があった。インド・パキスタンやソマリアの戦火。逃げ惑う感染者がウイルスをばらまき、流行は瞬時に広がった。
それでも七三年に南米、七四年にはインドネシア、七六年にも西アフリカ十五か国へと根絶地域は着実に増えていった。そして七八年夏、英国の研究所で漏れたウイルスに女性写真家が感染したのを最後に、患者は途絶えた。
「最終的には共通の敵の克服にかける人類の意思が勝った。米ソ二大国の指導力もあった」と、蟻田氏は言う。
ウイルスはいま、実験用資料として米国とロシアの二か所だけにある。
その一つが、小説『風と共に去りぬ』の舞台、アトランタの緑映える住宅地に近代ビル十数棟を構える米国疾病対策センター(CDC)。結核やペストからエイズまで、人類が闘ってきた病原体のほぼすべてが眠る要塞(ようさい)だ。
この四月に実験棟を訪ねると、ウイルス・リケッチア部門長のブライアン・マーヒー博士(62)は「我々はこのウイルスのすべてを解析し終えた」と言って、勝利の証(あかし)である遺伝子配列ファイルを示した。
ただ、博士にとって気がかりがあった。その日の新聞に「クリントン、天然痘ウイルスの保持を発表へ」という見出しがあったことだ。ウイルス廃棄を協議するWHOの会議を間近に控えていた。生物兵器の出現に備え、研究用のウイルスを処分するわけにはいかないというのだった。
「この危険なウイルスにとどめをさすのにしゅん巡する余地はないはずだ」と博士は語った。WHOは五月二十一日に「処分は二〇〇二年まで延期」と決めたが、世界の公衆衛生の潮流は「天然痘は完全に過去のものとしたい」にあるという。
「二十年前、感染症研究は時代遅れとされ、大学や病院でも関連部門をなくす例が相次いだ」と、ドイツのロベルト・コッホ研究所のラインハルト・クルト所長は話す。
確かに人類は、細菌には抗生物質、ウイルスにはワクチンという武器を手にし、感染症を克服しつつあるかに見える。天然痘との闘いが、その思いをさらに強くさせた。
だが、それは「勝利のほんの一つ」に過ぎなかった。病原体は思いがけない形で人類に襲いかかっていた。
(大阪社会部 西嶌 一泰)
[米国疾病対策センター(CDC)]
1946年、マラリアを中心とした感染症を制圧するために設立された国立機関。地元の人たちは同じアトランタから世界に名を響かせてきたコカ・コーラ、テレビ・ニュースのCNNとともに「3C」と呼ぶ。70年代以降、がんや心臓病のほか、公害や災害、麻薬などの課題にも幅広く対応している。
*◆感染症との闘い(2)
*◇新ウイルス次々襲来◇
パニックはまず、ヨーロッパの瀟洒(しょうしゃ)な街で起きた。
《一九六七年八月、西ドイツ・マールブルク》小高い丘が城を頂き、レンガ造りの建物が並ぶ都市に救急車が走る。原因不明の疾患が発生し、街は騒然とした。
「私は北海沿岸でバカンス中だった。飛んで帰ったよ」。マールブルク大学ウイルス研究所のベルナー・スレンスカ教授(64)は今も興奮気味だ。患者は頭痛や下痢、目まいを訴え、やがて皮膚と口に発疹(はっしん)、脳炎や肝臓障害を起こした。何人かは一、二週間後に内臓出血で死亡した。
「マラリアか黄熱病。だが、だれも熱帯へ行ってない」
そのうち、患者がワクチン製造の「ベーリング社(現カイロン・ベーリング社)」で、ウガンダから輸入したミドリザルの腎(じん)細胞を使ったポリオウイルス培養にかかわっていたと判明した。同じサルを使う他の研究所でも患者が出ていた。患者は三十一人、うち七人が死亡した。
教授らは同年十一月、患者の血液から感染させたモルモットを使い、ヘビのような形のウイルスを見つけた。後に「マールブルグ・ウイルス」と呼ぶ新病原体の出現だった。教授は「感染源はいまも不明。熱帯雨林が起源だとは思うが」と話す。
東京大学の山内一也名誉教授(68)は当時、国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)に勤務していて、世界保健機関(WHO)からのテレックスでこのウイルスの出現を知った。
「未知のウイルスをサルが持ち込むとは思わなかった。私たちもミドリザルを使っていたので、ゾッとした」
新ウイルスの襲来は続く。
《六九年、ナイジェリア・ラッサ》看護婦三人が原因不明の熱病で重体になり、うち二人が死亡。米ニューヨークでは、そのウイルスを検査した研究者も発症した。新たな感染症「ラッサ熱」だ。
ウイルスは翌年、同じナイジェリアのジョスに現れた。二十七人が感染し、十三人が亡くなった。やがて国境を越え、アフリカ西海岸のシエラレオネへ。そこで、感染した米人女性が知らずに帰国、ワシントンで発症して大騒ぎにもなった。空港などで接触した五百人が、世界各地で伝染病棟に収容された。
人類は凶悪ウイルスが全世界に瞬時に飛散する恐怖を思い知った。
《七六年、スーダン・ヌザラ》三百人が新たな熱病にかかり、百五十人あまりが死んだ。エボラ出血熱の登場だ。解明が遅れる中、周辺国で二百八十人が死ぬ。そして十三年後、大都市に迫った。
《八九年十一月、米バージニア州レストンの動物検疫所》フィリピンからのカニクイザルがエボラに感染していたのだ。ワシントンまで二十キロに迫った猛毒ウイルスに、陸軍医学伝染病研究所(USAMRIID)の隊員が出動した。極秘に検疫所を封鎖し、プラスチック・スーツの重装備で建物に突入、五百匹のサルを安楽死させた。
「そりゃあ緊張したさ。サルにかまれたりしたら、感染しかねない。命懸けだった」と、軍医大佐として作戦を指揮した米疾病対策センターのC・J・ピータース特殊病原部長(59)は力を込める。
「ウイルスが漏れたら、首都は大パニックだ。情報漏れだけでも大騒動になる」
エボラは九五年にもアフリカ中部に出現し、三百人の感染者の80%近い二百三十人を殺し、世界を震かんさせた。
九九年にも、新たに発見されたニパ・ウイルスがマレーシアで百人、マールブルグ・ウイルスもコンゴ(旧ザイール)で六十人を死なせた。
新たな病原体「エマージング(新興)ウイルス」は、文明社会をあざ笑うように次々と名乗り出る。多くは熱帯が起源。「人類は開発を進める過程で、森林の奥に住む野生動物の体内でひっそりしていたウイルスを現代社会に招き入れた」と、山内名誉教授は語る。(大阪社会部 西嶌 一泰)
[エマージング・ウイルス]
日ごろは姿を見せず、突然、人を襲うウイルス。しばらく流行すると、こつ然と姿を消してしまい、次に出現するまで、どこに潜んでいるか、わからないのが特徴。こうした病原体など、ここ約30年に登場した新興感染症は30種類以上にのぼるとされ、多くはまだ治療法やワクチンの開発が進んでいない。
*◆感染症との闘い(3)
*◇エイズ、繁栄の虚突く◇
開放感を求め世界の人々が集う大都会、米ロサンゼルス。奇妙なことだと、医師が気づいたのは一九八一年春だ。通常なら人体に入っても免疫系が抑え込む原虫ニューモシティス・カリニに感染し、肺炎になる若者が急増したのだ。ニューヨークでも類似の感染症が相次いでいた。
「人の免疫系を狂わす何かが起きている」と調査を始めた米国疾病対策センター(CDC)は八二年秋、一連の感染症を「後天性免疫不全症候群」(エイズ)と名付けた。
初めは同性愛者だけがかかると思われた疫病。だが、そのころには手が付けられない広がりを示していた。
「エイズは現代のペスト。欧州で一日二千人を殺す」「多くの人が体内に時限爆弾を抱えている」。刺激的な新聞を壁一面に張った部屋が、ヨーロッパの歴史都市ドレスデンのドイツ衛生博物館にある。九三年に開設された「エイズ室」。館長代理のギゼラ・シュトウペ女史は「市民に正しい知識を身につけてもらおうと、目を引くものを並べた」と話す。
同館は一九一一年の開館時、顕微鏡で細菌をのぞく設備を作った。すると、初めて結核菌を見た市民が、極度に患者を遠ざけ始めたという。「患者を家から追い出すケースもあった。半端な情報は不安をあおり、患者差別を助長する」。同じようなことが、エイズについても言えた。
「エイズは医学だけでなく、人間的、社会的な問題なんだ」と、世界エイズ予防研究財団理事長リュック・モンタニエ博士(67)は、パリ市街地のパスツール研究所で語った。さらに麻薬常習者の注射の回し打ちが感染を広げ、売血を原料にした血液製剤が血友病患者の被害を生んだことについて、「性のあり方を含め、人間社会の要因が流行を拡大させた」と表情を曇らせる。
博士がエイズ研究を手がけたのは、同研究所のウイルス腫瘍(しゅよう)学部門長だった八二年秋。米国から購入した血漿(けっしょう)を調べ始めたのがきっかけだった。「感染症はそれまで楽観的に考えられていた。私も関心が薄く、がんが専門だった」
八三年二月、電子顕微鏡で患者のリンパ節を見ていて、真ん中に黒い核を持つ洋ナシ状の粒子に気付いた。他の患者からはこの粒子に対する抗体も発見し、粒子が後に「HIV」と呼ばれるエイズ・ウイルスだと確認した。
だが、翌年四月、米国立がん研究所のロバート・ギャロ博士(62)が「発見者」として名乗りをあげ、十年越しの「米仏戦争」が始まった。
パスツール研究所はモンタニエ博士の研究を基にして、米特許庁に検査試薬の特許を求めたが、半年後に申請した米国立がん研究所が先に特許を取得したため、米政府を相手に提訴したのだ。医学論争は国家レベルの争いに発展し、八七年にはシラク仏首相とレーガン米大統領が直談判に及んだ。
両首脳は、双方の功績を認め、特許料を均等に分けることで合意したが、八九年に米国の新聞が「ギャロ博士が発見したというウイルスにはモンタニエ博士が送った試料が混入していた」と指摘して、紛争は再燃。結局、米政府が九四年七月に「第一発見者は仏側」と認め、決着した。
モンタニエ博士は今は米ニューヨーク大学でも研究しており、「ギャロ博士が間違いを認めたことで、火種は消えた。もう蒸し返すべきでない」と、社会や政治と直面した日々について、多くを語らない。
世界保健機関や国連エイズ合同計画によると、HIV感染者は現在、世界で三千数百万人。九八年には二百三十万人がそれがもとで死亡し、死因の四位に浮上した。
だが、奔放な繁栄の虚を突かれた人類は、それに対処する決定的な武器をいまも手にしていない。
(大阪社会部・西嶌一泰)
[エイズ・ウイルス(HIV)]
病原体に対する防御のために重要な免疫細胞に入り込み、増殖して免疫系を破壊し、人間の抵抗力を奪う。このため、感染すると、通常なら病気の原因にならない微生物がカリニ肺炎のような重病を起こす。感染者の血液と精液に多く含まれているが、加熱に弱く、感染力はさほど強くないため、正しい知識で予防に注意すれば拡大は抑制できる。
*◆感染症との闘い(4)
*◇「細菌の狩人」たちが活躍◇
街を東西に分断した壁の崩壊から十年。建設ラッシュのベルリン中心部に古いレンガ造りのビルがある。フンボルト大学の生物学・衛生学研究所だ。普仏戦争(一八七〇〜七一)時のフランスからの賠償金で建てられたという。
その一階に、「ロベルト・コッホ(一八四三〜一九一〇)は一八八二年三月二十四日、ここで結核菌の発見を発表」というプレートを掲げた会議室があった。「医学界では当時、感染症は環境のせいだとする説と、人から人へうつるという説が対立していた。コッホはそれに決着をつけた。ここでの講演が、中世的な思想から現代的な思想へと医学を転換させたんだ」と、ウルフ・ゲーベル所長(50)は解説する。
家畜を襲う炭疽(たんそ)病の病原菌を見つけたコッホは、次に結核菌に注目した。患者の死体から病巣を採取し、その中の菌を培養。それをモルモットに注射すると、結核にかかって死んだ。結核は伝染するのだと科学的に実証し、感染症の実像に初めて迫った。
やがて、堰(せき)を切ったように「細菌の狩人」となった研究者たちがコレラやペスト、ジフテリア、破傷風など病原菌の正体を暴いていった。
ゲーベル所長は「コッホは一つの細菌が一つの病気を起こすという原則を示し、細菌培養などの科学的方法を確立した」と話す。日本人でも、北里柴三郎が破傷風菌の純粋培養に成功し、志賀潔が赤痢菌を発見した。
梅毒スピロヘータの純粋培養でノーベル賞候補と目された野口英世は、米ロックフェラー医学研究所の研究員だった一九一八年、エクアドルで黄熱病菌を突き止めたと発表し、ワクチンを開発した。
しかし、その十年後、病原体はウイルスだとする説が強まったため、野口はガーナのアクラで研究を再開。二八年五月、そのウイルスに感染して死んだ。「私にはわからない」が最期の言葉だった。
細菌の大きさはだいたい〇・五〜二ミクロン(一ミクロンは百万分の一メートル)あるが、ウイルスはほぼ百ナノ・メートル(一ナノは十億分の一)。ドイツの物理学者エルンスト・ルスカらが三五年に電子顕微鏡を開発するまで、人類はその姿を目にできなかった。黄熱病だけで、解明に挑んだ六人の「ウイルス・ハンター」が犠牲になった。
「病原体発見に疾走した時代。ノーベル賞も、それをあおった。そのおかげで感染症対策が進んだのも確か」と、京都市にあるルイ・パストゥール医学研究センターの岸田綱太郎理事長(78)は話す。さらに、「普仏戦争があったりして、独仏両国の威信をかけた張り合いが研究を促進した面もある」と指摘する。
ドイツのコッホは一八八三年、コレラ流行地のエジプトへ向かう。微生物原因説を唱えていたフランスのルイ・パスツール(一八二二〜九五)も弟子二人を派遣し、菌を求めて「独仏戦争」を展開した。だが、そこでは決着がつかず、コッホはインドに渡ってコレラ菌を見つけ、ドイツ皇帝から勲章を受けた。
「戦争」は続き、二年後に今度はパスツールが狂犬病ワクチンを開発した。コッホは結核治療の一環としてのツベルクリンの研究に没頭する。
弟子たちも競った。パスツール門下のエリー・メチニコフらが「体内には細菌などの異物を殺す専門の細胞がある」と「食細胞説」を唱えれば、コッホの助手のパウル・エールリヒらは「異物に応じて、それを撃退するための抗体が血液中などにできる」という「体液説」で対立した。岸田氏は「今日から見ればどちらも正しいのだから、意味のない論争だったが、それが免疫学の基礎を築いたのは間違いない」という。
そして一九〇八年、メチニコフとエールリヒはともにノーベル賞を受けたのだった。(大阪社会部 西嶌一泰)
◇
[細菌とウイルス]
細菌が自ら分裂して増えるのに対し、ウイルスは生きた細胞の中でしか増殖できない。このため、ウイルスは生物か無生物かという議論もある。病原微生物としては、ほかにも原生動物に属する原虫、カビやキノコの仲間の真菌、発疹(しん)チフスなどの原因となるリケッチア、原虫か細菌かで意見がわかれるスピロヘータなどがある。
*◆感染症との闘い(5)
*◇“奇跡の薬”ワクチン登場◇
ドイツ軍のパリ侵攻直後の一九四〇年六月二十四日。市内のパスツール研究所で、警備員がガス自殺した。ジョゼフ・マイステル。六十四歳。実はその五十五年前、少年だった彼のおかげで、人類は感染症への本格的な反撃を開始した。
少年は、ドイツ国境近くのアルザスで狂犬にかまれた。ほうっておくと数週間後には狂犬病で死んでしまう。母親とパリの学者ルイ・パスツールを訪ねた。パスツールは、狂犬病の犬の骨髄を使って病原体の毒性を弱めたワクチンを開発していた。少年に十二日間で十四回接種すると、発症の心配もなくなった。
同研究所の狂犬病部のイヨランド・ロチベル副部長(45)は「パスツールも自信はなかったの。でも、危険なかけではなかった。彼はすでに免疫を知っていた」と話す。
種痘ワクチンは、狂犬病治療のほぼ百年前に始まった。だが、なぜ種痘が天然痘を防ぐのか不明で、他へ応用できなかった。
パスツールはニワトリコレラの研究中に免疫の仕組みに気づいた。たまたま長く放置していた培養菌をニワトリに注射した。すると、症状が出ないどころか、新たな培養菌を投与しても発症しなかったのだ。それが後に血清療法やワクチン研究につながる。
「ワクチンが平均寿命を百歳にする」。これは独マールブルク市にある「カイロン・ベーリング社」の門前に掲げられた標語だ。北里柴三郎と共に血清療法を実現し、第一回ノーベル賞を受けたエミール・ベーリング(一八五四〜一九一七)が一九〇四年に設立した。これまでに三十六種のワクチンを開発し、世界を引っ張ってきた。だが、すべてのワクチンが一挙にできたわけではない。
十九世紀から頻繁に出現したポリオ(小児まひ)は一九一六年、米国で二万七千人を襲い、六千人を死なせた。二千人が亡くなったニューヨークでは劇場や公園、学校が閉鎖され、当局は感染者を強制収容し、患者を隠す家族を逮捕した。各地の駅や道路では「健康証明書」なしで町へ入ろうとする人を追い返した。
米国疾病対策センター(CDC)の腸ウイルス担当主任マーク・パランシュ博士(45)は「政府の無策が不安をかき立て、病気への無知が恐怖をあおった」と話す。そして、国ぐるみの研究が始まった。
ハーバード大学准教授のジョン・エンダーズが四九年、ウイルスを細胞組織で増殖させる方法を確立、ピッツバーグ大学教授のジョナス・ソークは、その方法で増殖したポリオウイルスを不活化させたワクチンを開発した。さらにシンシナティ大学教授のアルバート・セービンによる飲み薬のワクチンも登場。全米で毎年四万人いた患者は、六〇年代半ばには千人を切った。
世界保健機関(WHO)は今世紀中にポリオを撲滅する計画だが、ハードルも多い。「政治の影響を受けないようにする努力が必要だ。旧ソ連の崩壊直後には、中央アジアでワクチン供給が滞った。今はユーゴスラビアが心配だ」とパランシュ博士は続けた。
政治にほんろうされたのは、パスツールに救われたマイステルも同じだった。研究所の警備員を三十年近く務めた彼の自殺は「パスツールの墓を暴こうとした独軍に抵抗したもの」と伝えられていた。
だが、研究所のアニック・ペロー学芸員(53)は、パスツールの墓所で「それは作り過ぎよ」と苦笑した。資料や証言では、彼はアルザスが占領された体験から、独軍を恐れて極度に神経質になっていた。「独軍はパスツールへの畏敬(いけい)を込めて、墓を見たいと言ったらしい。世界のウイルス学者や細菌学者と同様にね」
ウイルスは、人類に深刻な影を落としてきたが、そのウイルスさえ政治の影から逃れられない。
(大阪社会部・西嶌一泰)
[血清療法]
ベーリングらは、破傷風菌やジフテリア菌を培養して採取した毒素の少量を動物に注射すると、その動物の血清中に毒素を中和する抗毒素ができることを発見。ジフテリアでひん死の少女に抗毒素血清を注射すると、見事に回復したという。だが、毒素を発する細菌が限られているほか、ワクチンや抗生物質の開発もあり、血清療法は蛇にかまれた場合に使われるのが主となった。
*◆感染症との闘い(6)
*◇“命救う弾丸”戦場で威力◇
人間の細胞を傷つけず、病原体だけを殺す薬はないか――その「魔法の弾丸」開発を手がけたのは、ドイツのパウル・エールリヒだった。
一九〇二年、助手の志賀潔らと「特定の細胞だけに色を付ける染料のように、特定の細菌と結合する物質があるはず」と探し始め、八年後、志賀の後を継いだ秦佐八郎の助けで、梅毒スピロヘータに効くヒ素化合物「サルバルサン六〇六」を見つけた。
コロンブス一行が十五世紀に新大陸から持ち帰って以来、人々を苦しめた疫病の克服。その興奮を、エールリヒは「秦の聡明(そうめい)さ熱心さなしに、スピロヘータの解決はなかった」と、北里柴三郎にあてた手紙で伝えた。
だが、血清療法やワクチンを含めても、治療や予防可能な感染症はごく一部だった。
やがて、第一次世界大戦(一九一四〜一八)。砲弾飛び交う戦場で、致命傷を負ったわけでもない兵士が死んでいく。小さな傷口から入り込む細菌が全身を侵す敗血症、衰えた体を襲う激しいコレラ……。見えない病原体には応戦するすべもなかった。
医学界は病原体を狙い撃ちする薬品を競って研究した。
駿河湾を望む静岡県沼津市の農家。川口隆治さん(65)は「新薬がなかったら、私はいない」と話す。十歳だった四五年夏、足のけがから敗血症になり、高熱を出した。「もうだめだ」と話す大人の声。だが、おじが持参した新薬で熱が引いた。「魔法のように効いた」という。
「妻の疎開先から戻る沼津駅で、男が襟章を見て『軍医さん』と話しかけてきた。おいが死ぬ、軍の新薬なら治ると聞いたと。私が担当者で、手持ちがあった」。開業医の稲垣克彦さん(87)は、東京都大田区の自宅で振り返る。
新薬はペニシリンだった。二八年に発見された抗生物質。英国の細菌学者アレキサンダー・フレミングが、ブドウ球菌の培養皿で、青カビが菌を押しのけて生えるのを見て、「菌を殺す物質がある」と培養液から抽出した。
第二次大戦下の四三年、英オックスフォード大教授のハワード・フローリーとアーネスト・チェインが量産に成功し、野戦病院で多くの傷病兵を救った。
稲垣さんは陸軍軍医学校教官だった同年末、ドイツ医学誌でペニシリンを知り、陸軍省に研究を提案した。「英首相をペニシリンが救った」との情報もあり、翌四四年一月に着手命令と十五万円の研究費とを受けた。
全国の研究者が自宅の台所など、あらゆる場所のカビを調べた。難航したが、妻の着物をやみ市で換金し、実験動物を求めるなど学者らの熱意が実り、同年秋に完成し、量産も始まった。「私は川口さんのほか、東京空襲の時にも使った。死ぬ人を助けたい一念だった」と稲垣さんは言う。だが、大半は軍需用に回った。
「魔法の弾丸」を、化学合成で作る技術も生まれた。
三三年冬。独製薬会社「バイエル社」研究所長ゲルハルト・ドマークは、敗血症で「腕の切断しかない」自分の娘に、ブドウ球菌や連鎖球菌の感染を止める薬として研究中の染料「プロントジル」を試す。娘に奇跡が起きた。
サルファ剤の誕生である。ドマークは衛生兵として第一次大戦に行き、惨状に目を覆った。キール大学医学部に戻り、細菌学を専攻し、サルファ剤で志を貫徹した。
「私も第二次大戦で軍医だった。サルファ剤は、軽い肺炎や下痢は即座に治せた」と、ベルリン自由大薬理学研究所で、ハンス・ヘルケン前所長(86)は振り返る。
戦後は栄養失調に結核菌がつけ込む。科学者はストレプトマイシンやクロロテトラサイクリンなどの新たな抗生物質で対応し、人類は感染症の対策を着実にそろえたかに見えた。だが、細菌たちの大反撃も始まっていた。(大阪社会部 西嶌一泰)
[魔法の弾丸]
病原体を狙い撃ちする抗菌剤。微生物などが作る抗生物質と、色素などから人工的に合成する化学療法剤があり、現在は化学合成できる抗生物質も多い。「魔法の弾丸」(magic bullet)の呼び名は1930年代、サルファ剤開発のころから広く世界で使われ始めた。第二次大戦では多くの傷病兵らの命を助け、実際の弾丸より強力な武器だとも言われた。
*◆感染症との闘い(7)
*◇薬効かない…細菌の逆襲◇
「一位 肺炎」「二位 胃腸炎」「三位 結核」――一九二〇年の日本人の死亡原因だ。細菌やウイルスによる感染症は、死に直結した。それが、戦後の混乱期も過ぎた五五年には脳卒中、がん、老衰の順に変わった。
抗生物質の開発と上下水道など環境の改善が感染症を封じ、がんなど他の病気をクローズアップさせた。
だが、順天堂大学の平松啓一教授(49)は「薬が効かない時代はすぐに来る。化学療法や抗生物質の第一幕は終わりつつある」と警鐘を鳴らす。
細菌が突然、変異し、抗生物質に強い薬剤耐性菌となって逆襲を始めたのだ。
初の抗生物質ペニシリンにも、米国が量産を始めた四三年に耐性菌が現れた。赤痢菌も、複数の抗生物質に抵抗力を持つ多剤耐性菌が五二年に出た。院内感染が世界に拡大して騒がれたメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)の第一号は、決定的な化のう止め薬としてメチシリンが出た翌六七年に報告された。
さらに、MRSAへの「切り札」として登場したバンコマイシンをはね返すMRSAが、すでに出始めている。
平松教授がそれに気づいたのは九六年で、生後四か月の男児の感染だった。男児は開胸手術後、傷口が化のうし、バンコマイシンを投与したが効かない。他の抗生物質を併用して危機を脱したが、六か月後に再発した。調べると、通常なら一ミリ・リットル中一―二マイクロ・グラムの濃度のバンコマイシンで阻止できるのに、八マイクロ・グラムもの濃度が必要とわかった。
MRSAは病原性が強く、高齢者や入院患者が感染すると、肺炎や敗血症を起こし死亡することも多い。
教授は「バンコマイシンが効きにくいMRSAは根絶し難く、感染したら危険だ」と不安がる。耐性菌は、細菌が抗生物質と闘う過程で生まれる。抗生物質を乱用するほど勢いを増すのだ。
耐性菌だけではない。O(オー)157、溶血性連鎖球菌(人食いバクテリア)、プリオン(狂牛病)、エボラ出血熱、ラッサ熱……。新たな病原体が続々と控える。
ドイツの製薬会社「バイエル」の抗感染症剤チームのリーダー、シュテファン・ボールファイル博士(42)は「うちの実験室では、二日で新たな耐性菌ができる。細菌はそれほど環境適応力が強い。だから、抗生物質は軽い風邪などに使うべきではない」と戒める。
今は多剤耐性菌に対抗する薬剤の開発が最重要テーマ。「いずれ市場の薬がすべて効かない細菌も出てくるだろう。当面は高濃度の抗生物質を複数、組み合わせることで、何とかできる」という。
抗菌グッズが流行する現代社会は、細菌やウイルスの活動の場を奪ったかに見える。だが、病原体は反撃の機会をうかがう。
日本では九七年、新たな結核患者が四万二千七百十五人にのぼり、三十八年ぶりに前年を上回った。一方、結核予防のBCGの接種率は減少している。免疫力の落ちた高齢者の体内で、かつての菌が再び暴れ出し、免疫のない若者にうつす構図にあるという。
京都大学の畑中正一名誉教授は「結核は終わったと思っていた。他の細菌も抗生物質があると安心していた。耐性菌を早く予期して手を打つべきだった。だが、一つ克服すると、次がくる。人類と感染症との闘いは、終わりのないゲームだ」と言う。
エイズウイルス発見のモンタニエ博士(67)も「エイズの治療法もいずれ見つかる。だが、それで克服したと考えるのが心配だ。ウイルスは抵抗力をつけ、変形する」とくぎを刺す。
さらに、博士は「今世紀最大の感染症はエイズではない。一九一八―一九年に世界で二千五百万人以上が死んだスペイン風邪だ」と指摘する。人類は今なお、毎年、姿を現すインフルエンザさえ克服できないでいる。(大阪社会部 西嶌 一泰)
[細菌の突然変異]
微生物は高等生物より構造が単純なため、様々な原因で遺伝情報にミスが起きやすい。そのうち、抗生物質を分解する酵素を作ったりして、薬に対する抵抗力を持ったものが耐性菌となる。一部の異なる種の微生物間で遺伝情報が伝達されたり、ウイルスが細菌に付着して新たな遺伝子を持ち込んだりすることもある。
*◆宇宙に飛び出す(1)
*◇確信なかった「偉大な一歩」◇
米東部時間一九六九年七月二十日午後十時五十六分二十秒(日本時間二十一日午前十一時五十六分二十秒)。米宇宙船アポロ11号のニール・アームストロング船長(当時38歳)が、月着陸船イーグルから月面に降り立った。
「人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。三十八万キロのかなたから届いた第一声は、歴史的瞬間を見届けようとテレビにくぎ付けになっていた米国民、そして世界の人々を熱狂させた。
六一年五月、ケネディ大統領が「六〇年代中に月着陸を果たす」と宣言してからわずか八年。アポロ計画は、米国が威信をかけて実現させた国家プロジェクトだった。
計画最盛期の六六年、米航空宇宙局(NASA)の予算は連邦政府総予算の4・4%に達した。参画した関係者はNASAで三万三千人、民間企業で三十九万人に及んだ。
「アポロ計画に匹敵する科学技術プロジェクトは、原爆開発のマンハッタン計画しかない」。米航空宇宙博物館の学芸員マイケル・ニューフェルド氏(47)はそう指摘する。
総動員体制の背景には、緊迫の度を深める東西冷戦があった。ソ連は五七年、初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功。六一年四月、ユーリ・ガガーリン飛行士が地球を周回飛行し、米国に二重の衝撃を与えていた。
ニューフェルド氏は「ケネディ大統領にとって唯一の目的はソ連を負かすことで、科学は二の次。アポロはまさに冷戦の産物だった」と話す。
関係者の士気は高かった。アポロ計画以前のマーキュリー、ジェミニ計画時代から飛行実施責任者を務め、当時、有人宇宙飛行センター副本部長のクリス・クラフト氏(75)は「歴史を作っていると思っていた。愛国心にも燃えていた。土曜も日曜も働き、みんな一一〇%の力を出したと思う」と当時を振り返る。
しかし、成算があったわけではない。大統領宣言の翌年、海軍からNASA入りしたジョン・ヤング飛行士(68)は「地球周回、ランデブー、ドッキング、巨大ロケット……。必要な技術は何一つなく、人間が宇宙飛行に耐えられる期間も分かっていなかった。本当に月に行けるのか、私には分からなかった」と回想する。
そうした中、数々の困難を乗り越えたNASAの設計担当者らは、月着陸の成功率を「スリー・ナイン」(99・9%)とけん伝した。失敗は千回に一回だけという確率だ。
だが、それは表向きの数字にすぎなかった。クラフト氏は「成功率がそれほど高いとは一度も思わなかった。私自身は人間を月に送り、無事に帰還させられる確率は70―75%と考えていた。(最後の月着陸を行った)アポロ17号でさえ、成功の確信はなかった」と明かす。
アポロ11号にも危機一髪の場面があった。着陸船イーグルは月着陸の直前、コンピューターが異常メッセージを発し、アームストロング船長は手動操縦で着陸地点を探さなければならなかった。残された着陸用燃料は十数秒。クラフト氏は「最も緊張した瞬間だった」と振り返る。
軍のパイロットから転身した飛行士らも危険は覚悟のうえだった。家族のために生命保険に入ろうと考える飛行士もいたが、保険会社は相手にしなかったという。それでも次々と月に飛び立っていったのはなぜか。初めて月を周回したアポロ8号のビル・アンダーズ飛行士は『月に立った人』(アンドルー・チェイキン著)でこう答えている。
「歴史に名を残したいという思いと、米国人、軍人としての義務感があった。生きて帰れる可能性が三分の二あればいいと考えていた」
こうした献身が、五百万年の人類史の中で初めて今世紀、人間の活動領域を母なる地球の外へと拡大した。(ワシントン 大塚隆一)
[アポロ計画]
月着陸を果たしたのはアポロ11、12、14、15、16、17号で、毎回2人ずつ計12人の宇宙飛行士が月面に降り立った。アポロ13号は月接近中に燃料電池の故障のため月面着陸を断念し、からくも地球に帰還した。計画は20号まで予定されていたが、米政府は月着陸への関心をなくし、17号で打ち切られた。
*◆宇宙に飛び出す(2)
*◇夢追った先駆者3人◇
SF小説の始祖とされるフランスのジュール・ベルヌが『地球から月へ』(一八六五年)で描いた月旅行。その夢を現実に近づけたのは「ロケットの父」と呼ばれる三人の先駆者――ロシアのコンスタンチン・ツィオルコフスキー、米国のロバート・ゴダード、ドイツのヘルマン・オーベルトだった。
「彼らは宇宙飛行が絵空事ではなく、技術的に実現可能であることを示した」と、米航空宇宙博物館学芸員マイケル・ニューフェルド氏(47)は指摘する。
三人には共通点があった。少年のころベルヌを愛読し宇宙飛行の夢を抱いたこと、政府や学界の支援はほとんど得られないまま生涯をロケット研究に捧(ささ)げたことなどだ。彼らは互いの存在を知らないまま、それぞれが独自にロケットの理論を作り上げた。
モスクワ近郊で生まれたツィオルコフスキー(一八五七―一九三五)は孤独な理論家だった。九歳の時、猩紅(しょうこう)熱で耳がほとんど聞こえなくなり、学校へ通うことを断念せざるをえなかった。しかし、独学で数学や物理を学び、二十一歳で片田舎の中学教師の職を得る。その傍ら飛行船やロケットの研究を続けた。
一九〇三年、『反動装置による宇宙空間の探査』と題する記念碑的な論文を発表。真空の宇宙空間に飛び出せるのはロケットしかないこと、液体酸素と液体水素を燃料とするのが最も有利なことを示した。その後も、多段式ロケットの構想など、現在のロケット技術の根幹をなす基礎理論を次々と提案していった。
しかし、自費出版が多かった彼の論文に注目する人はほとんどいなかった。ロシア革命後の一九年、ようやく科学アカデミー会員に選ばれたが、論文が英語に訳されたのは死後の四〇年代。海外ではほとんど無名の存在だった。
米国のゴダード(一八八二〜一九四五)は理論だけでは満足できない実験家だった。
地方大学の教授の職を得た一九年、『超高層に到達する方法』と題する論文で月ロケット構想を発表した。しかし、ニューヨーク・タイムズ紙は「作用と反作用の関係も知らない。高校生の知識もない」と酷評した。彼はショックを受け、体調まで崩す。それでも宇宙への夢は捨てがたく黙々と研究を続け、二六年、世界初の液体燃料ロケットの打ち上げ実験に成功した。
全長わずか三十センチ、到達高度十一メートルという花火並みの実験で、立ち会ったのは妻ら三人だけ。だが、この近代ロケットの幕開けを告げる初実験が、やがて月へと人を運ぶことになるロケットの進化の第一歩となった。
彼はその後もロケットの改良を続けたが、世間の目は決して温かくはなかった。ニューヨーク・タイムズ紙が誤りを認め、ゴダードに謝罪したのは、アポロ11号が月着陸を果たした六九年。すでに死後二十四年がたっていた。
もう一人の先駆者、ドイツのオーベルト(一八九四―一九八九)は、生前に評価を得ることもなく逝ったツィオルコフスキー、ゴダードに比べれば、まだしも恵まれた生涯だったといえる。
大学時代に拒絶された論文をもとに二三年に出版した『惑星空間へのロケット』は、液体燃料、慣性誘導、生命維持システム、大気圏再突入など、現在の有人飛行に使われる大半の技術を提案した。彼の本はドイツの若者たちを熱狂させ、ロケット・ブームの火付け役になった。米航空宇宙博物館のウランク・ウィンター学芸員は「この本こそ、宇宙時代の第一歩になった」と強調する。
三人の先駆者らの研究が国家プロジェクトに格上げされ、本格的なロケット開発が始まるのは、第二次世界大戦の足音が近づいてきた一九三〇年代に入ってからだ。
推進役となったのは、彼らの抱いた宇宙飛行の夢とは無縁の軍部だった。(ワシントン・大塚隆一)
[液体燃料ロケット]
火薬を推進薬にしたロケットは14世紀には生まれていたとされるが、近代ロケットの発展には液体燃料が欠かせなかった。ゴダードの初実験ではガソリンと液体酸素が使われた。最も性能のよいのは液体水素と液体酸素の組み合わせといわれ、日本の大型ロケットH2にも採用されている。
*◆宇宙に飛び出す(3)
*◇軍事技術から飛躍◇
宇宙飛行の基礎理論を作り、小さなロケットを飛ばしてみせた「ロケットの父」たちは、月旅行を夢見る科学者だった。だが、彼らに続く第二世代のロケット科学者たちは、いや応なく兵器づくりに巻き込まれていった。
「二十世紀を代表するロケット科学者を一人選ぶとすればフォン・ブラウンしかいない。まさにミスター・ロケットと呼ぶべき人物だった」。宇宙開発史に詳しい米アメリカン大のリチャード・ベレンゼン教授(60)はこう指摘する。このウェルナー・フォン・ブラウンこそ、科学の夢と冷徹な軍事技術のはざまを生き抜き、米国を宇宙大国に育て上げた立役者だった。
ドイツのポーゼン地方で一九一二年に生まれた彼は、中学生のころ、ロケットの先駆者の一人ヘルマン・オーベルトの著書を読み、ロケットと宇宙への興味をかき立てられる。ベルリン工科大に進んで本格的なロケット研究を始め、オーベルトの助手としてロケットの実験に携わる。
第一次大戦では戦闘機や爆撃機、戦車など科学兵器が現れ、戦場の様相を一変させた。さらに強力な兵器に育つ可能性を秘めたロケットに目をつけたのは、この大戦で科学技術の威力を痛感したドイツ陸軍だった。
三二年、まだ大学生だったフォン・ブラウンを採用したドイツ陸軍は、バルト海に面したペーネミュンデに秘密基地を建設し、ロケット兵器の開発にあたらせる。三年後には、早くも彼を事実上の開発責任者に抜てきし、四二年にはロケット兵器「V2」の初飛行を成功させた。
全長約十四メートル。約九百キロの弾頭を約三百キロ離れた目標に打ち込める当時としては最大のロケットで、先進的な誘導システムも備えており、その後の大型ロケットや弾道ミサイルの先駆けとなった。
第二次大戦で実戦に投入されたのは七か月間だったが、ドイツ軍はロンドンなどに数千発を打ち込み、英国を恐怖に陥れた。しかし、敗色濃厚だったドイツにとって、V2攻撃は最後のあがきにすぎなかった。四五年、フォン・ブラウンら約百二十人のチームは米軍に投降した。
かつての敵国の米国へ渡ったフォン・ブラウンはV2の改良実験を続け、米軍のミサイル開発部隊を指導する。その真価が発揮されるのは五七年、ソ連が初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功してからだ。
チームは「ソ連を追い越せ」という至上命令を受け、新型ロケットを次々と開発した。その到達点がアポロ11号を月に運び上げた史上最大のサターン5型ロケットだ。当時の有人飛行センター副本部長クリス・クラフト氏(75)は「このロケットの開発が月着陸の決め手の一つだった」と振り返る。
ナチスドイツの殺人兵器V2の開発で中心的な役割を果たしただけに、フォン・ブラウンをめぐる歴史的な評価はたえず論争の的になってきた。「連合国にとっては戦犯」との指弾もあったが、米国はソ連との宇宙開発競争に勝利するため、彼の過去には目をつぶった。
だが、彼はナチスの信奉者だったわけではなく、V2開発中に親衛隊に逮捕されてさえいる。「地球上を旅するのと同じ手軽さで、太陽系を旅行することが出来るようになる」(著書『ロケット工学と宇宙旅行の歴史』)と予言したフォン・ブラウンは、宇宙飛行の信奉者だったのだ。
サターン5型ロケットは、ケネディ宇宙センター(フロリダ州)とジョンソン宇宙センター(テキサス州)に展示されている。アポロ計画が途中で打ち切られたため、使われなかった実物だ。
全長は百十一メートル。訪れる観光客らは、その威容に圧倒されるが、七七年にこの世を去った生みの親に思いをはせる人は、今やまれだ。
(ワシントン 大塚 隆一)
[サターン5型ロケット]
V2ロケットの解体・組み立てから始まった米国のロケット開発だが、1960年代後半にはサターン5型(3段式)を完成させるまでに成長、技術の頂点を極めた。全長110.6メートル(日本最大のH2は50メートル)、重量2800トン(同260トン)。67年のアポロ4号(無人)打ち上げ時には、1段目の空気圧波が1800キロ離れた場所でも観測された。
*◆宇宙に飛び出す(4)
*◇冷戦が隔てた好敵手◇
月着陸を目指したのは米国だけではなかった。一九五〇年代後半から六〇年代にかけては、宇宙開発史に残る成果はむしろソ連が独占した。世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ(五七年)、ガガーリン飛行士の地球周回(六一年)、女性飛行士テレシコワの飛行(六三年)、そして宇宙遊泳(六五年)……。
これらの計画を指揮したのは、「ソ連のフォン・ブラウン」と呼ばれるロケット科学者セルゲイ・コロリョフ(一九〇七〜六六)だった。
コロリョフとフォン・ブラウンとには驚くほど共通点が多い。コロリョフの伝記を書いた米国のジェームズ・ハーフォード氏(74)によると、どちらもカリスマ的な指導者で、部下を心酔させる魅力の持ち主だった。単なる主任設計者ではなく、組織をまとめ上げる力量も備えていた。
また、二人とも三〇年代から民間人としてロケットの実験を始め、月旅行の夢を追い求めた。それぞれ、軍部に背いた容疑で投獄された経験も共通している。
しかし、決定的な違いもあった。フォン・ブラウンが時代の寵児(ちょうじ)として雑誌の表紙を飾り、伝記映画まで作られたのに対し、コロリョフは決して表舞台に出て脚光を浴びることがなかったのだ。
ガガーリンら宇宙飛行士は国家の英雄として称賛されても、コロリョフは公の場に出ることが許されなかった。時折、共産党機関紙に載ることはあったが、「K・セルゲーエフ教授」という偽名が使われたりした。
ハーフォード氏は「ソ連は米国のスパイに暗殺されるのを恐れていたのだろう」と推測する。コロリョフはいわば「ソ連の秘密兵器」(米アメリカン大のリチャード・ベレンゼン教授)だったのだ。
だが彼は、米ソの月着陸先陣争いが熱を帯びてきた六六年、直腸のポリープ除去手術を受けた直後に急死してしまう。まだ五十九歳だった。
ソ連にとって、大黒柱を失ったことは大打撃だった。総指揮官亡き後の宇宙開発チームは、月着陸用の巨大ロケットN1の打ち上げ試験に立て続けに失敗した。米国のアポロ11号が月に人間を送り込むのは、コロリョフが亡くなって三年後の六九年。ベレンゼン教授は「だれも彼の空白を埋めることができなかった」と話す。
では、コロリョフが生きていたら、月着陸競争の結果は違うものになっていたのか。
ハーフォード氏は「恐らく結果は変わらなかったろう。ソ連は米国のアポロ計画に匹敵する人と金をつぎ込むことができなかったからだ」と指摘する。米国がアポロ計画に投じた資金は七百五十億ドル。ソ連にとっては天文学的な金額だった。
ソ連指導部が核軍備競争に勝つため、月着陸よりも大陸間弾道弾(ICBM)の開発を優先したという事情もあったが、米ソ間の科学技術力、経済力の差は、もはや一人の科学者の力では覆せないほど広がり始めていた。
深刻な資金不足のもと、ソ連は安上がりの月着陸を目指したが、結局は月へ飛行士を送ることをあきらめる。人に代わって探査車を送り込む方式に路線変更したのだ。
月着陸競争での敗北を見届けないまま亡くなったコロリョフは、ある意味で幸運だったのかもしれない。その彼はライバルのフォン・ブラウンをどう見ていたのだろうか。ハーフォード氏の著書『コロリョフ』でこんなエピソードが紹介されている。
「我々は友人であるべきなんだ」。六〇年代初め、コロリョフは新聞に載ったフォン・ブラウンの写真を見て、部下にそう語ったという。
冷戦という厚い壁が二人の宇宙の英雄を隔て、生涯まみえることはなかった。だが、コロリョフの言葉からは、好敵手へのそこはかとない共感が感じ取れる。
(ワシントン 大塚 隆一)
[スプートニクとガガーリン]
スプートニク1号は1957年10月4日に打ち上げられ、だ円軌道を周回した。直径58センチ、重さ84キロの球形衛星が発する「ビープ、ビープ」の信号音は宇宙時代の幕開けを告げた。ガガーリンを乗せたウォストーク1号は61年4月12日に打ち上げられ、地球を一周した。飛行時間は1時間48分。人類で初めて宇宙に飛んだ彼は「地球は青かった」という言葉を残した。
*◆宇宙に飛び出す(5)
*◇シャトル襲った「人災」◇
「あの日のことを覚えていますか」。米国人にこんな質問をすると、大半の人から答えの返ってくる歴史的事件が三つある。
一九六三年のケネディ大統領暗殺。そのケネディの熱望した六九年のアポロ11号月着陸。そして、スペースシャトル「チャレンジャー」の悲劇だ。
一九八六年一月二十八日朝。チャレンジャーは、女性教師クリスタ・マコーリフさんや日系人飛行士エリソン・オニヅカ氏ら七人を乗せフロリダの青い空に上昇していった。八一年の初飛行以来、二十五回目の打ち上げだった。
爆発は七十三秒後、高度約一万四千四百メートルで起きた。搭乗員が乗っていたシャトル前部はほとんど損傷を受けないまま落下し、爆発の二分四十五秒後、大西洋に時速約三百三十キロで墜落した。
米航空宇宙局(NASA)の報告書によると、七人は座席についたままだった。死因は海面との激突の際の衝撃とみられ、報告書は落下中の搭乗員に意識があった可能性も否定していない。
シャトル初飛行の船長を務めたジョン・ヤング飛行士(68)はこの日、訓練機で打ち上げ場上空を警戒飛行中だった。「事故の確率は一万回に一回と聞いていた。こんなことが起こるとは夢にも思っていなかった。せめて緊急脱出装置があったら……」
事故はなぜ起きたのか。シャトル計画が具体化したのは七〇年代初め。当時の米国はベトナム戦争が泥沼化、様々な社会問題が噴出し、宇宙開発に巨費を投じることへの批判が高まっていた。アポロ20号まで予定されていた月着陸計画への熱気も冷め、七二年には打ち切られた。
有人飛行の灯を絶やしたくないNASAが、政府や議会の支持を得るために最優先せざるをえなかったのは経済性だった。そんな中で生まれたのが、繰り返し利用できる宇宙往還機スペースシャトルだ。NASAは年二十四回もの打ち上げを目標に掲げた。
だが、過密スケジュールは安全軽視につながった。事故を調査した大統領委員会によると、直接的な原因は固体補助ロケット接合部のゴム製リングの損傷だった。リングに問題があることは以前から指摘されていた。打ち上げ当日は氷点下の異常低温で、リングの機能低下を懸念した補助ロケット製造メーカーは打ち上げ中止を進言したが、NASAは聞き入れなかった。
当時のレーガン大統領は打ち上げ当夜、一般教書演説でマコーリフさんの飛行を引用する予定だった。真相は不明だが、これが打ち上げ強行の裏にあったという説もある。
ヤング飛行士は事故後、「こんな危険な飛行が許された理由は一つしかない。打ち上げ計画をこなさなければならないという圧力だ」と内部告発した。アポロ計画を指揮したクリス・クラフト氏(75)も「問題はハードウエアではなく、人間にあった」と振り返り、「人災」であったことを強調する。
大統領調査委の委員だったノーベル賞物理学者リチャード・ファインマン氏も、報告書の中で、こう述べている。
「NASAは、限られた財源の使い道について、国民が賢明な決定ができるよう、率直かつ正直に情報を与えなければならない。真理をあざむくことはできないのだから」
では、この宇宙開発史上最悪の悲劇を目の当たりにした米国民の「賢明な決定」とは何だったのだろうか。有人宇宙活動を断念すべきだという目立った意見は上がらず、「事故を克服して挑戦を続けろ」という声が圧倒的だった。
NASAは安全総点検や改修の末、二年八か月後にシャトルの飛行を再開する。活動規模はアポロ最盛期とは比べようもなかったが、宇宙大国の命脈は保たれたのだった。(ワシントン 大塚 隆一)
[スペースシャトル]
再利用を可能にして打ち上げ費用の低減を目指した米の宇宙往還機。本体のオービター(長さ37メートル、幅24メートル)に、主エンジン3基のための液体酸素、液体水素を収めた外部燃料タンク1本と2本の固体補助ロケットを付けて飛び立つ。現在はコロンビア、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの4機が運航されている。
*◆宇宙に飛び出す(6)
*◇新たな感動への旅◇
地球から百十億キロかなた。太陽系外の宇宙空間を、いま秒速十七・三キロの猛スピードで遠ざかりつつある探査機がある。一九七七年に打ち上げられた米航空宇宙局(NASA)の「ボイジャー1号」だ。
この探査機には直径三十センチの金色のディスクが搭載されている。収録されているのは地球の様々な画像、言葉、音楽などだ。中には「こんにちは。お元気ですか」という日本語のあいさつと、尺八の古典曲「鶴の巣籠(すごもり)」も含まれている。
「いつの日か宇宙人が私たちのメッセージを読みとってほしい」。そんな願いが込められた「地球からの手紙」は、二十世紀の人類が宇宙を活動の舞台にし始めたことを示すタイムカプセルでもある。
今世紀初め、月への旅行を目指した「ロケットの父」たち。その夢は、皮肉にもロケット兵器の可能性に注目した軍部の支援で現実味を帯び始め、米ソ対立という特異な時代状況のもと、米国が総力をつぎ込んだアポロ計画で一気に実現した。
月着陸から三十年。当時を振り返る関係者は、アポロ計画が「冷戦の産物」だったと認めながらも、結果として人類が宇宙に進出したことの歴史的意義を強調する。
「人間が地球を飛び出すことができること、地球に縛り付けられた存在でないことを認識させてくれた」(NASAでアポロ計画を指揮したクリス・クラフト氏)
「人類は、地球を初めて遠くから見て、小さく、もろい『青い大理石』であることを知った」(NASAの歴史記録員ロジャー・ローニウス氏)
米ソの月着陸競争で弾みがついた宇宙開発には、欧州、日本、中国なども次々と参画。各国は、電話やテレビに欠かせなくなった通信・放送衛星、天気予報の精度を高めた気象衛星、環境の変化をとらえる地球観測衛星などを競って打ち上げ、私たちの生活にいろいろな恩恵をもたらした。地球を次々と飛び立った探査機や天文衛星は、星や銀河の謎(なぞ)に迫り、人類の宇宙観を大きく変えた。
しかし、人間そのものが地球外の天体への到達を目指す試みは七二年のアポロ17号以来、途絶えたままだ。米国が戦時体制並みの動員をかけたアポロ計画当時の熱気は冷めてしまった。
アポロ11号で月面に降り立ったエドウィン・オルドリン飛行士(69)は「コロンブスが米国に到達したのに、二度と行かないと決めたようなものだ」と残念がる。アポロ16号の船長を務め、いまも現役としてNASAにとどまるジョン・ヤング飛行士(68)も「月面基地の建設や火星への有人飛行を精力的に進めるべきなのに」と、いらだちを隠さない。
だが、米国を月着陸競争に駆り立てた旧ソ連のような「明確な敵」(米ジョージワシントン大ジョン・ログストン教授)はもういない。クラフト氏は「月や火星に人を送り出すには、新しい理由が必要だ」と指摘する。
それは何なのか。クラフト氏は「火星での生命の痕跡の発見や異星人からのシグナルかもしれない」と話し、ヤング飛行士は「巨大いん石の衝突など人類絶滅の危機に備えなければならない。今から月や火星で暮らす可能性を探る必要がある」と訴える。
こうしたアイデアは今のところ、政治家や国民の支持を得られそうにはない。一方で、人類が宇宙へ進出を続けることは「歴史の必然」と考える専門家も少なくない。
あのアポロ11号が撮った漆黒の闇(やみ)に浮かび上がるブルーの「地球」の姿は、世界の人々に大きな感動を与えた。探査機が撮影した赤茶けた不毛の兄弟惑星「火星」との差がいかに大きいことか……。生命をはぐくんでくれた偉大な「宇宙船地球号」の存在を、人類は今世紀、しっかりとその意識の中に刻み込んだことだけは間違いない。(ワシントン 大塚 隆一)
[日本の宇宙開発]
1955年に東大の糸川英夫博士が発射実験に成功したペンシルロケットで始まり、同大は70年、人工衛星の打ち上げにも成功。ソ連、米国、フランスに次ぎ世界4番目の宇宙進出を果たした。69年には宇宙開発事業団が発足してN1、N2、H1の各ロケットを開発。94年には純国産の大型ロケットH2の打ち上げに成功し、宇宙先進国に肩を並べた。
*◆生命観の変容(1)
*◇「二重らせん」模型で解明◇
生命の謎(なぞ)解きに挑む二人の科学者を、化学の大御所は「道化師」とこき下ろした。化学の知識にさえ乏しい若造が、棒細工の化学物質の模型をいじくり回して、何ができるというのかと。
若造とは、英国のフランシス・クリック氏(一九一六―)と、米国のジェームズ・ワトソン氏(一九二八―)。一九五〇年代初め、英ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所で、模型を使い、生物の細胞内にある物質DNA(デオキシリボ核酸)の構造解明に明け暮れていた。
クリック氏は戦時の機雷研究から解放され、第二次大戦後に生命の神秘に関心を持つようになった新参の物理学者。ワトソン氏は生物学専攻ながら、大学院を修了して間もない文字通りの若造だった。
「確かに変人と思われていたに違いない」。ワトソン氏は、九二年に来日した時の講演でそう振り返った。もともと大の化学嫌い。「そんな研究はふさわしくないと、奨学金も打ち切られた」という。
DNAは「生命の基本設計図」だ。そこに書かれた情報を基に生物の形ができ、機能する。今や常識だが、当時は決定的な証拠がなかった。
探究の先駆者は、オーストリアの修道士グレゴール・メンデル(一八二二―八四)。エンドウの栽培実験から、生物には形や性質を決める因子(遺伝子)があり、それが親から子に伝わることを見つけた。一八六五年に発表した「遺伝の法則」だ。
注目されずに時が経過したが、一九〇〇年にその意義が再認識され、遺伝子探しが本格化する。
まず二〇年代までに、ハエの飼育実験などから遺伝子は細胞内の染色体にあると分かった。四四年には米国の医学者オズワルド・エイブリー(一八七七―一九五五)が、DNAが遺伝子であることを示す証拠をつかむ。病原性細菌からDNAを取り、病原性のない細菌に混ぜると病原性を持った。DNAが細菌の性質を変えたのだ。
「決定的な発見だった」(ワトソン氏)が、信用されなかった。DNAは「A」「T」「G」「C」と略称されるたった四つの部品(塩基)から成る化学物質で、「そんな単純な物質が、複雑極まりない生命の基本のはずがない」と思われたためだ。
気鋭の生物学者らが謎解きの先陣争いをする中、クリック、ワトソン両氏は、DNAの構造から決着をつけようと考えた。この物質を作る部品の模型を作って一年半も悪戦苦闘を繰り返し、五三年春、長い鎖のような分子を二本撚(よ)り合わせた「二重らせん構造」にたどり着く。
はしごをひねったような構造で、はしご段は構成部品の対である「A…T」「G…C」だけから出来ている。片方の部品が「A」なら、対となる部品は必ず「T」。同様に「C」と「G」が対になる。
人間のDNAではこの対が三十億対に達する。表現する文字は四つでも、その並び方は無限に近く、いかなる命令をも表現できる。細胞分裂の時は二重らせんがほどけて二本の鎖となり、それぞれの鎖が鋳型となって凹が凸と組み合わさるようにDNAが複製される。「生命の設計図」のからくりが、ついに解き明かされたのだ。
成果は五三年四月、英科学誌「ネイチャー」に発表され、「今世紀最大の発見」と激賞される。「幸せだった。これでDNAのすごさが(世間に)分かったのだから」(九二年のワトソン氏来日講演)。
その後の実験で「二重らせん構造」は追認され、「DNAを中心とした生命観が確立した」と、JT生命誌研究館の中村桂子副館長は語る。
遺伝子の正体解明後も、遺伝子組み換え技術を開発したり、人間の全設計図の解読に挑んだりと、探究はとどまるところを知らない。「生命の聖域に踏み込み始めた二十世紀」。後世の人々は、そう回顧するに違いない。
(科学部 井川 陽次郎)
* ◆生命観の変容(2)
*◇DNA操作 飛躍的進歩◇
米サンフランシスコのパブで、一九七六年初頭のある金曜日、二人の男がビールグラスを片手に、丸テーブル越しに話し込んでいた。
奇妙な取り合わせだった。一人は、ニューヨークから来たロバート・スワンソン氏。スーツで身を固めた二十七歳の投資家だ。対するカリフォルニア大学の生物学者ハーブ・ボイヤー教授(当時三十九歳)は、アフロヘアにブーツのいでたちだった。
二人の話題は「遺伝子組み換え技術」。当のボイヤー教授とスタンフォード大学の遺伝研究者スタンリー・コーエン氏(一九三五〜)らが、その三年前に編み出していた。
この技術は、動物の細胞の中にある生命の設計図DNAの一部を、全く別の生物である大腸菌のDNAに組み込んで増殖させ、元の動物中にある時と同じ働きをさせる。
例えば、糖尿病治療に使うインシュリン。それまでは牛や豚から取っていた。しかし、人間のインシュリンとは微妙に違うため、副作用が出ることがあった。だが、この技術なら原理的には本物のインシュリンが手に入る。人間のDNAからインシュリンを作る設計図部分を取り出し、この技術によって大腸菌に組み込めば、培養槽の中でこの菌が人間のインシュリンをどんどん作るはずだ。
新聞報道でそれを知ったスワンソン氏は「もうかる」と直感した。あちこちの生物学者に事業化を持ち掛けたが、「十年早い」と相手にされず、ボイヤー教授だけが十分間の時間を割いてくれた。会うとウマが合い、パブに移って四時間。交渉は成立し、その年四月、遺伝子組み換え技術の実用化を目指す世界初のベンチャー企業が誕生した。
サウスサンフランシスコの「ジェネンテク社」だ。この技術で作った小人病治療用のヒト成長ホルモンなどの医薬品売り上げと特許料収入で、年間売り上げは今や約十億ドル(千二百億円)にも達する。
同社の中庭には、創設者二人の話し合いの姿を再現したブロンズ像がある。グラスには小銭がぎっしり。「研究者たちが、自分の業績が上がるようにと願って入れるんです」と、広報担当のローラ・リーバー氏がほほえむ。
研究者がボイヤー教授にあやかったとしても不思議ではない。この技術ほど生命の謎(なぞ)解きとその応用を推し進めたものはなく、世界で数兆円といわれるバイオ産業の先駆けとなったからだ。
当時はワトソン、クリック両氏によるDNAの二重らせん構造解明から約二十年。ワトソン氏によると「DNA分子を詳しく研究する一般的な手段がなく、(生命科学の)栄光の日々は終わりつつあるとの懸念が広がっていた。しかし、この技術の登場でそんな心配は消え去った」(九三年のパリの記念講演)。
懸念の理由は、DNAに書き込まれた暗号文(情報)を解読できないことだった。DNAの構造解明によって、遺伝情報はA、T、G、Cの四文字で書かれた暗号文のようなものだとわかったが、暗号文の意味するところ、つまりそれが生物の中でどのような働きとして出現するのか不明だった。
その難局を打開したのが遺伝子組み換え技術だった。特殊な酵素を使い、調べたい特定部分だけを断片として取り出したり、それを別のDNAにくっつけたり、もともと微量なDNAを分析に必要な量まで増やしたり、という手法は絶大な道具となった。
これにより、暗号文の文法が続々と判明し、遺伝情報を読み取れるようになったのだ。癌(がん)は以前は感染症との説が主流だったが、遺伝子の異常で起きる病気であることが分かったり、さまざまな生物のDNAを比べることで進化の道筋が見えてきたりと、生命科学の地平が切り開かれた。
だがこの技術は生命操作にも当たる。「両刃の剣」として社会に波紋を広げていく。 (科学部 井川陽次郎)
◇
[酵素]
生命現象は、数多くの酵素が生体内で複雑な化学反応を仲立ちすることで実現する。食物の消化も、体の構造が出来るのも、脳が思考するのも、酵素の働きだ。DNAを切ったり張ったり増やしたりする遺伝子組み換え技術も、DNAに対してハサミやノリとして働く特殊な酵素の発見が可能にした。
*◆生命観の変容(3)
*◇遺伝子操作の危険性自覚◇
「予測のつかない異常なDNAが生まれる可能性があり、危険性がはっきりするまで実験を自粛する。歩調を合わせるよう希望する」
一九七四年七月、米ワシントンの米国科学アカデミー。分子生物学界の重鎮であるスタンフォード大のポール・バーグ教授が報道陣を前に上気した表情で、遺伝子組み換え実験の一時停止を世界の科学者に呼びかけた。DNAの二重らせん構造を解明したジェームズ・ワトソン氏を含む十一人の科学者による共同アピールだった。
遺伝の秘密の解明や医薬品の開発、農産物の改良など大きな可能性を秘める遺伝子組み換え技術が開発されたのはその前年のこと。画期的な先端技術に対して、誕生とほぼ同時に、危険性を懸念する声が科学界の内部から上がるのは異例の事態だった。
バーグ教授はなぜ、行動に踏み切ったのか。彼自身、遺伝子の操作が人類に恩恵をもたらすことに気付き、発がん性があるウイルスの遺伝子を使った動物実験を計画していた。しかし、「誤って人間に感染したら」という懸念が先にたち、自主的に断念したばかり。無制限な「生命の操作」がどのような危険を招くか、悩んだ末のことだった。
翌七五年二月にバーグ教授らは、生物学者に文化や法律の専門家も加えた十五か国、百五十人の有識者をカリフォルニアに招き、国際会議を開く。地名をとって「アシロマ会議」と呼ばれた。
一同は、「遺伝子組み換え実験は厳しい自主規制の下で行う」ことで合意し、安全管理基準案を作成した。これに基づいて米国立衛生研究所(NIH)が実験指針を策定し、各国も歩調を合わせた。
慶応大医学部からこの歴史的な会議に出席した新井俊彦氏(61)は「自主規制しなければ遺伝子組み換え研究の道は絶たれる、との危機感に満ちていた」と回想し、「科学者自らが先端技術の危険性を事前に察知し手を打った画期的出来事」と評価する。
こうした動きの背景には、ベトナム戦争の失敗やウォーターゲート事件で社会不安が増大し、科学へも厳しい視線が注がれつつあった当時の米国の世相もあった。
アシロマ会議で制限付きながら実験への道が開けると、研究者らは危険性を検証する研究を集中的に行う。組み換え遺伝子を大量培養するのに使われる大腸菌が病原性を持たないこと、腸に住み着く可能性がないことなどがわかり、懸念されたバイオハザード(生物災害)の恐れを否定する成果が次々と報告された。
実験指針は順次緩和され、バイオ企業の参入にも弾みがついた。こうして、遺伝子組み換え技術は次第に社会に受け入れられていく。
「初めに高いハードルを設け実証を重ねながら徐々に下げてきた。正しいやり方だった」と、三菱化学生命科学研究所の米本昌平室長(52)は言う。
しかし、不安が完全に消えたわけではない。例えば、遺伝子組み換え食品。「神の領域に人間が足を踏み入れる行為だ」と、インターネットのホームページで強く批判するのは、有機栽培愛好家のチャールズ英皇太子だ。輸出に積極的な米国と慎重な欧州との間では、貿易摩擦の新たな火種になっている。
生命を操作する技術は、遺伝子組み換えだけではない。親から子へと世代交代していくのが自然の摂理だが、これに背きかねないクローン技術は、羊や牛などの動物ではすでに応用されている。不妊の悩みを解消するための生殖医療も、日進月歩だ。
「社会がこれらと、どう向き合っていくか、腰を据えた議論が必要なのはむしろこれからだ」と米本室長。
生命を操るという身に余る道具を手にして間がない人類にとって、第二、第三の「アシロマ会議」が求められている。(科学部 川西 勝)
[遺伝子組み換え実験指針]
NIHが76年にまとめた指針は、危険性のレベルに応じた隔離施設や実験器具を定め、実験室外では生きられない生物を使用させるなど拡散防止を図った。86年まで9次の改定を行って内容を緩和。日本は79年に文部省が指針を作ったが、NIHの1次指針に従ったため規制緩和に取り残され、研究出遅れの一因ともなった。
*◆生命観の変容(4)
*◇悲劇を生んだ優生学◇
一九二〇年代、アメリカ優生学協会の後押しで「優良家庭コンテスト」が全米各地で行われ、たくさんの人が集まった。血縁者の病歴や犯罪歴を調べ、身体測定や知能検査を行う。優勝家族には「健全な精神の宿る健全な肉体こそ人類の宝」と書かれたトロフィーが贈られた。畜産フェスティバルで、牛や馬と並んで「人間の部」として実施する州もあったほどだ。
二六年にフィラデルフィアで開かれた米建国百五十周年記念博覧会では、優生学協会は「家畜の品種改良と同じように人類の改良にも取り組みましょう」とけん伝した。
コンテストの背景に「優生学」があった。英国の人類学者フランシス・ゴールトンが一八八三年に『人間の能力及びその発達の研究』で「劣った遺伝子を断ち、人類を優れた血統へ改良する科学」と提唱した概念だ。ゴールトンは、『種の起源』(一八五九年)のチャールズ・ダーウィンのいとこ。進化論に影響されたと自伝で述べている。
埋もれていたメンデルの遺伝法則が一九〇〇年にオランダの研究者らによって再確認されたことがあり、今世紀に入ると「優生学」は欧米を中心に広がっていった。
米国では大学の八割に優生学講座ができた。また、優生記録局などが「悪性の遺伝子を持つ者」と認定した人に不妊手術を強制する断種法が、一九〇七年のインディアナ州を最初にほぼ三十の州で制定され、全米で五万人以上に実施されたと言われる。
こうした潮流も、第二次大戦によって変わる。ナチス政権下のドイツで、ユダヤ人弾圧の根拠になったことが世界中から批判されたからだ。戦後になると、「優生学」と名付けられた学問は消えた。
しかし、社会に染み込んだ優生学的な思想を根絶するのは困難だった。
「日本では『不良子孫の出生防止』の名目で不妊手術や子宮摘出が続いている」。九四年にカイロで開かれた国連の国際人口・開発会議で、日本人女性の告発が世界各国の参加者を驚かせた。
国家総動員体制が進む四〇年にできた国民優生法は、戦後も優生保護法として残った。社会的批判の高まりで九六年、優生学的な条項を削除した母体保護法に改訂されたが、優生保護法によって一万六千人(厚生省統計)に対し本人の同意がないまま不妊手術が行われた。
九七年夏には、福祉先進地の北欧四か国でも同じような法律が七〇年代まで続いていたと新聞が指摘し、実態調査を行ったスウェーデンは先月、不妊手術を受けた人に国家賠償すると発表した。
人種弾圧、障害者差別など「優生学」がもたらした悲劇。米国の科学史学者ダニエル・ケブルズは『優生学の名のもとに』(八五年)で「優生学は科学として出発したが、生まれたばかりの遺伝学に対する誤った理解と手を携えた結果、残酷で抑圧的になり、ナチスの蛮行にまで行き着いた」と語る。
そして今、「遺伝子の知識や理解の劇的な進歩に伴い、新しい優生学が生まれつつある」と、米国の分子生物学者ロバート・ジンシャイマーが六九年の論文で指摘したことが懸念される時代になった。
七〇年代、鎌(かま)型血球病という死亡率の高い血液病の遺伝子保有者を簡単に見つける方法が発見され、米国で集団検診を実施。その保有者という理由だけで職場解雇される例が、黒人を中心に続発し社会問題となった。
近年はDNA鑑定ビジネスも登場している。「遺伝子による差別は絶対に許されない」。生命科学研究の先頭を走る米国のクリントン大統領は九七年、遺伝子情報を生命保険に使おうとする業界の動きを決然と制した。「過去を振り返り、良識と理性のある未来づくりに生かさねばならない」。優生学の実態を掘り起こしたケブルズは警告する。(科学部 川西 勝)
[バイオ・エシックス(生命倫理)]
生命科学や医療の問題を科学技術の面だけでなく、倫理、法律も含め総合的に考察する研究。鎌型血球病などの集団検診が差別問題につながったのを契機に70年代に米国で提唱され、92年に国際学会も発足。遺伝子治療や遺伝子組み換えなどが主要テーマで、優生学復活を阻止するという側面もある。
*◆生命観の変容(5)
*◇「ゲノム」世界の財産に◇
「人類を月に送り込むことよりも、この計画は重要な意義を持つ」。この五月、生物学研究で有名な米ニューヨーク州のコールド・スプリング・ハーバー研究所で開かれた会合で、米国立ヒトゲノム研究所のフランシス・コリンズ所長は、居並ぶ各国の生物学者らにゲキを飛ばした。
会合のテーマは、「ヒトゲノム計画」。人間の細胞にある生命の基本設計図DNAに書かれた暗号文のすべて(ゲノム)を、読み尽くそうという壮大な事業だ。
総文字数は三十億個。文庫本にたとえると、一ページ六百文字として五百万ページにのぼる。しかも字面を読むだけでは終わらない。読んだ文字の配列がどんな意味を持つのか、どんな役割を担うのかを並行して解析する。
これにより人間がどんな部品をどう組み合わせて生きているか見えてくる。成人病やがん、老化などの仕組み、治療、予防法が分かるかもしれない。恩恵は計り知れない。
計画は一九九〇年、米国の主導で日欧などが参加して始まった。当初、字面を読む作業を二〇〇五年に終える予定だったが、昨年、目標を二年繰り上げた。さらに五月の会合で、来春までにあらかた解読を終える目標を新たに設定し各国の分担を決めた。
ただ、これまでに解読できたのは全体のわずか17%。急がないと達成はおぼつかない。冒頭のゲキは、改めて参加者を鼓舞する目的だった。
背景には、「特許の脅威」がある。米国のベンチャー企業が昨年、新型のDNA配列解析装置を使って二〇〇一年までに独自に解読を終え、結果を特許申請すると発表したのだ。人類だれもが持つDNAの情報を、一企業が独占する。それに基づいて開発した薬や治療法、研究に特許使用料を課すかもしれない。
公的資金を投入し解読を進めてきた各国にとっては、最悪の事態となる。計画の繰り上げはその対抗策だった。
「日本が頑張っていれば、解読はもう終わっていたかもしれない。特許騒ぎもなかっただろう」。東京大学名誉教授の和田昭允(あきよし)氏(生物物理学)は、そう嘆く。というのも日本は、現行の計画に先立ちDNAの高速解読と国際協力を呼び掛けていたからだ。
一九八一年、日本政府は、DNA技術の基盤整備を目指して委員会を設けた。和田氏は委員長として、DNA配列解析装置の開発方針を打ち出した。DNAの大量解析時代到来を見越していた。
当時の技術では、全DNAを解読するのに百人で三千年かかると予想された。「手間のかかる読み取り作業を自動化し、研究者はより本質的な問題に取り組む方がいいと考えた」(和田氏)という。
しかし、研究者から「機械にDNAは読めない」という異論が出るなど足並みはそろわず、試作機で終わった。
一方の米国では、日本より五年遅れの八六年、機運が高まる。和田氏も米政府の招きで渡米。日本の現状を紹介し、各国で解析拠点を設けて協力しようと呼び掛けた。
その後及び腰になる日本とは対照的に、米国の動きは素早かった。「自動車や家電製品に続きDNA解析でも日本に負ける」との危機感を募らせて装置の開発を急ぎ、九〇年には自らが提唱者となって現行の計画を立ち上げた。
しかし、日本は、その後の貢献も遅れたまま。解読は全文字の1%にとどまる。解析装置の開発でも意見が割れたように、研究者同士の反目や、予算投入の遅れが足を引っ張った。なにより、計画の意義が理解されなかった。
世界では早くも、解読後の議論が始まっている。個人のDNA情報の保護や差別の防止の方策といった社会問題から、「DNA情報を書き換えて感染症に強い『超人』を作ろう」といった提案まである。ゲノムをすべて解き明かした時、人類はその知識とどう付き合うべきか。ひとごとではいられない。(科学部 井川 陽次郎)
[遺伝子]
DNAのうち、実際に生物の形や機能を決めている部分を指す。人間の場合、遺伝子の数は計5万―10万個と推定され、それぞれがDNAの暗号文字にして2000―3000文字で記述されている。DNA全体で見ると、人間の場合、遺伝子として働いていない部分の方が圧倒的に多い。ヒトゲノム計画により、この部分の意味も判明するかもしれない。
*◆生命観の変容(6)
*◇「機械論」超える謎 探究へ◇
「生物は、積み木細工みたいなものですね。難しいこと、直観を超えることは何もない。そのうち脳もわかってしまいますね」
日本人初のノーベル物理学賞を一九四九年に受賞した湯川秀樹氏(一九〇七―八一)は晩年、生命科学の急速な発展を目の当たりにして、そんな感想を漏らしていたという。
「積み木細工」という言葉に、生命は極めて小さい精巧な歯車のような部品を組み合わせたもの、という思いを込めていた。思いは高じ、所長を務めていた京都大学基礎物理学研究所に、それを探究するため、生物物理学の研究室さえ設けてしまった。
今世紀に入り、怒濤(どとう)のように進んだ生命の探求の成果は、湯川氏の抱いた感想を次々と裏付けた。世紀末を迎えて、それは加速しつつある。
東京大学の広川信隆教授(解剖学)の研究もその一つといえる。八〇年代からの研究で、細胞の内部に生命活動に必要な部品を運ぶ流通機構があることを解明してきた。
最初は、独自に開発した観察法で細胞内の極微の世界をのぞいていた。すると網の目をした骨格が見えてきた。さらに、細胞の中の各種の部品には「足」のような構造がついていて、骨格の上を移動しているように見えた。
そこで、「足」を徹底的に研究したところ、驚くべきことがわかった。足と見えたのは、細胞の部品を担いで運ぶ「分子モーター」だった。さらに高速道路のような構造があり、約三十種類もの分子モーターが、その上をさまざまな部品を担いで縦横に走り回っていた。
「細胞も人間社会と同じ。モノを作っている所から、必要な所へと運ぶ流通機構が存在する。実に巧妙。機械といってもいい」。広川教授は、そう感嘆する。
これは一例にすぎない。動物の筋肉の動きや、果ては行動といった分野でも「機械」としての研究は進む。思考といった人間に特有の能力も、特殊な装置を使って、脳のどの部分が担うのか、解明が進んでいる。
そうした「生命は機械」という発想を明確に打ち出したのは、オーストリアの物理学者エルビン・シュレディンガー(一八八七〜一九六一)。今世紀の物理学の柱とされる量子力学を生み出した大科学者だが、生命の謎(なぞ)にも挑んでいた。
アイルランドのダブリンにある高等研究所で四三年、「生命とは何か」と題して講演。当時は、DNAが生命の基本設計図であることも、その構造もわかっていなかったが、細胞が分裂し成長していく様子を顕微鏡で観察することでDNAの存在を予想し、「一個の生物も、その設計図に基づく機械」と提唱した。
翌年それが出版されると、生物学や物理学の研究者らに興奮が広がる。DNAの構造解明や、その後の生命科学の急速な発展も、この本に触発された幅広い分野の研究者の参入がきっかけだった。
「現代は生物機械論の全盛期といってもいい」と、名古屋大学の大沢文夫名誉教授(生物物理学)は話す。大沢名誉教授は六〇年、物理学の視点から生物を研究する生物物理学会が日本に発足した時の中心メンバーだ。
「今では病気でさえ、自動車の故障と同じように考える。体の中のどの部品が壊れたのかという発想で原因を探る」。ただ、「生物らしさを追求していけば、単なる機械を超える何かがあるはず」と、大沢名誉教授は予想する。
人類は今世紀、DNAを解明するなど物質科学の観点から生命の謎に大きく迫った。だが、脳の研究などは緒についたばかりだし、広大な宇宙には地球とは別の生命が存在するのではという大きな命題も、来世紀に持ち越された。生命とは何かを追い求める旅は、まだ始まったばかりなのかもしれない。(科学部・井川陽次郎)
[生命の起源]
地球に生命が誕生したのは、地層の調査などから、30数億年前と考えられている。地球が生まれて約10億年後、無機物から生命の部品となる有機物が生成され、それから生物が生まれたらしい。米国のロイド・ミラーが50年代に、原始の地球環境を再現して有機物を生成させた実験は有名だ。しかし、「生命宇宙起源説」などもあり、依然として大きな謎となっている。
*◆大衆社会論(1)
*◇「人間の歯車化」に危機感◇◇新たな枠組み構築の時◇
アメリカとイギリスで二年ほど暮らして帰国した時は本当に驚き、あきれ果てた。評論家の西部邁(すすむ)氏(60)はそう振り返る。日本の社会があまりに騒がしく、人々の振る舞いが何とも軽薄に見えたからだ。消費行動に「分衆」化の傾向が現れていた一九七〇年代末のことだった。
「経済発展に邁進(まいしん)してきた戦後日本が、まさに大衆文明のクライマックスを迎えようとしていた。巨大な大衆国家アメリカをしのぐほどのあり様に、とても黙っているわけにはいかなかった」
こうして大衆(社会)批判が始まる。氏にとって《大衆人》とは、財産や地位によって規定されるのではない。それはいわば「精神的階級」なのである。自分や社会、時代に対する懐疑を忘れ、己より優れた存在を認めず、現状を肯定的にとらえる人間類型のことだ。
この視点はスペインの思想家オルテガに近い。八三年に出版した『大衆への反逆』が、オルテガの『大衆の反逆』(三〇年刊)を意識しているのは明らかだろう。
自らの時代や社会の価値観を疑わないのが大衆人だとしたら、現代日本でも至る所で見つけられる。とくに近代主義――アメリカ的な自由・民主主義、過度の経済・技術主義、進歩史観、競争社会など――に疑問を抱くことなく、世論や流行に迎合する知識人の姿には我慢がならなかった。批判の矛先は知識人にも向けられた。
「オルテガをはじめヨーロッパの大衆社会論は、結局のところ知識人論に帰結する。とりわけ日本の場合は、近代主義の先頭に立つ知識人こそが大衆人の典型といえる」
現代の悲劇は、少数ではあれ、いつの時代にも存在した“今を疑う人”がいないことだと強調する。
大衆の定義を練り直し、近代主義や知識人まで視野に入れた批判の切り口は鮮やかだった。また伝統や慣習に息づく「歴史の英知」の重要性を訴え続け、一定の共感を得た。一連の批判や考察は、京大教授・佐伯啓思氏(49)のアメリカニズム論などにもつながり、論壇において保守派の一潮流をつくっている。
しかし、西部氏自身、放った批判の矢がどこまで届いたのか、はかりかねている。「批判を始めて二十年になるが、好ましい兆しはない」ときわめて悲観的だ。そこで、現実的な問いが浮かびあがる。オルテガやマンハイムらに起源をもつ大衆社会論や知識人(エリート)論は現代でも有効なのか、と。
実際のところ、意見は分かれる。社会学者の加藤秀俊氏(68)は、情報化や消費の多様化が進展した結果、大衆社会論の枠組みで、すべての現象を説明できる時代は終わったのではないかと見る。一方で大衆の非合理性、権力やマスコミによる人心操作、知識人・エリートの役割などのテーマは、残されたままだとの声も聞こえる。
いずれにしろ、大衆社会論の遺産を生かすには、社会構造や人々の意識の変化をつねに織り込んでいく努力が大切だろう。
例えば、南山大教授の野田宣雄氏(65)は経済と人間のグローバル化に注目する。
市場経済が世界を覆うなか、競争の激化によって貧富の格差が開き、階層の再編成が起こりつつある。また外国人労働者も増えており、大衆の実像は大きく変わってきているというのだ。
だからこそ、このような地球規模の問題を視野に入れた「新たな大衆社会論やリーダー論が求められている」と指摘する。
歴史や思想風土の違いは、「大衆」の意味合いを異なったものにしてきた。しかし、巨大な人間集団がある限り、大衆(社会)現象は必ず起きる。ならば、それを分析する武器=理論や視座は当然、必要とされるはずだ。(文化部 小林敬和)
[アメリカニズム]
佐伯啓思氏によると、産業主義と結び付いたアメリカ的自由・民主主義であり、モノによって人々の平等を実現しようとする文明のスタイルでもある。行き過ぎた場合には、あくなき利益追求や利己的な権利の主張になりかねない、と氏は語る。
羊の群れが、いつしか工場へ向かう労働者たちの姿に変わっていく。喜劇王チャプリンの傑作『モダン・タイムス』の冒頭シーンだ。一九三六年に作られたこの映画には、チャプリンの演ずる労働者が工場の流れ作業にのみ込まれ、機械の歯車の間を行き来する象徴的な場面もある。
都市に集まる人々、大量生産システムと部品化した個人、失業の恐怖……スクリーンでは、産業化・都市化の進展によって出現した三〇年代半ばの「大衆社会」の様相が苦いユーモアの味つけで展開される。
希代の社会風刺家が映像で描写した時代状況に、社会学者として冷徹な目を向けたのがカール・マンハイムだ。三四年三月七日、英国ロンドン大学ベドフォード・カレッジの講演などで、彼が初めて「大衆社会(マスソサエティー)」という用語を使ったとされている。
〈近代社会は、産業社会としてはあらゆる衝動を抑制し、組織を予測可能なものとする。しかし大衆社会としては、無定形な人間集合に特有の非合理性や激情的暴動を生み出す〉
つまり、企業などの組織体は目的に向かって合理的に運営されていくが、歯車化した個々人の判断能力はむしろ衰退し、衝動的な行動によって社会を揺るがす恐れがあるというのだ。
マンハイムが「産業化された大衆社会」の危険性に注目したのは、ナチズムの台頭を目の当たりにしたドイツでの経験によるところが大きい。そこには彼の出自も深く関係している。
一八九三年、ブダペストのユダヤ系ハンガリー人の家に生まれる。青年期には左翼革命政権にかかわり、その崩壊後にドイツへ逃れた。フランクフルト大学の教授になるが、ユダヤ系ゆえに、権力を握ったナチスによって三三年にはポストを追われ、イギリス亡命を余儀なくされる。
「彼がドイツで見たのは、大衆社会状況のなか、判断力を失った人々がナチスのアジテーションにからめとられ、自由・民主主義が破たんしていく光景だった」と、早稲田大学の秋元律郎教授(社会学)は語る。
ロンドン大での講演は、ファシズムに傾斜しかねない大衆社会の危険性に対する警告であったわけだ。
全体主義的な統制とともに、自由放任主義にも批判的だったマンハイムは、時代の診断にとどまることなく、社会再建の処方せんづくりに乗り出していく。“第三の道”と呼ばれる「自由のための計画」である。
彼は、公正で有能な官僚(エリート)らが議会政治の監視を受けながら、行政・経済・社会などを計画していくべきだと説いた。さらに、自律的で民主的な人格の育成といった教育の意義にも注目する。
「知識人の合理性で大衆の非合理性を制御しようと考えていたが、次第に大衆自身の判断力や資質を高める社会教育的な方向に比重を移していった」。一橋大学の久冨善之教授(教育社会学)の指摘である。
一連の社会計画論は、知識人の一部から評価された反面、「権力の集中は独裁につながる」などと批判も受けた。四六年にはロンドン大教育研究院の主任教授に就任するが、翌年、心臓発作で五十三歳の生涯を閉じる。社会計画論は賛否両論のまま残された。
戦後のイギリスの学界で、マンハイムの思想が顧みられることは少なかった。だが、自由競争が激化し人間の孤立化が進む現在、見直しの動きも出ている。
同大教育研究院のG・ウィッティ教授は評する。「大衆社会の病理分析や過度の自由放任への批判は、今でも有効だ。現代では彼の処方せんは時代遅れだが、“第三の道”は再検討に値するだろう」
六十五年前、マンハイムが歴史的講演をしたカレッジの建物は、ドイツ軍の空襲で破壊された。しかし、「産業化された大衆社会」と思想的格闘を続けた彼の足跡は消えない。私たちに対し、大衆社会に潜む病理についての自覚を促しているかのようだ。
忍び寄るナチズムの足音を聞きながら、マンハイムがドイツで社会学者としての地歩を固めていたころ、ヨーロッパの“辺境”で、大衆社会の到来を苦々しく見つめる視線があった。スペインの思想家オルテガ・イ・ガセット。一九三〇年に出版された『大衆の反逆』は、大衆(社会)論の記念碑的著作といえる。
彼は、ホテルや劇場、果ては海辺にまで人間が「充満」している光景に着目する。本来、優れた少数者向けの場所にさえ大衆は入り込み、今や完全に社会的権力の座に上った。この事実こそ《大衆の反逆》であり、「現代社会」の危機だと断じる。
なぜ危機なのか。答えはオルテガの大衆観から導き出される。彼にとって、大衆とは社会的な階級ではなく、人間の資質の問題にほかならない。つまり、特別な資質を備えていない「平均人」であり、他人と同じことに喜びを感じる人々である。本質的に自分はもちろん、社会を支配・指導することもできない。それが権力の座についたのだから、危険このうえないというのだ。
「オルテガをはじめ、多くの大衆社会論はエリート論と裏腹の関係にある。大衆の登場を前に、いかに自らの地位を守り彼らを導いていくべきか。そんなエリートの危機意識が背後にうかがえる」と南山大学の野田宣雄教授(ドイツ近現代史)は強調する。
《大衆の時代》ともいわれる二十世紀。彼らが政治や社会の表舞台に躍り出たのは、十九世紀末から今世紀初めにかけてのことだろう。しかし、兆しは十八世紀末の産業革命とフランス革命に認められる。産業化は都市への人口集中を促すとともに、大量生産によって人々の生活を平準化・画一化した。一方、民主化の潮流は選挙権の拡大につながり、多数者の政治参加を可能にしたわけだ。
大衆が姿を見せ始めた状況を受けて、十八世紀末あたりから批判的な論考が現れる。例えば、フランスの歴史家トックヴィルは『アメリカのデモクラシー』(一八三五・四〇年刊)で、「多数者の専制」を鋭く指摘。また、フランスの社会心理学者ル・ボンは『群衆心理』(一八九五年刊)で、衝動性や被暗示性などの特徴を明らかにした。これらは大衆社会論のさきがけと見ていいだろう。
こうした流れのなかで、大きなインパクトをもったのがナチズム(ファシズム)の台頭だ。マンハイムがそうであったように、多くの知性がナチズムと大衆の関係に分析のメスを入れた。なかでも、精神分析学者E・フロムの『自由からの逃走』(一九四一年刊)は代表格である。
ドイツ生まれのユダヤ人フロムは、亡命先のアメリカで執筆にかかり、「自由」の問題を中心に据えながら論じていく。
近代において、人々は多くの自由を獲得した。反面、教会や家族などの絆(きずな)から切り離された人間は孤独や不安、無力感にさいなまれる。その結果、権威への服従や他者への同調に向かってしまう――これがナチズムの心理的温床だと診断を下している。
オルテガがエリートの立場から大衆の傍若無人なパワーにいらだちを覚えたのに対し、フロムは大衆の脆弱(ぜいじゃく)性に目を向けたといえる。
「いずれにしろ、大衆社会論に共通するのは、大衆をマイナス・イメージでとらえている点だ。とくにオルテガの批判は、大衆を生み出した民主化と産業化にまで向けられていたと思う」。亜細亜大学の奥井智之・助教授(社会学)は、こう読み解く。
ヨーロッパでまかれた民主化と産業化の種子は、戦後のアメリカで大きく花開く。そこでは自由と消費文明が謳歌(おうか)されるが、「大衆の問題」が改めて顕在化することになる。(文化部・小林敬和)
[大衆の定義]
研究者によって見解は異なるが、一般的には「広い範囲に散在した未組織の多数の人々」であり、特徴として〈1〉画一性〈2〉過剰な同調性〈3〉受動性〈4〉政治的無関心――などが挙げられている。群衆や公衆、民衆との相違についても統一的な定義はない。
*◆大衆社会論(2)
*米国だけで百四十万部を超え、日本や欧州でも広く読まれた『孤独な群衆』(一九五〇年)は、戦後の米大衆社会論のバイブル的存在となった。この本が出た当時は米国が第二次大戦で圧倒的な勝者となり、力強く自信にあふれていた時代だ。
「戦争が終わってみたら米国は抜きんでた存在になっていた。この社会をどう理解するか。それが興味をそそったんだ」。米マサチューセッツ州の老人介護施設で、主著者である社会学者のデービッド・リースマン氏(89)は、当時をこう振り返った。
リースマン氏らが対象にしたのは「私が属し、育った教育程度の高い上流中産階級」であり、米社会全体を俯瞰(ふかん)したわけではない。三―四百人に取材し、わずか一年で書き上げた。「社会学の参考書として読まれればいいし、売れ行きも数千部程度」という予測に反し、世界的なベストセラーとなった。
テキサス大のリチャード・ペル教授(57)(米文化史)は学生時代にこの本を読み、組織社会を描いた『組織のなかの人間』(五六年、ウィリアム・ホワイト著)とともに大きな衝撃を受けた。教授によると、『孤独な群衆』が読者を引きつけた理由は「挑発的な社会分析」にあるという。
その例が、米国人を「内部指向型」と「他人指向型」に類型化した大胆な試みだ。「内部指向型」の人間を基本的に方向付けるのは親や権威であり、「他人指向型」社会では、マスメディアなどに登場する同時代人が大きな役割を果たす。
単純化すれば、幼少期からの厳格な価値観を中核にすえているのが「内部指向型」であり、仲間やマスメディアなど外部世界とのかかわりの中で価値観を形成していくのが「他人指向型」だ。
『孤独な群衆』は、当時の米社会が「内部指向型」から「他人指向型」へ移行しつつあることを論じ、大量消費時代を背景に、米社会が生産主体から消費主体に変わることを予測した。
「米国は我々が予測したほどは消費社会になりきっていない。シリコンバレー(マルチメディア産業)を見れば生産社会がまだ強く息づいていることがわかる。この点で我々の予測には誇張があった」。リースマン氏はそう語りながらも、「我々が行った類型化はいまでも通用する」と自信を見せる。
「他人に関心を示すことで、思いやりや寛容の精神をはぐくむ。一方で道徳的な葛藤(かっとう)に関心をあまり示さない」と規定された「他人指向型」社会は、クリントン大統領の不倫もみ消し疑惑に対する米国民の反応に表れている、とリースマン氏は言う。国民の多くが大統領を支持したことを「(「内部指向型」が重視するモラルではなく)親しみやすさを国民が大統領に求めた結果」と、共著者の社会学者ネーサン・グレーザー氏(76)は指摘する。
「我々が提示したのは暫定的な考えだった」(リースマン氏)、「読者は律義に自分たちの社会に類型化をあてはめようとした。(類型化は)えいやーといった調子でやや冒険的なところもあった」(グレーザー氏)というが、「他人指向型が米国の主導権を握る」という予測はすでに現実のものになった。
『孤独な群衆』が書かれた後、米社会では女性、黒人といったマイノリティーの社会進出、テレビの普及という大きな変化があった。リースマン氏らは六〇年代の公民権運動や女権拡張運動を予測はしていなかったが、著書の中で「他人指向型」が持つ多様性や寛容度に温かい目を向けている。社会の大きなうねりを無意識に見通していたのかもしれない。(ニューヨーク支局 寺田 正臣)
[「孤独な群衆」]
米国の社会的性格が〈1〉伝統指向型〈2〉内部指向型〈3〉他人指向型に順次、移行すると分析し、〈2〉から〈3〉への変化を中心に論じた。タイトルについて、リースマン氏は「大衆社会にあって人々はなお孤独を感じているという意味合いがあった」と語っている。
*◆大衆社会論(3)
*◇集団・組織重視の日本◇
米ハーバード大学名誉教授のデービッド・リースマン氏が一九五〇年に出版した『孤独な群衆』。日本では六四年に改訳が出てから毎年のように版を重ね、学術書としては珍しいロングセラーとなっている。
翻訳した社会学者の加藤秀俊・中部高等学術研究所長(68)は「アメリカ人論のパイオニア的作品であり、米社会を学ぶ際の古典」と位置づける。五〇年代半ば、米国に留学し、ハーバード、シカゴ両大学でリースマン氏の教えを受けた。六一年の来日時には二か月つき添い、その後も個人的交流を続けてきた。
第二次大戦中、米国政府は主要国の国民性を知るために学者を動員し、ドイツ人を研究した精神分析学者E・フロムは『自由からの逃走』を、日本人を取り上げた文化人類学者のR・ベネディクトは『菊と刀』を著した。
「戦争が終わり、『それでは自分たちの国民性とは何か』ということで『孤独な群衆』が書かれた。ベストセラーになったのは、戦後のアメリカ人の自画像だったから」(加藤氏)
昔からの慣習に従う「伝統指向型」、個人の価値観を重んじる「内部指向型」、同時代人の動向に絶えず気を配る「他人指向型」。大量生産―大量消費システムとマスメディアの発達がもたらしたアメリカ大衆社会を分析する際、リースマン氏は社会的性格をこの三タイプに分類した。
ほぼ半世紀たった今、加藤氏は「三つのタイプはどの時代にも存在する。大事なことはどれが支配的かだが、大衆の中で他人指向は加速してきた」と言い切る。米メディア事情をみても、ハリウッドの映画資本はますます強力になり、「タイタニック」が話題になれば、それに吸い寄せられるようにみんなが映画館に足を運ぶ時代だ。
日本は、米国を目標に工業化・情報化社会を実現した。加藤氏は現代の日米社会の違いについて二点を挙げる。
米国では、アジアや中南米からの移民が急増した「多民族化の第二波」によって白人中心主義が揺らいでいるが、日本の民族構成はそう変わらない。また、日が当たる十前後の州とその他の州との格差が広がる米国に対し、わが国の大衆社会状況は地方にも及んでいるという。
日系三世で、経営コンサルティング会社「アーサー・D・リトル(ジャパン)」のグレン・S・フクシマ社長(49)は、ハーバード大の大学院でリースマン教授の助手を務めた。日本滞在は十五年を超え、在日米国商工会議所会頭など多くの公職に就く。
学生時代、ベトナム反戦運動を通して体制に反抗した世代として、『孤独な群衆』の印象を「五〇年代のアメリカは経済的に繁栄した。そんな古き良き時代を象徴していると思った」と回想する。
日米を行き来する立場から双方の社会を比較すると、「先進工業国の中では対照的」に映る。「日本では集団を意識しすぎて、個人が軽視されてきた。個人の好みや意見は徐々に尊重されつつあるが、まだまだ集団や組織を重視している。米国以上に他人指向が強いのではないか」
本人は、弁護士資格を取得してロサンゼルスの法律事務所に勤めた後、大統領府通商代表部の日本担当部長、日本AT&T副社長などを歴任した。周囲が何を言おうと、自分で信じる道を切り開く内部指向型のように見える。
加藤氏も「『みんながやるから自分もやる』というのは他人指向型だが、ベンチャービジネスを始める人は内部指向型」としたうえで、「日本の企業社会はこれまで調整型の人間に支えられてきた。そんな日本的経営に陰りが出てきた今、他人指向型は減っていくのでは」と予測する。(解説部 鈴木嘉一)
[「菊と刀」]
ベネディクト女史は現地調査が不可能なため、日本に関する書物や映画、在米邦人との面接などを材料とした。1946年刊。日本人の「義理」「恩」「恥」という観念の解釈を巡り、戦後の日本に大きな影響を与えた。欧米人による日本文化論の名著とされる。
*◆大衆社会論(4)
*◇行き詰まる「階級論」◇
一九〇五年(明治三十八)九月五日、東京の日比谷公園に数万人が詰めかけた。日露戦争の戦後処理について、政府を「弱腰だ」とする「講和条約反対国民大会」。一部は暴徒となって警察署などを次々と襲った。「日比谷焼き打ち事件」である。
「『多数』の勢力の大なるよ……多数を蔑視(べっし)する政事(せいじ)家は禍(わざわい)なる哉(かな)」(『多数の力』)。社会主義者・幸徳秋水の感想だ。そこには民衆のパワーを社会変革の原動力と見なす一種の期待感がのぞく。
集団の力は、知識人たちに少なからぬ衝撃を与えた。政治学者・吉野作造は警戒心をもちながらも、日比谷事件こそ民衆が政治上「一つの勢力として動く」端緒だったと指摘した。今後、そうした傾向が顕著になるだろうと、一四年(大正三)の段階で予測している(『民衆的示威運動を論ず』)。
明治維新以来、日本は「富国強兵」「殖産興業」を国是として近代化を進めた。その過程で都市へ人口が集中し、政治や社会の表舞台に民衆が登場する。今世紀初頭には大衆社会状況が現れていたのであり、秋水や吉野は日本の大衆(社会)論の先陣を切ったといえる。
学習院大学の坂本多加雄教授(日本政治思想史)は指摘する。「大正デモクラシーの時代は、台頭しつつあるマス(民衆、大衆)の力に対する期待、畏怖(いふ)、警戒など、複雑な感情が知識人をとらえていた。ただ、マルクス主義者には期待感が強かった」
事実、マルクス主義思想家の戸坂潤は『日本イデオロギー論』(増補版、三六年刊)収録の論文「大衆の再考察」にこう記す。大衆は時に愚昧(ぐまい)であり、卑俗なものであることを免れないだろう。しかし、「大衆がみずからの支配者となる時……大衆は新しい価値の尺度だ」。
マルクス主義者たちは、都市に群れ集う人々の姿に、革命の担い手であるプロレタリア(無産・労働者階級)像を重ねていたのだ。
思想統制下の戦時中は地下水脈となっていたマルクス主義だが、戦後は再び論壇の大きな潮流となり、知識人の大衆観にも影響を与えた。
ところが、五六年(昭和三十一)に一編の論文が大衆社会論争を引き起こす。雑誌『思想』十一月号に掲載された政治学者・松下圭一法政大助教授(当時)の「大衆国家の成立とその問題性」である。氏はここで今世紀の欧米における大衆国家の成立と問題点を分析し、大衆の概念を明確化しようと試みた。
論点の一つは次のように要約できるだろう。資本主義が独占段階に移行し、新中間層の増加、大量生産の発達、政治的平等化などを促した。こうした社会形態の変化に伴って階級も変質し、労働者階級は国家に取り込まれ、体制内の大衆へと転化していく。
論壇の図式でいえば松下氏は革新・進歩派に属し、一連の論考にも大衆(社会)状況の克服と体制変革を目指す意識がうかがえる。だが、実証的立場から労働者階級の変質を説いた点などがマルクス主義者らを刺激し、「エリート的な主張」などと批判を受けた。
この年はスターリン批判、ハンガリー事件と続き、ソ連や社会主義のほころびが明白になり始めていた。そして経済白書が「もはや戦後ではない」とうたった時期でもある。
「社会主義が行き詰まりを見せる一方で、国内では民主主義が一応定着し、経済復興によって中間層が膨らんだ。彼らを取り込み、革新運動をいかに組み直すかが論壇でも重要な課題になっていた」。信州大学の都築勉教授(政治学)は解説する。
結局、論争は問題提起をしたまま、「六〇年安保」に向かう現実の巨大なうねりにのみ込まれていく。(文化部 小林 敬和)
連載の単行本第3巻「日本の戦争」が刊行されました。「革命編」「ヨーロッパの戦争」も好評発売中
[日比谷焼き打ち事件]
ポーツマス講和条約に反対する民衆の暴動で、これをきっかけに、反対運動は全国へ波及した。背景には戦争の犠牲や物価騰貴などへの不満、怒りもあった。日本における最初の都市型暴動であり、大正デモクラシーの出発点とみる意見もある。
*◆大衆社会論(5)
*◇豊かさが求める「差異」◇
「どうも消費者の意識や好みが多様化してきているように思えましてね」。博報堂生活総合研究所所長の関沢英彦氏(52)は、一九七〇年代にコピーライターとしてマーケティングの最前線にいて、社会全体の消費行動の変化をかぎとった。
八一年には同研究所の設立と同時にスタッフの一員となって多くの調査を実施し、同僚と討議を重ねた。その過程で、漠然としていた印象は確信に変わっていった。
つくり手のねらい通りに人々がモノを買ってくれない、自ら情報を集めて他人とは違った個性的な商品を探し出そうとしている……。横並び意識や画一的な生活様式を特徴とする大衆社会は、終焉(しゅうえん)を迎えたのではないか。見えてきたのは「分割された大衆」の姿だった。
関沢氏は振り返る。「六〇年代は『十人一色』だった消費者の趣味や嗜好(しこう)が、七〇年代から八〇年代にかけて『十人十色』になった。背景には一定の豊かさの達成と情報化の進展があったと思う」
ひと通り家庭電気製品はそろい、自動車も手に入りやすくなった時代。豊かさの均質化の末に、差異への欲求が出始め、様々な情報が消費や生活スタイルの選択肢を実際に広げていったわけだ。
八〇年代に至る戦後日本の社会論の流れをたどってみよう。五〇年代半ばの大衆社会論は「六〇年安保」を経て、市民運動論や地方自治論などに変化する。この時期はまた高度経済成長期でもあり、産業社会論がクローズアップされた。しかし、次第に視点は生産・労働から消費・余暇へと移っていく。
ここで登場してきたのが、消費社会論の色彩を帯びた新たな大衆社会論だ。代表的著作に博報堂生活総研編『「分衆」の誕生』(八五年刊)や、劇作家・山崎正和氏(65)の『柔らかい個人主義の誕生』(八四年刊)などがある。ほかに故・村上泰亮氏(経済学者)の「新中間大衆論」も提出され、八〇年代半ばに大衆社会論は一つのピークを迎える。
山崎氏の場合も「分衆」化といった大衆(社会)の変容に注目しながら論を展開している。七〇年代以降の社会変化の底には、目的志向の硬い個人主義から、開かれた自己表現を大切にする「柔らかい個人主義」への変質がうかがえる。そして個人の顔が見え、人間関係が重視される小規模な集団(例えば社交の場)が台頭しつつある――と。氏は、そこに「顔の見える大衆社会」の予兆を読み取っている。
「出版当時は、新たな消費の勧めと誤読する人も多かった。私が言いたかったのはモノの消費ではなく、実は時間の消費のことだった」
つまり消費とは、効率に関係なくプロセスを楽しむことであり、充実した時間の消耗を真の目的とする行動を指す。一杯のお茶を作法に従い、時間をかけて飲む「茶の湯」は象徴的な例だろう。
一人の人間が複数の小集団に帰属し、プロセスとしての消費を楽しむ社会。それを大衆社会と呼べるのか。
「だれもが経済的に格差の少ない生活をし、同じ水準の情報を分かち合う。私のこの定義に従えば、今も大衆社会といえる。それは無階層社会と言い換えてもよいが、今後、こうした方向へさらにむかっていくだろう」
博報堂生活総研によると、八〇年代と比べ、昨今は消費者の個別化がより進んだが、何かのきっかけで「瞬間大衆」となり、思いもよらない大ブームを生むこともあるそうだ。「人々の動きや将来の社会の予測は、ますます難しくなってきた」(関沢氏)
大衆の多様化と個別化は、時代の読み方にも大きな影響を与えている。(文化部 小林敬和)
[新中間大衆]
「中流階級」とは異なる、労働者や農民をも含んだ「人口の巨大な中央部分」で、60年代に登場してきた。豊かさを享受する一方で、産業社会や近代科学に懐疑も抱いており、その動向は政治や社会に対して大きな影響力をもつと説明される。
*◆大衆社会論(6)
*◇新たな枠組み構築の時◇
アメリカとイギリスで二年ほど暮らして帰国した時は本当に驚き、あきれ果てた。評論家の西部邁(すすむ)氏(60)はそう振り返る。日本の社会があまりに騒がしく、人々の振る舞いが何とも軽薄に見えたからだ。消費行動に「分衆」化の傾向が現れていた一九七〇年代末のことだった。
「経済発展に邁進(まいしん)してきた戦後日本が、まさに大衆文明のクライマックスを迎えようとしていた。巨大な大衆国家アメリカをしのぐほどのあり様に、とても黙っているわけにはいかなかった」
こうして大衆(社会)批判が始まる。氏にとって《大衆人》とは、財産や地位によって規定されるのではない。それはいわば「精神的階級」なのである。自分や社会、時代に対する懐疑を忘れ、己より優れた存在を認めず、現状を肯定的にとらえる人間類型のことだ。
この視点はスペインの思想家オルテガに近い。八三年に出版した『大衆への反逆』が、オルテガの『大衆の反逆』(三〇年刊)を意識しているのは明らかだろう。
自らの時代や社会の価値観を疑わないのが大衆人だとしたら、現代日本でも至る所で見つけられる。とくに近代主義――アメリカ的な自由・民主主義、過度の経済・技術主義、進歩史観、競争社会など――に疑問を抱くことなく、世論や流行に迎合する知識人の姿には我慢がならなかった。批判の矛先は知識人にも向けられた。
「オルテガをはじめヨーロッパの大衆社会論は、結局のところ知識人論に帰結する。とりわけ日本の場合は、近代主義の先頭に立つ知識人こそが大衆人の典型といえる」
現代の悲劇は、少数ではあれ、いつの時代にも存在した“今を疑う人”がいないことだと強調する。
大衆の定義を練り直し、近代主義や知識人まで視野に入れた批判の切り口は鮮やかだった。また伝統や慣習に息づく「歴史の英知」の重要性を訴え続け、一定の共感を得た。一連の批判や考察は、京大教授・佐伯啓思氏(49)のアメリカニズム論などにもつながり、論壇において保守派の一潮流をつくっている。
しかし、西部氏自身、放った批判の矢がどこまで届いたのか、はかりかねている。「批判を始めて二十年になるが、好ましい兆しはない」ときわめて悲観的だ。そこで、現実的な問いが浮かびあがる。オルテガやマンハイムらに起源をもつ大衆社会論や知識人(エリート)論は現代でも有効なのか、と。
実際のところ、意見は分かれる。社会学者の加藤秀俊氏(68)は、情報化や消費の多様化が進展した結果、大衆社会論の枠組みで、すべての現象を説明できる時代は終わったのではないかと見る。一方で大衆の非合理性、権力やマスコミによる人心操作、知識人・エリートの役割などのテーマは、残されたままだとの声も聞こえる。
いずれにしろ、大衆社会論の遺産を生かすには、社会構造や人々の意識の変化をつねに織り込んでいく努力が大切だろう。
例えば、南山大教授の野田宣雄氏(65)は経済と人間のグローバル化に注目する。
市場経済が世界を覆うなか、競争の激化によって貧富の格差が開き、階層の再編成が起こりつつある。また外国人労働者も増えており、大衆の実像は大きく変わってきているというのだ。
だからこそ、このような地球規模の問題を視野に入れた「新たな大衆社会論やリーダー論が求められている」と指摘する。
歴史や思想風土の違いは、「大衆」の意味合いを異なったものにしてきた。しかし、巨大な人間集団がある限り、大衆(社会)現象は必ず起きる。ならば、それを分析する武器=理論や視座は当然、必要とされるはずだ。(文化部 小林敬和)
[アメリカニズム]
佐伯啓思氏によると、産業主義と結び付いたアメリカ的自由・民主主義であり、モノによって人々の平等を実現しようとする文明のスタイルでもある。行き過ぎた場合には、あくなき利益追求や利己的な権利の主張になりかねない、と氏は語る。
*◆シュールレアリスム(上)
*◇人間の深み探る芸術運動◇
一九一四年、バルカン半島に端を発した第一次世界大戦は人びとに衝撃を与えた。一千万人を超す戦死者、国土の破壊、殺りくの手段と化した科学。それまで、人間は文明が切り開く素晴らしい未来を信じていた。哲学者のニーチェは「神は死んだ」と言い、フランスの詩人マラルメは「ああ、われはすべての書を読みぬ」とうたい、世界を支配する権利を神から奪った自信にあふれていた。
その自信を砕いたのが大戦だった。理性で自分をコントロールできない人間の愚かさ、凶暴さ。ヨーロッパ各地で「人間」とは何か、「私」とはいったい何者なのか、と改めて問う新しい芸術運動が試みられた。
フランスの詩人アンドレ・ブルトン(一八九六〜一九六六)は、人間の狂気に迫ることから始めた。
大戦中、二十歳の医学生だった彼は前線に近い仏東部の神経医学センターに配属された。ドイツ軍の砲弾と毒ガスの恐怖で錯乱するフランス兵から、何があったのかを聞き取るのが仕事だった。
その最中、医学生ルイ・アラゴンに出会う。二人はパリの陸軍病院に転属し、深夜の精神科病棟で詩を朗読して過ごした。彼らは、無名の詩人ロートレアモンの詩集『マルドロールの歌』を発掘し、精神錯乱と紙一重の言葉遣いのざん新さを確認し合った。
空襲警報のもと、患者に向かってブルトンはその詩を朗読した。「諸君は見分けられるか、おれの額に、この青ざめた冠を?」
大戦後、ブルトンは、戦前からの文学の主流は繊細過ぎたと考える。『失われた時を求めて』のプルーストも、『若きパルク』のヴァレリーも、戦争という人間の暴力の前で無力だった。
戦場と病棟の狂気――。人間の奥底で何かが動いている。人はそれを理性というベールで隠しているだけではないか。ブルトンらは既成言語の解体を目指すダダイズムに合流し、パリ八区のコンサートホール「サル・ガヴォー」の舞台に立った。
現在もクラシック音楽の演奏会が開かれる伝統のホール。落ち着いたたたずまいは、おしゃれなブティックが並ぶ景色に溶け込んでいる。そこでブルトンらは、観客の気持ちを逆なでする寸劇を演じ、詩を朗読したのだった。
また、新しい詩作の実験も行った。眠りに入る時のおぼろげな意識の中で、二人が交互に詩句を書き、それをつなぎ合わせる実験だった。
「水滴の囚人たち、われわれは永遠の動物にすぎない」
実験のヒントは、医学雑誌で仕入れた精神分析家フロイトの夢の解釈や、自由連想法という神経症患者の診察方法だった。ブルトンたちはこの方法を「オートマティスム(自動記述)」と名付けた。こうして作られた「水滴…」で始まる一連の詩が『磁場』(一九年)にまとめられる。
日常会話や号令、愛のささやき。我々の言葉は、意味の連なりによって成り立っている。その言語から、実用的な意味を抜き取ってしまうことによって無意識を引き出そうとした。それによって、もっと「人間」や「私」が分かるかもしれない。
彼はこれを現実を超えたもう一つの現実(シュールレアル)と呼び、二四年、『シュールレアリスム宣言』を刊行した。そこでは辞書風に次のような定義がされた。
「シュールレアリスム 心の純粋な自動運動」
つまり、理性的な「私」を排除し、睡眠中の夢に似た「純粋な心」で芸術を作るということだ。詩人の大岡信氏(68)は「今世紀の芸術思想でシュールレアリスムほど鮮やかな軌跡を描いたものはない。無意識の深みを探り、論理ではない別の原理を見いだした」と評価している。(大阪文化部 森恭彦)
[ダダイズム]
第一次大戦中のスイス・チューリヒに始まる芸術運動で、伝統を破壊する詩を朗読したり、奇妙な衣装を着ての反芸術的パフォーマンスを展開したりした。ドイツからの亡命作家フーゴ・バルが開いた「キャバレー・ヴォルテール」が拠点になった。
*◆シュールレアリスム(下)
*◇マルクス主義とも結合◇
フランスの詩人アンドレ・ブルトンらによる『シュールレアリスム宣言』(一九二四年)は多くの芸術家に衝撃を与え、間もなくするとパリにシュールレアリスムの風が吹き荒れた。一緒に活動した顔ぶれは多彩だった。
詩人では『苦悩の首都』(二六年)のエリュアール、『パリの農夫』(二六年)のアラゴン……。シャンソン『枯葉』(四六年)の作詞者プレベールもいた。
画家には『ゲルニカ』(三七年)のピカソ、『星座』(四一年)のミロ、『記憶の固執』(三一年)のダリ。写真家のマン・レイに彫刻家のジャコメッティ。映画では『アンダルシアの犬』(二八年)の監督ブニュエル。
難解なシュールレアリスム詩が広く読者を獲得できず、その理論を絵筆で実践した絵画に人気が集まったのは皮肉なことだった。
ちょうどこの時期、もう一つの風もヨーロッパに吹き始めていた。ロシア革命後のマルクス主義の風だ。グループは、フランス共産党とマルクス主義に接近し、芸術の枠を超えた運動へ変ぼうする。
きっかけは二五年に起きたモロッコ戦争だった。宗主国フランスに対し、自由と独立を求めて反乱する現地部族の支援で、彼らはマルクス主義者と協力した。
シュールレアリスムはもともと無政府主義的で、ニヒリズムの傾向が強く、篠原資明・京都大教授は「マルクス主義とは思想的、哲学的に違うが、抑圧からの解放という点で共通していた」という。
共産党側もインターナショナリズムの理想を掲げ、祖国に反逆的な詩人たちと通じるところがあった。
グループは政治活動に乗り出し、二六、七年にかけてリーダーのブルトンら五人が入党した。しかし、仕事は芸術ではなく統計をもとにした経済報告書の作成だった。「プロパガンダしか頭にないのか」。芸術を政治に奉仕させるやり方に失望し、彼らは飛び出した。
ブルトンは、革命と芸術についての考察を詩的自伝『ナジャ』(二八年)に書く。
彼はそこで、パリの通りを行く労働者を見て「この連中が今から革命を起こそうとしているとは思えない」と独白する。続いて「ナジャ」との出会いが語られている。
ナジャは、ロシア語の「希望(ナジェージダ)」にちなんで名乗る女性で、知るはずのない中世の地下道のありかを言い当てたり、赤いカーテンの窓に明かりがつく瞬間を予言したりした。「あぜんとさせる符合」に心震えたブルトンは、その感動を「痙攣(けいれん)的な美」と呼んだ。そうした美学はダリなどの絵画に引き継がれた。
「君はだれか」と問われると、ナジャは即座に「私はさまよえる魂」と答えた。それは芸術と革命の世界で絶対の自由を追求するブルトン自身の姿でもあった。
シュールレアリスムは、ソ連のスターリンの指示に忠実な共産党と相いれなかった。だが、ブルトンは革命支持の姿勢は維持した。
三五年のパリでの国際作家会議には、共産党の妨害で出席を拒まれたが、仲間に演説草稿を代読してもらった。「『世界を変える』とマルクスは言い、『人生を変える』とランボーは言った。この二つのスローガンはわれわれにとって一つのものでしかない」。これがシュールレアリスムの変わらぬ立場だった。
シュールレアリスムについて、新宮一成・京都大助教授は「『構造主義』をはじめ、フランスの思想に影響を与えた」と語る。「想像の世界を広げ、予想もつかないイメージを結合する」という思考法。グループは六九年に解散したが、二十世紀の新しい感性を確かに引き出した。(大阪文化部 森恭彦)
[戦後のシュールレアリスム]
アラゴン、エリュアールが共産党へ走り、第二次大戦中、ブルトンがニューヨークへ亡命したため影響力は低下したが60年代まで継続。ブルトン自身、錬金術を扱った『秘法十七番』や美術評論の『魔術的芸術』などで芸術の新しい可能性を追求し続けた。
*◆実存主義
*◇「自由への道」世界に説く◇
フランスの哲学者で作家のジャンポール・サルトルは、伴りょの作家ボーボワールとともに、パリのモンパルナス墓地に眠る。二人の名前を刻む簡素な大理石の墓に、赤いバラや白ユリを手向ける人々がいまも絶えない。一九八〇年四月、サルトルが七十四歳で亡くなったとき、葬列に従ったパリ市民は五万人を数えた。
そのサルトルの「実存主義」は、第二次大戦後のパリをせっけんした。背景に戦時の特殊な状況があった。パリは四〇年六月にドイツ軍にじゅうりんされ、四四年八月に連合国軍によって解放されるまで占領下に置かれていた。そこでは映画「凱旋門」に描かれた恐怖と戦りつと絶望が支配した。ドイツの秘密警察ゲシュタポによる逮捕、銃殺、収容所送り、命がけのレジスタンスと密告、裏切り……。
この不条理の世界にどう立ち向かうか。サルトルの『存在と無』(四三年)が回答を示した。「実存は本質に先立つ」、人間は自由への道を進む責任があるという訴えが知識人をとらえた。
つまり人間の「本質」を決める神はこの世にいない。だから、人間は最初から何者とも決められないもの、すなわち「実存」だった。人間は自由そのものであり、主体的に自分を作っていく存在だ。
戯曲でも市民に説いた。占領下に上演された『出口なし』は、不条理なパリを出口のない部屋に例えた。男女三人が、ホテルの一室のような場所に閉じ込められている。互いに疑心暗鬼になって「他人こそ地獄だ」と叫ぶ。だが、自由を得るという一点で協力し、脱出を試みる。
戦後もサルトルの活動は続く。共産党やカトリックの批判にこたえた『実存主義はヒューマニズムである』(四六年)が爆発的に売れる。新聞や雑誌が彼の姿を伝え、実存主義は最新モードのように世界に広がっていった。
発信地はセーヌ左岸のサン・ジェルマン・デ・プレ。サルトルは、アパルトマンから見下ろすカフェに毎日のように姿を現し、テーブルで『恭しき娼婦』『汚れた手』などを書く。そのカフェには作家やジャーナリスト、大学教授、俳優らが集まった。
シャンソン歌手のジュリエット・グレコ(72)は「役者を目指していた私に『歌え』って言ってくれたのはサルトル。気さくな人で、詞も書いてくれた」と振り返る。
サルトルとボーボワールが創刊した総合雑誌『レ・タン・モデルヌ』の現編集長クロード・ランズマン(73)は「未来への扉がパッと開かれた時代だった。サルトルはペンを剣として戦った。労働者を抑圧から解放しようという立場は明快だった」と証言する。
サルトルは、さらに行動を提起した。「アンガジュマン(知識人の政治参加)」だ。自ら政治文書を書き、デモの先頭に立った。
だが五〇年に朝鮮戦争が起き、東西のイデオロギー対立が深まると、思想の異なる人々は別のカフェへ移動していった。ヒューマニズム(人間中心主義)という中立的な態度は認められず、結局、彼は人間の解放を約束するマルクス主義を選択し、ソ連に近づく。しかし後年、その実態が明らかになると離れた。海老坂武・関西学院大教授は「ソ連に引きずられて、政治面では判断を誤ったのは確か。ただし、フランス社会の偽善とかゆがみとかを明快に説明するなど歴史、文学研究では先端を行った」と評価する。
七〇年代、毛沢東派を支持したサルトルを当局はつけ狙う。しかし、ドゴール大統領の「ヴォルテールは逮捕できない」という生前の言葉を引用したマスコミのキャンペーンで逃れた。サルトルの声望は、十八世紀の啓蒙(けいもう)学者に比べられるほど高かった。(大阪文化部 森恭彦)
[ボーボワール]
「自分より完全な、自分に近い人間」サルトルに出会って終生を共にする。『招かれた女』『他人の血』で地歩を築き、『第二の性』は現代フェミニズム運動の先駆となった。サルトルと創刊した雑誌『レ・タン・モデルヌ』を拠点に左翼知識人としての主張を展開した。
*◆構造主義(上)
*◇「人間中心」時代へ戒め◇
一九六〇年、第三世界が動き始めた。植民地戦争はアルジェリアに民族解放の道を開き、ほかの仏、英領アフリカも相次いで独立を目指した。サルトルらフランスの知識人はこれらの運動を熱心に支援した。だが、そのやり方は現地の民族にフランス流を押し付けるものだった。そうした姿勢を、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは『野生の思考』(六二年)で厳しく批判した。
レヴィ=ストロースは現在九十歳。パリの学術研究機関「コレージュ・ド・フランス」の名誉教授を務め、今も研究に打ち込む。インタビューに応じた教授は、未開民族について「彼らを野蛮人と思ってはいけない。彼らの社会は、西欧と同じように精密な論理体系でできている」と熱っぽく語った。
レヴィ=ストロースが初めて南米アマゾン奥地にカヌーでたどり着いたのは三五年。目的はインディオのボロロ族などの調査だった。「伝統に忠実な社会を眼前にして、うろたえてしまうほどだった」と振り返る。
村の住居の配置から男たちのペニスケースのデザインまで精査しているうち、だれとだれが結婚でき、できないかという掟(おきて)が厳然と存在し、実はそれによって氏族が安定して存続していることに気付いた。
複雑な結婚の規則。彼はさらにアジアなど何百もの民族を研究した。そこから法則が浮かんだ。近親婚の禁止は、社会的存在としての人間の本源的な約束事だ。原初の時代、人間はばらばらに暮らす自然状態にあったが、結婚が氏族間で行われるようになって社会が形成された。つまり、近親婚の禁止が人間社会を成立させているというのだ。
このことは、目に見えない「構造」が社会や文化を決定していることを物語る。研究をまとめた『親族の基本構造』(四九年)は、人間の意思が世界を変えると主張する知識人に衝撃を与えた。
詩人オクタビオ・パスは、著書『レヴィ=ストロース』(六九年)で、彼の思想を地質学に例えた。「見えない地層こそが、表層を規定している」。後に「構造主義」と呼ばれる思想の誕生だ。
さらにレヴィ=ストロースは約一千の神話群を分析した。太陽や月の誕生、火の獲得などストーリーは複雑多岐だが、それらから基層となる考え方を抽出し、「自然と文化の矛盾を受け入れる精妙な原理として神話が存在する」と、『神話論』(六四―七一年)で発表した。
この世界は人間中心には作られていない。自然史の中の瞬時の歴史が人間の世界だ。未開社会の神話の中にこそ、この宇宙と交わりながら生きていく人間の知恵が潜んでいる――と訴えた。そして、「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」(『悲しき熱帯』)という衝撃的な一行を世に問う。
ヨーロッパの社会は、「神は自分に似せて人間をつくり、他の動物も人間が役立てるようにつくった」(聖書「創世記」)と、人間中心を掲げた。サルトルの実存主義も神の手を逃れているとはいえ、人間中心主義だった。
歴史の先頭を走っていると信じてきた西欧にはいま、破滅の最先端にいるのではないかという不安が広がっている。「意識」「自由」など実存主義的言葉はあまり聞かれなくなった。人びとは「構造」や「コード(規範)」「規則」といった用語で世界や人間を語り始めた。
川田順造・広島市立大教授は「彼の思想は人間のおごりを戒める壮大なペシミズムだ。地球規模の乱開発、環境汚染など難問が、人間中心主義の再検討を迫っている今、大きな意味を持つ」という。構造主義は、人間中心主義に百八十度の転換を迫ったのだ。
(大阪文化部 森 恭彦)
[構造言語学]
スイスの言語学者ソシュールの『一般言語学講義』(1916)に始まる。個々の要素より、要素と要素の関係を重視する。例えば音韻を考えるとき、音そのものは意味がなく、音と音との違いが作る体系こそ意味を生むと考える。これをモデルにした人文、社会科学の方法を構造主義という。
*◆構造主義(下)
*◇ごう慢な近代社会に挑む◇
先進国は経済成長期にあって、繁栄は永続するかにみえた。一九六〇年代のこと。左翼知識人は、ソ連型社会の素晴らしい未来を信じた。
そんなムードに、構造主義の哲学者ミシェル・フーコー(二六―八四)が冷水を浴びせた。「人間は、波打ち際の砂に描かれた顔のように消え去るだろう」。六六年に発表された『言葉と物』の結びだ。米ソがし烈な宇宙競争を展開していた時代で、まるで宇宙船から見下ろしているかのような予告だった。
神に代わって、全知全能のように振る舞う人間の限界を説いた「人間の終焉(しゅうえん)」宣言に、パリは大騒ぎとなった。ブームに乗った本は「菓子パンのように売れた」と言われ、パーティーでも「構造」が話題にのぼった。
サルトルは、宣言が主体的な政治行動(アンガジュマン)を否定するもので、保守派を利するだけとして、「フーコーは、ブルジョワジー最後のとりでになった」と非難した。
しかし、「それは的外れだった」と、パリ第八大教授ダニエル・ドゥフェール(61)は、かつてフーコーと暮らしたマンション八階の部屋で膨大な本に囲まれて話す。
フーコーによれば、近代的な主体性を持った「人間」の概念は、一八〇〇年前後に生まれた新しい考え方にすぎない。経済学や生物学など誕生したばかりの学問がそれを促したという。それまでは神が人間を動かしていたので、人間には主体性は認められなかった。
「人間は素晴らしい」「人間らしくあれ」というスローガンがあふれた。しかし、その裏には「非人間は駄目」という近代のごう慢さが潜んでいた。自然を壊し、生き物を平気で殺す。異民族や同性愛者は排除する。そんな「人間」はいずれ消滅するという予言だった。
フーコーも同性愛者という点で、「非人間」の一人だった。石田英敬・東京大教授は「自分の性的コンプレックスから抜け出そうとして、それが西洋文明のかたよりに発していると気付いた」と話す。
先進国の繁栄の陰で、七〇年代に入ると、途上国は戦争と貧困に襲われる。難民は海を渡ってヨーロッパにたどり着き始めていた。だが、「近代合理主義」に抗議する人々は監獄に閉じ込められた。
フーコーは監獄情報集団を結成し、彼らの救援に、またポーランドの労組「連帯」の支援に、デモの先頭に立った。傍ら、六〇年代の『狂気の歴史』に続いて、『監獄の誕生』『性の歴史』などを次々に発表した。『フーコー伝』の著者ディディエ・エリボン(45)は「彼は人間の狂気や性を洞察し、監獄論を通じ人間社会の横暴に立ち向かった」と解説する。
共産党の異端、ルイ・アルチュセール(一八―九〇)も人間中心主義を疑った思想家の一人だった。彼は党の方針「マルクス主義的ヒューマニズム」をも否定した。
アルチュセールによれば、マルクスが描く人間主体はイデオロギーの命ずるままに動く。イデオロギーは社会構造が決定するので、ここでも人はゆがむという。
今村仁司・東京経済大教授は「出来事があると、近代科学は一つの原因をあてはめようとするが、アルチュセールは複数の原因を考えた」と指摘する。そのうち決定的な原因が経済であり、マルクスは「下部構造」と呼んだ。フロイトの「無意識」、レヴィ=ストロースの地層としての「構造」と同じで、地中に隠れた土台なのだという。
見えざる「構造」を求めた思想家たちだが、アルチュセールは八〇年、妻を絞殺して精神病院に入り、フーコーは八四年にエイズで亡くなる。この間、人間の無意識がどこからくるのか探った精神分析家ジャック・ラカンも死に、構造主義の時代は幕を閉じた。
(大阪文化部 森 恭彦)
[主体]
認識し、行為、評価する我のこと。「我思う、故に我あり」としたデカルトを祖として、近代的な「主体」の哲学が確立。サルトルはその最後の代表者。しかし、フロイトが発見した無意識により、人は思わぬうちに行為に駆り立てられることが分かり、構造主義は「主体」を世界の中心からわきに追いやった。
**『中国革命』**
*◆歴史再評価(上)
* ◇書き直される「正史」◇
数ある勝利のうちでも、最も人間的な勝利、何のためらいもなく愛しうる唯一の勝利――フランスの哲学者、故ジャン・ポール・サルトルはかつて、中華人民共和国建国に至る中国革命の勝利を、こう表現した。西欧の偏見の目にさらされ、屈従を強いられてきた中国。中でも最底辺の貧農たちが成し得た革命の勝利に、エールを送ったのだ。
それは世界の多くの知識人や労働者、農民たちとも共有する感情だった。その後、毛沢東が指導した人民公社や大躍進運動、文化大革命といった壮大な“社会主義の実験”にも強い関心を寄せた。
六〇年代、一方で、先進国と途上国との対立、矛盾があり、先進国内部では、日本の学生紛争、パリの五月革命(六八年)など学生や労働者が既存の体制に挑戦を試みていた。
東京でもパリでも、毛が説いた「造反有理(ぞうはんゆうり)(反抗する者には道理が有る)」が学生の心をとらえた。
「当時、左翼知識人たちはソ連の硬直化、官僚化傾向に疑問を抱き、中国で何が起きているのか、よく分からないまま、文革を革命再活性化のアピールとして受け入れた。いま彼らにとって、この時期の経験は苦痛に満ちたものだ」
現代フランス思想研究の第一人者、ミシェル・ビノック・パリ政治学院教授はそう回想する。
南米では、いまもマオイスト(毛沢東主義者)を名乗る農村ゲリラが闘争を展開する。
実験は失敗に終わった。イギリスに追いつけと意気込みだけで実態を無視した大躍進運動は人為的な大災害を誘発し、公式統計はないが、餓死などの犠牲者は二千万とも三千万ともいわれる。内戦寸前の動乱に発展した文革では一億人前後の人が直接、間接の迫害を受けた。中国の実像は“竹のカーテン”に覆われ、マオイストたちは幻想に踊ったのだった。
その絶望と被害の大きさは、旧ソ連を上回るといってもよい。だが、中国共産党の支配体制は続き、社会主義最後の砦(とりで)の感さえある。現体制から「功績七分、誤り三分」との評価を受ける毛は、タクシー運転手がお守りに肖像写真を車内にぶら下げるほど、民衆の間では信仰の対象だ。階級闘争から経済建設に転換し、以前に比べ豊かな消費生活も始まったのに、老幹部は「昔は理想があった」と毛時代を懐かしむ。
革命体制が崩壊したロシアと違って、中国では、革命の歴史や現状を語り始めると、外部からでは不可解な現象が次々と見えてくる。情報の公開も表現の自由も依然不十分であり、事態はサルトルが語ったほど、明快ではない。
◇
一党独裁の国では、党史は支配の正統性を誇示する重要な政治的文書だ。中国にも党史研究室という党直属の機関がある。胡縄(こじょう)・中国社会科学院院長が主任を兼務、スタッフは二百人を超え、上部の指導グループには楊尚昆(ようしょうこん)・前国家主席らが控える。
だが、個別の事件や指導者に関する資料や研究などを数多く編纂(へんさん)しているが、外部の疑問に答える本格的党史はない。常に激動の波に洗われてきた党の歴史を書くことは容易ではない。
中国共産党史研究が専攻の村田・横浜国立大学教授は「党史が無いわけでない。八一年に党中央委員会で『建国以来の党のいくつかの歴史問題に関する決議』がなされたし、党創設七十周年の九一年に『中国共産党の七十年』が出た。同じ年、『中国共産党歴史』というもっと詳細な党史が研究室から出ている。しかし、建国(四九年)までの上巻が出ただけで、未完のままだ。やはり、毛の評価には、複雑な要素が多く、簡単には評価が下せないのでは」と、推測する。
その「中国共産党歴史」の編纂がいま本格化している。同研究室の幹部、石仲泉(せきちゅうせん)・中国党史研究会副会長は「上巻も書き直しの対象になっている」と明かす。改革・開放路線が二十周年を迎え、政治的にも安定度を増し、本格的な党史を持つゆとりが出てきたのだ。
上巻書き直しの基礎になっているのは、昨年秋の第十五回党大会での江沢民総書記の政治報告だという。「未完の革命」を支える人々は、激動の跡をどう描こうとしているのだろうか。
*◆歴史再評価(下)
*◇「民族の解放」強調◇
中華民族は一九〇〇年、八か国連合軍による北京占領で、大きな屈辱をこうむり、国家は滅亡の危機にひんした――第十五回党大会の冒頭、政治報告に立った江沢民総書記(国家主席)はこう切り出し、二十世紀を回顧しながら、来世紀に向けた指導方針を示した。
江報告は、「社会主義」という文言は使いながらも、この百年の革命の目標が、「民族の解放」や「中華の振興」「国の繁栄・富強」にあったことを強調した。その上で「この一世紀、前進途上で三回歴史的な大変化を体験し、時代の先頭に立つ三人の偉大な人物――孫文、毛沢東、トウ小平が現れた」と指摘し、その実現に貢献した共産党体制の堅持を宣言したのである。
党史研究室では、この報告を基礎に「中国共産党歴史」の上巻の書き直しに入ったという。
石仲泉副会長は「上巻は辛亥(しんがい)革命の後から書き起こしているが、江報告では、二十世紀の三つの重要な歴史的変化として、孫文の辛亥革命を挙げた。報告は幅広い視野に立っており、多くの専門家も辛亥革命から書く方が、党の真の歴史の発展状況を反映できるという意見だ」と説明する。
従来、中国では、党史(現代史)の起点を、五四運動(一九年)において書くケースが主流で、「民族解放」をキーワードに、中国革命を辛亥革命から説き起こすことの政治的意味は大きい。
なぜならロシアの十月革命に触発され、知識人、青年が立ち上がり、マルクス主義が革命理論として導入された「五四運動」に起点を置けば、「社会主義革命」色が強まる。一方、辛亥革命とすると、江報告が指摘するように「中華を振興する民族民主主義革命」色が強まる。
辛亥革命は、八一年の歴史決議でも「清王朝を覆し二千年余りの封建帝政を終了させた。だが、中国社会の半植民地、半封建的性質は変わらなかった」との評価しか与えられていない。
江報告では、「孫文はまず『中華を振興しよう』というスローガンを打ち出し、完全な意味での近代民族民主主義革命を切り開いた」「中国の進歩のために道を切り開き、反動的な支配秩序をこれ以上安定できないようにした」と、毛による建国、トウによる経済建設と、同格に論じた。
現代中国論専攻の矢吹晋横浜市立大教授は「ロシア革命と違って、確かに中国革命は民族解放の面がある。社会主義が事実上失敗したいま、この面を強調した方が、現政権の正当化ができるということだ。そこまでさかのぼれば、香港返還後の最大課題である台湾統一にも、環境作りができる」と分析する。
民族解放の強調は、毛の異常ともいえる自力更生路線や大躍進運動への執着も説明しやすい。
問題は孫文が始めた「民族民主主義革命」を結局、共産党が担ったことだ。石副会長は「中国は半植民地、半封建の状態に置かれ、帝国主義列強は資本主義の道を許さなかった。結局、共産党を中心とした新民主主義革命という形を取ることになった」と解釈する。
この道は本来のマルクスの理論からはみ出しており、毛は、経済を十分に発展させる新民主主義段階、その上に、労働者階級が担うべき社会主義革命という二段階論を想定した。
だが、毛は五年と待てず、経済基礎のないまま、焦って社会主義への道を突っ走った。その誤りが大躍進や文化大革命の悲劇を生んだというのが公式見解だ。
毛の後を受けたトウは、二段階論に戻り、「社会主義初級段階」という理論を編み出した。この理論によれば、現在は社会主義ではあるが、まだその実現のための条件を整える経済建設中心の初級段階という。その期間は百年で、来世紀半ば、中国は真の社会主義の段階に入る。トウは安定を重視し、事実上革命を棚上げする「未完の革命」という形で、党の支配体制に息を吹き込んだのだった。
◇
毛の革命はなぜ暗転したのか。トウの改革はなぜ党の支配を延命させることができたのか。多様な側面を持つ中国革命を、その歴史と風土の中で考えたい。(高井潔司)
[五四運動]
1919年5月4日の北京の学生デモに始まった中国初の全国的な大衆運動。陳独秀(ちんどくしゅう)ら知識人による思想革新運動やロシア革命の成功などの影響を受け、反帝・反封建主義を訴えた。
第一次世界大戦後のパリ講和会議で、ドイツの山東省権益が中国に返還されず、日本に譲渡されることが決まった。これに激怒した北京大学などの学生が同日、講和条約反対を叫び、北京市内で抗議デモを繰り広げ、条約は結局、調印拒否に追い込まれた。運動は全国に波及、その矛先は、中国を半植民地化していた帝国主義列強のほか、列強と結んだ政府や各地の軍閥、中国の伝統的な社会制度や文化にも向けられ、共産党創設への先駆けとなった。
*◆辛亥革命 栄光と挫折(上)
*「君、見たまえ。日本人は我々を『革命党』と呼んでいるぞ」
日清戦争の敗北で清王朝の落日が鮮明となった一八九五年十月。当時二十八歳の若き革命家、孫文は、広東省広州で最初の武装蜂起(ほうき)を企てた。しかし、密告で計画は決行寸前に露見する。懸賞金「銀一千両」の探索を逃れ、同志二人と上陸した神戸で目にしたのが「支那革命党の首領、孫逸仙(いつせん)(孫文の字(あざな))、日本到着」を伝える現地の新聞だった。
清末まで王朝交代(易姓革命)と同義語だった「革命」の二文字に孫文らは一種の霊感を感じている。
「(中国語の)発難、起事より深遠な意味がある。革命、革命、革命党……。素晴らしい言葉だ」
revolutionの日本語訳「革命」との出合いを機に、孫文は清朝圧政の象徴である弁髪を切り落とすとともに「革命家」「革命党」を名乗る。その十六年後に結実したのが二千百年余の専制王朝体制に終止符を打った「辛亥(しんがい)革命」である。
この間、孫文は広州蜂起を手始めに十回の武装蜂起を試み、敗退している。孫文の指揮不在のまま一九一一年十月十日、湖北省武昌(現・武漢市)で起きた十一回目の蜂起がついに成功し、翌年一月南京での「中華民国臨時政府(臨時大総統、孫文)」樹立へと進展していく。
列強による半植民地化と腐敗の蔓延(まんえん)で命脈の尽きていた清朝に、“最後の一撃”を加えたのが武昌蜂起だった。南京市・中国第二公文書館の王暁華氏ら研究スタッフは、革命勢力の主力となった「新軍」と、革命支援基地としての「日本」の存在こそ、蜂起成功の要因だったと見る。
◇
「革命二文字との邂逅(かいこう)」逸話が示すように、孫文と日本の縁は極めて強い。日本での亡命生活は九年に及び、後にアジアの革命運動の支援者として知られる宮崎滔天(とうてん)、国家社会主義の理論的指導者となる北一輝らと同志の絆(きずな)を結ぶ。一九〇五年には、革命勢力を大同団結し、辛亥革命の母体となる「中国同盟会」を東京で結成した。
当時、日本には孫文のほか、湖南省長沙の革命結社「華興会」のリーダー、黄興や、体制内の変法(改革)を訴え、西太后ら守旧派に追われた立憲君主派の大物、梁啓超(りようけいちよう)らが亡命していた。しかも「清朝派遣の中国人留学生らは一万五千人に達し、その多くは、革命派の巨頭やアジア唯一の列強国、日本の実情に刺激され、次々と革命に身を投じていった」(中国第二公文書館研究陣)。まさに「日本は中国革命力量の集積地」(同)だったと言える。
実際、武昌蜂起では、清朝が西欧式に編成した「新軍」兵士を帰国留学生らが感化し、「湖北新軍一万六千の三分の一は革命同盟会傘下」(武漢市・辛亥革命記念館文献)というありさまだった。本来、体制側だった新軍と帰国留学生が、体制を内側から崩す“トロイの木馬”の役割を果たす結果となったのである。
日清、日露の戦勝でナショナリズムの燃え盛る日本も、官民挙げて革命支援に動いた。
孫文は「日本はアジア最強の国、中国は東洋最大の国。両国が提携できれば、東洋平和だけでなく世界平和の維持もたやすい」と説き続けた。東洋は西洋に勝てないという神話を打ち砕いた日露戦争を「全アジア民族が驚喜し大きな希望を抱いた」と絶賛している。この時期の日中連携は、東洋が西欧列強に蚕食されていく危機感を背景に、アジアナショナリズムが共鳴しあった一瞬でもあった。
孫文は軍閥混戦を収束するため死去前年の二四年、広東から北京への途上、わざわざ神戸に立ち寄り、「大アジア主義」と題し、生涯最後の講演を行った。
「日本民族は欧米の覇道の文化を取り入れると同時に、アジアの王道文化の本質も有している。日本が、西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の干城(かんじよう)(守りの兵士)となるのか、日本国民の熟慮と慎重な選択にかかっている」
中国の現代史家が「日本の革命支援の動機の大半は、帝国主義に依拠していた」と一様に批判する通り、日本は孫文の警句とは逆の中国侵略という覇道をさらに強めた。
*◆辛亥革命 栄光と挫折(下)
*辛亥革命は、中華民国成立による清帝溥儀(ふぎ)の退位を経て、清末の新軍創立者、袁世凱(えんせいがい)による権力纂奪(さんだつ)、そして袁政権打倒に決起した「第二革命」が精強を誇る袁の北洋新軍の前に敗れ去った一三年九月をもって終息する。
溥儀を退位させる詰めの駆け引きの中、在職わずか四十余日で大総統職を袁世凱に譲った孫文は、袁の病没後の軍閥割拠に対抗して広東軍政府を組織し、真の共和国建設をめざし再起する。
しかし、二五年三月、「余が国民革命に尽力すること四十年。その目的は中国の自由と平等の希求であり、目的達成のためには民衆を喚起し、我々を平等に遇する世界の民族と連合し、共に奮闘すべきことを深く知った。革命、いまだ成らず」の遺訓を後世に託し、北京で病死した。
中国革命の先陣を切った辛亥革命の栄光がかくも短く、挫折が深かったのはなぜだったのか――。
◇
「辛亥革命は成功だったのか失敗だったかについてさえ、一致した見解はない。満州族征服王朝による民族圧迫を覆した点では勝利であり、独立、民主、富強の新中国建設が革命の目標だったとすれば完全な失敗といった論まである」
辛亥革命研究の拠点、華中師範大学(武漢市)の厳昌洪・歴史研究所長が強調するように、辛亥革命の背景には、清朝の自壊、西欧列強の圧迫、国内の民族対立、資本主義の萌芽(ほうが)など、複雑な要素が絡みあっている。中国の史学会では、改革・開放の観点から「当時の社会土壌全般を含めた辛亥革命の再検証が進んでいる」(厳所長)が、革命勢力の内部矛盾に西欧列強の介入が重なり、革命の短命さを倍加したとの見方では一致している。
一二年一月に成立した中華民国臨時政府の構成を見ただけでも、国務員(大臣)九人のうち革命派は三人に過ぎない。残りは立憲君主派、旧官僚が占めた。北洋軍閥を握る袁世凱の担ぎ出しはこうした守旧派のほか、革命派に警戒を募らせていた英国など列強が早くから裏で加担していた。
つまり、「三民主義」が象徴する共和制とはほど遠かったのが実態であり、理想国家を目指す孫文の卓越した先見性だけが、栄光に値するものだった。
◇
その先見性を示すのが「中華民族」論である。
「民族の危機に直面した孫文は、最初の革命団体を『興中会』と命名した。以来、中華振興は今世紀を通じ、『中華民族』を奮い立たせ、励まし、凝集する中心スローガンとなってきた」
中国共産党中央党校・副校長が論じるように、一八九四年に結成した興中会の入会宣誓は「韃虜(だつりょ)(満州族)を駆除し、中華を恢復(かいふく)し、合衆政府を創立する」であった。さらに臨時大総統就任宣言で孫文は、「漢、満、蒙古、回、チベットの諸民族を合わせて一人とし、これを民族統一とする」と唱えた。
この「五族共和論」は、清朝が取った満州族中心の異民族支配策と通じることもあり、孫文は軍閥政治の混乱期となった二〇年前後に「五族という名称は不適切だ。中国のすべての民族を一つの中華民族に融合しなければならない」と軌道修正した。
これが「現在、中国で用いられている『中華民族』という観念語の起源」(古田博司筑波大学助教授)とされる。それまで、自国の美称「中華」と「民族」は別領域の用語だった。孫文はこの二句を合体させ「中華民族という近代ナショナリズムの形成を訴えた」(同)のである。
孫文の「中華民族」開眼の引き金となったのが、ロシア革命と「五四運動」(一九一九年)だった。
日本の対華二十一か条条約、第一次大戦後のパリ講和会議を糾弾する一大政治運動の「五四運動」について、若き毛沢東は「最近になって、政治の混乱、外患の圧迫によって(民族の)自覚はいっそう高まり、ついに大連合の動機が生じた」と評し、中国革命の転換点を喝破している。
孫文が生命を吹き込んだ「中華民族」は、改革・開放政策で「富強」への足掛かりをつかんだ今日、海外同胞までを視野に入れたナショナリズムの旗印となりつつある。
ただ、列強の圧迫の下、「中華民族」の革命実現には、強力な党と軍の出現を待たねばならなかった。(北京 大江志伸)
*◆国共合作(上)
*◇ソ連に学んだ“双子”◇
一九二四年六月十六日、中国広東省広州の東郊。ソ連式軍服に身を包んだ五百人余りの凛々(りり)しい若者が一糸乱れぬ姿で整列している。壇上に居並ぶ軍閥の領(りょう)袖(しゅう)たちの目は、高い士気と規律の備わった新式軍隊の威容にくぎ付けとなった。
国民党の孫文が、ソ連の率いるコミンテルン(共産主義インターナショナル)と生まれたばかりの中国共産党との協力で設立した「黄埔(こうほ)軍官学校」の開校式だった。それは、孫文が夢にまで見た政治教育で理論武装した「革命軍」つまり党軍誕生の記念すべき第一歩であり、中国革命を仕切り直す転換点でもあった。
孫文は興奮した面持ちで、「(辛亥(しんがい))革命以来、今日までの十三年間は、完全な失敗だった。原因はわれわれ革命党に奮闘はあったが、革命軍の奮闘がなかったからだ。本校の学生を基礎に、革命軍を創設し、中国の危急存亡を救おう」と、歴史的演説を締めくくった。
悲願の革命軍創設と軍官学校開設に当たり、孫文はなぜコミンテルンと共産党の力を必要としたのか。台湾・中央研究院の呂芳上(ろほうじょう)・近代史研究所所長(53)は「(各地に群雄割拠する軍閥混戦の中)苦難に満ちた戦いを強いられた孫文は、局面打開を図ろうとした。日本など西側への失望が徐々に広がる一方、ロシア革命の一連の経験を取り入れたいとの思いが強まったのだ」と説明する。
もちろん、孫文の危機的な状況を前に、コミンテルン側の精力的な働きかけがあった。コミンテルンから派遣されたマーリンは「国共合作(がっさく)」を提案。これを受け、孫文は党内右派の強い反対を押し切り、二三年一月、ソ連との協力をうたった「孫文・ヨッフェ宣言」を発表、「国共合作」を打ち出した。共産党員が党籍を保持したまま、個人の資格で国民党に入党する方式で、対等な協力ではなかったが、翌二四年一月、広州で開かれた国民党の第一回全国代表大会で、「国共合作」は正式に決定された。同時に、孫文は革命結社である国民党から、大衆討議が可能となる委員会制と民主集中制を導入したソ連共産党型政党への改組作業に着手した。
これこそ国共両党が「双生児」といわれる理由である。鄭可益(ていかえき)・華南師範大学助教授は論文「第一次国共合作の組織的基礎を論じる」の中で「国民党は党の建設に当たり、ソ連共産党を師として、組織原則や組織規律を学んだのだ。両党の組織制度上の接近が第一次国共合作を現実のものにした」と指摘している。
「黄埔軍官学校」開設に先立ち、孫文は、二三年九月から三か月、腹心で軍人出身の蒋介石をモスクワに派遣、赤軍の組織原理など「ソ連経験」を吸収させた。赤軍の訓練や装備、組織は、後に同校校長となる蒋介石に大きな影響を与えた。だが、その一方で、蒋は、著書「中国におけるソビエトロシア」の中で、「(共産党指導者との会談を通じ)彼らが(中国固有の領土である)外モンゴルを侵略する野心を放棄していないことがわかった」と、“赤色帝国主義”への懸念を露(あらわ)にしている。
この点について、陳永発ちんえいはつ)・台湾大学歴史学部教授は、「蒋介石はもちろん、ソ連が中国の永遠の友人でないことはわかっていたが、ソ連の援助がなければ、軍官学校は作れない。彼はむしろ非常に注意深くソ連との友好関係を維持したのだ」と指摘する。さらに、当時の国民党のポスト孫文闘争は激しく、「反共」を打ち出せば、直ちに失脚する危険性もあった。ソ連共産党と協力し、中国共産党を受け入れる孫文の「連ソ・容共」政策が、革命軍をあずかる蒋にとって、唯一取り得る選択だった。
実際、当時、コミンテルンから「黄埔軍官学校」に注がれた軍事援助は人的支援を含め、膨大なものだった。
同軍官学校が、「国民革命軍の基礎となり、北伐を成功に導いただけでなく、新中国建国の指導者を次々に生み出した」(黎顕衡(れいけんこう)・広州近代史博物館長)ことは間違いない。
しかし、同校は国共蜜月(みつげつ)時代の象徴であると同時に、後に国共両党を引き裂く矛盾の温床という一面も持っていた。(香港・佐伯聡士)
[北伐]
1920年代、各地に割拠していた軍閥の打倒と中国の統一を目指し、国民党により始められた戦争。
国民党広東政府の指導者孫文は24年9月、国民革命の達成のため、軍事力による北洋軍閥打倒(北伐)のため挙兵した。しかし同年10月、北京でクーデターが起き、穏健派の馮玉祥(ふうぎょくしょう)が実権を握ったため、国民党は「国民会議」による全国統一を馮らによびかけた。しかし、25年3月、孫文が客死したため同会議は不成立に。
この後の26年7月、国民革命軍の総司令蒋介石は、全軍十万に動員令を発し広州を出発、労働者や農民らの支援を得て、長沙、武漢、南昌などを次々に制圧。27年3月までに、長江(揚子江)と黄河流域の大部分を支配下に置いた。
蒋は、同年7月の第一次国共合作崩壊後も北伐を続け、28年6月、旧軍閥の閻錫山(えんしゃくざん)、馮玉祥らとともに北京に入城、奉天軍閥・張作霖を追放した。
*◆国共合作(下)
*◇血まみれの分裂劇◇
「共産党が我々を圧迫したのだ。汪精衛(おうせいえい)(国民党左派の重鎮)は彼らを利用して、大権を握り、蒋公は非常に困難な境遇にあった。だから清党(党の粛清)を行った」。黄埔(こうほ)軍官学校から北伐戦争の最中、秘書として蒋介石を支え、その後国民党の要職を歴任した陳立夫(ちんりつふ)氏(97)は台北の自宅でそう語る。物静かな中にも、かつての“反共の闘士”ぶりがかいま見える。
「清党」とは、「国共合作」により、国民党内に個人の資格で入党した「共産党分子」の影響力を一掃することだった。当時、陳氏は兄の果夫(かふ)氏とともに、この面で指導的役割を果たした。
一九二七年三月二十六日、陳氏は、「清党」の裏工作を行うため、大半が労働者組織「総工会」を中心とする共産党の支配下にあった上海に入る。半月後の四月十二日、蒋は「青幇(チンパン)」の力を使い、「四・一二上海クーデター」を発動した。多数の共産党員が逮捕、殺害され、この結果、「国共合作」は瓦解(がかい)する。
「容共」から「反共」という戦略転換を行わざるを得なかった背景には、予想以上の速度で勢力を拡大する共産党に対し、「最終的には国民党全体が共産党に食い尽くされる」呂芳上(ろほうじょう)・台湾中央研究院近代史研究所長)との蒋の強い危機意識があった。黄埔軍官学校設立で「国共合作」が始まった当初、千人にも満たなかった共産党員が、「清党」直前には六万人近い数に膨れ上がっていたのだ。
「国共合作」による共産党員の参入が、労働者や農民の大衆動員を可能にし、地方軍閥を打倒し、中国統一を目指す蒋の「北伐」勝利に大きく貢献したことは否定できない。
だが、その一方で、国民党は、「蒋対反蒋」の派閥闘争の激化という深刻な後遺症に苦しむことになる。陳氏はその回想録「成敗之鑑(せいばいのかがみ)」の中で、「共産党の基本政策は国民党を分裂させ、武漢のいわゆる国民党左派(汪精衛側)と連合して南京のいわゆる国民党右派政府(蒋介石側)に対抗することだった」と言い切る。
黄埔軍官学校の政治部や国民革命軍の政治工作を担当する周恩来(しゅうおんらい)ら共産党勢力の権力が増大し、「共産党員による分派活動が活発化、国民党の内部分裂が加速した」(劉維開(りゅういかい)・国民党党史委員会総幹事)のだ。
しかし、共産党側から見れば、それは蒋介石の“独裁”の始まりでもあった。黎顕衡(れいけんこう)・広州近代史博物館長(63)は、「国民党の清党により、共産党のエリートが大勢殺害された。これ以降、黄埔軍官学校は蒋介石に奉仕するだけの反革命拠点に変質した。歴史の潮流に背き、人心を得られなかったことが、蒋の大陸放棄の原因だ」と批判を強める。
北伐の成功で、表面的には中国統一を果たした蒋介石だったが、その後、「蒋対反蒋」という国民党内の主導権争いが、皮肉にも本来討伐すべき相手であった、地方軍閥を巻き込んだ形で軍事抗争に発展した。また、「清党」をめぐる怨(おん)念(ねん)の対立は、「双生児」である国共両党の血肉の内戦を引き起こしてしまった。
日本軍の侵略という「国難」を前にして、一九三六年十二月の「西安事変」を契機にようやく「第二次国共合作」が成立した。しかし、それは、かつてのような組織原理が似通った「双生児党」の協奏曲ではなく、両党がそれぞれの支配地域で、日本に「抗戦」する限定的な共闘に過ぎなかった。
では、「孫文の信徒であり、三民主義の実現に一生をささげた」(秦(しん)孝(こう)儀(ぎ)・故宮博物院院長)はずの蒋介石が、抗日戦勝利後、圧倒的に優位な軍事力を有しながらも、なぜ共産党に敗れ、大陸放棄に追いやられたのだろうか。陳立夫氏は、回想録の中で、「中国の統一や不平等条約の撤廃など困難に満ちた業績の70%以上は蒋先生個人の功労である」と評価したうえで、「蒋公は軍事の天才だが、真の経済の才能に欠けていた(特に抗日戦争勝利後)ので、手に入れた天下を失った」と敗因を指摘している。
当時、抗日戦争による膨大な軍事費の負担で、経済が疲弊し切っていたのだ。
一九二四年以来、二十五年に及ぶ両党の合作と相克の歴史が、中国近代史全体を突き動かすダイナミズムだったことは間違いない。そして、二十一世紀を目前にした今日も、両党は、大陸と台湾に分かれ、存在し続けている。(香港・佐伯聡士)
◇4・12クーデター◇
国民党の指導者蒋介石が1927年4月12日、上海で起こした反共クーデター。
26年7月、北伐を開始した国民革命軍は、各地で民衆運動も刺激。上海では労働者が武装糾察隊を組織し、27年3月に、共産党員、周恩来に指導された労働者らがゼネストを決行。さらに武装ほう起して、軍閥軍を駆逐した。
労農運動の高揚と共産勢力伸張に危機感を強めた蒋介石は同年4月11日、上海に戒厳令を施行。翌12日には、青幇(チンパン)、紅幇(ホンパン)と呼ばれるギャング団が糾察隊を襲撃したうえ、国民党軍による糾察隊の武装解除が行われ、抗議する糾察隊指導者らが射殺された。さらに、これに抗議する10万人を超えるデモ隊に機銃掃射が浴びせられ、この後の数日間で数千人が犠牲になったとみられている。
事件直後、蒋の党籍をはく奪、逮捕状まで出した武漢の国民政府は結局、蒋に追従、同年7月、容共政策を破棄。このため、24年1月に成立した国民党と共産党との合作(第一次国共合作)は3年7か月で終えんした。
*◆毛沢東の栄光と悲惨(1)
*◇実像、遺体ごと封印◇
一九七六年九月九日午前十時、北京・中南海。中国共産党中央と国務院の所在地であり、トップクラスの要人が住むこの政治の中枢は、かつてない重苦しい雰囲気に包まれていた。
この日未明、上層部から「特殊任務」を命じられた中国医学科学院形態学研究室の徐静(じょせい)・第一副主任は、毛沢東主席の寝室に隣接する会議室に呼び出され、華国鋒(かこくほう)首相、張春橋(ちょうしゅんきょう)副首相ら居並ぶ首脳たちを前に緊張気味だった。寝室のベッドには、九日午前零時十分に八十二歳の波乱の生涯を閉じたばかりの“皇帝”の遺体が横たわっている――。
党中央弁公庁の汪東興(おうとうこう)主任に促され、彼女は主席の遺体の保存方法について自分の考えを述べ始めた。「ソ連ではレーニンの遺体をどう保存したのか」「孫文の遺体保存がうまくいかなかった原因は」「湖南省長沙(ちょうさ)の馬王堆(まおうたい)漢墓の女性遺体はなぜ二千年もの間、腐らずにいたのか」。会議の出席者からは堰(せき)を切るように質問が相次いだ。
彼女の説明が終わると、華首相がおもむろに口を開き、「毛主席の遺体を長期間しっかりと保存し、子々孫々にわたって人民大衆に仰ぎ見させることは、光栄かつ困難な政治任務だ」と、問題の重大性を強調した。汪主任も「今は二十世紀も七〇年代。気概を持って主席の遺体をレーニンのものよりもうまく保存するように」と指示。まだ国民のだれもが世紀の巨人の逝去を知らない中、中国共産党創設以来の長い一日が始まった……。
徐静さんはその後、毛沢東の遺体を安置する「毛主席記念堂」(北京・天安門広場)の管理局長を務めた。徐さんが中心となって数年前に編さんした記録集「偉人が安らかに眠る場所」(吉林人民出版社)を参考に、毛沢東の遺体保存を巡る舞台裏を再現すれば、おおよそ以上のようになる。
二十二年前とは時代が激変した今、遺体をまつり続ける意味はどこにあるのか。この一月、北京のある機関を通じて同記念堂に取材を申し入れたが、「取材は受け付けていない」との理由で断られた。「偉人は神聖にして侵すべからず」なのか、「まだ機密に触れる部分がある」ためなのか、真意はわからない。
記念堂は後継者としての地位を固めたかった華国鋒氏の思惑など、様々な政治のにおいで塗り固められている。当の華氏ら関係者の多くがまだ生存していることを考えると、切れば血が出るような生々しさを内にはらんでいることだけは容易に想像できた。
昨年、記念堂は改修工事が行われ、今年一月六日から新たに一般公開された。死去一周年の七七年九月九日に落成式典が行われて以降、来訪者総数は延べ一億一千万人にも達する。半封建、半植民地の中国を解放した毛沢東への敬愛心、神秘性に満ちた生涯への強い関心を示す証左だろう。
だが、唯物論者の毛沢東本人にとり、自らの亡骸(なきがら)が「保存」「公開」されることは、不本意だったに違いない。七七年に三度目の失脚からの復活を果たし、その後、華国鋒体制を葬り去ったトウ小平は党副主席だった八〇年当時、「五〇年代に毛主席の発議でどんな人(指導者)も死後は火葬にするということが決まった。記念堂建設は主席の意思に反しており、適切でなかった」と語り、華政権が毛沢東の遺体を政治利用したことを批判した。
もっとも、トウは「(記念堂を取り壊せば)様々な論議を呼ぶ」として政治的安定への影響をおもんぱかり、死ぬまで記念堂に手をつけることはしなかった。その意味では、トウも亡き毛沢東を暗黙のうちに政治利用したと言えるかもしれない。
トウの主導権の下で党が八一年に採択した「歴史決議」は、毛沢東の評価について、建国までの絶大な功績をたたえる一方で、建国後については文化大革命発動などの誤りを指摘、「功績第一、誤り第二」と総括した。これに対し「比較的客観的な評価だ。トウ氏は文革中、二度も失脚させられたが、正確に毛沢東問題に対処した」(胡振平・上海社会科学院副研究員)との見解が一般的で、この評価の大枠は今も変わっていない。
しかし、毛主席記念堂がアンタッチャブルな空間であり続けていることに象徴されるように、現実の政治と切り離しての「毛沢東とは何か」という本質的疑問への明確な答えはまだ模索の途上にある。光芒(こうぼう)と陰影に彩られた毛沢東の「実像」は、遺体と共に石造りの霊廟(れいびょう)の中に封印されたままだ。(北京で 藤野彰)
[毛沢東研究]
中国革命史にとって毛沢東評価は不可欠だけに毛研究は近年、中国でますます盛んだ。だが、研究書や伝記が多数発行される一方で、その人物像にはナゾの部分が依然多い。毛の元保健医が書いた話題の回想録「毛沢東の私生活」に対し、内容はデタラメとして元秘書らが反撃する本を出すなど、人間・毛沢東は虚実の間で揺れ動いている。
研究の基本資料となる「毛沢東年譜」は93年に、49年の建国までの分が中共中央文献研究室編で公刊された。しかし、注目の「建国後」の編集・発行はこれからで、李捷(り・しょう)・同研究室研究員は「少なくとも8〜10年はかかる」としている。
現代史研究の状況について、中共中央党史研究室の章百家・第三研究部副主任は「以前、西側では中国の歴史研究は当局の観点を反映したものと見られていたが、今は状況が異なる。文革前の研究にはもう基本的にタブーはない」としながらも、それ以後については「時代が今に近ければ近いほど現実の政治との関係が密接なため、書く上で困難がある」と語っている。
*◆毛沢東の栄光と悲惨(2)
*◇“赤い梁山泊”で開眼◇
中国革命揺籃(ようらん)の地、江西省井岡山(せいこうざん)(人口六万)は今、森も大地も固く凍えている。緯度こそ沖縄とほぼ同じだが、標高千〜二千メートル級の山々に囲まれ、冬の最低気温は氷点下十度前後にまで下がるためだ。
井岡山を訪れた日、樹木は厚い霧氷に覆われ、山全体が巨大な氷室と化した。井岡山を原点に、中華人民共和国建国へと、「農村根拠地革命」を勝利に導いた毛沢東は、この厳しい自然の中、未来へのどのような光明を見いだしたのか――。
一九二七年九月末、三十三歳の青年革命家だった毛沢東は、湖南省での武装蜂起(ほうき)(秋収蜂起)に失敗し、江西―湖南省境に横たわる羅霄(らしょう)山脈の山懐―井岡山―に逃げ込んだ。率いる残存部隊は約一千。苦しい行軍の途上では脱落兵が相次ぎ、軍規も緩みがちだった。
国共合作の統一戦線は同年七月、蒋介石の四・一二クーデターを機にわずか三年半で崩壊。中国共産党はコミンテルン(第三インターナショナル)の指令を受け、武力による権力奪取へと路線を転換した。八月には江西省の省都・南昌(なんしょう)で武装蜂起し、党独自の軍隊を初めて持つに至ったが、都市での蜂起に固執する瞿秋白(くしゅうはく)ら党中央の戦略はことごとく裏目に出て、秋収蜂起後、組織は深刻な打撃を被る。毛の井岡山入りは労農革命軍の存亡をかけた選択だった。
井岡山の生活は劣悪だった。同地区の貧しい農家に生まれ、二八年九月、革命に参加した羅尚徳(らしょうとく)さん(91)=女性=は「悪らつな地主から搾取され、生活が苦しくて共産党に入った。病院管理の仕事をしたが、ゲリラ部隊のため決まった住居はなく、食料も干した竹の子や苦い野草ぐらいしかなかった」と、七十年前の苦難の日々を振り返る。
当時の関係者の回想録によると、毛沢東も兵士らと一緒に苦い野草を食べ、「政治的栄養は豊富だ。これを食べられるなら、もっと多くの苦労を克服できる」と励ましたという。
毛沢東はなぜこんな辺地を革命根拠地に定めたのか。井岡山の中心地・茨坪(しへい)を見下ろす革命烈士霊園に立つと、その疑問はすぐ氷解した。険しい連山と深い森が、敵にとっては攻めにくく、自らは守りやすい天然の要塞(ようさい)を複雑に形成しているのだ。しかも国民党が統治している都市部からは遠く、自給自足の農業経済で成り立っている。
「周りを白色政権(国民党政権)に取り囲まれている赤色割拠地では、山の険要を利用することが必要である」。毛が二八年十一月、「井岡山の闘争」と題する党中央への報告の中でこう強調したのも、十分うなずける。
毛沢東の路線は「農民はプロレタリア階級ではない、毛は農民主義だとして、党中央を含めて多くの反対にあった」(胡振平・上海社会科学院副研究員)が、毛は敵の支配権が十分及ばない農村に、革命軍の生存空間を見いだし、根拠地建設に邁進(まいしん)していく。
人口の圧倒的多数を占める農民を、土地革命などを通じて味方につけ、広大な大陸に点在する都市を攻略する――。いわゆる「農村から都市を包囲する」という毛沢東流の革命路線は、瞿秋白や、その後、党の実権を握った李立三(りりつさん)らの極左冒険主義(無謀な都市攻撃路線)と闘い、辺境から中国の現実を冷徹に見据える中で骨格を整えていった。
井岡山根拠地は、全盛期には面積七千二百平方キロ(東京都の三・三倍)、人口五十万に拡大した。江西省社会科学院現代江西研究所の何友良所長は「毛沢東の井岡山闘争の最大の意義は、中国革命の新たな時期を切り開いた点にある。革命をいかにやるかという基本的問題のスタート台になった」と高く評価する。
「大都市でのビル暮らしなど御免だ。農村に行き、山に入って(封建支配に反抗する)英雄豪傑と交わりを結びたい」――中共中央文献研究室編の「毛沢東年譜」(建国以前)によると、毛は南昌蜂起後、瞿秋白から上海の党中央機関で働くよう求められたが、こう言って断った。
「水滸伝(すいこでん)」の主人公、宋江らがたてこもった梁山泊(りょうざんぱく)を髣髴(ほうふつ)とさせる井岡山根拠地は、抑圧された農民の熱いエネルギーを解放していく中国革命の大きな原点となった。また、それ以上に、都市労働者に依拠したロシア革命のモデルと、その影響下で中国農村の重要性を軽視し続けたコミンテルン・中共指導部の教条的革命思想に対して、農民出身の毛沢東が生の現場から突きつけた強烈なアンチテーゼでもあった。(井岡山で 藤野彰)
[南昌蜂起]
蒋介石の4・12上海反共クーデター(27年)に端を発した国共合作の崩壊により、追い詰められた共産党は8月1日、周恩来、賀竜(が・りゅう)らの指揮の下、江西省南昌に約2万の兵力を結集し、武装蜂起した。
激戦の末、蜂起軍は南昌市街を占領したが、同月6日までに南昌を放棄、広東省に向け南下した。7日、党中央は湖北省漢口で緊急会議を開き、秋の収穫期に湖北、湖南、江西、広東の4省で武装決起する方針(秋収蜂起)を決め、国民党との妥協路線をとり更迭された陳独秀(ちん・どくしゅう)に代わり、瞿秋白らを中心とする新指導部を選んだ。
結局、秋収蜂起はいずれも失敗。共産党の武装闘争はいったん挫折したが、南昌蜂起最大の意義は、党が自前の軍隊を初めて保有した点にあった。このため、8月1日は中国人民解放軍の建軍記念日となっている。
*◆毛沢東の栄光と悲惨(3)
*◇ルーツは伝統思想◇
井岡山(せいこうざん)の小村、大井にある毛沢東旧居を訪れた時、地元の人から、旧居の裏庭にある二本の木にまつわる面白い“伝説”を聞いた。
これらの木は一九二九年二月、国民党軍が井岡山を攻略した際に焼き払われたが、毛沢東が国共内戦に勝利し、井岡山が解放された四九年、古株から再び芽吹き、元気に葉を茂らせた。さらに、建国後の六五年五月、毛が井岡山を再訪した時には、これを喜ぶかのように花をつけ、実を結んだ。以来、人々は二本の木を「感情樹」「常青樹」と呼ぶようになった――。
真偽のほどは確かめようがないが、中国人民の救いの星として、一時は「神」の地位にまで祭り上げられた毛沢東のカリスマ性と、人々の毛に対する一種独特の畏敬(いけい)の念をしのばせるエピソードである。
毛沢東はいかにして下層農民ら底辺の人々の心をつかみ、団結させ、農村革命を成功させたのか。それを解くカギは毛が根拠地で行った、二つの重要な政策に求めることができる。
その第一は、「六〇%以上が地主に握られ、農民の手にあるのは四〇%以下」(毛沢東「井岡山の闘争」)という土地の所有問題の解決に全面的に取り組んだことにある。地主の土地を没収し、実際に田畑を耕す者たちに公平に分配することによって、自分の土地を持ちたいとの農民たちの最大の欲求にこたえ、広範な支持基盤を築いた。
第二に、労農革命軍を名実ともに「人民のための軍隊」へと改組、そのための精神をたたき込んだ。創設間もない軍の中には元流民なども少なくなく、農民から食糧をかすめ取ったり、地主・土豪からの徴発品を山分けしたりする現象が見られた。このため、毛沢東は「三大規律」「六項注意(後に八項注意)」という厳格な軍規を定め、「行動は指揮に従う」「人民からは針一本、糸一筋も取らない」などの方針を貫徹させた。
毛沢東の政策は、理論的武器としてはマルクス・レーニン主義の衣をまとっていた。だが、「食べ物があればみんなで食べ、着る物があればみんなで着る」といった、中国に伝統的な平等主義のユートピア思想(大同思想)の影を引きずっていたともいえる。
事実、井岡山革命博物館に展示されている、紅軍スローガンに「将兵は衣服も食事も一律平等」という言葉が見える。また、二八年末の根拠地政府のある文書は「共産主義の落ち着く先」として「天下為公、世界大同(天下は公のものとなり、世界も理想的平等社会となる)」をアピールしている。
香港中文大学中国文化研究所の金観濤(きんかんとう)・高級研究員は「共産主義の理想は大同思想の一種の変形と言える。共産主義は大同思想を詳細かつ具体的、科学的に語っている」とし、毛沢東の思想の底流に中国の伝統思想の片鱗(へんりん)を見る。
中国式にマルクス主義を消化した毛沢東の革命路線は他方、「銃口から政権が生まれる」との哲学の実践を通じて、軍事戦略上の正しさを証明し、党の主流を成していった。
三〇年代初頭、全国の党員は十万、紅軍は六万余を数え、根拠地も江西―福建省境の中央根拠地(面積五万平方キロ、人口二百五十万)を筆頭に大小十数地区に達した。その後、圧倒的な国民党軍の前に敗走し、一万二千キロの長征を強いられたが、陝西省延安に根拠地を構えて以降、情勢は「小さな火花も広野を焼き尽くす」との毛の言葉通りに展開していく。
毛沢東が建国後、大躍進、文化大革命などの重大な失策を積み重ねながらも、基本的に肯定的評価を得ているのは、毛の全面否定が党自体の否定につながるという理由があるからだけではない。「人口の八割を占める農民に依拠しなかったら、革命は成功し難かった。毛沢東路線は革命の正確な発展の方向を代表していた」(張樹軍・中共中央党史研究室研究員)との不滅の功績があるからだ。
井岡山の革命史跡を巡ると、江沢民総書記、李鵬首相ら現職トップのほとんどが「井岡山もうで」をし、揮毫(きごう)などの足跡を残していることに気付く。井岡山は共産党の時の指導者が自らの権力の源流を訪ね、正統性を再確認する聖地なのだ。
抗日戦争、国共内戦を勝ち抜き、「中国の特色ある革命」をなし遂げた毛沢東は、「中国の特色ある社会主義」を目指す現政権にとっても、時空を超えた巨大な存在であり続けている。(井岡山で・藤野彰)
[紅軍と長征]
毛沢東は1927年9月末、井岡山へ向かう途中、江西省三湾で部隊を「労農革命軍第1軍第1師団第1連隊」に編成し直した。「三湾改編」と呼ばれるもので、軍内各レベルに党組織を設け、党が軍を指導する体制を確立するなど紅軍の基礎を固めた。
根拠地を広げた共産党は31年11月、江西省南部の瑞金(ずいきん)に中華ソビエト共和国臨時中央政府(政府主席=毛沢東)を樹立。しかし国民党軍は根拠地に5回にわたり大規模包囲戦を展開。紅軍はゲリラ戦で反撃したが、耐えきれず、34年10月、瑞金を脱出。約1年かけて陝西(せんせい)省北部まで11省を踏破する長征を行った。第5次包囲戦前、30万を数えた紅軍は長征終了時には3万弱に減少した。
毛沢東は長征の途上、貴州省遵義(じゅんぎ)で開かれた政治局拡大会議(35年1月)で党・軍の指導権を掌握。遵義会議は革命勝利への重要な転換点となった。37年、党中央は延安に本拠地を定めた。
*◆毛沢東の栄光と悲惨(4)
*◇暴走する「裸の王様」◇
毛沢東の元護衛長、李銀橋(りぎんきょう)氏(70)は、こわいもの無しの主席があわてふためいた「あの日」の光景を、今もはっきりと覚えている。
一九五八年当時、中国の農村では農業集団化が進められる中、いくつかの高級合作社(協同組合)を合併し、より大きな新組織を作る動きが出始めていた。同年八月六日、河南省七里営を視察に訪れた毛沢東主席は、地元幹部から、この新組織を「人民公社」と呼んでいるとの説明を受け、「人民公社好(ハオ)(人民公社はすばらしい)」と何度もうなずいた。
その翌日、視察途上の専用列車内で党機関紙「人民日報」を開いた主席は、一面に「人民公社好」の大見出しが躍っているのを見てびっくり。実は視察現場にいた記者が発言をそのまま書いたものだが、毛は思わず「あれ、こりゃしまった!スッパ抜かれちまった。まだ党政治局で討議しちゃいないんだ」と大声を上げ、困惑しきりだった――。
これが、熱狂的な人民公社化運動の号令として世界中に知られた「人民公社好」のちょっと珍妙な裏話である。
李銀橋氏とは北京市内のホテルで会った。数年前から体を壊し、車いすの生活だが、四七年から六二年までの十五年間、最高首脳の護衛を務めただけあって、眼光はまだ鋭い。
「真新しい靴は履き心地が悪いと言って、そのままでは履かなかった。まず側近の者に履かせ、こなれてから自分で履いた」
「大好物は豚肉のしょうゆ煮込み。だが、三年連続の自然災害が最もひどかった六〇年当時、あえて七か月も肉を口にしなかった」
「人が一万歳まで生きられるわけがないじゃないか、と『毛主席万歳』のスローガンを好まなかった」
李氏が語る等身大の毛沢東は人間臭く、魅力的だった。元側近という立場上、話が毛沢東批判に踏み込むことはなかったが、毛の性格について「決まり通りやりたがらず、自分の個性が束縛されるのを嫌がった」と、その自由奔放さを指摘したのが特に印象的だった。
新中国成立後、偉大な革命家、建国の父として、毛沢東の威信は絶大だった。だが、解放前の乱世において遺憾なく発揮された毛の指導力は、共産主義ユートピアの急速な実現を追求するあまり、中国の生産発展状況や国民感情を的確に把握できなくなり、しだいに現実から乖離(かいり)していった。
新国家が必要としていたのはもはや井岡山(せいこうざん)根拠地時代の「体制への反逆者」ではなく、着実に経済を再建し、人民の生活、文化を向上させる指導者だったが、毛の強烈な個性は異常な個人崇拝を生み、残虐な政治闘争を繰り返していく。大躍進・人民公社の破たん、晩年の文化大革命の悲劇もその延長線上にあった。文革十年の犠牲者は「冤罪(えんざい)死・数十万、被害者・数千万、死傷者及び身障者にさせられた者数百万」(故・胡耀邦総書記)とされる。
「毛主席の後期には家父長制という封建的なものが現れた。主席は自分と異なる意見には容易に耳を貸そうとしなかった。民主集中制、集団指導制が破壊された。この点がわからないと、文革がなぜ起きたのかは理解できない」――文革中、二度も失脚の憂き目に遭ったトウ(とう)小平は後にこう述懐している。
中共中央党史研究室の劉友于研究員は、毛沢東の個人崇拝拡大の前段階として〈1〉反右派闘争による知識人らの言論抑圧(五七年)〈2〉彭徳懐(ほうとくかい)国防相の解任による党内の異なる意見の封殺(五九年)を挙げ、「毛沢東が六二年に階級闘争強化を掲げたことで、党内で異なる意見を述べることは非常に難しくなった。さらに林彪(りんぴょう)党副主席が六六年、毛思想をマルクス・レーニン主義の最高峰と持ち上げ、個人崇拝は強まっていった」と分析する。
党の「歴史決議」がいみじくも「わが党は反封建闘争の中で優れた民主的伝統を育てたが、長期の封建的専制主義の害毒は簡単には一掃できなかった」と回顧しているように、毛沢東の暴走の背景には、中国社会の封建的伝統の残滓(ざんし)もあった。「人民公社好」の鶴(つる)の一声がそのまま党の路線となってしまった体質は、ひとつの具体例だろう。
だが、最大の悲劇は、革命闘争であれだけ「実事求是(じつじきゅうぜ)(事実に基づいて真理を探る)」の魂を発揮した毛沢東が、晩年は自らその精神に背いてしまった点にこそあると言わざるを得ない。歴史の皮肉と片付けるには、毛沢東を建国の父と仰ぐ中国人民にとってあまりにも巨大な代価であった。
[大躍進と人民公社]
「中国は15年のうちに鉄鋼生産量で英国に追いつき、追い越す」。1957年11月、毛沢東はモスクワの世界共産党会議で気宇壮大な生産目標をぶち上げた。現実よりも共産主義の理想にとらわれた毛は帰国後、党内の慎重論をはねのけ、大衆動員による技術改革運動などを通じて生産の飛躍を目指す「大躍進」をスタートさせた。
こうした中、翌年8月の北戴河(ほくたいが)会議は農村の人民公社設立を決議。年末までに全国74万の農業合作社が2万6000の人民公社に生まれ変わった。
しかし、人民公社は自留地、家畜の共有化などの行き過ぎた平均主義で農民の労働意欲を大きく減退させた。大躍進も食糧の水増し報告や粗悪な鉄を大量生産するなどの浪費を生み、自然災害も加わって、食糧の大幅減産とそれに伴う広範囲な飢餓をもたらした。事態を憂慮した彭徳懐国防相は59年7月の廬山(ろざん)会議で、毛沢東に政策転換を直訴したが、反党的として怒りを買い、解任された。
*◆整風運動
*◇毛思想、絶対化へ道◇
九〇年代の初め、一人の作家の冤罪(えんざい)が半世紀ぶりに晴らされた。
王実味(おうじつみ)。四〇年代初め、共産党の革命根拠地だった陝(せん)西(せい)省延安で毛沢東が起こした「整風運動」の際、幹部の特権化を批判したことが毛沢東の逆鱗(げきりん)に触れ「国民党のスパイ」などの罪で逮捕され、四七年に処刑された。四十一歳だった。
当時、王実味が所属した中央研究院(社会科学院の前身)の党委員会で事件の処理を担当した温済沢(おんせいたく)氏(83)(元中国社会科学院研究生院院長)は、「証拠に疑問を持ったが、上層部の決定には逆らえなかった」と明かす。悔いに駆り立てられ、八〇年代、温氏は再審査を求める報告書を党に提出する。
「党中央組織部は事実関係を再調査し、重大案件だからと、当時延安にいた老同志十人に意見を求め、全員の同意を得て決めた」――名誉回復決定は慎重に下されたと温氏は証言する。
整風運動は大衆を動員した思想改造運動として提唱されたが、知識人の間から、党への不満が噴出する。先頭に立ったのが王実味だった。
王は党中央機関紙「解放日報」に発表した散文「野百合の花」の中で、党(我々の陣営)の腐敗や毛沢東ら指導者(大先生たち)の特権意識を攻撃した。
「我々の陣営の暗黒をすべて消滅しようとしても不可能だが、最小限度にまで減少させることは可能かつ必要だ。しかし、『大先生たち』はこの点を強調も指摘もしない」
運動が逆に王実味への集中砲火的批判へと発展する中、温氏は王に誤りを認めるよう説得する一方、党委にも穏便な処理を具申したが、上司の発言を聞かされ衝撃を受ける。「王実味はトロツキストで、国民党のスパイだ」。王の逮捕は四三年四月。ほかに「反党集団の頭目」という罪名が加わった。
ソ連でスターリンに対抗したトロツキーの一派を指すトロツキストは、ソ連指導下の中国共産党にとっても天敵と見なされた。王実味が過去にトロツキストと交友のあったことからのでっち上げだった。
運動はソ連の粛清機関の流れをくむ党中央社会部(康(こう)生(せい)部長)が介入し、粛清の嵐(あらし)となる。証拠もなく逮捕して自白を強要した。検挙者は、四川、湖北、河南、雲南など十数省に及んだ。党史研究書は「延安ではみんなが不安にかられ、だれも信じられなくなった。学校は監獄となり、自殺者が増えた」と記す。
温氏が王の名誉回復に奔走していた八八年、王事件は冤罪だとする文章が上海の月刊誌に載った。作者は女流作家の戴(たい)晴(せい)氏(56)。月刊誌は後に停刊させられ、戴氏は翌年の天安門事件で共産党を批判し党を去る。
北京の自宅で続編を執筆中の戴氏は「整風運動は、毛沢東が党内で独裁体制を敷くために発動した」と言い切る。毛は三五年の遵(じゅん)義(ぎ)会議で党内の政治・軍事指導権を確立するが、思想面では党内はまだソ連留学組の影響下にあった。整風運動により、ソ連派は一掃され、毛の個人崇拝が高まった。
運動後の第七回党大会(四五年)で、毛は党の最高指導者に就いた。同時に「毛沢東思想」が党規約に盛り込まれ、「このとき、民主を標榜(ひょうぼう)した共産党は毛一人が一切を決定する党へと変質した」と戴氏はみる。
毛沢東の誤算は整風運動を通じ、王実味ら若手知識人から自由や民主を要求する声が噴出したことだ。
「王は運動が共産党に対する意見の表明を求めるものと誤解した」。毛は目的を貫徹するため、王をみせしめとして、党批判を弾圧したと戴氏は解説する。
ソ連の影響を受けた粛清は、三〇年代、江西省南西部の党の根拠地などでもあった。実在しない反革命集団の摘発を名目に大がかりなスパイ狩りが展開され、反発した軍の一部が反乱する事件も起きた。反乱軍のうち七百人余が銃殺された。
運動の行き過ぎは毛自身が批判するが、毛の権威確立のため、反省は不十分に終わった。整風運動時代、「解放日報」に在籍し、一年余り拘束され、建国後、毛沢東の秘書も務めた北京在住の李(り)鋭(えい)氏(81)(元党中央顧問委委員)は「江西の粛清も、延安の整風も厳格、真摯(しんし)な総括をしなかったため、後遺症を残した」と語る。
中国は建国後、反右派闘争や文化大革命で同じ過ちを繰り返すことになる。整風運動で粛清に腕を振るった康生が文革の際にも、中央文革小組顧問として、劉少奇(りゅうしょうき)国家主席らの追い落としを陰で演出した。(北京・中津幸久)
[モスクワ留学組]
中国共産党は創設(21年)以来、ソ連主導のコミンテルン(共産主義インターナショナル)の影響を受け、党指導部はモスクワ留学組が主流を占めた。しかし、都市部での蜂起(ほうき)に重点を置くなど中国の実情に合わない路線は失敗を繰り返した。整風運動は、党内で指導権を確立しつつあった毛沢東が、脱ソ連と革命の中国化を目指した側面を持つ。
毛は運動の伏線として41年9〜10月の政治局拡大会議で、モスクワ留学組のトップ、王明を極左冒険主義として批判、事実上、排除する。ソ連が独ソ戦で苦戦、コミンテルンの活動が停止(43年解散)したことも背景にあった。
運動は42年2月、毛の「学風、党風、文風を整頓(せいとん)しよう」との呼びかけで、全面展開する。教条主義や形式主義反対が叫ばれ、教科書的な理論を重視するモスクワ留学組への批判が込められていた。毛は同年5月、「文芸講話」を発表、文芸の政治への従属を説いた。総括となる「毛沢東思想」は「中国のマルクス・レーニン主義」とたたえられ、45年4〜6月の第7回党大会で党規約に盛り込まれ、毛の権威が確立した。
*◆文化大革命(上)
*◇死選んだ国民作家◇
湖面に浮かんでいたあの紙に、父は毛沢東主席の詩のほかに、いったいどんな文字を書き記していたのか――。
「四世同堂」「駱駝祥子(ラクダのシアンツ)」などの作品で知られる文豪、老舎(ろうしゃ)の長男、舒乙(じょいつ)さん(62)(中国現代文学館常務副館長)にとり、三十二年前の夏、六十七歳で入水自殺した父の「遺言」は“永遠のナゾ”として残っている。
◇
文化大革命の発動で紅衛兵運動が全国的な広がりを見せていた一九六六年八月二十三日、老舎は北京・国子監街の孔子廟(びょう)で、赤い腕章を付けた「毛主席の親衛隊」紅衛兵たちから殴る蹴(け)るの暴行を受け、頭から血が流れるほどの重傷を負った。翌日、自宅を出たまま行方不明となった老舎は、二十五日早朝、市街地北西の太平湖で水死体となって発見された。
目撃者によると、老舎は二十四日は丸一日、湖畔にたたずんでいた。悲劇は夜半に起きたと見られ、遺体発見時、湖面には紙片が漂い、それには老舎の字で毛沢東作の詩が書かれていたという。
「父の死後、当局からペン、眼鏡などの遺品は返却された。でも、あの紙だけは見せてもらうことも返してもらうこともかなわなかった。紙には毛主席の詩だけでなく、父の何らかの言葉が記されていたはずだ。最後の一日、父の手元には紙とペンがあり、思索の時間もあった。作家たる者が自らの言葉を書き残さないということはあり得ない」
舒乙さんは今もそう確信している。老舎の「遺言」が実際に書き記されていたとすれば、当局の対応はそれが公開をはばかるような内容だったことを意味しよう。
真実は藪(やぶ)の中だが、舒乙さんは自殺の理由を究明する手掛かりを得ようと、父の作品を再読するうちに、興味深い「符合」に気付いた。まず、登場人物のうち善人は多くが自殺し、しかも入水という手段で命を絶っていることがわかった。はたとひざを打ったのは、一九四一年に書かれた随筆「詩人」の中に「社会に明らかに災難が生じた時、彼(詩人)は身を以(も)って諫(いさ)めんと、入水し、難に殉じる」との一文を見つけた時だ。
老舎は果たして、文革という災難が祖国を破滅へと導くことを憂え、自らの死を通じて、未曽有(みぞう)の混乱を引き起こした毛沢東を諫めようとしたのだろうか。舒乙さんは「確かなのは、父は文革で迫害され、死んだということだ。父に対する批判は文革の十年間、ずっと続けられた」と無念の表情で語る。「人民の芸術家」と慕われ、中国作家協会副主席の要職にもあった老舎が、名誉回復を果たし、党・政府による公式の追悼式が執り行われたのは、死去から十二年もたった七八年六月のことだった。
◇
四旧(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)の打破という文革の狂気の中で、紅衛兵につるし上げられたり、造反派の闘争大会で肉体的、精神的暴行を受け、死に追いやられた文化人、知識人は、もとより老舎一人ではなかった。例えば、「農民作家」として親しまれた趙樹理(ちょうじゅり)も「反革命修正主義分子」の汚名を着せられ、迫害を受けた末、七〇年に非業の死を遂げた。
「作家たちはすべて打倒された。共産党が非常に評価している作家でさえ、ダメだった。唯一、地位を保ったのは、過去の作家の中では魯迅だけ、現存の作家の中では(小説「うららかな日」などで知られる)浩然(こうぜん)だけだった」。舒乙さんは文革が文芸界に与えた衝撃の激しさをこう表現する。
毛沢東は五七年、「百花斉放(ひゃっかせいほう)・百家争鳴(ひゃっかそうめい)」運動の中で、国民に自由な意見の発表を呼びかけたが、党批判の声が噴出したことから、一転して批判者を「右派」と決めつけ、厳しい弾圧を行った。この反右派闘争の主な標的となったのが知識人だった。これ以後、党内の民主は失われ、文芸、学術界の討論や理論問題がストレートに政治問題に転化するという風潮が加速していった。その帰結が文革中の悲劇だった。
上海在住の中国文壇の長老、巴金(はきん)は文革後、老舎を追悼するエッセーを書き、「私は自分たちの国を愛している。しかし、だれが私を愛してくれるのか――彼の口からほとばしり出た中国知識人の心の声を、耳をそばだてて聞いていただきたい」と訴えた。政治にもてあそばれてきた知識人の心の傷は今も癒(い)えていない。(北京で・藤野彰)
[反右派闘争]
毛沢東は57年2月、「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」と題する演説を行い、「団結―批判―団結」の方法で問題を解決すべきことを説いた。さらに、翌月、「百花斉放・百家争鳴」は長期的方針であるから、大いに意見を出すよう呼びかけた。これに対して、知識人らは積極的に反応、党の独裁体質を「党天下」と厳しく批判する意見まで飛び出した。
思わぬ展開に驚いた党は6月、批判者への反撃に転じ、多数の学者、教員、作家、官僚らを「右派」と決めつけ、降格、労働改造などの処分をした。「右派」のレッテルをはられた者は最終的には55万人。現在、政治局常務委員の朱鎔基(しゅ・ようき)副首相もその一人だった。
反右派闘争後、党内民主は有名無実化していったが、こうした風潮は文革発動への政治環境を準備することになり、「右派」は文革中も徹底的に迫害された。党は反右派闘争について「必要な措置だったが、拡大化したのは誤りだった」と認め、78年以降、大半の「右派」の名誉回復を行った。
*◆文化大革命(中)
*◇国覆う愚行と狂信◇
「あの作品での私の主要テーマは、こんな出来事(文化大革命の悲劇)が中国で再び起きることは絶対に許さないという点にあった。当時は北京や上海は言うまでもなく、あんな田舎町でさえ同じことが起きた。これで国に希望がありますか?」
湖南省の小さな町を舞台に、文革の迫害に耐え抜いた男女の愛を描いた映画「芙蓉鎮(ふようちん)」の監督、謝晋(しゃしん)氏(74)は、質問が文革に及ぶと、エネルギッシュな声を一段と張り上げた。チベットに進駐する中国人民解放軍を“悪役”に見立てたハリウッド映画「セブン・イヤーズ・イン・チベット」を「くそったれ」の一言で切り捨てる愛国者の謝氏だが、こと文革に関しては「毛主席が犯した誤りはだれも否定できない」との立場を崩さない。
長年、上海で仕事をしてきた謝氏自身、文革では数々の辛酸をなめた。
文革前夜の一九六四年、越劇(えつげき)(浙江省の伝統劇)の女優姉妹を主人公にした映画「舞台姉妹」を撮ったが、後に「四人組」と呼ばれることになる江青(こうせい)(毛沢東夫人)、張春橋(ちょうしゅんきょう)(上海市党委書記)から「毒草(害毒を流す作品)」「ブルジョア人間性論を宣伝するもの」などと、いわれのない批判を浴びた。さらに、文革中は「牛小屋(闘争の対象にされた人々の軟禁場所)」で労働を強いられるなどの迫害を受けた。
「舞台姉妹」批判の背景には、文芸界を突破口に権力の拡大を図ろうとした江青らの政治的野心があった。謝氏は「この事件は上海における文革の序幕となった。文革中の批判とは学術上の討論ではなく、一種の陰謀だった」と言い切る。
◇
文革は実質的には政治動乱だったが、「文化」の名称が付けられたのは、その闘争がまず文化の分野から始められたことによる。江青は六六年二月、林彪(りんぴょう)(副主席)の委託を受けて、上海で人民解放軍部隊の文芸工作座談会を開いた。この記録をまとめた「紀要」は、文芸界では建国以来、「反党、反社会主義の反動路線が我々を独裁支配してきた」と決めつけ、「文化戦線の社会主義大革命を断固行う」よう呼びかけた。
紀要は毛沢東の支持を受け、同年四月、全党に伝達された。「文化」の冠をかぶってはいても、政治問題化の意図が明確に示された以上、「大革命」が権力闘争へと発展するのは時間の問題だった。これを機に、林彪と江青は権力奪取の共闘関係を深めていく。
林彪らの暗躍があったにしろ、毛沢東を文革の全面発動へと駆り立てたものは、「社会主義段階でも階級闘争は継続し、資本主義は復活し得る」との主観的な認識だった。その結果、六二年当時、農村での生産責任制(各戸に耕地を割り当て生産を請け負わせる)を支持した劉少奇(りゅうしょうき)(国家主席)、トウ小平(総書記)らは、文革開始後、「資本主義の道を歩む実権派」として打倒される。
文革の異常性について、中共中央文献研究室の李捷(りしょう)研究員は「毛主席に忠誠を誓う『忠の字踊り』や、主席の肖像の前で朝、指示を仰ぎ、晩に報告を行うなどの愚かしい現象がたくさん生じた。毛沢東自身、政治的に大衆の指導者崇拝という手助けを必要とした。文革で個人崇拝は頂点に達した」と語る。
「中国のフルシチョフ」の汚名を着せられた劉少奇は六八年、党から除名された上、翌年、病身でありながら強制的に河南省開封(かいふう)へ送られ、獄中で病死した。ある意味で文革の最も悲惨な犠牲者だったが、国全体を見渡せば、「庶民はみな文革の苦しみを味わった」(謝晋氏)というのが偽らざる現実だった。
「文革が始まった当初、それが十年も続くとは思わなかった。建国後、政治運動は毎年のようにあったので、文革も一年程で終わるだろうと高をくくっていた。毛沢東本人もこんなに長引くとは予測しなかったのではないか。毛は災いのいっぱい詰まったパンドラの箱を開けてしまったのだ」
北京でこの激動期を生き抜いてきたある老教授は痛哭(つうこく)の思いで回想する。文革を「歴史」と言うには、なおあまりにも多くの生々しい記憶が中国の大地を徘徊(はいかい)し続けている。(上海で・藤野彰)
[文革の主役たち]
毛沢東を除けば、文革という政治劇の主要な役者を演じたのは、林彪と四人組だった。林彪は廬山会議で失脚した彭徳懐の後を受けて国防相に就任。文革開始後は解放軍内で毛沢東思想学習運動を積極的に展開し、毛の個人崇拝をあおった。69年の第9回党大会では毛の後継者に指名され、ただ一人の副主席となった。しかし、71年9月、毛暗殺の武装クーデターを起こして失敗、飛行機で逃亡途中、モンゴル領内で墜死した。
四人組は73年の第10回党大会で抜てきされた王洪文(おう・こうぶん)副主席、張春橋政治局常務委員、江青、姚文元(よう・ぶんげん)の両政治局員。文革の混乱に乗じて台頭し、周恩来、トウ小平らと対立したが、毛沢東死去後の76年10月、反革命集団として逮捕された。林彪のクーデター未遂事件と四人組逮捕は文革の破たんを何よりも雄弁に物語っており、党の歴史決議(81年)は文革を「指導者(毛沢東)が誤って発動し、反革命集団に利用された内乱」と決めつけ、否定した。中国革命
*◆文化大革命(下)
*◇紅衛兵、未完の告発◇
約百人の元「紅衛兵」が昨年十一月十六日、北京の天安門広場で再会した。三十年前のこの日、彼らは広場からバスに分乗し、内蒙古(うちもうこ)自治区の農村に向かった。そのまま、約十年を農場で過ごすことになる。その後、様々なルートを経て北京に戻るが、一堂に会したのは初めてだ。
「最もすばらしい青春時代だった」と、参加者の一人、北京豊盛(ほうせい)中学(高校)の女子紅衛兵だった張利さん(48)は、まるで悲惨な歳月が何事でもなかったかのように無邪気に語る。
◇
紅衛兵と名乗る一団が初めて北京の清華(せいか)大学付属中学に現れたのは六六年五月のことだった。
その後、毛沢東らの呼びかけで、全国の高校、大学に広がり、文革の先兵となっていくが、最初の紅衛兵は必ずしも暴力的ではなかった。建国後も「階級の敵」の存在を説く運動が続き、彼らの間に、革命の対象を探そうとする雰囲気がただよっていた。一方、幹部の特権化や腐敗が目立ち始め、教育面では学校の成績で将来が振り分けられるなどの制度化が進行していた。それは生徒たちの目には保守的な流れと映った。毛沢東の「造反有理(ぞうはんゆうり)」の指示が彼らの心をとらえた。
清華大付属中の紅衛兵誕生に加わった北京の作家、張承志(ちょうしょうし)氏(49)は著書「紅衛兵の時代」(岩波新書)で当時の紅衛兵たちの心境を紹介しながら「人の差別、特権階級の勢力拡大、いかなる人の政治的権利の圧迫も許さないというのが、我々が始めた紅衛兵運動だった」と書き留めている。
初期の紅衛兵は、同じような理想を持ち、「老紅衛兵」と呼ばれる。
だが、毛沢東夫人の江青(こうせい)ら文革派の介入、その意向を受けた大学生の紅衛兵の登場によって、運動の性格は全く変わった方向に展開していく。毛は、大躍進や人民公社運動の失敗を受け、劉少奇(りゅうしょうき)やトウ小平(とうしょうへい)らが調整政策を導入したことで、自身の路線が否定されるのではとの疑念を抱き、大衆運動という形で巻き返しを画策していた。文革派はその機会を利用し、劉らの追い落としによって権力の座を狙っていた。
毛は八月に入って、「司令部を砲撃せよ」との壁新聞を書き、紅衛兵の腕章を巻いて全国から来た百万の紅衛兵を天安門で接見し、激励した。古い文化、思想、風俗、習慣を打破するという紅衛兵たちの破壊活動がこのころから頂点に達し、紅衛兵組織間の闘争も日常茶飯となった。八月下旬から一か月余りで、北京で千七百七十二人が殴り殺されたとの統計もある。
闘争の明け暮れで、老紅衛兵は孤立を深め、六六年末、北京の十数中学が連合し「首都紅衛兵連合行動委員会」(連動)を組織し、江青批判を叫ぶ。だが、これがもとで、各校のリーダー三百九人が逮捕され、彼らの全盛期は短い期間で終わった。
その時逮捕された北京八一中学の紅衛兵のリーダーの飲食店経営、田耕(でんこう)氏(46)は、「江青ら文革派が老幹部を次々と批判するやり方に反発を感じた。我々が描いた理想と違う方向に動き出したからだ」と話す。
ただ、老紅衛兵も幹部の子供が多数を占め、地主など「出身の悪い階級」の子供に優越感を持っていた。こうした特権意識に反発した後発の紅衛兵と対立する中で、彼らが暴力行為に走ったことも事実である。
文革には当初、知識人も共鳴した。今では徹底した毛沢東批判を展開する王若水(おうじゃくすい)・「人民日報」元副編集長(71)でさえ、毛の長江(ちょうこう)(揚子江)遊泳を論じた当時の同紙社説に「毛主席に従い、大風波の中を前進しよう」との見出しを付けた。
「毛沢東の掲げた崇高な理想は人々を鼓舞した。しかし、毛は大躍進の失敗を劉少奇らが批判するのではないかと極度に恐れ、その影響を徹底排除することに文革を利用した。打倒の目標が党自体だったから、党外の純真で勇敢な若者を動員するのが便利だった」と総括する。
毛が掲げた理想と現実との開きはあまりにも大きく、現実は理想を実現するうえでの障害物として「打倒」の対象となっていく。毛は六八年に入ると、老紅衛兵だけでなく、用済みとなった紅衛兵運動全体の収拾に乗り出す。これ以降、紅衛兵は、全国の農村に追いやられ、長期間の慣れない肉体労働を強いられた。一面では振り回された紅衛兵も被害者といえるかもしれない。三十年ぶりに集まった彼らの明るさが救いだが、運動が告発した腐敗や特権化の問題は、今も重い課題であり続けている。(北京 中津幸久)
[造反有理]
反逆するものには道理があるとの文化大革命時代を象徴するスローガン。66年8月、毛沢東は清華大学付属中学の紅衛兵にあて、反動派に対する造反には道理があると手紙をかいて、支持を表明した。
文革は、公式には、同じ月の党第8期第11回中央委員会総会で採択した「プロレタリア文化大革命についての決定」を起点としているが、65年11月、上海の文匯報で掲載された文芸評論「新編歴史劇『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」が、そののろしと言われる。呉がん北京副市長の歴史劇は明代の清官、海瑞をたたえた内容だが、大躍進運動を批判した彭徳懐国防相を海瑞になぞらえ、彭を解任した毛沢東を当てこすったものと批判された。
この時点では、「北京は針一本通すこともできない」と毛が嘆くほど、彭真市長ら実権派が力を持っていた。毛は上海から反撃を開始、文芸批判から紅衛兵運動、林彪を中心とした軍のバックアップを通して、劉少奇、トウ小平からの奪権闘争を繰り広げた。
*次はロシア革命を見てみよう
*
*『ロシア革命』 *◆失われた時間(上)
*◇「ソ連は幻」極北の村◇
ロシア極東部ヤクート・サハ共和国の北端、北極海に注ぐインジギルカ川の河口近くにルースコエ・ウスチエという名の村がある。
北緯70度、北方少数民族の居住地からも離れた極北にあるこの村は、住民数百人のほとんどがロシア人。しかも最近まで十六世紀ごろの中世ロシア語を完全な形で話していたことで知られる。
住民の祖先は、イワン雷帝の時代に圧制から逃れ、ヨーロッパ部から北極海を小舟で渡ってこの地にたどり着いた。今世紀初頭にロシア人探検家によって「発見」されるまで、文明から隔絶したまま、三百年以上も古い言葉と生活習俗を守ってきたと言われる。
例えば、住民は今でも、何か尋常でないものを「レスプブリカ(共和制)」と言い表す。台所が乱雑なのは「共和制」、犬の様子やそりの具合がおかしいのも「共和制」。彼らにとって、秩序を乱すものはすべて「ツァー(皇帝)がいない状態」に等しいのだ。
「革命と内戦のうわさはインジギルカの村まですぐには届かなかった。住民は最初のうち、革命とやらは、一体どうやって食べたらいいのか、まるで見当がつかなかった」――シベリア生まれの作家、ワレンチン・ラスプーチン氏は、ルースコエ・ウスチエ村の「現代史」を記したルポルタージュで、村の住民が初めてロシア革命を知った時の様子をこう描いた。
村にとって、当時最大の関心事は、探検家による「発見」とともにもたらされたばかりのランプで、革命は「生活に何の変化も」もたらさなかった。
それから十年余り後、共産主義は確かにこの地にもやってきた。
一九二九年に開始された農業集団化。漁業と北極ギツネの毛皮取引で暮らす村にコルホーズ(集団農場)建設が強行された。
村に残された記録によると、ソビエト政権はこの村でも「富農の一掃」に着手し、手始めに住民が「富農階級」に属するか、それとも「貧農階級」か、自ら答える“踏み絵”を命じた。
富裕層であると認めるのは、スターリン体制下では粛清の対象となることを意味する。だが、住民の大半は迷わず「富農」と答えた。豊かさの尺度といえば、漁業に使う網やそり用の犬の数がすべてながら、それが同時に家族の誇りの印でもあるこの村では、「貧農」と答えるのは耐え難い屈辱だったのだ。
その結果、住民の多くが逮捕、追放された。通常ならシベリアの極限の地に流刑になるはずの住民は、「この村より極北の地がどこにもなかった」(同ルポルタージュ)ために、反対に同共和国の南端部に移送されたという。
ラスプーチン氏によると、ルースコエ・ウスチエ村にとって、集団化がかつて経験したことのない悲劇だったことは、住民が村の歴史について、あたかも紀元前と後でくぎるように、「集団化の前と後」でわけて考えていることから想像できる。
だが同時に、ロシア革命以来七十年のソ連時代の出来事のうち住民が強く記憶にとどめているのは、この集団化と、村の名がソ連風に「ポリャーリノエ(極地の意味)」と改称されたことくらいで、革命も内戦もソ連崩壊も、まるで「よその世界の事件」のようにみなしているという。
「ロシアでは、住民は法や国家制度には支配されない。スターリンの強制力をもってしても、ロシア人を完全に統治することはできなかった。村の歴史はそのよい例だ」とラスプーチン氏は言う。
文明から孤立した村落の例は、ほかにもある。西シベリアのエニセイ、オビ両川にはさまれた湿地帯では、五〇年代に、「外界」と全く接触のなかった大村落が見つかり、ウラルのタイガ地帯では、分離教徒が開いた村に現在も末えいが一人で住む。
ルースコエ・ウスチエ村で古い言葉が革命後も保たれたように、これらの村でも独自の習俗や信仰が、体制とは別個に存在した。七十年来のソ連史を通して、共産主義が常に幻でしかない世界がロシア国内にあったのだ。(モスクワ 布施裕之)
[シベリア開発]
ロシア人のシベリア進出は、毛皮交易を目的とした12世紀前後にさかのぼる。帝政期の16世紀からは、水産物や鉱物などの豊かな天然資源収奪を狙った支配地の拡大が始まる一方、農奴制の圧迫を逃れた多くの農民が移住し始めた。18世紀以降、反乱者や革命家を送る流刑地に利用され、レーニンもその一人だった。
シベリアでのソビエト権力樹立は10月革命後、労働者が中心となってクラスノヤルスク、ウラジオストクなどの都市で始まり、後に農村部に及んだ。続く内戦、日米英など外国軍の干渉で深刻な被害を受け、スターリンによる第1次5か年計画(1928−)以後、大規模な工業化とともに強制的な農業集団化が図られた。
80年代に入ると、労働者の賃金優遇など採算を度外視した開発、軍需偏重の工業化など、共産党主導の国家計画の矛盾が急速に表面化。91年のソ連解体後は工業生産が大幅に落ち込んだ。
* ◆失われた時間(下)
*◇繁栄20年代が最良◇
今年八十五歳になる劇作家のビクトル・ロゾフ氏は、子供のころに見たネップ(新経済政策)時代の光景を今でもよく覚えている。
新政策が始まった一九二一年に、氏は八歳。モスクワ北東三百キロのボルガ河畔の町・コストラマに住んでいた。病身の母親に代わって買い物に行くのが日課だったため、市場の様子から、商品の値段、売り子の振る舞いまで、目に焼き付いた。
靴や衣服、卵などの食料品であふれる商店や街頭の露店。公園に店を出したアイスクリーム売り。役所の簿記係だった父親の月給は八十ルーブル、対するに国営工場製のパンが四コペイカ、協同組合製のパンは四・五コペイカだった。少年は家計を助けるために、アイスクリーム売りの婦人のもとでアルバイトをしたが、この婦人は、氏が初めて目にした「ネップマン」(個人営業者)であり、新時代の女性だったという。
「ネップが始まるまでは内戦による飢餓、ネップの後は農業集団化に伴う飢餓と、恐ろしい時代が続いた。ところがこの時代だけは別世界で、どこからか物がわいてきたし、何でも安かった」とロゾフ氏。
レーニン時代以来、ソ連史の全時代を目撃した氏にとって「ネップは一生のうちの最もよい時代」で、「スターリンがなぜこれを捨てて、共産主義(集団化と計画経済)に移行したのか、今に至るまでどうしても理解できない」という。ロゾフ氏のネップ観は、実は現在の一般的な理解の仕方とはかなり異なる。西側で「資本主義への歩み寄り」とされるネップを、氏は「一生に一度だけかいま見た本当の社会主義」だという。
これは、氏が文化政策を通じてかかわりの深かったゴルバチョフ・前ソ連政権時代に、「社会主義の枠内での経済改革」を正当化するために使われた考えだ。だが、同時に、内戦時代に木の皮で飢えをしのぎ、粛清を目撃し、第二次大戦では片足に治癒不能の重傷を負った同氏の実感でもある。
実際、用語の違いを別にすれば、ロゾフ氏のようにこの時代が「ソ連史上で最良の時代だった」とする見方は、経済学者や歴史学者の間でも根強い。
欧州研究所のニコライ・シメリョフ主任研究員は「ネップはロシアの全歴史を通じて、唯一、経済がうまくいった例。レーニンに偉大な点があるとすれば、命令による経済が成功不可能とさとって、ネップを導入したことにある」としたうえで、ネップを再評価し、その思想的な源流をさぐる動きが高まりつつあると指摘する。
再評価の背景にはむろん、エリツィン現政権の市場化改革が、計画経済解体に成功する一方で、所得格差や物価高、失業の増大などの困難に直面している現実がある。現状への不満から、「ありうべき理想の姿」を過去に求めているのだ。
それにしても、最良の時代であるとされるネップの実態とは、一体何だろう。
あふれる商品、商業取引や小ビジネスの勃興(ぼっこう)、パン作りでのささやかな競争――ロゾフ氏の証言による限り、ネップは、資本主義国ならごく日常的なありふれた光景に過ぎないように見える。それも、大抵の国ではとっくに過ぎ去った過去の懐かしい光景のようにも映る。
「社会主義の勃興と終末」は二十世紀を性格づける大きな要素の一つだ。一九一七年のロシア革命に始まったその歴史は、有為転変を経て、六年前のソ連崩壊によって事実上、幕を閉じた。
ロシア史の生き証人であるロゾフ氏が言うように、ロシアが到達しようとして得られなかったものがネップ時代のような経済繁栄で、しかもそれが「本当の社会主義」であったとするなら、二十世紀史が求めた社会主義の理想とは、実は先進資本主義諸国が達成した消費社会のイメージに近かったのではないか。(モスクワ 布施 裕之)
[ネップ]
ソビエト社会主義政権が1921年から10年近く、農業、商工業の資本主義的形態を大幅に容認した政策。
10月革命は第1次大戦中に起きたため、レーニンは当初「戦時共産主義(18〜21年初)」と呼ばれる急速な産業国有化と中央の一元的管理、農作物の徴発制を断行した。が、この政策は農民の強い反発を招いたうえ、商工業部門も管理機能を喪失し、完全に失敗した。21年3月、クロンシュタット軍港の水兵が反乱事件を起こすさなかに開かれた共産党大会で、経済政策を大きく修正した。
その内容は〈1〉作物徴発制を廃止して食糧税を導入、余剰作物の自由販売を認める〈2〉農民の土地所有容認〈3〉小企業の国有化を解除し、中規模以上の企業でも独立採算制とする――など。レーニンの狙いは、政権から離反した農民層の支持を、再び「労働者の党」側に引き付けることにあった。
26年までには第1次大戦前の生産力水準を回復する「成果」を挙げたが、スターリンが28年から第1次5か年計画を強行、農業集団化政策に踏み切ったことで事実上、撤回された。
*◆ゴルバチョフ(上)
*◇若き改革者の誤算◇
「君はいつまで私を責め立てるつもりかね。もう勘弁してくれよ」
ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領は、うんざりした表情で言った。モスクワ西郊のゴルバチョフ財団理事長室。なぜあの時期に、クーデターをたくらむような守旧派ばかりを登用したのか、という質問には答えず、インタビューの終了を宣告した。
ゴルバチョフ氏はインタビューを通じて、ペレストロイカ(立て直し)が、九一年のソ連崩壊という「予期せぬ展開」でとん挫したことを除けば、世直しに成功し、結果的に「ボリシェビズム全体主義」を民主主義と市場経済への道に導くことができたと満足そうだった。
ただ、ソ連崩壊については「あれはエリツィン(現ロシア大統領)の悪魔的な権力欲のみを動機とするクーデターだった」と感情をあらわにした。「あの愚挙」がなければ、国民をさらに大きな混乱と困窮のどん底に投げ込むことなく、「二十一世紀前半には人間の顔をした、民主主義的な社会主義が実現するはずだった」と、主張した。
◇
ペレストロイカは、倒れかかった社会主義体制の文字通り立て直しが目的だった。だが、意に反して立て直すべき家は全面倒壊してしまった。
「そこに彼の悲劇がある」と語るのは、ゴルバチョフ氏のかつての盟友、アレクサンドル・ヤコブレフ氏(元ソ連共産党政治局員)だ。
「ゴルバチョフには社会主義の改善という考えしかなかった。共産党を改革推進のモーターに変えられるという幻想を、どこまでも信じていた。手遅れになるまで党に執着し、最後まで連邦制を維持しようとした。結局、私も含めて古い体制の人間だった」
ペレストロイカは、ブレジネフからチェルネンコに至る長い「停滞の時代」に経済が衰退し、ソ連が二十一世紀に向けて超大国の地位を保てなくなるという、ゴルバチョフ氏の強い危機感に発していた。改革志向のアンドロポフ共産党書記長の下で帝王学を学んでいた時から、経済改革が必要だと痛感していた。
八五年、五十四歳の若さで党書記長に就任すると同時に、ヤコブレフ、シェワルナゼ(元ソ連外相、現グルジア大統領)氏らを指導部に登用、改革派学者グループを動員して、硬直化した計画経済システムの活性化に乗り出したのがペレストロイカだった。若く改革意欲に燃える指導者を登場させたのは、体制の自己保存本能だったともいえる。
ヤコブレフ氏は、党政治局員時代のゴルバチョフ氏がカナダを訪問した時の駐在大使だった。この時二人が改革の必要について意気投合したという出会いのエピソードは有名である。
「われわれはあちこち手直しすれば、社会主義を数年で改革できると考えていた」と、ヤコブレフ氏は回想する。
シェワルナゼ氏は、ゴルバチョフ氏の地方党幹部時代からの親友で、「停滞の時代」の沈滞ムードについて「この体制は腐っている」と憤慨し合う仲だった。
◇
経済の「加速」、禁酒法などの模索と試行錯誤を経て、市場原理の導入がうたわれ、国営企業の独立採算制などが導入された。それはあくまでも、「社会主義の枠内」での「レーニンのネップ(新経済政策)への回帰」だったが、党内保守派の抵抗や官僚機構のサボタージュで、かえって経済は悪化した。
ゴルバチョフ氏は、グラスノスチ(情報公開)、次いで「民主化」を発動した。ペレストロイカは「革命的な体制改革」(ゴルバチョフ氏)となり、社会主義の再生への期待は内外で高まった。
「二十一世紀初頭は、世界が社会主義の方向に変わる重大な転換点になると意気込んだものだ」と、アレクサンドル・ボービン氏(前駐イスラエル大使、現イズベスチヤ紙政治評論員)は回想する。だが、グラスノスチはパンドラの箱を開ける自殺行為だったことに、ゴルバチョフ氏は気がつかなかった。
[ゴルバチョフ]
ミハイル・セルゲービッチ・ゴルバチョフ(1931―)。ロシア南西部スタブロポリ地方生まれ。52年共産党入党。スタブロポリ市党第一書記などを経て、78年ソ連党書記、80年政治局員とスピード出世を遂げ、85年3月、54歳の若さで書記長に就任した。
旧世代の政治家を解任し、シェワルナゼ外相ら若手を起用、大胆なソ連体制の改革を断行した。90年3月、人民代議員大会による選出で初代にして最後のソ連大統領に就任。同年ノーベル平和賞を受賞した。
91年8月保守派クーデターにより、クリミアの別荘に軟禁。当時ロシア共和国大統領だったエリツィン氏の抵抗によりクーデターは失敗に終わるが、以後発言力を失い、同月末に書記長を辞任。12月にソ連解体が決定的になったのを受け、大統領も辞任した。
冷戦終結の立役者という国外の評価に比べ、国内では不人気で、96年の大統領選に出馬したものの、得票率は1%に満たなかった。現在は国際問題研究機関「ゴルバチョフ財団」理事長。
*◆ゴルバチョフ(下)
*◇崩壊早めた「民主化」◇
「古いオンボロ自転車に強力なモーターをつけようとするのは無意味だ。自転車が壊れてしまう」
ゴルバチョフ氏の盟友、アレクサンドル・ヤコブレフ氏がそう思い始めたのは、八八年ペレストロイカが三年目にして保守派の頑強な抵抗で、足踏み状態に陥った時だという。今思えば、ペレストロイカが体制破壊につながることを保守派は本能的に悟っていた、とも言える。
そうした中で、経済改革を進めるには政治改革が先決との認識のもとに、八八年春から九〇年にかけて「民主化」に力点が置かれた。自由選挙の導入、共産党独裁の否定(複数政党制の導入)、議会(人民代議員大会)創設、ゴルバチョフ氏の初代大統領就任。だが、それは党と国家の一体化という、体制の根幹を掘り崩す作業に他ならなかった。
一方、グラスノスチによる「言論の自由」は、社会主義の神話を突き崩した。体制の旧悪が暴露され、人類の平等実現をうたった共産主義イデオロギーの虚構性が白日の下にさらされた。急進改革派はすでに、「レーニンの十月革命はボリシェビキのクーデターであり、スターリンが完成した体制は社会主義とは無縁のボリシェビズムあるいはスターリニズムという名の全体主義だった」との結論を提示するところまで進んでいた。国民の意識の中で、社会主義体制は一足先に崩壊していた。
ゴルバチョフ氏が開けたパンドラの箱からは他にも次々に予期せぬ問題が出てきた。その最大のものは民族問題で、独立要求や民族紛争の多発は経済問題と並んでソ連崩壊の大きな要因となった。
◇
ゴルバチョフ氏は、「八九年には、保守強硬派、急進改革派の左右から強い圧力を受けて、身動きが非常に難しくなった。状況をコントロールできなくなったと感じた」と語る。左右両極の中間に身を置き、主導権を確保しつつ上からの改革を進める手法では、事態の同時多発的急展開に追いつけなくなったのだ。
その窮地を脱するため、ゴルバチョフ氏は改革を中断して主導権を回復しようとする。それが九〇年の右旋回だった。七月の党大会では指導部を保守派で固め、主要閣僚も一年後にクーデターを起こすような守旧派に変えた。ヤコブレフ氏は冷遇され、年末にはシェワルナゼ氏が「独裁が迫っている」と、外相を辞任した。
世界を揺るがす大破局の年となった九一年の一部始終はまだ記憶に新しい。
ゴルバチョフ氏が優柔不断やいくつかの致命的誤りを犯さなければ、ソ連崩壊は避けられただろうという見方は現在もロシア内外で少なくない。
かつて外交ブレーンの一人だったゲオルギー・アルバートフ米国カナダ研究所長は、「ゴルバチョフは突破口の直前で、いつも彼の言う戦術的後退を繰り返した。二股(ふたまた)をかけずに、われわれ改革派勢力に全面的に乗っていたらきっと成功していたはずだ」と言う。
しかし、実際には、ヤコブレフ氏がしだいに確信するようになったように、自己推進力を失った全体主義が自壊するのは「時間の問題」に過ぎず、その「時間」を決定したのは、体制を支える経済力だった。傾いたソ連体制を支えたのは、かつて世界最大の産油量を誇った石油をはじめとする資源だったが、八〇年代にはあり余る資源を自ら開発する能力すら喪失していたのだ。
◇
ペレストロイカは体制改革によって経済発展の道を模索したが、改革を進めれば進めるほど体制の崩壊を早めるというパラドックスに直面した。その過程で明らかになったことは、市場経済と民主主義以外に進む道はなく、それはマルクス・レーニン主義の処方箋(せん)の全否定だった。
「結局、社会主義はユートピア幻想であり、実現不可能なことが証明された。ロシアの出来事は、理想を力で強制してはならないという全人類への教訓だった」と、当時の改革派知識人の一人、アレクサンドル・ボービン氏は述懐する。
[ペレストロイカ]
ゴルバチョフ政権下で実施されたソ連の改革。停滞する経済の再建を主眼としたが、肥大した官僚制や膨大な軍事費の見直しをも迫られたことから、政治、外交なども含む広範な変革に発展した。「立て直し」を意味するロシア語だが、ゴルバチョフが86年に本格的に使い始めて以後、「グラスノスチ」(情報公開)とともに国際語として定着した。
経済では、国営企業に大幅な自主性を与えるなど部分的に市場原理を導入、政治では、複数候補制選挙によるソ連人民代議員大会の創設(88年)、共産党の一党独裁放棄(90年)、対外的には中距離核戦力(INF)条約調印(87年)など対米和解を軸に「新思考外交」、軍縮が展開された。また、発禁だった文芸作品などが公開され、ブハーリンら革命指導者の名誉回復など歴史の見直しも行われた。
*◆言論弾圧(上)
*◇大作800枚7割削除◇
ソ連時代を代表する風刺作家の一人、ファジーリ・イスカンデール氏の出世作「牛山羊(うしやぎ)の星座」に、こんな一節がある。
◇
議長がぼくの手を押さえ、メモをポケットに戻させた。
「これも駄目ですか?」
「これはまあ、話のあやというやつで、書くこたあありません」議長の口調には、何が書いてよく何がいけないのか、ぼくよりずっとわきまえている自信が感じられた。
「でも、事実なんでしょう?」納得できないぼくはたずねた。
「じゃあ、事実なら何でも書いていいんですか?」と、議長も納得しなかった。(邦訳は群像社「現代ロシア文学」)
◇
主人公の新聞記者が、コルホーズ(集団農場)議長と連れだって農場内を見て回るくだり。典型的な地方官僚の議長は、町から派遣されてきた若い記者に疑心暗鬼で、あれこれと取材のじゃまをする。ソ連体制に対する辛辣(しんらつ)な風刺にあふれた作品の中でも、とりわけユーモラスな場面の一つだ。
ところが、イスカンデール氏本人によると、この部分は実は、氏が書いた元の原稿と微妙にニュアンスが違っている。というのも作品は、六六年に文芸誌「ノーブイ・ミール」に掲載される前、検閲を受けて一部が書き直されたからだ。
例えば最後のくだりは、原文では、議長の無知ぶりを際だたせ、また議長に代表される官僚機構への皮肉を込める意図から、「ええ、でも事実を書いてもいいんですか?」となっていた。しかし検閲の結果、「何でも」の一語が書き加えられたために、「当たり障りのない全く別の表現」に堕してしまったのだという。
「牛山羊の星座」で語句の書き換えにとどまっていたイスカンデール氏に対する検閲は、七三年発表の代表作「チェゲムのサンドロ」では、もっと露骨になった。作品はスターリンの農業集団化を時代背景にアブハジア(現グルジア共和国)の一族の生活を描いた叙事詩的な大作。しかし、同じ「ノーブイ・ミール」誌への公表に当たり、レター用紙で約八百枚に及ぶ原稿のうち、実に「七割近く」が検閲で削除され、中枢部分である「スターリン」などの二章はまるごと破棄された。
イスカンデール氏は、もともと反体制作家ではないが、後にソ連当局の意に背いて、作品を国外(米国)で出版する決心をしたのは、この時抱いた打撃と不信が「どうしてもいやせなかった」からだと言う。政権の露骨な文化統制策が、政治色の薄い作家までをも対岸に追いやった典型的な例だ。
七〇年代を中心とするブレジネフ時代の特徴の一つは、言論や情報に対する極端な国家統制にある。最低限の経済生活が保障された代償に、市民は政治的言動を厳しく監視され、「ネオ・スターリン主義」の時代とも称された。
また一方で、言論統制への反動として「反体制派」と呼ばれる層が輩出したのもこの時代の刻印。政権最初期の作家ダニエル、シニャフスキー(いずれも故人)の裁判から、八〇年の物理学者サハロフ博士(同)のゴーリキー市(現ニージニー・ノブゴロド市)流刑まで、「反体制派知識人」に対する弾圧事件が繰り返された。
歴史作家、ウラジーミル・リチューチン氏は、当時の雰囲気をこう説明する。アルハンゲリスクの地方紙記者出身で活動の主舞台も極北にあった同氏は、反体制派たちとの個人的つながりは一切なく、作品も政治とは無縁で、「どちらかというと体制順応派」だった。
しかし「イワン・デニーソビッチの一日」でデビューした作家、ソルジェニーツィン氏が六九年に作家同盟から除名された際、「政治信条とは無関係に尊敬と同情から」反対の署名運動にかかわったところ、その後二年あまり地元雑誌から作品掲載を断られたほか、「直接の原因かどうか確信はない」ものの、アンドロポフ政権下の八三年まで外国渡航を許されなかったという。(モスクワ 布施裕之)
[ダニエル=シニャフスキー裁判]
1966年2月に行われた、作家ユーリー・ダニエルとアンドレイ・シニャフスキーに対する裁判。
ゴーリキー世界文学研究所員だったシニャフスキーは59年以降、アブラム・テルツのペンネームを使い国外で「リュビーモフ」などの作品を発表。友人で作家のダニエルもニコライ・アルジャックのペンネームで国外で発表していたが、2人とも刑法第70条の反ソ宣伝活動罪で65年8月、逮捕された。
裁判では、ダニエルに5年、シニャフスキーに7年の自由はく奪と強制労働の刑が宣告された。後に作家アレクサンドル・ギンズブルグがサミズダート(地下出版)で裁判記録を暴露。記録は非合法で国外に持ち出され、反体制派知識人への弾圧事件として、西側の注目を集めた。
60年代、ソ連当局による反体制派知識人への弾圧は裁判によるものが目立ったが、70年代以降、市民権をはく奪しての国外追放(ソルジェニーツィン)や国内流刑(サハロフ)などの形態を取るようになった。
*◆言論弾圧(下)
*◇自由得た今 虚脱感◇
戦後間もない四七年、ソ連保健省の省内で二人の高名な生物学者に対する「人民裁判」が開かれた。当局公認でひそかにがん研究を続けていた二人は、米国の研究所からの協力の申し出に応じようとしたとの理由で、突然「国家機密漏洩(ろうえい)」の嫌疑を掛けられ、告発された。
人民裁判には、異例にも、共産党の実質的な「イデオロギー統括担当」を務めていたジダーノフ書記が加わり、二人の追放と研究の破棄を命じた有罪判決の草案を自ら書いたとされる。
現代史文書保管センター(旧マルクス・レーニン主義研究所)のユーリー・アミアートフ主任研究員によると、この裁判がでっちあげだったことは、今日一片の疑いもない。
裁判は、ジダーノフ書記のもとで当時展開されていた文学、音楽などに対する思想統制キャンペーンの一環で、政権が二人の科学者を問題視したのは「機密漏洩」のためではなく、「西側の価値や資金にひざまずいた」ためだった。
◇
「西欧文化へのおべっかと、外国の文物へのへつらいの風潮をまき散らしている」――ソ連初期以来の風刺作家、ゾシチェンコに対する非難が端的に物語るように、四六年からの「ジダーノフ批判」の狙いは、「西側的価値観を排除し、知識階層を完全なコントロール下におく」という二点にあったと同氏は言う。
その背景となったのは、「知識人が戦時下で抱いた一種の解放感を払拭(ふっしょく)し、兵士たちが戦線で見た欧州の生活水準の記憶を忘れさせること」、つまり西側との間に情報の壁を作るのが政権の急務だった。
同氏によると、こうしたジダーノフ批判のモチーフは、後のブレジネフ時代の言論弾圧の原型ともなった。
「共産党の指導性」「祖国の価値観の擁護」といった七〇年代の反体制派への非難の常套(じょうとう)句は、まさに「西欧跪拝(きはい)の排除」という戦後キャンペーンの裏返し。底流にあるのは、ジダーノフ時代と同様、西側への劣等感と知識や情報に対する独占欲で、ダニエル、シニャフスキー裁判からソルジェニーツィン氏の国外追放まで、「西側での作品の出版」が、政権と反体制派のミゾを決定的にする要因となったのも決して偶然ではない、という。
◇
ブレジネフ時代に当局と厳しく対立した反体制派の中には、ソルジェニーツィン氏や故シニャフスキー氏のように、ソ連崩壊後、エリツィン政権批判の急先鋒(せんぽう)に立つ者が多い。かつての亡命作家、アレクサンドル・ジノビエフ氏の場合には「ソビエト・ロシア」紙など、愛国・共産勢力の機関紙の代表的な論客の一人となった。
同様に現政権批判派を自任する風刺作家イスカンデール氏は、こうした転向の心理を「ソ連時代は課題がはっきりしていた。力があるなら、自分の目の前にある壁を全力で壊せというのがその命題だった。そういう明瞭(めいりょう)さがない今は、作家にとっては厳しい時代。一方、新しく権力についた者たちは、我々の求めるものからどんどん離れていく」と述べ、かつての「目前の壁」共産主義の崩壊による心理的な空白感と現政権への幻滅にあると説明する。
しかし理由は恐らくそれだけではない。同氏の中には明らかに、ブレジネフ時代への郷愁のようなものがある。
自作「牛山羊(うしやぎ)の星座」をめぐるやり取りで、イスカンデール氏とソ連当局との間には、表現の一字一句にまで立ち入る極度の緊張関係があった。その緊張はあくまでも、検閲で改められる一字一句が、国民の間で大きな影響力を持つということを前提にしたものだった。
ところが大衆社会化の入り口にある現在のロシアでは、こうした関係は成り立たない。種々雑多な情報があふれる中では、国民の側に作家の言葉を唯一無二のものと受け止める意識がないし、政権の側には知識層をコントロール下に置くだけの理由がない。
つまりブレジネフ時代の政権と反体制派の対立は、情報の壁に閉ざされ、知識層・非知識層に分離した社会でのみ成立する小宇宙だった。逮捕、投獄、裁判、追放――様々な悲劇を生んだ反体制派という特異現象は、その意味では、前近代的なソ連体制の社会構造の補完物だったとさえ言えるのではないか。(モスクワ 布施裕之)
[ジダーノフ批判]
第2次大戦後の1946〜48年、ソ連共産党政治局員兼書記だったジダーノフが中心となって行った、文芸界に対するイデオロギー統制強化キャンペーン。「人民に理解できる芸術を」などのスローガンを掲げた。
文芸界でこのキャンペーンは、30年代初めにソ連で提唱された「社会主義リアリズム論」、すなわち、あくまでも現実に即した画一的表現を作家に強制する文芸理論の総仕上げを意味した。と同時に、ソ連政権にとっては、国民意識形成に強い影響力を持つ文芸作風を西側と対置させることで、先鋭化し始めていた東西両陣営の対立(冷戦)を国民意識面から決定づける、好都合な手段だった。
口火を切ったのは作家ゾシチェンコ、女流詩人アフマートワへの個人攻撃と、その作品を掲載した文芸誌への非難だった。48年には作曲家ショスタコービッチ、プロコフィエフ、ハチャトリアンらも批判された。58年の共産党中央委決定で批判の行き過ぎと誤りが公式に認められて以後、党の文芸路線から一応除外されたが、実際には60年代以降の歴代ソ連政権の政策にも強い影響を与えていった。
*◆KGB(上)
*「迫害でなく救済だ」
話好きのウラジーミル・セミチャストヌイ元ソ連国家保安委員会(KGB)議長(73)の風ぼうからは、かつて国民を恐怖で締め上げた巨大秘密警察長官のイメージはわかない。
だが、同氏は今も、旧KGBの過酷な反体制派迫害は、「罪を犯す前に更生させようとする“人間救済”の努力だった」と確信している。後のアンドロポフ議長によって国内流刑された反体制物理学者・故サハロフ博士や、国外追放された作家ソルジェニーツィン氏に関し、「彼らは手遅れで、予防措置では救済できなかった」と真顔で語る。
「サハロフ(博士)が反体制派になったのは、ボンネル(夫人)に吹き込まれたせいだ。彼女の影響から博士を引き離すのは、トラクターでもKGBでも不可能だった」
六一〜六七年の議長在任期間を振り返り、「私の手は血で汚れていない」とスターリンの片腕ベリヤ内相らとの差異を強調する。だが、同氏の議長時代にも、精神病院が政治異端抑圧に用いられ、教会閉鎖を伴う宗教迫害が行われた。一七年の十月革命直後に創設された「反革命・サボタージュ投機行為取り締まり非常委」(チェカー)以来、党独裁を支えた恐怖機構の系譜の一角を占めたことに変わりはない。
「テロを活用し、反革命分子を即座に射殺しなければ何事も達成できない」――。このレーニンの方針に基づき、ジェルジンスキー長官指揮下のチェカーは大規模な反革命掃討に着手し、摘発した者の多くを裁判もなく銃殺。一八年八月にチェカーの地方幹部が暗殺されると、市民五百人の銃殺で報復するという徹底ぶりだった。脅迫によって膨大な数の労働者、聖職者、軍人らを協力者とし、同僚や隣人を密告で売るよう強制した。
チェカーは瞬く間に監視・弾圧網を全国に広げ、二一年末までには、反革命とスパイの摘発、軍部の動向監視や国境警備などに至る強大な権限を獲得、後年の史上最大の秘密警察KGBの基礎を築いた。
政治学者アレクサンドル・ツィプコ氏は「住民の10%余の支持しか獲得できない少数派だったボリシェビキが革命に勝利できたのは、ひとえに人間の限界を超える残忍さで恐怖支配を貫徹させたからだ」と語る。
秘密警察こそが、恐怖支配の原動力だった。八百万人が逮捕されたというスターリン独裁下の大粛清(三四〜三八年)を含め、国家保安局(GPU)、内務人民委員部(NKVD)など歴代機関による粛清犠牲者は二千万以上に達する、とされる。
恐怖機関に立脚する統治形態は革命以前のロシア史にも数々の類似例がある。十六世紀のイワン雷帝は、「オプリーチニキ」と呼ばれる親衛軍団を創設、貴族の領地没収や処刑を繰り返す恐怖体制を敷き、側近のスクラートフは、モスクワ府主教を自ら絞殺したほか、ノブゴロド市民大虐殺にかかわるなど、暴虐の限りを尽くした。
また、十七〜十八世紀のピョートル大帝は、直属政治警察「プレオブラジェンスキー庁」などを設立。十月革命直前まで存続した保安警察「オフラナ」の密偵はボリシェビキ組織にも潜入、後のチェカーに戦術の手本を提供した。
だが、ツィプコ氏は一八二五年のデカブリスト反乱後、皇帝の命で処刑された首謀者が五人に過ぎなかった点を指摘、「こんな甘い処断は、ボリシェビキにとっては笑い話だ。共産党、秘密警察が一心同体となった空前の恐怖支配は、過去のロシア史から見て明らかな突然変異だ」と主張する。
また、米中央情報局(CIA)の元幹部デービッド・マーフィー氏も、「ナチスでさえ政権掌握後、公安警察網を完備するのに六年かかった。革命後、ロシアの共産党が巨大な秘密警察機構をつくり上げた驚異的速度は説明がつかない」と特異性を指摘する。
突然変異のように膨張したチェカーの血を引くKGBは、CIAに相当する第一総局(対外情報収集・謀略)、米連邦捜査局(FBI)に近い第二総局(対内保安・防諜(ぼうちょう))、第五総局(反体制活動摘発)、国境警備隊などを統括する大秘密帝国として七〇年代に最盛期を迎えた。(モスクワ 古本朗)
[KGBの陣容]
ソ連解体(1991年)後も、組織実態がどうだったのかは、なぞのままである。かつて米中央情報局(CIA)幹部としてベルリンで対ソ作戦を指揮したデービッド・マーフィー氏によると、最盛期の70年代の要員は60万〜70万に達した。
組織上は議長、副議長の下に、〈1〉第1総局〈2〉第2総局〈3〉第5総局〈4〉国境警備総局――の4総局が存在した。
これとともに、軍を監視する第3局、在外公館監視担当の第7局、暗号作成・解読などや電子情報を担当する第8局、共産党幹部ら要人の警護に当たる第9局など、9つの独立した「局」と、6つの「部」(特別調査、工作経験照合、保安警備、国家通信、記録保管、財務の各部)があり、それぞれ下部機関を置いた。
このうち事実上の軍組織だった国境警備隊の人員は約20万人、将校階級を持たない技術・事務職員だけでも約15万人に上った。工作員や情報提供者まで含めると、国内で150万、外国では25万人が各種活動に従事していたとも言われる。
*◆KGB(下)
*◇恐怖で縛り一枚岩◇
九一年八月二十二日夜。ソ連共産党保守派クーデターの敗北に歓喜する群衆が、モスクワ中心部の国家保安委員会(KGB)本部前広場にそびえる秘密警察の始祖、ジェルジンスキーの銅像を、クレーンを用いて取り壊し始めた。十月革命以来、秘密警察の恐怖で支えられて来た体制の終えんを象徴するこの光景を、クリュチコフKGB議長がクーデター首謀者の一人として逮捕された後の議長代行シェバルシン大将が本部五階の窓から凝視していた。
「重機関銃で群衆をなぎ倒してやりたい、という激情に襲われた」と、退官後、調査会社を経営するシェバルシン氏(62)はたばこをくゆらせながら当時の心境を語る。
「だが、そんな流血の愚行に走れば、大群衆が押し寄せ、KGBを粉砕してしまうことも理解していた」
同氏は八九年、KGB副議長兼第一総局長(対外情報収集・謀略活動を担当)に就任。ゴルバチョフ大統領(当時)の直命でクーデター失敗直後の九一年八月二十二日から、わずか二日間議長代行を務め、最高幹部としてKGB帝国の断末魔を見届けた。
副議長就任時、政治・経済危機は既に覆いがたく、KGB機構の歯車も大きく狂っていた。反体制派を弾圧するはずのKGB内部に、九〇年、「KGBはスターリン主義の要塞(ようさい)」の爆弾声明で大騒動を巻き起こした中堅幹部カルーギン少将を筆頭に、報道機関との会見などを通じて反旗を翻す「反体制派将校」が続出。
他方、ベルギー、フランスやアラブ地域などに配置していた部下が相次いで西側へ亡命。「子持ちの将校が給料で生活するのは苦しく、節約のため職員食堂を避け、弁当を持参する」状況下で、「米中央情報局(CIA)など西側情報機関が世界中で、KGB要員に対する寝返り勧誘工作を活発化させていた」と語る。
そんな中で九一年、クリュチコフ議長が秘密会議用施設で頻繁に正体不明の相手と折衝を重ねるようになり、謀反への胎動が始まった。だが、シェバルシン氏は「興味を示せば自分の第一総局も引き込まれる」と警戒し、会談内容や相手を尋ねなかった、という。
クーデター首謀者集団「国家非常事態委員会」による政権掌握宣言の後、KGB幹部会議でのクリュチコフ演説は、「このままではソ連は解体する」と言ったかと思うと、「農作物の収穫も必要だ」と無関係の事柄に触れるなど「支離滅裂」だった。同氏は、「あれがクーデターとすれば、プロが組織したとは思えないお粗末さだった」と振り返る。そしてクーデターは完敗し、崩壊寸前のソ連邦とKGBにとどめを刺した。
「国家非常事態委員会」は、対外情報収集網に混乱を生じさせるのを恐れてKGB第一総局をクーデターに引き込まなかった、とされる。また、シェバルシン氏自身も「蚊帳の外だった」と主張する。だが同時に「自分が当時クリュチコフの立場にいれば、クーデターに参画しなかったとは言い切れない」、あるいは「国家非常事態委が適正な指揮を執っていれば一定期間、連邦やKGBを解体から救えたかも知れない」とも漏らし、複雑な心理をのぞかせた。
KGBの巨体を対外情報局、連邦保安局、国境警備局などに分割した現在のロシア治安機関には、クーデター決行の力も、国民を恐怖で縛り上げる底力もない。また、同時にロシアもかつての国際的地位を失った。
政治学者アレクサンドル・ツィプコ氏は、「ボリシェビキは秘密警察を通じて、ナチスしか比肩できない残虐性を発揮したからこそ、恐怖統治で革命、国内戦争を勝ち抜き、米国と並ぶ超大国を築いた。憎むべきKGBは、まさにソ連体制の主柱だった」と指摘した上で、自虐気味に嘆く。
「反面、恐怖統治から解放された現在の自由ロシアは、国際通貨基金(IMF)の融資に安定を頼る“半植民地的性格”の国だ。恐怖体制によってしか独立した大国でいられないとしたら、それはロシアの悲劇だ」
ロシアはまだ、「恐怖」に代わる「大国の主柱」を見いだしていない。
[保守派クーデター]
91年8月19日から22日にかけ、ゴルバチョフ・ソ連大統領を夏季休暇先のクリミア半島の別荘に軟禁して政権奪取を企てた共産党保守派によるクーデター事件。
首謀者はヤナーエフ副大統領、パブロフ首相、クリュチコフ国家保安委員会(KGB)議長、ヤゾフ国防相、プーゴ内相ら計8人からなる「国家非常事態委員会」メンバー。だが、クーデターは準備不足が目立つ不徹底なもので、同委員会も「ヤナーエフ大統領代行声明」と「国民へのメッセージ」を発表した以外、戦略拠点を押さえるなど具体的な行動を取らなかった。
エリツィン・ロシア大統領らロシア政府指導部は、クーデター粉砕を叫び、最高会議ビルにろう城、周囲を数万人の市民が“人間の鎖”で取り巻いた。21日、一部戦車部隊との衝突で市民3人が死亡したが、結局、軍全体は動かず、クーデターは失敗。
22日、ゴルバチョフはモスクワに帰還したが、以後、政権の弱体化が加速、ソ連共産党解体、ソ連邦崩壊へと進んでいった。
*◆スターリン批判(上)
*◇政敵の発案 横取り?◇
「スターリン批判の演説を最初に計画したのはフルシチョフではなく、政敵マレンコフ首相だった」
世界に衝撃を与えたソ連共産党第二十回党大会(五六年二月)でのフルシチョフ党第一書記の秘密報告演説をめぐって、ロシア史研究所のユーリー・ジューコフ氏は最近、新説を打ち出した。フルシチョフは権力闘争上の思惑から政敵の演説の機会をつぶし、後に歴史的なスターリン批判の先駆者の座を横取りした、というのである。
新説の根拠は、九七年三月に旧ソ連共産党中央文書保管庫で彼自身が発掘したマレンコフの「個人崇拝に関する中央委総会決議案」と、党中央委員会総会を念頭に置く演説草案で、いずれもスターリン死去の翌月、五三年四月に作成されたものだ、という。
両文書ともに一時的に閲覧が許可されたものの、再び事実上の秘密文書扱いに戻っている。
同氏によれば、演説草案は「有害な個人崇拝宣伝の横行」を指摘し、「個人崇拝がマルクス主義と相いれないのは証明するまでもない」と強調している。だが、総会は実際には開かれなかった。同氏は「フルシチョフが、党指導部内の支持を取り付け、開催を阻止した」と推測する。そして三年後、フルシチョフは秘密報告を敢行、その翌年にはマレンコフらを「反党グループ」として追放し、全権掌握に成功する。
ジューコフ説を史実として確立するには、なお検証が必要だ。だが、独裁者の死の直後、マレンコフがスターリン時代の「重工業優先」路線から転じて「消費財生産拡充」をうたい、大粛清の最大の共犯である秘密警察、内務人民委員部(NKVD)のベリヤ長官までもが「市民の憲法上の権利擁護」を標ぼうしていたことも事実だ。スターリン主義者たちが生き残りをかけて、「脱スターリン」の機をうかがっていた当時の情勢を振り返れば、この分析には一定の真実味がある。
秘密報告に踏み切った動機について、フルシチョフの長女で「科学と生活」誌副編集長のラーダ・アジュベイさん(68)は、「父は、スターリンの命令で粛清に加担したことを悔やみ、良心に基づいて秘密報告を行った」と力説する。
だが、歴史学者ビクトル・ゼムスコフ氏は、報告自体を「権力闘争の武器だった」とし、フルシチョフは自らを「反スターリンの闘士」、マレンコフをスターリンの側近として印象付けようとした、と指摘する。
例えば、独ソ戦のハリコフ攻防戦(四二年五月)の失敗をスターリンの責任として糾弾した個所では、自分がスターリンへの電話取り次ぎを要請した際、マレンコフから拒否された逸話を持ち出したのがそれだ。
粛清犠牲者の復権運動を続けるアレクサンドル・ヤコブレフ元ソ連大統領顧問は、「フルシチョフは粛清の血で手を染めた人物として、共犯の責任を免れない」と語る。
ヤコブレフ氏の党文書に基づく調査によると、フルシチョフがウクライナ共和国党第一書記に就いた三八年からの三年間で、同共和国で「反党活動」などを口実に十六万八千人が逮捕された。また、モスクワ市党第一書記時代の三六―三七年にモスクワで粛清された市民は五万六千人に達した。
しかし、秘密報告を機とする脱スターリン化が、「雪解け」や後の東西関係の緊張緩和につながり、ゴルバチョフ時代の立て直し(ペレストロイカ)の底流を作ったという歴史的功績は疑いない。
ブレジネフ政権時代に国外移住したイツハク・ブルドニー米エール大教授は、党組織にとって秘密報告が持っていた意味を、「粛清の恐怖に疲れた党官僚集団に対し粛清時代との決別や、自分が殺りくを再燃させる指導者ではないことを印象付けた。その後の権力や特権をめぐる党内闘争に、銃殺を伴わない勝敗ルールの導入を提起するものでもあった」と読む。
それは、党員の大半が粛清の執行者や密告者、あるいは傍観者として責任を負う異常な情勢下でのみ成立する、流血の過去を清算する手打ちでもあった。(モスクワ・瀬口利一、緒方賢一)
[秘密報告]
1956年2月の第20回党大会最終日の秘密会議で、フルシチョフが行った「個人崇拝とその諸結果について」と題するスターリン批判演説。
数時間にわたる長大な演説でフルシチョフは、大量粛清を行ったスターリンの罪状を列挙。第2次大戦でドイツの奇襲を招いた戦争指導者としての責任にも触れ、その神格化された偶像を突き崩した。
同年6月、東欧筋からテキストを入手した米国務省が、「秘密報告」として公表し世界に衝撃を与えた。特にソ連を範としてきた社会主義諸国の動揺は大きく、ポーランドとハンガリーでは自国の“小スターリン”への抗議暴動が発生。一方、中国はフルシチョフを「修正主義者」と非難し、イデオロギー論争は国家対立にまで発展、当時の冷戦構造を大きく変えるきっかけにもなった。
国内でも、各工場など党の末端組織の会議で読み上げられたが、報告がソ連国民一般に活字として公表されたのは、グラスノスチ(情報公開)が進んだ89年になってのことだった。
*◆スターリン批判(下)
*◇「改革者」負の継承◇
旧ソ連のウクライナ共和国首相などを歴任、最高指導者時代のフルシチョフと職務や狩猟を通じて交わりのあったイワン・カザネツ氏(79)は、フルシチョフの矛盾に満ちた素顔を回想する。
「秘密報告後も、フルシチョフは内輪の会合では、『スターリンは、今の我々とはけた違いに賢明な指導者だった』などと賛辞を惜しまなかった」
党中央委勤務時代にフルシチョフのスピーチ・ライターを務めたフョードル・ブルラツキー元「文学新聞」編集長(70)は、「ブハーリン攻撃に積極加担するなど、熱烈なスターリン主義者だった時代」と、「独裁者の死後」のフルシチョフを区別して評価する必要を強調する。反面、「その後も彼は非スターリン化路線推進の一方で、六四年に失脚するまで外交など多くの分野でスターリン主義者であり続けた」と認める。
事実、フルシチョフの統治には幾度となく、冷酷な“スターリン主義者の顔”が露呈した。
ロシア正教会史の研究で知られる僧侶(そうりょ)インノケンティ師(45)は、「フルシチョフ期の宗教弾圧は、四万三千人もの聖職者が犠牲になったスターリンの弾圧ほどの規模、残虐性を備えるものではなかった」としながらも、「それは、教会、信徒の圧迫のために行政手段を駆使する虐待だった」と語る。五九―六四年の間に、一千以上の教会が閉鎖されたほか、「少なくとも数十人の聖職者が、納税や同性愛に関する刑法上の容疑を口実に投獄された」という。子供に洗礼を受けさせる両親に登録を義務付け、職場で差別されたり、秘密警察に狙われる恐怖に直面させることで信者数の増加が抑えられた。
◇
歴史家ドミトリー・リハチョフ氏は、「スターリンは人々を大量銃殺したが、フルシチョフは政治犯を精神病院に監禁するといった、より悪質で陰険な方法を編み出した」と語る。
五八年には、マルクス主義理論を否定する学生組織「ロシア愛国者同盟」が摘発され、メンバーが最高懲役十年の刑を受けたのを含め、多くの異端思想団体が弾圧された。六二年ロストフ州ノボチェルカスクで、生活条件に抗議する市民二十人が治安部隊に射殺された事件では、大流血の痕跡を洗い流す目的で消防車が鎮圧開始前から現場周辺に待機していた、という。
だが、特に西側の評価は、こうした暗部をわきに置き、「改革者」としてのフルシチョフを前面に押し出す傾向が強い。
米エール大のイツハク・ブルドニー教授は、「後に欧米で数多くのフルシチョフ論の文献が著されたが、それは主にリベラル左派の研究者によるものだった」とし、「共産主義に夢を抱く彼らは、ブレジネフ保守主義に憤慨する余り、粛清犠牲者の名誉回復を含む改革など、フルシチョフ期の肯定的側面を強調、宗教弾圧など否定的側面を過小評価したり、無視しがちだった」と説明する。
こうした批判の中で、ブルラツキー氏は、「党の特権官僚の95―97%がスターリン批判に断固反対する」中で秘密報告が強行され、非スターリン化への潮流をつくり出したとして、なおフルシチョフを称賛する。同氏によれば、演説から四十年余を経た今も、ロシア社会は独裁者の呪縛(じゅばく)から完全解放されていない。
◇
「フルシチョフを解任することは可能だったが、(大統領弾劾を事実上阻む憲法規定に守られた)エリツィン大統領の解任は不可能だ。現在のような絶大な個人権力は、フルシチョフもブレジネフも持ってはいなかった」
ブルラツキー氏は、「スターリン主義が、過去のような形態、規模で再現されることはもはやない」と前置きした上で続ける。
「だが、我々はスターリン主義を完全に克服していない。スターリン主義が、国家運営の個別の局面で出現するのを防ぐ保証機能は、まだ確立されていない」(モスクワ・古本朗)
[フルシチョフ]
ニキータ・セルゲービッチ・フルシチョフ(1894〜1971)。ロシア南部クルスクの炭鉱労働者の家庭に生まれ、1918年ボリシェビキに入党。モスクワ市・州党第一書記、ウクライナ党第一書記などを経て、49年に党書記、スターリン死後に党第一書記に就任。マレンコフ、モロトフらとの「集団指導」体制の下、56年の党大会でスターリン批判演説。57年、マレンコフらを「反党グループ」として指導部から追放、翌年には首相を兼務し、全権を掌握した。
政治犯を釈放、粛清犠牲者を名誉回復させ、追放した政敵を処刑することも停止した。また、ソ連指導者として初の訪米を果たすなど「平和共存」外交を展開し、東西の緊張緩和いわゆる「雪解け」も進めた。
農業、工業の経済改革を次々に打ち出したが、農業生産がかえって停滞するなど成果を上げられず、64年に失脚。71年に死去した。失脚後に自らの政治生活などを口述したテープが流出し、70年代に米国で回想録が出版された。
*◆コミンテルン(上)
*◇希望と混乱の産物◇
モスクワ「赤の広場」から、目抜き通りトベルスカヤ(旧ゴーリキー)街を抜けると、右側にホテル「ツェントラリナヤ」がある。八階建てだが、入り口が奇妙に小さい。
一九一九年から第二次大戦中の四三年まで、世界革命の指導センター「コミンテルン」の専従者が宿舎とした建物で、ディミトロフ(後のブルガリア首相)、ウルブリヒト(後の旧東独国家評議会議長)、チトー(後の旧ユーゴスラビア大統領)らが、ここで「革命の夢」を練っていた。
コミンテルンが誕生したのは、一九年三月四日である。クレムリンでの創設会議に集まったのは、ドイツをはじめ北欧、南欧からの代表二十数人。その設立は、革命ロシアと共に当時、労働運動の拠点でもあったドイツ代表の反対を押し切って決まった。
現代ロシア史の研究者、アレクサンドル・バトリン氏(36)は、創設の背景を次のように説明する。
十月革命がロシアで成功すると、欧州各地では第一次大戦で疲弊した労働者たちが政府への不満を噴出させ、ドイツ、フィンランド、ハンガリーで一時的にせよ「革命」政府を作る。しかし、いずれも短命に終わり、ドイツではカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクら指導者が当局の手で殺された。
レーニンが各国代表を集めたのは、こうした状況の中でだった。指導者を失って窮地に追い込まれていたドイツ代表は、ロシア党の「世界革命近し」とする判断に反対した。しかもセンターの設置を受け入れれば、「革命運動全体がロシアの道具にされる恐れ」があるとの見方が、ドイツ指導者たちの間には強かった。
ところが、会議二日目、危険な旅を続けてモスクワへたどり着いたオーストリア代表が、ウィーン労働者たちの「革命への熱望」を雄弁に紹介した。これで会議の雰囲気が一変し、それまで旗色の悪かったロシア提案のコミンテルン設置案が突然、承認された。ドイツ代表は棄権した。
ロシアには思惑が二つあった。第一は、ドイツなどでの革命の失敗を指導力の欠如にあったとし、それを補う国際的な革命指導機関を必要としたこと。第二は、第二インターナショナル(国際労働者政党組織)に対抗する新しい組織、コミンテルンを作って、ロシアが世界革命の主導権を握ることだった。
こうした状況から、コミンテルンは「世界革命への希望を父、混乱する情勢を母、そしてオーストリア代表の熱弁という、偶然を産婆役に誕生した」(歴史家故アイザック・ドイッチャー)というたとえは、当たっているかもしれない。
だが、その経緯が本当に「偶然」だったかは、必ずしもはっきりしない。
バトリン氏によると、リープクネヒトとルクセンブルクらの殺害事件に関する最近の研究で、米国の学者の一部から、当時のロシア代表ラデク(コミンテルン指導部員)が事件前にドイツへ行き、リープクネヒトらの居場所をドイツ当局に通告した疑いが提起されているという。
同氏は、この推論を「十分な証拠がない」として否定はしているが、ロシア党がドイツ指導者の暗殺を故意に演出し、これに対する労働者の反発を利用して一挙にコミンテルン設置を図ろうとしたとしても不思議はない。
コミンテルンの歴史には、革命指導という名の下で指導者の恣意(しい)を「歴史の必然」に置き換える、ごう慢さが随所に見られる。労働者の武装決起を指導して失敗した二三年のドイツ「十月革命」計画、中国革命への悲惨な介入、二枚舌的なスペイン内戦への援助など、例は幾つも挙げられる。
しかも三〇年代のスターリン時代に入ると、コミンテルンはロシア党内の権力闘争の代理舞台に変質し、国内の反スターリン派一掃と並行して、外国人で処刑される者も相次いだ。
ドイツ党指導者たちが抱いた「恐れ」は不幸にも的中した。モスクワで「革命の夢」に燃えた多くの外国革命家が、ソ連の権力闘争の暗部で、いとも容易に不条理な死を強いられた。その悲惨な現実が、今、次第に明かされ始めている。(モスクワ 熊田全宏)
[コミンテルン]
20世紀前半、国際共産主義運動の中核的役割を果たした「共産主義インターナショナル」(1919〜1943)の略称。19世紀に創設された労働者階級の国際組織「第1インターナショナル」(1864〜76)、「第2インターナショナル」(1889〜1914)に代わるものとして、「第3インターナショナル」とも呼ばれる。
レーニンの主導で1919年に結成され、年1回、最高機関として世界大会が開催された。
20年7月、第2回大会で承認された21か条に及ぶコミンテルン加盟条件は、〈1〉プロレタリアート独裁の容認〈2〉修正主義からの決別〈3〉合法・非合法闘争の結合〈4〉民主集中制の採用――などを規定、各国共産党に厳格な規律の順守を要求した。国際的革命組織とはいえ、革命を実現したソ連の威信を背景に、その後、各国共産党に対するソ連の支配の道具としての性格を強めた。
第二次大戦中の43年5月、コミンテルン解散を求める連合国との結束を重視したスターリンが解散に踏み切った。
*◆コミンテルン(下)
*◇対米取引の材料に◇
コミンテルンの設立資金は、ロマノフ皇室の没収資産がふんだんに充てられた。最近明らかにされたところによると、設立直後の一九年四月、ロシア共産党は当時の金額で数十万ルーブル相当の宝石、真珠など皇室資産と、現金五百二十万ルーブルを外国党への援助に割り当てている。「革命と内戦」という戦時経済下で、この額がどの程度の価値を持つのか、正確に算出する事は難しいが、当時のロシア新政府の年間予算の百分の一ほどの額だった。
しかし、レーニンは「これでは少な過ぎる」として、一九年から二〇年初めにハンガリー、ドイツ、イタリアなど十か国の党への援助資金を四倍にも増額している。食糧不足、貨幣価値の暴落、路上に餓死者さえ出る国内の状況下で、大きな犠牲を払って作られたのがコミンテルンだった。世界革命は、ロシアにとって焦眉(しょうび)の急だったのだ。
現代ロシア史の研究者、アレクサンドル・バトリン氏によると、二〇年代の初め、モスクワの本部から欧州各党への資金は、本名ジェームズ・ライフ、暗号名「同志トーマス」と称する人物を通じて流れていた。ベルリン在住のユダヤ人で、コミンテルン議長ジノビエフのスイス亡命時代の友人だったという。
このトーマスが二〇年から二一年までに受け取った額は約一千万ドイツ・マルク(現在の約百万ドル以上)、他に高価な宝石類があったが、その現金と宝石は後に行方不明になる。コミンテルンはトーマスをモスクワに呼び出して査問にかけたが、インフレで「カネは紙くず同然」「宝石は売れなかった」などと言い逃れ、後に米国へ逃亡した。
「スターリン時代ならトーマスが生きていられるはずはなかった」とバトリン氏は言う。レーニンは二一年、党中央委に「不明朗財政の取り締まり」を求める手紙を書いたが、乱脈援助にケリを付けたのはスターリンであり、通常援助を切り捨て、資金は「計画」ごとに割り当てた。スターリンはカネの管理を通じて、外国党の完全支配に成功する。
コミンテルンの目的は「革命の輸出」である。しかし、一国社会主義を唱えたスターリンにとって三〇年代は、資本主義諸国で「革命を起こす」より、それらの国からの協力が一層重要な時期でもあった。スターリンはソ連の国益を優先した。例えばスペイン戦争がある。
スターリンがスペイン共和国(人民戦線)側への援助を決めたのは、内戦勃発(ぼつぱつ)から二か月後の三六年九月。戦車から航空機、二千人に及ぶ戦闘員、それに反スターリン派監視の秘密警察要員まで派遣したが、迷いに迷った末の決断だった。
三六年は国内でトロツキー派への粛清裁判が続いていた年だ。権力闘争の側面は否定できないが、スターリンの本心は、反共和国のフランコ将軍派を支援するナチ・ドイツと「事を構えることを恐れていたからだ」と研究者の多くは指摘する。
実際、スターリンは同年十二月、当時のスペイン共和国政府首相カバリエロに「スペインには議会主義の道こそ適切」として、武器援助が「スペインの共産化を進めるものではない」と示唆した手紙を送っている。世界革命戦略の放棄に等しいことだった。
コミンテルンは四三年五月、スターリンの決定で解散が決まる。当時のソ連は米英など連合国との協調関係を重視し、米国からはコミンテルンの解散を要求されていた。しかし、ソ連にとって「革命輸出」の実務は、すでに党中央委国際部に移されており、事実上何の支障もなかった。
スターリンは「コミンテルン解散」を米国への贈り物として実行し、後の対米協調の基礎としている。その外交的狡知(こうち)は絶妙というほかないが、こうしたスターリンの「私的」機関であったからこそ、コミンテルンの手で「革命がどこにも起こらなかった」のは、むしろ当然のことだった。(モスクワ 熊田全宏)
[一国社会主義]
共産党政治局員に選出されたスターリンが1920年代、党指導部内のトロツキーらとの路線闘争に際して唱えた、「ソ連だけで社会主義国家建設が可能」とする理論。
マルクスの社会主義論は本来、労働者の国際的連帯で世界革命を目指したが、スターリンは、この原則を踏襲するトロツキーを「冒険主義」と批判。ロシアの労働者が当面目指すべきは、経済建設を通じたソ連政権の強化、反ソ勢力から革命を守ることだと主張した。
スターリンはみずからの主張を具体化するものとして、28年から5か年計画を開始。コミンテルンはスターリン色を強め、やがて世界革命の可能性が消滅するとともに、世界大会も35年以降開催されなくなった。
[スペイン内戦]
1936年7月〜39年4月。左翼諸政党が36年2月、人民戦線内閣を成立させたのに対し、フランコ将軍を中心とする軍部右派・国民戦線が7月、反乱を起こした。当初は国内の宗教、左右イデオロギー対立を反映した戦争だったが、反乱軍側をファシズムの独伊正規軍が、共和国(人民戦線)側をコミンテルンの指令で送り込まれるなどして、55か国、約4万の義勇兵が、それぞれ干渉したことから国際化した。
近代兵器の使用、鋭い理念対立で第2次大戦の序曲となった戦いは結局、独伊の強力な支援を受けたフランコが勝利して独裁体制を確立、その支配は75年11月の死去まで続いた。
*◆ロシア至上主義(上)
*◇顔を変えた独裁者◇
第二次世界大戦直後の四五年夏から、モスクワの町中に、スターリンの新しい肖像が一斉に掲げられた。
自らお抱え画家に注文したとされるこの肖像で、独裁者は戦勝で授与されたばかりの「大元帥」の肩章のついた軍服を着ている。しかしそれ以上に目を引くのは、顔の相貌(そうぼう)そのものが戦前の肖像と微妙に異なっていることだ。
太く短い眉、厚みのある顎(あご)、鼻腔(びこう)の広がった鼻――新しいスターリンの肖像は、明らかにロシア民族の顔の特徴を備え、戦前の肖像にあったグルジア人としての面影をほぼ完全に失っているのだ。
英国在住のロシア人生物学者・歴史家、ジョレス・メドベージェフ氏の論考「ソ連からソビエト・ロシアへ」(十二月十八日付独立新聞)によると、肖像はモンゴル、チベットの探検家として知られるロシア貴族、ニコライ・プルジェワリスキーをモデルに描かれた。
これは「ソ連諸民族の中で一番の優性民族であるロシア人にとって、指導者が異邦人の顔をしていてはならなかった」ためで、肖像製作と前後して、この帝政貴族がスターリンの「本当の父親」であるという、まことしやかな説さえ流布されたという。
スターリンの「ロシア人への変身願望」は、ほかにも例がある。
戦前、戦中を通じ、国策映画でスターリン役を演じたのは、公式選考で選ばれたグルジア人俳優一人に限られていた。ところが四八年の新作で、モスクワ芸術座出身のロシア人男優が突然、主役に抜てきされ、その後大量に作られた戦勝プロパガンダ映画でもっぱらスターリン役を演じるようになった。
コーカサス山脈沿いの寒村ゴリに生まれたグルジア人、スターリンは、強いコーカサスなまりがあることで知られ、グルジア人俳優もまさにその口調をまねた独特の語り口で人気を博していたのだが、今やスターリンは映画の中で、首都モスクワ風のロシア語を話す「ロシアの正統な指導者」となったのだ。
戦後のスターリン治世の特徴の一つは、極端なロシア民族主義の傾向にあるとされる。
戦勝演説で文字通り「偉大なロシア民族」をたたえたスターリンは、戦後、イワン雷帝、ピョートル大帝ら歴代皇帝、スボーロフ将軍ら民族英雄を「帝国の領土拡張」の貢献者として顕彰するよう命じ、歴史教科書をそれに従って書き改めさせた。
新聞はじめ外国の出版物が完全に閉め出される一方で、共産党と政府の機関紙では、電気からラジオ、蒸気機関車、飛行機に至るまで、すべてロシア人が発明したとするグロテスクなキャンペーンが行われた。
「ロシアだけが地の塩であり、文明の揺籃(ようらん)であり、人間精神における偉大かつ高貴なものすべての根源である」(ポーランド生まれのソ連史家、故アイザック・ドイッチャー)――こうした神秘論的なロシア主義は、従来、スターリンが第二次大戦中にロシア正教を一部解禁するなど、民族意識を戦意高揚に利用しようとしたことに始まり、戦後の冷戦開始によって頂点に達した、とされてきた。
しかし最近のロシア国内の研究では、スターリン自身のロシア民族主義の刻印は、実は革命初期にまでさかのぼるもので、しかもそれが七十年後のソ連解体の要因とも深くかかわっているとの説が強まりつつある。
というのも、二二年のソ連成立に際しスターリンが、「連邦国家」の設立に反対し、ウクライナやグルジアなど周辺国をロシアの完全な一部として併合する、帝政ロシア型の一元的中央集権国家の樹立を主張していたことが、当時の資料から明らかになっているためだ。(モスクワ 布施裕之)
[個人崇拝]
1930年代後半、共産党内の古参幹部を粛清して独裁体制を完成させたスターリンは、自らを神格化するとともに、党や軍、国民に盲目的服従を強制し始めた。
これを具体的に批判したのはフルシチョフの「秘密報告・スターリン批判」(ソ連共産党大会第20回大会=56年2月)だった。報告では、レーニンがスターリンの粗暴な性格を見抜き党書記長職解任を求めていた事実、当時の党政治局員の無力さなどが指摘された。また、スターリン自身が自己賛美に努め、「多くの追従者、ペテンと欺瞞(ぎまん)を専門とする者が出現した」と述べられている。
指導者神格化は、海外にも“伝染”した。晩年の毛沢東支配の中国、金日成・金正日父子の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)などが同様のやり方を踏襲した。
しかし、最近のロシアでは「第2次大戦勝利の功績」などから、スターリン再評価の傾向が強まっている。全ロ世論調査センターの世論調査(97年10月)によると、最も好感の持てる革命時代の人物として15%がスターリンを挙げた。ブハーリン(13%)を上回る人気ぶりで、90年当時の同じ調査より7ポイントも上昇した。
*◆ロシア至上主義(下)
*ロシア革命直後からボリシェビキ政権の民族問題担当相(当時は人民委員)を務めていたスターリンは、二二年四月、共産党書記長に、同八月には、新国家(後のソ連)の憲法を起草する党委員会の長に任命された。
月刊誌「ナーシ・ソブレメンニク(同時代人)」に昨年十二月まで連載された歴史家、故ニコライ・ヤコブレフ氏の遺稿「スターリン、頂点への道」によると、スターリンが作成した憲法原案は、新国家が、ウクライナ、ベラルーシ、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアを「自治共和国としてロシアに併合」することで成立するとした。
各国の地位は、ロシア国内ですでに樹立が認められていたタタール自治共和国などと全く同じで、農業その他の経済政策などで自治権は認められるものの、離脱の権利はなく、既存のロシア政府に代わる新たな中央機構の設立もうたわれなかった。
原案は、グルジアに強硬に反対され、レーニンからも「大ロシア・ショービニズム(排外的な愛国主義)」と非難されたため、スターリンは「部分的に妥協」し、条文のうえで新国家を「同権の共和国の連合による連邦国家」と規定したが、中央政府の構造などは原案のままに残した。
肝心なのは、レーニンもスターリン自身もこの修正が形式的なものに過ぎず、実際に成立したのは、ロシアが他の諸国を「隷属」(レーニンの手紙)させる「一元国家」(スターリンのソ連成立大会での演説)にほかならないことを認めていたことだ。だからこそスターリンは病床のレーニンの意見を表向き、受け入れるふりをしたのだという。
ヤコブレフ氏は、レーニンが二二年末、突然スターリンを「党書記長から解任」するよう求めた有名な「遺言」を書いたのは、実は、このロシア民族主義と将来のソ連の国家像を巡る対立で、強い敗北感にまみれたためだったと指摘する。
そのうえで、七五年後の現在から見れば敗れたのはむしろスターリンの方で、この時スターリンが妥協によって、憲法条文とソ連成立宣言に「空疎な連邦主義」(スターリンによるレーニン批判)の条文を盛り込んだことが、九一年十二月のエリツィン大統領らによるソ連解体に根拠を与える命取りになったと結論づけている。
◇
モスクワ在住の元反体制歴史学者、ロイ・メドベージェフ氏(英国在住のロシア人歴史家、ジョレス・メドベージェフ氏の双子の兄弟)は、誕生から崩壊まで、ソ連には社会主義とロシア民族主義という「二つのイデオロギー」が常に存在していたと言う。
前者が共産党の公式イデオロギーだったのに対し、後者はいわばソ連という国家のイデオロギーで、年代によって、どちらかが前面に出たり、また後退したりと浮沈を繰り返してきた。
また、スターリンが「攻撃的なロシア民族主義」に深く染まったのは、グルジア人としての劣等感や、神学校で受けた「偏狭な教育」、外国語を知らないなどの国際感覚の欠如のほか、「国民を動かすイデオロギーとして社会主義より民族主義の方がはるかに強い」というプラグマティックな直感があったためだ。その思想上の本質は「信仰、皇帝、祖国」を国家スローガンに掲げた帝政時代の民族主義イデオロギーと何ら変わらないという。
◇
「スターリン時代同様、ロシアは再び民族主義に救いを求めている」とメドベージェフ氏が言うように、エリツィン政権は、ソ連崩壊による国家価値の空白を、もうひとつのイデオロギーだったロシア民族主義で埋めようとしている。政府紙「ロシア新聞」(十二月二十七日付)によると、同紙が行っている「新国家スローガン」の公募では、「道徳、民族性、愛国主義」が圧倒的な支持を受けているという。
社会主義と結びついたロシア民族主義は、バルト諸国の併合、旧東欧圏の衛星国化、アフガニスタン侵攻など、帝政時代を上回る膨張政策の悪夢を招いたが、エリツィン政権の国家意識は何を生み出すのか――現在の愛国キャンペーンに、国力の弱まりをロシア民族の優越意識で支えようとした戦後のスターリンの国粋主義につながる要素があることは否定できない。(モスクワ 布施裕之)
[連邦の形成]
ロシアは帝政期、東欧の一部から中央アジア、極東に至るまで広大な領域を支配したが、1917年の10月革命後、新政権は「ロシア諸民族の権利宣言」で民族自決を打ち出す。これにより各地でソビエト共和国が成立するとともに、フィンランドが分離・独立した。
この時点で、後のソ連の母体はロシア共和国とその下の自治共和国・自治州、ウクライナ、ベラルーシ共和国、その他地域の共和国などに分かれていた。
その統合が共産党政権の重要課題だったが、22年にシベリアの極東共和国のロシア編入とともにグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアのコーカサス3国で構成する連邦共和国とロシア、ウクライナ、ベラルーシが同盟条約を結んで連邦を形成。さらに25年、ウズベキスタン、トルクメニスタンの中央アジア2か国(キルギスタン、タジキスタンなど含む)が加入し、ソ連の骨格がほぼ完成する。
しかし、40年に強制併合されたバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)が90年、相次いで独立宣言したのを機に、ソ連邦は急激に求心力を喪失。91年12月、独立国家共同体(CIS)創設協定で、あっけなく解体してしまう。
*◆軍への抑圧(上)
*◇抵抗力奪う監視網◇
「突然、屋内に突入して来た黒い背広姿の男二人が、私の眼前を、夫の眠る寝室へ疾風のように駆け込み、うつろな表情の夫を連行して行きました。それが私の見た夫の最後の姿です」
グラフィラ・ブリュヘルさん(84)は、モスクワ市内のアパートで五十九年前の早朝の恐怖を語る。
「夫」とは、スターリンによる軍幹部大粛清のあらしが吹き荒れていた一九三八年十月二十二日、休養先で、「スパイ」として秘密警察、内務人民委員部(NKVD)に逮捕され、翌月、射殺された国内戦の英雄、ワシーリー・ブリュヘル・ソ連邦元帥(当時四十八歳)である。
グラフィラさんも同じ日に逮捕され、「スパイ」の罪状で収容所へ送られた。生後八か月だった息子の行方は、今日に至るまで不明だ。
「私は、十八年間の収容所、流刑地生活を通じて夫の生存を信じ続け、名誉回復された五六年、初めて殺されたことを知りました」と、震える指先で黄ばんだ元帥の写真をなでた。
一八年の赤軍創設以来のソ連軍史は、軍に対する粛清、共産党の監視・抑圧装置強化の過程でもあった。軍史研究家ビクトル・ゾトフ氏は、「その結果、国外に対しては威圧的な大グマだが、党にはヒツジのように従順で、自分の意思を持たない巨大集団が育て上げられた」と指摘する。
旧ソ連に政治危機の兆しが見える度、西側では軍部が主導権奪取へ動く危険が幾度も論じられた。だが、共産党自体の断末魔によって引き起こされ、自滅した党保守派クーデター(九一年八月)を除けば、軍部が動いた例はない。
十月革命の時点で、ボリシェビキは武装労働者から成る「赤衛軍」二万人に加え、政治扇動を通じて臨時政府側の陸海軍兵士二十一万人を自陣営に引き込み、革命を支えた。続いて、軍事人民委員(国防相)のトロツキーは、旧帝政軍を主体とする「白衛軍」や外国干渉軍との国内戦を戦う必要上、旧帝政軍将校二万二千人を赤軍に編入。同時に、これら将校の反革命言動を監視するため党活動家の「軍事委員」を配置する措置が決まり、ソ連崩壊まで存続する政治将校制度の基盤が築かれた。
さらに、一七年末に発足した秘密警察「反革命・サボタージュ・投機行為取締非常委員会」は、赤軍内に監視網を設置。これは、「特務部」網として、後の国家保安委員会(KGB)まで引き継がれた。米ハーバード大のマーク・クレイマー博士は、「他の国でも防諜(ぼうちょう)担当官が軍部隊に配置されるものの、ソ連軍の場合、秘密警官が一般将兵を装って潜入し、粛清の口実を探すなど極端な形態を生んだ」と指摘する。
ブリュヘル氏や、国防人民委員第一代理トゥハチェフスキー元帥を筆頭に、全軍将校の五分の一、将官以上の半数余が犠牲になった軍部大粛清(三七―三八年)は、社会全体を覆った粛清の大波の一部ではあったが、「スターリンに脅威感を抱かせるような、権威と自立的意思を持つ将校」を駆逐する特別な目的も持っていた、とみられる。
同元帥ら重鎮八人が「ドイツ諜報機関への協力」などの罪状に問われ、全員が銃殺を宣告された三七年六月十一日の軍事法廷で、被告の一人ヤキル・キエフ軍管区司令官は、「私の目を直視できるか。罪状はうそだ」と抗議した。だが、同じ被告のプリマコフ・レニングラード軍管区司令官は、告発がスターリンの意思である以上「あきらめろ」とヤキル氏を諭したという。
第二次大戦後、海軍元帥まで昇進したニコライ・クズネツォフ氏は後年、「意思表明が必要な時に沈黙し、受け身に終始した我々の多くは罪を背負っている」と、無抵抗で仲間の大粛清を甘受したことを悔いた。だが、その「受け身と無抵抗」こそが、軍に張り巡らされた政治将校と秘密警察の監視網、そして粛清される高級将校自身が党中央に絶対服従を誓う党員であるという、複合的統制メカニズムの重要な成果だった。
クレイマー博士がいう。「有能な軍指揮官が粛清で一掃されたため、ソ連は、対独戦の初期段階で敗北寸前まで追い込まれる破滅的対価を払った。だが、粛清によって共産党の軍統制が確立されたことは事実だ」(モスクワ 古本朗)
[大粛正]
1930年代後半、スターリンは独裁体制を完全なものとするため、共産党、軍、知識人、さらには一般市民、農民までも対象に大量テロを断行した。犠牲者数は少なくとも350万人、歴史学者によっては1000万人以上と推定している。
発端は党内反対派に対する3次の「モスクワ裁判」だった。36年7月の「合同本部事件」でジノビエフ、カーメネフら16人、37年1月にラデックら13人、38年3月の「右翼=トロツキスト・ブロック事件」でブハーリン、ルイコフら18人を処刑。37〜38年に当時139人いた党中央委員、同候補のうち、98人が銃殺された(フルシチョフの第20回党大会秘密報告=56年)。
軍に対しては、スターリンは秘密警察への反発、粛清した党幹部との結びつきを恐れた。処刑者は5人の元帥のうちの3人、海軍大将10人全員、陸軍政治委員17人全員などをはじめ、数千人の将校に及んだ。戦時でさえこれほど多数の軍幹部が命を落とすことはなかった。
*◆軍への抑圧(下)
*◇疎まれた英雄元帥◇
「全権を握ったフルシチョフ(党第一書記)は、軍に対する完全支配を欲し、介入し始めた。そして、軍事問題でのフルシチョフの無知を知り抜いていた父との衝突に至りました」。五七年十月、共産党指導部により、「ボナパルト(軍部専制)主義的傾向」を理由に党幹部会と国防相職から追放された第二次世界大戦の英雄、故ゲオルギー・ジューコフ・ソ連邦元帥の娘マルガリータさんは今も、敬愛する父親が受けた屈辱を許せない。
「フルシチョフは、軍部内でのジューコフの威信と、その決断力を恐れ、父が国内にいる間は事を運べなかった。だから、ユーゴスラビア訪問の留守中に解任する陰謀を準備したのです」と、怒りを抑えつつ語る。
ナポレオンを撃破したクツーゾフ将軍らと並ぶロシア・ソ連軍史上の英雄ジューコフ元帥は、将兵の思想統制ばかりか、装備や演習の計画にまで口を出す党支配に重大な挑戦状を突き付けた、最初で最後の軍指揮官だった。ジューコフ解任により、軍統制強化は完成段階に入り、「国外に対しては危険な大グマ、党に対しては何をされても無抵抗のヒツジ」というソ連軍の性格が定着した。
二年前に秘密文書指定を解除されたジューコフ元帥の国防相当時の演説草稿は、党指導部が元帥に脅威を抱いた理由を如実に示している。五六年五月十九日付で元帥が、事前チェックのためフルシチョフ党第一書記に送付した草稿は、「軍内イデオロギー教育を通じて、スターリン賛美のために戦史の重大なわい曲が行われた」と、個人崇拝を強制した軍内部の党機関の責任を追及。さらに軍事問題に無知なスターリンが対独戦での軍指揮を執ったために被った被害の大きさを指摘する形で、暗に、党指導者が軍務に介入することの危険に言及している。結局、元帥が演説するはずの党中央委総会は開かれず、演説草案は中央委文書保管庫へしまい込まれた。
党支配に対する元帥の挑戦は続き、軍内党機関を三分の一削減、部隊付政治将校の最高階級を大佐にとどめる決定を下すなど党支配を制限する動きを強めた。元帥は五七年マレンコフらによるフルシチョフ解任の動きを阻止するのに貢献した後、追放された。
マルガリータさんが後に、ある軍の長老から受けた告白によると、フルシチョフは当時、高齢ながら軍に影響力を持つ元帥グループを呼び出し、「ジューコフ解任を支持しなければ、年金、別荘、特権を取り上げる」と迫ったという。そしてスターリン時代と同様に、軍高官たちはジューコフ元帥の追放も「ヒツジ」の従順さで受け入れた。
党、秘密警察の監視網と粛清の恐怖に縛り上げられ、独自意思の発揮を封じられたソ連軍の体質は、肝心の作戦機能にも奇形を生んだ。米ハーバード大のマーク・クレイマー博士は、五六年のハンガリー動乱で、歩兵部隊の支援なしにブダペストに進入したソ連軍戦車部隊が、市民の火炎ビンで炎上させられた例を挙げて指摘する。
「迅速に戦車を退却させるべきだったが、硬直化したソ連の指揮体制下で将校は上の命令なしに独自裁量で撤退出来なかった」
党と軍司令部、将兵相互の間には、異常な「不信の伝統」が根付いていた。例えば、冷戦期、米国の核ミサイル搭載原潜では核戦争により本部からの通信指令が途絶えた場合、艦長に核攻撃の最終判断の権限がゆだねられていたのに対し、ソ連原潜では状況によらず、本部からの指令を受信しなければ核弾頭の安全装置を解除できないシステムになっていた。人間を絶対に信用しないスターリン的伝統を象徴する事象の一つだ。
軍史に詳しい政治学者アンドレイ・リャボフ氏(ゴルバチョフ財団)は、「ソ連史を通じて、軍は共産党の抑圧政治を支える基盤であると同時に、自らボリシェビキ革命、スターリン主義の暴虐の被害者でもあった」とした上で強調する。
「軍は、党の圧力下での生存を運命づけられ、決して自ら権力を握る存在ではなかった。事あるごとにソ連での軍事クーデター発生を心配した西側は、連邦崩壊までその真理を理解しなかった」(モスクワ 古本 朗)
[ジューコフ]
1896〜1974年。18歳で帝政ロシア軍に召集され、10月革命後、赤軍に転じた。モンゴル国境で旧日本軍とソ連・モンゴル軍が衝突したノモンハン事件(39年)で、戦車部隊司令官として日本軍を撃破したことからスターリンによる大粛清を免れた。第2次大戦ではスターリングラード(現ボルゴグラード)攻防戦、レニングラード(現サンクトペテルブルク)包囲突破戦、ベルリン攻略戦などを指揮し、対独戦を勝利に導いたことで国民的英雄となった。
この功績がスターリンに疎まれ、戦後はオデッサの一司令官に追いやられた。スターリン死後は55年国防相に返り咲いたが、フルシチョフとも対立し、57年に失脚。フルシチョフ退陣後の65年に名誉回復され、死後はクレムリンの壁に遺骨が納められた。
回顧録「回想と思索」(初版69年)で「スターリンは戦争指揮の役割を果たしていない」などとスターリンを厳しく批判した部分が削除されたが、90年に完全版が出版された。
*◆粛清の恐怖(上)
*◇闘士屈辱の命ごい◇
九一年八月、反ゴルバチョフの保守派クーデターが失敗に終わった直後に、スターリンに「無実の罪」で銃殺された古参革命家ニコライ・ブハーリンの夫人アンナ・ラーリナさん(九六年二月、八十三歳で死去)をモスクワ郊外のアパートに訪ねたことがある。彼女は言った。
「スターリンは一番、悪い種類の人間です。実に疑い深く、人を抑えつける性格でした。クーデターのニュースを聞いた時、また、独裁がやってくるのかと本当に恐ろしい思いでした。近くにスターリンの肖像画がはりだされたといううわさもあったんですよ!」
その三年前の八八年二月、ブハーリンの無実が確認され、ようやく夫の名誉回復が実現したばかりだった。その復権に尽力したゴルバチョフ政権へのクーデター。その時、スターリンへの「恐れと怒り」が、夫人の脳裏をよぎったに違いない。
レーニン、トロツキーと並ぶロシア革命の闘士ブハーリンは三七年二月、国家反逆、党要人暗殺計画などの容疑で逮捕され、一団の被告とともに公開裁判(右翼=トロツキスト・ブロック事件)にかけられ、翌年三月、有罪判決が下り、銃殺された。証拠があったわけではない。
ただ、そのブハーリンが公判で「ある時は罪状を認め、ある時は否定」するなどナゾを残す発言を繰り返したのは事実である。後に公開された「獄中手記」は罪状の「自白と否定」という両極を往復し、スターリンに切々と助命を訴える「人間」ブハーリンの姿が痛々しい。
ブハーリン研究で知られる歴史家ビクトル・ダニーロフ氏(72)は、その矛盾した行動を、こう説明する。
「粛清の時代にあって、最愛の家族の運命は被告の行動にかかっていた。その恐れから、多くの被告は無実の罪を自白した。しかし、自白を恥としていたブハーリンには、公判の場で有罪を公言するのは苦痛だったに違いない。矛盾した言動は、乱れる心そのものだったろう」
ブハーリン裁判は、三四年のキーロフ(レニングラード=現サンクトペテルブルク党指導者)暗殺以来、三五年のジノビエフ(政治局員)、三七年のピャタコフ(政府委員)らと続いてきた党の古参幹部に対する一連の粛清裁判の締めくくりであり、被告たちの共通点は全員がスターリンの邪魔者だったことである。
「政敵を倒す」に当たって、スターリンが使った手段は巧妙だった。まず、警察を自派人脈で固めた上で、本来は「党を守る」警察を権力機関の一部として制度化して、党に対する一定の権限を担わせながら、その権限を逆に党権力へ介入する道具に組み立て直したことである。
警察に対する党の統制は、かくして警察の党に対する介入へと逆転し、ここに独裁者の思うがままの「粛清の仕組み」が完成する。ブハーリン裁判は、この「国家テロ」の構造を仕上げる最後の鋲(びょう)打ちだった。
スターリンは権力闘争の鉄則を貫いて「敵」ブハーリンを処刑。妻ラーリナさんを流刑に処し、再び呼び戻して投獄、拷問。そして執行は途中で中止したが、死刑の宣告まで行った。
スターリン後のフルシチョフ時代、そして次のブレジネフ時代を経て、この「抑圧」権力の構図に幾分かの疑似的な改善はあったにしても、国家テロの体質は残った。しかし、ゴルバチョフ政権の改革路線下で「体制立て直し」(ペレストロイカ)が始まると、真っ先に独裁者に葬られてきた「歴史の暗部」に対する「見直し」が行われる。
ブハーリン裁判はその筆頭に取り上げられた問題だった。八八年二月にソ連最高裁が「告訴事実に根拠はない」として無罪を決定、六月には名誉回復、七月には党籍回復が正式に決定されている。当時、旧時代の欺瞞(ぎまん)を暴く機運は激しく、この「歴史見直し」を通じて残存体制の屋台骨が次々と砕かれ始めた。
こうして、スターリンの専制権力を完成させたブハーリン裁判は、その「見直し」過程の中で、結果的にソ連体制そのものを突き崩して行く役割を果たすことになる。その輪廻(りんね)のような巡り合わせは何とも「歴史のアイロニー(皮肉)」というほかない。(モスクワ 熊田全宏)
[ブハーリン]
レーニンに「党の最も重要な理論家」と呼ばれたロシア革命当時の指導者。
1888年、モスクワの教師の家庭に生まれた。中学時代から革命運動にかかわり、1905年にボリシェビキ入党。11年に投獄されたが脱走し、ウィーン大学で経済学を学んだ。17年の2月革命後に帰国。10月革命後、党機関紙「プラウダ」編集長に就いた。
20年代の「新経済政策(ネップ)」の理論的指導者で、26年にコミンテルン(第3インターナショナル)執行委員を務めた。20年代後半の党内闘争で「右翼反対派」のレッテルを張られ、38年3月、処刑された。
88年の党籍回復に際しての党統制委員会報告では「ロシア革命に積極的に参加、革命後、党と国家の責任あるポストをまかされ、社会主義建設に貢献した」と高く評価されている。
*◆粛清の恐怖(下)
*◇謎残す「最後の処刑◇
ラブレンチ・パーブロビッチ・ベリヤ――独裁者スターリンの右腕として、ソ連史の「血の粛清」を実行した秘密警察、国家政治保安部(後の国家保安委員会=KGB)長官。スターリンが死んだ五三年三月から三か月後に「党と国家に対する犯罪」で逮捕され、秘密軍事裁判で死刑の宣告を受け、銃殺されたのは同年十二月とされている。
ベリヤの逮捕と処刑に関しては、これまで公式の発表は二つしかない。国家への犯罪行為で「数日前に」党を追放されたという同年七月十日付の発表と、同十二月二十四日付で、同月十八日から二十三日までの軍法会議で「銃殺刑の判決後、処刑された」ことが明らかにされているだけだ。
ベリヤがどのような状況で逮捕、処刑されたか、四十五年後の今日もなお、謎(なぞ)のままである。ソ連崩壊と共産党支配が終わった後、残存資料の公開、関係者への聞き取り調査が可能になったが、不明な点は依然として多い。
これまで「ベリヤ逮捕と処刑」に関しては、数多くの説が語られているが、いずれも「憶測と想像」の産物とされる。
よく知られているエピソードには、クレムリンで開かれた党幹部会(後の政治局会議)で、当時のマレンコフ首相の非難に「憤然としたベリヤがピストルを抜き出し、それを隣席のフルシチョフ(後の党第一書記・首相)が組み伏せ、そこへ隣室の軍将校らが乱入、ベリヤを射殺した」(フルシチョフの発言記録など)とする説がある。
こうした通説に対して、モスクワのロシア史研究所のエレナ・ズプコワ女史(38)は、マレンコフ首相元秘書官ドミトリー・スハノフ(九六年死亡)ら関係者からの聞き取り調査と、ソ連崩壊後に公開された資料を突き合わせながら「ベリヤの謎」の解明と検証に努めている。その仮説は、こうだ。
逮捕の日、つまり五三年六月二十六日、党幹部会ではなく、閣僚会議がクレムリンのマレンコフ首相執務室で開かれ、党幹部全員が出席していた。冒頭でマレンコフ首相が「ベリヤの権力乱用」を責める発言をして、ベリヤの職務「解任」の表決をはかった。
結果はマレンコフらの賛成三、フルシチョフら棄権が三、モロトフ(外相)ら反対三。その瞬間、マレンコフが机の下にある「警報」ボタンを押し、これを合図にジューコフ将軍(対独戦争の英雄)ら武装兵が閣議室に突入した。
この状態で、二回目の投票が行われ、今度は全員一致でベリヤの解任と逮捕が表決された。逮捕後、ベリヤは、クレムリンから三キロと離れていないモスクワ防空部隊の地下兵舎に連行されたという。
逮捕の真因が、スターリン死後の権力掌握をめぐる闘争にあったことは言うまでもない。スターリンから専制権力を引き継いだベリヤ、マレンコフ、フルシチョフの三党指導者の争いで、まず後者二人が共同でベリヤを倒し、最後はフルシチョフが政権を握ったのは、後の歴史が示す通りだ。
それだけに、理由はどうでもよかった。公式罪状は「外国資本を利するための国家反逆」=「人民の敵」である。罪状は、スターリン時代のベリヤ自身が何度も使った「粛清」の常套(じょうとう)手段だ。
処刑に関して最近、長男セルゴ・ベリヤが「逮捕の日に殺された」と主張しているが、間接的な証言に依拠しているため信憑(しんぴょう)性は薄いという。銃殺執行者の証言にも「日時」に触れたものはない。遺体は多分焼却されたのだろう。埋葬地もわからない。
ベリヤの前任者で、スターリンの粛清を手伝い「人民の敵」ブハーリンの裁判を準備したエジョフは「粛清の恐怖」におびえて発狂し、自殺した。さらに、その前任者ヤゴダは、ブハーリンの謀議共同者として銃殺されている。
「粛清」を伴った権力闘争はスターリンの死後、このベリヤの例をもって終わったが、共産党・政府が警察権力を使って、あらゆるレベルの人々を抑圧する「国家テロの構造」はそのまま残り、その後も約四十年にわたってソ連社会の主軸を構成する。その抑圧の警察機構KGBが廃止されたのは、やっと九一年の秋のことである。(モスクワ 熊田全宏)
[KGB]
旧ソ連の情報機関、国家保安委員会の略称(ロシア語でカー・ゲー・ベー)。組織上は1954年の改編で発足しているが、そのルーツは、10月革命後の全ロシア非常委員会(17−22年)、国家政治保安部(GPU、22−23年)、内務人民委員部(NKVD、34−38年)、国家保安人民委員部(NKGB、41−46年)などにさかのぼる。改組前は強制収容所の管理も担当した。任務は〈1〉国内外での情報工作〈2〉反体制活動の取り締まり〈3〉国家機関・軍の監視、国境警備――などで、かつては米中央情報局(CIA)と並ぶ実力で知られた。
しかし、ソ連末期の91年に起きた8月クーデターに議長のクリュチコフが連座したことから3組織に分割。12月のソ連解体後は、ロシア連邦内の保安省、対外情報局として再出発した。保安省はさらに防諜(ぼうちょう)局、国境警備局に分割(93年12月)されたが、エリツィン政権は95年4月、防諜局を「連邦保安局(FSB)」に改編し、権限も大幅に拡大した。
*◆ユダヤ人(上)
*◇救世思想を実践へ◇
モスクワにあるロシア史研究所のボリス・イリザロフ氏(53)は、ロシア革命初期の特色として、革命指導部に多数のユダヤ人が参加し、その結果として「ユダヤ的なもの」が革命の実践行動に持ち込まれたと語る。
「ロシア革命には、ユダヤ的メシアニズム(救世主思想)とロシア的メシアニズムが入り混じっていた。救世主を迎えて地上に楽園を作るというメシアニズムは、ユダヤ人にもロシア人にも共通しているが、革命の初期に極めて強かったユダヤ的なメシアニズムはスターリンとトロツキーの権力闘争を経て根絶され、革命は変質した」
一九一七年の革命政府最高指導部の構成は人民委員議長レーニン、外務トロツキー、民族スターリンら委員五人のうち、ユダヤ人はトロツキーとルナチャルスキー教育委員の二人。レーニンにはモンゴル系のカルムイク人の血が流れ、スターリンはグルジア人。生粋のロシア人はルイコフ内務委員だけだ。
ユダヤ人はほかにも、スベルドロフ全ロシア中央執行委議長、カーメネフ、ジノビエフ両政治局員、リトビノフ・ソビエト政府駐英代表(後、外相)ら非常に多い。さらに二一年には、人民委員二十一人中ユダヤ人は十七人を占める。
◇
同研究所のユリー・ボリソフ部長(68)は、その背景として三点を指摘する。
まず、帝政時代のユダヤ人たちには居住地域や職業選択の自由がなく、その社会的不平等に対する不満がうっ積し、早くも「ブント」(ユダヤ人労働者総同盟)のような政治組織が作られ、帝政体制の改革を求めていたことである。
次いで、権力奪取を「革命的知識人の大衆指導で行う」とする実践論から、革命には相当数の知的「エリート」群が必要だった。それを補ったのが、教育に投資して次世代の知的専門家を育てていたユダヤ人たちだった。
第三は、ユダヤ人革命家たちの大半がロシア革命を多民族を包み込む「国際主義体制」としたこと。それがレーニンの政治感覚と合致して、ボリシェビキ(ロシア社会民主労働党=共産党の母体)への多数の参加者を生み出したことである。
この国際主義はトロツキーの「永久(世界)革命」論に代表されるが、それはロシア革命を「世界革命の一環」として先進国(まずドイツ)へ拡大し、その両者の「結合下で足場を築いて」から世界革命を完成させるとの構想だった。
イリザロフ氏によると、ユダヤ教のメシアニズムは救世主の到来を待って「すべての者に楽園を築く」ことにある。トロツキーが他地域への「革命の拡大」を求めたのは、救世主(革命)の到来を多くの者の至福とするユダヤ思想への「希求だった」と指摘する。
◇
これに対してロシアの救済思想は、ロシアそのものが「救世主」として歴史に登場し、「地上の楽園はロシアを通して築かれる」とする考えだ。その「自己中心」的な思想は、哲学者ベルジャーエフや作家ドストエフスキーにも見ることができる。
後にスターリンは、トロツキーと正反対の「一国」社会主義論を唱えるが、イリザロフ氏は、その根底にはこの「ロシア的メシアニズムがあった」と言う。少年時代を神学校生として過ごしたグルジア人スターリンが、ロシア正教にロシア的救済思想の啓示を見たとしても不思議はない。
その意味で、後にスターリンが周辺国家をまとめて一大帝国を作ったのは、自らを「救世主」とする自己中心的なロシア救済思想の変形と見ることもできるだろう。
スターリンの権力闘争での勝利とともに、ユダヤ人は党や軍の指導部から追われる。彼らはスターリン体制下で、文化や学術の分野に活動の場を求めた。特徴的なのは、これらのユダヤ系知識人が、その後、主としてブレジネフ体制下で、最高指導部の補佐官的な役割を担うグループと、反体制派の二派に分かれたことである。
*◆ユダヤ人(下)
*◇真綿で絞める謀略◇
「ユダヤ人は今、新しい時代を迎えている。政治の分野だけでなく、あらゆる部門で持ち前の能力を発揮して、活発に動いている。ユダヤ人の新しい開花期だ」
贅沢(ぜいたく)な調度品に囲まれた事務所の応接室で、ロシア・ユダヤ人協会のアレクサンドル・オソフツォフ副会長(40)は言う。名刺には「大学教授」の肩書もある。哲学史専攻の学者という。
エリツィン政権では、枢要ポストがほとんどユダヤ人で占められ、十月革命直後の状況が再現されていると言っても過言ではない。
同氏によると、チュバイス、ネムツォフ両第一副首相、ウリンソン副首相兼経済相、フラトコフ対外経済関係相、リフシツ大統領府副長官……いずれもユダヤ人という。
野党、政界では民主派「ヤブロコ」のヤブリンスキー代表、ジリノフスキー自由民主党党首、ガイダル元首相代行ら。なかには「ユダヤ系」と呼んだ方が適当な人々も入っているが、各種の企業、銀行を傘下に持つベレゾフスキー、グシンスキー、スモレンスキー氏ら経済人。「金融と建設業の基本はユダヤ人が握っている」とオソフツォフ氏は断言する。
◇
帝政時代から革命へ、そして内戦、第二次世界大戦さらにはソ連崩壊という急展開の中で、ロシアにおけるユダヤ人の歴史は常に権力闘争と密接に結び付いていた。そのためユダヤ人はある時は権力の上層部に浮上し、またある時は生存そのものを脅かされる「不条理」の中に投げ込まれる悲劇を繰り返した。
スターリンの権力闘争は、革命初期からユダヤ人トロツキーとのし烈な戦いで始まるが、最初にスターリンが利用したのは、十九世紀以来ロシア人の深層に根付いているロシア人一般の反ユダヤ人感情だった、とロシア史研究所のユリー・ボリソフ部長は指摘する。
「二〇年代初め、トロツキーとの権力闘争が始まると、スターリンは、手なずけていた私服の保安警察要員を街に放って、政治集会などで故意に反ユダヤ発言を行わせ、トロツキー追い落としの一助にした」とロシア史の専門家たちは指摘する。
二七年十月、「革命十周年記念」のころには、反トロツキー派の演説が始まると、群衆の中から「ユダヤ人を殺せ。ユダヤ人からロシアを救え」の叫びが沸き起こった。同研究所のボリス・イリザロフ氏は、これを「革命後、最初の反ユダヤ主義の現れだった」という。
しかも、スターリンの反ユダヤ政策は「表向きは決して反ユダヤの色彩を出さなかった」ことだ。秘密警察要員を使って「口コミ」でロシア人の反ユダヤ人感情をあおるのが、スターリンの方法だった。
三〇年代、党の大粛清時代には「反党」陰謀に関する様々な「事実無根」の裁判が行われるが、その被告席には「必ずユダヤ人が含まれる仕組み」になっていた。
さらに対独戦争が始まると、ナチのホロコースト(ユダヤ人根絶)に対する戦争を口実に大量のユダヤ人が第一線に送り込まれた。戦後も五三年一月には、「ユダヤ人医師団陰謀事件」が起こる。米国の国際ユダヤ人組織が、ソ連要人の暗殺を計画していたとする奇想天外な告訴だが、これも冷戦が悪化する中でスターリンの権力強化に狙いがあったのだろう。
◇
「戦後、ユダヤ人が党や政府機関で出世するのは到底望めなかった。残された道は学者、技術者、才能があれば芸術家、あるいはジャーナリストなどになるほかなかった。しかし、それでも上層部へ登るのは容易でなかった」と、オソフツォフ氏は自らの「ブレジネフ時代」を回想する。
反体制派にユダヤ人が多かった最大の理由は、こうした隠微な差別への不満が下敷きになっていた。
その意味で、ソ連社会主義の崩壊は、帝政崩壊の時と同様に、抑圧されてきたユダヤ人のエネルギーを解き放った。資本主義という新たなゲームの中で、ユダヤ人は今、未来へ向かってまい進中だ。その状況は革命期初頭と実によく似ている。
[ロシアのユダヤ人]
ロシアの全人口1億4750万人(96年末現在)のうち、約165万人(1.1%)を占める。うち約60万人は旧ソ連時代の身分証明書に「ユダヤ人」と記載した者で、残る100万人余りが出身を隠しながらも、自らをユダヤ人と考えている人たち。
ソ連政権はユダヤ人に対し同化政策を進めた。これは帝政ロシアの伝統を継承、拡大したもので、レーニンも「ユダヤ教は資本主義の終末とともに同化され、消滅する」と述べている。
帝政下では大都市居住が禁じられていたが、20年代以降はモスクワなどに流入。34年には、従来の居住区とは縁遠いシベリア極東部にユダヤ人のための「ビロビジャン共和国」を作り、農業入植を進めたが、これはスターリン政権による同化政策のグロテスクな変形と言うべきものだった。
同化政策は母語・イディイッシュ語人口の低下に現れており、19世紀末に97%だったのが、79年時点で14%にまで下がっている。
*◆「宗教家」レーニン(上)
*◇隠された実像に光◇
一九二〇年五月一日のメーデーに、クレムリンの庭で赤軍兵士たちを閲兵するレーニンを写した写真がある。
モスクワの歴史家が所蔵するもので、旧ソ連時代には、写真集に使われたことこそあるものの、ほとんど人の目を引かなかった。右側に暗い表情でうつむくレーニン。左側に銃を抱えて整列する二十歳前後とおぼしき兵士たち。特に目を引くのは、レーニンに向けられた若い兵士の視線が、あたかも「異邦人」でも見るかのように、一様にいぶかしげなことだ。
「写真は、農民、兵士から、神のごとくあがめられ、父のように慕われたとされるレーニン像が虚像だったことを、あっさり暴いている。晩年の病床の写真同様に、死蔵されるも同然だったのは無理はない」とこの歴史家は言う。
ロシア革命からわずか三年。メーデー行進の写真がかいま見せているのは、その指導者レーニンと国民との間の越えようのない深い溝であると言ってもよい。
ロシア史上でレーニンほど毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物はいない。
今年十月の世論調査(全ロ世論調査センター)によると、二八%が今世紀ロシアで「最も尊敬する」政治家とする一方で、一二%は「最も嫌いな」人物と答えた。また、七月に行われた別の調査(世論調査基金)では、モスクワ・赤の広場のレーニン廟(びょう)を撤去し遺体を移転すべきか否かとの問いに、撤去すべきが四一・五%、すべきでないが四三・六%と、賛否がほぼ拮抗(きっこう)した。
モスクワの町中でレーニン記念像が残るのは、大学構内などを除くと、オクチャブリ広場ただ一か所。だが、サンクトペテルブルクほか、ほとんどの地方都市では、旧ソ連時代同様、中心部に巨大な「国父」の像が鎮座する。民主派を自称するビクトル・ボンダレフ現代社会研究基金所長が「レーニンはただの山師。思想家としては、大学の哲学助教授の域にも達していない」と決めつければ、元生物教師ナジェージダ・ペトレンコさん(78)は、共産党支持者ではない、と断ったうえで「レーニンは聖なる人。だれにも批判する資格はない」と突っぱねる。
ソ連崩壊による価値観転換で、あらゆるロシア史が書き改められる中、レーニンは最も評価の錯綜(さくそう)した領域、いわば唯一残された「聖域」に近いともいえるのだ。
こうした「世論の分裂」について、ゴルバチョフ前政権以来、歴史再評価に立ち会ってきたフョードル・ブルラツキー政治学会会長(前「文学新聞」編集長)は、いくつかの理由をあげる。
一つは教育。「偉大な革命家で、マルクス・エンゲルスの事業の継承者。……全世界の労働者の教師にして先導者」(七二年発行のソ連大百科事典)と、完全無欠のレーニン像を学んだのが旧ソ連世代なら、ソ連崩壊後の世代は「レーニンが何より重視したのは自分個人の権力を守ることだった。なぜなら彼は、全人類を資本のくびきから救うのは自分以外にないという強い信念を抱いていたからだ」(九五年発行の十一年生用教科書「ロシアの歴史」)と、現実離れした夢想家・レーニンの像を教え込まれた。その間には、大きな認識の落差がある。
もう一つは、神話を打ち破り、実像を確立するだけの「新資料」が乏しいことだ。ロシア・マスコミでは、レーニンが二二年以降、本を読むことはおろか、口もきけない「痴呆(ちほう)状態」だったことや、愛人イネッサ・アルマンドとの同棲(どうせい)生活など、国内でタブーとされてきた事実が断片的に報じられているが、大半は外国の文献に頼っているのが現状。というのも、レーニンの「神格化」に都合の悪い資料は、二〇、三〇年代に破棄されたり、埋もれたままになっているものが多いからだという。
そうした中で、外国でも知られていない資料を発掘し、レーニン像に新しい光を当てようとした労作もある。歴史作家のワジム・コージノフ氏(世界文学研究所主任研究員)が季刊誌「ノーバヤ・ロシア」に発表した「家族の歴史、国の歴史」もその一つ。レーニン家の家系をたどり、「狂信的な革命家」がロシアに生まれた陰には、幼年期に受けたロシア正教の深い刻印があることを解き明かしたものだ。
[レーニン廊]
1924年1月21日、レーニンが死亡すると、夫人クループスカヤら遺族の反対にもかかわらず、遺体の保存措置がとられた。モスクワ中心部に位置する市民の集いの場であり、歴史的に専制政治による数々の弾圧事件の舞台となったこと、さらに生前のレーニンがしばしば演説を行った――などの理由で、死去の3日後には「赤の広場」に木造の廟を建造。建築家アレクセイ・シチューセフの設計で花こう岩、大理石の立派な今の姿で公開されたのは30年11月から。
ロシア議会内では現在、レーニンの遺体をサンクトペテルブルクのレーニン家の墓に移すべきだとの意見が強い。これに賛同していると言われるエリツィン大統領は今年6月、埋葬の是非を国民投票にかけるべきだと表明したが、いまだに実施していない。
*◆「宗教家」レーニン(下)
*◇原点はロシア正教◇
歴史作家、コージノフ氏の論考によると、レーニンが生まれた家は、民族構成の複雑さとロシア正教への帰依ぶりで、十九世紀当時のロシアの家族として際だった特徴がある。
父方の祖母はアジア系のカルムイク人、母方の祖父はユダヤ人で、祖母はドイツ人とスウェーデン人の混血。ところが、本来なら仏教徒であるカルムイク人の祖母も、ユダヤ人の祖父も、例外なくロシア正教徒で、その父親、つまりレーニンの母方の曾祖父(そうそふ)に至っては、「ロシアの全ユダヤ人の正教への改宗」を皇帝に進言した極端なロシア主義者だった。
こうした帰依ぶりの背景に、正教を国教とした帝政下、特に少数民族出身者にとっては、正教徒であることが高等教育や昇進の前提条件だったという事情があるのは確かだ。しかし、レーニンの父親、イリヤ・ウリヤーノフの場合、その「宗教熱と君主制論者ぶり」は常軌を逸するほどで、「聖セルギー教団」と呼ばれる狂信的な愛国主義宗教団体に自ら加わっただけでなく、息子ウラジーミル(レーニン)らにも加盟を命じ、自分が死ぬまで脱会を認めなかったという。
レーニンが十六歳まで正教の熱心な運動家だったことは、後の思想形成に大きな役割を果たしたとコージノフ氏は言う。例えば「味方にあらざればすなわち敵」「持たざる者は持てる者」といったレーニンの有名なスローガンは、実は聖書を下敷きにしたもので、その原典は「私の味方でない者は私に反対する者」といった福音書の言葉に容易に見いだせる。
また、レーニン以外にも、聖職者の家庭出身であるチェルヌイシェフスキーやドブロリューボフ、神学校で学んだスターリンのように、ロシアの社会主義者に正教とかかわりの深い指導者が多いのは、聖職者の人口比が一%以下だった十九世紀後半の状況からみて、単なる偶然の結果とは言えないという。
これらの事実から同氏は、国民から遊離したレーニンの夢想癖は「宗教的な狂信が形を変えたもので、共産主義者になったのも、一つの宗教から別の宗教にくら替えしただけではないか」と見る。そのうえで、「ロシア正教には、もともと社会主義思想に通じる要素、社会主義を受け入れる素地があるのではないか」と、興味深い仮説を立てる。
革命前ロシアのモロゾフ家など豪商の大半は、正規の正教徒ではなく、分離派教徒(ラスコーリニキ)だったことで知られる。「富は罪悪」と断じた正教会に対し、分離派は、破門した同教会への対抗上、また会派存続の必要上、正当な手段による教徒の「蓄財」を認めたためで、欧州のカトリックに対するプロテスタントに当たるとされる。
しかしプロテスタンティズムが資本主義発達の原動力となった欧州と異なり、ロシアでは分離派による商業の勃興(ぼっこう)が、正教の変種で、同様に個人の経済活動を排斥するボリシェビズムに押しつぶされた。欧州とロシアとの格差を生んだのは、金銭や富のほか、個人主義に対する感覚の相違であり、正教と社会主義は「反個人主義的」という点でも共通している、とコージノフ氏は言う。
社会主義が、なぜビザンチン文化圏のロシアと、中国などアジア諸国でのみ実現したのかは、二十世紀最大のなぞの一つだ。もしロシア正教に社会主義を呼び込む素地があったとするなら、アジアの仏教や儒教にも同じような土壌があるのかどうか――レーニンと宗教という、一見とっぴで迂遠(うえん)なテーマも、その意味で現代を解き明かす糸口の一つになるに違いない。
[ロシア正教]
ロシアがキリスト教を公式に受容したのは10世紀末、キエフ・ロシアのウラジーミル大公がビザンチン帝国(東ローマ帝国)の教会から洗礼を受けたのが始まりで、以後、ロシアは東方正教会の影響下に置かれた。同帝国滅亡(1453年)後、ロシアを東西ローマ帝国の後継国家と自任する思想が登場し、その後のロシア民族主義台頭の流れに大きな影響を与えていく。
17世紀に成立したロマノフ朝では総主教ニコンが典礼改革を進めたが、これに反対する聖職者、信徒はラスコーリニキ(分離派)を形成した。
ソ連政権成立後の弾圧で一時は存亡の危機に立ったが、第2次大戦を機に政権との妥協が成立。教会は限定的な活動の自由を認められる代わりに、政権に協力することになった。ソ連末期の88年4月、ピーメン総主教とゴルバチョフ党書記長が会談、和解が成立した後は、各地の寺院再建など、教会は伝統回帰の風潮に乗って急速に勢力を伸ばしている。信徒数は現在約3500万、アレクシー2世が総主教を務める。
*◆社会主義神話の崩壊
*二十世紀が間もなく終わる。この百年間の科学技術の発達は人類にかつてない豊かさをもたらし、時代は未知のボーダーレスの領域に入ろうとしている。反面、科学の力によって、戦争は二度にわたって世界的規模に拡大し、さらに、ユートピアを希求する革命熱と大量虐殺によって、未曽有(みぞう)の血にまみれた時代となった。二十世紀とはどんな時代だったのか。我々の生きてきた時代を振り返る長期連載を、まずロシア革命、そして中国革命を検証する作業から始めたい。
ロシア・ドキュメンタリー映画界の巨匠、スタニスラフ・ゴウォルーヒン監督の作品「我々が失ったロシア」は、こんなナレーションで始まる。
「今世紀初頭にフランスの経済学者は、ロシアは二十世紀半ばに人口三億四千三百万に達し、政治的にも経済的にも欧州に君臨するだろう、と予想した。しかし一九五〇年の時点で、ソ連の人口は一億七千万に過ぎなかった。人口が予想を下回ったのは、一部は第二次大戦の結果だが、それ以上に、ボリシェビキ(後のソ連共産党)が一九一七年に自国民に対して仕掛けた戦争、つまり内戦、粛清、飢餓、集団化が、六千六百万人もの犠牲者を出したからだった」――。
映画は題名の通り、一七年の十月革命以来七十年のソ連体制下で、ロシアが帝政時代の大国としての「栄光」をいかに失ったかが主テーマ。ボリシェビキ政権による農地収奪の回想を老女に語らせ、革命指導者レーニンを「殺人者」と呼ばせる一方、革命前夜、特に個人農創出などの漸進改革を進めたストルイピン首相時代のロシア(一九一〇年前後)が、急速に国力を蓄え、欧州列強に伍(ご)しつつあったことを、鉄道建設、学校教育、食生活など様々な側面から描いた。
ロシアが「遅れた農業国」で、社会主義を選ぶ以外に発展の道はなかったとするソ連時代の公式史観を、「ロシア史がその破壊者によって書かれたため生まれた神話だ」として否定し、社会主義の勝利がなければ、ロシアは欧州同様の近代化をなし遂げていただろうと、それまでの常識を覆してみせた。
ゴルバチョフ前政権下の九〇年に制作されたこのドキュメンタリーは、当初は劇場で、九一年末のソ連崩壊の前後からはテレビで、繰り返し放映され、数百万人が見たとされる。
十月革命を共産政権による「自国民に対する戦争」の始まりと決めつけたその内容は、当時進められていたスターリン粛清の問い直しと並んで、国民に衝撃を与え、その歴史意識を大きく変えるきっかけとなった。
「自分を含め、大抵の大学生は、十月革命をロシアの悲劇と考えている。革命の後に来たのは、内戦など暗黒の時代だったと教えられた」と、モスクワ大学三年生、スベトラーナ・ルイバコワさん(20)は言う。かつて「人類史の新しい黎明(れいめい)」と称されたロシア革命は、「ロシアの正常な発展を妨げた歴史的惨事」へと、百八十度評価を変えたのだ。
ソ連の市民生活の苦難ぶりを描いた代表作「タク・ジーチ・ネリジャ(こんな生活はご免だ)」などで知られるゴウォルーヒン監督は、初めての歴史ドキュメンタリーに取り組むに当たってモチーフになったのは、「十月事件が革命でなくクーデターだという確信」だったと説明する。
「その日、首都ではレストランがいつも通り営業し、マリインスキー劇場ではバレエが上演されていた。目的のためには手段を選ばない男、レーニンは(そうした平穏さの陰で)陰謀を画策し、あっさり政権を手に入れた。民主政体への移行という意味でのロシア革命はこの年の二月(革命)ですでに完成し、十月に起きたのは、反革命的な権力収奪だった」
しかし監督は一方で、このドキュメンタリーがソ連末期の作品であることを強調し、当時の狙いのひとつは、「小学校で学んだ公式史観にわざと逆らい、語られなかった側面ばかりを取りあげることだった。客観的な歴史と言えないことは承知している」と述べる。そして、今もクーデターを避ける道はあったと考えているかとの問いに「たとえこの時に失敗しても、別の瞬間に起きていただろう」と答え、ボリシェビキによる「ロシア破壊」を、逃れようのなかった歴史上の事実として受け入れる。
実際、ソ連崩壊から六年後の現在、革命に対する評価には再び大きな変化が起こりつつある。ロシア歴史研究所のユーリー・ジューコフ主任研究員は、現在の歴史論争の一番の争点が「十月革命はロシアにとって不可避だったか否か」にあるとし、歴史家の間では「ボリシェビキによる政権奪取は、その是非にかかわらず、必然だった」とする見方が主流になってきたと説明する。
◇揺れ動く歴史評価◇
二〇年代ソ連を専門とする史家、アレクサンドル・バトリン氏によると、ソ連崩壊後に公開された資料を踏まえて行われている最近の研究では、十月事件は、従来言われた「労働者と農民による革命」ではなく、「ボリシェビキが奪った中央権力を、農民及び農民出身の兵士が地方へ拡大させた農民革命の性格が強い」との分析が新潮流になっている。これはロシアの歴史学が、「革命の主体は労働者」というマルクス主義史学の公式論からようやく離れた証(あかし)ではないかという。
一方、両氏によると、「十月革命は害悪しかもたらさなかった」とする説は、ゴウォルーヒン監督の作品以外にも、政治家のアレクサンドル・ヤコブレフ元ソ連大統領顧問、軍史家の故ドミトリー・ウォルコゴーノフ氏ら、主としてゴルバチョフ、エリツィン両政権を支えた言論界のリーダーたちによって唱えられてきた。
しかしこの説は、「共産党アレルギー」の強い国民層、特にソ連解体後に教育を受けた若い世代で依然根強い支持があるのと対照的に、歴史研究の場では急速に少数派に転じているという。
十月革命が必然だったか否かというテーマは、言い換えれば、革命の激動を伴わない西欧型の社会発展が、ロシアで可能だったかどうかを問うことを意味する。このため、若手研究者のアンドレイ・クルチーニン歴史博物館研究員によると、論争には、共産党や社会主義に対する好悪に加え、西側世界に対するあこがれや劣等感という、二重の感情的要素がつきまとっているという。
例えば、外交での対西側協調や、内政制度の西欧化を主導した代表的な西欧派のヤコブレフ氏らがボリシェビズムの「暴力」を非難するのが当然なら、愛国主義をスローガンに掲げる現ロシア共産党(ジュガーノフ議長)やその系統の歴史学者らが、「欧州の追随でないロシアの独自発展の道を切り開いた」革命の側面を強調してみせるのもうなずける。
またゴウォルーヒン監督が十月革命への評価を変えたのは、もともとドキュメンタリーの中に共存していた「反共」と「ロシア大国主義」というふたつの傾向のうち、大国主義の要素の方が同氏の中で強くなった結果のように見える。
エリツィン政権にとっては、歴史評価はさらに政治の意味合いが濃厚だ。
昨年六月の大統領選挙でエリツィン陣営は、内戦や、飢餓、それに皇帝ニコライ二世の処刑の記録を連日公共テレビなどで放映し、共産党攻撃に大々的に利用したが、クルチーニン研究員らはキャンペーンの背景には、ソ連体制下のロシアを暗黒、空白の時代とすることで、現代と、二十世紀初頭の急速な経済成長の時代を「連続した時間」として結びつけようとする政権の屈折した心理があると指摘する。
つまり「ロシア革命以前」への先祖返りは、政権の進める経済改革を「革命で中断された近代化を引き継ぐ事業」として正当化するだけでなく、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三指導者による合意という超法規的な手段でソ連を解体させたエリツィン政権自体の「歴史的な継承性」を証明する根拠ともなるのだ。
エリツィン大統領は、ロシア革命八十周年に当たるさる十一月七日、テレビで演説し、ロシア革命は国民にとって切り離せない「生活の一部」であると述べる一方、内戦で犠牲になった「赤軍と、白軍(反革命軍)の兵士を一緒に悼む記念碑」を新たに建立するよう呼びかけた。バトリン氏は、この演説は従来と比べ、「革命への露骨な非難や否定の言葉がなかった」とエリツィン氏の自制ぶりを評価した。
しかし、歴史家らが期待するように、十月革命を政治やイデオロギーと全く無関係に語れる日が近い将来に来るのかどうか――「世界初の社会主義」の歴史であるソ連史の評価は、ロシア国内の政治・経済体制が不安定で、政治勢力の厳しい対立が続く限り、今後も振り子のように揺れ動くに違いない。(モスクワ・布施裕之)
[10月革命]
1917年10月25日(新暦で11月7日)、レーニン、トロツキー率いるボリシェビキ(社会民主労働党の多数派)がネバ川に停泊中の巡洋艦・オーロラ号の砲声を合図に武装蜂起(ほうき)。首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の冬宮に立てこもっていた時のロシア臨時政府(ケレンスキー首相)を打倒した。レーニンは翌26日、ソビエト政権樹立を宣言した。
ユーラシア大陸を広く覆うロシアで起きた人類史上初の社会主義革命は、その後、モスクワを司令塔とする共産主義インターナショナルを通じて世界各地での社会主義政権誕生を促し、20世紀の歴史に巨大な影響を及ぼすことになる。
革命に至った背景には、〈1〉ケレンスキー政権が続行した第1次大戦に対する軍内厭戦(えんせん)機運の高まり〈2〉革命を担った労働者が首都に多数存在していた〈3〉臨時政府の対農民政策の失敗など、諸要因があった。69年に刊行された「ソ連共産党史」(国立政治文献出版所)に次のように記されている――。
*次に「イラン革命」を見てみよう
*
*◆ホメイニ帰国
*◇喜びに影差す瞬間◇
一九七九年二月一日午前九時三十九分、テヘラン南郊のメヘラバード空港に到着したパリ発エールフランスのジャンボ・ジェット特別機から、黒いターバンと白いひげの老人がスチュワーデスに付き添われて姿を見せた。
イランのイスラム教シーア派最高位の大アヤトラ、ルホラ・ムサビ・ホメイニ師。十五年に及ぶ国外追放にもかかわらず、イランに君臨した独裁者シャー・パーレビ打倒を指導し続けた英雄の帰還だ。
「イスラム革命」という未知の概念で二十世紀後半の世界の耳目を集め、困惑させたイランの政治的地殻変動。そのクライマックスの瞬間だった。
シャーは十六日前に、一年に及ぶ政治的混乱で憔悴(しょうすい)し、すでに国外へ脱出していた。ホメイニ師の帰還をテヘラン市民は狂喜して迎えた。だが、イランの将来の行方は未確定の不安定状態にあり、この劇的瞬間はその最中にやって来た。
その後の「イラン革命」は、この瞬間が象徴したものを十九年たった今日まで引きずっている。
劇的瞬間を、のちに大統領となったアボルハサン・バニサドルは、エールフランスの機内から、見つめていた。
やがてホメイニ師と離反し亡命したバニサドルは、パリ郊外ベルサイユの自宅で、「このとき初めて革命の将来に不安を感じた」と、語る。
機内から見えたホメイニ師の後ろ姿の前に最初に現れたのが同じターバン姿の聖職者たちであり、ホメイニ師は俗人には目もくれず、彼らとのみ抱擁を交わしていたからだ。
この光景は、イスラム勢力ばかりでなく、反シャー組織の総結集による革命を構想していたバニサドルには悪い前兆だった。
イラン革命を「イスラム革命」と呼ぶには、七九年のシャー出国、ホメイニ帰国という第一段階を経て、八一年六月のバニサドル大統領失脚とイスラム共和党による権力の全面的奪取という第二段階まで待たなければならない。
ホメイニ師は六三年に初めてシャーに対して真正面からの挑戦状を突きつけ、六四年国外追放され、トルコを経てイラクのイスラム教シーア派聖都ナジャフに落ち着いた。七八年十月にはイラクからフランスへ追放され、帰国するまでパリ郊外のノーフル・ル・シャトーに居を構える。
この間、激しいシャー批判の檄(げき)をイラン国内へ送り続け、カリスマ指導者の地位を築き上げた。だがパリでは、ナジャフで主張していたホメイニ理論「ベラヤティ・ファギ(イスラム法学者による統治)」、つまり宗教に基づく国家全面統治論に言及することはなく、支配形態に関しては、あらゆる反シャー勢力の受け入れを明言していた。
このあいまいさゆえに、ホメイニ師を様々な勢力の結集点にすることが可能になった。だが同時に、同師の帰国は権力奪取への熾烈(しれつ)な闘争の出発点となった。そして最後に生き残ったのがホメイニ信奉者たちだった。この歴史過程によって、ホメイニ師は偉大な戦略家と評価される。
バニサドルはフランス留学中のイラン人学生を組織化し、「ホメイニの革命」に貢献し、帰国後は非イスラム勢力の支持を得て初代大統領になったが切り捨てられる。
「私はホメイニに利用され裏切られた」と、バニサドルは述懐する。彼から見れば、ホメイニ師は権力志向の術策家でしかない。
パリ滞在中、ホメイニ師の世話をした女性として知られる現国会議員マルジエ・ダバグの話すエピソードは、この人物像とあまりにかけ離れている。
「あるとき、オレンジがとても安いので、いつもの二倍買いました。それを知って、ホメイニ師は、貧しい人たちの分まで買ってはいけない。返してきなさいと私を叱責(しっせき)しました。非常にこまやかな心配りをする方でした」
ホメイニ師の被抑圧者の立場をとる思想は革命に多大な影響を与えた。だが彼が革命のすべてを冷徹に設計したわけではない。むしろ、行方の定まらない混乱こそが、革命の主役だった。(テヘラン・鈴木雅明)
[白色革命]
1978年1月、ホメイニ師を中傷する新聞記事がきっかけで、コムで抗議デモが発生、数十人が死亡した。以来、シーア派の40日ごとの服喪の集会が反シャー行動として拡大、シャー国外脱出にまで発展する。
冷戦下、ソ連進出の防波堤となったイランの王政を全面的に支えたのは米国だが、当時、人権外交を掲げた米カーター政権は、秘密治安組織サバクに代表される過酷な弾圧体制の改善を要求。反政府活動はそのすきを突いて広がった。
シャーは63年、イランのシーア派社会の伝統と対立する土地改革など一連の近代化推進策、いわゆる白色革命を開始した。これに激しい抗議の声を上げたのがホメイニ師だった。
シャーの路線はばく大な石油収入でバラ色の未来を約束したかに見えたが、貧富格差の拡大、西欧化した都市住民と伝統社会に生き続ける大多数という社会的二重構造を生んだ。繁栄の水面下で鬱積(うっせき)されていく不満の大爆発がイラン革命だった。
*◆イスラム支配
*◇混乱に乗じ新憲法◇
ホメイニ師帰国後の様々な勢力による革命の主導権争いは、政治的混沌(こんとん)状態を生む。七九年十一月四日から四百四十四日間にわたって続いた過激学生によるテヘランの米国大使館占拠は、それを象徴する事件だった。
最初に突入した学生の一人だったモハマド・モザファルは、現在四十七歳で出版社経営者。「イスラム革命とその起源」の自著もある。今、当時を語る。
「イランを脱出しメキシコに滞在していたシャーを米国が十月二十二日に受け入れ、学生たちは米国に激しい怒りを持った。メッリ大学の学生だった私は、仲間に米大使館占拠を呼びかけ、自宅で計画を立てた。十一月四日は反シャー闘争で死んだ学生を追悼する日だった。その日朝六時の突入を決めた。だが、前夜仲間から電話があり、我々だけでなく他に多くの学生グループが同じ計画を立てていたことを知った。このため突入時間を調整し、午前十時とした」
この事件でイランの反米感情は一気に高まり、その雰囲気を利用してホメイニ支持者たちは権力基盤を固めていく。が、モザファルの証言は、周到な計画による占拠ではなく、自然発生的であったことを示す。
占拠の精神的指導者だったモハマド・ホエニハは、米国・南フロリダ大学準教授モフセン・ミラニへの証言(著書「イラン・イスラム革命の成立」)で、「ホメイニ師には占拠後に知らせた。初め、ホメイニ師は熱烈には支持しなかったが、すぐに潜在的利益に気付いた」と述べている。
この革命は常に、まず混乱ありき、なのだ。ホメイニ師は好機を決して逃さず革命を実現していった。
ホメイニ師は帰国までのパリ滞在中、持論の「ベラヤティ・ファギ(イスラム法学者による統治)」に言及せず、「国民主権」を表明していた。当時身近にいたバニサドルは「自覚して、うそをついていたとは思わない。むしろ、シャーはまだ倒れず、持論の展開は時期尚早と考えていたに違いない」と語る。
そして大使館占拠事件によって好機は到来した。
シャー時代最後のバクティヤル政権はホメイニ師帰国十日後に倒れ、五〇年代に一時、シャー追放に成功したモサデク首相の流れを組むバザルガンによる暫定革命政府が発足した。
その一方、ホメイニ支持者たちは、革命防衛隊、革命委員会、モスタザフィン(被抑圧者)財団など、国家内国家といえる組織を充実させ、政府から独立した活動を開始していた。このため反シャーの一点ではつながっていた共産主義、自由主義、社会主義などの世俗諸組織、シャリアトマダリ師などの反ホメイニ宗教指導者らは、ホメイニ派への敵対を強めた。
九月に、ホメイニ理論に基づいたイスラム支配を確立する憲法草案が完成したときも、その現実化には激しい挑戦が予想された。
だが、米大使館占拠事件は、熱狂的反米感情のうねりとなり、反ホメイニ派の声はかき消えた。占拠からわずか一か月後の十二月二、三日、国民投票が実施され新憲法は承認された。
ホメイニ師は、これによって政府の上に立つ「最高指導者」の地位を法的に確立した。しかし、それはまだ安定とは程遠かった。ホメイニ師を支えるイスラム共和党による一党支配体制が確立するまで、血みどろの抗争とより多くの混乱を必要とする。
翌八〇年二月に世俗主義を代表するバニサドルは初代大統領に選出されたが、八一年六月ホメイニ派との抗争に敗れて失脚した。七月二十八日夜、空軍将校を装い、偽造パスポートを持って、テヘランから軍輸送機に乗ってイランを脱出、パリに向かった。
「タブリーズ上空まで来たとき、地上から無線で『戻らねば撃墜する』と警告を受けたが無視した。軍最高司令官でもあった私は、彼らに撃墜能力がないことを知っていたからだ」と脱出劇を回想する。
イラクとの戦争は八〇年九月に始まっていたが、政治的混乱の中で、イラン軍の戦闘能力は、無防備な輸送機を撃墜できないところまで低下していたのだ。
(テヘラン 鈴木雅明)
[米大使館占拠事件]
79年11月4日、「ホメイニ信奉者たち」と名乗る学生数百人がテヘランの米国大使館に突入、中にいた米外交官ら52人を人質にして占拠した。彼らの要求は米国が受け入れたシャーの身柄引き渡しだった。占拠は81年1月20日に人質が解放されるまで続き、この間80年4月米国はイランと断交、その直後に実施した人質救出軍事作戦が大失敗に終わり、カーター大統領再選を阻止した要因にもなった。
米国はイランとの秘密交渉でシャー引き渡しにいったんは合意したが、シャーはエジプトへ脱出、80年7月カイロで、がんのため死去した。
イラン革命指導部内では、早期解決を目指すバニサドル大統領ら世俗陣営と占拠を政治的に利用し政治的立場を固めようとする強硬派のホメイニ支持者が対立した。
最後は、アルジェリアの仲介で米国が凍結したイラン資産の一部返還で合意、レーガン新大統領就任直後に決着した。新大統領も後にイランとの秘密軍事取引が暴露され、政治危機に見舞われるが、レーガン氏とイランとの関係が占拠事件当時に培われた可能性は完全に否定されてはいない。
*◆最高指導者
*◇統治か国事後見か◇
七九年十二月、イラン・イスラム共和国憲法が公布され、ホメイニ師の「ベラヤティ・ファギ(イスラム法学者の統治)」論に基づく同共和国の統治形態がおおむね次のように規定された。
「イマーム・マフディ(別項参照)の不在中、イラン・イスラム共和国の国事の監督および信徒共同体のベラヤテ(統治)は、敬けんにして公正、時代に通暁し、勇気があり、指導力と分別を備えたファギ(イスラム法学者)にゆだねられる」
ファギは「イスラム律法(シャリーア)を学び、教授する者」のこと。つまり、ホメイニ師は憲法で、とりわけすぐれたイスラム教聖職者が国家を「統治」すると定めたわけだ。世界を驚かせた「神権政治」の復活だった。
しかも、ホメイニ師の革命は、もう一つ大きな問題を抱えていた。師が、イランの支配宗派十二イマーム派の伝統的ベラヤティ・ファギ論では「国事の後見・監督」に限定されていた責務を、「国家の統治」へと変革・拡大したからだ。まさに宗教革命だった。
八尾師誠・東京外国語大学助教授によれば、伝統的なベラヤティ・ファギ論は、あくまで君主制を前提とし、ファギの役割を「君主の専制や正義からの逸脱をけん制し、これを是正すべく助言を与える」ことに限っていた。しかし、ホメイニ師は君主制そのものを否定し、ファギによる直接統治を打ち出したのだ。
その革命性は、当時、師と並ぶイラン宗教界の最高権威だったカーゼム・シャリアトマダリ師が生命の危険すら冒して反論したことでもうかがえる。「ウラマー(イスラム学者)は直接統治すべきではない」。こう主張してやまなかった師は、高位聖職者の身分をはく奪された。
自ら定めた憲法にのっとって初代最高指導者に就任したホメイニ師は「隠れイマーム」に代わって国家を統治した。師自身、国民からイマームと敬われた。
しかし、ホメイニ師の死去から九年。ここにきてベラヤティ・ファギ伝統論派の巻き返しが激しくなっている。現在、伝統論を代表するのは聖地コムのフセイン・アリー・モンタゼリ師(75)。かつてホメイニ師の後継者に指名されたこともある最高位の聖職者だ。
モンタゼリ師は昨年十一月十四日、弟子たちに対し「最高指導者の責任は監督することであり、社会を真のイスラムの道、諸原則、そして正義から逸脱させないことである。最高指導者自身が、王のように警護隊を創設し、王侯の生活を享受し、あらゆる問題に干渉し、すべての場所、あっちの省、こっちの省と首を突っ込んではならない」と講義した。
初代イマームの誕生日を記念するこの講義は、ホメイニ師のベラヤティ・ファギ論への、これまでにない挑戦となった。
この講義から五日後、暴徒がモンタゼリ師を襲った。暴徒らは、師がイスラム革命と現最高指導者アリー・ホセイン・ハメネイ師に対する「陰謀」を指導していると非難。モンタゼリ師を殴ったうえ、ターバンをはぎとって焼いた。師の支持者によると、この事件以降師はコムの自宅に軟禁されている。
ハメネイ師自身も、同月二十六日国営テレビで、「我々はイスラム共和国の根幹をなすベラヤティ・ファギ体制を擁護しなければならない。彼らは革命に対する反逆の罪を犯したのであり、法に照らして裁かれねばならない」とモンタゼリ師を糾弾、師が「国家反逆罪」を犯したと断罪した。
ホメイニ師のベラヤティ・ファギ論と伝統論との、イラン宗教界を分断する対立は次第に緊張を増しているようにみえる。伝統論派の精神指導者モンタゼリ師を現政権が実際に処断するとき、この緊張は最高度に達するにちがいない。(調査研究本部・藤原和彦)
[イマーム]
イスラム教少数派シーア派では、預言者ムハンマドの正統後継者で、イスラム共同体の最高指導者のことをイマームという。初代イマームはムハンマドの女婿アリー。イランの支配宗派十二イマーム派シーア派は、西暦874年行方不明になった第十二代イマームが、いずれの日かマフディ(救世主)として再臨すると信じ、この間はイマーム不在の時代とする。現世から隠れ(ガイバ)ているとされる第十二代イマームは「隠れイマーム」や「イマーム・マフディ(救世主のイマーム)」と呼ばれる。
また、唯一正当な統治権を有するのはイマームで、「隠れイマーム」の不在中はいかなる合法的政権も存在しない、というのが十二イマーム派の伝統的政治理念。ここから、同派の二つの政治思想、隠れイマームの再臨をひたすら待望する「静観主義」と、隠れイマームに代わってウラマー(イスラム学者)が現実の政治を正しい方向に導くとする「行動主義」が生まれた。行動主義を代表するのがベラヤティ・ファギ論だ。
*◆自由化の中で
*◇ぐらつく宗教権威◇
ホメイニ師が確立した「最高指導者」のあり方に対する批判が、ハタミ大統領誕生後の言論の自由拡大でタブーではなくなりつつある。「ベラヤティ・ファギ(イスラム法学者による統治)論」そのものが激しい挑戦を受ける前兆すら見える。
これはホメイニ師の理論自体が実現の難しさを内包しているためであり、同師自身晩年に至ってこれを自覚した形跡がある。
八八年一月、ホメイニ師は唐突とも言えるファトワ(イスラム法判断)を出した。その内容は「社会公益という大義名分が成立すれば、統治府はイスラム法を停止し、これに抵触する法を制定できる」(大分県立芸術文化短大、富田健次教授)というものだった。
当時、多くのイラン人が、このファトワの意味に戸惑ったが、富田氏が「現実社会の統治には、これが必要であり、ベラヤティ・ファギ論の論理的帰結」と指摘したのは、現時点で振り返れば炯眼(けいがん)だった。
イスラム革命の推進から、実務家が主導する安定的発展への転換点が、この時始まったのだ。
その年八月、八年間続いた対イラク戦争が終わり、国民は生活の向上を期待した。翌八九年六月ホメイニ師は死去した。
二代目の最高指導者には大統領だったアリ・ホセイン・ハメネイ師が選出された。それは、まさに「ベラヤティ・ファギ論」の問題点を反映していた。
最高指導者は、憲法によって万人の尊敬する最高のイスラム法学者とされていたが、ホメイニ師死去時点で、そんな人物は存在しなかった。ハメネイ師は法学者の位でもカリスマ性でも到底及ばなかったが、政治に精通している人物であればよしとする、ホメイニ師の残した言葉に基づいて、宗教界の強い反発の中で選出されたのだ。
その権威に疑問を持たれたハメネイ師を支えたのが、国会議長から大統領に転進した希代の現実主義政治家アクバル・ハシェミ・ラフサンジャニ師だった。この二人体制のもとで、革命と戦争で疲れたイランの経済復興は開始された。
これを引き継いだのが、ハタミ大統領だ。ハタミ政権の政策決定に関与する外相顧問モハマド・ホジャティケルマニ師のホメイニ論は、現政権の性格を物語る。
「ホメイニ師個人には、(最高の宗教者である)マルジャ・エ・タグリードと最高指導者としての二つの側面がある。(イスラムを侮辱した『悪魔の詩』の著者)サルマン・ラシュディへの死刑宣告は、最高指導者としてではなくマルジャとして出した。したがって政府には、それを実行する義務はない」
ベラヤティ・ファギを否定するとは決して言わない。が、宗教権威の制限は明白だ。現実社会への適応を開始したイスラム共和国の論理的帰結なのか。
ハタミ政権誕生が巻き起こした自由化の風は、タブーだったベラヤティ・ファギ批判を公然化した。
海外に在住しながら、この支配理論を否定していたアブドルカリム・ソルーシュは九七年帰国し、ハタミ政権発足後、持論を雑誌に発表し始めた。
批判は世俗主義の側ばかりでなく、宗教界からも始まった。九七年十一月には、ついに失脚したモンタゼリ師が口を開いたが、同じころ聖地コムのアハマド・アザリゴミ師が展開した批判は、宗教界のあせりをも示唆する。
ハメネイ師は九四年十二月、宗教界の反対を押し切ってマルジャに昇格した。批判は、それゆえハメネイ師には宗教権威がないとするものだ。これは正論かもしれない。ハメネイ師昇格は現実政治による宗教界の支配を露骨に示したものだったからだ。
シーア派では、手ごわい敵に直面したとき信仰を隠すことが許される。「タキーヤ」という。
現実社会という敵の前で、ホメイニ理論はタキーヤに入りつつあるのか、イスラム共和国が質的変化を開始したのか。革命の完結は次世紀まで持ち越されようとしている。(テヘラン・鈴木 雅明)
[イラン・イラク戦争]
イラク大統領サダム・フセインは、イラン・イスラム革命のアラブ世界への拡大阻止という大義名分を旗印に、長年のライバル・イランに強いられた屈辱的国境協定の解消、さらに、おそらくは、イランの混乱に乗じたホメイニ体制の解体を最大の目的として80年9月、イラン南部への総攻撃を開始した。
初戦でイラク軍はイラン領内深部まで占拠したが、やがてイラン側は貧弱な武器にもかかわらず果敢な反撃で盛り返した。この過程で、むしろイランの団結心は高まり、皮肉にも革命体制の基盤が固まった。また殉死に宗教的歓喜を覚えるバシージと呼ばれる特異な志願兵軍団が誕生、死を恐れず地雷原になだれ込む人海戦術はイラク兵を怖がらせた。
だが戦争は、双方の都市攻撃にも発展、多大な犠牲者を出し、イランではやがて反戦気分も広がり経済が破たんした。戦線が硬直したまま88年7月、イランが国連停戦決議を受諾し、戦争は終結した。そのとき、ホメイニ師は「毒を飲むよりつらい決断だった」と語った。
12月から連載してきました「革命編」は今回で終わりです。4月1日から「戦争編」が始まる予定です。
*次に「キューバ革命」を見てみましょう
*
*◆アメリカへ
*◇“救出”無残な結末◇
一九六〇年十二月、ハバナのホセ・マルティ空港から、後に「ピーターパンの子供たち」と呼ばれることになる数十人の少年少女を乗せたパンナム機が、米国マイアミに向けて飛び立った。キューバ革命の勝利から約二年が経過しようとしたころのことだ。
「革命政府は親権をはく奪し、子供たちをソ連に送って、共産主義を教えこむらしい」
そんなうわさが広がる中、カトリック教会経営の学校で教える神父らが、父母たちに、「ビザを用意するから、まず子供を逃がしなさい」と勧めて回った。それから六二年十月まで、六歳から十四歳の合計約一万四千人が米国に旅立った。
同月、ソ連の核ミサイルのキューバ配備を巡る危機が起き、米国への飛行便は途絶、「子供たちの後を追って米国へ」と思い描いていた親たちは、子供たちと生き別れになった。子供たちの多くが米国人の養子にもらわれていき、実の親との音信は絶たれた。
関係者が「ピーターパン作戦」と、おとぎ話の暗号名で呼んだ、この子供救出計画は、悪夢に変わった。
作戦の中心人物は、米国マイアミのカトリック教会にいたブリアン・ウォルシュ神父だが、当時のハバナ駐在の米外交官や米中央情報局(CIA)の密接な関与が疑われている。
ローマ法王のキューバ初訪問を前にした一月十二日、米シカゴ・ドポール大のマリアデロスアンヘレス・トレス教授が、「作戦」へのCIA関与を確認するための政府文書の公開を求める訴訟を起こした。教授自身、「ピーターパン」の子供の一人だった。
米国から大挙してやってきた法王取材記者団の中にも、三十数年ぶりに里帰りを果たしたピーターパンの子供がいた。また、キューバ国営テレビの解説者フリッツ・スアレスさん(48)は、渡航の一歩手前で不安にかられた母親のおかげでキューバにとどまった。今でも、当時のパスポートやビザなどの渡航書類を見るたびに背筋が寒くなるという。
ローマ法王は、キューバ訪問二日目に中部サンタクララで行ったミサで、「家族は離れて住むべきではない」と説いた。
テレビでミサの実況中継を見ていた、ある熱心なカトリック信者(36)は、泣きはらしながら言った。
「頑固な共産党員の父親を残して、母親や他の兄弟は米国に亡命した。キューバに分断の悲しみを知らない家族はない」
教会はかつて、共産主義への恐怖から米国政府と連携して革命政権と反目し、結果的にフロリダ海峡を挟んだ「家族の分断」に力を貸した。トレス教授らによる「作戦」の追跡調査に対し、現在は引退しているウォルシュ神父は、「当時に戻れたとして、もう一度同じことをするか、と聞かれれば、心からノーと言う。あの子供たちはとてもひどいめにあった」と、深い後悔の念を表明したという。
教会でもう一人、「作戦」の中心にいたとされるのが、六一年にベネズエラへ亡命したエドアルド・ボサ神父(83)だ。法王来訪前の一月二十日に一時帰国し、ハバナで「和解」を呼びかけるミサを行った。かつて激しいカストロ政権批判で知られたこの人物の転向は、米マイアミの亡命キューバ人社会に衝撃を与えた。
ローマ法王の要請にこたえ、カストロ政権は先月、政治犯を含む約三百人の囚人を釈放した。カトリック教会は、キューバ社会での役回りを、「分断」から「融和」へと転換したのである。
革命後、米国がカストロ政権に対して行った経済制裁は、亡命キューバ人強硬派のロビー活動に支えられ、強化された。カストロ政権が反米宣伝を増幅させる一方、亡命者の流出も続く。カトリック教会の変化は、そんな対立の構図に、地殻変動を起こす可能性がある。(ハバナ・藤原善晴)
[亡命キューバ人]
1959年のキューバ革命後、社会主義体制を避けて、大資本家や地主、次いで中産階級が米国へ渡った。80年代からは、経済的な理由で米国に脱出する人々が大量に現れた。
米国に住む亡命キューバ人は、80年に約80万人、90年に約105万人に達した。フロリダ州にそのほぼ6割が集中する。
昨年11月、亡命キューバ人強硬派の圧力団体「キューバ系米国人全国基金」のホルヘ・マス・カノサ理事長が病死した。
同基金のメンバーは革命直後に亡命した有産階級が中心で、米国議会への政治献金などにより、対キューバ経済制裁の強化などのロビー活動を展開してきた。
これに対し、80年代以降の亡命者は経済的動機が中心で、本国に残してきた家族に熱心に送金しているケースが多い。
最近では、経済制裁に反対でカストロ政権との対話路線をとる、「キューバの変革」など穏健派の活動も活発化している。
*◆教会への接近
*◇生き残りかけ和解◇
今年一月、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世がキューバを初訪問した。ハバナの革命宮殿で法王と会談したフィデル・カストロ国家評議会議長は、キューバの独立運動の先覚者、フェリクス・バレラ神父の伝記をうやうやしく進呈した。「一八七八年にニューヨークで出版され、彼の生涯を初めて世に知らせた初版本です」と説明する議長に、法王は返礼としてキリストの聖画像を贈った。
バレラ神父(一七八八〜一八五三年)はスペイン植民地下の一八二〇年代に「キューバ人自身の努力による自由獲得」を訴え、住民に国民意識を芽生えさせたことで知られる。ソ連崩壊で発展モデルを失ったカストロ議長は、自らを十九世紀以来のキューバ独立運動と反米ナショナリズムの継承者と位置づけ、革命前の社会で大きな影響力を持ったカトリック教会との和解などを通じた「過去への回帰」を、社会主義体制生き残り戦略の柱にすえようとしている。
カストロ政権はこれまでも、「マルクス・レーニン主義」と並び、十九世紀後半の独立運動指導者ホセ・マルティ(一八五三〜九五年)を思想的根拠としてきた。これに加え、昨年からは、法王訪問前ということもあり、バレラ神父の業績の再評価を進め、十二月にはハバナ大学で国際研究セミナーも開催した。
キューバの独立運動は、住民の反米感情と結び付いて発展した歴史を持つ。このため、カストロが指導したキューバ革命は「米国からの自主独立」を勝ち取ったことで、国民の圧倒的な支持を集めた。また、苦しい経済状況が続く中で、「自主独立」だけがカストロ政権の手元に無傷で残った最後の業績として残った。
昨年ハバナで出版された研究書によれば、米国亡命中のバレラ神父に一八二五年、キューバ併合の機会をうかがう米国政府関係者が接触したが、神父は、「キューバ人自身による独立」の立場を堅持したという。
思想家マルティはかつて、米国の野心に警鐘を鳴らし、「宗主国スペインだけでなく、北の巨人・米国からの解放」を訴えた。
こうした二人の思想は、カストロ政権の「反米自主独立」路線に適合する。
革命初期、カストロ政権は、カトリック教会が所有していた私立学校、病院などを国有化した。宗教信者、特にカトリック信者には、就職面などで差別が行われた。
しかし、ソ連崩壊前後から、政府・共産党は、社会の安定を図るため宗教的寛容政策に転換している。九一年のキューバ共産党大会は、宗教信者の入党を認め、翌年の国会では憲法の「無神論国家」の規定が、宗教面で中立の「世俗国家」へと変更された。
もちろん、カストロ指導部は、革命の歴史の再確認にも力を入れており、昨年十月、革命の英雄チェ・ゲバラの没後三十年の記念式典を盛大に行った。ゲバラ関係の出版物が、書店に山積みになった。
ところが昨年暮れには、ローマ法王のポスターが町中に現れると同時に、書店にはバレラ神父の評伝、分厚い著作集全三巻などが出回った。
急激な宗教観の揺れは、キューバ美術界で、ゲバラをカトリック聖人に見立てた絵まで流行するなどの現象を生み出している。
ある古参共産党員は「長年、宗教信者を無神論で論破するための問答集を、義務として持ち歩いていたのに」とあきれる。来年、キューバ革命は四十周年を迎えるが、革命思想に混乱の兆しが広がっている。
革命初期に、ゲバラらと共に土地改革などの先頭に立った共産党のある老幹部は、「キューバが米国からの依存を脱し、真に独立していたといえるのは五九年からの二年間くらい、六一年から九一年までは依存の相手をソ連に替えただけだった」と回想する。
そして、苦渋に満ちた表情で「現状は、混迷の極みに見えるかもしれない。しかし、米国の制裁が続き、ソ連にも頼ることのできない今こそ、混乱を克服してキューバという国の自主独立をどうまとめるかが問われている」と話す。(ハバナ・藤原善晴)
[キューバ独立運動]
キューバ共産党が今年1月に配布した、「国民のアイデンティティー」についての党員向け学習資料では、スペイン植民地支配下の1820年代、ハバナの神学校教授フェリクス・バレラ神父を「キューバ独立志向」の「真の先覚者」と位置づけている。
バレラ神父は1822年、スペイン国会で植民地問題に関して行った発言がもとで翌年米国ニューヨークに亡命。25年、キューバ併合をうかがう米国政府関係者が接触してきたが、「キューバ人自身による独立」の立場を堅持した。
19世紀後半には独立運動は本格化、「祖国の父」と呼ばれる砂糖農園主カルロス・マヌエル・デセスペデス(1819〜74年)が第一次独立戦争(1868〜78年)を開始した。
続いて、スペインに対する第二次独立戦争(1895〜98年)の口火をきったのが、「キューバの使徒」と呼ばれるホセ・マルティだ。海外進出の野心を見せていた米国の脅威に警鐘を鳴らした。
*◆独裁政権打倒
* ◇使命感に燃え遠征◇
キューバ革命の元ゲリラ司令官デリオ・ゴメス・オチョア氏(68)が、昨年六月十四日、ドミニカ共和国の首都サントドミンゴでレオネル・フェルナンデス大統領から名誉市民の称号を受けた。
ドミニカ共和国のラファエル・トルヒーヨ独裁政権打倒のため一九五九年の同じ日、ゲリラ部隊を率いて極秘潜入した英雄、というのが授与理由だった。当時、キューバは革命勝利直後で、まだソ連と軍事同盟関係に入る前だった。
キューバは、六〇年代から八〇年代まで、おびただしい数の軍事、非軍事要員を「国際主義の任務」、つまり海外左翼勢力支援のために送りだした。そのどこまでが自発的か、ソ連の意向によるかは議論が分かれる。しかし、ゴメス元司令官の遠征は、革命キューバがその初期から、外国の民族解放闘争を志向していたことを証明している。
一九五九年にフィデル・カストロ総司令官(現国家評議会議長)率いるゲリラ革命軍が、バチスタ独裁政権を打倒した時、ゴメス司令官は全国五つの方面軍の一つを率いていた。ドミニカ共和国からキューバ革命軍に参加していた義勇兵たちの、「次は、自国の独裁政権の打倒を」との要請で、カストロ総司令官は、ドミニカ人を主力に、副司令官(首席軍事顧問)のゴメス氏らキューバ人十八人を加えた約二百五十人の遠征部隊を編成した。
ゴメス氏ら先遣隊五十四人がまず同年六月十四日、ドミニカ共和国政府軍機に偽装したキューバ機で、まんまとドミニカ共和国軍の飛行場に着陸した。
六日後、海路をとった本隊の上陸は政府軍に察知され、遠征は失敗。生き残ったゴメス氏ら五人は捕虜となる。軍部内紛で六一年、独裁者トルヒーヨは暗殺され、ゴメス氏は恩赦でキューバへ帰国。ひっそりと国営企業に勤務し、八八年に年金生活に入った。
トルヒーヨ政権の流れをくむ右派ホアキン・バラゲル大統領の長期政権が終わり、九六年六月、中道左派の現大統領が当選すると、ドミニカ共和国の左翼運動の起源となった「五九年の遠征軍」の歴史に関心が高まり、ゴメス氏は、九五年の遠征三十六周年式典に招待されて同国を再訪。突然登場した「陰の司令官」は、一躍ドミニカ国民のヒーローになった。
九一年のソ連消滅を頂点とする共産圏崩壊の中、キューバは海外左翼ゲリラへの表立った支援をやめ、近隣の中南米諸国との関係改善に乗り出していた。冷戦時代にドミニカ共和国と国交を断絶したままだったキューバは、ゴメス氏が名誉市民となった同じ昨年六月、国交回復した。
ハバナ市内のゴメス氏のアパートを訪ねると、ドミニカの市民団体から託されたという医療品などのキューバ支援物資が山積みになっていた。
ゴメス氏は、「中南米には、軍事独裁に民衆がゲリラ戦で対抗してきた歴史があり、だからこそ我々の遠征は、今も共感を呼び続けている」と胸を張る。
キューバ革命で活躍したアルゼンチン人チェ・ゲバラが、キューバ人の同志らと共に継続革命を夢見て、六七年にボリビアで散ったのも、ゴメス氏の遠征と同じ歴史的伝統の中でとらえられよう。
七〇年代以降、ソ連との関係が密接化する中、キューバの「国際主義の任務」は不相応に大規模化し、米ソの駆け引きの中で苦衷も味わうようになった。
アフリカのアンゴラで、ソ連派の民族解放組織と、南アフリカ共和国に支援された右派組織の内戦が発生、キューバは七六年から国をあげて介入した。百五十台のソ連製戦車を先頭に、南ア正規軍を撃破したキューバ軍は、「南ア領に突入し、アパルトヘイトさえ終わらせかねない勢いだった」と当時を知るキューバ政府筋は語る。ソ連側は、深追いして米国の介入を招くことを恐れ、進撃に待ったをかけた。
アンゴラ派遣キューバ軍は最大五万人に達したが、戦線はこう着した。八八年十二月、米国の仲介でキューバ、南ア両軍はアンゴラからの撤退で合意した。キューバ国内経済は、戦費負担で疲弊し切っていた。(ハバナ 藤原善晴)
[国際主義者]
フィデル・カストロ総司令官率いる、キューバの革命には、ドミニカ共和国などから義勇兵が参加したほか、ベネズエラの進歩派から武器が届けられるなどの支援を受けた。
これに対し、キューバ革命政府は成立直後の60年代初め、アルジェリア、コンゴなどに、非軍事、軍事要員の「国際主義者」を送り始めた。まず、革命の英雄でアルゼンチン人のチェ・ゲバラがその先頭に立ったが、67年にボリビアで処刑された。
66年カストロ総司令官は、アンゴラの若い左翼ゲリラ戦士を、キューバの「青年の島」で訓練することを決定。以後、アフリカを中心に多数の留学生も受け入れた。
93年、アンゴラからの撤兵完了に合わせ、キューバ各地で、すべての国際主義者を対象にした顕彰式典や殉職・戦死者の霊廟(れいびょう)設置を行った。同年までの派遣総数は延べ30万人で、派遣先は40か国以上、アンゴラへは17万5000人。全体のうち少なくとも千数百人が殉職・戦死した。アンゴラ出兵の戦費は年間10億ドルにのぼったとされる。
*◆わかれ道
*◇独裁者倒した後に◇
九五年四月、キューバのフィデル・カストロ国家評議会議長はハバナで、米国マイアミに本拠を置く、反体制派組織「キューバの変革」の指導者、エロイ・グティエレス・メノヨ氏と三時間にわたって会談した。ソ連邦の崩壊によって後ろ盾を失い、米国による経済制裁の締め付けで経済は疲弊し、革命は大きな危機に立たされていた。カストロ議長が、穏健派とは言え反体制派亡命キューバ人指導者と直接会ったのは初めてだった。
「革命とは前進することではないのか。もはやソ連陣営は存在しない。ソ連型社会主義を脱し、野党結成の自由や市場経済化などの改革を」と力説するメノヨ氏を前に、カストロ議長は三時間、一心にノートを取り続けるばかりだったという。
メノヨ氏の兄カルロスは革命前の反独裁の学生組織「革命幹部団」リーダーの一人で、一九五七年三月十三日、独裁者フルヘンシオ・バチスタ大統領の宮殿を約八十人で襲撃、執務室まで突入し、壮烈な死を遂げた。襲撃に連絡係として参加したメノヨ氏は、「革命幹部団」の武闘派を連れて中部山地に入りゲリラ戦を開始した。
やはり反独裁の地下活動を続けていたカストロは五四年七月二十六日、同志百二十五人とともに東部サンティアゴデクーバのモンカダ兵営を襲撃していた。このため、その革命運動は「七月二十六日運動」と呼ばれた。
カストロは五五年にメキシコに亡命、そこで「革命幹部団」代表との盟約を結んだ。翌五六年、ヨットでキューバ東部に上陸、山岳地帯を本拠にゲリラ戦を展開、五九年一月、ついに独裁者バチスタを国外亡命に追い込んだ。カストロは以後、四十年近く革命指導者としてキューバに君臨する。
メノヨ氏によれば、五九年当時、独自のゲリラ勢力を抱えていた彼に、米国のマフィアから、「百万ドルの謝礼で、カストロ首相(当時)を暗殺してほしい」との打診があったという。彼はカストロにそれを通報し、陰謀に協力するふりをして、敵方のスパイを一網打尽にした。
「あの時、カストロ首相から、閣僚にするとの誘いを受けた」が、逆に、メノヨ氏は六一年末、カストロ政権とたもとをわかち、米国に出国する。
「当時、彼らはソ連陣営へ接近していた。キューバ国民は、そんなことのために、十九世紀以来、革命闘争を行ってきたのではない」との思いからだったという。
アメリカ資本や一部の大資本家と結んだバチスタ独裁への闘争には、農民、労働者から中産階級までが結集していた。ところが五九年から六〇年にかけ、革命政権と米国との関係が急速に悪化、石油輸出や砂糖買い付けを約束したソ連と接近すると、メノヨ氏ら革命勢力内の穏健派は離反し始めた。
六〇年十月には米国政府は米国製品のキューバ輸出を禁止し、今日に至る経済制裁が始まった。
米国中央情報局(CIA)に支援された亡命キューバ人武装集団千五百人が六一年四月十七日、キューバのヒロン浜に上陸し、惨敗した。
その前日、偽装した米軍機がキューバの空軍基地を爆撃、その犠牲者追悼集会でカストロ首相は初めて「キューバ革命は社会主義革命である」と宣言した。
六〇年代、革命政権は急進的な独自路線に傾くが、七〇年代からはソ連・東欧型の社会主義の道をひた走った。
メノヨ氏は、六二年に米国マイアミで、反カストロ武装組織を創設。六五年末拠点作りのためキューバに潜入、翌年初め、逮捕されたメノヨ氏のことを、キューバの国営メディアは「CIAのエージェント」と書き立てた。
二十二年間獄中生活を送り、八八年に釈放されたメノヨ氏は、九五年の会談でカストロ議長に、「ぼくがCIAのエージェントじゃないことは、きみがよく知っているよね」と語りかけたという。
親族訪問のため滞在中のハバナ市内のホテル・ロビーで会ったメノヨ氏は、「私はキューバ革命を信じる。これまで一度も反革命だったことはない」という。
米国支配に反発するカストロの強い民族主義はソ連への急接近につながり、その過程で多くの革命家たちが去って行った。(藤原 善晴)
[バチスタ政権]
1898年の米国・スペイン戦争の結果、キューバは米国に占領され、1902年、米国の干渉権を盛り込んだ憲法のもとに独立した。米国の政治・経済・軍事面での圧倒的な影響力のもと、次々と独裁政権が登場した。33年、フルヘンシオ・バチスタ軍曹を中心とする反乱軍の援護のもと、民族主義的な臨時政権が成立。
軍の実権を握ったバチスタが離反したため、民族主義政権は翌年崩壊したが、40年から4年間バチスタは自ら政権についた。
1952年の大統領選挙に立候補したバチスタは、選挙で勝ち目がないことがわかると、同年3月にクーデターで政権を奪取。キューバ革命は、その反乱として始まった。
当時のキューバでは、米国資本は、経済の中心である砂糖産業の4割を支配、金融サービス、鉱工業などあらゆる分野に食い込み、土地のほとんどは、大地主や米国企業の手に握られていた。また砂糖など輸出市場の7割を米国に依存していた。
*フランス革命大解剖
*
フランス革命大解剖
フランス革命は日本人にはあまりなじみのないものかもしれません。
でも、ここに生きた人々は、他の歴史には見られないほど真摯に優雅に生きていたのです。
1.革命の原因
旧制度の危機…絶対王政を誇っていたときにはそれほど目立たちませんでしたが、産業が発達していく内に、現体制が本質的に持っていた制度上(主に階級制度)の矛盾が露呈し始めていきました。
経済危機…相次ぐ戦争、またアメリカ独立への莫大な投資によって国家は破産状態になっていきました。よく言われていることですが、「赤字夫人」マリー・アントワネットの浪費などこれらに比べれば微々たるものでしかありません。
啓蒙思想…「三権分立」「自然に帰れ」など旧体制を鋭く批判する思想家が活躍し、貴族を含めた当時の人々に受け入れられました。これらの思想がフランス革命の精神になったのです。
2.革命のきっかけ
貴族の反乱…革命の最後で決定的なきっかけは貴族の反乱でした。公平な税金を払うのがいやだ、などというつまらないわがままのために、彼らは自分達の存在に一番必要な王政を破壊するきっかけを作ってしまったのです。
三部会召集…今では国王を除く全ての身分の人々が、自分達の身分のために三部会の召集を望んでいました。それに屈服する形で国王は三部会を召集しました。そして、三部会は国民議会に発展していったのです。
国民議会成立…議会は国王と対立しながら、国民議会を成立させます。そして、「テニスコートの誓い」で憲法の制定を強く誓います。国王は議会に対抗するため、軍隊をパリとヴェルサイユに集結させていました。
3.革命勃発!
バスチーユ牢獄…襲撃民衆が立ちあがり、絶対王政の象徴であったバスチーユ牢獄を陥落しました。絶対王政の鎖を断ち切り、革命の大きな前進を遂げたのです。
人権宣言…封建的権利の放棄に続き、絶対王政の死亡証明といわれた「人権宣言」が採択されました。
ヴェルサイユ行進…民衆の血と汗で生み出した「人権宣言」を認めないルイ16世に抗議してパリの女性達が、ヴェルサイユまで行き、国王一家をパリに連れ戻しました。
4.議会と王
1791年の憲法…待望の憲法が可決されました。旧制度を破壊した国民議会は、人権宣言の理想にのっとった新制体(立憲君主政体)を作り出すために活動しました。
アッシニアと教会…財政危機を乗り越えるために教会財産を没収し、その対策として後々までフランスを苦しめるアッシニアを発行します。また「僧侶基本法」を制定して僧侶を二つに分けてしまいました。
政治クラブ…この頃、いくつかの政治クラブのようなものができました。流動的で複雑ですが、少し整理してみましょう。
国王の逃亡…1791年6月、思いもかけない事件が起きました。国王が逃亡したのです。フランス国民を見捨てようとした国王の逃亡は、革命に大きな展開をもたらしました。国王がいなくても太陽が昇ることを知った国民から、「国王不要論」が出てきました。
5.王制転覆
立法議会… 1791年の憲法を基に新たしい議会「立法議会」が誕生しました。しかし、議会内外でそれぞれの思惑が交錯し、フランスは揺れつづけます。
国外の脅威と戦争…ビルニッツ宣言や亡命貴族などの脅威から、フランスは戦争へと巻き込まれていきます。その中でただひとり、ロペスピエールだけが反戦を唱えますが、聞き入られません。
祖国の危機…フランスは敗戦が続きます。議会は「祖国は危機にある」宣言を出しました。ロベスピエールの活躍により国民は愛国心に燃え、革命は次の重大な局面に向かっていきます。
8月10日の革命…今までの革命の中途半端な成果に納得できない民衆は再び蜂起します。そして、彼らは王権の停止を要求し、それは実行されました。この蜂起は革命の大きな区切りとなりました。
9月虐殺…外敵や反革命派に対する恐怖から、民衆はパリの監獄を襲い、反革命派の疑いのある囚人を虐殺します。そして、その興奮の中、フランスはヨーロッパ随一の軍隊プロシア軍をヴァルミーで破ります。
6.国王裁判
国民公会…革命の第二期を迎え、 国民公会が召集されました。ここで、ブルジョワジーを代表するジロンド派と、民衆を代表する山岳派が対立します。
国王裁判…ここでも山岳派とジロンド派の行き詰まる論戦が交わされます。結局、民衆を背景に持った山岳派の理論がルイ16世に死刑を宣告します。
7.ジロンド派没落
対外政策…ジロンド派主導による対外政策は、とにかく戦争に勝ちつづけることでした。 強気な態度はまさに敵を増やします。イギリスの首相ピットによる第一次対仏同盟が結成され、フランスは苦しい立場に追いやられました。
経済不安…イギリスとの戦争で輸入状況が悪化し、食糧不足は深刻になりました。インフレは収まるところを知らず、フランス経済は崩壊しました。
軍事問題…1793年のフランスを悩ましているのは経済問題だけではありません。国内ではヴァンデの反乱、国外ではデュムーリエの裏切り。内憂外患、四面楚歌の状況でジロンド派はますます苦境に追いやられていきます。
ジロンド派の終焉…国内外の政策がことごとく失敗に終わったジロンド派は6月2日、逮捕という形で政治の舞台から姿を消していきます。そして、次に台頭するのがロベスピエールを中心とした山岳派です。
8.恐怖政治
山岳派独裁…ジロンド派を倒した後、ロベスピエールを中心とする山岳派は一丸となって重大な危機に立ち向かいました。絶大な権力を掌握した公安委員会を中心に、恐怖政治が敷かれます。
新しい軍隊…公安委員会は軍隊を強化しました。イギリスやオーストリアなどの外敵も、ヴァンデの反乱などの内乱も鎮圧され、戦局上の危機は一応克服されました。
最高価格法…ジロンド派を追放した国民公会は、民衆の強い要求に応えて、全ての商品価格を公定する「全最高価格法」を採用しました。これにより経済は一時的に安定しました。
革命暦と理性の祭典…キリスト教を破棄するために、「革命暦」を取り入れ、「理性の祭典」が催されました。
恐怖政治の恐怖…恐怖政治下ではどのような恐怖が行われていたのでしょうか。多くの人々の命が消えていきましたが、そのほとんどはパリ以外の地方で行われていたのです。
9.テルミドール九日
山岳派の内部闘争…内外の危機をひとまず脱却したあと、ロベスピエール派は、ダントンを中心とする「寛容派」とエベールを中心とする「過激派」の二派と対立しました。
ロベスピエール独裁…「寛容派」と「過激派」を倒した後、内部に多くの矛盾を抱えながらロベスピエールの独裁が始まります。「最高存在の祭典」の中でその権力は最高点に達しました。
公安委員会分裂…公安委員会もロベスピエールの独裁に対立しました。そんな中、ロベスピエールは自ら墓穴を掘るようなことをしてしまい、「運命の日」がやってきました。
運命の日…テルミドール九日。ロベスピエール派の最後の説得も空しく、共和国樹立に命を賭けた真の政治家達が文字通り、自由のために非業の死を遂げました。
凍てついた革命…ここでは歴史的事実の説明ではなく、「恐怖政治」、「ロベスピエール」についての私見を述べています。
10.ブルジョワ共和国
テルミドール派の支配…ロベスピエールらを倒した後、テルミドール派と呼ばれる上層ブルジョワジーが国民公会を支配しました。彼らはブルジョワに都合のいい国家を作ろうとしました。
物価狂乱…パリは革命勃発以来最大の食糧危機に見舞われ、再び民衆が蜂起します。しかし、政府軍によって二度とも鎮圧されました。これ以降、革命は民衆の手を離れ、ブルジョワの利益のみを追求するようになったのです。
共和国3年(1795年)の憲法…左翼を弾圧したテルミドール政府は、力を増してきた右派から身を守るため、新しい憲法を発令しました。それは、民主主義と独裁を封じ込め、ブルジョワ支配を確立するものでした。
ヴァンデミエールの反乱…不安定な政権の元で作られた1795年の憲法は、非合法な軍事行動を正当化することになりました。それは、不世出の天才ナポレオン・ボナパルトの独裁の道に通じていたのです。
11.総裁政府
総裁政府…総裁政府が発足しました。彼らは下落しきったアッシニアの発行を止め、土地証券を発行することによって経済の建直しを図りましたが、うまく行かず、経済はますます混乱しました。
バブーフの陰謀…革命から忘れ去れらていた「平等」を勝ち取るため、バブーフらは反乱を企てました。しかし、実行に移す前夜、政府の放っていたスパイにより、全ての計画が暴露され、全ての計画は水泡に帰しました。
イタリアのナポレオン…ヴァンデミエールの反乱を鎮圧したナポレオンが、オーストリア攻撃作戦でイタリア方面を担当する総指揮官になりました。総裁政府の命令を無視しながらも、勝利を重ね、ついにはカンポ・フォルミオ条約を結び、オーストリアと講和します。
フリュクチドールのクーデター…ナポレオンがイタリアに遠征している間、国内では王党派のまき返しが始まろうとしていました。右翼の力を抑えるため、総裁のバラスはまたしても軍事力を使って、フリュクチドールのクーデターを成功させました。
********************************
1.革命の原因
旧制度の危機…絶対王政を誇っていたときにはそれほど目立たちませんでしたが、産業が発達していく内に、現体制が本質的に持っていた制度上(主に階級制度)の矛盾が露呈し始めていきました。
経済危機…相次ぐ戦争、またアメリカ独立への莫大な投資によって国家は破産状態になっていきました。よく言われていることですが、「赤字夫人」マリー・アントワネットの浪費などこれらに比べれば微々たるものでしかありません。
啓蒙思想…「三権分立」「自然に帰れ」など旧体制を鋭く批判する思想家が活躍し、貴族を含めた当時の人々に受け入れられました。これらの思想がフランス革命の精神になったのです。
i. 旧制度の危機
一言で説明すると…絶対王政を誇っていたときにはそれほど目立たちませんでしたが、産業が発達していく内に、現体制が本質的に持っていた制度上(主に階級制度)の矛盾が露呈し始めていきました。
革命前の制度のことをフランス史では「アンシャン・レジーム(旧制度)」と言います。旧制度と言った方がわかりやすいのですが、「アンシャン・レジーム」という響きにはなにか郷愁があってロココの華やかだけど脆い美しさを思い起こすためか、よく使われます。
「太陽王」と言われたルイ14世が、独裁政治でフランスをヨーロッパで最も巨大な国のひとつにしたとき、巨大国家になるために進んできた道そのものが実は、大国フランスを革命にと招く遠因となっていきました。つまり、戦争や派手な生活(ヴェルサイユ宮殿などの建設)が財政を圧迫し始め、国庫が苦しくなっていったわけです。
1715年にルイ14世は逝去しました。続くルイ15世はフランス一の美男子と歌われましたが、結局それ以外、なんのとりえもない凡庸な統治者だったし、その孫のルイ16世は、それに輪をかけて無能でした。彼は狩猟と錠前作り以外に何の興味もなく(女遊びさえしなかった)、政治を私利私欲で固まっている側近に任せっきりだったのです。
貴族は、国政に興味のない国王に代わって、自分達の利益につながるようなことばかりしたがり、一方地方では、上流・中流ブルジョワジーが力を付け始めました。しかし、現行の体制ではいくら事業を拡大しても、税金を取られるばかりで面白くありません。自分達の利益を窃取されたくない彼らは、旧体制を変えたいと思い始めたのです。
大農民もそうです。彼らは自分達の小作人から搾り取った利益をもっと手元に残しておきたかったので、制度を変えたいと思いました。
下層ブルジョアや労働者、自営農民・貧農・小作人は重税で生活そのものを圧迫されていました。彼らがもっと豊かな生活(せめて働いた分くらいの収入を得たい)を切望するのは当然のことでしょう。
社会階級
社会階級は大きく三つに分かれます。
第一身分の「聖職者」(14万人)は土地全体の10%以上を所有していました。聖職者の中にも、貴族と上層のブルジョワ出身の上級聖職者と、第三身分出身の下級聖職者がいて、頂点に立つ枢機卿から村の司祭さんまであり、この中にも厳しい階級がありました。
第二身分の「貴族」(40万人)は土地全体の25%以上を所有していましたが、やっと生活できるだけの土地しかない没落貴族もいました。この中には、宮廷貴族、法服貴族、地方貴族がいます。
第一身分と第二身分を合わせてを特権階級と言い、このふたつの階級で国土の40%を所有し、政治に参加したり税金を支払わなくてもいい(この特権を奪われるのがいやで貴族は国王に反抗し、それが続く革命の引き金となった)など、数多くの特権を持っていました。
最後の第三身分の「平民」は大きく商工業を営む市民(450万人)と農民(2000万人)に分かれます。 市民は都市に住み、政治には参加できず重税を課されていました。市民は大きく4つに分けられます。
上流ブルジョワ (法律家・実業家・特権商人など)
中級ブルジョワ (地方商人・産業家など)
下層ブルジョワ (商店主・手工業親方など)
サン・キュロット (職人・徒弟・労働者など)
農民は特権階級所有の農地を耕し、もちろん政治に参加できず、重税を課されていた。やはり大きく4つに分かれます。
大地主
大借地農
自営農民
折半小作農・雇農
なお、人口の数字ですが、資料によってまちまちです。ここでは平均的な数量を取ってみました。おおざっぱに見て、人口の1.5%にしか満たない特権階級が全土の40%の土地を所有していたと見ればよいでしょう。
2.革命のきっかけ
貴族の反乱…革命の最後で決定的なきっかけは貴族の反乱でした。公平な税金を払うのがいやだ、などというつまらないわがままのために、彼らは自分達の存在に一番必要な王政を破壊するきっかけを作ってしまったのです。
三部会召集…今では国王を除く全ての身分の人々が、自分達の身分のために三部会の召集を望んでいました。それに屈服する形で国王は三部会を召集しました。そして、三部会は国民議会に発展していったのです。
国民議会成立…議会は国王と対立しながら、国民議会を成立させます。そして、「テニスコートの誓い」で憲法の制定を強く誓います。国王は議会に対抗するため、軍隊をパリとヴェルサイユに集結させていました。
i. 貴族の反乱
一言で説明すると…革命の最後で決定的なきっかけは貴族の反乱でした。公平な税金を払うのがいやだ、などというつまらないわがままのために、彼らは自分達の存在に一番必要な王政を破壊するきっかけを作ってしまったのです。
財政建て直し−−カロンヌ
1783年、ネッケルの後を継いだカロンヌは、ネッケルの政策を3年間継承しましたが、1786年には政府の信用はまるでなくなっていました。財政を根本的に変革させなければ、国家は破産してしまうという状態まで追い詰められ、
塩税、タバコ税の一律化、あらゆる土地所有者に「地税」を課す
ということを提案しました。
名士会 "Assemblee des Notables"
これら特権身分の免税を廃止して課税の平等を実現するためには、高等法院の妨害を防ぐことが必要でした。カロンヌは、前任者達が貴族に妨害されたことを知っていたので、「名士会」を召集して承認を得ようと思ったのです。上の提案は国王の内々の承諾を得ていましたから、国王が選ぶ名士からなる「名士会」が、国王の意思に反することをするはずがないと、判断したのです。しかし、「名士会」のメンバーは特権階級の者が主でした。いかにカロンヌが財政危機を訴えても、免税の特権を簡単に放棄するはずはありませんでした。
名士会は1787年2月22日に開催され、カロンヌの提案を却下し、カロンヌはたちまち罷免されました。
財政建て直し−−ブリエンヌ Brienne
次はカロンヌの敵手、「名士会」のリーダーであるブリエンヌが引き継ぎました。ところが、ブリエンヌの打ち出した政策はカロンヌと全く同じでした。
名士会は当然、反発します。そして、「名士会」は、1614年以来開かれていなかった三部会の召集を要求しました。
ルイ16世が出席する8月の親臨法廷では、ブリエンヌの法案が認められたが、パリ高等法院はその無効を主張し、せっかく王の了承を得たのに、ブリエンヌは苦杯をなめさせられました。
続く11月の親臨法案でオルレアン公(彼はなかなか曲者ですのでご注意を!! 肖像画の顔も悪そうでしょう。)が王の命令に反抗したので、王は公と二人の議員に追放を命じました。
高等法院はこれに抗議し、1788年5月、
王政は世襲である、税制の決定権は三部会にある
などを強く主張しました。すると、ルイ16世は高等法院の力をなくそうとし始め、国王と高等法院の間は険悪となりました。
このようにして、貴族は着々と革命に乗り出していったのです。
屋根瓦の日 Jounee des Tuiles
< p> 1788年5月10日、グルノーブルの高等法院も国王に反発すると、王は高等法院を閉鎖させ、軍隊を出動させました。
6月8日、市民はこれに反発して城門を閉め、家の屋根から手当たり次第石や瓦を軍隊に投げつけました。この勢いに軍隊は撤去しました。これを「屋根瓦の日」と呼びます。
この「屋根瓦の日」に参加した市民には、後の革命を引っ張っていくムーニエやバルナーヴもいました。彼らはこの日、高等法院、ひいては貴族を支持しました。なぜならば、高等法院は三部会の召集を要求しているからです。とにかく今は三部会を開催することが市民達にはなによりも大事です。
貴族の誤算
税金を納めるのが何としてもいやだった貴族ですが、彼らが国王に反抗したのには、もうひとつの理由があります。
つまり、ルイ14世で最大化した国王の権力の増大は、貴族の弱体化を意味することに他なりません。だから、ここで王権を抑え、自分達が国家の管理者になり、力を増大させようとしたのです。大きな誤算はここにありました。フランスの現状は内輪もめをしているような生半可なものではなかったのです。彼らは民衆が飢饉や戦争で飢えていることなどすっかり忘れてました。
←←概略の目次へ ←貴族の反乱へ 三部会召集へ→
国民議会成立へ→
* *******************************
革命の勃発!
順番に読んでいってもかまいませんし、興味のあるところから読んでも大丈夫です。
お好きなところからどうぞ。下線の部分をクリックすると飛びます。
3.革命の勃発!
バスティーユ襲撃 …民衆が立ちあがり、絶対王政の象徴であったバスチーユ牢獄を陥落しました。絶対王政の鎖を断ち切り、革命の大きな前進を遂げたのです。
人権宣言…封建的権利の放棄に続き、絶対王政の死亡証明といわれた「人権宣言」が採択されました。
ヴェルサイユ行進…「人権宣言」を認めないルイ16世に抗議してパリの女性達が、ヴェルサイユまで行き、国王一家をパリに連れ戻しました。
i. バスティーユ襲撃
一言で説明すると…民衆が立ちあがり、絶対王政の象徴であったバスチーユ牢獄を陥落しました。絶対王政の鎖を断ち切り、革命の大きな前進を遂げたのです。
バスティーユ襲撃 prise de la Bastille
今までは政治の頂点での戦いでした。しかし、これからは民衆もこの戦いに参加するようになったのです。ここでも日を追ってみてみましょう。
カミーユ・デムーラン
6月26日
国王は威圧のために二万人の外国人軍隊を召集
7月11日
国王、民衆に人気のあったネッケルを罷免(「小部屋を覗く」)。
カミーユ・デムーランがパレ・ロワイヤルで熱弁を奮う。「早すぎる死か。永遠の自由か。さあ、武器を取れ!」この言葉で民衆は武器商に押しかけて武器を奪う。
7月14日
廃兵院に押しかけ(「小部屋を覗く」)、銃と大砲を奪ったが火薬と弾薬がない。民衆は「専制の象徴」バスチーユに向かう。
武器の引渡しを求めて平和的交渉で臨むが、失敗
。
激しい戦闘が始まる。民衆側で98人の死者が出る。
守備兵に説得された長官は、身の安全条件に降伏する(「小部屋を覗く」)。
群集がなだれ込む。何人かの守備兵が殺害され、残りの守備兵は囚人となる。生き残った守備兵の日記はこちら(短いですが…)
長官を虐殺し、その首を槍につき裂して、市庁舎に向け勝利の行進。
バイイをバリ市長に選ぶ。
ラファイエットは、「パリの色である赤と青の間に、国王を表す白を入れた」三色の帽章(三色旗)を与える。
7月15日
王は議会に出向いて軍隊の引き上げを約束。
7月16日
ネッケルを再任。市長バイイから帽章を受け取る。
バスティーユ襲撃の意味
陥落したバスチーユには7人の囚人が収容されていたに過ぎませんでしたが、元々民衆の目的は武器が欲しかったのであり、中に誰がいようと関係ありませんでした。ここでの大きな意義は、絶対王政の象徴であったバスチーユを陥落したことです。今まで侵すことのできなかった旧体制を崩壊させたのです。
この後に続く人権宣言などの重要な事項はこのバスチーユ陥落を抜きにしてはありえないことでした。
同時に三色旗に、「国王の白」が入っていることは大変意味深いことです。絶対王政を否定している民衆ですが、ルイ16世を敬愛していたのです。
貴族の亡命 emigres
王が屈服したのを見て、多くの貴族達が亡命しはじめました。最初の亡命者は、何と王弟のアルトワ伯です。彼は7月17日の夜、若干の友人と共にヴェルサイユを後にしました。その後マリー・アントワネットの寵愛を受けたポリニャック伯夫人、また、マリー・アントワネットの後見人のメルシー伯も我先にと亡命しました。
亡命者の正確な数字を把握するのは困難ですが、大体12〜13万人くらいと言われています。貴族の亡命はその中のおよそ17%くらいです。彼らは国境に近い都市を拠点にしてアンシャン・レジームの復活を虎視眈々と狙ってました。国王に対する敬愛からではありません。彼らがアンシャン・レジームで得ていたさまざまな特権をもう一度手にしたかったからです。
* ******************************
4.議会と王
1791年の憲法…待望の憲法が可決されました。旧制度を破壊した国民議会は、人権宣言の理想にのっとった新制体(立憲君主政体)を作り出すために活動しました。
アッシニアと教会…財政危機を乗り越えるために教会財産を没収し、その対策として後々までフランスを苦しめるアッシニアを発行します。また「僧侶基本法」を制定して僧侶を二つに分けてしまいました。
政治クラブ…この頃、いくつかの政治クラブのようなものができました。流動的で複雑ですが、少し整理してみましょう。
国王の逃亡…1791年6月、思いもかけない事件が起きました。国王が逃亡したのです。フランス国民を見捨てようとした国王の逃亡は、革命に大きな展開をもたらしました。国王がいなくても太陽が昇ることを知った国民から、「国王不要論」が出てきました。
i. 1791年の憲法
一言で説明すると…待望の憲法が可決されました。旧制度を破壊した国民議会は、人権宣言の理想にのっとった新制体(立憲君主政体)を作り出すために活動しました。
待望の憲法が可決されました。しかしながら、民衆の立場に立ったものではなく、ブルジョワの支配を確立したブルジョワ的憲法です。
王の拒否権
絶対王政の下では王に拒否権などありません。国王の権力は無制限、絶対で、なにものもこれを拘束できないわけですから、拒否権など存在できないのです。しかし、絶対王政はなくなり、国民議会が成立し、しかも国王もちゃんといるわけですから、両者の関係を法的に規定しなければなりません。議会は審議に審議を重ね、
「王は一回だけ拒否権を行使できるが、六ヶ月後に議会が再度同一決議をした場合はこれを拒否できない」
ということを決定しました。
立法・行政・司法
立法 一院制に決定。
司法 司法権は独立。
行政 事実上、議会の支配下に置かれながらも行政権は王が握りました。具体的には、
・国王は六人の大臣(内務、司法、陸軍、海軍、外務、国税)を選任する。
・議員の中から大臣を選任できない。
・国王の決定は内閣の書名を必要とする。
・内閣は議会の監督を受ける。
・国王は、議会の同意なしに宣戦布告をすることも条約に署名することもできない。
選挙権
全ての市民は能動市民と受動市民に分けられました。
選挙は、能動市民が選挙人を選び、選挙人が議員を選ぶ方式です。
選挙権は25歳以上の男子で、3〜9日の賃金に相当する直接納税者(能動市民)だけに与えられました。
また、選挙人は10日の賃金に相当する直接税を、議員は50日の賃金に値する直接税を納めなければなりません。
1791年の統計によれば、全人口2600万人の内、能動市民約430万人(全人口の16.3%)、選挙人5万人(全人口の0.19%)でした。
明らかにブルジョワ的な方式です。
5.王制転覆
立法議会… 1791年の憲法を基に新たしい議会「立法議会」が誕生しました。しかし、議会内外でそれぞれの思惑が交錯し、フランスは揺れつづけます。
国外の脅威と戦争…ビルニッツ宣言や亡命貴族などの脅威から、フランスは戦争へと巻き込まれていきます。その中でただひとり、ロペスピエールだけが反戦を唱えますが、聞き入られません。
祖国の危機…フランスは敗戦が続きます。議会は「祖国は危機にある」宣言を出しました。ロベスピエールの活躍により国民は愛国心に燃え、革命は次の重大な局面に向かっていきます。
8月10日の革命…今までの革命の中途半端な成果に納得できない民衆は再び蜂起します。そして、彼らは王権の停止を要求し、それは実行されました。この蜂起は革命の大きな区切りとなりました。
9月虐殺…外敵や反革命派に対する恐怖から、民衆はパリの監獄を襲い、反革命派の疑いのある囚人を虐殺します。そして、その興奮の中、フランスはヨーロッパ随一の軍隊プロシア軍をヴァルミーで破ります。
i. 立法議会
一言で説明すると…1791年の憲法を基に新たしい議会「立法議会」が誕生しました。しかし、議会内外でそれぞれの思惑が交錯し、フランスは揺れつづけます。
立憲議会の終わり
立憲議会とは、三部会召集の時、第三身分を中心に作った国民議会のことです。国民議会は「憲法が制定されるまで決して解散しない」とテニスコートで誓ったように、憲法制定がその主な目的でしたから、「立憲議会」とも言われます。
1791年、フイヤン派を中心にして作られた憲法が可決されましたので、その責務は終わりました。9月30日、立憲議会は「国王万歳!」を繰り返し解散しました。
立憲議会の二年半でそれぞれの階級がそれぞれの考え方を固めました。具体的に見てみましょう
旧勢力(貴族、聖職者) 王に反抗して革命の原因を作ったものの、国王の存在が、自らの存在の大前提になることに気付き、絶対君主を望んだ。
ブルジョワ議会 自分達が新しい貴族になり、国王と共同で統治し、財産を増やすことを望んだ。
民主派 王制を廃止し、共和制を望んだ。
立法議会 Assemblee Legislative
立憲議会は会期の終わり、現職の議員は続く「立法議会」の議員にはなれないことを決定しました。これはバルナーヴを中心としたフイヤン派を抑えるためです。右翼もっと保守的な憲法を望み、ロベスピエールを中心とする左翼はもっと民主的な憲法を望み、両者で協力してフイヤン派を攻撃したからです。
したがって、立法議会の議員は全て新人です。しかも大多数が二十歳代の青年でした。全議員754人の構成を見てみましょう。
フイヤン派:264人
民主派(ジャコバン・クラブ、コルドリエ・クラブに属する):136人
その他不明(中間派):350人
ジャコバン派とジロンド派
立法議会の左派、ジャコバン派と一口で言っても、その内部は、ロベスピエール派とジロンド派とに分けられます。(このさまざまな「派」がフランス革命史の中でも複雑で難しいところですね)
ロベスピエール派(このことを通常、ジャコバン派と呼びます)
パリの下層民の中に根を下ろし、共和主義の実現を目指しました。ロベスピエール自身は立憲議会の議員だったので、立法議会の議員にはなれませんでしたが、ジャコバン・クラブを活動の拠点として議会や民衆に働きかけました。思想的にはルソーを目指しました。
ジロンド派 Girondins
ジロンド県出身者が多かったのでこう呼ばれますが、親英派のジャーナリスト、ブリッソーを中心としていたため、「ブリッソー派」とも呼ばれます。彼らは上流ブルジョワ出身者が多く、民衆のことはほとんど考えず、ひたすら自分達の階級の利益を追求していました。その結果、温和な共和主義を取りました。思想的にはヴォルテールや百科全書派を受け継ぎました。
この両派の対立は戦争の賛否によって深められていきます。この対立もフランス革命史の中では非常に興味深いものです。
国王の態度
1791年の憲法にのっとり、「国民の代表者」の国王は「フランスの王」から「フランス人の王」になりました。後に触れますが、表面的には議会を認めたものの、いくつかの重要な法令に拒否権を発動し、議会との対立を深めます。
その一方、裏の取引も行っていました。1791年4月、ミラボーが急死してから、パルナーヴ、デュポールなどの三頭派と秘密の取引をしていました。王と王妃(実際は王妃です)は三頭派の忠告を聞くふりをしながら、内心では憲法を認めませんでした。その上、王妃は愛人フェルセンを通じてヨーロッパ諸国に働きかけ、フランスに宣戦するよう依頼してました。
* *******************************
6.国王裁判
国民公会…革命の第二期を迎え、 国民公会が召集されました。ここで、ブルジョワジーを代表するジロンド派と、民衆を代表する山岳派が対立します。
国王裁判…ここでも山岳派とジロンド派の行き詰まる論戦が交わされます。結局、民衆を背景に持った山岳派の理論がルイ16世に死刑を宣告します。
i. 国民公会
一言で説明すると…革命の第二期を迎え、 国民公会が召集されました。ここで、ブルジョワジーを代表するジロンド派と、民衆を代表する山岳派が対立します。
国民公会召集 Convention
8月末から9月初めにかけて国民公会の選挙が行われてました。国民公会召集の日はおりしもヴァルミーの勝利の翌日の9月21日でした。
新しい議会ではジロンド派が多数を占め、議会の事務員、各種委員会などにジロンド派の議員を送り、失われつつある秩序を回復するための活動を開始しました。
国民公会では、旧制度や王制を復活されようとする極右も、極端に社会主義的な構造を望む極左もいませんでした。内訳としては、ジロンド派、山岳派のふたつの勢力と、そのどちらにも属すようで属さない、でも属しているような不明確な中間派とがありました。この中間派は平原派とか沼沢派とか言われていました。彼らは最初ジロンド派よりでしたので、ジロンド派は山岳派より優位に立つことができました
ジロンド派と山岳派
召集の翌日、国民公会は満場一致で「王制の廃止」と「共和国の宣言」をしました。しかし、国民公会の満場一致はこれが最初で最後でした。
ジロンド派と山岳派の内部抗争が日増しに激しさを増していきます。共に共和主義でありながら、このふたつの党派にはいったいどのような違いがあるのでしょうか。
党派 ジロンド派 山岳派
思想的背景 百科全書派 ルソー
合法?非合法? 合法主義で、非合法を嫌う。 革命派そもそも非合法である、と認識している(バスチーユ、8月10日など)。「革命なしに革命を望めない(ロベスピエール)」
パリのとらえ方 地方分権主義でパリに脅威を感じ、パリを他県と同じ勢力に抑えたい。 パリを指導的首都として、フランス統一の先頭に置く。
第一義に考えるもの 所有権の不可侵性と経済の自由。 生きる権利。
革命への姿勢 これ以上進めたくない。 もっと進めたい。
支持基盤 上層ブルジョワジー、地方の人々 民衆
指導者 ブリッソー ロベスピエール
主なメンバー ヴェルニヨ、ロラン、コンドルセ、ペチヨン、ビュゾー サン・ジュスト、マラー、ダントン、ビヨー・ヴァレンヌ、 コロー・デルボワ ルバ
* *****************************
7.ジロンド派没落
対外政策…ジロンド派主導による対外政策は、とにかく戦争に勝ちつづけることでした。 強気な態度はまさに敵を増やします。イギリスの首相ピットによる第一次対仏同盟が結成され、フランスは苦しい立場に追いやられました。
経済不安…イギリスとの戦争で輸入状況が悪化し、食糧不足は深刻になりました。インフレは収まるところを知らず、フランス経済は崩壊しました。
軍事問題…1793年のフランスを悩ましているのは経済問題だけではありません。国内ではヴァンデの反乱、国外ではデュムーリエの裏切り。内憂外患、四面楚歌の状況でジロンド派はますます苦境に追いやられていきます。
ジロンド派の終焉…国内外の政策がことごとく失敗に終わったジロンド派は6月2日、逮捕という形で政治の舞台から姿を消していきます。そして、次に台頭するのがロベスピエールを中心とした山岳派です。
i. 対外政策
一言で説明すると…ジロンド派主導による対外政策は、とにかく戦争に勝ちつづけることでした。 強気な態度はまさに敵を増やします。イギリスの首相ピットによる第一次対仏同盟が結成され、フランスは苦しい立場に追いやられました。
対外政策
対外政策の主導権はジロンド派が握りました。多少、時間的に前後しますが、いくつかの戦争結果を見てみましょう。
1792年9月20日 ヴァルミーでプロシア軍を破る
。
11月6日 デュムーリエの指揮でオーストリア軍を破る。これはヴァルミーの戦いとは違い、革命軍が正々堂々と戦いを挑んで勝利を収めた最初の戦いでした。
戦勝は続きます。しかし、占領地をどうするのかと言う問題が発生しました。
占領地の旧制度を破壊するのは異議がないものの、占領地の独立を認めるべきなのか、それともフランスに合併するべきなのでしょうか。
フランス軍の費用は誰が捻出するのでしょうか。フランスでしょうか、占領地でしょうか。
これらは、革命を他国にまで広げようとするときの自己矛盾です。一歩間違えれば征服戦争になってしまうからです。国民公会もこのことには神経を尖らせました。彼らは征服ではなく、講和を求めました。
講和の条件
講和の条件としてプロシアは
帝国領からフランス軍を撤退させること。
ルイ16世(処刑前の話です)とその家族の生命を保証すること。
オーストリアは
国王一家を釈放し、国境へ国王一家を送ってくること。
8月4日の封建制度廃止令によって侵害されたドイツの君主達にその損害の賠償をすること。
などを要求してきました。ジロンド派が本当に講和を望んでいたのならば、国民の利益のために裏切り者の国王を許す、という態度を取れたはずです。ポーランド問題に頭を痛めていた両国は、すぐ交渉に応じたに違いありませんが、ジロンド派は、そのような思いきった政策を出すことができませんでした。
それどころか、11月19日、「自由の回復を望む諸国民に友愛と平和を援助する」宣言をし、サヴォワの合併とベルギー征服への道を開いたのでした。
30万募兵法
1793年1月1日、国民公会は24名からなる国防委員会(後の公安委員会)を設置しました。行政権を強化するため、軍を統制することが重要な目的でした。しかし、軍の状態は芳しくありませんでした。給与が充分に与えられない兵士は、法律に基づきどんどん帰郷していました。1792年12月には40万の兵士がいましたが、1793年3月には22万8千人になっていました。
1793年2月24日、国民公会は兵士の不足を補うため、30万人募兵法を可決しました。しかし、思ったほど良質な兵士は集まりませんでした。(その理由を知りたい方はこちらへどうぞ)
第一次対仏同盟 the First Coalition
イギリスの首相ピットは、フランスがベルギーに侵入したのを見て、態度を硬化させました。さらにルイ16世の処刑はイギリスに参戦の口実を与え、フランス向けの商品輸出を停止しました。
1793年2月1日、国民公会はブリッソーの提案に基づいて、イギリスとオランダに宣戦布告をしました。
ついで3月7日、スペインにも宣戦布告しました。ローマ法王、ナポリ、トスカナ、ヴェネチアとも国交断絶し、フランスはスイスとスカンジナビア諸国を除いた全ヨーロッパと交戦さぜるを得ない状態になりました。まさに四面楚歌です。
フランスに敵対する諸国は、イギリスを中心に第一次対仏同盟を結成しました。対仏同盟は以後20年にわたって前後7回結成され、執拗に反仏活動を続けました。
* *********************************
8.恐怖政治
山岳派独裁…ジロンド派を倒した後、ロベスピエールを中心とする山岳派は一丸となって重大な危機に立ち向かいました。絶大な権力を掌握した公安委員会を中心に、恐怖政治が敷かれます。
新しい軍隊…公安委員会は軍隊を強化しました。イギリスやオーストリアなどの外敵も、ヴァンデの反乱などの内乱も鎮圧され、戦局上の危機は一応克服されました。
最高価格法…ジロンド派を追放した国民公会は、民衆の強い要求に応えて、全ての商品価格を公定する「全最高価格法」を採用しました。これにより経済は一時的に安定しました。
革命暦と理性の祭典…キリスト教を破棄するために、「革命暦」を取り入れ、「理性の祭典」が催されました。
恐怖政治の恐怖…恐怖政治下ではどのような恐怖が行われていたのでしょうか。多くの人々の命が消えていきましたが、そのほとんどはパリ以外の地方で行われていたのです。
i. 山岳派独裁
一言で説明すると…ジロンド派を倒した後、ロベスピエールを中心とする山岳派は一丸となって重大な危機に立ち向かいました。絶大な権力を掌握した公安委員会を中心に、恐怖政治が敷かれます。
ブルジョワ勢力であるジロンド派に勝利した山岳派は、ジロンド派の失政による危機から共和国を救わなければなりませんでした。その危機に立ち向かうためには、通常の状態では切りぬけることができません。彼らが選択したのは、いわゆる「恐怖政治」でした。そして、その実行を民衆も認めたのでした。
内外の危機
1793年6月のジロンド派追放の前後、次々と事件が起こり、共和国は数々の打撃を受けました。
内乱
・ジロンド派が地方に散り、反ジャコバン派(連邦主義者)の反乱を煽動しました。リヨンが蜂起し続いてマルセイユ、ボルドー地方で反乱が起こりました。
・ヴァンデの反徒達がカトリック・王軍となって恐るべき勢いをつけていました。
対外情勢
・ツーロンはイギリスの手に渡りました。
・南部ではスペイン軍、サルジニア軍の侵入の脅威を受けていました。
・東部及び北部国境地方では、プロシア軍とイギリス軍に侵入されていました。
パリ
食糧暴動が起こりました。
1793年の憲法
国民公会は連邦主義に反対して「単一で不可分の共和国」を作るため、民主主義的な改革を急いでいました。
ジロンド派追放から間もなく、エロー・ド・セシェルの手で作成された1793年の憲法は国民投票で圧倒的多数の作成を得て成立しました。この憲法はジャコバン憲法とも呼ばれ、山岳派の理想が随所に見られます。
しかしながら、「フランスの臨時行政府は平和到来まで革命的である」と宣言した10月10日の法令によって棚上げされ、ついに日の目を見ることはありませんでした。民主主義の理想的な憲法でありながら、採用されなかったためにかえって有名になったのです。
マラー暗殺
7月13日、地方に逃げたジロンド派に影響された若い女性シャルロット・コルデーが、山岳派の英雄マラーを浴室で暗殺しました。
マラーの殉死はパリ中を驚かせました。民衆の怒りにより、山岳派はますます「恐怖政治」を強いられるようになりました。公安委員会が強化され、マリー・アントワネットの裁判をし、ヴァンデの反乱とリヨンの反乱の鎮圧し、イギリスの首相ピットは「人類の敵」と断言されました。
公安委員会 Comite de Salut Public
構成
新設された時(4月6日)は提案者のダントンを筆頭に9人のメンバーで構成されており、原則的には1ヶ月が任期でした。内外の情勢が緊迫したことに伴い、次第に革命に消極的になってきたダントンが排除され、7月にはロベスピエールが加わりました。結局メンバーは12名となり、彼らは何度も再任され、ロベスピエールの失脚までメンバーが変わることはありませんでした。
役割
一般通信、対外問題、戦争、海上、国内、陳情など、恐怖政治の主要機関で頭脳の役割を果たすようになりました。
構成員
右派:ロベール・ランデ、カルノー、ブリウール・ド・ラ・コート・バール
中央 :エロー・ド・セシェル、バレール
左派 :ロベスピエール、サン・ジュスト、クートン、ブリウール・ド・ラ・マルヌ、ジャンボン・サン・タンドレ
極左 :ビョー・ヴァレンヌ、コロー・デルボワ
一枚岩のような働きをした公安委員会のメンバーですが、12人の意見が必ずしも一致していたわけではありません。革命が直面していた重大な危機のために、内部分裂を起こしませんでした。そのようなことをしたら、革命そのものが破滅してしまうからです。危機を乗り越えるために一致団結し、革命の危機を乗り越えることができました。しかし、危機を乗り越えた時、公安委員会が分裂し、崩壊し、革命そのものが終局を迎えることになったのです。
保安委員会
役割
設置されたのは公安委員会より古く(1792年10月17日)、警察及び国内の治安を管轄します。しかし、「保安委員会のメンバーは、公安委員会の提議に基づき、国民公会によって任命される」と布告された(1793年9月13日)ことから、保安委員会と公安委員会の不和が始まりました。両委員会の不和は山岳派独裁を崩壊させる一因ともなりました。
革命裁判所 Tribunal revolutionnaire
役割
4つのセクションに分かれます。恐怖政治の裁判所で、陪審員制度はなく、評決には上訴することができませんでした。 もっと詳しく
恐怖政治 Terreur
恐怖政治とは一言で言いきってしまうと、公安委員会12人の独裁政治のことです。
公安委員会の独裁は次のような経緯を経て強化されていきました。
1793年9月14日
公安委員会は、保安委員会を含む他の全ての常任委員会のメンバー・リストを国民公会に提出することを決定。
10月10日
国民総動員と連邦主義者打倒を進めるために、サン・ジュストの報告に基づき「フランス政府は、平和が到来するまで革命的である」と宣言した法令を採択。この中で、戦時非常処置を行う権限を公安委員会に委ねる。これ以後、処刑される者の数が急増。
12月4日
国家機構の中での公安委員会の優越性と法律の迅速な執行(「機敏で強力な政治」機構)を規定する法律を採択。サン・ジュストはこの法律を「政府自体が革命的に構成されなければ、革命的な法律は実施されない」と言って支持。
国民公会は厳粛に公安委員会を信任し、その独裁を認めました。
そして、忘れてならないことは、民衆も公安委員会の独裁とそれに伴う「恐怖政治」を認めたのです。
←←概略の目次へ ←i.山岳派独裁へ ii.新しい軍隊へ→
iii.最高価格法へ→
iv.革命暦と理性の祭典へ→
v.恐怖政治の恐怖へ→
* ********************************
9.テルミドール九日
山岳派の内部闘争…内外の危機をひとまず脱却したあと、ロベスピエール派は、ダントンを中心とする「寛容派」とエベールを中心とする「過激派」の二派と対立しました。
ロベスピエール独裁…「寛容派」と「過激派」を倒した後、内部に多くの矛盾を抱えながらロベスピエールの独裁が始まります。「最高存在の祭典」の中でその権力は最高点に達しました。
公安委員会分裂…公安委員会もロベスピエールの独裁に対立しました。そんな中、ロベスピエールは自ら墓穴を掘るようなことをしてしまい、「運命の日」がやってきました。
運命の日…テルミドール九日。ロベスピエール派の最後の説得も空しく、共和国樹立に命を賭けた真の政治家達が文字通り、自由のために非業の死を遂げました。
凍てついた革命…ここでは歴史的事実の説明ではなく、「恐怖政治」、「ロベスピエール」についての私見を述べています。
i. 山岳派の内部闘争
一言で説明すると…内外の危機をひとまず脱却したあと、ロベスピエール派は、ダントンを中心とする「寛容派」とエベールを中心とする「過激派」の二派と対立しました。
危機の始まり
公安委員会は、「恐怖政治」、「国民総動員令」、「経済統制」によって、内外の危機をひとまず切り抜けることができました。しかし、皮肉なことに危機の克服こそが、彼ら自身の危機の始まりだったのです。
人々の共通の危機感が薄らでいったとき、ダントンらが恐怖政治を軽減しようとしたのは、彼自身が安楽な生活を求めたからばかりとは言えません。戦勝は人々の緊張をやわらげ、恐怖政治の継続に疑問を持たせました。山岳派内部の分裂が始まりました。
しかし、恐怖政治は強化されていきました。
インド会社事件
1793年8月24日、一切の株式会社が禁止されました。それに伴い、植民地の貿易会社であるインド会社も解散することになり、その清算をめぐってファーブル・デグランティーヌ、シャボーなどの山岳派の幹部が50万リーブルを不正に受け取りました。それをインド会社事件と言います。彼らは「恐怖政治」を転覆させ、ブルジョワジーにもっと都合のいい社会を作ろうとしたのでした。その罪を問われて彼らは1月13日に逮捕されました。
また、この事件にはダントンも深く関わっていると言われています。
派 閥
内部分裂はロベスピエール、サン・ジュスト、クートンの「三頭政治」と、次の2派の闘いという形を取りました。
名 称 「寛容派」 「過激派」(あるいは「急進派」)
左 右 右 派/腐敗 左 派/暴力
政 策 諸外国と妥協する。礼拝の自由を主張。実業界とのつながりを持つ。恐怖政治を終わらせたい。 キリスト教を排除する。もっと革命を進める。食糧暴動を起こす。
支持基盤 ブルジョワジー 民衆、サン・キュロット
中心人物 ダントン エベール
主要人物 カミーユ・デムーラン、ファーブル・デグランティーヌ、シャボー モモロ、ロンサン
エベール派の一掃
3月17日、国民公会でサン・ジュストが言いました。
「悪徳に対して戦え!」
それを合図にしてエベール派の指導者は「市民を腐敗させる計画」を持っているという理由で逮捕され、10日後、処刑されました。
寛容派の没落
ロベスピエールは、革命を共に戦ったダントンを処刑することにずいぶん悩みましたが、とうとう、汚職まみれで革命に情熱を失った彼を断罪することを決意しました。
3月30日、ダントンは、やはりロベスピエールの友人でもあるカミーユ・デムーランその他と共に逮捕されました。
しかし、ダントンは屈強な人間でした。彼は法廷で熱弁をふるいました。彼の雄弁に圧倒された判事は無罪にしようかと思いましたが、結局、4月5日、処刑されました。
* *******************************
10.ブルジョワ共和国
テルミドール派の支配…ロベスピエールらを倒した後、テルミドール派と呼ばれる上層ブルジョワジーが国民公会を支配しました。彼らはブルジョワに都合のいい国家を作ろうとしました。
物価狂乱…パリは革命勃発以来最大の食糧危機に見舞われ、再び民衆が蜂起します。しかし、政府軍によって二度とも鎮圧されました。これ以降、革命は民衆の手を離れ、ブルジョワの利益のみを追求するようになったのです。
共和国3年(1795年)の憲法…左翼を弾圧したテルミドール政府は、力を増してきた右派から身を守るため、新しい憲法を発令しました。それは、民主主義と独裁を封じ込め、ブルジョワ支配を確立するものでした。
ヴァンデミエールの反乱…不安定な政権の元で作られた1795年の憲法は、非合法な軍事行動を正当化することになりました。それは、不世出の天才ナポレオン・ボナパルトの独裁の道に通じていたのです。
i. テルミドール派の支配
一言で説明すると…ロベスピエールらを倒した後、テルミドール派と呼ばれる上層ブルジョワジーが国民公会を支配しました。彼らはブルジョワに都合のいい国家を作ろうとしました。
テルミドール派 Thermidoriens
国民公会での主導権は「平原派」と呼ばれた共和主義的なブルジョワ勢力が握りました。山岳派のテロリストと穏和なブルジョワ派が結びついたこの一派を「テルミドール派」と言います。主なメンバーは、ロベスピエールを恐れていたタリヤン、パラス、ボワシー・ダングラなどです。
有名な歴史家のマチエはテルミドール派をこのように評しました。
「政治家が政治屋に取って代わられた。国家的人物は全て死亡した。後継者達は掴み合いをしながら、自分のちっぽけな企業を成功させるために、必要とあらば国家を犠牲としようとしていた」
まさにその通りです。彼らがまずやったことは、自分達の「財産」をしっかりと確保することでした。そのためには、
公安委員会の権限の大幅な縮小
革命裁判所の組織替え
宗教の自由の復活
経済統制の緩和
ジャコバン派の弾圧
を行いました。まさに、ロベスピエールの政策に対する「反動」です。
しかし、彼らは国王の処刑に賛成した過去を持ちます。反動が行きすぎて王党派が台頭すると身の破滅です。また、ロベスピエール派を倒したことため、ジャコバン・クラブに頼ることもできませんでした。結局、テルミドール派が頼るのは、企業家、投資家、軍のご用商人など革命と戦争から最大の利益を引き出して支配階級に成り上った新興ブルジョワだけでした。
公安委員会の権限縮小
国民公会はロベスピエールらを処刑した次の日(7月29日)、公安委員会に対し次のことを可決しました。
毎月四分の一ずつ委員が交替する。
やめた委員は一ヶ月後でなければ再選され得ない。
権限を戦争と外交に限定する。
上記1と2は全ての委員会にも当てはまります。これにより、権力の集中、独裁の可能性を封殺しましたが、政治は不安定なものとなりました。
革命裁判所の組織替え
8月1日には、恐怖政治を緩和するために、ロベスピエールが制定したプレリアル22日の法令(裁判を迅速にするために弁護人を廃止することを定めた)を廃止しました。
8月10日には革命裁判所の組織替えを行い、役人や判事は免職になり、人々を震え上がらせた検察官フーキエ・タンヴィルは逮捕処刑されました。
パリは踊る
「洒落者、伊達女」
「反動」は政治だけではありません。恐怖政治の元で投獄されていた容疑者が釈放されました。
街頭では、ミュスカダン(洒落者)とメルヴェイユーズ(伊達女)などと呼ばれる異様な格好をした若者達が現れました。男性は髪を後ろへ耳まで伸ばし先をカールし長いコートを着て長いつばのある帽子をかぶります。彼らは「執行権」と呼ばれる棍棒を持って、サン・キュロットを見るとそれで乱暴しました。
女性の服装も一気に開放され、シースルーが流行しました。劇場や社交界も再開され、「テルミドールの聖母」と言われたタリアン夫人 (テレーズ・カバリュス)が社交界の花形になりました。 当時の流行はこちら→
貧乏人が軽蔑され、お金持ちが肩で風を切る時代になったのです。
ジャコバン派の弾圧
しばらくの間、ジャコバン・クラブは以前一番大きなクラブとして活躍していましたが、政府はジャコバン派を「吸血鬼」「無政府主義者」などと非難し、過去のあらゆる紛争はジャコバン・クラブの責任とされました。
また、ブルジョワの子弟で作られた「金ぴか青年隊(ジュネス・ドレ)」や「伊達男」達がタリアン、フロレン等に率いられ、我が物顔に横行し、ジャコバン派に制裁を加えました。彼らとサン・キュロットとの争いがパリのあちらこちらで見られました。(白色テロ)
11月にはパリのジャコバン・クラブが閉鎖されました。マラーの半身像はこなごなに壊され、パンテオンから取り除かれました。
* ********************************
11.総裁政府
総裁政府…総裁政府が発足しました。彼らは下落しきったアッシニアの発行を止め、土地証券を発行することによって経済の建直しを図りましたが、うまく行かず、経済はますます混乱しました。
バブーフの陰謀…革命から忘れ去れらていた「平等」を勝ち取るため、バブーフらは反乱を企てました。しかし、実行に移す前夜、政府の放っていたスパイにより、全ての計画が暴露され、全ての計画は水泡に帰しました。
イタリアのナポレオン…ヴァンデミエールの反乱を鎮圧したナポレオンが、オーストリア攻撃作戦でイタリア方面を担当する総指揮官になりました。総裁政府の命令を無視しながらも、勝利を重ね、ついにはカンポ・フォルミオ条約を結び、オーストリアと講和します。
フリュクチドールのクーデター…ナポレオンがイタリアに遠征している間、国内では王党派のまき返しが始まろうとしていました。右翼の力を抑えるため、総裁のバラスはまたしても軍事力を使って、フリュクチドールのクーデターを成功させました。
i. 総裁政府
一言で説明すると…総裁政府が発足しました。彼らは下落しきったアッシニアの発行を止め、土地証券を発行することによって経済の建直しを図りましたが、うまく行かず、経済はますます混乱しました。
総裁政府 Directoire
ヴァンデミエールの反乱の3週間後の1795年10月26日に国民公会は解散し、新しい憲法に基づいて新しい政府が発足しました。それがディレクトワールと呼ばれる「総裁政府」です。
この「総裁政府」は、最初から不安定で、テルミドール派の国民公会から引き継いだ破壊状態の国庫と経済をどうするのかが最大の課題でした。
ナポレオンが支配するまでの四年間、この総裁政府がフランスを掌握しました。この政府の弱体振りをみれば、四年間もよく維持できたと感心するくらいです。新政府の政治思想は、「白い帽子をつけず(王党派に傾かず)、赤い帽子もかぶらない(民主主義にも傾かない)」という中道政治でした。
この政治理念を貫こうとした総裁政府は、右(王党派)と左(民主派)から迫る脅威を取り除くために、絶えずクーデターに頼らざるを得ませんでした。最後のクーデターが「ブリュメール十八日のクーデター」で、権力をナポレオンに手渡すことになります。
総裁政府のメンバー
三分の二法に基づいて選挙が行われたので、新しい立法府である五百人会議でも元老会議でも、国民公会の前議員が多数派を形成しました。
新しく総裁に選ばれた五人のメンバーは、バラスを除けば、いずれもブルジョワ出身で熱烈な愛国者でまじめな共和主義者でした。しかも、全員が国王裁判で有罪に投票した弑逆者でした。
バラス…最少得票で選ばれたが、ヴァンデミエールのクーデターで国民公会の軍隊を指揮し、総裁政府時代を通じてナンバーワンを維持した。
ルーベル…「自然の国境」政策の熱烈な擁護者で弁護士。バラスに続くナンバーツーで御用商人との結びつきが強い。
カルノー…旧公安委員で軍事上の問題一般を指導。ナンバー・スリー。(シエイエスが辞退したのでその後任)。
元老会議の議事風景
ルトゥルヌール…技術士官出身
ラ・レヴェリエール・レポ…最多得票で選ばれた議員
また、当時の主な大臣は次の3人です。
外務大臣…ドラクロワ
司法大臣…メルラン・ド・ドゥエ
財務大臣…ラメル
内務大臣…フランソワ・ド・ヌーシャトー
こちらに総裁政府の図があります→
総裁政府の衣装
総裁の衣装
五人の総裁は、「総裁政府」という新政府の威光を示すためにかなり派手な衣装を身に着けました。
金で刺繍をしたオレンジ色と赤色の外套。ぴったりと身体にあった上着。白い絹のズボン。十字に佩びた剣、三色の羽毛の付いた帽子。
目がちかちかしてしまいそうですが、ブルジョワ的虚栄心や過去の貴族を模倣したわけではないのです。当初から弱体であった政府を少しでも立派に見せようと、彼らなりに工夫したのでした。 衣装についてもう少し詳しく知りたい方はこちら→
ちなみにこの頃の風俗は乱れていたと言われていますが、実際には社会の上層部のみが腐敗しているだけで、誠実な共和主義者たちはこのような紊乱は旧体制を思い出させるものと嫌悪していたようです。政府内で放恣な社交界の仲間入りをしていたのは、元子爵のバラスと元司教のタレーランの二人だけでした。
崩壊した財政
財政は崩壊状態でした。アッシニアの減価はもはや救いようがありません。総裁政府が成立した1795年10月27日、アッシニア紙幣2000フランに値したルイ金貨は、11日後には3000フランになり、四ヶ月後には7000フランに上昇するという狂乱振りでした。
1795年12月23日、アッシニアは発効禁止になりました。
マンダー・テリトリアル(土地証券)
1796年3月、財務大臣ラメルはアッシニアの回収を図り、マンダー・テリトリアルという土地証券を発行することにしました。アッシニアは1対30の割合でマンダーと交換されることになったのです。
この割合でいけば、今流通しているアッシニアはマンダーで8億になるはずでした。しかし、マンダーに対する信用は初めからありませんでした。発効の日である4月11日でさえ、既に額面価格の82%しか信用されていませんでした。9月までに発行額は当初の予定8億を大きく上回り24億に達し、その信用度は5%に下落してしまいました。
* ************************************
12.革命は終わった
フロレアル22日のクーデター…フリュクチドールのクーデターで王党派ら右翼勢力を一掃した総裁政府は、その反動として力をつけてきた左翼の弾圧を図ります。フロレアルのクーデターで議会から左翼も追い出した政府には奇妙な安定が生まれ、その間に経済や産業の建直しに取りかかります。
エジプト遠征と第2次対仏同盟…大陸内で勢力を拡大したフランスは次は打倒イギリスを目指し、ナポレオンはエジプトに進出します。しかし、そこでもイギリスに敗れ、退路を絶たれたナポレオンは滞在を余儀なくされます。また、これにより、大陸における反仏が復活し、イギリスを中心に「第2次対仏同盟」が結成されます。
プレリアル30日のクーデター…数々のクーデターで疲弊していた政府は、新しく総裁になったシエイエスを中心に、最後の手段に訴える決意をしました。つまり、最も人気のある軍人ナポレオンと同盟して、ブルジョワ共和国を維持しようとしたのです。
ブリュメール18日のクーデター…ナポレオンはかねてからの計画どおり、五百人会議と元老会議とを説得しようとしましたが、両院は荒れて反対にナポレオンが告発されかねない状況でした。弟リュシアンの冷静で機敏な行動が彼を救います。リュシアンは軍隊を動かして両院をあっさり制しました。
共和国8年の憲法…
i. フロレアル22日のクーデター
一言で説明すると…フリュクチドールのクーデターで王党派ら右翼勢力を一掃した総裁政府は、その反動として力をつけてきた左翼の弾圧を図ります。フロレアルのクーデターで議会から左翼も追い出した政府には奇妙な安定が生まれ、その間に経済や産業の建直しに取りかかります。
乾いたギロチン
フリュクチドールのクーデターの後から1799年までを「第二次総裁政府」の時期と呼びますが、この間、政府はますます権威主義的になりました。1795年の自由主義的な憲法は維持されましたが、政府は常に「例外措置」を取ることて生き延びました。
例えば、出版物に対する検閲は行われませんでしたが、多くの新聞が発行禁止となりましたので、出版の自由はありませんでした。
断頭台による処刑はありませんでしたが、「乾いたギロチン」としてのギアナ流刑は頻繁に行われました。むき出しのテロリズムに代わって、警察的、行政的な取締りが強化されたのです。
フロレアル二十二日のクーデター Cout d'Etat du 22 Floreal
政府がフリュクチドールのクーデターで王党派を弾圧した後、左翼の「新ジャコバン派」の活動が活発になりました。
1798年4月の選挙では保守派の人達が投票を差し控えたため、ジャコバン派が大幅に票を伸ばしました。その勢力が非常に大きかったので、驚いた総裁政府はフロレアル二十二日(1798年5月11日)、当選した437名中106名の議員の当選を「過激派」という口実で無効にしました。これを「フロレアル二十二日のクーデター」と言います。
このクーデターは今までのクーデターのように軍隊に依存はしませんでした。認定議員数を決める特別法によって、合法的に行われたクーデターです。政府が選挙の結果を無効にする、という暴挙を取ったのは、フリュクチドールのクーデター以来二度目のことでした。
1798年の改革
フリュクチドールのクーデターでは右翼を、フロレアルのクーデターでは左翼を粛清した政府には反対者がいなくなり、ある種の安定を見出すことができました。
このような均衡の中で、財務大臣のラメルと内務大臣のフランソワ・ド・ヌーシャトーの二人は、フランスの経済の再編成と産業の振興に手をつけました。
債務支払い…累積した債務の支払いのために、負債の三分の一を凍結し、残りの三分の二に対しては国庫証券を発行し、負担の軽減を図った。(ラメル)
税制改革…地租や動産税などの直接税、煙草税、通行税、入市税などの間接税を整備し、増税に努めた。(ラメル)
産業博覧会…シャン・ド・マルスで開催し、大きな成功を収めた。(ヌーシャトー)
人口調査、農業調査…初めての秩序だった調査が行われた。(ヌーシャトー)
学校の創設…中央学校を増やし、国民教育上級会議が創設された。(ヌーシャトー)
いずれもそれなりの成功を収め、今日まで効力をとどめています。
これはおまけです。
マリー・アントワネットの事に付いて抜粋して置きます
大好きなマリー・アントワネットのほろっとさせる話、情けない話など盛りだくさん(の予定)
「ヨーロッパのファースト・レディ」 (H11.8.27.UP)
「モーツァルトがプロポーズ」 (H11.6.2.UP)
「赤字夫人」 (H11.1.26.UP)
マリー・アントワネットとお風呂
マリー・アントワネットを支えた二人の女性
「パンがないのならお菓子をあげたら?」
ヨーロッパのファースト・レディ (H11.8.27.UP)
当時のフランスといえば、イギリスという目の上のたんこぶがあるにしろ、文化的にも経済的にもヨーロッパ一の大国でした。そのフランスの王妃といえば、フランスのファースト・レディと言うよりは、むしろヨーロッパのファースト・レディと言ってもいいくらいでした。
マリー・アントワネットはそのファースト・レディにふさわしい女性でした。美人だしスタイル抜群だし、ファッションセンスはいいし、ダンスは見事だし、とにかく宮廷の華やかな世界にまさにぴったりの女性でした。
ところが、意外なことに、王妃もしくは王太子妃がファースト・レディになったのは本当に久しぶりのことだったのです。マリー・アントワネットの前はデュ・バリー夫人でした。その前はポンパドール夫人です。ポンパドール夫人の前は、普通ならばルイ15世の妃マリー・レクザンスカがその位置に収まるはずでしたが、彼女は優雅とはほど遠い女性でした。ポンパドール夫人からデュ・バリー夫人に移る間も本来ならば、ルイ15世の息子の妻、すなわちルイ16世の母である王太子妃がファースト・レディになるはずですが、彼女もやはり宮廷に君臨するタイプではありませんでした。
早い話、フランスのファースト・レディの座はずっと寵姫が占めていたのです。ですから、ハプスブルク家の大公女と言う高貴な家の生まれであるマリー・アントワネットがファースト・レディになったとき、彼女自身の魅力とあいあまって、非常な人気を博しました。
おまけに、妻以外の女性には見向きもしないルイ16世は寵姫など作りませんでしたから、ファースト・レディの座は安泰でした。しかも、妻の言うことならば何でも聞いてしまう夫には、妻の暴走を止めることができません。もうフランスはマリー・アントワネットのために存在するようなものでした。
さて、寵姫というのは言うまでもなく、不道徳な存在でしかも市民の血税を浪費しており、宮廷でちやほやされてはいても民間では嫌われていました。逆にいえば、宮廷の悪口を一手に引き受け、王妃や王太子妃が民衆から嫌われることを防いでいたようなものです(尤も防いでくれなくても、彼女達は地味でしたからそれほど嫌われなかったでしょうが…)。
マリー・アントワネットは革命が近づくにつれて国民から集中的に嫌われるようになりました。これは彼女の不徳のいたすところであるのは間違いありませんが、寵姫という不道徳な存在がいれば、国民の憎悪はもっと分散されたことでしょう。
モーツァルトがプロポーズ (H11.6.2.UP)
お嫁入り前のアントニア
これは有名なお話ですから、ご存知の方もたくさんいらっしゃるでしょう。
天才少年モーツァルトは幼い頃からヨーロッパ中を演奏旅行していました。1762年10月6日、6歳の時、彼は両親と姉と召使と一緒にウィーンに行き、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアに謁見を賜り、女帝、夫君フランツ一世、マリア・アントニア(マリー・アントワネットのドイツ名)の前で御前演奏をしました。
音楽をこよなく愛する両陛下はモーツァルトと姉の幼い姉弟の才能に感嘆したのは言うまでもありません。モーツァルトも演奏が成功したことに喜んで、女帝の膝の上に跳び乗り、その頬にキスをしたと言われています。
また、モーツァルトが宮殿の床に滑って転んだ時、あと何日かで7歳になる(したがって、まだ同い年の)マリア・アントニアが駆け寄って助け起こしてくれました。すると、モーツァルトは喜んでこう言ったそうです。
「あなたはいい人だ。大きくなったらお嫁さんにしてあげる」
こういう言葉が咄嗟に出るということは、早熟の天才モーツァルトはやっぱりおませだったということでしょうか。でも、転んでしまってものすごく恥ずかしい思いをしていたに違いない時に、さっと助けてくれたのがとてもきれいな王女さまだったのですから、感激もひとしおだったことでしょう。
マリー・アントワネットはモーツァルトの死の2年後に断頭台の露と消えることになりました。
フランス革命史の中には思いもかけない人間同志の邂逅があります。これもそのひとつですが、お互いの人生に大した影響を与え合わなかっただけに、微笑ましいエピソードとして残ります。これ以外にも徐々にご紹介する予定ですが、例えば、ルイ16世とロベスピエール(これも有名ですね)、デュ・バリー夫人と処刑人サンソンなどいくつかあります。この人達は、お互いの生死に深く関わっているので、マリー・アントワネットとモーツァルトのエピソードのように「かわいいこと!」ではすまされません
「赤字夫人」 (H11.1.26.UP)
マリー・アントワネットと言えば、とにかく国庫を湯水のごとく使った、というのが一般的なイメージでしょう。確かに、その使い方は尋常ではなく、義弟のアルトワ伯から「赤字夫人」などと言う不名誉なあだ名までもらってしまいました。
しかしながら、フランス国庫はマリー・アントワネットひとりの浪費などで揺らぐものではありません。個人の浪費などたかが知れている、というものです。フランスが破産寸前になった一番の原因は戦争に次ぐ戦争でした。王室が使った出費は国庫の10%にも満たないそうです。(それでけでも充分すぎるかもしれませんが)
ちなみに「赤字夫人」の浪費振りをちょっと見てみましょう。
「衣装代」 何と言っても一番目立ちますね、これが。1年に170着以上のドレスを着ていたそうですから、相当なものでしょう。王妃の衣装代として決められていた枠を大きく超え、その贅沢振りは何かと非難されていました。しかし、王妃の衣装代の枠は50年以上も前に決められていた額で(今で考えれば、戦後間もなく決められた額)、しかも、マリー・アントワネットの時代にはインフレのため貨幣価値が大幅に下がってしましたから、「枠」で云々するのは気の毒でしょう。しかも、衣装代のほとんどはお抱えデザイナー、ベルタン嬢のピンはね分ですから。(このことは項を改めて書きます)
「建築費」 贅沢をするにはこれが一番。バイエルンのルートヴィヒ二世もお城を作りすぎて国庫を危機にさらしました。でも、マリー・アントワネットは「プチ・トレアノン」と言う小さな離宮をもらってそれを改修しただけです。とは言うものの、「ルイ16世様式(実際はマリー・アントワネット様式ですね)」に統一し、お金に糸目をつけずに改修したのでかなりの金額でした。
「賭博」 これも浪費するにはもってこいですね。マリー・アントワネットはトランプ賭博が大好きでした。しかも、人のいい彼女はどうやらいかさまにひっかかってばかりいたそうです。国から支給される王妃用の手当てまですっかり使い尽くし、挙句の果てに国王が自分の財産から支払ってあげました。これはちょっと(かなり)問題ありです。
「取り巻き費」 悪名高いポリニャク夫人をはじめ多くの取り巻きとその一族郎党に無用の官位をあげたり、年金をあげたり、国庫を圧迫しました。でも、そうまでして大切にしてあげた取り巻きなのに、バスチーユ襲撃の時、みんないっせいに亡命してしまいました。
以上が主な浪費です。とにかく彼女の浪費は目立つものばかりですから、中傷するには好都合と言うものです。
このような浪費は弁解の余地のないものですが、ほんの少しだけ弁護すれば、ルイ16世との夫婦関係があげられます。これも有名な話ですが、ルイ16世の身体的欠陥から二人は長いこと夫婦としての結びつきがなかったそうです。しかも、夫は簡単な外科手術で治る、と言われているのに、手術を恐れて何もしようとはしないし、マリー・アントワネットがこのことでずいぶん苦しんだことは間違いのないことでしょう。そのやり場のない寂しさをその場しのぎの遊興で紛らわせたのだ、というのが通説になってます。
でも、それにしても、です。王妃なんですから、気晴らしの程度と言うものもあるでしょう。確かに、どうしても皇太子を生まなければならないという立場もありますし、夫婦の秘密をあのデュ・バリー夫人に宮廷中に広められた、という悔しさもあるでしょうが、いろいろ弁護しても、結局、王妃としての自覚がまるでなく、人を見る目がまるでなく、その場が楽しければいいという軽佻浮薄な性質がいけないのです。
ちなみに、マリー・アントワネットの浪費は初めての子供(王女)が生まれてからぴたっとなくなったそうです。
マリー・アントワネットとお風呂
ヴェルサイユには浴室がありませんでしたが、オーストリア育ちのマリー・アントワネットはお風呂が好きでした。
お風呂に入る日の朝、王妃の部屋にスリッパ型のお風呂が運び込まれ、イギリス製のガウンをまとい、ボタンを下まで付けてお湯につかります。もちろん、王妃の寝室にお風呂が運ばれるわけですから、思いっきりよく石鹸をつけて身体をごしごし洗う、などということはできません。品良く座るのです。
そして、食事を載せたお盆をお風呂の蓋の上に置いて、朝食を取ります。朝食は、生クリームを入れたホットチョコレート(私も好き!!)、もしくはコーヒーとクロワッサンという実に簡素なものでした。
さて、お風呂から上がるときは、女官頭が他の女官たちの目から王妃の身体を隠すようにして大きな布を掲げ、それを王妃の肩に掛けます。ついで、他の女官がその布で王妃を包み、水気をすっかりふき取ります。それから白いベッド用ガウンをまとい、レースで縁取りしたスリッパを履きます。その間に別の女官がベッドを温めておき、そこへ着替えの済んだ王妃を移すというわけです。
この間、王妃がすることといったら朝食を取ることくらいで、後はゆっくりお湯に浸かっているか、立っているだけでいいのです。何から何まで女官達が世話をしてくれますから、ずいぶん楽ちんなことでしょう。
私達の感覚からすれば、こんなのは入浴とは言いがたいのですが、入浴の習慣そのものがなかった当時からすればきわめて異例なことでした。もし、マリー・アントワネットが日本人だったら間違いなく温泉めぐりをしたことでしょう。
マリー・アントワネットを支えた二人の女性
フランス王妃と言えば、フランスばかりではなく全ヨーロッパのファースト・レディと言っても過言ではありません。革命前のマリー・アントワネットには崇拝者や追従者が掃いて捨てるほどいて、日夜遊びのお相手をしてくれました。
しかし、革命が勃発すると、それらの人々は掌を返すようにマリー・アントワネットの前からいつのまにか姿を消していったのです。一人ぼっちになった彼女を、恋人のフェルセンが支えたのは有名な話ですが、フェルセンよりも身近で彼女の心の支えになってくれた女性がいます。ランバル侯爵夫人と国王の妹エリザベートです。
ランバル侯爵夫人は、革命が始まる前、マリー・アントワネットから離れていた時期もありましたが、革命が勃発し友人と称していた人々が忽然といなくなった時、ひとり果敢にもテュイルリー宮殿に舞い戻りました。その上、危険を顧みず、自分の部屋をマリー・アントワネットと国王支持派の人々が密かに会う場所として提供し、王妃を支え続けました。でも、8月10日、テュイルリー宮殿に侵入してきた民衆は王妃をタンプル塔へ、ランバル侯爵夫人をフォルス牢獄へ収容しました。
そして、数週間後に起きた「9月虐殺」。民衆はランバル侯爵夫人を殺害し、死体を汚し、その首を王妃が収容されているタンプル塔の窓辺に置きました。それまでずっと気を強く持っていた王妃でしたが、その変わり果てた姿を見て失神してしまいました。
革命が勃発した時、彼女はなぜマリー・アントワネットの元に戻ってきたのでしょうか。そのまま安全な場所にいつづければこんなに惨い殺され方をしなかったのです。王妃に対する忠誠でしょうか。心から王妃を愛していたのでしょう。
もう一人の女性、エリザベート王妹は、それこそ王妃の生涯で一番身近にいた女性です。ヴァレンヌの逃亡でも一緒でしたし、1792年6月20日、民衆がテュイルリー宮殿に押し入ってきたときは、王妃になりすまし、人々のののしりをじっと耐えてくれたのも彼女です。タンプル塔でもずっと一緒に過ごし、国王の処刑のときも、王子ルイ17世から引き離されるときも、王妃を支え続けました。
そして、マリー・アントワネットが処刑の前日、「妹よ、あなたにこそ、これを最後と手紙を書きます」と言う出だしで始まる遺書を書いた相手こそ、まさにエリザベート王妹だったのです。王妃がどれだけ信頼していたのかわかるでしょう。
その後、王妹は王妃の代わりにマリー・テレーズ王女とタンプル塔で過ごしましたが、その7カ月後1794年5月9日、兄ルイ16世と兄嫁マリー・アントワネットの後を追うように処刑されました。
なぜ、エリザベート王妹が処刑されなければならなかったのか不思議です。彼女には国王夫婦と違って何の力もないし、彼女を助け出そうとする人間がいたわけでもありません。革命前から貧しい人に施しをするような心優しき女性だったのです。恐怖政治の罪のない犠牲者なのでしょうか。それとも、ルイ16世の妹は存在そのものが罪だったのでしょうか。
このページの目次に戻る/ 「あ・ら・かると」の目次に戻る
「パンがないのならお菓子をあげたら?」
マリー・アントワネットの有名な言葉は? と聞かれたら誰でもまずこの言葉が頭に浮かぶでしょう。ちょっと趣味に走りますが、私の大好きなブリティッシュ・ロックグループの「クイーン」に「キラー・クイーン」と言う曲があります。これは高慢な高級娼婦(何か意味が違うみたい。でも、コールガールのこと)の歌ですが、その中で「キラー・クイーン」と噂される女性は、「マリー・アントワネットのように『お菓子を食べさせたらいいじゃない』と言う」("Let'em eat cakes, she said, just like Marie-Antoinette")、と言う歌詞があります。
何か話がそれましたね。でも、言いたいのは、それほどこの言葉が有名であるということです。世界中の人が知っています。
この言葉は、次のような状況で出てきました。
廷臣「王妃様、民衆は飢えております。もはやきょうのパンさえありません」
マリー・アントワネット「あら、パンがないのならお菓子を食べればいいじゃないの」
つまり、高貴な生まれで、ロココの女王である王妃には「パンがない」、という意味が全くわからないということです。パンのない人にお菓子なんて手に入るはずがないのに、それすらわからない、つまり、王族の暮らしは民衆とあまりにもかけ離れている、ということを端的に物語っています。
確かにそうです。全く、身分の高い人は一般大衆のことがわかってません。ですが…。ここからが問題です。この言葉は当時のジャーナリストが王妃をことさら悪く言おうとしたでっち上げなのです。マリー・アントワネットはこんなこと言ってません。
この言葉は、実はルイ15世の娘(ルイ16世の叔母)であるヴィクトワール内親王がかつての飢饉のときに言った言葉と言われています。
国王に関してはまだ好意的であった国民が、王妃をオーストリア女と呼び、悪者にしていました。それをさらに煽情するために流布されたものなのです。と言って、マリー・アントワネットに罪がないわけではありません。こんなことを言われるのは十分な下地があるからです。
農民がどんなに悲惨な生活をしているのかなんて少しも理解できず、プチ・トレアノンという所で偽物の牧歌生活を楽しんだり、毎晩国民の税金を使ってギャンブルをしたりしていた方が悪いのです。だから、国民は敵意も込めて、国王の叔母なんて言う誰だかわからない人よりも、ロココの女王の方がずっとこの言葉にふさわしいと思ったのでしょう。
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*